【史料を精査】琉球「中国属国の証拠」否定 石井氏「逆に薩摩の統治追認」 中国メディア宣伝に反論最終更新 2025/12/23 18:511.SnowPig ★???琉球「中国属国の証拠」否定 石井氏「逆に薩摩の統治追認」 中国メディア宣伝に反論(八重山日報) - Yahoo!ニュースnews.yahoo.co.jp沖縄が日本でないかのような宣伝を活発化させている中国メディアが、1629年、明の皇帝が琉球国王に下した勅書の存在を引き合いに「琉球が中国の属国だった証拠」と報じている。これに対し長崎純心大の石井望2025/12/21 15:26:1932コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさんDcEjEひたすらブーメランを投げまくるキンペー政権wどんだけ無能揃いだよw2025/12/21 15:28:213.名無しさんW4OIf城の配置なんかは下手くそなのに、支配に関しては有能過ぎる悪久2025/12/21 15:30:034.名無しさん3xBULそもそも今のクソシナ国じゃねえだろww2025/12/21 15:41:205.名無しさんh8sOHまず属国って言い方品がないのでやめていただきたいです2025/12/21 16:08:346.名無しさんehJCyあいつらのことはスルーがいい2025/12/21 16:10:497.名無しさんJyv1y沖縄が中国になると石垣島も中国になるのかオセロみたいなものか国後島はロシアだし短くなるな2025/12/21 16:14:538.名無しさんHGWjd中国の建国は1949年琉球の日本編入は1609年はい残念でしたw2025/12/21 16:23:559.名無しさんnbYfkかつてない中国からの嫌がらせを引き出した高市さんの手腕。2025/12/21 16:39:2610.名無しさんnbYfk安倍さんが必死に呼び寄せた中国人を排斥する素晴らしい高市さん。2025/12/21 16:40:4311.名無しさん1z1pA「朝貢」である中国と日本の「属国」の意味合いが違うから、議論してもムダ日本の属国は、相手国の政権運営に日本人が携わるのが「属国」2025/12/21 16:45:3212.名無しさん16bUx義務を守るよう促す=義務を守っていない=属国じゃなかった2025/12/21 16:50:1813.名無しさんVvuxoシナは昔から侵略国だから顔色伺ってただけだろ2025/12/21 17:03:2014.名無しさんnbYfk沖縄は日本の領土に決まってるだろうになんでこんなことに悩まなきゃならんのよネトウヨ。2025/12/21 17:05:5215.名無しさんV7pdu種子島から定期あげ2025/12/21 17:19:3216.名無しさんg3JPa忠国を空爆しろ2025/12/21 18:28:4617.名無しさんyLBUKこの理屈でいいなら漢民族はモンゴル人のものだろはよどけろ2025/12/21 18:46:4118.名無しさんlPKgU中国共産党のバカは歴史を知らんからしょうがない2025/12/21 18:49:2419.名無しさん4vq35>>17あいつらモンゴル帝国は中国、とか超理論を言い出しているぞw2025/12/21 18:51:5720.名無しさんjlxItなんだ、沖縄は琉球王国という確固とした独立国家じゃなくて中華帝国の属国風情だったのか。じゃあもう二度と文化や歴史を誇るんじゃないぞ。属国なんだから大人しく日中の決めたことに従え2025/12/21 18:55:0221.名無しさんLPiYN国民党が台湾へ渡ったから今の中国は偽物、空き家泥棒みたいなもの2025/12/21 19:41:5022.名無しさんX2pqi中国の韓国化が激しいな。何で中国こんなに劣化したんだ?昔は押したり引いたりと駆け引き上手くて感心したもんだったが。2025/12/21 20:23:5923.名無しさんCSqm7昔っから外交下手で下手打ってきた遺伝子は変わらないな琉球王国2025/12/21 21:24:4124.名無しさんDtTAiそもそも、今の中華人民共和国に正当性はない。2025/12/21 22:02:1325.名無しさんBW4uUうるせえな、てめえの経済を真っ当にしてから他国へ口出せ。てめえのけつも追えないのに半端な事やってんな。2025/12/21 22:10:5326.名無しさんzog4rおーい、デニー基地外も意見を言えよ2025/12/21 22:24:0627.sagegf87w(尖閣史)という時点で…2025/12/21 22:27:3728.名無しさんTkOvY日中戦争に勝てば官軍2025/12/22 00:29:4929.名無しさんmnu9x明国が尚寧王の冊封で武官を派遣しようとしたのは明国は当時の琉球王国と倭国大和との関係に不信感を抱いていたそれで琉球王府は秀吉の明国征服の野望と朝鮮出兵の動向、秀吉の死もいち速く明国に伝えるとともにその後も薩摩島津氏や徳川幕府の招聘も無視する事で大和と距離を置き明国にはこれまでの慣例通り冊封使にはなんとか武官ではなく文官を派遣して欲しいと要請していただが琉球王府に不信感を抱いていた明国側は当初、琉球への冊封使派遣を取り止め明国に来た琉球使者に皇帝の詔書を渡し国王を承認する「領封」の形を取る事まで議論されていた琉球王府の度重なる要請もあり、最終的に明国皇帝(万暦帝)は琉球王国へ文官の夏子陽(かしよう)を正史、副使の王士禎(おうしてい)という「文官の冊封使」派遣を決定する。実に尚寧王即位から17年目の冊封使来琉(1606年)だった 同じ年、大和では薩摩の島津氏が家康から琉球出兵の許可を得ていた。明国の不信感を拭えないまま琉球の実情を探った冊封使、「夏子陽」が見た琉球はやはり疲弊し明国側が一番危惧していた多くの大和商人(倭人)らも那覇港にいて交易をしていた 。明国の尚寧王冊封から3年後、薩摩島津氏は琉球侵攻を決行する。2025/12/22 07:30:5730.名無しさんmnu9x歴史書でただ1人戦犯とされた不屈の政治家は命尽きても誇り高き琉球人の魂は死なず。謝名親方利山(唐名、鄭迵ていどう)じゃなうぇーかたりざん、じゃなうぇーかた、1549年〜1611年9月19日14世紀後半に中国福建省から琉球に帰化した「久米三十六姓」の末裔。久米士族の名門「鄭氏」9世。1565年、16歳の時に官生に選ばれ明国に留学、翌年南京の国子監へ入学する。7年後に琉球へ帰国後は、都通事(進貢通訳官)をへて長史(進貢副使)となり王府の進貢使者として活躍し1580年、那覇久米村の初代「総理唐栄司(久米村総役)」となる。1591年、秀吉の朝鮮出兵準備を知った謝名は、琉球に寄留していた「陳申(ちんしん)」という福建商人にその報告書を託し琉球進貢船に乗せて明国に帰国させ、秀吉には朝鮮軍事占領から明征服の野望がある事を明国へ報告させた。1606年、57歳の謝名はそれまで中国渡来系である久米士族は就けなかった琉球王府の三司官(総理大臣クラス)に琉球史上初めて就任する。謝名利山はその血筋と学歴から王府の「親明派」筆頭であり、当時、琉球支配圧力を強めてきた大和側の理不尽な要求には一貫して応じない方針をとっていた。1608年9月、薩摩島津氏は僧侶の大慈寺龍雲、広済寺雪岑、坊津商人の島原宗安を使者として琉球に送り改めて琉球漂着民を送還した徳川家康への謝恩使節派遣を迫り、亀井茲矩の琉球侵攻計画を島津氏が防いだ恩を着せたうえで琉球国内の奄美大島割譲まで要求してきたのである。謝名はその要求に一切耳を貸さず薩摩の使者を大いに罵倒し「琉球は其の昔から明国に属する国であり、大和とは別格である」とはねつけたこの一件で薩摩島津氏の琉球出兵は決定的となり、翌年に決行される事になる。2025/12/22 07:34:5531.名無しさんmnu9x歴史書でただ1人戦犯とされた不屈の政治家は命尽きても誇り高き琉球人の魂は死なず。1609年4月、薩摩の琉球侵攻の際には、謝名は那覇港の防衛を担当し侵入してきた薩摩軍船に石火矢で防戦したといわれているが陸路で進軍してきた薩摩軍に首里城が包囲され、謝名の奮闘むなしく那覇港も突破されてしまう。その後、謝名は王弟の「具志頭王子尚宏」、三司官の「名護親方良豊」、「浦添親方朝師」と共に和睦交渉の人質として薩摩側に捕らえられた。1609年5月、薩摩連行時には謝名親方と浦添親方の三司官2名は国王一行とは別の船に載せられ那覇港を出港している。一次史料の「喜安日記」には、謝名が薩摩に到着し船から降りる当時の様子が記されており『若那(謝名)は6尺(182cm)ばかりなる色くろき男なり。上下の人々音にきこゆる若那みんとて、見物の人々市をなしけり。」と記されている。翌年1610年には薩摩藩主、島津家久と共に尚寧王一行は江戸に上がったが、謝名は薩摩の地で幽閉されたままだった。幽閉の身となっても何とか事態を打破したいと考えていた謝名は、長崎にいた福建人に琉球救援を訴えた「反間之書」という密書を託し明国に送ったしかしこの密書の存在は薩摩側に発覚し福州で揉み消されている。1611年、帰国の条件に薩摩側から琉球支配の起請文に連判するよう迫られた時には尚寧王以下、王府の重臣たちは渋々署名するがただ一人、謝名利山だけは署名を拒否した。それは即ち死を意味する事となり尚寧王は謝名の手を取り「汝、死せば貢典(国の政治)をつかさどる者なし」と琉球に帰るために署名を促すが「琉球の自由なくして生きる甲斐無し」と謝名の決意は固く、頑として署名を受け入れる事はなかったという。62歳の謝名利山はその年の9月19日に斬首刑に処された。空手(手,てぃー)の達人だったといわれる謝名は、このとき数名の薩摩藩士を道連れにしたという伝説も残る。93年のNHK大河ドラマ「琉球の風」では江守徹がその役を演じ「謝名親方(じゃなうぇーかた) 」の名が県外まで広く知られるようになる。同じ93年に沖縄本島恩納村にオープンしたリゾートホテル「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」は不屈の精神で琉球王国のために殉ずるも無名の偉人であった謝名利山からホテル名「リザン」の由来としている。2025/12/22 07:36:5132.名無しさんVc4VN忠国人はクソ食い民族2025/12/23 18:51:39
【社会】日テレの男性記者と女性記者がカラオケBOXで行為に及び、NHK記者が動画撮影 動画が拡散するも、女性記者は「泥酔していて記憶がない」ニュース速報+399598.22025/12/24 02:15:43
どんだけ無能揃いだよw
品がないのでやめていただきたいです
国後島はロシアだし短くなるな
琉球の日本編入は1609年
はい残念でしたw
日本の属国は、相手国の政権運営に日本人が携わるのが「属国」
はよどけろ
あいつらモンゴル帝国は中国、とか超理論を言い出しているぞw
じゃあもう二度と文化や歴史を誇るんじゃないぞ。属国なんだから大人しく日中の決めたことに従え
昔は押したり引いたりと駆け引き上手くて感心したもんだったが。
明国は当時の琉球王国と倭国大和との関係に不信感を抱いていた
それで琉球王府は秀吉の明国征服の野望と朝鮮出兵の動向、秀吉の死もいち速く明国に伝えるとともに
その後も薩摩島津氏や徳川幕府の招聘も無視する事で大和と距離を置き
明国にはこれまでの慣例通り冊封使にはなんとか武官ではなく文官を派遣して欲しいと要請していた
だが琉球王府に不信感を抱いていた明国側は当初、琉球への冊封使派遣を取り止め
明国に来た琉球使者に皇帝の詔書を渡し国王を承認する「領封」の形を取る事まで議論されていた
琉球王府の度重なる要請もあり、最終的に明国皇帝(万暦帝)は琉球王国へ文官の夏子陽(かしよう)を正史、副使の王士禎(おうしてい)という「文官の冊封使」派遣を決定する。
実に尚寧王即位から17年目の冊封使来琉(1606年)だった 同じ年、大和では薩摩の島津氏が家康から琉球出兵の許可を得ていた。
明国の不信感を拭えないまま琉球の実情を探った冊封使、「夏子陽」が見た琉球はやはり疲弊し
明国側が一番危惧していた多くの大和商人(倭人)らも那覇港にいて交易をしていた 。
明国の尚寧王冊封から3年後、薩摩島津氏は琉球侵攻を決行する。
謝名親方利山(唐名、鄭迵ていどう)
じゃなうぇーかたりざん、じゃなうぇーかた、1549年〜1611年9月19日
14世紀後半に中国福建省から琉球に帰化した「久米三十六姓」の末裔。久米士族の名門「鄭氏」9世。
1565年、16歳の時に官生に選ばれ明国に留学、翌年南京の国子監へ入学する。
7年後に琉球へ帰国後は、都通事(進貢通訳官)をへて長史(進貢副使)となり王府の進貢使者として活躍し1580年、那覇久米村の初代「総理唐栄司(久米村総役)」となる。
1591年、秀吉の朝鮮出兵準備を知った謝名は、琉球に寄留していた「陳申(ちんしん)」という福建商人にその報告書を託し
琉球進貢船に乗せて明国に帰国させ、秀吉には朝鮮軍事占領から明征服の野望がある事を明国へ報告させた。
1606年、57歳の謝名はそれまで中国渡来系である久米士族は就けなかった琉球王府の三司官(総理大臣クラス)に琉球史上初めて就任する。
謝名利山はその血筋と学歴から王府の「親明派」筆頭であり、
当時、琉球支配圧力を強めてきた大和側の理不尽な要求には一貫して応じない方針をとっていた。
1608年9月、薩摩島津氏は僧侶の大慈寺龍雲、広済寺雪岑、坊津商人の島原宗安を使者として琉球に送り
改めて琉球漂着民を送還した徳川家康への謝恩使節派遣を迫り、亀井茲矩の琉球侵攻計画を島津氏が防いだ恩を着せたうえで
琉球国内の奄美大島割譲まで要求してきたのである。
謝名はその要求に一切耳を貸さず薩摩の使者を大いに罵倒し「琉球は其の昔から明国に属する国であり、大和とは別格である」とはねつけた
この一件で薩摩島津氏の琉球出兵は決定的となり、翌年に決行される事になる。
1609年4月、薩摩の琉球侵攻の際には、謝名は那覇港の防衛を担当し侵入してきた薩摩軍船に石火矢で防戦したといわれているが
陸路で進軍してきた薩摩軍に首里城が包囲され、謝名の奮闘むなしく那覇港も突破されてしまう。
その後、謝名は王弟の「具志頭王子尚宏」、三司官の「名護親方良豊」、「浦添親方朝師」と共に和睦交渉の人質として薩摩側に捕らえられた。
1609年5月、薩摩連行時には謝名親方と浦添親方の三司官2名は国王一行とは別の船に載せられ那覇港を出港している。
一次史料の「喜安日記」には、謝名が薩摩に到着し船から降りる当時の様子が記されており
『若那(謝名)は6尺(182cm)ばかりなる色くろき男なり。上下の人々音にきこゆる若那みんとて、見物の人々市をなしけり。」と記されている。
翌年1610年には薩摩藩主、島津家久と共に尚寧王一行は江戸に上がったが、謝名は薩摩の地で幽閉されたままだった。
幽閉の身となっても何とか事態を打破したいと考えていた謝名は、長崎にいた福建人に琉球救援を訴えた「反間之書」という密書を託し明国に送った
しかしこの密書の存在は薩摩側に発覚し福州で揉み消されている。
1611年、帰国の条件に薩摩側から琉球支配の起請文に連判するよう迫られた時には
尚寧王以下、王府の重臣たちは渋々署名するがただ一人、謝名利山だけは署名を拒否した。
それは即ち死を意味する事となり尚寧王は謝名の手を取り「汝、死せば貢典(国の政治)をつかさどる者なし」と琉球に帰るために署名を促すが
「琉球の自由なくして生きる甲斐無し」と謝名の決意は固く、頑として署名を受け入れる事はなかったという。
62歳の謝名利山はその年の9月19日に斬首刑に処された。
空手(手,てぃー)の達人だったといわれる謝名は、このとき数名の薩摩藩士を道連れにしたという伝説も残る。
93年のNHK大河ドラマ「琉球の風」では江守徹がその役を演じ「謝名親方(じゃなうぇーかた) 」の名が県外まで広く知られるようになる。
同じ93年に沖縄本島恩納村にオープンしたリゾートホテル「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」は
不屈の精神で琉球王国のために殉ずるも無名の偉人であった謝名利山から
ホテル名「リザン」の由来としている。