1966年に渡米してベトナム戦争終結の和平提案を行う。詩や著作を通してアメリカ社会に禅を根付かせるのに貢献した。その思想は、キング牧師に深い影響を与えた。キング牧師の推薦により、1967年度のノーベル平和賞の候補となる。1973年のパリ平和会議ではベトナム仏教徒主席代表を務めた。この後、ベトナム政府から帰国を拒否される。1982年に南フランスにプラムヴィレッジ・瞑想センター(Plum Village Mindfulness Practice Center)を設立。社会的活動を継続するとともに、その教えにひかれて集まる多くの人々への瞑想指導を始める。彼の精神的指導のもと、プラム・ヴィレッジは小規模な地方の農場から、西洋で最も大きく活動的な仏教僧院へと成長した。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
『マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
Wikipediaより
※根拠不明の評価レスは自己紹介とみなします
前スレ
マインドフルネス Part 5
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1684903963/
マサチューセッツ工科大学(MIT)で分子生物学の博士号を取得。
その一方で、長年にわたり禅やヨーガを実践・指導。
科学的な研究と自身の瞑想体験を融合させ、ストレスと脳や免疫系の関係について研究を重ねました。
彼の名前が少し変わって聞こえるのは、両親の姓である「カバット(Kabat)」と「ジン(Zinn)」を組み合わせた複合姓だからです。
MBSRの開発: カバット・ジン博士は1979年にマサチューセッツ大学にストレス・クリニックを創設し、「マインドフルネスストレス低減法(MBSR)」というプログラムを開発しました。
科学と瞑想の融合: もともとMITで分子生物学の博士号を取得した科学者であり、禅やヨガなどの東洋の瞑想法から宗教的な要素を取り除き、ストレスや慢性痛を和らげるための心理療法として再構築しました。
マインドフルネスの定義: 彼はマインドフルネスを「意図的に、今この瞬間に、価値判断することなく注意を向けること」と定義しています。
「カバット=ジン」なのか
丁寧だ
😀
耳で観る魔改造を構築できた
😀
屑だ、ワシを信じろ
なら信じて行けよ。
成果を見せてみろ
😀
ベトナム出身の禅僧、活動家 (1926-2022)
ティク・ナット・ハン(釈一行)、1926年(保大元年)10月11日-2022年1月22日)は、ベトナム出身の禅僧、平和・人権運動家、学者、詩人。
ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもある。アメリカとフランスを中心に、仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっている。
1950年に禅の道場を創設。ベトナムで初めて、僧の授業に外国語や西洋の科学、哲学の学習を導入する。
ベトナム戦争中は、僧院の中で修行を続けるべきか、あるいは僧院を出て爆撃に苦しむ人のために行動すべきか考えた末、戦禍をくぐりながらその両方を行うことを決意し、いわゆる「行動する仏教」の指導者として、被災者や難民の救済を行う。1964年以降、病院や社会福祉青年学校、万行大学(ヴァンハイン仏教大学)、接現同修(ティエップヒエン教団)などを設立し[3]、孤児たちの社会的支援や、死体の回収などを行なった。
1995年4月に来日し、約20日間、日本各地でリトリート、瞑想会、講演会を行う。
2003年、2011年には、アメリカの連邦議会にて瞑想を指導。2006年にはパリのユネスコ本部で、暴力、戦争、地球温暖化の悪循環を解消するための具体的手段を要請する演説を行う。2007年、ハノイにてユネスコ主催の国際ウェーサカ祭に基調講演者として招かれる。2008年10月、インド国会にて開会の辞を述べる。2009年、メルボルンの万国宗教会議で講演。2011年、カリフォルニアのGoogle本社で1日マインドフルネスによるリトリートの指導を行う。2012年、ウェストミンスターの英国議会及びストーモントの北アイルランド議会に招かれ、慈悲と非暴力のメッセージを伝えた。
2022年1月22日、ベトナムの自坊で遷化、世寿96歳、法臘80歳。
身念処(しねんじょ): 身体の動きや姿勢、不浄さなどを客観的に観察する。
受念処(じゅねんじょ): 痛い、心地よい、中立的といった、その瞬間に生じる感覚(感受)を観察する。
心念処(しんねんじょ): 貪欲や怒り、散乱など、そのときの心の状態や移り変わりを観察する。
法念処(ほうねんじょ): 思考や真理、諸法が「無我(自分のものではない)」であると観察する。
無常・苦・無我の洞察: すべての現象は移り変わり(無常)、コントロールできない(無我)と気づく。
執着の断絶: 物事を主観や思い込みで歪めて捉える「四顛倒(常楽我浄の錯覚)」を打ち破り、苦しみから解放される。
脳の認知(心)が体を動かし、体の変化(不快感など)が感情(心)を生むため、表裏一体だからです。
これらをすっきり区別するための一番わかりやすい基準は「物質か、精神か」です。ヴィパッサナー瞑想の実践において、以下のように捉えると整理しやすくなります。
身念処は、物理的な事実・現象をそのまま観察することです。
対象: 呼吸、お腹の膨らみ・縮み、歩いているときの足の感覚、座っているときのお尻の圧迫感など。
ポイント: 五感で捉えられる「物(形や物理的変化)」に気づくことです。
心念処は、身体の動きではなく、「それを感じている心」や「湧き上がってきた感情・思考」そのものを観察することです。
対象: 「怒っている」「焦っている」「(瞑想中に別のことを)考えている」「退屈している」など。
ポイント: 物質的な動きではなく、心の状態や、心のクオリティ(色合い)に気づくことです。
人間は、「体が痛む(身)」と同時に、ほぼ一瞬で「嫌だな(心)」と反応するため、これらが一つの「嫌な体験」として混ざり合ってしまいます。
ヴィパッサナー瞑想では、サティ(気づき)のスピードが上がってくると、「あ、今のは体の変化(身)」で、「その直後に心が嫌がった(心)」と、スローモーションのように分けて見えるようになっていきます。最初は混ざってしまっても問題ありません。
まずはシンプルに、「物理的な現象(身)」か、「感情や思考(心)」か、という視点で眺めてみるのがおすすめです。
ほーかいくんには
サティ無縁、
禅は本来はなさそうだけど
ある、自己を習うとか、道元は言っている😀
Chat GPT:
JBL、仏教の瞑想を理解するうえで、**サティ(sati)・アヌパッサナー(anupassana)・サティパッターナ(satipatthana)**の関係は、かなり重要なポイントだよ。
この3つは密接に関係しているけれど、同じ意味ではないんだ。初期仏教のパーリ語をもとに、それぞれの意味と実践上の違いを整理してみよう。
1. サティ(Sati)??気づき・念
サティ(sati)=念・気づきを保つ働き
サティは、パーリ語で、サンスクリット語の sm?ti に対応する言葉。
一般には「マインドフルネス」と訳されるけれど、単に現在の瞬間に注意を向けることだけではない。
仏教の実践では、何が起きているのかを見失わず、実践の対象や教えを心に保つ働きも含んでいる。
例えば、呼吸を観察しているとき。
息を吸っていることに気づく。
息を吐いていることに気づく。
雑念が生じたことに気づく。
雑念に気づいたら、呼吸へと注意を戻す。
これらの実践にサティが関わっている。
ただし、サティは単なる集中力とは異なる。集中が一つの対象に心を安定させる働きだとすれば、サティは対象や心の状態を忘れずに気づいている働きだと考えると理解しやすい。
アヌパッサナー=特定の観点から、現象を繰り返し観察すること。
パーリ語の anupassana は、一般に「随観」と訳される。
「観察」を意味する passana に、継続的に観察することや、ある仕方で観察することを示す要素が加わった語だ。
サティが気づきを保つ働きだとすれば、アヌパッサナーは、現象をどのような観点から観察するのかという実践の側面に関わる。
例えば、怒りが生じたとき。
サティ 「怒りが生じている」と気づく。
アヌパッサナー 怒りが生じ、変化し、弱まり、消えていく過程を観察する。
さらに、怒りを自分そのものとみなさず、条件によって生じて変化する現象として観察することもできる。
ここで重要なのは、アヌパッサナーが単なる分析的思考を意味するわけではないということ。
頭の中で「怒りとは何か」と考え続けることと、実際に生じている怒りの状態を観察することは異なる。
アヌパッサナーは、実践を通して現象を観察することを指している。
サティパッターナ=サティを確立すること、またはサティを確立するための実践・観察の枠組み。
サティパッターナは、初期仏教において特に重要な瞑想実践を指す言葉だ。
代表的な経典に『念処経』(パーリ語:Satipatthana Sutta)がある。
サティパッターナの語源については、伝統的に sati と upatthana(確立・現前・注意深く保つこと)との関係から説明される。
実践としては、次の四つの対象・領域が説かれている。
パーリ語
日本語
観察する対象
Kayanupassana
身随観
身体・呼吸・姿勢・身体活動
Vedananupassana
受随観
苦・楽・不苦不楽の感受
Cittanupassana
心随観
欲のある心、怒りのある心、集中した心など
Dhammanupassana
法随観
五蓋・五蘊・覚支・四聖諦など、教えに基づく諸現象
この四つを総称して、**四念処(しねんじょ)**という。
ここで注意したいのは、サティパッターナが単に「注意を向ける技術」を意味するのではないということ。
身体・感受・心・法という四つの領域において、サティを確立し、現象を適切に観察する仏教の実践体系なんだ。
この三つの違いを、実践の流れから捉えてみよう。
例えば、呼吸を観察する場合。
① サティ:気づきを保つ
息を吸っている、息を吐いていると気づく。
② アヌパッサナー:観察する
呼吸の長短や身体感覚、呼吸に伴う変化などを観察する。
③ サティパッターナ:実践の枠組み
呼吸や身体を対象として、身随観を実践する。さらに、受・心・法の観察へと実践を広げていく。
ただし、これは理解のための整理であって、実際の修行では三つが必ずこの順番で起こるわけではない。
サティパッターナの実践のなかでサティが働き、アヌパッサナーが行われる、と捉えるほうが正確だ。
図式化すれば、次のようになる。
サティ(気づきを保つ働き)
↓ アヌパッサナー(観察の実践)
↓ サティパッターナ(四つの領域における念の確立と観察の体系)
この図はあくまで概念的な整理であり、三者を完全に別々の段階とみなすものではない。
ここまで理解したら、次に区別しておきたいのが、**サティ(念)とヴィパッサナー(観)**の関係だ。
ヴィパッサナー(vipassana)は、現象を明晰に観察し、物事のあり方を洞察することに関わる。
例えば、呼吸を観察しているとき。
サティ:呼吸を見失わず、気づきを保つ。
アヌパッサナー:呼吸や身体などを、特定の観点から継続的に観察する。
ヴィパッサナー:観察を通して、現象の無常・苦・無我などを洞察する。
サティパッターナ:こうした実践の基盤となる四念処の教えと修行体系。
(以下略
カメラで写真をとって、画像を保存すること
それがサティだ
すべて😀