【建撕記】「本来本法性、天然自性身」という疑問について【道元】最終更新 2024/12/13 02:421.鹿野園◆00MWura8lSZFpmxwH>顕密二教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。>若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや。>(永平開山行状建撕記)内容につきましては、道元さんの思想の触れたことがある方なら、ご存知でない方はいないでしょう。ここではこの問題について考えてみようと思います。<本スレ> 【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ849【talk掲示板】<各論スレ> 般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について https://talk.jp/boards/psy/1691499457 四禅の属界について考察するスレ https://talk.jp/boards/psy/1694416637 【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論に付いて【世親著】 https://talk.jp/boards/psy/1694756671 【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】 https://talk.jp/boards/psy/16947584032023/09/16 16:23:27535コメント欄へ移動すべて|最新の50件486.◆JBLfMwCXhYw1P5dその流れに乗ればいいだけだ2023/11/06 09:01:40487.◆JBLfMwCXhYw1P5d自力というより、半自力意識進化の流れに乗るだけ2023/11/06 09:02:12488.◆JBLfMwCXhYw1P5d地球人類のレベルは高くなるレベルの高さについていけるかどうかだ2023/11/06 09:03:01489.◆JBLfMwCXhYw1P5d自分のレベルが高いと、うぬぼれてはいけない上には上があるまだまだだ2023/11/06 09:04:28490.◆JBLfMwCXhYw1P5d自分は雑念が多すぎると思う思考がアチコチ飛びすぎる2023/11/06 09:05:15491.◆JBLfMwCXhYw1P5d宇宙からのインスピレーションを受けるには、雑念がジャマになる2023/11/06 09:13:20492.◆JBLfMwCXhYw1P5d月並みだけど、無念無想だ2023/11/06 09:24:34493.◆JBLfMwCXhYw1P5dやはり、昔も今もそれが基本2023/11/06 09:24:45494.◆JBLfMwCXhYw1P5dそれにより、レベルが1段階あがるはずだ2023/11/06 09:25:20495.◆JBLfMwCXhYw1P5d雑念が多いと、霊感が来なくなる2023/11/06 09:26:37496.◆JBLfMwCXhYw1P5d思考を止めよ2023/11/06 09:27:16497.◆JBLfMwCXhYw1P5dMOMOYOチャンネルか2023/11/06 09:27:33498.◆JBLfMwCXhYw1P5dやはり、瞑想レベルを上げるしかない2023/11/06 09:28:37499.◆JBLfMwCXhYw1P5dむしき‐かい【無色界】三界(さんがい)の一つ。色身、すなわち肉身を離れ、物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる世界。色界より上位の世界で、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の四天から成り、この境界の禅定を四無色定という。無色天(むしきてん)。2023/11/06 09:29:18500.◆JBLfMwCXhYw1P5d500😆2023/11/06 09:29:31501.神も仏も名無しさんZK58y≫496 ◆JBLfMwCXhY sage 2023/11/06(月) 09:27:16.70 ID:w1P5d思考を止めよーーー普通は、ただ瞑目して心を静にしようとするが、それだけでは、何年かかってもらちがあかないでしょうね、見分のみで相分を取らず、相分は物と思考、この状態が無分別で無思考の状態です、しかし、そう簡単にはできません、なので、先ずは武道でいわれる【八方目】を修練しましょう、両足を肩幅に開いて立ち、両腕をだらりと下げた状態で、肩だけを左右前後に円を描く感じで、体軸を中心に両腕をでんでん太鼓の要領で左右に緩やかに揺らします、その時に、視線は、八方に焦点をぼかして、固定しません、1分、寝る前に行うと良く寝れるといいます。2023/11/06 19:33:40502.神も仏も名無しさんZK58y相分を取らない八方目になれると、外のものは内に似るので、内側の意識の焦点も相分を取らない状態になれます、これが出来るようになったら、今度は集中を修練しても良いでしょう、意識の集中と拡散、これは密教修行でも行われる、瞑想の基本的な修練方法であります。2023/11/06 19:37:46503.神も仏も名無しさんNnmdvローラーウンコ展開中〜〜〜😫2023/11/06 21:18:28504.神も仏も名無しさんcc4gk全ての地球人へ…【神人さんとの対話】狂った地球にあなたが転生してきた理由と、この星の類稀なる特性https://m.youtube.com/watch?v=KGmsoKngsTY【永久保存版】真の覚醒について神人さんとの対話《和人が謝罪》https://m.youtube.com/watch?v=9h40WjO8bVY検索 神人https://www.google.com/search?q=YouTube%E3%80%80%E7%A5%9E%E4%BA%BA&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=579769985&sxsrf=AM9HkKlGOms7wHmhb1WEpprr2VRmEu0TuA%3A1699287064441&ei=GBBJZdrJGtrnwQOr4IKwAg&oq=YouTube%E3%80%80%E7%A5%9E%E4%BA%BA&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIhBZb3VUdWJl44CA56We5Lq6MgQQIxgnMgQQIxgnSMCbAVDGCViUkAFwAngBkAECmAG1A6AB6yeqAQowLjIyLjMuMS4xuAEDyAEA-AEBqAIPwgIKEAAYRxjWBBiwA8ICChAjGIoFGOoCGCfCAgcQIxjqAhgnwgILEAAYgAQYsQMYgwHCAg0QABgEGIAEGLEDGIMBwgIHECMYigUYJ8ICBxAAGAQYgATCAgcQABiKBRhDwgIKEAAYBBiABBixA8ICDRAAGIoFGLEDGIMBGEPCAgUQABiABMICBhAAGAMYBMICBhAAGAQYHsICCBAAGAgYBBgewgIFEAAYogTCAgcQIxiwAhgn4gMEGAAgQYgGAZAGCg&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vuanr=122023/11/07 01:20:56505.◆JBLfMwCXhYst5zQ>>504おっ、参考になりそうなブログだな?2023/11/07 12:18:04506.神も仏も名無しさんdWPhC虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpg2023/11/17 08:19:07507.ざぜんぼうずBe8R2坐禅坊主無欲の境地。2023/11/20 21:08:12508.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmprK6f******チェック(11/24)特に無し2023/11/24 08:39:17510.ざぜんぼうずxdSIP坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。酒を呑(の)みながらNHKテレビ。量子(りょうし)コンピューター。悟(さと)り。神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪2023/12/11 19:27:27512.アハさんパシル語がイヌ鞭打ぢ( -o-)/☆ビシ! ~ppZza 問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給をし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。2024/01/03 16:13:37513.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmmP6p3******チェック(01/05)見るべき内容無し。2024/01/06 11:11:55514.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmd02xk******チェック(03/12)*******見るべき内容無し。2024/03/13 12:45:04515.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm0hwkLこの「身心脱落」とは、瞬間的な体験ではなく、むしろ、自己が仏であることを認識しつつ修行を実践することそのものだというのである。つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。それが、「修証一等」である。道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 01:20:29516.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm0hwkLこの「身心脱落」とは、瞬間的な体験ではなく、むしろ、自己が仏であることを認識しつつ修行を実践することそのものだというのである。つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。それが、「修証一等」である。道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。これを喩えで表現すると、まず、唐代禅の「悟り」は、「家具の揃った部屋の灯りを点けること」となるであろう。つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。自転車のライトなど)だったということにするのである。つまり、ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って)も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 01:20:49517.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmThyxz常識的に「発心・修行・菩提(さとり、成道)・涅槃」はその順序であらわれ、「修は先、証(さとり)はあと」と思っている。行は悟を期待しての行であれば、悟ったあとで、なにゆえ行を必要とするのか、これが道元の参学のほかならぬ出発点となった疑問であった。いまその回答が、ここに与えられたのであるが、二、三、それについて付言しておきたい。 〈証上の修〉〈修証一如〉〈本証妙修〉(元来悟っているものがさらに修行する。上の二句と同義)という道元の宗教の基本線は、『正法眼蔵』「弁道話」が懇切に説いているところである。それが証上の修であるゆえんは、諸仏如来の単伝の妙法が、「人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることな」きがゆえである。別の表現をすれば、「人々の分上にゆたかにそなはれる法」すなわち仏性は、「成仏よりさきに具足せるにあらず。成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり」(「仏性」)。したがって「修の証なれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなく」「妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる」のであるから、むしろ「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教えることになる。(高崎 直道 他1名 『仏教の思想 11 古仏のまねび<道元> 』(角川文庫ソフィア 116))2024/03/29 08:27:57518.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmThyxzそれはすなわち伝統的な、完成態としての自己把握は積極的に認めながら、そこに実践修行の必要性を上乗せしてゆくものであった。一般には、「自己はもとから仏である」という前提に立てば、「仏であるから修行はいらない」ということになる。しかし、道元は、逆に、「仏であるからこそ修行しなければならない」と主張する。それによって実践修行の必要性を主張するのである。むろん、この主張の説明には、かなり複雑な論理を必要とする。だからこそ、道元は、仮名『正法眼蔵』をはじめ、多くの言葉を費やしてその思いを表現し続けたといえよう。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 08:46:50519.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm1YcWq某所にて道元禅の特色について以下の通りレスをした次第です。>坐禅がそのまま解決の姿として顕れてると云うのが道元禅の要諦なんだよ。>修行がそのまま悟りの姿として顕れてるって事な。>簡単だろw>修せざれは証せずで、仏性は作用させなければ顕れないんだから。>努力(修行)そのものが悟りというのが道元禅の特徴でしょwww>だから得られるものもない訳です。>努力(修行)しない訳ではありませんよ🤭>元からゴールに居るにしても、暗闇(無明)に覆われてるんでしょ?>(智慧の)明かりを灯さないとそこがゴールって確認出来ないんでしょ?>その明かりを灯すのが修行って事ですよ。2024/03/30 06:48:38520.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm1YcWq師、扇を使う次で、僧問う、「風性は常住にして処として周からずということ無し。和尚、甚麼と為てか却って扇を使う」。師云く、「你は只だ風性常住なることを知って、且つ処として周からずということ無きことを知らず」。云く、「作麼生か是れ処として周からざること無き底の道理」。師、却って扇を揺がす。(『聯灯会要』より)2024/03/30 06:50:49521.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm1YcWq仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。(『正法眼蔵』現成公案より)……わざわざ婆説する迄もないでしょう。風性に託けて仏性について問うた問答ですが、また、上記の「常住」を「元から解決している」というのに置き換えれば明白ですからね。その解決の様を現成せしめなければダメな訳です。2024/03/30 06:54:31522.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwzqJn某馬鹿が妄説・魔説を吹聴して、とあるスレを騒がしております。まぁ、この手の馬鹿は、中国で禅が盛んだった頃にも居た様で、語録を見ると「作什麼?」とか「驢前馬後」と云って一喝一蹴されていた様ですけどね。もとより知識や経験が無い故の暴走で、まともな方はそんな事には見向きもされないとは思いますが、万が一にも初見の方が誤解されてはと思い、わざわざ新スレを立てるまでもなく、このスレで考えていこうと思います。2024/04/12 11:30:26523.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwzqJn有般底の人道く、「本来一星の事も無し。但只だ茶に週うては茶を喫し、飯に遇うては飯を喫するのみ」と。此れは是れ大妄語!之を「未だ得ざるに得たりと謂い、未だ証せざるに証せりと謂う」(「法華経」方便品)と謂う。元来り曽て参得透ざるに、人の心を説き性を説き、玄を説き妙を説くを見ては、便ち道く、「只だ是れ狂言なるのみ、本来無事なり」と。可謂し、一盲、来盲を引くと。殊に知らず、祖師の未だ来らざる時、那裏にか天を喚びて地と作し、山を喚びて水と作し来れる?什麼の為にか祖師更に西来せる?諸方、陞堂入室して、箇の他をか説く?尽く是れ情識計較なり。若是情識計較の情尽きなば、方めて見得透ん。若し見得透なば、依旧らず天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水ならん。(『碧巌録』 第9則 「趙州東西南北」)2024/04/12 11:32:06524.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwzqJn禅宗の修道論には大きく二種類あると思うんです。というかそれが曹洞宗(修証一等論)と臨済宗(円環的修行論)という宗派となっているわけですが。どっちが正しいとかはないって思いますが、要は本覚的視座からの修道と始覚的な視座からの修道ってことでありましょう。問題はそこを混同して支離滅裂な修道論の展開している自証禅宗の連中なんですけどね。一人は無事禅と批判されるもので、もう一人は待悟禅と批判されるものです。何れも曹洞禅でも臨済禅でも無い虻蜂取らずの似而非禅です。2024/04/12 12:30:19525.(。~^~)(~^~。) ポッたん 急いでもちつけmqALZ本来、仏罰と言うものは有り得ない。佛は罰する事が無いからだ。では、ほとけは負い目を負わそうとして成仏を言うのか。佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。例えば、ステージフォーのあなたにお任せって患者であっても、治療の選択はするんだ。医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝のしゅじんこうでありうるか。わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものである。父親がある日、歩けて、しゃべられるようになった息子と森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられる。息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建てて住んだ。食べる食べられない、毒か毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。2024/05/30 20:58:39526.神も仏も名無しさんOFVkoありのままに生きるべし、です。ありのままに生きないと、証覚はないし、神も佛も体得できません。2024/06/18 00:25:55527.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZqBZ1******チェック(06/20)*******見るべき内容無し。ポタ公の嫌がらせウザいな。2024/06/20 09:54:20528.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrUkfw******チェック(07/18)*******見るべき内容無し。2024/07/18 03:18:50529.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmoK1qG****チェック(08/02)**** 見るべき内容無し。*****************2024/08/02 09:15:04530.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmd0EFY****チェック(10/28)****2024/10/28 09:52:40531.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmdVrHRさて、今だに解決済修行不要論や気付けば良い論等の邪説を吹聴する輩がいるので、このスレを舗装しておこうと思います。2024/11/08 12:27:20532.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmdVrHRさて、今だに解決済修行不要論や気付けば良い論等の邪説を吹聴する輩がいるので、このスレの内容を補填しておこうと思います。2024/11/08 12:28:03533.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmdVrHR変なのも関わらなくなって来たし、内容の濃いものに出来ればと思う。2024/11/08 12:29:20534.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmdVrHR後学の参考になれれば幸甚です。2024/11/08 12:31:03535.神も仏も名無しさん8Yin9白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。2024/12/13 02:42:29
【イブ】アメリカ人は失笑する!? なぜ日本だけ「クリスマスには、ケンタッキー」なのか? 米兵を通じ12月が「特別な時期」になり、KFCのCMで「七面鳥」の代替品にニュース速報+974676.12024/12/26 01:28:53
>若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや。
>(永平開山行状建撕記)
内容につきましては、道元さんの思想の触れたことがある方なら、ご存知でない方はいないでしょう。
ここではこの問題について考えてみようと思います。
<本スレ>
【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ849【talk掲示板】
<各論スレ>
般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について
https://talk.jp/boards/psy/1691499457
四禅の属界について考察するスレ
https://talk.jp/boards/psy/1694416637
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論に付いて【世親著】
https://talk.jp/boards/psy/1694756671
【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】
https://talk.jp/boards/psy/1694758403
意識進化の流れに乗るだけ
レベルの高さについていけるかどうかだ
上には上がある
まだまだだ
思考がアチコチ飛びすぎる
三界(さんがい)の一つ。色身、すなわち肉身を離れ、物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる世界。色界より上位の世界で、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の四天から成り、この境界の禅定を四無色定という。無色天(むしきてん)。
思考を止めよ
ーーー
普通は、ただ瞑目して心を静にしようとするが、それだけでは、何年かかってもらちがあかないでしょうね、
見分のみで相分を取らず、相分は物と思考、この状態が無分別で無思考の状態です、
しかし、そう簡単にはできません、
なので、先ずは武道でいわれる【八方目】を修練しましょう、
両足を肩幅に開いて立ち、両腕をだらりと下げた状態で、肩だけを左右前後に円を描く感じで、体軸を中心に両腕をでんでん太鼓の要領で左右に緩やかに揺らします、
その時に、視線は、八方に焦点をぼかして、固定しません、
1分、寝る前に行うと良く寝れるといいます。
外のものは内に似るので、内側の意識の焦点も相分を取らない状態になれます、
これが出来るようになったら、今度は集中を修練しても良いでしょう、
意識の集中と拡散、これは密教修行でも行われる、瞑想の基本的な修練方法であります。
展開中〜〜〜
😫
https://m.youtube.com/watch?v=KGmsoKngsTY
【永久保存版】真の覚醒について神人さんとの対話《和人が謝罪》
https://m.youtube.com/watch?v=9h40WjO8bVY
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おっ、参考になりそうなブログだな?
四つのシャマタは本然の境地ではない。
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無欲の境地。
特に無し
独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。
酒を呑(の)みながらNHKテレビ。
量子(りょうし)コンピューター。
悟(さと)り。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
私は空気を読まない。
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私は空気を読まない。
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薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給をし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。
熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。
このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。
それが、「修証一等」である。
道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。
このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。
それが、「修証一等」である。
道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。
これを喩えで表現すると、まず、唐代禅の「悟り」は、「家具の揃った部屋の灯りを点けること」となるであろう。
つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。
そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。
しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。
道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。自転車のライトなど)だったということにするのである。
つまり、ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って)も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
行は悟を期待しての行であれば、悟ったあとで、なにゆえ行を必要とするのか、これが道元の参学のほかならぬ出発点となった疑問であった。
いまその回答が、ここに与えられたのであるが、二、三、それについて付言しておきたい。
〈証上の修〉〈修証一如〉〈本証妙修〉(元来悟っているものがさらに修行する。上の二句と同義)という道元の宗教の基本線は、『正法眼蔵』「弁道話」が懇切に説いているところである。
それが証上の修であるゆえんは、諸仏如来の単伝の妙法が、「人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることな」きがゆえである。
別の表現をすれば、「人々の分上にゆたかにそなはれる法」すなわち仏性は、「成仏よりさきに具足せるにあらず。成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり」(「仏性」)。
したがって「修の証なれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなく」「妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる」のであるから、むしろ「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教えることになる。
(高崎 直道 他1名 『仏教の思想 11 古仏のまねび<道元> 』(角川文庫ソフィア 116))
一般には、「自己はもとから仏である」という前提に立てば、「仏であるから修行はいらない」ということになる。
しかし、道元は、逆に、「仏であるからこそ修行しなければならない」と主張する。
それによって実践修行の必要性を主張するのである。
むろん、この主張の説明には、かなり複雑な論理を必要とする。
だからこそ、道元は、仮名『正法眼蔵』をはじめ、多くの言葉を費やしてその思いを表現し続けたといえよう。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
>坐禅がそのまま解決の姿として顕れてると云うのが道元禅の要諦なんだよ。
>修行がそのまま悟りの姿として顕れてるって事な。
>簡単だろw
>修せざれは証せずで、仏性は作用させなければ顕れないんだから。
>努力(修行)そのものが悟りというのが道元禅の特徴でしょwww
>だから得られるものもない訳です。
>努力(修行)しない訳ではありませんよ🤭
>元からゴールに居るにしても、暗闇(無明)に覆われてるんでしょ?
>(智慧の)明かりを灯さないとそこがゴールって確認出来ないんでしょ?
>その明かりを灯すのが修行って事ですよ。
師云く、「你は只だ風性常住なることを知って、且つ処として周からずということ無きことを知らず」。
云く、「作麼生か是れ処として周からざること無き底の道理」。
師、却って扇を揺がす。
(『聯灯会要』より)
常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。
風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
(『正法眼蔵』現成公案より)
……わざわざ婆説する迄もないでしょう。
風性に託けて仏性について問うた問答ですが、また、上記の「常住」を「元から解決している」というのに置き換えれば明白ですからね。
その解決の様を現成せしめなければダメな訳です。
まぁ、この手の馬鹿は、中国で禅が盛んだった頃にも居た様で、語録を見ると「作什麼?」とか「驢前馬後」と云って一喝一蹴されていた様ですけどね。
もとより知識や経験が無い故の暴走で、まともな方はそんな事には見向きもされないとは思いますが、万が一にも初見の方が誤解されてはと思い、わざわざ新スレを立てるまでもなく、このスレで考えていこうと思います。
此れは是れ大妄語!
之を「未だ得ざるに得たりと謂い、未だ証せざるに証せりと謂う」(「法華経」方便品)と謂う。
元来り曽て参得透ざるに、人の心を説き性を説き、玄を説き妙を説くを見ては、便ち道く、「只だ是れ狂言なるのみ、本来無事なり」と。
可謂し、一盲、来盲を引くと。
殊に知らず、祖師の未だ来らざる時、那裏にか天を喚びて地と作し、山を喚びて水と作し来れる?
什麼の為にか祖師更に西来せる?
諸方、陞堂入室して、箇の他をか説く?
尽く是れ情識計較なり。
若是情識計較の情尽きなば、方めて見得透ん。
若し見得透なば、依旧らず天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水ならん。
(『碧巌録』 第9則 「趙州東西南北」)
というかそれが曹洞宗(修証一等論)と臨済宗(円環的修行論)という宗派となっているわけですが。
どっちが正しいとかはないって思いますが、要は本覚的視座からの修道と始覚的な視座からの修道ってことでありましょう。
問題はそこを混同して支離滅裂な修道論の展開している自証禅宗の連中なんですけどね。
一人は無事禅と批判されるもので、もう一人は待悟禅と批判されるものです。
何れも曹洞禅でも臨済禅でも無い虻蜂取らずの似而非禅です。
佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。
良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。
仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。
手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。
二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。
例えば、ステージフォーのあなたにお任せって患者であっても、治療の選択はするんだ。
医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。
釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん
汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝のしゅじんこうでありうるか。
わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものである。
父親がある日、歩けて、しゃべられるようになった息子と森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられる。
息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建てて住んだ。
食べる食べられない、毒か毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。
大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。
ありのままに生きないと、証覚はないし、
神も佛も体得できません。
見るべき内容無し。
ポタ公の嫌がらせウザいな。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
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隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。