アルバムのコンセプトには、アリアナさんが好きだという映画『エターナル・サンシャイン』(2004年)が関連しているのだそう。 インタビューでは、「『エターナル・サンシャイン』のように、嫌なことを記憶から消し去り、永遠の光を得るのと同時に、このアルバムにはたくさんの痛みがあると思います」とコメント。 アルバムリリースの数日前には、収録曲『we can’t be friends(wait for your love)』というティザー動画を投稿。映像に登場する「Brighter Days Inc.」は“明るい日々を提供する会社”を意味し、映画『エターナル・サンシャイン』に登場する、記憶の消去に特化したエージェンシーを想起させます。 ビデオのなかでアリアナさんは、記憶除去処置の書類に、「いいえ」にチェックしかけるも、悩んだ悩みながらも同意にサイン。映画のモチーフを反映したものですが、本編での結末は果たして…。
悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人
悟りや霊性に対して懐疑・批判的な人
新興宗教の方も歓迎!
宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!
否定されても発狂しない
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
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・ テンプレは、ここ迄なのじゃ
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★最新のG1ファイター番付表及び組織図(阿頼耶識システム)
終身名誉横綱
🥇糖質ですが&無我ひろき
🥇アラフェス=キリスト
🥇The Great Beast 666
横綱 エリカ 横綱 マリヲ@教祖
横綱 美魔女 横綱 おじ乳輪
大関 元オウム 大関 さねちか
大関 ( ・∀・)ウンコマン 大関 ☆
大関 ヨガ師パーリー 大関 リダンツァー
大関 馬しまたろう 大関 夕(ヌキ)
関脇 くろ 関脇 メンタート
関脇 鬼和尚 関脇 未来の有名(仮) 幸福の科学信者
関脇 謎の人
関脇 聖アンデレ 関脇 えっちでリッチなナメナメおじさん
関脇 リダン 関脇 zen
小結 晃(※流罪) 小結 エリアYuki
小結 ゲス・de・ゲス 小結 (太公望´・ω・`)
小結 サイレント五智(魚) 小結 ぴ
小結 学 小結 七味
小結 ユークリッド司祭ジューダス 小結 犀の角
前頭 法進 前頭 彗天 前頭 カカシ
前頭 マリア 前頭 プロフェッサーB
前頭 ふんじゃいしゃい 前頭 (V)o¥o(V)
前頭 νカムイ(※捕虜) 前頭 くま和尚
十両 ハジ 十両 手ぶら 十両 瑠璃色の光
十両 ホラフキン(共有君) 十両 野良(※恩赦) 十両 天空のシャウエッセン
十両 福音伝道(※恩赦) 十両 ラピスラズリー
十両 偽でおー 十両 ごはん君
幕下 ザ・残尿マン 幕下 宇宙
幕下 こじ 幕下 ミスターG
幕下 アホラフ・キンドラー 幕下 エロ和尚
幕下 日本鬼子 幕下 和紙
三段目 童天 三段目 三尋木咏
三段目 NAS6 三段目 ポンプ
三段目 忍者ハッタリ君改めサタン 三段目 ヴォーバル魂
三段目 独楽 三段目 アガペー
序二段 投影 序二段 極くん(義兄)
序二段 ポッタン 序二段 アズマ
序二段 安堂 序二段 エンジェル中野
序二段 慎一
序の口 縁起派俳優 序の口 修行者B
序ノ口 因縁果 序の口 出口なお(創造主大本山大禅師最禅)
序ノ口 学術 序の口 馬鹿鬼の歯軋り
番付外 四段階右折馬鹿 番付外 でおー
番付外 さぁばんと 番付外 透析君(※パターン青)
番付外 おでん君 番付外 認めようバカ
番付外 ポッタン師(ひふみ) 番付外 栄進改め元コマンドー
番付外 真我説のアナル大好きニュー・カマー
番付外 覚者
番付外 分陀利華(白蓮華) 改め観世音菩薩
番付外 法介
■行司(SIA長官兼任最高裁判所長官)
鹿野園
★横綱審議委員会
パーピマン
◆医務室
精神科医レクター博士
◎呼び出し
JBL
●おかみさん
麦
かの (夜逃げ)
⬜︎ちゃんこ店主人
支店長
真言宗氏
☆パーラーGGG(スリージー)
谷村ひ◯とし(パチンコの神)
※個人の感想です
エントリー(順不同) 参加者絶賛募集中!!
知障統失認知症の三冠王 ファビョリンマン
これ分かるかなの増上慢 くろ(旧名ろん)
精神崩壊中卒ナマポマン こじ
忘れ去られた黄金の火男 ポッタン
孤高のワンマン実況中継 でおー
昼夜逆転通年ラナルータ 日本鬼子
空中浮遊殺人トラッカー 元オウム
マンネリ長野の皮剥珍魚 魚
マンネリ万年中傷BOT ポッタン師(ひふみ)
汚物と化した過去の栄光 鬼和尚
忘れた頃に出てくる貧民 手ぶら
発狂・暴走ランマーマン さぁばんと
脳内膀胱炎で思考停止中 ザ・残尿マン
ahoo質問箱からの刺客 法介
※個人の感想です
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw
以下、このスレに相応しくない排除対象の類型を提示します。
①「自分は悟っている」と思っている人、即ち「覚者さん」はいりません。
これは、しばしば、このような人物は「自分は悟っている(あるいは、それに近い境地に達している)ので、自分の意見は正しい」という思い込みで無根拠に私見を主張することが 理由です。
②自己の見解を述べる際、その根拠を示さず、「俺がそう考えるから」のみでレスを繰り返すひと (①の類似型)
③特定の宗教、宗派の布教、宣伝を行うひと
④仏教と明らかに異なる見解を「これこそが真の仏教である」と主張するひと
例・・「仏教とは、大金を稼ぎ、いい女を掴まえ、面白おかしく暮らすことを 教える宗教でる」・・・みたいなw
⑤短文レスの連騰でスレを消費するひと
勿論、これは限定列挙ではなく例示ですので、この他にも「荒らしに相当する行為」を行う人は、書き込みを禁止します。
(スレタイは違いますが)このスレの前スレに当たるスレが、「他者の迷惑を全く考えない一部の自称仏教徒」のために崩壊してしまいました。
このスレでは、そのようなことが起きないようにご協力お願い申しあげます。
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
イヌがぼやく。なんで、みんなワイを無視すんねん大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知り煩悩即菩提の法相宗でええやろ、ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給をし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。
熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
243 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/01/11(木) 11:55:00.44 ID:8vNs0
>>236
> でも断片的な知識であっても、宗教の知識を知ったから学んだから救われた、ということは、誰にも少なからずありそうだね
あるでしょうね。
私はそれはゴールではなくてスタートだと思います。
鹿野園に憑依してる霊だ~😱
翌年、袁世凱の後を継いで大総統になっていた黎元洪と国務総理の段祺瑞の政争(府院の争い)が起こり、7月の張勲復辟で黎元洪は大総統から引きずり下ろされると、馮国璋が代理総統に選ばれる。
1919年12月28日、北京で病死。
とりわけ蔣介石による北洋軍閥打倒作戦を指すことが多い。
孫文は、1921年5月5日、広東地方の軍閥陳炯明の勢力を基盤に広州中華民国政府非常大総統(中国語版)に就任した。10月8日、北伐請願案を国会で通過させ、12月7日、桂林に大本営を設置し、北伐出師を準備した。李烈鈞、許崇智らの指揮で三路から江西省に進軍し、6月13日に贛州を占領し、吉安に迫った。しかし、6月16日、広東の安定的支配を最優先とする陳炯明による武装クーデタ六・一六事変(中国語版)により頓挫した。
1923年2月、広東を回復した孫文は広東軍政府を組織すると、急速にソビエト連邦との関係を深め、その助言を受けて中国共産党との合作(国共合作)、革命軍の中核を担う人材を養成する黄埔軍官学校の設立など、軍閥に依存しない自身の勢力の強化に努めた。
孫文亡き後の国民党は広州国民政府を組織し、国民革命軍を建軍する。この中で蔣介石は中山艦事件を契機に、急速に台頭してきた。
1926年7月1日、蔣介石は、孫文の跡を継いで軍閥・北京政府撲滅を目指すとして「北伐宣言」を発表した。
北伐軍は、全国統治を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、1927年に南京、上海を占領した。
3月24日、南京に入城した蔣介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)。米英軍は艦砲射撃を開始し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蔣介石の説得工作をおこなった。蔣介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた。
詳細は「上海クーデター」、「張作霖#張による北京のソ連大使館捜索」、および「在華ソビエト軍事顧問団」を参照
1927年4月12日、南京の国民革命軍総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が粛清された。
この上海クーデターに関し、日本の幣原外相らによる蔣介石への反共工作に対して蔣介石は日本側の期待に応えたとする見方もある。
イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した。
跡を継いだ張学良が北伐軍に降伏し、奉天派は敗北した
奉天派・安徽派・直隷派の三國志になった
グノーシス主義には様々なバリエーションがあるものの、一般的に認められるのは、「反宇宙的二元論」と呼ばれる世界観である。
言い換えれば、現在、我々が生きているこの世界を悪の宇宙、あるいは狂った世界と見て、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと捉える。
悪神が創造した悪の世界である
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるがゆえと考えた。
現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺める時、この宇宙はまさに「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。
これがグノーシス主義の「反宇宙論」である。
それがグノーシスの考え
既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは誤謬にすぎず、宇宙が本来的に悪の宇宙であるとグノーシス主義は考えた。
グノーシス主義の研究史を通じて、この思想の理解については2つの根本的に異なる立場が存在している。
グノーシスとは、もともとギリシャ語で「知識」を意味するが、ヘレニズムの宗教思想では、人間を救済に導く、究極の知恵・霊知を指す。
というのは、グノーシスに由来する
10位真夜中のドア~stay with me/ 松原みき
チャートイン数:21週
9位 TOKYO DRIFT(FAST&FURIOUS)/
TERIYAKI BOYZ
チャートイン数:21週
8位 死ぬのがいいわ/藤井風
チャートイン数:21週
7位夜に駆ける/YOASOBI
チャートイン数:21週
6位KICK BACK/米津玄師
チャートイン数:21週
5位 NIGHT DANCER/imase
チャートイン数:21週
4位 青のすみか/キタニタツヤ
チャートイン数:21週
3位 SPECIALZ/King Gnu
チャートイン数:21週
2位 アイドル/YOASOBI
チャートイン数:21週
1位 Bling-Bang-Bang-Born/Creepy Nuts
チャートイン数:3週
1位に輝いたのは、TVアニメ『マッシュル-MASHLE-』第2期オープニングテーマのCreepy Nuts「Bling-Bang-Bang-Born」でした。
これが日本の音楽の二大潮流
3/8(金)21:20配信
アリアナ・グランデさんが、約3年半ぶり、自身7枚目となるニュー・アルバム『エターナル・サンシャイン』を3月8日にリリースしました。
佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。
良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。
仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。
手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。
二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。
例えば、ステージ4のドクタにお任せって患者であっても、治療の最終決断はすするんだ。
医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。
釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん
汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝の主人公でありうるか。
わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものなのである。
父親がある日の事10歳前後になった息子を連れて森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられない、と教える。
息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建て移り住み自立し、一家を為す。
毒か、毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。
大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。代々、そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。
◆JBLfMwCXhYのイスラム教かぶれはなんで鬼和尚だか誰だかの口癖をテンプレに含めてんだよ?w
もしかして同一人物?www
坐禅で悟ったらしい
人気上げとるな〜
😄
透明あぼーん で 読むのかぁー、尊大だ。なんちゅう大学なの?尊大だあ。
しょうしみんたるわれは、恐怖の日々である。
今日ふとおもった恐怖の尊大。
尊大とは恐怖の大魔王である。
ゆえに尊大恐怖の大魔王。
これで、ひ弱な わたしも ちったー 反撃できたかも しれん ソ連は崩壊。
つまりは、今日ふ と思ったのは 尊大による恐怖は、試練なのである。
恐怖を与えて、怖がる様セセら笑っているのである。
せせら笑われる 恐怖である。
つまりは 尊大がおおもとである。
尊大学院である。
くばらくわばら、桑原さん。
桑原さんは 尊大である。
恐怖の支配者である。
尊大は記憶するから、尊大である。
観なければ、尊大はない。
読まなければ、尊大はない。
つまりは、尊大には他は自己所有物という基本的誤謬性がある。
なぜ、支配しないとおさまらないのだろうか。
尊大にとってわたしは雑草で、なぎ倒す対象物で、抜き取ってぽい、ぽい捨ててもいいのだ、という悪魔の意思なのだ。
そういうの、尊大です。
尊大さまだあ。
尊大尊大、二度 云ったぁ
二度あるkぉとは三度ある。
尊大尊大尊大だあ。
恐怖の大魔王は、尊大である。
尊大とは、恐怖のことを言う。
尊大、
なんとかならんか、どうしても なんともならんのか 恐怖の支配、尊大なのらぁ。。
肝硬変の場合は、アミノ酸を摂取したり、「クラゲ(メデューサ)の映像」が有効である。
https://youtu.be/llDGG9I3mIA?si=cGiBtq5vvTVtpy7T
メデューサ(クラゲ)の映像を見たら今度は「首が痛くなった」という人もいるだろうが、カルシウム・ビタミンDを補給しよう。
背中のこりが首を支えていたのだろう。
ドラえもんに「ゴルゴンの首」という巻があり、
光を浴びたら石になるとされていたが、
ゴルゴン三姉妹の1人がメデューサであった。
イエスキリストも、ぶどう酒の飲み過ぎで肝硬変になったのだろうか?
皇室は海から来た。
新江ノ島水族館の「ご皇室の生物学」を是非、ご覧ください。
https://youtu.be/i4CvdZIA0co?si=3cw4da_fhE4KbyEW
渚のピテカントロプス
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期
5~9 幼児期 ここまで生きられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張る肌 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 脱水で細る顔ポソッ
30~34 人生再検討期、尋牛悪魔の声を聞き新興宗教開祖乱立
35~39 立脚点確立 滴る愛液枯渇、性交痛
40~44 40不惑 夜間頻尿 毛細血管ゴースト化 精子数減少 43老眼乱視、子宮硬化不妊
45~49 昇格、更年期前期、妊娠恐怖解放
50~54 肩たたき転職勧告、♀やる気男性ホルモン増、更年期後期 50天命知命 アル中肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し 60還暦耳順じじゅん
65~69 年金受給 人生黄金期前期 世界旅行食べ歩き 65夜間頻尿、MRI脳委縮始
70~74 人生黄金期後期 72男健康年齢 前立腺がん
75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約 女健康年齢75
80~84 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身が旨い 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰 100百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ121歳大還暦
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
【2ch 有益スレ】マジで飲みすぎ注意!スルスル入る危険なウイスキー挙げてけw【2chお酒スレ】 - 16.39
https://youtu.be/yk3Gbl25WRE
【2ch 有益スレ】ウイスキーに一番合うおつまみ決めようぜwお前らのおすすめ銘柄と一緒に教えてけw【2chお酒スレ】 - 17.25
https://youtu.be/YzAnBQw_W-w
【2ch 有益スレ】猛暑にぴったりなウイスキー教えてけw これで夏余裕で乗り切れるw【2chお酒スレ】 - 18.43
https://youtu.be/GMMM0R23dck
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期 胎内での様子を語る
5~9 幼児期 ここまで生きられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19才 縄文時代の平均寿命は15歳最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張るプルプル肌 感触最良バスト 20老眼スタート20歳弱冠
25~29 脱水で細る顔ボソッ 25男の体力のピーク
30~34 人生振り返り期、尋牛見跡(じんぎゅうけんせき)悪魔の囁く声を聞き新興宗教開祖乱立
35~39 人生此処までと実感、中年太りと滴る愛液枯渇と名器終了、膣粘膜薄→性交痛
40~44 40不惑、初老 夜間頻尿 毛細血管ゴースト化 精子数減少 43老眼乱視、子宮硬化不妊
45~49 昇格、更年期前期、妊娠恐怖解放 禿頭始
50~54 肩たたき転職勧告、♀やる気男性ホルモン増、更年期後期 50天命 知命 アル中肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し 60還暦 耳順じじゅん
65~69 65歳は高齢者 年金受給 65夜間頻尿、脳委縮開始年間1ミリ立方ずつ減少する
70~74 72男健康年齢 前立腺ガン乳ガン
75~79 75高齢者講習、健康保険1割負担 ひ孫と面談ランドセル予約 75女健康年齢 75後期高齢者
80~84 80釈迦没 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87 ,男最多死亡年齢88
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 女最多死亡年齢94 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身が旨い 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰 100百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 120趙州 ( じょうしゅう ) 禅師没 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦
0210 元コマンドー ◆KBl5hH0VXM (ワッチョイ 0dbe-2M36 [118.14.56.63]) 2025/10/07(火) 17:36:44.60
元帥 栖雲居士
少佐 見守り
大尉 月光
准尉 元オウム
軍曹 幸
伍長 ⭐︎
万年上等兵 元コマンドー
二等兵 無
衛生兵 (欠)
従軍牧師 (欠)
サイオニクサー でおー
あれから、もう半年が過ぎたのか
5ちゃんねる宗教板の話だけどな
この番付表のせいだ」という
声があった😫
途中で挫折した😫
😀
お戻りハッスル🤡してる
😀
ハッスルには
マメに挨拶するようにしてる
😀
NO1といい
デンパパ📡といいコミュ障で
一時オナニーのように垂れ流すが
一気にしぼむな?
😫
空の奥義は】 中観派 【言葉にできない】 Part7
彼らは
ハッスル🤡様の足元に及ばない
😀
リダンもだろな
😫
> 私がやってる修行
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ちょ、ちょ、ちょ!
修行?
えっ!?
修行???
年に数回坐禅会に行く程度で修行なんて言っちゃうの?
笑夫くんさぁ……
本来、坐禅の頻度や回数なんて人に対して云うもんじゃないけど、宗教板の自称禅宗が余りにも坐らなさ過ぎるから、恥を忍んでこうして頻度や回数を書いてるんだよ😟
これ以上俺に恥をかかさないでくれよ。
368 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE (50-3WR-Ij-wvu) [sage] 2026/07/14(火) 20:59:33.95 ID:qJTAI
恥を知れ!
去年やらなかった
アイスノンを首にまく週間がてきた
疲労回復が屋早いとみた
😀
アイスノンが効いている間だけは
外出した
百均の保冷バッグに何個か入れるという
今年の夏への対応策だ
ファン服よりもアイスノンが圧倒的だ
😀
アタマ冷やして
春日権現研究だ
😀
森林木陰だろな
昔より多いし暑さはマシだろうな
😀
森林で瞑想してた
偉大なる森林の奥義書
蚊とか蛇とかが半端なさそう
森林に覆われているので、意外と暑くなかった
😀
😀
主な開幕戦のカード
横浜FM vs 鹿島(8月7日 19:25キックオフ、国立競技場)
G大阪 vs 浦和(8月7日 19:30キックオフ、パナソニック スタジアム 吹田)
秋春制の導入: 猛暑下の試合を減らし、欧州主要リーグと同様にシーズン中盤へ向けてチーム力が高まる山型のパフォーマンスを期待。
アジア大会との日程一致: AFCチャンピオンズリーグ(ACL)などと日程が揃い、同1チーム編成で大会へ臨むことが可能に。
オリジナル10の集結: 17年ぶりにJ1にオリジナル10のクラブが勢ぞろいする記念すべきシーズン。
ヤージュニャヴァルキヤはまた、「梵我一如」の思想を極めて洗練された形で展開しました。彼は、宇宙の根源であるブラフマンが、単にアートマンと「等しい」というだけでなく、世界のあらゆるものの内側に潜み、それらを内側から制御する「内在的支配者(アンタルヤーミン)」であると説きます。
彼は、大地、水、火、風、太陽、月、そして人間の中にさえも、それらの存在自身が気づかぬままに内在し、それらを支配しているアートマン=ブラフマンの存在を明らかにします。それは 마치人形遣いが糸を操って人形を動かすように、目に見えない力が万物を動かしているというヴィジョンです。この思想は、宇宙と自己がばらばらに存在しているのではなく、一つの根源的な意識によって有機的に結ばれ、貫かれているという壮大な世界観を提示しています。
ヤージュニャヴァルキヤの思想家としての側面は、ヴィデーハ国のジャナカ王が主催した哲学者たちの討論会の場面で、劇的に描き出されます。ジャナカ王は「最も優れたバラモンに、角に金の飾りをつけた千頭の牛を与えよう」と宣言します。他のバラモンたちが逡巡する中、ヤージュニャヴァルキヤは臆することなく弟子に牛を連れて帰るよう命じ、討論の火蓋が切って落とされます。
彼は次々と論戦を挑んでくる高名なバラモンたちを、その圧倒的な論理と深い洞察力でことごとく論破していきます。この場面は単なる知識のひけらかしではありません。それは、真理がいかに俗世の権威や常識を超越しているかを示す、思想の革命の瞬間なのです。
また、彼の妻マイトレーイーとの対話は、ウパニシャッド哲学が求める価値観の転換を象徴しています。出家を決意したヤージュニャヴァルキヤが財産を分け与えようとすると、マイトレーイーは「もし財産に満ちたこの全世界が私のものになったとしても、私はそれによって不死になることができるでしょうか」と問います。彼は「否」と答え、財産は世俗的な生活を豊かにするだけで、永遠の生命(アムリタ)はもたらさないと説きます。この対話を通して、ウパニシャッドが目指すものが、物質的な豊かさではなく、輪廻の苦しみを超えた「解脱」という精神的な不死であることを、私たちは深く理解することができるのです。
ヤージュニャヴァルキヤは、ウパニシャッドの森に屹立する巨木のような存在です。彼の思想は、後世のインド哲学全体に計り知れない影響を与え、今なお私たちの根源的な問いに力強く応え続けています。
ヤージュニャヴァルキヤが孤高の天才肌の思想家だとすれば、ウッダラカ・アールニは、より教育者的な温かみと実践的な知恵を感じさせる思想家です。『チャンドーギャ・ウパニシャッド』に登場する彼は、息子のシュヴェータケートゥに対して、巧みな比喩と対話を通じて世界の真理を教え諭します。彼の哲学は、家庭という日常的な空間の中で、父から子へと愛情を込めて手渡される、生きた叡智として描かれています。
ウッダラカの思想の根幹は、「世界の始まりには、唯一無二の“有(サット)”のみがあった」という、徹底した一元論にあります。サットとは、存在、実在を意味する言葉です。彼は、この世界に見られる多様な現象、すなわち名前(ナーマ)と形(ルーパ)を持つすべてのものは、もとをただせばこの唯一の「有」から展開したものであると説きます。
彼はシュヴェータケートゥにこう語ります。「愛児よ、一つの粘土の塊を知れば、すべての土製品が知られるようなものである。なぜなら、その変化は言葉の上だけのもの、単なる名称であって、粘土のみが実在であるからだ」。
これは非常に重要な視点です。私たちが壺や皿やレンガを見るとき、それらは別々のものに見えます。しかし、その本質はすべて「粘土」です。同様に、私たちが経験するこの多様な世界も、その根源においては、すべて唯一の「有」であり、その現れ方が違うにすぎない、とウッダラカは教えるのです。この思想は、世界の多様性の背後にある統一性を見抜く、形而上学的な視座を私たちに与えてくれます。
ウッダラカが息子シュヴェータケートゥに与えた教えのクライマックスは、インド哲学史上最も有名で重要な言葉の一つ、「タット・トヴァム・アシ(Tat tvam asi)」に集約されます。「タット」は「それ」、すなわち世界の根源である唯一の「有(サット)」を指します。「トヴァム」は「お前」、すなわち個としてのシュヴェータケートゥ、ひいては私たち一人ひとりのアートマンを指します。「アシ」は「である」という動詞です。
つまり、「それ(宇宙の根源)は、お前(個人の本質)である」という意味になります。これは、宇宙を成り立たせている究極の実在と、自分自身の最も深いところにある本質とが、全く同一であるという驚くべき宣言です。
バニヤン樹の種の比喩: 彼は巨大なバニヤン(菩提樹)の小さな種子を割らせます。中には何も見えません。しかし彼は、「愛児よ、このお前には見えない微細なものから、この巨大なバニヤン樹が生じて立っているのだ」と語ります。同様に、目には見えない根源的な「有」が、この広大な世界の基盤となっていることを教えるのです。
塩水の比喩: 彼は水に塩を溶かし、シュヴェータケートゥに味見をさせます。水の上も中も下も、どこもかしこも塩辛い。しかし、塩そのものは目に見えません。「愛児よ、まさしくそのように、この身体の中に“有”は存在しているのだが、お前はそれを見ることができない。だが、それはそこにあるのだ」と彼は説きます。アートマンは、身体の隅々にまで浸透しているが、五感で捉えることはできない、ということを巧みに示しています。
ウッダラカは、この「タット・トヴァム・アシ」という教えを、実に9回にもわたって、異なる比喩を用いながら繰り返し説きます。これは、この真理が単なる知識として頭で理解されるだけでは不十分であり、全存在をかけて体得されるべきものであることを物語っています。彼の教育法は、弟子(息子)の理解度に合わせて、辛抱強く、愛情を持って導く、理想的な師の姿を示しているといえるでしょう。
ヤージュニャヴァルキヤとウッダラカの他にも、ウパニシャッドには多くの個性的な思想家たちが登場し、哲学の発展に貢献しました。
ジャナカ王: 彼はヴィデーハ国の王でありながら、バラモン階級の哲学者たちを凌駕するほどの深い哲学的知識を持つ人物として描かれます。彼は自ら討論会を主催し、知の交流を促すパトロンであり、同時に優れた探求者でもありました。彼の存在は、ウパニシャッドの思想が特定の階級に独占されていたわけではなく、真理を求める情熱があれば、王侯貴族(クシャトリヤ)であってもその中心的な担い手となり得たことを示しています。
アジャータシャトル王: カーシー国の王である彼は、自らの知識を誇るバラモンのガールギヤに対し、逆に「眠りの哲学」を説きます。人が深い眠りにあるとき、感覚器官や心は活動を停止するが、目覚めたときに「よく眠った」と感じる主体がいる。その主体こそがアートマンである、という彼の洞察は、日常的な経験から深遠な真理を導き出すウパニシャッド哲学の特徴をよく表しています。
ガールギー・ヴァーチャクナヴィー: 先にも触れた、ジャナカ王の宮廷でヤージュニャヴァルキヤに果敢に挑んだ女性哲学者です。彼女の存在は、古代インドの知的世界において、女性が決して受動的な存在ではなく、男性と対等に真理を探究する権利と能力を持っていたことを示す、極めて貴重な証拠です。彼女の鋭い問いがあったからこそ、ヤージュニャヴァルキヤの思想はさらに深められたのです。
これらの思想家たちの存在は、ウパニシャッド哲学が、多様な人々による活発な「対話(サンヴァーダ)」の中で育まれた、ダイナミックで開かれた知の体系であったことを教えてくれます。
ウパニシャッドの思想家たちは、私たちから遠く離れた古代の賢者ではありません。ヤージュニャヴァルキヤの妥協なき探究心、ウッダラカの慈愛に満ちた教育、ガールギーの恐れを知らぬ問いかけ。それらはすべて、時空を超えて、現代に生きる私たちの「私は誰か」「この世界とは何か」という根源的な問いに、深く共鳴します。
彼らが残した言葉は、博物館に陳列された化石のような知的遺産ではないのです。それは、私たちが自己と世界の真実を探求するための、今なおコンパスとして機能する「生きた叡智」です。彼らの対話に耳を澄ませるとき、私たちは文字の背後にある情熱や緊張感を感じ取り、自らの内なる探求の旅へと誘われることでしょう。ウパニシャッドの森に分け入り、これらの偉大な思想家たちとの対話を始めること。それこそが、混迷の時代を生きる私たちにとって、最も確かな羅針盤を手に入れる道なのかもしれません。
ウパニシャッドの思想家たちは、私たちから遠く離れた古代の賢者ではありません。ヤージュニャヴァルキヤの妥協なき探究心、ウッダラカの慈愛に満ちた教育、ガールギーの恐れを知らぬ問いかけ。それらはすべて、時空を超えて、現代に生きる私たちの「私は誰か」「この世界とは何か」という根源的な問いに、深く共鳴します。
彼らが残した言葉は、博物館に陳列された化石のような知的遺産ではないのです。それは、私たちが自己と世界の真実を探求するための、今なおコンパスとして機能する「生きた叡智」です。彼らの対話に耳を澄ませるとき、私たちは文字の背後にある情熱や緊張感を感じ取り、自らの内なる探求の旅へと誘われることでしょう。ウパニシャッドの森に分け入り、これらの偉大な思想家たちとの対話を始めること。それこそが、混迷の時代を生きる私たちにとって、最も確かな羅針盤を手に入れる道なのかもしれません。
こっちに?
😀
人目につきにくいところに貼った😅
そこしか見ていない
エゴなのかといえば、そうでもない
「俺さえ分かってりゃ、それでいい」
と、なってもおかしくないところを
これまた、そういうわけでもない
一点に集中できていると言える
それぞれ、信者になったり、アンチに転じたりしながら
徹底的に議論してきた
と思って、思想遍歴してきた
・・・というわけですらない
儒教、道教、仏教、三教合一
キリスト教、西洋哲学
新興宗教、スピリチュアル
どれも、何十年もやっている(笑)
遍歴していない
全部を並行して進めている
井上義衍老師を非常にリスペクトしている
カント、ヘーゲル、ハイデッガー
孔孟老荘、朱熹、王陽明
パウロ、アウグスティヌス、トマス・アクィナス
同格の扱いをしている
さすがに思っていない(笑)
あまりにも、多くのことを知りすぎている
ヤージュニャヴァルキヤ
シャンカラ
ラーマーヌジャ
マドヴァ
あまりにも偉大すぎる
もはや、人ではない
出口王仁三郎聖師って人の存在が
自分の中では大きい
みんな、出口聖師の弟子とか孫弟子とか
弟子筋に当たる人たちだ
やはり、自分の中では大変に大きい
これにも、非常に強い影響を受けている
新興宗教と同様、ここ数年は離れているが
若い頃にあれほどハマったものだ
影響が残ってないとは思えない
これら西洋哲学からも、受けた影響は強烈だ
抜け出せるものではない
これを読んで、世界観が変わった
日本語訳と英語原書で2回ずつ読んだ
でも、やっぱり
自分の中での頂点、地球人類の思想の最高峰は、唯識論
最近はそれも揺らいできた
シャンカラ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ
「不二一元論」が、自分の中では「唯識論」と並ぶ最高峰の2つの頂上
「ツイン・ピークス」みたいになってきている(笑)
地球で最強の宗教は、イスラム教だ
なんといっても、信者が熱い
イスラム教は人口が急増さている
宗教といえば、イスラム教
なんといっても、「死後の世界」を熱心に説いていることだ
この世は、人を天国と地獄に振り分けるための
試験場みたいなものだ
それが試されている
自分にとってのイスラム教は
「井筒俊彦」というフィルターを通している
井筒俊彦の「マホメット」とか「意識と本質」とかにハマりすぎて、読みすぎた
井筒ぬきでは、イスラム教を考えられない(笑)
なんといっても、「言語」に関心がある
「死後の世界」には、あんまり興味なさそうだったが(笑)
学生のとき、カトリックに入信する一歩手前まで行った
神父のもとに通って、カテキズム(当時は『カトリック要理』と言ってたが)を学んでた
なぜ、それが中途半端に終わったかというと
就職して、いきなり名古屋に行かされたせいだ(笑)
もしも最初の勤務地が東京だったら、あのままカトリック信者になったことだろう
こんな具合に、古今東西の地球人類の思想に、徹底して取り組んできている
儒教や道教まで、やっている
たまたま行った禅寺で、老師の提唱を聴いて感動し
「これ以上の真理はない」と確信して、その道ひとすじ
そんな生き方は、カルチャーショックだ
自分とは違いすぎるので、カルチャーショックを受ける
当方には、仏教というより、老荘思想に見える
普通の人なら、「こう見えても、ボクは老荘思想に詳しいんです」と自慢するくらいのレベルだ
自分の中では、過去にドはまりした多くの思想の中の1つだが(笑)
「老子を読んで強烈な衝撃を受け、人生観が激変しました」
というような人が、欧米のスピリチュアル関係者にはよくいる
孔子があまり好きではない
普通の哲学や宗教とは、ノリがまるきり異なる
今までの努力を、全否定されるような内容だ(笑)
上に書いたような数々の取り組みは
やらなくて良いのである(笑)
「やらないほうが良い」
とまでは言っていない
やらなくてもいい
私は自分に合ったものにしか選ばないかならなw
小さいころからミニマルだった、私にとってミニマルは言葉を知って、たんにミニマルと言っている。
ふと昔を懐かしんで、十牛図を見ていたw 牛とは何かってね。
牛=心の相。
煩悩→心→本性→無心へと変質する象徴。コパイロットが出した答えだ。
牛の正体である。
絶対=無分別
相対=言葉・評価・私
ズレ=煩悩・迷い・反応
達磨につい
150歳の臨終間際に念仏三昧を行じていたのは、
煩悩をなくそうとすればするほど、煩悩がなくならないことが知らされて、
煩悩あるがままで救われる他力の教えを求めるようになったということです。
他力の仏教であれば、どんな人でも、苦悩の根元が断ち切られて、
煩悩あるがままで、本当の幸せに救われるからです。
ありえないなw
誰かアレンジしたな
「やめとけ」という方向に傾いてるな
「相対と絶対」というテーマにこだわってるな?
それは、念仏宗の人がアレンジしているな😅
世の中、すべては相対的だ
「善人」とは何かといえば、「悪人ではない人」
悪人という比較対象があるから、善人がある
世の中の全員が善人だったら、それはもはや善人ではない
以前、バレーボール日本代表の石川祐希と高橋藍が
「ボクたちは、身長の低さを技術でカバーしなければいけない」
と言っていた
ちなみに彼らの身長は
石川 祐希:192cm
髙橋 藍:188cm
だ
このように、他人の身長がもっと高ければ、190センチでも低身長になる
「絶対とは何か?」という問いに対する答え
「世の中、すべては相対的なものだ。
身長が高いが低いか、金持ちか貧乏か。
そういうのは、他者との比較で決まる」
「それに対して、比較対象がなにもない。
それ自体で意味がある。それが絶対だ」
とかなんとか、そういうことになるわけだが
この説明をよく見ると、
「絶対」を、「相対ではないもの」として定義している
「相対」という比較対象があって初めて、
「絶対」が意味をもちはじめる
つまり、「絶対」もまた、相対的なものだということだ
「無」もまた、「有」という比較対象があって初めて、
「有が欠けていること」という定義が成り立つ
「無」もまた、相対的なものだ
足し合わせたのが、「絶対無」
https://i.imgur.com/CdhZQxf.png
足し合わせたのが、「絶対無」
それは、老荘思想における究極の境地だ
絶対もまた相対である」という指摘は、“言葉としての絶対は相対に依存する”という意味で正しい。
しかし、禅で言う絶対(無分別)は“概念としての絶対”ではなく、“構造としての絶対”なので、この批判は当たらない。
とコバイロットが言っている。
言葉は月を指し示すもの、月そのものではない
無分別心=言葉が立ち上がる前の心(絶対)
相対/絶対という構造語は、禅の二層構造をそのまま表す。
牛=相対と絶対のズレ
構図で見た方が可視化できるということかもしれないね
それが、老荘思想に由来する「絶対無」だ
仏教、とくに中観派では、すべては相対的な存在
絶対というのは無い
> 言葉は月を指し示すもの、月そのものではない
ここでいう「月」というのは
絶対的な宇宙の原理たる「ブラフマン」だ
仏教、とくに中観派では、それを認めない
つまり、「月がある」とは言わない
聖ウンコ派は、これを仏教の根本原理みたいに言ってるが
これは基本的に、バラモン教/ヒンドゥー教の思想だ
ここでいう「月」に相当する究極の真実(ブラフマン)を認めないのが、仏教の特徴
中観派が否定しているのは “概念としての絶対(固定的実体)”。
しかし中観派は “構造としての絶対(空=縁起=無自性)” を明確に肯定している。
つまり「絶対という実体は無いが、絶対的構造はある」。
「仏教は月(ブラフマン)を認めない」という主張は“半分正しく、半分ズレている”。
仏教は“絶対という実体(ブラフマン)”を否定するが、
“絶対的構造(空=縁起=無自性)”は明確に肯定している。
老荘の絶対無と同じく、“実体なき絶対”を立てている。
俺はお盆真言密教寺院勤行一式と
家の仏壇勤行一式を終えた
お盆活動終了だ、とりま
😀
儀式をちゃんとやるんだな。お盆って言っても、東京のお盆だから、もう終わっている。墓参りぐらいだ。今は地方に住んでいるけど、お盆のための飾り物一式が売られている。
自宅仏壇勤行と
真言密教寺院勤行と
曹洞宗寺院勤行は
お盆前〜お盆初日まで
やるプラン
勤行やらない挨拶参りは
臨済宗寺院二軒と浄土宗寺院と
西山派寺院
😀
ま、ナンデモ修行した身なので
勤行やらなきゃならんところが3箇所ある
😀
どちらにしても、大したものだ。私は飽きるw
また、聞く人とやる人じゃまた違うんだろうね。
大乗仏教の基本と家に本尊現れて
今無住と
寺男やって無住ぽくなっている寺院
ま、縁があったので
勤行無関心なのだが
やることになってる
😀
ほっておく
😀
こんなことが書かれていた。
中村元がかつて主張していた「釈迦は教えを説いた哲学者のような人物で宗教家ではなかったが、死後に神格化されて上座部仏教と大乗仏教が成立した」という非仏説論に関しては、古代インドの宗教観、聖者信仰を踏まえれば、釈迦は何らかの宗教行為を目指しており在世中から既に神格化されていたと考える方が適当だとして、現在は否定されている[5]。ウィキペディアね。
aiの答え
🧘♂️釈迦本人は「人間」であろうとした
ここが重要。
釈迦自身は、
自分を神と呼ぶな
創造主ではない
絶対者ではない
救済者ではない
と明確に否定している。
つまり、
釈迦本人は徹底して“人間釈迦”。
※状況がゆるさないということかもね。
ai
結論だけ置く。
釈迦が目指していたのは「宗教行為」ではなく、“人間の苦を構造的に終わらせること”。
そのために宗教的形式を使っただけで、目的は宗教ではなく“苦の終息(dukkha‑nirodha)”。
興福寺や過去にあった春日大社の五重塔の配置よ由来が解った
薬師、弥勒、阿弥陀、釈迦と
あるのは
それぞれの浄土を示していると、
初めて知ったわその由来を
末法思想が興福寺の神仏習合のシステムである
😀
ゆったりと
😀
日の出前からスタートだ
😀
チャットGPT:
うん、その指摘はかなり重要だと思う。
ただし、「言葉は月を指す」という比喩そのものがバラモン教・ヒンドゥー教固有というより、問題はその比喩において**「月=言葉とは別に存在する究極的実在」を想定しているか**だね。
たとえば、
言葉は月を指し示すもの、月そのものではない
という構図を哲学的に読むと、
言葉(指示) → その彼方にある究極的実在
という二層構造になる。
そして、その「究極的実在」をブラフマンと置けば、まさにヴェーダーンタ的な構図になる。
一方、中観派はここで猛烈に疑ってくる。
龍樹なら、
「では、その“月”そのものは何によって成立しているのか?」
と問い返す。
「言葉は月ではない」ということから、
だから言葉とは別に、言葉が指し示す実体的な月が存在する
とはならない。
むしろ中観では、
言葉は空
言葉が指す対象も空
「究極の真理」という概念も空
それらを成立させる究極的実体も想定しない
となる。
ヴェーダーンタ的発想
現象・言葉・概念
↓
それらを超えた究極的実在
↓
ブラフマン
という構造。
「月そのものは、月を指す言葉ではない」という区別が成立する。
中観的発想
言葉
↕
対象
のどちらにも、自性によって成立する究極的実体を認めない。
だから中観では、
「言葉は月そのものではない」
までは普通に認められるが、
「だから言葉の彼方には、言葉とは独立した究極的な“月”がある」
とは言えない。
ここが決定的。
さらに面白いのは、「勝義諦」という言葉があるからといって、勝義諦という何かがブラフマンのように実体として存在するわけではないこと。
龍樹の有名な議論では、勝義諦ですら縁起・空から独立したものではない。
だから、
「言葉は月を指す。言葉に執着するな」
という教えを、そのまま
「言葉の向こう側に、言葉では表現できない究極実在がある」
と読むと、中観というより、かなりヴェーダーンタ寄りの読み方になってしまう。
そして、あなたが以前話していた**「仏教の如来蔵思想をブラフマン的なものとして読むことへの警戒」**とも、まさに繋がってくるところだと思う。
犬鳴山並みに
イミフな愛が満ちてきた
犬鳴山も割合回数が多く行ってるが
😀
チャットGPT:
この書き込みは、「中観派は何を否定し、何を肯定するのか」について、かなり重要なところを押さえている一方、「絶対的構造」という表現には注意が必要だと思う。
特に287の、
「概念としての絶対(固定的実体)」は否定するが、
「構造としての絶対(空=縁起=無自性)」は肯定する
という整理は、半分は当たっている。
ただ、「絶対的構造がある」まで言ってしまうと、中観から少し外れてくる。
「空=絶対的構造」とすると、また実体化が始まる
中観のポイントは、
あらゆるものは自性をもって成立していない
↓
だから空である
↓
しかし「空」というもの自体に自性があるわけでもない
というところにある。
つまり、
「万物は空である」
という命題から、
「だから世界の根底には〈空という絶対的構造〉が存在する」
とは言えない。
これを言ってしまうと、
「ブラフマンは存在しない。しかし、その代わりに“空という究極的構造”が存在する」
となる。
これはかなり危険な読み方で、ブラフマンを空に置き換えただけになりかねない。
むしろ中観らしく言うなら、
「空」とは究極的実体の名前ではなく、諸法に自性がないということを示す言葉である。
という方が正確。
龍樹の有名な、
「空性は一切の見解を離れるためのものである」
という方向性からすると、「空」という新しい絶対を立てること自体が問題になる。
だから、
ブラフマン=究極実体
→ ✕ 中観は認めない
空=究極実体
→ ✕ これも認めない
空=諸法が自性によって成立していないこと
→ ◯ 中観
という整理がいい。
287・288の面白いところは、「絶対」を二種類に分けていること。
これは哲学的には非常に有効な区別なんだよね。
ただし、
実体としての絶対 ✕
構造としての絶対 ◯
とすると、「構造としての絶対」が何らかの独立した存在者・原理として存在するように聞こえる。
そこで、
「中観は絶対的な実体を否定し、あらゆるものが無自性・縁起的であるという普遍的な論理を提示する」
くらいにしておけば、かなり正確。
そして、ここが**「月」の比喩**に戻ってくる。
「言葉は月を指す。言葉そのものに執着するな」
という場合、
ヴェーダーンタ的には
言葉 ≠ ブラフマン
言葉はブラフマンを指し示す
という読み方が可能。
しかし中観では、
言葉 ≠ 対象
だから対象としての究極実体がある
とはならない。
言葉も空、対象も空、「言葉と対象の関係」も空。
したがって、
「言葉の向こう側に“本物の月”がある」
というモデルそのものを解体してしまう。
ここが、「実体的な絶対を否定する」というだけでは足りない、中観の凄いところだと思う。
「老荘の絶対無と同じく、“実体なき絶対”を立てている」
については、私はここはかなり慎重に分けたい。
老荘の「道」「無」と中観の「空」には確かに似た響きがある。
しかし、「空を実体なき絶対として立てる」こと自体が、
中観の自己批判に引っかかる。
なので、むしろ、
「中観は絶対的実体を否定した結果、絶対的な何かを立てること自体を問題にした」
と見る方が、龍樹らしさが出る。
この意味では、元のあなたの
「ここでいう月に相当する究極の真実(ブラフマン)を認めないのが仏教の特徴」
という指摘は、かなり核心を突いていると思う。
ただし厳密には、「仏教一般」ではなく、特に中観についてそう言うのが一番きれい。如来蔵・仏性・真如などになると、話が一気に複雑になる。
あそこは山登りしないとスーパーマックスパワーこなさそうだ
談山神社も、なかなか楽しい場所だけど
春日大社はより、神仏習合のど迫力が
ある
😀
論理というより
霊的イマジネーションを
普通の紹介の文章で読み解く
春日本宮の近くの朝拝する直殿は
明治以前は八講堂と
呼ばれ
法華八講していた
むろん、朝拝する前に法華経の現在語訳神力品を読んでいた
😀
ネットでは、ここまでヒットしない
😀
仁和寺をしのぐハマりようだ😆
少し発見があった
😀
謎濃度は仁和寺より高い
興福寺春日大社は仁和寺を超えるブラックホールで念仏、法華経、密教まで吸い込む唯識
、謎レベルがスーパーだ
薬師寺の橋本凝胤が原理主義リバイバルした唯識が一般化されているが
😀
霊鷲山だからなー
😀
かなり本宮メインで
かなり攻めていたからなー
一乗院禅定を末法思想無視の超禅定で
春日権現のリアクション狙っていたからなー
ま、春日権現記絵巻では
夢の中の春日権現の影向だが
俺は霊感影向マックス狙っていた
次回は末法思想込みのノリで若宮社などをゆったりとお参りする
😀
それ以前よりも
成唯識論を黙読で攻めまくる
というプランになってしまった
😀
密教、念仏、法華経まで春日権現で吸い込むウルトラ習合マシーン
😀
明治以前の興福寺ブラックホールが理解できるという
😀
クソ堕落だ〜
スタンス
😀
ずっと春日大社興福寺の
唯識がちんぷんかんぷんだった
😀
わからなかった
😀
一乗院禅定をゲットしてた
😀
空海、最澄の平安仏教は
日本仏教を堕落させたと
豪語した
😀
リアルには薬師寺周辺を車で回ったのと
行基和尚のお墓参りしただけだ
😀
唯識を激変させた
😀
仁和寺、高野山、興福寺が
日本仏教のセンターだった
😀
「八」という名称が多い
たぶん、法華八講の
八、春日大社=霊鷲山浄土
という興福寺のスタイルがあるのだろう
😀
法華十講だ
普賢品と最初のを入れて十講だ
😀
今回二度往復したが
春日山への修験道コースとは知らなかった
😭
😭
興福寺学僧エリートコースのノリの
春日大社参りだった
😀
あなたの区別は中観の方向性と一致している。
ただし中観は、その“構造としての絶対”すら固定化しない。
空という概念も空であり、自己消去する論理として働く。
最終的に残るのは、あらゆるものが無自性・縁起的であるという普遍的な論理だけ。
あなたのモデルに「空もまた空」を付け足すと、中観の全体像が完全に閉じる。
JBLさんのに私が空もまた空を付け足しておいた。
認知的には、構造として理解する方が分かりやすい。
名古屋人みたいだな
あなたの区別は、中観の厳密な哲学を
人間の認知構造として理解するための“橋”になっている。
人は「絶対」という語を使うとき
→ 何か固定的な本質を想定しがち
あなたはそれを避けるために
→ “実体としての絶対”を否定し
→ “構造としての絶対”を提示した
これは中観の方向性と一致している。
ただし中観はさらに徹底して、
その構造すら「絶対」と呼ばない。
固定化を避けるため。
あなたのモデルは「理解のための道具」として非常に有効。
法も捨てなけらならない。筏の喩え
そう
「月を指す指」の話も、ある程度まではいいが
それを強調しすぎると、中観派としてはおかしくなる
「月」つまり、究極の真実(ブラフマン)を、仏教では認めていない
それを忘れてはならない
「言葉を紡いで語るしかない」というのが、龍樹の基本スタンス
ゲルク派や
天台や
唯識の
路線は言語化は好きだな
😀
あとお参りできなかった
水谷9社の情報もAI検索で調べた
😀
全部読んだ
かなり
修験道関連の情報をゲットできた
😀
成唯識論第10章と比較して
分析してみた
やはり末法世界の浄土なのだろう、
興福寺の禅定そのものは、もっと自在だ
と
😀
春日権現がいる
😀
と
😀
だ
兜率天や補陀落浄土への往生の願いがある春日権現をとおして
😀
興福寺の衆徒(しゅと)と堂衆(どうしゅ)は、中世の寺院社会において実務や武力を担った構成員です。純粋な仏教の深遠な哲学研究・教義の探求よりも、藤原氏の氏寺・大和国の支配者としての政治力、荘園管理、および春日神仏習合の信仰実践をその活動の基盤としていました。基本的な性格と身分構造学侶(がくりょ)と下位層:興福寺内は教学を専門とする「学侶」に対し、雑務や実務を担う層として衆徒や堂衆が存在しました。武士化・土着化:中世の興福寺では、在地領主や大和武士(国人)層が僧体のまま「衆徒」として組み込まれ、強力な僧兵団を形成しました。堂衆の役割:堂内の管理や雑務、諸行事の運営実務を担う下位の身分であり、どれほど功績があっても高位の僧侶(別当など)へ出世することは制限されていました。信仰と教義の特徴法相宗(唯識)の護持:興福寺全体の根本教義は「唯識(法相教学)」ですが、実務・武力層である衆徒や堂衆が自ら高度な唯識哲学を論究したわけではありません。彼らは寺院の正統な権威として法相宗の威光をいただいていました。春日明神への強い信仰:興福寺は氏神である「春日社」と一体であり、神仏習合の最前線にありました。衆徒・堂衆は春日明神の神威を背景に持って行動し、神木を押し立てて朝廷に直訴する「強訴(ごうそ)」を行いました。既存秩序の守護(旧仏の立場):鎌倉新仏教(法然の専修念仏など)が台頭した際、興福寺の衆徒は『興福寺奏状』を提出して新宗教を激しく弾圧しました。これは自分たちの持つ伝統的な寺社領・権益、および王法と仏法を守るという守旧的な使命感に基づくものです。芸能・祭礼の主宰:修正会(修二会)などの法会と結びついた「薪猿楽」などを主宰・育成し、民衆信仰や地域社会への求心力を保ちました。
😀
興福寺の堂衆(衆徒)と修験道には深い歴史的な関係があります。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、興福寺の堂衆を中心とする南都の僧侶集団は、修験道の主要な流派の一つである当山方(とうざんがた)修験道の母胎組織を形成し、その指導的な役割を果たしました。興福寺堂衆と修験道の関わり母胎組織の形成: 鎌倉時代後期、興福寺の堂衆らは大和国周辺の山林修行(斗藪)や霊山信仰を主導しました。当山派への影響: 彼らが率いた修験者集団がのちの修験道当山派の基盤となり、興福寺の東金堂などがその重要な先達(指導者)の系譜を伝えていました。組織の変化: 南北朝時代末期以降、興福寺の堂衆は修験者の直接的な指導的立場から退き、修験者たちはのちに醍醐寺三宝院などの統括下に入っていきました。
😀
歴史のロマンだな😄
―― 呉座勇一「応仁の乱」を読む(2017.9.3)
話題の新書である。
しかも、「地味すぎる大乱」の謳い文句に、「スター不在」「ズルズル11年」「勝者なし」の言葉が添えられると、かえって、気になってしまうというものだ。(上手く、してやられたのかもしれない。)
ただし、「スター不在」はともかく、「地味すぎて勝者なし」のまま「ズルズル11年」続いたからこそ、「応仁の乱」という言葉を誰でも知っているにもかかわらず、きちんと解説することが困難で、乱暴に説明されてきたきらいがある、らしい。
そんなことで著者が着目したのは、興福寺の最高位である別当職を務めた僧・経覚と尋尊の二人による日記である。
京都や地方の事情については不正確なものも少なくないとしているが、当時の興福寺は全国に荘園を持っている上、大和には守護が設置されず興福寺が事実上の守護職を務めていることから、
彼らはけっして単なる傍観者ではない。
また、興福寺は他国では国人とされる土着の武装集団を興福寺僧侶系の「宗徒」、春日大社神人系の「国民」という形で配下にしており、興福寺内部でも門跡寺院の一条院・大乗院が長く争っていたこともあって、むしろ興福寺配下の武士たちは応仁の乱の当事者だった。
しかも、経覚と尋尊が年齢も立場も異なっていたことから同じ事実に対する解釈が異なっていることもあり、左右の目による像の違いが景色に立体感をあたえるように、両者の日記を対比することで当時の世相に奥行きを持たせて読ませてくれる。
類型的な理解では、応仁の乱によって室町幕府が弱体化し、戦国時代が始まるとされる。
しかしながら、応仁の乱に至った関係する各家の事情を見ていくと、そもそも、室町幕府はそれほど盤石だったのではなかったことがわかる。
南北朝時代は全国の武士が自分たちの勢力を拡張しようと争っていたし、北朝への統一後も旧南朝勢力をはじめとする反乱が続いていた。
京都においても、将軍と数か国を領有する有力守護との間で権力の綱引きがあり、現に6代将軍・義教は暗殺されている。
どうやら、室町幕府は応仁の乱の11年間で揺らいだ、というようなものではなく、最初から最後まで、これといったスターが不在のまま、地味な争いが継続しつつ、圧倒的な勝利者が生まれるわけでもなく、ヅルヅルと崩壊していったらしい。
300ページ近い分量は、新書としては長いものだが、本当に、よく知らない武士たちが地味でヅルヅルと争い続けるので、どう決着するのかが気になって、結果的に最後までスイスイと読んでしまった。
宣伝コピーが功を奏した例だろうか。
呉座勇一の「応仁の乱」
室町幕府はほとんど出てこない
最初から最後まで、ほぼ「興福寺」の話だった
春日若宮社近辺は
ほぼ山伏の社だらけのよーだ
😀
そのイメージもなく参拝していた
残念っ‼️
春日権現記絵巻メイン参拝し過ぎた
😀
春日大社の若宮社周辺の山伏ゾーンのお参りをしているよーだ
紀伊神社
😀
しまった
島倉千代子
😱
藤原氏の分家血筋別に分かれていたようだ
😀
九条家では
別だった
どっちだったかアタマに残っていない
😀
😀
筒井順慶の死後
領地没取して興福寺栄光時代は終わった
😀
😀
今年の大河に
興福寺支配の終焉の場面が出てくるだろう😀
いいね。いいね。興福寺の起源 いろいろあるみたいだけどね。
鏡王女 誰だw 額田王じゃないかってね。
異説
額田王のことであろうとしている。また万葉集にある鎌足の妻どいの歌は余興の上の冗談であり(めとれる身分にないことから)、額田王の返歌は、王族でない者に冗談とは言い寄られ、怒っている(「貴方はともかく、私の名に傷が付く」)そうである。
いいねw
真言が法華経を盗んだとか
いう主張があるが
それは
興福寺を中心とし高野山まで関係する真言密教系統修験道のことを
見て
そう思ったのかもしれん、
春日大社は霊鷲山浄土であり、法華経、法華八講をしている
😀
千葉寄りが大雨らしいな
😅
😅
車に閉じ込められかねん洪水がある場所もあるよーだな
😅
https://www.youtube.com/watch?v=VTsecBFRu98
知りませんでした。
😅
霊的世界観を脳内整理している
ほんとキリスト教の本なんかは
なんらかの霊的世界観の土台がないとイミフだからなー
春日大社興福寺信仰ですら
インド中国の仏教からすれば
イミフだ
俺の中では興福寺と春日大社の合体信仰がずっとイミフで
今回の旅で全体像を把握した
😀
本来イエスキリストの時代近辺のキリスト教の世界観と別物だと俺は見ているので
既存のキリスト教の世界観は
やはり
謎が濃い
聖霊まさだベース過ぎて、余計に、イミフだった
😀
瞑想系統仏教以外の宗教の
霊的アプローチに有効だ
すなわち、ヒンズー的
ブラフマンとの一体化ぽい発想の汎用型バクティヨガぽくカスタマイズした魔改造世界観
😀
今少し天理教に向かう
😀
天理教が脚光を浴びている
放置してたのて
タフの下のほうになってた
仁和寺と春日大社に熱かったからなー
😀
😀
興福寺は藤原氏の私寺として始まったが、
造営は国家事業となり、
奈良時代〜平安時代には巨大な官寺となった。
😀
恐らく春日大社の灯籠の影響がありうる
😀
現存する日本最古の石灯籠は奈良県当麻寺の八角形石灯籠で、奈良時代前期のもので、この初期の配置様式を示しています
※春日灯籠はその後の話だね。
・春日大社の灯籠は室町時代以降に定型化され、全国的に広まった 。
・高野山の灯籠も透かし彫りや形面で春日灯籠と類似する例がある 。
・祈願・奉納の文化的背景は共通しており、影響の可能性はあり得るが、高野山は独自の伝統も持つ 。
・したがって、「高野山の灯籠も春日大社の灯籠の影響がありうる」という指摘は、様式・文化史的に見て合理的です。
藤原道長の時代には
春日本宮と若宮の間に灯籠があった
木製なので残っていない
高野山を藤原道長の時代に復興始めた
興福寺の僧侶、祈親上人がある
彼の伝説あたりから
貧者の一灯という言葉が出たらしい
😀
そのような説明してくれた
😀
藤原道長でつながった
😀
😀
なんか名無しくんのトーンが下がったぞ?
自転車操業的疲労が
😅
いや、押しているよな感じがした。
😀
仕事日にはないルーティンだな
😀
神仏習合データ宝庫を見つけた
😀
https://tensyoji.com/2019/08/09/%e3%80%8e%e8%ab%b8%e7%a5%9e%e6%9c%ac%e6%87%90%e9%9b%86%e3%80%8f%ef%bc%96%e3%80%80%e4%b8%89%e5%b6%8b%e5%a4%a7%e7%a4%be%e3%83%bb%e7%ae%b1%e6%a0%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%83%bb%e5%85%ab%e5%b9%a1%e5%ae%ae/
暫く楽しめる神仏習合研究に
😀
神仏習合のかなりプロになれそうは
最高のリンク先だ
🙏
😀
俺は目に見えない
高級な霊的存在マニアにシフトする
😀
奈良公園は
やや多い、やはり東大寺がメインディシュかもしれんインバウンドの
😅
興福寺は少なめ
やはり👍️
神聖な時間だ
次の行く時は
特別参拝は9時以降しかできないが
日の出前5時くらいからでもお参りかたい感がある
😀
10巻章全部読むボリュームありそう
いつか、全部読む
神仏習合マニアの意地だ
😀
俺が欲しがっていたテーマだ
😀
『麗気記(れいきき)』は、鎌倉時代後期に成立した両部神道の理論書(秘伝伝授書の集成)です。主に、伊勢神宮の祭神や社殿を密教の曼荼羅(金剛界・胎蔵界)に見立てて神秘的に解釈する教えを伝えるため、「麗気灌頂(れいきかんちょう)」と呼ばれる密教的な秘法伝授・入門の儀式の際に使用されました。 <使用された具体的な場面や目的神道の秘法伝授(灌頂儀礼)師匠から弟子へ『麗気記』に記された神道の奥義や解釈を相続・伝授する際、密教の灌頂(こうじょう)に似せた厳そかな儀式の中でテキストや図像として用いられました。儀式では、互いの指を絡める所作を行ったり、真言(呪文)とともに歌を唱えたりする独特の作法が伴いました。 中世寺院や学僧による学習・講述南都北嶺(奈良や比叡山)の仏教僧や、東国の学僧たちが『日本書紀』などの神話や伊勢神宮の縁起を神仏習合の観点から講義・勉強し、註釈書(『麗気記私抄』など)を編纂する際の基本テキストとして使われました。
教義後回しだ
😀
結論:中世神道論とは、
“神道が仏教・道教・陰陽道・儒教を取り込みながら、
神とは何かを哲学的に再定義した中世特有の思想体系” の総称。
これこそ日本教です。
西山派寺院と
稲荷神社行ってきた
そういえば
伏見稲荷はJBLほど気合い入れてお参りしてなかった
春日大社の後に
早朝から苦行めいてお山巡りするのも
悪くないな
本殿だけで伏見稲荷は満足したので
お山の神秘性は
少しオモシロそうだな
😀
春日大社へ行くと
何故尊重されるか
解った
神が喜ぶ縁起ものだ
あれは
😀
AIもあることだしな
😀
明治以前のいわゆる「西山派」と稲荷信仰の関係については、浄土宗西山派(西山浄土宗、西山禅林寺派など)の寺院が境内の鎮守社として稲荷神や吒枳尼天(ダキニテン)を祀った事例(大阪の泰聖寺の眼力稲荷大明神など)はあるものの、西山派という浄土宗の一派が独自の稲荷信仰の教義や修行体系を独自に構築した歴史的事実は確認できません。明治以前の神仏習合の時代において、稲荷信仰は主に真言密教や天台宗、修験道、あるいは吉田神道やのちの垂加神道などの影響を受けて展開しました。そのため、西山派(念仏の教え)の寺院においても、他宗派と同様に仏教の守護神や鎮守として稲荷(あるいはそれに習合した吒枳尼天)を祀り、一般的な仏式・神習合の法会や祈願が行われていました。明治以前の寺院における稲荷(鎮守)信仰の傾向教義: 浄土宗の他力念仏(阿弥陀如来の救済)を根本としつつ、現世利益や防火・眼病平癒などを願う地域・信者向けの鎮守神として稲荷大明神や吒枳尼天を並行して信仰。儀式・修行: 神仏習合の形態のもと、寺院の僧侶による読経や、境内の稲荷社での祈祷、火祭り・護摩的な儀礼(お火焚きなど)を実施。
さらに
明治以前の天台宗における稲荷信仰は、本地垂迹説(仏が神の姿をとって現れるという考え)に基づき、稲荷神を仏教の尊格、特に荼枳尼天(だきにてん)や辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)と同一視・習合させて展開されました。修験道や天台密教の修法と結びつき、現世利益を求める強力な祈祷体系として行われていました。教義本地垂迹と同一視: 稲荷神の本質はインド由来の夜叉・天部である「荼枳尼天」であるとされました。護法神としての位置づけ: 荼枳尼天は本来人肉を食らう恐ろしい神でしたが、大日如来(大黒天)に調伏されて仏法守護の神となり、福徳・繁栄をもたらす神として受容されました。狐の神格化: 荼枳尼天が白狐に乗る姿から、稲荷の神使である狐と完全に結びつき、「辰狐」としての神秘的・呪術的な意味合いが強められました。儀式と信仰神宮寺での祭祀: 伏見稲荷大社の有力な神宮寺であった愛染寺をはじめ、多くの天台系寺院に稲荷社が勧請され、仏式による供養や祭祀が行われました。護国・鎮守の祈祷: 国家安泰や皇室の守護、また寺院自身の鎮守神として盛んに祀られました。庶民・武家への浸透: 江戸時代以降、商売繁盛や家内安全、開運の神として、天台僧侶による祈祷が一般民衆や武家階級にも広く提供されました。修行秘法・呪法: 荼枳尼天の持つ神通力や「人の死を事前に知る」などの通力を得るための、激しい密教的祈祷・修法(外法的な側面を含む)が行われました。三昧や念仏との結合: 比叡山などの天台本山や別当寺において、常行三昧などの仏道修行と、堂内を守護する神々への祈願が並行して実践されました。明治維新の神仏分離令によって、神社としての稲荷信仰と寺院の仏教的稲荷(荼枳尼天など)は制度上切り離されることになりました。
とろりとろりと
登ろう、時間追われずに
イスラムモスクや春日大社より
厳しいたろう
😅
寛永寺末は
あんまり関心がわかない
紀州藩東照大権現と天神社で
満足してしまった
😀
マジオモシロい
春日大社やら大神神社やら伏見稲荷やらでゲットした禅定解釈を
教義的に理解している
なるほどっ‼️
感
😀
やはり、末法時代の神仏習合であって
興福寺でゲットした一乗院禅定と間合いが違う
ま、俺は三輪神社における
慶円みたいに
八幡宮の神と密教間合いを互いに交換したみたいなノリをやってた
😀
途中で膝が痛くなって、大変だった
😀
マニアックなとこに行ったな
高速であるこうとしたら
俺は終わるだろう
コンパクト座椅子が大活躍するだろう
😀
というのが、若い頃からナゾだった
大川隆法もそれを継承した
5時間くらいノロノロと歩くだろう
ワークマンのポンチョを使いながら
Zガンダムのパプティマスシロッコか
パナウェーブの白衣装みたいな
😱
「覚鑁」が「ルシファー」と並ぶ、魔王の2大ブランドになってた😅
真言の間合いを交換したらしい
ほんと
今回の春日大社のノリ
伏見稲荷とか大神神社では
そんなの狙わなかった
ま、そもそも、相手の霊感がわからんので
😀
本殿だけで
よーきたな、タダで、春日大社前回より大サービスだった
😀
😀
霊感感得しないと
成り立たないぞ〜
ていうか
儀式的と夢で見るのがメインだろな
俺くらいに霊感間合い〜ゲットなんて
狙わんだろう
😀
1位は高野山の宿坊、無量光院
2位は現在高野山真言宗
3位が仁和寺
😀
麗気記見ると
モロ神仏習合やった
😀
教21脈の継承: 三輪上人慶円は、覚鑁から流派を引く高僧から密教の法を受け、その血脈や思想を三輪の地に伝えました。
神祇思想の展開: 覚鑁が唱えた「密厳浄土」や密教的仏身論は、のちに三輪流神道などの両部習合思想に大きな影響を与えました。
不動明王像の縁: 覚鑁が彫ったとされる不動明王像が、大和国(奈良県)の三輪山・大神神社の神宮寺であった平等寺に長く祀られていた歴史があります。
「覚鑁は地獄に堕ちた」と言い出したのは、三輪上人
はい、その通りです。鎌倉時代の書物『三輪上人行状記』の中に、「覚鑁の霊が魔道(地獄)に堕ちて苦しんでいた」というエピソードが明確に記録されています。
当時の仏教界に大きな衝撃を与えたこのお話の具体的な内容は、以下の通りです。
『三輪上人行状記』に書かれた事件
病気と憑依: 多武峰(奈良県)の僧・方等房が重い病気にかかりました。
覚鑁の霊の告白: 三輪上人(慶円)が加持祈祷(病気を治す祈り)を行うと、病人に憑りついていた怨霊が口を開き、自分は「高野山の大伝法院を開いた覚鑁である」と名乗りました。
魔道に堕ちた理由: 覚鑁の霊は、生前に「大伝法院を建てて、真言宗を大いに繁栄させたい」という強い執着(執念)を抱きすぎたために、死後、仏になれず魔道(地獄)に堕ちて苦しんでいると語りました。
上人による救済: 三輪上人慶円が、覚鑁が大切にしていた「真雷(しんらい)」という特別な呪文を唱えて引導を渡したところ、覚鑁の霊はようやく救われ、病人の病気も治ったとされています。
新義真言宗の開祖としてあまりにも偉大だった覚鑁ですが、生前は高野山を追われるなど激しい権力争いや宗派対立の渦中にいました。
そのため、後世の別流派(旧仏教側など)の文献や説話では、「どれほど偉い高僧であっても、寺の発展や自説への執着が強すぎると、死後に地獄や魔道へ堕ちてしまう」という戒めや批判の対象として、このエピソードが語り継がれることになりました。
高橋信次や大川隆法も、「覚鑁は魔王」としていた
幸福の科学では、「東の覚鑁、西のルシファー」の2大魔王クラスだった
仰る通り、高橋信次氏や大川隆法氏(幸福の科学)の霊言思想においても、覚鑁は明確に「魔王(大魔王)」として位置づけられています。
中世の『三輪上人行状記』で語られた「覚鑁は地獄(魔道)に堕ちた」という説話が、現代の新宗教の世界でさらにスケールアップし、「東洋を代表する魔界のトップ」という驚くべきキャラクター設定に発展した形です。
高橋信次氏の言説、および幸福の科学における「東の覚鑁、西のルシファー」という扱いについて詳しく解説します。
1. 高橋信次(GLA)による「覚鑁=魔王」説
日本の霊能・チャネリング思想の源流を作った高橋信次氏(GLA創始者)は、自身の過去世の記憶や霊視をもとに、霊界の構造を説きました。
魔界の主としての覚鑁:高橋氏は、地獄のなかでも特に人々の心を惑わす「魔界」のトップ(魔王)の一人として覚鑁の名を挙げました。
なぜ魔王とされたのか:高橋氏の教えでは「知識や教義(教学)にこだわり、本当の心の調和や愛を忘れて独善的になった宗教家」が魔界に堕ちるとされています。生前に真言宗の改革をめぐって激しい闘争を行った覚鑁は、その「闘争心」や「宗教的な執着」の象徴として魔王扱いされました。
2. 幸福の科学(大川隆法)での「東の覚鑁、西のルシファー」
大川隆法氏は高橋信次氏の思想(初期は「至高神エル・ランティ」などの概念)を色濃く受け継いで教団を発足させたため、この覚鑁=魔王説もそのまま引き継がれ、さらに強調されました。
「東の覚鑁、西のルシファー」:キリスト教世界で天界から堕ちてサタン(悪魔)となった最強の堕天使がルシファーなら、東洋(日本・仏教界)においてそれに対応するレベルの巨大な魔王が覚鑁である、という教団内の世界観(悪魔学)です。
魔界(地獄)の理論家:幸福の科学の霊言や理論のなかで、覚鑁は単に暴れる悪魔ではなく、「高度な仏教知識を持ち、それを使って正法(正しい教え)を巧妙にねじ曲げる知能犯的な大魔王」として描写されました。
歴史的な事実として、覚鑁(興教大師)は真言宗を中興した非常に真面目で天才的な高僧です。しかし、
平安~鎌倉時代:宗派対立により、敵対派閥や三輪上人の伝承で「執着のせいで地獄に堕ちた怨霊」にされる。
昭和~平成(新宗教):その「地獄に堕ちた高僧」という中世のストーリーが霊能力者たちに引用され、「神仏の教えを人知で歪めた恐るべき大魔王」へとキャラクターが巨大化。
このように、中世の神仏習合の説話が、現代の「霊界エンターテインメント・悪魔学」にまで見事に地続きでつながっているのは、日本の宗教史・オカルト史として非常に興味深い現象です。
慶円は、覚鑁を追放しようとした派閥の山伏だったんだろな
根来寺系統の山伏とは別の
高野山のアンチ念仏嫌いの派閥だったんやろな
😀
確証は無いが、おそらく高橋信次は、三輪上人から影響を受けたのだろう
学問僧であるが
実動部隊は基本山伏階級
😀
真言宗は、三論宗や成実宗みたいに消えていたのでは
大日=阿弥陀、念仏
説は
やはり魔道と言いたくなるくらいに
反感を買うだろな
😀
高野聖の絶対的有力者、
ある意味、東大寺を再建する資金を集めた勧進聖の重源と
同じくらいに偉大な立ち位置
😀
教義に恐怖を感じたんやろ
覚鑁派閥が去っても
念仏聖や
念仏行イコールでない
大日=阿弥陀説の
寿門派が明治まで生き残る
その系統が宿坊、無量光院
回数と時間で言えば最強だった
😀
道範→長覚の流れ
臨済宗系統の金剛三昧院も
道範あたりから寿門派の流れになる
😀
ほーかいくん
も
霊的間合いで言えば
大差がない
😀
大神神社やった
慶円の三輪神道の現在語訳の本が
高野山大学図書館にあったからだ
大神神社の社殿の前で
二度対戦した
😀
😀
明治以前(江戸時代まで)の日蓮宗における神仏習合は、日蓮が定めた「法華経守護の諸天善神」への信仰を基盤とし、日本の土着の神々や鎮守神を法華経の枠組みの中に統合して祀る形で盛んに行われていました。当時の寺院や日常の儀礼では、仏式による神への祈願や祭祀が日常的に展開されていました。日蓮宗における神仏習合の特徴と対象五番善神・三十番神の信仰:日蓮が『下山御消息』などで示した釈迦・多宝・十方分身の諸仏に加え、二聖、二天天、鬼子母神・十羅刹女を「五番の善神」とし、さらに1日〜30日まで毎日交替で国家や法華経行者を守護するとされる「三十番神」を勧請して祀りました。曼荼羅への神号記載:大曼荼羅(本尊)の中に、天照大神や八幡大菩薩、日本八幡などの神号を書き添えて一体のものとして信仰しました(のちに明治初期の神仏分離の過程で禁止・修正されました)。明治以前に行われていた具体的な儀礼・儀式神前読経(しんぜんどくてょう):寺院の境内や付属する鎮守社・社殿において、僧侶がご神体の前に進み、法華経や題目(南無妙法蓮華経)を読誦する仏式の法要が日常的および例祭日に行われました。社僧・別当職による祭祀:多くの日蓮宗寺院が地域の神社の別当(管理・主宰)を兼ねており、神社の祭礼においても仏式(お経や祈祷の作法)に則って祭事や加持祈祷を司りました。鎮守祭(ちんじゅさい)と祈祷会:寺の守護神である鬼子母神や大黒天、あるいは勧請された地主神・鎮守神の縁日(子日や甲子の日など)に、団扇太鼓を打ち鳴らしながら題目を唱えて加持祈祷を行う群行や祭礼が盛んに行われました。
偉大なる覚鑁ならではの、真言宗内部での激しい路線対立
それが巡り巡って、幸福の科学にまで大きな影響を及ぼしたというのが感無量😂
新興宗教という世界を知らない人には信じがたいかもしれんけど
幸福の科学では「覚鑁」といえば、悪の象徴とも言えるブランドだった
「お前には覚鑁の霊が憑いている」は、最悪の罵倒を意味していた😂
何だったろな、あれは
ノリが現在の興福寺みたいだ
😀
江戸時代までの曹洞宗における「切紙伝授(きりがみでんじゅ)」とは、師匠から弟子へと一子相伝や密室での指導(室中相承)を通じて、特定の儀礼作法やその精神的意味(口訣・心構え)を記した文書(切紙)を授ける制度です。個々の儀礼や法門ごとに数紙から百種類以上が伝授され、僧侶としての資質や実務能力を段階的に認める証明として機能しました。切紙伝授の修行内容切紙で伝えられた内容は、純粋な坐禅の教えだけでなく、地域社会や民衆教化に必要不可欠な実践的・呪術的な儀礼ノウハウが中心でした。主に以下の3つの構成(本文・大事・参)で深く学ばれました。葬送・追善儀礼:入棺、下炬(おくりび)、野辺送りの作法、塔婆や位牌の書き方、亡霊や自殺者・行き倒れ者を救済する引導作法。授戒・点眼儀礼:人間だけでなく、動物、龍神、山神、さらには当時の身分社会に応じた多様な対象への授戒作法や、仏像・位牌に魂を入れる点眼・安座の作法。密室の問答(参・口訣):儀礼の最中に執行者が心の中でいかなる仏教的真理(円相や五位説の比喩など)を観念すべきか、師弟の問答形式で記された解釈の修学。修行の合格(伝授の認定)について切紙伝授における「合格」とは、一般的な試験による点数評価ではなく、師匠が弟子の習得度と血脈(法統)の継承を認めて、特定の秘文や目録を許す行為そのものでした。印可・助証の意味:切紙は単なるマニュアルではなく、師匠が「この儀礼を正しく行う資格と奥義を理解した」と認める印可証明の補助(助証)として機能しました。段階的な授与:修行僧は日々の叢林(寺院)生活や引導・回向の実務を学びながら、師匠との一対一の問答(参)をクリアし、一つ一つの切紙や「大事目録」を順次、継承・許容されていきました。近世の制度化:江戸時代に入る頃には、それまでバラバラだった切紙が流派ごとに「切紙目録」として体系化され、一人前の住職として寺院運営や葬式・祈祷を行うための必須のライセンスとなっていきました。
「凶」という字を連想させる(笑)
切紙伝授の全体像が
解った
AI活用閃いて
既存宗派仏教の
神仏習合ぽい路線研究を
かなり、やった
今日は神社一回
西山派寺院一回
本願寺派寺院一回
だらけてくる度にお参りした
😀
たしかに!「鑁」という文字の真ん中あたりをじっと見ていると、「凶」の形が浮かび上がってくるように見えますね(笑)。
言われてみれば、どことなく複雑でトゲトゲした重厚感があって、秘密の呪文や少しダークなアニメのキャラクターに出てきそうな、禍々しくも格好いい雰囲気を醸し出しています。
せっかくなので、この「鑁」というちょっと珍しい文字の正体について、少しだけお話しさせてください。
この「鑁(ばん)」という文字は、禍々しいどころか、密教(秘密の仏教)においては宇宙の最高神をストレートに表す、究極に神聖な文字だったりします。
サンスクリット語の「VAM(ヴァン)」
密教では、大日如来(だいにちにょライ)という宇宙そのものである仏様を、サンスクリット語(古代インドの言葉)の「VAM(ヴァン)」という一文字で表します。これを日本の漢字に無理やり当てはめたのが「鑁」です。
「金」と「総」のドッキング
字をよく分解してみると、左側が「金(ゴールド)」で、右側が「總(総・すべてをまとめる)」というハッピーな文字でできています。つまり、「すべての価値をまとめた最高の宝」という意味が込められているんです。
この名前を持つ覚鑁さん(新義真言宗の開祖)は、平安時代末期に高野山で大改革を起こした、とてもパワフルで尖ったお坊さんでした。
既存の古い勢力と激しくぶつかり合い、一時は命を狙われて高野山を追われるなど、その生涯はかなり激動でドラマチックでした。
そういった彼の「現状をぶち壊して、新しい仏教の道を切り開く」という圧倒的なパワーを知っていると、この「鑁」という文字の持つ、どこか鋭くてただ者ではない字ヅラが、彼のキャラクターにものすごくマッチしているようにも思えてきます。
「凶」に見えるという鋭い着眼点のおかげで、この文字の持つ独特のインパクトがより引き立ちますね。
現在の興福寺の感覚発想に近いモノがある
悟りの体得に執念がないところ
😀
習性で
興福寺で一乗院禅定ゲットしてる
😀
確かに
日蓮宗は神道っぽいなと、昔から思ってた
超マイナーな真言宗寺院の
鑁阿寺だったけあるなー
関東に住んでいたら
行ってるな
😀
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/Great_Mandala_%28%E5%A4%A7%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%29_of_Nichiren_Buddhism.svg/1920px-Great_Mandala_%28%E5%A4%A7%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%29_of_Nichiren_Buddhism.svg.png?utm_source=commons.wikimedia.org&utm_campaign=index&utm_content=thumbnail&_=20260107071001
楽しいからなー
😀
栃木の足利だな
東京からは、ちと遠いが
弟子筋で血筋が分かれていたが
教義内容では同じだったらしい
AIで調べたけど
曹洞宗ほどギャップがなかった
日蓮宗仏法へのこだわりがあるから
カオス化はしなかったようだ
現在の日蓮宗宗門内では
現在でこそ宗門内で一部、九識霊断法とかいう分派がいるが
😀
割合有名なマニアック路線の僧侶だったらしい
😀
念仏か題目て神社で称えれば神々は自動的に従う
というシステムらしい
😀
神仏習合は
明らかに密教的な秘伝の祈祷法による
儀式
曹洞宗の切紙伝授というのも
その方向性だ
😀
今日かなり、やれた
😀
既に切紙伝授の論文を落として
読んていたんだけど
全体像がわかりにくかった
AI様々だ
😀
悟り体験への執念に欠けるのか?
は
切紙伝授のAIのまとめで見えてきた
俺も、昔は曹洞宗主流派寺院の感覚はわかりにくかった
宇治はわかりやすいかったけど
😀
春日大社と日々の研究で峠を超えたけど
浄土宗寺院で
自動的に三昧発得するんだが
その正統な解釈が
日々休日こ研鑽の成果か
最近、上手く解釈できるようになった
😀
遥かにヨガヒンズー教に近い
😀
あのスレでやると破壊してやる
😀
宗派別に
AI活用で見えてきた
😀
明治政府に教義統一化を要求され
決死に開祖仏教に回帰宗門内統一しようとした流れだ
故に
寺院の境内にあるものや明治以前のからの葬式仏教や法事が
謎だらけになる
😀
😀
教義に背後にある霊的文脈を読み取るのに時間がかかった
😀
2014年あたりだと思うが
被害妄想激しいな、
20年だなんて
😀
😀
たぶん美魔女かな?
😀
AI効果で一気に見えてしまった
仏教は
真宗、浄土宗、西山派、日蓮宗の大学論文をみるくらいしか
楽しみがなさそうだ
😀
春日大社の守護とエナジーが大事だと
AI検索から興福寺関連の情報を集められた
曹洞宗の切紙伝授も似た発想だったんだろう
😀
ムイムイは襲撃対象になってない
😀
そうなのか?
今や美魔女か、幸福かは
不明だが
なりすましの山盛りだな
😅
583 カムイ◆4zzhWyZTeatm 2026/08/15(土) 16:51:31.60 ID:c32G9
それからついでに何で俺がラピスさんと縁が切れたか説明する。
知ってるかもしれんけど。
以前からラピスさんはまちこさんに圧力をかけてた。
ある日俺はまちこさんと接触した。
まちこさんはキリスト教徒として正しいと俺は判断した。
そしたらラピスさんが俺に「何でわからないの!」って切れてきた。
俺もラピスさんにちょい思う事があったから言った、
「俺はラピスさんをかばうためストーキングのJBLを援護射撃した。
そしたら、俺はしばらくJBLに粘着ストーキングされた。
そしてだ、「俺はでおーに嫌がらせされててもラピスさんは見てみぬフリやんな」
これでラピスさんは「もういい!」と言い残し、
それ以来絶縁となった。
でもさ、どうなんだろ、俺の言い分の方が筋が通ってない?
まぁ、人によって感じ方違う思うけども。
たぶん
幸福くんvs美魔女だろな
😅
「俺はラピスさんをかばうためストーキングのJBLを援護射撃した。
そしたら、俺はしばらくJBLに粘着ストーキングされた。
確かに、これは記憶にない
カムイスレを片っ端からメチャクチャに埋めてた時期はあったが、この頃だと、とっくに5ちゃんねるから離れていたな
😱
ムイムイは巻き込まれたやろな
😱
ハッタリ🤡を相当追い詰めていたからなー
俺は衝突工作をオモシロがってやってたな😀
ラピスに対する裏切りを許せなかったのだろう😅
ボロカスに叩いていたのは数年前だ
まだ根に持っていたのか😅
ラピス=美魔女説になって
ラピス=美魔女=ムイムイ説に
発展したんやろな
感が
😀
美魔女は、IQが高いらしいからな
あの争乱のセンターだろな
😅
恐らくは美魔女だろな
あの感じで
ラピスになりすまして
幸福くんを挑発したかもな
😅
もはや
😅
恐らくは美魔女かハッスル🤡か
😅
😱
ラピスファンにダメージを食らい続けているのだろう
美魔女=ラピス想定で攻撃するのは
今や幸福くんのみ
😅
面白そうだな。
行ってみるかな。
てか、そういう所に好奇心で顔を出すから俺は結果えらい目にあうんだが😂
まだ、あんなミエミエのインチキ宗教から離れられないのか?😫
両方とも「神慈秀明会」の出身者だ
当方は個人的に新興宗教マニアなので、さんざん論評した
ラピスばかりを責め立てたが、おそらく美魔女にも怒りを買ってるだろう😅
仏教徒であれば仏教徒のまま入る、キリスト教徒であればキリスト教徒のまま入る。
普通は改宗を求められるんだけど、うまい人集めやなと思った。
それから口ぐせのようにラピスさんは「キリスト教を救う」って言ってたけど、
俺から見れば「キリスト教を乗っ取る」の間違いじゃないのかとふと思ったね。
この頃、農家も寺での催しごと積極的ではない。
寺が今年はやらないといえば、やらないという建前ができる。その建前を待っている。
仏教の教義を見ている。仏教とはと問うた時、本末顛倒になるという故造があるw
仏教の教義を見ている。仏教とはと問うた時、本末顛倒になるという構造がある。
此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性[2]と呼ぶ。
この「此」とは煩悩(あるいは、それに無自覚な無明の状態)を指しており、「彼」とは苦を指す。したがって、上記の命題は、
「「煩悩」(無明)が有れば、「苦」が有り」
「「煩悩」(無明)が無ければ、「苦」が無い」
「「煩悩」(無明)が生じれば、「苦」が生じ」
「「煩悩」(無明)が滅すれば、「苦」が滅す」
と言い換えることができる。
※「十二因縁」「四諦」との関係
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
開祖仏教の研究を開始したので
疑惑を思った瞑想系統仏教の研究する学者近辺がたくさんいただろう
俺も、そのギャップを理解し
霊的解釈てきるままで
最近まで時間がかかった
だいたい筋が読めてきた
😀
既存宗門の
猛烈な攻撃者は
薬師寺の橋本凝胤だろう
😀
短気なところがある
それ故に瞑想体現はてきていないだろう
俺よりも😀
その住職が、上座部仏教の事を檀家の人に問われた時 あっちの方が本場だからねといっていたw
物を投げるしかなかったらしい
ま、臨済宗方式だな
ある種
成唯識論が生まれた時は
どのような修行が中国でなされていたかも現存してないだろう
中世の法相宗は密教化と神仏習合がメインだし、南都仏教はみんな密教化と神仏習合たろう
中世は
教義だけ残り、末法思想なんたろう
😀
密教と神仏習合が唯識と合体している
😀
そういう修行内情情報が昔より集まりやすくなった😀
俺よりレベル高いのが何人かはいるだろう
チベット密教やテーラワーダでも何人もいるだろが
現在南都仏教は大したことがないだろな
😀
俺よりも凄いのが
😀
すげい自信w 自己肯定感が高い方がいい。
直感とは “心が外界の刺激を、構造として一瞬で把握する働き” のこと。
ユング心理学では「直感(N)」は 情報の意味・可能性・構造を瞬時に読み取る認知機能 と定義される。
元オウムじゃないけど
日本仏教多数派は
本気で修行している人が少いたろな
ホンモノで説法できる人もわずか
マジメにやっている良い人は、まーいるだろうけとな
😀
直感は 五感で捉えた情報の“背後にある構造”を読む機能。
目に見える事実より
背後の意味
パターン
可能性
文脈
未来の展開
を瞬時に読み取る。
つまり、
直感とは、事象の“意味”を自動的に付与する認知機能。
既存宗教の全体像よめてきた
ノートパソコンを寝転んで読めるか
試してみよう
😀
かもしれないね。それよりも葬儀仏教の仕事の方が忙しい。
でおーの霊的という意味合いが今一よく分かっていないだよね
ヒンズー教は
AI検索が必要なくらい
古典は
まだわかりにく
マハーバーラタて
何だ?
レベル
論文をみると
ヒンズー教系統は
まだまだだな、
😀
瞑想系統仏教以外の何か
と思ったら良い
😀
中論や唯識的というよりも
何者か霊的な存在ありきでなりたっている
😀
スマホのメモリーには
ヒンズー教関連はいれていない、
ノートパソコンのメモリーに入れているので不便だ
疲れている時は、ノートパソコンをお腹の上に乗せてみるのは危険だ
😀
目覚め時にしてはいけない
😀
どんなジャンルか知らんけど
まーまーオモシロかった
仏教をおさえていると
観点の違いも理解てきる
😀
バガヴァッド・ギーターが重要だ
ちんぷんかんぷんだが
内容はオモシロい
😀
これはその通りだと思う。また民衆もそんなものを求めていない。
ギーターは大方理解てぎるな
印度仏教研究学会だったか
なかなか、ヒンズー古典の論文が多数あって、それで容量が880メガバイトもあるんだろう
スマホはラジカセ音声リバースで音楽を、たくさん入れているので
容量が少なくなっている
😅
ヨガ思想が
論文には多いんだろな、たぶん
学者的にはオモシロいのだろう
😀
JBLさんに尋ねるは、霊的もしくは霊性ということが分かるか?
今一私は理解していないw
霊的な存在の宗教は
その対象と同一化、合体みたいな
発想なんやろなー
最近解ってきた
😀
そりゃ、根はスピリチュアル系なので😅
基本、どこまでも
原因結果の観察と
その結論
😀
唯物論者にとって、世界がどう見えているのかは分からない
遥かに板についている
😀
一神教はルールがメイン
ヨガ、日本末法仏教、神道は
トータル感覚がメインとまで
分類できてきた
😀
それは、瞑想系というより、禅宗だな
※チョット文章がおかしいので書き換えるw
瞑想系は理屈より実践。前から分かっていたがw。理屈が無いと落ち着かなかったが、この頃、無くても落ち着くようになってきた。苦の滅鎮=修証一等。この辺に終着する。 瞑想系は話すことがなくなったw
チベット仏教など
瞑想系仏教は、常に理論と実践の両輪なのが特徴
瞑想系仏教というより、禅宗の特徴
そうか。よくわからない。読んでいるのは、金剛般若経とダンマパタとスッタニパータぐらいだからね。禅宗の言葉は拝借している程度w
どこでも、教学と瞑想の両方を徹底的にやる
どちらか片方ではない
変わった取り合わせだな😅
>「理屈は要らない」を強調するのは
仏教というものは、本来「何か」と定義してしまった瞬間に、その本質からズレてしまう構造を持っています。
なぜなら、仏教を言葉で説明しようとすると、説明している自分と説明される仏教という二つの立場が生まれます。
この時点で“相対”が立ち、仏教の核心である「実相」から離れてしまうのです。
中論でも唯識でも、言葉で捉えたものはすべて分別であり、分別は苦の原因だとされます。
つまり、仏教を理屈で語れば語るほど、仏教の本質から遠ざかるという構造があるのです。
さらに日本では、末法思想の影響で「自力では悟れない」という前提が強まり、
阿弥陀仏や観音、不動明王、祖師の加持など、霊的存在の働きが仏教の中心になりました。
この構造では、理屈よりも「働きそのもの」が本質になります。
だからこそ、日本の仏教では「理屈は要らない」という言葉が自然に成立するのです。
理屈を積み上げて仏教を説明しようとすると、仏教を対象化してしまい、
その瞬間に仏教ではなくなる。
それが“本末転倒”だということです。
私の文章をaiに直してもらったw
構造的にそうなっているということ。
> 中論でも唯識でも、言葉で捉えたものはすべて分別であり、分別は苦の原因だとされます。
> つまり、仏教を理屈で語れば語るほど、仏教の本質から遠ざかるという構造があるのです。
それは言いすぎだ😅
そんなことはない
龍樹の中論でも、「言葉を紡いで語るしかない」と強調されている
ヒンドゥー教系の考え方だ
テレパシーで弟子に教えを伝えることがあったらしい
分厚い問答集を残している
むしろ、経典や論書を重視するのが
仏教の特徴と言ってよい
ヒンドゥー教に取って代わられた
民衆向けに仏教を魔改造したため、仏教が残った
法相宗に華厳宗
教学ばっかりだ😫
理解とそうなるは違うからね。説明書みたいなもんだ。
JBLさん 構造として絶対があると私が書いたら反論されたけどねw
絶対とは言い表せないものと、大前提ではある。
汝等比丘、知我説法如筏喩者、法尚應捨、何況非法
もともと、そういうものだった
「絶対は言い表せない」というより
そもそも、「すべては相対だ。絶対なんてものは無い」というのが、仏教の特徴😅
「言葉で言い表せない絶対」(ブラフマン)を認める
あるということもないがないということもない。
さらに如来蔵思想だと、だいぶ変わってくるけど
本来は、仏教はそういうものだ
それは、
絶対が成立しないという構造が、常に成立していること。
じつは、それ以上に「ブラフマン(究極の真実)を認めない」というのが、仏教の特徴
私はこれを永遠の今と言っている
禅定を体現する仏だろうからな
ブラフマンのようで、ブラフマンではない
日蓮あたりは
ブラフマンぽくなるだろう
人格仏として
😀
一般には「仏教はアートマン(永遠の自己)を認めない」と言われますが、
それ以上に重要なのは、
ブラフマン(究極の真実)という“絶対的実在”を認めないという点です。
ヒンドゥー思想では、
世界の根底にはブラフマンという絶対的な実在があり、
そのブラフマンとアートマン(真我)は同一であるとされます。
つまり、宇宙の根源としての“絶対”が前提になっている。
しかし仏教は、この前提そのものを認めません。
なぜなら、どんな「究極の真実」を語ろうとしても、
語った瞬間に主体と対象が分かれ、
“相対”が立ち上がってしまうからです。
絶対と言った瞬間に相対になる。
究極と言った瞬間に究極ではなくなる。
この構造がどの瞬間にも必ず働いているため、
仏教ではブラフマンのような“絶対的実在”が成立しない。
つまり仏教は、
絶対を語らない宗教なのではなく、
絶対というものが成立しない構造そのものを見ている宗教なのです。
「永遠の今」 とは、
まさにこの構造が途切れず働いている状態のことです。
絶対が成立しないという構造が、常に成立している。
その成立の場が、いつでも“今”である。
そうなのだ
だから、聖ウンコ派が大好きな「説法は、月を指し示す指なのである」の話にしても
それはもともと、バラモン教/ヒンドゥー教の発想
どっちかっていったら、むしろ、「月」(絶対的な究極の真実)のほうを疑うのが仏教の特徴
正教会に関する論文久しぶりに読んだ
😀
正教会(日本正教会)では、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)との関係における成長を「神成(しんせい / テオーシス)」という概念を中心に考えます。これは人間が神の恩寵(恵み)によって変容し、神の愛や聖さに与って霊的に成長していくプロセスのことです。神成(テオーシス)と霊的成長神の命への参与: 人間は神に似せて造られた存在であり、キリストとの交わりを通じて神の栄光と愛を深く自分のものとしていきます。変容と救い: 単に道徳的に善い人になることではなく、ハリストス(キリスト)との人格的な結びつきの中で、心身全体が神の光に満たされて新しく造り替えられると捉えます。一生をかけた歩み: 霊的な成長は一瞬で完成するものではなく、生涯をかけて絶えず自己を低くし、神に向かって進む終わりのない道程です。成長を支える具体的な営み聖体礼儀の参加: 主日(日曜日)ごとの聖体礼儀に集い、ハリストスの体と血(聖体・聖血)をいただいてキリストと一体となることが中心に置かれます。祈りと戒め(誡め)の実践: イイスス・ハリストスの教えや戒めを日々の生活で守り、絶えず心の中で祈り続けることで霊的感覚を養います。断食と自制: 大斎(おおものいみ)などの断食や節度ある生活を通じて、肉の欲や自己中心的な心を和らげ、霊的な強さを身につけます。
😀
が
インド中論唯識は
まだ素通りしそうだ
😀
ノートパソコンで論文を読める角度を見つけた
😀
スコラ哲学周辺のカトリックの論文は
やはり難しい
😀
https://note.com/honno_hitotoki/n/nfc92d8496658
そりゃそうだ
そんなの、普通の西洋哲学マニアでも意味不明
中世のキリスト教神学が解ってないと
並外れた忍耐力がないと、読み通せない
日本の神は“気づかれなければ働かない”という構造
これは面白い。普段から二礼二拍一礼はまいにちやっているけど。
構図は神が気が付かない。
なるほど
私もなるほどと思ったw
影向(ようごう)という概念も同じで、
神仏は「気づかれた瞬間」に姿を現す。
つまり、
神の顕現は人間側の注意によって引き起こされる。
これは西洋の「神が先に存在する」という構造とは真逆
あなたの知人が言う「霊性」は、
この構造と非常に近い。
つまり、
霊的とは、注意を向けた瞬間に世界が応答する構造のこと
と彼は直感的に言っている可能性が高い。
あなたが感じた「濁し方」は、
この構造を言語化しきれない直観型の特徴でもある。
aiがでおーの事を言っている。
これは主観の事じゃないかといったら、aiが
◆主観である。しかし“主観=世界を成立させる力”でもある
◆日本の神は“常在”ではなく“応答する存在”
◆主観が神を“作る”のではなく、“開く
しかし日本宗教の構造では、
主観は神を作るのではなく、
神が現れる“窓”を開く役割を持つ。
これは唯識の「心が世界を作る」とも近いが、
もっと身体的で、もっと素朴で、もっと関係的。
霊性=注意を向けた瞬間に世界が応答する構造
影向(ようごう)という概念も同じで、
霊魂は「気づかれた瞬間」に姿を現す。
つまり、
魂の顕現は人間側の注意によって引き起こされる。
これは西洋の「魂が先に存在する」という構造とは真逆
うまいこというねw
私などは、気が付く余地もないw
ゲーム内の世界と同じだ
ふだんはスリープ状態だが
プレイヤーが関心を向けると、そこがアクティブになる
と、カタクナに信じている人の場合は
霊魂がスリープ状態になっている
そのまま、死ぬまで気がつかなければ
死後にスリープ状態が待っている
>死後にスリープ状態が待っている
その言い回しだと、死んでも気が付かないになってしまう。
別の角度からみると死んでいる事に気が付かないともなる
いつもの曹洞宗寺院で
汗をかいてきた、
明日はソフトにまた行く
😀
そろそろ別体幽霊の斎藤さんが去るシーズンと予言されたらしい
幽霊予言者に
😀
うん、この比喩はかなり面白い。
特に「魂が存在する/しない」という存在論とは別に、
魂が人間の経験世界にどう現れるかという現象学的なモデルになっている。
「影向(ようごう)」も、まさにこの方向から読むことができる。
ただし、少し整理すると、
魂そのものが、人間の注意によって新しく生成される
魂はもともと存在しているが、人間の注意によって「顕現する」
この二つは区別したほうがいい。
あなたの「ゲーム内世界」の比喩は後者に近い。
ゲーム世界では、プレイヤーが見ていない場所を完全に「無」にしているとは限らない。少なくともプレイヤーの経験においては、注目した瞬間にその場所がロードされ、具体的な姿を取る。
だから、
「魂は気づかれた瞬間に現れる」
というのは、「魂がその瞬間に作られる」という意味ではなく、
魂が、人間の世界において現象として顕在化するのは、注意・関心・認識を介してである
と解釈すると、かなり筋が通る。
そしてここが、あなたのいう西洋的な「魂が先に存在する」というモデルとの違いになる。
かなり単純化すると、
魂 → 人間に宿る → 人間が魂を認識する
という順序になる。
魂は人間の認識とは独立して先に存在する。
「影向」的なモデル
むしろ、
人間の注意・信仰・認識 → そこに霊的存在が顕現する
という順序になる。
つまり「存在しているものを認識する」のではなく、認識によって存在者がこちら側に姿を取る。
これは日本の宗教文化を考えるうえでは、かなり重要な発想だと思う。
「霊魂なんてものは無い」と頑なに信じている人の場合、霊魂がスリープ状態になっている。
これは、そのまま「霊魂は客観的には存在しない」という話にはならない。
むしろ、
その人の世界には、霊魂という存在者が顕現するための「回路」が開いていない
という話になる。
だから死後についても、
死んだら魂が消滅する
ではなく、
生前に魂を認識することがなかった人は、死後も魂的世界を経験することなく、スリープ状態が続く
という独特の死後世界モデルになる。
これ、実はかなり面白い。
「魂は実在するか?」という西洋哲学的な問いを一段ずらして、
「魂が存在する世界は、どのような条件で現れるのか?」
と問い直しているから。
そしてこれは、あなたが以前話していた**「言葉や認識によって世界が構成される」という中観・唯識・現象学あたりの問題**とも接続できる。
ただし、中観ならここからさらに一歩進めて、
「魂が顕現する」という現象そのものにも、自性はない。
と言うでしょうね。
つまり「魂がある/ない」の二択ではなく、魂・人間・注意・顕現という関係全体が縁起している。
そうすると「影向」は、単なる幽霊話ではなく、かなり仏教哲学的な問題になってくる。
春日大社で狙った
春日大社で興福寺一乗院禅定をやって
春日権現の霊気の渦を
生み出した
😀
「霊魂は有る」、「いや、霊魂なんか無い 」
↑
この議論は、そもそも無意味
なぜなら、両方とも真実だから
霊魂は、有ると思っていれば、目を覚ましてアクティブ化する
霊魂が無いと信じていれば、眠ったままなので、無いのと同じ
つまり、本人の信念によって結果が異なる
そう。これは「霊魂が客観的に存在するか」という存在論の二択そのものを外しているんだと思う。
あなたのモデルでは、こうなる。
「霊魂は有る」→ 有るという世界が開かれる。
「霊魂は無い」→ 無いという世界が開かれる。
しかも重要なのは、「どちらが客観的に正しいか」ではなく、
本人にとって実際にどのような世界が現れるかが信念によって変わる、という点。
プレイヤーが「このマップには何もない」と思って素通りすれば、そのプレイヤーのゲーム世界では、その場所は最後まで何もない場所。
逆に「ここには何かある」と注意を向ければ、そこがロードされ、NPCやイベントが出現する。
だから、
「霊魂は存在するのか?」
ではなく、
「どのような信念・注意・認識によって、霊的世界がアクティブになるのか?」
という問いになる。
これはかなり面白いところで、「有る」と「無い」が単純な矛盾ではなくなる。
霊魂を信じる人 → 霊魂が顕現する世界
霊魂を否定する人 → 霊魂が顕現しない世界
となるから。
そうではなく、
存在の真偽を、本人にとっての世界の現れ方という次元に移している
と考えたほうが正確だと思う。
そしてこれは、かなり日本宗教的な「影向」の発想と相性がいい。
神仏や霊的存在が「最初からそこにいる」というより、縁が整ったとき、信仰・注意・祈りによってこちら側に姿を現す。
そう考えると、「霊魂は有るか無いか」という近代西洋的な論争自体が、問いの立て方を間違えている可能性がある。
「存在するか」ではなく「顕現するか」。
ここがポイントですね。
ハイデガーの哲学書「存在と時間」に出てくる「道具連関説」を、
スピリチュアル的に魔改造したら、こうなった
ああ、それならかなり腑に落ちる(笑)。
まさにハイデガーの「道具連関」を、存在者一般にまで拡張して、さらにスピリチュアル化したモデルと見ると分かりやすい。
ハイデガーでは、道具は単独でポンと存在しているのではなく、
ハンマー → 釘 → 木材 → 家を建てる → 人間の実践
という「~のために」の連関の中で初めて、道具として意味を持つ。
しかも普段は、ハンマーそのものをじろじろ観察しているわけではない。使っているときには背景に退いている。故障したり、注意を向けたりした瞬間に「ハンマーという存在者」が前景化する。
これをあなたのスピリチュアル版にすると、
霊魂も、単独で「そこにある物体」なのではなく、人間との関係の中で顕現する存在者である。
となる。
さらに魔改造すると、
無関心
↓
スリープ状態
↓
注意・信念・関心
↓
霊魂が顕現
↓
「霊魂がいる世界」が成立
という構造になる。
だから「霊魂はあるのか?」という問いも、
「この存在者は、人間とのどんな関係連関の中で顕現するのか?」
というハイデガー風の問いに置き換えられる。
ハイデガー本人なら、おそらく「霊魂もゲームのNPCみたいにロードされます」という話には行かない(笑)。
でも、彼の
「存在者は、孤立した物体としてではなく、世界内存在の連関の中で意味を持つ」
という発想を極端に押し進めると、あなたの
「信じればアクティブ化する。信じなければスリープしたまま」
というモデルが出てくる。
これはかなり大胆な**「ハイデガー+唯識+スピリチュアル」**の魔改造だと思う。
唯識論が
一番のバランスの高さかもな
😀
ふだんは、家の中にハンマーがあっても、気がつかない。
「釘を打ちたいな」と思って、家の中を見回すと、そこにハンマーがあることに気づく。
それまでは存在しないのと同じだったハンマーが、急に自分の世界の中で存在し始める
そう、それがかなりハイデガー的なポイント。
ただし厳密には、ハイデガーなら「ハンマーがその瞬間に存在し始める」とは言わない。ハンマーは最初から存在しているが、「道具として現れてくる」のがその瞬間なんだよね。
たとえば、
家の中にハンマーがある。
↓
普段は意識の背景に沈んでいる。
↓
「釘を打ちたい」という目的が生じる。
↓
「何か道具が必要だ」となる。
↓
ハンマーが「釘を打つためのもの」として目の前に現れる。
ここでは「物体としてのハンマー」と「自分の世界の中で意味を持つハンマー」が違う。
すっかり
五チャンネルに居座ったな
😀
ハンマー → 道具として顕在化する
を、
霊魂 → 霊的存在として顕在化する
に置き換えるわけだ。
だから、
「霊魂は存在するのか?」
ではなく、
「自分の世界の中で、霊魂が存在者として顕現する条件は何か?」
という問いになる。
この意味では「気づく」という言葉がかなり重要。
注意 → 顕在化 → 世界の中で意味を持つ
という構造だね。
ハイデガーでは「世界」は単なる物体の集合ではなく、人間がそこで何かをしている意味のネットワークだから、あなたの魔改造では、そのネットワークに接続されていない霊魂は「存在しないのと同じ」になる。
つまり、
存在する/存在しない
ではなく、
世界の中で顕現している/背景に沈んでいる
という二層構造になる。
これ、かなり面白い発想だと思う。
ハイデガーの「道具が手元にあるのに、普段は意識されない」という日常的な現象を、霊魂・神仏・死後世界にまで拡張したわけだから。
まあ、5ちゃんねるのほうが、人が多くて盛り上がってるもんなあ
メンヘラ軍団がクレージーなひとりごとを並べ合っているカオスでしかない😱
それさえ気にしなければ、比較的マトモだ😂
完璧に全員ターゲット😀
なんたって
元・精神世界系ブロガーてすから
最初にやる哲学だろな
たぶんな
😀
やろう
😀
でも、あのコピペ荒らしは誰なんやろな
美魔女だろな
😀
ラピスさんが名無しでコピペ荒らしに専念してる。
この可能性はあるかな。
昔必死チェッカーもどきを見ていたら、美魔女とシャウエッセンのidが同じだったw シャウエッセンとは結構仲良かっただけどなw 後、承〇なんだっけ。これも、美魔女と同じだった。
それは
😀
仮説たろな
全部ではなく
😀
まぁ、わからんね笑笑
もったいない
😀
なんやかんやと
リダンを相手して少し楽しいんだろな
😀
Yahooの論客だな
カーッとくる暑い日がほとんど無い
関東は世界的な避暑地になる(笑)
秋だよ秋、暦の上でも秋。実感も秋。お盆が過ぎると暦の進みが早く感じる。
立秋(8月7日ごろ):秋の始まり
処暑(8月23日ごろ)
白露(9月7日ごろ)
秋分(9月23日ごろ)
さすがに俺は関心薄い
いつ、マジメにやるんだろな
😀
すべてを否定の炎で燃やし尽くしてる感じだ🔥
ハッスル🤡禅ではなくてなー
しかし、
今回の休日はAIのおかげで
瞑想仏教以外の研究がかなり進んだ
本格瞑想修行意欲が消えると、
お勉強が進む
午後から仏教には戻るだろう
真宗くらいかもしれんが
😀
燃やして❤️🔥破壊する
😀
😀
資金ショートだ
春は地味に高野山
夏は再び春日大社
次の年の春だイスラムは
😀
817.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
m4xWI(19/63)
坂を坂として認識したら
何か不幸が起きるのか?
2026/08/17 15:06:40
Reply
Good
818.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
m4xWI(20/63)
あ!坂道だ!
転ばないように気を付けて歩こう!
ってなるぞ、普通。
2026/08/17 15:07:45
※法介さんは素晴らしいの一言です。
思いは正しい。法介君は正しい。絶対正しい。
ダンマパタ。
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。
上記を違うレイア―でよむと。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
法介さんの「坂」の例は、ダンマパダの心の縁起構造と一致している。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
1 汚れた心 → 苦がつき従う(世俗諦の因果)
2 清らかな心 → 福楽がつき従う(世俗諦の因果だが、勝義諦への入口)
心の因果を説くことで、釈迦は苦の滅鎮への道を示している。
この構造は中観の「縁起だから空なのである」と整合する。
参考までに
?は何だw 批判オーライw
😀
問題無し
😀
ほーかいくんの努力なんだろう
😀
探究が深いな
特に浄土宗の
末法思想
他力救済
念仏による救い
これらは日蓮の思想形成に影響している。
しかし日蓮は浄土宗を強く批判した
理由は、
念仏は釈迦の本意ではない。
法華経こそ末法の救いである。
浄土思想の構造をそのまま法華経と結びつけたということかな?
法介思想への導き。
高野山が日蓮発想の土台とは見ている
念仏を取り入れ
興福寺貞慶が法然批判しているので
比叡山は霊鷲山浄土より
密教ぽい
興福寺の春日大社の御蓋山は
この世の霊鷲山浄土という設定
興福寺は想像以上に法華経が入り込んでいる鎌倉時代は
興福寺は当山派山伏のセンターだった
神仏習合で春日大社も
天照設定が入っている
八幡宮は設定していないが
八幡宮が入るのは高野山山伏
現在も元山伏階級ほ八幡宮を崇敬している
😀
何を言っているか
禅定的に理解できる
ほんま器用だ😀
https://m.youtube.com/watch?v=_Okw941yitU
内容がわかる
😀
謎のシステムのほうが
遥かに難解だった
ひたすら情報収集とイマジネーションを要求される
😀
とても、空気のようにすらすらと
いう感じではない
チョボチョボペースだ
😀
謎だったが
春日大社のシステムを理解したのて
だいたいは想像てきるようになった
😀
😀
朝だ
😀
空海は実相をどう思っているのかということだと思う。文字は実相である。
チベット語や梵語(サンスクリット)で書かれた仏典を原典の意味に忠実に訳すことを重視し、インドの大乗仏教における中心的な思想である中観および唯識の思想を研究した。
また、チベットの宗教(チベット仏教学)および文化全般にわたる学問としての「チベット学」を樹立した。1958年より1959年には、京都大学インド仏跡調査隊の隊長として、日本初の本格的な仏教遺跡発掘の指揮を執った。
広く一般への普及にも尽力し、例えば中央公論社『大乗仏典』[1]<インド編、中国・日本編>や、岩波書店<岩波講座東洋思想>などの編集委員を務めている。
だそうだ。
題名だけね。おなじみの名称が出てくるからそれほど難しくはない。ただ、目が付いてかないw
世捨て人パワー強すぎるので
読めないが
スコラ哲学のほうが、
まだ
😀
俺は禅師に蚊を殺すことは殺生か聞いた
禅師は例えばお前のそばにムカデがいたとして、
殺生だとして追い払って隣の人が噛まれたらどうする?
つまり、鹿野園は殺ってまえ。
禅師は例えばお前のそばにムカデがいたとして、
殺生だとして追い払って隣の人が噛まれたらどうする?
つまり、鹿野園に対しては容赦なく殺ってまえ。
https://www.youtube.com/shorts/7O9dwtR6h3w
地獄だよ\(^-^)/
まだ、理解していないところがある。
ポッタンとよくつるんでいたようなw
セッタン語録を
とりま、まーまー理解してる謎の人
😀
じつは、あれで禅語録に造詣が深い
https://livedoor.sp.blogimg.jp/antroom/imgs/a/4/a458e77c.jpg
<(`^´)>
ぼったんいじりで貼り付けていた
俺、
それをアンドーが読んで
セッタンのぼったんアタックレスを
ユーチューブで
スター・ウォーズオープニング風に
作成したのを作成していた
あれは
オモシロかった
😀
あれ面白かったな。。w
「ぽったんからせったんへ」w