法華の花道 乱舞三最終更新 2024/12/17 18:341.神も仏も名無しさんrYKxf仏教の最高峰に位置する経典『法華経』について学ぶスレです。以下に示すテンプレの内容に沿ってこのスレは運営されます。法華の花道 乱舞二https://talk.jp/boards/psy/17275199612024/09/30 13:42:0521コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.神も仏も名無しさんjOGiuスレ立てたのは〜?😃2024/09/30 14:05:543.リダン◆gEV3xsS//k8wYIrエロ和尚じゃろう2024/09/30 14:07:344.神も仏も名無しさんdVDln≫835 登り棒◆0mnwMe9WsA sage 2024/09/30(月) 10:10:55.49 ID:TO3IM≫835昔Yahoo掲示板があったころあるシングルマザーの霊能力者のスレを夜に見に行ったら次に日に、昨日訪れた人が、私の子供の心配をされていました、と書いていてズバリ見透されていましたねネット上でのことでもテレパシーは通通なんですね2024/09/30 15:38:255.神も仏も名無しさんdVDln宇宙人の教えるテレパシー術!脳内に聴こえる電気信号のような音を一つひろってその信号に思念を乗せて送るんだそうですよ2024/09/30 15:41:136.神も仏も名無しさんdVDln大谷大学https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」『大乗起信論』上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。 たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg2024/09/30 16:59:327.神も仏も名無しさんdVDln180 神も仏も名無しさん 2024/09/29(日) 02:24:52.59 ID:bxvNj2.転識得智の仕組みですが見道・修道にて、 1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、 1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。 1.-3. 意識が妙観察智へ 2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。 2.-2. 末那識が平等性智へ 3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。 3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。 4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します佛位にて 5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ 5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ 6.-1. 3.-2に同じ 7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。と、こんな感じですね。もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。<参照>遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺2024/09/30 17:00:168.神も仏も名無しさんK7WG7宝性論無ニ性と無分別https://i.imgur.com/061lvJz.jpeghttps://i.imgur.com/NWJ9RCF.jpeg2024/09/30 17:24:359.神も仏も名無しさんK7WG7180 神も仏も名無しさん 2024/09/29(日) 02:24:52.59 ID:bxvNj2.転識得智の仕組みですが見道・修道にて、 1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、 1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。 1.-3. 意識が妙観察智へ 2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。 2.-2. 末那識が平等性智へ 3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。 3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。 4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します佛位にて 5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ 5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ 6.-1. 3.-2に同じ 7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。と、こんな感じですね。もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。<参照>遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺2024/09/30 17:25:5210.神も仏も名無しさんK7WG7●唯識論で説く三性三無性は、心の空性を別の切り口から捉えた考え方である。この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。● 唯識論では【無分別智】は次のように説明される。『 境は客体、識は主体である。既に述べた【境識倶泯(グミン)】の状態では主体も客体も消え、主と客は無二一体≪心境一如≫となる 』●ここで現れる知を【無分別智】と名づける。これが無分別智の定義といってもよいだろう。●唯識論において【無分別智】は最も崇高な智と考えられ、≪ 真 如 ≫(タタター、ありのまま)とも呼ばれる。このように唯識論は禅の悟りの理論と深い関係を持っていることが分かる。この考え方と似た考え方に無学という考え方がある。●無学とはこれ以上学ぶものが無いという意味である。禅に於いては無とは究極の心的状態(悟りの状態)だと考える思想がある。この唯識思想の中で特に問題となる点は【唯識無境】という考えであろう。これは識(脳)だけ在って外界(境)は存在しないという唯識思想の考えである。現代の唯脳論に近い。しかし、唯脳論といえども外界の存在を否定してはいない。しかし、唯識思想では唯識無境と考える。現代ではこのような「唯識無境」の主張は単なる観念論であり誤りであることは明白である。頭でっかちの古代の観念論的思想であるとしか言いようが無いだろう。https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html2024/09/30 17:37:5111.神も仏も名無しさんK7WG7『大乗起信論』に次のようにあります。●眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。與外道共。若離善知識所護。則起外道見故●≪ 眞如-三昧 ≫なる者は、【見相】に住せず、【得相】に住せず、乃至≪【定を出でて】≫も亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。若し諸の凡夫、【此の三昧の法】を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。【世間の諸≪禪三昧≫】を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋属(ケイゾク)するを以て、外道と共なり。若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。ーーー≪ 眞如-三昧 ≫と世間の諸≪禪三昧≫は違うと言うています2024/09/30 17:45:1612.神も仏も名無しさんQc6mUウダーナヴァルガ「涅槃」虚空も無く(空間が無い)、太陽も存在せず、月も存在しない(太陽と月の出没で日にちの経過を知る。つまり時間が無い)ところのその境地を、わたくしはよく知っている。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。2024/10/01 02:48:3213.エロ和尚◆ERO.Kk3nCA0QSif>>3ワシは勃起してないぞ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏2024/10/01 08:26:1614.神も仏も名無しさんpfoG6此縁性縁起此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、 此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。 此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、 此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。 このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性と呼ぶ。2024/10/01 17:54:5915.神も仏も名無しさん5woRn●「空・仮(げ)・中」これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。2024/10/01 19:03:1616.神も仏も名無しさん5woRn●この「空・仮・中」を、「三諦(さんたい)」(三つの真理)と言って特別重視したのが天台であった。 中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して「次第三観」「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と「円融(えんゆう)三諦」「一心三観(いっしんさんがん)」を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。●すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである(「次第三観」・「隔歴三諦」)。 それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。2024/10/01 19:08:0817.神も仏も名無しさん5woRn●真俗「二諦」これも『中論』に説かれる中観派の代表的思想。 空海は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論とも、この「二諦」を説くのが「宗」(主旨)だと言っている。龍樹は、相対的な「空」の論理を徹底した結果、釈尊のサトリであった「四諦」・「八正道」や解脱・涅槃さえも相対化し、その執著を否定しなければならない論理的なジレンマに陥った。●そこで、サトリなどの世界を絶対化して「真諦(しんたい)」(「勝義諦(しょうぎたい)」・「第一義諦(だいいちぎたい)」)とし、釈尊の説法のようにコトバによって説かれた真理の世界を「俗諦(ぞくたい)」(「世俗諦(せぞくたい)」)とした。●これによって「真諦」はコトバを超えた「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」の絶対の真理だから二項対立の相対とはならなくなった。2024/10/01 19:12:3118.神も仏も名無しさん5woRn●縁起説あれこれ釈尊の「十二因縁」にはじまる縁起説は、実は仏教教理の中心思想の一つで、存在論や認識論や空間論あるいは「法界」論として仏教思想史を縦横に流れ、最終的には空海の「六大縁起」に収まるのである、ちなみに主な縁起説についてここでふれておく。先に述べたように、●釈尊は「十二因縁」(「此縁性縁起」)を説いて「無明」~「老死」の苦の連鎖を滅した。●小乗のアビダルマは、釈尊が「十二因縁」に説いた煩悩は、「三世」にわたっての業因によるものとした(「業感(ごうかん)縁起」)。●大乗の中観派は対立的な二項による「相依性縁起」を言い、●唯識派はすべての存在や事象は「アーラヤ識」の顕現に過ぎないとした(「阿頼耶識縁起」・「頼耶識縁起」)。2024/10/01 19:16:1819.神も仏も名無しさん5woRn●さらに『大乗起信論』では、すべての存在や事象は「真如」(「如来蔵」)が縁に従って顕れたものと言い(「真如縁起」・「如来蔵縁起」)、●華厳は「法界」そのものが「真如」であり、すべての存在や事象は互いに相入し合って重々無礙であると言った(「法界縁起」)。●その上に立って、空海は、「法界」は「真如」のような抽象的なものではなく、実在の地・水・火・風・空・識の「六大」から成り、その「六大」が清浄の故に融通し合っていて無礙であり、≪「法界」即ち大日如来≫も「六大」所成であり、実在の故に色や形を有していて、「阿字」で言語化もできるとした(「六大縁起」)。2024/10/01 19:18:5020.神も仏も名無しさんANb0h●「空・仮(げ)・中」これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。2024/10/05 21:17:1221.神も仏も名無しさんQxZdV井上老師は小柄ではあるがとても八十三歳とは思えないほどお元気で声に力がこもっていた。「すべてのものはそれぞれにおいてそのもので解決がすんでおり、それ故にすべてのものは存在しているのだから、何ひとつ疑うものはないんですわ。そして、これほど確かな事実はないんですよ」一度聞いたぐらいではなんのことかさっぱりわからない。怪訝な顔をしていると、いきなりポンと両手を打たれ、「これはなんですか?」と聞かれる。まるで狐にだまされているようだ。「はあ?なんですか?」「あなたが聞こうと思わんかっても、この音はあるでしょうが?」「......?」「ポンという音は事実で、これ自体には意味がないのにあなたは考えようとされる。考える以前にこの音はあるでしょうが。自分が聞いておるんじゃない、ただ聞こえておるのです。つまりこの音は自分を離れた活動者なのです」「......?」「坐禅をすればわかります。すべての作用が観念的なものではなく、本質的に無我なものであるということが解りますよ。ひとつやってみてください。」更に断片的に印象に残っている言葉を五つ六つ拾ってみると、「人は生まれながらに悟っておる」「人には悩み苦しみといった煩悩はもともとない」「人間的見解をするから真実がわからないのである」「人間の身体はもともと自我のない存在者なのである」「自分が、自分が、という自我意識がない世界が悟りである」「坐禅をするには悟るという意識さえ捨てなければならない」横尾忠則『我が坐禅体験記』より2024/12/17 18:34:23
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以下に示すテンプレの内容に沿ってこのスレは運営されます。
法華の花道 乱舞二
https://talk.jp/boards/psy/1727519961
😃
≫835
昔Yahoo掲示板があったころ
あるシングルマザーの霊能力者のスレを夜に見に行ったら
次に日に、昨日訪れた人が、私の子供の心配をされていました、と書いていて
ズバリ見透されていましたね
ネット上でのことでもテレパシーは通通なんですね
脳内に聴こえる電気信号のような音を一つひろって
その信号に思念を乗せて送るんだそうですよ
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html
「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」
『大乗起信論』
上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。
たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。
https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。
<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺
無ニ性と無分別
https://i.imgur.com/061lvJz.jpeg
https://i.imgur.com/NWJ9RCF.jpeg
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。
<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺
この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。
遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、
それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、
存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。
それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。
それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。
普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。
しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。
● 唯識論では【無分別智】は次のように説明される。
『 境は客体、識は主体である。
既に述べた【境識倶泯(グミン)】の状態では
主体も客体も消え、主と客は無二一体
≪心境一如≫となる 』
●ここで現れる知を【無分別智】と名づける。
これが無分別智の定義といってもよいだろう。
●唯識論において【無分別智】は最も崇高な智と考えられ、
≪ 真 如 ≫(タタター、ありのまま)とも呼ばれる。
このように唯識論は禅の悟りの理論と深い関係を持っていることが分かる。
この考え方と似た考え方に無学という考え方がある。
●無学とはこれ以上学ぶものが無いという意味である。
禅に於いては無とは究極の心的状態(悟りの状態)だと考える思想がある。
この唯識思想の中で特に問題となる点は【唯識無境】という考えであろう。
これは識(脳)だけ在って外界(境)は存在しないという唯識思想の考えである。
現代の唯脳論に近い。
しかし、唯脳論といえども外界の存在を否定してはいない。
しかし、唯識思想では唯識無境と考える。
現代ではこのような「唯識無境」の主張は単なる観念論であり誤りであることは明白である。
頭でっかちの古代の観念論的思想であるとしか言いようが無いだろう。
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html
●眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。
所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。
無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。
與外道共。若離善知識所護。則起外道見故
●≪ 眞如-三昧 ≫なる者は、
【見相】に住せず、【得相】に住せず、
乃至≪【定を出でて】≫も亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。
若し諸の凡夫、【此の三昧の法】を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。
【世間の諸≪禪三昧≫】を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋属(ケイゾク)するを以て、外道と共なり。
若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。
ーーー
≪ 眞如-三昧 ≫と世間の諸≪禪三昧≫は違うと言うています
虚空も無く(空間が無い)、太陽も存在せず、月も存在しない(太陽と月の出没で日にちの経過を知る。つまり時間が無い)ところのその境地を、わたくしはよく知っている。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
ワシは勃起してないぞ
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、 此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。 此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、 此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性と呼ぶ。
これも『中論』に説かれる中観思想で、
すなわち、「八不中道」でもわかるように、
いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、
存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。
だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。
相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。
中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、
龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して
「次第三観」
「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と
「円融(えんゆう)三諦」
「一心三観(いっしんさんがん)」
を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。
●すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、
慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、
「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである
(「次第三観」・「隔歴三諦」)。
それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、
それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。
これも『中論』に説かれる中観派の代表的思想。
空海は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論とも、この「二諦」を説くのが「宗」(主旨)だと言っている。
龍樹は、相対的な「空」の論理を徹底した結果、
釈尊のサトリであった「四諦」・「八正道」や解脱・涅槃さえも相対化し、その執著を否定しなければならない論理的なジレンマに陥った。
●そこで、サトリなどの世界を絶対化して
「真諦(しんたい)」(「勝義諦(しょうぎたい)」・「第一義諦(だいいちぎたい)」)とし、
釈尊の説法のようにコトバによって説かれた真理の世界を
「俗諦(ぞくたい)」(「世俗諦(せぞくたい)」)とした。
●これによって「真諦」はコトバを超えた「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」の絶対の真理だから二項対立の相対とはならなくなった。
釈尊の「十二因縁」にはじまる縁起説は、
実は仏教教理の中心思想の一つで、存在論や認識論や空間論あるいは「法界」論として仏教思想史を縦横に流れ、
最終的には空海の「六大縁起」に収まるのである、
ちなみに主な縁起説についてここでふれておく。
先に述べたように、
●釈尊は「十二因縁」(「此縁性縁起」)を説いて
「無明」~「老死」の苦の連鎖を滅した。
●小乗のアビダルマは、釈尊が「十二因縁」に説いた煩悩は、「三世」にわたっての業因によるものとした(「業感(ごうかん)縁起」)。
●大乗の中観派は対立的な二項による「相依性縁起」を言い、
●唯識派はすべての存在や事象は「アーラヤ識」の顕現に過ぎないとした(「阿頼耶識縁起」・「頼耶識縁起」)。
すべての存在や事象は「真如」(「如来蔵」)が縁に従って顕れたものと言い(「真如縁起」・「如来蔵縁起」)、
●華厳は「法界」そのものが「真如」であり、すべての存在や事象は互いに相入し合って重々無礙であると言った(「法界縁起」)。
●その上に立って、空海は、「法界」は「真如」のような抽象的なものではなく、実在の地・水・火・風・空・識の「六大」から成り、
その「六大」が清浄の故に融通し合っていて無礙であり、
≪「法界」即ち大日如来≫も
「六大」所成であり、実在の故に色や形を有していて、「阿字」で言語化もできるとした(「六大縁起」)。
これも『中論』に説かれる中観思想で、
すなわち、「八不中道」でもわかるように、
いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、
存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。
だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。
相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。
「すべてのものはそれぞれにおいてそのもので解決がすんでおり、それ故にすべてのものは存在しているのだから、何ひとつ疑うものはないんですわ。そして、これほど確かな事実はないんですよ」
一度聞いたぐらいではなんのことかさっぱりわからない。
怪訝な顔をしていると、いきなりポンと両手を打たれ、「これはなんですか?」と聞かれる。
まるで狐にだまされているようだ。
「はあ?なんですか?」
「あなたが聞こうと思わんかっても、この音はあるでしょうが?」
「......?」
「ポンという音は事実で、これ自体には意味がないのにあなたは考えようとされる。考える以前にこの音はあるでしょうが。自分が聞いておるんじゃない、ただ聞こえておるのです。つまりこの音は自分を離れた活動者なのです」
「......?」
「坐禅をすればわかります。すべての作用が観念的なものではなく、本質的に無我なものであるということが解りますよ。ひとつやってみてください。」
更に
断片的に印象に残っている言葉を五つ六つ拾ってみると、
「人は生まれながらに悟っておる」
「人には悩み苦しみといった煩悩はもともとない」
「人間的見解をするから真実がわからないのである」
「人間の身体はもともと自我のない存在者なのである」
「自分が、自分が、という自我意識がない世界が悟りである」
「坐禅をするには悟るという意識さえ捨てなければならない」
横尾忠則『我が坐禅体験記』より