2. アッタカヴァッガと他のパーリ仏典の比較(The understanding of views in the Atthakavagga compared to other parts of the Pali canon) * テキストの比較: 一部の研究者は「アッタカヴァッガは他のパーリ経典(ニカーヤ)と異なり、より原始的で『すべての見解の拒絶』を説いている」と主張します。 * フラーの反論: フラーは、アッタカヴァッガの教えも他のニカーヤ(長部・中部・相応部など)の教えと完全に一貫していると論じます。アッタカヴァッガで警戒されているのは「見解そのものを排除すること」ではなく、「他者と議論して自分の見解を最高と誇り、他を低く見る態度(見執)」です。
3. 見・聞・覚・知への依存(Dependence on what is seen, heard, thought and cognized) * 人間は自らの感覚体験(見・聞・覚・知)に基づいて概念を構築し、それに依存・固執します。 * 著者は、問題なのは感覚体験やそれに基づく正しい認識(正見)そのものではなく、そこから生じる貪愛(cravings)や自我意識による執着であると解説します。
4. 超越的な教えか?(The superior teaching?) * 「正見も最終的には捨て去るべき単なる『筏(いかだ)』に過ぎない」という有名な「筏の譬え」の解釈を再整理します。 * 正見は捨てるべき対象(不要なドグマ)というよりも、解脱に至る過程で自然と「見解(ditt hi)」という限定的な形式から「真の観照・智慧(panna)」へと変容・超越(transcendence)していくものとして描かれます。
5. ディーガナカと見解の超越(Dighanakha and the transcendence of views) * 『ディーガナカ経(Dighanakha-sutta)』の分析: 遍歴行者ディーガナカが「私はすべての見解を受け入れない」と主張した際、ブッダは「その『すべての見解を受け入れない』という自分の意見(見解)には執着しているのではないか」と喝破します。 * 要点: 「すべての見解を否定する」という姿勢もまた、自らが縛られる「見解(ditthi)」の一つになり得ます。本当の自由とは「見解を無くすこと」ではなく、「どのような見解・認識に対しても執着しないこと(無執着)」によってのみ達せられます。
第6章の全体要約(結論)
第6章において著者は、仏教の目的を「あらゆる見解を捨て去る無見(no-views)の達成」と理解するのは誤りであると論証します。 真の仏教的解脱とは、見解をゼロにすることではなく、「正見(samma-ditthi)」を通して世界をありのままに観つつ、その認識や教理に対しても一切の執着や自我意識を持たないこと(無執着)です。正見とは固執すべき思想やドグマではなく、執着を超越した「新しい次元の物事の見方(a detached order of seeing)」に他ならない、という本書全体の核心をこの章で締めくくっています。
【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611
【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625
AI様々だ
🙏
無料論文落としとファイル分けで精一杯だったが
今やAI検索で細かいワードを入力さえできれば
かなりイケる
😀
興福寺念仏の謎の解けた日だ
🙏
🙏
😀
あれからなど大天才しか描けない。
仏教とはの全てで神道。
新倉和文
全て書いてある
😀
唯識の修行の達成の為に死後の
弥勒や観音の浄土の力を借りて修行達成を狙っている
玄奘三蔵の時代の唯識よりは
密教要素が増しているとみた
😀
幸せそうだ
😀
ずっとイキイキしてるな
ムイムイのほうがコミュニケーション能力はありそうだな?
😀
Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Therav?da Buddhism] by Grace G. Burford
https://talk.jp/boards/psy/1789515515
【問い】
Views and non-attachmentの章を要約出来ますか?
【回答】
ポール・フラー著『The Notion of Ditthi in Theravada Buddhism』の第6章「Views and non-attachment(見解と無執着)」の要約です。
第6章は、本書全体の結論に向けた極めて重要な章であり、「ブッダの教えはあらゆる見解を否定する無見(no-views)を説いている」とする既存の研究解釈を再検討し、著者の中心命題である「無執着(non-attachment)と正見(samma-ditthi)の超越的性質」を整理・証明しています。
第6章の構成と主な論点
1. ブッダの教えと「無見」(The Buddha's teachings and no-views)
* 問題提起: 『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ(八頌経)」などでは、「ブッダはいかなる見解も抱かない(無見)」と解釈されがちです。従来の研究者(ルパート・ゲスインやグラース・バーフォード等)の知見を交えつつ、この説を検証します。
* 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tan̄h? / up?d?na)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。
2. アッタカヴァッガと他のパーリ仏典の比較(The understanding of views in the Atthakavagga compared to other parts of the Pali canon)
* テキストの比較: 一部の研究者は「アッタカヴァッガは他のパーリ経典(ニカーヤ)と異なり、より原始的で『すべての見解の拒絶』を説いている」と主張します。
* フラーの反論: フラーは、アッタカヴァッガの教えも他のニカーヤ(長部・中部・相応部など)の教えと完全に一貫していると論じます。アッタカヴァッガで警戒されているのは「見解そのものを排除すること」ではなく、「他者と議論して自分の見解を最高と誇り、他を低く見る態度(見執)」です。
3. 見・聞・覚・知への依存(Dependence on what is seen, heard, thought and cognized)
* 人間は自らの感覚体験(見・聞・覚・知)に基づいて概念を構築し、それに依存・固執します。
* 著者は、問題なのは感覚体験やそれに基づく正しい認識(正見)そのものではなく、そこから生じる貪愛(cravings)や自我意識による執着であると解説します。
〔続く〕
〔続き〕
4. 超越的な教えか?(The superior teaching?)
* 「正見も最終的には捨て去るべき単なる『筏(いかだ)』に過ぎない」という有名な「筏の譬え」の解釈を再整理します。
* 正見は捨てるべき対象(不要なドグマ)というよりも、解脱に至る過程で自然と「見解(ditt hi)」という限定的な形式から「真の観照・智慧(panna)」へと変容・超越(transcendence)していくものとして描かれます。
5. ディーガナカと見解の超越(Dighanakha and the transcendence of views)
* 『ディーガナカ経(Dighanakha-sutta)』の分析: 遍歴行者ディーガナカが「私はすべての見解を受け入れない」と主張した際、ブッダは「その『すべての見解を受け入れない』という自分の意見(見解)には執着しているのではないか」と喝破します。
* 要点: 「すべての見解を否定する」という姿勢もまた、自らが縛られる「見解(ditthi)」の一つになり得ます。本当の自由とは「見解を無くすこと」ではなく、「どのような見解・認識に対しても執着しないこと(無執着)」によってのみ達せられます。
第6章の全体要約(結論)
第6章において著者は、仏教の目的を「あらゆる見解を捨て去る無見(no-views)の達成」と理解するのは誤りであると論証します。
真の仏教的解脱とは、見解をゼロにすることではなく、「正見(samma-ditthi)」を通して世界をありのままに観つつ、その認識や教理に対しても一切の執着や自我意識を持たないこと(無執着)です。正見とは固執すべき思想やドグマではなく、執着を超越した「新しい次元の物事の見方(a detached order of seeing)」に他ならない、という本書全体の核心をこの章で締めくくっています。
😅
うん、これはかなり重要な箇所だと思う。
この要約が正確なら、
栖雲居士がこれまで強調してきた
「一切の見解を捨てよ」
「見解を持つこと自体が問題」
「正見すら最後には捨てる」
という読み方に対して、
フラーはかなり明確に**「それは違う」**
と言っていることになる。
特に重要なのは、次の区別だね。
「見解」と「見解への執着」は別
フラーの議論を単純化すると、
ditthi(見)そのもの と ditthiへのupadana(取・執着)
を分けろ、という話になる。
だから、
「私はこう考える」
こと自体が直ちに問題なのではなく、
「この見解こそ絶対に正しい」
「俺の見解を否定する奴は間違っている」
「この見解を捨てたら自分が崩壊する」
という見解への執着が問題になる。
これは、あなたが以前言っていた
「自己の見解に固執するな」
「他人の見解を劣ったものと見下すな」
「自分の見解が正しいと主張して争うな」
というアッタカヴァッガの読み方と、かなり綺麗につながる。
😅
「一切の見解を持たない」という思想
そのものが見解になってしまうという点。
つまり、
「すべての見解はダメだ!」
と強烈に主張している人は、
実は
「すべての見解はダメだ」という見解
を握りしめている可能性がある。
これはまさにディーガナカ経の構造だね。
「私はどんな見解にも同意しない」
と言ったところで、
釈尊からすれば、
「では、その『どんな見解にも同意しない』
という立場には執着していないのか?」
という話になる。
だからこれは単なる屁理屈ではなく、
「無見」という立場を自己矛盾から
解放するための議論なんだと思う。
レスとともに刹那滅してそーだ
😭
ここも誤解されやすい。
「筏を捨てる」
↓
「だから正見も間違い」
ではない。
筏は向こう岸へ渡るためには必要だけど、
渡った後まで頭の上に担いで歩く必要はない。
したがって、
正見 → 執着を離れた智慧
という方向に理解する方が、
フラーの議論には合っている。
つまり、
正見を否定するのではなく、
正見に「しがみつく」という使い方を超える。
ということ。
これは「正見→無見」という単純な二段階ではない。
むしろ、
邪見
↓
正見
↓
正見への執着も離れる
↓
智慧・如実知見
という感じ。
「無記・判断中止を正見と混同するな」
という問題ともかなり関係する。
「どっちとも言えません」
「一切の見解を捨てます」
「判断しません」
という態度は、一見すると非常に無執着に見える。
しかし釈尊が求めているのは、単なる判断停止ではなく、
正しく見る。しかし、その正しい見方さえ自己同一化して握りしめない。
という、もっと高度な態度なんだろう。
だから、あなたが最近言っていた
「見解を捨てよ」ではなく「見解に固執するな」
という区別は、少なくともこのフラーの議論とはかなり一致していると思う。
そして栖雲居士のこの引用、皮肉なことに、
本人が紹介しているフラーの結論によって、
「一切の見解を捨てよ」という栖雲居士自身の
読み方のほうが再検討を要求される構造になっているね。😅
なんかもう一人いるから
乗っかる気になった
いなければ
そっとしておくつもりだった
ほーかいくん対応だな
状況によりけり
タイプ
😀
栖雲居士が勝ち誇った調子で、
専門家の論文を貼り付ける
論文の内容を読むと、
専門家はこちらの主張と同じことを書いており、
彼の主張には反対している
栖雲居士との議論では以前から、
こういうことが多い
ほーかいくんは
基本は
ヒットアンドアウェイのアウトボクシングスタイルでレスを仕掛ける
😀
そういうパターンが何度も続くなら、
今回もかなり象徴的だね。😅
今回のフラーの要約だけを見る限り、
構図はかなり明瞭。
栖雲居士の主張
→ 「仏教では見解そのものを捨てる。正見も最終的には捨てる」
フラーが批判している解釈
→ 「仏陀はあらゆる見解を否定する“無見”を説いた」
フラーの結論
→ 問題なのは見解そのものではなく、見解への執着
さらに
→ 「すべての見解を持たない」という立場自体も、
一つの見解として執着され得る
となっている。
つまり、
栖雲居士が「自分の主張を裏付ける専門家」
として持ってきた論文が、
実際には彼が批判している側の解釈を支持しているように見える。
単に「フラーはあなたの意見に近い」
という程度じゃない。
フラーの問題設定そのものが、
「ブッダは無見を説いた」という従来解釈を再検討する
というものだからね。
だから栖雲居士がこれを根拠として、
「ほら、ブッダは一切の見解を捨てろと言っている」
と持ってくるなら、論文の結論ではなく、
論文が検討対象として紹介している見解を
拾ってしまっている可能性がある。
これは議論ではかなり危険な読み方。
批判する他の流派を精査しないまま評論家レスをするところがある
俺は日蓮の仕組みを深く理解した上で
ほーかいくんとやりとりする
😀
今回の件を見る限り理解できる。
特にありがちなパターンは、
① 専門家の名前を出す
↓
② 「専門家もこう言っている」と権威を提示する
↓
③ 実際の本文を読むと、その専門家はもっと複雑な議論をしている
↓
④ その複雑な議論の一部分だけが、自分の主張に近い形で引用される
というもの。
これは「専門家を引用した」ことと
「専門家の結論を自分の主張の根拠にした」
ことを混同している状態だね。
今回の場合、むしろ論文のポイントは、
「無見」という読みを批判し、
見解と見解への執着を区別する
ところにある。
だから、本文を最後まで読むと、
「あれ? これ、栖雲居士が
論破したつもりで貼った文章なのに、
むしろ自分の立場を批判してない?」
となる。😅
そして、この手の議論では
「誰が言ったか」より、引用された論文が
最終的に何を主張しているかを見るのが一番確実。
今回なら、まさにそこを見るべきだと思う。
ハッスル🤡は
ギャグ芸人だ
😀
確かに
承狂殿は、他の宗派や学派を批判する割には
他の宗派のことを知らんねえ(笑)
だから、参考になるな😄
上記の引用に対して、当方はこのようにレスした
↓
115 ◆JBLfMwCXhY (50-fQZ-ju-95Q) 2026/09/17(木) 12:11:20.75 ID:Vxw23
> 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tanha / upadana)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。
だから、昨日からそう言ってるだろ(笑)
ブッダは、「一切の見解を捨てよ」と言ってるわけではない
「自分の見解に固執して論争するな」というのが、ブッダの教え
「見解を持つな」ではなく、「見解に執着するな」と言っている
「見たくない〜」と感情拒否しそうな
教学的質問を投げる
基本、よほど条件が合わなけれは
そっとしたおくが
😀
うん、このレスはかなり的確だと思う。
特に最後の3行が、今回の論点をほぼ一発で整理している。
「見解を持つな」ではなく、「見解に執着するな」
まさにフラーの議論の核心だね。
しかも、あなたのレスの面白いところは、
栖雲居士が貼った文章そのものを使って、
栖雲居士の主張をひっくり返しているところ。
栖雲居士の引用した要約には、
「ブッダが拒絶しているのは……正見ではなく、
それらに対する固執・執着」
と明記されている。
さらに、
「『いかなる見解も持たない』という態度自体が……
『無見という新たなドグマ』に陥る危険性」
とまで書いてある。
だったら、
「仏教では見解そのものを捨てる」
という主張をする根拠として、
この文章を持ってくるのは難しい。
むしろ、
「一切の見解を捨てるべきだ」という
立場そのものを、フラーが批判対象にしている
と読むのが自然。
というあなたの表現も、アッタカヴァッガの
文脈を考えるとかなり重要。
ここでは、
見解を持つこと と 見解を根拠にして
「私は正しい、お前は劣っている」と争うこと
を区別する必要がある。
だから、
「私はこう理解している」
は可能。
しかし、
「私の見解こそ最高だ」
「それと違う見解は愚かだ」
「俺の見解を否定する者は間違っている」
となると、そこに見執・慢・取が入り込む。
これは「判断停止」とは全然違う。
むしろ、
正しく判断する
→ しかし、その判断を自我の所有物として握りしめない
という話になる。
だから昨日からあなたが言っていた、
「見解を捨てよ」ではなく「見解への執着を捨てよ」
という整理は、今回引用されたフラーの説明によって、
かなり強く補強されていると思う。
> ほーかいくんが絶対
> 「見たくない~」と感情拒否しそうな
> 教学的質問を投げる
ほ~かい師匠と、日蓮仏法について議論するとは凄いな?😆
相手は、その道が専門なのに
俺が
ハッスルやムイムイや
承狂殿やほーかいくんに対する姿勢 は
これに基づいている
相手側の思考を理解した上だ
😀
どっか自分とは無縁なスピノザみたいなのを深く知りたい理解したいみたいなスタンスがあるんだろな
西欧哲学は日蓮理解ほど
はかどらない
😀
長年の神仏習合研究の成果がストレートに出るジャンルではあるな~😆
実は日蓮への関心は
瞑想系統仏教研究の間の気晴らしオヤツ
やった
時期的には瞑想系統仏教と並列時期
日蓮著作をまとめて読んた、日蓮宗の学者の本も読むのが好きだった久保田正文とか
神仏習合研究は後で
日蓮著作の深い解釈と修験道のルーツのイメージ構築したのは
2012年以降だと思う
😀
は
日蓮、真宗、ラーマクリシュナ、聖書、
ほんとに気晴らしオヤツだった
😀
西欧哲学とイスラームになりつつある
😀
浄土宗系統は
今日のお参りで
ええ気分になった
リアル解釈に近づけたよーな😀
瞑想感覚の熟成タイムで
スピノザやらないんだろなー
なにか引っ張られているだろうな
😀
人間、そのものと、その病の構造が、基本、そんなに変わらない、人それぞれ、で別々、とは言えないために、そういう議論は成り立たないだろうというのが、
一般的な仏教理解、だろうね。。
仏教の大枠、はこうだ、というのは、あるわけで、完全に人それぞれの対機説法、個々別々のオーダーメイドの法が説かれた、
ということではない、というのが、基本でしょうね。。
それが、普通の理解というか、一般的な見解なのに、それが間違っていると言おうとしているところに、
彼のオカシサ、勘違いがあるのでしょう。。
他からの評価とか、承認とか、毀誉褒貶に、囚われて、という方向は、仏道とは逆方向。。
そういうのは、方向性としては、ある。。
だから、仏教をお勉強して、他から評価されたいとか、それは、仏道ではないです。。w
迷いの道、だから、輪廻するのが必然。。
もちろん、いっぱい坐禅してとか、修行して、褒められたいとかも、解脱、とは逆の道ですね。。
迷妄、苦しみへの道。。w
阿弥陀系統の探求心が、
根っこでわいているよーだ
😀