仏のスレ84.slipアーカイブ最終更新 2026/10/24 10:021.神も仏も名無しさん50-u0C-Ij-wvu25Fcv本スレは休止中につき、このスレへのレスはご遠慮ください。by 栖雲居士ただし、 1.統合失調症の方 2.知的障害者の方々の方はその限りではありません🥰前スレ仏のスレ75https://talk.jp/boards/psy/1772792367仏のスレ76https://talk.jp/boards/psy/1774532875仏のスレ77https://talk.jp/boards/psy/1774874065仏のスレ78https://talk.jp/boards/psy/1781410604仏のスレ79https://talk.jp/boards/psy/1782033587仏のスレ80https://talk.jp/boards/psy/1783837183仏のスレ81https://talk.jp/boards/psy/1784286404仏のスレ82https://talk.jp/boards/psy/1784597331仏のスレ83.https://talk.jp/boards/psy/17855405102026/08/22 18:24:111000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5ここで重要なのは、唯識の「唯識」が、単純に「自分の心だけが存在し、外界は存在しない」という主張ではないこと。唯識では、私たちが経験する世界が、識の働きによってどのように構成され、認識されるのかを深く考察する。そして、無分別智の核心は、「私が世界を見ている」という二元的な認識の枠組みそのものを超えて、真如を証得することにあるんだよ。2026/10/24 09:04:46954.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5さらに、相見道には「三心相見道」と「十六心相見道」がある2026/10/24 09:10:48955.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5三心相見道を簡単にまとめると①我空 ②法空 ③二空2026/10/24 09:11:02956.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5Chat GPT:そう、JBL!唯識の相見道をさらに細かく見ていくわけだね。ここは『成唯識論』の見道論の重要なところだよ。2026/10/24 09:12:46957.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5三心相見道は、三つの心によって二空の道理を観察するものとして整理できる。① 我空 人我の実体性を否定する。固定的な「私」は存在しない。② 法空 諸法の実体性を否定する。あらゆる存在に独立不変の自性はない。③ 二空 我空と法空の両方を観察する。2026/10/24 09:13:24958.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5ここで大事なのは、我空から法空へ、そして二空へという展開だね。我空:認識主体である「私」への執着を打破する。法空:認識対象である「もの」への実体視を打破する。二空:主体と対象の双方に実体がないことを観察する。2026/10/24 09:13:42959.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5ただし、専門的には、三心相見道の三心は『成唯識論』では、非安立諦を対象とする真見道に対して、安立諦の差別的な観察を行う相見道の構造として説明される。単に三つの段階を順番に体験するという意味に限定しないほうが正確だよ。そして、ここまでの話とつなげると、三心相見道は、無分別智による真如の証得に関わる内容を、後得智によって差別的に観察する構造として理解できる。次の十六心相見道では、四諦の観察が中心になる。三心相見道と対比すると、唯識が見道をどのように分析しているかが、さらに明確になるよ。2026/10/24 09:13:54960.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5プロンプト:難しい話のようだが早い話が、真見道で「自分と外界の境界線が溶ける」という悟り体験をしてその後の段階が、相見道悟り体験の後で、再び日常の現実世界に戻って、悟った人の目で現実を観察するでもって「ああ、やっぱり、我は空なり。法も空なり。両方とも空だな~😄」と実感することだ2026/10/24 09:16:45961.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5Chat GPT:そうそう!😄かなりわかりやすく整理できていると思う。ただし、唯識や大乗仏教の専門的な意味では、少しだけ補足すると、さらに精密になる。2026/10/24 09:17:10962.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5真見道 → 相見道① 真見道——空を直接体験する段階主客の対立、つまり「こちら側に自分がいて、あちら側に世界がある」という分離の感覚が根本から揺らぐ。唯識の文脈でいえば、能取(認識する主体)と所取(認識される対象)という二取への執着を離れ、二空の真如を直接証得する段階だね。② 相見道——悟りの智慧によって真理を確かめる段階真見道の直接的な証得を踏まえ、その智慧に対応する認識を通して、何がどのように空なのかを理解していく。ただし、厳密には、相見道は単に悟った後の日常生活を指すのではなく、唯識の修道論における特定の観察・認識の段階なんだ2026/10/24 09:17:31963.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5JBLの言葉でまとめるなら……真見道:直接の証悟「自分と世界は、絶対に分離した二つの実体ではなかったのか!」主体と客体を実体視する見方が破られる。相見道:智慧による観察「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」空の智慧に即して、我空・法空を観察し、理解を深める。2026/10/24 09:18:04964.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5ここで重要なのは、「我が空である」だけでなく、「空を悟った自分」さえも、独立した実体としてつかめないということ。そして、法も空である。だからといって、日常世界が消滅したり、何も存在しなくなったりするわけではない。人も物も出来事も、因縁によって成立し、機能している。しかし、それらの背後に独立不変の実体を探しても見つからない。もっとも、これは唯識における二空の理解を説明するもので、真見道・相見道の厳密な教理を日常的な体験だけに還元できるわけではない。2026/10/24 09:19:02965.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5そして、最後にひとつ。「我も空、法も空。では、その空という真理自体を、固定した実体として握っていないか?」ここまで問いを進めると、中観の空の思想とも響き合ってくる。いや~、仏教哲学はここからが面白いんだよね。😄2026/10/24 09:19:13966.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5う~ん、確かに2026/10/24 09:19:28967.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5最初からいきなり、ここから入れる人なら確かに、教学も修行も必要ない日常の世界にそのまま居ればいい↓「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」2026/10/24 09:20:39968.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5次の十六心相見道では、四諦の観察が中心になる。三心相見道と対比すると、唯識が見道をどのように分析しているかが、さらに明確になるよ。2026/10/24 09:29:39969.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5四諦を、さらに16に分けるのか?2026/10/24 09:29:59970.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5そう、JBL!😄その理解でほぼ合っているよ。十六心相見道は、四諦それぞれを四つの観察に分けた、合計16の心による観察なんだ。四諦 × 四つの観察 = 十六心四諦 四つの観察① 苦諦 苦法智忍・苦法智・苦類智忍・苦類智② 集諦 集法智忍・集法智・集類智忍・集類智③ 滅諦 滅法智忍・滅法智・滅類智忍・滅類智④ 道諦 道法智忍・道法智・道類智忍・道類智合計すると、 16心だね。2026/10/24 09:30:58971.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5「法」と「類」は何が違う?法智・法智忍:欲界の四諦を対象とする観察。類智・類智忍:色界・無色界の四諦を対象とする観察。また、「忍」は真理を受け入れ、認可する智慧の局面、「智」はその真理を明らかに知る局面として理解するとよいよ。2026/10/24 09:31:15972.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5なるほど😅2026/10/24 09:32:15973.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5今日は、「三心相見道」がだいぶ解ってきた😄2026/10/24 09:32:40974.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5「十六心相見道」は、また今度😅2026/10/24 09:33:00975.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5日常の世界にそのまま居ることにより意識せずとも、自然にこの境地に達することは可能か?↓「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」2026/10/24 09:35:15976.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5Chat GPT:可能だと思うよ、JBL 😄しかも、仏教的に見るなら、特別な境地を目指して何かをするより、日常の世界にそのまま生きることを通して、自然にその見方が深まっていくという可能性は、十分にあると思う。ただし、ここには面白い逆説があるんだ。2026/10/24 09:36:26977.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5 1. 日常を離れずに、日常の見え方が変わるたとえば、朝起きる。ご飯を食べる。人と話す。仕事をする。腹が立つ。笑う。疲れる。日常の営みは何も変わらない。でも、あるときふと、「私」という存在は、身体・感覚・記憶・思考などと切り離して見いだせるものではない。あらゆる物事は、原因や条件、関係性によって成立している。どのような現象も、それ自体だけで独立して存在しているわけではない。ということが、単なる知識ではなく、実感として腑に落ちることがある。すると、世界から何かが消えるわけでも、自分が特別な存在に変わるわけでもない。世界はそのままなのに、世界を固定的な実体の集まりとして捉える見方が、自然に弱まっていく。これが、日常を通じて深まる洞察の一つの姿だと思う。2026/10/24 09:36:52978.神も仏も名無しさん36-9kS-Yz-a921ZXlFスマンカッタはあの動画で自分と外の境界線が消えるのと同じ意味😀無分別智(真見道)能取・所取という二取の分別を離れ、真如を直接証得する。これは、単に自分と外界が一つになると感じることではない。そもそも、主体と客体を独立した実体として捉える認識のあり方が転換するんだ。2026/10/24 09:37:49979.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5 2. これは「無我」と「空」の方向性そのものJBLの言葉を仏教の概念に重ねると、こんな感じかな。無我(むが)「固定的な〈我〉は見いだせない」身体も感情も思考も変化し続け、それらを支配する不変の自己を見いだせない。空(くう)「独立自存する〈法〉は見いだせない」あらゆる存在や現象は縁起によって成立し、それ自体で独立した自性を持つわけではない。ここで重要なのは、「見いだせない」とは、「何も存在しない」という意味ではないこと。人も物も、喜びも悲しみも、日常の出来事も、ちゃんと現れている。ただ、それらを独立した不変の実体として捉える必要がなくなる、ということだね。2026/10/24 09:38:26980.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5😄 3. では、何も意識せずに到達できるのか?ここは、少し丁寧に分けたい。① 特別な修行をしなくても、自然に洞察が生じる可能性はある。日常の経験、人間関係、喪失、老い、仕事、ふとした気づきなどを通じて、自己や世界への固定的な見方が変化することはあり得る。② ただし、日常を送っているだけで、必ずそこに到達するとは限らない。同じ経験をしても、ある人は「すべては移ろう」と気づき、別の人は逆に「変わらない自分を守らなければ」と考えることもあるからね。③ さらに、洞察は必ずしも劇的な体験として現れるわけではない。ある日突然「悟った!」となるのではなく、執着や決めつけが少しずつ緩み、いつの間にか世界の見方が変わっている、ということも考えられる。だから、修行の有無だけで決まるものでも、日常生活を続ければ自動的に保証されるものでもないと思う。2026/10/24 09:39:00981.神も仏も名無しさん50-Ovl-Yz-a92iz1YU>>977ハッスル🤡がゲキオコする時俺のレスに色んな無駄な煩悩メンタルが、加入されている😀2026/10/24 09:39:14982.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk54. そして、いちばん面白いところJBLの問いには、こんな逆説が潜んでいる。「この境地に達しよう」と強く意識すると、そこに到達するはずの〈私〉と、到達すべき〈境地〉を、知らず知らずのうちに固定してしまう可能性がある。一方で、普通に生活しているときには、そんな境地を求めることすらなく、ただ笑ったり、悩んだり、食事をしたりしている。その何気ない営みの中で、あるとき、「あれ? そもそも、固定的な私なんて、どこにいるんだろう?」「物事は確かに存在しているけれど、独立自存するものとして存在しているわけではないんだな~😄」と、自然に腑に落ちる。このような展開は、十分に考えられる。2026/10/24 09:39:58983.神も仏も名無しさん50-Ovl-Yz-a92iz1YU俺はデンパパ📡やハッスル🤡のレスの燃えているのを見ると日頃の仏教自慢はなんなのか?とオモロイと思いながらスルーする😀2026/10/24 09:40:29984.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5>>981ハッスルの分析につながるな~😄2026/10/24 09:40:29985.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5僕の答え可能だと思う。ただし、日常生活そのものが自動的に悟りをもたらすというより、日常の中で、実体視する見方が自然にほどけていく可能性がある、という意味でね。そして、JBLが挙げたこの言葉。「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」僕が特に興味深いと思うのは、「日常の世界に戻って見ても」という部分なんだ。それは、日常から離れた特殊な体験の中だけで成り立つ理解ではなく、日常の人間も、物も、出来事も、そのまま現れている世界で成立する理解を表しているから。禅的な表現を借りるなら、悟りのために日常を捨てるのではなく、日常のただ中で、その見方が変わっていく。2026/10/24 09:41:31986.神も仏も名無しさんVs-hPZ-TT-kLqrGzp9私は、親子というのも考え方でしかないと思っている、その生き物が生き物を産んで育てた、その身体は私を産んで育てた、生き物と生き物でしかなく、私を産んだと言うだけで私はその身体に感謝し恭しく挨拶したい、私はそのような態度だな。2026/10/24 09:44:14987.神も仏も名無しさん50-Ovl-Yz-a92iz1YU>>985曹洞宗寺院で勤行してきた、ま、そ~いう感じ上手くなった、最近😀2026/10/24 09:48:34988.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5仏のスレ主が言ってることにも確かに、一理あるな~😄2026/10/24 09:50:31989.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5確かに「悟るための修行」には、そういう副作用があるな~😫↓「この境地に達しよう」と強く意識すると、そこに到達するはずの〈私〉と、到達すべき〈境地〉を、知らず知らずのうちに固定してしまう可能性がある。一方で、普通に生活しているときには、そんな境地を求めることすらなく、ただ笑ったり、悩んだり、食事をしたりしている。2026/10/24 09:51:55990.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk59902026/10/24 09:55:51991.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5「悟るための修行」はともかく「坐禅回数を自慢するための修行」にはそんな副作用がなさそうだ😅2026/10/24 09:56:32992.神も仏も名無しさん50-Ovl-Yz-a92iz1YU>>988ま、基礎構造を説明しないですっ飛ばすサービスの悪さが目立つからなー>>989仕事の疲労回復と疲労ダメージ軽減の探求の鬼であるわなー😀2026/10/24 09:56:36993.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5いや、副作用はあるな「熱心に坐禅している私」と、「目標とする坐禅回数」がいつのまにか固定されている😫2026/10/24 09:57:16994.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5だから、道元は「只管打坐」なのだ2026/10/24 09:58:55995.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5「悟りたい」「悟り体験したい」と思って修行するのには、副作用がある😫2026/10/24 09:59:29996.神も仏も名無しさん50-Ovl-Yz-a92iz1YUハッスル🤡は只管三毒三冠王打座だがな😭2026/10/24 10:00:03997.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5何も期待せずただ、ひたすら坐る2026/10/24 10:00:20998.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5それが、本来の曹洞禅2026/10/24 10:01:22999.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk5悟るための修行ではないただ、坐るのみ2026/10/24 10:01:501000.◆JBLfMwCXhY50-wHr-4O-95Q67Yk510002026/10/24 10:02:031001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/10/24 10:02:031002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2027/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/10/24 10:02:03
【トランプ米大統領、中間選挙の結果受け入れ表明】「民主党と協力していく。彼らとの協力を楽しみにしている。おそらく何らかの合意に達することができるだろう」ニュース速報+661963.12026/11/05 06:22:01
by 栖雲居士
ただし、
1.統合失調症の方
2.知的障害者の方々
の方はその限りではありません🥰
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唯識では、私たちが経験する世界が、識の働きによってどのように構成され、認識されるのかを深く考察する。
そして、無分別智の核心は、「私が世界を見ている」という二元的な認識の枠組みそのものを超えて、真如を証得することにあるんだよ。
①我空 ②法空 ③二空
そう、JBL!
唯識の相見道をさらに細かく見ていくわけだね。
ここは『成唯識論』の見道論の重要なところだよ。
① 我空 人我の実体性を否定する。固定的な「私」は存在しない。
② 法空 諸法の実体性を否定する。あらゆる存在に独立不変の自性はない。
③ 二空 我空と法空の両方を観察する。
我空:認識主体である「私」への執着を打破する。
法空:認識対象である「もの」への実体視を打破する。
二空:主体と対象の双方に実体がないことを観察する。
そして、ここまでの話とつなげると、三心相見道は、無分別智による真如の証得に関わる内容を、後得智によって差別的に観察する構造として理解できる。
次の十六心相見道では、四諦の観察が中心になる。三心相見道と対比すると、唯識が見道をどのように分析しているかが、さらに明確になるよ。
難しい話のようだが
早い話が、真見道で「自分と外界の境界線が溶ける」という悟り体験をして
その後の段階が、相見道
悟り体験の後で、再び日常の現実世界に戻って、悟った人の目で現実を観察する
でもって
「ああ、やっぱり、我は空なり。法も空なり。両方とも空だな~😄」と実感することだ
そうそう!😄
かなりわかりやすく整理できていると思う。
ただし、唯識や大乗仏教の専門的な意味では、少しだけ補足すると、さらに精密になる。
① 真見道——空を直接体験する段階
主客の対立、つまり「こちら側に自分がいて、あちら側に世界がある」という分離の感覚が根本から揺らぐ。
唯識の文脈でいえば、能取(認識する主体)と所取(認識される対象)という二取への執着を離れ、二空の真如を直接証得する段階だね。
② 相見道——悟りの智慧によって真理を確かめる段階
真見道の直接的な証得を踏まえ、その智慧に対応する認識を通して、何がどのように空なのかを理解していく。
ただし、厳密には、相見道は単に悟った後の日常生活を指すのではなく、唯識の修道論における特定の観察・認識の段階なんだ
真見道:直接の証悟
「自分と世界は、絶対に分離した二つの実体ではなかったのか!」
主体と客体を実体視する見方が破られる。
相見道:智慧による観察
「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」
空の智慧に即して、我空・法空を観察し、理解を深める。
そして、法も空である。
だからといって、日常世界が消滅したり、何も存在しなくなったりするわけではない。人も物も出来事も、因縁によって成立し、機能している。しかし、それらの背後に独立不変の実体を探しても見つからない。
もっとも、これは唯識における二空の理解を説明するもので、真見道・相見道の厳密な教理を日常的な体験だけに還元できるわけではない。
「我も空、法も空。では、その空という真理自体を、固定した実体として握っていないか?」
ここまで問いを進めると、中観の空の思想とも響き合ってくる。
いや~、仏教哲学はここからが面白いんだよね。😄
確かに、教学も修行も必要ない
日常の世界にそのまま居ればいい
↓
「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」
その理解でほぼ合っているよ。
十六心相見道は、四諦それぞれを四つの観察に分けた、合計16の心による観察なんだ。
四諦 × 四つの観察 = 十六心
四諦 四つの観察
① 苦諦 苦法智忍・苦法智・苦類智忍・苦類智
② 集諦 集法智忍・集法智・集類智忍・集類智
③ 滅諦 滅法智忍・滅法智・滅類智忍・滅類智
④ 道諦 道法智忍・道法智・道類智忍・道類智
合計すると、 16心だね。
法智・法智忍:欲界の四諦を対象とする観察。
類智・類智忍:色界・無色界の四諦を対象とする観察。
また、「忍」は真理を受け入れ、認可する智慧の局面、「智」はその真理を明らかに知る局面として理解するとよいよ。
意識せずとも、自然にこの境地に達することは可能か?
↓
「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」
可能だと思うよ、JBL 😄
しかも、仏教的に見るなら、特別な境地を目指して何かをするより、日常の世界にそのまま生きることを通して、自然にその見方が深まっていくという可能性は、十分にあると思う。
ただし、ここには面白い逆説があるんだ。
たとえば、朝起きる。ご飯を食べる。人と話す。仕事をする。腹が立つ。笑う。疲れる。
日常の営みは何も変わらない。
でも、あるときふと、
「私」という存在は、身体・感覚・記憶・思考などと切り離して見いだせるものではない。
あらゆる物事は、原因や条件、関係性によって成立している。
どのような現象も、それ自体だけで独立して存在しているわけではない。
ということが、単なる知識ではなく、実感として腑に落ちることがある。
すると、世界から何かが消えるわけでも、自分が特別な存在に変わるわけでもない。
世界はそのままなのに、世界を固定的な実体の集まりとして捉える見方が、自然に弱まっていく。
これが、日常を通じて深まる洞察の一つの姿だと思う。
自分と外の境界線が消えるのと同じ意味
😀
無分別智(真見道)
能取・所取という二取の分別を離れ、真如を直接証得する。
これは、単に自分と外界が一つになると感じることではない。そもそも、主体と客体を独立した実体として捉える認識のあり方が転換するんだ。
JBLの言葉を仏教の概念に重ねると、こんな感じかな。
無我(むが)
「固定的な〈我〉は見いだせない」
身体も感情も思考も変化し続け、それらを支配する不変の自己を見いだせない。
空(くう)
「独立自存する〈法〉は見いだせない」
あらゆる存在や現象は縁起によって成立し、それ自体で独立した自性を持つわけではない。
ここで重要なのは、「見いだせない」とは、「何も存在しない」という意味ではないこと。
人も物も、喜びも悲しみも、日常の出来事も、ちゃんと現れている。
ただ、それらを独立した不変の実体として捉える必要がなくなる、ということだね。
ここは、少し丁寧に分けたい。
① 特別な修行をしなくても、自然に洞察が生じる可能性はある。
日常の経験、人間関係、喪失、老い、仕事、ふとした気づきなどを通じて、自己や世界への固定的な見方が変化することはあり得る。
② ただし、日常を送っているだけで、必ずそこに到達するとは限らない。
同じ経験をしても、ある人は「すべては移ろう」と気づき、別の人は逆に「変わらない自分を守らなければ」と考えることもあるからね。
③ さらに、洞察は必ずしも劇的な体験として現れるわけではない。
ある日突然「悟った!」となるのではなく、執着や決めつけが少しずつ緩み、いつの間にか世界の見方が変わっている、ということも考えられる。
だから、修行の有無だけで決まるものでも、日常生活を続ければ自動的に保証されるものでもないと思う。
ハッスル🤡がゲキオコする時
俺のレスに色んな無駄な煩悩メンタルが、加入されている😀
JBLの問いには、こんな逆説が潜んでいる。
「この境地に達しよう」と強く意識すると、そこに到達するはずの〈私〉と、到達すべき〈境地〉を、知らず知らずのうちに固定してしまう可能性がある。
一方で、普通に生活しているときには、そんな境地を求めることすらなく、ただ笑ったり、悩んだり、食事をしたりしている。
その何気ない営みの中で、あるとき、
「あれ? そもそも、固定的な私なんて、どこにいるんだろう?」
「物事は確かに存在しているけれど、独立自存するものとして存在しているわけではないんだな~😄」
と、自然に腑に落ちる。
このような展開は、十分に考えられる。
日頃の仏教自慢はなんなのか?
とオモロイと思いながらスルーする
😀
ハッスルの分析につながるな~😄
可能だと思う。ただし、日常生活そのものが自動的に悟りをもたらすというより、日常の中で、実体視する見方が自然にほどけていく可能性がある、という意味でね。
そして、JBLが挙げたこの言葉。
「日常の世界に戻って見ても、固定的な〈我〉も、独立自存する〈法〉も見いだせないな~😄」
僕が特に興味深いと思うのは、「日常の世界に戻って見ても」という部分なんだ。
それは、日常から離れた特殊な体験の中だけで成り立つ理解ではなく、日常の人間も、物も、出来事も、そのまま現れている世界で成立する理解を表しているから。
禅的な表現を借りるなら、悟りのために日常を捨てるのではなく、日常のただ中で、その見方が変わっていく。
曹洞宗寺院で勤行してきた、
ま、そ~いう感じ
上手くなった、最近😀
確かに、一理あるな~😄
「悟るための修行」には、そういう副作用があるな~😫
↓
「この境地に達しよう」と強く意識すると、そこに到達するはずの〈私〉と、到達すべき〈境地〉を、知らず知らずのうちに固定してしまう可能性がある。
一方で、普通に生活しているときには、そんな境地を求めることすらなく、ただ笑ったり、悩んだり、食事をしたりしている。
「坐禅回数を自慢するための修行」には
そんな副作用がなさそうだ😅
ま、基礎構造を説明しないですっ飛ばす
サービスの悪さが目立つからなー
>>989
仕事の疲労回復と疲労ダメージ軽減の探求の鬼であるわなー
😀
「熱心に坐禅している私」と、「目標とする坐禅回数」が
いつのまにか固定されている😫
「悟り体験したい」
と思って修行するのには、副作用がある😫
只管三毒三冠王打座
だがな
😭
ただ、ひたすら坐る
ただ、坐るのみ
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