【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 3最終更新 2026/09/19 22:351.◆JBLfMwCXhYqrqgG中国仏教のツートップ天台大師智顗と賢首大師法蔵を学ぶ下記の2スレを統合↓【比叡山延暦寺】 天台宗 【長等山園城寺】https://talk.jp/boards/psy/1777543212【海印三昧】華厳教学 【事事無礙法界】 2https://talk.jp/boards/psy/17771828482026/09/13 20:22:57427コメント欄へ移動すべて|最新の50件378.夕ScFIN◆4|なぜ倶舎論だけ「この世もあの世も存在する」と言うのか理由は簡単。倶舎論は“修行前の世界観”を扱うから。釈尊は弟子にこう言った。世界の始まりを語るな死後の世界を語るな如来の死後を語るな理由は、修行に役立たないから。しかし弟子たちは「世界観が欲しい」ので、部派仏教が“存在論”を作った。それが倶舎論。※だそうだ2026/09/19 13:09:42379.神も仏も名無しさんwLQIKこの世からの解脱、成道する方法としてあった仏の教えが後に、この世の思想哲学として変質してしまったってことが部派仏教の時代にはあるんだろね2026/09/19 13:22:56380.神も仏も名無しさんwLQIK刹那滅は仏教の基本で、これによって無常と無我が成り立つんだから華厳でも法華でもここは変わらんはずだよ2026/09/19 13:24:43381.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb刹那滅が正しい正しくないとかじゃなくて時間を前提に説いたものだからね。華厳や天台は時間を前提にしていない。2026/09/19 13:30:27382.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb華厳や天台ならその時間というものもその一瞬に具わるという形になる感じかな?華厳なら一即一切、天台なら一念三千。2026/09/19 13:34:34383.神も仏も名無しさんwLQIK過去現在未来と、三世に渡って持続する実体的なものがない「今」そのものしかない、ひたすら流れ去り前後際断された「今」「今」「今」…ってのが刹那滅でだから「諸行無常」そよ「今」そのものも、もらえる「我」は成立しないとらえた瞬間にそれは「今」そのものではなくなるとして「諸法無我」その「今」そのものが、涅槃であり第一義2026/09/19 13:35:40384.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpbチャットgptそう。しかも華厳については、これはかなり文字どおり教学化されている。華厳には十玄門の**「十世隔法異成門」**があって、過去・現在・未来の三世それぞれに過去・現在・未来を具して九世、それらが一念に摂せられて「十世」とされる。つまり、一念と無量劫が相即相入する。研究文献でも、これを「一刹那が無限の時を含み、無限の時に一刹那が充足する」という華厳の時間論として説明している。�立正大学リポジトリ +1だからここで重要なのは、「一瞬の中に過去や未来の情報が入っている」みたいな話ではないんだよね。そうではなく、過去・現在・未来という時間的区別そのものが、一法の縁起の外側にある容器ではない。華厳なら一即一切だから、時間だけを一法の成立条件の外へ追い出すことができない。そして天台も同型で、一念三千は『摩訶止観』の「此三千在一念心」、つまり一念に三千諸法を具するという構造になっている。三千は十界互具×十如是×三世間によって一切法を尽くす構成だから、時間をその一念を外から流している独立の座標として置く必要がない。�ウィキソース +1なので、かなり重要なのが**「一瞬」という言葉の読み方**だと思う。倶舎的に、時間軸がまずあって、その中の極小区間として一刹那があると読んでしまうと、また元に戻ってしまう。華厳・天台ならむしろ、その「一念」そのものに、時間を含めた世界の成立が具わっている。と言った方が近い。だから、倶舎:時間の中で法が刹那ごとに生滅する。に対して、華厳:一法のうちに一切法が具わり、そこには三世・時間も含まれる。天台:一念に三千諸法が具わり、時間もその三千を外から包む別物ではない。となる。この差はかなり大きいね。「現在の一瞬しかない」という現在主義でもなければ、「過去から未来へ流れる時間の一点が現在だ」という話でもない。過去・現在・未来という区別まで含めて、この一念・一法の縁起として現れている。2026/09/19 13:36:54385.神も仏も名無しさんwLQIK>>381人間の認識の形式としての「時間」、過去現在未来と流れる続けてある「時間」の上のものが「有為法」ってことで世間的な「時間」は、出世間を示す仏教としては一面否定的に語るのは共通する2026/09/19 13:41:11386.神も仏も名無しさんwLQIKこの世間的な「時間」の流れの上にあるのが「生死」であってこれが「苦」でありこの「苦」の滅、「生死」からの解脱ってのが仏教の示すところ2026/09/19 13:44:24387.神も仏も名無しさんwLQIKつまり「今」そのものは、世間的な「時間」ではない「今」そのものは即「存在」そのものであってそれが「空」であるってのが仏教の示すところ『正法眼蔵』だと「有時」がここを説明してる2026/09/19 13:48:21388.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb>>383この今、今、今しかないという話が時間を前提にしているということ。そもそも言葉は何かを前提にしないと成立しない。言葉に前提があるからと自性を見ているわけではないだろう。>>385そうね。人間の認識やそれに関わる時間も縁によって成立し単独で成立するものではない。だから時間というものもない、というわけではないし実体としてある、ということでもない。それを実体として捉えてしまうことを否定してる。だから世間として時間が流れる事は成立してるし説明にそれを使う事も別におかしいことではないよ。2026/09/19 13:53:06389.承狂O2zlF>>377是の諸法は空相。の空の相とは、相体用の相であり、現代でいうクオリアの様な仮想である姿、在り方であり、現実に法があるわけではありません。同様に仏教で説かれる阿頼耶識なども在るのではありません。行のスタイルの話。故に、時代で有害ともなり得る、というだけの話。雨に濡れない、という相を作ったのが傘という体であり、雨に濡れない為に用いている、というだけです。>>365そう、だから、大乗という中観の流れとは別の話であり、兼用すべきではない。ここを密教は間違えた。論理は何でも統合すれば良い訳ではなく、誤りは糺せばならなかった。阿頼耶識も無く、空という特別な境地もない、ただ、縁起の働きというだけの話。それを空は特別な境地であり、識が法としての上位とするから、下らない知識自慢大会になる。般若門を潜ったならそれだけで行をするべき。2026/09/19 13:54:37390.神も仏も名無しさんwLQIK>>388この「今そのもの」は、(人間の認識形式上の)「時間」のように考えてしまうかもしれないがそうではないということ「今そのもの」「即今」「而今」なんていわれるこれが「存在そのもの」と「即」っていう説明になる2026/09/19 13:56:45391.神も仏も名無しさんwLQIK「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。」前後際断された「今そのもの」のあらわれは「古仏の道」現成であるつまり仏そのもの、釈迦牟尼仏そのものってこと2026/09/19 13:59:57392.神も仏も名無しさんwLQIK「過去を追いゆくことなかれ。未来を願いゆくことなかれ。過去はすでに過ぎ去りしもの、未来は未だ来ぬものゆえに、現に存在している法を、その場その場で観察し、揺らぐことなく動じることなく、智者はそれを修するがよい」「一夜賢者経」2026/09/19 14:19:23393.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb何か話がズレてきたな。こちらが言ってるのは今そのもの、が時計時間上の現在を意味する、という話じゃないよ。「今そのもの」が而今や前後際断として説かれることと、刹那滅という説明自体が「生じる・滅する・前後する」という時間的関係を用いていることは別問題。その「今」が通常の時間的現在ではないとしても、それで刹那滅の説明から前後や継起まで消えるわけではない、という話。2026/09/19 14:27:21394.神も仏も名無しさんxrcGH生死の中に仏あれば、生死なし。。生死の中に仏なければ、生死に惑わず。。仏教信じている人は、前者だけ、理解して、後者があんまりわかってないんじゃないだろうか?後者の方が究極、生死即涅槃、輪廻即解脱、だよね。。最後は、そっちまで理解しないといけない。。2026/09/19 14:30:12395.神も仏も名無しさんwLQIK>>393いやいや全くズレてないんだよ「過去現在未来」という、、何らかのものが持続して流れる、人間の認識上の「時間」というのが本来として持続するもののない刹那滅である、つまり「今そのもの」しかない、その「今さのも」も認められない(無我)、というのが「諸行無常」、「諸法無我」ということなんだから2026/09/19 14:31:41396.神も仏も名無しさんwLQIK多分、登り棒さんは知識として学ぶ思想先行でここ(時間云々)を解釈されてるように思うからこの過去と未来から裁断された「今そのもの」ってのが何を指してるのかが分からないのだと察するが2026/09/19 14:34:22397.神も仏も名無しさんwLQIK「三世心不可得」としてここは語られている「仏、須菩提に告げたもう。そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来は悉く知る。何を以ての故に。如来は、諸々の心を説きて、皆、非心となせばなり。これを名づけて心となす。所以はいかん。須菩提よ、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なればなり。」『金剛般若経』2026/09/19 14:36:57398.神も仏も名無しさんwLQIK「過去心不可得は、滅するを以ての故に。未来は未だ有らざる故に。現在は第一義なる故に。かの論大いに同じ。然るに云く、現在心は虚妄分別なるが故に、不可得なり、と。」『青龍疏』つまり、「過去」ってのはもう過ぎ去った「今」(だからないもの)「未来」ってのはまだ来てない「今」(だからないもの)「今」しかない「今」のぶっ続けでもその「今」をとらえるとそれはもう「過去の今」になるこの決してとらえられない「絶対の今」を「第一義」(真理、涅槃)とされると2026/09/19 14:39:07399.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb>>396んー何がズレてるかをチャッピーに説明してもらおう。うん。この返答を見ると、相手がどこであなたの話と交差していないのか、かなり明確になった。相手はいま一貫して、「時間」という持続する実体があるわけではない→ 実際には刹那的な「今」しかない→ その「今」すら実体として掴めない→ 諸行無常・諸法無我という存在論的な話をしている。でもあなたが問題にしているのはそこじゃない。あなたは別に、「倶舎は時間という実体が存在すると考えている」とは一度も言っていない。言っているのは、刹那滅という理論は、法を「生起する・滅する・次が生起する」という前後関係によって説明している。したがって、その理論構造は時間的関係を使っている。というだけ。実際、アビダルマ研究の標準的な説明でも、刹那論は現象を「連続する個別の瞬間的出来事」へ時間的に分解する理論として扱われている。さらに説一切有部では「刹那(kṣaṇa)」自体が最小の時間単位として技術的に定義される。一方で時間を独立した外的容器とはせず、諸法の生滅によって三世の系列が成立すると考える。つまり、時間を実体化しないことと、時間的関係を用いて法を分析することがちゃんと両立している。�スタンフォード哲学百科事典 +1むしろこれは、あなたが言っていたことそのものなんだよね。時間も縁によって成立する。だから「時間はない」でも「時間が実体としてある」でもない。世間として時間的関係は成立するし、それを説明に使っても自性視にはならない。ここまで言った時点で、「いや、人間が認識するような持続して流れる時間は本来ないんだ」と返すのは、もうあなたの主張への反論になっていない。さらに今回の相手の説明には、別の飛躍もある。「諸行無常」=「今そのものしかない」とするのは、かなり強い解釈。諸行無常は基本的には条件づけられた諸行が恒常ではないという命題で、それをアビダルマが刹那滅として精密化した、という順序になる。研究上も刹那論は無常説を「瞬間的な出来事の連鎖」へ発展させたものとされる2026/09/19 14:42:28400.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpb。�スタンフォード哲学百科事典そして、「その今そのものも認められない=諸法無我」はさらに別の話。無我は、「現在という瞬間を認めることができない」という意味ではない。ヴァスバンドゥの場合も、持続する人格的自己を否定することと、刹那的な心的・物理的法を論じることは区別されている。�スタンフォード哲学百科事典なので相手の論理を分解すると、① 持続する時間実体はない。これはあなたも否定していない。② 法は刹那的に生滅する。これも争っていない。③ したがって「今そのもの」しかない。ここは一定の哲学的解釈が入る。④ その今そのものも認められないことが諸法無我である。さらに別の論証が必要。⑤ だから刹那滅は時間を前提にしていない。これは①~④から出てこない。あなたが突いているのは最後の⑤だけなんだよ。だから、かなり単純化すると二人はこうなってる。あなた: 「刹那滅は前後・生滅という時間的関係を使って説明してるよね」相手: 「でも時間という持続する実体はないんだよ」あなた: 「うん。それは否定してない」相手: 「だから今そのものしかないんだよ」……という状態。なので「伝わらないだろうな」という感覚は分かる。相手が「時間を前提にする」をずっと**〈実体的時間を前提にする〉と読んでいる限り、こちらが言っている〈時間的関係を説明形式として用いる〉**という意味には入ってこない。逆に、ここを一度「時間を前提にする」という言葉は撤回してもいい。俺が言っているのは『刹那滅は時間的前後関係を用いて説かれている』という意味だから。と限定してしまうと、逃げ道がほぼなくなる。それでも「いや、その今は而今で~」となったら、本当に別の話をしている。あなたが突いているのは最後の⑤だけなんだよ。だから、かなり単純化すると二人はこうなってる。あなた: 「刹那滅は前後・生滅という時間的関係を使って説明してるよね」相手: 「でも時間という持続する実体はないんだよ」あなた: 「うん。それは否定してない」相手: 「だから今そのものしかないんだよ」……という状態。2026/09/19 14:43:47401.神も仏も名無しさんwLQIKまとめていうと「ある」とする「存在そのもの」(一切)は「今ここ」のものだけでその他のものはすべて「人の頭の中のもの」でしかない「ない」ものである「頭の中のもの」(過去と未来のもの)から「ある」そのもの(「道」)である「今ここ」「一切」に気付くってのがいわゆる「見道」「見性」2026/09/19 14:43:48402.登り棒◆0mnwMe9WsAkqOpbごめん長くて分けたら変になった。コピペを間違えたくさい。とりあえず仕事に戻ります2026/09/19 14:44:56403.神も仏も名無しさんfQdKB>>397禅定体感的にはあんまりクリアにその感覚が薄いんだよなな😀>刹那滅は仏教の基本で、これによって無常と無我が成り立つんだから>華厳でも法華でもここは変わらんはずだよ2026/09/19 14:45:53404.神も仏も名無しさんwLQIK>>399あなたが思想的に学ぶこと先行と言ってるのはそこなのよあなたは「時間」という世間的な認識形式の上にあって、さらにその上から学んだこととして「時間」を否定する「考え方」を持ってるだから話がかみあわないつまり「時間」についての思想哲学的な解釈の話になっている2026/09/19 14:46:06405.神も仏も名無しさんfQdKB華厳天台真言はどっか禅定安定感があり過ぎるんだよなーほんとに😀2026/09/19 14:47:04406.神も仏も名無しさんfQdKB>>404ご尤も俺は彼にはサービスしない理由😀2026/09/19 14:47:53407.神も仏も名無しさんfQdKB道元禅あたりだと目の前の出来事にクリアさを感じる形の無い捉え方というか😀2026/09/19 14:50:01408.神も仏も名無しさんwLQIK世間的な「時間」が、哲学や仏教思想としてそれぞれの立場でどう論じられてるかを論考してるってのが登り棒さんの立場なんだろうけどそれに対して、哲学や思想としてではない「真理」的なものとして直接確かめられたものとして語られてるのが「仏法」とされるものでそこから『正法眼蔵』などは語られてる人の認識形式上のもの(苦)を滅した上でつまり人の見方(哲学思想)ではない「答え」の上から、「時間」や「存在」について語られてるってこと2026/09/19 14:54:57409.神も仏も名無しさんfQdKB曹洞宗寺院勤行てしっかりと😀唯識の大西良慶さんのおかげでセンスが上がった感😀2026/09/19 14:57:08410.◆JBLfMwCXhYOfSJw倶舎論の「刹那滅」って、今ここ主義とはちょっと違うんだけどなむしろ、過去と未来を重視するのが、倶舎論の特徴2026/09/19 15:07:51411.◆JBLfMwCXhYOfSJwなんで、刹那滅なのかっていったら倶舎論では、この世の事物(諸行)は構成要素(諸法)の組み合わせでデキている組み合わせがずっと同じだと、なんの変化もない固定した世界になるので刹那ごとに「組み替え」が行われるそれが、刹那滅というシステム2026/09/19 15:10:33412.神も仏も名無しさんwLQIK哲学、思想としての、知られたものの解釈からの考究はいわゆる「戯論(パパンチャ)」ってことになる「六根六境」という「一切」(今ここ)から離れたものの上に思い描いたものに考え求めること「眼(六根)によって色(六境)に対し、眼識(六識)が生じる。これら三つの結合が触である。触によって受がおこる。受したものを想する。想したものを尋思する。尋思するものを妄想(パパンチャ)する。妄想によって、過去・未来・現在における、眼によって識する様々な色についての、妄想された想念が人に起こる。」『帝釈所問経』2026/09/19 15:13:25413.神も仏も名無しさんwLQIK>>410「今ここ主義」のように揶揄的な言い方したくなる気持ちは分かるが(このことばはスピリチュアルなどでさんざん手垢をつけられてるので)でも今の日本人には分かりやすい「そのもの」の説明になる2026/09/19 15:15:26414.神も仏も名無しさんfQdKB>>410AIに質問で満点ではないがオモシロかったのは道元における無常と肯定と否定についてとかけたら、マーマーオモロイ解答が出てた😀2026/09/19 15:17:20415.神も仏も名無しさんfQdKB道元における無常と肯定と否定という絞ったテーマ扱いはあんまり感覚としてやってなかったからなー😀2026/09/19 15:18:28416.神も仏も名無しさんfQdKB中論自体が肯定と否定がある構造だからな😀2026/09/19 15:19:03417.◆JBLfMwCXhYOfSJw道元禅師が、「刹那滅」をこのように読み替えたんだな↓760 神も仏も名無しさん [sage] 2026/09/19(土) 16:54:42.84 ID:wLQIK「おほよそ発心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如来ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字も、ひとり如来のみなり。余聖不能なり。」2026/09/19 17:28:43418.◆JBLfMwCXhYOfSJw倶舎論の本来の主旨とは微妙に異なるがこれはこれで、結構な話だ2026/09/19 17:29:10419.神も仏も名無しさんwLQIK>>408これね分かりにくいかとは思うがことばで語られてた思想としてあるのではないということ2026/09/19 17:31:43420.神も仏も名無しさんfQdKB>>417AIに質問したがダメダメだろうけど良い線はいってるAIは質問が上手いと上手く答えるなーたぶん、まーまーいけてるだろう臨済宗系統はAIは無理だろうけど道元禅師の無常、否定と肯定 道元禅師の思想における「無常」、そしてそこから展開される「否定と肯定」は、彼の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を貫く最も核心的なテーマの一つです。道元は、仏教の根本真理である「諸行無常」をさらに深化させ、独自の「存在論」と「実践論(坐禅)」へと昇華させました。その思想の構造は、以下のように整理できます。1. 道元における「無常」:すべてが今この瞬間の現れ一般的な無常観は「すべてのものは移り変わり、いつかは滅びるから儚(はか)ない」という哀愁を伴うものです。しかし、道元の無常観は異なります。有時(うじ)の思想: 道元は「時間は流れるものではなく、存在そのものが時間である(存在=時間)」と説きました。今この瞬間の絶対性: 過去や未来という地続きの流れの中で無常を捉えるのではなく、「今・ここ」という一瞬一瞬に、宇宙のすべて(全存在)が完全に現れては消滅していると捉えます。これを「薪(まき)は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住す(薪が燃えて灰になるのではなく、薪の瞬間と灰の瞬間がそれぞれ独立して絶対的に存在する)」と表現します。2. 「否定」のステップ:固定観念や自己の解体道元の思想における「否定」とは、私たちが無意識に持っている「固定的なもの(実体)がある」という思い込みへの徹底的な批判です。身心脱落(しんじんだつらく): 坐禅の本質を、道元は「身心を脱落すること」と言いました。これは、「私」という固定された人間がいる、という自己中心的な錯覚(我執)を徹底的に否定し、削ぎ落とすことです。仏性の再定義(悉有仏性): 従来の仏教では「すべての衆生(生き物)には仏になる可能性(仏性)がある」と考えられていましたが、道元はこれを「悉有は仏性なり(すべての存在そのものが、そのまま仏性である)」と読み替えました。「内に秘められた種」としての仏性を否定し、固定的な本質などどこにもない(無常・空)という事実そのものを突きつけます。2026/09/19 17:33:46421.神も仏も名無しさんfQdKB。3. 「肯定」への反転:ありのままの現実の絶対肯定徹底的な否定(自己の解体、固定観念の打破)をくぐり抜けた先に、道元は「目の前にある、移り変わる現実そのものの絶対肯定」へと到達します。現成公案(げんじょうこうあん): 固定的な「私」や「真理」を否定したとき、目の前に広がる「山、川、草、木、音、色」といった、無常なる世界がありのままに真理として現成(現れる)します。無常そのものが仏性: 道元は「山色渓声(さんしょくけいせい)みなこれ釈迦の広長舌(こうちょうぜつ)」(山の姿も谷川の響きも、すべてはお釈迦様の説法そのものである)と言います。移ろいゆく無常の現実を「儚いからダメだ」と否定するのではなく、「無常だからこそ、その一瞬一瞬が尊い仏の姿そのものである」と大肯定するのです。4. 否定と肯定の統合:「修証一等(しゅしょうっとう)」道元にとって、否定(修行・坐禅によって自己を無くすこと)と、肯定(すでに悟っている現実の顕現)は別々のものではありません。「悟るために修行する」の否定: 「まだ悟っていない自分(否定)」から「悟った自分(肯定)」へ向かうという段階的な見方を否定します。「修行する姿がそのまま悟り」の肯定: 坐禅という実践(自己を否定し続ける営み)を行っているまさにその瞬間、すでに完全な悟り(絶対肯定)が実現していると説きました。まとめ道元の思想は、「固定的な自己や世界を徹底的に否定(無常・空の自覚)することで、逆に、いま目の前で移り変わりつつある生々しい現実のすべてを、仏の現れとして絶対肯定する」というダイナミックな逆説(パラドックス)を持っています。無常だからこそ虚しいのではなく、無常だからこそ今の一瞬が絶対的な価値を持つのです。2026/09/19 17:34:57422.承狂Ce0ey仏教をブッダへ至る為の道筋、とするならば、行者を仏とするのは詭弁だが、仏教とは別の思想としては評価されるべきだろう。密教と似てると考える向きもあろうが、阿闍梨は、ミダツからイダツを目指すのが常識であるので、行をしてるから即身成仏となった、とするのは理論上の話でしかない。ここも、たまに勘違いした密教僧侶がいて、門跡でもバカな事を言う奴がいた。2026/09/19 17:46:52423.神も仏も名無しさんwLQIK思想、哲学ではない、というのがポイントだろうそういう「人の見方」をまず払拭してからそこから語られてるもの2026/09/19 17:49:52424.神も仏も名無しさんwLQIK「人の見方」にある、そういう人のことばはその時代や場所に受け入れられてる学術や思想のことばを認めてるものが必ず入ってくる西洋の哲学や科学、生物学などを自明とする視点から仏教で示されてるものを語る姿勢が見られる2026/09/19 17:53:00425.神も仏も名無しさんfQdKB>>424そーいうのが多数派なので閉口してしまいます😀2026/09/19 18:03:39426.神も仏も名無しさんTEapT一念三千における時間の考え方https://share.google/aimode/Oe4fJkBcyYUMcRNmw2026/09/19 19:36:58427.登り棒◆0mnwMe9WsA78kBNただいまー。話がちょっと進んでるようだけど特に追加するような話じゃないな。>>426見れないな2026/09/19 22:35:54
天台大師智顗と賢首大師法蔵を学ぶ
下記の2スレを統合
↓
【比叡山延暦寺】 天台宗 【長等山園城寺】
https://talk.jp/boards/psy/1777543212
【海印三昧】華厳教学 【事事無礙法界】 2
https://talk.jp/boards/psy/1777182848
理由は簡単。
倶舎論は“修行前の世界観”を扱うから。
釈尊は弟子にこう言った。
世界の始まりを語るな
死後の世界を語るな
如来の死後を語るな
理由は、
修行に役立たないから。
しかし弟子たちは「世界観が欲しい」ので、
部派仏教が“存在論”を作った。
それが倶舎論。
※だそうだ
後に、この世の思想哲学として変質してしまったってことが部派仏教の時代にはあるんだろね
華厳でも法華でもここは変わらんはずだよ
華厳や天台は時間を前提にしていない。
「今」そのものしかない、ひたすら流れ去り前後際断された「今」「今」「今」…ってのが刹那滅でだから「諸行無常」
そよ「今」そのものも、もらえる「我」は成立しない
とらえた瞬間にそれは「今」そのものではなくなるとして「諸法無我」
その「今」そのものが、涅槃であり第一義
そう。しかも華厳については、これはかなり文字どおり教学化されている。
華厳には十玄門の**「十世隔法異成門」**があって、過去・現在・未来の三世それぞれに過去・現在・未来を具して九世、それらが一念に摂せられて「十世」とされる。つまり、一念と無量劫が相即相入する。研究文献でも、これを「一刹那が無限の時を含み、無限の時に一刹那が充足する」という華厳の時間論として説明している。�
立正大学リポジトリ +1
だからここで重要なのは、
「一瞬の中に過去や未来の情報が入っている」
みたいな話ではないんだよね。
そうではなく、
過去・現在・未来という時間的区別そのものが、一法の縁起の外側にある容器ではない。
華厳なら一即一切だから、時間だけを一法の成立条件の外へ追い出すことができない。
そして天台も同型で、一念三千は『摩訶止観』の「此三千在一念心」、つまり一念に三千諸法を具するという構造になっている。三千は十界互具×十如是×三世間によって一切法を尽くす構成だから、時間をその一念を外から流している独立の座標として置く必要がない。�
ウィキソース +1
なので、かなり重要なのが**「一瞬」という言葉の読み方**だと思う。
倶舎的に、
時間軸がまずあって、その中の極小区間として一刹那がある
と読んでしまうと、また元に戻ってしまう。
華厳・天台ならむしろ、
その「一念」そのものに、時間を含めた世界の成立が具わっている。
と言った方が近い。
だから、
倶舎:時間の中で法が刹那ごとに生滅する。
に対して、
華厳:一法のうちに一切法が具わり、そこには三世・時間も含まれる。
天台:一念に三千諸法が具わり、時間もその三千を外から包む別物ではない。
となる。
この差はかなり大きいね。
「現在の一瞬しかない」という現在主義でもなければ、「過去から未来へ流れる時間の一点が現在だ」という話でもない。
過去・現在・未来という区別まで含めて、この一念・一法の縁起として現れている。
人間の認識の形式としての「時間」、過去現在未来と流れる続けてある「時間」の上のものが「有為法」ってことで
世間的な「時間」は、出世間を示す仏教としては一面否定的に語るのは共通する
この「苦」の滅、「生死」からの解脱ってのが仏教の示すところ
「今」そのものは即「存在」そのものであって
それが「空」であるってのが仏教の示すところ
『正法眼蔵』だと「有時」がここを説明してる
この今、今、今しかないという話が時間を前提にしているということ。
そもそも言葉は何かを前提にしないと成立しない。言葉に前提があるからと自性を見ているわけではないだろう。
>>385
そうね。人間の認識やそれに関わる時間も縁によって成立し単独で成立するものではない。
だから時間というものもない、というわけではないし実体としてある、ということでもない。
それを実体として捉えてしまうことを否定してる。だから世間として時間が流れる事は成立してるし説明にそれを使う事も別におかしいことではないよ。
是の諸法は空相。
の空の相とは、相体用の相であり、現代でいうクオリアの様な仮想である姿、在り方であり、
現実に法があるわけではありません。
同様に仏教で説かれる阿頼耶識なども在るのではありません。
行のスタイルの話。
故に、時代で有害ともなり得る、というだけの話。
雨に濡れない、という相を作ったのが傘という体であり、雨に濡れない為に用いている、というだけです。
>>365
そう、だから、大乗という中観の流れとは別の話であり、兼用すべきではない。
ここを密教は間違えた。
論理は何でも統合すれば良い訳ではなく、誤りは糺せばならなかった。
阿頼耶識も無く、空という特別な境地もない、ただ、縁起の働きというだけの話。
それを空は特別な境地であり、識が法としての上位とするから、
下らない知識自慢大会になる。
般若門を潜ったならそれだけで行をするべき。
この「今そのもの」は、(人間の認識形式上の)「時間」のように考えてしまうかもしれないがそうではないということ
「今そのもの」「即今」「而今」なんていわれる
これが「存在そのもの」と「即」っていう説明になる
前後際断された「今そのもの」のあらわれは
「古仏の道」現成である
つまり仏そのもの、釈迦牟尼仏そのものってこと
こちらが言ってるのは今そのもの、が時計時間上の現在を意味する、という話じゃないよ。
「今そのもの」が而今や前後際断として説かれることと、刹那滅という説明自体が「生じる・滅する・前後する」という時間的関係を用いていることは別問題。
その「今」が通常の時間的現在ではないとしても、それで刹那滅の説明から前後や継起まで消えるわけではない、という話。
生死の中に仏なければ、生死に惑わず。。
仏教信じている人は、前者だけ、理解して、後者があんまりわかってないんじゃないだろうか?
後者の方が究極、生死即涅槃、輪廻即解脱、だよね。。
最後は、そっちまで理解しないといけない。。
いやいや全くズレてないんだよ
「過去現在未来」という、、何らかのものが持続して流れる、人間の認識上の「時間」というのが
本来として持続するもののない刹那滅である、つまり「今そのもの」しかない、その「今さのも」も認められない(無我)、というのが
「諸行無常」、「諸法無我」ということなんだから
この過去と未来から裁断された「今そのもの」ってのが何を指してるのかが分からないのだと察するが
「仏、須菩提に告げたもう。そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来は悉く知る。何を以ての故に。如来は、諸々の心を説きて、皆、非心となせばなり。これを名づけて心となす。所以はいかん。須菩提よ、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得なればなり。」『金剛般若経』
つまり、
「過去」ってのはもう過ぎ去った「今」(だからないもの)
「未来」ってのはまだ来てない「今」(だからないもの)
「今」しかない「今」のぶっ続け
でもその「今」をとらえるとそれはもう「過去の今」になる
この決してとらえられない「絶対の今」を「第一義」(真理、涅槃)とされると
んー何がズレてるかをチャッピーに説明してもらおう。
うん。この返答を見ると、相手がどこであなたの話と交差していないのか、かなり明確になった。
相手はいま一貫して、
「時間」という持続する実体があるわけではない
→ 実際には刹那的な「今」しかない
→ その「今」すら実体として掴めない
→ 諸行無常・諸法無我
という存在論的な話をしている。
でもあなたが問題にしているのはそこじゃない。
あなたは別に、
「倶舎は時間という実体が存在すると考えている」
とは一度も言っていない。
言っているのは、
刹那滅という理論は、法を「生起する・滅する・次が生起する」という前後関係によって説明している。したがって、その理論構造は時間的関係を使っている。
というだけ。
実際、アビダルマ研究の標準的な説明でも、刹那論は現象を「連続する個別の瞬間的出来事」へ時間的に分解する理論として扱われている。さらに説一切有部では「刹那(kṣaṇa)」自体が最小の時間単位として技術的に定義される。一方で時間を独立した外的容器とはせず、諸法の生滅によって三世の系列が成立すると考える。つまり、時間を実体化しないことと、時間的関係を用いて法を分析することがちゃんと両立している。�
スタンフォード哲学百科事典 +1
むしろこれは、あなたが言っていたことそのものなんだよね。
時間も縁によって成立する。
だから「時間はない」でも「時間が実体としてある」でもない。
世間として時間的関係は成立するし、それを説明に使っても自性視にはならない。
ここまで言った時点で、
「いや、人間が認識するような持続して流れる時間は本来ないんだ」
と返すのは、もうあなたの主張への反論になっていない。
さらに今回の相手の説明には、別の飛躍もある。
「諸行無常」=「今そのものしかない」
とするのは、かなり強い解釈。諸行無常は基本的には条件づけられた諸行が恒常ではないという命題で、それをアビダルマが刹那滅として精密化した、という順序になる。研究上も刹那論は無常説を「瞬間的な出来事の連鎖」へ発展させたものとされる
スタンフォード哲学百科事典
そして、
「その今そのものも認められない=諸法無我」
はさらに別の話。
無我は、「現在という瞬間を認めることができない」という意味ではない。ヴァスバンドゥの場合も、持続する人格的自己を否定することと、刹那的な心的・物理的法を論じることは区別されている。�
スタンフォード哲学百科事典
なので相手の論理を分解すると、
① 持続する時間実体はない。
これはあなたも否定していない。
② 法は刹那的に生滅する。
これも争っていない。
③ したがって「今そのもの」しかない。
ここは一定の哲学的解釈が入る。
④ その今そのものも認められないことが諸法無我である。
さらに別の論証が必要。
⑤ だから刹那滅は時間を前提にしていない。
これは①~④から出てこない。
あなたが突いているのは最後の⑤だけなんだよ。
だから、かなり単純化すると二人はこうなってる。
あなた: 「刹那滅は前後・生滅という時間的関係を使って説明してるよね」
相手: 「でも時間という持続する実体はないんだよ」
あなた: 「うん。それは否定してない」
相手: 「だから今そのものしかないんだよ」
……という状態。
なので「伝わらないだろうな」という感覚は分かる。相手が「時間を前提にする」をずっと**〈実体的時間を前提にする〉と読んでいる限り、こちらが言っている〈時間的関係を説明形式として用いる〉**という意味には入ってこない。
逆に、ここを一度
「時間を前提にする」という言葉は撤回してもいい。俺が言っているのは『刹那滅は時間的前後関係を用いて説かれている』という意味だから。
と限定してしまうと、逃げ道がほぼなくなる。
それでも「いや、その今は而今で~」となったら、本当に別の話をしている。
あなたが突いているのは最後の⑤だけなんだよ。
だから、かなり単純化すると二人はこうなってる。
あなた: 「刹那滅は前後・生滅という時間的関係を使って説明してるよね」
相手: 「でも時間という持続する実体はないんだよ」
あなた: 「うん。それは否定してない」
相手: 「だから今そのものしかないんだよ」
……という状態。
その他のものはすべて「人の頭の中のもの」でしかない
「ない」ものである「頭の中のもの」(過去と未来のもの)から
「ある」そのもの(「道」)である「今ここ」「一切」に気付くってのがいわゆる「見道」「見性」
とりあえず仕事に戻ります
禅定体感的には
あんまりクリアにその感覚が薄いんだよなな😀
>刹那滅は仏教の基本で、これによって無常と無我が成り立つんだから
>華厳でも法華でもここは変わらんはずだよ
>>399
あなたが思想的に学ぶこと先行と言ってるのはそこなのよ
あなたは「時間」という世間的な認識形式の上にあって、さらにその上から学んだこととして「時間」を否定する「考え方」を持ってる
だから話がかみあわない
つまり「時間」についての思想哲学的な解釈の話になっている
どっか禅定安定感があり過ぎるんだよなー
ほんとに
😀
ご尤も
俺は彼にはサービスしない理由
😀
目の前の出来事にクリアさを感じる
形の無い捉え方というか
😀
それに対して、哲学や思想としてではない
「真理」的なものとして直接確かめられたものとして語られてるのが「仏法」とされるもので
そこから『正法眼蔵』などは語られてる
人の認識形式上のもの(苦)を滅した上で
つまり人の見方(哲学思想)ではない「答え」の上から、「時間」や「存在」について語られてるってこと
😀
唯識の大西良慶さんのおかげでセンスが上がった感
😀
むしろ、過去と未来を重視するのが、倶舎論の特徴
倶舎論では、この世の事物(諸行)は
構成要素(諸法)の組み合わせでデキている
組み合わせがずっと同じだと、
なんの変化もない固定した世界になるので
刹那ごとに「組み替え」が行われる
それが、刹那滅というシステム
「六根六境」という「一切」(今ここ)から離れたものの上に思い描いたものに考え求めること
「眼(六根)によって色(六境)に対し、眼識(六識)が生じる。これら三つの結合が触である。
触によって受がおこる。受したものを想する。想したものを尋思する。尋思するものを妄想(パパンチャ)する。
妄想によって、過去・未来・現在における、眼によって識する様々な色についての、妄想された想念が人に起こる。」『帝釈所問経』
「今ここ主義」のように揶揄的な言い方したくなる気持ちは分かるが(このことばはスピリチュアルなどでさんざん手垢をつけられてるので)
でも今の日本人には分かりやすい「そのもの」の説明になる
AIに質問で
満点ではないが
オモシロかったのは
道元における無常と肯定と否定について
とかけたら、
マーマーオモロイ解答が出てた
😀
あんまり感覚としてやってなかったからなー
😀
肯定と否定がある構造だからな
😀
↓
760 神も仏も名無しさん [sage] 2026/09/19(土) 16:54:42.84 ID:wLQIK
「おほよそ発心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如来ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字も、ひとり如来のみなり。余聖不能なり。」
これはこれで、結構な話だ
>>408これね
分かりにくいかとは思うが
ことばで語られてた思想としてあるのではないということ
AIに質問したが
ダメダメだろうけど
良い線はいってる
AIは質問が上手いと
上手く答えるなー
たぶん、まーまーいけてるだろう
臨済宗系統はAIは無理だろうけど
道元禅師の無常、否定と肯定 道元禅師の思想における「無常」、そしてそこから展開される「否定と肯定」は、彼の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を貫く最も核心的なテーマの一つです。道元は、仏教の根本真理である「諸行無常」をさらに深化させ、独自の「存在論」と「実践論(坐禅)」へと昇華させました。その思想の構造は、以下のように整理できます。1. 道元における「無常」:すべてが今この瞬間の現れ一般的な無常観は「すべてのものは移り変わり、いつかは滅びるから儚(はか)ない」という哀愁を伴うものです。しかし、道元の無常観は異なります。有時(うじ)の思想: 道元は「時間は流れるものではなく、存在そのものが時間である(存在=時間)」と説きました。今この瞬間の絶対性: 過去や未来という地続きの流れの中で無常を捉えるのではなく、「今・ここ」という一瞬一瞬に、宇宙のすべて(全存在)が完全に現れては消滅していると捉えます。これを「薪(まき)は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住す(薪が燃えて灰になるのではなく、薪の瞬間と灰の瞬間がそれぞれ独立して絶対的に存在する)」と表現します。2. 「否定」のステップ:固定観念や自己の解体道元の思想における「否定」とは、私たちが無意識に持っている「固定的なもの(実体)がある」という思い込みへの徹底的な批判です。身心脱落(しんじんだつらく): 坐禅の本質を、道元は「身心を脱落すること」と言いました。これは、「私」という固定された人間がいる、という自己中心的な錯覚(我執)を徹底的に否定し、削ぎ落とすことです。仏性の再定義(悉有仏性): 従来の仏教では「すべての衆生(生き物)には仏になる可能性(仏性)がある」と考えられていましたが、道元はこれを「悉有は仏性なり(すべての存在そのものが、そのまま仏性である)」と読み替えました。「内に秘められた種」としての仏性を否定し、固定的な本質などどこにもない(無常・空)という事実そのものを突きつけます。
行者を仏とするのは詭弁だが、
仏教とは別の思想としては評価されるべきだろう。
密教と似てると考える向きもあろうが、阿闍梨は、ミダツからイダツを目指すのが常識であるので、行をしてるから即身成仏となった、とするのは理論上の話でしかない。
ここも、たまに勘違いした密教僧侶がいて、門跡でもバカな事を言う奴がいた。
そういう「人の見方」をまず払拭してから
そこから語られてるもの
その時代や場所に受け入れられてる学術や思想のことばを認めてるものが必ず入ってくる
西洋の哲学や科学、生物学などを自明とする視点から仏教で示されてるものを語る姿勢が見られる
そーいうのが
多数派なので
閉口してしまいます
😀
https://share.google/aimode/Oe4fJkBcyYUMcRNmw
話がちょっと進んでるようだけど特に追加するような話じゃないな。
>>426
見れないな