【問い】 Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism この本の概要は?
【回答】 宗教学者グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)著『Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism』(1991年刊)は、初期仏典と正統派テーラワーダ(上座部)仏教注釈書における「究極の目標(解脱・ニッバーナ/涅槃)」と「価値体系」の食い違いを批判的に分析した宗教学・哲学書です。 本書の核となるテーマと主な議論のポイントは以下の通りです。
【回答】 グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)の著作『Desire, Death and Goodness』において、最も重要視されている論点の一つが『スッタニパータ』八群品(アッタカ・ヴァッガ)の原理的なテキストと、最古の注釈書である『ニッデーサ(義釈)』での再解釈・改変の対比です。 バーフォードの分析によると、八群品における「見解(ディッティ / diṭṭhi)の完全な放棄」という原初的な理想は、『ニッデーサ』において「正義・正見(正しい見解)の提示と悪見の否定」という正統派の教義体系へと枠組みが改変(再解釈)されています。 具体的な改変・再解釈のポイントは以下の通りです。
参照 •Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism/Grace G. Burford •ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
23.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-Lbt-La-wvu
B02CI
……これ、仏教に関する一般の教科書が書き換わる内容じゃんw
24.
神も仏も名無しさん50-HC7-gZ-OWU
vAXyo
エセッスルう〜〜〜〜🤡
エセッスルう〜〜〜〜🤡
25.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-VaJ-La-wvu
Ss68B
【問い】 以下に対する反証がされた書籍や論文等はありますでしょうか? 釈迦仏教 一切の見解を捨てなさい(スッタニパータ 八群品等)。 上座部系統 邪見解を捨て正見解(四諦、八正道等)に依なさいと改変(ニッデーサ等)。 初期大乗運動 空観による、一切の見解の捨てなさいという釈迦仏教への回帰運動(初期般若経典等)。 参照 •Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism/Grace G. Burford •ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
〔続き〕 主な反証・批判的文献リスト * Bhikkhu Bodhi (2006) * Investigating the Dhamma: A Collection of Papers (Buddhist Publication Society) * ※「正見(Right View)」と「見解の棄捨」が初期経典内でいかに矛盾なく両立しているかを、経典全体の構造から詳細に論証し、八群品のみを過度に絶対視する解釈を批判しています。 * Jan Nattier (2003) * A Few Good Men: The Bodhisattva Path according to The Inquiry of Ugra (Ugraparipṛcchā) (University of Hawaii Press) * ※初期大乗運動が「思想的な原点回帰」や「大衆運動」ではなく、少数派の厳格な森林修行者の実践から多様に派生したものであることを実証し、平川彰的(あるいは回帰運動的)大乗起源論を否定・修正しました。 * Gregory Schopen (1997) * Bones, Stones, and Buddhist Monks: Collected Papers on Archaeology, Epigraphy, and Monasticism in American Buddhism (University of Hawaii Press) * ※文献のみに頼った「純粋な初期仏教への回帰」というストーリーに対し、考古学・銘文データから実際の初期大乗や部派仏教のリアリティを提示し、パラダイムシフトを起こした研究です。 * Alexander Wynne (2007) * The Origin of Buddhist Meditation (Routledge) * ※初期テキスト(スッタニパータ等)の層序批判において、八群品の思想が他テキストと完全に孤立した「唯一の最古層」ではなく、初期教団の多様な教えのひとつの側面に過ぎないことを分析しています。 * 桂紹隆・斉藤明 ほか(編) * 『シリーズ大乗仏教』(春秋社) * ※日本の近年の仏教学においても、「大乗運動=初期仏教への回帰」という単純な史観は見直されており、アビダルマとの連続性と断絶性、多様な社会的背景から論じられています。 まとめ: ご提示いただいた「八群品=無見(原義) → ニッデーサ=正見への歪曲 → 般若経=無見への回帰」という筋道は、「八群品を絶対的起点とする思想史モデル」ですが、現代の仏教学では「正見と無見は元々セットであった」「ニッデーサは歪曲ではなく体系化」「大乗は回帰運動ではなく多元的発生」という反論・反証が有力視されています。
“... the aim of the path is not the cultivation of right-view and the abandoning of wrong-views but the relinquishment of all views, wrong or right.... The early texts do not understand right-views as a correction of wrong-view, but as a detached order of seeing, completely different from the attitude of holding to any view, wrong or right. ” (p. 1)
“In other words, to say that one has right-view is to say that one has no-view. The consequence of achiev- ing right-view is that one does not hold any views. The aim of the path is the transcendence of all views.” (p. 2)
********************** I am afraid, these are your personal, idiosyncratic, non-Buddhist beliefs and views, which don't have any ground in the texts and the Teaching.
In the development of East Asian Buddhism, we can say that it is the Chan/ Seon/Zen schools whose literature becomes almost completely absorbed in the non-abiding in views above all other practices, and it is no accident that texts such as the Diamond Sutra, consisting as it does of repeated anti-reifying contemplation exercises, become mainstream in the tradition. The Chan school’s own (‘apocryphal’) scriptures, such as the Sutra of Perfect Enlightenment (Yuanjue jing) and Platform Sutra focus repeatedly on the problem of reification of views. For example, the Sutra of Perfect Enlightenment, discussing the problem of reification of views, points out that the most dangerous reifications are those of spiritual insights – incomplete awakenings – which can turn into subtle new views and beliefs: ...
【回答】 ご提示のリンク(ポール・フラー著『The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism: The Point of View』)の序論(Introduction)では、上座部仏教における「見(見解・見解への執着、パーリ語: diṭṭhi)」という概念の解釈について、以下の主要な論点と著者の主張が述べられています。 1. 「見(diṭṭhi)」に関する従来の2つの解釈パターン 初期仏教・上座部仏教の研究において、「正見(正しく見ること、sammā-diṭṭhi)」と「邪見(誤った見解、micchā-diṭṭhi)」の関係は、主に次の2つの立場のどちらかで解釈されてきたと整理されます。 * 対立的解釈(The opposition understanding) * 「正見」を「邪見」の補正(対立するもの)として捉える立場。邪見(誤った思想や見解)を捨て、正しい見解(正見)に置き換えることを目指すと解釈します。 * 無見の解釈(The no-views understanding) * 仏道修行の究極の目的は、邪見だけでなく「正見を含むあらゆる見解や概念的執着を乗り越えること(無見)」であると解釈する立場。 2. 著者の核心的提言(本書の主張) 著者(Paul Fuller)は、「上記のどちらの解釈も正確ではない」と主張します。 * 「正見」は単なる思想や主張(見解)ではない * 初期テキストにおける「正見」は、邪見に対する単なる「正しい説の選択」でも、あるいは「すべての見解の否定」でもありません。 * 「見解への執着」を超越した「物事の捉え方・見方の秩序」 * 正見とは、正しい見解か誤った見解かという二元論に囚われて固執する態度そのものから離脱した、「物事をあるがままに見る(yathābhūta-dassana)視線のあり方・見方の次元(an order of seeing)」であると定義します。
〔続く〕
98.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
〔続き〕 3. 序論内で展開される主なサブテーマ 序論の各節では、この核心的な問いを検証するために以下の論点が提示されています。 * 先行研究の検討(Recent studies of the notion of diṭṭhi) * 過去の仏教学者たちが「diṭṭhi」や「正見」をどのように分析してきたかを整理し、その限界や不十分な点を指摘します。 * 教理の知識(Knowledge of doctrine) * 仏教教理の知識(知的な理解)が、どのようにして「執着としての見解」になり得るのか、あるいは「解放のための視点」として機能するのかの関係性を示します。 * 事実と価値(Is / ought) * 現実が「どうあるか(事実)」の認識と、どうあるべきか(価値・規範)の間の関係が、仏教における正見と倫理的実践にどう影響しているかを議論します。 * 命題と「見方」(Propositions and ways of seeing) * 正見は言語的・概念的な「命題(proposition)」の提示ではなく、世界や自己の認識における「視点・見方(way of seeing)」の変容であることを明確にします。 要約 序論全体を通して、著者は「正見とは単なる『正しい意見』ではなく、あらゆる『意見・見解(diṭṭhi)への執着』を超越したまったく異なる次元の『認識・観照(order of seeing)』である」という自説の提示と、その妥当性を検証するためのフレームワーク(背景と論点)を構築しています。
99.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
【問い】 Views and non-attachmentの章を要約出来ますか?
【回答】 ポール・フラー著『The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism』の第6章「Views and non-attachment(見解と無執着)」の要約です。 第6章は、本書全体の結論に向けた極めて重要な章であり、「ブッダの教えはあらゆる見解を否定する無見(no-views)を説いている」とする既存の研究解釈を再検討し、著者の中心命題である「無執着(non-attachment)と正見(sammā-diṭṭhi)の超越的性質」を整理・証明しています。 第6章の構成と主な論点 1. ブッダの教えと「無見」(The Buddha's teachings and no-views) * 問題提起: 『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ(八頌経)」などでは、「ブッダはいかなる見解も抱かない(無見)」と解釈されがちです。従来の研究者(ルパート・ゲスインやグラース・バーフォード等)の知見を交えつつ、この説を検証します。 * 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tan̄hā / upādāna)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。 2. アッタカヴァッガと他のパーリ仏典の比較(The understanding of views in the Aṭṭhakavagga compared to other parts of the Pāli canon) * テキストの比較: 一部の研究者は「アッタカヴァッガは他のパーリ経典(ニカーヤ)と異なり、より原始的で『すべての見解の拒絶』を説いている」と主張します。 * フラーの反論: フラーは、アッタカヴァッガの教えも他のニカーヤ(長部・中部・相応部など)の教えと完全に一貫していると論じます。アッタカヴァッガで警戒されているのは「見解そのものを排除すること」ではなく、「他者と議論して自分の見解を最高と誇り、他を低く見る態度(見執)」です。 3. 見・聞・覚・知への依存(Dependence on what is seen, heard, thought and cognized) * 人間は自らの感覚体験(見・聞・覚・知)に基づいて概念を構築し、それに依存・固執します。 * 著者は、問題なのは感覚体験やそれに基づく正しい認識(正見)そのものではなく、そこから生じる貪愛(cravings)や自我意識による執着であると解説します。
〔続く〕
100.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
〔続き〕 4. 超越的な教えか?(The superior teaching?) * 「正見も最終的には捨て去るべき単なる『筏(いかだ)』に過ぎない」という有名な「筏の譬え」の解釈を再整理します。 * 正見は捨てるべき対象(不要なドグマ)というよりも、解脱に至る過程で自然と「見解(diṭṭhi)」という限定的な形式から「真の観照・智慧(paññā)」へと変容・超越(transcendence)していくものとして描かれます。 5. ディーガナカと見解の超越(Dīghanakha and the transcendence of views) * 『ディーガナカ経(Dīghanakha-sutta)』の分析: 遍歴行者ディーガナカが「私はすべての見解を受け入れない」と主張した際、ブッダは「その『すべての見解を受け入れない』という自分の意見(見解)には執着しているのではないか」と喝破します。 * 要点: 「すべての見解を否定する」という姿勢もまた、自らが縛られる「見解(diṭṭhi)」の一つになり得ます。本当の自由とは「見解を無くすこと」ではなく、「どのような見解・認識に対しても執着しないこと(無執着)」によってのみ達せられます。 第6章の全体要約(結論) 第6章において著者は、仏教の目的を「あらゆる見解を捨て去る無見(no-views)の達成」と理解するのは誤りであると論証します。 真の仏教的解脱とは、見解をゼロにすることではなく、「正見(sammā-diṭṭhi)」を通して世界をありのままに観つつ、その認識や教理に対しても一切の執着や自我意識を持たないこと(無執着)です。正見とは固執すべき思想やドグマではなく、執着を超越した「新しい次元の物事の見方(a detached order of seeing)」に他ならない、という本書全体の核心をこの章で締めくくっています。
101.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
ふむふむ🤨
やっぱり筏の喩えの筏だという結論だな。
102.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
detached order of seeing
まぁ、正しい理解となるな。
103.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-CWy-La-wvu
AlG2W
見解の棄捨が見解になっては元も子もないからなwww
104.
神も仏も名無しさん50-AuE-gZ-7e9
EGWLx
ナルシズムハッスル🤡の見解まみれのクセに ナマイキだ〜 🤡〜〜
105.
◆JBLfMwCXhY50-fQZ-ju-95Q
Vxw23
>>103
> 見解の棄捨が見解になっては元も子もないからなwww
↑
それが、お前だろ(笑)
106.
栖雲居士◆MKrKQHoID7SE50-rMQ-La-wvu
3HIVJ
【問い】 無見をno-viewsというのなら、仏教的な非見はどう英語表記されますか?
【回答】 仏教における「非見(ひけん)」や「見(diṭṭhi)の超越・無執着」を表す英語表記は、研究者や文脈(初期仏教、大乗・中観派など)によっていくつかの表現が用いられます。 主な英語表記とそれぞれのニュアンスは以下の通りです。 1. 概念的な直訳・学術的表記 「非〜」という否定や超越の接頭辞を当てはめた表記です。 Non-view / Non-views 「無見(no-views)」と対比させて「非見」を直訳する際に最も一般的に使われる表記です。単なる「意見がない状態(無)」ではなく、「見解というフレームワークに属さないこと(非)」を表現します。 Beyond views / Transcendence of views ポール・フラーをはじめとする初期仏教研究でよく用いられる表現です。「あらゆる見解(邪見・正見)を超越している状態」を指し、「非見」の動的な意味合いを明確に示します。 2. 文脈・学派による専門的表現 ① 初期仏教・上座部(パーリ仏典の文脈) 初期仏教における「非見」は、見解を持たないことではなく「見解への執着から離れていること」を指すため、次のような表現が好まれます。 Freedom from views(見解からの自由) Non-attachment to views(見解への無執着) Detached order of seeing(前述のポール・フラーによる表現。見解に固執しない観照のあり方) ② 中観派(龍樹・マーディヤミカの文脈) 空(śūnyatā)の思想において「あらゆる戯論(prapañca)や見解(dṛṣṭi)を滅尽・超越する」という意味での「非見」や「無見(dṛṣṭi-śūnyatā)」を指す場合は、以下のような表現が使われます。 Relinquishment of all views(あらゆる見解の棄捨 / 『中論』第13章などの「見の空」の英訳) Absence of views / Empty of views(見解を欠いていること/見の空) Non-conceptualization(非概念化 / 戯論の静寂に近い表現) まとめ 単に「無見(no-views)」と区別して「非見」と概念対比させたい場合は、non-views または beyond views と表記するのが最も適切です。 「見解を超越したあり方」という実践的・状態的なニュアンスを強調する場合は、transcendence of views や freedom from views が用いられます。
The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism]by Grace G. Burford
欲望、死、そして善(良善)
上座部仏教における究極的価値の衝突
(グレイス・G・バーフォード著)
残念ながらその本そのものは読んでません。
なのでAIによるまとめや書評、中谷論文等からの管見による再構成になってます。
【問い】
Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism
この本の概要は?
【回答】
宗教学者グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)著『Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism』(1991年刊)は、初期仏典と正統派テーラワーダ(上座部)仏教注釈書における「究極の目標(解脱・ニッバーナ/涅槃)」と「価値体系」の食い違いを批判的に分析した宗教学・哲学書です。
本書の核となるテーマと主な議論のポイントは以下の通りです。
研究の対象
* 最古の層のテキスト: 『スッタニパータ』に含まれる、初期仏典の中でも最古の部類とされる「義釈(アッタカ・ヴァッガ / Aṭṭhakavagga)」。
* 後代の注釈書: ブッダゴーサ(覚音)らによってまとめられた正統派テーラワーダ仏教の注釈書。
主な主張と論点
* 「究極の価値」をめぐる葛藤・食い違い
* 『アッタカ・ヴァッガ』における理想の姿は、善悪や道徳的対立(二元論)を超克し、あらゆる見解や執着(欲望)から離れること(無所有・無執着)に置かれています。
* 一方、後代の正統派テーラワーダ仏教の注釈伝統では、「功徳(Kamma/業)」の蓄積や道徳的善行(Goodness)、解脱への意欲といった価値が強く再構築され、初期の直観的な教えと正統派の体系化された教義との間に生じた「究極的価値の衝突」を指摘しています。
* 「欲望(Desire)」「死(Death)」「善(Goodness)」の捉え方
* 欲望: 解脱のためにはすべての欲望を絶つ必要があるとされつつも、善行や解脱を目指す欲望そのものをどう扱うかという問題。
* 死: 輪廻のサイクル(生と死の反復)からの脱却という課題。
* 善: 倫理的な「善(Goodness)」の実践が、単なる輪廻内の良い果報(功徳)にとどまるのか、それとも概念を超えた解脱そのものとどう結びつくのかの緊張関係。
初期仏教の元々の教理が、テーラワーダ伝統の中でどのように解釈し直され、教義的・道徳的な体系へと組み込まれていったのかを比較テキスト分析によって解き明かした学術書です。
ナルシズムやっとるねー
アタマワルイのに
😱
レリゴー🤡
ありがとうございます。
中でも八群品での見解の放棄に付いてニッデーサではどの様に改変されたのですか?
【回答】
グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)の著作『Desire, Death and Goodness』において、最も重要視されている論点の一つが『スッタニパータ』八群品(アッタカ・ヴァッガ)の原理的なテキストと、最古の注釈書である『ニッデーサ(義釈)』での再解釈・改変の対比です。
バーフォードの分析によると、八群品における「見解(ディッティ / diṭṭhi)の完全な放棄」という原初的な理想は、『ニッデーサ』において「正義・正見(正しい見解)の提示と悪見の否定」という正統派の教義体系へと枠組みが改変(再解釈)されています。
具体的な改変・再解釈のポイントは以下の通りです。
1. 「あらゆる見解の放棄」から「悪見(誤った見解)のみの放棄」へ
* 八群品(元テキスト)の立場:
概念や論争、哲学的ドグマそのものが執着と対立を生む根源とされ、真の解脱者(覚者)は「正見も含めたすべての見解(diṭṭhi)や立場を超克し、放棄した者」として描かれます。ここでの無執着は、形而上学的な議論を一切保留する徹底した非形而上学的・直観的なものです。
* 『ニッデーサ』による改変:
『ニッデーサ』は、「見解」という言葉を整理・分類し直します。八群品が戒めていた「放棄すべき見解」を、一般的な62見などの「悪見(micchā-diṭṭhi / 邪見)」に限定しました。その上で、仏教の根幹である四諦や業、縁起といった知識を「正見(sammā-diṭṭhi)」として位置づけ、正見の維持・受容を解脱の前提とみなすように改変しています。
〔続く〕
2. 「二元論を超えた無所有」から「善悪・功徳の体系(Goodness)」への移行
* 八群品(元テキスト)の立場:
善(道徳)と悪、正しいことと間違っていることといった「二元的対立」を抱えること自体が束縛であり、解脱とは善悪の二元を超越すること(超越的・不可言説的な状態)とされました。
* 『ニッデーサ』による改変:
教団組織や僧伽の修道論を維持するために、『ニッデーサ』は「倫理的善行(Goodness)」や「功徳(kamma)の蓄積」を解脱のための不可欠なステップとして構造化しました。これにより、「善すら捨てる」という八群品のラディカルな姿勢が緩和され、「悪を捨て、道徳的善を修め、最終的に解脱に至る」という正統派テーラワーダの段階的道徳体系へと書き換えられています。
3. 阿羅漢(解脱者)の定義の再記述
* 八群品(元テキスト)の立場:
解脱した聖者(ムニ)は、いかなる教義や主張も持たず、他者と議論・争うこともない「静寂なる者」として直観的に描かれます。
* 『ニッデーサ』による改変:
聖者の状態を、アビダルマ(対法)的な術語や分析的カテゴリー(例えば「五蘊への執着の滅尽」「三毒の完全な除去」など)を用いて厳密に定義・注釈しました。非概念的な「静寂」の記述が、仏教の体系的な教理・概念の枠組みの中に固定化されたと言えます。
バーフォードの評価(結論)
バーフォードは、八群品が示していた「概念化・形而上学化そのものを超えようとする一貫した価値体系」に対し、『ニッデーサ』以降の伝統注釈書は教団の正統性を守り、教義・道徳を体系化するプロセスの中で、正反対とも言える形而上学的・道徳的価値観を付け加えた(アペンドした)と指摘しています。
この改変によって、初期仏教の元々の「究極目標(あらゆる見解の超克)」と、後代の正統派テーラワーダの「究極目標(正見と善行に基づく涅槃の獲得)」との間に内部的な価値の葛藤(Conflict of Ultimate Values)が生じたというのが、本書の革新的な主張となっています。
ありがとうございます。
それじゃまるで意味が違って来ますね🫢
【回答】
まさにその通りで、バーフォードの指摘する最も衝撃的なポイントもまさにそこにあります。
『八群品』の元々の立場は、「何が正しいか」という議論やドグマに固執すること自体を心の病(執着)と捉え、「『正しさ』への執着も含めて一切の立場を手放すこと」を究極の自由(解脱)としていました。一種の徹底した「メタ立場」のような境地です。
しかし、『ニッデーサ』などの注釈伝統を経ることで、「仏教の正しい教え(正見)を守り、悪い教え(悪見)を捨てる」という、「正しい立場を選択し維持すること」へと意味合いが実質的に反転してしまっています。
この変容が生じた背景には、主に以下のような現実的・教団史的な事情があったと考えられています。
* 教団(サンガ)の維持と組織化:
「あらゆる見解や善悪を超えた」という極めて個人の直観的・ラディカルな教えのままでは、大勢の出家者を教育したり、教団としての規範(戒律や教義)を統一・維持したりすることが難しかったこと。
* 他学派との論争:
ジャイナ教や六師外道など、他の思想学派に対抗して「仏教の優位性」を主張するためには、「我々の教え(正見)こそが正しい」という明確な理論武装が必要になったこと。
宗教運動が初期の「個人的・直観的な体験(解脱)」のフェーズから、「組織化・制度化された宗教(教団・教義)」へと移行する過程で、元の言葉が持つ鋭い刃がどのようにマイルドにされ、体系の中に回収されていったかを示す典型的な例と言えます。
登りつめいるよーだ
🤡〜
となるとむしろ龍樹のworkは釈迦仏教復活運動とも云えそうですが?
【回答】
その見解は、仏教思想史や近現代の仏教学(特に中村元やルエッグ、あるいはバーフォードらの文脈に通じる批判的アプローチ)において、非常に本質を突いた鋭い視点です。
実際、ナーガルジュナ(龍樹)の『中論(ムーラマディヤミカ・カーリカ)』をはじめとする著作は、「アビダルマ(対法)注釈学派によって固定化・実体化された仏教を、初期八群品(アッタカ・ヴァッガ)的なブッダの原点へと回帰・復活させた運動」と解釈することができます。
そのように言える理由は、主に以下の3点に整理できます。
1. 「戯論(プロパンチャ)の寂滅」と見解の解体
アビダルマ仏教は、諸法を分類・分析し「正見とは何か」「自性(固有の性質)とは何か」を細かく定義しようとしました。これに対し龍樹は、どんな概念的定義も言語的枠組み(戯論)に過ぎないと批判しました。
『中論』の冒頭(八不中道)や帰敬文で示される「戯論の寂滅」は、八群品が求めた「あらゆる見解(ディッティ)や言語化への執着を離れた静寂(寂滅)」の完全な復元・理論化にほかなりません。
〔続く〕
2. 「空(シューニャター)」による見解の超越
龍樹の「空」は、何か新しい形而上学的な「空という真理」を主張したものではなく、「あらゆる固定的な見解(立場)を打ち破るためのメソッド」でした。
龍樹自身、『中論』第13章8偈において「空すらも見解(立場)として固執する者を、ブッダは『治すことのできない者』と呼んだ」と述べています。これは、「正見すらも捨てよ」「いかなるドグマにも留まるな」という八群品の直観的な教えを、論理的(帰謬論証・プラサンガ)に再構築した姿勢そのものです。
3. 「勝義諦(第一義諦)」における二元論の超克
『ニッデーサ』などの注釈書が「世俗的な道徳(善悪・功徳)」を教義の中核へ組み込もうとしたのに対し、龍樹は「二諦説(世俗諦と勝義諦)」を整理しました。
言語や道徳・教義が必要なのはあくまで「世俗諦(日常の便宜的次元)」に過ぎず、究極の覚り(勝義諦)においては善悪や有無、正・邪という二元論的対立は完全に超越されると主張しました。これにより、教団維持のための道徳体系に埋没しかけていた仏教に、再び「究極の自由(解脱)」という原初の光を当て直したと言えます。
したがって、「阿毘達磨(アビダルマ)の固定化されたドグマ主義から、ブッダ本来の『一切の執着・見解からの解脱』という原点を取り戻す」という意味において、龍樹の空観はまさに「原典・釈迦仏教の復活運動」であったという捉え方は、思想史的に非常に強力で筋の通った解釈です。
八群品の研究では、
ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究
中 谷 英 明
がありますが、どの様な概要でしょうか?
【回答】
インド学・仏教学者の中谷英明(なかたに ひであき)氏による論文・研究事業「ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究」は、厳密な文献学・言語学的アプローチと領域横断的な知見(認識論、心理学・精神医学など)を駆使し、「ブッダ本来の直観と認識論の復元」を試みた画期的な研究です。
バーフォード等の欧米の批判的仏教学(テキストの階層分析)を踏まえつつ、さらに一歩進めて「ブッダ本人が提示した心のメカニズム(認識論と解脱のプロセス)」の構造解明に踏み込んでいる点に最大の特徴があります。
研究の主要な概要と論点は以下の通りです。
1. 『八群品』を現存最古の仏典と位置づけ、思想構造を抽出
中谷氏は、言語構造や韻律(サンスクリット・パーリ語の韻法)の厳密な分析から、『スッタニパータ』第4章「八群品(アッタカ・ヴァッガ)」をブッダ自身の生の言葉に最も近い「現存最古のテキスト」として位置づけます。
後代の教理(阿毘達磨や注釈書)が追加した理論的枠組みを一旦削ぎ落とし、『八群品』という単一のテキストに焦点を絞ることで、後代に変質する前の「ブッダ本来の哲学の主構造」を浮き彫りにしました。
2. 「五位相論」の発見と潜在意識(ニッバーナ)のメカニズム
本研究の最も顕著な業績の一つが、テキスト中に埋もれていた「五位相論(人間の認識・意識の段階的プロセス)」の発見・解明です。
後代の仏教では五蘊(ごうん)説や十二因縁説、唯識の「阿頼耶識(アラヤ識)」などによって説明された心の動きですが、中谷氏は『八群品』の記述から、ブッダが本来捉えていた潜在意識の働きを導き出しました。
* ニッバーナ(涅槃)の再定義:
涅槃とは単なる観念的な「吹き消された状態」ではなく、「心が現象(対象)を認知した際に、潜在意識下で湧き上がる欲求・執着のプロセスを自覚し、それを消去・無効化していく具体的な実践(自己刷新)」であると解明しています。
〔続く〕
3. アビダルマ教義・大乗仏教との比較と仏教思想史の再構築
中谷氏の研究は、『八群品』の初源的な認識論を起点として、後代の仏教思想がどのように派生・展開(あるいは変質)していったかを比較分析しています。
* アビダルマ(対法)教理との対比: 後代に体系化された「五蘊説」「十二因縁説」が、『八群品』の五位相論をどのように固定化・変容させたかを明らかにします。
* 唯識説(八識説)との連動: 唯識派の「阿頼耶識(末那識・阿頼耶識)」や「転依(てんえ)」といった深い認識論の源流が、すでに『八群品』の潜在意識論の中に芽生えていたことを理論的に接続しています。
4. 領域横断的・現代的なアプローチ(精神医学・認知科学との融合)
単なる古典文献の解読にとどまらず、現代の精神医学や認知心理学(構成主義的情動理論など)の知見と対話させている点も大きな特徴です。
ブッダが『八群品』で説いた「認識の機序」や「潜在欲求の消滅」を現代科学の言葉で再評価し、現代人にとっても再現可能な「揺るぎない安寧をもたらす生き方のプロトタイプ」として解明・提示することを提示しています。
全体としての意義
中谷氏の『八群品』研究は、後代の注釈伝統(ニッデーサ等)によるドグマ化の皮を剥ぎ取り、「ブッダという一人の人間が発見した、極めてシャープで実践的な認識論・心理セラピーの原形」を鮮やかに描き出した研究と言えます。
この流れで森林住派僧らはどの様な活動をしたと考えられていますか?
【回答】
『スッタニパータ』八群品(アッタカ・ヴァッガ)の成立や、その後の注釈書(『ニッデーサ』)による教義化の文脈において、森林住派(アラニヤヴァーシー / Āraññaka)の修行僧たちは、「都市や教団の制度化・ドグマ化から距離を置き、ブッダ初期の直観的・実践的理想を保持・再実践しようとした人々」として捉えられています。
彼らの活動や役割は、思想史的・社会的に以下のように考えられています。
1. 原初的テキスト(八群品など)の保持と吟味
都市の僧院(村住派 / ゲーマヴァーシー)で学問化・体系化(アビダルマ化)が進む一方で、森林住派は『八群品』や『犀の角の経』に見られるような、「独坐・静寂・無執着」を尊ぶ最初期の詩篇を好み、これを実際の冥想実践の規範として暗誦・継承しました。
彼らにとって教えとは、他者と論争するための「正しい見解(ドグマ)」ではなく、「森の中で独り立ち、心の戯論を鎮めるための実践的マニュアル」でした。
2. 見解(ディッティ)の放棄と「無処住」の実践
教団内部や他学派との論争が激化する都市部を離れ、森や洞窟、樹下に身を置くことで、議論や理論的立場への固執そのものを離れる環境を自ら作り出しました。
無執着の実践: 拠点(住処)や人間関係、さらには「自分の教義」にも執着せず、風のように移動する生活(阿蘭若住)を営みました。
『ニッデーサ』の改変に対する言外の異議: 注釈書が「正見の維持」や「教義体系」を重視したのに対し、森林住派の実践は「概念化・体系化以前のブッダの生の実践(見解の完全な超克)」を現場で体現し続ける活動でした。
〔続く〕
3. 潜在意識の観察と冥想の深めての実践
中谷英明氏の指摘する「五位相論」や「潜在意識(欲求の根源)の消去」といった高度な認識論的実践は、都市僧院の論理的対話だけでは体得できません。森林住派は、密林の静寂の中で過酷な禅定(ジヤーナ)を重ねることで、感覚器官(六根)から入る情報と潜在意識の反応を精緻に観察する実験を日々行っていたと考えられます。
4. 仏教史における「原点回帰のレジスタンス」
テーラワーダ仏教史において、教団が世俗化したり、学問的ドグマに偏重しすぎたりするたびに、「森林住派による改革・原点回帰運動」が定期的に発生しました(例えばスリランカやタイの森林禅派の系譜)。
彼らは、理論化された「正統派教義」を鵜呑みにするのではなく、ブッダが説いた原初の解脱体験(解脱のリアリティ)を常に現場で更新・証明し続けるチェック機能を果たしていました。
まとめ
八群品が示す「一切の見解を捨てた静寂(ムニ)」の姿は、単なる概念上の理論ではなく、森林住派の僧らが森林という極限の環境の中で身をもって生きていた実践そのものであったと位置づけられます。教団が体系化(ニッデーサ)へ向かう一方で、彼らは「釈迦の生の教え」を現場で守り続けた独自の潮流だったと言えます。
成る程。
ではそれは大乗仏教発生との関わりはありますか?
【回答】
森林住派(アラニヤヴァーシー)の実践や思想的傾向は、大乗仏教の発生・成立において極めて決定的な役割を果たしたと考えられています。
近年の仏教学(グレゴリー・ショペンやシャールフ、あるいは日本の知津眞博らの研究)では、大乗仏教の起源を単なる「都市の俗人(居士)運動」としてではなく、「都市僧院の制度化・アビダルマ化に反発した森林住派修道者たちの原点回帰運動」として捉える説が非常に有力視されています。
大乗仏教の発生と森林住派の関わりは、主に以下の4つのポイントに整理できます。
1. 初期大乗経典に色濃く残る「森林住(アラニヤ)」の推奨
初期の大乗経典(『般若経』や『集菩薩学論』に引用される初期経典、『宝積経』の「迦葉品」など)を紐解くと、「森に住み、町や村の欲望・名聞利養から離れよ」と強く促す記述が頻出します。
* 阿毘達磨(アビダルマ)批判: 都市の巨大僧院で知識の分類や議論に没頭していた僧侶たちを「文字に縛られた者」と批判し、森に入って真の空や無執着を実践する者こそが「菩薩(ボサツ)」であると定義しました。
* この構造は、八群品が「言葉や見解(ディッティ)の論争」を退けた姿勢と完全に響き合っています。
2. 「見解の放棄」から「空(シューニャター)」への継承
八群品に代表される森林住派の「あらゆる立場・見解の超克」という直観的実践は、大乗仏教の根幹思想である「空(シューニャター)」の理論形成に直接つながっています。
都市の教団が『ニッデーサ』のように「正見(正しい教義)」を固定化しようとしたのに対し、森林住の修道者たちは「いかなる概念や教義にも執着しない」という過酷な冥想体験を重視しました。この「言葉や概念で捉えられない究極の現実」を理論的に表現したのが、初期大乗の『般若経』であり、それを体系化したのが龍樹(ナーガルジュナ)の空観です。
〔続く〕
3. ブッダの原体験(解脱・覚醒)への回帰志向
大乗仏教の最大の特徴は、「ブッダの教え(言葉)を守る」こと以上に、「ブッダ自身が行った解脱体験そのもの(自らもブッダ=菩薩となること)を目指す」という点にあります。
学問化された教義体系(アビダルマ)の中では、ブッダは過去の不可侵な存在として固定化されがちでした。しかし、森林という極限の現場でブッダと同じように樹下思惟や冥想を行った森林住派にとって、「自らもブッダの境地に達する」という菩薩道のリアリティが自然と立ち上がってきたと考えられます。
4. 既存教団(部派仏教)のドグマ化に対するレジスタンス
大乗仏教の成立は、教団の分裂ではなく「意識や実践の変革運動」として始まりました。
* 制度化への反発: 都市の僧院が経済的基盤(寄進)を得て制度化・世俗化し、教義の正統性争いに傾倒していく中で、森林住派の修道者たちは自らを「真のブッダの精神の継承者」と位置づけました。
* 彼らが深山幽谷での冥想体験やヴィジョン(禅定体験)の中から紡ぎ出し、ビジョンとして書き残していったものが、初期大乗経典の原型となったと推測されています。
まとめ
歴史の大きな流れで見ると、次のような美しい精神的系譜を描くことができます。
* 原初仏教(八群品): 見解や執着を超えた直観的・実践的解脱。
* 正統派の体系化(ニッデーサ/アビダルマ): 教団維持と道徳化のための「正見」の確立と固定化。
* 森林住派のレジスタンス: 都市の固定化・ドグマ化を離れ、森の中で原初の冥想実践を保持。
* 大乗仏教(般若経・龍樹)の開花: 森林住派の実践と直観を「空」として理論化し、ブッダ本来の精神(見解の超越)を再爆発させた運動。
したがって、森林住派の活動は、テーラワーダ(部派仏教)の内部における原点回帰の伏流であったと同時に、大乗仏教という巨大な新運動を生み出すための「思想的・実践的な苗床」でもあったと言えます。
AIによる幻覚(ハルシネーション)w
勿論、大乗経典がお釈迦さまの直説ではない事に異論は無いけど、釈迦仏教に近いのは南伝より、北伝の中観派や禅宗系ってなるな。
……これが釈迦の仏教だ!
なーんてフレーズで宣伝されてた本なんかがあったけど、その事実を知ったら、外に出歩けないな🤭
南伝=釈迦仏教というのは崩壊してしまった。
一切の見解を捨てなさい
上座部系統
邪見解を捨て正見解に依なさいと改変
初期大乗運動
釈迦仏教に帰りましょう。
一切の見解を捨てなさい。
(スッタニパータ 八群品等)
上座部系統
邪見解を捨て正見解に依なさいと改変。
(義釈等)
初期大乗運動
一切の見解の捨てなさいという釈迦仏教に帰りましょう。
(初期般若経典)
参照
•Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism/Grace G. Burford
•ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
一切の見解を捨てなさい。
(スッタニパータ 八群品等)
上座部系統
邪見解を捨て正見解(四諦、八正道等)に依なさいと改変。
(ニッデーサ等)
初期大乗運動
一切の見解の捨てなさいという釈迦仏教に帰りましょう。
(初期般若経典等)
参照
•Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism/Grace G. Burford
•ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
エセッスルう〜〜〜〜🤡
以下に対する反証がされた書籍や論文等はありますでしょうか? 釈迦仏教
一切の見解を捨てなさい(スッタニパータ 八群品等)。
上座部系統
邪見解を捨て正見解(四諦、八正道等)に依なさいと改変(ニッデーサ等)。
初期大乗運動
空観による、一切の見解の捨てなさいという釈迦仏教への回帰運動(初期般若経典等)。
参照 •Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism/Grace G. Burford •ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
【問い】
以下に対する反証がされた書籍や論文等はありますでしょうか?
釈迦仏教
一切の見解を捨てなさい(スッタニパータ 八群品等)。
上座部系統
邪見解を捨て正見解(四諦、八正道等)に依なさいと改変(ニッデーサ等)。
初期大乗運動
空観による、一切の見解の捨てなさいという釈迦仏教への回帰運動(初期般若経典等)。
参照 ?Desire, Death and Goodness:The Conflict of Ultimate Values in Therav?da Buddhism/Grace G. Burford ?ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究/中谷英明
ご提示いただいた仮説(「初期釈迦仏教=無見・一切の見解の放棄」、「上座部=正見への固定化・改変」、「初期大乗=無見への原点回帰」)は、中村元や上記の中谷英明氏、グレース・G・バーフォード(Grace G. Burford)氏らの「非見(見解にとらわれないこと)」重視の初期仏教論に沿った非常に論理的なストーリーです。
しかし、仏教学・歴史学の観点からは、この三段階モデルの前提(「初期は見解を全否定した」「上座部が歪曲した」「大乗がそれを是正した」)に対して直接的な異議・反論・対立説を提示する研究が多数存在します。
主だった反証・批判的知見の論点と、それを主張する文献・研究者について整理します。
1. 「初期仏教=無見(一切の見解の棄捨)」への反証
「八群品(アッタカヴァッガ)の『見解を持たない』教えこそが最も古く、釈迦の原義である」とする説に対する批判・反論です。
* 「無見」と「正見」は矛盾しない(相互補完説)
* ビッขุ・ボーディ(Bhikkhu Bodhi) や ルイ・ド・ラ・ヴァレ・プッサン(L. de La Vallée Poussin) らの研究では、八群品で否定されているのは「妄執や誇り・議論に結びつく執着された見解(悪見・見解への執着=diṭṭhi-parāmāsa)」であり、「正見(四諦や縁起の正しい理解)」そのものを全否定しているわけではないと反論されています。
* 反論のポイント: 正見は「棄捨すべき執着」に陥るのを防ぐための指針(いかだの譬えにおける“いかだ”)であり、初期仏教の段階から「邪見を捨てて正見に依る」構造は不可欠であったとされます。
* テキストの重層性・特定文脈説
* アレクサンダー・ウィン(Alexander Wynne) や クリストファー・ゴマンズ(Christopher Gowans) らは、八群品が論争を好む異教徒や他学派に向けられた「対機説法(対話の文脈に応じた説法)」に過ぎず、仏教教団内部の全教理を代表する唯一の「最古層」と決めつけるのはテキスト批評上危険であると指摘しています。
〔続く〕
2. 「上座部(ニッデーサ等)による改変・歪曲」への反証
「釈迦の『見解の棄捨』を後代のアビダルマや釈義書(ニッデーサ)が正見重視へと歪曲・改変した」というバーフォードや中谷氏の論調に対する反論です。
* 注釈書(ニッデーサ)は「改変」ではなく「文脈化・体系化」である
* スumanā ratnayaka(スウマナ・ラトナヤカ) や ポール・ハリソン(Paul Harrison) らの部派仏教解釈論。
* 反論のポイント: ニッデーサの著者たちは八群品を改変したのではなく、「見解を捨てる」という表現が「無道徳主義(善悪や正しい道理まで捨てること)」として誤解されるのを防ぐために、初期経典群全体の整合性(四諦・八正道との統合)を図ったに過ぎないと解釈されます。正見の提示は歪曲ではなく、実践的・臨床的な学派としての必然的な精緻化であったと論じられています。
3. 「初期大乗=釈迦仏教の無見への回帰」への反証
「初期般若経典の空観は、上座部のアビダルマ固定化に対する釈迦の『無見・非見』への原点回帰運動であった」という大乗起源論(かつて平川彰や平川説を継承した学者たちが唱えたモデル)に対する反論です。
* 大乗仏教の起源は「初期仏教への回帰運動」ではない
* グレゴリー・ショペン(Gregory Schopen) や ジャン・ナティエ(Jan Nattier) らの現代仏教史学・考古学的研究。
* 反論のポイント: 近年の大乗起源論では、大乗運動は「上座部の教理批判や釈迦の原点回帰」という思想的・革新的な改革運動として始まったのではなく、塔波(ストゥーパ)信仰、森林修行者(アーラニヤカ)の集団、あるいは特定の経典読誦グループという極めて局所的・実践的なコミュニティの多様化から発生したことが銘文や出土資料から実証されています。
* 般若経の「空(śūnyatā)」も、単に八群品の「無見」の再掲ではなく、アビダルマ的な法(dharma)の存在論を通過した上で構築された高度に発達した新たな哲学的概念であり、「純粋な原点回帰」とするには歴史的・概念的ギャップが大きすぎると指摘されています。
〔続く〕
主な反証・批判的文献リスト
* Bhikkhu Bodhi (2006)
* Investigating the Dhamma: A Collection of Papers (Buddhist Publication Society)
* ※「正見(Right View)」と「見解の棄捨」が初期経典内でいかに矛盾なく両立しているかを、経典全体の構造から詳細に論証し、八群品のみを過度に絶対視する解釈を批判しています。
* Jan Nattier (2003)
* A Few Good Men: The Bodhisattva Path according to The Inquiry of Ugra (Ugraparipṛcchā) (University of Hawaii Press)
* ※初期大乗運動が「思想的な原点回帰」や「大衆運動」ではなく、少数派の厳格な森林修行者の実践から多様に派生したものであることを実証し、平川彰的(あるいは回帰運動的)大乗起源論を否定・修正しました。
* Gregory Schopen (1997)
* Bones, Stones, and Buddhist Monks: Collected Papers on Archaeology, Epigraphy, and Monasticism in American Buddhism (University of Hawaii Press)
* ※文献のみに頼った「純粋な初期仏教への回帰」というストーリーに対し、考古学・銘文データから実際の初期大乗や部派仏教のリアリティを提示し、パラダイムシフトを起こした研究です。
* Alexander Wynne (2007)
* The Origin of Buddhist Meditation (Routledge)
* ※初期テキスト(スッタニパータ等)の層序批判において、八群品の思想が他テキストと完全に孤立した「唯一の最古層」ではなく、初期教団の多様な教えのひとつの側面に過ぎないことを分析しています。
* 桂紹隆・斉藤明 ほか(編)
* 『シリーズ大乗仏教』(春秋社)
* ※日本の近年の仏教学においても、「大乗運動=初期仏教への回帰」という単純な史観は見直されており、アビダルマとの連続性と断絶性、多様な社会的背景から論じられています。
まとめ:
ご提示いただいた「八群品=無見(原義) → ニッデーサ=正見への歪曲 → 般若経=無見への回帰」という筋道は、「八群品を絶対的起点とする思想史モデル」ですが、現代の仏教学では「正見と無見は元々セットであった」「ニッデーサは歪曲ではなく体系化」「大乗は回帰運動ではなく多元的発生」という反論・反証が有力視されています。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
ではそれらの反証に対する反論はどうでしょう?
【回答】
「八群品=無見(非見)」を主張する立場(中谷英明氏やバーフォード氏、あるいは初期大乗の原点回帰説を肯定する立場)側も、批判や反証に対して黙っていたわけではありません。彼らは独自のテキスト批評手法や哲学説法論を駆使して、「正見補完説」や「歴史的文献学説」に対する反論・再反論を展開しています。
双方の理論的攻防における主な「反証への再反論(弁明・再構築)」の論点は以下の通りです。
1. 「正見も捨てるべき」という再反論
(対「正見と無見は相互補完的である」という批判)
* 「正見」すらも段階的ツール(筏)に過ぎない
* 中谷英明氏らのテキスト解釈では、初期経典の至る所で説かれる「筏の譬え(教えは目的地へ渡るためのもので、渡った後は捨てるべきもの)」が決定的な根拠として再提示されます。
* 再反論の要点: 仮に「正見(正しい見解)」が実践上必要だとしても、それは悟りに至るための“過渡的な手段”に過ぎず、最終的な解脱(涅槃)の境地においては「正見という見解」すらも完璧に放棄されなければならない。したがって、「正見への依持」を最終目的に据える後代のアビダルマ的解釈(ニッデーサ等)は、本質的に釈迦の意図から変質していると論じます。
* 言語・概念の限界(言葉による固定化への絶対的拒絶)
* 八群品が徹底しているのは「言葉や概念によって世界を固定化すること(戯論・prapañca)の全否定」です。正見を「正しい教理ドグマ」として定立した瞬間に、それは他者との争いを生む「見解(diṭṭhi)」に化けてしまうため、真の解脱においては「無見(いかなる見解も固定化しないこと)」以外にあり得ないというロジックです。
〔続く〕
2. 「文献学・韻律学(メトリクス)による言語層の明確な差」
(対「対機説法に過ぎず、全教理を代表しない」という批判)
* 言語形態論的・韻律学的な古層性
* アレクサンダー・ウィンらの「特定の対話文脈説」に対し、中谷氏らはヴェーダ語の古風な言語形態や詩節の韻律(メトリクス)を精密に分析し、八群品(アッタカヴァッガ)や犀の角の詩(ハガキ)が語彙・文法的に仏教テキストの中で最古の層に属するという客観的事実を提示します。
* 再反論の要点: 後代の散文経典に見られる「四諦・八正道・十二縁起」などの詳細な教理体系は、教団が拡大し組織化される中で定式化された「ドグマティックな後加物」である可能性が高い。最古層の言語形式を持つ詩篇群において「見解の棄捨」が一貫して歌われている以上、それこそが最初期の教団、あるいは釈迦本人の生の声に最も近いと見るべきであると主張します。
3. 「ニッデーサ(義釈)は文脈化ではなく『解釈的防衛』である」
(対「ニッデーサは歪曲ではなく正当な体系化」という批判)
* 「見解の棄捨」という過激な思想の威力を弱める操作
* バーフォード(Grace G. Burford)らの立場では、ニッデーサのような注釈書が八群品の「一切の見解を捨てよ」という言葉を「『悪見(間違った見解)』を捨てて『正見』に就け」と読み替えたプロセスは、教団の制度化に伴う自己防衛的改変だと再反論されます。
〔続く〕
続く🤡
* 再反論の要点: 「すべての見解を捨てる」という教えは、あまりに過激で虚無主義(無道徳主義)と誤解されやすく、社会的・制度的な教団運営には不向きでした。そのため後代の注釈者たちは、教団の正統性を保ち社会規範(善悪の倫理)と適合させるために、八群品の鋭い非見の思想を「正見の擁護」へと換骨奪胎せざるを得なかったのだと説明されます。
4. 「思想的連続性」としての初期大乗の再評価
(対「大乗は回帰運動ではなく、考古学的に局所発生したもの」という批判)
* 考古学的成果と「思想的構造」の切り離し
* ショペンらの考古学的・銘文史学的批判(大乗は社会運動として始まっていない)を認めつつも、「思想的な深層構造」としての回帰を再主張する立場です。
* 再反論の要点: たとえ大乗の成立が制度的・歴史的には森林修行者や塔波信仰などの局所的・多様な集団から始まったとしても、彼らが著した初期般若経典が提示した「空(śūnyatā)」や「一切の戯論の寂滅」は、アビダルマが陥った「法の固定化(有見)」に対する哲学的・精神的な反撥として機能しています。形式が制度的改革運動でなかったとしても、思想的ダイナミズムとしては「八群品的な非執着・無見への先祖返り」を果たしているという再反論です。
〔続く〕
まとめ:議論の構図
この攻防は、仏教学における二つの大きなアプローチの対立とも言えます。
| アプローチ | 「無見」重視派(中谷・バーフォード等)
| 「相互補完・多様性」批判派(ボーディ・ショペン等) |
| 重視する資料
| 最古の韻律詩(八群品等)の言語的・思想的純粋性
| 経典全体の統合的文脈、考古学・銘文資料 |
| 「正見」の位置づけ
| 途中で捨てるべき「筏(手段)」に過ぎない
|解脱に不可欠な「持続的指針・基礎」である |
| 歴史の捉え方
| 「釈迦の原義(無見) → 部派のドグマ化 → 大乗の回復」
| 「多様な実践の共存 → 組織化・精緻化 → 局所的発生」 |
「無見」派は「極限まで削ぎ落とされた釈迦の個人的な悟りの体験」に焦点を当てて再反論し、批判派は「教団として宗教が機能し継承されていく現実的・多角的なプロセス」を重視して論を展開していると言えます。
〔続き〕
まとめ:議論の構図
この攻防は、仏教学における二つの大きなアプローチの対立とも言えます。
| アプローチ
| 「無見」重視派(中谷・バーフォード等)
| 「相互補完・多様性」批判派(ボーディ・ショペン等)
| 重視する資料
| 最古の韻律詩(八群品等)の言語的・思想的純粋性
| 経典全体の統合的文脈、考古学・銘文資料
| 「正見」の位置づけ
| 途中で捨てるべき「筏(手段)」に過ぎない
|解脱に不可欠な「持続的指針・基礎」である
| 歴史の捉え方
| 「釈迦の原義(無見) → 部派のドグマ化 → 大乗の回復」
| 「多様な実践の共存 → 組織化・精緻化 → 局所的発生」
「無見」派は「極限まで削ぎ落とされた釈迦の個人的な悟りの体験」に焦点を当てて再反論し、批判派は「教団として宗教が機能し継承されていく現実的・多角的なプロセス」を重視して論を展開していると言えます。
よくまとめられてるな。
プーラナ・カッサパ的な所に逝ったかw
まとまらない
エセッスルう〜〜〜〜🤡
なのであった🤡
残念っ‼️🤡
だから「正見解」という縛りをしないと教団はともかく、お釈迦さまの教えも存続出来なかったろう。
誰も止めやせん
代わりに何を信じようが、お前の自由だ(笑)
ドグマ化ってのは
こんなスレを立ててまで、
「正しいのは、この俺だ!」
と、言い張り続けることを言う
でもそれは階層的な構造で解決するよな。
やはり、四諦八正道は渡河の筏で、最終的には一切の見解の棄捨に至ると。
勿論、最初から一切の見解の棄捨で至る者もいれば、ヒャッハーな奴らには正見解の縛りの導入も必要だな。
目指すんだっ‼️〜〜〜🤡
やっぱり此処だな。
例外規定🤡
レビーとかなー
🤡〜〜〜
大乗と小乗(というのはやめようとなってるけど)の問題もこの観点から観ると面白いな。
お前は、仏教を否定してるときが一番イキイキしてるな(笑)
いつ見ても、「ブッダの教えをイカダのように捨て去れ」の一点張りだ
「仏教の研究機関」で、よほど周囲への劣等感と鬱憤を溜め込んだようだな😫
仏教へのルサンチマンには凄まじいものがある
人類を超越しているので
トランプのようにAIすら管理できる
エセッスルう〜〜〜〜🤡
「坐禅による瞑想体験がすべて」と主張するのなら
それは、仏教ではなくて「ヨガ」だ
ヨガ瞑想の一種だよ
🙏🤡〜〜
それ故に真理の見解は許容されない。
一切の見解の棄捨。
……では、見解の棄捨の先に真理はあるのか?
指月の喩えだな。
認識し得ないものに対して……無記。
あれれ?
語りえぬものについては、沈黙しなければならない
『論理哲学論考』
ウィトゲンシュタインかよw
まぁ、修行に必要のない形而上学上の論争に対して無記だから、意味は違うけどw
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23K25263/
研究開始時の研究の概要
文献学的に『八群品』を現存最古の仏典と位置付けることにより、ブッダの哲学の主構造が明らかになった。二千年来不詳であった五位相二様態意識論が緻密な意識分析であり、潜在意識が自覚されないまま顕在意識を支配する機序を記述することが判明した。
この五位相観を用いて潜在利己意識の自覚と払拭を不断に継続するニッバーナ(消尽)がブッダ哲学の根幹であり、ニッバーナに専念して生きることが揺るぎない安寧であるとブッダは言う。この長期にわたるニッバーナが他者と世界の全体を慈しむ心を養成する。
本研究はこの五位相観による潜在利己心の自覚と払拭(ニッバーナ)の効果を理論的、文献学的、実践的、また医学的見地から究明する。
六師外道のサンジャヤ思想
Wikipedia 「サンジャヤ」より
真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。
—沙門果経
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる。
また仏典によると、彼はマガダ国の王舎城(ラージャガハ)に住んでおり、名声がかなり高く多くの弟子を擁していたが、その高弟のサーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)とが、250人の弟子全てとともに釈迦に帰依し去っていった。2人は彼に釈迦の弟子になることを勧めたが、「我、今師匠として弟子を率いており、また弟子となることは瓶が瓶にして同時に釣瓶(つるべ)となるようなものだから難しい」とこれをしりぞけた。しかし2人が弟子衆を引き連れて仏に帰依するのを見て憤激のあまり血を吐いたと律蔵などでは伝えられている。
見解の語が224箇所あった😅
諸々の法に近づく者は、議論に近づいていきます。
近づくということのない者に対して、いったいどのようにして論を起こしたらよいのでしょうか。
なぜなら、得たものも捨てたものも(自己ということも自己のないことも)、かれにはないからです。かれは、この世の中で、あらゆる見解をぬぐい去りました。
Upayo hi dhammesu upeti vādaṃ,
anūpayaṃ kena kathaṃ vadeyya,
attaṃ nirattaṃ na hi tassa atthi
1行目:Upayo hi dhammesu upeti vādaṃ
Upayo(ウパヨ):執着する者は /(見解に)近づく者は
hi(ヒ):実に / なぜなら[強調・理由]
dhammesu(ダンメース):諸々の事象(見解・教義)において[dharmaの諸格・複数]
upeti(ウペーティ):~に至る / ~に赴く
vādaṃ(ヴァーダム):論争に / 言説に[vādaの対格]
直訳: 実に、諸々の見解に接近・執着する者は、(それによって)論争に至る。
2行目:anūpayaṃ kena kathaṃ vadeyya
anūpayaṃ(アヌーパヤム):執着しない者を / 接近しない者を[an-upayaの対格]
kena(ケーナ):誰によって / 何によって[kaの具格]
kathaṃ(カタム):どのように[副詞]
vadeyya(ヴァデイヤ):(誰かが)評し得ようか / 語り得ようか[vadの願望法]
直訳: 執着しない者(覚者)を、誰が・どのようにして評することができようか(いや、できない)。
3行目:attaṃ nirattaṃ na hi tassa atthi
attaṃ(アッタム):捉えられたもの(我・肯定・抱くこと)が[āttaの主格]
nirattaṃ(ニラッタム):捨てられたもの(無我・否定・退けること)が[nirāttaの主格]
na(ナ):~ない[否定]
hi(ヒ):実に / なぜなら[強調]
tassa(タッサ):彼には / その人にとって[tadの属格]
atthi(アッティ):存在する[asの3人称単数]
直訳: なぜなら、彼には(執着して)捉えるべきものも、(反発して)捨てるべきものも存在しないのだから。
ブッダを否定することによって、ブッダの凄さを知っていくという方法をとらなければ、とうていわからないかもしれません。
つまり、ブッダに法があるとすれば、どこかに法の欠点や欠陥もあるはずでしょう。
そこを見いだせれば、ブッダの法の限界がわかります。
なぜなら、理論にはすべて次のような欠陥があることがわかっているからです。
二〇世紀にゲーデルが発見した二つの不完全性定理によって、見解からなる一つの理論体系には、証明も反証もできない命題があること(第1不完全性定理)、また、理論体系に矛盾がなければ、その矛盾のないことを証明できないこと(第2不完全性定理)が知られています。
命題とあるのは、文のことですが、「八偈品」で、それに相当することばを探すと、「見解」ということばや、また788偈にある「知識」というのもそうかもしれません。
ですから、ブッダにも理論体系があるとして、この定理が当てはまることを示せるなら、ブッダも、一切智者とは言えなくなるでしょう。
すべての理論がもつ欠陥を、同じくもっていることになるからです。
しかし、実は、ブッダは、これらを乗り越えているのです。
第1の定理に対しては、ブッダは、あらゆる見解から離れていることによって、それを逃れています。
そして、見解をもたないことが、この「最高のことの八(偈)経」で示されているのです。
すべて、否定表現ですから、説いていることがあるのかないのか、何とも判定できず、「証明も反証もできない見解がある」というこの定理をブッダの見解に当てはめようとしても、そもそも見解を見いだすことができないのです。
また、他の「八偈経」でも同じです。これら四つの「八偈経」全体が、ひとまとまりになっていて、最終的には「最高のことの八(偈)経」へと収れんしてしまうので、見解をまとめることができずに、定理を適用しようがないのです。
第一経の「欲経」は、短いながら、六つの偈からなっていますから、ここに見解からなる理論があると見ることができるでしょう。
それに、ここは、否定表現だけではありません。
肯定的にも説かれています。
そうすると、第2定理によって、ブッダの理論についても無矛盾であればそのことは証明されない、という欠陥が浮き彫りになるはずなのですが、ここでも、第2定理は不発に終わります。
ブッダ自身が、「欲経」の最後で、「彼岸に到達する」という表現で、自分の体系を捨ててしまっているからです。
捨てることまで、見解(論理)としてその体系の中に含まれているので、見事体系が完成したときには、すでにその体系は消えているのです。
石飛先生、なかなか示唆に富んだ説明をされてるな。
決定したところに立って、自ら(の考え)を量った後、かれは世間において争論を起こすのです。
一切の決定を捨てたならば、人は、世の中で確執ををなすことはありません。」
Vinicchayeṭhatvāsayaṃpamāyauddhaṃsolokasmiṃvivādameti,
hitvānasabbānivinicchayāninamedhagaṃkurutejantuloke”ti.
それが論理の一貫性です。
「他によって清められない」とすれば、それは他者だけではなく、自分にも当てはまらなければなりません。
「他」である自己の見解によって自分自身が清まることはないのですから、自分の見解だけが真理だと述べることは何の証明にもならないということなのです。
こうして、実際、言い争っている者たちは誰も自分の正当性を証明できていないのですから、ブッダの説くとおりとしか言いようがありません。
だから、見解をもつ者はみな黙らざるをえなくなりました。
こうして、一切の決定を捨てたならば、確執はありません。
ブッダ自らが手本となって、見解をもって論争する者たちの前で、一切の見解を捨ててみせたことにより、あらゆる見解は荘厳されたのです。
決定したところに立って、自ら(の考え)を量った後、かれは世間において争論を起こすのです。
一切の決定を捨てたならば、人は、世の中で確執ををなすことはありません。」
Vinicchayeṭhatvāsayaṃpamāyauddhaṃsolokasmiṃvivādameti,
hitvānasabbānivinicchayāninamedhagaṃkurutejantuloke”ti.
単語の分解と逐語訳
* Vinicchaye (ヴィニッチヤエ)
* 【名詞・男性・処格】(特定の)断定・見解・判定において
* ṭhatvā (タトヴァー)
* 【連続体(絶対詞)】立って、留まって、固執して
* sayaṃ (サヤン)
* 【副詞】自ら、自分自身で
* pamāya (パマーヤ)
* 【連続体(絶対詞)】(自らの見解を尺度として)推し量って、判断して
* uddhaṃ (ウッダン)
* 【副詞】さらに高く、高慢になって、上へ
* so (ソ)
* 【代名詞・男性・単数・主格】彼(その人)は
* lokasmiṃ (ローカスミン)
* 【名詞・男性・処格】世において、世界で
* vivādam (ヴィヴァーダム)
* 【名詞・男性・対格】論争へ、反論へ
* eti (エーティ)
* 【現在動詞・3人称単数】至る、向かう
* hitvāna (ヒットヴァーナ)
* 【連続体(絶対詞)】(完全に)捨て去って、離れて
* sabbāni (サッバーニ)
* 【形容詞・中性・複数・対格】すべての
* vinicchayāni (ヴィニッチヤーニ)
* 【名詞・中性・複数・対格】あらゆる断定(判断・見解)を
* na (ナ)
* 【否定辞】~ない
* medhagaṃ (メーダガン)
* 【名詞・中性・対格】争いを、紛争を
* kurute (クルテー)
* 【現在動詞・3人称単数(中間態)】自らなす、行う
* jantu (ジャントゥ)
* 【名詞・男性・単数・主格】人(人びと)は
* loke (ローケー)
* 【名詞・男性・処格】世において
* ti (ティ)
* 【不変詞】~と(偈の終わりを示す引用符)
文脈を踏まえた意訳(日本語訳)
「自分自身の判断を絶対の基準として押し量り、特定の見解に執着して『自分こそが優れている』と高ぶる者は、この世において必ず論争へと陥っていく。
しかし、あらゆる個人的な断定・見解を完全に手放した人(聖者)は、この世においていかなる争いをも引き起こすことがない。」
あらゆる見解を手放す。
しっかり握る🤡〜〜
まだ、やってるのか
凄まじい執着だな
誰も読まんわ🫵😂
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
まみねのくせに
ナマイキだ
🤡〜〜
まみれのくせに
ナマイキだ
🤡〜〜
知恵袋で教えて貰ったけど、此処みたいな掲示板があるんだなw
Relinquishment of all views, right and wrong, in Early Buddhism
(初期仏教におけるあらゆる見解(正見・邪見)の放棄」)
https://www.dhammawheel.com/viewtopic.php?t=48288
ポール・フラーは、その欠かすことのできない著書『テーラワーダ仏教におけるディッティ(見解)の概念』(2005年)の中で、簡潔かつ正確、そして実に見事に次のように述べています。
“... the aim of the path is not the cultivation of right-view and the abandoning of wrong-views
but the relinquishment of all views, wrong or right.... The early texts do not understand right-views
as a correction of wrong-view, but as a detached order of seeing, completely different from the attitude
of holding to any view, wrong or right. ” (p. 1)
「……道の目的は、正見を養い邪見を捨てることではなく、正しいものであれ誤ったものであれ、あらゆる見解を放棄することにある。……初期聖典は、正見を『邪見の修正』として捉えているのではなく、正しい見解であれ誤った見解であれ、いかなる見解にも固執する姿勢とは完全に異なる『囚われのないものの見方』として捉えているのである。」(1頁)
“In other words, to say that one has right-view is to say that one has no-view. The consequence of achiev-
ing right-view is that one does not hold any views. The aim of the path is the transcendence of
all views.” (p. 2)
> 「言い換えれば、正見を持っていると言うことは、見解を持っていない(無見である)と言うことにほかならない。正見を成就した結果として、人は一切の見解を持たなくなる。道の目的は、あらゆる見解を超越することなのだ。」(2頁)
いや、さぁ、これ、アメリカでも仏教スレがあって、此処と同じ様なレスの応酬がされてるんだなw
思わず笑っちまったわwww
Paul Fuller, in his indispensable monograph The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism (2005)とはどの様な概要の本ですか?
【回答】
ポール・フラー(Paul Fuller)の著書『The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism: The Point of View』(2005年刊、Routledge)は、初期仏教および上座部(テーラワーダ)仏教の聖典(パーリ・ニカーヤ)における「見解(ディッティ / diṭṭhi)」という概念を再検証した仏教哲学のモノグラフ(専門研究書)です。
本書の核心的命題と概要
従来の初期仏教研究や解釈において、「見解(diṭṭhi)」は大きく次の2つのいずれかで捉えられてきました。
* 対立的解釈(Opposition Understanding): 邪見(誤った見解)を捨て、正見(正しい見解)へと修正・教化していくこと。
* 無見解解釈(No-views Understanding): 覚りに至るためには、邪見だけでなく正見も含めた「あらゆる見解」を破棄して無見(無見解)になること。
しかし、フラーはこの双方の従来の枠組みに対して批判的アプローチをとります。彼によれば、「正見(sammā-diṭṭhi)」とは単なるドグマ(教義・意見)の置き換えでもなければ、単なる虚無的な“見解の否定”でもありません。
〔続く〕
本書の主なポイント
* 「持っている見解」ではなく「捉われのない視座」としての正見
フラーは、正見を「正しい命題や教义を保有・固定化すること」ではなく、一切の固定された見解(正見・邪見問わず)に固執しない「超然とした経験の認識様式(a detached order of seeing)」であると定義します。
* 「正見=無見(No-view)」の真義
「正見を持つ」ということは、観念や立場に縛られない(No-viewの)状態に入ることを意味します。正見とは「目的地に到達するための概念(筏の譬喩における筏)」として機能し、最終的には見解そのものを超越(transcendence)させる触媒であると論じます。
* 『義釈』や『スッタニパータ(八つの詩篇 / Aṭṭhakavagga)』などのテキスト解釈
初期聖典でブッダが「私はどのような論争・立場も取らない」と宣言する背景には、信念の固執(diṭṭhi-parāmāsa)から生じる執着や対立を絶つ意図があることを、豊富なテキスト比較によって解明しています。
要約すると、「正見とは“正しいドグマを抱くこと”ではなく、“あらゆる固執された見解を超越して、ありのままに観る(如実知見)姿勢そのもの”である」という点を、言語学・文献学的に極めて精緻に実証した研究書です。
仏教スレもいい加減にそらそろ、海外での学術的成果をも踏まえて論じる次元に進歩しなきゃなぁ。
幸いにもAIのお陰でそれが容易くなって来たしな。
今時点でも夥しい二極化になってるのに、これに拍車が掛かるだろう。
そういうのはケラどもにやらせておけばいいwww
日本語で物事を考えるのは当然として、サンスクリット語と英語で考える人が居たりとか。
考えられん😅
その掲示板にもこうあるぞ🤣
**********************
I am afraid, these are your personal, idiosyncratic, non-Buddhist beliefs and views, which don't have any ground in the texts and the Teaching.
恐れ入りますが、それらはあなた個人の固有の、仏教的とは言えない信念や見解であり、聖典や教えには何ら根拠のないものです。
**********************
向こうの国にもでおーみたいな馬鹿が居て、お断りされてるんだななぁwww🤣🤣🤣🤣🤣
腹筋大崩壊wwwwwwwwwww
翻訳お願いします、
Views in Zen and their disposal
In the development of East Asian Buddhism, we can say that it is the Chan/
Seon/Zen schools whose literature becomes almost completely absorbed in
the non-abiding in views above all other practices, and it is no accident that
texts such as the Diamond Sutra, consisting as it does of repeated anti-reifying
contemplation exercises, become mainstream in the tradition. The Chan school’s
own (‘apocryphal’) scriptures, such as the Sutra of Perfect Enlightenment (Yuanjue
jing) and Platform Sutra focus repeatedly on the problem of reification of views.
For example, the Sutra of Perfect Enlightenment, discussing the problem of reification of views, points out that the most dangerous reifications are those of
spiritual insights – incomplete awakenings – which can turn into subtle new
views and beliefs:
...
禅における見解(見)とその破棄
東アジア仏教の展開において、自らの文献を他のいかなる実践にも増して「見解(見)に住しないこと(無住)」へとほぼ完全に没頭させたのは、禅宗(中国の禅 / 朝鮮の鮮 / 日本の禅)であると言えます。そして、『金剛経』のように、固定化を解体する(アンチ・リアファイイング)思惟の試みをひたすら繰り返すテキストが、この伝統の中で主流となったのも決して偶然ではありません。禅宗固有の(「偽経」とされる)聖典、たとえば『円覚経』や『六祖壇経』なども、見解の固定化(物象化)という問題に繰り返し焦点を当てています。
例えば、『円覚経』では見解の固定化の問題が論じられており、最も危険な固定化とは、精神的な気づき(不完全な悟り)の固定化であり、それが微細な新しい見解や信念へと変わり得る点であると指摘されています。
三毒お怒り🤡に
期待しているぞお〜
🤡〜〜〜
以下の論文のイントロダクションでは何が述べられてますか?
https://toaikhanh.com/resources/en/Notion%20of%20Ditthii.pdf
【回答】
ご提示のリンク(ポール・フラー著『The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism: The Point of View』)の序論(Introduction)では、上座部仏教における「見(見解・見解への執着、パーリ語: diṭṭhi)」という概念の解釈について、以下の主要な論点と著者の主張が述べられています。
1. 「見(diṭṭhi)」に関する従来の2つの解釈パターン
初期仏教・上座部仏教の研究において、「正見(正しく見ること、sammā-diṭṭhi)」と「邪見(誤った見解、micchā-diṭṭhi)」の関係は、主に次の2つの立場のどちらかで解釈されてきたと整理されます。
* 対立的解釈(The opposition understanding)
* 「正見」を「邪見」の補正(対立するもの)として捉える立場。邪見(誤った思想や見解)を捨て、正しい見解(正見)に置き換えることを目指すと解釈します。
* 無見の解釈(The no-views understanding)
* 仏道修行の究極の目的は、邪見だけでなく「正見を含むあらゆる見解や概念的執着を乗り越えること(無見)」であると解釈する立場。
2. 著者の核心的提言(本書の主張)
著者(Paul Fuller)は、「上記のどちらの解釈も正確ではない」と主張します。
* 「正見」は単なる思想や主張(見解)ではない
* 初期テキストにおける「正見」は、邪見に対する単なる「正しい説の選択」でも、あるいは「すべての見解の否定」でもありません。
* 「見解への執着」を超越した「物事の捉え方・見方の秩序」
* 正見とは、正しい見解か誤った見解かという二元論に囚われて固執する態度そのものから離脱した、「物事をあるがままに見る(yathābhūta-dassana)視線のあり方・見方の次元(an order of seeing)」であると定義します。
〔続く〕
3. 序論内で展開される主なサブテーマ
序論の各節では、この核心的な問いを検証するために以下の論点が提示されています。
* 先行研究の検討(Recent studies of the notion of diṭṭhi)
* 過去の仏教学者たちが「diṭṭhi」や「正見」をどのように分析してきたかを整理し、その限界や不十分な点を指摘します。
* 教理の知識(Knowledge of doctrine)
* 仏教教理の知識(知的な理解)が、どのようにして「執着としての見解」になり得るのか、あるいは「解放のための視点」として機能するのかの関係性を示します。
* 事実と価値(Is / ought)
* 現実が「どうあるか(事実)」の認識と、どうあるべきか(価値・規範)の間の関係が、仏教における正見と倫理的実践にどう影響しているかを議論します。
* 命題と「見方」(Propositions and ways of seeing)
* 正見は言語的・概念的な「命題(proposition)」の提示ではなく、世界や自己の認識における「視点・見方(way of seeing)」の変容であることを明確にします。
要約
序論全体を通して、著者は「正見とは単なる『正しい意見』ではなく、あらゆる『意見・見解(diṭṭhi)への執着』を超越したまったく異なる次元の『認識・観照(order of seeing)』である」という自説の提示と、その妥当性を検証するためのフレームワーク(背景と論点)を構築しています。
Views and non-attachmentの章を要約出来ますか?
【回答】
ポール・フラー著『The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism』の第6章「Views and non-attachment(見解と無執着)」の要約です。
第6章は、本書全体の結論に向けた極めて重要な章であり、「ブッダの教えはあらゆる見解を否定する無見(no-views)を説いている」とする既存の研究解釈を再検討し、著者の中心命題である「無執着(non-attachment)と正見(sammā-diṭṭhi)の超越的性質」を整理・証明しています。
第6章の構成と主な論点
1. ブッダの教えと「無見」(The Buddha's teachings and no-views)
* 問題提起: 『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ(八頌経)」などでは、「ブッダはいかなる見解も抱かない(無見)」と解釈されがちです。従来の研究者(ルパート・ゲスインやグラース・バーフォード等)の知見を交えつつ、この説を検証します。
* 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tan̄hā / upādāna)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。
2. アッタカヴァッガと他のパーリ仏典の比較(The understanding of views in the Aṭṭhakavagga compared to other parts of the Pāli canon)
* テキストの比較: 一部の研究者は「アッタカヴァッガは他のパーリ経典(ニカーヤ)と異なり、より原始的で『すべての見解の拒絶』を説いている」と主張します。
* フラーの反論: フラーは、アッタカヴァッガの教えも他のニカーヤ(長部・中部・相応部など)の教えと完全に一貫していると論じます。アッタカヴァッガで警戒されているのは「見解そのものを排除すること」ではなく、「他者と議論して自分の見解を最高と誇り、他を低く見る態度(見執)」です。
3. 見・聞・覚・知への依存(Dependence on what is seen, heard, thought and cognized)
* 人間は自らの感覚体験(見・聞・覚・知)に基づいて概念を構築し、それに依存・固執します。
* 著者は、問題なのは感覚体験やそれに基づく正しい認識(正見)そのものではなく、そこから生じる貪愛(cravings)や自我意識による執着であると解説します。
〔続く〕
4. 超越的な教えか?(The superior teaching?)
* 「正見も最終的には捨て去るべき単なる『筏(いかだ)』に過ぎない」という有名な「筏の譬え」の解釈を再整理します。
* 正見は捨てるべき対象(不要なドグマ)というよりも、解脱に至る過程で自然と「見解(diṭṭhi)」という限定的な形式から「真の観照・智慧(paññā)」へと変容・超越(transcendence)していくものとして描かれます。
5. ディーガナカと見解の超越(Dīghanakha and the transcendence of views)
* 『ディーガナカ経(Dīghanakha-sutta)』の分析: 遍歴行者ディーガナカが「私はすべての見解を受け入れない」と主張した際、ブッダは「その『すべての見解を受け入れない』という自分の意見(見解)には執着しているのではないか」と喝破します。
* 要点: 「すべての見解を否定する」という姿勢もまた、自らが縛られる「見解(diṭṭhi)」の一つになり得ます。本当の自由とは「見解を無くすこと」ではなく、「どのような見解・認識に対しても執着しないこと(無執着)」によってのみ達せられます。
第6章の全体要約(結論)
第6章において著者は、仏教の目的を「あらゆる見解を捨て去る無見(no-views)の達成」と理解するのは誤りであると論証します。
真の仏教的解脱とは、見解をゼロにすることではなく、「正見(sammā-diṭṭhi)」を通して世界をありのままに観つつ、その認識や教理に対しても一切の執着や自我意識を持たないこと(無執着)です。正見とは固執すべき思想やドグマではなく、執着を超越した「新しい次元の物事の見方(a detached order of seeing)」に他ならない、という本書全体の核心をこの章で締めくくっています。
やっぱり筏の喩えの筏だという結論だな。
まぁ、正しい理解となるな。
ナマイキだ〜
🤡〜〜
> 見解の棄捨が見解になっては元も子もないからなwww
↑
それが、お前だろ(笑)
無見をno-viewsというのなら、仏教的な非見はどう英語表記されますか?
【回答】
仏教における「非見(ひけん)」や「見(diṭṭhi)の超越・無執着」を表す英語表記は、研究者や文脈(初期仏教、大乗・中観派など)によっていくつかの表現が用いられます。
主な英語表記とそれぞれのニュアンスは以下の通りです。
1. 概念的な直訳・学術的表記
「非〜」という否定や超越の接頭辞を当てはめた表記です。
Non-view / Non-views
「無見(no-views)」と対比させて「非見」を直訳する際に最も一般的に使われる表記です。単なる「意見がない状態(無)」ではなく、「見解というフレームワークに属さないこと(非)」を表現します。
Beyond views / Transcendence of views
ポール・フラーをはじめとする初期仏教研究でよく用いられる表現です。「あらゆる見解(邪見・正見)を超越している状態」を指し、「非見」の動的な意味合いを明確に示します。
2. 文脈・学派による専門的表現
① 初期仏教・上座部(パーリ仏典の文脈)
初期仏教における「非見」は、見解を持たないことではなく「見解への執着から離れていること」を指すため、次のような表現が好まれます。
Freedom from views(見解からの自由)
Non-attachment to views(見解への無執着)
Detached order of seeing(前述のポール・フラーによる表現。見解に固執しない観照のあり方)
② 中観派(龍樹・マーディヤミカの文脈)
空(śūnyatā)の思想において「あらゆる戯論(prapañca)や見解(dṛṣṭi)を滅尽・超越する」という意味での「非見」や「無見(dṛṣṭi-śūnyatā)」を指す場合は、以下のような表現が使われます。
Relinquishment of all views(あらゆる見解の棄捨 / 『中論』第13章などの「見の空」の英訳)
Absence of views / Empty of views(見解を欠いていること/見の空)
Non-conceptualization(非概念化 / 戯論の静寂に近い表現)
まとめ
単に「無見(no-views)」と区別して「非見」と概念対比させたい場合は、non-views または beyond views と表記するのが最も適切です。
「見解を超越したあり方」という実践的・状態的なニュアンスを強調する場合は、transcendence of views や freedom from views が用いられます。
「正しいのは、この俺だ」と
自説に固執して言い張り続けること
つまり、お前が今やってることだ(笑)
エセッスル🤡
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
判定者気取り🤡
困ったやつだな🤡〜
それを根に持って誹謗中傷嫌がらせの餓鬼と化して延々とストーカーw
まるであれだなw
刃牙の家に落書きするヘタレなDQNそのものだなあw
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
> 1. ブッダの教えと「無見」(The Buddha's teachings and no-views)
> * 問題提起: 『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ(八頌経)」などでは、「ブッダはいかなる見解も抱かない(無見)」と解釈されがちです。従来の研究者(ルパート・ゲスインやグラース・バーフォード等)の知見を交えつつ、この説を検証します。
> * 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tan̄h? / up?d?na)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。
だから、昨日からそう言ってるだろ(笑)
ブッダは、「一切の見解を捨てよ」と言ってるわけではない
「自分の見解に固執して論争するな」というのが、ブッダの教え
「見解を持つな」ではなく、「見解に執着するな」と言っている
> どうもサンスクリット語の和訳でピンとこない時は、英訳すると理解しやすい時もある。
それは、その通りだ
仏典も老子も、英語訳がわかりやすい
55 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE (50-7J2-La-wvu)[sage] 2026/09/16(水) 12:38:50.97 ID:TdiKI
無見というか、非見の方が親しいな。
という指摘はしていたが、その理解に間違いは無かったな。
非見というのが正しい理解だ。
> 捨てることまで、見解(論理)としてその体系の中に含まれているので、見事体系が完成したときには、すでにその体系は消えているのです。
まさに石飛先生の指摘通りだな。
見解中に一切の見解の棄捨が内在してるのだから、無見(no-views)ではなくて非見(non-views)だな。
まさに 一切の見解の棄捨 だ。
それ故見解自体に 一切の見解の棄捨 を内在させる論法が、お釈迦さまのそれだった訳だ。
嘘っぱちみたいな努力をしているな?
🤡〜〜
痩せ我慢をし続けるしかない。
なんという憐れな。
エセッスルう〜〜〜〜🤡
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
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162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
雲水さんの体験談や墨蹟の話。
呼吸に集中してたら時間が飛んだとか、とても良い体験だと思います。
呼吸に集中するには深く呼吸が出来るための姿勢が大事となります。まさに調身調息ですね。
また、「了了了時、了ずべき無し玄玄玄の処、亦た須らく訶すべし」とありました(詞は呵の誤字でしょう)。
これはこのスレで学ばさせて貰ってる、見解の棄捨の事に他なりません。
🤡〜〜〜
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
見解って棄捨しようとして捨てられるものでもありませんし、捨てようとした時、そこに棄捨という見解の作用があるでしょうからね。
此処でもやはり、みずからではなくおのずからという無為があると思うんです。
了了了時、了ずべき無し、
玄玄玄の処、亦た須らく呵すべし。
時と無し、処と呵すべしという対応に着眼すると、より深くこの偈が味わえるのではないのでしょうか。
先の見解の棄捨、すなわち無住処に通じるものがあるって思うんです。
土曜日休みの方は五連休ですね。
https://gzo.ai/i/kV4j32B.jpg
心の乱れが字に出るのは面白い。
集中力が高まってくると、私は筆ペンを使っておりますが、インクが和紙に染み込む音まで聴こえてきます。
ハッスルしてるな?
🤡〜〜
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
ケラに用無し。
絶縁で事足りるだけの存在。
話が通じるから。
でも、ケラはな。
特定の言句を入れてNGにすれば、永久に目に触れる事もない。
その程度の存在のケラに用は一切ないしな。
精神の汚さや異常さは文字に表れますから。
文字から腐臭がするんです、そうしたケラどもからはね。
その不満がこうした宗教スレで爆発してる訳ですから。
ヒキニープーボッチで、しかも泡沫カルト団体の末端信者とか、社会のお荷物ですからね。
せめて謙虚に生きればまだ救いはあるにしても、なんせ馬鹿だから。
感情に任せて発狂するから。
そういう奴は、ゴミの様にあしらわれて当然。
普通に相手にされないし、無視される訳だ。
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
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千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
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ぶわあーーーーーくわwww
此処のカルトなんて最初からカウント外。
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
一行といわず、三文字や五文字でも構わないので、ゆっくり丁寧に、お手本に違わず、姿勢と呼吸を調えて写経する訳です。
集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
スッタモンダニート🤡〜
なのか?
🤡〜
複合的要因があるものの、そうした活動が主に都市型寺院で行われていたのに対して、森林住派から空観による釈迦に帰れという流れが出てくるのも不思議ではない。
誰も太刀打ちてきない〜
🤡〜〜
スッタニパータの第四章は、極端な世捨て人の思想だ
あれは、1人で森林をさまよう放浪者の世界
あれだと、「坐禅会に参加して、坐禅が終わったら皆で茶を飲む」なんてのも邪道
「坐禅・作務・食事の作法が細かく定められており、守らないとうるさい」なんてのも、典型的な「これが正しいやり方だ」という正しさへの執着であり、邪道もいいとこだぞ(笑)
(そもそも、スッタニパータの特定の章にこだわること自体、正しい見解への執着であり矛盾だが😅)
坐禅会に実参するより、
坐禅会などには目もくれず
1人でやってるほうが正しい
やたらと作法にうるさいが
あれは「正しい作法」への執着であり、
スッタニパータの精神に反する
何かに依存するなら対象の決まり事を守らねばならないのは当然だ、どんなやり方も学ぼうとするなら、やってはいけないことも学ばなければならない、結果的に足跡は残ってしまう
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
ガンバルンバしろお〜
🤡〜〜〜