法介の個人的活用スレ その1最終更新 2024/05/15 19:111.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOわたくし法介の個人的主張です。2024/05/15 08:56:31199コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOゆゆしき法界 パート24https://talk.jp/boards/psy/17007290792024/05/15 08:59:143.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏に成ることを「成仏」と言います。それは仏と同等の覚りを得た修行者の呼び名でもあります。2024/05/15 08:59:304.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)という言葉をご存知でしょか。創価学会の教学では以下のように解説されております。【歴劫修行】成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語(法華経33㌻)。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。https://k-dic.sokanet.jp/%E6%AD%B4%E5%8A%AB%E4%BF%AE%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%82%8A%E3%82%83%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89/爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52618.html2024/05/15 08:59:475.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO菩薩が発心してから成仏するまでに、三祇百大劫という遥かに長い年月の間に転生を繰り返し修行を行います。それを歴劫修行と言います。2024/05/15 09:00:416.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOしかし、それでは無限に近い気の遠くなるような時間修行をし続け、結局は永久に仏と成ることはできないだろうという発想から初期仏教では「阿羅漢」を修行の最終到達地点としました。2024/05/15 09:00:547.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOしかし『法華経』のあらましと要点が記述された『無量義経』がひも解かれ、無量無辺阿僧祇劫を過ぐれども速疾頓成(速やかに仏に成ること)出来ることが『法華経』で説かれていることがわかった。2024/05/15 09:01:108.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO逆に言えば、『法華経』に書かれている内容を知らない修行者は気の遠くなるような歴劫修行をしない限り仏に成る事はあり得ないという事である。2024/05/15 09:01:249.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO座禅をしてわたしは悟りました(仏の境地を習得しました)とか、瞑想で悟りの境地に到達しましたとかいってる人達をネットでたまに見かけますが、仏教が何たるかを全く理解出来ていない人達だなーとわたしはそういう人達の話を見かける度に思います。2024/05/15 09:01:3510.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOではどうして『法華経』ではそれが可能なのかと言いますと、仏が他経では一切明かすことが無かった秘密の教えが説かれているからです。2024/05/15 09:01:5211.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれを知ろうと思うのであれば『法華経』を学ぶしかないのです。2024/05/15 09:02:0412.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『法華経』は他経と全く異なった経典です。法華経以外の経典は随他意で説かれております。随他意とは仏の本意では無く衆生の機根に合わせて説いた経典という意味になります。相手の能力や状況などに応じて教えを説く対機説法によって説かれた経典がこれにあたります。2024/05/15 09:02:2313.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO対して、随自意という言葉があります。こちらは仏が衆生の機根にかかわらず、仏自身の内面の覚りをそのまま説き示すことを言います。2024/05/15 09:02:3514.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『法華経』が難信難解な経典と言われますのも、この「随自意」で仏が自らの意の随うままに説かれた経典であるからです。2024/05/15 09:02:5215.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOですから凡夫の我々がその『法華経』を読んでも、「な~んだ大した事かいてないじゃん」とか、「これって非現実じゃね」といった感じでしか読み取れないと思います。2024/05/15 09:03:0516.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『法華経』は、三乗の智慧をもって読まなければ、そこに秘められている仏の深意を読み取ることはまずもってあり得ません。2024/05/15 09:03:2017.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその「三乗の智慧」を一枚の曼荼羅に集約して顕されたのが日蓮大聖人が顕された『十界曼荼羅御本尊』です。2024/05/15 09:03:3118.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOですからその『十界曼荼羅御本尊』を対境としてお題目を唱えますと声聞・縁覚・菩薩の三乗の智慧を自身が授かり「妙法蓮華経」という仏の真意である『法華経』を身をもって読み切っていく事になります。2024/05/15 09:03:4319.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOと、いうことはどういうことだかお解りでしょうか。『十界曼荼羅御本尊』に向かってお題目をあげない限り成仏(仏に成る)はあり得ないと言うことです。2024/05/15 09:04:0120.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれがどうしてなのかと言いますと、顕されている曼荼羅が「十界曼荼羅」だからです。2024/05/15 09:04:1521.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO具体的に言えば、『法華経』で明かされた、他経では決して明かす事が無かった秘密の教えとは「十界互具の法門」なんです。2024/05/15 09:05:0222.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその「十界互具」を知らずに、法華経信仰以外の修行をされている方は「歴劫修行」の道を歩んでおられる訳です。そんな方が仏と同じ覚りを得ることがある訳がないでしょう。と、わたしは思う次第です。2024/05/15 09:05:2823.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「覚る」と「悟る」の違いを先に説明しましたが、今一瞬の判断において間違いのない選択を決断する為にその状況におけるもっとも正しい判断を得ることを「覚る」といいます。この判断は凡夫の浅はかな判断ではなく、未来と過去をも見据えた仏の視点に立った「仏の智慧」を授かった判断、即ち「慧解脱」と言います。2024/05/15 09:05:5424.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「慧解脱」に対して「心解脱」というのがありますが、こちらはそういった判断ではなく己(吾)の心を知るといった「悟る」になります。2024/05/15 09:06:1025.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO例えば、人間って納得がいかない事に対して腹を立てたりしますよね。「なんでよ!」って感じで。2024/05/15 09:06:2626.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOだけど、よくよく考えてみたらその原因が自分にあったと知ったらどうでしょう。腹立たしさは消えてなくなり、反省の心が顕れてきます。2024/05/15 09:06:4027.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO人って目線が外向きの人が多い気がします。あの人のあそこがダメだとか、あんなところが嫌いだーとか、あの人のせいでこうなったとか、とかく他人の事はよくも悪くも言いますよね。2024/05/15 09:07:1228.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOでも、仏法って全部自分なんだって教えられるんです。他人は一切関係ない。全部あなたの心が造り出している世界(出来事)なんですと。2024/05/15 09:07:3329.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO外に向いている視線を内なる自分の心に向けて、絶えず「自分」と向き合って生きて行くそれが仏道なんです。2024/05/15 09:07:5730.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOわたしも幼少期から事ある事に父から、「人のせいにしなさんな。全部自分なんですよ」と言われ続けて育ってきました。2024/05/15 09:08:1531.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO言われ続けるとそれが阿頼耶識に薫習されていくんですね。2024/05/15 09:08:2632.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO阿頼耶識に種子として薫習されると、それが他の識に影響をあたえ他の七つの識が転識します。2024/05/15 09:09:0833.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそしたらどうなるか。今までは外に向いてた目線が内側に向き出すんです。そして自分の愚かな心と向き合うんです。2024/05/15 09:09:2034.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO自分の心と向き合うのってしんどいですよーだって人のせいにしたら楽じゃないですか。わたしが悪いんじゃない、あいつが悪いんだってね。2024/05/15 09:09:3435.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO明らかにあいつが悪いのに、それさえも仏教では「いいえ、それもあなたの問題なのです」となっちゃうんですよ。最初の内は納得出来ません。「なんでよ!」って感じになります。2024/05/15 09:10:0136.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO俺が被害にあっているのに、「相手が悪いんじゃなくて俺の問題なの?」ってなりますよね普通は。2024/05/15 09:10:1437.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「あなたが今そういう被害にあっているのは、 あなたの過去に因があるからです」と仏教的には諭されます。2024/05/15 09:10:3438.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO過去に因があるとか言われましても、過去世の出来事など覚えている人なんて居ませんよね。(たまにおりますが)2024/05/15 09:10:5739.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO例えば、旦那が酔っぱらって嫁の頭をぶん殴ったとしましょう。次の日嫁が、「あなた昨日酔っぱらってわたしの頭を思いっきり殴ったのよ!」といって頭のコブを突き付けて「ちゃんとあやまってよ!」と言う。しかし全くその記憶がない旦那は「どっかにぶつかって出来たコブじゃないのか、、、」とあやまろうとはしない。2024/05/15 09:11:2740.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそこで嫁はスマホで撮っていたその瞬間をおさめた動画を旦那に見て付けた。すると旦那は、「本当だー。殴ってる俺。ごめんなさい!」と素直に謝った。2024/05/15 09:11:5041.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそんな感じで、いくら過去世のあなたの行いに因がありますと言われても、自身が覚えてない事は納得しかねます。2024/05/15 09:12:0842.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOしかし、その自身の過去の行いを知りえる方法があったらどうでしょう。それは自身の阿頼耶識にちゃんと記録として残っているんです。自身の過去世の全ての行いが「業」として蓄えられているのです。2024/05/15 09:12:3343.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO十界曼荼羅本尊にお題目を唱えるとその自身の阿頼耶識を観じ取っていきます。すると過去世の出来事が蘇えって「ああー。確かに俺はこんなことをしたなー」って実感して心から納得するんです。2024/05/15 09:12:5544.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれが己の心を知る「心解脱」という「悟る」という意味です。2024/05/15 09:13:1045.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO賢い人なら気づくと思うのですが、 心解脱=此縁性縁起 慧解脱=相依性縁起と成ります。なぜかといいますとそれぞれの言葉の持つ意味を考えたら解ることです。2024/05/15 09:13:4546.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO〝一念〟について2024/05/15 09:15:4447.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「十界互具の法門」が明かされることで「一念三千の法門」がひも解かれます。この〝一念〟という言葉の意味について少しお話をしておきます。2024/05/15 09:16:0848.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「一念岩をも通す」ということわざをご存知でしょうか。2024/05/15 09:16:2549.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO強く念じてはなった矢は、岩をも突き通すという意味で「強い気持ちをも ってすれば、どんなことでもできる」という意味を表しています。2024/05/15 09:16:3550.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOわたしなんかは「一念」と聞いて頭に浮かぶのは吉田松陰と高杉晋作の間でかわされた命のやり取りのお話です。2024/05/15 09:16:4651.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」初代内閣総理大臣、伊藤博文がそう評した人物、高杉晋作。2024/05/15 09:16:5952.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO彼が師匠である吉田松陰に男子たるものいつ死ぬべきかと問う。2024/05/15 09:17:1153.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれに対し松陰は囚われの身となった牢獄から晋作宛に手紙で次のように伝えた。「死して不朽の見込あればいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつもでも生くべし。」2024/05/15 09:17:2454.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその師の言葉通り晋作は、犬死と思えば例え世間から卑怯者と罵られようが罵声を浴びようがかまわずに生き延びた。それは当時においては武士としては不名誉な事で恥ずべき行為でもあった。2024/05/15 09:17:4255.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその反面、長州藩が四方を囲まれ絶体絶命の危機に直面した時、彼はたった一人立ち上がて狂気の沙汰としか思えない反撃に打って出る。そこから長州は息を吹き返し維新へと進んで行く。2024/05/15 09:17:5456.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO晋作は師から学んだ生死観に生き抜いた。そんな松陰と晋作の間でこんなやりとりがあった。時に、松陰にとって最後の年、安政六年一月のことであった。この年の十月に彼は刑死する。俗に言う安政の大獄松陰である。この時松陰は、萩の「野山獄」にいた。2024/05/15 09:18:1057.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO獄中にあっても松陰は革命への動きを止めようとしなかった。次々と弟子達に手紙で支持を伝えるが、師の安否を気遣い弟子達はもう少し慎重にと師の過激な計画を実行に移す事はしなかった。2024/05/15 09:18:2658.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO松陰はある時、門下に対しこう言った。「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」″自分は、成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は手柄をたてるつもりなのだ。意見が違い、生き方が違う″と厳しく指弾したのである。2024/05/15 09:18:5759.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれは松陰が、門下の久坂玄瑞、高杉晋作らを名ざしで批判し、絶交した時の言であった。2024/05/15 09:19:1160.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそんな久坂、高杉らの手紙が届いたとき、松陰はある人にあてて書いた。「吾が輩皆に先驅さきがけて死んで見せたら觀感かんかんして起るものもあらん。夫れがなき程では何方時を待ちたりとて時はこぬなり」 ――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、意気に感じて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。2024/05/15 09:19:2761.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO ″時を待つ″のではない。言ってわからなければ、一命を捨てて″時をつくる″。その死は、決して「犬死に」ではない、と。2024/05/15 09:19:4262.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO結果的には、やがて松陰の死が門下を立ち上がらせ、時代は大きく変わって行った。2024/05/15 09:19:5663.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの話からは、師匠の〝一念〟と弟子達の〝一念〟の違いが読み取れます。忠義に生きる師匠の一念と功業(名聞名利)に生きる弟子達の一念の違いである。2024/05/15 09:20:1364.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれを仏教の世界観に置き換えると、「仏の一念」と「凡夫の一念」といった一念の違いとして顕れます。2024/05/15 09:20:2965.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「凡夫の一念」はどこまでいっても「迷いの一念」でしかありません。なぜなら凡夫は未だ覚ってはおらず真理に疎いからです。2024/05/15 09:20:4666.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその「迷いの一念」を因として起きる縁起によって煩悩が生まれます。2024/05/15 09:21:0367.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOでは仏の「覚りの一念」ってどこにあるのでしょうというのが『唯識』の理論です。2024/05/15 09:21:1868.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO凡夫の側にはそれはありません。仏の側にどうやってアクセスするかが重要なミッションとなってきます。2024/05/15 09:21:3369.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「凡夫の側」と「仏の側」のシステム構造の違いを理解出来た者しか進めないミッションです。2024/05/15 09:22:0370.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO理解出来ない者はそのセッションごとに置いて行かれます。そこに居残り更なる修行に励まなければなりません。2024/05/15 09:22:1671.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「仏の側」へ侵入出来た者は、今度は膨大な貯蔵庫の中から「仏の一念」を探し出すミッションへと進みます。2024/05/15 09:22:3772.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその貯蔵庫の中から「自分の一念」は直ぐに拾いあげることは出来ます。しかし「仏の一念」となると、まず仏と会った事がない者などは皆目見当もつかず脱落していきます。カイジのような世界です。(カイジをちゃんと見ておりませんが・・・)2024/05/15 09:23:0173.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO実は「仏の一念」を吊り上げるアイテムがないとそのミッションは成功しません。何故なら何度もくどいように言いますが、仏と会った事がないからです。2024/05/15 09:23:2174.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏と会った事が有る人達はアイテムなど必要ありません。「あ!仏だー」って見たら直ぐに分かるからです。しかし、何度も何度も言いますが過去に一度も仏と会った事が無い者は、絶対に探し出せません。ですからそういった者達にはアイテムが必ず必要になってきます。2024/05/15 09:24:1275.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそのアイテムで引き上げた「仏の一念」を今度は「凡夫の側」へ持って帰るというミッションに移ります。2024/05/15 09:24:2476.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそして持ち帰った「仏の一念」を因として縁起を起こします。凡夫の迷いの一念を因として縁起を起こすと煩悩が生じていたのですが、その因を「仏の一念」に入れ替えて縁起を起こすとどうでしょう。今まで煩悩だった悩みや苦しみが、覚りへと転換されちゃってるじゃないですか。2024/05/15 09:24:5277.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOというように、〝一念〟ってとても大事な要因なんですね。あなたのその一念、凡夫の一念ですかそれとも仏の一念ですか?2024/05/15 09:25:1578.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「仏の一念です!」というそこのあ・な・た・それってちゃんとアイテムを使って引き上げた「仏の一念」ですか?え?アイテムは使っていない?だったらどうなっても知りませんよー2024/05/15 09:25:4479.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO全て自己責任ですから。2024/05/15 09:25:5480.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO~ 体の仏と用の仏 ~2024/05/15 09:41:3981.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOリダンに問う。次の「 」を埋めよう。体の仏=「 」用の仏=「 」2024/05/15 09:41:5382.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題2円融三諦とは生身の「 」が「 」と「 」と「 」の「 」を一身に体顕する事を言う。2024/05/15 09:42:0783.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題3十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如しここで言い、水中の月、虚空の月とは具体的に何のことをいうか、次の「 」を埋めよ。水中の月=「 」虚空の月=「 」2024/05/15 09:42:1884.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題4法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり天台が言う「一色一香中道に非ざること無し」の中道とは何?ここで言う中道とは、「 」の事である。2024/05/15 09:42:3385.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題5即身成仏とは、次の内のどれを言いか。1.ミイラ化して不滅の体を顕す。2.今、一瞬の中に仏の三身を体顕する事。3.一生の内に仏の三身を体顕する事。正解は「 」番である。2024/05/15 09:42:4886.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO以上のミッションを君はクリアしなければならない。https://youtu.be/Wqj3WMC1OAs2024/05/15 09:43:1787.リダンuj8WO体の仏=「応身」用の仏=「報身」2024/05/15 09:44:3888.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO体の仏=「応身」❌用の仏=「報身」❌2024/05/15 09:44:5689.リダンuj8WO体の仏=当体用の仏=応身2024/05/15 09:45:3690.リダンuj8WO円融三諦とは生身の「 私 」が「仮諦」と「 空諦 」と「 中諦 」の「 真理 」を一身に体顕する事を言う。2024/05/15 09:45:4691.リダンuj8WO水中の月=「釈迦如来」虚空の月=「 俺 」2024/05/15 09:46:0092.リダンuj8WO>>91間違えたw逆w2024/05/15 09:46:2993.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO体の仏=当体❌用の仏=応身❌2024/05/15 09:46:4694.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>92 ⭕2024/05/15 09:47:2095.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO体の仏=当体❌用の仏=応身❌2024/05/15 09:47:3096.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO円融三諦とは生身の「 私 」が「仮諦」と「 空諦 」と「 中諦 」の「 真理 」を一身に体顕する事を言う。私⭕しかしここは凡夫と書いて欲しい処。以下は全て❌。意味としてはそれでもなりたつが、この問題の狙いは文意を組とる能力を試すもの。やり直し!2024/05/15 09:48:1597.リダンuj8WO>>96おや?これで違うのか…2024/05/15 09:48:5198.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOJBL、東大の名にかけておまも >>379 この問題2を解いてみ。2024/05/15 09:49:0599.リダンuj8WO円融三諦とは生身の「凡夫」が「如是相」と「如是性」と「如是体」の「三身如来」を一身に体顕する事を言う2024/05/15 09:49:31100.リダンuj8WOどや2024/05/15 09:49:51101.リダンuj8WO問題4 実相2024/05/15 09:50:12102.リダンuj8WOどや2024/05/15 09:50:24103.リダンuj8WO問題5 22024/05/15 09:50:36104.リダンuj8WO75点ってとこか2024/05/15 09:50:47105.リダンuj8WO一問目、グクっても分からん2024/05/15 09:50:59106.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>99問題に用いられている言葉をしっかりと見ろ。そこから法華経の心を組とること。やり直し!2024/05/15 09:51:45107.リダンuj8WOなんと2024/05/15 09:52:01108.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>101適当な事を言な!やり直し!2024/05/15 09:52:35109.JBLuj8WO円融三諦とは生身の「 凡夫 」が「 法身 」と「 報身 」と「 応身 」の「 三身 」を一身に体顕する事を言う。2024/05/15 09:53:26110.リダンuj8WO円融三諦とは生身の「凡夫」が「仮諦」と「 空諦 」と「 中諦 」の「三諦」を一身に体顕する事を言う。2024/05/15 09:53:38111.リダンuj8WO問題4 円融三諦2024/05/15 09:53:50112.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>109⭕さすが東大おみごと!2024/05/15 09:54:20113.リダンuj8WO>>109そっちかー円融三諦にひっぱられたー2024/05/15 09:54:51114.リダンuj8WO円融三諦とは生身の「凡夫」が「仮諦」と「 空諦 」と「 中諦 」の「三諦」を一身に体顕する事を言う。2024/05/15 09:55:04115.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>103http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998370.htmlよく見ろ。2024/05/15 09:55:51116.リダンuj8WO>>115ああ、普通に3か法介さみてたら2ぽいのよ2024/05/15 09:56:23117.JBLuj8WOJBL、問題1を解いてみ2024/05/15 09:56:52118.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>116逆なような気がする。適当にディスってないか?2024/05/15 09:58:21119.リダンuj8WOディスってないよw復活が異様に早いからさ2024/05/15 09:59:06120.リダンuj8WO興味の移り変わりも早い2024/05/15 09:59:16121.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO最初に言った通り1/3、30点ってとこだな。2024/05/15 09:59:28122.リダンuj8WO赤点だな2024/05/15 09:59:40123.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題1は、解ける人いるかなー2024/05/15 09:59:54124.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題1って実は大変間違いやすい内容で、創価学会や日蓮正宗はここを間違って解釈して日蓮本仏論をかかげている。2024/05/15 10:01:36125.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO問題1の正解は、体の仏=「本仏」 or(凡夫の三身)用の仏=「迹仏」 or(仏の三身)でした。http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1996001.html2024/05/15 10:01:54126.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこちらへ続きます。体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)https://zawazawa.jp/bison/topic/212024/05/15 10:11:09127.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO~ 日蓮本仏論 ~2024/05/15 10:40:32128.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOされば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり2024/05/15 10:41:02129.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」「仏は用の三身にして迹仏なり」2024/05/15 10:41:14130.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO実は大変重要なことがここに示されているのです。2024/05/15 10:41:29131.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏が本仏ではなく、凡夫こそが本仏だと日蓮さんは名言されているんです。2024/05/15 10:41:54132.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOだから「凡夫即仏だー!」という訳でもありません。そんな単純なお話ではあり有ません。2024/05/15 10:42:10133.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそこそこの仏教知識を備えておられる方は、仏は「無色界」であり、唯識で言えば「阿頼耶識」だと考えます。わたしも昔はその認識でした。2024/05/15 10:44:07134.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOしかし龍樹の中論や世親の唯識を深く理解していくにしたがってそうではないと気づいていきました。2024/05/15 10:44:29135.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮さんや天台智顗もそこに早くから気づかれておられたのでしょう。2024/05/15 10:44:39136.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮正宗のトップであられる猊下ですらそこのところを正しく理解出来ずに誤った教学を立てていたような次第です。それが日蓮本仏論です。2024/05/15 10:44:56137.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO実は日蓮正宗の「日蓮本仏論」の出処はこの『諸法実相抄』の↑の >>128 一節に依るところなんです。2024/05/15 10:45:36138.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。 然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに さにては候はず、返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり」この一節を第67世日顕上人猊下は次のように講義しております2024/05/15 10:45:58139.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO 「『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』という御文ですが、これが付嘱の本門の上からの大聖人様の独自の解釈です。これは大変な御文です。つまり寿量品の文底たる付嘱の本門から体の三身・用の三身を立て分けるときには、実は凡夫の上におけるところの三身をもって『如来秘密』というのであると仰せなのです。ここにこそたいへん大事な、付嘱の妙法を地涌の再誕たる大聖人様が末法に御出現して御指南あそばす御法門があるのです。 この元意は何かと言うと、日蓮大聖人様は末法に凡夫として出現されましたが、この凡夫のままの日蓮が実は久遠の本仏であるぞという意味なのです」(大日蓮 五三六号)と御指南されています。すなわち、本抄において、仏と凡夫、本仏と迹仏の意義が反転し、真実の倶体・倶用の三身が凡夫に具わるという驚天動地(きょうてんどうち)の法門が展開されていますが、これは久遠元初の御本仏日蓮大聖人様が凡夫の姿をもって出現する、という義をお示しになられたのであり、凡夫の大聖人様の体に三身が具わり、またそこに用の三身が具わるという倶体・倶用の意義を示された甚深の御法門が、凡夫即極ということなのであります。 したがって、大聖人様こそ久遠元初の御本仏であり、私たち衆生は御本仏、大聖人様に随順し、信心修行に励むときにはじめて倶体・倶用の三身の徳性が開かれるのです。2024/05/15 10:46:25140.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの日顕猊下の解説は、日蓮正宗第二十六世日寛上人猊下の「人法一箇」の己義に依るところです。人法一箇とは、人法体一・人法一体ともいい、法華経本門寿量品の文底に秘沈される法即人の本尊と人即法の本尊が、一体不二の当体であることをいいます。法即人の本尊とは久遠元初自受用報身如来である日蓮大聖人をいい、人即法の本尊とは文底独一本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経である本門戒壇の大御本尊をいいます。2024/05/15 10:46:48141.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOですから「戒壇の大御本尊」こそが帰依の対象とすべき「本仏」であると説くのが『日蓮本仏論』です。戒壇の大御本尊に御本仏日蓮の魂がやどっているとする教えです。2024/05/15 10:47:12142.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「空」を正しく理解出来ていれば、この考えが「おかしい」と気づきます。なぜなら、対象のモノに「本質」は存在しないのですから。これを「無自性」と言います。2024/05/15 10:47:30143.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO例えば、私は妻と子がいます。父親である私の内実(自性)は私自身の胸中にしかありません。自身以外に自身の事を熟知する者はいませんから。しかし、100%まではいきませんが長年夫婦として連れ添って生きてきた妻は、一番の私の理解者です。2024/05/15 10:47:47144.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその妻が描く私の像と子どもが父親として描く私の像は私に対する理解度の違い、また子と妻という関係性の違いから当然違った私の姿としてそれぞれに映し出されていると思います。それぞれが、それぞれの想いでそれぞれの心の中に私という像を造りだしています。2024/05/15 10:48:02145.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO私を中心に置いた私の人生の中では、私の内実(自性)は存在します。しかし、その自分を自分とたらしめている自性は、縁に触れることでいかようにも変化します。ですから仏法では自性は縁によって仮に生じているものという見方をします。(無自性)2024/05/15 10:48:20146.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOでは、妻や子に中心を置き換えた場合、妻や子がそれぞれ認識している私の姿の中に私の内実(自性)は存在しえるでしょうか。2024/05/15 10:48:46147.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO妻や子に見える私の姿は、妻や子が勝手に自分たちの想いで造り出している姿(虚像)に過ぎません。妻からみたら夫。子からみたら父親。といった感じで、見る対象によってそれぞれ違った姿が映し出されます。それぞれがそれぞれの心の中に私の虚像を造り出しているのです。2024/05/15 10:49:03148.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮大聖人は、ご自身の御内証を一枚の曼荼羅に顕されました。その大聖人様の御内証は、はたしてその大御本尊様の中にあると思いますか。2024/05/15 10:49:17149.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO御本尊といえども例外なく「無我・無自称」と捉えるのが仏法です。御本尊と向き合った時、御本尊を縁として大聖人様の魂を我々一人一人の心が感じ取っていくから「此の御本尊全く余所に求める事なかれ、只我等衆生、 法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉弾に おわしますなり」と大聖人は申されております。2024/05/15 10:49:36150.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO御本尊と向き合い、勤行・唱題をすることで「阿頼耶識」に眠る「妙法」が前五識・第六識・第七末那識を転識させます。2024/05/15 10:50:24151.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその境地に入ってはじめて、大聖人様(仏)の御内証(心)を感じとることができます。戒壇の大御本尊に大聖人様の魂がやどっている訳ではありません。2024/05/15 10:50:35152.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『諸法実相抄』では、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」と「仏は用の三身にして迹仏なり」とあります通り、「凡夫の三身」と「仏の三身」とがそれぞれあります。2024/05/15 10:52:38153.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「仏の三身」は、皆さんよくご存じの「応身・報身・法身」の仏の三身です。2024/05/15 10:52:53154.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOでは「凡夫の三身」とは如何なるものでしょう。2024/05/15 10:53:08155.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO>>126ここから↓へ続く。だな。体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)https://zawazawa.jp/bison/topic/212024/05/15 10:55:55156.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO~ 観法(止観法) ~2024/05/15 10:58:17157.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO瞑想は思考を停止させるもの。停止させることで煩悩が止滅する。2024/05/15 10:58:32158.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO唯識を説く法相宗の修行法って知ってますか。2024/05/15 10:58:49159.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO思考を停止させる瞑想ではありません。2024/05/15 10:59:10160.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO五重唯識観という観法です。(一応瞑想ともいう)1つ目で、遍計所執性の幻が捨てられ、2つ目から4つ目で、依他起性が深められ、5つ目で円成実性だけが現れます。といった内容です。2024/05/15 10:59:22161.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO唯識は菩薩に対して説かれた教えです。それまでの二乗に対して説かれた諸行法とは内容(瞑想法)が異なります。2024/05/15 10:59:54162.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOお釈迦さまがそれを説こうとした時、5000人の阿羅漢衆が(声聞・縁覚)「わたし達は既に瞑想を習得しています。 今更、別の修行法など興味ありません!」といって5000人の阿羅漢達が席を立って聞かないまま去って行きます。2024/05/15 11:00:41163.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそこに居残ってちゃんと『法華経』の説法を最後まで聞いたのは菩薩の境涯の修行者だけでした。(二乗は聞かないまま去って行った)だから、二乗は成仏出来ないと言われたんです。2024/05/15 11:01:10164.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO(理由はそれ以外にもありますが)2024/05/15 11:01:25165.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『法華経』の説法を最後までちゃんと聴聞した者達は、それが因となって今世では『法華経』を祭っている家に生まれ出ます。2024/05/15 11:01:42166.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「『法華経』を祭っている家」ってどういうことか分かりますか?日蓮さんが顕された「曼荼羅御本尊」を祭っている家ってことです。2024/05/15 11:01:57167.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそうでない人達は皆、過去世で一度も『法華経』の説法を聞かなかった人達です。2024/05/15 11:02:11168.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO今、こうして再び法華経のお話を聞く場面に出くわして、聞くか聞かないかもそれぞれの自由です。興味がない人は去って行かれて結構ですし、興味がある方はつたない私のお話ですがそれでも少しでも法華経の心に触れることが出来ればとの思いでお話しております。2024/05/15 11:02:31169.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏教では「縁」を説きます。何に縁していくかが大事なんです。2024/05/15 11:02:43170.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO悪しき心の人に縁すれば、手に持ったナイフは人を傷つける道具とさえなります。しかし、心美しき料理人に縁すれば、それで人を喜ばせる素晴らしい料理をこしらえます。2024/05/15 11:03:02171.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO仏教ではそれを「善知識と悪知識」として諭されます。2024/05/15 11:03:14172.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮さんの『守護国家論』に次のような事が書かれております。(現代語訳で) 摩訶止観巻一に「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、前に説くところの一乗真実の菩提を聞く」とある。この文の意味は、経巻をもって善知識とすることである。 法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「もし法華経を閻浮提に行じ受持する者は、皆これは普賢菩薩の優れた神通の力である、と考えなさい」とある。この文の意味は、末法の代の凡夫が法華経を信じるのは普賢菩薩という善知識の力である、ということである。また同品に「もしこの法華経を受持し、読誦し、正しく憶念し、修習し、書写する者は、まさに知りなさい。この人はそのまま釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口からこの経典を聞くようなものである。まさに知りなさい。この人は釈迦牟尼仏を供養しているのである」とある。この文を見るに、法華経は即ち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は入滅されているが、この経を信じる者の前には、仏の滅後であっても仏の在世なのである。2024/05/15 11:03:50173.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO また見宝塔品第十一に「もし我が成仏して入滅して後、十方世界の国土において法華経を説くところがあれば、我はこの経を聴くために、宝塔に乗ってその前に涌現し、法華経の真実を証明するであろう」とある。この文の意味は、我等衆生が法華経の名号を唱えると多宝如来が本願のために必ず出現される、ということである。また同品に「諸仏が十方世界にあって法を説いているのを、ことごとく呼び還し、霊鷲山の一処に集められた」とある。釈迦如来・多宝如来・十方分身の諸仏・普賢菩薩等などは我らの善知識である。もしこの意義によるならば、我らの前世に積んだ善根は善財童子・常啼菩薩・班足王などにも勝れているのである。彼は権経の善知識にあい、我らは実経の善知識にあっているからである。彼は権経の菩薩にあい、我らは実経の仏・菩薩にあっているからである。2024/05/15 11:04:27174.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO 涅槃経に「法に依って人に依らざれ、智に依って識に依らざれ」とある。「法に依る」というのは法華経・涅槃経の常住の法に依れということである。「人に依らざれ」とは法華経・涅槃経に基づかない人に依ってはならないということである。 たとえ仏・菩薩であっても法華経・涅槃経に依らない仏・菩薩は善知識ではない。まして法華経・涅槃経に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。 「智に依る」とは仏の智慧に依れということである。「識に依らざれ」とは等覚の菩薩以下の識に依ってはならないということである。今の時代の出家・在家が源空の謗法を隠そうとするために、その徳を天下に言いふらし、勢至菩薩の権化であると言っているが信用できない。 外道は、五神通力を得て山を傾け海を干すとしても、神通力のない阿含経の凡夫に劣っている。小乗の阿羅漢を得て六神通を現す二乗は、華厳・方等・般若の凡の権大乗の凡夫に劣っている。 華厳・方等・般若の権大乗の等覚の菩薩も、法華経の名字即・観行即の凡夫に劣っている。たとえ神通力・智慧があっても権教の善知識を用いてはいけない。2024/05/15 11:05:00175.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO 常に苦海に沈んでいる一闡提の我ら凡夫が法華経を信じようとすることは、仏性を顕すための前兆である。 ゆえに妙楽大師は「衆生の無明の生命の内から真如が薫習しなければ、どうして悟りを生じることができようか。このことから、悟りを生じる力は真如にあることが明らかである。ゆえに冥薫を外護の知識とするのである」と述べている。 法華経より以外の四十余年の爾前の諸経には十界互具を説いていない。十界互具を説かなければ衆生の内心の仏界を知らない。衆生の内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕れない。 ゆえに四十余年の爾前権教を修行する者は仏は見ない。たとえ仏を見たとしても他仏を見ているのである。爾前の菩薩もまた自身の十界互具を見ないので二乗界の成仏を見ない。ゆえに「衆生の無辺なるを度せんと誓願す」の願も満足しない。ゆえに菩薩も仏を見ない。凡夫もまた十界互具を知らないゆえに、自身の仏界も顕れない。2024/05/15 11:05:18176.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO ゆえに阿弥陀如来の来迎ももなく、諸の仏・如来の加護もない。たとえば盲人が自身の影を見ないようなものである。 今,法華経に至って九界の内にある仏界を開くゆえに、四十余年の爾前経の菩薩・二乗・六道の凡夫が初めて自身の仏界を見るのである。 この時、この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩が初めて成仏し凡夫も初めて往生する。このゆえに在世・滅後の一切衆生の真の善知識は法華経なのである。2024/05/15 11:05:34177.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO『諸法実相抄』のされば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。2024/05/15 11:06:48178.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOではその「妙法蓮華経」の三身とは何かと言いますと、 曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦 法華経 ---報身---空諦 南無妙法蓮華経 ---法身---中諦となります。2024/05/15 11:07:11179.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれは次に示す三因仏性でもあります。 曼荼羅御本尊 ---縁因仏性 法華経 ---了因仏性 南無妙法蓮華経 ---正因仏性2024/05/15 11:07:33180.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの三因仏性を〝因〟として凡夫が縁起を起こす(具体的には勤行・唱題)と現実の実在の世界の中で不思議な現象が起こります。それが不思議解脱という現象(因果の〝果〟)です。2024/05/15 11:07:54181.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO不思議解脱は三種あります。三種の不思議な解脱が現実の世界の中で起こります。それが方便の解脱・実慧の解脱・真性の三つの解脱です。2024/05/15 11:08:11182.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO方便の解脱とは、前五識が声聞の智慧によって成所作智へ転識します。<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)2024/05/15 11:08:26183.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「声聞の智慧」とは実体に即した真理、即ち「此縁性縁起」です。今まで「有る無し」の外道の見解で見ていた対象をそのモノがそのモノと成り得た因果で対象を捉える意識に変わります。2024/05/15 11:08:53184.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO例えば、職場でいつも自分に嫌がらせばかりしてくる嫌な先輩が居たとしましょう。今までは「この先輩なんて意地悪なんだろー」と思って嫌っていました。この見方が普通の見方(仮観)です。2024/05/15 11:09:23185.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOその先輩のことで仕事に行くのが嫌になるくらい悩まされていたところ御本尊に勤行・唱題する中で(仕事が楽しく出来るようになりますように、、、)と心の中で御祈念すます。すると不思議な出来事が起こります。2024/05/15 11:09:36186.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOたまたまその先輩の両親とが一緒にいるところを見かけます。父親はその先輩に暴力を振るい母親も先輩に罵声をあびせて見ていて可哀そうなくらい先輩が両親から酷いめにあっているのです。2024/05/15 11:09:50187.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれをみて思いました。(ああー、こういう家庭環境で先輩は育ってこられたんだぁ。)そう思うと自身がこれまでされてきた事もスーと消えていき逆に先輩が可哀そうで仕方なく思えてきました。2024/05/15 11:10:06188.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそういう現象が本当に起こるんです。だから不思議解脱っていうんでしょう。2024/05/15 11:10:24189.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの例えは、方便の解脱です。方便というのは前五識が造り出す実在の世界観の中での苦しみ(煩悩)からの解脱という意味です。2024/05/15 11:10:39190.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO次に実慧の解脱は、第六識が「縁覚の智慧」によって「妙観察智」へと転識します。<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智(←ここ) 経=肉眼:前の五識は成所作智2024/05/15 11:10:57191.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO「縁覚の智慧」とは通教で説き明かされた「相依性縁起」です。これを覚ると世の中に絶対的な正しさなんて存在し得ない、ことを理解します。2024/05/15 11:11:12192.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの宗教板において、絶えず自身の「正しさ」を振りかざし論争を仕掛けてくる輩が沢山おられます。2024/05/15 11:11:35193.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそういった人達はこの「相依性縁起」を全く覚れていない訳です。2024/05/15 11:12:01194.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO日蓮正宗や創価学会が醜い程に言い争ってきたのも、互いに「相依性縁起」を覚れていないからです。というか「空」や「無我・無自性」を詳しく教えられておりませんので「薫習」が出来ていないんですね。2024/05/15 11:12:18195.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこの相依性縁起は心の変化で起こる縁起です。凡夫の第六意識で起こる縁起と成ります。先ほどの方便の解脱が現実の実体の出来事として起こる縁起なのに対し、こちらは智慧によって悩みや苦しみから解脱しますので実慧の解脱となります。2024/05/15 11:14:04196.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOこれはお題目をあげてる時に良く起こります。(ああー、こういう事を自分が教えられているんだなー)って感じで意識の変化が心の中で起こります。2024/05/15 11:14:16197.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WO外に向いてた視野が内側(自身のあり様)に向き出す感じです。2024/05/15 11:14:28198.法介◆T3azX0Hk1Uuj8WOそれによって自身の愚かさを自覚し反省するに至ります。反省なき人に成長はあり得ません。2024/05/15 11:14:43199.ナナシズムglPQoほーかいくん〜😄2024/05/15 19:11:03
【政治】財務省が「玉木首相の可能性」に顔面蒼白…!「消費税5%」「年収の壁」「給食費タダ」「高校まで完全無償化」ヤバすぎる大盤振る舞いに「死んでも飲めない」と猛反発ニュース速報+862923.12024/11/01 09:21:10
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https://talk.jp/boards/psy/1700729079
それは仏と同等の覚りを得た修行者の呼び名でもあります。
創価学会の教学では以下のように解説されております。
【歴劫修行】
成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語(法華経33㌻)。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
https://k-dic.sokanet.jp/%E6%AD%B4%E5%8A%AB%E4%BF%AE%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%82%8A%E3%82%83%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89/
爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52618.html
法華経以外の経典は随他意で説かれております。随他意とは仏の本意では無く衆生の機根に合わせて説いた経典という意味になります。相手の能力や状況などに応じて教えを説く対機説法によって説かれた経典がこれにあたります。
「な~んだ大した事かいてないじゃん」とか、
「これって非現実じゃね」といった感じでしか読み取れないと思います。
『十界曼荼羅御本尊』に向かってお題目をあげない限り
成仏(仏に成る)はあり得ないと言うことです。
顕されている曼荼羅が「十界曼荼羅」だからです。
『法華経』で明かされた、
他経では決して明かす事が無かった秘密の教えとは
「十界互具の法門」なんです。
そんな方が仏と同じ覚りを得ることがある訳がないでしょう。
と、わたしは思う次第です。
「なんでよ!」
って感じで。
腹立たしさは消えてなくなり、反省の心が顕れてきます。
あの人のあそこがダメだとか、
あんなところが嫌いだーとか、
あの人のせいでこうなったとか、
とかく他人の事はよくも悪くも言いますよね。
他人は一切関係ない。
全部あなたの心が造り出している世界(出来事)なんですと。
絶えず「自分」と向き合って生きて行く
それが仏道なんです。
「人のせいにしなさんな。全部自分なんですよ」
と言われ続けて育ってきました。
それが他の識に影響をあたえ
他の七つの識が転識します。
今までは外に向いてた目線が内側に向き出すんです。
そして自分の愚かな心と向き合うんです。
だって人のせいにしたら楽じゃないですか。
わたしが悪いんじゃない、あいつが悪いんだってね。
最初の内は納得出来ません。
「なんでよ!」
って感じになります。
「相手が悪いんじゃなくて俺の問題なの?」
ってなりますよね普通は。
あなたの過去に因があるからです」
と仏教的には諭されます。
過去世の出来事など覚えている人なんて居ませんよね。
(たまにおりますが)
次の日嫁が、
「あなた昨日酔っぱらってわたしの頭を思いっきり殴ったのよ!」
といって頭のコブを突き付けて
「ちゃんとあやまってよ!」
と言う。しかし全くその記憶がない旦那は
「どっかにぶつかって出来たコブじゃないのか、、、」
とあやまろうとはしない。
すると旦那は、
「本当だー。殴ってる俺。ごめんなさい!」
と素直に謝った。
心解脱=此縁性縁起
慧解脱=相依性縁起
と成ります。なぜかといいますとそれぞれの言葉の持つ意味を考えたら解ることです。
「一念三千の法門」がひも解かれます。
この〝一念〟という言葉の意味について少しお話をしておきます。
初代内閣総理大臣、伊藤博文がそう評した人物、高杉晋作。
「死して不朽の見込あればいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつもでも生くべし。」
時に、松陰にとって最後の年、安政六年一月のことであった。この年の十月に彼は刑死する。俗に言う安政の大獄松陰である。この時松陰は、萩の「野山獄」にいた。
「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」
″自分は、成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は手柄をたてるつもりなのだ。意見が違い、生き方が違う″と厳しく指弾したのである。
「吾が輩皆に先驅さきがけて死んで見せたら觀感かんかんして起るものもあらん。夫れがなき程では何方時を待ちたりとて時はこぬなり」
――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、意気に感じて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。
言ってわからなければ、一命を捨てて″時をつくる″。その死は、決して「犬死に」ではない、と。
忠義に生きる師匠の一念と功業(名聞名利)に生きる弟子達の一念の違いである。
「仏の一念」と「凡夫の一念」といった一念の違いとして顕れます。
なぜなら凡夫は未だ覚ってはおらず真理に疎いからです。
仏の側にどうやってアクセスするかが重要なミッションとなってきます。
あなたのその一念、
凡夫の一念ですかそれとも仏の一念ですか?
それってちゃんとアイテムを使って引き上げた「仏の一念」ですか?
え?
アイテムは使っていない?
だったらどうなっても知りませんよー
次の「 」を埋めよう。
体の仏=「 」
用の仏=「 」
円融三諦とは生身の「 」が「 」と「 」と「 」の「 」を一身に体顕する事を言う。
十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し
ここで言い、水中の月、虚空の月とは具体的に何のことをいうか、次の「 」を埋めよ。
水中の月=「 」
虚空の月=「 」
法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり
天台が言う「一色一香中道に非ざること無し」の中道とは何?
ここで言う中道とは、「 」の事である。
即身成仏とは、次の内のどれを言いか。
1.ミイラ化して不滅の体を顕す。
2.今、一瞬の中に仏の三身を体顕する事。
3.一生の内に仏の三身を体顕する事。
正解は「 」番である。
https://youtu.be/Wqj3WMC1OAs
用の仏=「報身」
用の仏=「報身」❌
用の仏=応身
虚空の月=「 俺 」
間違えたw
逆w
用の仏=応身❌
用の仏=応身❌
私⭕しかしここは凡夫と書いて欲しい処。以下は全て❌。意味としてはそれでもなりたつが、この問題の狙いは文意を組とる能力を試すもの。
やり直し!
おや?
これで違うのか…
問題に用いられている言葉をしっかりと見ろ。そこから法華経の心を組とること。
やり直し!
適当な事を言な!
やり直し!
そっちかー
円融三諦にひっぱられたー
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998370.html
よく見ろ。
ああ、普通に3か
法介さみてたら2ぽいのよ
逆なような気がする。適当にディスってないか?
復活が異様に早いからさ
体の仏=「本仏」 or(凡夫の三身)
用の仏=「迹仏」 or(仏の三身)
でした。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1996001.html
体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)
https://zawazawa.jp/bison/topic/21
「仏は用の三身にして迹仏なり」
実は大変重要なことがここに示されているのです。
凡夫こそが本仏だと
日蓮さんは名言されているんです。
という訳でもありません。
そんな単純なお話ではあり有ません。
仏は「無色界」であり、唯識で言えば「阿頼耶識」だと考えます。
わたしも昔はその認識でした。
そうではないと気づいていきました。
それが日蓮本仏論です。
然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに
さにては候はず、返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり」
この一節を第67世日顕上人猊下は次のように講義しております
という御文ですが、これが付嘱の本門の上からの大聖人様の独自の解釈です。これは大変な御文です。つまり寿量品の文底たる付嘱の本門から体の三身・用の三身を立て分けるときには、実は凡夫の上におけるところの三身をもって『如来秘密』というのであると仰せなのです。ここにこそたいへん大事な、付嘱の妙法を地涌の再誕たる大聖人様が末法に御出現して御指南あそばす御法門があるのです。
この元意は何かと言うと、日蓮大聖人様は末法に凡夫として出現されましたが、この凡夫のままの日蓮が実は久遠の本仏であるぞという意味なのです」(大日蓮 五三六号)と御指南されています。
すなわち、本抄において、仏と凡夫、本仏と迹仏の意義が反転し、真実の倶体・倶用の三身が凡夫に具わるという驚天動地(きょうてんどうち)の法門が展開されていますが、これは久遠元初の御本仏日蓮大聖人様が凡夫の姿をもって出現する、という義をお示しになられたのであり、凡夫の大聖人様の体に三身が具わり、またそこに用の三身が具わるという倶体・倶用の意義を示された甚深の御法門が、凡夫即極ということなのであります。
したがって、大聖人様こそ久遠元初の御本仏であり、私たち衆生は御本仏、大聖人様に随順し、信心修行に励むときにはじめて倶体・倶用の三身の徳性が開かれるのです。
人法一箇とは、人法体一・人法一体ともいい、法華経本門寿量品の文底に秘沈される法即人の本尊と人即法の本尊が、一体不二の当体であることをいいます。法即人の本尊とは久遠元初自受用報身如来である日蓮大聖人をいい、人即法の本尊とは文底独一本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経である本門戒壇の大御本尊をいいます。
戒壇の大御本尊に御本仏日蓮の魂がやどっているとする教えです。
なぜなら、対象のモノに「本質」は存在しないのですから。
これを「無自性」と言います。
私は妻と子がいます。
父親である私の内実(自性)は私自身の胸中にしかありません。
自身以外に自身の事を熟知する者はいませんから。
しかし、100%まではいきませんが
長年夫婦として連れ添って生きてきた妻は、
一番の私の理解者です。
子どもが父親として描く私の像は
私に対する理解度の違い、また子と妻という
関係性の違いから当然違った私の姿として
それぞれに映し出されていると思います。
それぞれが、それぞれの想いでそれぞれの心の中に私という像を造りだしています。
しかし、その自分を自分とたらしめている自性は、
縁に触れることでいかようにも変化します。
ですから仏法では自性は縁によって仮に生じているもの
という見方をします。(無自性)
妻や子がそれぞれ認識している私の姿の中に
私の内実(自性)は存在しえるでしょうか。
妻や子が勝手に自分たちの想いで造り出している姿(虚像)に過ぎません。
妻からみたら夫。
子からみたら父親。
といった感じで、見る対象によってそれぞれ違った姿が映し出されます。
それぞれがそれぞれの心の中に私の虚像を造り出しているのです。
ご自身の御内証を一枚の曼荼羅に顕されました。
その大聖人様の御内証は、
はたしてその大御本尊様の中にあると思いますか。
御本尊と向き合った時、
御本尊を縁として大聖人様の魂を我々一人一人の心が感じ取っていくから
「此の御本尊全く余所に求める事なかれ、只我等衆生、
法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉弾に
おわしますなり」
と大聖人は申されております。
「阿頼耶識」に眠る「妙法」が
前五識・第六識・第七末那識を転識させます。
戒壇の大御本尊に大聖人様の魂がやどっている訳ではありません。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」と
「仏は用の三身にして迹仏なり」とあります通り、
「凡夫の三身」と「仏の三身」とがそれぞれあります。
ここから↓へ続く。
だな。
体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)
https://zawazawa.jp/bison/topic/21
停止させることで煩悩が止滅する。
1つ目で、遍計所執性の幻が捨てられ、
2つ目から4つ目で、依他起性が深められ、
5つ目で円成実性だけが現れます。
といった内容です。
それまでの二乗に対して説かれた諸行法とは内容(瞑想法)が異なります。
「わたし達は既に瞑想を習得しています。
今更、別の修行法など興味ありません!」
といって5000人の阿羅漢達が席を立って聞かないまま去って行きます。
だから、二乗は成仏出来ないと言われたんです。
日蓮さんが顕された「曼荼羅御本尊」を祭っている家ってことです。
興味がない人は去って行かれて結構ですし、興味がある方はつたない私のお話ですがそれでも少しでも法華経の心に触れることが出来ればとの思いでお話しております。
何に縁していくかが大事なんです。
しかし、心美しき料理人に縁すれば、それで人を喜ばせる素晴らしい料理をこしらえます。
(現代語訳で)
摩訶止観巻一に「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、前に説くところの一乗真実の菩提を聞く」とある。この文の意味は、経巻をもって善知識とすることである。 法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「もし法華経を閻浮提に行じ受持する者は、皆これは普賢菩薩の優れた神通の力である、と考えなさい」とある。この文の意味は、末法の代の凡夫が法華経を信じるのは普賢菩薩という善知識の力である、ということである。また同品に「もしこの法華経を受持し、読誦し、正しく憶念し、修習し、書写する者は、まさに知りなさい。この人はそのまま釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口からこの経典を聞くようなものである。まさに知りなさい。この人は釈迦牟尼仏を供養しているのである」とある。この文を見るに、法華経は即ち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は入滅されているが、この経を信じる者の前には、仏の滅後であっても仏の在世なのである。
たとえ仏・菩薩であっても法華経・涅槃経に依らない仏・菩薩は善知識ではない。まして法華経・涅槃経に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。
「智に依る」とは仏の智慧に依れということである。「識に依らざれ」とは等覚の菩薩以下の識に依ってはならないということである。今の時代の出家・在家が源空の謗法を隠そうとするために、その徳を天下に言いふらし、勢至菩薩の権化であると言っているが信用できない。
外道は、五神通力を得て山を傾け海を干すとしても、神通力のない阿含経の凡夫に劣っている。小乗の阿羅漢を得て六神通を現す二乗は、華厳・方等・般若の凡の権大乗の凡夫に劣っている。
華厳・方等・般若の権大乗の等覚の菩薩も、法華経の名字即・観行即の凡夫に劣っている。たとえ神通力・智慧があっても権教の善知識を用いてはいけない。
ゆえに妙楽大師は「衆生の無明の生命の内から真如が薫習しなければ、どうして悟りを生じることができようか。このことから、悟りを生じる力は真如にあることが明らかである。ゆえに冥薫を外護の知識とするのである」と述べている。
法華経より以外の四十余年の爾前の諸経には十界互具を説いていない。十界互具を説かなければ衆生の内心の仏界を知らない。衆生の内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕れない。
ゆえに四十余年の爾前権教を修行する者は仏は見ない。たとえ仏を見たとしても他仏を見ているのである。爾前の菩薩もまた自身の十界互具を見ないので二乗界の成仏を見ない。ゆえに「衆生の無辺なるを度せんと誓願す」の願も満足しない。ゆえに菩薩も仏を見ない。凡夫もまた十界互具を知らないゆえに、自身の仏界も顕れない。
今,法華経に至って九界の内にある仏界を開くゆえに、四十余年の爾前経の菩薩・二乗・六道の凡夫が初めて自身の仏界を見るのである。
この時、この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩が初めて成仏し凡夫も初めて往生する。このゆえに在世・滅後の一切衆生の真の善知識は法華経なのである。
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。
曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦
法華経 ---報身---空諦
南無妙法蓮華経 ---法身---中諦
となります。
曼荼羅御本尊 ---縁因仏性
法華経 ---了因仏性
南無妙法蓮華経 ---正因仏性
それが不思議解脱という現象(因果の〝果〟)です。
三種の不思議な解脱が現実の世界の中で起こります。
それが方便の解脱・実慧の解脱・真性の三つの解脱です。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)
今までは「この先輩なんて意地悪なんだろー」と思って嫌っていました。
この見方が普通の見方(仮観)です。
すると不思議な出来事が起こります。
(ああー、こういう家庭環境で先輩は育ってこられたんだぁ。)
そう思うと自身がこれまでされてきた事もスーと消えていき逆に先輩が可哀そうで仕方なく思えてきました。
だから不思議解脱っていうんでしょう。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智(←ここ)
経=肉眼:前の五識は成所作智
これを覚ると世の中に絶対的な正しさなんて存在し得ない、ことを理解します。
(ああー、こういう事を自分が教えられているんだなー)
って感じで意識の変化が心の中で起こります。
反省なき人に成長はあり得ません。
😄