あーIDなし
(彼は蝿どもを追う)ええっ。うるさい! うるさい! 分かった、分かった!
こいつら一体どこから来やがるんだ? こいつらときたら、子供のガラガラよりもうるさい音を立てやがるし、
トンボよりも大きな図体だ。
ジュピテル (近寄って)こいつらは一寸ばかり肥った肉蝿にすぎません。
もう十五年前ですが、ある屍肉の強い臭気がこいつらを町におびき寄せたんですよ。
その時以来こいつらは肥っています。これから十五年もたてば小さな蛙ほどの大きさになるでしょう。
オレスト で、あなたは、何も言わなかったんですか?
ジュピテル ははあ、それがどうやらあなたのお気に召さぬわけですね。
いや、大変結構です。それこそあなたの立派な徳義心を証明しています。
ところで、私はそうしなかった、何も言いませんでしたよ。
私はここの人間ではありません、で、私の知ったことではなかったのですよ。
アルゴスの人民たちはどうかというと、その翌日、
自分たちの王様が宮殿の中で苦しみのあまり悲鳴を上げるのを耳にした時も、
やはり何も言わなかった。彼らは情欲に掻き立てられたような眼差しに重たげな目蓋を垂れました、
そして町全体は異様な興奮で盛りのついた女のようだったのです。
儂をよく見ろ、醜女め! ええ! お前は目をぱちくりとしてるな、
だが、お前たちは太陽にギラギラ光る血濡れの剣には慣れているはずだ。
どうです、まるで釣り糸の先の魚のようにぴょんぴょん跳ねているこの様は。
やい、婆、そんな恰好は息子の一ダースも死ななきゃできないはずだぞ。
お前は頭の先から足の先まで黒づくめだ。さあ、言え、そうすれば放してやろう。
この喪服は一体誰のために来ているんだ?
老女 こりゃアルゴスの制服ですだ。
他人のお節介など焼かずに、自分の罪を後悔して天の赦しを受けるように心掛けた方がいいぞ。
人気のない街路、やりきれないような顔つきをした神の像、
自分の家で自分の胸を叩く恐怖に憑かれた幼虫ども?-それにあの叫び声、
聞くに忍びないあの叫び声。あれがジュピテルのお気に召すというのですか?
ジュピテル ああ! 神々を判断してはいけませんな、お若い方、神々にも秘かな苦しみがあるのです。
神々の鼻孔には何とも言えぬ香気です。左様、その哀れな魂たちこそ神々のお気に召すわけなんですよ。
彼らから神の恩恵を奪おうと仰るのですか? そして、その代わりに彼らに何を与えようとなさるんです?
静かな食後の休憩、憂鬱な田舎の平和、そして倦怠、ああ! あの極めてありふれた幸福の倦怠、旅をお続けなさい、
お若い方、ご達者でね。町の秩序と魂の秩序とは変わりやすいものです。あなたが一度手を触れたら最後、大災害が起こりますよ。
(彼の眼をじっと凝視しながら)恐ろしい大災害があなたの上にも降りかかってくるのですよ。
僕もあの宮殿の中で生まれた。エジストの老兵達が僕を連れ出した時、僕はまだ三つかそこらの子供だった。
僕たちはきっとこの門をくぐって出たんだ。彼らのうちの誰かが僕を腕に抱いてたんだ、
僕は大きな目を見開いて、きっと泣き続けていたに違いない……ああ! まるで記憶がない。
大きな石造りの建築が、田舎風の威厳を持って物々しく、ものも言わずに立っている。僕はあれを今初めて見るのだ。
(彼は宮殿に近寄る)
オレスト 怒りはしない。言ってみろ。
教僕 実は私の心配しておりましたのはー――つまらぬことですが、人間というものは古くから懐疑的な皮肉にとりつかれてしまうものでして、
そういう馬鹿げた考えがあなただって時々は浮かんでくるわけですよ―――要するにですな、私は坊ちゃまがエジストを追放して、
その位を奪うことをお考えになっていらっしゃるんじゃないか、と思って。
お祝いだ、さあ、お祝いだ、そしてこれが最後のお祝いであってほしいもんだわ。あたしはあまり力が強くないから、
お前を地面に叩きつけてやることができない。だけど顔に唾をひっかけてやることは出来るわ。
あたしに出来ることったらそれだけさ。だけど、今にあの人がやってくる、あたしの待っているあの人が、大きな剣を持って。
あたしの言うことを信じないの? あたしの手をご覧。ひびやあかぎれで一杯でしょう? まあ、何て変な目つきをするの。
ねえ、まさかこれが王女様の手だと思えて?
オレスト 可哀想な手。思えるもんか。とても王女様の手だとは思えない。だけど先をお続け。その他にどんなことをお前にやらせるの?
エレクトル それから、毎朝、あたしはごみ箱を捨てなければならないの。あたしはそれをお城の外まで引き摺って、
そして……ほら、あたしがそうするのをさっきご覧になったでしょ、汚いごみを。この木で作った人形はジュピテル、死と蝿の神様よ。
この間、大祭司様が礼拝にいらっしゃった時、キャベツや株の芯の上を、貝殻の殻の上を歩いてらした。
あの人腹を立てて気も狂わんばかりだったわ。ねえ、あたしの事言いつける?
オレスト いいや。
エレクトル ないわ。あたしは一人ぼっち。あたしは疥癬みたいなもの。ペストみたいなものよ。ここの人達はあんたにきっとそう言うわ。あたしにはお友達はいないの。
オレスト 何だって、じゃ、乳母もいないのかい? お前が生まれる時から面倒を見て、お前を少しでも愛してくれる婆やか誰かもいないのかい?
エレクトル そんな人もいないわ。お母さんに聞いて。あたしはとても優しい心の人達さえがっかりさせてしまうような女なの。
オレスト 時にはね。始終ではない。
エレクトル あなたのお祭りに輝きを増すためにあたしのような卑しい下女が必要なの?
クリテムネストル ふざけるのはおよし。お前は王女だよ、エレクトル、人民たちは毎年のように、お前を待っているんだ。
エレクトル あたしが王女、本当に? そしてあなたは一年に一度でも、例えば、人民たちが精神教化のためにあたしたちの家庭生活の絵を頂きたいって言ってくる時なんか、
その事をお考えになって? 美しい王女様が、皿を洗ったり、豚の番をしたり! エジストは、去年みたいに、
腕をあたしの肩に回して、あたしの耳に嚇し文句を囁きながら、あたしの頬に顔を寄せて笑いかけて来るの?
クリテムネストル あの人がそうしなくなるのもお前次第なんだよ。
エレクトル そうね、もしあたしがあなたたちの後悔に伝染するままになって、あたしの犯したこともない罪の赦しを神々に請い願いさえすればね。
そうだわ、もしあたしが「お父さん」と言いながら、エジストの手に接吻しさえすればね! ああ、考えても厭! あの人は血も涙もない人だわ。
クリテムネストル お母さんは? きっとあたし位の年齢でしょうね? 何も言わないの?
その人がきっとあたしなんかよりずっと若々しく見えるからでしょう。
その人はまだお前と一緒になって笑ったり、歌ったりすることが出来るのね。お母さんが好き? さあ、返事をなさい!
何故お母さんと別れてきたの?
オレスト 僕は傭兵に加わって、スパルタに志願しに行くんです。
クリテムネストル 旅の人達は、普通ならば、あたしたちの町を避けて、二十里も回り道をするんです。
じゃあ、誰もあんたにはそのことを教えなかったのね? 平野の人達はあたし達と交際を絶っている。
あの人達はあたし達の懺悔をまるでペストかなんぞのように考えて、感染するのを恐れている。
こんなことって滅多にない事よ! この人はまるで初めて告白するみたいな気持ちらしいわ。
クリテムネストル お黙り。誰にだってあたしを罪人と呼び、淫婦と呼んで、あたしの顔に唾をひっかけることは出来る。
だけど、あたしの後悔を批判する権利は誰にもないのさ。
クリテムネストル あたしがお前の裡に憎んでいるものは、エレクトル、それはあたし自身だよ。
お前の若さじゃない---ああ、それは違う!---それは私の若さなのさ。
エレクトル あたしは、あなただわ、あたしの憎んでいるのはあなたなのよ。
そうしないと後悔するよ。
彼は話しながら、オレストを引っ張っていく。そして幕が下りる。
---幕---
その目つきを、見るのがたまらなく楽しいわ。(前よりもかすかなクリテムネストルの叫び声)
叫ぶがいいわ! 叫ぶがいいわ! 私はあの人の恐怖の叫び声が聞きたいの、苦痛の呻き声が聞きたいの。(叫び声、止む)
嬉しいわ! 嬉しいわ! 私は嬉しくって涙が出て来る。私の仇が死んで、お父さんの復讐が出来たんだわ。
オレスト、血だらけの剣を手にして、帰ってくる。彼女はオレストの傍に駆け寄る。
昨日はまだ僕は一人ぼっちだった、そして今日はお前は僕のものなんだ。血が僕達を二重に結び合わしたんだ、
だって僕達は同じ血を受けているんだし、僕達は一緒に血を流したんだからね。
あなたの顔を隠して見えなくするのはこいつらの影なのよ。
オレスト 蝿どもだ……
わし達はお前のお墓まで、一緒にお供をしてやるぞ。わし達は席を譲るのは、この世じゃ蛆虫どもだけさ。
ぶん、ぶん、ぶん、ぶん、ぶん、ぶん、ぶん、
彼女達は踊り廻る。
エレクトル (目を覚まして)話をしてるの誰? お前達は誰なの?
エレクトル 獣? あなたの罪がだわ。あなたの罪が私の頬を目蓋を引っ掻きむしったんだわ。何だか私の眼も歯もむき出しみたいな感じだわ。
まあ、この人達は? この人達は誰なの?
オレスト 此奴等の事は考えるな。お前に対しては何をすることも出来やしないさ。
第一のエリニュエス あの娘が私達の真中にやってくるといい、もしやってきたら、そうすりゃできるかできないかもわかるさ。
それでどうだ、今ではお前の罪を一緒に背負って、この台の上に釘付けにされている。これがあの娘に残された地上唯一の場所なのさ。
オレスト あんな奴の言う事を聞いちゃいけない。
第一のエリニュエス お退り! お退り! 追っ払っておしまい、エレクトル、そいつに体を触らせちゃ駄目だよ。
そいつは人殺しだ! 屠殺者だ! そいつには味気のない生血の匂いがついている!
そいつはあの年取った女を惨たらしく殺したんだよ、いいかい、何度も襲いかかってね。
エレクトル 嘘じゃないのね?
第一のエリニュエス 嘘なもんかね、あたしはそこに居合わせたんだ、あたしは二人の周りをぶんぶん飛び回ってたんだ。
エレクトル それで、この人は何度も突き刺したって言うの?
オレスト そうじゃないのか?
エレクトル 違うんわ、そうじゃないわ……、いいえ、待って……そうだわ。あああ! 私はもう何だか分からない。私はこの罪を夢に描いていた。
だけど、あなたよ、あなたがその罪を犯したんだわ、実の母親の仕置き人だわ。
エリニュエス達 (笑いながら叫ぶ)仕置人! 仕置人! 人殺し!
オレスト エレクトル、この扉の向うには、世界がある。世界と朝だ。外では太陽が昇り、道を照らしている。
さあすぐに外へ出て、太陽に照り輝いている道を行こう、そうすればこの夜の娘たちはきっと力を無くしてぐったりしてしまうよ。
日の光が剣のようにこいつ等を突き刺してしまうだろう。
エレクトル 太陽が……
第一のエリニュエス お前はもう二度と太陽を見ないのさ、エレクトル。あたし達はあいつとお前の間に雲なす蝗の大群のように密集して、
お前にはどこへ行っても頭上に真っ暗な夜がつきまとうのさ。
第一のエリニュエス ほら御覧! ほら御覧! 可愛いお人形さん、あいつよりもあたし達の方がよっぽど怖くないだろ。
お前にはあたし達が必要なのさ、エレクトル、お前はあたし達の子供だよ。
お前にはその肉を引っ掻き回すあたし達の爪が必要なのさ、お前にはその胸を?るあたし達の歯が必要なのさ、
お前がその心に抱いている憎しみから遠ざかるために、あたし達の残酷な愛情が必要なのさ、
お前の魂の苦しみを忘れるためにお前の肉体で苦しむことが必要なのさ。おいで! おいで!
唯階段を二つだけ下りりゃいいのさ、あたし達はお前を腕の中に抱いてやるよ、
あたし達の接吻でお前の繊弱い肉体を引きちぎってやるよ、そうすりゃ何もかも忘れてしまう。苦しみの清い炎で何もかも忘れてしまう。
エリニュエス達 おいで! おいで!
オレスト 僕は罪人ではないさ、それにあんただって僕に、自分で罪だと認めてない事の償いをさせることは出来ませんよ。
ジュピテル お前は多分間違っているよ、だがもう暫く待て。儂だってそう何時までもお前を誤らせてはおかないから。
オレスト 好きなだけ僕を虐めるがいい。僕には後悔する事なんて何もないんだ。
ジュピテル お前の犯した罪の為にお前の妹があのような哀れな状態になっている事も、お前は後悔してないのか?
オレスト していないとも。
ジュピテル エレクトル、聞いたか? これが、口ではお前を愛しているなどと言っている男の言葉なのだ。
オレスト 僕は自分自身よりももっと妹の方を愛している。だが妹の苦しみは妹自身から起こった苦しみだ。
その苦しみから逃れることが出来るのは唯妹だけさ。あの娘は自由なんだ。
エレクトル 安全無事に?
ジュピテル はっきり約束する。
エレクトル その代わりに私にどうしろと仰るの?
ジュピテル 何もすることはないさ。
エレクトル 何も? 本当にそう仰ったの、神様?
しかしお前は一度だってあの夢を実現しようなどとは考えなかった。儂の言う事は間違っているかな?
エレクトル ああ! 神様、お優しい神様、本当にあなたが間違ったりなさったらどうしましょう!
以前のあの怒りに燃えたエレクトルを、僕があんなに好きだった若い憎悪の女神を何故否定するのだ?
それに何だってお前には、この残酷な神がお前をだましていることが分からないんだ?
ジュピテル 儂がお前達を騙しているって? それより儂の申出を聞くがいい。もしもお前達がお前達の犯罪を拒否するなら、儂はお前たち二人をアルゴスの王位に即けてやろう。
オレスト 僕達の犠牲者の代わりにか?
ジュピテル そうする必要があるのだ。
オレスト すると僕はあの死んだ王のまだ生暖かい衣装を身に着けるわけか?
ジュピテル それでもいいし、また他のだってかまわない。そんな事はどうだっていいことさ。
オレスト そう。唯それが黒い服でありさえすれば、だな?
ジュピテル お前は今喪中じゃなかったかな?
オレスト そうだ、母の喪中だ、僕はそれを忘れていた。ところで、僕の臣下達だが、彼等にもやはり黒い喪服を着せねばならないのか?
お前は癩病患者のように孤独なのさ。
オレスト そうさ。
ジュピテル さあ、何もそんなことまで威張ることはあるまい。彼らはお前を軽蔑と恐怖の孤独地獄の中に投げ込んだんだぞ、
ああ、暗殺者の中でも最も卑劣な奴め。
オレスト 暗殺者の中で最も卑劣な奴、それは後悔をする奴だ。
自然は後の方に飛んで退き、すると僕にはもう年齢がなくなっていた。そして僕は、恰度影を無くした男か何かの様に、
お前の小さな恵み深い世界の真っ只中に、たった一人ぼっちでいるのに気付いたのだ。
そしてもうこの世には「善」も「悪」もなく、僕に命令を与えるものとて誰一人いなくなってしまっていたのだ。
だが僕はもう自分の道しか辿ることは出来ないんだ。なぜなら僕は人間だからさ、ジュピテル、
人間は皆夫夫自分の道を発見していかなければならないんだ。自然は人間を嫌悪する、そしてお前も、
神々の支配者であるお前もやはり人間たちが大嫌いなんだ。
ジュピテル お前の言う事は嘘ではない。儂は人間たちがお前のようになると、憎らしいのだ。
ジュピテル その絶望で彼等は何をするというのだ?
オレスト 好きなことをさ。彼等は自由なのだ。そして人間の命は、絶望の反対側から始まるのだ。
沈黙。
ジュピテル それならいい、オレスト、こういったことはみんな前から分かっていたのだ。
一人の男がいずれ神の黄昏を告げにやって来る筈になっていた。
それがお前だったんだな? 昨日のあの娘のような顔つきを見て、誰が一体それを信じられたろう?
オレスト 僕自身にだってそれが信じられたろうか? 僕の言う言葉は僕の口には大きすぎるのだ、それは僕の口を引き裂く。
僕の担っている運命は、僕の青春には重すぎる、それは僕の青春を押し潰した。
ジュピテル 僕はお前を殆ど愛していないが、しかしお前を気の毒だと思っている。
オレスト それはそうだ。僕はお前からみんな奪ってしまった。そして僕にはお前に与えられるものは---唯僕の罪以外には---何もないのだ。
併し、何という広大な現在だろう。お前はそれが鉛のように僕の魂の上にのしかかっていないと思うのかい?
以前は僕達はとても軽々としていたね、エレクトル。今では、僕達の足は馬車の車輪がぬかるみの轍にめり込む様に地面の中にめり込んでいく。
さあ、おいで、僕達は行くんだ、そして僕達は大切な荷物を担いで身を屈めながら、重い足を引き摺って歩いて行くんだ。
手をお貸し、僕達は一緒に……
エレクトル 何処へ?
(群衆は遠ざかる)すると鼠達は皆しぶしぶ頭をもたげた---丁度蝿どものやるようにね、見ろ! 見ろ、あの蝿どもを!
そうすると、たちまち鼠どもは彼の跡を追ってあわただしく走り去ったのさ。
そしてその笛師はこの鼠たちと一緒に永久に姿を消してしまったのさ。こんな風にね。