【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】最終更新 2024/11/10 10:541.名無CCDさん@画素いっぱい9ooWCRMi0尊師降臨過去スレ【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ日本大学芸術学部写真学科卒業日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなるオーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集めるなお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催されるその写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたないその端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16340871892021/10/13 10:06:29190コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無CCDさん@画素いっぱいkD3f3テーブルの上に置かれているのはソ連製の16ミリフィルム撮影機である。これに関しては思い出があって最初の映画撮影機をウィーンの蚤の市で買ってそれをぶら下げて歩いていたら、ソ連のモスクワから亡命する途中でウィーンに住んでいるモスクワの大学のプロフェッサーが私に声をかけてきて、同じものを持っているが買わないか?と言うのである。オーストリアは小国であるが、難民とか移民政策は全力でやっていて、尊敬に値する。極東のこの国がそういう意味では実にあきれ果てた次第である。それでモスクワのプロフェッサーと場所と時間を示し合わせて、夕刻になってwinの北西部にあるきれいな公園を訪問したら、彼は公園の茂みからガサガサ出てきて私26ミリフィルムカメラを手渡した。私はプロフェッサーに200ドルほどのお金を払ってそれで取引を終了した。感心したのは、その時にプロフェッサーは奥さんと2人のお嬢さんを私に紹介してくれたのである。その3人は夕暮れの光の中で静かにトランプゲームをやっていた。何かロシアの小説というか、チエホフの中に出てきそうなシーンだなぁと変に私は感激したのであった。そのプロフェッサーの一家はカリフォルニアに行くと言っていたのだが、すでに40数年が経過している。元気でいればいいね。それで私は二台の高級フィルムカメラを持つ身になってプラハに行った時、東ドイツ製の白黒の16ミリ映画フィルムを買ってきたのである。それを撮影してウィーンでは現像するところがないので、東ドイツの私の友人にフイルムを送ったのだった。そしたらその友人は東ベルリンでちゃんとフィルムを現像してくれて、それをまたwinの私の母鳥を送り返してくれた。ちゃんと映っていたし、国際協力によるモノクロ映画フィルムの現像と言うそのフィルムは今でも持っている。2023/08/02 06:02:553.名無CCDさん@画素いっぱいfkjSb戦前の東京のスナップショットで木村伊兵衛さんよりもうまいと噂されているのが私が尊敬する桑原甲子郎先生だ。桑原先生とはかなりお付き合いがあって私の不良在庫のライカM2を買っていただいたりした。ご高齢になってから先生からよく電話がかかってきて君から買ったライカの代金を払ってないから支払うよと言うので、先生その分はもうお支払いいただきましたなどと言うこともあった。20世紀人類である桑原先生だから電話についているファックスマシンの使い方がわからなくてかなり苦労されたようである。だからファックスと言う表示が出ていて上が出てこない場合には桑原先生だなとすぐわかると言う判別をしたこともある。もう一方ファックスが苦手なのは片岡義男さんであってまず当時の私の交際関係からするとこのお二方が横綱大関でファックスがうまく送れないと言うメンバーである。片岡義男さんの場合は一眼レフに50ミリのレンズで縦画面と言うのが専門であった。桑原先生の場合はカルティエブレッソンをしのぐようなフレキシブルな横画面のスナップショットである。桑原先生がパリに初めていらしたときのパリでのスナップショットがまた秀逸であって写真家の英流さんの後について歩いているから英さんの背の高い後ろ姿がよく桑原先生のスナップショットには出てくる。^_^普通はこういうのは楽屋内のネタで嫌われるものであるが桑原先生位のびっくぼすになってしまうとそういう身内の後ろ姿が写っていても別に気にならない。 それで桑原先生愛用のレンズはライカCLにロッコール40ミリなのである。まず万能のスナップレンズではあるがそれ以前は40ミリの広角レンズと言うのは使う人がほとんどいなかった。その理由は結構単純であって例えばコンタックスの一眼レフで1947年に出たコンタックスエスモデルであるが、当時はまだレトロフォーカスのレンズが実用化されていないので4枚構成のテッサーレンズをさらに焦点距離を短くして4センチと言うのを広角レンズとして売っていたのである。私も35ミリのレンズはスナップショットでよく使うけれども4センチのレンズと言うのはあまり使ったことがない。それよりわずかに焦点距離の長い4.2センチと言うのは私のようないい加減なスナップシューターの場合は周囲の余り物の風景を移さないと言う意味ではベストな焦点距離のマッチングかもしれないな。2023/08/03 05:32:424.名無CCDさん@画素いっぱいrTnesまだ東ドイツであった頃に東ドイツではなかなか実用的な木製三脚を作っていた。ごくシンプルなものなのであるが中型よりやや大きいと言うサイズで木製だから金属製よりもはるかに軽い。ウィーンの足掛け8年間はもっぱらこの東ドイツ製の木製三脚を愛用していたのである。ここにお見せするのはその東ドイツ製の三脚ではなくてそれから何十年も経過してガラクタ屋さんで買ってきた1500円の三脚である。こちらの三脚のほうはかなり小降りだからまずアマチュアよーという感じなのであるがそれでも実用性は充分だ。ガラクタ屋さんで買った木製三脚は作りが結構箱根座異空のようになっていて、外見は木星三脚だがその内側に金属製の|の三脚が仕込まれている。それで東ドイツ製の木製の三脚のことに話が戻るけど、この東ドイツ生の木製三脚の上にはそれの3倍位の重さのハイクラスの木製三脚があってこれはエレベーターも付いていてなかなかカッコ良いと思った。しかし値段はかなり高いのである。ある時プラハの行きつけのカメラ屋さんにこの高いほうの東ドイツ製の三脚が出ていたので手に入れた時は嬉しかった。ところが実際にアトリエの7階からこれを持って下界に降りて撮影するなどと言う事はいわゆる机上の九龍なのである。結局せっかく手に入れた大きくて重い木製三脚は1度も撮影に使われる事はなかった。それで小さいほうの三脚はパリに持っていって軽量な4 × 5インチのカメラで撮影したりいろいろ活躍してくれた。2023/08/04 05:58:175.名無CCDさん@画素いっぱいxl1q3世界の著名な写真家といろいろ話ができた事は私の大切な財産になっている。私にとって1番重要なのはウィリアムクラインに2十数年前にプラハで数日間アシスタントめいたことをやったので、かなりウィリアムクラインの秘密に席巻することができた。エルスケンとも同じ頃に、これは何度か東京で会って話をすることができた。そのうちの最後はアサヒカメラのインタビューだった。ロバートフランクとは彼が横浜に来たときにドイツ語で短い会話を交わしたいちどだけの出会いだったけど、別にそれはそれで問題もない。リーフリードランダーは1980年頃からウィーンと東京で何度か会う機会があって、これも私の記憶の大切な引き出しに入っている。エルンストファースは1980年代半ばに展覧会が東京銀座で会ったときに話をする機会があった。これはエルンスト・ハースがウィーン出身なので、それを尊敬して私もヘンテコリンなウィーン訛りで会話をしたのである。ただし、その時の会話は結構シリアスな内容であって、エルンスト・ハースが1950年代初めに海外から帰還したオーストリア兵士を撮影したモノクロームの6 × 6のローライフレックスで撮影した真面目なドキュメンタリーの話だった。エルンスト・ハースがライフマガジンでデビューしたときに、彼はカラーの魔術師と呼ばれていたので、そのことをご本人が結構ネガティブに考えていたらしい。2023/08/07 04:53:166.名無CCDさん@画素いっぱい3zKiNところでライカで撮影するエルンストハウスのこのショットであるが、非常に興味深い。ライカM3をショルダースティックのようなデバイスで使っているのはブレを防止するためであろうレンズは135ミリのヘクトールで面白いことにレンズシャッターのデバイスがレンズの1番前に付いている。それでライカの本体には短いケーブルレリーズが付いている。レンズシャッターの方には長いケーブルレリーズが付いている。だからこの状態で撮影をするとなれば写真家はまずライカに着いた短いケーブルレリーズを押してフォーカルプレーンシャッターを開いて、それからおもむろに135ミリレンズの前に付いているレンズシャッターの長いほうのケーブルレリーズを押せばそれで露出が行われるわけだ。この撮影シーンが撮影された背景は何かニューヨークのセントラルパークみたいな普通の公園のように見える。そこでエルンスト・ハースはなぜわざわざレンズシャッター式の135ミリと言うシステムをライカM3に組み込んで撮影をしたのかそれが謎なのである。別にお花を取ったり、蝶々を取ったりしたわけではないよな?2023/08/09 05:51:107.名無CCDさん@画素いっぱいlsPkDずいぶん昔の話だけど、某カメラ雑誌の月例フォトコンテストの審査員をやっていた。それで毎月見ている。大作の中でなかなか気に入った作品があったのでその人をよく入選させていたのである。鵠沼海岸に住んでいる佐々木さんと言う人であった。しばらくしてから銀座のデパートで私のトークショーとサイン会があった時、その作者の佐々木さんが私に挨拶をしに来てびっくりするような話をした。東京の千代田区の富士見に渋い洋服屋さんがあって、その洋服屋さんのウインドウになかなかかっこいい洋服のポスターが貼られているのを私は撮影して、それを東京に今日記に掲載したのが2000年頃の話である。その佐々木洋品店は写真コンテストに入賞した。佐々木さんの父上にあたる方で、佐々木さんは非常に喜んで。私に会いに来たときに、その掲載ページにサインを求めたのである。それがこの写真である。後後に佐々木さんから聞いた話なのであるが、当時はバブルの凄い出来であるからさほど大きくは無い。洋服屋さんの土地が8億高10億で売れたそうだ。それで佐々木さんの父上は、茅ヶ崎海岸に土地を求めてそこに豪邸を建設なさったのである。事実は小説より生成とは言うけれども、佐々木さんから聞いた話で、私が興味を持ったのは、父上は洋服屋さんを廃業して豪邸を鵠沼海岸に作って、その時の豪邸のライブなのであるが、自分が毎日通っていた九段下高の焼き鳥屋さんと全く同じものを鵠沼海岸の豪邸に作らせたのだそうだ。フランスの作家、結すまんフランスの作家が描いたさかしまと言う小説が日本でも現実にあるぞなと言う印象を持って、私はこの佐々木さんの話を非常に面白く聞いていた。佐々木さんの父上は腕の良い洋服屋さんであって、母上は文学少女という感じなのである。それで佐々木さんの母上がヨーロッパから輸入して作った。何百10,000円化する。マントルピースをぜひ見に来てくださいと言うので、それから1 2年経過したときに、私は佐々木さんの茅ヶ崎の豪邸を訪問したのであった。マントルピースの上にこの佐々木洋品店のウインドウに飾られていた。英国紳士のポスターがちゃんと展示されていたのである。2023/08/11 10:58:588.名無CCDさん@画素いっぱいqGG2a私が何十年も使ってきたコダクロームフィルムは2003年の秋ごろにその現像を終了したらしい。世界で最後にコダクロームフィルムを現像受付していたのは、スイスのローザンヌの現像所である。私は半ば趣味で16ミリの映画を何十年もとっていたのであるが、1時は騙されてプロ用の映画フィルム。つまりイーストマンカラーとか放送用のセクタChromeビデオレコーディングフィルムなどを使っていたのであるが、変色が甚だしいので、最後の20年位はコダクロームにしたのである。そのコダクロームが日本国内で現像が停止されて、アメリカでもだめになって最後の最後はローザンヌに送ると言うことになった。それでアドレスを見ると私書箱なのであるが、番号が書いてあるのは最初からフィルムのパッケージが来るから、自動的にコダックの現像所にそれが集中すると言うシステムである。そしてローザンヌに最後のコダクロームを送った時に私が思い出したと言うことがある。これはフィルムの起源を見ると、2003年8月と刻印されているから20年前の話なのである。話は50年近く前になるけれど、当時ウィーンで毎日ライカを持ってウロウロ歩いていて暇だった。私の相手をしてくれた2人の写真家がいた。1人は糸数さんと言う形で北欧をテーマにして写真を撮っている人だった。もう1人は小松さんと言う人で、この人は今でもお付き合いがある。小松さんは、売れっ子のカメラマンでエージェントの仕事を1枚売れると50,000円のギャラがゲットできたと言う。小松さんの口癖がペロリ。50,000と言うのでいまだに忘れない。2023/08/12 05:53:319.名無CCDさん@画素いっぱいsXLulヨーロッパ中ばかりか中東からアフリカから世界中を何十年も取材している。小松さんであってなかなかすごいなと思っていたのだが、最近小松さんの秘密がわかったのは半世紀前は知らないけれども、最近は奥様をアシスタントとして世界中を回っているらしい。これはたいしたものだな。それで50年前のウィーン時代の記憶になるのであるが、酒場などで飲んでいると、時々ローザンヌのジャックと言う人の名前が出てくる。そしてローザンヌのジャックはいいやつだ。と言うことで、小松さんの話は終わるのである。ウィーンの体内時代の私の記憶は、小松さんに会ったときの、ローザンヌのジャックはいい奴と言うことなのだ。これから30年ぐらい経って、小松さんに直接ローザンヌの昔の話を聞いたら、何でもローザンヌのポイントをベースとして、そこに小松さんは車を預けて色々とお世話になっていたらしい。コダクロームの現像はすでに20年前にサービスが終わりになっているが、カメラジャングルから発見された現像済のコダクロームの16ミリフィルムのロールを見ると、反射的に浮上してくる言葉が、老残ズのジャックなのである。2023/08/13 00:30:0110.名無CCDさん@画素いっぱいxwFpB1930年代後半に制作されて、第二次大戦中は貴重な戦争映画の記録に使われた。撮影中にも一眼レフでピントを合わせることができるので、アメリカ軍でも使いたかったが敵国のカメラであるので、自社製の似たようなカメラを作った。これをシネフレックスと言う。性能としては、本家のドイツのものに劣るので、家ではドアストッパーになっている。ありフレックス35の素晴らしさは大変なもので1960年代にアカデミープライスも受賞している。1970一年のミュンヘンオリンピックの時に登場した。アリフレックス35bl新モデルは、世界最初の同時録音が可能なフイルムカメラの回転音がしないカメラだった。それでも大量の古い35ミリカメラが映画のアクションで使われた。それらは大幅な改造がなされており、ほとんどがスタジオでの撮影だからもともと付いていたレンズ交換のできる3本 ターレットはむしろいらないのである。それでレンズを1本だけ取り付ける。シングルポートに改造された。これを別名ハードフロントと言うのであるが、なかなか存在感があってかっこいい。これは数年前に手に入れたアリフレックス35のハードフロントモデルなのだが、面白いのはバイオネットが1番最初のモデルのレンズマウントなのだ。普通はバイオネットマウントにするかその後の最新型のポジティブロックの大型レンズマウントが標準なのである。 でも、このモデルはシングルレンズポートで、なおかつ1番最初のバイオネットマウント以前の普通のアリフレックスのレンズマウントであるところが面白い。そのカメラを古い友人の野々宮に頼んでちゃんと動くようにしてもらった。私はアリフレックスカメラのコレクターで35ミリカメラのほうは1番最初のモデルからずっとコレクションしているのであるが、このスタジオ用のカメラはなかなか気にいっているのだ。2023/08/15 02:45:0411.名無CCDさん@画素いっぱいLSFqa1973年の3月末に3年間勤務した日本デザインセンターを退職してもらった退職金が770,000円であった。それでオーストリアのウィーンに行くのでカメラの買い物をいろいろしたのである。一番大きな買い物がこのカメラであった。50,000円にちょっと足りない位のお金を支払ったのだ。一眼レフ用の交換レンズも欲しかったがニッコールレンズは高くて買えないのでシグマレンズにした。シグマレンズの18ミリと200ミリを手に入れた。ニコマートはよく使ったのである。85ミリのニッコールレンズでコダクロームを入れて撮影した。その作品は1984年1月号のカメラ毎日に記憶の街と言うタイトルで8ページほど掲載されていた。駆け出しの写真家で8ページと言うのはなかなかのものなのである。山岸さんのおかげであった。沢木さんと対談をしているときにこのカメラの話題になった。深夜特急ではインドあたりでこのカメラを売って旅費の足しにするようなことが書いてあったが実際にはカメラは売りませんでしたと沢木さんは言っていた。それから半世紀近くがあって大発見がこの写真なのである。ミラーアップして使うニッコール2.1センチと言うカメラはそのレンズだけはスピーゴットマウントのように使うのであって、ミラーアップした上でレンズマウントの内側にあるガイドにレンズの本体を合致させて、言い換えればレンズ本体は回すことなく、レンズのリングを回転させて固定すると言うニッコールレンズとしてはかなり特殊な装着方法なのである。同じ頃に出したミラーアップして使う魚眼レンズの 8ミリ等はこのレンズマウントのガイドを使わないで単純にマウントに突っ込んで回転してロックするようになっている。それだから自動露光設定方式のこのようなその当時としてはモダンなカメラにミラーアップ用のマウントリングの内側のピンが付いていると言う事は全然気がつかなかった。おそらくカメラの設計者もニコンエフマウントのデザインをそのまま受け継いで作ったのだからあまり意識しなかったのであろう。ミラーアップしているのでもちろん自動露出では使えないがマニュアル設定にすれば使うことができる。ガラクタ屋さんの黄色いシールを見ると私が大変な買い物のつもりで買ったこのカメラも今はこういう買いやすい値段になっているんだね。2023/08/18 00:38:1312.名無CCDさん@画素いっぱいCXlTy坂崎さんが最初に私に声をかけてくれたのは、新宿伊勢丹の中古カメラ市だった。あるライカマウントの135ミリのレンズをジャンクコーナーに手を伸ばしたら、もう1人の別の人の手が伸びてきて、その2つの手が触れたのである。ー田中長徳さん、坂崎幸之助といいます。アルフィーと言う名前のバンドをやっています。というのが坂崎さんの最初のセリフであった。それでその翌日、銀座のお店にアルフィーのCDを買いに行ったのである。この翌年であったかにアルフィーが創立20周年と言うので、豪華なプログラムを出すと言うので、坂崎さんは私のことを呼んでくれて対談をやったのである。このショットはどこかの中古カメラ市に来ているところを誰かが撮って私にくださったものだ。いつの撮影かわからないが、私のヒゲは真っ黒だし、あごひげはまだ生やしていない。と言うのは1992年か93年かな?その時私はプラハに滞在していて、すごい腰痛にやられた。当時まだ生きていたプラハのPがイタリアに行くとか言うので、ついでに私を車でwinに送り届けてくれたのだ。その頃は、ウィーンのベルベデーレ宮殿のすぐそばのアパートメントに住んでいた。ウィーン工房で有名なJosef Hofmanが住んでいた建築で、ウィーンの歴史記念物になっていたところだった。腰痛はますますひどくなるので、中央病院に通うようになった。タクシーを呼んで、それから階段をゆっくりと降りてタクシーにたどり着くまでが大変だった。病院に行くと後は動けないから寝ているだけでだんだんあごひげが伸びてくる。そのまま今の状態になったわけであごひげのほうは30年以上と言うことになる。2023/08/21 03:51:4613.名無CCDさん@画素いっぱいHxx7R銀座にアップルショップがオープンしたときにスティーブ・ジョブズがそこにやってきたと言う事は我々のゴシップネタの沸騰点になった。しかしそれよりも私がすごいなと思うのはレヴィ。ストロースが私がここに住み始める4年ほど前に佃の住吉様に参詣していることである。ヨセフスボイスが来日して、東京芸大でワークショップをやったり、ギャラリー渡でホワイトボードに殴り書きをしたと言うのは、当時の我々のゴシップであったが、それと比較してもレヴィストロースが佃島にその痕跡を残したと言うのは比較にならない。悲しき熱帯ならぬ嘆きの壁ならぬ、この右側に写っているのが、私は構造主義の石灯籠と命名しているのである。我々の文明がいかに街路に拘束されているのかわかったと言うのは名言である。この事実をメンションしてくれたのは、埼玉で心臓外科のお医者様でいらした根本先生である。根本先生とはFacebook上でいろいろ言葉の爆弾の小さいのをやり取りする楽しい思い出がある。あるいは月島のクラブエダムでエントランスの左側にある小さな丸いテーブルの上に、根本先生は、ご自身のカメラコレクションを10台ぐらい持ってきて、ミニ展示会をやってくれた。そのカメラの方向が私と同じように変人方向にずれているので、お互い笑ったこともあった。その根本先生は、数年前の2月13日の早朝に大型トラックと正面衝突して昇天なさってしまった。レヴィ、ストロースが住みたい町佃と言うのはなかなか不動産関係で説得力があると思う。もっともElvis Presleyほどには有名では無いから、そんなに宣伝にはならないかな?それでもこの1年半位レヴィ、ストロースの短い佃島訪問の時に、何が彼の視神経と空間構造を刺激したのかを思い出すと言うのは結構楽しいことである。レヴィ、ストロースの友人と言えば、若い頃、私がよく読んでいたのはメルロポンティである。彼は50歳で昇天しているが、レヴィストロースは100歳まで生きたのだから、時間の構造が違うのであろうな。2023/08/23 06:21:1314.名無CCDさん@画素いっぱいYLWBs数年前に東京ビッグサイトまでバスで往復した時に、偶然見つけたビルディングである。集合住宅のように見えるが、そのファサードが凹面鏡のようになっているのが非常に奇妙であった。私は仕事ながら世界中の建築物をたくさん撮影していて、そういう建築学的に有名ではない建築物の奇妙なフォルムのやつもたくさん見てきた。しかしながら、建物のファサード、あるいはバルコニー側が凹面鏡状態になっていると言うのは、私の乏しい経験でも東京で見たこの建築物の外にはもういってんしか知らない。それは30年ほど前にブダペストを撮影しているときに旧市街で見つけた普通の集合住宅なのである。そのファサードが非常に奇妙なことに建物の外側が出っ張っていて、中心の方が凹んでいると言うファサードの存在であった。ー非常に珍しいので、プラウベルマキナプロで撮影をしてプリントもしたのである。著名な建築物等もそうであるが、建築の全体のフォルムと言うのは、凸面鏡明沢寛構築を知っているのが、普通の建築デザインとしては青島版だと私は考えている。それに対してマイナスの空間構造を持っていると言うことで、非常に建物の存在感が希薄になって、空中に浮遊するような感覚がそこにもたらされる。まず、そこが建築家のそういう凹面鏡的な建築物を制作するときの基本的な意識が、無意識、下は、関係ないところに存在する建築の心と言うものなのであろう。いずれにしても、私の経験で2つのエグザンプルを見ただけだから、建築好きの私の記憶に、それだけ深く刻まれていると言う事は印象的な建築物なのだ。優れた建築物と言う意味ではないぞ。2023/08/25 06:31:2215.名無CCDさん@画素いっぱいjYLRl一番最初に作られたニコンレンジファインダカメラは単にニコンと言う名前だった。製造番号6091のそのカメラは使い物にならなかったので工場内のゴミ捨て場に捨てられたそうだ。後にニコンの社長になる人がその不良品をピックアップして保管しておいた。これが1番最初の煮込んである。それは今でも品川の日向ミュージアムに展示されている。デビットダグラスダンカンがニッコールレンズの優秀さを発見したわけだがニコンカメラそのものはまだ評価されてはいなかった。そのニコンカメラの良さを発見したのはライフのカメラマンCarl Maidanceである。それはレアなブラックペイント仕上げのニコンエスであった。ブラック仕上げのニコンエスは一般にもごく少数流通していたようでカメラ付きの知り合いの浅草のクリーニング屋さんのご主人が浅草のカメラ屋さんで見つけてどうせ偽物だろうと思ったのがこれがオリジナルのブラックペイントであった。この人はなかなか面白い経歴を持っていて家族と一緒にどっかの観光地に行って記念写真を撮ろうと思ったらその後に天皇陛下と皇太子殿下とさや様が登場したのでそこで撮影したと言うレアな写真がある。その写真は私のライカ本のどっかに掲載した記憶がある。私の場合ブラックのニコンエスが欲しくて友人にブラックペイント仕上げを依頼した。1年近くが経過して戻ってきて完全なブラックニコンになった時は嬉しかった。そういう時はそのカメラでばかり写真を撮っているのである。このカメラをブラック仕上げにするにあたってはまず友人の突撃体調がバラバラに分解して、そのパーツを建築家の細谷くんが1してくれた。つまり2人の人間の合同作業によるものなのである。オリジナルのライフのカメラマン用のニコンは巻き上げがしやすいように巨大な巻き上げリングが付いているそれは真似することができないので突撃体調が音楽関係のアンプのボリュームをどっかで探してきてつけてくれた。問題はフィルムカウンターがついてないのであるがもともとフイルムカウンターなど未来から巻き上げていて巻き上げができなくなった時がフイルムのおしまいと言うわけだ。このアイディアというのが私は気にいっている。誰だって自分の人生の最後の日を自分でカウントできる人がいないのと同じことで、人生と言うのはフィルムカウンターついていなくても巻いてみてフイルムは負けたらまだ自分の命があると言う極めて寓話的な話なのである。2023/08/29 05:08:4716.名無CCDさん@画素いっぱいVbAuj写真家としてのキャリアをスタートさせた頃にそれまではライカなどを使っていたのだが、それと全く同じクオリティーの写真を撮ると言う場合に普通のアマチュア用の35ミリカメラが非常に有効であると言うことに気がついたのである。コンテンポラリーフォトグラファーズと言うハードカバーの小さな写真集は当時の若手写真家7人の作品が掲載していたのであるがその中でリーフリードランダーが使っていたのがライカM2 2 35 miniの広角レンズだったのでそれで騙されてしまったわけである。そのオムニバスの写真集で教えられた事はマイケルスと言う写真家が友人から借りたベークライト生のアーガスと言うカメラを持って当時のソ連に行って普通の市民を横画面で撮影した何の衒いもない作品が非常に良かった。それでその影響で当時進駐軍の兵隊さんが持っていたアーガスと言うカメラを使うようになった。その頃はまだクラシックカメラブームなどはくるずっと前のことで、高田の馬場に鈴木安兵衛商店と言う中古カメラ屋さんがあってそこによく入り浸っていたのだがそのお店で手に入れたのがオリンパス35と言う極めてシンプルでコンパクトなカメラだった。実はその前の段階で日大写真学科の1年生の時にオリンパスワイドを使い始めてそのカメラをずっと使っていたのであるが、その次の段階で登場したのが昭和25年にリリースされたオリンパス35と言うわけだ。このカメラのシンプルさと言うのは非常に個性的なもので要するにカメラボディーに40ミリのレンズが付属してシンプルなビューファインダーが付いているだけで後は何もないと言うSimple Is the Bestと言う存在間なのである。オリンパス35を使い始めた頃はオリンパスワイドの35ミリ広角レンズに比べて40ミリの標準レンズと言うのは何か撮影角度が狭いような気がしていたのである。ところがそれは数字上の錯覚に過ぎなくて実際に撮影してみると撮影範囲が狭くて困ったなどと言う事は1度もない。むしろ私の場合撮影のときのフレーミングがいい加減なので5ミリ朝商店側に長い方が使いやすいと言うような利点がある。もっともこれは東京ニコン日記と言う700ページの新書版の写真集を編集したときに初めて気がついたことだ。2023/08/31 06:10:5717.名無CCDさん@画素いっぱいaJP5H本日、木村伊兵衛先生のご命日。ならびにあたしの誕生日。64歳。プラハの2週間の間に一度だけカメラ店に行った。その理由は上のビオター75mm !1,5のフィルターとフードを探しにいったのである。プ ラハはクラシックな東欧カメラをみつけるには恰好の場所だけど、実用の中古というのは 案外に発見は困難である。アトリエでまずフィルター径を計ったら、55mmと出た。これがちょっと意外な感じが したのである。1940年代のツアイスはまず40,5ミリが普通であるから55mmという のはかなりの大口径になる。なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分か っているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我 が任務である。 ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であ るから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。それに対して、ビオター75mm !1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが 実は現在なわけだ。 プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm !2というのがあ る。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字 の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売 り」はしない。あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れようと思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かなかったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追ったりするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。帰国して翌々日はシドニー(アローカメラが毎週第四土曜の午後2時から開催のあたしの トークでもう十数年開催。入場無料)だったので、二代目さんにフィルターを探してもら った、幾つか選んでもらった中から55MMの径のなるべくクラシックな感じのを選んだ。 Toshibaの60年代のやつにした。2023/09/03 07:12:1318.名無CCDさん@画素いっぱいyDPMOリコーカメラの1950年代半ばの古い古いパンフレットである。古い古いパンフレットであるにもかかわらず、そのデザインはなかなかよろしい。オレンジ色の特色を使っただけで、なかなかメカニカルな雰囲気が出ている。リコーカメラの初期のものに興味があるので、いろいろいじくっているのだが、私が気にいっているのはごく初期の履行35に至る。レンジファインダカメラである。最近になって驚いたのは、同じ時代の他のメーカーの同じクラスのカメラと比較すると、その仕上げが優れていると言うことだ。この小さなパンフレットがリコーカメラの35ミリレンジファインダーの歴史のスターティングポイントになるわけだ。リコートは30数年のお付き合いであったが、10年ほど前には恋の銀座4丁目のリコーの丸いビルで、上のほうにフォトギャラリーとカメラクラブのラウンジのようなものがあった。そこで写真展もやったし、トークイベントもやったが、その十戒から11回からの風景というのが窓から見ると、向かい側幸田三越デパートメントストアで日産ギャラリーなのである。東京の中心のど真ん中で三愛ビルから見える風景と言うのは、現実離れしているところがよかった。10年近く前は銀座一丁目にフイルムを現像するラボがあったのでよく言ったものであったが、最近ではフィルムを現像すると言うと、自分でモノクロフィルムを現像するだけであるから、銀座に用はなくなった。私は人生のはじめの方で、銀座をたくさん撮影していたし、その後も仕事場もあったから、人生の銀座時間を全部そこに食いつくされてしまったような感じがした。過去15年位上、福田和也さんが銀座にいろいろ行きつけのお店があったので、銀座で会うこともあったけれども、福田さんとのお付き合いも10年前に終わりになったので、最近は銀座に行くよーと言うのが全くない。カメラ屋さんをぶらぶらするよりも、オンラインでネットオークションを見ている方が私のリアル体験と言うわけだ。2023/09/07 06:14:5719.!id:ignorea1uMHそれもマウント2023/09/07 13:34:1320.!id:ignoreeQkBEダンス団体2023/09/07 13:43:0221.名無CCDさん@画素いっぱいc7HeA次はレンズフードである。全体のバランスを考えて選びに選らんだ最後の一個がこれであ った。これはねじ込み式ではなく、締め付け式なので絞りの指標の位置に締め付けのノブ を持って行くと、指標代わりになって見やすくなる。 なかなか気に聴いたビオター75mm !1,5専用のフードなので感心して、どこのメーカー のフードかと思ったらこれがオリンパス製であった。 思うにペンデジタルの常用ズームのフィルター径は40,5MMなのである。これは系統から すればツアイス系統になるわけだ。実にバランスの良いレンズフードが手に入ったので、後はもう「撮るだけ」だな。2023/09/08 09:58:2322.名無CCDさん@画素いっぱいc7HeA銀座の三愛ビルが竣工された時は、宮様がテープカットをしたりとかなかなか立派なものであったらしい。その際ビルがあっという間に閉鎖になって今は取り壊し中なのかな?そういうことにはほとんど無関係なのであるが、手元の古い資料のこのパンフレットを見ていたら、パンフレットの中央のところにスタンプインクでこのパンフレットを扱っていたカメラ屋さんが判明したのである。銀座4丁目交差点 中央区銀座4丁目交差点 三愛写真機部あの丸いビルがなくなったのかと、初めて私の記憶が喪失感を持ったのだ。2023/09/08 13:26:0023.名無CCDさん@画素いっぱいkQBkz写真美術館の勉強不足のキュレーター等は、実体験がないから、すぐ風景論、何かを持ち出して写真展のタイトルにしたがるのは大笑いである。もう10年近く前で細かい年代は忘れてしまったが、我らが愛する世界のニコンカメラを作っていた品川区大井森前町のニコンの101号館が立ち入れる最後の日というのが3月30一日だった。それでニコンの偉い人ミスターニコンに招待されて101号子間最後の日を見学してきたのである。そうなるともっていくカメラは、やはり1番最初のニコンのレンジファインダーと言うことになる。ニコンのSで撮影した。101号館の屋上のさらに上にタワーみたいのがあって、そこに大型三脚の雲台だけが取り付けられていた。レンズの性能試験で101号館の1番上の上から品川駅を撮影したと日本の偉い人から聞いたのである。ニコンに歴史ありだな。ニコンのエフ4が出る前に、オートフォーカスのテストをするときに、101号館のエレベーター前の広くて、長い廊下みたいな空間を使ってオートフォーカスのテストをしたなどというのが、歴史的な事実として重く受け止められた。その101号館最後の日の見学は無事に終わって、数日後にニコンの1番最初のレンジファインダカメラで撮影したフイルムが上がってきて発見したのがこれである。ニコンの工場のすぐそばのガード下で撮影したのである。不思議な白い光がそこに写っているフォーカルプレーンシャッターから光が漏れてきたのは事実であるが、不思議なことにその他のフィルムのカットにはそのような光被りが写っていない。それで思い出したのがニコンの開発ストーリーをまとめた、明るい暗箱である。最初のニコンカメラは光漏れがひどくて、それがどうやっても光漏れが防止できなくて苦労したと言うことが書いてある。だから私がニコン101号館の最後の日に訪問したのは、ニコンの歴史がそのことを覚えていて忘れさせないために、わざわざこのように光線漏れを作ってくれたのではないのか?言い換えれば、ここにはニコンのスピリッツが写っているわけだ。2023/09/11 05:31:0424.名無CCDさん@画素いっぱいDmsQtかつての東ドイツの有名なカメラメーカーであるカメラメーカーのドイツ語の名前をそのまま取ってKWと呼ばれている。カメラ製作所というのが、この会社のそのままの名前なのだ。1975年に初めてプラハに行った時、ヴァーツラフ広場のナショナルミュージアムがあるサイドのすぐ側のカメラ屋さんのウインドウにこのカメラの付属品である10メーターのフイルムを格納するマガジンを発見してそれを手に入れた。大西洋に漕ぎ出したような気分だった。そのフィルムのマガジンにカメラ本体をつけてレンズをつけてモータードライブをつけなければ、システムは完成しないのである。その時の記憶で、もう一つ印象的なのは、そのカメラ屋さんの隣にあった安い食堂で、私はヨーロッパで初めてのタルタルステーキを食べたのだ。タルタルステーキがレストランのメニューに載っていること自体が初めての体験なので感激した。もっともウィーンのアパートメントのすぐそばの馬肉屋さんでは、私はいつも馬肉を刺身にして食べていたのであるけれど、これはプライベートであるから、レストランのタルタルステーキとは比較にならない。プラハでこのカメラの10メーター用のフィルムマガジンを買って、それから7年後にマンハッタンにいたのである。ニューヨーク近代美術館で写真を研究するためであった。毎月1回だと思うけれども、グランドセントラルステーションのコンコースで中古カメラ市が開かれている。2023/09/13 15:06:3925.名無CCDさん@画素いっぱいiqobd漫画家のつげさんから頼まれたミランダカメラを探して、その中古カメラ市に行ってミランダカメラはうまく発見できた。それともう一つ気になったのがPraktinaである。ニューヨークのグランドセントラルステーションで売っていた。アウトフィットは10メーターマガジンとカメラ本体とレンズ数本とモータードライブも付いていた。値段もよく覚えていて250ドルである。1ドルが280円の頃だから、大変の高い買い物であったが、手に入れた。その後、このカメラに対する研究がいろいろ進んで、今ではほとんどの付属品等を手に入れて、かつての東ドイツのエルフルートと言うところから、カールツアイスレンズの180ミリと300ミリのゾナレンズもう発見した。このカメラシステムは1950年代後半のアメリカ市場でまだ日本製一眼レフが来る前には非常に人気のカメラであった。値段も高かったがそれなりの高性能であった。1983年にニューヨークからファーイーストに戻ってきて、カメラ雑誌の連載などをすることがスタートしたのであるが、面白いのは、当時はカメラ雑誌の編集者ですらこのカメラの存在を知らないのである。カールツアイスの35ミリ一眼レフカメラがコンタックスエスであって、それがその後プラクチカに変わったと言う事は編集者さんも知っていたけども、こちらのカメラの事はご存じがなかったのは別に勉強不足と言うわけではない。このカメラの良いところは、一眼レフがまだ十分に進化を遂げていないから、レンジファインダこそついていないが、普通のファインダーが付いていることにある。これが50ミリ相当であるから、このビューファインダーを使えば大抵のものはうまく撮影できるのである。2023/09/13 15:31:1826.名無CCDさん@画素いっぱいzkYw9ハバロフスクからアエロフロートでモスクワについて、当時ソルジェニーツィンの小説などで有名になった。ホテルメトロポールに2泊か3泊したのである。それで夜遅くにインツーリストの職員と自称するKGBみたいな男性がやってきて、いやこれはKGBが単にインツーリストと言っているだけかもしれないが、実際は同じことである。それでモスクワのベラルーシステーションから寝台車に乗ったのであった。列車は翌日の午前中にベラルーシのブレストと言うところについた。ロシアとポーランドから始まる。ヨーロッパではレールのサイズが違うので列車の車輪だけを交換するのである。1時間位でその作業が終わるのであるが、家人は列車から降りるのを忘れてしまって、そのまま工場のほうに運ばれて行ってしまった。これはまずいことになったなぁと思いながら、ブレストの駅前をちょっとうろうろして本物の熊SSアールに来たと感心して、記念に葉書とか何か買った記憶がある。それでブレスト駅で時間になると別のプラットホームに列車の台車を交換したヨーロッパ向きバージョンの寝台車が入ってきた。家人は落ち着いたもので、私に向かってニコニコ手を振ったのである。列車の工場内の様子を聞くと、やたら大きな音がしたそうだ。そういうようなあれこれがあったのだが、私が言いたいのは、ベラルーシの列車の台車交換工場の生き別れになったときの家人の服装が、この雪の日と全く同じなのであると言うこと。数年前に思い出して、この場所に行ってみたら、一戸建ての建物がとっくになくなって、小さなマンションが立っていた。2023/09/14 07:00:5427.名無CCDさん@画素いっぱいYhp3zベートーベンがあっちこっち、住み替えをした頃のアパートメントについて、記述した本があるので、それをもとに50年近く、前、ベートーベンの旧跡を訪ねて歩きまわった。ベートーベンの書簡集を見ていると、なかなか面白いのであるが、彼が亡くなったときの家と言うのは、ウィーンの旧市街の城壁から北側にあった場所で、当時の価値観からすると、そのことが既に場末のアドレスなのである。ベートーベンの葬列が、そこから西に向かって、その大通りはAlser 通りであるが、その当時はまだ巨大な総合病院はなかったと思う。このショットは総合病院のエントランスから眺めたら銅像の真似をした人がいたので面白いので撮影した。気に入った写真なのであるが、どういうわけか知らないけど、私の写真集からも漏れているのである。ところでベートーベンの葬列に従った人にフランツ・シューベルト思い出。葬列は西に向かって当時のカントリーである小さな墓地に葬られた。現在、ベートーベンのお墓は、winの南の中を墓地にあるけれども、これは1部が移籍されたものなのである。こーゆー写真をアップすると、理だまりのコースでライカM3に頭ミクロン35ミリでフイルムはトライエックスであるなどと書きたがるのであるが、その事はどうでもよろしい。私が応援している傍流写真同盟でもそうだがカメラデータを書いている人などはいない。これは時代遅れの典型なのである。傍流写真同名では、常に写真そのものの価値と存在感が問われているのである。それに対して情けないのは、Facebookのやり取りでの高級カメラと高級レンズ自慢であって、私がおちゃらけていつも書いていることだが、やっぱり阿呆頭ミクロンは描写が違いますねなどと言うステレオタイプの意見交換である。2023/09/15 08:19:0328.名無CCDさん@画素いっぱい6fT7W私がいわゆる映画をよく見たのは、1960年代後半のことだ。まだ都電の走っていた赤坂見附から青山一丁目の大通りの左側に草月シネマテークというのがあった。歴史的な映画は全部そこで見たのである。神保町2丁目に存在した。東洋キネマであるが、1920年代の1月にオープンした時は、まだ無声映画の時代だから、徳川夢声が活動写真のベンチであったそうだ。その後関東大震災で破壊されて1920年代の終わりにこの建築が建築された。この建築物を今までアールデコかななどと思っていたが、専門家に言わせると、おそらく日本にある唯一のダダイズム建築ではないかというのである。なるほどね。東洋キネマは1992年に解体されたそうであるが、私が撮影したのはその10年前の1981年頃であろう。ヨーロッパから戻ってきて、日本の風景が1000回生花のような感じで魅力的なので、2眼レフカメラを持ってあちこち撮影して歩いた中のワンショットと言うわけだ。この映画館のすぐそばにあったのが、YMCAであって、東洋キネマと比較してみると、映画館のほうはハリボテ座異空であったのに対して、YMCAは、テラコッタのちゃんとした建築物である、と言うコントラストが面白かった。その反対側にあったのが、ロシア料理のロゴスキー好きだった。1970年代にほとんどヨーロッパの風景に慣れ親しんでいた。自分の視神経から見ると、東京のこれから次へ去っていく。歴史的な建築物と言うのは、建築物の様式だけが表面に浮上していると言うところが私を喜ばせたのである。ヨーロッパの建築様式は、どっかりとした存在があって、そのファサードに建築スタイルが浮上してくるのに対して、日本の近代建築の場合は、イズムだけが形をとって、建築の表面で踊っていると言う感じがする。そこが実に面白い。2023/09/17 02:52:2429.名無CCDさん@画素いっぱいfbwKF文化と言う言葉はどこかネガティブな印象があって、そこにアイロニーがあるところがよろしい。例えば文化干とか文化住宅とか文化庁とか。1970年代ウィーンに暮らしていた時に、私が憧れていたのは東京の周辺部に広がる雑ぱくとした東京の原風景であった。ウィリアムクラインが言っていたところの、東京の風景は前衛生花みたいだねと言う。あの言葉に象徴される東京の乱雑さが魅力に思えた。それで家人とよくウィーンの旧市街を散歩したものであるが、そこに並んでいる歴史的な建築物を見て、半ば感心しながら、半ばもううんざりと言う感じで言った言葉がこれなのである。ここは赤羽ではない要するに、ヨーロッパの風景の中で、何年も暮らして、私が感じたのは、歴史の時間軸がそのまま表層となって、空間構造を建築していることに対する尊敬と、それに対する退屈さの相反する感情であった。その頃、日本の生社員のお下がりでもらった文庫の中に伊丹のヨーロッパ、退屈日記があって、結構共感するところもあった。例えば痛みが書いているが、これからミュンヘンによってありフレックスを買って日本到着は月末になるかな、と言う件が、なかなかすばらしいフレーズであった。アボカド、当時はワニ梨と、呼ばれていたらしいが、それを教えてくれたのも兵伊丹であった。しかし、ただ1つ彼の年風景美楽で、私が納得できないところがあった。すなわち、偉大な映画監督は、東京の風景を価値のない乱雑なものであると言う認識が最初からあるのだ。ウィリアムクラインは、東京の風景を前衛生花のようだと評価しているのであるが伊丹の場合はダメな風景と言うので、最初から相手にしていないところがこれは駄目だなと思った。そのファーイーストの赤羽であるから、1980年の暮れにファーイーストに行って、すぐに駆けつけたのが赤羽方面である。この赤羽文化市場である。今となっては、文化市場がどこにあったのかも全くわからないようなラビリンスになってしまった。10年前に出した2眼レフワークショップの中のワンショットであるが、ノートはスクエアな画面が表示できないので、あしからず文化市場の看板のところだけを掲載しておく。2023/09/18 07:28:0330.名無CCDさん@画素いっぱいcRYIu大学2年の時だったと思うけれど、後に1971年に結婚式をやることになった丹下健三設計の東京カテドラルで吉田茂のカソリックの葬儀があった。今と違ってセキュリティーなんかないに等しいからライカを持った私は報道陣に紛れ込んで、祭壇のすぐ右手で撮影をしていた。その時に撮影していた大手通信社のAFPだったと思うけど、そういう腕章をつけたかっこいい長身の日本人ぽいジェントルマンが使っていたのがこのカメラなのである。報道写真の基本であるから小型のストロボも付けていた。外国通信社のカメラマンも使うカメラなんだとその実力を認識したのである。オリンパスワイドに関しては私の友人の朝日新聞出版部長の福田さんもオリンパスワイドのユーザである。アマチュアカメラのように見えるけど、本当のプロフェッショナル向きのカメラなのである。私は大学1年生の時に中野のカメラ屋さんにオリンパスワイドスーパーのブラックモデルが出ているので、急いで買いに行ったらそれは売れた後であった。それで長いことクローム仕上げのこのカメラを使っていて、1970年に日本デザインセンターでトヨタの車の撮影をする時も、アシスタントの私は洗車セットの中にこのカメラを忍ばせて撮影をしていた。ライカM2も持っていたけど、当時は貴重な高いカメラだからダメージを受けても良いと言うので、このワイドスーパーを使っていた。デモ行進を撮影に行くのもこのカメラだった。だって機動隊の放水車では大事なライカ濡れてしまうからね。ウィーンにもこのカメラを持っていってスナップを撮影した。だから私の写真集にもこのカメラで撮影したショットはたくさん収録されている。それで50年以上経った今でも使っているのである。アサヒカメラの名物記事であった。ニューフェイス診断室をかなり初期の特集カメラでこのカメラが登場していた。木村伊兵衛さんがどこかの盆踊りのシーンを絞りが、F2の解放の当時としては明るいカメラで撮影しているのである。この35ミリF2のレンズはなかなかクセのあるレンズであって、そこら辺が好きなのだが、8枚構成で第一面がけっこうな凹レンズになっていて、ゴーストイメージが出やすいのである。ネットオークションなんかで、今では結構安くなっているから、1台持っているといろいろ便利なカメラです。2023/09/23 06:27:2331.名無CCDさん@画素いっぱいwdNQ2佃日記2003年月21日 火 アテネ明け方に露台をうかがったら、ベタの曇りで月も見えず。朝になったら雲厚く、きたないアテネの空である。家人に電話。横須賀効光さんが65歳にて亡くなったとのこと。一昨日であったか、何の気もなく、横須賀さんの元赤坂のオフィスと、そのずっと前、「花椿」の時代と、当時の学生の間で彼の事務所「ルームNY」のことが話題になったことをふっと思い出したのだけど、不思議である。6年前にお目にかかって最新作の8×10の作品を次々に見せてくれたのだが、あの時の熱心さは、何か「まだ巨匠の中に棲んでいる写真学生」という印象を思いだして記憶に残っている。モノ造りの人間は、こうでなくてはならぬ。アサヒカメラの3月号のモノクロ写真の入稿がぎりぎりだ。帰国が週末だから、モノクロのラボに出すと、下手すると来週の後半になる可能性大。その危険を回避する為、この前モノクロで撮影したのと同じ感じで、街に出て2本、カラーで撮影する。こうしておけば、来週月曜には上がるからそれをモノクロ原稿として使ってもらう所存なり。デジカメならまったく気を使わない部分なのに、アナログでは変なところに気を使うものだと苦笑。パルテノンの丘の南を迂回すると、例の街の西側の電車の駅の殺風景な場所に出ることが判明した。そこから10日ほど前に気になった、ペイント屋の廃屋を撮影しにいったら、そこで地元の青年に会う。タナカではなくタノスという人で、そのペイント屋の建物が40年代でなかなか良いので、それを改装してギャラリーやカフェやデザイン事務所に使う計画を立てているとのこと。メールアドレスを交換。彼の持っていたカメラは会社の備品のD60であった。子細にその建物を観察するに、正面の各種のペイントの缶のイラストが非常に効果を上げている。ファサードはバルコニーもある構成主義風である。建物の色は濃いベージュ。話では400平米以上あるらしい。そのタノス青年が「これは40年代だからかっこいい」と言ったのが印象的だ。40年代の建物はかっこよくて、40年代生まれの私のようなおやじは、かっこ悪いという風に邪推することもできる。2023/09/24 05:43:5932.名無CCDさん@画素いっぱい5Tlxhアメリカのケープカナベラルロケット発射サイトで、1000ミリのレフレックスニッコールにニコンSPのモータードライブ付をつけてポーズしている。サイモンニコンさんである。1960年代初めのカメラ雑誌の広告である。このカメラマンはニコンを愛する。あまり自分の名前をサイモンニコンと書いて、今ではたいていの郵便物がこの名前で到着すると言うようなことを書いている。細かく見ていくと、ブラックのニコンSPのモータードライブ付は今やコレクターズアイテムだし、初期のレフレックスニッコール100センチef 6.3のブラック仕上げのやつは最初のシリーズでこれもミュージアムクラスである。もともとこのレンズはベルリンの飛鳥に家の100センチレフレックスレンズef 6.3のコピーしたものである。私はアメリカの軍から放出された。そのオリジナルレンズを持っている。こちらの塗装はダウグレーである。この広告を見ると、ニコンエフとニコンSPが同時に販売されていた時代のものだが、面白いのはニコンエフよりもニコンSPの方がプライスがちょっと高いことがわかる。私は高校生時代にこの広告に触発されて、それが日本デザインセンターで制作されたものであると言うのを知っていて、ベビーブーマーの大変な300倍の競争倍率をくぐり抜けて新入社員になったのである。夢と現実が違いすぎるので、3日でやめようと思ったが、石の上に座り込んで3年間仕事をしたのはまず私にとっては生きた大学の写真の授業と言う感じだった。日大写真学科が日大闘争だし、何にもできなかったからね。それにしても、面白いのはこの広告を初めて見た時は写っているサイモンナイコンさん大変なおっさんに見えたけど、今見ると非常に若い人に見えることだ。相変わらずのことだけども年齢のパースペクティブと言うのは面白いね。2023/09/26 01:13:3333.名無CCDさん@画素いっぱいHXTXa2年ほど前に足の具合が悪かったときにはその猫バスへのバスで聖路加病院まで行った。これは中央区を起点にしている。一筆書き路線で北ルートと南ルートというのがある。私が利用したのは南ルートと言うやつで、中央区役所から家の佃島の前を通って月島を西に行ったり、東に行ったりしながら、月島の1番南豊海水産埠頭まで行って、そこから月島の交差点まで戻って、勝どき橋を越えて聖路加病院につながっている。これはニューヨークの2ブロックずつに止まる。バスと同じようなもので乗っている分には面白いけれども、交通機関としては時間がかかる。35分ほどかかるので、街をゆっくり見て歩くのにはよろしいが、病院に大急ぎで行くと言うのには向いていない。そこで診察を受ける。後期高齢者にもかかわらず、肝臓も尿酸値も血糖値も良いので、先生に褒められる。写真等では褒められたことがないから褒められるのは嬉しい。それで聖路加タワーの2階にあるファーマシーから聖路加病院を眺めると、こんな感じで、なかなか建築物としては見所があると思う。これはの建物であるが、古い建物のほうは歴史的記念物であって、日大の写真学科の学生の頃に築地川の辺りを歩いていると、その先に聖路加病院のクラシックなタワーが見えた。これはランドマークであって、当時の佃とか月島は聖路加病院の教会のタワーが界隈では1番高い建築物であった。2023/09/28 06:22:5434.名無CCDさん@画素いっぱいbf80yそれで世界中の優秀な交換レンズを揃えて仕事をしているのである。ミュンヘンのkilfittと言う会社は、後にアメリカに移動してZoomerと言う会社になったがその名前の由来は、世界最初のズームレンズを作ったからだこの会社が作っていた代表的なマクロレンズはマクロキラー40ミリと90ミリがあってこれもありフレックス映画撮影機の標準レンズであった。日大写真学科の学生時代に当時はまだ西新橋にあった。東北新社で極々初期のテレビのシーエム用の制作のアルバイトをやっていたので、撮影現場によく立ち会うことがあって、あり、フレックス35ミリムービーカメラにつけられたマクロキラー90ミリのレンズは非常に重要な撮影機材の1部であった加山雄三がコカコーラのテレビコマーシャルの主要なスーパースターであって、それを撮影するのがこの90ミリレンズだった。ウィーンに暮らすようになって中古カメラ屋さんで発見して手に入れた時、このレンズの程度は今とほとんど同じボロボロ状態であった。フォーカシングのゴムのリング等はとっくになくなっていたので、自分で適当なブラックテープを貼って使い始めて、さらに50年近くが経過しているのである。設計の古いレンズだし、ガラス素材がもう古くなっていると言うのもその理由であると思うが、発色は結構黄色っぽくなるのである。でも今はPhotoshopで発色の状態などは自由にコントロールできるから、そんな事は気にならない。すごいと思うのは3段伸ばし、つまりトリプルエクステンションの90ミリマクロレンズであって非常にクローズアップができるのである。でも私の写真術と言うのは90ミリではinfinityでしか撮影することがないから、フォーカシングリングを回転させてマクロ撮影をした事は1度もない。でも、その当時の世界最高のマクロレンズの存在感を再認識するために、時々フォーカシングリングを送り出して、このようにレンズ全体を伸ばしてそのかっこよさに痺れて。それからまたフォーカシングリングは戻して、infinityに設定して撮影をするわけだ。2023/09/30 00:16:5735.名無CCDさん@画素いっぱいqTfhjそれで私は勝手に当時の写真家のところに行って自分の写真を見てもらったりしたのであるから、相手は迷惑であったことだろう。それでも当時30代後半だった。東松さんはなかなか大人であるから私が訪問した。この時も自分でコーヒーを入れてくれたのである。ブルーマウンテンだけど、お口に合うかどうかちょっと日大写真学科のへぼ学生に言ってくれるのだから、これは大人のたしなみというか、大したものだと、その時も感激したのだった。何度か東松さんの事務所に通っている間に、まだ雑誌編集者であった。中平さんなども見えて、東松さんは私に中平さんを紹介してくれた。東松さんが私のことをよく記憶していてくれたと言うのは、そのちょっと前にカメラ時代と言う結構真面目な雑誌で、そこで私は新人応募のコンテストに出したのであるが、その時に東松さんが強烈に審査員としてプッシュしたのがプッシュしたのが私であったそうだ。審査員は3人いて、もう1人はIKKOさんだった。もう1人の審査員は忘れてしまったが、3対1の差で他の人に新人賞はとられてしまった。その人は土田ひろみさんなのである。その過程を写真時代の編集者が私にテープレコーダーの録音を聞かせてくれたのは、今の時代にはちょっと考えられないことだが、これが私の写真表現のパワーのスターティングポイントになっている。東松さんに最初に会ってから自由年もたたない。1976年にヨーロッパを巡回する日本人写真家の大きな展覧会の企画を手伝ったのであるが、そのメンバーの中核となるのは東松照明であり、代表作11時2分長崎であった。東松さんのオフィスは新宿2丁目高3丁目のこれは当時は普通のことだけど、階段しかない。6階建て位のビルで確か誤解語がオフィスだったと思うが、冷房などついていないから夏は暑いしそれが普通と言うような高度成長期の60年代であった。2023/10/02 05:57:4936.名無CCDさん@画素いっぱいzRRYY東京ニコン日記はずいぶんいろいろな読者の方に愛されているようで休日の時にペラペラめくると新しい発見があると言う方もいるしちょっと長い入院生活で退屈をしのぐために持ち込むと言うような方もいる。写真芸術を扱った芸術写真集でないと言うところがこの場合大事なポイントであろうと思われる。サングラスをかけた女の子が地下鉄有楽町線ができるずっと前の文京区音羽呉朝明つまり私の実家の近くをこっちに向かってくると言うショットである。右側に立花商店と言う看板がちょっと見えるけどこれは昭和20年代におそらくこの長さ1キロメーター位の通りでほとんど唯一商業用の自動車を保有していた油谷さんである。群青色の小さなトラックはどこのメーカーのものか知らないけれども油谷さんのお兄ちゃんに頼んでトラックの荷台に乗せてもらった。一走りするとあっという間に護国寺の山門の前まで来たので私は文明の力のその速さと言うものに驚いたこれが私の最初の自家用車の登場経験である。油谷さんはお兄ちゃんが写真付きなので白黒フィルムの現像とか密着もやってくれた。その時見せられたのがコダックのロイヤルEX版と言うやつで感度が1000以上あるから蛍の光でも映ると言う触れ込みであったがこれは今のカメラのメカライターさんと同じで単なる情報の受け売りであった事は確かである。でもその頃小学生の私は感動したものであった。右のショットは調布駅前から多摩川住宅に向かうバスの中で撮影したお面かぶりの女の子である。このバスはできた頃から結構不便で1時間の本数は少ないしすぐ終わってしまうと言うので風評であったが、何十年ぶりに多摩川住宅を訪れてみたらバスの不便さは相変わらず同じなのである。今は運転手さん不足でもっと不便になっているのかな?でも私にとって多摩川住宅は漫画家のつげさんと出会うことができた場所なので自分にとっては重要なランドマークポイントと言うわけだ。菅さんの映画で多摩川の土手の辺りはまた有名なランドマークになったので凄いことだと思う。左のショット笑回6通+85ミリレンズ。右のショットのほうはライカM2にニッコール2.1センチだった。カメラは全然変わらないね。2023/10/04 07:04:3137.名無CCDさん@画素いっぱいMQRJe東西ドイツが統合された直後、プラハのアトリエで私は放出品のアメリカ軍のレーションを食べていた。それで面白かったのは内容物はチキンソテーとかポーク、チョップ等で普通のアメリカ人の食物だが、その中に調味料がアノニマスの状態で小さくパックされている中で、唯一タバスコだけがリアルなミニチュアボトルなのである。だからタバスコはアメリカ人兵士にとってもアストロノーツにとってもこれでなければならない。重要なペッパーソースであることがわかる。アントニオ猪木がタバスコを輸入されていた頃に、私はタバスコフィーバーがすごくて、ありとあらゆるグッズを揃えていた。今は経営が変わって醤油会社が入れているらしい。半世紀ほど前に、神保町の路地裏の喫茶店で、3.8リッター、つまり1 USガロンの巨大なタバスコボトルを見て、悪夢のような感じがしたけれど、それから半世紀経ってウィキペディアで調べてみたら、本当にそういう巨大なタバスコボトルが存在することがわかった。私は長年のタバスコドリンカーであるが、大昔は普通の食料品店には売っていなかった。それで有楽町のアメリカンファーマシーに買いに行ったものである。オーストリア、ウィーンの名物ガイドだった。数年前に昇天してしまった。栗田くんはなかなかシュールレアリストであって、いつだったかウィーン時代、私に向かってあのさぁ、長徳さんさぁ、タバスコでさぁ、10円玉を磨くとピカピカになるでしょうこれは本当の前衛アーティストの言葉だと思う。トリスタン・ツァラを超えてるな。アメリカの属国である戦争に負けた日本であるにもかかわらず、手元にあるメイドインUSAの製品はそんなに多くない。せいぜいこのぐらいのものです。2023/10/05 11:58:0838.名無CCDさん@画素いっぱいMo033大人になったらこういうところで仕事をしてみたいと思っていた。ところが1973年から私がヨーロッパに行ってしまい、その夢は果たせなかった。その後ニューヨークを経由してさらに東京ープラハを行ったり来たりする生活が34年間続いたので、中銀カプセルタワーの事は忘れてしまった。ところが、2003年に六本木ヒルズができた前後に私が佃島から六本木ヒルズに通って仕事場がそこの49階にあったのだが、ある時不動産物件を見ていたら、1972年建築で広さが10平方メーターというのが私の目に飛び込んできた。忘れもしないこれが中銀カプセルタワーなのである。 10平方メートルのところで寝泊まりはするつもりはないから、そこに持ち込んだのは1つの文机と金屏風だけだった。プライベートな空間であるが、とにかく世界的には有名なメタボリズム建築であるから、外国からのお客さんが下でウロウロしている。それで主にアメリカの建築関係の研究いいえであったりしたのだが、中に入れて見学させてあげて大変感謝された。何しろ、外国人のゲストさん向けに金屏風と机が設置されていて、他には何もないからコンセプトとしてはわかりやすい。中銀カプセルタワーは分解されたが、カプセルがちゃんといくつか保管されていて、そのうちの2つがすぐ近くにシャトルと言う名前の文化センターができてそこで展示されるらしい。私としては金屏風がいっこ置いてある。10平方メーターの部屋で本を何冊も書いたので、懐かしい。十数年ほど前に文芸春秋で出していたタイトルは忘れたライフスタイルの雑誌で私が使っていたb906号室が紹介されて、まだお元気だった黒川紀章さんに中銀カプセルタワーでお目にかかっていろいろお話が聞けたのも忘れられない。その雑誌のその時のメインのタイトルは、こんなデザイナーズマンションに住みたいと言うものだった。建築家とデザイナーが違うんだけど、まず仕方ないか。2023/10/06 14:27:2539.名無CCDさん@画素いっぱいiVG7i1957年にセコニックが出したかなり初期のセレン式の反射メーターである。それ以前のセコニックの露出計はベークライト生で真っ黒で重いと言うそれはアメリカ製のウェストン露出計の完全なコピーなのである。このモデルが1957年に登場したモデル21と言うやつで非常にモダンなデザインになった。というのもセコニックのメーターのデザインを担当する1953年に創設されたデザイングループがあって、それの影響なのである。そのグループの名前を3人のデザイナーの名前をとってKAK と、いうのである。私もこのメーターを10歳の時に使い始めて、基本的なメーターの扱い方をここで覚えたのである。その意味で貴重な体験だが、デザインが新しすぎると言うところが素晴らしい。今でもちゃんとメーターは生きているところがさらにすばらしい。練馬区大泉学園町2207番地に住んでいた。1969年から73年までの間駅前から北に向かうバスに乗ることもあったが、その私が降りた先の終点のバスの停留所の名前が都民農園セコニックと言うのである。都民農園そのものは計画だけでできなかったらしいが、そこにセコニックの会社があって、今でも存在しているそうだ。2023/10/08 12:23:2240.名無CCDさん@画素いっぱいMgE4n昔からの友人で小沢さんと言う人がいて私の周囲で彼が最もマヨラーとしてのレベルが高い。ところが彼が病気になってしまってマヨネーズを摂取やめたらすぐスリムな体型になったのでマヨネーズを恐るべしというのが私の認識だ。1980年にウィーンを引き上げたとは1990年代に家人とウィーンによく行くことがあった。それは観光旅行と言うよりもウィーンライフを懐かしく感じるための鑑賞旅行なのであるしりの音声入力が間違っているので言い直すとノスタルジックツアーである。その時ウィーンに住んでいたご主人が前衛アーティストで奥さんがピアニストと言うカップルのお世話にいろいろなったのであるがリクエストに応じて日本からマヨネーズを持っていった。その頃は日本のマヨネーズは光の日本食品店で手に入らなかったのかな?それでリクエストのブランド指定があってキューピーマヨネーズなのである。ところがこちらは慌てていたから間違って味の素のマヨネーズを持っていったらブランドが全く違うと言うので叱られたことがあった。まぁマヨネーズの味とかレンズの味などと言うものは主観的なものである。私等はドレスデンのカメラに東ドイツ末のテッサーレンズでないとダメなどと言っていたブランド勘違いはであった。まず今妥当世界のカールツアイスレンズが信州中野で作られているようなものだからどっちもどっちである。最近の物価の高騰は激しくて牛乳等はずいぶん前から1000ミリリッターの容量が100ミリリッター減らされて900ミリリッターになっている。どこのメーカーのもそうだからこれは家味華るってタイルではないのか?マヨネーズは牛乳に比較するとそんなに頻繁に買うものではないけれども家人に依頼されて生生下のリンコスで買ってきて500 CCだと思ってよく見たら450 CCなのである。ここら辺もヤミカルテルの影響なのかな?ヨーロッパでもアルコールのボリュームはwinだと4分の1リッターと言うふうに決められていてワイングラスのビールのジョッキみたいなタイプのやつに4分の1リッターの容量のところに横線がエングレービングされている。そのつもりでモスクワのホテルでウォッカを注文したら100グラムのウォッカがルームサービスで届けられたのでびっくりした。ウォッカは重さで測るのだと言うことをその時初めて知ったのである。2023/10/10 00:05:4241.名無CCDさん@画素いっぱいE8ddRそのアトリエから電車に乗って、イッポンで到着するのが、プラハの銀座4丁目みたいな場所Mustekである。プラハ市民の買い物の中心地ばかりでなく、そこにクロスオーバーしてツーリストがぶつかるから、なかなかの混雑だと思う。私の場合、この交差点のすぐそばにプラハで、最大のカメラ屋さんフォトシュコダがあったので、ますますというかほとんど毎日そのカメラ屋さんに行っていた。それで30年代の古い付き合いである。写真家のプラハのPにほとんど毎日ここで会ってランチを食べたり、馬鹿話をしたりしていたのだ。私が不思議なのは、ヨーロッパ人と言うのはいちど友人になって気が合うとそれこそ毎日会ってランチを食べて馬鹿話をするのは何十年も永遠につづくと言うことになって、これは人生の退屈ではないかと思うのだが、彼らはそう思ってはいないらしい。その40年近いお付き合いも、プラハのピーが4年前にコロナにやられて80歳で昇天してしまったので、残念ながらそこでピリオドが打たれた。その話を私は文芸雑誌の新潮に書いたのが彼とのお付き合いの最後のセッションと言うことになってしまった。コロナがスタートしたときのプラハでの蔓延と言うのは凄まじく最初の数ヶ月で25,000人の犠牲者が出た。それを忘れないために、プラハの街の中心部の広場の石畳に白いチョークで、連番の数字を入れたと言うのは、単なるモニュメントと言うだけではなくて、ファインアートの領域に肉薄している。プラハのビロード革命が達成してから25年目になる。2014年のことだが非常に大きなセレモニーが11月にプラザで開催された。それを機会に私はもうプラハに行くのはやめようと思って。それから数年経ったら、コロナがああいう形で始まったので、もちろんプラハを再度訪問した事は無い。2023/10/12 06:53:0942.名無CCDさん@画素いっぱい9w5531月23日 木 アテネーアムステルダム早朝2時に起きて露台に出たら、素晴らしい星空で、出遅れて下弦の月が煌々としていた。オリオンはすでに西の方に傾いて、これは春の星座の様子である。出発前に露台の椅子に寄って最後のパルテノンをゆっくりと観察する。疑いもなく、この2週間余のアテネのツーリストで、私が延べ時間で一番長くパルテノン神殿を網膜に焼き付けていた人間には違いない。3時15分に下に降りたら、すでにタクシーは来ていた。タクシーはチエコのシュコダのオクタビアである。定刻の6時に離陸する。半月が煌々。離陸後のアテネの夜景は素晴らしかった。ただし、パルテノンのほぼ真上を飛行するので、パルテノンそのものは見えず。その飛行経路は毎日、私がホテルの露台からチエックしていた通りである。最初はイタリア半島の東海岸を飛び、あの光はベニスかな、と思ったら、その直後には雪の山の中のインスブルックと思われる地帯を飛行。飛行機の速度を実感。アテネ、アムス飛行時間3時間25分。アムステルダムは真っ暗な天候。いっそのこと、市内観光に行こうかと思ったけど、(アテネから乗って来た団体さんの添乗員さんは、市内観光に行く人を募集していた)着陸直前のインフォメーションでは、気温マイナス6度というので中止とする。ラウンジの電源のあるデスクを確保してカメラジャーナルの原稿書き。最近、このPBG4のバッテリーが弱くなっている。終夜チャージしても2時間半ほどの時間しか表示せず、しかもあと45分を切ると、スリープしてしまう。私に必要なのは、新しいライカでなく、新しバッテリーである。成田行きのダッシュ400は定刻離陸。席は1A。偏西風を利用するコースなので、かなり北の辺りを飛ぶ。KLのアテンダントさん(日本人)は、私と同世代か、孫が3人も居そうな人である。こういうのがいかにも欧州系のエアラインという感じだ。気がつけば、オーロラが綺麗なので、ライカとキャプリオで撮影。窓から見て、対向方向の飛行機が飛んでいるのかと思ったら、それが流れ星である。普通の流れ星は、するするするっと言う感じで流れるのであるが、このシューテイングスターは、「ぴかぴかばりばり」という燃え方、飛び方で、その燃焼時間も長い。紫と金色と青になった。これは凄いモノを見た。流れ星ではなく、花火星である。これは。(9:38)2023/10/16 06:20:4443.名無CCDさん@画素いっぱいLUwnfしかもお酒にノドグロと言う名前をつけるのは正常な感覚じゃないな。winで有名な白ワインに黒猫と言うのがあるが、これはタイトルとお酒がマッチしていると思う。でも日本酒にノドグロと言う名前をつけるのは、日本酒がさんま鰯、タコイカマグロみたいな感じだから、これは実に不思議なお酒の名前だと思う。初めて出雲に行ってびっくりしたのは人が歩いていないと言うことだ。駅前のロータリーですが、誰も歩いていない。そこから列車で1駅西に行ったところに小池さんの個展会場の図書館がある。そこで降りたのだが、方向を180度間違えてしまって、30分ぐらい歩いても図書館に行き着かない。こういうところで私のような高齢者が倒れるとそのまま昇天してしまうなと思ったことだった。ノドグロは旨い肴だが、嫌いなのは金目鯛である。14年前に来チャリンコが昇天したときに、それまでの25年間と言うものは、家人と一緒に家を空けると言うことができなかったので、来会インコ巡礼の旅に千葉県の銚子に行った。。ノドグロはうまい魚だが、嫌いなのは金目鯛である。14年前にライカインコが昇天したときに、それまでの25年間と言うものは、家人と一緒に家を開けると言うことができなかったので、来会インコ巡礼の旅に千葉県の銚子に行った。調子の夏も駅前は無人であったが、そこに金目鯛祭りと言う大きな畑が100本以上潮風に店ビーテいる。でも実際に金目鯛を売っているところはどこにもなかった。それから数年後に写真集の撮影の時にライカエム9を持って挑戦に行ったのである。その時は地元の漁師料理とか言うところで、大きな金目鯛の煮付けを1人で食ったのであるが、こんなにまずい魚だとは思わなかった。千葉県のオオハラに家人の音楽大学時代の教え子がいるのであるが、毎年そこから金目鯛を送ってくれるのである。金目鯛は嫌いだからもう送らなくて良いと言うのはなかなかいいにくいものである。その家はお父様が漁業権を持っているので、大昔はアワビなどを送ってくれたが、最近はそれもやめになって、もっぱら金目鯛になってしまった。これなどもタブロイド版の労働者、新聞オレンジ色の難いやつ等が金目鯛を持ち上げるので、サラリーマン諸君が全員洗脳されてしまった。その結果だと思われる。同時に汚染水を岸田がどんどん出すし凄い時代だね。2023/10/17 07:15:2444.名無CCDさん@画素いっぱいjHcS0そのカメラを今はもうない高輪のMacカメラで手に入れたときにいろいろ付いていたのがオリジナルのギャランティーカードとかオリジナルの取扱説明書とか、カメラそのものより今では発見が難しい。ペーパーがいろいろついてきたのは嬉しかった。その中にここで紹介するレンズクリーニングティッシュが入っていた。SOSと言うブランドのレンズやカメラの付属品メーカーで、会社はニューヨークとハリウッドにあったと言うのも、当時のニューヨークのというか、アメリカの写真事情が彷仏とされていて面白い。それでレンズクリーニングティッシュの表紙の反対側には正しいレンズの磨き方が書かれている。大体アメリカ人は実用主任者であるから、レンズをクリーニングするなどと言う習慣は西部開拓し、時代にはなかったから、その伝統と言うわけであろうかレンズのクリーニングのときの作法を見れば、アメリカ人のパスポートをチェックするよりか、この人はアメリカから来たなというのがすぐわかる次第だ。 アメリカ人のレンズのクリーニングの仕方と言うのは来ている。シャツの端でレンズをぐりぐり子するのである。この悪い習慣が後に日本が中古カメラブーム出会った頃にアメリカ人が使っていた傷だらけのレンズと言うことで、中古カメラ業者さんには嫌がられる原因となっていた。私もレンズクリーニングに関してはアメリカンであるから、まずレンズを磨いたりする事は滅多にない。レンズにはフィルターもつけないし、レンズキャップもつけないだから私が不思議に思うのは、大手カメラメーカーのトークショーなどで、私の話は、今にカメラ外車の人がデジカメ用のレンズキャップでちょっとカスタマイズされたのを会場で売ったりすると、その値段が5000円台なのに、あっちこっちから手が上がってすぐに売り切れになってしまうと言うことだ。写真を撮らない人に限って、レンズをプロテクトすると言う方向の欲望が非常に大きくてヘンテコリンなことになってしまう。レンズクリーニングティッシュも同じ方向でカメラ人類を騙すと言うことなのだ。2023/10/19 05:55:0145.名無CCDさん@画素いっぱいlpVSdそれで夜中はケーブルテレビで日本の大地震のニュースを見ていて、そのままあまり眠らずにライカを持ってモノクロームでマンハッタンを撮影した。今より若かったとは言いながらよく体が持ったものだと思う。滞在の後半になって東京からメールが届いて、日本はトイレットペーパーが手に入らないので買ってきてくれと言うことで、チャイナタウンのそういう店に行く道すがら撮影したのがこのタングステンランプのサンプルが点灯しているショップのウインドウなのである。ショーウインドーの存在感の不思議と言うものは、私の場合は、リーフリードランダーの1連の仕事で教えてもらったようなところがある。実際にショップを経営している人は、単にお客さんがわかりやすいようにウインドウディスプレイを設定するわけであるが、写真家の視神経からすると、そこに展示されているそれぞれの物体がその存在が謎めいて、存在感が立ち上がっているように見えるというのが、写真家の視神経のなせる技と言うわけだ。これが12年前の話であるから、当時はこのようなタングステンランプが使われていたが、今は全部LEDになってしまったのであろうな。 それで大量のトイレットペーパーをチャイナタウンで買って帰国するときには荷物はそんなにないけれども、中国の人がよく持っている薄いピンクと薄いブルーノ大きなショッピングバックの中にトイレットペーパーを積み込んで、JFKから成田に飛行したのである。トイレットペーパーの密輸と言うやつだね。それで帰国してみたら、その時には既にトイレットペーパーパニックは終了していたので、風にそれほど感謝されると言うこともなかった。それで家人と話していたのは、新潟の大地震の時に家人の父親が役人で秋田に住んでいたのであるが新潟地震のニュースを聞いて、ジープをチャーターして、何百キロも走って新潟の家に着いたのであるが水が不足しているであろうと言うので、一升瓶を10本ぐらい水を詰めて持ってきたのだそうである。ところが水はすでに開通しているので、家人の父親はその水の入った一升瓶を次々と庭に逆さまにして排出したそうで、がっかりしたと言う記憶を家人が思い出したのである。2023/10/22 08:01:1846.名無CCDさん@画素いっぱい0OLKR赤瀬川さんのこのイラストは、この非常にレアなカメラのふくらんだちょっと変わった存在感を非常に上手く描いているのが凄いと思う。つまり、政治家のカリカチュアを書く手法が、そのままカメラのカリカチュアのイラストレーションとしてここに具現化されているわけだ。私はこのカメラをwinで手に入れた。シャッターの具合が悪いのでそれを販売したウィーンのライカショップのペーターに修理を依頼したのである。で、それでしばらく時間が経過してから、日本に初めて世界最初のライカカメラであるうるライカを展示するために、ライカ社の社長さんが来日した。それで ウィーンからのメールによれば、修理の上がったハンガリー製の一眼レフをライカの社長さんに託したから受け取るようにとのことであった。ハンガリーのガンマはもう存在しないし、別にライカの会社と競合する会社ではないから、別に問題は無いのだな。ライカの社長さんの宿泊先の新橋第一ホテルに行ったら、彼は上機嫌で書類カバンを開いて、その中からこのハンガリー製の一眼レフを出して私に手渡してくれた。そして彼はカバンの中に今回展示するUr Leicaが入っていて、それを取り出して私に触らせてくれたのである。世界最初のライカに触るのは、その前にそれをライカ会社に行った時以来だから5年ぶりだったかな?私はこの世界最初のクイック、リターン一眼レフカメラを手にして50ミリの標準レンズではなくて交換レンズが使いたくなった。それで当時仕事を手伝っていたコシナレンダーの小林社長にそのことをお願いすると快諾してくださったのである。しばらくしてワイドズームレンズと望遠系ズームレンズで、このカメラに使えるレンズを提供してくださった。私は嬉しいので、調子づいてこのレンズマウントのコシナレンダーのレンズを出したら売れますよなどと馬鹿を言ったら、小林さんはこのカメラの製造番号を考えてください。200台ぐらいしか残ってないカメラのマウントのレンズなどは売れませんよと言われたので考えてみればその通りで私がバカであったことに気がついたのである。2023/10/24 07:12:3647.名無CCDさん@画素いっぱいTBJTH東京とか大阪とかコーチとか広島とかそういうところでポーラ化粧品のシンプルな看板の存在感を楽しんでいるのである。ポーラ化粧品の看板で私のストーリーで有名なのは、亀有駅南口にあったやつで、これは、肌がボロボロに剥がれていていい具合になってきたなと思っていたら、どうもそのお店の人が素人療法で、塗り直しをしてしまったので、つまらないことになった。イタリアのどっかの山奥のキリストの遺恨を、地元のおばちゃんが良かれと思って、修復してしまって、ぶち壊しになったことがあったね。ちょうど10年前の今日に撮影したこんばんは。私がこの10年見た風流な看板の中ではトップに属する。有限会社というのがいいし、カタログというのが会社の名前であるところも素晴らしい。そしてこれは便器看板で風と雨が吹きつけるために、右側が茶色っぽくなっているところがわびさびなのである。この時期に私が関原と言う場所に凝っていて、よくあちこち撮影をして歩いた。カメラはブラックロードだった。その翌年であったか何度目かの関原方面に撮影に行った時は、ワークショップの同行者がいて、その人はこのカタログ、車の近くの小さな工場で船の模型を作っているところを見たと言うのである。その船のおもちゃを見た体験は私にはないので、ワークショップの動向の人が私に話してくれたので、そこで想像をしてみた。私の想像の中でのおもちゃの船と言うのは、小さなセルロイド製のやつで、後にナフタリンを挟むと水に浮かぶとすいすい前に進むと言う写真は目に見えるものしか映らないが、人から聞いた。小さな船のおもちゃの小さな工場と言うのはいかようにもイメージを膨らますことができる。だからイメージを膨らますことが楽しくて、実際の写真が面白いと言っているのでは無い。2023/10/25 09:37:4148.名無CCDさん@画素いっぱいdgFJ6それでリコーカメラの戦後の歴史の生き字引と言われているおりまさんにいろいろ教えてもらった。彼は1950年代半ばにまだ佃のお渡しがあった。当時の佃島に来て、木村伊兵衛、波の優れた、その頃の佃島のスナップショットを取っている。それでおりまさんが使っていたのがこのカメラなのである。音声変換が変なので利権35となっているが、その方が何か理化学研究所が作ったカメラと言う感じがしてよろしいな。彼が使っていたのは、このカメラのセルフコッキングのファインダーカバーを外したモデルであるから、カメラ本体からレバーが出てきて、シャッターチャージを動かす宣が露出している。私はプロトタイプの利権35だからそうなっていると思っていたのだが、ご本人の話によるとシャッターカバーをはずしてしまって、中が見えるようにして楽しんでいたらしい。このカメラは巻き戻しをクランクに改造して、リコーの生き字引さんは楽しんでいたそうである。理化学研究所の名前を取ったり間35として1番最後に作られたカメラであるから、ネットオークションなどでもなかなか出ないと思って何年か経過したら、これは四谷荒木町の2代目さんがよく言うところの品物が品物を呼ぶと言う効果があって、最初に登場したら、次の週にはもう1台登場した。それで私はいっきょに利権35の二台持ちと言う人間になった。それで自慢したいのはこのキャップなのである。私はキャップを使わない人間で、デジカメのキャップ等はまずすぐ捨ててしまうのであるが、この利権35のレンズキャップはコレクターズアイテムとしてはかなりレベルの高いものであると思う。そのレアな金属製のレンズキャップを外すと、その下にはちゃんとUVフィルターも付いている。この時代のものはねじ込み式ではなくてかぶせ色なのである。つまりそこから推察するにこの利権35カメラの以前のオーナーはかなり真面目に写真撮影の基本的なルールを守っていたと言うことになる。2023/10/27 06:11:5249.名無CCDさん@画素いっぱいJCkys赤瀬川さん坂崎さんと一緒に日本で初めてのライカのDVDを出したのは20年位前。そこで色々な色物ライカを作って紹介したらなかなか好評だった。でもそれは実際に存在するライカではなくて、単に色と模様を考えただけの実在しないライカなのである。3年ほど前だったか、ソ連製のレンジファインダカメラのトップがブラックでボディー本体がイエローの私がイエローサブマリンと命名したカメラを手に入れて得意になっていた私であった。ところがさっきガラクタ屋さんに訪問したお客さんのカメラを見ると、外国のライカ人類さんであって、たくさんのライカを持っておいでになったのであるが、そこで1番これはやられたなぁと思うのは右手にあるライカエムファイブベースのイエローサブマリンである。ガラクタ屋さんは、これで非公式ライカショップのステータスを獲得したのはおめでたい。なぜそういうことを言っているかと言うと、15年ほど前に私が当時のライカの社長さんを案内して、にだいめさんや当時の買取名人さんとライカに関する国際交流をやったことがあった。2023/10/29 14:32:2950.名無CCDさん@画素いっぱいOMwIl有名な作家が樹木と言うのは怪しい奴でいるようなところがある。だからニューヨークには樹木がないと言う意味のことを言っている。常時マチューナスはそれに答えたのであろうかどう甘かったんのキャナルストリートから北に向かってずっとウスターストリートが走っているが、そのまっすぐな通がウェストハウス豚ストリートにぶつかるまで1本の樹木も存在していなかった。そこで1本の木を常時マチューナスが売れたらすぐポリスが流行ってきて、ここに生生上ではいかんというのである。その国家権力に対抗して、常時マチューナスは1歩も引かなかった。それから40年も経過していないのに、その1本の基はこんなに大きくなったのだ。これは2011年の撮影であるが、ウスターストリートの非常にわかりやすいランドマークになっていた。ところが残念なことに、それから数年後にすでに大木になった。この気を切り倒してしまったやつがいる。同じリトアニア出身のJonasMekasがこの木の切り株の前にひざまずいている写真が残っている。もっとも、この机はその日故買が別のところにうつされたそうである。それにしても、常時マチューナスが植えた木の木が40年位で大木になったということ素晴らしい。美術運動のフルクサスよりもカレーが成し遂げたのはウスター通りの1本の木を育てたと言うことになるのか?2023/10/31 06:31:0951.名無CCDさん@画素いっぱいsUCxLこれは同じ時代のアメリカのカメラクラブの記念写真である。カメラが写っているので、これはそれぞれ新型のカメラということだから、今で言えばフルサイズのミラーレス一眼レフを追っかけている連中みたいなものである。そしてカメラは全く変わっていないのに、時間が130年も経過すると立派なクラシックカメラになってしまうのが面白い。それでカメラだけはいまだに生きていてカメラを持っていた人はみんないなくなっているのも番である。それで面白いのは手前の列に座っている。ジェントルマンが持っている。ハンドカメラにはみんなケーブルレリーズがついていると言うことだ。カメラを撮影するときにシャッターを指で押すと写真がぶれてしまうから、ゴムのボールのついたケーブルでシャッターを切ると言うのは、さすが高級アマチュアだと思う。写真家のセルフポートレートで、私が長年不思議に思っているのはアルフレッドスティグリッツのセルフポートレートである。これは当時の最新型の組み立て式カメラが三脚の上に乗っている。その前でスティグリッツは斜め左側を向いてポーズをとっているのであるが、彼の右手には大きなRevolverピストルが握られているのである。これは何かメッセージであって、すなわちピストル言うよりもカメラが強いという意味なのかなと思ったが、その意味は未だにわからない。それでこういう集合写真の時の100数十年前の面白い社会現象と言って良いのであるが、1番後ろの列の左側の男性がしっかりクラシックなタイプのポーズをとっているのが注目される。当時のポートレートスタジオでは、このようにそれぞれ自分の好きなポーズをとったわけであるが、集合写真と言うシチュエーションの中でポーズをとってしまうと言うのは非常に不思議である。この新生写真生とは最後列の左の男性がポーズをとっているから、それはそれなりに変なのであるが、もっと変なのは1890年代に撮影されたウィーンのジェントルマンの記念写真で30人ぐらいの人々が写っているのであるが、その30人が全て自分の好き勝手なポーズをしているのである。これなどはビックジョークになっていて、今見るとなかなか鑑賞する価値がある。2023/11/01 06:36:1652.名無CCDさん@画素いっぱいNbnoQ今でもインターネットが禁止されたりして、情報の寸断と言うのは世界中で起こっているけれども、この頃はインターネットなどなかったから、電信や電話であるいはテレックスで連絡を取ると言うのが普通だった。でも、戒厳令の下でそれができなくなると、ワルシャワから夜行列車で、ウィーンの南駅に到着する急行ショパンというのがあるけれども、早朝にその列車が到着すると、多くのTVクルーとかジャーナリストが到着した列車に駆け寄って乗ってきた人から、情報を聞くと言う極めてルネッサンス的な情報伝達がそこで行われていたのである。私は今はもう廃刊になった週刊朝日の取材で出かけたのである。戒厳令が解除になった翌日の夕方の飛行機でワルシャワに飛んだのである。飛行機の後半分は薬品等の救援物資でいっぱいであって、米半分はジャーナリストでオーバーロードと言う感じだった。それで5 6日ワルシャワに滞在していろいろオリンパスワイドで撮影をしてウィーンに戻ると言う時に、私は空港であげられたのである。50数本の撮影のフィルムを私はツーリストだと言い張ったらポリスが言うにはツーリストが数日間でこんなにたくさんフイルムを撮影するわけがないと言う。それはそうだよね。それで隙を見て、私が5本位のフィルムをポケットに入れてウィーンに戻ってきた。安くない取材費用をもらっているのだから、帰国するときに空港で全部取られました。では済まないわけだ。地元で知り合った私世代の親父に中古カメラ屋に案内してもらった。その中古カメラのソ連製のカメラの列の中で光り輝いていたのがポーランド製のこのカメラスタートである。同じ名前でスタートと言うソ連製の35ミリ一眼レフがあるが、そういうのに比べるとこのカメラのスタートは革命的精神に溢れている。この種類のカメラは世界中に何千といろいろな種類があると思うが、このスタートカメラは遠くから見ただけで一瞬でこれがそのカメラであると言うことを認識することができた。デザイン上すごいと言うよりも、デザインがカメラの存在感の背骨になっているのである。2023/11/02 06:12:0753.名無CCDさん@画素いっぱいFy9KOJTBのアサインメントは9月の終わりにサンクトペテルブルグとモスクワに取材に行った。しかし実際にその企画が登場するのは、翌年の5月なのである。旅行雑誌ではよくあることだ。9月の終わりのロシアは完全な冬の初めであって、かなり寒いし、紅葉が綺麗なのである。と言っても赤い紅葉ではなく黄色い紅葉である。でもそういうのは撮影しても使わないので、なるべく風景では残っている深緑に見立てた緑の葉っぱを撮影した。エカテリンブルグ宮殿のツーリストの人気の琥珀の部屋も撮影した。同行の編集者さんに聞いたら、その撮影料が10,000ドルであると言う。つまり、私のギャラよりも、琥珀の部屋の撮影料が高い。ロシア側の言い分によれば、ちょっと前にNHKが取材に来たから、その値段が定価であると言う。なるほどね。NHKに対してJTBもプライドがあるからな。それでも10,000ドル支払ったのだから、琥珀の部屋は普段は接近禁止のための綱が貼ってあるんだけど、それを全部取り払って撮影の間中は一般のツーリストさんは入れないと言うVIP待遇であった。それで持参したのはこのデジタルカメラであった。大変なお金がかかっているから失敗はできないので、同じカメラを二台持っていったが、結局撮影に使ったのが1台だけだった。旅行雑誌関係の取材が面白いのは、私が普段撮影などをすることのない極々当たり前のツーリストスポットに行くことがある。有名な大きな川に架かる橋があって、大きな船が通るときはその橋が開くのである。時間を調べて撮影に行ったが、これが午前1時30分と言うので、真冬の寒さであるからこれが辛かった。レニングラードで有名なのはレニングラードと言う名前のソ連製の35ミリレンジファインダカメラである。レニングラードカメラのレニングラードへの里帰りと言うことでカメラを1台持っていって内緒で撮影してそれはカメラ雑誌の連載に使った。もちろん内緒でやりました。レニングラードの劇場の有名な女性のディレクターにインタビューした。その人の経歴が面白くて、もともとは劇場のお掃除の係りの人であったのがある時、演劇のエキストラの数が足りなくて、急遽舞台に登って、そこからいろいろな可能性が芽生えて今では演出監督になっていると言う話が面白かった。日本よりロシアの方がそういう意味で生き生きしている。2023/11/03 13:41:5354.名無CCDさん@画素いっぱいYndrsこのシャッターがボルケーノのイラストレーションになっているところは葛飾区のどこかであった記憶があるが、通りがかりが印象的だったので、それをポケットに入った型遅れのiPhoneで撮影したのである。オンラインで使う画像と言うのは、型遅れのスマートフォンで充分であると言うことを10年前から書き散らしているけれども、まさにその通りだと思う。ボルケーノの上を飛んだ記憶で、最も鮮烈なのは日本最大のボルケーノマウントフジの上を飛行したことだ。実にリアルな連続的にボルケーノのポイントオブビューが変わっていくので感動した。もう一つの体験は初めてシシリー島に行った時、方向がナポリを目指していたので、ストロンボリの火山が見えるのではないかと、飛行機の窓から視神経凝らしていたら、それらしい明かりが見えたのである。ところがそれは火山の噴火ではなくて、その日が、シチリア島の何かのお祭りの日で、夜に上がった花火であった。ストロンボリの噴火を見るよりも、そちらの方がオポチュニティーであったと思われる。しかも着陸する飛行機の中から花火を目の下にみるというのは、私の人生で、唯一の体験だったその他に火山の上を飛行したと言うのは、阿蘇山とか桜島がある位のものだ。それにしても、お店のシャッターのイラストのデザインをボルケーノにすると言うのはかなりレベルが高いと思う。しかもお店の名前とか一切書き入れていないのがアートとしてのハイクラスを保っていると思う。2023/11/06 06:59:0355.名無CCDさん@画素いっぱいHVsAhヨーロッパの古い図書館みたいに広いリビングの上のほうにぐるりと渡り廊下が取り巻いている。高さは3メーター位だと思うが、そこの上に登るとかなり高い感があって足元がムズムズする。その渡り廊下の北側のほうに小さな茶室がある。この写真で見る右側の小さな窓がそれにあたる。ところがその回廊の手前にブリッジがあってそれがはね上げられるようになっている。そのブリッジをまっすぐにしないと渡り廊下の彼方側に渡れないのであるが、ここがエキセントリックで1番足元がゾクゾクするところだ。ニラハウスで茶室がついていると言うところがなかなか売りなのだと感染した。この画像は最近撮影されたFacebookの友達のものであるが、随分様子が変わってしまった。普通の古びた正倉院みたいな感じになってしまったのが、逆に商業無常という感じがして、すばらしいと思う。赤瀬川さんが亡くなったのが確か2017年の春先の雨の激しい日で、その時千葉県美術館で赤瀬川さんの個展が開催された初日であった。だからオープニングレセプションはそのまま赤瀬川さんの追悼のようになってしまったのも意外と本人の意思でそうなったのではないかと考えてしまった。十数年前のことを片岡義男さんとお付き合いがあって、2人で東京の北の方をウロウロ撮影していたことがある。その時の片岡さんの話では、片岡さんは玉川学園の豪邸にお住まいなのであるが、駅の近くの蕎麦屋さんで赤瀬川夫妻を見たと言うのである。赤瀬川さんの方からは同じ町内であるのにもかかわらず、片岡さんの目撃情報などを聞いた事は無い。お互いに知らない間ではなかったと思うけれど、そこら辺がちょっと気になる。もう一つ意外だったのは、漫画家のつげさんが赤瀬川さんが亡くなった第一報をあちこちに連絡していることである。赤瀬川さんとつげさんがよく行き来があったと言うことを私はついぞ知らなかった。1980年代には玉川団地で、近くだったから、いろいろな話をする機会があったのだが、赤瀬川さんの話は1度も出なかった。もっとも冷静に考えてみれば、彼とはずっとカメラの話をしていたから、カメラが欲しいの著者の話題は出なかったとしても不思議ではない。2023/11/08 06:50:4156.名無CCDさん@画素いっぱいcrDB635ミリフィルムカメラが一眼レフになってから便利になったわけだが、それ以前は35ミリレンジファインダでクローズアップとか超望遠レンズの撮影のときにはこういう一眼レフ装置をレンズとレンジファインダカメラの間に挟んで使ったものであった。それでこれが小村が作った。ペンタボックスと言うレアなアクセサリーである。このメーカーの総合カタログで見た事はあるが、これだけいろいろなカメラとかレンズとかアクセサリーを見ているにもかかわらず、ネットオークションで初めて見たので入札してみた。全く人気のないアクセサリーなのであるし、それ以上にその存在を知ったのは初めてのことなのであるが、世の中にはコレクターと言う私のような面倒な人種がいるから、ネットオークションでは戦いになった。とはいっても、そんな高くなくて2000円台であったと思う。ライカがエム型ボディーのために作っていた一眼レフ装置がVisoフレックスであって、これは当時日本の輸入代理店で本体だけが100,000円位したのである。だからその当時に作られた5匹の同じようなアクセサリーは100,000円の本場のライカのアクセサリーに対して、その4分の1位であれば売れるであろうと言うことで23,000円位の値段が付いている。それであまり売れなかったらしい。その頃の小村のカタログを見ると、他の交換レンズ等はその当時の高級レンズメーカーのものに比べてかなり安いのであるが、小村ペンタボックスだけレンズの価格と比べると随分割高なような感じがする。それでこのペンタボックスの設定価格と言うのは、当時競合他社がなかった。ライカの一眼レフアクセサリVisoフレックスに対して設定した4分の1の価格であるということが確認されたのである。2023/11/10 06:32:2457.名無CCDさん@画素いっぱい2hyT5世界中の有名人で、私が実際に見た人は、1977年頃だったかウィーンでアメリカとソ連のトップ会談が行われて、その時にソ連のレオニードブレジネフが来たのである。当時はセキュリティーと言う概念がなかったから、列をなしている我々の目の前をブレジネフは歩いて行った。距離からすると3メーター位なのだから。これはすごいことだ。スティーブ・ジョブズが最初に自分で作った新しい会社のネクストコンピューターを私はずっと使っていて、15年位前までは歴史的なコンピューターであると言うので、写真を撮影するときにどっかの雑誌の編集部が私のブラックネクストを借りに来たこともあった。しかし、それがもうなくなって、十数年。ハノイの下町を歩いている時に、赤い政治的なスローガンの横断幕の上に、モノクロームのスティーブ・ジョブズの肖像画があって、非常に強烈な独裁者の印象をそこに持ったのは赤い横断幕のコントラストもあったのかもしれない。独裁者と言うレベルから考えてみると、そのレベルはホーチミンよりもジョブスの方が世界的レベルだから、はるかに独裁者と言うにはぴったりである。ハノイのSteve Jobsを見る3週間ほど前に私はニューヨークにいて、これはスティーブ・ジョブズが亡くなる数カ月の前の話になるのだが、イーストサイドでこれと全く同じ肖像画を見たのである。その時は別に有名な企業のトップと言うだけであって、独裁者と言う雰囲気は全然感じなかった。アップルの業績が最悪だったときに、私はアップルの株を1ドルで手に入れたのである。ただし1ドル株主と言うことだが、ちゃんと真面目にアップルはカリフォルニアから株主総会の時に真面目に分厚い資料を送ってきてくれた。今昔物語だね。2023/11/12 07:54:4858.名無CCDさん@画素いっぱいF02Tgこういうかなり趣味的な本がよく毎日新聞と言う大手出版社が出してくれたと思うのであるが、20年前の話であるから、時代が現在とはちょっと違うと言う事は考えに入れておかなければならない。それで、この本のプライスが3800円と同時としても、結構高価であったのだけど、案の定なかなか売れなくて、1部は裁断されて処分されたのだそうである。私は自分の出版した本を自分で持たないので、何かのプレゼンテーションの時に必要になって、日本の古本屋で探したのであるが、倍近い値段になっていたのでびっくりした。しかし、資料として手に入れないわけにはいかないので買ったのであった。それでイントロダクションの数行なのであるが、私がこの本を書いたのはある。有名な写真家が写真の表現が何が大事だと言ったら自分の腕であるカメラ等は関係ないと言ったのに対して、私はかなり反発していて、それを否定するような本を書こうとしたのが、最初の犯行の動機であったことがわかる。要するに、1960年代から2000年に至る。40年間の自分が使っていたカメラとレンズの話なのである。面白いのはその中にはデジタルカメラが1台も入っていないと言うことで、デジタルカメラが実際に実用化されるのは、2000年と言うポイントが過ぎてからであったことがわかる。左ページの下のほうに朝日新聞の出版写真部の私の友人おが撮影してくれたショットがあるが、これは銀座で偶然に出会った時に撮ってもらったものなのである。それでみると、私が使っているのはニコンS3なのであるが、これは尊敬する写真家ウィリアム位の影響を受けていることがわかる。2023/11/14 20:57:1059.名無CCDさん@画素いっぱい2kXE1その伝統と言うのはライカを使っていた。アンリカルティエブレッソンがブラック仕上げの見えないライカを使っていたから、とても自然な決定的瞬間が撮影できたと言うライカ神話が存在したからである。しかし、これもカメラ神話のうちの1つであって、戦前の時代にブレッソンが使っていたライカはブラック仕上げであったから、そのブラック仕上げが撮影に有利であると言う論理的な理由は成り立たない。1932年にライカはクローム仕上げを初めて登場させたのであるが、それまではライカはブラック仕上げが普通であったからだ。数年前、パリのポンピドーセンターで見たブレッソンの大きな展覧会に登場した彼の若かった頃のポートレートは、戦前のバルナックライカのブラック仕上げなのである。キャノンオリジナルのブラック仕上げのカメラボディーをよく見ると、ネックストラップアイレットまでブラック仕上げになっているばかりか、そこについているリングまでブラック仕上げなのである。非常に真面目に作られたブラック仕上げカメラと言う訳だが、果たしてそれまでやる必要があったのかな?その当時のキャノンのスポンサーで、友人スミスがこれと同じモデルを使っていたのであるが、マンハッタンに街角に潜んで社会の悪事を発見してやると言うような怖い表情の友人スミスであった。友人スミスが悪いのではなくて、本格的な報道写真家は、社会の矛盾を暴き出すというのが、そういうことが当時写真で求められていて、それが報道写真のイリュージョンというわけであった。2023/11/16 11:05:4860.名無CCDさん@画素いっぱい8js07ストリートミュージシャンとかストリートパフォーマンスと言うものを私は取る事は無い。そういう普通の通行人とか観光客の興味を引くようなものは最初から私のスナップショットの興味の外にある。この写真はwinのシュテファン大聖堂の前で撮影したものだが奥のほうに小さくストリートミュージシャンが写っていて手前左側には男性の背中が大きく写っている。この距離感からするとおそらくライカカメラに20ミリか21ミリのレンズで撮影したと思われる。その撮影の動機は明らかではないがシャッターを押したからその映像がここに残っているわけだ。写真をセレクトするときの意識と言うのは極めて無意識と意識の境を揺れ動いているものなので言葉にならないセレクションとでも言える状況がある。それでそのほとんど無意識の状況で私はこの写真をセレクトしたのであるがだからなぜこの写真なのかと言う事は説明ができない。そこら辺の写真の本質なのである。それ故今までいろいろなことをコンテストの審査を世界中のあちこちでやったことがあるが1つの写真に対してこの写真が優れているとかたくさんの写真からこれこそ1番と言うような選び方をするのは本来不可能なのである。フォトコンテストの審査と言うのは他に何千もある絵画にしろ文章にしろ彫刻にしろ同じだが本来不可能なものを無理矢理交通整理をつけて1番地とか2番地とかつけているのに等しい。その意味ではサルトルがノーベル賞を拒否したと言うのは非常に背景が深い正しい見方だと思う。佐藤栄作あたりもノーベル賞を拒否したりしたら名前が上がったのに残念だねピーピー大竹明子さんはなかなか優れた文章がであるがこれはときの忘れ物と言うギャラリーで連載したいせいだと思う。それでギャラリーバウハウスで数年前に大竹さんが来てくれてこの写真を指名してそれがオンラインのエッセイになってそれから数年経ったら本にまとまると言うことで最終的には36の写真家の仕事が大竹さんの本には掲載されている。36人の写真家の仕事と言うのでこれはライカの36枚撮りと同じですねと大竹さんにメールしたら表紙の写真が何か立派な建物のイラストでその窓の数が36あるのだそうだ。なるほどそういう背景があるのか2023/11/19 05:29:2161.名無CCDさん@画素いっぱいanNL2オンラインであっちこっち見ていたら、このビデオパッケージが登場した。ライカの私のストーリーなんだけれど発売が1998年だった。それで非常にびっくりしたことがあるんだけど、これってCDではなくて、それ以前のビデオテープなんだね。VHSのビデオデッキはとっくの昔にどっかに行ってしまったから、仮にこういうものが手元にあってもそれを見ることができない。それから数年経過して、CDの時代になって作ったのが坂崎さんなどと一緒に制作した。ライカカメラに関するプログラムだった。赤瀬川さんにも登場していただいた。一緒に仕事をさせていただいたプロダクションは、ご覧のようにライカエムモデルとバルナックライカを2つ並べて販売の向上を目指すと言うものであったらしい。クラシックなバルナックライカが葛飾区立石で撮影してモダンなエムモデルは、当時流行し始めた代官山ヒルズで撮影をした。いずれにしても、四半世紀前の話で、今思い出して面白いのは代官山界隈には全く興味がないから、1度も行ったことがなかった。なぜああいうところに当時の若い連中がゴキブリみたいに集結するのかも不可解であった。代官山とは言うけれど、やたら高低差のあるところでたくさん坂道と谷があった。そのライカイズムのエム型のモデルで私がよく覚えているセクションは、撮影が非常に風の強い日で、お店の前に置いてある看板が何メーターも遠くに吹き流されて、撮影中に、私がそれを手で転がしてもともとのポジションに戻すところがなかなかシネマヴェリテいてよかった。ドキュメンタリー映画ですね。撮影中にびっくりしたのは、代官山のそれっぽいお店の前で撮影していたら、中から店員さんが血相変えて飛び出してきて店の前で取るなというのである。店員さんの意地悪と言うことではなくて、お店のマニュアルにそのように書かれているのである。イタリアのミラノで名前は忘れたけど、何とか言う日本でよく知られているイタリアンブランドのお店の反対側のかなり離れた距離から何となくそのお店にカメラを向けたら店員さんが血相変えて走り出てきて私に撮影するなと文句を言ってきた。怪しい日本人が知的財産であるお店の情報を盗撮していると思ったのであろう。人から聞いたが、実際にそのような盗撮が昔は普通にあって、ヨーロッパのファッションブランドのウインドウを深夜に撮影して回るビジネスがあったそうだ。2023/11/20 06:29:2662.名無CCDさん@画素いっぱいZ1Ma3リスボンに最初に行ったのは、1980年の秋のことであった。街中をくまなく歩きまわって発見したのがこの1908年と言う表示のあるタイルで作られた美しい看板である。ポルトガル語が分からないので、何の看板であるのかわからないのであるが、その方が看板の存在感を正しく理解できると言うところもある。最初のリスボン訪問から43年が経過して痛感するのは有名な建物、例えばくちばしの家などがポルトガルのノーベル文学賞作家のミュージアムになってしまったりする。このストリートを歩いている男性の雰囲気がフェルナンドペソアに似ていると気がついたのが1990年代のことである。それまでペソアは日本で翻訳がされていなかったので、私は知らなかった。1990年にリスボンの本屋さんで、ペソアが描いた1920年代のリスボンのツーリストガイドというのがあって、これは英語とポルトガル語の対訳なのである。ポルトガル語の勉強になると思ってその本を買った。面白かったのはフェルナンドペソアの記録した1920年代のリスボン案内は、1990年代でもちゃんと使えたことだ。その後リスボンは私の大嫌いなエキスポやってしまったので、10年近く訪問する事はなかった。1908年の記述のある看板を見て、1980年に私の感じた印象と言うのはそんなに昔の事ではないなと言うことだった。今見ると前の世紀の初めのことだから、大昔に感じるのが面白い。2023/11/22 12:07:2063.名無CCDさん@画素いっぱいF0Ie7たくさんの大昔のアルバム捨てたのであるが、家人が指摘した面白い写真だけiPhoneで複写しておいた。アルバムそのものは捨てたのである。この場合、画像情報重要になってくる。自分の作品としてのヴィンテージプリントは捨てる事はないが、情報としての過去の写真は画像情報が重要。なので、プリントそのものはしていても何の問題もないというのが私の考えである。日本カメラで三部作で出た名機礼賛と言うカメラエッセイがある。そのトップの文章の1部で、卒業旅行のほこりっぽい記念写真の撮影の憂鬱のことを書いているのだが、それはこの卒業旅行の記念写真の記憶なのである。卒業旅行の先生方が持ってきたカメラは私の持っていたニコンエフよりも前の世代がほとんどであるから、キャノンの高級レンジファインダーであったりするのも面白い。私の前の列に座っているのが梅田先生と言う理科の先生だった。いろいろ教えていただいた私が今写真家になったのはこの先生のおかげかもしれない。文京7中と言う学校は、とっくの昔に消滅している。2023/11/23 13:09:3664.名無CCDさん@画素いっぱい2CJoI家人の話ウクライナ出身のお相撲さんで頭角を現している人で、14歳の時に相撲取りになりたいと決心したそうである。インタビュアーがどうやってそんなに日本語が上手くなったのですか?と言うと、その若い人の答えが良い。まぁ、生活の中でこの言葉は非常にリアリティーがあるし、本当に日本語が上手くないと使えないフレーズだと思う。14歳位でゼリンスキの手下となってロシアをぶっ潰すなると言ってる奴は最初から信用できない。生活の中で言葉を覚えると言うのは重要だと思う。家人の場合はドイツリードの専門家であるから、今ではそういう古いドイツ語を使っているのはウィーンの劇場位なものである。それはちゃんとしたウィーンの音楽大学の教育の結果としてそういう成績を得たのであって、それで卒業証書をもらえたと言うわけだ。私のドイツ語はかなりいい加減で、それは生活の中で覚えたのである。すなわち、winのワイン酒場などでネイティブなナポレオン3世時代以来の鈍ったドイツ語を勉強したのだ。だから私のドイツ語の訛りはあちらの人間が聞くとネイティブスピーカーではないかと思われる勘違いがあるのだが、実際には九官鳥が話しているのと同じである。それでもオーストリア第一放送の文化番組で、彼らが日本に取材に来たときに文化っぽい話を20分間で3本収録してそれが放映されたそうである。私はそれを見ていないが、ウィーンの友人に聞いたら、一応意味はわかって滑稽であったそうだ。日本で外人タレントさんが関西弁しゃべるようなもんなのだろう。それで話は1976年に戻るが、写真展の準備で日本に行った時、何しろ戦後最初のヨーロッパでの日本人の写真展であるから、東松さんもIKKOさんも篠山さんも森山さんも天才荒木も何しろ外人が来たのだから、それなりに緊張したらしい。ところがその偉い外人のディレクターさんが、大切な打ち合わせの時にメモを書き込むのに取り出したのが子供のおもちゃの金魚のメモ用紙なのである。表紙がかわいい赤い金魚なのだ。普通の日本の常識からすると、これはかなりディレクターを馬鹿にしたことになって印象は悪かったらしい。それに同行しているのが田中長徳と言う長髪で目のつり上がった変な奴である。私の初対面をピアニストの山下洋輔さんは天才と紙一重の気違いピアニスト何とかと風貌が似ていると書いているが、私は初対面で相手を警戒させる風貌なのだ。2023/11/25 12:01:0365.名無CCDさん@画素いっぱいFxade最近はそういう事はなくなったけれど、以前は日本放送協会からテレビの出演でお声がかかったりした。クラシックカメラブームで大塚寧々さんと私で90分ほど話をしたことがあった。スタジオ入りする前にそういうしきたりになっているらしいが、メイキャップルームで髪をとかしてくれたり、スタッフの人がやってくれているときに、いきなりNHKの徳田アナウンサーが入ってきた。私のカメラ本の読者であると言うので恐縮した。徳田さんはそれから数年後に私が佃島を歩いていたら、いきなりメルセデスベンツが止まって、そこから徳田さんが降りてきた。それで車の中に向かってままと呼んでいるので、徳田さんの母上がいらっしゃるのかと思ったら、奥様のことであった。恐縮。9年ぐらい前の話だが、家人がいつも聞いている。ラジオ深夜便にテキストというのがあって、そこで雑文を頼まれたのである。坂崎幸之助さんとの中古カメラの出会いなどをわかりやすく書いたのである。それでそのテキストが出たときに、家の人がびっくりしたのは、こういう名前の並べ方を広告でしてくれたのだ。家人は、先生みたいなタイプなので、すぐ赤いマーカーで、アンダーラインを引いたりするのである。それでラジオ深夜便のテキストに名前が広告で出る位であるから、これは出演依頼がいつあってもいいようにと言うので、喉の調子を整えて待機していたのであるが、1年経ち2年経ち3年経ち5年経ち10年経過してついに出演依頼は来なかった。NHKの出演料は安いからそれに期待しているわけではない。ディレクターの代替わりがあったと言う以外にちょっと考えつかない。2023/11/28 06:05:1566.名無CCDさん@画素いっぱいzq394友人スミスは日立に来る前の話だけど、マンハッタンの6番街のミッドタウンにスタジオがあった。そこで有名なシリーズで、私が惹かれるのはこの窓から撮影した1連のニューヨーカーの姿であるアンドレ・ケルテスも似たような仕事をしていて、彼の場合は5番街の1番地でかなり上の方だと思うが、そこから35ミリ一眼レフに300ミリでマンハッタンの四季折々と人物を撮影していた。このショットはまだスミスが30代後半の頃だと思う。同じ時期にニューヨークにいた。三木淳がおそらく6番街で撮影をしている。友人スミスを撮影したショットがある。スミスはライカM3に50ミリの頭ミクロンがついていた。このショットで面白いのは、スミスは撮影の時にたくさんのカメラを持ち歩くのと同じようにたくさんのカメラがデスクの上に置いてある。でもこの写真で観察する限りではまだ彼のトレードマークであった。グリップがついていない。それで細かくカメラを観察すると真ん中にライカM3があって、その周りに置かれているカメラはキャノンのレンジファインダ。それと1つ一眼レフが見えるが、ちょっと醜いけど、これはコンタックスエスではないかと思う。同じ時期より数年古い撮影で、まだ若さの残るスミスが気にしているのがコンタックス。アンジェニュー135ミリであったのだ。これはまだ日本製の一眼レフとか交換レンズがアメリカに伝来する以前の話なのである。それでポイントなのはスミスの後ろのほうにレフレックスボックスの付いたキャノン400ミリ、ef 4.5が三脚の上に乗っていることだ。ダブルのケーブルレリーズが付いているのもセオリーである。そしてそのレンズが破れたブラインドから外を見ていると言うところが、実にリアルで面白い。私が住んでいたタイムズスクエアのそばのボロホテルもそうであって、ブラインド等はホテルができてから1度も交換されていないのではないかと思うほど穴だらけだったので、そこから望遠レンズでタイムズスクエアあたりを撮影したり要するに、ここにはトップフォトグラファーのリアルな生態系がそのまま写っている。この写真を見て同じ400ミリのキャノンレンズを買いに行ったことがあった。しかし、この時代の400ミリ+レフボックスはペンタプリズムでなってはいないから、このように俯瞰のアングルでは椅子に上らないとピントも構図も取れないと言う面倒なことになっている。2023/11/30 04:17:5667.名無CCDさん@画素いっぱいgaEYqしのばず通りの通りから、ちょっと奥に入った愛染川の安居みたいなところだった。オーナーは、高野さんと言う人で永井荷風にそっくりなご主人がやっていて、建物は戦後に立ったと言う話だが、戦前の建物のように見える。この経営者と話をしてみたら、それ以前に1960年代には神田の今川小路で六文銭と言うお店をやっていた。なくなった。写真家の須田さんとよく言ったものだ。お店が閉まると、高野さんは、夏なら白いスーツに着替えて私を連れて向島あたりに飲みに行くのである。そういう趣味の人であった。点と線がつながったわけである。30代であるから、その当時はニューヨークから帰ってきて、板橋の奥のほうに住んでいたが、驚いたことに1日100キロぐらい自転車で走るのが普通だった。それで飲んでそのまま深夜に板橋の奥のほうまで自転車で帰っても平気なのである。ビデオカメラで定期的にお店の様子を撮影している私であった。ある時お客さんで山海塾の人が来た。ところが、オーナーの高野さんは山海塾を知らなくて、そこら辺の学習塾だと思っているのもいい感じだった。俳優のネズの甚八さんと飲んだこともあったな。お店はいかにもこのように戦前の建築物に見えるが、実際には戦後に建築されたそうである。ニューヨークタイムスに紹介されたりもして、その小さな切り抜きがカウンターの右の突き当たりに貼ってあった。そのオーナーが亡くなって10年ぐらいはそのままになっていたが、ある時前を通ったら、大工さんが入って開店の準備をしている。しばらくして新しいオーナーで以前のようにお店が開いた。それでまた通うようになった。最後にこのお店に行ったのは、ちょうど7年前の東京芸大でロバートフランクのエキシビジョンがあった時だった。この画像はその時のムービーから切り出したものだが、いかにもお店の雰囲気が出ている。3年ほど前に懐かしいので、界隈を歩いていたら、すでに更地になっていた。お店のランドマークである日本の樹木だけが残っていた。それから半年後に行ったら、その人も久もバッサリ切り倒されていた。ニューヨークのウスターストリートで、フルクサス運動のマチューナスが植えた木が大木になってその後切り株になってしまったのを、映画監督のジョナスめかすが追悼している光景を思い出した。というのもジョナスめかすが着ている青い上着を私も着ていたから。2023/12/02 13:42:5268.名無CCDさん@画素いっぱいnyluj1973年から2017年にわたるオーストリアウィーンとプラハの生活で1番よく使って、レンズはこのソ連製のレフレックスレンズであると思う。その歴史はかなり古くて1973年にこのレンズについているコンタックス一眼レフカメラをwinで手に入れた直後に蚤の市か、どこかで500ミリのリフレックスレンズを手に入れた。頑丈な木製の箱に入っていて、いかにも光学兵器と言う感じだった。500ミリレンズは屈折式だと巨大であるから、しかもレンズが長いので、いつも持ち歩くわけにはいかない。その意味でレフレックスレンズが非常に使いやすいレンズである。ボケの描写が悪いなどと言う人がいるが、あれは実際に写真を撮影していない人間の言う戯言である。ウィーンの教会のトップに付いているタワーをたくさん撮影して、その当時のキャノンサークルと言うカメラメーカーの雑誌に発表したことがある。キャノンのレンズではないけれども、別にそういうことを文句言うようなレベルの低いカメラメーカーでなかったと言うのはありがたいことだ。500ミリレンズでの撮影と言うのはそれなりに修行の要ることでそこら辺の修行は3年ほどやっているうちにほぼ自分で見て完璧と言える位になった。人間に向上心は禁物であるが、私も30代であったからすぐ向上心を発揮して、その上の反射望遠レンズで1000ミリと言うのを手に入れたが、これはかなり大きい。いつも携帯するには大きすぎるサイズと重さなのである。この1000ミリレンズもそれなりにトレーニングして使えるようになったが、いつも持ち歩いてモチーフを発見して撮影をすると言うには1000ミリレンズは長すぎるのだ。有名なファッション写真家の吉田Taiho さんなどは、いつも1200ミリのレンズをアシスタントさんに持たせて、いきなりおい1200とやるそうだが、これは大写真家でないとなかなかできないパフォーマンスだと思う日本のカメラ雑誌にこのソ連製の反射望遠レンズが作品として発表されたのは1950年代の終わりだった。どこかのレーシングカメラマンが500ミリと1000ミリのレンズを使って良い仕事をしていた。ところがその頃このレンズは知られていなかったので、その翻訳が結構おかしくて500ミリと1000ミリの反射傘と訳されていた。2023/12/03 14:37:2069.名無CCDさん@画素いっぱいX7Z9D初期の一眼レフの高級モデルは、ミラーアップというのが非常に重要であった。ニコンエフの場合はミラーボックスの右側にこのようなスイッチが付いている。これを使うとフイルムがワンショット無駄になってしまうのである。そのフィルムの無駄と言うのを防止するために、その当時の1部のアメリカ向けのニコンエフは自由にミラーアップとリターンを切り替えることができるようになっていた。アメリカ市場も意外とめんどくさいことをリクエストしてくるものだ。私は土門拳と同じ時代のトライXのユーザである。100フィートが3500円した。フィルムがもったいないので、ミラーアップの2.1センチのレンズをつける時に色々とひとこまフィルムを無駄にしないための研究をしたのである。これが高校生の時の話であるそこで私が発見した裏技の裏技の方法論と言うのは、指で軽くシャッターを叩いてやるのである。するとミラーアップの最初のアクションだけが作動してミラーが上がるから、そこで2.1センチのレンズを装着すればよい。この方法だとフイルムをひとこまも無駄にしない。もっとも当時の私は四六時中2.1センチのレンズをつけていたからだから別にどうということもない。思い出して60年ぶりに、この私独自のミラーアップの方法やってみたら、完璧に作動した。こういうのは高校生の時の運動神経が残っているのだな。2023/12/04 20:17:4970.名無CCDさん@画素いっぱいPzUi9家がwinで暮らすようになってから、数年後に日本からピアニスト志望の音大生がやってきた。彼女はピアニスト志望だから自分でピアノをゲットしなければならなくて、親が送ってきた。ピアノ代というのがその時代の数百10,000円である。ある日、家人と私がそのピアノ志望の女性のアパートメントに遊びに行っていた時に、現金を郵便局で配達する配達員の人が来て、我々の目の前で現地通貨で大変な量の最高額の紙幣を積み上げたので、そんな現金見たことないからびっくりした。それでそのピアノ志望の女性はしたい上のグランドピアノを買ったのである。我々サイドの声楽家と言う観点からすると、ピアニストが好む。スタインウェイよりもwinの郊外で作られている。ベーゼンドルファーの方が好みと言うので、そこら辺ははっきり分かれてくる。ここから先が3粒台本、書きには書けない。真実のストーリーの不思議なところなのであるが、そのピアニスト志望の女子学生はかわいそうなことに顔で早くなくなってしまった。それで何が言いたいかと言うと、その死体ウェイのピアノ買ったピアノ屋の経営者の若い人と恋仲になったのである。この若いピアニスト、脂肪の日本人女性がなくなったと仲間内でよく話題になったのは彼女は死んじゃったけど、彼女にピアノを販売したピアノ家の息子さんはあのピアノお金ちゃんと返したのかな?あるいは買い取ったのかななどと身近のゴシップの話題が沸騰したものであった。それから何十年か経過して、私はエグゼクティブマガジンの取材で世界でも12を争う。ピアノメーカーである。ウィーン郊外で制作されている。ベーゼンドルファーを取材に行って社長にインタビューしたことがある。それでいろいろな家は話を聞いたのが面白かった。ベーゼンドルファーの会社はその時点でアメリカのピアノメーカーキンボールに買収されていた。それでラインナップを見せてもらって、私はベーゼンドルファーのフルコンサートのピアノは欲しくないけれども、ベーゼンドルファーで作られたアップライトピアノが欲しいと思った。ヤマシタ洋介さんだって家で演奏しているときはアップライトピアノなのである。こっちの方がジャズを感じるからな。2023/12/07 05:42:1171.名無CCDさん@画素いっぱいO4LHSメッテルニヒの館のエントランスの壁には、建物の全部を占有するだまし絵があって、そこはその図柄はウィーン郊外の並木道をもしているのである。当時のロケーションの感覚は街のど真ん中と言う認識があったから、カントリーをだまし絵として作りたかったので。ウィーン第3区の私が住んでいたアパートメントは1階下にヨーゼフホフマンが彼の死ぬ時まで暮らしていたゴージャスなアパートメントである。螺旋階段の空間を利用して、後の時代に作られたエレベーターが設置されていたが、これが面白い構造でコインで100円位を投入すると、そのエレベーターは上方向にだけ客を運ぶのである。下の方向には運行しないと言うシステムになっていて、ユーザは所定のフロアまで行ってドアを閉めるとそのまますぐにベースメントに降りるような構造になる。それで200年位前に作られた建物はそれで良いのだが、例えばモーツァルトが住んでいたようなそれよりもさらに古い時代に作られた建物だと螺旋階段のスペースが非常に小さいので、その空いた空間にエレベーターを設置することができない。だから今でもウィーンのステファン大聖堂のすぐ裏にあるモーツアルトが住んだ家と言うのは確か建物の8フロア位だとおもう。けれども、訪問者は急な階段をゼーゼー言いながら上がらなければならない。その螺旋階段の方向なのであるが、この写真でもちょっとわかるように。ヨーロッパの螺旋階段は時計回りに上に上がって行く。ところが私が調べた限りでは日本にある数少ない同じ構造の螺旋階段は反時計回りに上に上がっていくのである。なぜこの違いがあるのか未だにわからない。1970年代に暮らしていたときにはそれぞれの古いアパートメントのエントランスに飾られているきれいなステンドグラスなどを見るのが楽しみだし、写真撮影もずいぶんやった。でも最近ではセキュリティーの観点から全部オートロックになってしまったので、螺旋階段もステンドグラスも、我々歩行者には完全に隔てられたものになってしまった。2023/12/08 04:33:2072.名無CCDさん@画素いっぱいXFbRp国際的な写真家で有名な人と言えば、アンドレ・ケルテスとロバートキャパだ。いずれもハンガリーでは食べることができなかったので、外国に出てきて、そこで花開いた人々である。オーストリアのウィーンと言う所は、かつて大帝国であって、木谷傾向、そして南にハンガリーを従えていたから、今でもウィーンの人間の感覚として、この2つの国の属国であると言うような意識を、無意識のうちに持っているのは滑稽である1985年と言う年に、ウィーンとプラハとブダペストを大周遊して撮影をしたときのワンカットである。ブダペストの中心部の素敵な公園で、えらく立派な彫刻があってその前に座っているジェントルマンを撮影したのは一瞬のことであるが、面白いのが何かと言うと、彫刻のトップに座っている。ジェントルマンと下のベンチに座っている。ジェントルマンが同一人物なのではないかと言うような面白さがあるので撮影した。カメラはプラウベル間生和プロシフトで47ミリの広角レンズが付いているから、ちょうどライカに21ミリの広角レンズをつけたのと、同じ感覚で撮影できるのが素晴らしい。1985年と言うのは非常に面白い劇で、まだ社会主義国の国国が崩壊する前の話なのである。その頃のブタペストと言うのもなかなか忘れることができなくて、物資がないから、街中で買えるかなと言えば、赤いカーネーションのみ。黄色いビキニを買うために長い長い列ができていた。街中のアイスクリームもミルクの量が少ないので、逆にさっぱりしていて美味しかった。このショットを撮影した後に近くの有名なカフェに入って、アイスクリームとSoda Waterを頼んだのだが、そのシンプルな組み合わせを今でも忘れない。2023/12/10 05:42:4173.名無CCDさん@画素いっぱい3yJiQ7年ほど前端がギャラリーバウハウスの写真展のために、ウィーンに撮影に行くときに、かつて私が住んでいたドナウ運河のそばの様子が知りたくて、Googleストリートビューでその界隈を眺めていた。そしてこれが面白いことなのであるが、何かのバグの関係で見慣れたウィーンのストリートがまるで立体が、キュビズムの平面作品のように分解を開始したのである。これは非常に気に入って、それをキャプチャーしたのがこの画面である。日本でも最近キュビズムをテーマにした写真展が開催しているみたいだけど、人間の貧困な頭で考え付いた。キュビズム何と言うのは人間の頭の限界を示しているわけで、コンピューターのバグで生じたキュビズム的分解のほうがよほど素晴らしいと思う。プラハと言う街は、世界でもかなり0月少ないキュービズム的建築物がいくつか残っている。それらが好きで浦賀に行くとよく見て歩いたものである。そればかりか私の著作の中で1968年のソ連の戦車のプラハに侵入してきたときに、私はキュビズム建築に住んでいる労働者であって、その一部始終を見ると言うストーリーを制作したこともあった。人工頭脳が作ったイカサマの風景は、私は好まないが、このようなGoogleストリートビューで事故で制作された風景と言うのは素晴らしいと思う。2023/12/12 00:13:5574.名無CCDさん@画素いっぱいaM3iwブレッソンは我々には「スナップの神様」の認識があるが、かつてて写真界とは無関係な所でブレッソンの評価を聞いたことがある。1974年の巴里の話であるが、巴里在住の日本人声楽家の家に行った時、「昔、画家志望で夢が果たせず写真家になったパリジャンが、往年の夢を復活させるために、巴里でスケッチの個展を開いたけど、たいしたことはなかった」というのである。これはブレッソンの経歴を裏側から透視したわけで、はなはだ面白いと思った。あれからちょうど30年が経過して、ブレッソンを賞賛した「人間礼讃」の写真美学はすでに没し去り、世界は混沌のデジタルの荒海の中に翻弄されているわけだ。30年前に巴里で「下手な絵の個展を開いた」ブレッソンは当時、まだ65歳である。功なり名遂げたブレッソンが「方向転換」をした1974年から彼は30年を生きたわけだ。ブレッソンは写真に撮影されることが嫌いで、ほとんどポートレートが残っていない。この春に出した本「ライカを買う理由」にはそのブレッソンの最後の画像を表紙に使ったのであって、これはどこかに招待された時のスナップであることは、彼がIDカードを下げているので分かった。昨日の朝日の夕刊のロイターが配信した画像も同じものであったことは、昨日の日記で触れた通りである。スナップの神様は、ライカM6に初期モデルのズミクロン50ミリを付けているが、そのレンズには紐でつないだレンズキャップが付いているのが「珍」であった。ブレッソンが死し、ニュートンが死し、かつての「自己の写真世界を哲学の論理の元に整列させる写真家」の時代はすでに過去のものになった。マグナムなどはすでに時代から離脱している。今暁、写真家という職業そのものが「死に瀕している」ことを考えていた。もう生き残りはフランク、クライン、日本ではアラーキーくらいなものであろう。アラーキーの場合は「江戸前の伝統芸能の伝承者」であるから、それで人気があるわけだが、これが欧州に「引っ越し公演」される時の背景の事情には注意しなくてはならない。彼ら(欧米人)はアラーキーを「写真芸術の巨匠」などと認識しているのではない。2023/12/14 06:47:1675.名無CCDさん@画素いっぱいhSYA2その当時の私の愛読書はアサヒカメラ教室であって、南分冊化に分かれていたのであるが、その中で私が尊敬する石元さんが書かれていたスナップショットの基本的な取り方というのがあった。その文章で私はノーファインダーと言う撮影テクニックを初めて知ったのである。ノーファインダーテクニックを知って、1番最初に撮影したのが左のページの上の作例であって、数人のアメリカ軍のベトナムからの帰還女性が銀座を歩いている時に、それを見る日本の男性の視線というのがなかなか意味があって、こういうのはノーファインダーでないと取れないと言うことに気がついたのである。これはライカM2 35ミリレンズで撮影。その下の作例は数寄屋橋公園で待機汚染している。東京だからフレッシュな酸素を吸いましょうと言うので、2袋ようなビジネスは今でも流行っているようだけど、1964年頃のショットがその1連の流行の1番最初だったかもしれない。これはライカに21ミリの撮影であるが、ノーファインダーである。左の列の1番下の作例は、これも銀座4丁目の似顔絵描きである。プラハのカレル橋にも似顔絵描きの人々がたくさんいるが、なかなか商売になるものと見える。これも通りがかりの腰から撮影したノーファインダー撮影で、こういう撮影テクニックはかなり有効に使えると言うことを私は教わったのであった。左の列の1番下の作例は、これも現在4丁目の似顔絵描きである。プラハのカレル橋にも似顔絵描きの人々がたくさんいるが、なかなか商売になるものと見える。これも通りがかりの腰から撮影した脳ファインダー撮影で、こういう撮影テクニックはかなり有効に使えると言うことを私は教わったのであった。右ページは東京カテドラルである。東京カテドラルが建設され始めた。最初のプロセスから完成するまでを私は文京区の実家の音羽の2階から観察し、同時に撮影していたのも今にして思うと面白い。それで完成してから許可を得て教会の外とか内部を撮影していた。外国人と1番最初に英語で会話をしたのも東京カテドラルだった。自分の英語が通じていたときにはドキドキしたね。会話の相手はスウェーデンから来た男性で、最初の私に投げられた英語の質問と言うのはそれはズームレンズですか?と言うのである。タムロンのズームだけどもライカだけではなくて、レンズにも人間と人間を結びつけるコミニケーション能力があるんだ。2023/12/16 00:13:5876.名無CCDさん@画素いっぱいfgBRM1995年にパリとリスボンで撮影した写真が出てきたのでオリジナルヴィンテージプリントと言うことでネットオークションで販売している。売れ行きが良いので梱包材追加注文したほどである。コレクターの皆さんに感謝。、それで1995年に使っていたカメラなのであるがリスボンの見えないカメラ店で買ったライカM2のブラックペイントであった。レンズは自分で持ち歩いているソ連製の50ミリである。リスボンの見えないカメラ店は7年前にリスボンで行った時に既になくなっていた。でもこの店からはずいぶんいろいろなカメラやレンズを購入したのである。購入したブラックペイントのエムツーはオリジナルであって当時150,000円位を支払った。1967年に購入したM2のブラックペイントの新宿ラッキーカメラでの値段が120,000円であったから物価の上昇率からするとまずそんなものではないかと思われる。それが3年前に新宿のカメラのキタムラ写真機店に行った時展示されていた940,000台のブラックベントのM2に5,000,000円の値段がついていた。最近では完全に写真を撮る道具ではなくてインベストメントなんだね。その話をFacebookで書いたら読者の方が書き込みをしてくれてそれは大昔に自分が450,000円で買ったライカM2です。手放さなければよかったと、いうのである。世の中と言うのは結構狭い世界であるというのが面白い。それで手に入れたM2のブラックでパリなどを撮影したのであるがそれがソ連製のジュピター50ミリなのである。あるいはEf. 2.8の50ミリであったかもしれない。前者はゾナーのコピーで後者はテッサーのコピーなのである。それらのプリントをよく見ると別にライカのレンズやツアイスのレンズに比べて描写が劣っているわけではない。レンズはこれらの1000円位で購入したレンズで充分である。アポずミクロンがいいと言っている人は大抵ブランドにしびれているだけで写真のクオリティーに関しては知らない人だな。そういう50ミリのスナップショットの撮影距離を見て、自分でわかることが大抵infinityでとっているのである。アンリカルティエブレッソンの場合は、別にピントが合わせると言う事はなくて、ライカのレンズの5メートルと2.5メートルに赤いマニキュアでドットが盛り上げてあったそうだ自分の場合は、まず5メートルから10メートルにフォーカシングがあっていれば、それ以上やる事は無し。2023/12/17 16:10:5777.名無CCDさん@画素いっぱい7iwzs雑司が谷にある数多くの私が認めるところの、いわゆる文化財の中でなかなかレベルの高い共食い看板がある。共食い看板についてはもう説明する事はないと思うけれども、肉屋さんのお店のエントランスの上のほうにコックさんの帽子をかぶった豚さんがいたりとか、牛さんが自分のステーキをフォークとナイフを持ってこれから食べようとしていると言うようなシュールレアリズムな構図が看板になっているのを、われわれは業界用語で共食い看板と言うのである。ヨーロッパの生活では、肉屋さんに買い物に行くと、ハムでもソーセージでもかなり細かくスライスして売ってくれるのである。それが普通だと思っていたら驚いたことにこの店に行っていわゆるスライスしたソーセージを買おうと思ったらそういうものはないと言う。その理由を聞いてみたら、単純な話で衛生上の問題があると言うことなのだ。だから今日本で我々が手に入れるハムやソーセージの薄切りと言うのは、最初から全部バックに入っている。ところが逆にヨーロッパ人の感覚は逆で切りたての物の方がフレッシュでおいしいと言う認識がある。ここら辺が世界の歴史との意見の違いと言うわけだ。ところで、共食い看板は、時代の進展に連れてどんどんなくなっていくようであるが、これはFacebook友達がこの間撮影してアップしてくれた雑司が谷の共食い看板なのだが、何か看板がきれいになったようでちょっと安心した。東京でバスであちらこちら暴走を利用している私なのであるが、数年前それが東京のどこのディストリクトであるかは既に不明なのであるが、走り去るバスの風景から一瞬見えた光景が、大工さんがこれから肉屋さんのお店の上に共食い看板を設置しようとしている決定的瞬間であった。店の長い歴史のスタートラインのところで、共食い看板が設置される。その瞬間にバスでそのお店の前を通過していくというのはなかなかない偶然性だと思う。決定的瞬間と言うやつだね。2023/12/21 05:39:5678.名無CCDさん@画素いっぱいUJgzDこのカフェのスタートが1947年であるから、私と同じ年代と言うわけだ。winには歴史的なカフェがたくさんあるけれど、その中では最も新しいものの1つである。大体winのカフェは100年は普通であって、200年以上、さらにもっと古いものもある。1973年の5月に初めて行ったから、ずいぶん長いお付き合いになる。その頃オーナーもうまだ若かった。ザルツブルグのワークショップをやっているときに、町の中心部で、オーナーに偶然に会ったのはびっくりした。彼の姿がいつもウィーンの中心の路地裏のカフェで見ると言うのが普通であるから、全く場違いな環境で姿を見たというのが私を混乱させた。オーナーは奥様とご一緒であった。夏の休暇に来ているというのがなかなかレベルが高いなと思った。ウィーンに暮らしをしている人で、夏のバカンスですぐ隣のザルツブルグに行くなどと言うのは、東京から夏の休暇で川崎に行くような感じで、かなりレベルが高いと思う。それでザルツブルグの中心部の最もツーリストが集まっているカフェモーツアルトに3人で行った。オーナーは普通のコーヒーを頼んでいた。奥様のほうはビールを頼んだ。それでサーブされたビールのグラスが私の目から見るときれいに見えるのだが、奥様はポケットからハンカチーフを出してこれを真剣に磨いているのが印象深かった。こういうのをプロ根性と言うのであろう。こーゆー歴史的なカフェの名物と言うのはゲストブックである。また売れなかった頃のウィーンの世界的に有名なアーティストとか、物書きが無名時代に集まっていた。それを70年前のゲストブックで見せてもらうというのは、これはミュージアムの展示よりもレベルが高い。リクエストされて、私もゲストブックの最後のほうにサインをさせてもらった。1976年にヨーロッパを巡回した日本人の写真展のポスターがこのカフェの店内に貼られているのを見て、私は何年間も単にwinで暮らしてぼーっとしていたのでは無いのだと言うその成果を見て満足感があったのは忘れられない。1983年にウィーンと言う街はカフェができてから300年と言う節目を迎えて、有名なカフェは室内をきれいにレノベーションしたのであった。ところがこのカフェは昔のままで何も手を入れないので、座る椅子とかソファーには注意しなければならない。スプリングが飛び出していて、パンツを破ったりする心配があるからだ。2023/12/23 04:09:0979.名無CCDさん@画素いっぱい4iTe3ウィーンと言うのはカソリックの中心地みたいなものであるから、クリスマスイブもまずまず静かだし、クリスマスになると誰も外は歩いていない。うろうろしているのは我々外国人無神論者のツーリストのみ。写真集の撮影でクリスマスイヴからクリスマスにかけてウィーンに行った時に、そこら辺はしっかり体験したのである。クリスマスイブはオペラ座も休みだった。そのクリスマスイブに写真集の撮影でライカショップのペーターの家族を取りに行った。データのお母さんがまだ元気な頃だった。買っている利口なワンチャンがクリスマスイブなので、ワンチャンが興奮して車椅子のお母さんの足に噛み付いたのを今でもよく記憶している。それで早めに撮影を終えて失礼してライカショップからオペラ座のほうに行ったら本当に寂しい街並みであった。ステファン大聖堂のすぐそばにあるペンションに戻ったら、我々のような外国人のために部屋にはささやかなクッキーとか果物が置かれていた。こういうの結構しみるよね。それでクリスマスイブの日の朝に食堂でそのカレンダー、すなわち12月25日となっている日めくりを撮影して、それは私のエプソンデジタルライカの写真集に掲載されている。ウィーンの中心部のイルミネーションはなかなか立派であるが、あれは観光客を呼ぶための囮であるから仕方がないとして、このイルミネーションなどが長く暮らしたプラザも結構中心部にあったやつだな。こういう地味なのが好ましいと考えている。30年暮らしている佃島であるが、15年位前に家の前のガーデンのスペースがかなり派手なイルミネーションである。老人からしてみるとメガチカチカして明るさで、逆に夜外を歩くのはイルミネーションがない時よりも危ないような感じがするので、クリスマスの時期には気をつかう。しかもこのイルミネーションは11月の後半からスタートして驚くなかれ2月の第二週ぐらいまでピカピカしているのである。それは不経済だと思ったのか最近では1月になるとすぐやめるようになったが、また佃島のイルミネーションがピカピカする時期が今だと思うと憂鬱になる。2023/12/25 05:20:4280.名無CCDさん@画素いっぱいUUFSO1989年11月のプラハのビロード革命。その時私はプラハにいた。それから25年経過して、2014年の11月にビロード革命から四半世紀経過した一大フェスティバルがあった。その9年前に、私はもうプラハに来ることをやめようと決心したのである。プラハが嫌いになったと言うわけではなくて、プラハは悪女の深情けみたいなところがあるから、残りの時間を全部プラハにとられてしまうと言うのが恐ろしかったのだ。それで私の記憶では2014年の11月以降はプラハには行っていない。これが記憶違いだとすると、いちどは言っているかもしれないけど、いややっぱり行ってないよね。それで2014年の11月の最後のプラハ訪問で、何か記念になるものをファーイーストに持って帰ろうとした。それがエデンの園のりんごのレプリカと、バベルの塔の漆喰の1部である。専門家筋の指摘によると、バベルの塔が建設された時代には、まだ漆喰は存在しなかったそうだ。本当のことを言ってしまえば、これはCharles Bridgeの漆喰なのである。もう一つのエデンの園のりんごの場合は、これはレプリカであるから偽物であるとか言う心配は最初からない。今滞在している。ファーイーストで1番不満なのはアメリカでもヨーロッパでも普通に見られる緑のりんごの酸っぱいやつが手に入らないことだ。赤いりんごでも青いりんごでも甘ければいいと言う価値判断ができているのは最低な国民性だと思うと言う事は、国民がそういうレベルの低いものを望んでいると言うことでそうなるとまたヨーロッパに行きたくなる。2023/12/27 08:32:4581.名無CCDさん@画素いっぱいtpUOW日本の周りに世界の都市があると言うことを知ったのは既に取り壊されて何十年も経つ 丸ビルの1階の廊下の部分の金属のプレートであった。何十年も人に踏まれていたので良い具合にすり減ってリアル感が出ているのを見るのが好きだった。こういう人間の行動によってすり減った金属とか石と言うのはいい感じのものであって、その当時の国鉄の出札口と言うのもあれも人の手でゆっくり何十年もかけてすり減っていったものであると理解していたが本当はどうだったのかな?この丸の内ビルディングの真鍮製のプレートは実際にそこに行った時は詳しく世界の都市の どちら側に合うのかなると言う事は見る事は無い。それで写真に撮って後からこのように見るというのがなかなかの楽しみなのである。メルカトル図法の一直線で引いた方向の表示と言うのと実際に飛行機で飛ぶその方向と言うのは違うわけだがそれはここでは文句は言わないことにする。ロンドンとパリとローマに並んでその間に挟まっているのは大阪であったりするのはなかなか面白い。よく私が雑文で大阪の先にパリがあるなどと戯れに書いたりするがそれは私のこの大昔の視神経の記憶がそのまま頭脳構造に転写されている可能性があるからだ。亡くなって10年になる赤瀬川さんのことを思い出すのだが赤瀬川さんは有名な建物が壊されると出かけていてそのかけらをもらってきたりした。その意味でこの丸ビルのブロンズの方向表示版等は赤瀬川コレクションに最もふさわしいものだが今はどこに保管されているのであろうか?まさか廃物としてそのまま捨てられた事はないと思うが、日本は何をするかわからないところがあるので同時に心配だ。家人の古いアルバムを見たら1920年代から30年代の樺太の記念写真やら昭和天皇が来たときの記録写真やら残っていて面白かったのであるが、その中の1つに当時のロシアと日本帝国の国境の石で作られた標識というのがあってそこで記念写真を撮っていると言う貴重な写真が発見された。そのことを書いたらその大昔のモニュメントと言うのは今ではユジノサハリンスクのミュージアムにちゃんと保管されているそうである。2023/12/29 12:37:2582.名無CCDさん@画素いっぱいRipzZ家人の母親の持っている古いアルバムは、母親が樺太生まれて結婚して後は満州に住んだりしていたので、昭和天皇が登場したりとか、歴史的なモチーフが登場する。一方、これは家人の時間帯のアルバムである。1983年にニューヨークから戻ってきて、慣れない極東暮らしが始まったのだが、その時の登場人物がツバメのぴーちゃんであった建物の最上階の部屋の上の方からツバメの子供が落ちてきたのだ。ウィーンの燕は、空の最も高いところを群をなして飛んでいて、それが有名なウィーン幻想派の絵描きさんもテーマにしている その意味で、私にとってツバメと言うのは、ごく身近な友人だった。ツバメが刷り込み現象で、家人をママと思っているところが可愛いらしい。思えば、我々に鳥の素晴らしさを最初に教えてくれたのがツバメのぴーちゃんであった。それからしばらくして1番最初のライカインコをカジンガ小金井の方から拾ってきて、それが4世代続いたら Leica Inko人民共和国になったわけである。2023/12/31 05:50:4183.名無CCDさん@画素いっぱいtTkvoオーストリアのウィーンに出かける前に、1969年から73年初めまで練馬区大泉学園町2207番地というところにいた。大泉学園の北口からバスがあって、その終点の名前が都民農園セコニックと言うのである。セコニックと言うのは私がずっと使っている。露出計の名前だったから、同じ名前で変だなと思っていたが、実はセコニックの会社がそこにあったと言う事は、つい最近にしたのである。セコニックの露出計は、最初の頃は、アメリカのウェストン露出計とかノーウッドディレクターなどをそのままコピー生産していたらしい。それが50年代の終わりの頃から工業デザインに目覚めたグループが露出計のデザインのイニシアチブをとって、結構冒険的なデザインの露出計を作っていた。つい最近知ったことであるが、そのセコニックのメーカーがOEMで大衆路線の一眼レフカメラを作っていたペトリカメラにOEM生産を依頼していたということがわかってびっくりしているのである。何しろ現役の一眼レフカメラにネームプレートだけ交換して別のカメラにしていると言うのはどちらのアイディアであることがわからないなぁってちょっと感心できないところ。ネームプレートだけ交換して別のカメラにしたと言う体験が私のウィーン時代にあって、それはソ連製の35ミリレンジファインダカメラであるのだけど、カメラのネームプレートが簡単に外すことができるのである。しかもその楕円形のネームプレートの裏側には何も印刷されていないから、その反対側の金属のプレートを使って、そこに勝手気ままに名前を書けば、自分だけのOEMカメラができるという次第なのである。実際問題として、レンジファインダカメラの正面のレンズの上のスペースと言うのは最もよく目立つところである。そこに自分で勝手に別の名前。例えば長徳とか入れてしまうと、カメラ全体のイメージががらりと変わってしまうのが面白い。2024/01/02 04:42:2784.名無CCDさん@画素いっぱい3s0DPカピバラに会った事は無いけれども、テレビを見ることもほとんどないけれども私の頭の中にカピバラと言って浮上してくるイメージは露天風呂に入っているカピバラの姿である。ここから先は有料部分ですいかにも露天風呂が似合いそうな感じで頭に手ぬぐいをのっけてお盆の上に乗った徳利があれば温泉気分100%と言う感じがする。カピバラの日本での名前は鬼天竺鼠と言うそうで日本の名前と言うのは外国のものなら全部天竺をつけてしまうと言うのもなかなか味わいがある。ギリシャが生の名前であるカピバラと言うのは水の豚と言う意味だと言う。^_^ネズミの仲間と言うとミッキーマウスと同じだから食欲が失せるが豚の仲間と言う命名ならばこれは食べてみたい。。生息しているのは南アメリカのほとんどの地域に及ぶらしい。それでカピバラの露天風呂と言うのはイメージが合わないからこれは日本で流行っている風流なカピバラの生態系であろうと思って調べてみたら伊豆シャボテン公園が元祖カピバラの露天風呂と宣伝しているのでびっくりした。つまり非常に日本的な日本人のしきたりにあったある動物が露天風呂に入っていたら気持ちが良いであろうと言う所の代表的な動物なのであろう。おさるが露天風呂に入るのはよく知られているがイメージキャラクターとしてはカピバラの方が演技力が上であると思われる。私は仕事の関係でヨーロッパの温泉施設はかなり取材したことがあるが日本の温泉はほとんど知らない。私の唯一のカピバラ露天風呂を経験と言うのは40年ほど前にアメリカのモダンフォトグラフィーの極東コレスポンデントをしているときに、初めて私のボスのケプラーさんと場所はどこだかわからない長野県あたりの露天風呂を体験した。晩秋であって桃山造りの立派な建築物が露天風呂の1部で温泉の表面には紅葉の葉っぱがハラハラと散るような誠に日本的な光景であった。今にしてみるとカピバラ的な気分と言うのであろう。ところが伊豆シャボテン公園と言うのは50年以上前、つまり日本のモータリゼーションの黎明期にトヨタの車のスタイリングの撮影で時々訪問することがあった。あの頃は車の撮影となるといつも伊豆半島に行くのが定番のロケーションであった。それで記憶しているのは伊豆シャボテン公園と言うのはその当時既に存在していたことである。しかしまだカピバラの露天風呂は存在しなかった。2024/01/04 07:07:3385.名無CCDさん@画素いっぱいC4raW母親などは教育熱心であったから、最終的には息子を本郷の大学に入れたかったらしい。誠に危ないところであって、そんなことになっていたら人生めちゃめちゃになっていた。そういう母親の理想の人生コースの人生、めちゃめちゃより、今の私が自分で選んだ人生コースのほうが、はるかに快適であるので、その意味で考えれば、誠に危ないところがあった。小学校の教育のレベルが高かったので、そこから文京区立の中学校に移動したら、いきなり私は学年で1番の成績になってしまったあたりが母親を勘違いさせた理由の1つでもある。その周りにはお茶の水付属と東京教育大学附属があって、それぞれの洋服屋さんがあった。それに落第した恨みつらみと言うのとはちょっと違った不条理を私は感じていて、東京教育大学の小学校の入学試験のレベルのどの辺まで行ったのかはもはやわからないが、最終的には福引で使う。あのガラガラと回転させるやつで当たり外れが決まるのである。私は紅玉が出たので、これが福引ならいっとうカラーテレビと言う所だが、人生の最初の失敗がこれであった。合格の魂は、白い玉であったからそれで小学校中学校で通っている時、東京教育大学の女子のスカートの色というのがちょっと変わったグレーにブルーを強めに混ぜた不思議な色合いなので、それにその色彩に対してノスタルジーを感じたのも懐かしい。10年近く前佃島から歩行して、皇居前から九段下を通って、そこから小石川の坂上のほうに上がったら、附属高校附属中学附属小学校の制服を扱っているお店が目の前に現れてなつかしかった。私にとってのメランコリーオブジェでもある細かく観察すると、そのマネキンがかなり古いと言うところが逆に良い味を出している。古い古いライカM3にこれもウィーン時代から使っているソ連製のジュピターレンズの最強の組み合わせで撮影をした。イスタンブールの中心部とかパリの街の町外れとかそういうところに置かれているなじみのお洋服屋さんのマネキンと言うのに私はシンパシーを感じているのである。この御茶ノ水界隈のマネキン人形もそれと同列にカテゴライズすることができる。2024/01/05 07:53:2386.名無CCDさん@画素いっぱい55AGYカメラのスタイリングとすべての交換レンズのスタイリングは、そこの狭いスタジオで撮影した。ライティングは全部タングステンだった。それでよく記憶に残っているのは、この魚眼レンズであった。最初は8ミリの焦点距離でエフ5.6だったが、その後に改良されて0.5ミリ短い子のレンズになった。ご覧のようにこのレンズの外見と言うのはファインダーをつけると非常に格好がよろしい。その翌年にニコンは改良型の魚眼レンズを出して8ミリで明るさ2.8で巨大なレンズであって、一眼レフのファインダーを覗いて撮影ができるというのである。そんなのは格好悪いからごめん被る。私の歴史の中で1番親しく話をしたのはウィリアムクラインであるが、2番目はオランダ人のエルスケンだ。エルスケンが何かの写真集の最後の方で、このレンズのブラックのニコンに付けて惚れ惚れ手にしていたのを思い出す。しかし今回分かったことだが、こういうフィッシュアイレンズは、ブラックカメラよりもクロームカメラのほうに似合うということが今更ながらわかった。と言う ことなのだが、魚眼レンズは写真の表現としてはほとんど使えないものである。唯一魚眼レンズで表現として成功しているのは、IKKOさんのスペイン偉大なる午後を知るのみである。ただし、エディトリアルの表現としては使えるのである。ドイツ国鉄の長い仕事で、ドイツの西の国境から東の国境まで1週間ほどかけて旅をしたときにこの魚眼レンズを持っていった。天候が悪くて、雑誌の画面構成でても足も出ないと言う時に、魚眼レンズの特別な描写と言うのは、人の目を欺くことができるから、便利なレンズなのだ。実際にドイツの取材で使ったのは7.5ミリではなくて、それよりもちょっと長いレンズでOPフィッシュアイニッコールレンズというのである。従来の魚眼レンズよりも角度と再現する表面積の比率が正しく補正と言うレンズらしい。それをマウントアダプターでライカM2つけてベルリンの南の水郷地帯などをを川を流れるボートの上から魚眼レンズで撮影したのは効果があった。こういう特殊レンズは、レンズ本体よりもレンズにかぶせるレンズキャップとかファインダーにかぶせるファインダーキャップの存在感にしびれるのである。2024/01/06 06:23:5287.名無CCDさん@画素いっぱいflp4n30年近く前に腰痛で御茶ノ水の順天堂大学に数週間入院していた時があってその時持参したカメラはこのミノックスカメラであった。ただし時代背景は異なるからフイルムを節約すると言うよりも腰痛であるから重いカメラは持っていけないと言う単純な理由である。当時もいろいろな連載をやっていたから編集者さんが入れ代わり立ち代わりやってきて一瞬のプレスセンターみたいな個室になってしまった。でも差額ベッド代が高いので全然儲からなかった。当時のカメラジャーナルでカラーネガフィルムでミノックスで撮影してそれを印刷したりしたがやはり小さなフィルムの限界と言うものはある。でもそれを逆に使ってしまえば表現の1部になっていると言うふうに考えだすこともできる。、有楽町にあるミノックス専門のカメラ屋さんノックスフォトサービスにもよく行ったが今は跡形もないしノックスフォトサービスの記憶も人類から薄れてしまった。今の私のミノックスに対する考え方はこういうことである。手作りのミノックスフィルムのカッターがあるのでマガジンもたくさんあるからこれでモノクロフィルムを切り出して1本は50枚撮影で生きる。これなら経済的なダメージを受けることもない。30年前と今の最大の違いはそれをスキャンデーターにすることだ。それも業者さんに依頼するとかなり値段が取られるから手元のiPhoneで複写をすればいいだけの話であるこれが想像以上にちゃんと伸びるのである。30年位前の誕生日のクリスマスプレゼントに坂崎幸之助さんからいただいたブラック仕上げのミノックスである。当時はプライベートアイと言うセールスタイトルで結構人気のあったカメラでした。2024/01/09 09:21:3988.名無CCDさん@画素いっぱいYdPnr53年前新婚前後の家計簿を家人が発掘してそれを朗読してくれたのが現代文学と言う感じがしてなかなかよかった。初任給は35,000円だってこれが3年目になったら50,000円近くなったのでそれなりの考えがあったが当時の理想の給料と言うのは100,000円と言うことなのである。その頃の支出を見るとアーガスカメラが5000円、中国製の2眼レフが10,000円。そしてフイルム現像代が8500円とある。フイルム現像代が8500円と言う事はかなりのフィルムを使用していたことになる。しかも50年以上前の話。それで思い出した事は35ミリフィルムを巻き戻すと言うときの快感というか1本撮影したときにそのそれぞれのコマ数の記憶に対するフィードバックというかとにかくフィルムを巻き戻す時はしみじみした感覚でやっていたと言うことだ。これは35ミリフィルムの構造上そういう仕掛けは仕方なくフィルム巻き戻しと言うことをしていたのであろうが今にして思うとこの構造上の問題、つまり36枚撮影したら巻き戻すと言う行為はなかなか撮影の前プロセスの中で大切な時間であったことに気がつくのである。例えば1973年にウィーンで写真家デビューをしたときに私が使っていたのは250枚撮りのニコンエフのモータードライブ装置であった。これはダブルマガジン方式であるからその間にフイルム巻き戻しと言うプロセスは存在しない。あっという間にフイルム7本分の写真をモータードライブで撮影してしまうのは非常に味気ない。それから何十年か経過してライカ250と言う特殊なカメラも手に入れたのだがこれもダブルマガジンが公式であるから巻き戻しと言うプロセスは存在しないのである。つまらない時代になってしまったものだと思う。、。それでいきなりデジタルカメラの時代に移行してしまったわけだが小さなメモリーでも何千枚も撮影できるから理論的にフィルム巻き戻しからは自由になったと言うのはやはり残念なのである。写真をスタートさせたときの35ミリフィルムの巻き戻し行為と言うのは写真を考える上でかなり重要なプロセスの1つであったと言うことを今にして思い出すわけだ。2024/01/10 05:00:3489.名無CCDさん@画素いっぱいtlvC8墨田区京島あたりの思い出はたくさんあるが四半世紀前25年ほど昔のことである。当時の街中の路地の奥にあるようなランプと言うのは全部タングステンライトであった。これは街の風情になかなかいい感じを与えるものでそれを東京中探して撮影して歩いた。それで街中のランプのタングステンのやつが1番たくさん残っているのが墨田区京島界隈なのである。その頃古い友人の飲み屋を伴ってそういうランプの下に彼が所在なさげに立っているようなところを撮影してカメラ雑誌などで発表したこともある。それの関係で墨田区京島によく撮影に行くようになった。ところが街中のランプと言うのはものすごい進化のプロセスであってあっという間に蛍光灯に変わってしまったなぁとびっくりしていたらその次の5年間位で全部がLEDに置き換わってしまった。実に無残な次第である。その京島3丁目界隈で私が大好きないくつかのメランコリーオブジェやがいまだに残っているのであるが、1番行が長く残っているのがこのコーポラスの看板である。このワンショットを撮影したのは15年位前であった。カメラはライカイズムスリーにレンズ付きの人のために言っておくなればレンズは10ミクロン35ミリの8枚弾のカナダ製ではなくドイツ製のやつである。パリのメゾンドライカで本箱がついて500ユーロで買ったやつだ。あの頃このレンズは安かったけど古くなるとレンズが素材が黄色くなるので実はあまり好きではない。コーポラスと言う言い方はかなり外国っぽいけれども誰かの歌った歌ですシーサイドコーポラスだけどネズミが駆け抜けるというのがあった。そういうすがる感覚がいいんだよな。それでいつも私が興味を持っているポイントなのであるがこのコーポラスの看板よりも建物本体の方がずっと新しく見えると言うことなのである。単純に考えてみるとコーポラスの看板はずっと古いものであって建物そのものが建て替えられたときにコーポラスの看板だけは新調しなくて昔のものが残っていたのではなかろうか?京島3丁目界隈に住むとしたらやはりこのKOH+に住んでみたいと考えているのである。2024/01/12 06:17:0990.名無CCDさん@画素いっぱい45B3j出雲の小池さんは物持ちが良いので、30年前の東京カメラクラブとアルパ研究会の合同例会の記念写真を送ってくれた。これを細かく見て面白いと思うのは、まさに30年前の記念写真であることだ。その前の年だと思うが、スイスのSinarの会社に取材に行ってその時に、3代目のジュニアさんと知り合いになって、その関係でファーイーストのカメラクラブの例会に来てくださったのである。会社はシャッフハウゼンの郊外にあって、まさに村と言う感じのところだが、面白いのはエントランスのロビーに結構深い穴が彫ってあって、そこに競合他社の大型カメラが投げ込まれているのである。何かウクライナ戦争とかイスラエル紛争を思い出すディスプレーのやり方で、これはすごいなと思った。同じ頃、フォトキナでルイジ・コラーニに頼んで、ジナー2000と言う未来モデルのデザインスケッチを依頼したこともあった。その時、フォトキナの会場でルイジ・コラーニにインタビューしたが、彼はイタリア語しかしゃべらないので苦労した。まずイタリア人でインタビューする時、こちらがイタリア語を話せないのが問題ではあるのだが。100数十人の大集合写真であるが、撮影が誰だかわからない。30年前の記念写真撮影の天才と言えば、朝日新聞の下ジュネーブ支局長の柳沢さんが非常に有名である。カメラをセットして大集合写真の時に、あそこの柱から外側入らないなどと言って列を詰めさせるのであるが、自分でカメラを後ろに引くことをしない。大写真家なのである。フラッシュバルブ壱発で撮影されたと思えるのは、奥のほうの人々に光が当たっていないから、顔が真っ黒なことで、誰が誰だかわからない。昨年末に昇天なさったnakayama蛙さんも私のヒゲも真っ黒だ。これが30年の時間経過だと思うと説得力がある。写真と言うのはすごいね。2024/01/13 14:49:0591.名無CCDさん@画素いっぱい3MIqf1975年の12月であったと思うけれども、もともとウィーンはそんなに雪が降る町ではない。というのもウィーンは非常に寒いところだから、1970年代は冬はマイナス10度以下になる。そうなるともう雪は降ってこない。さらに気温が下がるとアパートメントの前のドナウ運河の水が凍るのである。完全に変わった事は無いけれども、土地の古い人の話によれば、1955年にウィーンがまだアメリカやソ連に占領されていた頃は、ドナウ運河の水が氷になったそうである。私が暮らしていた時はそれほどの氷形ではないけれども、川が凍ると言う事はやはり尋常ではないと思う。1975年の1月ごろだったと思うけれど、ポルシェが旧市街で雪をかぶっているところはなかなかフォトジェニックでよかった。この頃の車のスタイリングが素敵だと思うのは、同じ時期に、やはりウィーンの旧市街で撮影した。フランスのシトロエンのアヒルの格好したやつがある。あれもウィーンにスノーが降るとなかなかフォトジェニックになる。あの頃のヨーロッパの街角で見るポルシェの車は存在感があってよかった。しかし、この911シリーズではなくて、もっとカッコ良いのはその前の356シリーズである。1970年代には356シリーズがウィーンの街を普通に走っていた。それに年代を考えてみるとそれを運転しているドライバーは、オリジナルオーナーであることにはほぼ間違いがないのである。フェルディナンドポルシェ関係で言えば、初期のフォルクスワーゲンのリアウインドウが2つになっているやつも普通に走っていて、これも良い感じだった。2024/01/17 08:41:3092.名無CCDさん@画素いっぱい173jFそれでもwinと言う街の冬は雪が降らない代わりに結構寒い。だから用があってパリに到着して夕方などパリの街を歩いていると春が来たのではないかと思うほどの暖かさである。でも、金子光晴等は南アジアを経由してパリに来ているから、かなり寒がっていたのが面白い。金子光晴の眠れパリを友人が送ってくれたので、その頃ページをめくりながら、そのシンプルライフ振りが共感するところがあった。これは7年前ギャラリーバウハウスの個展のために撮影に行ったときのワンショットだ。ずらりとカモメが並んでいるのが大変な数である。1970年代にウィーンで暮らしていた時、日本から留学してきたKと言う女性のピアニストがいた。彼女が付き合っていたのは、編集者でkと言う名前の男性であった。編集者はwinまでやってきて、私の写真を選んで自分が計画している雑誌に掲載したいと言った。やる気充分なのだが、どうもパワーがシンクロしていないような感じに思ったのは、彼が計画している。雑誌のタイトルが余白というのである。ピアニストの頃はしばらくして、こちらのピアノ屋さんの息子とお付き合いをするようになった。ピアニストであるから自分のスタインウェイが欲しいというので、実家からお金を送ってきた。その時、家人と私は偶然なのだが、彼女のアパートに遊びに行っているときに、郵便局の現金の配達人が来たのである。オーストリアシリングの当時の最高額紙幣は1000シリングというのであるがその札束がピアニストの前に積み上げられた。Win暮らしで私が唯一見た大金であった。それから時間が経過して、ピアニストは体調を崩して昇天してしまった。ピアニストのピアノはピアノ屋さんの息子から買ったものなのだ。そこら辺のピアノの代金がどうなっているのかと言うことがあれから50年経過して、いまだに時々思い出す。そのピアニストから借りた日本語の本が、かもめのジョナサンと言うのである。読んでみたら、アメリカの軽薄な自己啓発本であった。それでウィーンに来て、かもめさんの列を見ていると、その時に私の頭に浮かぶのは、かもめのジョナサンではなくてかもめのみなさん。2024/01/20 08:48:3093.名無CCDさん@画素いっぱいMb5jw関西のほうにあった。もともとは水道のメーターを作っていた会社が当時のミノルタのパーツの下請けなどをやっていて、そこから誕生したのがこのカメラであると言うのは、カメラコレクターズニュースの粟野さんの記事に見た。水道メーターと言うものの存在は、子供の頃に見た精密機械の中では、かなり上位のクラスにランクされるものだった。台所の下の半分、地下になったようなところに上を向いている。小さなアナログ式メーターだった。昭和20年代の半ばにレンジファインダーを装備したLookと言うカメラが生産されることになったけれども、いろいろ問題が多くて、レンジファインダーをなくして作ったシンプルなライカタイプのモデルがこのカメラであると言う,私等はピント合わせないからこういうタイプのカメラで充分だ。最初に、このカメラを手に入れたのは、やはり高田馬場の堀部安兵衛商店だった。撮影してみたら、ピントがかなりずれていて、ボケボケであった。そのピンボケの写真を1972年であったか、松岡正剛さんがやっていた。オフと言う写真集に掲載したのも懐かしい。札幌の今井コレクションとお付き合いのあった10年ほど前のこと、日本カメラの連載でこのカメラのことが気になって今井コレクションの中にあったので、それを借りて実際に撮影してみた。ところがスプールがないので、コレクションの中からなるべく使えそうなカメラのパーツを探して代理として使ったらちゃんと写真が撮れた。札幌で撮影するのだからと言うので、テーマに凝りすぎてしまって、時計台とテレビ塔を撮影したのはー仕方がない。それから数年経過していた時代の新しい同じカメラを手に入れたのだが、私が感激したのはエバレディケースがまさに3ヶ月前に作られましたと言う位のピカピカの新品なのである。こういうことには驚くよね。2024/01/21 05:03:4694.名無CCDさん@画素いっぱいWsTqC葛飾の柴又は寅さんの映画で有名であるが寅さんの映画などがつい最近作られたものだから新米である。レオタックスカメラは戦前から作られているライカタイプのカメラであるからこちらは寅さんの大先輩である。家人のドイツ語の歌曲をドイツ語から日本語に翻訳してくれてそれをプログラムに日本語で書くのを手伝ってくれた大学の先生がいる。不思議なことにこの人は寅さん映画の大ファンである。何もドイツ文学の専門家が寅さん映画もないと思うのであるがそこら辺は宗教信仰の自由と言うことなのでしょうね。その寅さん映画を私は見たことがないがいちどだけウィーンでロケをしたことがあるらしい。それでウィーンの有名な喫茶店が撮影場所であってウィーン在住の日本人の私の友人がエキストラで登場して、お茶は無いのかねお茶は?と二言だけ出演したそうである。もっともこれは日本映画であるからギャラは安かったが無料であったのかな?それに対してさっき言った寅さん映画のファンの大学教授はともかくとしてやはり家人の先生でボイストレーナーで長いことイタリアに住んでいた先生はフェデリコフェリーニの映画ローマの中で臭いスパゲッティーを作る中国人の役で登場してそのギャラはすごくてイタリアの小型車フィアット500が変えたそうである。それで葛飾柴又のレオタックスの話に戻るがこのカメラの特徴はシャッターボタンの周りのガードが大きいのでシャッターチャンスを選ぶときの指係が非常によろしいと言うことになっていて、あっちこっちのカメラレビューでそのことが書かれている。これは戦後すぐに作られたレオタックスエスと言うモデルである。ところが私のカメラ考古学の大発見はこれは最近気がついたことなのであるが、この大きなシャッターダイヤルの周りのリングを時計方向に回転させていくとフイルムが巻き上がるのである。こんな事は誰も知らなかったであろうし私もびっくりしました。ライカカメラにはライカピストルとかライカビットと言う名前の撮影装置が付属品であってこれが馬鹿な高い値段なのである。でもレオタックスのエスの場合はそういうめんどくさい事はやっていなくてシャッターボタンの周りのリングを回転させるとフイルムが巻き上がると言う新しい機構がついているわけだ。とりあえず名前は無いけれどレオタックスビットと言う名前にしておこう。2024/01/23 01:02:0295.名無CCDさん@画素いっぱいzsJ2Lそれで3000台カメラがあると言うことになっているのであるが、今まで見たことがないカメラというのが存在していたことに気がついた。札幌の今井コレクションが時計台の反対側にあったときに10年間と言うよくお邪魔していろいろなカメラを見せていただいた。ところがその中にこのミニオンと言うカメラは入っていなかった。つまり私自身がこのカメラを1度も見たことがないと言う背景なのである。それで資料などを見るといろいろな事実関係はわかるのであるが、実際のカメラがどんな感じなのかと言うのはこれは実際のカメラを手にしないとわからないと言うここが大切なポイントですね。第二次大戦終了直後のメイドインオキュパイドジャパンの刻印が付いていると言う事はもちろん知っている。それでいわゆる日本版と言うやつで24ミリ× 36ミリではなくてそれよりも2ミリ短い24ミリ× 34ミリの40枚というのがこのミニオンであった。当時の日本は貧しかったから36枚よりも4枚多く撮影できるということが魅力だったのであろう。でも今の時代にフイルムが1本5000円になるような開発途上国に戻ったので日本版も良いかもしれない。写真家三木淳は当時の総理大臣吉田茂の3倍の給料をもらっていてそれは彼がライフのカメラマンだったからなのであるが1番最初のニコンレンジファインダを持って朝鮮戦争を取材に行ってそれを発表したのは24ミリ× 32ミリの日本版のフォーマットなのである。でも私などは24ミリ× 36ミリのライカサイズで半世紀以上仕事をしてきたからどうも日本版は好みに合わないのである。その理由でミニオンに手を出さなかったのであるが資料を調べていたら驚いたことに1番後期のモデルは24 × 36ミリサイズであるらしいのだ。それで遅ればせながらこのカメラが私のところにやってきてびっくりしたのはその精密感覚なのである。このカンパニーのカメラと言うのはどちらかと言うとあまり形がよくないのであるがこのカメラのデザインは実に素晴らしい。エプロンの部分に縦に走るLINEをつけるなどというのは他のカメラにはその例が見られない。その脇のミニオンと言うエンブレムも非常にマッチしていてさらにすごいのはネックストラップが付いていてこれが大きく見えると言うほどにカメラが小さいのである。2024/01/25 00:45:1696.名無CCDさん@画素いっぱいpH2il40年前にニューヨーク近代美術館の図書館で出会ったウォーカーエバンスアートワークと言う本が好きでよく読み返しているのであるがその1番最後のセクションに彼がなくなったときに残されていたカメラが羅列して記入されている。その1番最後に書かれているのがミランダなのである。あれから40年が経過してそのことがいつも頭の隅に引っかかっていた。私は長年のミランダフェチなのであるがどうしてもそうなると1番最初のモデルのほうに興味がいってしまう。しかし大家エバンスは表現者であって私のようにカメラコレクターでは無いのだから1番最初のミランダに興味が行くと言う事は考えにくい。つまり自分の撮影に使うためのミランダであったと言うLINEが濃厚である。考えてみるとウォーカーエバンスは4 × 5インチでもそうだし6 × 6はハッセルブラッドではなくローライフレックスだったし一眼レフを使わない真面目な写真家なのである。そういうシリアスな写真家が人生の最後でポラロイドSX 70に遭遇して3000枚近いピクチャーロールを残しているのである。その彼の使ったカメラのLINEと言うことを考えるとかなり後期のミランダカメラであろうと言う推測がつく。それでとりあえず手元にあるカメラのミランダのこのモデルをウォーカーエバンスが人生の最後の方で使ったモデルであると言うふうに推測してみるのである。これは確定ではなくて推測だけどおそらく外れてはいないような気がする。ストレートフォトグラファーのウォーカーエバンスであるからこのミランダに見るように標準レンズ1本だけしか使っていなかったような気がしているのである。そうすると彼の堅固な写真世界がそこに構築するので全く疑問は無いと言うわけだ。2024/01/28 04:09:0297.名無CCDさん@画素いっぱいGiBUFドイツのフランクフルトから高速道路で1時間位の小さな街がライカのホームである。ライカファンには有名な街であるが実はこの街は他にも写真関係の製品を作るメーカーとか双眼鏡を作るメーカーなどがあった。そこで作られていたのがロードと言う名前の1連のレンジファインダカメラである。1950年代からかなりアメリカに輸出されたのである。アメリカ人は日本人と違って見栄を張らないからカメラは実用主義でよろしいと言う風潮があるところがブランド選びとしてははるかに日本より上だと思う。さすが戦争に勝利した国柄だね。ロードマットはレンズ交換式であってこれはその最終モデルであるからセレン式の露出計も付いている。感心してしまうのはその他に35ミリから135ミリまでのユニバーサルファインダーがちゃんと最初からカメラに付いていることだ。これは私のかなり好きなカメラなのであるがいわゆるカメラに飽きた人間が最終的にたどり着くようなポジションである。それでカメラに飽きた人間はもう1人私のすぐそばにいてそれが我楽多屋の弐代目さんなのである。要するにいつもカメラに埋もれていると言うところが私と共通点であって、こういうすがれたカメラシステムが好きになるわけだ。私が実際に使っているのは35ミリ広角レンズと50ミリレンズである。他のレンズは90ミリと約35ミリがあるがまず使う事は無い。それでこのレンズなのだがヤフオクで135ミリのレンズを手に入れた。このレンズの出身地はドイツのウルムである。すなわちかのアインシュタインの生まれた町で作られたレンズと言うと非常にありがたい感じがするね。さらにありがたいのはヤフオクの落札価格が140円であったことだ。でもヤフオクの落札価格にはまだ上には上があって、数年前に20本のタムロンズームレンズのセットを100円で落札したこともあった。2024/01/30 00:15:1598.名無CCDさん@画素いっぱいh6tWRプラハにはトータルで34年間ぐらい暮らしたことになるのだがそのほとんどはモルダウ川の北に面したプラハ工科大学に隣り合った戦前に建てられた6階建ての建物の屋根裏であった。その関係で屋根裏プラハと言うエッセイが誕生したのである。4番の地下鉄の終点にあたるところで社会主義時代にはレーニンステーションと言われていたがビロード革命の後に下の地名であるダビデ通りと言うふうに戻された。プラハの北のメトロの中心からダウンタウンの広場に行くのは駅で5つ位であるから迅速な交通手段だしプラハの街は大きくないから便利なのであるが、同じアトリエの前の路面電車の22番で旧市街に行く方が楽しかった。この22番の路面電車はプラハの北の丘を下ってモルダウ川の右側を走ってそこから急に90度方向を変えて川を渡って東方面に向かって旧市街に入るのである。その90度曲がる電車の目の前に見えるのがこの光景であってここはかつてプラハのお城の城壁があった場所なのだ。ビロード革命以前はこのような階段になっていたのは同じだが階段の上に突き当たりのところに社会主義の赤い星がでかでかと飾られていたのが面白くなかった。それがビロード革命の後に撤去されてごく普通なパークになったのである。22番の電車で季節がどんどん変わって春爛漫のときには桃の花とか桜の花が咲舞だれて何か東洋的な風情がそこに感じられたりした。冬はこんな感じでなかなか雪が降ると素敵な風景になる。22番の電車が私の最も重要な路面電車であったわけだが、今佃に暮らしているすぐ近くの文化人で有名な人には吉増剛三さんがいる。彼が10年ほど前に出したプラハの写真集ではよく22番の路面電車が写っているので別に吉増剛造さんがそれを意識した事は無いのであろうがそのことを吉増剛造さんに話した事はある。2024/02/02 06:10:4799.名無CCDさん@画素いっぱいmajyxそのデザインもかなり優れていて、と言うよりもライカ時代のカメラであるから実用的なところで最小限のデザインが設定されているのでそこに遊びの要素が全くないと言うところがデザインの存在感を際立たせているのである。クラシックカメラの解説と言うのを私は読むのが好きなのであるが、かなり細かい解説でなおかつカメラのメカニズムの歴史が立体的に構成されている人が描いたクラシックカメラの解説と言うのは実に面白くて、三流恋愛小説などはもともと読む気がないけれどもそれよりもずっと興奮する内容である。以前私も執筆をしていたカメラレビューなどが非常に素晴らしい内容であって、最近ではオンラインでクラシックカメラの解説もずいぶん読めるようになったのは楽しみである。ところがそういう状況でクラシックカメラの素晴らしい解説にうっとりしてそのカメラが欲しくなったりするわけであるがその後にがっくりくるのはいつも例外なくその人が撮影した作例写真なのである。クラシックカメラの解説が知的で素晴らしいと感動しているとその隣の作例があまりにもレベルが低いというか写真表現が嫌いになってしまう作例なのである。卑近な例としては作例写真でがっかりするのは、石の地蔵とか五百羅漢とかおいなりさんの狐が非常に退屈に写っていると言うやつだ。これでクラシックカメラに対する100年の恋も冷めると言うものだ。そういう状況下で最近私が感動したのはオンラインのクラシックカメラの解説をしている加藤さんと言う方がいらしてその方がメンションしてくださったご自身の撮影したミニオンカメラの作例が素晴らしいのである。^_^ごく普通の街中のスナップなのであるが通のほとんどは午後の光で車道の中に落ち込んでいてかろうじて日差しがさしているところに男の子が立っていてこっちを見ていると言うまずアンリカルティエブレッソンも撮影できないような素晴らしいスナップショットをここに掲載しておく。こういう作品を見ると本当にクラシックカメラで写真を撮りたくなるしフィルム代が高いなどと言うのも問題ではなくなってしまう。何よりもすごいのはあっという間に写真の作例にいいねが100以上ついたことなのだ。2024/02/04 06:24:29100.名無CCDさん@画素いっぱいzuhU0アルパ研究会は私が佃島に住み始めた頃に同時にスタートしたのだから34年前になる。あの頃はスイス製の高級一眼レフが当時のアメリカに特に政府関係が使うので大量に輸出された。それが何十年か経過して皆壊れた時当時に日本に再輸出されたのである。だから当時のアルパカメラは壊れているのが普通だった。最初は銀座のバーなんだけど昼間は喫茶店で営業しているところに数人が集まってアルパの馬鹿な話を開始したのがその発端である。でもこれは長時間居座る嫌な客で営業妨害になるからと言うので改めて地元の佃島に場所を用意してアルバ研究会をスタートした。1時は100人ぐらいのメンバーがいたがその中にはなかなか素晴らしい人がいてあの複雑なアルパカメラの修理ができるようになったのである。アルパ研究会と言う名前で毎月盛り上がっていたがその日アルコール研究会のようになってしまった。アルパは大きく分けると1947年に登場した最初のモデルと50年代半ばに登場したセカンドモデルと、その後に登場したモダンなモデルの3つの時代があるのでそれぞれに派閥がある。それで派閥の争いにならなかったのはたいしたものだと思う。^_^私が好きなのは2番目のモデルの時代のアルパカメラである。スイスの古い電気機関車のようなスタイルをしているところが素晴らしい。スイスは時計とかチョコレートで有名だけど私に言わせればアルパカメラ。それとNagraの録音機もあったな。この時代のアルパカメラはもちろん数が少ないけどそれよりもレアなのがご覧のようなその当時のエバレディケースである。トップカバーをかぶせると全体が丸っこいスタイルになってそれがなんともキュートである。それとこのエバレディケースの皮の材質なのだけれども同じ時代にスイス軍が使っていたバッグのレザーとほぼ同じクオリティーなのが非常に面白い。エバレディケースをつけた状態では望遠レンズとか大きな広角レンズは使えないからこのように50ミリの小さな標準レンズをつけることにしている。2024/02/06 12:27:13101.名無CCDさん@画素いっぱいwoMH7トップコールレンズ用の35ミリファインダーである。おそらく世界で最もサイズが大きいビューファインダーだと思う。ファインダーの前の方がこれだけ大きいのは倍率を等倍にしてあるせいだ。しかもブライトフレームを反射させるための金色のコーティングが中に入っているからこのカメラをつけた状態を5メーター先から見ても目玉のおやじみたいなような存在感があってスナップショットには最も向かない35ミリファインダーである。このファインダーの表記を見て面白いのは、トップコール3.5センチと5センチであると言う表記がちゃんと刻印されていることだ。トップコール3.5センチライカマウントと言うのは非常にレアなレンズでめったに市場に登場する事は無い。そしてこのファインダーはそのトップコール3.5センチ専用であると言う認識なのである。タムロンレンズの技術者で前田さんと言う方がいらしてこの人のレンズやカメラに関する知能は大変なレベルなのである。それで中古カメラ市に行くと会場で前田さんにがあったりしたときには今日は何が面白いですかなどと聞いてこちらのショッピングの参考にさせていただいたこともあった。その前田さんと偶然銀座のカメラ屋さんの前で出会ったことがある。前田さんはライカカメラにこのファインダーをつけていた。このファインダーが5メーターから10メーターの距離でどのように見えるのかと言うことをこの時私が初めて知ったのである。まさにギラギラ光目玉のおやじの存在感であってスナップショットには最も向いていないファインダーアクセサリーであることがわかって私はそれ以来撮影の時にこのファインダーを使うのをやめた。タムロンの前田さんにはいろいろ教えられたことがあるがこれもその内の1つの貴重な体験である。ところで私が持っているこの個体だがご覧のようにエッジのあたりにかなり擦り切れた後がある。だからこのファインダーの前の持ち主は実際にこのファインダーでスナップショットをやって通行人の皆さんに多大なご迷惑をかけたのではなかろうか?2024/02/10 06:38:26102.名無CCDさん@画素いっぱいgZ6kyイタリアンならカルボナーラがあるのに日本だったらライスの上に卵をのせてもいいと思うが、外国でこれをやることはなさそうである。それともう一つ卵かけご飯はTKGなどと言って親父とか爺が喜んでいるが、女性が好む食物では無いようだ。それでなぜ私の場合卵かけご飯が好きになったのかと言うと話が古くなるが1970年代にトヨタ自動車の本社工場のスタジオに2ヶ月とか収容されていた時に、近くの旅館のブレックファーストに生卵がついてきたと言うのがその理由の1つであるように思われる。卵かけご飯が体に良いのか悪いのかは論じるところではないがこれが癖になると面倒である。同じものをいつも食べてそれを崩さないというのが変であると言うふうに家人等は批判するのであるが同じものがずっと続くと言うのは自分の場合は苦痛ではない。そこのうまさが毎日分析できるからだ。フランスのアーティスト菅井などもいつも同じものを食べてそれが何十年も続いたらしい。1時はクスクスに凝っていて毎日お昼にはこれを食べていた。パリでクスクスを毎日食べると言う習慣がそのまま残ったものと見える。チベットには行ったことがないがあちらの人がいつも食べているむぎこがしを水で練って団子にしたものもこれは日本人の口には合わないと思うけれども、私はなかなかうまいものだと思うのだ。日本人として初めてチベットに入った川口彗海が雪のヒマラヤの山越えをしたときにその時の食事がむぎこがしの粉であってそのうまさを絶賛している。^_^旅行者としてのチベット人が食料のないところで野宿するのにしてもむぎこがしの粉と水と塩ととんがらしがあれば美味しく食事ができると言うのはすごいアイディアだと思う。2024/02/13 06:23:44103.名無CCDさん@画素いっぱいoOTOy東京にいくつかあるランドマークで私が好きな建物はやはり墨田区足立区葛飾区あたりの周辺にあるのが好きだ。これは墨田区京島1丁目だったと思うけれど街中のなかなか渋いボルトナット屋さんである。納豆屋さんではないぞ。この建物の魅力はこのカメラアングルではわかりにくいのであるがガードマンさんが立っている下水道工事中と言う看板のあたりからこの2階建ての建物を見るとかなり激しく建物が右側斜めに傾いているのである。1980年に東京にウィーンから戻ってきてその後1年ほどニューヨークで撮影をしてさらに東京に戻ってきて半世紀ぐらいあっちこっちを撮影しているのであるが、過去50年で考えてみると東京ではかなり傾いた木造建築物を実際に撮影しているのである。1983年ごろに触れ朝日ジャーナルと言う雑誌の連載をしていたのであるが、その時本郷の菊坂で撮影した八百屋さんの傾き方と言うのはすごかった。2番目にすごかったのは足立区関原あたりのマッチ箱を押しつぶしたような小さな床屋さんである。これも凄いのは今にも崩れ落ちそうな感じであるにもかかわらずちゃんと営業していて店の中には鏡があってチョキチョキやっているのである。この2つはすでにこの地上から去って存在していない。それで3つ目がこのボルトナット屋さんなのである。まずこの地域に来る事は年に多く、2度位であるから結果としてそういうことになってしまったのであろうが、私がボルトナット屋さんの傾きの凄いところを撮影に来ると必ずと言うほど上下水道工事の施工中で通行禁止になっている。それで1年位前だが田中長徳ワークショップをやっていた時にこの斜めになったボルトナット屋さんを撮影するのでワークショップで10人ぐらいの皆さんと撮影に行った。皆さん感心していた。要するにこれは日本版のピサの斜塔なのである。それでワークショップ参加の皆さんはボルトナット屋さんに感心していたのであるが悲しいニュースもあった。大通りのところに私が昔から好きな交差点と言う名前のハンバーガーショップがある。これもなかなかいい味が出ていたのだがワークショップの時に行ってみたらそこはすでに更地になっていた。最近の情報によればボルトナット屋さんも取り壊されて今は更地になっているそうである。2024/02/15 08:22:41104.名無CCDさん@画素いっぱい2qNPsファーイーストの無名のレンズを発見したのは、戦争写真家デビットダグラスダンカンであった。ライフの写真家であった三木淳がデビット、ダグラスダンカンのポートレートをニッコール8.5センチで撮影してそのプリントを見せたら、デビットダグラスダンカンはそのシャープネスにびっくりしたと言う伝説である。それで伝説のニッコール8.5センチよりも、ワンストップ明るいレンズがこれである。製造台数は結構少ないらしいので、もっぱらコレクターズアイテムとしてやりとりされている状況である。私も10年ほど前にこれと同じレンズを手に入れて、何しろ明るいレンズであるから暗いところを取ろうと言うので、勇んでプラハに向かったのである。ところが大雪のプラハであって、雪景色が真っ白であるから絞り解放で撮影すると言うような事は1度もなかった。結局私の場合、明るいレンズと言うのは最初から無縁なのである。私に限らずに友人のアメリカ人でナショナルジオグラフィックマガジンの仕事をしている写真家がやはり同じレンズを持っていたが、使うことがないので、銀座の勝美道に売りに行ったときのお付き合いをしたことがある。20年前なので買取価格が30,000円ちょっとと言うのは足元を見られているなと思った。今のことならヤフオクでそれなりの値段で売れるだろう。デビッドダグラスダンカンに刺激されてニッコール8.5センチf2のレンズはずいぶんコレクションしたことがある。ところがこれが私の場合大勘違いであって、デビッドダグラスダンカンがその描写にびっくりしたレンズと言うのはメイドインオキュパイドジャパン時代のものではなくて、日本とアメリカで講話条約を決めた後のレンズ、すなわち、普通のメイドインジャパンのレンズなのである。私の勉強不足でした。2024/02/18 08:05:57105.名無CCDさん@画素いっぱい8waYj日本にコンテンポラリーフォトグラファーズと言う四角いハードカバーの写真集が入ってきてこれが50年前の若手写真家つまり我々に多大な影響を受けてその後コンポラ写真になると言うブームが起こったのも大昔の話である。その写真集に登場した5人の写真家の中でダン マイケルスがソ連を取材に行った時友人から借りた10ドルのカメラで写してそれがアーガスなのである。他の写真家は皆さんライカとかローライフレックスで撮影をしたわけで当時の私の感覚では進駐軍の連中が持っている弁当箱みたいな真四角な黒いカメラがこんなに映るとは思わなかったのでそれでアーガスの威力に目を覚まさせられたのであった。中古価格が10ドルのベークライト製のカメラは当時のレートは360円であったから利益を上に積みますと5000円と言うわけである。家人が50年前の家計簿を保存していたのでそれで見たら正しくアーガスカメラに5000円。中国製の2眼レフは10,000円。当時の現像代が8500円とあった。40歳の誕生日に仕事でアメリカのミシガン州が建国200年とか言うので取材に行った。メインは永井荷風が勉強していたカレッジを見学に行って、永井荷風の学籍簿などを見せてもらった。永井荷風が暮らしていた家などもそのまま残っていた。その他にミシガン州の北の果てまで行ったりしたのであるがアーガスカメラを作っていたアンナーバーと言う街も取材した。工業都市だと思っていたら立派な大学のたくさんある文化都市なのであることにちょっと意外だった。2024/02/20 03:06:18106.名無CCDさん@画素いっぱい8BNVZ戦後になって、いろいろなメーカーでゴールド仕上げのカメラをたくさん出したが、どれも空振りであった。その中でただ2つだけゴールド仕上げで空振りでなかったレンズが存在する。それがこのゴールデンリコー16である。もう一つはパックスゴールデンビュー。要するに、その当時の銀座4丁目和幸などでアメリカの軍人のために売られていたスーベニールと言うわけだが、今の時代になってその作り上げたレベルを見るとなかなか高級品に思うのだ。別の見方をすると70年前に作られたカメラは現代のカメラに比べるとはるかにしっかり作られていたと言うことなのかな。ウィーンで暮らしていた足掛け8年の時代に、家人とよく三宝をしたものであって、たいていは旧市街の中心部に向かって航行するのであるが、ときにはコースを変えて、ウィーン大学の側からベートーベンの臨終の場所を通過して、ベートーベンの葬列が通った通りを、西に向かって歩いたりしたものである。ベートーベンの葬列に付き添ったのはフランツ・シューベルトであった。そしてベートーベンは、障害にウィーンで十数回引っ越しをしているのいるのであるが、その最後の時代に暮らしたアパートメントの1階が、winでは結構大手のカメラ屋さんになっている。そのカメラ屋さんのウインドウを見ているときに、家人がこのカメラなら欲しいと言ったのがこのゴールデンカメラなのである。もともと家人は私などよりもずっと理性的な人間だから、ゴールドに固執するようなところは最初からないのであって、このカメラの別の存在感を魅力に思ったと言う別のポイントで話した事しか考えられないのだ。16ミリフィルムを独自のカセットボンベ使うカメラであって、レンズは望遠レンズの40ミリが別についていると言うところがなかなかマニアックだな。2024/02/22 06:35:20107.名無CCDさん@画素いっぱい8Q5VW30年以上プラハでいつも飲んでいたのはフランコ不可と言う名前のモラヴィアの赤ワイン。これが非常によかった。今いつも飲んでいるチリの赤ワインにちょっと似たシンプルな味わい。それでプラハの暮らしで面白かったのは西から輸入されたワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつは金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう逆の価値観ができてしまったわけだ。30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良いワインとフランスのそれほど良くないワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあってデギスタシオンの勢いでワインを輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったモノマガジンの会社の社長の今井さんにその仕事をプレゼンに行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺はワイン嫌いだから2024/02/27 01:31:22108.名無CCDさん@画素いっぱいsPIEqデビットダグラスダンカンが朝鮮戦争を取材に行った時、持参したレンズに5センチと13.5センチのニッコールレンズであった。ニッコール伝説によるとその直前に世界的に有名な報道写真家はニコンのレンズ工場に行って、その優秀さにびっくりしたと言うのである。戦争写真家にとって50ミリと135ミリは基本的なレンズであったようだ。ロバートキャパはちょっと変わっていて、コンタックスに標準レンズだけであったが、同じ時代に撮影されたとおぼしき2人の戦争写真家が並んでいるスナップショットがあって、それはブラックコンタックスであるのだが、1人の戦争写真家は13.5センチの望遠レンズをつけている。そして2人ともエバレディケースのフロントフラップを下にぶらぶらさせている。若い頃は格好が悪いと思ったが、最近ではこれこそが戦争写真家のダンディズムであると考え直すようになった。135ミリレンズはかなり離れたところから収集的に狙った光景をとらえることができると言う意味ではなかなか使い勝手の良いレンズである。もっともこういうことを言っていたのはズームレンズ登場以前の話であって、最近は135ミリなどと言う焦点距離は28ミリから300ミリのズームレンズの中に飲み込まれてしまったから、実際つまらない時代になったものだと思う。精神的な写真家が今でもズームレンズ等は使わずにプライムレンズの135ミリを使わなければならないと言うのは、精神的な意味ではなくて、真実のレンズ選びなのである。雑誌の編集者と言うのは、写真が下手である。私写真の撮影するときのリアルタイムの精神の高揚感覚と言うものを知らないから、写真家に対しては釣れない会話をするものである。それをよく覚えているのは1960年代終わり頃のカメラ、毎日の有名な編集者、山岸天皇と言われていた彼である。山岸編集長に写真を見てもらったときに、彼が言い出したのは昨日高梨が家に来て写真を見せたんだけれども、あいつは135ミリのレンズを最近使うようになったと面白がっているんだが、そんなのは関係ねーよと言うのである。口の悪い編集者らしからぬ毒舌だから、それはそれで聞き流すとして、写真家が135ミリを新たな表現としてゲットして興奮しているのを頭ごなしに否定するのは逆に、編集者の方がレンズのことを知らないと自白しているようなものなのである。2024/02/28 08:10:06109.名無CCDさん@画素いっぱいzHIeA数年前の春の事だけど、写真家の中藤さんのお誘いでパリで個展を開催した。実際には2人展示会と言うわけだが中藤さんが私のような年長者を気遣って、私が1階の部屋で、中藤さんは近い回の展示でなかなか好評であった。それで中藤さんと私が着ているブルージャケットがオープニングレセプションで話題になったのである。私が着ているやつは実は日本国内で噴出してしまったので、パリにいるときに中藤さんがわざわざ私のために買ってきてくれたのである。この当時はジョナスめかすも、ビルカニンガムも健在であって、彼らはこのブルージャケット同盟のメンバーであったのだ。それで中藤さんとか私等はファーイースト支部と言うわけである。ちゃんとしたフランス語日本語の通訳さんがついてくれたので、逆に緊張した。私はいい加減な英語とかいい加減なドイツ語で通すやり方なので、正式な通訳さんだとまず日本語で正しいことを言わなければならないと言う。余計な気を使うのである。それで正式なワークショップのフランス語の通訳が終わった後に、ワークショップのメンバーの方と私のいけずな英語でやりとりをしたのだが、それはそれで面白かった。参加者の1人は息子さんがロンドンに住んでいてデザイナーをなさっているそうだが、やはりロンドンでは、このブルージャケットが流行してみんな来ているのだと言うその頃の話であった。この時で忘れられない。インシデントはギャラリーオーナーがライカ人類なのでライカエム7を私に貸してくれたのである。モータードライブもついていた。それで彼が私のためにフィルムを装填してくれて、それで1本針の素敵なショットを撮ったつもりで、巻き戻そうとしたら、ギャラリーオーナーのフィルムの装填の仕方がいい加減なので、ひとこまを巻き上げられていなかった。こういうインシデントというかアクシデントと言うのは、逆に忘れられない思い出になるのである。ハッセルブラッド300年の生誕の公式ディナーパーティーで、オマージュのクリーム、ポタージュが非常に塩からかったと言うのと、ほぼ同じクラスの文化的な思い出だと思う。ちなみに、パリのギャラリーオーナーが私に装填してくれて、ライカエム7で1枚も撮れなかった。フィルムはそのまま大人に持ち帰って別の撮影に使いました。2024/03/01 20:01:02110.名無CCDさん@画素いっぱいfX9CLロッシオ駅の裏手の、バイロアルトに向かう、ショートカットの階段である。この階段の上に、1947年から1991年まで、中古カメラ店があった。鰯を焼くレストランと、ファドの店に挟まれた、中古カメラ店というのは、存在そのものが、「サウダーデ」である。例によって朝5時まで原稿書き。このライフサイクルが定着しつつある。実際には朝4時55分にインコのライカが起床する(止まり木に居るので起床は変だけど)するので、ライカにその世話をしてから寝るわけなり。起床は12時。風は乾燥しており爽やか。例の如く、執筆。その間に岡山の長徳固執堂に保管(展示ではない点に注意)する荷物を2個出す。宅急便だと25キロまでの荷物が2千円で出せるという。普段、アメリカや欧州からフェデックスで重いカメラを送っている身にしてみれば、夢のような値段だ。25キロを100個送っても25万円なのである。当面、長徳固執堂に保管のカメラ、資料はこれで送ることにする。夕刻、近所を散策。カメラは持たず。昨日、今回の撮影したモノクロネガの上がりを、野々宮車内に忘れて来た。それでネガのセレクト出来ず。土曜に野々宮、持参の予定なり。夕刻にまたベランダでシュタイナーのM22双眼鏡で夕暮れの羽田空港の着発を観察する。午後8時から11時まで眠る。メデイアジョイの連載「温故知新」の最新の原稿を昨日送ったのだけど、今日見たらすでにアップされていた。その速度驚くべし。毎日新聞のカメラマンがイラク取材の戻りに拾った爆発物がアンマン空港で爆発し、空港のデキュウリテイが死亡。手榴弾を機内に持ち込むとは常識以前の話だ。先週、パリの空港で、持参のスワロフスキーのハリネズミのクリスタルグラスが、爆弾に間違えられた顛末を想い出した。アサヒカメラの次号で、M42マウントレンズの特集で、愛用のレンズ10本のリストを提出したが、そのうち、マクロキラー40ミリ、シャハトトラベゴン40ミリ、ビオメター80ミリのレンズの重さをサイズを実測に、明日アサヒカメラの編集の人がアルパ研究会の席に来ることになった。仕事は言え、ご苦労なことなり。パワーブックG4のバッテリーが新しくなったので、実に快適になった。必要なのは、使わないカメラよりも、新しいバッテリーだ。ここに生活の真実がある。プラハのパベルよりメールの返信あり。今週は南フランスにTVの仕事とか。2024/03/05 06:45:25111.名無CCDさん@画素いっぱいtVsp1カメラをたくさんぶら下げると言うことが重要な時代と言うこともあったのだ初めて私が世界的な写真家の姿に写真で制したのは60年代初めに日立を撮影に来た報道写真家友人スミスであった。おそらくカメラ雑誌に掲載された友人スミスの写真で、それは森永純ちゃんが撮ったものだと思われるのだけれども友人スミスは首から肩からたくさんカメラを下げて5台のカメラがぶら下がっているのである。ところがそれは撮影中の友人スミスの上半身のクローズアップの先生に出会って足元から移したと言うよりもズームバックした全身像を見るとまだ地面の上に3台位のカメラが置かれている。そうすると使っているカメラはトータルで8台になると言うのでますます尊敬するようになった。このような友人スミスの仕事のやり方がその当時のトラディショナルな報道写真家のひとつの方向であったことがわかる。そこには報道写真によって世界を変貌させであると言う意気込みとそのためには沢山のカメラとレンズが必要だと言う石のようなものが感じられた。右のショットはガラクタ屋さんで話をしているときの私のスナップである。友人スミスには及ばないけれども首からたくさんカメラをぶら下げているのはこれはジョークであって別にこういうスタイルで撮影をしているので無い事は当然である。フイルムカメラの台数と言うことで考えれば1台がベストであり報道写真のクラシックな時期にはカラーとモノクロを撮影するからもう1台カメラを用意すると言うことになる。、ロバートフランクが20代の時にグッゲンハイム奨学金をゲットしてアメリカを中古のセダンで待っていてアーカンソー日あたりのレッドパージの時代であるから地元の警察官が手柄をあげようとしてロバートフランクを捕まえたのである。その時のレポートによるとこの外国鉛を放すあやしい男は3台のカメラを持っていたとある。ロバートフランクのアメリカ人撮影のときには3台のカメラが使われていたと言うことがこれで明らかになるのが面白い。2024/03/15 03:26:11112.名無CCDさん@画素いっぱいhoJuuニューヨークに暮らしていた1982年頃は日本でブームになったマンハッタンの怖いところはサウスブロンクスと言うことになっていてそういう情報が勝手に一人歩きしてしまうのである。私は治安の良くないタイムズスクエアの48丁目東8番街の角の安ホテルに行ったので夜中にピストルのファッションが時々聞こえるような環境の良いところであった。その後夏から秋にかけて当時流行一のソーホー地区に巨大なロフトの郵便物の受け取りと黒猫を育てると言う業務を請け負ってそこに暮らした。ホイットニーミュージアムの隣に住んでいるようなお金持ちのユダヤ人が今流行のソーホー地区が興味があると言うので見学に来たりした。人が集まると馬鹿な遊びをやっていて、ソーホー地区から歩いてその当時最も治安が悪いと言われていたアベニューDまで行ってそこでオレンジジュースを買って受け取りをもらって帰ってくると言う1種の肝試しである。私は実際に怖い思いをした事は1億度もない。ただし歩いているとクオーターとかある小銭をねだられるので必ずポケットにジャラジャラ入れていた。それと胸のポケットには20ドルというのが当時の自らをプロテクトするための最低のマナーであったわけだ。それから2001年にワールドトレードセンターの大惨事があってその後も何度かマンハッタンに行ってこのショットは2011年の東日本大震災が起きたその時に撮影したものである。この界隈はマンハッタンに人が住み始めたごく初期のクラシックな街並みがそのまま残っているので好きなブロックなのである。ライカM3に35ミリのレンズで撮影しているが何か視点がちょっと不思議なように感じられるかと思う。その理由は単純で両手を挙げて自分の身長より下にフィート半ぐらい高い所からのファインダーで撮影しているのだ。こーゆー撮影をするとストリートの風景がリアルと言うよりかドメインの良いように見えてくると言うちょっと変わった効果があるのだ。2024/03/20 12:48:54113.名無CCDさん@画素いっぱい1M6XOすごいカルチャーショックに出会ったと言うことがあって、これは40年前なのにいまだに忘れられない。20代の人格の形成機にヨーロッパにいたので、30代初めになって日本に戻ってきたのが11月の終わりで、その翌年の春に四谷の土手でお花見があったのだ。自分が大人になってからのはじめてのお花見であった。私と家人が参加して、異常なカルチャーショックを受けたのであるが、もう1人パリに長いこと住んでいた文学者の方もそこに参加して、他の面々は楽しんでいるのに、我々3人だけが異文化にやられてショックを受けてしまったのである。私と一緒に日本のお花見をカルチャーショックを受けたフランス文学の専門家の日本人は鎌倉に住んでいた方だが、その後は急に日本文化に目覚めてしまって、いわゆる弓を引く弓道のほうに行ってしまった。それで毎年1月7日に我々のインチキアーティストの間で新年会があるのだが、そのフランス文学者で弓道に行ってしまった人は毎年お休みなのである。その日には弓道の方で何か1年の初めの重要な大会があると言うので、結局最後に四谷の土手のお花見であった時がそのフランス文学者にあった最後のチャンスになった。これが文化とか言うものなのだなと今考えているのである。桜の時に下の桜に敬意を表して、ワンカップ大関を飲むと言うのは別に重要なしきたりでも何でもない。2024/03/22 20:30:25114.名無CCDさん@画素いっぱいoawnr私が生まれた文京区音羽の隣町の雑司が谷と言うところはかなり広い範囲にまたがっている。緑が非常に深いところで所々に巨大なえのきの木が林立していた。幕末に江戸から東京移り変わるところを膨大に大型カメラで撮影したフェリーチェBeatoの撮影した当時の江戸の町はやはり広大な街のあちこちに巨大なえのきが見える。私が少年時代の雑司が谷も似たような風景であった。雑司が谷2丁目市場の存在に気がついたのは中学生の頃だと思う。緑の多い街中を行くとそこだけが繁華街になっていて1つの通りからもう一つの通りに平行に並んでいるその両方を結ぶ長さ70メーター位の買い物通りなのである。ヨーロッパにはこのような市場の展開は無いものであって、イスタンブールのグランドバザールを非常に小さくしたような市場の作り方である。それで私がこの雑司が谷2丁目1番初めに見た頃にはまだ東京にはコンビニとかスーパーマーケットは存在するよりずっと前の話なのだ。その短い買い物通りのランドマークとして私が愛していたのはこの看板なのだ。靴の存在感のイラストレーションとしては非常にレベルの高いものだと思う。そのことが少年の頃には気がつかなかったのだけれども、ヨーロッパから戻ってきてこの間番の魅力に気がついて雑司が谷2丁目1番に行くよりもこの看板を見学に行くというのは美術館の名作を見に行くのと同じような意味が存在した。2024/03/24 07:18:37115.名無CCDさん@画素いっぱい4T11fドイツのドレスデンで作られたこのカメラは戦前のその作りと言うものは素晴らしかった。それが戦後になって社会主義になってくるとコスト第一と言うことで作りが雑になってくるのである。私はよくこのカメラのことをカメラのバロック作りと呼んでいるのであるが戦前に作られた35ミリサイズのモデルから1950年代後半のいわゆるロゴタイプがスタンプの浮き出し文字になっているのには強烈なバロック精神を感じるのだ。実際にバロック時代にカメラは作られていないがもしもその時代にカメラが作られていたらまさにこのブランドがカメラのバロックと言うのにふさわしい。それで戦前のこのカメラの垂直ルーペの構造をよくチェックしていると日に惚れ惚れするのである。まずそれそれのパーツの部分の仕上げが工芸品的な作りで仕上げられていると言うことにある。1番感心するのはご覧のような垂直ルーペの光を遮断するアルミの金属パネルの部分が立体的凸レンズ状態になっているのだ。意外とありそうで似たような構造物と言うのを私は他に知らない。このカメラもそうだが当時の一眼レフがフレネルレンズが開発されていないのでコンデンサーレンズを使っているのである。そうなるとフォーカシングスクリーンの上のコンデンサーレンズはかなりの局面になる。その出っ張りをうまくカバーするようにレンズフードのパネルが曲線を描いていると言うわけであってこんなに手の込んだ事はよくやるなと感心するのだ。もっともこの当時の35ミリ一眼レフはウェストレベルファインダーで上から垂直に画像を観察すると言うのが普通のやり方だった。それがペンタプリズムに置き換えられて固定されるようになったのは、1947年のコンタックスエスからなのである。戦前のこのカメラは日本にはかなり少ない量が輸入されたらしいがカメラ雑誌のこのカメラの解説を見ると、値段はきかぬが花と言うのもうなずける。ちなみに戦後のアメリカ市場でこのカメラの価格と言うのはライカとほぼ同じ値段で売られていた。2024/03/28 06:22:10116.名無CCDさん@画素いっぱいaslPd写真集の印刷の立ち会いに関わった事は数多くある。香港で印刷した写真集の立ち会いもなかなか面白かった。コストが安かったので、今はどうだか知らないけれど、往復のビジネスクラスのチケットと数日間の四ツ星ホテルの滞在日とそれを加えても、日本より安いのである。このショットは4年前の凸版印刷の印刷立ち会いのときの写真だ。私はいつも思うのだけど、芸術と言うのは、それぞれのセクションの人が作る共同作業であると思う。それを知ったのは、オーストリアで映画の撮影を手伝ったときの経験から来ている。それぞれのスペシャリストがそれぞれの最大の能力を発揮しているときに、隣のセクションに対してあーしろこーしろと言うのは越権行為であると言うことを教わった。印刷工場で1番信頼ができるのは、そのセクションのトップの印刷のスペシャリストの人である。だから私はそのスペシャリストを尊敬しているのであって、細かい指示等は出した事は無い。ここら辺の勘違いで全体のシステムが変な風に動くことがある。つまり自分が万能であると錯覚している。ディレクターさんがいて、印刷のスペシャリストに指示を与えてくると言うことだ。それはベストな結果を得るために指示を与えるのは良いのだけれども、力関係で相手をコントロールしようとすると、そこに軋轢が生じるのである。凸版印刷の平2部と言うのは、伝説的なテクニシャンがいたところだった。私のこの写真集を印刷してもらった後に、そのセクションは解散してしまったのである。その意味でも、この4年前の印刷の立ち会いは忘れられない。20年ほど前に凸版印刷のこのセクションの方と印刷立ち会いでご一緒したことがある。その時に専門家がチェックする。高倍率のルーペがすごくかっこ良いので、そのことを褒めたのである。そうしたらそのスペシャリストは全く同じ高倍率ルーペを私にプレゼントしてくれた。しかも私のイニシャル入りというか、フルネーム入りの素晴らしいプレゼントなのである。ところが、印刷の専門家がチェックするには素晴らしいルーペであろうが、私はまったくの素人だから、それを使いこなせるわけもない。結局、大切な宝物止まりになってしまった。2024/04/07 05:59:02117.名無CCDさん@画素いっぱいbSVav^_^ 1番winの暮らしで記憶に残るのは5番の路面電車である。ウィーンのプラッター公園を出発して、ドナウ運河を超えてwinのやや北の部分をぐるりと反時計方向にめぐって、それから西に進んでウィーンの西駅につながる全部の乗車時間は結構長くて1時間弱である。小さなwinの街の路面電車としてはなかなか長距離いた。^_^この5番の電車の周辺にはいろいろ中古カメラ屋さんがあったので、それを発信をして歩くのが楽しみであった。私の写真集に登場する。表紙のこのワンショットは近くのカメラ屋さんとの交差点で撮影したものである。使ったカメラはソ連製のキエフカメラだったと思う。それでwinが歴史的なのは、この通りよー。ベートーベンの葬列が通って、それに付き添ったのがフランツシューベルトであったと言うことだ。この交差点の近くにはベートーベンが最後に住んだアパートメントがあって、その下は今では大手のカメラ屋さんになっていると言うのも面白い。2024/04/10 05:59:02118.名無CCDさん@画素いっぱいdTviiリスボンの見えないカメラ店と言うことで紹介して日本で1時は話題が沸騰したカメラ屋さんである。なぜ見えないカメラ店を見つけたのか?リスボンの街の1番中心から西に急な坂があって、中央駅の側からスタートする逆なのであるが、そこはツーリストスポットだから小さなレストランがたくさんあって、イワシを焼く煙で先が見えないほどである。そのイワシのレストランのブロックの坂の上に中古カメラ店を見つけたのは偶然である。店のオーナーは結構年寄りであって、1947年からこの店をやっていると言う。私が生まれた年だからすごい。そこで西ドイツの放送局が使っていたあリフレックス16のアウトフィットを手に入れて、私は有頂天だった。その翌年にその中古カメラ屋さんに行ったら、お店は閉まっていて、ウインドウに張り紙がしてあった。ポルトガル語だから意味がわからないので、通行の人で英語が分かる人を探すのに結構時間がかかった。それで教えてもらった店がリスボンの見えないカメラ店なのである。リスボンの中心街のメインの通りから10分ぐらい北に歩いて左に折れて、警察署の手前の坂を上った左側にあるのだが、口で言うとそういう感じなのだけれども、なかなかそこに行つける人はいない。海外の取材に慣れているはずの私の友人のテレビのディレクターも、結局そこを発見することができなかった。カメラ屋さんのエントランスには何の看板もついていないから、本物のリスボンの見えないカメラ店なのである。日本カメラの連載でそのお店を紹介して結構話題沸騰したけれど、結局誰も到達できなかったのではないか?店のオーナーはカルロスと言うこのジェントルマンである。彼からずいぶんいろいろなカメラを買ったお店のカメラを買い尽くすとカルロスはお店の金庫がある部屋に案内してくれて、また良いものを出してくれるのである。10年位のお付き合いでここでずいぶん良いものを買った。それから10年近く経って、カルロスのお店に行ったら、中古カメラ屋さんとコンピューターのお店と折半しているような看板が出ていた。その時はお店は閉まっていたので入れなかった。仕方ないので、小さなカードにカルロスへのメッセージを書いてエントランスに挟んでおいた。それから5年ぐらいして見えないカメラ店に行ったら、お店は既になくなって看板も撤去されていた。2024/04/12 07:24:38119.名無CCDさん@画素いっぱいtBepT人間の生活のバタンと言うものはそう変わることがないから、50年前も今も同じである。チェコの偉大な写真家の仕事場のタイトルがラビリンスと言うのであってこれはなかなかタイトルでしかも仕事机の前がもので埋め尽くされている。その写真家の仕事場の様子を真似てみようとしたが、我々ファーイーストの人間は頑張ってもこのの散らかし方しかできない。チェコ人の重曹構造的にインテリアをラビリンスで構築する技術と言うのは、この国の人の天才であると思う。ウィーンの友人のズデーテンドイツ人がまさにそうであって、彼の屋根裏部屋に遊びに行くと、いつもその空間構造の複雑さに感心したものである。まるでガラクタのバロックと言う感じがした。私のwinのテーブルの上に置いてあるものを見るとライカもそうだし、生活必需品は今でもほとんど変わっていないと言うところが面白い。その意味で写真と言うのは単なる記録と言うだけではなくて、それを上回る空間構造を再現してくれると言うところに写真の面白さがある。ウィーンの美術館で、フェルメールなどのアトリエのインテリアをよく見たものだが、あれは構築された一瞬のフェイクな空間だから、実際にその通りであると言うわけではない。それに比べると私の1973の室内にはリアリティーがあると思う。2024/04/15 08:00:57120.名無CCDさん@画素いっぱいfbJrQこの映画監督が大好きと言うのはまさに時代遅れであり周囲には言いたくないのであるが、そのストーリーと言うよりも彼ができない使っていた映画撮影機に興味がある。タルコフスキーのデビューした頃に使っていたのはソ連の赤軍の報道スタッフが使っていたのと同じクラシックな手持ちのカメラであった。フランス製のカメラを真似したソ連製のカメラだ。その後長編映画を撮るようになってからやはりソ連の国産のフイルムカメラをずっと使っていた。その時代のタルコフスキーの仕事ぶりと言うのが私は好きでわざわざアメリカからソ連製のミッチェルカメラを輸入したのである。細かいパーツは異なるのであるがアメリカのプロダクションでソ連製のミッチェルを改造して実際仕事に使っていたと言うのは私のような変人がいたという証拠であって面白い。タルコフスキーが西側に亡命した後はまさかソ連製の撮影地は使えないからこのように西ドイツ製のムービーカメラで撮影をしている。プロ用映画撮影機の前に座ったタルコフスキーはなかなかかっこいいがやはり偉大な監督にはソ連製撮影機で仕事を続けてもらいたかった。2024/04/17 08:26:04121.名無CCDさん@画素いっぱい8fQKM50年前は1度に膨大な写真を撮ると言う必要があったのでこの250枚撮りのモータードライブをwinの街で使い始めた。周りの人が変な東洋人が怪しい武器を持っていたのでびっくりしたことだと思う。Win大大の2年目あたりにモータードライブの具合が悪くなって日本の日本の会社に送って直してもらって2ヶ月ぐらいしたらその修理の上がったモーターカメラが戻ってきたのであるが、winの税関に呼び出されてまた手続きが結構めんどくさいその後もずっと続けてきたこれで撮影をしていた。問題なのは現像する時普通のステンレスの現像降りるしかないので撮影の時に250枚つまり10メートルのフイルムを適当に切って現像をするのである。それでフイルムのショットショットの間に挟みが入ってしまうとその撮影画面はダメになるのであるが、これは心理的なものでなぜかちょんぎってしまった画像が非常に良いショットであると言う錯覚がもたらされた。250枚撮りのモータードライブを使っている写真家と言うのは当時はほとんどいなくて、タイムライフのメンバーが使っているぐらいなら非常に特殊な機材であった。2024/04/19 14:54:03122.名無CCDさん@画素いっぱいVpzxC1974年の5月に家人当院から夜行列車で初めてパリに到着してその頃はまだ若かったから駅からどんどん歩いて行ったらいきなり運河に出会った。土地柄も知らないしいきなり素敵な運河に出会ったと言うのがすごいカルチャーショックであって、ルーブルでモナリザに感動したなどと言うのが安ぽいツーリストの感動であったわけだ。あれからセンチュリーがかかって50数年経過しているが私の1番好きな針のポイントはやはり高校なのである。北ホテルと言うタイトルで戦前にロマンス映画があったらしくて私の周りではその頃の話をよくする人々がいるが実際には北ホテルと言うのは営業はしていなくて人類の頭の中で抑えられたものらしい。でも最近ではその映画のテーマになったところが北ホテルと言うこれはレストランなのかな?今の針の感覚でいると北ホテルとか運河のあるところは別に北の端と言うわけではないが100年前にはそういう感覚があったのであろう。それで私はメディアの取材の時はパリの五つ星ホテルなどに宿泊したのであるがこれはそのホテルを取材する必要があった頃の話だ。普段は物価が安くてごみごみしているところが好きだからパリの東一とかあるいはその東側のリパブリックの海外とかに宿泊するがそれも運河が近いというのが最大の理由である。それで雲川のほとりには私がいつもお仕事をする自分のベンチと勝手に決めているベンチがあってそこで雑文を書いたり原稿の校閲をしたりして何十年が経過したのである。パリの街角はずいぶん撮影しているがそれは写真の大先輩のAtget昨日撮影したポイントを真似して歩いているだけなのである。ところがこの大写真家はみんなはそれほどとっていないらしくて私はよく知らなかった。そればかりか運河に係る1番大きな橋であるがそれが旋回して船を下に通すと言うこともこの20年ぐらいつまりつい最近知った事実なのである。要するに勉強不足ですね。楽しむのだ楽しむのだたパリの間後だとセーヌ川のクルーズ船に乗るのがメインコースであろうが私はこの橋の上から下を行き交う船を見ている方がはるかに楽しめる。しかも水門を閉じて水の高さを上げるために恐ろしい勢いでドックの中に水が充満してくるのを19世紀のヒューマンパワーと言う認識でーー2024/04/20 06:11:43123.名無CCDさん@画素いっぱいfshJO1988年の5月にレーガン大統領がサミットのために4回目のモスクワ訪問をした。赤の広場の前で一般市民と交流していると言うセットアップである。周りの人々の目つきは全部SP関係であることはわかるがその中にモスクワの地元のアマチュアカメラマンらしい紛争を知っているのが我らのプーチンさんである。プーチンさんの着ている40年前に流行のポロシャツの模様もなかなか時代が反映されている。それで細かくプーチンさんの持っているカメラをチェックするにソ連の大衆一眼レフゼニトである。さらにリアルな演出を加えるために首から下げているのはレニングラードと言うブランドの露出型である。その後年前にちょうど私がマンハッタンに行った時レーガン大統領がいつも宿泊するのが42丁目の東の果てにあるウォルドルフアストリアホテルだった。8 × 10インチのカメラでそこら辺を撮影していた時に42丁目の角で大変な人混みになった。警備のポリスに誰が来るの?と聞いたらポリスは我らのプレジデントが今ここをおとりになるのだよと胸を張った。ここら辺が日本の警備東京とは違って大統領閣下に対してプライドを持っていると言うところが民主主義の国だと思う。^_^ロシアのトップというかソ連のトップで果たしてプレジデントプーチンが本当にカメラの趣味を持っているかどうかはビック?である。歴代の職長で1番カメラが好きだったと言うストーリーで知られているのはフルシチョフであった。彼が^_^ Summerバケーションでどこかの保養地を歩いている時に下げていたのがソレンセンハッセルブラッドサリュートなのである。フルシチョフは赤軍が使っていた300ミリの望遠レンズ付きのカメラライフルも自慢にしていた。ある日そのカメラライフルの修理でモスクワのすぐそばのカメラ工場に行ったらそのカメラはもう生産中止になったと言う。権力者がすごいものでそこで指示を出して300ミリ月の望遠レンズの新しいカメラの製造命令したのである。これが現在ある銭と一眼レフに300ミリがついたフォートスナイパーだ。2024/04/21 06:38:56124.名無CCDさん@画素いっぱいfshJOもっともその頃は彼も若かったので駅で女子中学生のスカートの中にカメラを突っ込んで撮影したという武勇伝があります。これは神話ではなくて実際にそういうことがあったのでしょう。あれから40年経過して島尾さんは60代後半の老人ですが、その本質は40年前とあまり変わっていません。ビールで良い気持ちになった島尾さんがカバンから取り出して見せてくれたのは型遅れのキヤノンのコンパクトデジタルカメラでした。こんな古いカメラはもうカメラ買取屋さんの所に持っていっても受け取ってすらもらえないでしょう。しかも外見は傷だらけで表面が歪んでいるように見えるボロカメラです。それを現役カメラとして島尾さんはちゃんと使っているのです。その人とカメラとの関係が非常に粋なものに思えました。かっこいいのです。よくわれわれカメラ人類は冗談でカメラに貫禄があるとか、偽貫禄とかということをいいます。友人でカメラに特殊メイクをして実際に使い込んでブラックの下地の真鍮が出ているようなメイクアップをしてくれる人もいます。その心理状態を確認するのに、カメラと言うものはその撮影者と行動を共にして世界の果てまで旅をして、艱難辛苦をしなければならないという意味のこれは寓話であるのでしょう。でも日常ではなかなかカメラをそのような過酷な状態に置くことができないので、それを特殊メイクアップで真似をしているわけです。いってみればカメラのコスプレということになります。私などがカメラ人類を観察するときにその人がどのくらいの「有段者」であるのかをチェックするときにそのカメラの古さがどれだけあるかということを重要な判断要素としています。カメラはちょっと古い方がかっこいい。これが今日のチョートクカメラ塾のメインテーマです。そうですよね、まっさらなカメラなんてかっこ悪いですよね。何かおろしたてのスニーカーみたいな感じで気恥ずかしい存在感がそこにはあります。2024/04/21 21:25:01125.名無CCDさん@画素いっぱいGU9bp1980年の秋に初めてリスボンに行った時に、29番の路面電車に乗って行ったり来たりして撮影をしていたのであるが、その路線の途中にある急な坂の路面電車が方向転換をしていくところに近い階の狭いカフェがある。その名前もカフェエレクトリ子と言うのである。当時は極めてローカルがカフェであって、当然のことながら、地元の人しか来ないような場所であった。もちろんポルトガル語しか通じないから、私はそこでポルトガル語の会話の勉強をしたことになる。半分地下室のような狭いカフェでコーヒーを飲みながら、道の反対側を見ていると、黄色い路面電車が突進してきて、あわや壁にぶつかると言う時にちょっと進路を左に切って、電車は全速力で通過していくのである。ディズニーランドのアトラクションなどよりはるかに面白い。大体午前中と午後にある。ファミマの辺りを歩いていて、ここでトイレ休憩をしたりするのが普通の私のライフパターンであった。それがリスボンでエキスポが開催された。ちょっと後からこの小さなカフェはなかなか商売上手になってきた。1番びっくりしたのは、カフェのお品書きに英語のメニューが加わったことである。昔からポルトガルと大英帝国はそれなりに深い関係があったのにもかかわらず、英語の通じない度数と言うのはかなり高いと言う観光都市なのであるが、それがまず普通の観光都市レベルに英語が通じるようになったのはありがたかった。それで50年前のカフェエレクトリこと、今のカフェと何が違うかというと、ここが非常に大きな違いなのであるが、50年前は路面電車の外側にぶら下がってただの利用するリスボン市民が結構いたのだ。要するに、いきなり電車に飛びついて、次の停留所の手前で飛び降りると言うことをやるから、車掌さんは文句をつけることができない。これがリスボンの伝統芸能であったのだが、もう見られなくなった。2024/04/24 10:38:34126.名無CCDさん@画素いっぱいVtsfTライカでもキャノンでもラピッドワインダーをつけた状態でカメラを格納するエバレディケースと言うものは存在するのだが非常にメーカーが作るのに苦労しているようである。ライカビットMPをつけたライカエムモデルにもちゃんとエバレディケースがあってライカをつけたまま下から巻き上げができるようになっている。巻き上げができるようになっていると言うのは事実であるがこれが非常に使い勝手もこれを使うためには別のワークショップに参加する必要があるのではと思うことだ。キャノンの場合はラピッドワインダーは後期のモデルになると固定されていてこれを外すことができない。キャノン4型の時代のものがラピッドワインダーを取り付け取り外しができるからまだ使用目的に応じて使い分けることができるが後期のモデルは固定されているからラピッドワインダーを外して軽快な撮影をするなどと言う事はできない。ライカの使い手のアンリカルティエブレッソンがこれはおそらく来日した時だと思うが、非常に珍しいキャノン4型に50ミリレンズをつけて撮影しているショットが大昔のタイムライフマガジンに登場してびっくりしたことがあった。やはりラピッドワインダーはいらない。ライカビットもいらないと言うのが正しいところなのであろうが市場関係者はそういうことになると困っちゃうよね。それでこの仕上げの非常に良い上履きの袋みたいなものがキャノンが作ったラピッドワインダー様のエバレディケースである。いろいろ研究がなされていてエバレディケースをつけたままカメラを操作するのは難しいと言う結論に足したようで、撮影のときにはカメラ本体をこの袋から出してエバレディケースがストラップでカメラ本体にぶら下がってブラブラしているのである。これもまたアイディア不足で非常に使いにくい2024/04/26 07:26:58127.名無CCDさん@画素いっぱいzSehz写真家で見えない的を狙っている岩男直樹さんのスナップは、師匠の森山大道よりうまいFacebookでフォロワーが5000近くあって、主に渋谷あたりですごいスナップを撮っている人がいるので、びっくりして見ていたら、それがこの写真家なのである。岩男さんは森山大道さんのお弟子さんと自分で語っていたけども、スナップショットとしては師匠よりはるかにすごい。私もスナップショットはやるけれど、これだけ正面から、しかも決定的瞬間に取れる人はそんなに多くない。ウィリアムクラインとは何回か話をする機会があって、十数年前に彼の大きな個展がプラハで開かれた時、通訳みたいな立場で数日間一緒にいた。その時スナップ写真についていろいろ話をした。ところがウィリアムクラインの場合は1つのコミュニティーに入って、そこでスナップを取るから、実際には町中のスナップとはちょっと意味が異なる。プラハで、政府主催の晩餐会があってそこでウィリアムクラインは派手なジャケットをきて写真家のコスプレをしてカメラを向けるとカメラを向けられた人はそれに意識するのである。それに対して、渋谷あたりで撮影している岩男さんのスナップショットは、現実に歩いている人間と瞬間的に視神経で切り結んでいるから真剣勝負なのだ。そこは面白い。北島敬三がニューヨークの同じような激しいスナップショットで有名になった頃、ウィーンで何度か会って馬鹿話をしたことがあった。ストレートフォトグラフィーの話をしたかもしれないが、その後北島は作風というか芸風が変わって大判カメラを使うようになっちゃった。写真家の芸風は本当は変わらない方が良いのである。この写真家が日赤病院のロビーで撮ったこのショットは人間のいない風景ではなくて、目には見えないけれど、人間が凝縮している風景に見える。この写真家も見えない的を狙っている1人なのだ。2024/04/27 12:23:05128.名無CCDさん@画素いっぱいCr6rY^_^日本路地裏学会はいわゆる路地裏学を研究する新団体である。それで路地裏の基準と言うのは、普通の人が考えるよりも、狭くて路地の幅を測定するときに、右手を伸ばして左の方は左側の壁に付いていて、その右手が反対側の建物に当たると言う範囲を路地裏というのである。それで世界中の路地裏を巡り歩いて、この路地裏単位と言う独特の計測の仕方で路地裏を学問してきたのが私と日本路地裏学会のMomoki会長である。会員はたった2名、新規会員募集の予定もない。リスボンのα間には、この路地裏単位にぴったり適合する狭い路地がたくさんあるから、路地裏天国と言うことになる。大通りよりも狭いというところ、そしてさらにそれがどんどん狭くなって、体の感覚で道をダイレクトに感じることができるというのが路地裏学の求めている本質なのだ。それでこのような路地裏をすれ違うときには、それなりの神器と言うものがあって、これが社会生活の基本ことになっている。相手を尊敬する心と言うべきであろう。そういう狭い路地裏を潜って胎内巡りのような感じで、その先にまた小さな小さなカフェバーがあって、そこで赤ワインをいっぱい頼んで、立ち飲みで楽しんだりするのがリスボンの^_^割と、上級なレベルのツーリズムであると思う。敬愛するフェルナンドペソアもそういうような小さなバーで、カウンターに斜めに立ってワインを飲み干している写真が残っている。フェルナンドペソアはその意味で日本路地裏学会の名誉会長というわけだ。2024/04/28 12:05:14129.名無CCDさん@画素いっぱいhOOEF私の1番最初の中国は、1981年に広州貿易会の関係で南のほうに行ったのであった。その後ニューヨークに行ってしばらく経ってから87年だと思うけれど、あちらの大手の通信社の報道写真のスポンサーがニコンと言う意向である。その時の審査委員長と言う立場で、初めて北京に出かけた。別に私が優秀な人材と言うのではなくて、あちらでは大宴会の時に必ず強い酒の取ったりやったりがある。同行のメンバーの方がお酒だめなので、私が人間の盾と言うわけで選ばれた。場所は中央区の人民大会堂に近いな中国の巨大な通信社の会場であった。。それで中心街のホテルからガイドさんに環状線の北のほうにあるべるタワーとドラムタワーを見学に行った非常にひなびたところで私の第一印象としては羅生門の荒れ果てた街並みと言う感じがして気にいったのである。その後に北京オリンピックがあったので、数年行くのをやめていて、落ち着いてからドラムタワーの北の羅生門みたいな街並みに安いホテルで暮らすようになったら、これがそこが地元になってしまうとなかなか快適な街並みなのである。何百年も前からやっている羊料理屋さんがあって、そこの肉饅頭などはなかなかよかった。それともう一つ私がランドマークとして素晴らしいと思っているのがこの所に乗り捨てられたままになっているオートバイなのだ。500年前の細い袋小路であって、当時はオートバイ等はなかったわけだが、そこに堂々としていてあるというのは、何か中国のおおらかさと言うので、気にいってよく見に行った。でもあれから10年は経過しているから、まだそこにあるかどうかはわからない。2024/04/30 06:38:20130.名無CCDさん@画素いっぱいZAIJb私の好きな雑司が谷の裏通りを歩いている時などに、いきなりスペインの片田舎の街並みの一鶴が目の前に現れてびっくりすることがある。最近の注文建築であって、スペインであろうが、ロンドンであろうが、南フランスであろうが、それに似た雰囲気の注文住宅が1つの小さな街のブロックとして出現すると言うのは凄いことだと思う。日本全国町中がディズニーランドと言うわけだ。それでこの家の画像を見て私は考えてしまった。最近ではこのようなヨーロッパ的と言うよりもインターナショナルな雰囲気の家もあちこちで見かけるものである。だから私が普段歩いている東京のどこかのキリスト教の宣教師の家であったりすると、このようなスタイルの家と言うのは結構見ることができる。ところが一方で、建物の構造を細かく見ていくと、そこにはデザイン上のフェイクと言うものは存在しなくて、建物の構築物そのものが存在感として浮き上がってくるというのが私の癖である。この分析結果は非常に簡単にバックアップできるものであって、撮影が2011年の7月なのであるが、撮影日時が午前0時30分となっている。私は旅行するときに、デジタルカメラの時間はファーイーストに合わせてあって、現地時間には合わせてないからヨーロッパの朝、つまり日本の深夜の時間に撮影されたというのがこれで理解できた。すなわちベルリンのかつての東ベルリンのセクションのどこかで撮影されたものである。日本の注文建築とは違う。2024/05/03 06:04:50131.名無CCDさん@画素いっぱいztoc4雑司が谷の鬼子母神界隈は^_^好きな街並みである。木造の5軒長屋というのがあって、私が大学時代にそこを通りかかった時に、ニコンエフに28ミリの広角レンズでサッカーボールで遊んでいる少年を撮影した。その後私はヨーロッパに行って、何年も暮らしてニューヨークを経由して戻ってきて同じ町並みを歩いていたら、その後軒長屋は非常にモダンな感じに改装されているのにびっくりした。普通木造建築と言うのはすぐ立て替えられてしまうというのが常識である。それに対して、木造建築がそのまま残っていると言うのは、私の過去の長い記憶が、そのままに完璧に保存されていたと言う意味で、これは記憶を保管する大切な保管する装置みたいなものであるそれでこの素敵な木造建築は、観光案内所になったり、喫茶店になったり、1時はラーメン屋さんもあったのだが、それは40年前の話で、今は別のお店になっているらしい。要するに、半世紀以上、5軒長屋でサッカーボールで遊んでいた少年のことが今どうしているのであろうかとくっきりと記憶を呼び戻してくれるというのが、このモダンな長屋と言うわけだ。その意味でも古い建築物を保全するのは大切だと思う。^_^2024/05/04 08:28:50132.名無CCDさん@画素いっぱいL0dMv図書の流通の会社から、私のカメラ本が売れているので毎月出ている本のトップに有名人と対談をさせてあげるから誰がいいかと聞かれたのである。沢木さんでお願いしますと言ったら、沢木さんは数ヶ月前に登場しているから、片岡義男さんではどうですかと言われてびっくりした。超メジャーな作家であるからだ。神田の如水会館20分前に行ったら、片岡先生は12分後に到着なさった。これは礼儀正しい時間関係だと思う。その時片岡さんに結構気に入られて。その後ほぼ数年間一緒に東京の街を歩くようになったのは非常に貴重な私の宝物である。それと代々木の駅の近くにある羊屋さんと言う名前の料理屋さんでよく食事をご一緒することがあった。片岡先生はなかなか料理がお好きらしくて、注文して余ったお魚とハンバーガーのパンを使って私のためにフィッシュバーガーを作ってくださった。それをお土産に持ち帰って、翌日家人とはんぶんこして食べたらなかなかうまかった。この話を片岡義男ファンにすると、結構羨ましがってくれるのも嬉しいことだ。それでこのスパム恵&ライスは、片岡さんから直接聞いたのではないが、彼の小説の中に出てくるハワイアンの労働者階級の結構伝統的な食事なのである。片岡さんによると、これは労働者の下から2番目の階級が食べるものだと言うようなことが書いてある。その後片岡さんに何度も会っていろんな話をしたのだが、それでは1番下のクラスの労働者が食べる料理はなんですか?というのをついつい聞き損ねてしまった。家人が時々これを食べたくなるので、簡単だから作ってあげたりすると本当においしいと言うのは嬉しいね。それで家人はいつも宝物の1715年に作られたと言う年代のマークのあるウィーンのこのお皿で片岡義男のスパム&エッグを食べている。つまり、スパム&エッグとヴォルフガングアマデウスモーツァルトの三位一体と言うわけだ。2024/05/05 10:02:12133.名無CCDさん@画素いっぱいEc7xP東京の佃島で暇人が集まって全く売れなかったスイス製の一眼レフアルパカメラの同好会を作ったのが30年以上前でそれが解散したのが20数年前である。もうその事は誰も覚えていないから、忘備録として、ちょっと書きつけておきたい。その当時の日本の中古カメラ市場では、アルパの一眼レフなんてだれも欲しがらないし、大抵壊れていたので、我々が研究会を作ったら壊れたアルバを大量に押し付けられることになった。そのうちアルパの研究が進んで自分たちで分解して修理できるようにまでなったのだからすごい。何十年もこのスイス製の鳩時計みたいなカメラを使っていて考えるに1番使ったのはこのモデルだと思う。これは第二ジェネレーションと呼ばれているモデルであるが、そのスタイルが好きなのだ。よく例えとして描くけれども、1950年代のスイスの電気機関車のようなスタイルと言うのである。実際にこれによく似た存在感の電気機関車というのが、大昔はスイスで走っていた。アルパの会社は自分ではレンズを作らないから、全部外国のレンズメーカーに頼っていた。広角レンズのほうはフランスパリのアンジェニュー24ミリと28ミリである。別に素晴らしいレンズと言うわけではないが、レトロフォーカスの世界で1番最初に作られたレンズであるから、そこに性能うんぬんと言うのはもともと無理である。これはアンジェニューの28ミリだけど、Exaktaマウントであるから、自動絞りの連動する位置が120度ずれているのであるが、別に使用上は何の問題もない。それをマウントアダプターでアルパに付けている。アルパはどんどんモデルチェンジして、1番最後の頃の製品の専用のレンズと言うのはペンタックスのたくまレンズであった。そこら辺がなかなかレンズのことがわかっていたカメラメーカーだと思う。2024/05/06 15:43:38134.名無CCDさん@画素いっぱいAIoDm10年以上前から東京を一緒にうろうろしている友人がいて、その人が言うには洗濯ものは東京の風景の重要な1部であると言うのである。私より2回りぐらい若い人で、こういうのは体験していないであろうから、おそらく木村伊兵衛さん、昔の作品などに触発されてそういう印象を持つのであろうと思う。要するに、戦後の写真家のせいぜい40年代位までの東京と言うのは、過去の東京の風景が周辺部によく保存されていた。晴れている時があって、そこに洗濯物が干してあると言う構図である。ところが路地裏は狭いからなかなか広角レンズでも撮影が難しいと言うポイントもあって、路地の洗濯物干し場と言うのはモチーフとしては難しい。ドイツあたりには洗濯物を外に干す習慣は無い。だからイタリアとかスペインとかポルトガルに行って、私がこれは懐かしいなと思うのは、路地と路地の間の空間に紐を引き回して、そこに洗濯物をぶら下げると言うあの人間的なテクニックである。洗濯物を室内に干さないと言う習慣は別にアメリカになかったわけではなくて、ジョナスめかすがリトアニアから来た直後のブルックリンとかロバートフランクも撮影しているし、ウォーカーエバンスも撮影しているのであるが、日本とはかなり違う巨大な構造で外で洗濯物を干しているシーンが登場する。だから別にファーイーストだけの特徴ではないと言うことだな。私が数多く撮影した昔の東京の洗濯物の写真で、これは1番好きなものの1枚である。何が好きかと言うと路地ではなくて空間が開いていて、背後に木陰があって、そこで涼しい風が吹いていると言う印象を与えるショットであるからだ。^_^撮影場所はとっくに忘れているが、それは別にこの場合重要なことではないと思う。2024/05/09 07:30:08135.名無CCDさん@画素いっぱいR9LD0aPS-Cのフィルムカメラと言うのはカメラメーカー各社がかなり真剣にやった。それで大々的にAPS-Cフィルムの販売をやって、私もいろいろなカメラをテストした。1番困ったのは長年使ったタイプが24ミリ× 36ミリの分割比率であるのに対し、APS-Cカメラはそれよりも横がちょっと長くなるわけである。これが長年ライカを使っていた人間には何か骨の折れることで、自分の写真美学を横方向にちょっと引っ張ってやらなければならないと言うのは頭脳では理解できるけれども、感覚的にはこれができないのである。これも10年間展開したカメラジャーナルの中の作例なのであるが、縦画面にするとますます上下が引っ張られたような感じになって、構図として落ち着きがなくなると言うことが非常に気になった。もともと私の場合はノートリミングでやるタイプの写真家であるから、パノラマカメラであったらそれはそれで問題は無いのだが、ライカサイズよりちょっと横が広がったと言うのは、生理的になかなか許せないところがあるのだ。aPS-Cのフイルムカメラはそのままなんとなく縦横の画面比率はそのままでデジタルカメラにシフトしてしまったら、これはハイビジョンの館横画面と同じ比率だから、文句を言う人がいなくなったと言うのも不思議な展開であった。まずハイビジョンというか、デジタルカメラの場合は、基本的に横画面で撮影することを念頭に作られているのであろう。でも、私のように縦画面で撮影すると、やはり上下が長すぎる。2024/05/13 07:21:43136.名無CCDさん@画素いっぱいv6Tar^_^出雲の写真家小池さんが送ってくれた1990年代の私の個人カメラ雑誌カメラジャーナルのページである。東京カメラクラブは毎年1度だったと思うけれど、カメラグランプリと言うプライスを出していてキャノンが出した太陽電池で充電する太陽やろうと言うニックネームのカメラが選出された。これはそのカメラで撮影した作例である。90年代半ばでは、エネルギー問題で太陽エネルギーを使うと言うのは非常にユニークなことだ。今でも太陽光発電は利権がらみで燃えているよね。普通はカメラを保管するときは日陰に置いておくのであるが、このカメラがユニークなのは窓際のお日様がサンサンと言っているところに置いてくださいというのがまず通常の常識を転覆していてユニークである。しかもお日様に向けると形状記憶合金が反応してパタンとカメラが開くようになっている。。それで当時暮らしていたタワーマンションのトップから建設中の隣のタワーマンションを撮影したのがこのショットである。わざと画面を傾けているのはロバートフランクの影響だな。東京カメラクラブの写真、文化勲章の時、開発者のキャノンの方に聞いたら、当時はなかなか太陽電池の良いのがないので、メキシコから輸入したと言うお話を伺った。この対応というのがいいよね。2024/05/16 05:45:19137.名無CCDさん@画素いっぱい3UqO8住吉さまの裏手の掘り割りに浮かんでいる釣り舟を見て、これはベニスだと思った。極東の湾岸の中の砂州がベニスに酷似しているなどとは、時差ぼけの極みだが、これはプラハとの比較なのである。プラハは「北のベニス」などと呼称されているが、あれは観光局が苦し紛れに造った言葉で誰も本気で信じてはいまい。「北のベニス」に対して「佃のベニス」が現実味を帯びているのは、水面が干満することだ。モルダウは北に開けているのが、気に食わないし、数百年ぶりの洪水はあったけど、海の呼吸はないわけであるから、その意味でベニスを呼称する「資格」に関しては、佃の狭い泥臭いキャナルの方が一段も二段も上である。突然、「天啓」が兆して、「東京大周遊」の発作。 進路を320度にとる。 すなわち、20キロかなたの板橋区は真言宗豊山派 長徳寺方面を目指す。東京駅が東京駅に見えない。 空が開いているので、まるで北辺の地方都市か、昭和20年である。 なんのことはない。大改造のための巨大な布がかかっているだけなのだが。 いや、これはやはり、かのクリストの仕業か?大手町で知り合いのADさんに路上で遭遇。彼は本ブログの大愛読者さんなのだ。 どちらへ? と聞かれたので、これから「板橋方面へ」と答えた。これが江戸時代ならかならず徒歩で 行くわけだから、説明の必要もないが、今は平成の世だからそれに「歩いて」と付け加え た。飲み屋に行くためとは言わなかった。 相手はあたしがよほど重要な任務を帯びているのであろうと、深くうなずいた。神田橋、神保町。神保町のグリューネアレーは厭なアーケードが取り払われて、すっきり とそらが見えるのはいい。ウンターデンリンデンだって、シャンデリゼだって、世界の一流の通りはアーケードにな んかなってない。ミラノの中心部が嫌いなのは、その理由による。そこから、水道橋、春日町。春日で白山通りの渋滞状況を道路の表示で確認。「巣鴨まで15分。板橋まで30分。戸田橋まで45分」とある。これを3倍すればほぼ人間の徒歩の時間のめやすとなる。白山界隈で、警察の機動捜査の面々がビニール袋に入った「凶器」について、その中の私 服さんが本部とけーたいで連絡している。 「はい、そうです。長さは約20センチ。いわゆる文化包丁です」いやはやごくろうさま。でも、そんな「なまくら」は「木屋」には売っていないな。白山通り。平凡社の前を通過。おう、ここであったか。通過記念に看板を撮影。2024/05/18 13:51:54138.名無CCDさん@画素いっぱいtq4aFウィキペディアの私のデータベースを以前にびっくりしたのは、写真家の中では最も知的な存在であると書かれていたことだ。これは1種の写真家差別であって、写真家と言うのは知的な存在では無いけれど、その中で田中長徳だけがちょっと頭1つだけ出ていると言うふうに理解することもできる。このヘンテコリンな表現はこの10年位にカットされたようなので一安心。それでウィキペディアの下のほうに、世界的なレベルでの私のデータベースのリンクがつながっていることに気がついて、それをクリックしてみたら、ドイツ国立図書館の私の写真集のデータベースが出てきた。これは非常にありがたい次第である。最近のデータベースはどこの美術館でもどこの図書館でもそうなっているが、実際にそこに行く必要はなくて、オンラインでそれをチェックできるのである。例えば、正岡子規が人生の最後に記録した草花とか果物の1連の本があるのであるが、1連の本と言うのは、オリジナルなドローイングと言う意味である。これが国立国会図書館でデータベース化されているから、誰でも好きなときに自由に鑑賞することができる。私は写真家として複製芸術のかたを持つと言う意味では、ワルターベンヤミンの隣に座っていると言う意識を持っているものである。10年にいっぺんぐらい商売で、ヨーロッパの有名な絵画が日本にやってきて、高い入場料をふんだくられて、それのテレビ取材に応じる^_^人々が言う言葉が全部同じステレオタイプである。すなわちやっぱり本物は違いますね^_^このコメントは私はアートを知らない理解できない低レベルの人間ですと言ってるのと同じことだもんな。でもそこら辺を明かしてしまうとアートの関係者さんの商売にはならない。2024/05/22 09:21:33139.名無CCDさん@画素いっぱいz9qKHエアバスが380を出した頃は、世界中に沸騰したものであった。しかし、日本へのお客さんが少なくなったので、エアフランスはあっという間にエアバス380のサービスを中止して、そのかわり中国にサービスを行うようになった。誠に当然の次第である。ベルーガと言う巨大飛行機はそのデザインを見ているだけでワクワクする。でもこれと言うのはベースはエアバス300だそうだ。エンジンなどをアップしているに違いないが、エアバス300と言うのは大昔に東京からモスクワ経由でヨーロッパに行くエアバスの飛行機だった。もちろんベルーガは貨物便であるから、長距離を飛ぶ必要はなくて、こまめに給油して飛べば良いわけである。日本には警視庁が輸入した巨大ヘリコプターを運んだりする実績で4回ぐらい飛んできているらしい。でもそういう数多い中っている中で、1番芸術的でかっこいいなと思うのは、2009年夏にドラクロワの巨大な絵画を運んで神戸に着陸している。私はもともと巨大な絵画は嫌いだから、ルーブルでも全く見る事は無い。ドラクロワなどは退屈の極みである。小さな絵画が好きな人間なのである。でもそのことを別にしても、文化的な目的のために巨大絵画を運ぶと言うのは実にクールでかっこいいと思う。最近のベルーガは、フランスのツールーズから新しい通信衛星プロジェクトの通信衛星をフロリダに運んだりしているそうだ。ツールーズと言えば、サンテグジュペリのアビエーションの小説によく出てくる。^_^初期の郵便飛行の通信の記録などがある。ラジオ便6時15分ツールーズ発航空郵便フランスアメリカ便は午前6時15分トゥールーズを出発せりそれでフランスアメリカ便がアリカンテを通過した後に消息不明となって、ドラマの幕が開くのである。この翻訳は家人の親戚の堀口大学なので、高校の時からよく愛読しているのだ。2024/05/24 11:54:25140.名無CCDさん@画素いっぱい8ZN8a塾長さんが長徳さんの写真を褒めてましたよっ!2024/05/25 09:25:02141.名無CCDさん@画素いっぱいU4oBD1870年代の終わりの頃にウィーンではじめてのメトロができた。しかし出来立てでラインは1本しかないから、パリのメトロのようにLINEが縦横無尽に走っていると言う本物の感覚はなかった。それで本物のメトロの街であるパリに2週間ほど撮影に行ったのである。このときの生活が不思議なものであって、早朝にメトロの近くの喫茶店でカフェオレいっぱい飲んで、昼過ぎまでメトロからは出てこない。メトロから出たら近くのカフェで簡単なランチを食べて、またメトロに夕方まで乗っている。この体験が私にパリのメトロを近づけてくれた。。あの頃のパリのメトロの乗客はなかなかスマートであった。と言うのは極東のメトロに座っているお客をとると肖像権とか何とかですぐ喧嘩になりそうなので、パリではそういうことがない。プライベートスペースとパブリックスペースの個人の意味合いがよくわかっていると言うことに感心した。つまり、パリは大人のメトロの街なのだ。犬を連れてアコーディオンを弾く名物のおじいさんがいて、その人を追いかけていたのだが、今日はあのLINEのあのあたりに行くといるのではないかなどと予想を立てて出かけるのだが、それが当たったときには嬉しかった。何十年か経過してアサヒカメラの連載をしているときにこのパリのメトロのシリーズを紹介する必要が出てきた。アサヒカメラにはバックナンバーがないので、担当編集者さんが大宅壮一文庫まで出かけていってコピーしてくださったのである。感謝感謝。でこのシリーズが10ページほどアサヒカメラに登場した。1979年の終わりの話をやり直すが、編集者さんにタイトルをメトロのパリとお願いしたら、印刷した雑誌ではパリのメトロになっていた。それはわかりやすいけど、そういう意味ではないんだよなな。カメラはライカCLとライカエムデーを持っていった。レンズはソ連製の20ミリとソ連製の50ミリだったかな?要するに使っている機材は全然変わっていない。2024/05/25 09:41:55142.名無CCDさん@画素いっぱいeAGO3いつの時代でも森山大道はスーパースター。歩いている事を眺めるだけで、それは事件になるのである。私は森山さんと路上で遭遇する率が割と高い。何しろ私が29歳森山さんが36歳の時に、ヨーロッパを巡回する写真の展覧会の時に初めてお目にかかって以来のお友達なのであるから50年以上。リコーカメラが新しいフイルムカメラをスタートさせたときに、森山さんにお渡ししたり、友人に頼んでニューヨークのロバートフランクさんにお渡ししたりしたこともある。つまりカメラの広報関係の仕事ですね。ヨーロッパから日本に戻ってきた。1980一年頃だが、東京は上野のアメ横を歩いていたら、前を森山さんが撮影している。いきなり声をかけては失礼にあたると思って、しばらく後をつけていた。森山さんはブラックのペンタックスに35ミリの広角レンズで撮影をしている。それが1段落して、森山さんがハイライトに火をつけようとした時、私が声をかけたら、森山さんはびっくりして、ハイライトを逆さまに加えた状態で、シガレットに火をつけたのでフィルターがくすぶって音がした。それ以来、私はロバートフランクさんでもリーフリードラン出さんでも天才荒木でも通行中の有名写真館に声をかける時は、まず相手が私を認識した状態の時にお声をかけるようにしている。この遭遇した現場はあけぼの橋なのである。すぐそばがガラクタ屋さんなのである。この時森山さんに声をかけたついでに彼をガラクタ屋さんに連れて行けばよかったと今に思うと残念だ。曙橋が不思議なところで、中平卓馬さんがなくなるちょっと前の夕暮れに、やはりこの界隈で中平さんを見たことがある。普段はアシスタントの人がいるのに、真っ赤なウィンドブレーカーで1人で歩いていたのが奇妙であった。2024/05/27 05:47:32143.名無CCDさん@画素いっぱいVugXXカメラの貫禄と言うのはここまで行きたいこの16ミリ撮影機は世界で最も成功した映画カメラの部類に属する。もともとプロフェッショナルな目的で作られたから個人がこれを持つと言う事は考えられなかった。映画プロダクションとか放送局が使っていたのである。それでミュンヘンのこの映画カメラの本社に、1973年にカタログを送ってもらうように頼んで、それが私の宝物となった。その後、実際にこれらのカメラを手にしたときには、天国が近づいたと思ったのである。それでこの撮影機はタフに使うものであるから、通常の来客等のような仕上げではなくて、はるかにレベルの上のカメラ本体の構造とペイントがなされている。私が中学生の修学旅行の時にそれを取材に来たNHKのカメラマンの人がこのカメラを持っていたので、触らせてもらって感動した。大人になるなら、いつかはこういうカメラを持ちたいと思ったのである。それから何十年かして、ドイツのライカの工場とその工場のある小さな村を撮影に行ったとき、私はこの16ミリ撮影機を携えていた。人生の夢がここに達成したと嬉しかったのである。このカメラの個体はあまりにも使われたので、このような感じになっている。よくライカのブラックペイントを長年使うと、貫禄が出てかっこいいなどと言うのであるが、これはそういうアマチュアレベルを超えた激しさが感じられる。しかし、プロフェッショナルの間でも、あまりにはげはげの映画撮影機は格好が悪いと言うことなのであろうか?アメリカのプロ機材のファクトリーでは、こういう状況になったカメラを新品同様のブラックペイントに理ペイントしてくれると言うサービスも以前はあった。私はボロボロの使いこんだほうがよほど存在感があって好きなんですけどね。2024/05/30 07:24:21144.名無CCDさん@画素いっぱいaVNfN空からイッポンの光の筋が射してくると言うのは、旅行中にはよく見る光景である。何か現実離れした不思議な瞬間である。ところがこの1枚の作品はザルツブルグ近代美術館に所蔵されているものなのであるが、自分の意識で撮影したものではない。1973年の夏、winに暮らした。最初の夏であるが、ライカM3に90ミリのレンズをつけて全く無意識に雲を撮影した1枚なのである。もとより一眼レフであるから、画面をチェックすることはできない。それで現像して驚いたのは、1本の光のパワーが空から降ってくるところが映っていたのだ。当然のことながら、ミラクルでも何でもなくて、90ミリレンズのハレーションとゴーストイメージによるものなのである。でもここで大切なのは、これがもし一眼レフで撮影されて、ゴーストイメージを私がちゃんと把握しているような状況だったら、それはうまくとられたと言うことにはなるかもしれないが、表現の域まで来ていると言う言い方はできないであろう。このまぐれ当たりでできた作品は、1973年の秋にウィーンで開催された。私の写真集でも展示されてカタログにも掲載されている。つまりイスラエルの神の国の偽物の光と言うわけだ。2024/06/02 08:14:51145.名無CCDさん@画素いっぱいYSBWG昭和20年代に大阪方面にあった水道メーターの制作外車がミノルタの下請けとして作ったのがこのルックカメラであると言う。もともとは同じメーカーが作っていた。エレガと言うカメラの高級バージョンで連動距離計が付いているのだ。ところが、残念ながら、その当時の日本のカメラの制作技術では、この連動距離計というのがなかなか制作が難しくて、結局生産中止になって、ごくごく少数作られたものが市場に流れたらしい。たかだか45ミリの標準レンズが固定されて付いていて、その距離計の連動に問題があったと言うのは、今ではちょっと考えられない背景であるが、その当時はそこら辺がリアリティーがあったのであろう。でも、今の時代はクラシックフィルムカメラにイッポン数千円のフィルムを入れて撮影したとか自慢するというのはすでに時代遅れの背景になってきたので、こういう本物のクラシックカメラは別にフィルムを装填しなくてそのアピアランスを楽しむと言う。いよいよクラシックカメラの楽しみ方の最終段階に近づいてきたと言うことを、私はここで強調しなければならないのだ。それで私が最大限に評価しているのは、このカメラのトップカバーのロゴタイプなのである。かなり優れたデザイナーがいなければ、これだけのロゴタイプが作れたものではないと思う。アメリカの有名雑誌とか日本のパッケージツアーの商品名にもなっているけれども、それをすでに超えている素晴らしい存在感である。こういうカメラは手にしてそばに置いておきたいが、何しろ3000ドル位するのです。^_^私の手元にはリュックから距離計連動を外した。エレガがあるから、別にそれを楽しめば良いだけの話。2024/06/09 06:31:54146.名無CCDさん@画素いっぱい5wkjOそれに詳しい人に言わせれば堀切菖蒲園と立石は全く別の街である。そこら辺のことをマスターに聞いてみたら、このハンバーガ屋さんはもともと立石にあって、それが十数年前に堀切菖蒲園に引っ越してきたのだそうである。立石バーガーのマスターは哲学者がそのままハンバーガー屋さんになったと言う感じでそこが偉いと思う。しかもなかなか器用な人で自分で梯子をかけてお店の看板を交換したりもするし、自分のイラストの広告なんかも非常にうまい。つまり万能選手なのである。自分のところで焼いたパンを売っているのは、当然ながらここの350円の食パンと言うのはおいしかった。店の右手に料金投入口があって、そこに350円入れると食パンが転がり出てくるのである。それで当時はジャンピング食パンと言うので、かなり話題になって食パンを食べると言うよりも食パンが飛び出してくるところを見たいので買い物に行ったのである。それで1時はマイナーなメディアもメジャーなメディアも引っ張りだこになって、いつも取材が耐えなかった。私が遊びに行っているときに、どこかのメジャーな放送局が取材に来て、光で指定した歌を一緒に歌わされたりもしたので、まずこれも何かのご縁と言うべきだろう。ここのアメリカンクラブハウスサンドイッチはなかなかよろしい。2024/06/10 11:06:13147.名無CCDさん@画素いっぱいeY43uアル研や東カメでのオフ会が懐かしいですまた集まって呑みたいですなぁ2024/06/11 11:34:10148.名無CCDさん@画素いっぱいsjvXyウィーンは19世紀の初め頃にはヨーロッパで屈指の大都会であった。ただし、その人口は大したものではなくて1,750,000人ぐらいだった。そのように大都会が近代工業の規範のもとに作られていくとなると中心部があり、その周辺に都市の機能を構築させる。色々な部品が取り付けられるわけだ。それでウィーンの南の当時の郊外にいくつかのガスタンクが建設された。今のものとは違ってレンガ造りで、なかなか建築学的に重要な存在感である。winに暮らした最後の時期にそこら辺のガスタンクの面白さに気がついて撮影に行ったのである。このときの同行者は古谷正一とクリスティンであったな。彼らはライカで、私はコンタックスの1947年生の一眼レフコンタックスエスに20ミリの東ドイツ生のレンズをつけていた。その時は古谷とクリスティンの中は良かったみたいだが、その3年後、私がニューヨークに滞在しているときに時間を見つけて、winに久しぶりに行って、古谷とクリスティンと家人と4人で飲んだのであるが、その時は古谷と奥さんはなかなか険悪な感じで罵り合っていたので、心配したのである。悲劇が起きたのはその翌年だったのではなかったか?このガスタンクの跡地はそのままうまい具合に改造されて、今ではショッピングセンターのような感じにそのまま継続して使われていることを知ったのは、それも20年位前の話だったので、今はどうなっているかは知らない。それでもwinのような大都会を構築する近代世界の基本構造がガスタンクであったと言うことを思い起こすのは非常に重要なことである。この作品でもちょっと見ることができるが、まっすぐな通路の左側のエントランスの上に金属製に作られた植物がオーナメントとして語られているのである。ガスタンクも好きだけれども、この金属で作られた植物の由来は知らないが、このあたりに行っていつも見ていたメランコリーオブジェなのであった。2024/06/12 06:06:36149.名無CCDさん@画素いっぱいAH7ru今のSNSのようにブロック機能や非公開機能なかった昔のBBSなんか恐ろしいもんだったと思う2024/06/13 08:34:41150.名無CCDさん@画素いっぱいdokbcクラシックカメラはともかくとしてそのクラシックカメラを入れていたカメラボックスを収集するようになったのは10年位前である。夫の元はガラクタ屋さんであって、戦前の赤いライカの箱がひどく安い値段で置かれていたので、それを手に入れたのが最初だった。^_^それからしばらくしてまたガラクタ屋さんで、戦前のライカの箱が置かれていて、それを開けてみたら、いげた上にフイルムが保管できる仕切りが漬けられていて、そこに20本ぐらいのフイルムが入れられるようになっていた。それで蓋の内側の上の方には、1万から20番までのメモが付けられていて、そこには撮影者の覚書、例えば昭和12年、夏鵠沼海岸海水浴などと記入されている。それでにだいめさんにこのフィルムはないんですかと聞いたら、2代目さんはあれいるんですか捨てちゃいましたと言う答えだった。これはよくある業者さんの勘違いと言うものであって、winなどでも150年前の写真アルバムがあって、ワクワクしながらアルバムを広げてみると、貴重な写真は全部捨てられてしまって、アルバム本体だけがそこに残されているのである。業者さんの認識と言うのはそういうものなのだね。話がカメラのオリジナルボックスに戻るが、この時代のカメラの本箱と言うのは、いずれも基本的にはライカの会社の箱とカールツアイスの会社の箱を真似して、それを2で割ったようなデザインが多い。ニコンとかキャノンの白などもどちらのメーカーを真似しているかは、ここでは明かさないが、やはりライカ方面とかコンタックス方面に引っ張られているのである。それでこのカメラメーカーのオリジナルボックスの実態を知っている人は非常に少ないと思う。けれども、デザインから見るとかなり上質な処理がなされていると思う。厳密に見てみると、デザインが入りすぎであって、ここが大切な問題なのであるが、デザインを完璧にやりすぎてしまうと、カメラよりもカメラのオリジナルボックスの方が存在としては上になってしまうと言うめんどくさいな展開もあるのだ。2024/06/16 09:11:42151.名無CCDさん@画素いっぱいzybud大阪芸術大学で10年以上写真芸術論を教えていた時に、私がホワイトボードによく書いていたのは1本の長い矢印を真ん中に書いて、途中で写真家が昇天したとしても、その写真家のムーブメントは未来に向かって続いていくのだと言う講義を毎年やっていた。その時、私がホワイトボードに書いたのは、中平、卓馬であり、田原桂一であった。これは写真家とか人間関係の存在だけではなく、ペットに関しても同じことが言える。ペットと一緒に過ごした時間よりも、ペットが過ぎ去った後の時間の方がそのペットの存在感を強く感じられると言うのは、私だけではなく、周囲の人がみんなうなずくところである。それでヨーロッパに暮らしていた時なども、冬などで外が寒くなって、室内が湯気で、ガラス窓が曇ってくると、私たちはいつもそこに大泉学園町で本当に短い期間経っていた。白黒の猫ちゃんの姿をさっと描いて満足していたりしたのである。生きているベッドよりも、その時間軸上に生きているペットの方が、むしろ愛らしいし存在感があるね。6時半にはビロード革命の前から見ると、革命15周年ではなかった。25周年の時まで足掛け34年間アトリエに暮らしたのである。ところがそうなると飽きてくるもので、時々プラハの別の部屋に住み変えたりしている。ある雪の朝、東京に飛び立つその日なのであるが、プラハに初雪が降った。それでペット連中のことを思い出して、窓のすぐ外側に書いたのがこのイラストレーションである^_^2024/06/19 08:50:26152.名無CCDさん@画素いっぱいSqmSxアメリカの映画俳優の事は全く知らないけど、高校の時この人が主演の大脱走と言う映画を見た。栄光のルマン等は見ていないが、何故かこの人が使っていたと言う真四角なクロノグラフは持っている。それでこのショットは、栄光のルマンか、何かのレーシングのときのドライバーからのポイントオブビューを記録したバックステージビューであると思われるが、これがフランス製のボリューカメラなのであるレーシングドライバーは重いヘルメットの脇にさらに16ミリカメラをくっつけて、これで撮影したのだから、今のハイビジョンの時代とは完全に異なるのが大変なご苦労であると思う。フランスのこのカメラメーカーは、当時としてはドキュメンタリー用の16ミリフィルムカメラでは世界で最も軽いと言う性能を誇っていた。だから当時のこのカメラメーカーのカタログを見るとゲリラ闘争を取材するニュースカメラマンと言う。これは今ではちょっと考えられないようなシチュエーションがカタログになっていて、反体制勢力がマシンガンを持って攻撃しているところを女性のニュースカメラマンが撮影していると言う。極めて忘れられないショットがカタログに掲載されているのである。この時代のドキュメンタリーは皆そうなのであるが、例えばエベレストのアタックを目指す時も下の方を探検しているときには35ミリカメラのムービーで撮っているから、画像は安定して見られるけれども、最後のアタックのところになるととにかく酸素不足だし、ゼーゼー言って運動がままならないから、その場合には50フィートの短いフィルムを入れた。16ミリの超小型カメラを使用する。^_^だから最後のアタック、誰が頂上を極めたときは、そのムービーの画像は短いしぶれている子色も悪いし#ではないのである。そういう記録映画を見て、我々その当時の少年は空気が薄いと感じたものであった。ここら辺が映画のドキュメンタリーのリアリティーとでも言えよう。2024/06/22 05:47:30153.名無CCDさん@画素いっぱいuPhEY以前にも紹介したことがあるけれども、これは1980年の春ごろに中国交易会で有名な広州に、家人と初めて行った時の写真である。その時は毛沢東と周恩来がトップスターであって、どこの写真館にも、巨大なこの2人の肖像写真が掲げられていた。それでこれはちょっとメイン通りから奥に入った小さな写真館で撮影してもらって、当時はカラー写真は高価であったから、それよりも値段の安いモノクロームで撮影したものに人工着色をすると言う、今で考えたらこちらの方がはるかに手間がかかる時代だと思うのであるが、その人工着色の写真で、私は感動して、人工着色用の絵の具とか筆を買って帰ったら、もちろんそんなの使うわけなかった。今回この貴重な中国の人工着色写真で私が気がついた事は写真のバックグラウンドである。写真屋さんがいきなり来た日本人のために慌てたのであろうかバックグラウンドが半分しか下がっていない。その半分の背景を見るに、これはここがポイントなのであるが、実に半世紀の前の中国のパール、リバーの理想とした現代的風景がイラストで描かれているわけだ。それから30年ほど経過して別のようでパールリバーを見に行ったのであるが、そこの高層ビルの林立と言うのは50年前の当時の中国の人が理想として描いていた現代都市の風景など木っ端微塵になるほど先のほうに進化していたと言うわけだ。だから現代の中国のスカイラインを褒めていると言うわけではありません。2024/06/24 05:33:17154.名無CCDさん@画素いっぱい59zlvhttps://x.com/gekibnews/status/1805163005270966588?s=46&t=rSIg-ZHzNQinEgYNwWCYJgあれ?誰かに似てる2024/06/25 05:48:47155.名無CCDさん@画素いっぱいcp1X2笑っていいともに、いちどだけ出演した話テレビ番組は文化関係の番組に出演して、文化人のギャラを何度かもらったことがある。大体3万円から50,000円ですね。文化人だから。それがいきなり笑っていいと思うから出演依頼があった時は非常にびっくりした。それで新宿のスタジオアルタに行ったのである。2千11年の7月7日だったか?生放送と言うのは結構怖いものであるが、それなりに楽しかった。それ以前に私は笑っていいともを見たいと言うので、往復はがきで30枚以上応募したのだが、全部ハズレであった。出演するのには往復はがきを出さないでいいから、そちらの方が楽である。それで驚いた事は桁が1つ違ったのではないかと思うようなギャラをいただいたのもびっくりしたのである。いろいろなことが面白かったけど、スタジオでドアが自動的に開いて、ゲストとしての私が登場するというのは、あのドアは自動的に電動式で開くのではなくて、フロアディレクターさんが両側から引っ張ってあげているんだね。そういうことがわかっていろいろ面白かった。ピアニストのYamashita Yohsukeさんにウィーンで会って意気投合していろいろ楽しかったのであるが、それから10年以上経って友人から教えてもらったのだけど、ピアニスト富田と言う本の中に私が紹介されていて、その次にタモリさんが出ていると言う事はデビューはほぼ同じなのである。テレビというのは恐ろしいもので悪いことはできない。笑っていいともに出演した後に札幌に行って、定食屋さんでご飯を食べていたらおでんを運んできた。お姉さんがあなた笑っていいともに出ていた人だねと言われました。全国成敗みたいなもんだな。2024/06/26 06:37:53156.名無CCDさん@画素いっぱいiB0mWインターネット上でよく流通している画像がこれである。記憶が定かでないが、1945年ワルシャワではなかったかと思う。この頃のストリートフォトグラファーの典型的なもので、これは当時のインスタントフォトグラフィーである品タイプと呼ばれているやつだ。フイルム現像が簡単にできるポラロイド写真の前身みたいなものである。そこで興味があるのは廃墟になった。都会を避けて、その手前にスタジオのバックドロップを置いて、そこには平穏な田園風景が映っている。こういう営業写真館の伝統的な方法と言うのは、ポートレートを撮ってもらう。ゲストにとっては非常に安心のできることであったのだろう。それに対して、当時のファッションフォトグラファー、例えばアーヴィング編とかリチャードアヴェドンが使ったテクニックと言うのは、背景には何の図柄も描かれていなくて、それはニュートラルな白いバックグラウンドなのである。無地のバックグラウンドの方が、その前に立っているポートレートをうつされている人の存在感が浮上するのは言うまでもない。半世紀ほど前に家人と中国広州に行った時に、写真屋さんで記念写真を撮ってもらったときには、それが人工着色なので感激したものであったが、他のセクションでも触れたけど、そのバックグラウンドを見ると50年前に彼らが想像していたパールリバーとその周辺の理想的な近代都市の風景なのである。ところが中国の風景は皮肉なもので、50年前、彼らが理想としていた風景よりも、現在のバールリバーの風景のほうがはるかに先走ったものになってしまった。ワルシャワの風景の変貌も、まさにその通りだと思う。2024/06/30 06:01:04157.名無CCDさん@画素いっぱいlZQ99ちょうど20年前にエプソンが世界で最初のデジタルレンジファインダーを出した。ライカのエム8よりかは数ヶ月早かったと記憶しているが、ライカはこれで世界最高のカメラブランドに傷をつけられたと言うので結構参っていた。その事はその当時のライカの社長さんに直接会って、それとなく真実を聞いているのである。要するに、ライカと言う世界チャンピオンのボクシングの王者がいきなり表すれた複写機専門の4回戦ボーイにテクニカルノックアウトをやられたようなものなのである。しかし、4回戦ボーイのエプソンはその後続かなくて、結局デジタルレンジファインダーはこの1系統だけになってしまった。フルサイズのエプソンも出ると言う噂がエイプリルフールの時横行していたのも懐かしい。それでその当時は、APS-Cはフォーマットとしては不十分でフルサイズでなければダメなどと言う風評が行き交っていた。でも私はエプソンの広告の仕事でポスターも出したし、写真集も出したから、仕事カメラはAPS-Cで充分だと考えている人間の1人である。エプソンの写真集で懐かしく思うのはその表紙はプラハのアトリエなのである。何が面白いかと言うと、この表紙のショットはプラハのアトリエがモダンなインテリアに改装される。以前の戦前に作られた鉄のウインドウがまだはまっているクラシックタイプの頃のアトリエであったからだ。だからこのクラシックなインテリアを見ると、エプソンが登場した当時には、まさしく20年前であることがわかるのである。2024/07/03 08:59:18158.名無CCDさん@画素いっぱいHSLoj筋肉痛あり。原因は早朝にワインの栓抜きで激しい運動をしたせいだ。数年に一回の手こずるほどの開栓だった。30年以上プラハでいつも飲んでいたのはフランコ不可と言う名前のモラヴィアの赤ワイン。これが非常に多かった。今いつも飲んでいる。チリの赤ワインにちょっと似たシンプルな味わい。それでプラハの暮らしで面白かったのは西川から輸入された。ワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつはインド金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう坂様の価値観ができてしまったわけだ。30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良い。ワインとフランスのそれほど良くない。ワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあって出来した。44生やったワインの4位の勢いでワインを何系ですか輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の下古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な白物物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったもの。末の会社の社長の今井さんにその仕事を店に行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺は飯嫌いだから。2024/07/07 06:47:47159.名無CCDさん@画素いっぱいt9aQI20年近く前の話だが、なかなかいいギャラリーが佃島の近くの亀島橋のほとりにあった。タイトルがなかなか良くて、ギャラリーノット=ギャラリーと言うのである。オーナーは佐藤さんと言う気鋭のディレクターであった。アートにも非常に詳しい人で佐藤さんと話をするのが楽しみで、近くのショップでちょっといいアイリッシュを1本持ってそれを持ち込んでバカ話に花が咲いた。そこに集まっているアーティストもなかなか見所のある連中で東池袋の有名な名もなきコロッケ屋さんのコロッケをまとめて差し入れしたことがあった。その中のモダンアーティストで、お酒はいってきも飲まないと言う青年が何もなきコロッケ屋さんのコロッケをひと口食べて、非常に高く評価したのである。さすがギャラリーでないギャラリーは、構成が違うのだなと思った。ギャラリーに行くには、急な階段の段違いになっているところを3階まで上がるので、エレベーターはなかった。今の私だとまず天国に達する位の難しい。階段だから行くことはできないと思う。私の仕事を非常に評価してくれて、写真展をやることを何度か勧められたのだが、佐藤さんは歩1日一緒めいた手紙を私に送ってそのまま実施してしまったのである。音声変換ができないのでもう一回言うと自ら天国に旅立ったのである。私の残念さからすると、まずワルターベンヤミンがスペインの国境で昇天したのと比べられると思う。2024/07/10 07:54:59160.名無CCDさん@画素いっぱいyFglkWinのアパートメントはドナウ運河に隣り合っていて、アパートメントの東側はこのような大きな広場になっていた。ここは路面電車の^_^系統がたくさん交差するような交通の忙しいところであった。その広場を超えると、協会があって、協会の先のエントランスは巨大な庭園に通じているのである。カイザーフランツヨーゼフがよく好んで三宝した巨大なお庭で、ウィーン少年合唱団の本拠地もここにある。有名な陶磁器のメーカーもここにあって、仕事で少年合唱団とか、ポルシェ嵐の後を撮影に行ったこともある。カイザーフランツヨーゼフがこの公園を散歩しているときに、通行人が皇帝陛下に恭しくお辞儀をするので、皇帝は講演の中で私を見てもお辞儀をするには及ばないと言う命令を出したと言うのも笑えるね。それでこの広場のランドマークなのであるが、ご覧のように巨大な樹木が茂っていて、どういう種類の器であるのかはわからない。ただ春の季節になると、綿毛のようなものをたくさん放出するので、それが懐かしくて拾ってきたりもしたものであった。それでコダックのワン店の広告なのであるが、今見ると不思議な感じがするのはコダックのカメラが世界を制覇していた時代というのが確かに存在したと言うことなのである。何しろドイツの1部というかドイツをアドルフが併合した。オーストリアと言うところから見ると、アグファフィルムが世界のトップであったのだから、そこまでイーストマン・コダックが攻撃する。その最前線のバトルラインがここであったと言うふうに見ることも可能だ。2024/07/12 00:10:44161.名無CCDさん@画素いっぱいFpvUP涙橋のそばにある大林酒場がなくなったらしい。東京の数ある中で最も個性的な飲み屋さんだった。怖い飲み屋と言うのは2種類あって普通考える。怖い。飲み屋と言うのは例えばマンハッタンの8番街と42丁目の角にある。飲み屋は行った時は知らないで通っていたのであるが、後から人に聞いて、ニューヨークで最も危険なバーの1つであると言うので強くなった。ハンブルクの港の荷役をする場所のすぐそばにあったバーも偶然見つけたのだ。けれども、これもすごくて働いている人の喧嘩が常に絶えないので、カウンターでビールを飲んでいると、頭の上をビールの空き瓶が飛行したりするのである。これは面白いからドキュメンタリーとしては使えると思って店のカウンターの光の親父さんに写真撮っていいかいと聞いたら別に俺は構わないけどあんたがたどうなっても知らないよと冷静に言うので撮影はやめにした。これに対してもう1種類の怖い。酒場と言うのは、店の親父さんに独特な個性があってそれを怖いと言っているのである。その中ではおそらく今の東京で最も怖い酒場だった。サービス精神などと言うものは全く考えていないし、カメラ女子が来て珍しいので、携帯を取り出すとすぐレッドカードが出てくると言うようなところなのである。私はそこの親父さんとは、割と1対1で話をして可愛がられた方であった。もちろん店内は撮影禁止であるが、私は共産主義の時代に撮影禁止のところを撮影するのに慣れているから、それがこのインテリアなのである。何が懐かしいかと言うと、私の実家は昭和30年代に万年筆製造業をやっていて、日本橋高島屋にパイロット、万年筆などと並んでウインドウを出していたのである。その直スプリング万年筆と言いました。それで職人さんを雇って、労働時間も何もあったものでは無いから、真夜中もモーターが動いてエボナイトの軸を削ったりしていたのである。私はそこの坊ちゃんであるから、職人さんがお世辞を言ったりして、その頃から私の性格が4時間挙げられていたのだと思う。大林逆刃刀70年前のスプリング万年筆の向上と何が似ているのか、冷静に考えてみたら、その空間構造なのである。すなわち、木造建築のよれよれで天井が高い。それとガラスの引き窓がついている。これだけファクターが揃えば同じ空間の懐かしい思い出が蘇る。2024/07/14 06:21:21162.名無CCDさん@画素いっぱい3tUZe1973年のモスクワの五つ星ホテルメトロポールに宿泊した時、ダイニングルームで出会ったアメリカ人夫妻がザルツブルグに行ってきたが、素晴らしいところだと感激していた。アメリカ人はヨーロッパに対する文化的コンプレックスがあるから、ザルツブルグあたりで感激してしまうのかと私は不思議な気持ちがした。^_^ロバートフランクにしてもそうだが、彼はスイスチューリヒ出身であるから、ニューヨークに長年住んでも風景論としてはニューヨークを批判しているのである。ドイツ人はドイツ人でザルツブルグと言うのはドイツの南にあると思っている位なもので、結構所在地を誤解している人は多い。私などもザルツブルグにはなるべく縁がないようにと思っていたのだが、ヨーロッパ滞在の最後の方になってザルツブルグカレッジでワークショップをやることになり、最初の計画が狂ってしまったのだが、それはそれでよかった。ちょっと前に出した私の写真集でその中に掲載されたワンショットなのであるが、冬のザルツブルグが写っている。私はザルツブルグは毎年夏に行くものだと思っていて、自分の記憶の中では冬のザルツブルグというのが存在していないと長。これは私が忘れてしまっただけである。このショットでは、ザルツブルグのお城を後から見たところであって、そこに1人の老人が雪の中を杖をついて歩いていると言う。私の作品の中ではなかなか好きなショットなのである。^_^自分の撮影したザルツブルグの雪の中のショットが、未来の自分を予見していたと思うと、何やら人生が楽しくなってくる。2024/07/17 02:26:23163.名無CCDさん@画素いっぱいxWitBそのような1連のレンジファインダコンタックスであるが、最後の最後までコンタックスレンジファインダカメラはライカM3のようなトップレバーの巻き上げをすることをやめたと言うのも興味深い。コンタックスコピーであるソ連製の1連のキエフカメラであるが、1970一年になって最後のキエフファイブと言うモデルでは、巻き上げがトップレバーに改良されているのである。そしてこれは構造が2中になっていて、従来のような巻き上げもできる仕掛けになっている。コンタックスのレンジファインダーのコピーであるニコンカメラはいち早くニコンエフツーの時代からレバー巻き上げになったしね。2024/07/22 08:08:43164.名無CCDさん@画素いっぱい9EuyMアルパ研究会の思い出が懐かしいですね。2024/07/23 09:01:52165.名無CCDさん@画素いっぱいp5b46アルバ研究会の頃3十数年前の佃島でスイス製のアルパと言うヘンテコリンな一眼レフを愛好する怪しい集団があって、毎月1階秘密結社を開催していたのであるが、10年ぐらいやってもこういう馬鹿は充分であると言うので自主的に開催したのであった。メンバーの1人がアルパの専門の研究書籍を出したり、テレビ取材が入ったりして何が何だかわからない。このてんやわんやの10年間は思い出すとなかなか楽しかった。会費1000円ずつ出し合って向かいのスーパーに買い物に行って大宴会をやるから、当初は、アルパ研究会あったのが知らない間に、アルコール研究会になってしまった。まだネットオークションなどが登場するずっと以前の話でメンバーが持ち寄った不良品ではなかった不用品は非常に安い値段が付いていて、ジャンケン大会で勝った人がそれをゲットすると言う原子共産制みたいな資料流通がそこに存在したのであった。当時はアルパカメラと言うのは、銀座のカメラ屋さんの厄介もので、そういう背景から壊れたアルパカメラが作った時間に吹き寄せられて自然発生したと言うことになる。手先の器用な連中もいるから、だんだん修理に慣れてきて壊れたアルパカメラは自分たちで治せるような共同体になってしまったのが今にして思うと不思議である。アルパのモデル10というのがあって、このファインダーが不思議なほど真っ暗でよく見えないのである。それでメンバーがいろいろ知恵を絞ったがなぜ暗いのかがわからない。それで理解できた事は、ファインダーのコンデンサーのレンズが上下逆さまに間違って取り付けられていたのである。逆さまに組み直したら明るい画面になった。会員数が120人ぐらいになったりして、これは何とかしなければいけないと思っていたら、Retinaハウスの経営者の望月さんと言う人は冷酷な独裁主義者であるから、毎月一定の日に開かれるアルパ研究会の日にちを中心のメンバー以外には教えないで大粛清を行ったこともあった。ここら辺の独裁者のやり方は冷酷で私などはなかなかできないのだが、さすがクレムリンの上に立つような人は凄いなと感心したことであった。2024/07/25 06:43:09166.名無CCDさん@画素いっぱいgyO1FM月さんの恐怖政治は、不穏な動きをするブルジョワ的反革命分子を排斥する意味において、アル研という組織を守る為には必要だったのではないかと思われます。特にあの時期は色々ありましたから。2024/07/25 14:25:35167.名無CCDさん@画素いっぱいGtL51ニフティの人?2024/07/27 10:08:54168.名無CCDさん@画素いっぱいXxtxJニフティフォーラムからですね。初期は平和でありましたよ。2024/07/27 10:39:19169.名無CCDさん@画素いっぱいQRiciマジかー(´・ω・`)どうもありがとうございます2024/07/27 11:04:52170.名無CCDさん@画素いっぱいXxtxJ「香港フラワー」という写真集出した人をスゴく馬鹿にしてた爺さんいましたね。「あんなの犬でも撮れるわ!」と酷い言い様でしたよ。2024/07/27 19:29:12171.名無CCDさん@画素いっぱいGB40O>>170Y縣さんね某カメラ倶楽部では人気者ですよ過去にばっかりこだわる愚か者はさっさと消えなさいなww2024/07/28 16:58:53172.名無CCDさん@画素いっぱいsrgVHアルパカメラの存在感ゴールドカメラというものがある。1つのジンクスだと思うのだけど、カメラメーカーがゴールドカメラを出すと、その会社はやばいと言うような感覚が、我々カメラ人類の間にはある。アルパカメラは最初のモデルが1947年に登場して、それから50年位は存在したのだから、カメラメーカーとしては長く頑張った方だと思う。それで一定数のゴールド仕上げの一眼レフを出しているのだ。ゴールド仕上げで1番間違いをしたのは、日本のカメラメーカーでペンタックスとかコンタックスの一眼レフもそうであったのだけど、霧の箱に入って、カメラを触るときに白手袋が必要であろうと言うので、それが付属している。要するに、化粧品扱いの考え違いの方向なのだ。それに対してゴールドのアルパは実際にかなり使われた痕跡があるから、カメラ人類はこのカメラをちゃんと理解していたことになる。問題なのはゴールド仕上げに対するカメラ本体のレザーの色のコントラストなのだ。ゴールドに対してレッドとかグリーンのレザーになると、いかにもけばけばしくて品格が失われてしまう。それに対して、このモデルは、グレーのレザーを使っているところが非常に品があって気に入っているのである。もう一つこの時代のアルパカメラうざっには、面倒なところがあって、ネックストラップアイレットと言うのは別のアクセサリー部品でそれをねじ込むようになっている。これが数が少ないので、最近はもうほとんど見かけないが20年前ですらネックストラップ、アイレットの金具が2つで20,000円以上すると言う馬鹿な値段であった。そういうものを手に入れる我々の方にも責任があるのだがね。2024/08/04 07:23:04173.名無CCDさん@画素いっぱいTWAtDアル研かぁ懐かしいもう鬼籍に入られた方も多いもんな良い意味でめちゃくちゃな時代であった2024/08/04 15:37:54174.名無CCDさん@画素いっぱいVzmmzそういえばピューリッアー賞取った長尾靖氏が孤独死で無くなった時、あの爺さんが「アイツが賞で貰った黒のM2とレンズはどうなった!?」と騒いでたわ。2024/08/09 19:42:59175.名無CCDさん@画素いっぱい2yW3s20年位前に渋谷の東急の文化クラブから依頼されてライカ愛好会と言うワークショップをスタートさせたのである。ありがたいことにたくさんの受講生の方が来てくれた。面白いのは講座の時に皆さんそれぞれ自分の座る位置が決まっているので、逆に顔と名前を覚えやすいのである。それで3年ぐらいやった後に、そのワークショップが双子多摩川のほうに異動すると言うので、遠くて面倒だから継続してやるのはお断りした。そしたらその直後にこのスナップショットで私の赤い旗を指差しているジェントルマンがいるが、彼が中心になって来会公開がなくなったの。だから、偽物のライカ愛好会を作っても良いのではないかと言う提案があって、彼が中心になって新しい組織がスタートしたのである。それでプロフェッショナルなクオリティーで作った今の大愛好会のこういう赤旗があるので、ちゃんと背中に背を得るようになっているから、ボリシェヴィキではないが、偽物ライカ愛好会の赤旗に結集せよと言うようなインチキスローガンを走ったりしていきがっていたのである。当初はメンバーが毎月幹事を務めて、それぞれワークショップの行き先を決めたりして、それが終わると大宴会があったりで、なかなか来夏のワークショップと言うよりか通常の飲み会のようになってしまった。そうこうするうちにコロナ騒ぎが来たので偽物ライカ愛好会は現在お休み中である。^_^しかし、思わぬところで偽物ライカ愛好会の活動に関連して、私の交友範囲が広がったりしてありがたいことだ。やはりライカには人と人とを結びつける不思議な力が存在するのだ。2024/09/05 08:09:21176.名無CCDさん@画素いっぱいFqgrsロバートフランクは1950年代終わり頃にマンハッタンで走行する。バスの中からたくさんの写真を撮影してこれが名作の1つに数えられている。私も好きな写真がたくさんあるので、これを初めて見た。20歳の頃に真似をして東京でバスに乗ってたくさん撮影した。その中の1部はスイスのカメラ雑誌などにも掲載されている。それ以来、半世紀ぐらいバスの中から撮影すると言うことを継続しているのであるが、それで忘れられないのは東京のバスに初めて冷房が入ったのが1969年頃であったことだ。それまでの東京都の飛ばすは、夏は窓を解放して、涼しい風というか熱風を入れて走っていたのである。バスからの撮影で面白いのは良い。写真が撮れるかどうかは運転手さんの運転の技にかかっていると言うよりも、全てが偶然の産物であると言うことだ。赤かぶ検事の和久俊三先生と対談をしたときに、先生は国際的な弁護士であるから、事実と事実でないものと言うのを完璧に区別しているのである。それで私のスナップショットのように偶然の要素が入ってくると言うのを最初から排除しているのであるから、うまく説明ができなかった。東京でバスをとっていて、気になるのは自転車^_^通学の女子高生がちょろちょろ私の視界に入ってくるわけである。気にしてないと言えば嘘になって、結局こういうような写真を撮ってしまうが、なかなかいい感じに撮れている。それで考えたのは1950年代後半のロバートフランクのバスの写真の名作がたくさんあるが、そこには女子高生の自転車通学のショットは1枚も入っていないと言う。これは結構謎なのである。しばらく考えてその謎が解けた。アメリカは0のイエローのスクールバスが通学の最も重要な手段であるから、アメリカの女子高生が買い物、自転車でちょろちょろ通学すると言うような事は最初からありえないのだ。ロバートフランクもこれは残念なことであったと思うぞ。2024/09/06 07:26:56177.名無CCDさん@画素いっぱいD9ixn坂崎幸之助さんと偽物。ライカ同盟を作った頃によくこの話題になった。坂崎さんも私もマイナーなブランドのカメラが好きなので日暮里で作った偽物ニッコールなどというのも盛り上がったのである。それでその時に何かの対談だったと思うけれども、坂崎さんと話題が盛り上がって、ドイツの西フランスとの国境に近いフライブルクに、このカメラの出身地なので、これを探しに行くなどと、つまらない計画を立ててしまった。フライブルクの大学は20世紀初めに著名な哲学者を輩出したような文化都市であって、また旧市街の街中をきれいな小川が流れているような素敵な町である。しかし中古カメラ屋さんと言うのは全くなくて、要するにこれは教訓なのであるが、有名な中古カメラをその出身地に探しに行くと言うのは無理な話である。坂崎さんとこのカメラの何にしびれたかと言うことを思い出してみると、カメラの名前が普通な感じと言うところがその原因の1つで他には何もないというのが無責任極まりない。当時のアメリカでは結構売れたカメラとレンズであって、独自の50ミリef 1.5などと言うのは25年前には手がつかなかったけれども、最近のネットオークションではとんでもない値段が付いているのだから、カメラとかレンズのブランドと言うのはわからないものである。家人の音楽大学の教え子で卒業して20年ぐらい経過して、それまで勤務していた組織を辞めて時間ができたのでヨーロッパに行きますと言うメールが来た。それでびっくりしたのは彼女の行き先がこともあろうにドイツのフライブルクなのである。この人は20年位前に初期の東京マラソンを完走したような人だから、別にフライブルクでマラソンがあるとは思わないけれども、何かそちらの方面で出かけたのかな。帰国してから別に行った理由は関係がないので質問はしなかった。まさか、このカメラを探しに行ったのではないよね。2024/09/08 06:57:27178.名無CCDさん@画素いっぱいJflrGお前の文章はイタズラ品だよ2024/09/13 09:00:34179.名無CCDさん@画素いっぱいUxirO運用2024/09/14 10:24:32180.名無CCDさん@画素いっぱい94279誰も読んじゃいねーよ2024/09/18 06:18:45181.名無CCDさん@画素いっぱいk9N6c保守2024/09/18 07:51:00182.名無CCDさん@画素いっぱいEbf9sライカウィルスを感染させたぞ!聖路加病院の主治医のたくちゃん先生は私のカメラ本の読者である。この前診察の時にやはりライカを買わなければいけませんよとライカウィルスを撒き散らしたら見事感染してこのカメラを手に入れたと言う。そういえば30年位前に腰痛で順天堂大学に入院していた時に、院長先生がナースステーションに私のネームプレートを見て夜バラの花を持ってお見舞いに見えた。院長さんも私のカメラ本の読者なのである。私が退院しても院長先生とはお付き合いがあってあっちこっち飲み歩いた。その時に院長先生が言うには僕は膠原病の専門家だから長徳さん安心してくださいと言うので、当分膠原病になる予定はありませんと申し上げた。聖路加病院のたくちゃん先生のほうはライカウィルスが発病したばかりだからそれを治すには交換レンズを買ったりするのが1番の特効薬である。銀座松屋の中古カメラ市もオープンしたしね。カメラ人類にはいろいろなタイプがあるがやはりライカを持っていますと言うことをステートメントとしてカメラ自慢の中に捉えるとその人の知的ステータスが高く感じられると言うところがある。いや別に順天堂とか聖路加の先生が知的ステータスが高いのは当然ですけど。2024/09/19 15:54:17183.名無CCDさん@画素いっぱいQd6F2安原カメラの思い出カメラジャーナルと言う名前の100円、雑誌は90年代半ばから10年位毎月発行していた。最後の1年は普通の同人雑誌みたいな暑い出版物になったが、最初の9年は8ページのペラペラなパンフレットの安いやつみたいなもので、ヨドバシカメラに並べておくとお客さんがタダだと思って持ち帰ったりしたので、後でプライスタグをつけるようにしたのである。安原カメラは京セラに勤務していた。安原さんがフリーランスとなって中国に注文して予約制で販売した。ユニークなカメラで、当時はまだデジタルカメラが全盛になる。以前であるから、各メディアでかなり注目を浴びたのであった。私もモノマガジンと言うメディアの取材で安原創業者さんこれはご自身でそのようにな載っていたのであるが世田谷区の若林の私にとってはなじみのないところにバスを乗り継いで出かけた。安原カメラの本社はワンルームマンションであるというのがユニークでよかった。安原創業者さんは椅子に座って私に対応したが私の椅子は無いので床に座って安原さんから話を聞いた。日本の大企業の人と言えば京セラの稲盛さんでインタビューしたこともあるがそれよりユニークなのが安原創業者なのである。私の− 1戦から見ると彼の白いソックスの親指が彼の会話にシンクロして動くのがなかなかいい感じだった。販売のシステムは確か先に五線円高を支払ってカメラができると残りを払うと言うような形だった。当時は信州中野のコシナレンダーがベッサと言う名前のレンジファインダーを販売直前であって社長の大手はかなりついたところがある。それで私が手に入れた安原カメラを見せてくれと言うのでこちらレンダーの社長に譲って光は分解したりして一応安心したようである。スナップシューターの私としてはこれ以上望めない優秀なライカコピーであるが普通に使う人は内臓メーターのLEDが暗いとか言うので文句を言っていた。2024/09/25 07:57:40184.名無CCDさん@画素いっぱいDQS1Pプラハの夕暮れを何回見たか? プラハのアトリエに34年間住んだと言うと皆さんびっくりするけれども、それは34年間ずっといたわけではなくて、プラハに2週間位で東京に3ヶ月いてプラハに3週間いてと言うような事の繰り返しの時間をトータルで計算してみたら全部で34年になったと言う意味だ。1989年のビロード革命の直後からここに暮らしてビロード革命四半世紀の2014年だったと思うけど、もうここに暮らすのは充分だと言う認識が生まれたのである。それでプラハの夕暮れを何回見たかと言うことだが、アトリエの天窓は上のほうに付いているから、このショットもそうであるが、窓を開けて左側を見ると、それが西の空なのである。だから、別の見方をすると、漫然と部屋にいて、夕暮れの空を見ると言う事はなくて、自分の意思で能動的に、窓を開けて左側に首を向けると言う意識で、初めて夕暮れに遭遇できると言うのは自然観察をするにはかなりアクティブな行動であると思う。アトリエの窓は世界に向かって開いている。このフレーズを有名な文芸雑誌の編集者が褒めてくれたこともあったな。2024/10/20 14:35:12185.名無CCDさん@画素いっぱいDcgse私が初めてニューヨークに行くまでのマンハッタンの印象と言うのは、あれは映画のために作られた空想の街で実際には存在しないと思っていた。それでwinに暮らしていた30歳のときの誕生日か家人が私にくれたのがニューヨークの折りたたみの地図である。その地図で私はニューヨークの地理学を勉強した。だからマンハッタンに到着した最初の日から私は自由自在にこの小さな島を歩きまわることができた。私が1番好きな写真集ウィリアムクラインのニューヨークの話である。最も重要なワンショットというのがこれなのだが登場人物が子供なのはわかるが両方とも非常に大人びている。^_^右の子供のキャラクターもおかしいし左の女の子のアクションも正常ではない。それでどのようなシチュエーションでこの写真集の重要なショットを撮影したのかと言うことと、もう一つは使ったカメラは何であったのかと言うことだった。という重要な質問と言うのは手のひらに書いておけばすぐ?できるのであるがなかなかそういう事はやりにくいのである。それでプラハでウィリアムクラインに会ったときに私が高校生の時に銀座の本屋で買った写真集はサインしてもらって満足したのであったが後に思い出したのはこのビック?だったのだ。すなわちカメラは何を使ったのですかと言うことだ。こういうどうでもいいことに我々カメラ人類は人生の重要なポイントであると勘違いしてしまうのである。それで何十年も持ち続けていたこの質問は結局聞かずじまいになってしまった。おそらくニコンS3に2.8センチのニッコールレンズだと思うけどね。2024/10/21 12:00:33186.名無CCDさん@画素いっぱいsSkTIJosef Sudekの場合は、第一次大戦でイタリア戦線にいた時に、友軍に間違って攻撃されて右手を失ってしまうのである。それから彼の本格的な写真家の仕事が始まったと言うのは結構皮肉なことである。でも失う以前に写真は地元のカメラクラブに入って結構いい成績で活躍していたようなのである。写真家のモノグラフを見ると、初期の仕事はこのような一般受けするというか、写真のポピュリズムと言えるような作品をとっている。これは両手が使えて、ハンドカメラで撮影したものであろう。家族連れが公園を歩いていて、左の手前にいるのはインスタント写真を撮るフォトグラファーに見えたが、よく見ると手回しオルガンなのである。プラハの伝統芸能のどこにでも見られるエンターテイメントである。もっとも、公園の中には最近はいなくて、もっぱらカレル橋の上でハンドル回して音楽を奏でている。この写真家の場合、5体満足であったときには、確かに写真は素晴らしいが、ごく当たり前な作品である。それが片腕になってから三脚の上にカメラをセットして全く新しい境地で撮影をするようになった。初期の作品から、晩年の作品までを並べてみると、その違いが明白にわかるのが非常に興味深い。2024/10/23 08:13:55187.名無CCDさん@画素いっぱいojWHWロードカメラにはこの時代のもののオリジナルパッケージを探すのはなかなか大変なことである。そして注目すべきはこの時代のオリジナルのパッケージと言うのは取扱説明書とか保証書だけではなくて、実際に出荷されるときにこのカメラのこのレンズで撮影されたテストフィルムがちゃんと添付されていることなのだ。この面倒な作業はユーザを安心させるためには最も有効な方法だと思うが、これもドイツあたりのやり方を真面目に真似したもののようである。ドイツにミュンヘンにあったハインツキルフィットと言う会社は、プロ用のレンズで有名なメーカーであるが、そこの製品は出荷するときにそれぞれのレンズで撮影されたテストフィルムを貼付していたのである。ロードカメラの場合を見ると撮影に使われたフィルムはコピー用のミニコピーである。だからシャープネスが保たれると思ったのかもしれないが、そこら辺の背景はどうもよくわからない。1種のトランキライザーの効果はあったに違いないが、レンズの良し悪しとか写り方と言うのは、最初の1本のテストフィルムを撮影してそれを使った写真家が自分の意思で決めると言うのが正しいやり方だ。2024/10/28 10:03:11188.名無CCDさん@画素いっぱいn9TgUコミュニティバスに乗るのに結構はまっているのである。普通の路線バスとは関係ないような路地の奥まで入っていけると言うのと、一旦乗ってしまうと降りるまでどこを走っていたのか全くわからないと言うところも素晴らしい。葛飾区小菅の界隈を撮影して歩いて気に入った魚屋さんなどがあって、面白い街だと思っていたら、非常に歴史的な米屋さんと言うのに出くわして全く手入れをしないまま何百年と言う事は無いけれども、何十年も経過していたのがそれも建物のプライドで非常に良いと思った。歩き疲れたので、ふと周りを見るとこのクラシックな米屋さんの向かいの自分が立っている。ところがコミュニティバスのバス停なのである。20分に1本ぐらいバスが来るらしいので待っていたらハイエースみたいなすごいプライベートっぽい。まるでコミュニティーバスとは関係ないような車がやってきた。それでおばさんのドライバーさんが運転をしているのだが、私が乗ったら、運転席から手を伸ばして私にキャンディーをくれたのである。コミュニティーバスはずいぶん乗ったけど、キャンディーをくれると言うのは空前絶後の大剣であった。最近ではエスライトでタクシーに乗ることも多いが、その運転手さんがキャンディーをくれるのである。その2週間後にタクシーに乗ったらやはりキャンディーをくれたので同じドライバーさんであることがわかった。2024/11/02 17:11:28189.名無CCDさん@画素いっぱいsXG6x四半世紀以上前のことになるけれども、高輪にカメラ屋さんがあった頃にそこに行く道の行すがらに突撃さんに出会ったのである。ライカエム4のブラックペイントを持っていた。それでライカの話が弾んだわけだが、突撃さんが私を認識したと言う事は、私が既に本を出していたから、知っていたと言う以外に考えられない。そうでなければ私は単なる通行人であって、突撃さんは私の認識のしようがなかったからだ。それから突撃さんとは結構深い。お付き合いがあって、六本木ヒルズに仕事をしていた頃はアポイントなしでいきなり来たり、その後は彼は佃島近辺に住んでいて、今ではコンビニになってしまった熱いお湯が用意してあるお風呂屋の朝日と言う所の常連さんでもあった。カメラが非常に好きでガラクタ屋さんなどでカメラを発掘してくる。写真に対する制作する欲望は100%なのであるがカメラの手前のところで興奮してしまってその先の方まで行かないというのが、彼の魅力でもある。なかなかの行動で自民党がまだ野党だった時にJRのどっかの駅で暗殺された阿部ぴょんがいたのを呼び止めてツーショットを取ったりしている。こういう行動力と言うのは普通の日本人男性にはなかなかできるものではないそれでこのショットご説明するとソ連製のキエフ5と言う私の好きなコンタックスコピーがあってそれは50ミリのジュピターレンズが付いているのだがレンズのバヨネットが外爪なのである。だから他のコンタックスマウントカメラにつかないのを突撃さんにお願いして無理矢理改造してもらっているところである。私が馬鹿話をしているわけでどんどん仕事が進んでいくと言うものすごいライブ感覚であったその突撃さんも数年来小田原のほうにお住まいなので、最近はお目にかかる事はないがお元気であろう?2024/11/03 06:13:35190.名無CCDさん@画素いっぱいMFG0m^_^私の東京の地図の中では、葛飾区の立石とお花茶屋が位置関係がごちゃごちゃになっていて、立石の事であると記憶するとそれがお花茶屋であると言うようなこともある。スナップショットの場合、そのショットが厳密にどこで撮影されたのかと言うのはそんなに重要なことではないから、駅のプラットホームの立石かお花茶屋かどちらかであると言っておこう。あぁ今思い出した。考えていくうちにこれはお花茶屋のプラットフォームであることがわかりました。ごめんなさい。それで京成線の駅の話なのだが、ここら辺の駅はいわゆる見捨てられた駅というか急行も特急も止まらないから、都心に行くためには各駅に乗るのは良いとして、その待ち時間が忙しい都会人には結構長い待ち時間なのである。その誰もいないプラットホームに女の子が2人所在なさげに後ろ向きで立っていると言うのは、私のスナップショットの定番ではある。ライカのフルサイズだったら21ミリで横画面でバッチリというのがこれなのだけれども、この場合はエプソンカメラでAPS-Cサイズで12ミリの腰レンダーがついている。だから35ミリフルサイズに換算すると18ミリか19ミリで21ミリよりはちょっと短いがなかなか使い勝手のよりカメラアングルとなる。最近の数年間で撮影した東京のスナップショットとしてはトップファイブ位に入るのではないかと自画自賛しているのだ。2024/11/10 10:54:35
【渡辺真衣被告】「何度、農薬やロープを持ち出したことか…」『頂き女子りりちゃん』に3800万円を騙し取られた50代男性「月給20万円」「自宅はゴミ屋敷」の困窮生活ニュース速報+1251984.92024/12/25 15:41:25
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
オーストリアは小国であるが、難民とか移民政策は全力でやっていて、尊敬に値する。極東のこの国がそういう意味では実にあきれ果てた次第である。
それでモスクワのプロフェッサーと場所と時間を示し合わせて、夕刻になってwinの北西部にあるきれいな公園を訪問したら、彼は公園の茂みからガサガサ出てきて私26ミリフィルムカメラを手渡した。私はプロフェッサーに200ドルほどのお金を払ってそれで取引を終了した。
感心したのは、その時にプロフェッサーは奥さんと2人のお嬢さんを私に紹介してくれたのである。その3人は夕暮れの光の中で静かにトランプゲームをやっていた。何かロシアの小説というか、チエホフの中に出てきそうなシーンだなぁと変に私は感激したのであった。
そのプロフェッサーの一家はカリフォルニアに行くと言っていたのだが、すでに40数年が経過している。元気でいればいいね。
それで私は二台の高級フィルムカメラを持つ身になってプラハに行った時、東ドイツ製の白黒の16ミリ映画フィルムを買ってきたのである。それを撮影してウィーンでは現像するところがないので、東ドイツの私の友人にフイルムを送ったのだった。そしたらその友人は東ベルリンでちゃんとフィルムを現像してくれて、それをまたwinの私の母鳥を送り返してくれた。ちゃんと映っていたし、国際協力によるモノクロ映画フィルムの現像と言うそのフィルムは今でも持っている。
桑原先生とはかなりお付き合いがあって私の不良在庫のライカM2を買っていただいたりした。ご高齢になってから先生からよく電話がかかってきて君から買ったライカの代金を払ってないから支払うよと言うので、先生その分はもうお支払いいただきましたなどと言うこともあった。
20世紀人類である桑原先生だから電話についているファックスマシンの使い方がわからなくてかなり苦労されたようである。だからファックスと言う表示が出ていて上が出てこない場合には桑原先生だなとすぐわかると言う判別をしたこともある。
もう一方ファックスが苦手なのは片岡義男さんであってまず当時の私の交際関係からするとこのお二方が横綱大関でファックスがうまく送れないと言うメンバーである。
片岡義男さんの場合は一眼レフに50ミリのレンズで縦画面と言うのが専門であった。桑原先生の場合はカルティエブレッソンをしのぐようなフレキシブルな横画面のスナップショットである。
桑原先生がパリに初めていらしたときのパリでのスナップショットがまた秀逸であって写真家の英流さんの後について歩いているから英さんの背の高い後ろ姿がよく桑原先生のスナップショットには出てくる。
^_^普通はこういうのは楽屋内のネタで嫌われるものであるが桑原先生位のびっくぼすになってしまうとそういう身内の後ろ姿が写っていても別に気にならない。
それで桑原先生愛用のレンズはライカCLにロッコール40ミリなのである。まず万能のスナップレンズではあるがそれ以前は40ミリの広角レンズと言うのは使う人がほとんどいなかった。
その理由は結構単純であって例えばコンタックスの一眼レフで1947年に出たコンタックスエスモデルであるが、当時はまだレトロフォーカスのレンズが実用化されていないので4枚構成のテッサーレンズをさらに焦点距離を短くして4センチと言うのを広角レンズとして売っていたのである。
私も35ミリのレンズはスナップショットでよく使うけれども4センチのレンズと言うのはあまり使ったことがない。それよりわずかに焦点距離の長い4.2センチと言うのは私のようないい加減なスナップシューターの場合は周囲の余り物の風景を移さないと言う意味ではベストな焦点距離のマッチングかもしれないな。
ウィーンの足掛け8年間はもっぱらこの東ドイツ製の木製三脚を愛用していたのである。ここにお見せするのはその東ドイツ製の三脚ではなくてそれから何十年も経過してガラクタ屋さんで買ってきた1500円の三脚である。
こちらの三脚のほうはかなり小降りだからまずアマチュアよーという感じなのであるがそれでも実用性は充分だ。ガラクタ屋さんで買った木製三脚は作りが結構箱根座異空のようになっていて、外見は木星三脚だがその内側に金属製の|の三脚が仕込まれている。
それで東ドイツ製の木製の三脚のことに話が戻るけど、この東ドイツ生の木製三脚の上にはそれの3倍位の重さのハイクラスの木製三脚があってこれはエレベーターも付いていてなかなかカッコ良いと思った。
しかし値段はかなり高いのである。ある時プラハの行きつけのカメラ屋さんにこの高いほうの東ドイツ製の三脚が出ていたので手に入れた時は嬉しかった。ところが実際にアトリエの7階からこれを持って下界に降りて撮影するなどと言う事はいわゆる机上の九龍なのである。
結局せっかく手に入れた大きくて重い木製三脚は1度も撮影に使われる事はなかった。それで小さいほうの三脚はパリに持っていって軽量な4 × 5インチのカメラで撮影したりいろいろ活躍してくれた。
エルスケンとも同じ頃に、これは何度か東京で会って話をすることができた。そのうちの最後はアサヒカメラのインタビューだった。
ロバートフランクとは彼が横浜に来たときにドイツ語で短い会話を交わしたいちどだけの出会いだったけど、別にそれはそれで問題もない。
リーフリードランダーは1980年頃からウィーンと東京で何度か会う機会があって、これも私の記憶の大切な引き出しに入っている。
エルンストファースは1980年代半ばに展覧会が東京銀座で会ったときに話をする機会があった。これはエルンスト・ハースがウィーン出身なので、それを尊敬して私もヘンテコリンなウィーン訛りで会話をしたのである。ただし、その時の会話は結構シリアスな内容であって、エルンスト・ハースが1950年代初めに海外から帰還したオーストリア兵士を撮影したモノクロームの6 × 6のローライフレックスで撮影した真面目なドキュメンタリーの話だった。
エルンスト・ハースがライフマガジンでデビューしたときに、彼はカラーの魔術師と呼ばれていたので、そのことをご本人が結構ネガティブに考えていたらしい。
レンズは135ミリのヘクトールで面白いことにレンズシャッターのデバイスがレンズの1番前に付いている。それでライカの本体には短いケーブルレリーズが付いている。レンズシャッターの方には長いケーブルレリーズが付いている。
だからこの状態で撮影をするとなれば写真家はまずライカに着いた短いケーブルレリーズを押してフォーカルプレーンシャッターを開いて、それからおもむろに135ミリレンズの前に付いているレンズシャッターの長いほうのケーブルレリーズを押せばそれで露出が行われるわけだ。
この撮影シーンが撮影された背景は何かニューヨークのセントラルパークみたいな普通の公園のように見える。そこでエルンスト・ハースはなぜわざわざレンズシャッター式の135ミリと言うシステムをライカM3に組み込んで撮影をしたのかそれが謎なのである。
別にお花を取ったり、蝶々を取ったりしたわけではないよな?
鵠沼海岸に住んでいる佐々木さんと言う人であった。しばらくしてから銀座のデパートで私のトークショーとサイン会があった時、その作者の佐々木さんが私に挨拶をしに来てびっくりするような話をした。
東京の千代田区の富士見に渋い洋服屋さんがあって、その洋服屋さんのウインドウになかなかかっこいい洋服のポスターが貼られているのを私は撮影して、それを東京に今日記に掲載したのが2000年頃の話である。
その佐々木洋品店は写真コンテストに入賞した。佐々木さんの父上にあたる方で、佐々木さんは非常に喜んで。私に会いに来たときに、その掲載ページにサインを求めたのである。それがこの写真である。
後後に佐々木さんから聞いた話なのであるが、当時はバブルの凄い出来であるからさほど大きくは無い。洋服屋さんの土地が8億高10億で売れたそうだ。それで佐々木さんの父上は、茅ヶ崎海岸に土地を求めてそこに豪邸を建設なさったのである。
事実は小説より生成とは言うけれども、佐々木さんから聞いた話で、私が興味を持ったのは、父上は洋服屋さんを廃業して豪邸を鵠沼海岸に作って、その時の豪邸のライブなのであるが、自分が毎日通っていた九段下高の焼き鳥屋さんと全く同じものを鵠沼海岸の豪邸に作らせたのだそうだ。
フランスの作家、結すまんフランスの作家が描いたさかしまと言う小説が日本でも現実にあるぞなと言う印象を持って、私はこの佐々木さんの話を非常に面白く聞いていた。
佐々木さんの父上は腕の良い洋服屋さんであって、母上は文学少女という感じなのである。それで佐々木さんの母上がヨーロッパから輸入して作った。何百10,000円化する。マントルピースをぜひ見に来てくださいと言うので、それから1 2年経過したときに、私は佐々木さんの茅ヶ崎の豪邸を訪問したのであった。
マントルピースの上にこの佐々木洋品店のウインドウに飾られていた。英国紳士のポスターがちゃんと展示されていたのである。
私は半ば趣味で16ミリの映画を何十年もとっていたのであるが、1時は騙されてプロ用の映画フィルム。つまりイーストマンカラーとか放送用のセクタChromeビデオレコーディングフィルムなどを使っていたのであるが、変色が甚だしいので、最後の20年位はコダクロームにしたのである。
そのコダクロームが日本国内で現像が停止されて、アメリカでもだめになって最後の最後はローザンヌに送ると言うことになった。それでアドレスを見ると私書箱なのであるが、番号が書いてあるのは最初からフィルムのパッケージが来るから、自動的にコダックの現像所にそれが集中すると言うシステムである。
そしてローザンヌに最後のコダクロームを送った時に私が思い出したと言うことがある。これはフィルムの起源を見ると、2003年8月と刻印されているから20年前の話なのである。
話は50年近く前になるけれど、当時ウィーンで毎日ライカを持ってウロウロ歩いていて暇だった。私の相手をしてくれた2人の写真家がいた。1人は糸数さんと言う形で北欧をテーマにして写真を撮っている人だった。もう1人は小松さんと言う人で、この人は今でもお付き合いがある。
小松さんは、売れっ子のカメラマンでエージェントの仕事を1枚売れると50,000円のギャラがゲットできたと言う。小松さんの口癖がペロリ。50,000と言うのでいまだに忘れない。
それで50年前のウィーン時代の記憶になるのであるが、酒場などで飲んでいると、時々ローザンヌのジャックと言う人の名前が出てくる。そしてローザンヌのジャックはいいやつだ。と言うことで、小松さんの話は終わるのである。
ウィーンの体内時代の私の記憶は、小松さんに会ったときの、ローザンヌのジャックはいい奴と言うことなのだ。これから30年ぐらい経って、小松さんに直接ローザンヌの昔の話を聞いたら、何でもローザンヌのポイントをベースとして、そこに小松さんは車を預けて色々とお世話になっていたらしい。
コダクロームの現像はすでに20年前にサービスが終わりになっているが、カメラジャングルから発見された現像済のコダクロームの16ミリフィルムのロールを見ると、反射的に浮上してくる言葉が、老残ズのジャックなのである。
ありフレックス35の素晴らしさは大変なもので1960年代にアカデミープライスも受賞している。1970一年のミュンヘンオリンピックの時に登場した。アリフレックス35bl新モデルは、世界最初の同時録音が可能なフイルムカメラの回転音がしないカメラだった。
それでも大量の古い35ミリカメラが映画のアクションで使われた。それらは大幅な改造がなされており、ほとんどがスタジオでの撮影だからもともと付いていたレンズ交換のできる3本 ターレットはむしろいらないのである。
それでレンズを1本だけ取り付ける。シングルポートに改造された。これを別名ハードフロントと言うのであるが、なかなか存在感があってかっこいい。
これは数年前に手に入れたアリフレックス35のハードフロントモデルなのだが、面白いのはバイオネットが1番最初のモデルのレンズマウントなのだ。普通はバイオネットマウントにするかその後の最新型のポジティブロックの大型レンズマウントが標準なのである。
でも、このモデルはシングルレンズポートで、なおかつ1番最初のバイオネットマウント以前の普通のアリフレックスのレンズマウントであるところが面白い。そのカメラを古い友人の野々宮に頼んでちゃんと動くようにしてもらった。
私はアリフレックスカメラのコレクターで35ミリカメラのほうは1番最初のモデルからずっとコレクションしているのであるが、このスタジオ用のカメラはなかなか気にいっているのだ。
ニコマートはよく使ったのである。85ミリのニッコールレンズでコダクロームを入れて撮影した。その作品は1984年1月号のカメラ毎日に記憶の街と言うタイトルで8ページほど掲載されていた。駆け出しの写真家で8ページと言うのはなかなかのものなのである。山岸さんのおかげであった。
沢木さんと対談をしているときにこのカメラの話題になった。深夜特急ではインドあたりでこのカメラを売って旅費の足しにするようなことが書いてあったが実際にはカメラは売りませんでしたと沢木さんは言っていた。
それから半世紀近くがあって大発見がこの写真なのである。ミラーアップして使うニッコール2.1センチと言うカメラはそのレンズだけはスピーゴットマウントのように使うのであって、ミラーアップした上でレンズマウントの内側にあるガイドにレンズの本体を合致させて、言い換えればレンズ本体は回すことなく、レンズのリングを回転させて固定すると言うニッコールレンズとしてはかなり特殊な装着方法なのである。
同じ頃に出したミラーアップして使う魚眼レンズの 8ミリ等はこのレンズマウントのガイドを使わないで単純にマウントに突っ込んで回転してロックするようになっている。
それだから自動露光設定方式のこのようなその当時としてはモダンなカメラにミラーアップ用のマウントリングの内側のピンが付いていると言う事は全然気がつかなかった。
おそらくカメラの設計者もニコンエフマウントのデザインをそのまま受け継いで作ったのだからあまり意識しなかったのであろう。
ミラーアップしているのでもちろん自動露出では使えないがマニュアル設定にすれば使うことができる。ガラクタ屋さんの黄色いシールを見ると私が大変な買い物のつもりで買ったこのカメラも今はこういう買いやすい値段になっているんだね。
田中長徳さん、坂崎幸之助といいます。アルフィーと言う名前のバンドをやっています。というのが坂崎さんの最初のセリフであった。それでその翌日、銀座のお店にアルフィーのCDを買いに行ったのである。
この翌年であったかにアルフィーが創立20周年と言うので、豪華なプログラムを出すと言うので、坂崎さんは私のことを呼んでくれて対談をやったのである。
このショットはどこかの中古カメラ市に来ているところを誰かが撮って私にくださったものだ。いつの撮影かわからないが、私のヒゲは真っ黒だし、あごひげはまだ生やしていない。と言うのは1992年か93年かな?
その時私はプラハに滞在していて、すごい腰痛にやられた。当時まだ生きていたプラハのPがイタリアに行くとか言うので、ついでに私を車でwinに送り届けてくれたのだ。その頃は、ウィーンのベルベデーレ宮殿のすぐそばのアパートメントに住んでいた。ウィーン工房で有名なJosef Hofmanが住んでいた建築で、ウィーンの歴史記念物になっていたところだった。
腰痛はますますひどくなるので、中央病院に通うようになった。タクシーを呼んで、それから階段をゆっくりと降りてタクシーにたどり着くまでが大変だった。
病院に行くと後は動けないから寝ているだけでだんだんあごひげが伸びてくる。そのまま今の状態になったわけであごひげのほうは30年以上と言うことになる。
ヨセフスボイスが来日して、東京芸大でワークショップをやったり、ギャラリー渡でホワイトボードに殴り書きをしたと言うのは、当時の我々のゴシップであったが、それと比較してもレヴィストロースが佃島にその痕跡を残したと言うのは比較にならない。
悲しき熱帯ならぬ嘆きの壁ならぬ、
この右側に写っているのが、私は構造主義の石灯籠と命名しているのである。我々の文明がいかに街路に拘束されているのかわかったと言うのは名言である。
この事実をメンションしてくれたのは、埼玉で心臓外科のお医者様でいらした根本先生である。根本先生とはFacebook上でいろいろ言葉の爆弾の小さいのをやり取りする楽しい思い出がある。あるいは月島のクラブエダムでエントランスの左側にある小さな丸いテーブルの上に、根本先生は、ご自身のカメラコレクションを10台ぐらい持ってきて、ミニ展示会をやってくれた。
そのカメラの方向が私と同じように変人方向にずれているので、お互い笑ったこともあった。その根本先生は、数年前の2月13日の早朝に大型トラックと正面衝突して昇天なさってしまった。
レヴィ、ストロースが住みたい町佃と言うのはなかなか不動産関係で説得力があると思う。もっともElvis Presleyほどには有名では無いから、そんなに宣伝にはならないかな?
それでもこの1年半位レヴィ、ストロースの短い佃島訪問の時に、何が彼の視神経と空間構造を刺激したのかを思い出すと言うのは結構楽しいことである。
レヴィ、ストロースの友人と言えば、若い頃、私がよく読んでいたのはメルロポンティである。彼は50歳で昇天しているが、レヴィストロースは100歳まで生きたのだから、時間の構造が違うのであろうな。
私は仕事ながら世界中の建築物をたくさん撮影していて、そういう建築学的に有名ではない建築物の奇妙なフォルムのやつもたくさん見てきた。しかしながら、建物のファサード、あるいはバルコニー側が凹面鏡状態になっていると言うのは、私の乏しい経験でも東京で見たこの建築物の外にはもういってんしか知らない。それは30年ほど前にブダペストを撮影しているときに旧市街で見つけた普通の集合住宅なのである。そのファサードが非常に奇妙なことに建物の外側が出っ張っていて、中心の方が凹んでいると言うファサードの存在であった。ー
非常に珍しいので、プラウベルマキナプロで撮影をしてプリントもしたのである。
著名な建築物等もそうであるが、建築の全体のフォルムと言うのは、凸面鏡明沢寛構築を知っているのが、普通の建築デザインとしては青島版だと私は考えている。
それに対してマイナスの空間構造を持っていると言うことで、非常に建物の存在感が希薄になって、空中に浮遊するような感覚がそこにもたらされる。
まず、そこが建築家のそういう凹面鏡的な建築物を制作するときの基本的な意識が、無意識、下は、関係ないところに存在する建築の心と言うものなのであろう。
いずれにしても、私の経験で2つのエグザンプルを見ただけだから、建築好きの私の記憶に、それだけ深く刻まれていると言う事は印象的な建築物なのだ。優れた建築物と言う意味ではないぞ。
デビットダグラスダンカンがニッコールレンズの優秀さを発見したわけだがニコンカメラそのものはまだ評価されてはいなかった。そのニコンカメラの良さを発見したのはライフのカメラマンCarl Maidanceである。それはレアなブラックペイント仕上げのニコンエスであった。
ブラック仕上げのニコンエスは一般にもごく少数流通していたようでカメラ付きの知り合いの浅草のクリーニング屋さんのご主人が浅草のカメラ屋さんで見つけてどうせ偽物だろうと思ったのがこれがオリジナルのブラックペイントであった。この人はなかなか面白い経歴を持っていて家族と一緒にどっかの観光地に行って記念写真を撮ろうと思ったらその後に天皇陛下と皇太子殿下とさや様が登場したのでそこで撮影したと言うレアな写真がある。その写真は私のライカ本のどっかに掲載した記憶がある。
私の場合ブラックのニコンエスが欲しくて友人にブラックペイント仕上げを依頼した。1年近くが経過して戻ってきて完全なブラックニコンになった時は嬉しかった。そういう時はそのカメラでばかり写真を撮っているのである。
このカメラをブラック仕上げにするにあたってはまず友人の突撃体調がバラバラに分解して、そのパーツを建築家の細谷くんが1してくれた。つまり2人の人間の合同作業によるものなのである。
オリジナルのライフのカメラマン用のニコンは巻き上げがしやすいように巨大な巻き上げリングが付いているそれは真似することができないので突撃体調が音楽関係のアンプのボリュームをどっかで探してきてつけてくれた。問題はフィルムカウンターがついてないのであるがもともとフイルムカウンターなど未来から巻き上げていて巻き上げができなくなった時がフイルムのおしまいと言うわけだ。
このアイディアというのが私は気にいっている。誰だって自分の人生の最後の日を自分でカウントできる人がいないのと同じことで、人生と言うのはフィルムカウンターついていなくても巻いてみてフイルムは負けたらまだ自分の命があると言う極めて寓話的な話なのである。
コンテンポラリーフォトグラファーズと言うハードカバーの小さな写真集は当時の若手写真家7人の作品が掲載していたのであるがその中でリーフリードランダーが使っていたのがライカM2 2 35 miniの広角レンズだったのでそれで騙されてしまったわけである。
そのオムニバスの写真集で教えられた事はマイケルスと言う写真家が友人から借りたベークライト生のアーガスと言うカメラを持って当時のソ連に行って普通の市民を横画面で撮影した何の衒いもない作品が非常に良かった。それでその影響で当時進駐軍の兵隊さんが持っていたアーガスと言うカメラを使うようになった。
その頃はまだクラシックカメラブームなどはくるずっと前のことで、高田の馬場に鈴木安兵衛商店と言う中古カメラ屋さんがあってそこによく入り浸っていたのだがそのお店で手に入れたのがオリンパス35と言う極めてシンプルでコンパクトなカメラだった。
実はその前の段階で日大写真学科の1年生の時にオリンパスワイドを使い始めてそのカメラをずっと使っていたのであるが、その次の段階で登場したのが昭和25年にリリースされたオリンパス35と言うわけだ。
このカメラのシンプルさと言うのは非常に個性的なもので要するにカメラボディーに40ミリのレンズが付属してシンプルなビューファインダーが付いているだけで後は何もないと言うSimple Is the Bestと言う存在間なのである。
オリンパス35を使い始めた頃はオリンパスワイドの35ミリ広角レンズに比べて40ミリの標準レンズと言うのは何か撮影角度が狭いような気がしていたのである。ところがそれは数字上の錯覚に過ぎなくて実際に撮影してみると撮影範囲が狭くて困ったなどと言う事は1度もない。
むしろ私の場合撮影のときのフレーミングがいい加減なので5ミリ朝商店側に長い方が使いやすいと言うような利点がある。もっともこれは東京ニコン日記と言う700ページの新書版の写真集を編集したときに初めて気がついたことだ。
ならびにあたしの誕生日。64歳。
プラハの2週間の間に一度だけカメラ店に行った。
その理由は上のビオター75mm !1,5のフィルターとフードを探しにいったのである。プ ラハはクラシックな東欧カメラをみつけるには恰好の場所だけど、実用の中古というのは 案外に発見は困難である。
アトリエでまずフィルター径を計ったら、55mmと出た。これがちょっと意外な感じが したのである。1940年代のツアイスはまず40,5ミリが普通であるから55mmという のはかなりの大口径になる。
なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分か っているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我 が任務である。 ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であ るから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。
それに対して、ビオター75mm !1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが 実は現在なわけだ。 プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm !2というのがあ る。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字 の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売 り」はしない。
あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れよう
と思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かな
かったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追った
りするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。
帰国して翌々日はシドニー(アローカメラが毎週第四土曜の午後2時から開催のあたしの トークでもう十数年開催。入場無料)だったので、二代目さんにフィルターを探してもら った、幾つか選んでもらった中から55MMの径のなるべくクラシックな感じのを選んだ。 Toshibaの60年代のやつにした。
リコーカメラの初期のものに興味があるので、いろいろいじくっているのだが、私が気にいっているのはごく初期の履行35に至る。レンジファインダカメラである。最近になって驚いたのは、同じ時代の他のメーカーの同じクラスのカメラと比較すると、その仕上げが優れていると言うことだ。
この小さなパンフレットがリコーカメラの35ミリレンジファインダーの歴史のスターティングポイントになるわけだ。リコートは30数年のお付き合いであったが、10年ほど前には恋の銀座4丁目のリコーの丸いビルで、上のほうにフォトギャラリーとカメラクラブのラウンジのようなものがあった。
そこで写真展もやったし、トークイベントもやったが、その十戒から11回からの風景というのが窓から見ると、向かい側幸田三越デパートメントストアで日産ギャラリーなのである。東京の中心のど真ん中で三愛ビルから見える風景と言うのは、現実離れしているところがよかった。
10年近く前は銀座一丁目にフイルムを現像するラボがあったのでよく言ったものであったが、最近ではフィルムを現像すると言うと、自分でモノクロフィルムを現像するだけであるから、銀座に用はなくなった。私は人生のはじめの方で、銀座をたくさん撮影していたし、その後も仕事場もあったから、人生の銀座時間を全部そこに食いつくされてしまったような感じがした。
過去15年位上、福田和也さんが銀座にいろいろ行きつけのお店があったので、銀座で会うこともあったけれども、福田さんとのお付き合いも10年前に終わりになったので、最近は銀座に行くよーと言うのが全くない。カメラ屋さんをぶらぶらするよりも、オンラインでネットオークションを見ている方が私のリアル体験と言うわけだ。
銀座4丁目交差点 中央区銀座4丁目交差点 三愛写真機部
あの丸いビルがなくなったのかと、初めて私の記憶が喪失感を持ったのだ。
もう10年近く前で細かい年代は忘れてしまったが、我らが愛する世界のニコンカメラを作っていた品川区大井森前町のニコンの101号館が立ち入れる最後の日というのが3月30一日だった。それでニコンの偉い人ミスターニコンに招待されて101号子間最後の日を見学してきたのである。
そうなるともっていくカメラは、やはり1番最初のニコンのレンジファインダーと言うことになる。ニコンのSで撮影した。101号館の屋上のさらに上にタワーみたいのがあって、そこに大型三脚の雲台だけが取り付けられていた。レンズの性能試験で101号館の1番上の上から品川駅を撮影したと日本の偉い人から聞いたのである。ニコンに歴史ありだな。
ニコンのエフ4が出る前に、オートフォーカスのテストをするときに、101号館のエレベーター前の広くて、長い廊下みたいな空間を使ってオートフォーカスのテストをしたなどというのが、歴史的な事実として重く受け止められた。
その101号館最後の日の見学は無事に終わって、数日後にニコンの1番最初のレンジファインダカメラで撮影したフイルムが上がってきて発見したのがこれである。ニコンの工場のすぐそばのガード下で撮影したのである。不思議な白い光がそこに写っているフォーカルプレーンシャッターから光が漏れてきたのは事実であるが、不思議なことにその他のフィルムのカットにはそのような光被りが写っていない。
それで思い出したのがニコンの開発ストーリーをまとめた、明るい暗箱である。最初のニコンカメラは光漏れがひどくて、それがどうやっても光漏れが防止できなくて苦労したと言うことが書いてある。だから私がニコン101号館の最後の日に訪問したのは、ニコンの歴史がそのことを覚えていて忘れさせないために、わざわざこのように光線漏れを作ってくれたのではないのか?
言い換えれば、ここにはニコンのスピリッツが写っているわけだ。
1975年に初めてプラハに行った時、ヴァーツラフ広場のナショナルミュージアムがあるサイドのすぐ側のカメラ屋さんのウインドウにこのカメラの付属品である10メーターのフイルムを格納するマガジンを発見してそれを手に入れた。大西洋に漕ぎ出したような気分だった。そのフィルムのマガジンにカメラ本体をつけてレンズをつけてモータードライブをつけなければ、システムは完成しないのである。
その時の記憶で、もう一つ印象的なのは、そのカメラ屋さんの隣にあった安い食堂で、私はヨーロッパで初めてのタルタルステーキを食べたのだ。タルタルステーキがレストランのメニューに載っていること自体が初めての体験なので感激した。もっともウィーンのアパートメントのすぐそばの馬肉屋さんでは、私はいつも馬肉を刺身にして食べていたのであるけれど、これはプライベートであるから、レストランのタルタルステーキとは比較にならない。
プラハでこのカメラの10メーター用のフィルムマガジンを買って、それから7年後にマンハッタンにいたのである。ニューヨーク近代美術館で写真を研究するためであった。毎月1回だと思うけれども、グランドセントラルステーションのコンコースで中古カメラ市が開かれている。
その後、このカメラに対する研究がいろいろ進んで、今ではほとんどの付属品等を手に入れて、かつての東ドイツのエルフルートと言うところから、カールツアイスレンズの180ミリと300ミリのゾナレンズもう発見した。
このカメラシステムは1950年代後半のアメリカ市場でまだ日本製一眼レフが来る前には非常に人気のカメラであった。値段も高かったがそれなりの高性能であった。1983年にニューヨークからファーイーストに戻ってきて、カメラ雑誌の連載などをすることがスタートしたのであるが、面白いのは、当時はカメラ雑誌の編集者ですらこのカメラの存在を知らないのである。
カールツアイスの35ミリ一眼レフカメラがコンタックスエスであって、それがその後プラクチカに変わったと言う事は編集者さんも知っていたけども、こちらのカメラの事はご存じがなかったのは別に勉強不足と言うわけではない。
このカメラの良いところは、一眼レフがまだ十分に進化を遂げていないから、レンジファインダこそついていないが、普通のファインダーが付いていることにある。これが50ミリ相当であるから、このビューファインダーを使えば大抵のものはうまく撮影できるのである。
それでモスクワのベラルーシステーションから寝台車に乗ったのであった。列車は翌日の午前中にベラルーシのブレストと言うところについた。ロシアとポーランドから始まる。ヨーロッパではレールのサイズが違うので列車の車輪だけを交換するのである。
1時間位でその作業が終わるのであるが、家人は列車から降りるのを忘れてしまって、そのまま工場のほうに運ばれて行ってしまった。これはまずいことになったなぁと思いながら、ブレストの駅前をちょっとうろうろして本物の熊SSアールに来たと感心して、記念に葉書とか何か買った記憶がある。
それでブレスト駅で時間になると別のプラットホームに列車の台車を交換したヨーロッパ向きバージョンの寝台車が入ってきた。家人は落ち着いたもので、私に向かってニコニコ手を振ったのである。列車の工場内の様子を聞くと、やたら大きな音がしたそうだ。
そういうようなあれこれがあったのだが、私が言いたいのは、ベラルーシの列車の台車交換工場の生き別れになったときの家人の服装が、この雪の日と全く同じなのであると言うこと。
数年前に思い出して、この場所に行ってみたら、一戸建ての建物がとっくになくなって、小さなマンションが立っていた。
ベートーベンの書簡集を見ていると、なかなか面白いのであるが、彼が亡くなったときの家と言うのは、ウィーンの旧市街の城壁から北側にあった場所で、当時の価値観からすると、そのことが既に場末のアドレスなのである。
ベートーベンの葬列が、そこから西に向かって、その大通りはAlser 通りであるが、その当時はまだ巨大な総合病院はなかったと思う。このショットは総合病院のエントランスから眺めたら銅像の真似をした人がいたので面白いので撮影した。
気に入った写真なのであるが、どういうわけか知らないけど、私の写真集からも漏れているのである。ところでベートーベンの葬列に従った人にフランツ・シューベルト思い出。葬列は西に向かって当時のカントリーである小さな墓地に葬られた。現在、ベートーベンのお墓は、winの南の中を墓地にあるけれども、これは1部が移籍されたものなのである。
こーゆー写真をアップすると、理だまりのコースでライカM3に頭ミクロン35ミリでフイルムはトライエックスであるなどと書きたがるのであるが、その事はどうでもよろしい。
私が応援している傍流写真同盟でもそうだがカメラデータを書いている人などはいない。これは時代遅れの典型なのである。傍流写真同名では、常に写真そのものの価値と存在感が問われているのである。
それに対して情けないのは、Facebookのやり取りでの高級カメラと高級レンズ自慢であって、私がおちゃらけていつも書いていることだが、やっぱり阿呆頭ミクロンは描写が違いますねなどと言うステレオタイプの意見交換である。
神保町2丁目に存在した。東洋キネマであるが、1920年代の1月にオープンした時は、まだ無声映画の時代だから、徳川夢声が活動写真のベンチであったそうだ。その後関東大震災で破壊されて1920年代の終わりにこの建築が建築された。この建築物を今までアールデコかななどと思っていたが、専門家に言わせると、おそらく日本にある唯一のダダイズム建築ではないかというのである。なるほどね。
東洋キネマは1992年に解体されたそうであるが、私が撮影したのはその10年前の1981年頃であろう。ヨーロッパから戻ってきて、日本の風景が1000回生花のような感じで魅力的なので、2眼レフカメラを持ってあちこち撮影して歩いた中のワンショットと言うわけだ。
この映画館のすぐそばにあったのが、YMCAであって、東洋キネマと比較してみると、映画館のほうはハリボテ座異空であったのに対して、YMCAは、テラコッタのちゃんとした建築物である、と言うコントラストが面白かった。その反対側にあったのが、ロシア料理のロゴスキー好きだった。
1970年代にほとんどヨーロッパの風景に慣れ親しんでいた。自分の視神経から見ると、東京のこれから次へ去っていく。歴史的な建築物と言うのは、建築物の様式だけが表面に浮上していると言うところが私を喜ばせたのである。
ヨーロッパの建築様式は、どっかりとした存在があって、そのファサードに建築スタイルが浮上してくるのに対して、日本の近代建築の場合は、イズムだけが形をとって、建築の表面で踊っていると言う感じがする。そこが実に面白い。
1970年代ウィーンに暮らしていた時に、私が憧れていたのは東京の周辺部に広がる雑ぱくとした東京の原風景であった。ウィリアムクラインが言っていたところの、東京の風景は前衛生花みたいだねと言う。あの言葉に象徴される東京の乱雑さが魅力に思えた。
それで家人とよくウィーンの旧市街を散歩したものであるが、そこに並んでいる歴史的な建築物を見て、半ば感心しながら、半ばもううんざりと言う感じで言った言葉がこれなのである。
ここは赤羽ではない
要するに、ヨーロッパの風景の中で、何年も暮らして、私が感じたのは、歴史の時間軸がそのまま表層となって、空間構造を建築していることに対する尊敬と、それに対する退屈さの相反する感情であった。
その頃、日本の生社員のお下がりでもらった文庫の中に伊丹のヨーロッパ、退屈日記があって、結構共感するところもあった。例えば痛みが書いているが、これからミュンヘンによってありフレックスを買って日本到着は月末になるかな、と言う件が、なかなかすばらしいフレーズであった。
アボカド、当時はワニ梨と、呼ばれていたらしいが、それを教えてくれたのも兵伊丹であった。しかし、ただ1つ彼の年風景美楽で、私が納得できないところがあった。すなわち、偉大な映画監督は、東京の風景を価値のない乱雑なものであると言う認識が最初からあるのだ。
ウィリアムクラインは、東京の風景を前衛生花のようだと評価しているのであるが伊丹の場合はダメな風景と言うので、最初から相手にしていないところがこれは駄目だなと思った。
そのファーイーストの赤羽であるから、1980年の暮れにファーイーストに行って、すぐに駆けつけたのが赤羽方面である。この赤羽文化市場である。今となっては、文化市場がどこにあったのかも全くわからないようなラビリンスになってしまった。
10年前に出した2眼レフワークショップの中のワンショットであるが、ノートはスクエアな画面が表示できないので、あしからず文化市場の看板のところだけを掲載しておく。
その時に撮影していた大手通信社のAFPだったと思うけど、そういう腕章をつけたかっこいい長身の日本人ぽいジェントルマンが使っていたのがこのカメラなのである。報道写真の基本であるから小型のストロボも付けていた。
外国通信社のカメラマンも使うカメラなんだとその実力を認識したのである。オリンパスワイドに関しては私の友人の朝日新聞出版部長の福田さんもオリンパスワイドのユーザである。アマチュアカメラのように見えるけど、本当のプロフェッショナル向きのカメラなのである。
私は大学1年生の時に中野のカメラ屋さんにオリンパスワイドスーパーのブラックモデルが出ているので、急いで買いに行ったらそれは売れた後であった。それで長いことクローム仕上げのこのカメラを使っていて、1970年に日本デザインセンターでトヨタの車の撮影をする時も、アシスタントの私は洗車セットの中にこのカメラを忍ばせて撮影をしていた。
ライカM2も持っていたけど、当時は貴重な高いカメラだからダメージを受けても良いと言うので、このワイドスーパーを使っていた。デモ行進を撮影に行くのもこのカメラだった。だって機動隊の放水車では大事なライカ濡れてしまうからね。
ウィーンにもこのカメラを持っていってスナップを撮影した。だから私の写真集にもこのカメラで撮影したショットはたくさん収録されている。それで50年以上経った今でも使っているのである。
アサヒカメラの名物記事であった。ニューフェイス診断室をかなり初期の特集カメラでこのカメラが登場していた。木村伊兵衛さんがどこかの盆踊りのシーンを絞りが、F2の解放の当時としては明るいカメラで撮影しているのである。この35ミリF2のレンズはなかなかクセのあるレンズであって、そこら辺が好きなのだが、8枚構成で第一面がけっこうな凹レンズになっていて、ゴーストイメージが出やすいのである。
ネットオークションなんかで、今では結構安くなっているから、1台持っているといろいろ便利なカメラです。
明け方に露台をうかがったら、ベタの曇りで月も見えず。朝になったら雲厚く、きたないアテネの空である。家人に電話。
横須賀効光さんが65歳にて亡くなったとのこと。一昨日であったか、何の気もなく、横須賀さんの元赤坂のオフィスと、そのずっと前、「花椿」の時代と、当時の学生の間で彼の事務所「ルームNY」のことが話題になったことをふっと思い出したのだけど、不思議である。6年前にお目にかかって最新作の8×10の作品を次々に見せてくれたのだが、あの時の熱心さは、何か「まだ巨匠の中に棲んでいる写真学生」という印象を思いだして記憶に残っている。モノ造りの人間は、こうでなくてはならぬ。
アサヒカメラの3月号のモノクロ写真の入稿がぎりぎりだ。帰国が週末だから、モノクロのラボに出すと、下手すると来週の後半になる可能性大。その危険を回避する為、この前モノクロで撮影したのと同じ感じで、街に出て2本、カラーで撮影する。こうしておけば、来週月曜には上がるからそれをモノクロ原稿として使ってもらう所存なり。デジカメならまったく気を使わない部分なのに、アナログでは変なところに気を使うものだと苦笑。パルテノンの丘の南を迂回すると、例の街の西側の電車の駅の殺風景な場所に出ることが判明した。そこから10日ほど前に気になった、ペイント屋の廃屋を撮影しにいったら、そこで地元の青年に会う。
タナカではなくタノスという人で、そのペイント屋の建物が40年代でなかなか良いので、それを改装してギャラリーやカフェやデザイン事務所に使う計画を立てているとのこと。メールアドレスを交換。彼の持っていたカメラは会社の備品のD60であった。子細にその建物を観察するに、正面の各種のペイントの缶のイラストが非常に効果を上げている。ファサードはバルコニーもある構成主義風である。建物の色は濃いベージュ。話では400平米以上あるらしい。そのタノス青年が「これは40年代だからかっこいい」と言ったのが印象的だ。40年代の建物はかっこよくて、40年代生まれの私のようなおやじは、かっこ悪いという風に邪推することもできる。
1960年代初めのカメラ雑誌の広告である。このカメラマンはニコンを愛する。あまり自分の名前をサイモンニコンと書いて、今ではたいていの郵便物がこの名前で到着すると言うようなことを書いている。
細かく見ていくと、ブラックのニコンSPのモータードライブ付は今やコレクターズアイテムだし、初期のレフレックスニッコール100センチef 6.3のブラック仕上げのやつは最初のシリーズでこれもミュージアムクラスである。もともとこのレンズはベルリンの飛鳥に家の100センチレフレックスレンズef 6.3のコピーしたものである。私はアメリカの軍から放出された。そのオリジナルレンズを持っている。こちらの塗装はダウグレーである。
この広告を見ると、ニコンエフとニコンSPが同時に販売されていた時代のものだが、面白いのはニコンエフよりもニコンSPの方がプライスがちょっと高いことがわかる。
私は高校生時代にこの広告に触発されて、それが日本デザインセンターで制作されたものであると言うのを知っていて、ベビーブーマーの大変な300倍の競争倍率をくぐり抜けて新入社員になったのである。
夢と現実が違いすぎるので、3日でやめようと思ったが、石の上に座り込んで3年間仕事をしたのはまず私にとっては生きた大学の写真の授業と言う感じだった。日大写真学科が日大闘争だし、何にもできなかったからね。
それにしても、面白いのはこの広告を初めて見た時は写っているサイモンナイコンさん大変なおっさんに見えたけど、今見ると非常に若い人に見えることだ。相変わらずのことだけども年齢のパースペクティブと言うのは面白いね。
私が利用したのは南ルートと言うやつで、中央区役所から家の佃島の前を通って月島を西に行ったり、東に行ったりしながら、月島の1番南豊海水産埠頭まで行って、そこから月島の交差点まで戻って、勝どき橋を越えて聖路加病院につながっている。これはニューヨークの2ブロックずつに止まる。バスと同じようなもので乗っている分には面白いけれども、交通機関としては時間がかかる。35分ほどかかるので、街をゆっくり見て歩くのにはよろしいが、病院に大急ぎで行くと言うのには向いていない。
そこで診察を受ける。後期高齢者にもかかわらず、肝臓も尿酸値も血糖値も良いので、先生に褒められる。写真等では褒められたことがないから褒められるのは嬉しい。
それで聖路加タワーの2階にあるファーマシーから聖路加病院を眺めると、こんな感じで、なかなか建築物としては見所があると思う。これはの建物であるが、古い建物のほうは歴史的記念物であって、日大の写真学科の学生の頃に築地川の辺りを歩いていると、その先に聖路加病院のクラシックなタワーが見えた。これはランドマークであって、当時の佃とか月島は聖路加病院の教会のタワーが界隈では1番高い建築物であった。
この会社が作っていた代表的なマクロレンズはマクロキラー40ミリと90ミリがあってこれもありフレックス映画撮影機の標準レンズであった。日大写真学科の学生時代に当時はまだ西新橋にあった。東北新社で極々初期のテレビのシーエム用の制作のアルバイトをやっていたので、撮影現場によく立ち会うことがあって、あり、フレックス35ミリムービーカメラにつけられたマクロキラー90ミリのレンズは非常に重要な撮影機材の1部であった
加山雄三がコカコーラのテレビコマーシャルの主要なスーパースターであって、それを撮影するのがこの90ミリレンズだった。
ウィーンに暮らすようになって中古カメラ屋さんで発見して手に入れた時、このレンズの程度は今とほとんど同じボロボロ状態であった。フォーカシングのゴムのリング等はとっくになくなっていたので、自分で適当なブラックテープを貼って使い始めて、さらに50年近くが経過しているのである。
設計の古いレンズだし、ガラス素材がもう古くなっていると言うのもその理由であると思うが、発色は結構黄色っぽくなるのである。でも今はPhotoshopで発色の状態などは自由にコントロールできるから、そんな事は気にならない。
すごいと思うのは3段伸ばし、つまりトリプルエクステンションの90ミリマクロレンズであって非常にクローズアップができるのである。でも私の写真術と言うのは90ミリではinfinityでしか撮影することがないから、フォーカシングリングを回転させてマクロ撮影をした事は1度もない。
でも、その当時の世界最高のマクロレンズの存在感を再認識するために、時々フォーカシングリングを送り出して、このようにレンズ全体を伸ばしてそのかっこよさに痺れて。それからまたフォーカシングリングは戻して、infinityに設定して撮影をするわけだ。
ブルーマウンテンだけど、お口に合うかどうか
ちょっと日大写真学科のへぼ学生に言ってくれるのだから、これは大人のたしなみというか、大したものだと、その時も感激したのだった。何度か東松さんの事務所に通っている間に、まだ雑誌編集者であった。中平さんなども見えて、東松さんは私に中平さんを紹介してくれた。
東松さんが私のことをよく記憶していてくれたと言うのは、そのちょっと前にカメラ時代と言う結構真面目な雑誌で、そこで私は新人応募のコンテストに出したのであるが、その時に東松さんが強烈に審査員としてプッシュしたのがプッシュしたのが私であったそうだ。審査員は3人いて、もう1人はIKKOさんだった。もう1人の審査員は忘れてしまったが、3対1の差で他の人に新人賞はとられてしまった。その人は土田ひろみさんなのである。
その過程を写真時代の編集者が私にテープレコーダーの録音を聞かせてくれたのは、今の時代にはちょっと考えられないことだが、これが私の写真表現のパワーのスターティングポイントになっている。
東松さんに最初に会ってから自由年もたたない。1976年にヨーロッパを巡回する日本人写真家の大きな展覧会の企画を手伝ったのであるが、そのメンバーの中核となるのは東松照明であり、代表作11時2分長崎であった。
東松さんのオフィスは新宿2丁目高3丁目のこれは当時は普通のことだけど、階段しかない。6階建て位のビルで確か誤解語がオフィスだったと思うが、冷房などついていないから夏は暑いしそれが普通と言うような高度成長期の60年代であった。
サングラスをかけた女の子が地下鉄有楽町線ができるずっと前の文京区音羽呉朝明つまり私の実家の近くをこっちに向かってくると言うショットである。右側に立花商店と言う看板がちょっと見えるけどこれは昭和20年代におそらくこの長さ1キロメーター位の通りでほとんど唯一商業用の自動車を保有していた油谷さんである。
群青色の小さなトラックはどこのメーカーのものか知らないけれども油谷さんのお兄ちゃんに頼んでトラックの荷台に乗せてもらった。一走りするとあっという間に護国寺の山門の前まで来たので私は文明の力のその速さと言うものに驚いたこれが私の最初の自家用車の登場経験である。
油谷さんはお兄ちゃんが写真付きなので白黒フィルムの現像とか密着もやってくれた。その時見せられたのがコダックのロイヤルEX版と言うやつで感度が1000以上あるから蛍の光でも映ると言う触れ込みであったがこれは今のカメラのメカライターさんと同じで単なる情報の受け売りであった事は確かである。でもその頃小学生の私は感動したものであった。
右のショットは調布駅前から多摩川住宅に向かうバスの中で撮影したお面かぶりの女の子である。このバスはできた頃から結構不便で1時間の本数は少ないしすぐ終わってしまうと言うので風評であったが、何十年ぶりに多摩川住宅を訪れてみたらバスの不便さは相変わらず同じなのである。今は運転手さん不足でもっと不便になっているのかな?
でも私にとって多摩川住宅は漫画家のつげさんと出会うことができた場所なので自分にとっては重要なランドマークポイントと言うわけだ。菅さんの映画で多摩川の土手の辺りはまた有名なランドマークになったので凄いことだと思う。
左のショット笑回6通+85ミリレンズ。右のショットのほうはライカM2にニッコール2.1センチだった。カメラは全然変わらないね。
アントニオ猪木がタバスコを輸入されていた頃に、私はタバスコフィーバーがすごくて、ありとあらゆるグッズを揃えていた。今は経営が変わって醤油会社が入れているらしい。
半世紀ほど前に、神保町の路地裏の喫茶店で、3.8リッター、つまり1 USガロンの巨大なタバスコボトルを見て、悪夢のような感じがしたけれど、それから半世紀経ってウィキペディアで調べてみたら、本当にそういう巨大なタバスコボトルが存在することがわかった。
私は長年のタバスコドリンカーであるが、大昔は普通の食料品店には売っていなかった。それで有楽町のアメリカンファーマシーに買いに行ったものである。
オーストリア、ウィーンの名物ガイドだった。数年前に昇天してしまった。栗田くんはなかなかシュールレアリストであって、いつだったかウィーン時代、私に向かって
あのさぁ、長徳さんさぁ、タバスコでさぁ、10円玉を磨くとピカピカになるでしょう
これは本当の前衛アーティストの言葉だと思う。トリスタン・ツァラを超えてるな。
アメリカの属国である戦争に負けた日本であるにもかかわらず、手元にあるメイドインUSAの製品はそんなに多くない。せいぜいこのぐらいのものです。
ところが、2003年に六本木ヒルズができた前後に私が佃島から六本木ヒルズに通って仕事場がそこの49階にあったのだが、ある時不動産物件を見ていたら、1972年建築で広さが10平方メーターというのが私の目に飛び込んできた。忘れもしないこれが中銀カプセルタワーなのである。
10平方メートルのところで寝泊まりはするつもりはないから、そこに持ち込んだのは1つの文机と金屏風だけだった。プライベートな空間であるが、とにかく世界的には有名なメタボリズム建築であるから、外国からのお客さんが下でウロウロしている。それで主にアメリカの建築関係の研究いいえであったりしたのだが、中に入れて見学させてあげて大変感謝された。
何しろ、外国人のゲストさん向けに金屏風と机が設置されていて、他には何もないからコンセプトとしてはわかりやすい。
中銀カプセルタワーは分解されたが、カプセルがちゃんといくつか保管されていて、そのうちの2つがすぐ近くにシャトルと言う名前の文化センターができてそこで展示されるらしい。私としては金屏風がいっこ置いてある。10平方メーターの部屋で本を何冊も書いたので、懐かしい。
十数年ほど前に文芸春秋で出していたタイトルは忘れたライフスタイルの雑誌で私が使っていたb906号室が紹介されて、まだお元気だった黒川紀章さんに中銀カプセルタワーでお目にかかっていろいろお話が聞けたのも忘れられない。
その雑誌のその時のメインのタイトルは、こんなデザイナーズマンションに住みたいと言うものだった。建築家とデザイナーが違うんだけど、まず仕方ないか。
このモデルが1957年に登場したモデル21と言うやつで非常にモダンなデザインになった。というのもセコニックのメーターのデザインを担当する1953年に創設されたデザイングループがあって、それの影響なのである。そのグループの名前を3人のデザイナーの名前をとってKAK と、いうのである。
私もこのメーターを10歳の時に使い始めて、基本的なメーターの扱い方をここで覚えたのである。その意味で貴重な体験だが、デザインが新しすぎると言うところが素晴らしい。今でもちゃんとメーターは生きているところがさらにすばらしい。
練馬区大泉学園町2207番地に住んでいた。1969年から73年までの間駅前から北に向かうバスに乗ることもあったが、その私が降りた先の終点のバスの停留所の名前が都民農園セコニックと言うのである。都民農園そのものは計画だけでできなかったらしいが、そこにセコニックの会社があって、今でも存在しているそうだ。
1980年にウィーンを引き上げたとは1990年代に家人とウィーンによく行くことがあった。それは観光旅行と言うよりもウィーンライフを懐かしく感じるための鑑賞旅行なのであるしりの音声入力が間違っているので言い直すとノスタルジックツアーである。
その時ウィーンに住んでいたご主人が前衛アーティストで奥さんがピアニストと言うカップルのお世話にいろいろなったのであるがリクエストに応じて日本からマヨネーズを持っていった。その頃は日本のマヨネーズは光の日本食品店で手に入らなかったのかな?
それでリクエストのブランド指定があってキューピーマヨネーズなのである。ところがこちらは慌てていたから間違って味の素のマヨネーズを持っていったらブランドが全く違うと言うので叱られたことがあった。
まぁマヨネーズの味とかレンズの味などと言うものは主観的なものである。私等はドレスデンのカメラに東ドイツ末のテッサーレンズでないとダメなどと言っていたブランド勘違いはであった。
まず今妥当世界のカールツアイスレンズが信州中野で作られているようなものだからどっちもどっちである。
最近の物価の高騰は激しくて牛乳等はずいぶん前から1000ミリリッターの容量が100ミリリッター減らされて900ミリリッターになっている。どこのメーカーのもそうだからこれは家味華るってタイルではないのか?
マヨネーズは牛乳に比較するとそんなに頻繁に買うものではないけれども家人に依頼されて生生下のリンコスで買ってきて500 CCだと思ってよく見たら450 CCなのである。ここら辺もヤミカルテルの影響なのかな?
ヨーロッパでもアルコールのボリュームはwinだと4分の1リッターと言うふうに決められていてワイングラスのビールのジョッキみたいなタイプのやつに4分の1リッターの容量のところに横線がエングレービングされている。
そのつもりでモスクワのホテルでウォッカを注文したら100グラムのウォッカがルームサービスで届けられたのでびっくりした。ウォッカは重さで測るのだと言うことをその時初めて知ったのである。
私の場合、この交差点のすぐそばにプラハで、最大のカメラ屋さんフォトシュコダがあったので、ますますというかほとんど毎日そのカメラ屋さんに行っていた。それで30年代の古い付き合いである。写真家のプラハのPにほとんど毎日ここで会ってランチを食べたり、馬鹿話をしたりしていたのだ。
私が不思議なのは、ヨーロッパ人と言うのはいちど友人になって気が合うとそれこそ毎日会ってランチを食べて馬鹿話をするのは何十年も永遠につづくと言うことになって、これは人生の退屈ではないかと思うのだが、彼らはそう思ってはいないらしい。
その40年近いお付き合いも、プラハのピーが4年前にコロナにやられて80歳で昇天してしまったので、残念ながらそこでピリオドが打たれた。その話を私は文芸雑誌の新潮に書いたのが彼とのお付き合いの最後のセッションと言うことになってしまった。コロナがスタートしたときのプラハでの蔓延と言うのは凄まじく最初の数ヶ月で25,000人の犠牲者が出た。それを忘れないために、プラハの街の中心部の広場の石畳に白いチョークで、連番の数字を入れたと言うのは、単なるモニュメントと言うだけではなくて、ファインアートの領域に肉薄している。
プラハのビロード革命が達成してから25年目になる。2014年のことだが非常に大きなセレモニーが11月にプラザで開催された。それを機会に私はもうプラハに行くのはやめようと思って。それから数年経ったら、コロナがああいう形で始まったので、もちろんプラハを再度訪問した事は無い。
早朝2時に起きて露台に出たら、素晴らしい星空で、出遅れて下弦の月が煌々としていた。オリオンはすでに西の方に傾いて、これは春の星座の様子である。出発前に露台の椅子に寄って最後のパルテノンをゆっくりと観察する。疑いもなく、この2週間余のアテネのツーリストで、私が延べ時間で一番長くパルテノン神殿を網膜に焼き付けていた人間には違いない。
3時15分に下に降りたら、すでにタクシーは来ていた。タクシーはチエコのシュコダのオクタビアである。
定刻の6時に離陸する。半月が煌々。離陸後のアテネの夜景は素晴らしかった。ただし、パルテノンのほぼ真上を飛行するので、パルテノンそのものは見えず。
その飛行経路は毎日、私がホテルの露台からチエックしていた通りである。最初はイタリア半島の東海岸を飛び、あの光はベニスかな、と思ったら、その直後には雪の山の中のインスブルックと思われる地帯を飛行。
飛行機の速度を実感。アテネ、アムス飛行時間3時間25分。
アムステルダムは真っ暗な天候。いっそのこと、市内観光に行こうかと思ったけど、(アテネから乗って来た団体さんの添乗員さんは、市内観光に行く人を募集していた)着陸直前のインフォメーションでは、気温マイナス6度というので中止とする。ラウンジの電源のあるデスクを確保してカメラジャーナルの原稿書き。最近、このPBG4のバッテリーが弱くなっている。終夜チャージしても2時間半ほどの時間しか表示せず、しかもあと45分を切ると、スリープしてしまう。
私に必要なのは、新しいライカでなく、新しバッテリーである。
成田行きのダッシュ400は定刻離陸。席は1A。
偏西風を利用するコースなので、かなり北の辺りを飛ぶ。KLのアテンダントさん(日本人)は、私と同世代か、孫が3人も居そうな人である。こういうのがいかにも欧州系のエアラインという感じだ。
気がつけば、オーロラが綺麗なので、ライカとキャプリオで撮影。窓から見て、
対向方向の飛行機が飛んでいるのかと思ったら、それが流れ星である。普通の流れ星は、するするするっと言う感じで流れるのであるが、このシューテイングスターは、「ぴかぴかばりばり」という燃え方、飛び方で、その燃焼時間も長い。紫と金色と青になった。これは凄いモノを見た。
流れ星ではなく、花火星である。これは。
(9:38)
初めて出雲に行ってびっくりしたのは人が歩いていないと言うことだ。駅前のロータリーですが、誰も歩いていない。そこから列車で1駅西に行ったところに小池さんの個展会場の図書館がある。そこで降りたのだが、方向を180度間違えてしまって、30分ぐらい歩いても図書館に行き着かない。こういうところで私のような高齢者が倒れるとそのまま昇天してしまうなと思ったことだった。
ノドグロは旨い肴だが、嫌いなのは金目鯛である。14年前に来チャリンコが昇天したときに、それまでの25年間と言うものは、家人と一緒に家を空けると言うことができなかったので、来会インコ巡礼の旅に千葉県の銚子に行った。。
ノドグロはうまい魚だが、嫌いなのは金目鯛である。14年前にライカインコが昇天したときに、それまでの25年間と言うものは、家人と一緒に家を開けると言うことができなかったので、来会インコ巡礼の旅に千葉県の銚子に行った。
調子の夏も駅前は無人であったが、そこに金目鯛祭りと言う大きな畑が100本以上潮風に店ビーテいる。でも実際に金目鯛を売っているところはどこにもなかった。それから数年後に写真集の撮影の時にライカエム9を持って挑戦に行ったのである。その時は地元の漁師料理とか言うところで、大きな金目鯛の煮付けを1人で食ったのであるが、こんなにまずい魚だとは思わなかった。
千葉県のオオハラに家人の音楽大学時代の教え子がいるのであるが、毎年そこから金目鯛を送ってくれるのである。金目鯛は嫌いだからもう送らなくて良いと言うのはなかなかいいにくいものである。その家はお父様が漁業権を持っているので、大昔はアワビなどを送ってくれたが、最近はそれもやめになって、もっぱら金目鯛になってしまった。
これなどもタブロイド版の労働者、新聞オレンジ色の難いやつ等が金目鯛を持ち上げるので、サラリーマン諸君が全員洗脳されてしまった。その結果だと思われる。同時に汚染水を岸田がどんどん出すし凄い時代だね。
SOSと言うブランドのレンズやカメラの付属品メーカーで、会社はニューヨークとハリウッドにあったと言うのも、当時のニューヨークのというか、アメリカの写真事情が彷仏とされていて面白い。
それでレンズクリーニングティッシュの表紙の反対側には正しいレンズの磨き方が書かれている。大体アメリカ人は実用主任者であるから、レンズをクリーニングするなどと言う習慣は西部開拓し、時代にはなかったから、その伝統と言うわけであろうかレンズのクリーニングのときの作法を見れば、アメリカ人のパスポートをチェックするよりか、この人はアメリカから来たなというのがすぐわかる次第だ。
アメリカ人のレンズのクリーニングの仕方と言うのは来ている。シャツの端でレンズをぐりぐり子するのである。この悪い習慣が後に日本が中古カメラブーム出会った頃にアメリカ人が使っていた傷だらけのレンズと言うことで、中古カメラ業者さんには嫌がられる原因となっていた。
私もレンズクリーニングに関してはアメリカンであるから、まずレンズを磨いたりする事は滅多にない。レンズにはフィルターもつけないし、レンズキャップもつけないだから私が不思議に思うのは、大手カメラメーカーのトークショーなどで、私の話は、今にカメラ外車の人がデジカメ用のレンズキャップでちょっとカスタマイズされたのを会場で売ったりすると、その値段が5000円台なのに、あっちこっちから手が上がってすぐに売り切れになってしまうと言うことだ。
写真を撮らない人に限って、レンズをプロテクトすると言う方向の欲望が非常に大きくてヘンテコリンなことになってしまう。レンズクリーニングティッシュも同じ方向でカメラ人類を騙すと言うことなのだ。
滞在の後半になって東京からメールが届いて、日本はトイレットペーパーが手に入らないので買ってきてくれと言うことで、チャイナタウンのそういう店に行く道すがら撮影したのがこのタングステンランプのサンプルが点灯しているショップのウインドウなのである。
ショーウインドーの存在感の不思議と言うものは、私の場合は、リーフリードランダーの1連の仕事で教えてもらったようなところがある。実際にショップを経営している人は、単にお客さんがわかりやすいようにウインドウディスプレイを設定するわけであるが、写真家の視神経からすると、そこに展示されているそれぞれの物体がその存在が謎めいて、存在感が立ち上がっているように見えるというのが、写真家の視神経のなせる技と言うわけだ。
これが12年前の話であるから、当時はこのようなタングステンランプが使われていたが、今は全部LEDになってしまったのであろうな。
それで大量のトイレットペーパーをチャイナタウンで買って帰国するときには荷物はそんなにないけれども、中国の人がよく持っている薄いピンクと薄いブルーノ大きなショッピングバックの中にトイレットペーパーを積み込んで、JFKから成田に飛行したのである。トイレットペーパーの密輸と言うやつだね。
それで帰国してみたら、その時には既にトイレットペーパーパニックは終了していたので、風にそれほど感謝されると言うこともなかった。それで家人と話していたのは、新潟の大地震の時に家人の父親が役人で秋田に住んでいたのであるが新潟地震のニュースを聞いて、ジープをチャーターして、何百キロも走って新潟の家に着いたのであるが水が不足しているであろうと言うので、一升瓶を10本ぐらい水を詰めて持ってきたのだそうである。ところが水はすでに開通しているので、家人の父親はその水の入った一升瓶を次々と庭に逆さまにして排出したそうで、がっかりしたと言う記憶を家人が思い出したのである。
私はこのカメラをwinで手に入れた。シャッターの具合が悪いのでそれを販売したウィーンのライカショップのペーターに修理を依頼したのである。で、それでしばらく時間が経過してから、日本に初めて世界最初のライカカメラであるうるライカを展示するために、ライカ社の社長さんが来日した。
それで ウィーンからのメールによれば、修理の上がったハンガリー製の一眼レフをライカの社長さんに託したから受け取るようにとのことであった。ハンガリーのガンマはもう存在しないし、別にライカの会社と競合する会社ではないから、別に問題は無いのだな。
ライカの社長さんの宿泊先の新橋第一ホテルに行ったら、彼は上機嫌で書類カバンを開いて、その中からこのハンガリー製の一眼レフを出して私に手渡してくれた。そして彼はカバンの中に今回展示するUr Leicaが入っていて、それを取り出して私に触らせてくれたのである。世界最初のライカに触るのは、その前にそれをライカ会社に行った時以来だから5年ぶりだったかな?
私はこの世界最初のクイック、リターン一眼レフカメラを手にして50ミリの標準レンズではなくて交換レンズが使いたくなった。それで当時仕事を手伝っていたコシナレンダーの小林社長にそのことをお願いすると快諾してくださったのである。しばらくしてワイドズームレンズと望遠系ズームレンズで、このカメラに使えるレンズを提供してくださった。
私は嬉しいので、調子づいてこのレンズマウントのコシナレンダーのレンズを出したら売れますよなどと馬鹿を言ったら、小林さんはこのカメラの製造番号を考えてください。200台ぐらいしか残ってないカメラのマウントのレンズなどは売れませんよと言われたので考えてみればその通りで私がバカであったことに気がついたのである。
ちょうど10年前の今日に撮影したこんばんは。私がこの10年見た風流な看板の中ではトップに属する。有限会社というのがいいし、カタログというのが会社の名前であるところも素晴らしい。そしてこれは便器看板で風と雨が吹きつけるために、右側が茶色っぽくなっているところがわびさびなのである。
この時期に私が関原と言う場所に凝っていて、よくあちこち撮影をして歩いた。カメラはブラックロードだった。その翌年であったか何度目かの関原方面に撮影に行った時は、ワークショップの同行者がいて、その人はこのカタログ、車の近くの小さな工場で船の模型を作っているところを見たと言うのである。
その船のおもちゃを見た体験は私にはないので、ワークショップの動向の人が私に話してくれたので、そこで想像をしてみた。私の想像の中でのおもちゃの船と言うのは、小さなセルロイド製のやつで、後にナフタリンを挟むと水に浮かぶとすいすい前に進むと言う
写真は目に見えるものしか映らないが、人から聞いた。小さな船のおもちゃの小さな工場と言うのはいかようにもイメージを膨らますことができる。だからイメージを膨らますことが楽しくて、実際の写真が面白いと言っているのでは無い。
それでおりまさんが使っていたのがこのカメラなのである。音声変換が変なので利権35となっているが、その方が何か理化学研究所が作ったカメラと言う感じがしてよろしいな。
彼が使っていたのは、このカメラのセルフコッキングのファインダーカバーを外したモデルであるから、カメラ本体からレバーが出てきて、シャッターチャージを動かす宣が露出している。私はプロトタイプの利権35だからそうなっていると思っていたのだが、ご本人の話によるとシャッターカバーをはずしてしまって、中が見えるようにして楽しんでいたらしい。
このカメラは巻き戻しをクランクに改造して、リコーの生き字引さんは楽しんでいたそうである。理化学研究所の名前を取ったり間35として1番最後に作られたカメラであるから、ネットオークションなどでもなかなか出ないと思って何年か経過したら、これは四谷荒木町の2代目さんがよく言うところの品物が品物を呼ぶと言う効果があって、最初に登場したら、次の週にはもう1台登場した。それで私はいっきょに利権35の二台持ちと言う人間になった。
それで自慢したいのはこのキャップなのである。私はキャップを使わない人間で、デジカメのキャップ等はまずすぐ捨ててしまうのであるが、この利権35のレンズキャップはコレクターズアイテムとしてはかなりレベルの高いものであると思う。
そのレアな金属製のレンズキャップを外すと、その下にはちゃんとUVフィルターも付いている。この時代のものはねじ込み式ではなくてかぶせ色なのである。つまりそこから推察するにこの利権35カメラの以前のオーナーはかなり真面目に写真撮影の基本的なルールを守っていたと言うことになる。
3年ほど前だったか、ソ連製のレンジファインダカメラのトップがブラックでボディー本体がイエローの私がイエローサブマリンと命名したカメラを手に入れて得意になっていた私であった。
ところがさっきガラクタ屋さんに訪問したお客さんのカメラを見ると、外国のライカ人類さんであって、たくさんのライカを持っておいでになったのであるが、そこで1番これはやられたなぁと思うのは右手にあるライカエムファイブベースのイエローサブマリンである。
ガラクタ屋さんは、これで非公式ライカショップのステータスを獲得したのはおめでたい。なぜそういうことを言っているかと言うと、15年ほど前に私が当時のライカの社長さんを案内して、にだいめさんや当時の買取名人さんとライカに関する国際交流をやったことがあった。
と言う意味のことを言っている。常時マチューナスはそれに答えたのであろうかどう甘かったんのキャナルストリートから北に向かってずっとウスターストリートが走っているが、そのまっすぐな通がウェストハウス豚ストリートにぶつかるまで1本の樹木も存在していなかった。
そこで1本の木を常時マチューナスが売れたらすぐポリスが流行ってきて、ここに生生上ではいかんというのである。その国家権力に対抗して、常時マチューナスは1歩も引かなかった。それから40年も経過していないのに、その1本の基はこんなに大きくなったのだ。
これは2011年の撮影であるが、ウスターストリートの非常にわかりやすいランドマークになっていた。ところが残念なことに、それから数年後にすでに大木になった。この気を切り倒してしまったやつがいる。同じリトアニア出身のJonas
Mekasがこの木の切り株の前にひざまずいている写真が残っている。もっとも、この机はその日故買が別のところにうつされたそうである。それにしても、常時マチューナスが植えた木の木が40年位で大木になったということ素晴らしい。美術運動のフルクサスよりもカレーが成し遂げたのはウスター通りの1本の木を育てたと言うことになるのか?
それで面白いのは手前の列に座っている。ジェントルマンが持っている。ハンドカメラにはみんなケーブルレリーズがついていると言うことだ。カメラを撮影するときにシャッターを指で押すと写真がぶれてしまうから、ゴムのボールのついたケーブルでシャッターを切ると言うのは、さすが高級アマチュアだと思う。
写真家のセルフポートレートで、私が長年不思議に思っているのはアルフレッドスティグリッツのセルフポートレートである。これは当時の最新型の組み立て式カメラが三脚の上に乗っている。その前でスティグリッツは斜め左側を向いてポーズをとっているのであるが、彼の右手には大きなRevolverピストルが握られているのである。これは何かメッセージであって、すなわちピストル言うよりもカメラが強いという意味なのかなと思ったが、その意味は未だにわからない。
それでこういう集合写真の時の100数十年前の面白い社会現象と言って良いのであるが、1番後ろの列の左側の男性がしっかりクラシックなタイプのポーズをとっているのが注目される。当時のポートレートスタジオでは、このようにそれぞれ自分の好きなポーズをとったわけであるが、集合写真と言うシチュエーションの中でポーズをとってしまうと言うのは非常に不思議である。
この新生写真生とは最後列の左の男性がポーズをとっているから、それはそれなりに変なのであるが、もっと変なのは1890年代に撮影されたウィーンのジェントルマンの記念写真で30人ぐらいの人々が写っているのであるが、その30人が全て自分の好き勝手なポーズをしているのである。これなどはビックジョークになっていて、今見るとなかなか鑑賞する価値がある。
でも、戒厳令の下でそれができなくなると、ワルシャワから夜行列車で、ウィーンの南駅に到着する急行ショパンというのがあるけれども、早朝にその列車が到着すると、多くのTVクルーとかジャーナリストが到着した列車に駆け寄って乗ってきた人から、情報を聞くと言う極めてルネッサンス的な情報伝達がそこで行われていたのである。
私は今はもう廃刊になった週刊朝日の取材で出かけたのである。戒厳令が解除になった翌日の夕方の飛行機でワルシャワに飛んだのである。飛行機の後半分は薬品等の救援物資でいっぱいであって、米半分はジャーナリストでオーバーロードと言う感じだった。
それで5 6日ワルシャワに滞在していろいろオリンパスワイドで撮影をしてウィーンに戻ると言う時に、私は空港であげられたのである。50数本の撮影のフィルムを私はツーリストだと言い張ったらポリスが言うにはツーリストが数日間でこんなにたくさんフイルムを撮影するわけがないと言う。
それはそうだよね。
それで隙を見て、私が5本位のフィルムをポケットに入れてウィーンに戻ってきた。安くない取材費用をもらっているのだから、帰国するときに空港で全部取られました。では済まないわけだ。
地元で知り合った私世代の親父に中古カメラ屋に案内してもらった。その中古カメラのソ連製のカメラの列の中で光り輝いていたのがポーランド製のこのカメラスタートである。同じ名前でスタートと言うソ連製の35ミリ一眼レフがあるが、そういうのに比べるとこのカメラのスタートは革命的精神に溢れている。
この種類のカメラは世界中に何千といろいろな種類があると思うが、このスタートカメラは遠くから見ただけで一瞬でこれがそのカメラであると言うことを認識することができた。デザイン上すごいと言うよりも、デザインがカメラの存在感の背骨になっているのである。
9月の終わりのロシアは完全な冬の初めであって、かなり寒いし、紅葉が綺麗なのである。と言っても赤い紅葉ではなく黄色い紅葉である。でもそういうのは撮影しても使わないので、なるべく風景では残っている深緑に見立てた緑の葉っぱを撮影した。
エカテリンブルグ宮殿のツーリストの人気の琥珀の部屋も撮影した。同行の編集者さんに聞いたら、その撮影料が10,000ドルであると言う。つまり、私のギャラよりも、琥珀の部屋の撮影料が高い。ロシア側の言い分によれば、ちょっと前にNHKが取材に来たから、その値段が定価であると言う。なるほどね。NHKに対してJTBもプライドがあるからな。
それでも10,000ドル支払ったのだから、琥珀の部屋は普段は接近禁止のための綱が貼ってあるんだけど、それを全部取り払って撮影の間中は一般のツーリストさんは入れないと言うVIP待遇であった。
それで持参したのはこのデジタルカメラであった。大変なお金がかかっているから失敗はできないので、同じカメラを二台持っていったが、結局撮影に使ったのが1台だけだった。
旅行雑誌関係の取材が面白いのは、私が普段撮影などをすることのない極々当たり前のツーリストスポットに行くことがある。有名な大きな川に架かる橋があって、大きな船が通るときはその橋が開くのである。時間を調べて撮影に行ったが、これが午前1時30分と言うので、真冬の寒さであるからこれが辛かった。
レニングラードで有名なのはレニングラードと言う名前のソ連製の35ミリレンジファインダカメラである。レニングラードカメラのレニングラードへの里帰りと言うことでカメラを1台持っていって内緒で撮影してそれはカメラ雑誌の連載に使った。もちろん内緒でやりました。
レニングラードの劇場の有名な女性のディレクターにインタビューした。その人の経歴が面白くて、もともとは劇場のお掃除の係りの人であったのがある時、演劇のエキストラの数が足りなくて、急遽舞台に登って、そこからいろいろな可能性が芽生えて今では演出監督になっていると言う話が面白かった。日本よりロシアの方がそういう意味で生き生きしている。
ボルケーノの上を飛んだ記憶で、最も鮮烈なのは日本最大のボルケーノマウントフジの上を飛行したことだ。実にリアルな連続的にボルケーノのポイントオブビューが変わっていくので感動した。
もう一つの体験は初めてシシリー島に行った時、方向がナポリを目指していたので、ストロンボリの火山が見えるのではないかと、飛行機の窓から視神経凝らしていたら、それらしい明かりが見えたのである。
ところがそれは火山の噴火ではなくて、その日が、シチリア島の何かのお祭りの日で、夜に上がった花火であった。ストロンボリの噴火を見るよりも、そちらの方がオポチュニティーであったと思われる。しかも着陸する飛行機の中から花火を目の下にみるというのは、私の人生で、唯一の体験だった
その他に火山の上を飛行したと言うのは、阿蘇山とか桜島がある位のものだ。それにしても、お店のシャッターのイラストのデザインをボルケーノにすると言うのはかなりレベルが高いと思う。
しかもお店の名前とか一切書き入れていないのがアートとしてのハイクラスを保っていると思う。
その渡り廊下の北側のほうに小さな茶室がある。この写真で見る右側の小さな窓がそれにあたる。ところがその回廊の手前にブリッジがあってそれがはね上げられるようになっている。そのブリッジをまっすぐにしないと渡り廊下の彼方側に渡れないのであるが、ここがエキセントリックで1番足元がゾクゾクするところだ。
ニラハウスで茶室がついていると言うところがなかなか売りなのだと感染した。この画像は最近撮影されたFacebookの友達のものであるが、随分様子が変わってしまった。普通の古びた正倉院みたいな感じになってしまったのが、逆に商業無常という感じがして、すばらしいと思う。
赤瀬川さんが亡くなったのが確か2017年の春先の雨の激しい日で、その時千葉県美術館で赤瀬川さんの個展が開催された初日であった。だからオープニングレセプションはそのまま赤瀬川さんの追悼のようになってしまったのも意外と本人の意思でそうなったのではないかと考えてしまった。
十数年前のことを片岡義男さんとお付き合いがあって、2人で東京の北の方をウロウロ撮影していたことがある。その時の片岡さんの話では、片岡さんは玉川学園の豪邸にお住まいなのであるが、駅の近くの蕎麦屋さんで赤瀬川夫妻を見たと言うのである。赤瀬川さんの方からは同じ町内であるのにもかかわらず、片岡さんの目撃情報などを聞いた事は無い。お互いに知らない間ではなかったと思うけれど、そこら辺がちょっと気になる。
もう一つ意外だったのは、漫画家のつげさんが赤瀬川さんが亡くなった第一報をあちこちに連絡していることである。赤瀬川さんとつげさんがよく行き来があったと言うことを私はついぞ知らなかった。1980年代には玉川団地で、近くだったから、いろいろな話をする機会があったのだが、赤瀬川さんの話は1度も出なかった。もっとも冷静に考えてみれば、彼とはずっとカメラの話をしていたから、カメラが欲しいの著者の話題は出なかったとしても不思議ではない。
それでこれが小村が作った。ペンタボックスと言うレアなアクセサリーである。このメーカーの総合カタログで見た事はあるが、これだけいろいろなカメラとかレンズとかアクセサリーを見ているにもかかわらず、ネットオークションで初めて見たので入札してみた。全く人気のないアクセサリーなのであるし、それ以上にその存在を知ったのは初めてのことなのであるが、世の中にはコレクターと言う私のような面倒な人種がいるから、ネットオークションでは戦いになった。とはいっても、そんな高くなくて2000円台であったと思う。
ライカがエム型ボディーのために作っていた一眼レフ装置がVisoフレックスであって、これは当時日本の輸入代理店で本体だけが100,000円位したのである。だからその当時に作られた5匹の同じようなアクセサリーは100,000円の本場のライカのアクセサリーに対して、その4分の1位であれば売れるであろうと言うことで23,000円位の値段が付いている。それであまり売れなかったらしい。
その頃の小村のカタログを見ると、他の交換レンズ等はその当時の高級レンズメーカーのものに比べてかなり安いのであるが、小村ペンタボックスだけレンズの価格と比べると随分割高なような感じがする。
それでこのペンタボックスの設定価格と言うのは、当時競合他社がなかった。ライカの一眼レフアクセサリVisoフレックスに対して設定した4分の1の価格であるということが確認されたのである。
スティーブ・ジョブズが最初に自分で作った新しい会社のネクストコンピューターを私はずっと使っていて、15年位前までは歴史的なコンピューターであると言うので、写真を撮影するときにどっかの雑誌の編集部が私のブラックネクストを借りに来たこともあった。しかし、それがもうなくなって、十数年。
ハノイの下町を歩いている時に、赤い政治的なスローガンの横断幕の上に、モノクロームのスティーブ・ジョブズの肖像画があって、非常に強烈な独裁者の印象をそこに持ったのは赤い横断幕のコントラストもあったのかもしれない。独裁者と言うレベルから考えてみると、そのレベルはホーチミンよりもジョブスの方が世界的レベルだから、はるかに独裁者と言うにはぴったりである。
ハノイのSteve Jobsを見る3週間ほど前に私はニューヨークにいて、これはスティーブ・ジョブズが亡くなる数カ月の前の話になるのだが、イーストサイドでこれと全く同じ肖像画を見たのである。その時は別に有名な企業のトップと言うだけであって、独裁者と言う雰囲気は全然感じなかった。
アップルの業績が最悪だったときに、私はアップルの株を1ドルで手に入れたのである。ただし1ドル株主と言うことだが、ちゃんと真面目にアップルはカリフォルニアから株主総会の時に真面目に分厚い資料を送ってきてくれた。今昔物語だね。
それで、この本のプライスが3800円と同時としても、結構高価であったのだけど、案の定なかなか売れなくて、1部は裁断されて処分されたのだそうである。私は自分の出版した本を自分で持たないので、何かのプレゼンテーションの時に必要になって、日本の古本屋で探したのであるが、倍近い値段になっていたのでびっくりした。しかし、資料として手に入れないわけにはいかないので買ったのであった。
それでイントロダクションの数行なのであるが、私がこの本を書いたのはある。有名な写真家が写真の表現が何が大事だと言ったら自分の腕であるカメラ等は関係ないと言ったのに対して、私はかなり反発していて、それを否定するような本を書こうとしたのが、最初の犯行の動機であったことがわかる。
要するに、1960年代から2000年に至る。40年間の自分が使っていたカメラとレンズの話なのである。面白いのはその中にはデジタルカメラが1台も入っていないと言うことで、デジタルカメラが実際に実用化されるのは、2000年と言うポイントが過ぎてからであったことがわかる。
左ページの下のほうに朝日新聞の出版写真部の私の友人おが撮影してくれたショットがあるが、これは銀座で偶然に出会った時に撮ってもらったものなのである。それでみると、私が使っているのはニコンS3なのであるが、これは尊敬する写真家ウィリアム位の影響を受けていることがわかる。
しかし、これもカメラ神話のうちの1つであって、戦前の時代にブレッソンが使っていたライカはブラック仕上げであったから、そのブラック仕上げが撮影に有利であると言う論理的な理由は成り立たない。1932年にライカはクローム仕上げを初めて登場させたのであるが、それまではライカはブラック仕上げが普通であったからだ。
数年前、パリのポンピドーセンターで見たブレッソンの大きな展覧会に登場した彼の若かった頃のポートレートは、戦前のバルナックライカのブラック仕上げなのである。
キャノンオリジナルのブラック仕上げのカメラボディーをよく見ると、ネックストラップアイレットまでブラック仕上げになっているばかりか、そこについているリングまでブラック仕上げなのである。非常に真面目に作られたブラック仕上げカメラと言う訳だが、果たしてそれまでやる必要があったのかな?
その当時のキャノンのスポンサーで、友人スミスがこれと同じモデルを使っていたのであるが、マンハッタンに街角に潜んで社会の悪事を発見してやると言うような怖い表情の友人スミスであった。
友人スミスが悪いのではなくて、本格的な報道写真家は、社会の矛盾を暴き出すというのが、そういうことが当時写真で求められていて、それが報道写真のイリュージョンというわけであった。
この写真はwinのシュテファン大聖堂の前で撮影したものだが奥のほうに小さくストリートミュージシャンが写っていて手前左側には男性の背中が大きく写っている。この距離感からするとおそらくライカカメラに20ミリか21ミリのレンズで撮影したと思われる。
その撮影の動機は明らかではないがシャッターを押したからその映像がここに残っているわけだ。写真をセレクトするときの意識と言うのは極めて無意識と意識の境を揺れ動いているものなので言葉にならないセレクションとでも言える状況がある。それでそのほとんど無意識の状況で私はこの写真をセレクトしたのであるがだからなぜこの写真なのかと言う事は説明ができない。そこら辺の写真の本質なのである。
それ故今までいろいろなことをコンテストの審査を世界中のあちこちでやったことがあるが1つの写真に対してこの写真が優れているとかたくさんの写真からこれこそ1番と言うような選び方をするのは本来不可能なのである。フォトコンテストの審査と言うのは他に何千もある絵画にしろ文章にしろ彫刻にしろ同じだが本来不可能なものを無理矢理交通整理をつけて1番地とか2番地とかつけているのに等しい。
その意味ではサルトルがノーベル賞を拒否したと言うのは非常に背景が深い正しい見方だと思う。
佐藤栄作あたりもノーベル賞を拒否したりしたら名前が上がったのに残念だねピーピー
大竹明子さんはなかなか優れた文章がであるがこれはときの忘れ物と言うギャラリーで連載したいせいだと思う。それでギャラリーバウハウスで数年前に大竹さんが来てくれてこの写真を指名してそれがオンラインのエッセイになってそれから数年経ったら本にまとまると言うことで最終的には36の写真家の仕事が大竹さんの本には掲載されている。
36人の写真家の仕事と言うのでこれはライカの36枚撮りと同じですねと大竹さんにメールしたら表紙の写真が何か立派な建物のイラストでその窓の数が36あるのだそうだ。
なるほどそういう背景があるのか
VHSのビデオデッキはとっくの昔にどっかに行ってしまったから、仮にこういうものが手元にあってもそれを見ることができない。それから数年経過して、CDの時代になって作ったのが坂崎さんなどと一緒に制作した。ライカカメラに関するプログラムだった。赤瀬川さんにも登場していただいた。
一緒に仕事をさせていただいたプロダクションは、ご覧のようにライカエムモデルとバルナックライカを2つ並べて販売の向上を目指すと言うものであったらしい。クラシックなバルナックライカが葛飾区立石で撮影してモダンなエムモデルは、当時流行し始めた代官山ヒルズで撮影をした。
いずれにしても、四半世紀前の話で、今思い出して面白いのは代官山界隈には全く興味がないから、1度も行ったことがなかった。なぜああいうところに当時の若い連中がゴキブリみたいに集結するのかも不可解であった。
代官山とは言うけれど、やたら高低差のあるところでたくさん坂道と谷があった。そのライカイズムのエム型のモデルで私がよく覚えているセクションは、撮影が非常に風の強い日で、お店の前に置いてある看板が何メーターも遠くに吹き流されて、撮影中に、私がそれを手で転がしてもともとのポジションに戻すところがなかなかシネマヴェリテいてよかった。ドキュメンタリー映画ですね。
撮影中にびっくりしたのは、代官山のそれっぽいお店の前で撮影していたら、中から店員さんが血相変えて飛び出してきて店の前で取るなというのである。店員さんの意地悪と言うことではなくて、お店のマニュアルにそのように書かれているのである。
イタリアのミラノで名前は忘れたけど、何とか言う日本でよく知られているイタリアンブランドのお店の反対側のかなり離れた距離から何となくそのお店にカメラを向けたら店員さんが血相変えて走り出てきて私に撮影するなと文句を言ってきた。怪しい日本人が知的財産であるお店の情報を盗撮していると思ったのであろう。
人から聞いたが、実際にそのような盗撮が昔は普通にあって、ヨーロッパのファッションブランドのウインドウを深夜に撮影して回るビジネスがあったそうだ。
最初のリスボン訪問から43年が経過して痛感するのは有名な建物、例えばくちばしの家などがポルトガルのノーベル文学賞作家のミュージアムになってしまったりする。
このストリートを歩いている男性の雰囲気がフェルナンドペソアに似ていると気がついたのが1990年代のことである。それまでペソアは日本で翻訳がされていなかったので、私は知らなかった。
1990年にリスボンの本屋さんで、ペソアが描いた1920年代のリスボンのツーリストガイドというのがあって、これは英語とポルトガル語の対訳なのである。
ポルトガル語の勉強になると思ってその本を買った。面白かったのはフェルナンドペソアの記録した1920年代のリスボン案内は、1990年代でもちゃんと使えたことだ。その後リスボンは私の大嫌いなエキスポやってしまったので、10年近く訪問する事はなかった。
1908年の記述のある看板を見て、1980年に私の感じた印象と言うのはそんなに昔の事ではないなと言うことだった。今見ると前の世紀の初めのことだから、大昔に感じるのが面白い。
自分の作品としてのヴィンテージプリントは捨てる事はないが、情報としての過去の写真は画像情報が重要。なので、プリントそのものはしていても何の問題もないというのが私の考えである。
日本カメラで三部作で出た名機礼賛と言うカメラエッセイがある。そのトップの文章の1部で、卒業旅行のほこりっぽい記念写真の撮影の憂鬱のことを書いているのだが、それはこの卒業旅行の記念写真の記憶なのである。
卒業旅行の先生方が持ってきたカメラは私の持っていたニコンエフよりも前の世代がほとんどであるから、キャノンの高級レンジファインダーであったりするのも面白い。私の前の列に座っているのが梅田先生と言う理科の先生だった。いろいろ教えていただいた
私が今写真家になったのはこの先生のおかげかもしれない。
文京7中と言う学校は、とっくの昔に消滅している。
インタビュアーがどうやってそんなに日本語が上手くなったのですか?と言うと、その若い人の答えが良い。
まぁ、生活の中で
この言葉は非常にリアリティーがあるし、本当に日本語が上手くないと使えないフレーズだと思う。14歳位でゼリンスキの手下となってロシアをぶっ潰すなると言ってる奴は最初から信用できない。
生活の中で言葉を覚えると言うのは重要だと思う。家人の場合はドイツリードの専門家であるから、今ではそういう古いドイツ語を使っているのはウィーンの劇場位なものである。それはちゃんとしたウィーンの音楽大学の教育の結果としてそういう成績を得たのであって、それで卒業証書をもらえたと言うわけだ。
私のドイツ語はかなりいい加減で、それは生活の中で覚えたのである。すなわち、winのワイン酒場などでネイティブなナポレオン3世時代以来の鈍ったドイツ語を勉強したのだ。だから私のドイツ語の訛りはあちらの人間が聞くとネイティブスピーカーではないかと思われる勘違いがあるのだが、実際には九官鳥が話しているのと同じである。
それでもオーストリア第一放送の文化番組で、彼らが日本に取材に来たときに文化っぽい話を20分間で3本収録してそれが放映されたそうである。私はそれを見ていないが、ウィーンの友人に聞いたら、一応意味はわかって滑稽であったそうだ。日本で外人タレントさんが関西弁しゃべるようなもんなのだろう。
それで話は1976年に戻るが、写真展の準備で日本に行った時、何しろ戦後最初のヨーロッパでの日本人の写真展であるから、東松さんもIKKOさんも篠山さんも森山さんも天才荒木も何しろ外人が来たのだから、それなりに緊張したらしい。
ところがその偉い外人のディレクターさんが、大切な打ち合わせの時にメモを書き込むのに取り出したのが子供のおもちゃの金魚のメモ用紙なのである。表紙がかわいい赤い金魚なのだ。普通の日本の常識からすると、これはかなりディレクターを馬鹿にしたことになって印象は悪かったらしい。
それに同行しているのが田中長徳と言う長髪で目のつり上がった変な奴である。私の初対面をピアニストの山下洋輔さんは天才と紙一重の気違いピアニスト何とかと風貌が似ていると書いているが、私は初対面で相手を警戒させる風貌なのだ。
スタジオ入りする前にそういうしきたりになっているらしいが、メイキャップルームで髪をとかしてくれたり、スタッフの人がやってくれているときに、いきなりNHKの徳田アナウンサーが入ってきた。私のカメラ本の読者であると言うので恐縮した。
徳田さんはそれから数年後に私が佃島を歩いていたら、いきなりメルセデスベンツが止まって、そこから徳田さんが降りてきた。それで車の中に向かってままと呼んでいるので、徳田さんの母上がいらっしゃるのかと思ったら、奥様のことであった。恐縮。
9年ぐらい前の話だが、家人がいつも聞いている。ラジオ深夜便にテキストというのがあって、そこで雑文を頼まれたのである。坂崎幸之助さんとの中古カメラの出会いなどをわかりやすく書いたのである。それでそのテキストが出たときに、家の人がびっくりしたのは、こういう名前の並べ方を広告でしてくれたのだ。家人は、先生みたいなタイプなので、すぐ赤いマーカーで、アンダーラインを引いたりするのである。
それでラジオ深夜便のテキストに名前が広告で出る位であるから、これは出演依頼がいつあってもいいようにと言うので、喉の調子を整えて待機していたのであるが、1年経ち2年経ち3年経ち5年経ち10年経過してついに出演依頼は来なかった。
NHKの出演料は安いからそれに期待しているわけではない。
ディレクターの代替わりがあったと言う以外にちょっと考えつかない。
アンドレ・ケルテスも似たような仕事をしていて、彼の場合は5番街の1番地でかなり上の方だと思うが、そこから35ミリ一眼レフに300ミリでマンハッタンの四季折々と人物を撮影していた。
このショットはまだスミスが30代後半の頃だと思う。同じ時期にニューヨークにいた。三木淳がおそらく6番街で撮影をしている。友人スミスを撮影したショットがある。スミスはライカM3に50ミリの頭ミクロンがついていた。
このショットで面白いのは、スミスは撮影の時にたくさんのカメラを持ち歩くのと同じようにたくさんのカメラがデスクの上に置いてある。でもこの写真で観察する限りではまだ彼のトレードマークであった。グリップがついていない。それで細かくカメラを観察すると真ん中にライカM3があって、その周りに置かれているカメラはキャノンのレンジファインダ。それと1つ一眼レフが見えるが、ちょっと醜いけど、これはコンタックスエスではないかと思う。
同じ時期より数年古い撮影で、まだ若さの残るスミスが気にしているのがコンタックス。アンジェニュー135ミリであったのだ。これはまだ日本製の一眼レフとか交換レンズがアメリカに伝来する以前の話なのである。
それでポイントなのはスミスの後ろのほうにレフレックスボックスの付いたキャノン400ミリ、ef 4.5が三脚の上に乗っていることだ。ダブルのケーブルレリーズが付いているのもセオリーである。そしてそのレンズが破れたブラインドから外を見ていると言うところが、実にリアルで面白い。私が住んでいたタイムズスクエアのそばのボロホテルもそうであって、ブラインド等はホテルができてから1度も交換されていないのではないかと思うほど穴だらけだったので、そこから望遠レンズでタイムズスクエアあたりを撮影したり
要するに、ここにはトップフォトグラファーのリアルな生態系がそのまま写っている。この写真を見て同じ400ミリのキャノンレンズを買いに行ったことがあった。しかし、この時代の400ミリ+レフボックスはペンタプリズムでなってはいないから、このように俯瞰のアングルでは椅子に上らないとピントも構図も取れないと言う面倒なことになっている。
点と線がつながったわけである。30代であるから、その当時はニューヨークから帰ってきて、板橋の奥のほうに住んでいたが、驚いたことに1日100キロぐらい自転車で走るのが普通だった。それで飲んでそのまま深夜に板橋の奥のほうまで自転車で帰っても平気なのである。
ビデオカメラで定期的にお店の様子を撮影している私であった。ある時お客さんで山海塾の人が来た。ところが、オーナーの高野さんは山海塾を知らなくて、そこら辺の学習塾だと思っているのもいい感じだった。俳優のネズの甚八さんと飲んだこともあったな。
お店はいかにもこのように戦前の建築物に見えるが、実際には戦後に建築されたそうである。ニューヨークタイムスに紹介されたりもして、その小さな切り抜きがカウンターの右の突き当たりに貼ってあった。そのオーナーが亡くなって10年ぐらいはそのままになっていたが、ある時前を通ったら、大工さんが入って開店の準備をしている。しばらくして新しいオーナーで以前のようにお店が開いた。それでまた通うようになった。
最後にこのお店に行ったのは、ちょうど7年前の東京芸大でロバートフランクのエキシビジョンがあった時だった。この画像はその時のムービーから切り出したものだが、いかにもお店の雰囲気が出ている。3年ほど前に懐かしいので、界隈を歩いていたら、すでに更地になっていた。お店のランドマークである日本の樹木だけが残っていた。それから半年後に行ったら、その人も久もバッサリ切り倒されていた。
ニューヨークのウスターストリートで、フルクサス運動のマチューナスが植えた木が大木になってその後切り株になってしまったのを、映画監督のジョナスめかすが追悼している光景を思い出した。というのもジョナスめかすが着ている青い上着を私も着ていたから。
その歴史はかなり古くて1973年にこのレンズについているコンタックス一眼レフカメラをwinで手に入れた直後に蚤の市か、どこかで500ミリのリフレックスレンズを手に入れた。頑丈な木製の箱に入っていて、いかにも光学兵器と言う感じだった。
500ミリレンズは屈折式だと巨大であるから、しかもレンズが長いので、いつも持ち歩くわけにはいかない。その意味でレフレックスレンズが非常に使いやすいレンズである。ボケの描写が悪いなどと言う人がいるが、あれは実際に写真を撮影していない人間の言う戯言である。
ウィーンの教会のトップに付いているタワーをたくさん撮影して、その当時のキャノンサークルと言うカメラメーカーの雑誌に発表したことがある。キャノンのレンズではないけれども、別にそういうことを文句言うようなレベルの低いカメラメーカーでなかったと言うのはありがたいことだ。
500ミリレンズでの撮影と言うのはそれなりに修行の要ることでそこら辺の修行は3年ほどやっているうちにほぼ自分で見て完璧と言える位になった。人間に向上心は禁物であるが、私も30代であったからすぐ向上心を発揮して、その上の反射望遠レンズで1000ミリと言うのを手に入れたが、これはかなり大きい。いつも携帯するには大きすぎるサイズと重さなのである。
この1000ミリレンズもそれなりにトレーニングして使えるようになったが、いつも持ち歩いてモチーフを発見して撮影をすると言うには1000ミリレンズは長すぎるのだ。有名なファッション写真家の吉田Taiho さんなどは、いつも1200ミリのレンズをアシスタントさんに持たせて、いきなりおい1200とやるそうだが、これは大写真家でないとなかなかできないパフォーマンスだと思う
日本のカメラ雑誌にこのソ連製の反射望遠レンズが作品として発表されたのは1950年代の終わりだった。どこかのレーシングカメラマンが500ミリと1000ミリのレンズを使って良い仕事をしていた。ところがその頃このレンズは知られていなかったので、その翻訳が結構おかしくて500ミリと1000ミリの反射傘と訳されていた。
そのフィルムの無駄と言うのを防止するために、その当時の1部のアメリカ向けのニコンエフは自由にミラーアップとリターンを切り替えることができるようになっていた。アメリカ市場も意外とめんどくさいことをリクエストしてくるものだ。
私は土門拳と同じ時代のトライXのユーザである。100フィートが3500円した。フィルムがもったいないので、ミラーアップの2.1センチのレンズをつける時に色々とひとこまフィルムを無駄にしないための研究をしたのである。これが高校生の時の話である
そこで私が発見した裏技の裏技の方法論と言うのは、指で軽くシャッターを叩いてやるのである。するとミラーアップの最初のアクションだけが作動してミラーが上がるから、そこで2.1センチのレンズを装着すればよい。この方法だとフイルムをひとこまも無駄にしない。もっとも当時の私は四六時中2.1センチのレンズをつけていたからだから別にどうということもない。
思い出して60年ぶりに、この私独自のミラーアップの方法やってみたら、完璧に作動した。こういうのは高校生の時の運動神経が残っているのだな。
それでそのピアノ志望の女性はしたい上のグランドピアノを買ったのである。我々サイドの声楽家と言う観点からすると、ピアニストが好む。スタインウェイよりもwinの郊外で作られている。ベーゼンドルファーの方が好みと言うので、そこら辺ははっきり分かれてくる。
ここから先が3粒台本、書きには書けない。真実のストーリーの不思議なところなのであるが、そのピアニスト志望の女子学生はかわいそうなことに顔で早くなくなってしまった。それで何が言いたいかと言うと、その死体ウェイのピアノ買ったピアノ屋の経営者の若い人と恋仲になったのである。
この若いピアニスト、脂肪の日本人女性がなくなったと仲間内でよく話題になったのは彼女は死んじゃったけど、彼女にピアノを販売したピアノ家の息子さんはあのピアノお金ちゃんと返したのかな?あるいは買い取ったのかななどと身近のゴシップの話題が沸騰したものであった。
それから何十年か経過して、私はエグゼクティブマガジンの取材で世界でも12を争う。ピアノメーカーである。ウィーン郊外で制作されている。ベーゼンドルファーを取材に行って社長にインタビューしたことがある。それでいろいろな家は話を聞いたのが面白かった。ベーゼンドルファーの会社はその時点でアメリカのピアノメーカーキンボールに買収されていた。それでラインナップを見せてもらって、私はベーゼンドルファーのフルコンサートのピアノは欲しくないけれども、ベーゼンドルファーで作られたアップライトピアノが欲しいと思った。ヤマシタ洋介さんだって家で演奏しているときはアップライトピアノなのである。こっちの方がジャズを感じるからな。
ウィーン第3区の私が住んでいたアパートメントは1階下にヨーゼフホフマンが彼の死ぬ時まで暮らしていたゴージャスなアパートメントである。螺旋階段の空間を利用して、後の時代に作られたエレベーターが設置されていたが、これが面白い構造でコインで100円位を投入すると、そのエレベーターは上方向にだけ客を運ぶのである。下の方向には運行しないと言うシステムになっていて、ユーザは所定のフロアまで行ってドアを閉めるとそのまますぐにベースメントに降りるような構造になる。
それで200年位前に作られた建物はそれで良いのだが、例えばモーツァルトが住んでいたようなそれよりもさらに古い時代に作られた建物だと螺旋階段のスペースが非常に小さいので、その空いた空間にエレベーターを設置することができない。だから今でもウィーンのステファン大聖堂のすぐ裏にあるモーツアルトが住んだ家と言うのは確か建物の8フロア位だとおもう。けれども、訪問者は急な階段をゼーゼー言いながら上がらなければならない。
その螺旋階段の方向なのであるが、この写真でもちょっとわかるように。ヨーロッパの螺旋階段は時計回りに上に上がって行く。ところが私が調べた限りでは日本にある数少ない同じ構造の螺旋階段は反時計回りに上に上がっていくのである。なぜこの違いがあるのか未だにわからない。
1970年代に暮らしていたときにはそれぞれの古いアパートメントのエントランスに飾られているきれいなステンドグラスなどを見るのが楽しみだし、写真撮影もずいぶんやった。でも最近ではセキュリティーの観点から全部オートロックになってしまったので、螺旋階段もステンドグラスも、我々歩行者には完全に隔てられたものになってしまった。
オーストリアのウィーンと言う所は、かつて大帝国であって、木谷傾向、そして南にハンガリーを従えていたから、今でもウィーンの人間の感覚として、この2つの国の属国であると言うような意識を、無意識のうちに持っているのは滑稽である
1985年と言う年に、ウィーンとプラハとブダペストを大周遊して撮影をしたときのワンカットである。ブダペストの中心部の素敵な公園で、えらく立派な彫刻があってその前に座っているジェントルマンを撮影したのは一瞬のことであるが、面白いのが何かと言うと、彫刻のトップに座っている。ジェントルマンと下のベンチに座っている。ジェントルマンが同一人物なのではないかと言うような面白さがあるので撮影した。
カメラはプラウベル間生和プロシフトで47ミリの広角レンズが付いているから、ちょうどライカに21ミリの広角レンズをつけたのと、同じ感覚で撮影できるのが素晴らしい。
1985年と言うのは非常に面白い劇で、まだ社会主義国の国国が崩壊する前の話なのである。その頃のブタペストと言うのもなかなか忘れることができなくて、物資がないから、街中で買えるかなと言えば、赤いカーネーションのみ。
黄色いビキニを買うために長い長い列ができていた。街中のアイスクリームもミルクの量が少ないので、逆にさっぱりしていて美味しかった。このショットを撮影した後に近くの有名なカフェに入って、アイスクリームとSoda Waterを頼んだのだが、そのシンプルな組み合わせを今でも忘れない。
そしてこれが面白いことなのであるが、何かのバグの関係で見慣れたウィーンのストリートがまるで立体が、キュビズムの平面作品のように分解を開始したのである。これは非常に気に入って、それをキャプチャーしたのがこの画面である。
日本でも最近キュビズムをテーマにした写真展が開催しているみたいだけど、人間の貧困な頭で考え付いた。キュビズム何と言うのは人間の頭の限界を示しているわけで、コンピューターのバグで生じたキュビズム的分解のほうがよほど素晴らしいと思う。
プラハと言う街は、世界でもかなり0月少ないキュービズム的建築物がいくつか残っている。それらが好きで浦賀に行くとよく見て歩いたものである。そればかりか私の著作の中で1968年のソ連の戦車のプラハに侵入してきたときに、私はキュビズム建築に住んでいる労働者であって、その一部始終を見ると言うストーリーを制作したこともあった。
人工頭脳が作ったイカサマの風景は、私は好まないが、このようなGoogleストリートビューで事故で制作された風景と言うのは素晴らしいと思う。
1974年の巴里の話であるが、巴里在住の日本人声楽家の家に行った時、「昔、画家志望で夢が果たせず写真家になったパリジャンが、往年の夢を復活させるために、巴里でスケッチの個展を開いたけど、たいしたことはなかった」というのである。
これはブレッソンの経歴を裏側から透視したわけで、はなはだ面白いと思った。
あれからちょうど30年が経過して、ブレッソンを賞賛した「人間礼讃」の写真美学はすでに没し去り、世界は混沌のデジタルの荒海の中に翻弄されているわけだ。
30年前に巴里で「下手な絵の個展を開いた」ブレッソンは当時、まだ65歳である。
功なり名遂げたブレッソンが「方向転換」をした1974年から彼は30年を生きたわけだ。
ブレッソンは写真に撮影されることが嫌いで、ほとんどポートレートが残っていない。
この春に出した本「ライカを買う理由」にはそのブレッソンの最後の画像を表紙に使ったのであって、これはどこかに招待された時のスナップであることは、彼がIDカードを下げているので分かった。
昨日の朝日の夕刊のロイターが配信した画像も同じものであったことは、昨日の日記で触れた通りである。
スナップの神様は、ライカM6に初期モデルのズミクロン50ミリを付けているが、そのレンズには紐でつないだレンズキャップが付いているのが「珍」であった。
ブレッソンが死し、ニュートンが死し、かつての「自己の写真世界を哲学の論理の元に整列させる写真家」の時代はすでに過去のものになった。
マグナムなどはすでに時代から離脱している。
今暁、写真家という職業そのものが「死に瀕している」ことを考えていた。
もう生き残りはフランク、クライン、日本ではアラーキーくらいなものであろう。
アラーキーの場合は「江戸前の伝統芸能の伝承者」であるから、それで人気があるわけだが、これが欧州に「引っ越し公演」される時の背景の事情には注意しなくてはならない。
彼ら(欧米人)はアラーキーを「写真芸術の巨匠」などと認識しているのではない。
ノーファインダーテクニックを知って、1番最初に撮影したのが左のページの上の作例であって、数人のアメリカ軍のベトナムからの帰還女性が銀座を歩いている時に、それを見る日本の男性の視線というのがなかなか意味があって、こういうのはノーファインダーでないと取れないと言うことに気がついたのである。これはライカM2 35ミリレンズで撮影。
その下の作例は数寄屋橋公園で待機汚染している。東京だからフレッシュな酸素を吸いましょうと言うので、2袋ようなビジネスは今でも流行っているようだけど、1964年頃のショットがその1連の流行の1番最初だったかもしれない。これはライカに21ミリの撮影であるが、ノーファインダーである。
左の列の1番下の作例は、これも銀座4丁目の似顔絵描きである。プラハのカレル橋にも似顔絵描きの人々がたくさんいるが、なかなか商売になるものと見える。これも通りがかりの腰から撮影したノーファインダー撮影で、こういう撮影テクニックはかなり有効に使えると言うことを私は教わったのであった。
左の列の1番下の作例は、これも現在4丁目の似顔絵描きである。プラハのカレル橋にも似顔絵描きの人々がたくさんいるが、なかなか商売になるものと見える。これも通りがかりの腰から撮影した脳ファインダー撮影で、こういう撮影テクニックはかなり有効に使えると言うことを私は教わったのであった。
右ページは東京カテドラルである。東京カテドラルが建設され始めた。最初のプロセスから完成するまでを私は文京区の実家の音羽の2階から観察し、同時に撮影していたのも今にして思うと面白い。
それで完成してから許可を得て教会の外とか内部を撮影していた。外国人と1番最初に英語で会話をしたのも東京カテドラルだった。自分の英語が通じていたときにはドキドキしたね。会話の相手はスウェーデンから来た男性で、最初の私に投げられた英語の質問と言うのはそれはズームレンズですか?と言うのである。タムロンのズームだけどもライカだけではなくて、レンズにも人間と人間を結びつけるコミニケーション能力があるんだ。
、それで1995年に使っていたカメラなのであるがリスボンの見えないカメラ店で買ったライカM2のブラックペイントであった。レンズは自分で持ち歩いているソ連製の50ミリである。
リスボンの見えないカメラ店は7年前にリスボンで行った時に既になくなっていた。でもこの店からはずいぶんいろいろなカメラやレンズを購入したのである。
購入したブラックペイントのエムツーはオリジナルであって当時150,000円位を支払った。1967年に購入したM2のブラックペイントの新宿ラッキーカメラでの値段が120,000円であったから物価の上昇率からするとまずそんなものではないかと思われる。
それが3年前に新宿のカメラのキタムラ写真機店に行った時展示されていた940,000台のブラックベントのM2に5,000,000円の値段がついていた。最近では完全に写真を撮る道具ではなくてインベストメントなんだね。
その話をFacebookで書いたら読者の方が書き込みをしてくれてそれは大昔に自分が450,000円で買ったライカM2です。手放さなければよかったと、いうのである。世の中と言うのは結構狭い世界であるというのが面白い。
それで手に入れたM2のブラックでパリなどを撮影したのであるがそれがソ連製のジュピター50ミリなのである。あるいはEf. 2.8の50ミリであったかもしれない。前者はゾナーのコピーで後者はテッサーのコピーなのである。
それらのプリントをよく見ると別にライカのレンズやツアイスのレンズに比べて描写が劣っているわけではない。レンズはこれらの1000円位で購入したレンズで充分である。アポずミクロンがいいと言っている人は大抵ブランドにしびれているだけで写真のクオリティーに関しては知らない人だな。
そういう50ミリのスナップショットの撮影距離を見て、自分でわかることが大抵infinityでとっているのである。アンリカルティエブレッソンの場合は、別にピントが合わせると言う事はなくて、ライカのレンズの5メートルと2.5メートルに赤いマニキュアでドットが盛り上げてあったそうだ
自分の場合は、まず5メートルから10メートルにフォーカシングがあっていれば、それ以上やる事は無し。
ヨーロッパの生活では、肉屋さんに買い物に行くと、ハムでもソーセージでもかなり細かくスライスして売ってくれるのである。それが普通だと思っていたら驚いたことにこの店に行っていわゆるスライスしたソーセージを買おうと思ったらそういうものはないと言う。
その理由を聞いてみたら、単純な話で衛生上の問題があると言うことなのだ。だから今日本で我々が手に入れるハムやソーセージの薄切りと言うのは、最初から全部バックに入っている。ところが逆にヨーロッパ人の感覚は逆で切りたての物の方がフレッシュでおいしいと言う認識がある。ここら辺が世界の歴史との意見の違いと言うわけだ。
ところで、共食い看板は、時代の進展に連れてどんどんなくなっていくようであるが、これはFacebook友達がこの間撮影してアップしてくれた雑司が谷の共食い看板なのだが、何か看板がきれいになったようでちょっと安心した。
東京でバスであちらこちら暴走を利用している私なのであるが、数年前それが東京のどこのディストリクトであるかは既に不明なのであるが、走り去るバスの風景から一瞬見えた光景が、大工さんがこれから肉屋さんのお店の上に共食い看板を設置しようとしている決定的瞬間であった。
店の長い歴史のスタートラインのところで、共食い看板が設置される。その瞬間にバスでそのお店の前を通過していくというのはなかなかない偶然性だと思う。決定的瞬間と言うやつだね。
1973年の5月に初めて行ったから、ずいぶん長いお付き合いになる。その頃オーナーもうまだ若かった。ザルツブルグのワークショップをやっているときに、町の中心部で、オーナーに偶然に会ったのはびっくりした。彼の姿がいつもウィーンの中心の路地裏のカフェで見ると言うのが普通であるから、全く場違いな環境で姿を見たというのが私を混乱させた。
オーナーは奥様とご一緒であった。夏の休暇に来ているというのがなかなかレベルが高いなと思った。ウィーンに暮らしをしている人で、夏のバカンスですぐ隣のザルツブルグに行くなどと言うのは、東京から夏の休暇で川崎に行くような感じで、かなりレベルが高いと思う。
それでザルツブルグの中心部の最もツーリストが集まっているカフェモーツアルトに3人で行った。オーナーは普通のコーヒーを頼んでいた。奥様のほうはビールを頼んだ。それでサーブされたビールのグラスが私の目から見るときれいに見えるのだが、奥様はポケットからハンカチーフを出してこれを真剣に磨いているのが印象深かった。こういうのをプロ根性と言うのであろう。
こーゆー歴史的なカフェの名物と言うのはゲストブックである。また売れなかった頃のウィーンの世界的に有名なアーティストとか、物書きが無名時代に集まっていた。それを70年前のゲストブックで見せてもらうというのは、これはミュージアムの展示よりもレベルが高い。リクエストされて、私もゲストブックの最後のほうにサインをさせてもらった。
1976年にヨーロッパを巡回した日本人の写真展のポスターがこのカフェの店内に貼られているのを見て、私は何年間も単にwinで暮らしてぼーっとしていたのでは無いのだと言うその成果を見て満足感があったのは忘れられない。
1983年にウィーンと言う街はカフェができてから300年と言う節目を迎えて、有名なカフェは室内をきれいにレノベーションしたのであった。ところがこのカフェは昔のままで何も手を入れないので、座る椅子とかソファーには注意しなければならない。スプリングが飛び出していて、パンツを破ったりする心配があるからだ。
写真集の撮影でクリスマスイヴからクリスマスにかけてウィーンに行った時に、そこら辺はしっかり体験したのである。クリスマスイブはオペラ座も休みだった。そのクリスマスイブに写真集の撮影でライカショップのペーターの家族を取りに行った。データのお母さんがまだ元気な頃だった。
買っている利口なワンチャンがクリスマスイブなので、ワンチャンが興奮して車椅子のお母さんの足に噛み付いたのを今でもよく記憶している。それで早めに撮影を終えて失礼してライカショップからオペラ座のほうに行ったら本当に寂しい街並みであった。ステファン大聖堂のすぐそばにあるペンションに戻ったら、我々のような外国人のために部屋にはささやかなクッキーとか果物が置かれていた。こういうの結構しみるよね。
それでクリスマスイブの日の朝に食堂でそのカレンダー、すなわち12月25日となっている日めくりを撮影して、それは私のエプソンデジタルライカの写真集に掲載されている。
ウィーンの中心部のイルミネーションはなかなか立派であるが、あれは観光客を呼ぶための囮であるから仕方がないとして、このイルミネーションなどが長く暮らしたプラザも結構中心部にあったやつだな。こういう地味なのが好ましいと考えている。
30年暮らしている佃島であるが、15年位前に家の前のガーデンのスペースがかなり派手なイルミネーションである。老人からしてみるとメガチカチカして明るさで、逆に夜外を歩くのはイルミネーションがない時よりも危ないような感じがするので、クリスマスの時期には気をつかう。
しかもこのイルミネーションは11月の後半からスタートして驚くなかれ2月の第二週ぐらいまでピカピカしているのである。それは不経済だと思ったのか最近では1月になるとすぐやめるようになったが、また佃島のイルミネーションがピカピカする時期が今だと思うと憂鬱になる。
その9年前に、私はもうプラハに来ることをやめようと決心したのである。プラハが嫌いになったと言うわけではなくて、プラハは悪女の深情けみたいなところがあるから、残りの時間を全部プラハにとられてしまうと言うのが恐ろしかったのだ。それで私の記憶では2014年の11月以降はプラハには行っていない。これが記憶違いだとすると、いちどは言っているかもしれないけど、いややっぱり行ってないよね。
それで2014年の11月の最後のプラハ訪問で、何か記念になるものをファーイーストに持って帰ろうとした。それがエデンの園のりんごのレプリカと、バベルの塔の漆喰の1部である。専門家筋の指摘によると、バベルの塔が建設された時代には、まだ漆喰は存在しなかったそうだ。本当のことを言ってしまえば、これはCharles Bridgeの漆喰なのである。
もう一つのエデンの園のりんごの場合は、これはレプリカであるから偽物であるとか言う心配は最初からない。今滞在している。ファーイーストで1番不満なのはアメリカでもヨーロッパでも普通に見られる緑のりんごの酸っぱいやつが手に入らないことだ。赤いりんごでも青いりんごでも甘ければいいと言う価値判断ができているのは最低な国民性だと思うと言う事は、国民がそういうレベルの低いものを望んでいると言うことでそうなるとまたヨーロッパに行きたくなる。
この丸の内ビルディングの真鍮製のプレートは実際にそこに行った時は詳しく世界の都市の どちら側に合うのかなると言う事は見る事は無い。それで写真に撮って後からこのように見るというのがなかなかの楽しみなのである。メルカトル図法の一直線で引いた方向の表示と言うのと実際に飛行機で飛ぶその方向と言うのは違うわけだがそれはここでは文句は言わないことにする。
ロンドンとパリとローマに並んでその間に挟まっているのは大阪であったりするのはなかなか面白い。よく私が雑文で大阪の先にパリがあるなどと戯れに書いたりするがそれは私のこの大昔の視神経の記憶がそのまま頭脳構造に転写されている可能性があるからだ。
亡くなって10年になる赤瀬川さんのことを思い出すのだが赤瀬川さんは有名な建物が壊されると出かけていてそのかけらをもらってきたりした。その意味でこの丸ビルのブロンズの方向表示版等は赤瀬川コレクションに最もふさわしいものだが今はどこに保管されているのであろうか?まさか廃物としてそのまま捨てられた事はないと思うが、日本は何をするかわからないところがあるので同時に心配だ。
家人の古いアルバムを見たら1920年代から30年代の樺太の記念写真やら昭和天皇が来たときの記録写真やら残っていて面白かったのであるが、その中の1つに当時のロシアと日本帝国の国境の石で作られた標識というのがあってそこで記念写真を撮っていると言う貴重な写真が発見された。そのことを書いたらその大昔のモニュメントと言うのは今ではユジノサハリンスクのミュージアムにちゃんと保管されているそうである。
一方、これは家人の時間帯のアルバムである。1983年にニューヨークから戻ってきて、慣れない極東暮らしが始まったのだが、その時の登場人物がツバメのぴーちゃんであった建物の最上階の部屋の上の方からツバメの子供が落ちてきたのだ。
ウィーンの燕は、空の最も高いところを群をなして飛んでいて、それが有名なウィーン幻想派の絵描きさんもテーマにしている その意味で、私にとってツバメと言うのは、ごく身近な友人だった。ツバメが刷り込み現象で、家人をママと思っているところが可愛いらしい。
思えば、我々に鳥の素晴らしさを最初に教えてくれたのがツバメのぴーちゃんであった。それからしばらくして1番最初のライカインコをカジンガ小金井の方から拾ってきて、それが4世代続いたら Leica Inko人民共和国になったわけである。
セコニックの露出計は、最初の頃は、アメリカのウェストン露出計とかノーウッドディレクターなどをそのままコピー生産していたらしい。それが50年代の終わりの頃から工業デザインに目覚めたグループが露出計のデザインのイニシアチブをとって、結構冒険的なデザインの露出計を作っていた。
つい最近知ったことであるが、そのセコニックのメーカーがOEMで大衆路線の一眼レフカメラを作っていたペトリカメラにOEM生産を依頼していたということがわかってびっくりしているのである。何しろ現役の一眼レフカメラにネームプレートだけ交換して別のカメラにしていると言うのはどちらのアイディアであることがわからないなぁってちょっと感心できないところ。
ネームプレートだけ交換して別のカメラにしたと言う体験が私のウィーン時代にあって、それはソ連製の35ミリレンジファインダカメラであるのだけど、カメラのネームプレートが簡単に外すことができるのである。しかもその楕円形のネームプレートの裏側には何も印刷されていないから、その反対側の金属のプレートを使って、そこに勝手気ままに名前を書けば、自分だけのOEMカメラができるという次第なのである。
実際問題として、レンジファインダカメラの正面のレンズの上のスペースと言うのは最もよく目立つところである。そこに自分で勝手に別の名前。例えば長徳とか入れてしまうと、カメラ全体のイメージががらりと変わってしまうのが面白い。
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いかにも露天風呂が似合いそうな感じで頭に手ぬぐいをのっけてお盆の上に乗った徳利があれば温泉気分100%と言う感じがする。
カピバラの日本での名前は鬼天竺鼠と言うそうで日本の名前と言うのは外国のものなら全部天竺をつけてしまうと言うのもなかなか味わいがある。
ギリシャが生の名前であるカピバラと言うのは水の豚と言う意味だと言う。^_^ネズミの仲間と言うとミッキーマウスと同じだから食欲が失せるが豚の仲間と言う命名ならばこれは食べてみたい。。
生息しているのは南アメリカのほとんどの地域に及ぶらしい。それでカピバラの露天風呂と言うのはイメージが合わないからこれは日本で流行っている風流なカピバラの生態系であろうと思って調べてみたら伊豆シャボテン公園が元祖カピバラの露天風呂と宣伝しているのでびっくりした。
つまり非常に日本的な日本人のしきたりにあったある動物が露天風呂に入っていたら気持ちが良いであろうと言う所の代表的な動物なのであろう。おさるが露天風呂に入るのはよく知られているがイメージキャラクターとしてはカピバラの方が演技力が上であると思われる。
私は仕事の関係でヨーロッパの温泉施設はかなり取材したことがあるが日本の温泉はほとんど知らない。私の唯一のカピバラ露天風呂を経験と言うのは40年ほど前にアメリカのモダンフォトグラフィーの極東コレスポンデントをしているときに、初めて私のボスのケプラーさんと場所はどこだかわからない長野県あたりの露天風呂を体験した。晩秋であって桃山造りの立派な建築物が露天風呂の1部で温泉の表面には紅葉の葉っぱがハラハラと散るような誠に日本的な光景であった。
今にしてみるとカピバラ的な気分と言うのであろう。ところが伊豆シャボテン公園と言うのは50年以上前、つまり日本のモータリゼーションの黎明期にトヨタの車のスタイリングの撮影で時々訪問することがあった。あの頃は車の撮影となるといつも伊豆半島に行くのが定番のロケーションであった。
それで記憶しているのは伊豆シャボテン公園と言うのはその当時既に存在していたことである。しかしまだカピバラの露天風呂は存在しなかった。
小学校の教育のレベルが高かったので、そこから文京区立の中学校に移動したら、いきなり私は学年で1番の成績になってしまったあたりが母親を勘違いさせた理由の1つでもある。その周りにはお茶の水付属と東京教育大学附属があって、それぞれの洋服屋さんがあった。
それに落第した恨みつらみと言うのとはちょっと違った不条理を私は感じていて、東京教育大学の小学校の入学試験のレベルのどの辺まで行ったのかはもはやわからないが、最終的には福引で使う。あのガラガラと回転させるやつで当たり外れが決まるのである。私は紅玉が出たので、これが福引ならいっとうカラーテレビと言う所だが、人生の最初の失敗がこれであった。合格の魂は、白い玉であったから
それで小学校中学校で通っている時、東京教育大学の女子のスカートの色というのがちょっと変わったグレーにブルーを強めに混ぜた不思議な色合いなので、それにその色彩に対してノスタルジーを感じたのも懐かしい。
10年近く前佃島から歩行して、皇居前から九段下を通って、そこから小石川の坂上のほうに上がったら、附属高校附属中学附属小学校の制服を扱っているお店が目の前に現れてなつかしかった。私にとってのメランコリーオブジェでもある細かく観察すると、そのマネキンがかなり古いと言うところが逆に良い味を出している。古い古いライカM3にこれもウィーン時代から使っているソ連製のジュピターレンズの最強の組み合わせで撮影をした。
イスタンブールの中心部とかパリの街の町外れとかそういうところに置かれているなじみのお洋服屋さんのマネキンと言うのに私はシンパシーを感じているのである。この御茶ノ水界隈のマネキン人形もそれと同列にカテゴライズすることができる。
ご覧のようにこのレンズの外見と言うのはファインダーをつけると非常に格好がよろしい。その翌年にニコンは改良型の魚眼レンズを出して8ミリで明るさ2.8で巨大なレンズであって、一眼レフのファインダーを覗いて撮影ができるというのである。そんなのは格好悪いからごめん被る。
私の歴史の中で1番親しく話をしたのはウィリアムクラインであるが、2番目はオランダ人のエルスケンだ。エルスケンが何かの写真集の最後の方で、このレンズのブラックのニコンに付けて惚れ惚れ手にしていたのを思い出す。しかし今回分かったことだが、こういうフィッシュアイレンズは、ブラックカメラよりもクロームカメラのほうに似合うということが今更ながらわかった。
と言う ことなのだが、魚眼レンズは写真の表現としてはほとんど使えないものである。唯一魚眼レンズで表現として成功しているのは、IKKOさんのスペイン偉大なる午後を知るのみである。
ただし、エディトリアルの表現としては使えるのである。ドイツ国鉄の長い仕事で、ドイツの西の国境から東の国境まで1週間ほどかけて旅をしたときにこの魚眼レンズを持っていった。天候が悪くて、雑誌の画面構成でても足も出ないと言う時に、魚眼レンズの特別な描写と言うのは、人の目を欺くことができるから、便利なレンズなのだ。
実際にドイツの取材で使ったのは7.5ミリではなくて、それよりもちょっと長いレンズでOPフィッシュアイニッコールレンズというのである。従来の魚眼レンズよりも角度と再現する表面積の比率が正しく補正と言うレンズらしい。
それをマウントアダプターでライカM2つけてベルリンの南の水郷地帯などをを川を流れるボートの上から魚眼レンズで撮影したのは効果があった。
こういう特殊レンズは、レンズ本体よりもレンズにかぶせるレンズキャップとかファインダーにかぶせるファインダーキャップの存在感にしびれるのである。
当時もいろいろな連載をやっていたから編集者さんが入れ代わり立ち代わりやってきて一瞬のプレスセンターみたいな個室になってしまった。でも差額ベッド代が高いので全然儲からなかった。
当時のカメラジャーナルでカラーネガフィルムでミノックスで撮影してそれを印刷したりしたがやはり小さなフィルムの限界と言うものはある。でもそれを逆に使ってしまえば表現の1部になっていると言うふうに考えだすこともできる。
、
有楽町にあるミノックス専門のカメラ屋さんノックスフォトサービスにもよく行ったが今は跡形もないしノックスフォトサービスの記憶も人類から薄れてしまった。
今の私のミノックスに対する考え方はこういうことである。手作りのミノックスフィルムのカッターがあるのでマガジンもたくさんあるからこれでモノクロフィルムを切り出して1本は50枚撮影で生きる。これなら経済的なダメージを受けることもない。
30年前と今の最大の違いはそれをスキャンデーターにすることだ。それも業者さんに依頼するとかなり値段が取られるから手元のiPhoneで複写をすればいいだけの話であるこれが想像以上にちゃんと伸びるのである。
30年位前の誕生日のクリスマスプレゼントに坂崎幸之助さんからいただいたブラック仕上げのミノックスである。当時はプライベートアイと言うセールスタイトルで結構人気のあったカメラでした。
初任給は35,000円だってこれが3年目になったら50,000円近くなったのでそれなりの考えがあったが当時の理想の給料と言うのは100,000円と言うことなのである。
その頃の支出を見るとアーガスカメラが5000円、中国製の2眼レフが10,000円。そしてフイルム現像代が8500円とある。
フイルム現像代が8500円と言う事はかなりのフィルムを使用していたことになる。しかも50年以上前の話。
それで思い出した事は35ミリフィルムを巻き戻すと言うときの快感というか1本撮影したときにそのそれぞれのコマ数の記憶に対するフィードバックというかとにかくフィルムを巻き戻す時はしみじみした感覚でやっていたと言うことだ。
これは35ミリフィルムの構造上そういう仕掛けは仕方なくフィルム巻き戻しと言うことをしていたのであろうが今にして思うとこの構造上の問題、つまり36枚撮影したら巻き戻すと言う行為はなかなか撮影の前プロセスの中で大切な時間であったことに気がつくのである。
例えば1973年にウィーンで写真家デビューをしたときに私が使っていたのは250枚撮りのニコンエフのモータードライブ装置であった。これはダブルマガジン方式であるからその間にフイルム巻き戻しと言うプロセスは存在しない。
あっという間にフイルム7本分の写真をモータードライブで撮影してしまうのは非常に味気ない。それから何十年か経過してライカ250と言う特殊なカメラも手に入れたのだがこれもダブルマガジンが公式であるから巻き戻しと言うプロセスは存在しないのである。つまらない時代になってしまったものだと思う。、。
それでいきなりデジタルカメラの時代に移行してしまったわけだが小さなメモリーでも何千枚も撮影できるから理論的にフィルム巻き戻しからは自由になったと言うのはやはり残念なのである。写真をスタートさせたときの35ミリフィルムの巻き戻し行為と言うのは写真を考える上でかなり重要なプロセスの1つであったと言うことを今にして思い出すわけだ。
それで街中のランプのタングステンのやつが1番たくさん残っているのが墨田区京島界隈なのである。その頃古い友人の飲み屋を伴ってそういうランプの下に彼が所在なさげに立っているようなところを撮影してカメラ雑誌などで発表したこともある。
それの関係で墨田区京島によく撮影に行くようになった。ところが街中のランプと言うのはものすごい進化のプロセスであってあっという間に蛍光灯に変わってしまったなぁとびっくりしていたらその次の5年間位で全部がLEDに置き換わってしまった。実に無残な次第である。
その京島3丁目界隈で私が大好きないくつかのメランコリーオブジェやがいまだに残っているのであるが、1番行が長く残っているのがこのコーポラスの看板である。
このワンショットを撮影したのは15年位前であった。カメラはライカイズムスリーにレンズ付きの人のために言っておくなればレンズは10ミクロン35ミリの8枚弾のカナダ製ではなくドイツ製のやつである。パリのメゾンドライカで本箱がついて500ユーロで買ったやつだ。あの頃このレンズは安かったけど古くなるとレンズが素材が黄色くなるので実はあまり好きではない。
コーポラスと言う言い方はかなり外国っぽいけれども誰かの歌った歌ですシーサイドコーポラスだけどネズミが駆け抜けるというのがあった。そういうすがる感覚がいいんだよな。
それでいつも私が興味を持っているポイントなのであるがこのコーポラスの看板よりも建物本体の方がずっと新しく見えると言うことなのである。単純に考えてみるとコーポラスの看板はずっと古いものであって建物そのものが建て替えられたときにコーポラスの看板だけは新調しなくて昔のものが残っていたのではなかろうか?
京島3丁目界隈に住むとしたらやはりこのKOH+に住んでみたいと考えているのである。
その前の年だと思うが、スイスのSinarの会社に取材に行ってその時に、3代目のジュニアさんと知り合いになって、その関係でファーイーストのカメラクラブの例会に来てくださったのである。会社はシャッフハウゼンの郊外にあって、まさに村と言う感じのところだが、面白いのはエントランスのロビーに結構深い穴が彫ってあって、そこに競合他社の大型カメラが投げ込まれているのである。何かウクライナ戦争とかイスラエル紛争を思い出すディスプレーのやり方で、これはすごいなと思った。
同じ頃、フォトキナでルイジ・コラーニに頼んで、ジナー2000と言う未来モデルのデザインスケッチを依頼したこともあった。その時、フォトキナの会場でルイジ・コラーニにインタビューしたが、彼はイタリア語しかしゃべらないので苦労した。まずイタリア人でインタビューする時、こちらがイタリア語を話せないのが問題ではあるのだが。
100数十人の大集合写真であるが、撮影が誰だかわからない。30年前の記念写真撮影の天才と言えば、朝日新聞の下ジュネーブ支局長の柳沢さんが非常に有名である。カメラをセットして大集合写真の時に、あそこの柱から外側入らないなどと言って列を詰めさせるのであるが、自分でカメラを後ろに引くことをしない。大写真家なのである。
フラッシュバルブ壱発で撮影されたと思えるのは、奥のほうの人々に光が当たっていないから、顔が真っ黒なことで、誰が誰だかわからない。昨年末に昇天なさったnakayama蛙さんも私のヒゲも真っ黒だ。これが30年の時間経過だと思うと説得力がある。写真と言うのはすごいね。
1975年の1月ごろだったと思うけれど、ポルシェが旧市街で雪をかぶっているところはなかなかフォトジェニックでよかった。この頃の車のスタイリングが素敵だと思うのは、同じ時期に、やはりウィーンの旧市街で撮影した。フランスのシトロエンのアヒルの格好したやつがある。あれもウィーンにスノーが降るとなかなかフォトジェニックになる。
あの頃のヨーロッパの街角で見るポルシェの車は存在感があってよかった。しかし、この911シリーズではなくて、もっとカッコ良いのはその前の356シリーズである。1970年代には356シリーズがウィーンの街を普通に走っていた。それに年代を考えてみるとそれを運転しているドライバーは、オリジナルオーナーであることにはほぼ間違いがないのである。
フェルディナンドポルシェ関係で言えば、初期のフォルクスワーゲンのリアウインドウが2つになっているやつも普通に走っていて、これも良い感じだった。
でも、金子光晴等は南アジアを経由してパリに来ているから、かなり寒がっていたのが面白い。金子光晴の眠れパリを友人が送ってくれたので、その頃ページをめくりながら、そのシンプルライフ振りが共感するところがあった。
これは7年前ギャラリーバウハウスの個展のために撮影に行ったときのワンショットだ。ずらりとカモメが並んでいるのが大変な数である。1970年代にウィーンで暮らしていた時、日本から留学してきたKと言う女性のピアニストがいた。彼女が付き合っていたのは、編集者でkと言う名前の男性であった。編集者はwinまでやってきて、私の写真を選んで自分が計画している雑誌に掲載したいと言った。やる気充分なのだが、どうもパワーがシンクロしていないような感じに思ったのは、彼が計画している。雑誌のタイトルが余白というのである。
ピアニストの頃はしばらくして、こちらのピアノ屋さんの息子とお付き合いをするようになった。ピアニストであるから自分のスタインウェイが欲しいというので、実家からお金を送ってきた。その時、家人と私は偶然なのだが、彼女のアパートに遊びに行っているときに、郵便局の現金の配達人が来たのである。オーストリアシリングの当時の最高額紙幣は1000シリングというのであるがその札束がピアニストの前に積み上げられた。Win暮らしで私が唯一見た大金であった。それから時間が経過して、ピアニストは体調を崩して昇天してしまった。ピアニストのピアノはピアノ屋さんの息子から買ったものなのだ。そこら辺のピアノの代金がどうなっているのかと言うことがあれから50年経過して、いまだに時々思い出す。
そのピアニストから借りた日本語の本が、かもめのジョナサンと言うのである。読んでみたら、アメリカの軽薄な自己啓発本であった。それでウィーンに来て、かもめさんの列を見ていると、その時に私の頭に浮かぶのは、かもめのジョナサンではなくてかもめのみなさん。
水道メーターと言うものの存在は、子供の頃に見た精密機械の中では、かなり上位のクラスにランクされるものだった。台所の下の半分、地下になったようなところに上を向いている。小さなアナログ式メーターだった。
昭和20年代の半ばにレンジファインダーを装備したLookと言うカメラが生産されることになったけれども、いろいろ問題が多くて、レンジファインダーをなくして作ったシンプルなライカタイプのモデルがこのカメラであると言う,私等はピント合わせないからこういうタイプのカメラで充分だ。
最初に、このカメラを手に入れたのは、やはり高田馬場の堀部安兵衛商店だった。撮影してみたら、ピントがかなりずれていて、ボケボケであった。
そのピンボケの写真を1972年であったか、松岡正剛さんがやっていた。オフと言う写真集に掲載したのも懐かしい。
札幌の今井コレクションとお付き合いのあった10年ほど前のこと、日本カメラの連載でこのカメラのことが気になって今井コレクションの中にあったので、それを借りて実際に撮影してみた。ところがスプールがないので、コレクションの中からなるべく使えそうなカメラのパーツを探して代理として使ったらちゃんと写真が撮れた。
札幌で撮影するのだからと言うので、テーマに凝りすぎてしまって、時計台とテレビ塔を撮影したのはー仕方がない。それから数年経過していた時代の新しい同じカメラを手に入れたのだが、私が感激したのはエバレディケースがまさに3ヶ月前に作られましたと言う位のピカピカの新品なのである。こういうことには驚くよね。
家人のドイツ語の歌曲をドイツ語から日本語に翻訳してくれてそれをプログラムに日本語で書くのを手伝ってくれた大学の先生がいる。不思議なことにこの人は寅さん映画の大ファンである。何もドイツ文学の専門家が寅さん映画もないと思うのであるがそこら辺は宗教信仰の自由と言うことなのでしょうね。
その寅さん映画を私は見たことがないがいちどだけウィーンでロケをしたことがあるらしい。それでウィーンの有名な喫茶店が撮影場所であってウィーン在住の日本人の私の友人がエキストラで登場して、お茶は無いのかねお茶は?と二言だけ出演したそうである。
もっともこれは日本映画であるからギャラは安かったが無料であったのかな?それに対してさっき言った寅さん映画のファンの大学教授はともかくとしてやはり家人の先生でボイストレーナーで長いことイタリアに住んでいた先生はフェデリコフェリーニの映画ローマの中で臭いスパゲッティーを作る中国人の役で登場してそのギャラはすごくてイタリアの小型車フィアット500が変えたそうである。
それで葛飾柴又のレオタックスの話に戻るがこのカメラの特徴はシャッターボタンの周りのガードが大きいのでシャッターチャンスを選ぶときの指係が非常によろしいと言うことになっていて、あっちこっちのカメラレビューでそのことが書かれている。
これは戦後すぐに作られたレオタックスエスと言うモデルである。ところが私のカメラ考古学の大発見はこれは最近気がついたことなのであるが、この大きなシャッターダイヤルの周りのリングを時計方向に回転させていくとフイルムが巻き上がるのである。こんな事は誰も知らなかったであろうし私もびっくりしました。
ライカカメラにはライカピストルとかライカビットと言う名前の撮影装置が付属品であってこれが馬鹿な高い値段なのである。でもレオタックスのエスの場合はそういうめんどくさい事はやっていなくてシャッターボタンの周りのリングを回転させるとフイルムが巻き上がると言う新しい機構がついているわけだ。とりあえず名前は無いけれどレオタックスビットと言う名前にしておこう。
それで資料などを見るといろいろな事実関係はわかるのであるが、実際のカメラがどんな感じなのかと言うのはこれは実際のカメラを手にしないとわからないと言うここが大切なポイントですね。
第二次大戦終了直後のメイドインオキュパイドジャパンの刻印が付いていると言う事はもちろん知っている。それでいわゆる日本版と言うやつで24ミリ× 36ミリではなくてそれよりも2ミリ短い24ミリ× 34ミリの40枚というのがこのミニオンであった。
当時の日本は貧しかったから36枚よりも4枚多く撮影できるということが魅力だったのであろう。でも今の時代にフイルムが1本5000円になるような開発途上国に戻ったので日本版も良いかもしれない。
写真家三木淳は当時の総理大臣吉田茂の3倍の給料をもらっていてそれは彼がライフのカメラマンだったからなのであるが1番最初のニコンレンジファインダを持って朝鮮戦争を取材に行ってそれを発表したのは24ミリ× 32ミリの日本版のフォーマットなのである。
でも私などは24ミリ× 36ミリのライカサイズで半世紀以上仕事をしてきたからどうも日本版は好みに合わないのである。その理由でミニオンに手を出さなかったのであるが資料を調べていたら驚いたことに1番後期のモデルは24 × 36ミリサイズであるらしいのだ。それで遅ればせながらこのカメラが私のところにやってきてびっくりしたのはその精密感覚なのである。このカンパニーのカメラと言うのはどちらかと言うとあまり形がよくないのであるがこのカメラのデザインは実に素晴らしい。エプロンの部分に縦に走るLINEをつけるなどというのは他のカメラにはその例が見られない。その脇のミニオンと言うエンブレムも非常にマッチしていてさらにすごいのはネックストラップが付いていてこれが大きく見えると言うほどにカメラが小さいのである。
その1番最後に書かれているのがミランダなのである。あれから40年が経過してそのことがいつも頭の隅に引っかかっていた。私は長年のミランダフェチなのであるがどうしてもそうなると1番最初のモデルのほうに興味がいってしまう。
しかし大家エバンスは表現者であって私のようにカメラコレクターでは無いのだから1番最初のミランダに興味が行くと言う事は考えにくい。つまり自分の撮影に使うためのミランダであったと言うLINEが濃厚である。
考えてみるとウォーカーエバンスは4 × 5インチでもそうだし6 × 6はハッセルブラッドではなくローライフレックスだったし一眼レフを使わない真面目な写真家なのである。そういうシリアスな写真家が人生の最後でポラロイドSX 70に遭遇して3000枚近いピクチャーロールを残しているのである。
その彼の使ったカメラのLINEと言うことを考えるとかなり後期のミランダカメラであろうと言う推測がつく。それでとりあえず手元にあるカメラのミランダのこのモデルをウォーカーエバンスが人生の最後の方で使ったモデルであると言うふうに推測してみるのである。これは確定ではなくて推測だけどおそらく外れてはいないような気がする。
ストレートフォトグラファーのウォーカーエバンスであるからこのミランダに見るように標準レンズ1本だけしか使っていなかったような気がしているのである。そうすると彼の堅固な写真世界がそこに構築するので全く疑問は無いと言うわけだ。
ロードマットはレンズ交換式であってこれはその最終モデルであるからセレン式の露出計も付いている。感心してしまうのはその他に35ミリから135ミリまでのユニバーサルファインダーがちゃんと最初からカメラに付いていることだ。
これは私のかなり好きなカメラなのであるがいわゆるカメラに飽きた人間が最終的にたどり着くようなポジションである。それでカメラに飽きた人間はもう1人私のすぐそばにいてそれが我楽多屋の弐代目さんなのである。要するにいつもカメラに埋もれていると言うところが私と共通点であって、こういうすがれたカメラシステムが好きになるわけだ。
私が実際に使っているのは35ミリ広角レンズと50ミリレンズである。他のレンズは90ミリと約35ミリがあるがまず使う事は無い。それでこのレンズなのだがヤフオクで135ミリのレンズを手に入れた。このレンズの出身地はドイツのウルムである。
すなわちかのアインシュタインの生まれた町で作られたレンズと言うと非常にありがたい感じがするね。さらにありがたいのはヤフオクの落札価格が140円であったことだ。
でもヤフオクの落札価格にはまだ上には上があって、数年前に20本のタムロンズームレンズのセットを100円で落札したこともあった。
4番の地下鉄の終点にあたるところで社会主義時代にはレーニンステーションと言われていたがビロード革命の後に下の地名であるダビデ通りと言うふうに戻された。
プラハの北のメトロの中心からダウンタウンの広場に行くのは駅で5つ位であるから迅速な交通手段だしプラハの街は大きくないから便利なのであるが、同じアトリエの前の路面電車の22番で旧市街に行く方が楽しかった。
この22番の路面電車はプラハの北の丘を下ってモルダウ川の右側を走ってそこから急に90度方向を変えて川を渡って東方面に向かって旧市街に入るのである。
その90度曲がる電車の目の前に見えるのがこの光景であってここはかつてプラハのお城の城壁があった場所なのだ。ビロード革命以前はこのような階段になっていたのは同じだが階段の上に突き当たりのところに社会主義の赤い星がでかでかと飾られていたのが面白くなかった。
それがビロード革命の後に撤去されてごく普通なパークになったのである。22番の電車で季節がどんどん変わって春爛漫のときには桃の花とか桜の花が咲舞だれて何か東洋的な風情がそこに感じられたりした。
冬はこんな感じでなかなか雪が降ると素敵な風景になる。22番の電車が私の最も重要な路面電車であったわけだが、今佃に暮らしているすぐ近くの文化人で有名な人には吉増剛三さんがいる。彼が10年ほど前に出したプラハの写真集ではよく22番の路面電車が写っているので別に吉増剛造さんがそれを意識した事は無いのであろうがそのことを吉増剛造さんに話した事はある。
クラシックカメラの解説と言うのを私は読むのが好きなのであるが、かなり細かい解説でなおかつカメラのメカニズムの歴史が立体的に構成されている人が描いたクラシックカメラの解説と言うのは実に面白くて、三流恋愛小説などはもともと読む気がないけれどもそれよりもずっと興奮する内容である。
以前私も執筆をしていたカメラレビューなどが非常に素晴らしい内容であって、最近ではオンラインでクラシックカメラの解説もずいぶん読めるようになったのは楽しみである。
ところがそういう状況でクラシックカメラの素晴らしい解説にうっとりしてそのカメラが欲しくなったりするわけであるがその後にがっくりくるのはいつも例外なくその人が撮影した作例写真なのである。
クラシックカメラの解説が知的で素晴らしいと感動しているとその隣の作例があまりにもレベルが低いというか写真表現が嫌いになってしまう作例なのである。卑近な例としては作例写真でがっかりするのは、石の地蔵とか五百羅漢とかおいなりさんの狐が非常に退屈に写っていると言うやつだ。
これでクラシックカメラに対する100年の恋も冷めると言うものだ。そういう状況下で最近私が感動したのはオンラインのクラシックカメラの解説をしている加藤さんと言う方がいらしてその方がメンションしてくださったご自身の撮影したミニオンカメラの作例が素晴らしいのである。
^_^ごく普通の街中のスナップなのであるが通のほとんどは午後の光で車道の中に落ち込んでいてかろうじて日差しがさしているところに男の子が立っていてこっちを見ていると言うまずアンリカルティエブレッソンも撮影できないような素晴らしいスナップショットをここに掲載しておく。
こういう作品を見ると本当にクラシックカメラで写真を撮りたくなるしフィルム代が高いなどと言うのも問題ではなくなってしまう。
何よりもすごいのはあっという間に写真の作例にいいねが100以上ついたことなのだ。
最初は銀座のバーなんだけど昼間は喫茶店で営業しているところに数人が集まってアルパの馬鹿な話を開始したのがその発端である。でもこれは長時間居座る嫌な客で営業妨害になるからと言うので改めて地元の佃島に場所を用意してアルバ研究会をスタートした。
1時は100人ぐらいのメンバーがいたがその中にはなかなか素晴らしい人がいてあの複雑なアルパカメラの修理ができるようになったのである。アルパ研究会と言う名前で毎月盛り上がっていたがその日アルコール研究会のようになってしまった。
アルパは大きく分けると1947年に登場した最初のモデルと50年代半ばに登場したセカンドモデルと、その後に登場したモダンなモデルの3つの時代があるのでそれぞれに派閥がある。それで派閥の争いにならなかったのはたいしたものだと思う。
^_^私が好きなのは2番目のモデルの時代のアルパカメラである。スイスの古い電気機関車のようなスタイルをしているところが素晴らしい。スイスは時計とかチョコレートで有名だけど私に言わせればアルパカメラ。それとNagraの録音機もあったな。
この時代のアルパカメラはもちろん数が少ないけどそれよりもレアなのがご覧のようなその当時のエバレディケースである。トップカバーをかぶせると全体が丸っこいスタイルになってそれがなんともキュートである。それとこのエバレディケースの皮の材質なのだけれども同じ時代にスイス軍が使っていたバッグのレザーとほぼ同じクオリティーなのが非常に面白い。
エバレディケースをつけた状態では望遠レンズとか大きな広角レンズは使えないからこのように50ミリの小さな標準レンズをつけることにしている。
ファインダーの前の方がこれだけ大きいのは倍率を等倍にしてあるせいだ。しかもブライトフレームを反射させるための金色のコーティングが中に入っているからこのカメラをつけた状態を5メーター先から見ても目玉のおやじみたいなような存在感があってスナップショットには最も向かない35ミリファインダーである。
このファインダーの表記を見て面白いのは、トップコール3.5センチと5センチであると言う表記がちゃんと刻印されていることだ。トップコール3.5センチライカマウントと言うのは非常にレアなレンズでめったに市場に登場する事は無い。そしてこのファインダーはそのトップコール3.5センチ専用であると言う認識なのである。
タムロンレンズの技術者で前田さんと言う方がいらしてこの人のレンズやカメラに関する知能は大変なレベルなのである。それで中古カメラ市に行くと会場で前田さんにがあったりしたときには今日は何が面白いですかなどと聞いてこちらのショッピングの参考にさせていただいたこともあった。
その前田さんと偶然銀座のカメラ屋さんの前で出会ったことがある。前田さんはライカカメラにこのファインダーをつけていた。このファインダーが5メーターから10メーターの距離でどのように見えるのかと言うことをこの時私が初めて知ったのである。まさにギラギラ光目玉のおやじの存在感であってスナップショットには最も向いていないファインダーアクセサリーであることがわかって私はそれ以来撮影の時にこのファインダーを使うのをやめた。
タムロンの前田さんにはいろいろ教えられたことがあるがこれもその内の1つの貴重な体験である。ところで私が持っているこの個体だがご覧のようにエッジのあたりにかなり擦り切れた後がある。だからこのファインダーの前の持ち主は実際にこのファインダーでスナップショットをやって通行人の皆さんに多大なご迷惑をかけたのではなかろうか?
それともう一つ卵かけご飯はTKGなどと言って親父とか爺が喜んでいるが、女性が好む食物では無いようだ。
それでなぜ私の場合卵かけご飯が好きになったのかと言うと話が古くなるが1970年代にトヨタ自動車の本社工場のスタジオに2ヶ月とか収容されていた時に、近くの旅館のブレックファーストに生卵がついてきたと言うのがその理由の1つであるように思われる。
卵かけご飯が体に良いのか悪いのかは論じるところではないがこれが癖になると面倒である。
同じものをいつも食べてそれを崩さないというのが変であると言うふうに家人等は批判するのであるが同じものがずっと続くと言うのは自分の場合は苦痛ではない。そこのうまさが毎日分析できるからだ。フランスのアーティスト菅井などもいつも同じものを食べてそれが何十年も続いたらしい。
1時はクスクスに凝っていて毎日お昼にはこれを食べていた。パリでクスクスを毎日食べると言う習慣がそのまま残ったものと見える。
チベットには行ったことがないがあちらの人がいつも食べているむぎこがしを水で練って団子にしたものもこれは日本人の口には合わないと思うけれども、私はなかなかうまいものだと思うのだ。
日本人として初めてチベットに入った川口彗海が雪のヒマラヤの山越えをしたときにその時の食事がむぎこがしの粉であってそのうまさを絶賛している。
^_^旅行者としてのチベット人が食料のないところで野宿するのにしてもむぎこがしの粉と水と塩ととんがらしがあれば美味しく食事ができると言うのはすごいアイディアだと思う。
これは墨田区京島1丁目だったと思うけれど街中のなかなか渋いボルトナット屋さんである。納豆屋さんではないぞ。
この建物の魅力はこのカメラアングルではわかりにくいのであるがガードマンさんが立っている下水道工事中と言う看板のあたりからこの2階建ての建物を見るとかなり激しく建物が右側斜めに傾いているのである。
1980年に東京にウィーンから戻ってきてその後1年ほどニューヨークで撮影をしてさらに東京に戻ってきて半世紀ぐらいあっちこっちを撮影しているのであるが、過去50年で考えてみると東京ではかなり傾いた木造建築物を実際に撮影しているのである。
1983年ごろに触れ朝日ジャーナルと言う雑誌の連載をしていたのであるが、その時本郷の菊坂で撮影した八百屋さんの傾き方と言うのはすごかった。2番目にすごかったのは足立区関原あたりのマッチ箱を押しつぶしたような小さな床屋さんである。これも凄いのは今にも崩れ落ちそうな感じであるにもかかわらずちゃんと営業していて店の中には鏡があってチョキチョキやっているのである。この2つはすでにこの地上から去って存在していない。
それで3つ目がこのボルトナット屋さんなのである。まずこの地域に来る事は年に多く、2度位であるから結果としてそういうことになってしまったのであろうが、私がボルトナット屋さんの傾きの凄いところを撮影に来ると必ずと言うほど上下水道工事の施工中で通行禁止になっている。
それで1年位前だが田中長徳ワークショップをやっていた時にこの斜めになったボルトナット屋さんを撮影するのでワークショップで10人ぐらいの皆さんと撮影に行った。皆さん感心していた。
要するにこれは日本版のピサの斜塔なのである。
それでワークショップ参加の皆さんはボルトナット屋さんに感心していたのであるが悲しいニュースもあった。大通りのところに私が昔から好きな交差点と言う名前のハンバーガーショップがある。これもなかなかいい味が出ていたのだがワークショップの時に行ってみたらそこはすでに更地になっていた。
最近の情報によればボルトナット屋さんも取り壊されて今は更地になっているそうである。
それで伝説のニッコール8.5センチよりも、ワンストップ明るいレンズがこれである。製造台数は結構少ないらしいので、もっぱらコレクターズアイテムとしてやりとりされている状況である。
私も10年ほど前にこれと同じレンズを手に入れて、何しろ明るいレンズであるから暗いところを取ろうと言うので、勇んでプラハに向かったのである。ところが大雪のプラハであって、雪景色が真っ白であるから絞り解放で撮影すると言うような事は1度もなかった。結局私の場合、明るいレンズと言うのは最初から無縁なのである。
私に限らずに友人のアメリカ人でナショナルジオグラフィックマガジンの仕事をしている写真家がやはり同じレンズを持っていたが、使うことがないので、銀座の勝美道に売りに行ったときのお付き合いをしたことがある。20年前なので買取価格が30,000円ちょっとと言うのは足元を見られているなと思った。今のことならヤフオクでそれなりの値段で売れるだろう。
デビッドダグラスダンカンに刺激されてニッコール8.5センチf2のレンズはずいぶんコレクションしたことがある。ところがこれが私の場合大勘違いであって、デビッドダグラスダンカンがその描写にびっくりしたレンズと言うのはメイドインオキュパイドジャパン時代のものではなくて、日本とアメリカで講話条約を決めた後のレンズ、すなわち、普通のメイドインジャパンのレンズなのである。私の勉強不足でした。
その写真集に登場した5人の写真家の中でダン マイケルスがソ連を取材に行った時友人から借りた10ドルのカメラで写してそれがアーガスなのである。
他の写真家は皆さんライカとかローライフレックスで撮影をしたわけで当時の私の感覚では進駐軍の連中が持っている弁当箱みたいな真四角な黒いカメラがこんなに映るとは思わなかったのでそれでアーガスの威力に目を覚まさせられたのであった。
中古価格が10ドルのベークライト製のカメラは当時のレートは360円であったから利益を上に積みますと5000円と言うわけである。家人が50年前の家計簿を保存していたのでそれで見たら正しくアーガスカメラに5000円。中国製の2眼レフは10,000円。当時の現像代が8500円とあった。
40歳の誕生日に仕事でアメリカのミシガン州が建国200年とか言うので取材に行った。メインは永井荷風が勉強していたカレッジを見学に行って、永井荷風の学籍簿などを見せてもらった。永井荷風が暮らしていた家などもそのまま残っていた。
その他にミシガン州の北の果てまで行ったりしたのであるがアーガスカメラを作っていたアンナーバーと言う街も取材した。工業都市だと思っていたら立派な大学のたくさんある文化都市なのであることにちょっと意外だった。
要するに、その当時の銀座4丁目和幸などでアメリカの軍人のために売られていたスーベニールと言うわけだが、今の時代になってその作り上げたレベルを見るとなかなか高級品に思うのだ。別の見方をすると70年前に作られたカメラは現代のカメラに比べるとはるかにしっかり作られていたと言うことなのかな。
ウィーンで暮らしていた足掛け8年の時代に、家人とよく三宝をしたものであって、たいていは旧市街の中心部に向かって航行するのであるが、ときにはコースを変えて、ウィーン大学の側からベートーベンの臨終の場所を通過して、ベートーベンの葬列が通った通りを、西に向かって歩いたりしたものである。
ベートーベンの葬列に付き添ったのはフランツ・シューベルトであった。そしてベートーベンは、障害にウィーンで十数回引っ越しをしているのいるのであるが、その最後の時代に暮らしたアパートメントの1階が、winでは結構大手のカメラ屋さんになっている。そのカメラ屋さんのウインドウを見ているときに、家人がこのカメラなら欲しいと言ったのがこのゴールデンカメラなのである。
もともと家人は私などよりもずっと理性的な人間だから、ゴールドに固執するようなところは最初からないのであって、このカメラの別の存在感を魅力に思ったと言う別のポイントで話した事しか考えられないのだ。
16ミリフィルムを独自のカセットボンベ使うカメラであって、レンズは望遠レンズの40ミリが別についていると言うところがなかなかマニアックだな。
それでプラハの暮らしで面白かったのは西から輸入されたワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつは金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。
戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう逆の価値観ができてしまったわけだ。
30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良いワインとフランスのそれほど良くないワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。
私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあってデギスタシオンの勢いでワインを輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。
ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったモノマガジンの会社の社長の今井さんにその仕事をプレゼンに行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺はワイン嫌いだから
戦争写真家にとって50ミリと135ミリは基本的なレンズであったようだ。ロバートキャパはちょっと変わっていて、コンタックスに標準レンズだけであったが、同じ時代に撮影されたとおぼしき2人の戦争写真家が並んでいるスナップショットがあって、それはブラックコンタックスであるのだが、1人の戦争写真家は13.5センチの望遠レンズをつけている。そして2人ともエバレディケースのフロントフラップを下にぶらぶらさせている。若い頃は格好が悪いと思ったが、最近ではこれこそが戦争写真家のダンディズムであると考え直すようになった。
135ミリレンズはかなり離れたところから収集的に狙った光景をとらえることができると言う意味ではなかなか使い勝手の良いレンズである。もっともこういうことを言っていたのはズームレンズ登場以前の話であって、最近は135ミリなどと言う焦点距離は28ミリから300ミリのズームレンズの中に飲み込まれてしまったから、実際つまらない時代になったものだと思う。精神的な写真家が今でもズームレンズ等は使わずにプライムレンズの135ミリを使わなければならないと言うのは、精神的な意味ではなくて、真実のレンズ選びなのである。
雑誌の編集者と言うのは、写真が下手である。私写真の撮影するときのリアルタイムの精神の高揚感覚と言うものを知らないから、写真家に対しては釣れない会話をするものである。それをよく覚えているのは1960年代終わり頃のカメラ、毎日の有名な編集者、山岸天皇と言われていた彼である。
山岸編集長に写真を見てもらったときに、彼が言い出したのは昨日高梨が家に来て写真を見せたんだけれども、あいつは135ミリのレンズを最近使うようになったと面白がっているんだが、そんなのは関係ねーよと言うのである。口の悪い編集者らしからぬ毒舌だから、それはそれで聞き流すとして、写真家が135ミリを新たな表現としてゲットして興奮しているのを頭ごなしに否定するのは逆に、編集者の方がレンズのことを知らないと自白しているようなものなのである。
それで中藤さんと私が着ているブルージャケットがオープニングレセプションで話題になったのである。私が着ているやつは実は日本国内で噴出してしまったので、パリにいるときに中藤さんがわざわざ私のために買ってきてくれたのである。
この当時はジョナスめかすも、ビルカニンガムも健在であって、彼らはこのブルージャケット同盟のメンバーであったのだ。それで中藤さんとか私等はファーイースト支部と言うわけである。
ちゃんとしたフランス語日本語の通訳さんがついてくれたので、逆に緊張した。私はいい加減な英語とかいい加減なドイツ語で通すやり方なので、正式な通訳さんだとまず日本語で正しいことを言わなければならないと言う。余計な気を使うのである。
それで正式なワークショップのフランス語の通訳が終わった後に、ワークショップのメンバーの方と私のいけずな英語でやりとりをしたのだが、それはそれで面白かった。参加者の1人は息子さんがロンドンに住んでいてデザイナーをなさっているそうだが、やはりロンドンでは、このブルージャケットが流行してみんな来ているのだと言うその頃の話であった。
この時で忘れられない。インシデントはギャラリーオーナーがライカ人類なのでライカエム7を私に貸してくれたのである。モータードライブもついていた。それで彼が私のためにフィルムを装填してくれて、それで1本針の素敵なショットを撮ったつもりで、巻き戻そうとしたら、ギャラリーオーナーのフィルムの装填の仕方がいい加減なので、ひとこまを巻き上げられていなかった。
こういうインシデントというかアクシデントと言うのは、逆に忘れられない思い出になるのである。ハッセルブラッド300年の生誕の公式ディナーパーティーで、オマージュのクリーム、ポタージュが非常に塩からかったと言うのと、ほぼ同じクラスの文化的な思い出だと思う。
ちなみに、パリのギャラリーオーナーが私に装填してくれて、ライカエム7で1枚も撮れなかった。フィルムはそのまま大人に持ち帰って別の撮影に使いました。
この階段の上に、1947年から1991年まで、中古カメラ店があった。
鰯を焼くレストランと、ファドの店に挟まれた、中古カメラ店というのは、存在そのものが、「サウダーデ」である。
例によって朝5時まで原稿書き。
このライフサイクルが定着しつつある。
実際には朝4時55分にインコのライカが起床する(止まり木に居るので起床は変だけど)するので、ライカにその世話をしてから寝るわけなり。
起床は12時。
風は乾燥しており爽やか。
例の如く、執筆。その間に岡山の長徳固執堂に保管(展示ではない点に注意)する荷物を2個出す。
宅急便だと25キロまでの荷物が2千円で出せるという。普段、アメリカや欧州からフェデックスで重いカメラを送っている身にしてみれば、夢のような値段だ。
25キロを100個送っても25万円なのである。
当面、長徳固執堂に保管のカメラ、資料はこれで送ることにする。
夕刻、近所を散策。カメラは持たず。
昨日、今回の撮影したモノクロネガの上がりを、野々宮車内に忘れて来た。それでネガのセレクト出来ず。
土曜に野々宮、持参の予定なり。
夕刻にまたベランダでシュタイナーのM22双眼鏡で夕暮れの羽田空港の着発を観察する。
午後8時から11時まで眠る。
メデイアジョイの連載「温故知新」の最新の原稿を昨日送ったのだけど、今日見たらすでにアップされていた。その速度驚くべし。
毎日新聞のカメラマンがイラク取材の戻りに拾った爆発物がアンマン空港で爆発し、空港のデキュウリテイが死亡。
手榴弾を機内に持ち込むとは常識以前の話だ。
先週、パリの空港で、持参のスワロフスキーのハリネズミのクリスタルグラスが、爆弾に間違えられた顛末を想い出した。
アサヒカメラの次号で、M42マウントレンズの特集で、愛用のレンズ10本のリストを提出したが、そのうち、マクロキラー40ミリ、シャハトトラベゴン40ミリ、ビオメター80ミリのレンズの重さをサイズを実測に、明日アサヒカメラの編集の人がアルパ研究会の席に来ることになった。
仕事は言え、ご苦労なことなり。
パワーブックG4のバッテリーが新しくなったので、実に快適になった。
必要なのは、使わないカメラよりも、新しいバッテリーだ。ここに生活の真実がある。
プラハのパベルよりメールの返信あり。今週は南フランスにTVの仕事とか。
初めて私が世界的な写真家の姿に写真で制したのは60年代初めに日立を撮影に来た報道写真家友人スミスであった。おそらくカメラ雑誌に掲載された友人スミスの写真で、それは森永純ちゃんが撮ったものだと思われるのだけれども友人スミスは首から肩からたくさんカメラを下げて5台のカメラがぶら下がっているのである。
ところがそれは撮影中の友人スミスの上半身のクローズアップの先生に出会って足元から移したと言うよりもズームバックした全身像を見るとまだ地面の上に3台位のカメラが置かれている。そうすると使っているカメラはトータルで8台になると言うのでますます尊敬するようになった。
このような友人スミスの仕事のやり方がその当時のトラディショナルな報道写真家のひとつの方向であったことがわかる。そこには報道写真によって世界を変貌させであると言う意気込みとそのためには沢山のカメラとレンズが必要だと言う石のようなものが感じられた。
右のショットはガラクタ屋さんで話をしているときの私のスナップである。友人スミスには及ばないけれども首からたくさんカメラをぶら下げているのはこれはジョークであって別にこういうスタイルで撮影をしているので無い事は当然である。フイルムカメラの台数と言うことで考えれば1台がベストであり報道写真のクラシックな時期にはカラーとモノクロを撮影するからもう1台カメラを用意すると言うことになる。、
ロバートフランクが20代の時にグッゲンハイム奨学金をゲットしてアメリカを中古のセダンで待っていてアーカンソー日あたりのレッドパージの時代であるから地元の警察官が手柄をあげようとしてロバートフランクを捕まえたのである。その時のレポートによるとこの外国鉛を放すあやしい男は3台のカメラを持っていたとある。ロバートフランクのアメリカ人撮影のときには3台のカメラが使われていたと言うことがこれで明らかになるのが面白い。
その後夏から秋にかけて当時流行一のソーホー地区に巨大なロフトの郵便物の受け取りと黒猫を育てると言う業務を請け負ってそこに暮らした。ホイットニーミュージアムの隣に住んでいるようなお金持ちのユダヤ人が今流行のソーホー地区が興味があると言うので見学に来たりした。
人が集まると馬鹿な遊びをやっていて、ソーホー地区から歩いてその当時最も治安が悪いと言われていたアベニューDまで行ってそこでオレンジジュースを買って受け取りをもらって帰ってくると言う1種の肝試しである。私は実際に怖い思いをした事は1億度もない。ただし歩いているとクオーターとかある小銭をねだられるので必ずポケットにジャラジャラ入れていた。それと胸のポケットには20ドルというのが当時の自らをプロテクトするための最低のマナーであったわけだ。
それから2001年にワールドトレードセンターの大惨事があってその後も何度かマンハッタンに行ってこのショットは2011年の東日本大震災が起きたその時に撮影したものである。この界隈はマンハッタンに人が住み始めたごく初期のクラシックな街並みがそのまま残っているので好きなブロックなのである。
ライカM3に35ミリのレンズで撮影しているが何か視点がちょっと不思議なように感じられるかと思う。その理由は単純で両手を挙げて自分の身長より下にフィート半ぐらい高い所からのファインダーで撮影しているのだ。こーゆー撮影をするとストリートの風景がリアルと言うよりかドメインの良いように見えてくると言うちょっと変わった効果があるのだ。
自分が大人になってからのはじめてのお花見であった。私と家人が参加して、異常なカルチャーショックを受けたのであるが、もう1人パリに長いこと住んでいた文学者の方もそこに参加して、他の面々は楽しんでいるのに、我々3人だけが異文化にやられてショックを受けてしまったのである。
私と一緒に日本のお花見をカルチャーショックを受けたフランス文学の専門家の日本人は鎌倉に住んでいた方だが、その後は急に日本文化に目覚めてしまって、いわゆる弓を引く弓道のほうに行ってしまった。それで毎年1月7日に我々のインチキアーティストの間で新年会があるのだが、そのフランス文学者で弓道に行ってしまった人は毎年お休みなのである。その日には弓道の方で何か1年の初めの重要な大会があると言うので、結局最後に四谷の土手のお花見であった時がそのフランス文学者にあった最後のチャンスになった。これが文化とか言うものなのだなと今考えているのである。
桜の時に下の桜に敬意を表して、ワンカップ大関を飲むと言うのは別に重要なしきたりでも何でもない。
雑司が谷2丁目市場の存在に気がついたのは中学生の頃だと思う。緑の多い街中を行くとそこだけが繁華街になっていて1つの通りからもう一つの通りに平行に並んでいるその両方を結ぶ長さ70メーター位の買い物通りなのである。
ヨーロッパにはこのような市場の展開は無いものであって、イスタンブールのグランドバザールを非常に小さくしたような市場の作り方である。それで私がこの雑司が谷2丁目1番初めに見た頃にはまだ東京にはコンビニとかスーパーマーケットは存在するよりずっと前の話なのだ。
その短い買い物通りのランドマークとして私が愛していたのはこの看板なのだ。靴の存在感のイラストレーションとしては非常にレベルの高いものだと思う。そのことが少年の頃には気がつかなかったのだけれども、ヨーロッパから戻ってきてこの間番の魅力に気がついて雑司が谷2丁目1番に行くよりもこの看板を見学に行くというのは美術館の名作を見に行くのと同じような意味が存在した。
私はよくこのカメラのことをカメラのバロック作りと呼んでいるのであるが戦前に作られた35ミリサイズのモデルから1950年代後半のいわゆるロゴタイプがスタンプの浮き出し文字になっているのには強烈なバロック精神を感じるのだ。実際にバロック時代にカメラは作られていないがもしもその時代にカメラが作られていたらまさにこのブランドがカメラのバロックと言うのにふさわしい。
それで戦前のこのカメラの垂直ルーペの構造をよくチェックしていると日に惚れ惚れするのである。まずそれそれのパーツの部分の仕上げが工芸品的な作りで仕上げられていると言うことにある。1番感心するのはご覧のような垂直ルーペの光を遮断するアルミの金属パネルの部分が立体的凸レンズ状態になっているのだ。意外とありそうで似たような構造物と言うのを私は他に知らない。
このカメラもそうだが当時の一眼レフがフレネルレンズが開発されていないのでコンデンサーレンズを使っているのである。そうなるとフォーカシングスクリーンの上のコンデンサーレンズはかなりの局面になる。その出っ張りをうまくカバーするようにレンズフードのパネルが曲線を描いていると言うわけであってこんなに手の込んだ事はよくやるなと感心するのだ。
もっともこの当時の35ミリ一眼レフはウェストレベルファインダーで上から垂直に画像を観察すると言うのが普通のやり方だった。それがペンタプリズムに置き換えられて固定されるようになったのは、1947年のコンタックスエスからなのである。
戦前のこのカメラは日本にはかなり少ない量が輸入されたらしいがカメラ雑誌のこのカメラの解説を見ると、値段はきかぬが花と言うのもうなずける。ちなみに戦後のアメリカ市場でこのカメラの価格と言うのはライカとほぼ同じ値段で売られていた。
このショットは4年前の凸版印刷の印刷立ち会いのときの写真だ。私はいつも思うのだけど、芸術と言うのは、それぞれのセクションの人が作る共同作業であると思う。それを知ったのは、オーストリアで映画の撮影を手伝ったときの経験から来ている。それぞれのスペシャリストがそれぞれの最大の能力を発揮しているときに、隣のセクションに対してあーしろこーしろと言うのは越権行為であると言うことを教わった。
印刷工場で1番信頼ができるのは、そのセクションのトップの印刷のスペシャリストの人である。だから私はそのスペシャリストを尊敬しているのであって、細かい指示等は出した事は無い。
ここら辺の勘違いで全体のシステムが変な風に動くことがある。つまり自分が万能であると錯覚している。ディレクターさんがいて、印刷のスペシャリストに指示を与えてくると言うことだ。それはベストな結果を得るために指示を与えるのは良いのだけれども、力関係で相手をコントロールしようとすると、そこに軋轢が生じるのである。
凸版印刷の平2部と言うのは、伝説的なテクニシャンがいたところだった。私のこの写真集を印刷してもらった後に、そのセクションは解散してしまったのである。その意味でも、この4年前の印刷の立ち会いは忘れられない。
20年ほど前に凸版印刷のこのセクションの方と印刷立ち会いでご一緒したことがある。その時に専門家がチェックする。高倍率のルーペがすごくかっこ良いので、そのことを褒めたのである。そうしたらそのスペシャリストは全く同じ高倍率ルーペを私にプレゼントしてくれた。しかも私のイニシャル入りというか、フルネーム入りの素晴らしいプレゼントなのである。
ところが、印刷の専門家がチェックするには素晴らしいルーペであろうが、私はまったくの素人だから、それを使いこなせるわけもない。結局、大切な宝物止まりになってしまった。
^_^この5番の電車の周辺にはいろいろ中古カメラ屋さんがあったので、それを発信をして歩くのが楽しみであった。私の写真集に登場する。表紙のこのワンショットは近くのカメラ屋さんとの交差点で撮影したものである。使ったカメラはソ連製のキエフカメラだったと思う。
それでwinが歴史的なのは、この通りよー。ベートーベンの葬列が通って、それに付き添ったのがフランツシューベルトであったと言うことだ。この交差点の近くにはベートーベンが最後に住んだアパートメントがあって、その下は今では大手のカメラ屋さんになっていると言うのも面白い。
なぜ見えないカメラ店を見つけたのか?
リスボンの街の1番中心から西に急な坂があって、中央駅の側からスタートする逆なのであるが、そこはツーリストスポットだから小さなレストランがたくさんあって、イワシを焼く煙で先が見えないほどである。そのイワシのレストランのブロックの坂の上に中古カメラ店を見つけたのは偶然である。
店のオーナーは結構年寄りであって、1947年からこの店をやっていると言う。私が生まれた年だからすごい。そこで西ドイツの放送局が使っていたあリフレックス16のアウトフィットを手に入れて、私は有頂天だった。
その翌年にその中古カメラ屋さんに行ったら、お店は閉まっていて、ウインドウに張り紙がしてあった。ポルトガル語だから意味がわからないので、通行の人で英語が分かる人を探すのに結構時間がかかった。それで教えてもらった店がリスボンの見えないカメラ店なのである。
リスボンの中心街のメインの通りから10分ぐらい北に歩いて左に折れて、警察署の手前の坂を上った左側にあるのだが、口で言うとそういう感じなのだけれども、なかなかそこに行つける人はいない。
海外の取材に慣れているはずの私の友人のテレビのディレクターも、結局そこを発見することができなかった。カメラ屋さんのエントランスには何の看板もついていないから、本物のリスボンの見えないカメラ店なのである。日本カメラの連載でそのお店を紹介して結構話題沸騰したけれど、結局誰も到達できなかったのではないか?
店のオーナーはカルロスと言うこのジェントルマンである。彼からずいぶんいろいろなカメラを買ったお店のカメラを買い尽くすとカルロスはお店の金庫がある部屋に案内してくれて、また良いものを出してくれるのである。10年位のお付き合いでここでずいぶん良いものを買った。
それから10年近く経って、カルロスのお店に行ったら、中古カメラ屋さんとコンピューターのお店と折半しているような看板が出ていた。その時はお店は閉まっていたので入れなかった。
仕方ないので、小さなカードにカルロスへのメッセージを書いてエントランスに挟んでおいた。それから5年ぐらいして見えないカメラ店に行ったら、お店は既になくなって看板も撤去されていた。
その写真家の仕事場の様子を真似てみようとしたが、我々ファーイーストの人間は頑張ってもこのの散らかし方しかできない。
チェコ人の重曹構造的にインテリアをラビリンスで構築する技術と言うのは、この国の人の天才であると思う。ウィーンの友人のズデーテンドイツ人がまさにそうであって、彼の屋根裏部屋に遊びに行くと、いつもその空間構造の複雑さに感心したものである。まるでガラクタのバロックと言う感じがした。
私のwinのテーブルの上に置いてあるものを見るとライカもそうだし、生活必需品は今でもほとんど変わっていないと言うところが面白い。その意味で写真と言うのは単なる記録と言うだけではなくて、それを上回る空間構造を再現してくれると言うところに写真の面白さがある。
ウィーンの美術館で、フェルメールなどのアトリエのインテリアをよく見たものだが、あれは構築された一瞬のフェイクな空間だから、実際にその通りであると言うわけではない。それに比べると私の1973の室内にはリアリティーがあると思う。
タルコフスキーのデビューした頃に使っていたのはソ連の赤軍の報道スタッフが使っていたのと同じクラシックな手持ちのカメラであった。フランス製のカメラを真似したソ連製のカメラだ。
その後長編映画を撮るようになってからやはりソ連の国産のフイルムカメラをずっと使っていた。その時代のタルコフスキーの仕事ぶりと言うのが私は好きでわざわざアメリカからソ連製のミッチェルカメラを輸入したのである。細かいパーツは異なるのであるがアメリカのプロダクションでソ連製のミッチェルを改造して実際仕事に使っていたと言うのは私のような変人がいたという証拠であって面白い。
タルコフスキーが西側に亡命した後はまさかソ連製の撮影地は使えないからこのように西ドイツ製のムービーカメラで撮影をしている。プロ用映画撮影機の前に座ったタルコフスキーはなかなかかっこいいがやはり偉大な監督にはソ連製撮影機で仕事を続けてもらいたかった。
Win大大の2年目あたりにモータードライブの具合が悪くなって日本の日本の会社に送って直してもらって2ヶ月ぐらいしたらその修理の上がったモーターカメラが戻ってきたのであるが、winの税関に呼び出されてまた手続きが結構めんどくさい
その後もずっと続けてきたこれで撮影をしていた。問題なのは現像する時普通のステンレスの現像降りるしかないので撮影の時に250枚つまり10メートルのフイルムを適当に切って現像をするのである。それでフイルムのショットショットの間に挟みが入ってしまうとその撮影画面はダメになるのであるが、これは心理的なものでなぜかちょんぎってしまった画像が非常に良いショットであると言う錯覚がもたらされた。
250枚撮りのモータードライブを使っている写真家と言うのは当時はほとんどいなくて、タイムライフのメンバーが使っているぐらいなら非常に特殊な機材であった。
あれからセンチュリーがかかって50数年経過しているが私の1番好きな針のポイントはやはり高校なのである。北ホテルと言うタイトルで戦前にロマンス映画があったらしくて私の周りではその頃の話をよくする人々がいるが実際には北ホテルと言うのは営業はしていなくて人類の頭の中で抑えられたものらしい。
でも最近ではその映画のテーマになったところが北ホテルと言うこれはレストランなのかな?今の針の感覚でいると北ホテルとか運河のあるところは別に北の端と言うわけではないが100年前にはそういう感覚があったのであろう。
それで私はメディアの取材の時はパリの五つ星ホテルなどに宿泊したのであるがこれはそのホテルを取材する必要があった頃の話だ。普段は物価が安くてごみごみしているところが好きだからパリの東一とかあるいはその東側のリパブリックの海外とかに宿泊するがそれも運河が近いというのが最大の理由である。
それで雲川のほとりには私がいつもお仕事をする自分のベンチと勝手に決めているベンチがあってそこで雑文を書いたり原稿の校閲をしたりして何十年が経過したのである。
パリの街角はずいぶん撮影しているがそれは写真の大先輩のAtget昨日撮影したポイントを真似して歩いているだけなのである。ところがこの大写真家はみんなはそれほどとっていないらしくて私はよく知らなかった。
そればかりか運河に係る1番大きな橋であるがそれが旋回して船を下に通すと言うこともこの20年ぐらいつまりつい最近知った事実なのである。要するに勉強不足ですね。
楽しむのだ楽しむのだた
パリの間後だとセーヌ川のクルーズ船に乗るのがメインコースであろうが私はこの橋の上から下を行き交う船を見ている方がはるかに楽しめる。しかも水門を閉じて水の高さを上げるために恐ろしい勢いでドックの中に水が充満してくるのを19世紀のヒューマンパワーと言う認識でーー
プーチンさんの着ている40年前に流行のポロシャツの模様もなかなか時代が反映されている。それで細かくプーチンさんの持っているカメラをチェックするにソ連の大衆一眼レフゼニトである。さらにリアルな演出を加えるために首から下げているのはレニングラードと言うブランドの露出型である。
その後年前にちょうど私がマンハッタンに行った時レーガン大統領がいつも宿泊するのが42丁目の東の果てにあるウォルドルフアストリアホテルだった。8 × 10インチのカメラでそこら辺を撮影していた時に42丁目の角で大変な人混みになった。
警備のポリスに誰が来るの?と聞いたらポリスは我らのプレジデントが今ここをおとりになるのだよと胸を張った。ここら辺が日本の警備東京とは違って大統領閣下に対してプライドを持っていると言うところが民主主義の国だと思う。
^_^ロシアのトップというかソ連のトップで果たしてプレジデントプーチンが本当にカメラの趣味を持っているかどうかはビック?である。歴代の職長で1番カメラが好きだったと言うストーリーで知られているのはフルシチョフであった。彼が^_^ Summerバケーションでどこかの保養地を歩いている時に下げていたのがソレンセンハッセルブラッドサリュートなのである。
フルシチョフは赤軍が使っていた300ミリの望遠レンズ付きのカメラライフルも自慢にしていた。ある日そのカメラライフルの修理でモスクワのすぐそばのカメラ工場に行ったらそのカメラはもう生産中止になったと言う。権力者がすごいものでそこで指示を出して300ミリ月の望遠レンズの新しいカメラの製造命令したのである。これが現在ある銭と一眼レフに300ミリがついたフォートスナイパーだ。
これは神話ではなくて実際にそういうことがあったのでしょう。あれから40年経過して島尾さんは60代後半の老人ですが、その本質は40年前とあまり変わっていません。
ビールで良い気持ちになった島尾さんがカバンから取り出して見せてくれたのは型遅れのキヤノンのコンパクトデジタルカメラでした。こんな古いカメラはもうカメラ買取屋さんの所に持っていっても受け取ってすらもらえないでしょう。
しかも外見は傷だらけで表面が歪んでいるように見えるボロカメラです。それを現役カメラとして島尾さんはちゃんと使っているのです。その人とカメラとの関係が非常に粋なものに思えました。
かっこいいのです。
よくわれわれカメラ人類は冗談でカメラに貫禄があるとか、偽貫禄とかということをいいます。友人でカメラに特殊メイクをして実際に使い込んでブラックの下地の真鍮が出ているようなメイクアップをしてくれる人もいます。
その心理状態を確認するのに、カメラと言うものはその撮影者と行動を共にして世界の果てまで旅をして、艱難辛苦をしなければならないという意味のこれは寓話であるのでしょう。
でも日常ではなかなかカメラをそのような過酷な状態に置くことができないので、それを特殊メイクアップで真似をしているわけです。
いってみればカメラのコスプレということになります。
私などがカメラ人類を観察するときにその人がどのくらいの「有段者」
であるのかをチェックするときにそのカメラの古さがどれだけあるかということを重要な判断要素としています。
カメラはちょっと古い方がかっこいい。
これが今日のチョートクカメラ塾のメインテーマです。
そうですよね、まっさらなカメラなんてかっこ悪いですよね。
何かおろしたてのスニーカーみたいな感じで気恥ずかしい存在感がそこにはあります。
その名前もカフェエレクトリ子と言うのである。当時は極めてローカルがカフェであって、当然のことながら、地元の人しか来ないような場所であった。もちろんポルトガル語しか通じないから、私はそこでポルトガル語の会話の勉強をしたことになる。
半分地下室のような狭いカフェでコーヒーを飲みながら、道の反対側を見ていると、黄色い路面電車が突進してきて、あわや壁にぶつかると言う時にちょっと進路を左に切って、電車は全速力で通過していくのである。ディズニーランドのアトラクションなどよりはるかに面白い。
大体午前中と午後にある。ファミマの辺りを歩いていて、ここでトイレ休憩をしたりするのが普通の私のライフパターンであった。それがリスボンでエキスポが開催された。ちょっと後からこの小さなカフェはなかなか商売上手になってきた。
1番びっくりしたのは、カフェのお品書きに英語のメニューが加わったことである。昔からポルトガルと大英帝国はそれなりに深い関係があったのにもかかわらず、英語の通じない度数と言うのはかなり高いと言う観光都市なのであるが、それがまず普通の観光都市レベルに英語が通じるようになったのはありがたかった。
それで50年前のカフェエレクトリこと、今のカフェと何が違うかというと、ここが非常に大きな違いなのであるが、50年前は路面電車の外側にぶら下がってただの利用するリスボン市民が結構いたのだ。
要するに、いきなり電車に飛びついて、次の停留所の手前で飛び降りると言うことをやるから、車掌さんは文句をつけることができない。これがリスボンの伝統芸能であったのだが、もう見られなくなった。
ライカビットMPをつけたライカエムモデルにもちゃんとエバレディケースがあってライカをつけたまま下から巻き上げができるようになっている。巻き上げができるようになっていると言うのは事実であるがこれが非常に使い勝手もこれを使うためには別のワークショップに参加する必要があるのではと思うことだ。
キャノンの場合はラピッドワインダーは後期のモデルになると固定されていてこれを外すことができない。キャノン4型の時代のものがラピッドワインダーを取り付け取り外しができるからまだ使用目的に応じて使い分けることができるが後期のモデルは固定されているからラピッドワインダーを外して軽快な撮影をするなどと言う事はできない。
ライカの使い手のアンリカルティエブレッソンがこれはおそらく来日した時だと思うが、非常に珍しいキャノン4型に50ミリレンズをつけて撮影しているショットが大昔のタイムライフマガジンに登場してびっくりしたことがあった。やはりラピッドワインダーはいらない。ライカビットもいらないと言うのが正しいところなのであろうが市場関係者はそういうことになると困っちゃうよね。
それでこの仕上げの非常に良い上履きの袋みたいなものがキャノンが作ったラピッドワインダー様のエバレディケースである。いろいろ研究がなされていてエバレディケースをつけたままカメラを操作するのは難しいと言う結論に足したようで、撮影のときにはカメラ本体をこの袋から出してエバレディケースがストラップでカメラ本体にぶら下がってブラブラしているのである。これもまたアイディア不足で非常に使いにくい
Facebookでフォロワーが5000近くあって、主に渋谷あたりですごいスナップを撮っている人がいるので、びっくりして見ていたら、それがこの写真家なのである。
岩男さんは森山大道さんのお弟子さんと自分で語っていたけども、スナップショットとしては師匠よりはるかにすごい。私もスナップショットはやるけれど、これだけ正面から、しかも決定的瞬間に取れる人はそんなに多くない。
ウィリアムクラインとは何回か話をする機会があって、十数年前に彼の大きな個展がプラハで開かれた時、通訳みたいな立場で数日間一緒にいた。その時スナップ写真についていろいろ話をした。ところがウィリアムクラインの場合は1つのコミュニティーに入って、そこでスナップを取るから、実際には町中のスナップとはちょっと意味が異なる。
プラハで、政府主催の晩餐会があってそこでウィリアムクラインは派手なジャケットをきて写真家のコスプレをしてカメラを向けるとカメラを向けられた人はそれに意識するのである。
それに対して、渋谷あたりで撮影している岩男さんのスナップショットは、現実に歩いている人間と瞬間的に視神経で切り結んでいるから真剣勝負なのだ。そこは面白い。
北島敬三がニューヨークの同じような激しいスナップショットで有名になった頃、ウィーンで何度か会って馬鹿話をしたことがあった。ストレートフォトグラフィーの話をしたかもしれないが、その後北島は作風というか芸風が変わって大判カメラを使うようになっちゃった。
写真家の芸風は本当は変わらない方が良いのである。
この写真家が日赤病院のロビーで撮ったこのショットは人間のいない風景ではなくて、目には見えないけれど、人間が凝縮している風景に見える。
この写真家も見えない的を狙っている1人なのだ。
それで世界中の路地裏を巡り歩いて、この路地裏単位と言う独特の計測の仕方で路地裏を学問してきたのが私と日本路地裏学会のMomoki会長である。会員はたった2名、新規会員募集の予定もない。
リスボンのα間には、この路地裏単位にぴったり適合する狭い路地がたくさんあるから、路地裏天国と言うことになる。大通りよりも狭いというところ、そしてさらにそれがどんどん狭くなって、体の感覚で道をダイレクトに感じることができるというのが路地裏学の求めている本質なのだ。
それでこのような路地裏をすれ違うときには、それなりの神器と言うものがあって、これが社会生活の基本ことになっている。相手を尊敬する心と言うべきであろう。そういう狭い路地裏を潜って胎内巡りのような感じで、その先にまた小さな小さなカフェバーがあって、そこで赤ワインをいっぱい頼んで、立ち飲みで楽しんだりするのがリスボンの^_^割と、上級なレベルのツーリズムであると思う。
敬愛するフェルナンドペソアもそういうような小さなバーで、カウンターに斜めに立ってワインを飲み干している写真が残っている。フェルナンドペソアはその意味で日本路地裏学会の名誉会長というわけだ。
別に私が優秀な人材と言うのではなくて、あちらでは大宴会の時に必ず強い酒の取ったりやったりがある。同行のメンバーの方がお酒だめなので、私が人間の盾と言うわけで選ばれた。
場所は中央区の人民大会堂に近いな中国の巨大な通信社の会場であった。。それで中心街のホテルからガイドさんに環状線の北のほうにあるべるタワーとドラムタワーを見学に行った非常にひなびたところで私の第一印象としては羅生門の荒れ果てた街並みと言う感じがして気にいったのである。
その後に北京オリンピックがあったので、数年行くのをやめていて、落ち着いてからドラムタワーの北の羅生門みたいな街並みに安いホテルで暮らすようになったら、これがそこが地元になってしまうとなかなか快適な街並みなのである。
何百年も前からやっている羊料理屋さんがあって、そこの肉饅頭などはなかなかよかった。それともう一つ私がランドマークとして素晴らしいと思っているのがこの所に乗り捨てられたままになっているオートバイなのだ。500年前の細い袋小路であって、当時はオートバイ等はなかったわけだが、そこに堂々としていてあるというのは、何か中国のおおらかさと言うので、気にいってよく見に行った。でもあれから10年は経過しているから、まだそこにあるかどうかはわからない。
それでこの家の画像を見て私は考えてしまった。最近ではこのようなヨーロッパ的と言うよりもインターナショナルな雰囲気の家もあちこちで見かけるものである。だから私が普段歩いている東京のどこかのキリスト教の宣教師の家であったりすると、このようなスタイルの家と言うのは結構見ることができる。
ところが一方で、建物の構造を細かく見ていくと、そこにはデザイン上のフェイクと言うものは存在しなくて、建物の構築物そのものが存在感として浮き上がってくるというのが私の癖である。この分析結果は非常に簡単にバックアップできるものであって、撮影が2011年の7月なのであるが、撮影日時が午前0時30分となっている。私は旅行するときに、デジタルカメラの時間はファーイーストに合わせてあって、現地時間には合わせてないからヨーロッパの朝、つまり日本の深夜の時間に撮影されたというのがこれで理解できた。
すなわちベルリンのかつての東ベルリンのセクションのどこかで撮影されたものである。日本の注文建築とは違う。
その後私はヨーロッパに行って、何年も暮らしてニューヨークを経由して戻ってきて同じ町並みを歩いていたら、その後軒長屋は非常にモダンな感じに改装されているのにびっくりした。普通木造建築と言うのはすぐ立て替えられてしまうというのが常識である。
それに対して、木造建築がそのまま残っていると言うのは、私の過去の長い記憶が、そのままに完璧に保存されていたと言う意味で、これは記憶を保管する大切な保管する装置みたいなものである
それでこの素敵な木造建築は、観光案内所になったり、喫茶店になったり、1時はラーメン屋さんもあったのだが、それは40年前の話で、今は別のお店になっているらしい。
要するに、半世紀以上、5軒長屋でサッカーボールで遊んでいた少年のことが今どうしているのであろうかとくっきりと記憶を呼び戻してくれるというのが、このモダンな長屋と言うわけだ。その意味でも古い建築物を保全するのは大切だと思う。^_^
神田の如水会館20分前に行ったら、片岡先生は12分後に到着なさった。これは礼儀正しい時間関係だと思う。その時片岡さんに結構気に入られて。その後ほぼ数年間一緒に東京の街を歩くようになったのは非常に貴重な私の宝物である。
それと代々木の駅の近くにある羊屋さんと言う名前の料理屋さんでよく食事をご一緒することがあった。片岡先生はなかなか料理がお好きらしくて、注文して余ったお魚とハンバーガーのパンを使って私のためにフィッシュバーガーを作ってくださった。それをお土産に持ち帰って、翌日家人とはんぶんこして食べたらなかなかうまかった。この話を片岡義男ファンにすると、結構羨ましがってくれるのも嬉しいことだ。
それでこのスパム恵&ライスは、片岡さんから直接聞いたのではないが、彼の小説の中に出てくるハワイアンの労働者階級の結構伝統的な食事なのである。片岡さんによると、これは労働者の下から2番目の階級が食べるものだと言うようなことが書いてある。その後片岡さんに何度も会っていろんな話をしたのだが、それでは1番下のクラスの労働者が食べる料理はなんですか?というのをついつい聞き損ねてしまった。
家人が時々これを食べたくなるので、簡単だから作ってあげたりすると本当においしいと言うのは嬉しいね。それで家人はいつも宝物の1715年に作られたと言う年代のマークのあるウィーンのこのお皿で片岡義男のスパム&エッグを食べている。つまり、スパム&エッグとヴォルフガングアマデウスモーツァルトの三位一体と言うわけだ。
その当時の日本の中古カメラ市場では、アルパの一眼レフなんてだれも欲しがらないし、大抵壊れていたので、我々が研究会を作ったら壊れたアルバを大量に押し付けられることになった。そのうちアルパの研究が進んで自分たちで分解して修理できるようにまでなったのだからすごい。
何十年もこのスイス製の鳩時計みたいなカメラを使っていて考えるに1番使ったのはこのモデルだと思う。これは第二ジェネレーションと呼ばれているモデルであるが、そのスタイルが好きなのだ。
よく例えとして描くけれども、1950年代のスイスの電気機関車のようなスタイルと言うのである。実際にこれによく似た存在感の電気機関車というのが、大昔はスイスで走っていた。
アルパの会社は自分ではレンズを作らないから、全部外国のレンズメーカーに頼っていた。広角レンズのほうはフランスパリのアンジェニュー24ミリと28ミリである。別に素晴らしいレンズと言うわけではないが、レトロフォーカスの世界で1番最初に作られたレンズであるから、そこに性能うんぬんと言うのはもともと無理である。
これはアンジェニューの28ミリだけど、Exaktaマウントであるから、自動絞りの連動する位置が120度ずれているのであるが、別に使用上は何の問題もない。それをマウントアダプターでアルパに付けている。
アルパはどんどんモデルチェンジして、1番最後の頃の製品の専用のレンズと言うのはペンタックスのたくまレンズであった。そこら辺がなかなかレンズのことがわかっていたカメラメーカーだと思う。
要するに、戦後の写真家のせいぜい40年代位までの東京と言うのは、過去の東京の風景が周辺部によく保存されていた。晴れている時があって、そこに洗濯物が干してあると言う構図である。ところが路地裏は狭いからなかなか広角レンズでも撮影が難しいと言うポイントもあって、路地の洗濯物干し場と言うのはモチーフとしては難しい。
ドイツあたりには洗濯物を外に干す習慣は無い。だからイタリアとかスペインとかポルトガルに行って、私がこれは懐かしいなと思うのは、路地と路地の間の空間に紐を引き回して、そこに洗濯物をぶら下げると言うあの人間的なテクニックである。
洗濯物を室内に干さないと言う習慣は別にアメリカになかったわけではなくて、ジョナスめかすがリトアニアから来た直後のブルックリンとかロバートフランクも撮影しているし、ウォーカーエバンスも撮影しているのであるが、日本とはかなり違う巨大な構造で外で洗濯物を干しているシーンが登場する。だから別にファーイーストだけの特徴ではないと言うことだな。
私が数多く撮影した昔の東京の洗濯物の写真で、これは1番好きなものの1枚である。何が好きかと言うと路地ではなくて空間が開いていて、背後に木陰があって、そこで涼しい風が吹いていると言う印象を与えるショットであるからだ。
^_^撮影場所はとっくに忘れているが、それは別にこの場合重要なことではないと思う。
1番困ったのは長年使ったタイプが24ミリ× 36ミリの分割比率であるのに対し、APS-Cカメラはそれよりも横がちょっと長くなるわけである。これが長年ライカを使っていた人間には何か骨の折れることで、自分の写真美学を横方向にちょっと引っ張ってやらなければならないと言うのは頭脳では理解できるけれども、感覚的にはこれができないのである。
これも10年間展開したカメラジャーナルの中の作例なのであるが、縦画面にするとますます上下が引っ張られたような感じになって、構図として落ち着きがなくなると言うことが非常に気になった。もともと私の場合はノートリミングでやるタイプの写真家であるから、パノラマカメラであったらそれはそれで問題は無いのだが、ライカサイズよりちょっと横が広がったと言うのは、生理的になかなか許せないところがあるのだ。
aPS-Cのフイルムカメラはそのままなんとなく縦横の画面比率はそのままでデジタルカメラにシフトしてしまったら、これはハイビジョンの館横画面と同じ比率だから、文句を言う人がいなくなったと言うのも不思議な展開であった。まずハイビジョンというか、デジタルカメラの場合は、基本的に横画面で撮影することを念頭に作られているのであろう。でも、私のように縦画面で撮影すると、やはり上下が長すぎる。
東京カメラクラブは毎年1度だったと思うけれど、カメラグランプリと言うプライスを出していてキャノンが出した太陽電池で充電する太陽やろうと言うニックネームのカメラが選出された。これはそのカメラで撮影した作例である。
90年代半ばでは、エネルギー問題で太陽エネルギーを使うと言うのは非常にユニークなことだ。今でも太陽光発電は利権がらみで燃えているよね。
普通はカメラを保管するときは日陰に置いておくのであるが、このカメラがユニークなのは窓際のお日様がサンサンと言っているところに置いてくださいというのがまず通常の常識を転覆していてユニークである。しかもお日様に向けると形状記憶合金が反応してパタンとカメラが開くようになっている。。
それで当時暮らしていたタワーマンションのトップから建設中の隣のタワーマンションを撮影したのがこのショットである。わざと画面を傾けているのはロバートフランクの影響だな。
東京カメラクラブの写真、文化勲章の時、開発者のキャノンの方に聞いたら、当時はなかなか太陽電池の良いのがないので、メキシコから輸入したと言うお話を伺った。この対応というのがいいよね。
極東の湾岸の中の砂州がベニスに酷似しているなどとは、時差ぼけの極みだが、これはプラハとの比較なのである。
プラハは「北のベニス」などと呼称されているが、あれは観光局が苦し紛れに造った言葉で誰も本気で信じてはいまい。
「北のベニス」に対して「佃のベニス」が現実味を帯びているのは、水面が干満することだ。
モルダウは北に開けているのが、気に食わないし、数百年ぶりの洪水はあったけど、海の呼吸はないわけであるから、その意味でベニスを呼称する「資格」
に関しては、佃の狭い泥臭いキャナルの方が一段も二段も上である。
突然、「天啓」が兆して、「東京大周遊」の発作。 進路を320度にとる。 すなわち、20キロかなたの板橋区は真言宗豊山派 長徳寺方面を目指す。
東京駅が東京駅に見えない。 空が開いているので、まるで北辺の地方都市か、昭和20年である。 なんのことはない。大改造のための巨大な布がかかっているだけなのだが。 いや、これはやはり、かのクリストの仕業か?
大手町で知り合いのADさんに路上で遭遇。彼は本ブログの大愛読者さんなのだ。 どちらへ? と聞かれたので、これから「板橋方面へ」と答えた。これが江戸時代ならかならず徒歩で 行くわけだから、説明の必要もないが、今は平成の世だからそれに「歩いて」と付け加え た。飲み屋に行くためとは言わなかった。 相手はあたしがよほど重要な任務を帯びているのであろうと、深くうなずいた。
神田橋、神保町。神保町のグリューネアレーは厭なアーケードが取り払われて、すっきり とそらが見えるのはいい。
ウンターデンリンデンだって、シャンデリゼだって、世界の一流の通りはアーケードにな んかなってない。ミラノの中心部が嫌いなのは、その理由による。
そこから、水道橋、春日町。
春日で白山通りの渋滞状況を道路の表示で確認。「巣鴨まで15分。板橋まで30分。戸田橋まで45分」とある。これを3倍すればほぼ人間の徒歩の時間のめやすとなる。
白山界隈で、警察の機動捜査の面々がビニール袋に入った「凶器」について、その中の私 服さんが本部とけーたいで連絡している。 「はい、そうです。長さは約20センチ。いわゆる文化包丁です」
いやはやごくろうさま。
でも、そんな「なまくら」は「木屋」には売っていないな。
白山通り。
平凡社の前を通過。おう、ここであったか。
通過記念に看板を撮影。
それでウィキペディアの下のほうに、世界的なレベルでの私のデータベースのリンクがつながっていることに気がついて、それをクリックしてみたら、ドイツ国立図書館の私の写真集のデータベースが出てきた。これは非常にありがたい次第である。
最近のデータベースはどこの美術館でもどこの図書館でもそうなっているが、実際にそこに行く必要はなくて、オンラインでそれをチェックできるのである。例えば、正岡子規が人生の最後に記録した草花とか果物の1連の本があるのであるが、1連の本と言うのは、オリジナルなドローイングと言う意味である。これが国立国会図書館でデータベース化されているから、誰でも好きなときに自由に鑑賞することができる。
私は写真家として複製芸術のかたを持つと言う意味では、ワルターベンヤミンの隣に座っていると言う意識を持っているものである。
10年にいっぺんぐらい商売で、ヨーロッパの有名な絵画が日本にやってきて、高い入場料をふんだくられて、それのテレビ取材に応じる^_^人々が言う言葉が全部同じステレオタイプである。すなわち
やっぱり本物は違いますね
^_^このコメントは私はアートを知らない理解できない低レベルの人間ですと言ってるのと同じことだもんな。でもそこら辺を明かしてしまうとアートの関係者さんの商売にはならない。
ベルーガと言う巨大飛行機はそのデザインを見ているだけでワクワクする。でもこれと言うのはベースはエアバス300だそうだ。エンジンなどをアップしているに違いないが、エアバス300と言うのは大昔に東京からモスクワ経由でヨーロッパに行くエアバスの飛行機だった。
もちろんベルーガは貨物便であるから、長距離を飛ぶ必要はなくて、こまめに給油して飛べば良いわけである。日本には警視庁が輸入した巨大ヘリコプターを運んだりする実績で4回ぐらい飛んできているらしい。でもそういう数多い中っている中で、1番芸術的でかっこいいなと思うのは、2009年夏にドラクロワの巨大な絵画を運んで神戸に着陸している。
私はもともと巨大な絵画は嫌いだから、ルーブルでも全く見る事は無い。ドラクロワなどは退屈の極みである。小さな絵画が好きな人間なのである。でもそのことを別にしても、文化的な目的のために巨大絵画を運ぶと言うのは実にクールでかっこいいと思う。
最近のベルーガは、フランスのツールーズから新しい通信衛星プロジェクトの通信衛星をフロリダに運んだりしているそうだ。ツールーズと言えば、サンテグジュペリのアビエーションの小説によく出てくる。
^_^初期の郵便飛行の通信の記録などがある。
ラジオ便6時15分ツールーズ発
航空郵便フランスアメリカ便は午前6時15分トゥールーズを出発せり
それでフランスアメリカ便がアリカンテを通過した後に消息不明となって、ドラマの幕が開くのである。この翻訳は家人の親戚の堀口大学なので、高校の時からよく愛読しているのだ。
このときの生活が不思議なものであって、早朝にメトロの近くの喫茶店でカフェオレいっぱい飲んで、昼過ぎまでメトロからは出てこない。メトロから出たら近くのカフェで簡単なランチを食べて、またメトロに夕方まで乗っている。この体験が私にパリのメトロを近づけてくれた。。
あの頃のパリのメトロの乗客はなかなかスマートであった。と言うのは極東のメトロに座っているお客をとると肖像権とか何とかですぐ喧嘩になりそうなので、パリではそういうことがない。プライベートスペースとパブリックスペースの個人の意味合いがよくわかっていると言うことに感心した。つまり、パリは大人のメトロの街なのだ。
犬を連れてアコーディオンを弾く名物のおじいさんがいて、その人を追いかけていたのだが、今日はあのLINEのあのあたりに行くといるのではないかなどと予想を立てて出かけるのだが、それが当たったときには嬉しかった。
何十年か経過してアサヒカメラの連載をしているときにこのパリのメトロのシリーズを紹介する必要が出てきた。アサヒカメラにはバックナンバーがないので、担当編集者さんが大宅壮一文庫まで出かけていってコピーしてくださったのである。感謝感謝。
でこのシリーズが10ページほどアサヒカメラに登場した。1979年の終わりの話をやり直すが、編集者さんにタイトルをメトロのパリとお願いしたら、印刷した雑誌ではパリのメトロになっていた。それはわかりやすいけど、そういう意味ではないんだよなな。
カメラはライカCLとライカエムデーを持っていった。レンズはソ連製の20ミリとソ連製の50ミリだったかな?要するに使っている機材は全然変わっていない。
リコーカメラが新しいフイルムカメラをスタートさせたときに、森山さんにお渡ししたり、友人に頼んでニューヨークのロバートフランクさんにお渡ししたりしたこともある。つまりカメラの広報関係の仕事ですね。
ヨーロッパから日本に戻ってきた。1980一年頃だが、東京は上野のアメ横を歩いていたら、前を森山さんが撮影している。いきなり声をかけては失礼にあたると思って、しばらく後をつけていた。森山さんはブラックのペンタックスに35ミリの広角レンズで撮影をしている。それが1段落して、森山さんがハイライトに火をつけようとした時、私が声をかけたら、森山さんはびっくりして、ハイライトを逆さまに加えた状態で、シガレットに火をつけたのでフィルターがくすぶって音がした。
それ以来、私はロバートフランクさんでもリーフリードラン出さんでも天才荒木でも通行中の有名写真館に声をかける時は、まず相手が私を認識した状態の時にお声をかけるようにしている。
この遭遇した現場はあけぼの橋なのである。すぐそばがガラクタ屋さんなのである。この時森山さんに声をかけたついでに彼をガラクタ屋さんに連れて行けばよかったと今に思うと残念だ。
曙橋が不思議なところで、中平卓馬さんがなくなるちょっと前の夕暮れに、やはりこの界隈で中平さんを見たことがある。普段はアシスタントの人がいるのに、真っ赤なウィンドブレーカーで1人で歩いていたのが奇妙であった。
この16ミリ撮影機は世界で最も成功した映画カメラの部類に属する。もともとプロフェッショナルな目的で作られたから個人がこれを持つと言う事は考えられなかった。映画プロダクションとか放送局が使っていたのである。それでミュンヘンのこの映画カメラの本社に、1973年にカタログを送ってもらうように頼んで、それが私の宝物となった。
その後、実際にこれらのカメラを手にしたときには、天国が近づいたと思ったのである。それでこの撮影機はタフに使うものであるから、通常の来客等のような仕上げではなくて、はるかにレベルの上のカメラ本体の構造とペイントがなされている。
私が中学生の修学旅行の時にそれを取材に来たNHKのカメラマンの人がこのカメラを持っていたので、触らせてもらって感動した。大人になるなら、いつかはこういうカメラを持ちたいと思ったのである。
それから何十年かして、ドイツのライカの工場とその工場のある小さな村を撮影に行ったとき、私はこの16ミリ撮影機を携えていた。人生の夢がここに達成したと嬉しかったのである。
このカメラの個体はあまりにも使われたので、このような感じになっている。よくライカのブラックペイントを長年使うと、貫禄が出てかっこいいなどと言うのであるが、これはそういうアマチュアレベルを超えた激しさが感じられる。
しかし、プロフェッショナルの間でも、あまりにはげはげの映画撮影機は格好が悪いと言うことなのであろうか?アメリカのプロ機材のファクトリーでは、こういう状況になったカメラを新品同様のブラックペイントに理ペイントしてくれると言うサービスも以前はあった。私はボロボロの使いこんだほうがよほど存在感があって好きなんですけどね。
1973年の夏、winに暮らした。最初の夏であるが、ライカM3に90ミリのレンズをつけて全く無意識に雲を撮影した1枚なのである。もとより一眼レフであるから、画面をチェックすることはできない。それで現像して驚いたのは、1本の光のパワーが空から降ってくるところが映っていたのだ。
当然のことながら、ミラクルでも何でもなくて、90ミリレンズのハレーションとゴーストイメージによるものなのである。でもここで大切なのは、これがもし一眼レフで撮影されて、ゴーストイメージを私がちゃんと把握しているような状況だったら、それはうまくとられたと言うことにはなるかもしれないが、表現の域まで来ていると言う言い方はできないであろう。
このまぐれ当たりでできた作品は、1973年の秋にウィーンで開催された。私の写真集でも展示されてカタログにも掲載されている。つまりイスラエルの神の国の偽物の光と言うわけだ。
ところが、残念ながら、その当時の日本のカメラの制作技術では、この連動距離計というのがなかなか制作が難しくて、結局生産中止になって、ごくごく少数作られたものが市場に流れたらしい。
たかだか45ミリの標準レンズが固定されて付いていて、その距離計の連動に問題があったと言うのは、今ではちょっと考えられない背景であるが、その当時はそこら辺がリアリティーがあったのであろう。
でも、今の時代はクラシックフィルムカメラにイッポン数千円のフィルムを入れて撮影したとか自慢するというのはすでに時代遅れの背景になってきたので、こういう本物のクラシックカメラは別にフィルムを装填しなくてそのアピアランスを楽しむと言う。いよいよクラシックカメラの楽しみ方の最終段階に近づいてきたと言うことを、私はここで強調しなければならないのだ。
それで私が最大限に評価しているのは、このカメラのトップカバーのロゴタイプなのである。かなり優れたデザイナーがいなければ、これだけのロゴタイプが作れたものではないと思う。アメリカの有名雑誌とか日本のパッケージツアーの商品名にもなっているけれども、それをすでに超えている素晴らしい存在感である。こういうカメラは手にしてそばに置いておきたいが、何しろ3000ドル位するのです。
^_^私の手元にはリュックから距離計連動を外した。エレガがあるから、別にそれを楽しめば良いだけの話。
立石バーガーのマスターは哲学者がそのままハンバーガー屋さんになったと言う感じでそこが偉いと思う。しかもなかなか器用な人で自分で梯子をかけてお店の看板を交換したりもするし、自分のイラストの広告なんかも非常にうまい。つまり万能選手なのである。
自分のところで焼いたパンを売っているのは、当然ながらここの350円の食パンと言うのはおいしかった。店の右手に料金投入口があって、そこに350円入れると食パンが転がり出てくるのである。それで当時はジャンピング食パンと言うので、かなり話題になって食パンを食べると言うよりも食パンが飛び出してくるところを見たいので買い物に行ったのである。
それで1時はマイナーなメディアもメジャーなメディアも引っ張りだこになって、いつも取材が耐えなかった。私が遊びに行っているときに、どこかのメジャーな放送局が取材に来て、光で指定した歌を一緒に歌わされたりもしたので、まずこれも何かのご縁と言うべきだろう。
ここのアメリカンクラブハウスサンドイッチはなかなかよろしい。
また集まって呑みたいですなぁ
それでウィーンの南の当時の郊外にいくつかのガスタンクが建設された。今のものとは違ってレンガ造りで、なかなか建築学的に重要な存在感である。winに暮らした最後の時期にそこら辺のガスタンクの面白さに気がついて撮影に行ったのである。このときの同行者は古谷正一とクリスティンであったな。彼らはライカで、私はコンタックスの1947年生の一眼レフコンタックスエスに20ミリの東ドイツ生のレンズをつけていた。
その時は古谷とクリスティンの中は良かったみたいだが、その3年後、私がニューヨークに滞在しているときに時間を見つけて、winに久しぶりに行って、古谷とクリスティンと家人と4人で飲んだのであるが、その時は古谷と奥さんはなかなか険悪な感じで罵り合っていたので、心配したのである。悲劇が起きたのはその翌年だったのではなかったか?
このガスタンクの跡地はそのままうまい具合に改造されて、今ではショッピングセンターのような感じにそのまま継続して使われていることを知ったのは、それも20年位前の話だったので、今はどうなっているかは知らない。それでもwinのような大都会を構築する近代世界の基本構造がガスタンクであったと言うことを思い起こすのは非常に重要なことである。
この作品でもちょっと見ることができるが、まっすぐな通路の左側のエントランスの上に金属製に作られた植物がオーナメントとして語られているのである。ガスタンクも好きだけれども、この金属で作られた植物の由来は知らないが、このあたりに行っていつも見ていたメランコリーオブジェなのであった。
^_^それからしばらくしてまたガラクタ屋さんで、戦前のライカの箱が置かれていて、それを開けてみたら、いげた上にフイルムが保管できる仕切りが漬けられていて、そこに20本ぐらいのフイルムが入れられるようになっていた。それで蓋の内側の上の方には、1万から20番までのメモが付けられていて、そこには撮影者の覚書、例えば昭和12年、夏鵠沼海岸海水浴などと記入されている。
それでにだいめさんにこのフィルムはないんですかと聞いたら、2代目さんはあれいるんですか捨てちゃいましたと言う答えだった。これはよくある業者さんの勘違いと言うものであって、winなどでも150年前の写真アルバムがあって、ワクワクしながらアルバムを広げてみると、貴重な写真は全部捨てられてしまって、アルバム本体だけがそこに残されているのである。業者さんの認識と言うのはそういうものなのだね。
話がカメラのオリジナルボックスに戻るが、この時代のカメラの本箱と言うのは、いずれも基本的にはライカの会社の箱とカールツアイスの会社の箱を真似して、それを2で割ったようなデザインが多い。
ニコンとかキャノンの白などもどちらのメーカーを真似しているかは、ここでは明かさないが、やはりライカ方面とかコンタックス方面に引っ張られているのである。
それでこのカメラメーカーのオリジナルボックスの実態を知っている人は非常に少ないと思う。けれども、デザインから見るとかなり上質な処理がなされていると思う。
厳密に見てみると、デザインが入りすぎであって、ここが大切な問題なのであるが、デザインを完璧にやりすぎてしまうと、カメラよりもカメラのオリジナルボックスの方が存在としては上になってしまうと言うめんどくさいな展開もあるのだ。
これは写真家とか人間関係の存在だけではなく、ペットに関しても同じことが言える。ペットと一緒に過ごした時間よりも、ペットが過ぎ去った後の時間の方がそのペットの存在感を強く感じられると言うのは、私だけではなく、周囲の人がみんなうなずくところである。
それでヨーロッパに暮らしていた時なども、冬などで外が寒くなって、室内が湯気で、ガラス窓が曇ってくると、私たちはいつもそこに大泉学園町で本当に短い期間経っていた。白黒の猫ちゃんの姿をさっと描いて満足していたりしたのである。生きているベッドよりも、その時間軸上に生きているペットの方が、むしろ愛らしいし存在感があるね。
6時半にはビロード革命の前から見ると、革命15周年ではなかった。25周年の時まで足掛け34年間アトリエに暮らしたのである。ところがそうなると飽きてくるもので、時々プラハの別の部屋に住み変えたりしている。ある雪の朝、東京に飛び立つその日なのであるが、プラハに初雪が降った。それでペット連中のことを思い出して、窓のすぐ外側に書いたのがこのイラストレーションである^_^
それでこのショットは、栄光のルマンか、何かのレーシングのときのドライバーからのポイントオブビューを記録したバックステージビューであると思われるが、これがフランス製のボリューカメラなのである
レーシングドライバーは重いヘルメットの脇にさらに16ミリカメラをくっつけて、これで撮影したのだから、今のハイビジョンの時代とは完全に異なるのが大変なご苦労であると思う。
フランスのこのカメラメーカーは、当時としてはドキュメンタリー用の16ミリフィルムカメラでは世界で最も軽いと言う性能を誇っていた。だから当時のこのカメラメーカーのカタログを見るとゲリラ闘争を取材するニュースカメラマンと言う。これは今ではちょっと考えられないようなシチュエーションがカタログになっていて、反体制勢力がマシンガンを持って攻撃しているところを女性のニュースカメラマンが撮影していると言う。極めて忘れられないショットがカタログに掲載されているのである。
この時代のドキュメンタリーは皆そうなのであるが、例えばエベレストのアタックを目指す時も下の方を探検しているときには35ミリカメラのムービーで撮っているから、画像は安定して見られるけれども、最後のアタックのところになるととにかく酸素不足だし、ゼーゼー言って運動がままならないから、その場合には50フィートの短いフィルムを入れた。16ミリの超小型カメラを使用する。
^_^だから最後のアタック、誰が頂上を極めたときは、そのムービーの画像は短いしぶれている子色も悪いし#ではないのである。そういう記録映画を見て、我々その当時の少年は空気が薄いと感じたものであった。ここら辺が映画のドキュメンタリーのリアリティーとでも言えよう。
それでこれはちょっとメイン通りから奥に入った小さな写真館で撮影してもらって、当時はカラー写真は高価であったから、それよりも値段の安いモノクロームで撮影したものに人工着色をすると言う、今で考えたらこちらの方がはるかに手間がかかる時代だと思うのであるが、その人工着色の写真で、私は感動して、人工着色用の絵の具とか筆を買って帰ったら、もちろんそんなの使うわけなかった。
今回この貴重な中国の人工着色写真で私が気がついた事は写真のバックグラウンドである。写真屋さんがいきなり来た日本人のために慌てたのであろうかバックグラウンドが半分しか下がっていない。その半分の背景を見るに、これはここがポイントなのであるが、実に半世紀の前の中国のパール、リバーの理想とした現代的風景がイラストで描かれているわけだ。
それから30年ほど経過して別のようでパールリバーを見に行ったのであるが、そこの高層ビルの林立と言うのは50年前の当時の中国の人が理想として描いていた現代都市の風景など木っ端微塵になるほど先のほうに進化していたと言うわけだ。だから現代の中国のスカイラインを褒めていると言うわけではありません。
あれ?
誰かに似てる
テレビ番組は文化関係の番組に出演して、文化人のギャラを何度かもらったことがある。大体3万円から50,000円ですね。文化人だから。それがいきなり笑っていいと思うから出演依頼があった時は非常にびっくりした。
それで新宿のスタジオアルタに行ったのである。2千11年の7月7日だったか?生放送と言うのは結構怖いものであるが、それなりに楽しかった。それ以前に私は笑っていいともを見たいと言うので、往復はがきで30枚以上応募したのだが、全部ハズレであった。出演するのには往復はがきを出さないでいいから、そちらの方が楽である。それで驚いた事は桁が1つ違ったのではないかと思うようなギャラをいただいたのもびっくりしたのである。
いろいろなことが面白かったけど、スタジオでドアが自動的に開いて、ゲストとしての私が登場するというのは、あのドアは自動的に電動式で開くのではなくて、フロアディレクターさんが両側から引っ張ってあげているんだね。そういうことがわかっていろいろ面白かった。
ピアニストのYamashita Yohsukeさんにウィーンで会って意気投合していろいろ楽しかったのであるが、それから10年以上経って友人から教えてもらったのだけど、ピアニスト富田と言う本の中に私が紹介されていて、その次にタモリさんが出ていると言う事はデビューはほぼ同じなのである。
テレビというのは恐ろしいもので悪いことはできない。笑っていいともに出演した後に札幌に行って、定食屋さんでご飯を食べていたらおでんを運んできた。お姉さんがあなた笑っていいともに出ていた人だねと言われました。全国成敗みたいなもんだな。
そこで興味があるのは廃墟になった。都会を避けて、その手前にスタジオのバックドロップを置いて、そこには平穏な田園風景が映っている。こういう営業写真館の伝統的な方法と言うのは、ポートレートを撮ってもらう。ゲストにとっては非常に安心のできることであったのだろう。
それに対して、当時のファッションフォトグラファー、例えばアーヴィング編とかリチャードアヴェドンが使ったテクニックと言うのは、背景には何の図柄も描かれていなくて、それはニュートラルな白いバックグラウンドなのである。
無地のバックグラウンドの方が、その前に立っているポートレートをうつされている人の存在感が浮上するのは言うまでもない。
半世紀ほど前に家人と中国広州に行った時に、写真屋さんで記念写真を撮ってもらったときには、それが人工着色なので感激したものであったが、他のセクションでも触れたけど、そのバックグラウンドを見ると50年前に彼らが想像していたパールリバーとその周辺の理想的な近代都市の風景なのである。ところが中国の風景は皮肉なもので、50年前、彼らが理想としていた風景よりも、現在のバールリバーの風景のほうがはるかに先走ったものになってしまった。
ワルシャワの風景の変貌も、まさにその通りだと思う。
要するに、ライカと言う世界チャンピオンのボクシングの王者がいきなり表すれた複写機専門の4回戦ボーイにテクニカルノックアウトをやられたようなものなのである。しかし、4回戦ボーイのエプソンはその後続かなくて、結局デジタルレンジファインダーはこの1系統だけになってしまった。フルサイズのエプソンも出ると言う噂がエイプリルフールの時横行していたのも懐かしい。
それでその当時は、APS-Cはフォーマットとしては不十分でフルサイズでなければダメなどと言う風評が行き交っていた。でも私はエプソンの広告の仕事でポスターも出したし、写真集も出したから、仕事カメラはAPS-Cで充分だと考えている人間の1人である。
エプソンの写真集で懐かしく思うのはその表紙はプラハのアトリエなのである。何が面白いかと言うと、この表紙のショットはプラハのアトリエがモダンなインテリアに改装される。以前の戦前に作られた鉄のウインドウがまだはまっているクラシックタイプの頃のアトリエであったからだ。
だからこのクラシックなインテリアを見ると、エプソンが登場した当時には、まさしく20年前であることがわかるのである。
原因は早朝にワインの栓抜きで激しい運動をしたせいだ。
数年に一回の手こずるほどの開栓だった。
30年以上プラハでいつも飲んでいたのはフランコ不可と言う名前のモラヴィアの赤ワイン。これが非常に多かった。今いつも飲んでいる。チリの赤ワインにちょっと似たシンプルな味わい。
それでプラハの暮らしで面白かったのは西川から輸入された。ワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつはインド金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。
戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう坂様の価値観ができてしまったわけだ。
30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良い。ワインとフランスのそれほど良くない。ワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。
私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあって出来した。44生やったワインの4位の勢いでワインを何系ですか輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。
ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の下古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な白物物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったもの。末の会社の社長の今井さんにその仕事を店に行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺は飯嫌いだから。
アートにも非常に詳しい人で佐藤さんと話をするのが楽しみで、近くのショップでちょっといいアイリッシュを1本持ってそれを持ち込んでバカ話に花が咲いた。そこに集まっているアーティストもなかなか見所のある連中で東池袋の有名な名もなきコロッケ屋さんのコロッケをまとめて差し入れしたことがあった。その中のモダンアーティストで、お酒はいってきも飲まないと言う青年が何もなきコロッケ屋さんのコロッケをひと口食べて、非常に高く評価したのである。さすがギャラリーでないギャラリーは、構成が違うのだなと思った。
ギャラリーに行くには、急な階段の段違いになっているところを3階まで上がるので、エレベーターはなかった。今の私だとまず天国に達する位の難しい。階段だから行くことはできないと思う。
私の仕事を非常に評価してくれて、写真展をやることを何度か勧められたのだが、佐藤さんは歩1日一緒めいた手紙を私に送ってそのまま実施してしまったのである。音声変換ができないのでもう一回言うと自ら天国に旅立ったのである。
私の残念さからすると、まずワルターベンヤミンがスペインの国境で昇天したのと比べられると思う。
その広場を超えると、協会があって、協会の先のエントランスは巨大な庭園に通じているのである。カイザーフランツヨーゼフがよく好んで三宝した巨大なお庭で、ウィーン少年合唱団の本拠地もここにある。有名な陶磁器のメーカーもここにあって、仕事で少年合唱団とか、ポルシェ嵐の後を撮影に行ったこともある。
カイザーフランツヨーゼフがこの公園を散歩しているときに、通行人が皇帝陛下に恭しくお辞儀をするので、皇帝は講演の中で私を見てもお辞儀をするには及ばないと言う命令を出したと言うのも笑えるね。
それでこの広場のランドマークなのであるが、ご覧のように巨大な樹木が茂っていて、どういう種類の器であるのかはわからない。ただ春の季節になると、綿毛のようなものをたくさん放出するので、それが懐かしくて拾ってきたりもしたものであった。
それでコダックのワン店の広告なのであるが、今見ると不思議な感じがするのはコダックのカメラが世界を制覇していた時代というのが確かに存在したと言うことなのである。何しろドイツの1部というかドイツをアドルフが併合した。オーストリアと言うところから見ると、アグファフィルムが世界のトップであったのだから、そこまでイーストマン・コダックが攻撃する。その最前線のバトルラインがここであったと言うふうに見ることも可能だ。
怖い飲み屋と言うのは2種類あって普通考える。怖い。飲み屋と言うのは例えばマンハッタンの8番街と42丁目の角にある。飲み屋は行った時は知らないで通っていたのであるが、後から人に聞いて、ニューヨークで最も危険なバーの1つであると言うので強くなった。
ハンブルクの港の荷役をする場所のすぐそばにあったバーも偶然見つけたのだ。けれども、これもすごくて働いている人の喧嘩が常に絶えないので、カウンターでビールを飲んでいると、頭の上をビールの空き瓶が飛行したりするのである。
これは面白いからドキュメンタリーとしては使えると思って店のカウンターの光の親父さんに写真撮っていいかいと聞いたら別に俺は構わないけどあんたがたどうなっても知らないよと冷静に言うので撮影はやめにした。
これに対してもう1種類の怖い。酒場と言うのは、店の親父さんに独特な個性があってそれを怖いと言っているのである。その中ではおそらく今の東京で最も怖い酒場だった。サービス精神などと言うものは全く考えていないし、カメラ女子が来て珍しいので、携帯を取り出すとすぐレッドカードが出てくると言うようなところなのである。
私はそこの親父さんとは、割と1対1で話をして可愛がられた方であった。もちろん店内は撮影禁止であるが、私は共産主義の時代に撮影禁止のところを撮影するのに慣れているから、それがこのインテリアなのである。
何が懐かしいかと言うと、私の実家は昭和30年代に万年筆製造業をやっていて、日本橋高島屋にパイロット、万年筆などと並んでウインドウを出していたのである。その直スプリング万年筆と言いました。
それで職人さんを雇って、労働時間も何もあったものでは無いから、真夜中もモーターが動いてエボナイトの軸を削ったりしていたのである。私はそこの坊ちゃんであるから、職人さんがお世辞を言ったりして、その頃から私の性格が4時間挙げられていたのだと思う。
大林逆刃刀70年前のスプリング万年筆の向上と何が似ているのか、冷静に考えてみたら、その空間構造なのである。すなわち、木造建築のよれよれで天井が高い。それとガラスの引き窓がついている。これだけファクターが揃えば同じ空間の懐かしい思い出が蘇る。
アメリカ人はヨーロッパに対する文化的コンプレックスがあるから、ザルツブルグあたりで感激してしまうのかと私は不思議な気持ちがした。
^_^ロバートフランクにしてもそうだが、彼はスイスチューリヒ出身であるから、ニューヨークに長年住んでも風景論としてはニューヨークを批判しているのである。
ドイツ人はドイツ人でザルツブルグと言うのはドイツの南にあると思っている位なもので、結構所在地を誤解している人は多い。
私などもザルツブルグにはなるべく縁がないようにと思っていたのだが、ヨーロッパ滞在の最後の方になってザルツブルグカレッジでワークショップをやることになり、最初の計画が狂ってしまったのだが、それはそれでよかった。
ちょっと前に出した私の写真集でその中に掲載されたワンショットなのであるが、冬のザルツブルグが写っている。私はザルツブルグは毎年夏に行くものだと思っていて、自分の記憶の中では冬のザルツブルグというのが存在していないと長。これは私が忘れてしまっただけである。
このショットでは、ザルツブルグのお城を後から見たところであって、そこに1人の老人が雪の中を杖をついて歩いていると言う。私の作品の中ではなかなか好きなショットなのである。
^_^自分の撮影したザルツブルグの雪の中のショットが、未来の自分を予見していたと思うと、何やら人生が楽しくなってくる。
コンタックスコピーであるソ連製の1連のキエフカメラであるが、1970一年になって最後のキエフファイブと言うモデルでは、巻き上げがトップレバーに改良されているのである。そしてこれは構造が2中になっていて、従来のような巻き上げもできる仕掛けになっている。
コンタックスのレンジファインダーのコピーであるニコンカメラはいち早くニコンエフツーの時代からレバー巻き上げになったしね。
3十数年前の佃島でスイス製のアルパと言うヘンテコリンな一眼レフを愛好する怪しい集団があって、毎月1階秘密結社を開催していたのであるが、10年ぐらいやってもこういう馬鹿は充分であると言うので自主的に開催したのであった。
メンバーの1人がアルパの専門の研究書籍を出したり、テレビ取材が入ったりして何が何だかわからない。このてんやわんやの10年間は思い出すとなかなか楽しかった。会費1000円ずつ出し合って向かいのスーパーに買い物に行って大宴会をやるから、当初は、アルパ研究会あったのが知らない間に、アルコール研究会になってしまった。
まだネットオークションなどが登場するずっと以前の話でメンバーが持ち寄った不良品ではなかった不用品は非常に安い値段が付いていて、ジャンケン大会で勝った人がそれをゲットすると言う原子共産制みたいな資料流通がそこに存在したのであった。
当時はアルパカメラと言うのは、銀座のカメラ屋さんの厄介もので、そういう背景から壊れたアルパカメラが作った時間に吹き寄せられて自然発生したと言うことになる。
手先の器用な連中もいるから、だんだん修理に慣れてきて壊れたアルパカメラは自分たちで治せるような共同体になってしまったのが今にして思うと不思議である。アルパのモデル10というのがあって、このファインダーが不思議なほど真っ暗でよく見えないのである。それでメンバーがいろいろ知恵を絞ったがなぜ暗いのかがわからない。
それで理解できた事は、ファインダーのコンデンサーのレンズが上下逆さまに間違って取り付けられていたのである。逆さまに組み直したら明るい画面になった。
会員数が120人ぐらいになったりして、これは何とかしなければいけないと思っていたら、Retinaハウスの経営者の望月さんと言う人は冷酷な独裁主義者であるから、毎月一定の日に開かれるアルパ研究会の日にちを中心のメンバー以外には教えないで大粛清を行ったこともあった。ここら辺の独裁者のやり方は冷酷で私などはなかなかできないのだが、さすがクレムリンの上に立つような人は凄いなと感心したことであった。
初期は平和でありましたよ。
どうもありがとうございます
「あんなの犬でも撮れるわ!」と酷い言い様でしたよ。
Y縣さんね
某カメラ倶楽部では人気者ですよ
過去にばっかりこだわる愚か者はさっさと消えなさいなww
ゴールドカメラというものがある。1つのジンクスだと思うのだけど、カメラメーカーがゴールドカメラを出すと、その会社はやばいと言うような感覚が、我々カメラ人類の間にはある。
アルパカメラは最初のモデルが1947年に登場して、それから50年位は存在したのだから、カメラメーカーとしては長く頑張った方だと思う。それで一定数のゴールド仕上げの一眼レフを出しているのだ。
ゴールド仕上げで1番間違いをしたのは、日本のカメラメーカーでペンタックスとかコンタックスの一眼レフもそうであったのだけど、霧の箱に入って、カメラを触るときに白手袋が必要であろうと言うので、それが付属している。要するに、化粧品扱いの考え違いの方向なのだ。
それに対してゴールドのアルパは実際にかなり使われた痕跡があるから、カメラ人類はこのカメラをちゃんと理解していたことになる。問題なのはゴールド仕上げに対するカメラ本体のレザーの色のコントラストなのだ。ゴールドに対してレッドとかグリーンのレザーになると、いかにもけばけばしくて品格が失われてしまう。
それに対して、このモデルは、グレーのレザーを使っているところが非常に品があって気に入っているのである。
もう一つこの時代のアルパカメラうざっには、面倒なところがあって、ネックストラップアイレットと言うのは別のアクセサリー部品でそれをねじ込むようになっている。これが数が少ないので、最近はもうほとんど見かけないが20年前ですらネックストラップ、アイレットの金具が2つで20,000円以上すると言う馬鹿な値段であった。そういうものを手に入れる我々の方にも責任があるのだがね。
懐かしい
もう鬼籍に入られた方も多いもんな
良い意味でめちゃくちゃな時代であった
それで3年ぐらいやった後に、そのワークショップが双子多摩川のほうに異動すると言うので、遠くて面倒だから継続してやるのはお断りした。そしたらその直後にこのスナップショットで私の赤い旗を指差しているジェントルマンがいるが、彼が中心になって来会公開がなくなったの。だから、偽物のライカ愛好会を作っても良いのではないかと言う提案があって、彼が中心になって新しい組織がスタートしたのである。
それでプロフェッショナルなクオリティーで作った今の大愛好会のこういう赤旗があるので、ちゃんと背中に背を得るようになっているから、ボリシェヴィキではないが、偽物ライカ愛好会の赤旗に結集せよと言うようなインチキスローガンを走ったりしていきがっていたのである。
当初はメンバーが毎月幹事を務めて、それぞれワークショップの行き先を決めたりして、それが終わると大宴会があったりで、なかなか来夏のワークショップと言うよりか通常の飲み会のようになってしまった。そうこうするうちにコロナ騒ぎが来たので偽物ライカ愛好会は現在お休み中である。
^_^しかし、思わぬところで偽物ライカ愛好会の活動に関連して、私の交友範囲が広がったりしてありがたいことだ。やはりライカには人と人とを結びつける不思議な力が存在するのだ。
それ以来、半世紀ぐらいバスの中から撮影すると言うことを継続しているのであるが、それで忘れられないのは東京のバスに初めて冷房が入ったのが1969年頃であったことだ。それまでの東京都の飛ばすは、夏は窓を解放して、涼しい風というか熱風を入れて走っていたのである。
バスからの撮影で面白いのは良い。写真が撮れるかどうかは運転手さんの運転の技にかかっていると言うよりも、全てが偶然の産物であると言うことだ。赤かぶ検事の和久俊三先生と対談をしたときに、先生は国際的な弁護士であるから、事実と事実でないものと言うのを完璧に区別しているのである。それで私のスナップショットのように偶然の要素が入ってくると言うのを最初から排除しているのであるから、うまく説明ができなかった。
東京でバスをとっていて、気になるのは自転車^_^通学の女子高生がちょろちょろ私の視界に入ってくるわけである。気にしてないと言えば嘘になって、結局こういうような写真を撮ってしまうが、なかなかいい感じに撮れている。
それで考えたのは1950年代後半のロバートフランクのバスの写真の名作がたくさんあるが、そこには女子高生の自転車通学のショットは1枚も入っていないと言う。これは結構謎なのである。しばらく考えてその謎が解けた。アメリカは0のイエローのスクールバスが通学の最も重要な手段であるから、アメリカの女子高生が買い物、自転車でちょろちょろ通学すると言うような事は最初からありえないのだ。ロバートフランクもこれは残念なことであったと思うぞ。
フライブルクの大学は20世紀初めに著名な哲学者を輩出したような文化都市であって、また旧市街の街中をきれいな小川が流れているような素敵な町である。しかし中古カメラ屋さんと言うのは全くなくて、要するにこれは教訓なのであるが、有名な中古カメラをその出身地に探しに行くと言うのは無理な話である。
坂崎さんとこのカメラの何にしびれたかと言うことを思い出してみると、カメラの名前が普通な感じと言うところがその原因の1つで他には何もないというのが無責任極まりない。当時のアメリカでは結構売れたカメラとレンズであって、独自の50ミリef 1.5などと言うのは25年前には手がつかなかったけれども、最近のネットオークションではとんでもない値段が付いているのだから、カメラとかレンズのブランドと言うのはわからないものである。
家人の音楽大学の教え子で卒業して20年ぐらい経過して、それまで勤務していた組織を辞めて時間ができたのでヨーロッパに行きますと言うメールが来た。それでびっくりしたのは彼女の行き先がこともあろうにドイツのフライブルクなのである。この人は20年位前に初期の東京マラソンを完走したような人だから、別にフライブルクでマラソンがあるとは思わないけれども、何かそちらの方面で出かけたのかな。帰国してから別に行った理由は関係がないので質問はしなかった。
まさか、このカメラを探しに行ったのではないよね。
聖路加病院の主治医のたくちゃん先生は私のカメラ本の読者である。この前診察の時にやはりライカを買わなければいけませんよとライカウィルスを撒き散らしたら見事感染してこのカメラを手に入れたと言う。
そういえば30年位前に腰痛で順天堂大学に入院していた時に、院長先生がナースステーションに私のネームプレートを見て夜バラの花を持ってお見舞いに見えた。院長さんも私のカメラ本の読者なのである。
私が退院しても院長先生とはお付き合いがあってあっちこっち飲み歩いた。その時に院長先生が言うには僕は膠原病の専門家だから長徳さん安心してくださいと言うので、当分膠原病になる予定はありませんと申し上げた。
聖路加病院のたくちゃん先生のほうはライカウィルスが発病したばかりだからそれを治すには交換レンズを買ったりするのが1番の特効薬である。銀座松屋の中古カメラ市もオープンしたしね。
カメラ人類にはいろいろなタイプがあるがやはりライカを持っていますと言うことをステートメントとしてカメラ自慢の中に捉えるとその人の知的ステータスが高く感じられると言うところがある。
いや別に順天堂とか聖路加の先生が知的ステータスが高いのは当然ですけど。
カメラジャーナルと言う名前の100円、雑誌は90年代半ばから10年位毎月発行していた。最後の1年は普通の同人雑誌みたいな暑い出版物になったが、最初の9年は8ページのペラペラなパンフレットの安いやつみたいなもので、ヨドバシカメラに並べておくとお客さんがタダだと思って持ち帰ったりしたので、後でプライスタグをつけるようにしたのである。
安原カメラは京セラに勤務していた。安原さんがフリーランスとなって中国に注文して予約制で販売した。ユニークなカメラで、当時はまだデジタルカメラが全盛になる。以前であるから、各メディアでかなり注目を浴びたのであった。
私もモノマガジンと言うメディアの取材で安原創業者さんこれはご自身でそのようにな載っていたのであるが世田谷区の若林の私にとってはなじみのないところにバスを乗り継いで出かけた。
安原カメラの本社はワンルームマンションであるというのがユニークでよかった。安原創業者さんは椅子に座って私に対応したが私の椅子は無いので床に座って安原さんから話を聞いた。
日本の大企業の人と言えば京セラの稲盛さんでインタビューしたこともあるがそれよりユニークなのが安原創業者なのである。私の− 1戦から見ると彼の白いソックスの親指が彼の会話にシンクロして動くのがなかなかいい感じだった。
販売のシステムは確か先に五線円高を支払ってカメラができると残りを払うと言うような形だった。当時は信州中野のコシナレンダーがベッサと言う名前のレンジファインダーを販売直前であって社長の大手はかなりついたところがある。それで私が手に入れた安原カメラを見せてくれと言うのでこちらレンダーの社長に譲って光は分解したりして一応安心したようである。
スナップシューターの私としてはこれ以上望めない優秀なライカコピーであるが普通に使う人は内臓メーターのLEDが暗いとか言うので文句を言っていた。
プラハのアトリエに34年間住んだと言うと皆さんびっくりするけれども、それは34年間ずっといたわけではなくて、プラハに2週間位で東京に3ヶ月いてプラハに3週間いてと言うような事の繰り返しの時間をトータルで計算してみたら全部で34年になったと言う意味だ。1989年のビロード革命の直後からここに暮らしてビロード革命四半世紀の2014年だったと思うけど、もうここに暮らすのは充分だと言う認識が生まれたのである。
それでプラハの夕暮れを何回見たかと言うことだが、アトリエの天窓は上のほうに付いているから、このショットもそうであるが、窓を開けて左側を見ると、それが西の空なのである。
だから、別の見方をすると、漫然と部屋にいて、夕暮れの空を見ると言う事はなくて、自分の意思で能動的に、窓を開けて左側に首を向けると言う意識で、初めて夕暮れに遭遇できると言うのは自然観察をするにはかなりアクティブな行動であると思う。
アトリエの窓は世界に向かって開いている。
このフレーズを有名な文芸雑誌の編集者が褒めてくれたこともあったな。
その地図で私はニューヨークの地理学を勉強した。だからマンハッタンに到着した最初の日から私は自由自在にこの小さな島を歩きまわることができた。私が1番好きな写真集ウィリアムクラインのニューヨークの話である。最も重要なワンショットというのがこれなのだが登場人物が子供なのはわかるが両方とも非常に大人びている。
^_^右の子供のキャラクターもおかしいし左の女の子のアクションも正常ではない。それでどのようなシチュエーションでこの写真集の重要なショットを撮影したのかと言うことと、もう一つは使ったカメラは何であったのかと言うことだった。
という重要な質問と言うのは手のひらに書いておけばすぐ?できるのであるがなかなかそういう事はやりにくいのである。それでプラハでウィリアムクラインに会ったときに私が高校生の時に銀座の本屋で買った写真集はサインしてもらって満足したのであったが後に思い出したのはこのビック?だったのだ。すなわちカメラは何を使ったのですかと言うことだ。こういうどうでもいいことに我々カメラ人類は人生の重要なポイントであると勘違いしてしまうのである。
それで何十年も持ち続けていたこの質問は結局聞かずじまいになってしまった。おそらくニコンS3に2.8センチのニッコールレンズだと思うけどね。
でも失う以前に写真は地元のカメラクラブに入って結構いい成績で活躍していたようなのである。写真家のモノグラフを見ると、初期の仕事はこのような一般受けするというか、写真のポピュリズムと言えるような作品をとっている。これは両手が使えて、ハンドカメラで撮影したものであろう。
家族連れが公園を歩いていて、左の手前にいるのはインスタント写真を撮るフォトグラファーに見えたが、よく見ると手回しオルガンなのである。
プラハの伝統芸能のどこにでも見られるエンターテイメントである。もっとも、公園の中には最近はいなくて、もっぱらカレル橋の上でハンドル回して音楽を奏でている。
この写真家の場合、5体満足であったときには、確かに写真は素晴らしいが、ごく当たり前な作品である。それが片腕になってから三脚の上にカメラをセットして全く新しい境地で撮影をするようになった。初期の作品から、晩年の作品までを並べてみると、その違いが明白にわかるのが非常に興味深い。
この面倒な作業はユーザを安心させるためには最も有効な方法だと思うが、これもドイツあたりのやり方を真面目に真似したもののようである。ドイツにミュンヘンにあったハインツキルフィットと言う会社は、プロ用のレンズで有名なメーカーであるが、そこの製品は出荷するときにそれぞれのレンズで撮影されたテストフィルムを貼付していたのである。
ロードカメラの場合を見ると撮影に使われたフィルムはコピー用のミニコピーである。だからシャープネスが保たれると思ったのかもしれないが、そこら辺の背景はどうもよくわからない。1種のトランキライザーの効果はあったに違いないが、レンズの良し悪しとか写り方と言うのは、最初の1本のテストフィルムを撮影してそれを使った写真家が自分の意思で決めると言うのが正しいやり方だ。
葛飾区小菅の界隈を撮影して歩いて気に入った魚屋さんなどがあって、面白い街だと思っていたら、非常に歴史的な米屋さんと言うのに出くわして全く手入れをしないまま何百年と言う事は無いけれども、何十年も経過していたのがそれも建物のプライドで非常に良いと思った。
歩き疲れたので、ふと周りを見るとこのクラシックな米屋さんの向かいの自分が立っている。ところがコミュニティバスのバス停なのである。20分に1本ぐらいバスが来るらしいので待っていたらハイエースみたいなすごいプライベートっぽい。まるでコミュニティーバスとは関係ないような車がやってきた。
それでおばさんのドライバーさんが運転をしているのだが、私が乗ったら、運転席から手を伸ばして私にキャンディーをくれたのである。コミュニティーバスはずいぶん乗ったけど、キャンディーをくれると言うのは空前絶後の大剣であった。
最近ではエスライトでタクシーに乗ることも多いが、その運転手さんがキャンディーをくれるのである。その2週間後にタクシーに乗ったらやはりキャンディーをくれたので同じドライバーさんであることがわかった。
それから突撃さんとは結構深い。お付き合いがあって、六本木ヒルズに仕事をしていた頃はアポイントなしでいきなり来たり、その後は彼は佃島近辺に住んでいて、今ではコンビニになってしまった熱いお湯が用意してあるお風呂屋の朝日と言う所の常連さんでもあった。
カメラが非常に好きでガラクタ屋さんなどでカメラを発掘してくる。写真に対する制作する欲望は100%なのであるがカメラの手前のところで興奮してしまってその先の方まで行かないというのが、彼の魅力でもある。
なかなかの行動で自民党がまだ野党だった時にJRのどっかの駅で暗殺された阿部ぴょんがいたのを呼び止めてツーショットを取ったりしている。こういう行動力と言うのは普通の日本人男性にはなかなかできるものではない
それでこのショットご説明するとソ連製のキエフ5と言う私の好きなコンタックスコピーがあってそれは50ミリのジュピターレンズが付いているのだがレンズのバヨネットが外爪なのである。だから他のコンタックスマウントカメラにつかないのを突撃さんにお願いして無理矢理改造してもらっているところである。私が馬鹿話をしているわけでどんどん仕事が進んでいくと言うものすごいライブ感覚であった
その突撃さんも数年来小田原のほうにお住まいなので、最近はお目にかかる事はないがお元気であろう?
スナップショットの場合、そのショットが厳密にどこで撮影されたのかと言うのはそんなに重要なことではないから、駅のプラットホームの立石かお花茶屋かどちらかであると言っておこう。あぁ今思い出した。考えていくうちにこれはお花茶屋のプラットフォームであることがわかりました。ごめんなさい。
それで京成線の駅の話なのだが、ここら辺の駅はいわゆる見捨てられた駅というか急行も特急も止まらないから、都心に行くためには各駅に乗るのは良いとして、その待ち時間が忙しい都会人には結構長い待ち時間なのである。
その誰もいないプラットホームに女の子が2人所在なさげに後ろ向きで立っていると言うのは、私のスナップショットの定番ではある。ライカのフルサイズだったら21ミリで横画面でバッチリというのがこれなのだけれども、この場合はエプソンカメラでAPS-Cサイズで12ミリの腰レンダーがついている。
だから35ミリフルサイズに換算すると18ミリか19ミリで21ミリよりはちょっと短いがなかなか使い勝手のよりカメラアングルとなる。最近の数年間で撮影した東京のスナップショットとしてはトップファイブ位に入るのではないかと自画自賛しているのだ。