【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】最終更新 2024/11/10 10:541.名無CCDさん@画素いっぱい9ooWCRMi0尊師降臨過去スレ【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ日本大学芸術学部写真学科卒業日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなるオーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集めるなお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催されるその写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたないその端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16340871892021/10/13 10:06:29190コメント欄へ移動すべて|最新の50件141.名無CCDさん@画素いっぱいU4oBD1870年代の終わりの頃にウィーンではじめてのメトロができた。しかし出来立てでラインは1本しかないから、パリのメトロのようにLINEが縦横無尽に走っていると言う本物の感覚はなかった。それで本物のメトロの街であるパリに2週間ほど撮影に行ったのである。このときの生活が不思議なものであって、早朝にメトロの近くの喫茶店でカフェオレいっぱい飲んで、昼過ぎまでメトロからは出てこない。メトロから出たら近くのカフェで簡単なランチを食べて、またメトロに夕方まで乗っている。この体験が私にパリのメトロを近づけてくれた。。あの頃のパリのメトロの乗客はなかなかスマートであった。と言うのは極東のメトロに座っているお客をとると肖像権とか何とかですぐ喧嘩になりそうなので、パリではそういうことがない。プライベートスペースとパブリックスペースの個人の意味合いがよくわかっていると言うことに感心した。つまり、パリは大人のメトロの街なのだ。犬を連れてアコーディオンを弾く名物のおじいさんがいて、その人を追いかけていたのだが、今日はあのLINEのあのあたりに行くといるのではないかなどと予想を立てて出かけるのだが、それが当たったときには嬉しかった。何十年か経過してアサヒカメラの連載をしているときにこのパリのメトロのシリーズを紹介する必要が出てきた。アサヒカメラにはバックナンバーがないので、担当編集者さんが大宅壮一文庫まで出かけていってコピーしてくださったのである。感謝感謝。でこのシリーズが10ページほどアサヒカメラに登場した。1979年の終わりの話をやり直すが、編集者さんにタイトルをメトロのパリとお願いしたら、印刷した雑誌ではパリのメトロになっていた。それはわかりやすいけど、そういう意味ではないんだよなな。カメラはライカCLとライカエムデーを持っていった。レンズはソ連製の20ミリとソ連製の50ミリだったかな?要するに使っている機材は全然変わっていない。2024/05/25 09:41:55142.名無CCDさん@画素いっぱいeAGO3いつの時代でも森山大道はスーパースター。歩いている事を眺めるだけで、それは事件になるのである。私は森山さんと路上で遭遇する率が割と高い。何しろ私が29歳森山さんが36歳の時に、ヨーロッパを巡回する写真の展覧会の時に初めてお目にかかって以来のお友達なのであるから50年以上。リコーカメラが新しいフイルムカメラをスタートさせたときに、森山さんにお渡ししたり、友人に頼んでニューヨークのロバートフランクさんにお渡ししたりしたこともある。つまりカメラの広報関係の仕事ですね。ヨーロッパから日本に戻ってきた。1980一年頃だが、東京は上野のアメ横を歩いていたら、前を森山さんが撮影している。いきなり声をかけては失礼にあたると思って、しばらく後をつけていた。森山さんはブラックのペンタックスに35ミリの広角レンズで撮影をしている。それが1段落して、森山さんがハイライトに火をつけようとした時、私が声をかけたら、森山さんはびっくりして、ハイライトを逆さまに加えた状態で、シガレットに火をつけたのでフィルターがくすぶって音がした。それ以来、私はロバートフランクさんでもリーフリードラン出さんでも天才荒木でも通行中の有名写真館に声をかける時は、まず相手が私を認識した状態の時にお声をかけるようにしている。この遭遇した現場はあけぼの橋なのである。すぐそばがガラクタ屋さんなのである。この時森山さんに声をかけたついでに彼をガラクタ屋さんに連れて行けばよかったと今に思うと残念だ。曙橋が不思議なところで、中平卓馬さんがなくなるちょっと前の夕暮れに、やはりこの界隈で中平さんを見たことがある。普段はアシスタントの人がいるのに、真っ赤なウィンドブレーカーで1人で歩いていたのが奇妙であった。2024/05/27 05:47:32143.名無CCDさん@画素いっぱいVugXXカメラの貫禄と言うのはここまで行きたいこの16ミリ撮影機は世界で最も成功した映画カメラの部類に属する。もともとプロフェッショナルな目的で作られたから個人がこれを持つと言う事は考えられなかった。映画プロダクションとか放送局が使っていたのである。それでミュンヘンのこの映画カメラの本社に、1973年にカタログを送ってもらうように頼んで、それが私の宝物となった。その後、実際にこれらのカメラを手にしたときには、天国が近づいたと思ったのである。それでこの撮影機はタフに使うものであるから、通常の来客等のような仕上げではなくて、はるかにレベルの上のカメラ本体の構造とペイントがなされている。私が中学生の修学旅行の時にそれを取材に来たNHKのカメラマンの人がこのカメラを持っていたので、触らせてもらって感動した。大人になるなら、いつかはこういうカメラを持ちたいと思ったのである。それから何十年かして、ドイツのライカの工場とその工場のある小さな村を撮影に行ったとき、私はこの16ミリ撮影機を携えていた。人生の夢がここに達成したと嬉しかったのである。このカメラの個体はあまりにも使われたので、このような感じになっている。よくライカのブラックペイントを長年使うと、貫禄が出てかっこいいなどと言うのであるが、これはそういうアマチュアレベルを超えた激しさが感じられる。しかし、プロフェッショナルの間でも、あまりにはげはげの映画撮影機は格好が悪いと言うことなのであろうか?アメリカのプロ機材のファクトリーでは、こういう状況になったカメラを新品同様のブラックペイントに理ペイントしてくれると言うサービスも以前はあった。私はボロボロの使いこんだほうがよほど存在感があって好きなんですけどね。2024/05/30 07:24:21144.名無CCDさん@画素いっぱいaVNfN空からイッポンの光の筋が射してくると言うのは、旅行中にはよく見る光景である。何か現実離れした不思議な瞬間である。ところがこの1枚の作品はザルツブルグ近代美術館に所蔵されているものなのであるが、自分の意識で撮影したものではない。1973年の夏、winに暮らした。最初の夏であるが、ライカM3に90ミリのレンズをつけて全く無意識に雲を撮影した1枚なのである。もとより一眼レフであるから、画面をチェックすることはできない。それで現像して驚いたのは、1本の光のパワーが空から降ってくるところが映っていたのだ。当然のことながら、ミラクルでも何でもなくて、90ミリレンズのハレーションとゴーストイメージによるものなのである。でもここで大切なのは、これがもし一眼レフで撮影されて、ゴーストイメージを私がちゃんと把握しているような状況だったら、それはうまくとられたと言うことにはなるかもしれないが、表現の域まで来ていると言う言い方はできないであろう。このまぐれ当たりでできた作品は、1973年の秋にウィーンで開催された。私の写真集でも展示されてカタログにも掲載されている。つまりイスラエルの神の国の偽物の光と言うわけだ。2024/06/02 08:14:51145.名無CCDさん@画素いっぱいYSBWG昭和20年代に大阪方面にあった水道メーターの制作外車がミノルタの下請けとして作ったのがこのルックカメラであると言う。もともとは同じメーカーが作っていた。エレガと言うカメラの高級バージョンで連動距離計が付いているのだ。ところが、残念ながら、その当時の日本のカメラの制作技術では、この連動距離計というのがなかなか制作が難しくて、結局生産中止になって、ごくごく少数作られたものが市場に流れたらしい。たかだか45ミリの標準レンズが固定されて付いていて、その距離計の連動に問題があったと言うのは、今ではちょっと考えられない背景であるが、その当時はそこら辺がリアリティーがあったのであろう。でも、今の時代はクラシックフィルムカメラにイッポン数千円のフィルムを入れて撮影したとか自慢するというのはすでに時代遅れの背景になってきたので、こういう本物のクラシックカメラは別にフィルムを装填しなくてそのアピアランスを楽しむと言う。いよいよクラシックカメラの楽しみ方の最終段階に近づいてきたと言うことを、私はここで強調しなければならないのだ。それで私が最大限に評価しているのは、このカメラのトップカバーのロゴタイプなのである。かなり優れたデザイナーがいなければ、これだけのロゴタイプが作れたものではないと思う。アメリカの有名雑誌とか日本のパッケージツアーの商品名にもなっているけれども、それをすでに超えている素晴らしい存在感である。こういうカメラは手にしてそばに置いておきたいが、何しろ3000ドル位するのです。^_^私の手元にはリュックから距離計連動を外した。エレガがあるから、別にそれを楽しめば良いだけの話。2024/06/09 06:31:54146.名無CCDさん@画素いっぱい5wkjOそれに詳しい人に言わせれば堀切菖蒲園と立石は全く別の街である。そこら辺のことをマスターに聞いてみたら、このハンバーガ屋さんはもともと立石にあって、それが十数年前に堀切菖蒲園に引っ越してきたのだそうである。立石バーガーのマスターは哲学者がそのままハンバーガー屋さんになったと言う感じでそこが偉いと思う。しかもなかなか器用な人で自分で梯子をかけてお店の看板を交換したりもするし、自分のイラストの広告なんかも非常にうまい。つまり万能選手なのである。自分のところで焼いたパンを売っているのは、当然ながらここの350円の食パンと言うのはおいしかった。店の右手に料金投入口があって、そこに350円入れると食パンが転がり出てくるのである。それで当時はジャンピング食パンと言うので、かなり話題になって食パンを食べると言うよりも食パンが飛び出してくるところを見たいので買い物に行ったのである。それで1時はマイナーなメディアもメジャーなメディアも引っ張りだこになって、いつも取材が耐えなかった。私が遊びに行っているときに、どこかのメジャーな放送局が取材に来て、光で指定した歌を一緒に歌わされたりもしたので、まずこれも何かのご縁と言うべきだろう。ここのアメリカンクラブハウスサンドイッチはなかなかよろしい。2024/06/10 11:06:13147.名無CCDさん@画素いっぱいeY43uアル研や東カメでのオフ会が懐かしいですまた集まって呑みたいですなぁ2024/06/11 11:34:10148.名無CCDさん@画素いっぱいsjvXyウィーンは19世紀の初め頃にはヨーロッパで屈指の大都会であった。ただし、その人口は大したものではなくて1,750,000人ぐらいだった。そのように大都会が近代工業の規範のもとに作られていくとなると中心部があり、その周辺に都市の機能を構築させる。色々な部品が取り付けられるわけだ。それでウィーンの南の当時の郊外にいくつかのガスタンクが建設された。今のものとは違ってレンガ造りで、なかなか建築学的に重要な存在感である。winに暮らした最後の時期にそこら辺のガスタンクの面白さに気がついて撮影に行ったのである。このときの同行者は古谷正一とクリスティンであったな。彼らはライカで、私はコンタックスの1947年生の一眼レフコンタックスエスに20ミリの東ドイツ生のレンズをつけていた。その時は古谷とクリスティンの中は良かったみたいだが、その3年後、私がニューヨークに滞在しているときに時間を見つけて、winに久しぶりに行って、古谷とクリスティンと家人と4人で飲んだのであるが、その時は古谷と奥さんはなかなか険悪な感じで罵り合っていたので、心配したのである。悲劇が起きたのはその翌年だったのではなかったか?このガスタンクの跡地はそのままうまい具合に改造されて、今ではショッピングセンターのような感じにそのまま継続して使われていることを知ったのは、それも20年位前の話だったので、今はどうなっているかは知らない。それでもwinのような大都会を構築する近代世界の基本構造がガスタンクであったと言うことを思い起こすのは非常に重要なことである。この作品でもちょっと見ることができるが、まっすぐな通路の左側のエントランスの上に金属製に作られた植物がオーナメントとして語られているのである。ガスタンクも好きだけれども、この金属で作られた植物の由来は知らないが、このあたりに行っていつも見ていたメランコリーオブジェなのであった。2024/06/12 06:06:36149.名無CCDさん@画素いっぱいAH7ru今のSNSのようにブロック機能や非公開機能なかった昔のBBSなんか恐ろしいもんだったと思う2024/06/13 08:34:41150.名無CCDさん@画素いっぱいdokbcクラシックカメラはともかくとしてそのクラシックカメラを入れていたカメラボックスを収集するようになったのは10年位前である。夫の元はガラクタ屋さんであって、戦前の赤いライカの箱がひどく安い値段で置かれていたので、それを手に入れたのが最初だった。^_^それからしばらくしてまたガラクタ屋さんで、戦前のライカの箱が置かれていて、それを開けてみたら、いげた上にフイルムが保管できる仕切りが漬けられていて、そこに20本ぐらいのフイルムが入れられるようになっていた。それで蓋の内側の上の方には、1万から20番までのメモが付けられていて、そこには撮影者の覚書、例えば昭和12年、夏鵠沼海岸海水浴などと記入されている。それでにだいめさんにこのフィルムはないんですかと聞いたら、2代目さんはあれいるんですか捨てちゃいましたと言う答えだった。これはよくある業者さんの勘違いと言うものであって、winなどでも150年前の写真アルバムがあって、ワクワクしながらアルバムを広げてみると、貴重な写真は全部捨てられてしまって、アルバム本体だけがそこに残されているのである。業者さんの認識と言うのはそういうものなのだね。話がカメラのオリジナルボックスに戻るが、この時代のカメラの本箱と言うのは、いずれも基本的にはライカの会社の箱とカールツアイスの会社の箱を真似して、それを2で割ったようなデザインが多い。ニコンとかキャノンの白などもどちらのメーカーを真似しているかは、ここでは明かさないが、やはりライカ方面とかコンタックス方面に引っ張られているのである。それでこのカメラメーカーのオリジナルボックスの実態を知っている人は非常に少ないと思う。けれども、デザインから見るとかなり上質な処理がなされていると思う。厳密に見てみると、デザインが入りすぎであって、ここが大切な問題なのであるが、デザインを完璧にやりすぎてしまうと、カメラよりもカメラのオリジナルボックスの方が存在としては上になってしまうと言うめんどくさいな展開もあるのだ。2024/06/16 09:11:42151.名無CCDさん@画素いっぱいzybud大阪芸術大学で10年以上写真芸術論を教えていた時に、私がホワイトボードによく書いていたのは1本の長い矢印を真ん中に書いて、途中で写真家が昇天したとしても、その写真家のムーブメントは未来に向かって続いていくのだと言う講義を毎年やっていた。その時、私がホワイトボードに書いたのは、中平、卓馬であり、田原桂一であった。これは写真家とか人間関係の存在だけではなく、ペットに関しても同じことが言える。ペットと一緒に過ごした時間よりも、ペットが過ぎ去った後の時間の方がそのペットの存在感を強く感じられると言うのは、私だけではなく、周囲の人がみんなうなずくところである。それでヨーロッパに暮らしていた時なども、冬などで外が寒くなって、室内が湯気で、ガラス窓が曇ってくると、私たちはいつもそこに大泉学園町で本当に短い期間経っていた。白黒の猫ちゃんの姿をさっと描いて満足していたりしたのである。生きているベッドよりも、その時間軸上に生きているペットの方が、むしろ愛らしいし存在感があるね。6時半にはビロード革命の前から見ると、革命15周年ではなかった。25周年の時まで足掛け34年間アトリエに暮らしたのである。ところがそうなると飽きてくるもので、時々プラハの別の部屋に住み変えたりしている。ある雪の朝、東京に飛び立つその日なのであるが、プラハに初雪が降った。それでペット連中のことを思い出して、窓のすぐ外側に書いたのがこのイラストレーションである^_^2024/06/19 08:50:26152.名無CCDさん@画素いっぱいSqmSxアメリカの映画俳優の事は全く知らないけど、高校の時この人が主演の大脱走と言う映画を見た。栄光のルマン等は見ていないが、何故かこの人が使っていたと言う真四角なクロノグラフは持っている。それでこのショットは、栄光のルマンか、何かのレーシングのときのドライバーからのポイントオブビューを記録したバックステージビューであると思われるが、これがフランス製のボリューカメラなのであるレーシングドライバーは重いヘルメットの脇にさらに16ミリカメラをくっつけて、これで撮影したのだから、今のハイビジョンの時代とは完全に異なるのが大変なご苦労であると思う。フランスのこのカメラメーカーは、当時としてはドキュメンタリー用の16ミリフィルムカメラでは世界で最も軽いと言う性能を誇っていた。だから当時のこのカメラメーカーのカタログを見るとゲリラ闘争を取材するニュースカメラマンと言う。これは今ではちょっと考えられないようなシチュエーションがカタログになっていて、反体制勢力がマシンガンを持って攻撃しているところを女性のニュースカメラマンが撮影していると言う。極めて忘れられないショットがカタログに掲載されているのである。この時代のドキュメンタリーは皆そうなのであるが、例えばエベレストのアタックを目指す時も下の方を探検しているときには35ミリカメラのムービーで撮っているから、画像は安定して見られるけれども、最後のアタックのところになるととにかく酸素不足だし、ゼーゼー言って運動がままならないから、その場合には50フィートの短いフィルムを入れた。16ミリの超小型カメラを使用する。^_^だから最後のアタック、誰が頂上を極めたときは、そのムービーの画像は短いしぶれている子色も悪いし#ではないのである。そういう記録映画を見て、我々その当時の少年は空気が薄いと感じたものであった。ここら辺が映画のドキュメンタリーのリアリティーとでも言えよう。2024/06/22 05:47:30153.名無CCDさん@画素いっぱいuPhEY以前にも紹介したことがあるけれども、これは1980年の春ごろに中国交易会で有名な広州に、家人と初めて行った時の写真である。その時は毛沢東と周恩来がトップスターであって、どこの写真館にも、巨大なこの2人の肖像写真が掲げられていた。それでこれはちょっとメイン通りから奥に入った小さな写真館で撮影してもらって、当時はカラー写真は高価であったから、それよりも値段の安いモノクロームで撮影したものに人工着色をすると言う、今で考えたらこちらの方がはるかに手間がかかる時代だと思うのであるが、その人工着色の写真で、私は感動して、人工着色用の絵の具とか筆を買って帰ったら、もちろんそんなの使うわけなかった。今回この貴重な中国の人工着色写真で私が気がついた事は写真のバックグラウンドである。写真屋さんがいきなり来た日本人のために慌てたのであろうかバックグラウンドが半分しか下がっていない。その半分の背景を見るに、これはここがポイントなのであるが、実に半世紀の前の中国のパール、リバーの理想とした現代的風景がイラストで描かれているわけだ。それから30年ほど経過して別のようでパールリバーを見に行ったのであるが、そこの高層ビルの林立と言うのは50年前の当時の中国の人が理想として描いていた現代都市の風景など木っ端微塵になるほど先のほうに進化していたと言うわけだ。だから現代の中国のスカイラインを褒めていると言うわけではありません。2024/06/24 05:33:17154.名無CCDさん@画素いっぱい59zlvhttps://x.com/gekibnews/status/1805163005270966588?s=46&t=rSIg-ZHzNQinEgYNwWCYJgあれ?誰かに似てる2024/06/25 05:48:47155.名無CCDさん@画素いっぱいcp1X2笑っていいともに、いちどだけ出演した話テレビ番組は文化関係の番組に出演して、文化人のギャラを何度かもらったことがある。大体3万円から50,000円ですね。文化人だから。それがいきなり笑っていいと思うから出演依頼があった時は非常にびっくりした。それで新宿のスタジオアルタに行ったのである。2千11年の7月7日だったか?生放送と言うのは結構怖いものであるが、それなりに楽しかった。それ以前に私は笑っていいともを見たいと言うので、往復はがきで30枚以上応募したのだが、全部ハズレであった。出演するのには往復はがきを出さないでいいから、そちらの方が楽である。それで驚いた事は桁が1つ違ったのではないかと思うようなギャラをいただいたのもびっくりしたのである。いろいろなことが面白かったけど、スタジオでドアが自動的に開いて、ゲストとしての私が登場するというのは、あのドアは自動的に電動式で開くのではなくて、フロアディレクターさんが両側から引っ張ってあげているんだね。そういうことがわかっていろいろ面白かった。ピアニストのYamashita Yohsukeさんにウィーンで会って意気投合していろいろ楽しかったのであるが、それから10年以上経って友人から教えてもらったのだけど、ピアニスト富田と言う本の中に私が紹介されていて、その次にタモリさんが出ていると言う事はデビューはほぼ同じなのである。テレビというのは恐ろしいもので悪いことはできない。笑っていいともに出演した後に札幌に行って、定食屋さんでご飯を食べていたらおでんを運んできた。お姉さんがあなた笑っていいともに出ていた人だねと言われました。全国成敗みたいなもんだな。2024/06/26 06:37:53156.名無CCDさん@画素いっぱいiB0mWインターネット上でよく流通している画像がこれである。記憶が定かでないが、1945年ワルシャワではなかったかと思う。この頃のストリートフォトグラファーの典型的なもので、これは当時のインスタントフォトグラフィーである品タイプと呼ばれているやつだ。フイルム現像が簡単にできるポラロイド写真の前身みたいなものである。そこで興味があるのは廃墟になった。都会を避けて、その手前にスタジオのバックドロップを置いて、そこには平穏な田園風景が映っている。こういう営業写真館の伝統的な方法と言うのは、ポートレートを撮ってもらう。ゲストにとっては非常に安心のできることであったのだろう。それに対して、当時のファッションフォトグラファー、例えばアーヴィング編とかリチャードアヴェドンが使ったテクニックと言うのは、背景には何の図柄も描かれていなくて、それはニュートラルな白いバックグラウンドなのである。無地のバックグラウンドの方が、その前に立っているポートレートをうつされている人の存在感が浮上するのは言うまでもない。半世紀ほど前に家人と中国広州に行った時に、写真屋さんで記念写真を撮ってもらったときには、それが人工着色なので感激したものであったが、他のセクションでも触れたけど、そのバックグラウンドを見ると50年前に彼らが想像していたパールリバーとその周辺の理想的な近代都市の風景なのである。ところが中国の風景は皮肉なもので、50年前、彼らが理想としていた風景よりも、現在のバールリバーの風景のほうがはるかに先走ったものになってしまった。ワルシャワの風景の変貌も、まさにその通りだと思う。2024/06/30 06:01:04157.名無CCDさん@画素いっぱいlZQ99ちょうど20年前にエプソンが世界で最初のデジタルレンジファインダーを出した。ライカのエム8よりかは数ヶ月早かったと記憶しているが、ライカはこれで世界最高のカメラブランドに傷をつけられたと言うので結構参っていた。その事はその当時のライカの社長さんに直接会って、それとなく真実を聞いているのである。要するに、ライカと言う世界チャンピオンのボクシングの王者がいきなり表すれた複写機専門の4回戦ボーイにテクニカルノックアウトをやられたようなものなのである。しかし、4回戦ボーイのエプソンはその後続かなくて、結局デジタルレンジファインダーはこの1系統だけになってしまった。フルサイズのエプソンも出ると言う噂がエイプリルフールの時横行していたのも懐かしい。それでその当時は、APS-Cはフォーマットとしては不十分でフルサイズでなければダメなどと言う風評が行き交っていた。でも私はエプソンの広告の仕事でポスターも出したし、写真集も出したから、仕事カメラはAPS-Cで充分だと考えている人間の1人である。エプソンの写真集で懐かしく思うのはその表紙はプラハのアトリエなのである。何が面白いかと言うと、この表紙のショットはプラハのアトリエがモダンなインテリアに改装される。以前の戦前に作られた鉄のウインドウがまだはまっているクラシックタイプの頃のアトリエであったからだ。だからこのクラシックなインテリアを見ると、エプソンが登場した当時には、まさしく20年前であることがわかるのである。2024/07/03 08:59:18158.名無CCDさん@画素いっぱいHSLoj筋肉痛あり。原因は早朝にワインの栓抜きで激しい運動をしたせいだ。数年に一回の手こずるほどの開栓だった。30年以上プラハでいつも飲んでいたのはフランコ不可と言う名前のモラヴィアの赤ワイン。これが非常に多かった。今いつも飲んでいる。チリの赤ワインにちょっと似たシンプルな味わい。それでプラハの暮らしで面白かったのは西川から輸入された。ワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつはインド金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう坂様の価値観ができてしまったわけだ。30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良い。ワインとフランスのそれほど良くない。ワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあって出来した。44生やったワインの4位の勢いでワインを何系ですか輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の下古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な白物物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったもの。末の会社の社長の今井さんにその仕事を店に行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺は飯嫌いだから。2024/07/07 06:47:47159.名無CCDさん@画素いっぱいt9aQI20年近く前の話だが、なかなかいいギャラリーが佃島の近くの亀島橋のほとりにあった。タイトルがなかなか良くて、ギャラリーノット=ギャラリーと言うのである。オーナーは佐藤さんと言う気鋭のディレクターであった。アートにも非常に詳しい人で佐藤さんと話をするのが楽しみで、近くのショップでちょっといいアイリッシュを1本持ってそれを持ち込んでバカ話に花が咲いた。そこに集まっているアーティストもなかなか見所のある連中で東池袋の有名な名もなきコロッケ屋さんのコロッケをまとめて差し入れしたことがあった。その中のモダンアーティストで、お酒はいってきも飲まないと言う青年が何もなきコロッケ屋さんのコロッケをひと口食べて、非常に高く評価したのである。さすがギャラリーでないギャラリーは、構成が違うのだなと思った。ギャラリーに行くには、急な階段の段違いになっているところを3階まで上がるので、エレベーターはなかった。今の私だとまず天国に達する位の難しい。階段だから行くことはできないと思う。私の仕事を非常に評価してくれて、写真展をやることを何度か勧められたのだが、佐藤さんは歩1日一緒めいた手紙を私に送ってそのまま実施してしまったのである。音声変換ができないのでもう一回言うと自ら天国に旅立ったのである。私の残念さからすると、まずワルターベンヤミンがスペインの国境で昇天したのと比べられると思う。2024/07/10 07:54:59160.名無CCDさん@画素いっぱいyFglkWinのアパートメントはドナウ運河に隣り合っていて、アパートメントの東側はこのような大きな広場になっていた。ここは路面電車の^_^系統がたくさん交差するような交通の忙しいところであった。その広場を超えると、協会があって、協会の先のエントランスは巨大な庭園に通じているのである。カイザーフランツヨーゼフがよく好んで三宝した巨大なお庭で、ウィーン少年合唱団の本拠地もここにある。有名な陶磁器のメーカーもここにあって、仕事で少年合唱団とか、ポルシェ嵐の後を撮影に行ったこともある。カイザーフランツヨーゼフがこの公園を散歩しているときに、通行人が皇帝陛下に恭しくお辞儀をするので、皇帝は講演の中で私を見てもお辞儀をするには及ばないと言う命令を出したと言うのも笑えるね。それでこの広場のランドマークなのであるが、ご覧のように巨大な樹木が茂っていて、どういう種類の器であるのかはわからない。ただ春の季節になると、綿毛のようなものをたくさん放出するので、それが懐かしくて拾ってきたりもしたものであった。それでコダックのワン店の広告なのであるが、今見ると不思議な感じがするのはコダックのカメラが世界を制覇していた時代というのが確かに存在したと言うことなのである。何しろドイツの1部というかドイツをアドルフが併合した。オーストリアと言うところから見ると、アグファフィルムが世界のトップであったのだから、そこまでイーストマン・コダックが攻撃する。その最前線のバトルラインがここであったと言うふうに見ることも可能だ。2024/07/12 00:10:44161.名無CCDさん@画素いっぱいFpvUP涙橋のそばにある大林酒場がなくなったらしい。東京の数ある中で最も個性的な飲み屋さんだった。怖い飲み屋と言うのは2種類あって普通考える。怖い。飲み屋と言うのは例えばマンハッタンの8番街と42丁目の角にある。飲み屋は行った時は知らないで通っていたのであるが、後から人に聞いて、ニューヨークで最も危険なバーの1つであると言うので強くなった。ハンブルクの港の荷役をする場所のすぐそばにあったバーも偶然見つけたのだ。けれども、これもすごくて働いている人の喧嘩が常に絶えないので、カウンターでビールを飲んでいると、頭の上をビールの空き瓶が飛行したりするのである。これは面白いからドキュメンタリーとしては使えると思って店のカウンターの光の親父さんに写真撮っていいかいと聞いたら別に俺は構わないけどあんたがたどうなっても知らないよと冷静に言うので撮影はやめにした。これに対してもう1種類の怖い。酒場と言うのは、店の親父さんに独特な個性があってそれを怖いと言っているのである。その中ではおそらく今の東京で最も怖い酒場だった。サービス精神などと言うものは全く考えていないし、カメラ女子が来て珍しいので、携帯を取り出すとすぐレッドカードが出てくると言うようなところなのである。私はそこの親父さんとは、割と1対1で話をして可愛がられた方であった。もちろん店内は撮影禁止であるが、私は共産主義の時代に撮影禁止のところを撮影するのに慣れているから、それがこのインテリアなのである。何が懐かしいかと言うと、私の実家は昭和30年代に万年筆製造業をやっていて、日本橋高島屋にパイロット、万年筆などと並んでウインドウを出していたのである。その直スプリング万年筆と言いました。それで職人さんを雇って、労働時間も何もあったものでは無いから、真夜中もモーターが動いてエボナイトの軸を削ったりしていたのである。私はそこの坊ちゃんであるから、職人さんがお世辞を言ったりして、その頃から私の性格が4時間挙げられていたのだと思う。大林逆刃刀70年前のスプリング万年筆の向上と何が似ているのか、冷静に考えてみたら、その空間構造なのである。すなわち、木造建築のよれよれで天井が高い。それとガラスの引き窓がついている。これだけファクターが揃えば同じ空間の懐かしい思い出が蘇る。2024/07/14 06:21:21162.名無CCDさん@画素いっぱい3tUZe1973年のモスクワの五つ星ホテルメトロポールに宿泊した時、ダイニングルームで出会ったアメリカ人夫妻がザルツブルグに行ってきたが、素晴らしいところだと感激していた。アメリカ人はヨーロッパに対する文化的コンプレックスがあるから、ザルツブルグあたりで感激してしまうのかと私は不思議な気持ちがした。^_^ロバートフランクにしてもそうだが、彼はスイスチューリヒ出身であるから、ニューヨークに長年住んでも風景論としてはニューヨークを批判しているのである。ドイツ人はドイツ人でザルツブルグと言うのはドイツの南にあると思っている位なもので、結構所在地を誤解している人は多い。私などもザルツブルグにはなるべく縁がないようにと思っていたのだが、ヨーロッパ滞在の最後の方になってザルツブルグカレッジでワークショップをやることになり、最初の計画が狂ってしまったのだが、それはそれでよかった。ちょっと前に出した私の写真集でその中に掲載されたワンショットなのであるが、冬のザルツブルグが写っている。私はザルツブルグは毎年夏に行くものだと思っていて、自分の記憶の中では冬のザルツブルグというのが存在していないと長。これは私が忘れてしまっただけである。このショットでは、ザルツブルグのお城を後から見たところであって、そこに1人の老人が雪の中を杖をついて歩いていると言う。私の作品の中ではなかなか好きなショットなのである。^_^自分の撮影したザルツブルグの雪の中のショットが、未来の自分を予見していたと思うと、何やら人生が楽しくなってくる。2024/07/17 02:26:23163.名無CCDさん@画素いっぱいxWitBそのような1連のレンジファインダコンタックスであるが、最後の最後までコンタックスレンジファインダカメラはライカM3のようなトップレバーの巻き上げをすることをやめたと言うのも興味深い。コンタックスコピーであるソ連製の1連のキエフカメラであるが、1970一年になって最後のキエフファイブと言うモデルでは、巻き上げがトップレバーに改良されているのである。そしてこれは構造が2中になっていて、従来のような巻き上げもできる仕掛けになっている。コンタックスのレンジファインダーのコピーであるニコンカメラはいち早くニコンエフツーの時代からレバー巻き上げになったしね。2024/07/22 08:08:43164.名無CCDさん@画素いっぱい9EuyMアルパ研究会の思い出が懐かしいですね。2024/07/23 09:01:52165.名無CCDさん@画素いっぱいp5b46アルバ研究会の頃3十数年前の佃島でスイス製のアルパと言うヘンテコリンな一眼レフを愛好する怪しい集団があって、毎月1階秘密結社を開催していたのであるが、10年ぐらいやってもこういう馬鹿は充分であると言うので自主的に開催したのであった。メンバーの1人がアルパの専門の研究書籍を出したり、テレビ取材が入ったりして何が何だかわからない。このてんやわんやの10年間は思い出すとなかなか楽しかった。会費1000円ずつ出し合って向かいのスーパーに買い物に行って大宴会をやるから、当初は、アルパ研究会あったのが知らない間に、アルコール研究会になってしまった。まだネットオークションなどが登場するずっと以前の話でメンバーが持ち寄った不良品ではなかった不用品は非常に安い値段が付いていて、ジャンケン大会で勝った人がそれをゲットすると言う原子共産制みたいな資料流通がそこに存在したのであった。当時はアルパカメラと言うのは、銀座のカメラ屋さんの厄介もので、そういう背景から壊れたアルパカメラが作った時間に吹き寄せられて自然発生したと言うことになる。手先の器用な連中もいるから、だんだん修理に慣れてきて壊れたアルパカメラは自分たちで治せるような共同体になってしまったのが今にして思うと不思議である。アルパのモデル10というのがあって、このファインダーが不思議なほど真っ暗でよく見えないのである。それでメンバーがいろいろ知恵を絞ったがなぜ暗いのかがわからない。それで理解できた事は、ファインダーのコンデンサーのレンズが上下逆さまに間違って取り付けられていたのである。逆さまに組み直したら明るい画面になった。会員数が120人ぐらいになったりして、これは何とかしなければいけないと思っていたら、Retinaハウスの経営者の望月さんと言う人は冷酷な独裁主義者であるから、毎月一定の日に開かれるアルパ研究会の日にちを中心のメンバー以外には教えないで大粛清を行ったこともあった。ここら辺の独裁者のやり方は冷酷で私などはなかなかできないのだが、さすがクレムリンの上に立つような人は凄いなと感心したことであった。2024/07/25 06:43:09166.名無CCDさん@画素いっぱいgyO1FM月さんの恐怖政治は、不穏な動きをするブルジョワ的反革命分子を排斥する意味において、アル研という組織を守る為には必要だったのではないかと思われます。特にあの時期は色々ありましたから。2024/07/25 14:25:35167.名無CCDさん@画素いっぱいGtL51ニフティの人?2024/07/27 10:08:54168.名無CCDさん@画素いっぱいXxtxJニフティフォーラムからですね。初期は平和でありましたよ。2024/07/27 10:39:19169.名無CCDさん@画素いっぱいQRiciマジかー(´・ω・`)どうもありがとうございます2024/07/27 11:04:52170.名無CCDさん@画素いっぱいXxtxJ「香港フラワー」という写真集出した人をスゴく馬鹿にしてた爺さんいましたね。「あんなの犬でも撮れるわ!」と酷い言い様でしたよ。2024/07/27 19:29:12171.名無CCDさん@画素いっぱいGB40O>>170Y縣さんね某カメラ倶楽部では人気者ですよ過去にばっかりこだわる愚か者はさっさと消えなさいなww2024/07/28 16:58:53172.名無CCDさん@画素いっぱいsrgVHアルパカメラの存在感ゴールドカメラというものがある。1つのジンクスだと思うのだけど、カメラメーカーがゴールドカメラを出すと、その会社はやばいと言うような感覚が、我々カメラ人類の間にはある。アルパカメラは最初のモデルが1947年に登場して、それから50年位は存在したのだから、カメラメーカーとしては長く頑張った方だと思う。それで一定数のゴールド仕上げの一眼レフを出しているのだ。ゴールド仕上げで1番間違いをしたのは、日本のカメラメーカーでペンタックスとかコンタックスの一眼レフもそうであったのだけど、霧の箱に入って、カメラを触るときに白手袋が必要であろうと言うので、それが付属している。要するに、化粧品扱いの考え違いの方向なのだ。それに対してゴールドのアルパは実際にかなり使われた痕跡があるから、カメラ人類はこのカメラをちゃんと理解していたことになる。問題なのはゴールド仕上げに対するカメラ本体のレザーの色のコントラストなのだ。ゴールドに対してレッドとかグリーンのレザーになると、いかにもけばけばしくて品格が失われてしまう。それに対して、このモデルは、グレーのレザーを使っているところが非常に品があって気に入っているのである。もう一つこの時代のアルパカメラうざっには、面倒なところがあって、ネックストラップアイレットと言うのは別のアクセサリー部品でそれをねじ込むようになっている。これが数が少ないので、最近はもうほとんど見かけないが20年前ですらネックストラップ、アイレットの金具が2つで20,000円以上すると言う馬鹿な値段であった。そういうものを手に入れる我々の方にも責任があるのだがね。2024/08/04 07:23:04173.名無CCDさん@画素いっぱいTWAtDアル研かぁ懐かしいもう鬼籍に入られた方も多いもんな良い意味でめちゃくちゃな時代であった2024/08/04 15:37:54174.名無CCDさん@画素いっぱいVzmmzそういえばピューリッアー賞取った長尾靖氏が孤独死で無くなった時、あの爺さんが「アイツが賞で貰った黒のM2とレンズはどうなった!?」と騒いでたわ。2024/08/09 19:42:59175.名無CCDさん@画素いっぱい2yW3s20年位前に渋谷の東急の文化クラブから依頼されてライカ愛好会と言うワークショップをスタートさせたのである。ありがたいことにたくさんの受講生の方が来てくれた。面白いのは講座の時に皆さんそれぞれ自分の座る位置が決まっているので、逆に顔と名前を覚えやすいのである。それで3年ぐらいやった後に、そのワークショップが双子多摩川のほうに異動すると言うので、遠くて面倒だから継続してやるのはお断りした。そしたらその直後にこのスナップショットで私の赤い旗を指差しているジェントルマンがいるが、彼が中心になって来会公開がなくなったの。だから、偽物のライカ愛好会を作っても良いのではないかと言う提案があって、彼が中心になって新しい組織がスタートしたのである。それでプロフェッショナルなクオリティーで作った今の大愛好会のこういう赤旗があるので、ちゃんと背中に背を得るようになっているから、ボリシェヴィキではないが、偽物ライカ愛好会の赤旗に結集せよと言うようなインチキスローガンを走ったりしていきがっていたのである。当初はメンバーが毎月幹事を務めて、それぞれワークショップの行き先を決めたりして、それが終わると大宴会があったりで、なかなか来夏のワークショップと言うよりか通常の飲み会のようになってしまった。そうこうするうちにコロナ騒ぎが来たので偽物ライカ愛好会は現在お休み中である。^_^しかし、思わぬところで偽物ライカ愛好会の活動に関連して、私の交友範囲が広がったりしてありがたいことだ。やはりライカには人と人とを結びつける不思議な力が存在するのだ。2024/09/05 08:09:21176.名無CCDさん@画素いっぱいFqgrsロバートフランクは1950年代終わり頃にマンハッタンで走行する。バスの中からたくさんの写真を撮影してこれが名作の1つに数えられている。私も好きな写真がたくさんあるので、これを初めて見た。20歳の頃に真似をして東京でバスに乗ってたくさん撮影した。その中の1部はスイスのカメラ雑誌などにも掲載されている。それ以来、半世紀ぐらいバスの中から撮影すると言うことを継続しているのであるが、それで忘れられないのは東京のバスに初めて冷房が入ったのが1969年頃であったことだ。それまでの東京都の飛ばすは、夏は窓を解放して、涼しい風というか熱風を入れて走っていたのである。バスからの撮影で面白いのは良い。写真が撮れるかどうかは運転手さんの運転の技にかかっていると言うよりも、全てが偶然の産物であると言うことだ。赤かぶ検事の和久俊三先生と対談をしたときに、先生は国際的な弁護士であるから、事実と事実でないものと言うのを完璧に区別しているのである。それで私のスナップショットのように偶然の要素が入ってくると言うのを最初から排除しているのであるから、うまく説明ができなかった。東京でバスをとっていて、気になるのは自転車^_^通学の女子高生がちょろちょろ私の視界に入ってくるわけである。気にしてないと言えば嘘になって、結局こういうような写真を撮ってしまうが、なかなかいい感じに撮れている。それで考えたのは1950年代後半のロバートフランクのバスの写真の名作がたくさんあるが、そこには女子高生の自転車通学のショットは1枚も入っていないと言う。これは結構謎なのである。しばらく考えてその謎が解けた。アメリカは0のイエローのスクールバスが通学の最も重要な手段であるから、アメリカの女子高生が買い物、自転車でちょろちょろ通学すると言うような事は最初からありえないのだ。ロバートフランクもこれは残念なことであったと思うぞ。2024/09/06 07:26:56177.名無CCDさん@画素いっぱいD9ixn坂崎幸之助さんと偽物。ライカ同盟を作った頃によくこの話題になった。坂崎さんも私もマイナーなブランドのカメラが好きなので日暮里で作った偽物ニッコールなどというのも盛り上がったのである。それでその時に何かの対談だったと思うけれども、坂崎さんと話題が盛り上がって、ドイツの西フランスとの国境に近いフライブルクに、このカメラの出身地なので、これを探しに行くなどと、つまらない計画を立ててしまった。フライブルクの大学は20世紀初めに著名な哲学者を輩出したような文化都市であって、また旧市街の街中をきれいな小川が流れているような素敵な町である。しかし中古カメラ屋さんと言うのは全くなくて、要するにこれは教訓なのであるが、有名な中古カメラをその出身地に探しに行くと言うのは無理な話である。坂崎さんとこのカメラの何にしびれたかと言うことを思い出してみると、カメラの名前が普通な感じと言うところがその原因の1つで他には何もないというのが無責任極まりない。当時のアメリカでは結構売れたカメラとレンズであって、独自の50ミリef 1.5などと言うのは25年前には手がつかなかったけれども、最近のネットオークションではとんでもない値段が付いているのだから、カメラとかレンズのブランドと言うのはわからないものである。家人の音楽大学の教え子で卒業して20年ぐらい経過して、それまで勤務していた組織を辞めて時間ができたのでヨーロッパに行きますと言うメールが来た。それでびっくりしたのは彼女の行き先がこともあろうにドイツのフライブルクなのである。この人は20年位前に初期の東京マラソンを完走したような人だから、別にフライブルクでマラソンがあるとは思わないけれども、何かそちらの方面で出かけたのかな。帰国してから別に行った理由は関係がないので質問はしなかった。まさか、このカメラを探しに行ったのではないよね。2024/09/08 06:57:27178.名無CCDさん@画素いっぱいJflrGお前の文章はイタズラ品だよ2024/09/13 09:00:34179.名無CCDさん@画素いっぱいUxirO運用2024/09/14 10:24:32180.名無CCDさん@画素いっぱい94279誰も読んじゃいねーよ2024/09/18 06:18:45181.名無CCDさん@画素いっぱいk9N6c保守2024/09/18 07:51:00182.名無CCDさん@画素いっぱいEbf9sライカウィルスを感染させたぞ!聖路加病院の主治医のたくちゃん先生は私のカメラ本の読者である。この前診察の時にやはりライカを買わなければいけませんよとライカウィルスを撒き散らしたら見事感染してこのカメラを手に入れたと言う。そういえば30年位前に腰痛で順天堂大学に入院していた時に、院長先生がナースステーションに私のネームプレートを見て夜バラの花を持ってお見舞いに見えた。院長さんも私のカメラ本の読者なのである。私が退院しても院長先生とはお付き合いがあってあっちこっち飲み歩いた。その時に院長先生が言うには僕は膠原病の専門家だから長徳さん安心してくださいと言うので、当分膠原病になる予定はありませんと申し上げた。聖路加病院のたくちゃん先生のほうはライカウィルスが発病したばかりだからそれを治すには交換レンズを買ったりするのが1番の特効薬である。銀座松屋の中古カメラ市もオープンしたしね。カメラ人類にはいろいろなタイプがあるがやはりライカを持っていますと言うことをステートメントとしてカメラ自慢の中に捉えるとその人の知的ステータスが高く感じられると言うところがある。いや別に順天堂とか聖路加の先生が知的ステータスが高いのは当然ですけど。2024/09/19 15:54:17183.名無CCDさん@画素いっぱいQd6F2安原カメラの思い出カメラジャーナルと言う名前の100円、雑誌は90年代半ばから10年位毎月発行していた。最後の1年は普通の同人雑誌みたいな暑い出版物になったが、最初の9年は8ページのペラペラなパンフレットの安いやつみたいなもので、ヨドバシカメラに並べておくとお客さんがタダだと思って持ち帰ったりしたので、後でプライスタグをつけるようにしたのである。安原カメラは京セラに勤務していた。安原さんがフリーランスとなって中国に注文して予約制で販売した。ユニークなカメラで、当時はまだデジタルカメラが全盛になる。以前であるから、各メディアでかなり注目を浴びたのであった。私もモノマガジンと言うメディアの取材で安原創業者さんこれはご自身でそのようにな載っていたのであるが世田谷区の若林の私にとってはなじみのないところにバスを乗り継いで出かけた。安原カメラの本社はワンルームマンションであるというのがユニークでよかった。安原創業者さんは椅子に座って私に対応したが私の椅子は無いので床に座って安原さんから話を聞いた。日本の大企業の人と言えば京セラの稲盛さんでインタビューしたこともあるがそれよりユニークなのが安原創業者なのである。私の− 1戦から見ると彼の白いソックスの親指が彼の会話にシンクロして動くのがなかなかいい感じだった。販売のシステムは確か先に五線円高を支払ってカメラができると残りを払うと言うような形だった。当時は信州中野のコシナレンダーがベッサと言う名前のレンジファインダーを販売直前であって社長の大手はかなりついたところがある。それで私が手に入れた安原カメラを見せてくれと言うのでこちらレンダーの社長に譲って光は分解したりして一応安心したようである。スナップシューターの私としてはこれ以上望めない優秀なライカコピーであるが普通に使う人は内臓メーターのLEDが暗いとか言うので文句を言っていた。2024/09/25 07:57:40184.名無CCDさん@画素いっぱいDQS1Pプラハの夕暮れを何回見たか? プラハのアトリエに34年間住んだと言うと皆さんびっくりするけれども、それは34年間ずっといたわけではなくて、プラハに2週間位で東京に3ヶ月いてプラハに3週間いてと言うような事の繰り返しの時間をトータルで計算してみたら全部で34年になったと言う意味だ。1989年のビロード革命の直後からここに暮らしてビロード革命四半世紀の2014年だったと思うけど、もうここに暮らすのは充分だと言う認識が生まれたのである。それでプラハの夕暮れを何回見たかと言うことだが、アトリエの天窓は上のほうに付いているから、このショットもそうであるが、窓を開けて左側を見ると、それが西の空なのである。だから、別の見方をすると、漫然と部屋にいて、夕暮れの空を見ると言う事はなくて、自分の意思で能動的に、窓を開けて左側に首を向けると言う意識で、初めて夕暮れに遭遇できると言うのは自然観察をするにはかなりアクティブな行動であると思う。アトリエの窓は世界に向かって開いている。このフレーズを有名な文芸雑誌の編集者が褒めてくれたこともあったな。2024/10/20 14:35:12185.名無CCDさん@画素いっぱいDcgse私が初めてニューヨークに行くまでのマンハッタンの印象と言うのは、あれは映画のために作られた空想の街で実際には存在しないと思っていた。それでwinに暮らしていた30歳のときの誕生日か家人が私にくれたのがニューヨークの折りたたみの地図である。その地図で私はニューヨークの地理学を勉強した。だからマンハッタンに到着した最初の日から私は自由自在にこの小さな島を歩きまわることができた。私が1番好きな写真集ウィリアムクラインのニューヨークの話である。最も重要なワンショットというのがこれなのだが登場人物が子供なのはわかるが両方とも非常に大人びている。^_^右の子供のキャラクターもおかしいし左の女の子のアクションも正常ではない。それでどのようなシチュエーションでこの写真集の重要なショットを撮影したのかと言うことと、もう一つは使ったカメラは何であったのかと言うことだった。という重要な質問と言うのは手のひらに書いておけばすぐ?できるのであるがなかなかそういう事はやりにくいのである。それでプラハでウィリアムクラインに会ったときに私が高校生の時に銀座の本屋で買った写真集はサインしてもらって満足したのであったが後に思い出したのはこのビック?だったのだ。すなわちカメラは何を使ったのですかと言うことだ。こういうどうでもいいことに我々カメラ人類は人生の重要なポイントであると勘違いしてしまうのである。それで何十年も持ち続けていたこの質問は結局聞かずじまいになってしまった。おそらくニコンS3に2.8センチのニッコールレンズだと思うけどね。2024/10/21 12:00:33186.名無CCDさん@画素いっぱいsSkTIJosef Sudekの場合は、第一次大戦でイタリア戦線にいた時に、友軍に間違って攻撃されて右手を失ってしまうのである。それから彼の本格的な写真家の仕事が始まったと言うのは結構皮肉なことである。でも失う以前に写真は地元のカメラクラブに入って結構いい成績で活躍していたようなのである。写真家のモノグラフを見ると、初期の仕事はこのような一般受けするというか、写真のポピュリズムと言えるような作品をとっている。これは両手が使えて、ハンドカメラで撮影したものであろう。家族連れが公園を歩いていて、左の手前にいるのはインスタント写真を撮るフォトグラファーに見えたが、よく見ると手回しオルガンなのである。プラハの伝統芸能のどこにでも見られるエンターテイメントである。もっとも、公園の中には最近はいなくて、もっぱらカレル橋の上でハンドル回して音楽を奏でている。この写真家の場合、5体満足であったときには、確かに写真は素晴らしいが、ごく当たり前な作品である。それが片腕になってから三脚の上にカメラをセットして全く新しい境地で撮影をするようになった。初期の作品から、晩年の作品までを並べてみると、その違いが明白にわかるのが非常に興味深い。2024/10/23 08:13:55187.名無CCDさん@画素いっぱいojWHWロードカメラにはこの時代のもののオリジナルパッケージを探すのはなかなか大変なことである。そして注目すべきはこの時代のオリジナルのパッケージと言うのは取扱説明書とか保証書だけではなくて、実際に出荷されるときにこのカメラのこのレンズで撮影されたテストフィルムがちゃんと添付されていることなのだ。この面倒な作業はユーザを安心させるためには最も有効な方法だと思うが、これもドイツあたりのやり方を真面目に真似したもののようである。ドイツにミュンヘンにあったハインツキルフィットと言う会社は、プロ用のレンズで有名なメーカーであるが、そこの製品は出荷するときにそれぞれのレンズで撮影されたテストフィルムを貼付していたのである。ロードカメラの場合を見ると撮影に使われたフィルムはコピー用のミニコピーである。だからシャープネスが保たれると思ったのかもしれないが、そこら辺の背景はどうもよくわからない。1種のトランキライザーの効果はあったに違いないが、レンズの良し悪しとか写り方と言うのは、最初の1本のテストフィルムを撮影してそれを使った写真家が自分の意思で決めると言うのが正しいやり方だ。2024/10/28 10:03:11188.名無CCDさん@画素いっぱいn9TgUコミュニティバスに乗るのに結構はまっているのである。普通の路線バスとは関係ないような路地の奥まで入っていけると言うのと、一旦乗ってしまうと降りるまでどこを走っていたのか全くわからないと言うところも素晴らしい。葛飾区小菅の界隈を撮影して歩いて気に入った魚屋さんなどがあって、面白い街だと思っていたら、非常に歴史的な米屋さんと言うのに出くわして全く手入れをしないまま何百年と言う事は無いけれども、何十年も経過していたのがそれも建物のプライドで非常に良いと思った。歩き疲れたので、ふと周りを見るとこのクラシックな米屋さんの向かいの自分が立っている。ところがコミュニティバスのバス停なのである。20分に1本ぐらいバスが来るらしいので待っていたらハイエースみたいなすごいプライベートっぽい。まるでコミュニティーバスとは関係ないような車がやってきた。それでおばさんのドライバーさんが運転をしているのだが、私が乗ったら、運転席から手を伸ばして私にキャンディーをくれたのである。コミュニティーバスはずいぶん乗ったけど、キャンディーをくれると言うのは空前絶後の大剣であった。最近ではエスライトでタクシーに乗ることも多いが、その運転手さんがキャンディーをくれるのである。その2週間後にタクシーに乗ったらやはりキャンディーをくれたので同じドライバーさんであることがわかった。2024/11/02 17:11:28189.名無CCDさん@画素いっぱいsXG6x四半世紀以上前のことになるけれども、高輪にカメラ屋さんがあった頃にそこに行く道の行すがらに突撃さんに出会ったのである。ライカエム4のブラックペイントを持っていた。それでライカの話が弾んだわけだが、突撃さんが私を認識したと言う事は、私が既に本を出していたから、知っていたと言う以外に考えられない。そうでなければ私は単なる通行人であって、突撃さんは私の認識のしようがなかったからだ。それから突撃さんとは結構深い。お付き合いがあって、六本木ヒルズに仕事をしていた頃はアポイントなしでいきなり来たり、その後は彼は佃島近辺に住んでいて、今ではコンビニになってしまった熱いお湯が用意してあるお風呂屋の朝日と言う所の常連さんでもあった。カメラが非常に好きでガラクタ屋さんなどでカメラを発掘してくる。写真に対する制作する欲望は100%なのであるがカメラの手前のところで興奮してしまってその先の方まで行かないというのが、彼の魅力でもある。なかなかの行動で自民党がまだ野党だった時にJRのどっかの駅で暗殺された阿部ぴょんがいたのを呼び止めてツーショットを取ったりしている。こういう行動力と言うのは普通の日本人男性にはなかなかできるものではないそれでこのショットご説明するとソ連製のキエフ5と言う私の好きなコンタックスコピーがあってそれは50ミリのジュピターレンズが付いているのだがレンズのバヨネットが外爪なのである。だから他のコンタックスマウントカメラにつかないのを突撃さんにお願いして無理矢理改造してもらっているところである。私が馬鹿話をしているわけでどんどん仕事が進んでいくと言うものすごいライブ感覚であったその突撃さんも数年来小田原のほうにお住まいなので、最近はお目にかかる事はないがお元気であろう?2024/11/03 06:13:35190.名無CCDさん@画素いっぱいMFG0m^_^私の東京の地図の中では、葛飾区の立石とお花茶屋が位置関係がごちゃごちゃになっていて、立石の事であると記憶するとそれがお花茶屋であると言うようなこともある。スナップショットの場合、そのショットが厳密にどこで撮影されたのかと言うのはそんなに重要なことではないから、駅のプラットホームの立石かお花茶屋かどちらかであると言っておこう。あぁ今思い出した。考えていくうちにこれはお花茶屋のプラットフォームであることがわかりました。ごめんなさい。それで京成線の駅の話なのだが、ここら辺の駅はいわゆる見捨てられた駅というか急行も特急も止まらないから、都心に行くためには各駅に乗るのは良いとして、その待ち時間が忙しい都会人には結構長い待ち時間なのである。その誰もいないプラットホームに女の子が2人所在なさげに後ろ向きで立っていると言うのは、私のスナップショットの定番ではある。ライカのフルサイズだったら21ミリで横画面でバッチリというのがこれなのだけれども、この場合はエプソンカメラでAPS-Cサイズで12ミリの腰レンダーがついている。だから35ミリフルサイズに換算すると18ミリか19ミリで21ミリよりはちょっと短いがなかなか使い勝手のよりカメラアングルとなる。最近の数年間で撮影した東京のスナップショットとしてはトップファイブ位に入るのではないかと自画自賛しているのだ。2024/11/10 10:54:35
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過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
このときの生活が不思議なものであって、早朝にメトロの近くの喫茶店でカフェオレいっぱい飲んで、昼過ぎまでメトロからは出てこない。メトロから出たら近くのカフェで簡単なランチを食べて、またメトロに夕方まで乗っている。この体験が私にパリのメトロを近づけてくれた。。
あの頃のパリのメトロの乗客はなかなかスマートであった。と言うのは極東のメトロに座っているお客をとると肖像権とか何とかですぐ喧嘩になりそうなので、パリではそういうことがない。プライベートスペースとパブリックスペースの個人の意味合いがよくわかっていると言うことに感心した。つまり、パリは大人のメトロの街なのだ。
犬を連れてアコーディオンを弾く名物のおじいさんがいて、その人を追いかけていたのだが、今日はあのLINEのあのあたりに行くといるのではないかなどと予想を立てて出かけるのだが、それが当たったときには嬉しかった。
何十年か経過してアサヒカメラの連載をしているときにこのパリのメトロのシリーズを紹介する必要が出てきた。アサヒカメラにはバックナンバーがないので、担当編集者さんが大宅壮一文庫まで出かけていってコピーしてくださったのである。感謝感謝。
でこのシリーズが10ページほどアサヒカメラに登場した。1979年の終わりの話をやり直すが、編集者さんにタイトルをメトロのパリとお願いしたら、印刷した雑誌ではパリのメトロになっていた。それはわかりやすいけど、そういう意味ではないんだよなな。
カメラはライカCLとライカエムデーを持っていった。レンズはソ連製の20ミリとソ連製の50ミリだったかな?要するに使っている機材は全然変わっていない。
リコーカメラが新しいフイルムカメラをスタートさせたときに、森山さんにお渡ししたり、友人に頼んでニューヨークのロバートフランクさんにお渡ししたりしたこともある。つまりカメラの広報関係の仕事ですね。
ヨーロッパから日本に戻ってきた。1980一年頃だが、東京は上野のアメ横を歩いていたら、前を森山さんが撮影している。いきなり声をかけては失礼にあたると思って、しばらく後をつけていた。森山さんはブラックのペンタックスに35ミリの広角レンズで撮影をしている。それが1段落して、森山さんがハイライトに火をつけようとした時、私が声をかけたら、森山さんはびっくりして、ハイライトを逆さまに加えた状態で、シガレットに火をつけたのでフィルターがくすぶって音がした。
それ以来、私はロバートフランクさんでもリーフリードラン出さんでも天才荒木でも通行中の有名写真館に声をかける時は、まず相手が私を認識した状態の時にお声をかけるようにしている。
この遭遇した現場はあけぼの橋なのである。すぐそばがガラクタ屋さんなのである。この時森山さんに声をかけたついでに彼をガラクタ屋さんに連れて行けばよかったと今に思うと残念だ。
曙橋が不思議なところで、中平卓馬さんがなくなるちょっと前の夕暮れに、やはりこの界隈で中平さんを見たことがある。普段はアシスタントの人がいるのに、真っ赤なウィンドブレーカーで1人で歩いていたのが奇妙であった。
この16ミリ撮影機は世界で最も成功した映画カメラの部類に属する。もともとプロフェッショナルな目的で作られたから個人がこれを持つと言う事は考えられなかった。映画プロダクションとか放送局が使っていたのである。それでミュンヘンのこの映画カメラの本社に、1973年にカタログを送ってもらうように頼んで、それが私の宝物となった。
その後、実際にこれらのカメラを手にしたときには、天国が近づいたと思ったのである。それでこの撮影機はタフに使うものであるから、通常の来客等のような仕上げではなくて、はるかにレベルの上のカメラ本体の構造とペイントがなされている。
私が中学生の修学旅行の時にそれを取材に来たNHKのカメラマンの人がこのカメラを持っていたので、触らせてもらって感動した。大人になるなら、いつかはこういうカメラを持ちたいと思ったのである。
それから何十年かして、ドイツのライカの工場とその工場のある小さな村を撮影に行ったとき、私はこの16ミリ撮影機を携えていた。人生の夢がここに達成したと嬉しかったのである。
このカメラの個体はあまりにも使われたので、このような感じになっている。よくライカのブラックペイントを長年使うと、貫禄が出てかっこいいなどと言うのであるが、これはそういうアマチュアレベルを超えた激しさが感じられる。
しかし、プロフェッショナルの間でも、あまりにはげはげの映画撮影機は格好が悪いと言うことなのであろうか?アメリカのプロ機材のファクトリーでは、こういう状況になったカメラを新品同様のブラックペイントに理ペイントしてくれると言うサービスも以前はあった。私はボロボロの使いこんだほうがよほど存在感があって好きなんですけどね。
1973年の夏、winに暮らした。最初の夏であるが、ライカM3に90ミリのレンズをつけて全く無意識に雲を撮影した1枚なのである。もとより一眼レフであるから、画面をチェックすることはできない。それで現像して驚いたのは、1本の光のパワーが空から降ってくるところが映っていたのだ。
当然のことながら、ミラクルでも何でもなくて、90ミリレンズのハレーションとゴーストイメージによるものなのである。でもここで大切なのは、これがもし一眼レフで撮影されて、ゴーストイメージを私がちゃんと把握しているような状況だったら、それはうまくとられたと言うことにはなるかもしれないが、表現の域まで来ていると言う言い方はできないであろう。
このまぐれ当たりでできた作品は、1973年の秋にウィーンで開催された。私の写真集でも展示されてカタログにも掲載されている。つまりイスラエルの神の国の偽物の光と言うわけだ。
ところが、残念ながら、その当時の日本のカメラの制作技術では、この連動距離計というのがなかなか制作が難しくて、結局生産中止になって、ごくごく少数作られたものが市場に流れたらしい。
たかだか45ミリの標準レンズが固定されて付いていて、その距離計の連動に問題があったと言うのは、今ではちょっと考えられない背景であるが、その当時はそこら辺がリアリティーがあったのであろう。
でも、今の時代はクラシックフィルムカメラにイッポン数千円のフィルムを入れて撮影したとか自慢するというのはすでに時代遅れの背景になってきたので、こういう本物のクラシックカメラは別にフィルムを装填しなくてそのアピアランスを楽しむと言う。いよいよクラシックカメラの楽しみ方の最終段階に近づいてきたと言うことを、私はここで強調しなければならないのだ。
それで私が最大限に評価しているのは、このカメラのトップカバーのロゴタイプなのである。かなり優れたデザイナーがいなければ、これだけのロゴタイプが作れたものではないと思う。アメリカの有名雑誌とか日本のパッケージツアーの商品名にもなっているけれども、それをすでに超えている素晴らしい存在感である。こういうカメラは手にしてそばに置いておきたいが、何しろ3000ドル位するのです。
^_^私の手元にはリュックから距離計連動を外した。エレガがあるから、別にそれを楽しめば良いだけの話。
立石バーガーのマスターは哲学者がそのままハンバーガー屋さんになったと言う感じでそこが偉いと思う。しかもなかなか器用な人で自分で梯子をかけてお店の看板を交換したりもするし、自分のイラストの広告なんかも非常にうまい。つまり万能選手なのである。
自分のところで焼いたパンを売っているのは、当然ながらここの350円の食パンと言うのはおいしかった。店の右手に料金投入口があって、そこに350円入れると食パンが転がり出てくるのである。それで当時はジャンピング食パンと言うので、かなり話題になって食パンを食べると言うよりも食パンが飛び出してくるところを見たいので買い物に行ったのである。
それで1時はマイナーなメディアもメジャーなメディアも引っ張りだこになって、いつも取材が耐えなかった。私が遊びに行っているときに、どこかのメジャーな放送局が取材に来て、光で指定した歌を一緒に歌わされたりもしたので、まずこれも何かのご縁と言うべきだろう。
ここのアメリカンクラブハウスサンドイッチはなかなかよろしい。
また集まって呑みたいですなぁ
それでウィーンの南の当時の郊外にいくつかのガスタンクが建設された。今のものとは違ってレンガ造りで、なかなか建築学的に重要な存在感である。winに暮らした最後の時期にそこら辺のガスタンクの面白さに気がついて撮影に行ったのである。このときの同行者は古谷正一とクリスティンであったな。彼らはライカで、私はコンタックスの1947年生の一眼レフコンタックスエスに20ミリの東ドイツ生のレンズをつけていた。
その時は古谷とクリスティンの中は良かったみたいだが、その3年後、私がニューヨークに滞在しているときに時間を見つけて、winに久しぶりに行って、古谷とクリスティンと家人と4人で飲んだのであるが、その時は古谷と奥さんはなかなか険悪な感じで罵り合っていたので、心配したのである。悲劇が起きたのはその翌年だったのではなかったか?
このガスタンクの跡地はそのままうまい具合に改造されて、今ではショッピングセンターのような感じにそのまま継続して使われていることを知ったのは、それも20年位前の話だったので、今はどうなっているかは知らない。それでもwinのような大都会を構築する近代世界の基本構造がガスタンクであったと言うことを思い起こすのは非常に重要なことである。
この作品でもちょっと見ることができるが、まっすぐな通路の左側のエントランスの上に金属製に作られた植物がオーナメントとして語られているのである。ガスタンクも好きだけれども、この金属で作られた植物の由来は知らないが、このあたりに行っていつも見ていたメランコリーオブジェなのであった。
^_^それからしばらくしてまたガラクタ屋さんで、戦前のライカの箱が置かれていて、それを開けてみたら、いげた上にフイルムが保管できる仕切りが漬けられていて、そこに20本ぐらいのフイルムが入れられるようになっていた。それで蓋の内側の上の方には、1万から20番までのメモが付けられていて、そこには撮影者の覚書、例えば昭和12年、夏鵠沼海岸海水浴などと記入されている。
それでにだいめさんにこのフィルムはないんですかと聞いたら、2代目さんはあれいるんですか捨てちゃいましたと言う答えだった。これはよくある業者さんの勘違いと言うものであって、winなどでも150年前の写真アルバムがあって、ワクワクしながらアルバムを広げてみると、貴重な写真は全部捨てられてしまって、アルバム本体だけがそこに残されているのである。業者さんの認識と言うのはそういうものなのだね。
話がカメラのオリジナルボックスに戻るが、この時代のカメラの本箱と言うのは、いずれも基本的にはライカの会社の箱とカールツアイスの会社の箱を真似して、それを2で割ったようなデザインが多い。
ニコンとかキャノンの白などもどちらのメーカーを真似しているかは、ここでは明かさないが、やはりライカ方面とかコンタックス方面に引っ張られているのである。
それでこのカメラメーカーのオリジナルボックスの実態を知っている人は非常に少ないと思う。けれども、デザインから見るとかなり上質な処理がなされていると思う。
厳密に見てみると、デザインが入りすぎであって、ここが大切な問題なのであるが、デザインを完璧にやりすぎてしまうと、カメラよりもカメラのオリジナルボックスの方が存在としては上になってしまうと言うめんどくさいな展開もあるのだ。
これは写真家とか人間関係の存在だけではなく、ペットに関しても同じことが言える。ペットと一緒に過ごした時間よりも、ペットが過ぎ去った後の時間の方がそのペットの存在感を強く感じられると言うのは、私だけではなく、周囲の人がみんなうなずくところである。
それでヨーロッパに暮らしていた時なども、冬などで外が寒くなって、室内が湯気で、ガラス窓が曇ってくると、私たちはいつもそこに大泉学園町で本当に短い期間経っていた。白黒の猫ちゃんの姿をさっと描いて満足していたりしたのである。生きているベッドよりも、その時間軸上に生きているペットの方が、むしろ愛らしいし存在感があるね。
6時半にはビロード革命の前から見ると、革命15周年ではなかった。25周年の時まで足掛け34年間アトリエに暮らしたのである。ところがそうなると飽きてくるもので、時々プラハの別の部屋に住み変えたりしている。ある雪の朝、東京に飛び立つその日なのであるが、プラハに初雪が降った。それでペット連中のことを思い出して、窓のすぐ外側に書いたのがこのイラストレーションである^_^
それでこのショットは、栄光のルマンか、何かのレーシングのときのドライバーからのポイントオブビューを記録したバックステージビューであると思われるが、これがフランス製のボリューカメラなのである
レーシングドライバーは重いヘルメットの脇にさらに16ミリカメラをくっつけて、これで撮影したのだから、今のハイビジョンの時代とは完全に異なるのが大変なご苦労であると思う。
フランスのこのカメラメーカーは、当時としてはドキュメンタリー用の16ミリフィルムカメラでは世界で最も軽いと言う性能を誇っていた。だから当時のこのカメラメーカーのカタログを見るとゲリラ闘争を取材するニュースカメラマンと言う。これは今ではちょっと考えられないようなシチュエーションがカタログになっていて、反体制勢力がマシンガンを持って攻撃しているところを女性のニュースカメラマンが撮影していると言う。極めて忘れられないショットがカタログに掲載されているのである。
この時代のドキュメンタリーは皆そうなのであるが、例えばエベレストのアタックを目指す時も下の方を探検しているときには35ミリカメラのムービーで撮っているから、画像は安定して見られるけれども、最後のアタックのところになるととにかく酸素不足だし、ゼーゼー言って運動がままならないから、その場合には50フィートの短いフィルムを入れた。16ミリの超小型カメラを使用する。
^_^だから最後のアタック、誰が頂上を極めたときは、そのムービーの画像は短いしぶれている子色も悪いし#ではないのである。そういう記録映画を見て、我々その当時の少年は空気が薄いと感じたものであった。ここら辺が映画のドキュメンタリーのリアリティーとでも言えよう。
それでこれはちょっとメイン通りから奥に入った小さな写真館で撮影してもらって、当時はカラー写真は高価であったから、それよりも値段の安いモノクロームで撮影したものに人工着色をすると言う、今で考えたらこちらの方がはるかに手間がかかる時代だと思うのであるが、その人工着色の写真で、私は感動して、人工着色用の絵の具とか筆を買って帰ったら、もちろんそんなの使うわけなかった。
今回この貴重な中国の人工着色写真で私が気がついた事は写真のバックグラウンドである。写真屋さんがいきなり来た日本人のために慌てたのであろうかバックグラウンドが半分しか下がっていない。その半分の背景を見るに、これはここがポイントなのであるが、実に半世紀の前の中国のパール、リバーの理想とした現代的風景がイラストで描かれているわけだ。
それから30年ほど経過して別のようでパールリバーを見に行ったのであるが、そこの高層ビルの林立と言うのは50年前の当時の中国の人が理想として描いていた現代都市の風景など木っ端微塵になるほど先のほうに進化していたと言うわけだ。だから現代の中国のスカイラインを褒めていると言うわけではありません。
あれ?
誰かに似てる
テレビ番組は文化関係の番組に出演して、文化人のギャラを何度かもらったことがある。大体3万円から50,000円ですね。文化人だから。それがいきなり笑っていいと思うから出演依頼があった時は非常にびっくりした。
それで新宿のスタジオアルタに行ったのである。2千11年の7月7日だったか?生放送と言うのは結構怖いものであるが、それなりに楽しかった。それ以前に私は笑っていいともを見たいと言うので、往復はがきで30枚以上応募したのだが、全部ハズレであった。出演するのには往復はがきを出さないでいいから、そちらの方が楽である。それで驚いた事は桁が1つ違ったのではないかと思うようなギャラをいただいたのもびっくりしたのである。
いろいろなことが面白かったけど、スタジオでドアが自動的に開いて、ゲストとしての私が登場するというのは、あのドアは自動的に電動式で開くのではなくて、フロアディレクターさんが両側から引っ張ってあげているんだね。そういうことがわかっていろいろ面白かった。
ピアニストのYamashita Yohsukeさんにウィーンで会って意気投合していろいろ楽しかったのであるが、それから10年以上経って友人から教えてもらったのだけど、ピアニスト富田と言う本の中に私が紹介されていて、その次にタモリさんが出ていると言う事はデビューはほぼ同じなのである。
テレビというのは恐ろしいもので悪いことはできない。笑っていいともに出演した後に札幌に行って、定食屋さんでご飯を食べていたらおでんを運んできた。お姉さんがあなた笑っていいともに出ていた人だねと言われました。全国成敗みたいなもんだな。
そこで興味があるのは廃墟になった。都会を避けて、その手前にスタジオのバックドロップを置いて、そこには平穏な田園風景が映っている。こういう営業写真館の伝統的な方法と言うのは、ポートレートを撮ってもらう。ゲストにとっては非常に安心のできることであったのだろう。
それに対して、当時のファッションフォトグラファー、例えばアーヴィング編とかリチャードアヴェドンが使ったテクニックと言うのは、背景には何の図柄も描かれていなくて、それはニュートラルな白いバックグラウンドなのである。
無地のバックグラウンドの方が、その前に立っているポートレートをうつされている人の存在感が浮上するのは言うまでもない。
半世紀ほど前に家人と中国広州に行った時に、写真屋さんで記念写真を撮ってもらったときには、それが人工着色なので感激したものであったが、他のセクションでも触れたけど、そのバックグラウンドを見ると50年前に彼らが想像していたパールリバーとその周辺の理想的な近代都市の風景なのである。ところが中国の風景は皮肉なもので、50年前、彼らが理想としていた風景よりも、現在のバールリバーの風景のほうがはるかに先走ったものになってしまった。
ワルシャワの風景の変貌も、まさにその通りだと思う。
要するに、ライカと言う世界チャンピオンのボクシングの王者がいきなり表すれた複写機専門の4回戦ボーイにテクニカルノックアウトをやられたようなものなのである。しかし、4回戦ボーイのエプソンはその後続かなくて、結局デジタルレンジファインダーはこの1系統だけになってしまった。フルサイズのエプソンも出ると言う噂がエイプリルフールの時横行していたのも懐かしい。
それでその当時は、APS-Cはフォーマットとしては不十分でフルサイズでなければダメなどと言う風評が行き交っていた。でも私はエプソンの広告の仕事でポスターも出したし、写真集も出したから、仕事カメラはAPS-Cで充分だと考えている人間の1人である。
エプソンの写真集で懐かしく思うのはその表紙はプラハのアトリエなのである。何が面白いかと言うと、この表紙のショットはプラハのアトリエがモダンなインテリアに改装される。以前の戦前に作られた鉄のウインドウがまだはまっているクラシックタイプの頃のアトリエであったからだ。
だからこのクラシックなインテリアを見ると、エプソンが登場した当時には、まさしく20年前であることがわかるのである。
原因は早朝にワインの栓抜きで激しい運動をしたせいだ。
数年に一回の手こずるほどの開栓だった。
30年以上プラハでいつも飲んでいたのはフランコ不可と言う名前のモラヴィアの赤ワイン。これが非常に多かった。今いつも飲んでいる。チリの赤ワインにちょっと似たシンプルな味わい。
それでプラハの暮らしで面白かったのは西川から輸入された。ワインは最近の安いやつはコルクを使わないでキャップで捻ると開けるようになっている。プラハには国内産の良いワインがたくさんあるのに、外国から輸入されたやつはインド金属キャップでねじって開けるやつの方が高級と言う認識がある。
戦後40数年のボルシェビキのおかげで、そういう坂様の価値観ができてしまったわけだ。
30年以上前だが、佃島にチェコの大学の先生夫妻が遊びに来たことあり。それでおもてなししてイタリアの非常に良い。ワインとフランスのそれほど良くない。ワインの2つを見せて、どちらを選ぶかと聞いたら、フランスがいいんであると言う。そこら辺の価値観と言うのは、日本だけではなく、先入観による認識と言うので、ワイン選びと言うのはランキングができているらしい。
私も40何歳かの誕生日で、取材でブルゴーニュのワインの村をめぐることがあって出来した。44生やったワインの4位の勢いでワインを何系ですか輸入してしまった。成田空港の通関が、我々個人に対しては、非常に意地悪なので、びっくりしたことがあった。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りを取材したことがあった。そこのオーナーはもともと結構アカデミーの大学の先生で古美術の修復の専門家だった。その仕事を定年でやめたらワイン作りをしようと考えていた。その夢が実現したのであった。
ワインが出来上がった頃にまた取材に行って、非常に良いワインだったので、何ケースか日本に送ったのである。その時の下古美術修復のもとプロフェッサーは初めて外国に輸出するワインであると言うので非常に喜んでくれた。しかし、送るための木の箱などはないので、彼は自分でそれを作ったのである。その手作りの木の箱のスタイルというのが、ちょうど考古学的な白物物を並べるときの木の箱にそっくりなのである。
サウスモラヴィアの小さな村のワイン造りの素敵なストーリーができたと思って、当時お世話になったもの。末の会社の社長の今井さんにその仕事を店に行ったら1分で没になった。その理由と言うのが面白くて、俺は飯嫌いだから。
アートにも非常に詳しい人で佐藤さんと話をするのが楽しみで、近くのショップでちょっといいアイリッシュを1本持ってそれを持ち込んでバカ話に花が咲いた。そこに集まっているアーティストもなかなか見所のある連中で東池袋の有名な名もなきコロッケ屋さんのコロッケをまとめて差し入れしたことがあった。その中のモダンアーティストで、お酒はいってきも飲まないと言う青年が何もなきコロッケ屋さんのコロッケをひと口食べて、非常に高く評価したのである。さすがギャラリーでないギャラリーは、構成が違うのだなと思った。
ギャラリーに行くには、急な階段の段違いになっているところを3階まで上がるので、エレベーターはなかった。今の私だとまず天国に達する位の難しい。階段だから行くことはできないと思う。
私の仕事を非常に評価してくれて、写真展をやることを何度か勧められたのだが、佐藤さんは歩1日一緒めいた手紙を私に送ってそのまま実施してしまったのである。音声変換ができないのでもう一回言うと自ら天国に旅立ったのである。
私の残念さからすると、まずワルターベンヤミンがスペインの国境で昇天したのと比べられると思う。
その広場を超えると、協会があって、協会の先のエントランスは巨大な庭園に通じているのである。カイザーフランツヨーゼフがよく好んで三宝した巨大なお庭で、ウィーン少年合唱団の本拠地もここにある。有名な陶磁器のメーカーもここにあって、仕事で少年合唱団とか、ポルシェ嵐の後を撮影に行ったこともある。
カイザーフランツヨーゼフがこの公園を散歩しているときに、通行人が皇帝陛下に恭しくお辞儀をするので、皇帝は講演の中で私を見てもお辞儀をするには及ばないと言う命令を出したと言うのも笑えるね。
それでこの広場のランドマークなのであるが、ご覧のように巨大な樹木が茂っていて、どういう種類の器であるのかはわからない。ただ春の季節になると、綿毛のようなものをたくさん放出するので、それが懐かしくて拾ってきたりもしたものであった。
それでコダックのワン店の広告なのであるが、今見ると不思議な感じがするのはコダックのカメラが世界を制覇していた時代というのが確かに存在したと言うことなのである。何しろドイツの1部というかドイツをアドルフが併合した。オーストリアと言うところから見ると、アグファフィルムが世界のトップであったのだから、そこまでイーストマン・コダックが攻撃する。その最前線のバトルラインがここであったと言うふうに見ることも可能だ。
怖い飲み屋と言うのは2種類あって普通考える。怖い。飲み屋と言うのは例えばマンハッタンの8番街と42丁目の角にある。飲み屋は行った時は知らないで通っていたのであるが、後から人に聞いて、ニューヨークで最も危険なバーの1つであると言うので強くなった。
ハンブルクの港の荷役をする場所のすぐそばにあったバーも偶然見つけたのだ。けれども、これもすごくて働いている人の喧嘩が常に絶えないので、カウンターでビールを飲んでいると、頭の上をビールの空き瓶が飛行したりするのである。
これは面白いからドキュメンタリーとしては使えると思って店のカウンターの光の親父さんに写真撮っていいかいと聞いたら別に俺は構わないけどあんたがたどうなっても知らないよと冷静に言うので撮影はやめにした。
これに対してもう1種類の怖い。酒場と言うのは、店の親父さんに独特な個性があってそれを怖いと言っているのである。その中ではおそらく今の東京で最も怖い酒場だった。サービス精神などと言うものは全く考えていないし、カメラ女子が来て珍しいので、携帯を取り出すとすぐレッドカードが出てくると言うようなところなのである。
私はそこの親父さんとは、割と1対1で話をして可愛がられた方であった。もちろん店内は撮影禁止であるが、私は共産主義の時代に撮影禁止のところを撮影するのに慣れているから、それがこのインテリアなのである。
何が懐かしいかと言うと、私の実家は昭和30年代に万年筆製造業をやっていて、日本橋高島屋にパイロット、万年筆などと並んでウインドウを出していたのである。その直スプリング万年筆と言いました。
それで職人さんを雇って、労働時間も何もあったものでは無いから、真夜中もモーターが動いてエボナイトの軸を削ったりしていたのである。私はそこの坊ちゃんであるから、職人さんがお世辞を言ったりして、その頃から私の性格が4時間挙げられていたのだと思う。
大林逆刃刀70年前のスプリング万年筆の向上と何が似ているのか、冷静に考えてみたら、その空間構造なのである。すなわち、木造建築のよれよれで天井が高い。それとガラスの引き窓がついている。これだけファクターが揃えば同じ空間の懐かしい思い出が蘇る。
アメリカ人はヨーロッパに対する文化的コンプレックスがあるから、ザルツブルグあたりで感激してしまうのかと私は不思議な気持ちがした。
^_^ロバートフランクにしてもそうだが、彼はスイスチューリヒ出身であるから、ニューヨークに長年住んでも風景論としてはニューヨークを批判しているのである。
ドイツ人はドイツ人でザルツブルグと言うのはドイツの南にあると思っている位なもので、結構所在地を誤解している人は多い。
私などもザルツブルグにはなるべく縁がないようにと思っていたのだが、ヨーロッパ滞在の最後の方になってザルツブルグカレッジでワークショップをやることになり、最初の計画が狂ってしまったのだが、それはそれでよかった。
ちょっと前に出した私の写真集でその中に掲載されたワンショットなのであるが、冬のザルツブルグが写っている。私はザルツブルグは毎年夏に行くものだと思っていて、自分の記憶の中では冬のザルツブルグというのが存在していないと長。これは私が忘れてしまっただけである。
このショットでは、ザルツブルグのお城を後から見たところであって、そこに1人の老人が雪の中を杖をついて歩いていると言う。私の作品の中ではなかなか好きなショットなのである。
^_^自分の撮影したザルツブルグの雪の中のショットが、未来の自分を予見していたと思うと、何やら人生が楽しくなってくる。
コンタックスコピーであるソ連製の1連のキエフカメラであるが、1970一年になって最後のキエフファイブと言うモデルでは、巻き上げがトップレバーに改良されているのである。そしてこれは構造が2中になっていて、従来のような巻き上げもできる仕掛けになっている。
コンタックスのレンジファインダーのコピーであるニコンカメラはいち早くニコンエフツーの時代からレバー巻き上げになったしね。
3十数年前の佃島でスイス製のアルパと言うヘンテコリンな一眼レフを愛好する怪しい集団があって、毎月1階秘密結社を開催していたのであるが、10年ぐらいやってもこういう馬鹿は充分であると言うので自主的に開催したのであった。
メンバーの1人がアルパの専門の研究書籍を出したり、テレビ取材が入ったりして何が何だかわからない。このてんやわんやの10年間は思い出すとなかなか楽しかった。会費1000円ずつ出し合って向かいのスーパーに買い物に行って大宴会をやるから、当初は、アルパ研究会あったのが知らない間に、アルコール研究会になってしまった。
まだネットオークションなどが登場するずっと以前の話でメンバーが持ち寄った不良品ではなかった不用品は非常に安い値段が付いていて、ジャンケン大会で勝った人がそれをゲットすると言う原子共産制みたいな資料流通がそこに存在したのであった。
当時はアルパカメラと言うのは、銀座のカメラ屋さんの厄介もので、そういう背景から壊れたアルパカメラが作った時間に吹き寄せられて自然発生したと言うことになる。
手先の器用な連中もいるから、だんだん修理に慣れてきて壊れたアルパカメラは自分たちで治せるような共同体になってしまったのが今にして思うと不思議である。アルパのモデル10というのがあって、このファインダーが不思議なほど真っ暗でよく見えないのである。それでメンバーがいろいろ知恵を絞ったがなぜ暗いのかがわからない。
それで理解できた事は、ファインダーのコンデンサーのレンズが上下逆さまに間違って取り付けられていたのである。逆さまに組み直したら明るい画面になった。
会員数が120人ぐらいになったりして、これは何とかしなければいけないと思っていたら、Retinaハウスの経営者の望月さんと言う人は冷酷な独裁主義者であるから、毎月一定の日に開かれるアルパ研究会の日にちを中心のメンバー以外には教えないで大粛清を行ったこともあった。ここら辺の独裁者のやり方は冷酷で私などはなかなかできないのだが、さすがクレムリンの上に立つような人は凄いなと感心したことであった。
初期は平和でありましたよ。
どうもありがとうございます
「あんなの犬でも撮れるわ!」と酷い言い様でしたよ。
Y縣さんね
某カメラ倶楽部では人気者ですよ
過去にばっかりこだわる愚か者はさっさと消えなさいなww
ゴールドカメラというものがある。1つのジンクスだと思うのだけど、カメラメーカーがゴールドカメラを出すと、その会社はやばいと言うような感覚が、我々カメラ人類の間にはある。
アルパカメラは最初のモデルが1947年に登場して、それから50年位は存在したのだから、カメラメーカーとしては長く頑張った方だと思う。それで一定数のゴールド仕上げの一眼レフを出しているのだ。
ゴールド仕上げで1番間違いをしたのは、日本のカメラメーカーでペンタックスとかコンタックスの一眼レフもそうであったのだけど、霧の箱に入って、カメラを触るときに白手袋が必要であろうと言うので、それが付属している。要するに、化粧品扱いの考え違いの方向なのだ。
それに対してゴールドのアルパは実際にかなり使われた痕跡があるから、カメラ人類はこのカメラをちゃんと理解していたことになる。問題なのはゴールド仕上げに対するカメラ本体のレザーの色のコントラストなのだ。ゴールドに対してレッドとかグリーンのレザーになると、いかにもけばけばしくて品格が失われてしまう。
それに対して、このモデルは、グレーのレザーを使っているところが非常に品があって気に入っているのである。
もう一つこの時代のアルパカメラうざっには、面倒なところがあって、ネックストラップアイレットと言うのは別のアクセサリー部品でそれをねじ込むようになっている。これが数が少ないので、最近はもうほとんど見かけないが20年前ですらネックストラップ、アイレットの金具が2つで20,000円以上すると言う馬鹿な値段であった。そういうものを手に入れる我々の方にも責任があるのだがね。
懐かしい
もう鬼籍に入られた方も多いもんな
良い意味でめちゃくちゃな時代であった
それで3年ぐらいやった後に、そのワークショップが双子多摩川のほうに異動すると言うので、遠くて面倒だから継続してやるのはお断りした。そしたらその直後にこのスナップショットで私の赤い旗を指差しているジェントルマンがいるが、彼が中心になって来会公開がなくなったの。だから、偽物のライカ愛好会を作っても良いのではないかと言う提案があって、彼が中心になって新しい組織がスタートしたのである。
それでプロフェッショナルなクオリティーで作った今の大愛好会のこういう赤旗があるので、ちゃんと背中に背を得るようになっているから、ボリシェヴィキではないが、偽物ライカ愛好会の赤旗に結集せよと言うようなインチキスローガンを走ったりしていきがっていたのである。
当初はメンバーが毎月幹事を務めて、それぞれワークショップの行き先を決めたりして、それが終わると大宴会があったりで、なかなか来夏のワークショップと言うよりか通常の飲み会のようになってしまった。そうこうするうちにコロナ騒ぎが来たので偽物ライカ愛好会は現在お休み中である。
^_^しかし、思わぬところで偽物ライカ愛好会の活動に関連して、私の交友範囲が広がったりしてありがたいことだ。やはりライカには人と人とを結びつける不思議な力が存在するのだ。
それ以来、半世紀ぐらいバスの中から撮影すると言うことを継続しているのであるが、それで忘れられないのは東京のバスに初めて冷房が入ったのが1969年頃であったことだ。それまでの東京都の飛ばすは、夏は窓を解放して、涼しい風というか熱風を入れて走っていたのである。
バスからの撮影で面白いのは良い。写真が撮れるかどうかは運転手さんの運転の技にかかっていると言うよりも、全てが偶然の産物であると言うことだ。赤かぶ検事の和久俊三先生と対談をしたときに、先生は国際的な弁護士であるから、事実と事実でないものと言うのを完璧に区別しているのである。それで私のスナップショットのように偶然の要素が入ってくると言うのを最初から排除しているのであるから、うまく説明ができなかった。
東京でバスをとっていて、気になるのは自転車^_^通学の女子高生がちょろちょろ私の視界に入ってくるわけである。気にしてないと言えば嘘になって、結局こういうような写真を撮ってしまうが、なかなかいい感じに撮れている。
それで考えたのは1950年代後半のロバートフランクのバスの写真の名作がたくさんあるが、そこには女子高生の自転車通学のショットは1枚も入っていないと言う。これは結構謎なのである。しばらく考えてその謎が解けた。アメリカは0のイエローのスクールバスが通学の最も重要な手段であるから、アメリカの女子高生が買い物、自転車でちょろちょろ通学すると言うような事は最初からありえないのだ。ロバートフランクもこれは残念なことであったと思うぞ。
フライブルクの大学は20世紀初めに著名な哲学者を輩出したような文化都市であって、また旧市街の街中をきれいな小川が流れているような素敵な町である。しかし中古カメラ屋さんと言うのは全くなくて、要するにこれは教訓なのであるが、有名な中古カメラをその出身地に探しに行くと言うのは無理な話である。
坂崎さんとこのカメラの何にしびれたかと言うことを思い出してみると、カメラの名前が普通な感じと言うところがその原因の1つで他には何もないというのが無責任極まりない。当時のアメリカでは結構売れたカメラとレンズであって、独自の50ミリef 1.5などと言うのは25年前には手がつかなかったけれども、最近のネットオークションではとんでもない値段が付いているのだから、カメラとかレンズのブランドと言うのはわからないものである。
家人の音楽大学の教え子で卒業して20年ぐらい経過して、それまで勤務していた組織を辞めて時間ができたのでヨーロッパに行きますと言うメールが来た。それでびっくりしたのは彼女の行き先がこともあろうにドイツのフライブルクなのである。この人は20年位前に初期の東京マラソンを完走したような人だから、別にフライブルクでマラソンがあるとは思わないけれども、何かそちらの方面で出かけたのかな。帰国してから別に行った理由は関係がないので質問はしなかった。
まさか、このカメラを探しに行ったのではないよね。
聖路加病院の主治医のたくちゃん先生は私のカメラ本の読者である。この前診察の時にやはりライカを買わなければいけませんよとライカウィルスを撒き散らしたら見事感染してこのカメラを手に入れたと言う。
そういえば30年位前に腰痛で順天堂大学に入院していた時に、院長先生がナースステーションに私のネームプレートを見て夜バラの花を持ってお見舞いに見えた。院長さんも私のカメラ本の読者なのである。
私が退院しても院長先生とはお付き合いがあってあっちこっち飲み歩いた。その時に院長先生が言うには僕は膠原病の専門家だから長徳さん安心してくださいと言うので、当分膠原病になる予定はありませんと申し上げた。
聖路加病院のたくちゃん先生のほうはライカウィルスが発病したばかりだからそれを治すには交換レンズを買ったりするのが1番の特効薬である。銀座松屋の中古カメラ市もオープンしたしね。
カメラ人類にはいろいろなタイプがあるがやはりライカを持っていますと言うことをステートメントとしてカメラ自慢の中に捉えるとその人の知的ステータスが高く感じられると言うところがある。
いや別に順天堂とか聖路加の先生が知的ステータスが高いのは当然ですけど。
カメラジャーナルと言う名前の100円、雑誌は90年代半ばから10年位毎月発行していた。最後の1年は普通の同人雑誌みたいな暑い出版物になったが、最初の9年は8ページのペラペラなパンフレットの安いやつみたいなもので、ヨドバシカメラに並べておくとお客さんがタダだと思って持ち帰ったりしたので、後でプライスタグをつけるようにしたのである。
安原カメラは京セラに勤務していた。安原さんがフリーランスとなって中国に注文して予約制で販売した。ユニークなカメラで、当時はまだデジタルカメラが全盛になる。以前であるから、各メディアでかなり注目を浴びたのであった。
私もモノマガジンと言うメディアの取材で安原創業者さんこれはご自身でそのようにな載っていたのであるが世田谷区の若林の私にとってはなじみのないところにバスを乗り継いで出かけた。
安原カメラの本社はワンルームマンションであるというのがユニークでよかった。安原創業者さんは椅子に座って私に対応したが私の椅子は無いので床に座って安原さんから話を聞いた。
日本の大企業の人と言えば京セラの稲盛さんでインタビューしたこともあるがそれよりユニークなのが安原創業者なのである。私の− 1戦から見ると彼の白いソックスの親指が彼の会話にシンクロして動くのがなかなかいい感じだった。
販売のシステムは確か先に五線円高を支払ってカメラができると残りを払うと言うような形だった。当時は信州中野のコシナレンダーがベッサと言う名前のレンジファインダーを販売直前であって社長の大手はかなりついたところがある。それで私が手に入れた安原カメラを見せてくれと言うのでこちらレンダーの社長に譲って光は分解したりして一応安心したようである。
スナップシューターの私としてはこれ以上望めない優秀なライカコピーであるが普通に使う人は内臓メーターのLEDが暗いとか言うので文句を言っていた。
プラハのアトリエに34年間住んだと言うと皆さんびっくりするけれども、それは34年間ずっといたわけではなくて、プラハに2週間位で東京に3ヶ月いてプラハに3週間いてと言うような事の繰り返しの時間をトータルで計算してみたら全部で34年になったと言う意味だ。1989年のビロード革命の直後からここに暮らしてビロード革命四半世紀の2014年だったと思うけど、もうここに暮らすのは充分だと言う認識が生まれたのである。
それでプラハの夕暮れを何回見たかと言うことだが、アトリエの天窓は上のほうに付いているから、このショットもそうであるが、窓を開けて左側を見ると、それが西の空なのである。
だから、別の見方をすると、漫然と部屋にいて、夕暮れの空を見ると言う事はなくて、自分の意思で能動的に、窓を開けて左側に首を向けると言う意識で、初めて夕暮れに遭遇できると言うのは自然観察をするにはかなりアクティブな行動であると思う。
アトリエの窓は世界に向かって開いている。
このフレーズを有名な文芸雑誌の編集者が褒めてくれたこともあったな。
その地図で私はニューヨークの地理学を勉強した。だからマンハッタンに到着した最初の日から私は自由自在にこの小さな島を歩きまわることができた。私が1番好きな写真集ウィリアムクラインのニューヨークの話である。最も重要なワンショットというのがこれなのだが登場人物が子供なのはわかるが両方とも非常に大人びている。
^_^右の子供のキャラクターもおかしいし左の女の子のアクションも正常ではない。それでどのようなシチュエーションでこの写真集の重要なショットを撮影したのかと言うことと、もう一つは使ったカメラは何であったのかと言うことだった。
という重要な質問と言うのは手のひらに書いておけばすぐ?できるのであるがなかなかそういう事はやりにくいのである。それでプラハでウィリアムクラインに会ったときに私が高校生の時に銀座の本屋で買った写真集はサインしてもらって満足したのであったが後に思い出したのはこのビック?だったのだ。すなわちカメラは何を使ったのですかと言うことだ。こういうどうでもいいことに我々カメラ人類は人生の重要なポイントであると勘違いしてしまうのである。
それで何十年も持ち続けていたこの質問は結局聞かずじまいになってしまった。おそらくニコンS3に2.8センチのニッコールレンズだと思うけどね。
でも失う以前に写真は地元のカメラクラブに入って結構いい成績で活躍していたようなのである。写真家のモノグラフを見ると、初期の仕事はこのような一般受けするというか、写真のポピュリズムと言えるような作品をとっている。これは両手が使えて、ハンドカメラで撮影したものであろう。
家族連れが公園を歩いていて、左の手前にいるのはインスタント写真を撮るフォトグラファーに見えたが、よく見ると手回しオルガンなのである。
プラハの伝統芸能のどこにでも見られるエンターテイメントである。もっとも、公園の中には最近はいなくて、もっぱらカレル橋の上でハンドル回して音楽を奏でている。
この写真家の場合、5体満足であったときには、確かに写真は素晴らしいが、ごく当たり前な作品である。それが片腕になってから三脚の上にカメラをセットして全く新しい境地で撮影をするようになった。初期の作品から、晩年の作品までを並べてみると、その違いが明白にわかるのが非常に興味深い。
この面倒な作業はユーザを安心させるためには最も有効な方法だと思うが、これもドイツあたりのやり方を真面目に真似したもののようである。ドイツにミュンヘンにあったハインツキルフィットと言う会社は、プロ用のレンズで有名なメーカーであるが、そこの製品は出荷するときにそれぞれのレンズで撮影されたテストフィルムを貼付していたのである。
ロードカメラの場合を見ると撮影に使われたフィルムはコピー用のミニコピーである。だからシャープネスが保たれると思ったのかもしれないが、そこら辺の背景はどうもよくわからない。1種のトランキライザーの効果はあったに違いないが、レンズの良し悪しとか写り方と言うのは、最初の1本のテストフィルムを撮影してそれを使った写真家が自分の意思で決めると言うのが正しいやり方だ。
葛飾区小菅の界隈を撮影して歩いて気に入った魚屋さんなどがあって、面白い街だと思っていたら、非常に歴史的な米屋さんと言うのに出くわして全く手入れをしないまま何百年と言う事は無いけれども、何十年も経過していたのがそれも建物のプライドで非常に良いと思った。
歩き疲れたので、ふと周りを見るとこのクラシックな米屋さんの向かいの自分が立っている。ところがコミュニティバスのバス停なのである。20分に1本ぐらいバスが来るらしいので待っていたらハイエースみたいなすごいプライベートっぽい。まるでコミュニティーバスとは関係ないような車がやってきた。
それでおばさんのドライバーさんが運転をしているのだが、私が乗ったら、運転席から手を伸ばして私にキャンディーをくれたのである。コミュニティーバスはずいぶん乗ったけど、キャンディーをくれると言うのは空前絶後の大剣であった。
最近ではエスライトでタクシーに乗ることも多いが、その運転手さんがキャンディーをくれるのである。その2週間後にタクシーに乗ったらやはりキャンディーをくれたので同じドライバーさんであることがわかった。
それから突撃さんとは結構深い。お付き合いがあって、六本木ヒルズに仕事をしていた頃はアポイントなしでいきなり来たり、その後は彼は佃島近辺に住んでいて、今ではコンビニになってしまった熱いお湯が用意してあるお風呂屋の朝日と言う所の常連さんでもあった。
カメラが非常に好きでガラクタ屋さんなどでカメラを発掘してくる。写真に対する制作する欲望は100%なのであるがカメラの手前のところで興奮してしまってその先の方まで行かないというのが、彼の魅力でもある。
なかなかの行動で自民党がまだ野党だった時にJRのどっかの駅で暗殺された阿部ぴょんがいたのを呼び止めてツーショットを取ったりしている。こういう行動力と言うのは普通の日本人男性にはなかなかできるものではない
それでこのショットご説明するとソ連製のキエフ5と言う私の好きなコンタックスコピーがあってそれは50ミリのジュピターレンズが付いているのだがレンズのバヨネットが外爪なのである。だから他のコンタックスマウントカメラにつかないのを突撃さんにお願いして無理矢理改造してもらっているところである。私が馬鹿話をしているわけでどんどん仕事が進んでいくと言うものすごいライブ感覚であった
その突撃さんも数年来小田原のほうにお住まいなので、最近はお目にかかる事はないがお元気であろう?
スナップショットの場合、そのショットが厳密にどこで撮影されたのかと言うのはそんなに重要なことではないから、駅のプラットホームの立石かお花茶屋かどちらかであると言っておこう。あぁ今思い出した。考えていくうちにこれはお花茶屋のプラットフォームであることがわかりました。ごめんなさい。
それで京成線の駅の話なのだが、ここら辺の駅はいわゆる見捨てられた駅というか急行も特急も止まらないから、都心に行くためには各駅に乗るのは良いとして、その待ち時間が忙しい都会人には結構長い待ち時間なのである。
その誰もいないプラットホームに女の子が2人所在なさげに後ろ向きで立っていると言うのは、私のスナップショットの定番ではある。ライカのフルサイズだったら21ミリで横画面でバッチリというのがこれなのだけれども、この場合はエプソンカメラでAPS-Cサイズで12ミリの腰レンダーがついている。
だから35ミリフルサイズに換算すると18ミリか19ミリで21ミリよりはちょっと短いがなかなか使い勝手のよりカメラアングルとなる。最近の数年間で撮影した東京のスナップショットとしてはトップファイブ位に入るのではないかと自画自賛しているのだ。