ウクライナ昭和天皇をヒトラーと同等にしてしまうww最終更新 2023/07/22 10:541.名無しさんjmXqIbhTコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ひどすぎるッピ出典 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/kokusai/16509850072022/04/26 23:56:4715コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさん8Fwte(1/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>1侵略戦争を引き起こした国の国家元首のヒトラーと裕仁が同列なのは当然2023/07/22 10:45:163.名無しさん8Fwte(2/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々https://gendai.media/articles/-/58837「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ」続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)といって、喜びを隠さなかった。2023/07/22 10:51:474.名無しさん8Fwte(3/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。2023/07/22 10:52:435.名無しさん8Fwte(4/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼これだけ好戦的な発言を発した昭和天皇の戦争責任は重い。ヒトラーと同列も当然の結果。2023/07/22 10:54:43
【消費税減税】「中身は若者いじめだよ」得するのは高齢者と外国人観光客だけ? “現役世代が損する”との指摘が相次ぐ”優しい減税”の正体ニュース速報+3102217.62025/05/04 15:31:30
【時事通信】現在40~50代の 就職氷河期世代が老後に貧困化するリスクが高まっている、現役時代の低賃金で基礎年金を満額受給できても生活保護に陥るケースが続出する・・・有識者 「基礎年金水準の底上げを」ニュース速報+2061255.52025/05/04 15:30:44
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侵略戦争を引き起こした国の国家元首のヒトラーと裕仁が同列なのは当然
https://gendai.media/articles/-/58837
「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として
侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、
戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ」
続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。
1941年12月25日には早くも、
「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)
と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、
「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)
といって、喜びを隠さなかった。
米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。
日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。
4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、
5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。
天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。
その頻度はいささか異常だった。
「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)
いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。
1944年に入っても、
「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)
といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。
日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていた
マリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。
ヒトラーと同列も当然の結果。