【関西女帝】上沼恵美子【千里万里】最終更新 2024/11/05 09:281.なんてったって名無しさんKJ6cO上沼 恵美子(かみぬま えみこ、1955年〈昭和30年〉4月13日 - )は、日本のタレント、テレビ司会者、歌手、元漫才師。上沼事務所所属。夫は元メディアプルポ代表取締役会長、元関西テレビプロデューサーの上沼真平。姉は海原千里・万里の相方でもあった、芦川百々子。2024/07/03 06:45:3234コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.なんてったって名無しさんKJ6cO3人きょうだいの末っ子(6歳上の姉と2歳上の兄がいる)。兵庫県の淡路島にある三原郡福良町(現・南あわじ市福良)の出身で、島内の中学校を卒業。実家は焼き肉店であった。海原千里・万里時代は、事務所の意向で姉の芦川百々子が年齢詐称させられていた為、4歳違いの姉妹として活動。学生時代はバスケットボール部に所属していた。2024/07/03 06:49:483.なんてったって名無しさんKJ6cO銀行員を務めていた父が演芸好きだった事から(父もかつては芸人になりたかったとのこと)、幼少時から姉妹揃って演芸や歌を見たり聞いたりして育つ。祖母は浄瑠璃の師匠、太棹三味線の名手だった。姉は浄瑠璃のものまね、自身は美空ひばりのものまねをしていた。このように一家で芸事好きだったのが高じて、自分の一家が中心になって「みどり劇団」という劇団を組み、休日に老人ホームへ慰問に行くなどの活動をしていた。2024/07/03 07:06:304.なんてったって名無しさんKJ6cO元々は歌手志望だったが(父には「歌手になったって絶対あかん。顔もあかんし、歌唱力も(天童)よしみちゃんくらいうまかったらな」と言われたことがある)、漫才コンビとしてデビューする筈だった姉の相方がデビュー前に失踪した為、父に「お前行け!」と言われ姉と漫才コンビを組む事になり、1969年(昭和44年)春、中学2年生になる前の春休みの頃に大須演芸場の舞台に立つ。中学校卒業後、1971年に姉妹漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(海原お浜・小浜門下)としてデビュー。同年、上方お笑い大賞銀賞を受賞する。高校生ながら巧みな話術で一躍スターになり、当時人気アイドルで白雪姫と称されていた天地真理に倣い、「漫才界の白雪姫」と呼ばれていた。1973年にはNHK漫才コンテスト優秀敢闘賞を受賞し、1975年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げて大ヒットする。19歳の時、1974年5月初旬に盲腸で大正病院に10日間入院。2024/07/03 07:08:205.なんてったって名無しさんKJ6cO1975年、20歳の時に出演した関西テレビ『日曜ドキドキパンチ』で、同局ディレクターの上沼真平と出会う。1977年5月22日、8歳上の真平と結婚。親族・親類全員が反対する状況下での結婚だった。姉とのコンビを解消し、ラスベガスからカウアイ島へと渡る新婚旅行を経て、芸能界を引退する。義母・上沼浜子は2007年(平成19年)に89歳で亡くなっている。真平の父・上沼健吉は上沼が嫁ぐ前の1969年に亡くなっていて、自身の本籍地である大阪府箕面市桜1丁目の18坪の建売住宅に真平と姑と3人で暮らす事になる。2024/07/03 07:09:406.なんてったって名無しさんKJ6cO1978年4月、長男(後に上沼恵美子事務所スタッフとなる上沼清太郎)を出産後の7月に料理番組のアシスタントで芸能界へ復帰。1983年5月に次男(後に構成作家となるゆじぇーろ)を出産した。芸能界復帰について、上沼は後に番組内で「自分には専業主婦は耐えられなかった。」と述懐している。また、読売テレビ『上沼・高田のクギズケ!』内で島田紳助の引退について触れた際は、自身の引退時に「番組スタッフとかが離れていった事が寂しかった。」と明かした2024/07/03 07:11:097.なんてったって名無しさんKJ6cO1994年(平成6年)と1995年にはNHK『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を担当した。1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を担当した際、「上沼恵美子なんて大阪だけのタレントです。それをNHKが紅組の司会に起用したっていう事は風当たりも強かったですし、やはりベテラン歌手にはいびられました」「ベテラン歌手から『あんたみたいなもんが紅組の司会ってなんやの』という態度で迫られた」と語っている。出場歌手と面談した際、「横を向いて目を会わせてくれない方が4、5人いた」と『あさイチ』(NHK総合テレビ、2015年12月25日放送)で語っており、「その人たちは未だに大っキライです」とも述べた。しかし、翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』での紅組司会の際については「ころっと変わりました。大事にされました」と話している2024/07/03 07:12:398.なんてったって名無しさんKJ6cO2002年のNHKが実施したタレント好感度ランキングでは、女性部門で久本雅美、松嶋菜々子に次いで3位になる。2003年度長者番付大阪地区では、芸能人部門で1位となった。2024/07/03 07:13:209.なんてったって名無しさんKJ6cO2007年より大会委員長の島田紳助からの直々の依頼により、朝日放送『M-1グランプリ』に初の女性審査員として出演。同年から2009年まで審査員を務めたほか、大会の中断期間を挟んで2016年から2021年まで筆頭審査員を務めた。2024/07/03 07:16:2010.なんてったって名無しさんKJ6cO2022年にセミリタイアを宣言し、テレビ・ラジオともにレギュラー番組は1本となっている。一方で、新たにYouTubeチャンネルを開設し、トーク企画や料理企画などを配信している。2024/07/03 07:20:0611.なんてったって名無しさんKJ6cO自身のレギュラー番組において過去に共演した芸能人を批判することがよくある。また、ゲスト出演した芸能人に「嫌いな芸能人」などのネタを聞き出すことも多い。放送時には効果音で実名が消されイニシャルトークで進行されるが、実名で批判することもあった。パターンとしては、自身が出演しているラジオ番組こころ晴天の中でテレビ番組いつでも笑みをにゲスト出演した鶴田真由の態度が不快だったと生放送で語ったり、清水アキラに対しては、「あんなヤツ、そのうち人気が落ちる」と述べ、名誉毀損寸前の騒動に発展したことがある。逆に自分がゲスト出演した際には司会者に「嫌いな人とかいましたか?」と直球で聞くこともある2024/07/03 07:22:1812.なんてったって名無しさんKJ6cO仕事は基本的に在阪局に絞って行い、在京局やローカル局では滅多に仕事をしない。上沼と同様在阪局に絞って出演していたタレントとしてはやしきたかじんが挙げられるが、上沼の場合はやしきのような「東京嫌い」というわけではなく、芸能界復帰の際に夫・真平と交わした「(仕事をする範囲として)西は姫路、東は京都まで」との約束を守っているためで、これにより本格的な東京進出を断念している。事実、たかじんの生前は在京局の番組での出演は非常に少なく、自身の冠番組が在京局にはネットされなかった。それに対して上沼は、在阪局制作の在京局を含む全国ネット番組には出演しており、回数こそ少ないものの在京局制作番組にゲスト出演したり、出演する在阪・在名局共同制作番組で時折行われる名古屋収録に参加することもある。このため、在阪局での仕事がメインではあるものの、東京での知名度は高く、この点においてもたかじんが生前東京での知名度が低かったのとは対照的である(これは『情報ライブ ミヤネ屋』が全国ネット化されるまで、東京での知名度がほとんど無かったフリーアナウンサーの宮根誠司も同様であった)2024/07/03 07:24:0713.なんてったって名無しさんKJ6cO2014年1月12日放送の『上沼・高田のクギズケ!』では「来世は東京に行きたい」「東京進出をしないのは、大阪の人と結婚したから。(東京に行ったら)別居になるやん。今度は東京の人と結婚したい!」「NHKから『大河ドラマ』の出演打診があったが、東京収録のため断った」「紅白の司会をした後、在京局から11本に及ぶレギュラー番組のオファーがあったが、夫を優先するため全て断った」と語った。2005年12月18日にニッポン放送のスペシャルウィークの特別番組『上沼恵美子のニッポン放送初上陸!2005年言いたい放題』で久々の在京ラジオ局への出演を果たす。2006年3月23日には日本テレビで放送の島田紳助と松本人志(ダウンタウン)が司会の『松紳ゴールデン!』にゲスト出演し、紳助と初共演を果たした。その際、夫の定年を機に「来年引退してハワイに移住する」と発言したが、紳助と松本に説得されて翻意した。2024/07/03 07:25:3714.なんてったって名無しさんKJ6cO夫・真平からは「自分が定年退職となる時に一緒に仕事を辞めよう」と約束されていたが、真平の定年退職後も仕事を続けている。2014年7月20日放送の『クギズケ!』で「(真平の定年退職時)夫から『一緒にやめようね』って言われて。ちょっと待ってって言いました」「(仕事は)もういいじゃないか、一緒に世界旅行でもしようよという気持ちみたいだったんだけど、あたしはまだ未練があった。コンサートやるって言ったらいい顔はしません」と語っている。ちなみに2021年時点では籍は入れたままだが別居している。別居後には以前から断り続けていた在京局のテレビ出演オファーを積極的に受けるようになり、収録や生出演毎には毎回上京している。番組に出演する際の衣装にはこだわりを持っており、専属スタイリストを雇って個人で用意している。しかし、1997年と2005年の確定申告において、経費として申告した衣装代などが経費にはあたらないと指摘され、申告漏れとして追徴課税されている。2024/07/03 07:27:1915.なんてったって名無しさんKJ6cO吉本興業が主催する漫才コンテストM-1グランプリに2007年から女性初の審査員として出演し、以降も2010年と2015年を除いて2021年まで毎年務めており、2016年以降は筆頭審査員として出演している。出演は当時の大会委員長である島田紳助の直々の依頼により実現した。紳助によると2006年に自身の番組「松紳」に上沼が出演後、食事を共にし仲良くなり、スタッフを通じて出演依頼を行った。紳助曰くM-1の審査員はその審査を視聴者に審査されるというリスクを負うためなり手がおらず、紳助も多くの人に直談判してきたが、ほとんどの人に断られた。そんな中、上沼は審査員が損な役回りであると分かった上で引き受けてくれたという2024/07/03 07:28:5816.なんてったって名無しさんvZ3q6パワフルですな😁2024/07/04 03:57:1117.なんてったって名無しさんKFxtd毒舌キャラやなあ2024/07/04 15:16:4118.なんてったって名無しさんrUrZuどうもねえ・・・2024/07/05 15:38:0019.なんてったって名無しさんWpWkwまさに関西だわ😉2024/07/06 04:38:0820.なんてったって名無しさんoNs0wそろそろ若返りの薬ができんかな2024/07/06 09:41:1221.なんてったって名無しさんQ0Rkdえみちゃんねる2024/07/09 07:42:5322.なんてったって名無しさん5QlFQさすが女帝2024/07/14 18:19:2023.なんてったって名無しさんPFRIV毒舌うまいわね😉2024/07/15 04:39:0724.なんてったって名無しさん0uZBc羨ましいのー2024/07/15 11:36:0425.なんてったって名無しさんmN7Jvすげーかねもってそう2024/07/19 17:34:3926.なんてったって名無しさんqUDRQ芸風あんな感じだけど、めちゃいい女だと思う2024/07/23 10:47:1127.なんてったって名無しさんiaHRaこの人の芸風相当好きw2024/07/24 19:53:3328.なんてったって名無しさんtPom5すげー自信あるんだろうか好きになったわ2024/07/26 20:23:5429.なんてったって名無しさんgZGnDこの方は何をされてる方なの?2024/07/27 07:33:3130.なんてったって名無しさんHbCOGいろいろ芸能界の闇知ってそうだから楽しいだろうな2024/08/04 18:18:1631.なんてったって名無しさんVxbeAどうやったら結婚して貰えるのか2024/10/15 10:33:3032.なんてったって名無しさんxDGM2上沼は淡路島って領土持ってるのが強いな2024/10/24 08:41:0733.なんてったって名無しさん1sI9v和田アキ子のヒット曲はあの鐘を鳴らすのはあなたと笑って許しての2曲だけ上沼恵美子のヒット曲は多数あるし漫才でも人気者だった2024/10/27 07:46:4534.なんてったって名無しさんGVzBEまさか「ほんこん」の方が面白い時代になるなんてな世の中なにが起きるか分からねぇわ2024/11/05 09:28:46
上沼事務所所属。
夫は元メディアプルポ代表取締役会長、元関西テレビプロデューサーの上沼真平。
姉は海原千里・万里の相方でもあった、芦川百々子。
兵庫県の淡路島にある三原郡福良町(現・南あわじ市福良)の出身で、島内の中学校を卒業。
実家は焼き肉店であった。
海原千里・万里時代は、事務所の意向で姉の芦川百々子が年齢詐称させられていた為、4歳違いの姉妹として活動。
学生時代はバスケットボール部に所属していた。
祖母は浄瑠璃の師匠、太棹三味線の名手だった。
姉は浄瑠璃のものまね、自身は美空ひばりのものまねをしていた。
このように一家で芸事好きだったのが高じて、
自分の一家が中心になって「みどり劇団」という劇団を組み、休日に老人ホームへ慰問に行くなどの活動をしていた。
漫才コンビとしてデビューする筈だった姉の相方がデビュー前に失踪した為、父に「お前行け!」と言われ姉と漫才コンビを組む事になり、
1969年(昭和44年)春、中学2年生になる前の春休みの頃に大須演芸場の舞台に立つ。
中学校卒業後、1971年に姉妹漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(海原お浜・小浜門下)としてデビュー。
同年、上方お笑い大賞銀賞を受賞する。高校生ながら巧みな話術で一躍スターになり、当時人気アイドルで白雪姫と称されていた天地真理に倣い、「漫才界の白雪姫」と呼ばれていた。
1973年にはNHK漫才コンテスト優秀敢闘賞を受賞し、1975年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げて大ヒットする。
19歳の時、1974年5月初旬に盲腸で大正病院に10日間入院。
1977年5月22日、8歳上の真平と結婚。
親族・親類全員が反対する状況下での結婚だった。
姉とのコンビを解消し、ラスベガスからカウアイ島へと渡る新婚旅行を経て、芸能界を引退する。
義母・上沼浜子は2007年(平成19年)に89歳で亡くなっている。
真平の父・上沼健吉は上沼が嫁ぐ前の1969年に亡くなっていて、
自身の本籍地である大阪府箕面市桜1丁目の18坪の建売住宅に真平と姑と3人で暮らす事になる。
1983年5月に次男(後に構成作家となるゆじぇーろ)を出産した。
芸能界復帰について、上沼は後に番組内で「自分には専業主婦は耐えられなかった。」と述懐している。
また、読売テレビ『上沼・高田のクギズケ!』内で島田紳助の引退について触れた際は、
自身の引退時に「番組スタッフとかが離れていった事が寂しかった。」と明かした
1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を担当した際、
「上沼恵美子なんて大阪だけのタレントです。それをNHKが紅組の司会に起用したっていう事は風当たりも強かったですし、
やはりベテラン歌手にはいびられました」「ベテラン歌手から『あんたみたいなもんが紅組の司会ってなんやの』という態度で迫られた」と語っている。
出場歌手と面談した際、「横を向いて目を会わせてくれない方が4、5人いた」と『あさイチ』(NHK総合テレビ、2015年12月25日放送)で語っており、「その人たちは未だに大っキライです」とも述べた。
しかし、翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』での紅組司会の際については「ころっと変わりました。大事にされました」と話している
2003年度長者番付大阪地区では、芸能人部門で1位となった。
同年から2009年まで審査員を務めたほか、大会の中断期間を挟んで2016年から2021年まで筆頭審査員を務めた。
一方で、新たにYouTubeチャンネルを開設し、トーク企画や料理企画などを配信している。
また、ゲスト出演した芸能人に「嫌いな芸能人」などのネタを聞き出すことも多い。
放送時には効果音で実名が消されイニシャルトークで進行されるが、実名で批判することもあった。
パターンとしては、自身が出演しているラジオ番組こころ晴天の中でテレビ番組いつでも笑みをにゲスト出演した鶴田真由の態度が不快だったと生放送で語ったり、
清水アキラに対しては、「あんなヤツ、そのうち人気が落ちる」と述べ、名誉毀損寸前の騒動に発展したことがある。
逆に自分がゲスト出演した際には司会者に「嫌いな人とかいましたか?」と直球で聞くこともある
上沼と同様在阪局に絞って出演していたタレントとしてはやしきたかじんが挙げられるが、上沼の場合はやしきのような「東京嫌い」というわけではなく、
芸能界復帰の際に夫・真平と交わした「(仕事をする範囲として)西は姫路、東は京都まで」との約束を守っているためで、これにより本格的な東京進出を断念している。
事実、たかじんの生前は在京局の番組での出演は非常に少なく、自身の冠番組が在京局にはネットされなかった。
それに対して上沼は、在阪局制作の在京局を含む全国ネット番組には出演しており、回数こそ少ないものの在京局制作番組にゲスト出演したり、
出演する在阪・在名局共同制作番組で時折行われる名古屋収録に参加することもある。
このため、在阪局での仕事がメインではあるものの、東京での知名度は高く、この点においてもたかじんが生前東京での知名度が低かったのとは対照的である
(これは『情報ライブ ミヤネ屋』が全国ネット化されるまで、東京での知名度がほとんど無かったフリーアナウンサーの宮根誠司も同様であった)
今度は東京の人と結婚したい!」「NHKから『大河ドラマ』の出演打診があったが、東京収録のため断った」「紅白の司会をした後、
在京局から11本に及ぶレギュラー番組のオファーがあったが、夫を優先するため全て断った」と語った。
2005年12月18日にニッポン放送のスペシャルウィークの特別番組『上沼恵美子のニッポン放送初上陸!2005年言いたい放題』で久々の在京ラジオ局への出演を果たす。
2006年3月23日には日本テレビで放送の島田紳助と松本人志(ダウンタウン)が司会の『松紳ゴールデン!』にゲスト出演し、紳助と初共演を果たした。
その際、夫の定年を機に「来年引退してハワイに移住する」と発言したが、紳助と松本に説得されて翻意した。
2014年7月20日放送の『クギズケ!』で「(真平の定年退職時)夫から『一緒にやめようね』って言われて。
ちょっと待ってって言いました」「(仕事は)もういいじゃないか、一緒に世界旅行でもしようよという気持ちみたいだったんだけど、あたしはまだ未練があった。
コンサートやるって言ったらいい顔はしません」と語っている。ちなみに2021年時点では籍は入れたままだが別居している。
別居後には以前から断り続けていた在京局のテレビ出演オファーを積極的に受けるようになり、収録や生出演毎には毎回上京している。
番組に出演する際の衣装にはこだわりを持っており、専属スタイリストを雇って個人で用意している。
しかし、1997年と2005年の確定申告において、経費として申告した衣装代などが経費にはあたらないと指摘され、申告漏れとして追徴課税されている。
以降も2010年と2015年を除いて2021年まで毎年務めており、2016年以降は筆頭審査員として出演している。
出演は当時の大会委員長である島田紳助の直々の依頼により実現した。
紳助によると2006年に自身の番組「松紳」に上沼が出演後、食事を共にし仲良くなり、スタッフを通じて出演依頼を行った。
紳助曰くM-1の審査員はその審査を視聴者に審査されるというリスクを負うためなり手がおらず、紳助も多くの人に直談判してきたが、
ほとんどの人に断られた。
そんな中、上沼は審査員が損な役回りであると分かった上で引き受けてくれたという
好きになったわ
上沼恵美子のヒット曲は多数あるし漫才でも人気者だった
世の中なにが起きるか分からねぇわ