【チェック】邪馬台国は甘木にあった!数学者の半沢氏が中国古代数理科学で解析 福岡県朝倉市で講演会【アウト】最終更新 2025/04/29 22:581.名無しさん@涙目です。EiI9aコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼公益社団法人甘木朝倉法人会(福岡県朝倉市)は16日、金沢大元准教授の半沢英一氏を講師に、中国古代数理科学の視点から魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地についての講演会を朝倉地域生涯学習センター(同市)で開いた。邪馬台国が甘木にあったとする説に来場者120人が耳を傾けた。 数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。 本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/2025/02/23 15:01:361412コメント欄へ移動すべて|最新の50件363.名無しさん@涙目です。1mWw0(4/5)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>361学者がちゃんとした調査に基づいて発言してる内容と、お前が思い付きで何の根拠もなしに言ってることじゃまったく価値が違う。そもそも、お前がソースにしたこの研究で言っていることは、半島を経由せずに伝わった品種もあるということで、半島を経由して伝わったことがないなんてことは主張していない。むしろ、半島を経由するルートもあっただろうと言っている。ソースはちゃんと理解しとけ。ソースと真逆のこと言ってるのは理解が足りないとしか言いようがない。2025/04/21 22:08:55364.名無しさん@涙目です。ZjDEH(20/23)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼そんなツマンナイレベルじゃなくて今、ステンレス箸を使ってるから超古代からステンレスを使ってた、ビッグバンと言うアーティストが居るからビッグバンは韓国起源まで言い張れよ2025/04/21 22:09:261365.名無しさん@涙目です。1mWw0(5/5)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>364お前がソースを理解できておらず、ソースに反することを喚いているのが問題。関係ない話すんな。2025/04/21 22:14:06366.名無しさん@涙目です。ZjDEH(21/23)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ツングースと黄河系なんだから馬とかにしろよ北方文化は北方文化であるんだから稲作の周辺遺物や環境からも明らかに日本は南方由来せめて、四国との畑作との関連とかあったとしても後期2025/04/21 22:16:42367.名無しさん@涙目です。ZjDEH(22/23)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼北方、寒冷地が何言ってんだか2025/04/21 22:17:19368.名無しさん@涙目です。ZjDEH(23/23)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼全く見てないけど、こんだけ煽ったらグチャグチャ言ってるかな?2025/04/21 22:18:50369.名無しさん@涙目です。svp2g(1/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>356>半島経由はないなんてソースは言っていない。>むしろ半島経由はあったと言っている。そこらへんのオバサンの議論www2025/04/22 05:24:38370.名無しさん@涙目です。HzImW(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼何でいつもアンカー間違ってんの?アタマオカシイの?2025/04/22 05:34:18371.名無しさん@涙目です。svp2g(2/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>361学者持ち上げてケツなめてんの馬鹿みたい大川隆法が東大出だから信者になった幸福の科学会員みたい2025/04/22 06:28:04372.名無しさん@涙目です。HzImW(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼何でいつもアンカー間違ってんの?アタマオカシイの?2025/04/22 07:15:28373.名無しさん@涙目です。svp2g(3/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼知らねえよ ブラウザのせいなんじゃないのスレによってアンカーがおかしくなるお前の病気が伝染したんじゃまいかw2025/04/22 08:53:18374.名無しさん@涙目です。dlPJYコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼粟・稗・高粱でも喰ってろ2025/04/22 12:00:10375.名無しさん@涙目です。xEYazコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ソースと真逆のことを喚いておいて、その根拠は示せない。つまり、ソースの真逆のことソースなしで喚いている。2025/04/22 15:01:071376.名無しさん@涙目です。svp2g(4/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼くやしがる朝鮮人(藁2025/04/22 23:04:00377.名無しさん@涙目です。aRBZKコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼朝鮮は日本から米を輸入して鉄を輸出してたんだろ半島は米作に不向きだからな半島から来たのならば半島でまともに育つ稲があったはずなんだよこんなもん農業やってる人間なら分かるその土地に種というのは順応するものだからな野生種から栽培種になる時点で人間が育てないとまともに育たなくなるんだよ2025/04/23 00:09:01378.名無しさん@涙目です。f74LeコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>375お前、なんか時代がバラバラ2025/04/23 11:48:00379.名無しさん@涙目です。e0udQ(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼黒潮は、沖縄の上あたりで二つに分かれる。と言っても主流の流量はほとんど変わらず、日本列島の太平洋側に流れる。ちょっとだけ、20分の1くらいの量の支流がが壱岐・対馬の方向に流れる。これが対馬暖流。これが隠岐の島あたりで二つに分かれて、まず下側の流れが日本列島の出雲あたりにぶつかる。つぎに、上の流れは日本海の真ん中ぐらいまで流れて行って、秋田の八郎潟から青森の十三湖あたりに押し寄せる。秋田・青森の縄文人は、北海道の日本海沿岸を北上し、樺太まで行き、樺太西岸を北上し、今の間宮海峡まで行った。そこまでしか行けない。なぜなら、間宮海峡にはアムール川が流れ込んでいるからだ。https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.htmlこの海上保安庁の海図を見ると分かるが、対馬暖流が北海道の宗谷岬の先端のところから曲がってオホーツクの方に行ってしまう。なぜかというと、対馬暖流はアムール川の流れにより押し戻され、右に行くしかなくなってしまうのだ。http://bungakubu.kokushikan.ac.jp/chiri/EarthWacht/Dec2006/RSgazou.htmアムール川から流れ出た水と対馬暖流が混ざってリマン海流になる。つまり、リマン海流とは対馬暖流の戻りといってもいいのである。その後、リマン海流は沿海州の岸をずっと辿っていき、朝鮮半島の付け根にぶつかる。それで南にしか行きようがなくなり、釜山の方まで流れるのだ。だから朝鮮半島の西岸は夏でも海水が冷たく、海水浴のできる海岸はあまり無い。縄文人は樺太の先の方まで行って、さらに下って沿海州の海岸線に沿って西に行き、途中日本海の真ん中を突っ切って帰ってくることもあるが、※ 朝鮮半島にまで行くこともあった。そして半島西岸を下り、南端の島嶼部まで行き、そこから帰る。秋田・青森に帰るには、途中出雲や丹後、越の国などに寄っただろう。そのうち、朝鮮の島嶼部に住みつき、さらに対馬、さらに先の島々に住みついた縄文人もいただろう。これが倭人の先祖である。※ ナホトカ沖あたりで、リマン海流は二つに分かれ、日本列島の東北に向かう流れがある。これに乗って帰ってくることもできるのだ。2025/04/24 09:58:071380.名無しさん@涙目です。nAn4Q(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼気にするな、気のせい2025/04/24 10:41:34381.名無しさん@涙目です。nAn4Q(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼「倭人」を遺伝的に語る場合、Y染色体ハプログループ長江系O1b2(別名:O-47zまたは旧O2b)が主な構成要素D1a2縄文人とは別物古代の分布と大陸の文献などがそれを物語る2025/04/24 10:46:14382.名無しさん@涙目です。e0udQ(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ずっと縄文人がいたわけじゃないだろボケ朝鮮に鉄を取りにいってた頃の倭人とはちがう今の日本人にも縄文人のDNAは混じってるわけだが、倭人とか今の西海や玄界灘に住む人たちには混ざってないのか?畿内人とどっちが縄文が濃い?2025/04/24 10:59:56383.名無しさん@涙目です。nAn4Q(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼支離滅裂ボケ2025/04/24 11:06:08384.名無しさん@涙目です。e0udQ(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>379倭人には縄文人の血は混じってないのかよハプロ小僧w2025/04/24 23:27:051385.名無しさん@涙目です。LYQpZコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼畿内にあった2025/04/25 11:40:38386.名無しさん@涙目です。AzKnQコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼あいまいなこと書いて逃げる小学生博士君ww2025/04/25 16:52:58387.伊都国滞在中の魏の使者Y3cCyコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼倭人の話によると、女王国は奈良盆地というところにあるらしい。日程はここから船なら10日、徒歩なら1ヵ月らしい。それはともかく、金印も一大率に預けたし任務完了だな。さて、帰るかw2025/04/25 18:07:52388.名無しさん@涙目です。eeQcfコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼女王って名草戸畔とかじゃないだろうな北九州から中国地方のO1b2とは何の関係も無いすべてが勘違いと間違いって感じ2025/04/26 01:45:291389.名無しさん@涙目です。lXIsdコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼「魏志倭人伝」によると、邪馬台国は三十余のクニグニ、すなわち、対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥(ふみ)、投馬(とうま)、斯馬(しま)、巳百支(しはき)、伊邪(いや)、都支(とき)、弥奴(みな)、好古都(ここと)、不呼(ふこ)、姐奴(そな)、対蘇(つそ)、蘇奴(そな)、呼邑(こお)、華奴蘇奴(かなそな)、鬼(き)、為吾(いご)、鬼奴(きな)、邪馬(やま)、躬臣(くし)、巴利(はり)、支惟(きい)、烏奴(うな)、といった諸国の頂点に立つクニであったとされる。 そして、これらのクニグニがまとまったものが、邪馬台国連合だ。「魏志倭人伝」には、それぞれのクニの役割や、そこで導入されていた制度についても記されている。これに相当する、または名残りがある地名がないと邪馬台国杯に参加する資格はない纏向なんかは漢語というよりハングルの宛字に近い半島北部から北陸を経由して来たのだろう2025/04/26 13:24:58390.名無しさん@涙目です。Nh7rkコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼明らかに順番だろ北陸って何だよ2025/04/26 15:08:131391.名無しさん@涙目です。O5JcLコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼場所論争もいいがヤマト王権の前身なのか違うのかが大事2025/04/26 20:33:501392.名無しさん@涙目です。UBBZ4コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼漢字を発明したのは殷王朝殷王朝を作ったのは日本人2025/04/27 00:31:11393.名無しさん@涙目です。bMqgf(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>388いや、弥生人は西から来たのではなくて、半島の方から縦方向、すなわち但馬とか、丹後半島とか敦賀湾などから中国地方東部とか畿内に入ってきた可能性がある。瀬戸内海を渡り(縦にたとえばち児島から坂出までを島伝いに)、四国にも一挙に入ってきた。瀬戸内海は、横に航海するのは大変だが、縦は島伝いに行けばかなり楽に渡れる。山陽側から四国に渡るのはけっこう楽にできたと思う。2025/04/27 02:36:051394.名無しさん@涙目です。LACHRコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼畿内説が有力だよ2025/04/27 09:03:02395.名無しさん@涙目です。S57Y1コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼倭人とは長江系O1b2に過ぎない殷が倭国なのは当たり前の話弥生時代の開始地点は九州北部(西)で確定している考古学的に、最古の弥生遺跡(板付遺跡・菜畑遺跡など)は福岡・佐賀エリアに集中しており、まず九州北部で稲作と弥生文化が始まったのは動かしがたいつまり、「西から入った」のは確定事項但馬や丹後が最初ではない日本海ルートは制限的たしかに但馬・丹後など日本海側から入るルートもあったが、日本海は荒れやすく、当時の航海技術ではリスクが高かった航路が安定するのはもっと後(古墳時代以降)よって、本格的な渡来はまず九州・瀬戸内側がメインだった四国の弥生文化は「西四国から」広がっている四国も、まず愛媛や香川(西側)に弥生文化が入り、その後、東へ拡大しているつまり、山陽側から南下して四国入りしたのが実態香川・愛媛の初期弥生遺跡がこれを裏付けている2025/04/27 11:23:271396.名無しさん@涙目です。bMqgf(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>393ハプロ小僧の登場であるw>殷が倭国なのは当たり前の話こういうところに、トンデモ本の影響が見られる北九州への弥生人の流入はごくわずかであった。農業というのは、基本的に土地の排他的占有であり、他者を寄せ付けない。かりに土地が無限にあっても、水資源は有限である。後から来た人たちは、いったんは寄留しても、いずれは他に移っていかざるを得ない。そうでなければ奴隷になるか。陸地に近寄ったら襲撃されて、物は奪われ、人はさらわれるかも知れない。人のいるところに滅多に近づけるものでもなかった。弥生人主流は、但馬や若狭湾を中心とする裏日本から畿内や今の神戸明石方面に入ってきた。そこから島伝いに四国に進んだ。四国で人口が増えると、いわゆる海賊が横行し、関銭をとった。当時貨幣はないので、ヒスイとか金属とかがその役割をしたはずである。弥生人の三つのグループができた。吉備を中心とする西の勢力、大和を中心とする畿内の勢力、そして琵琶湖東岸、岐阜、尾張を中心とする東の勢力。さらに、どこにも属さないものとして伊勢地方の小勢力があった。>日本海は荒れやすく、当時の航海技術ではリスクが高かった笑える。瀬戸内海を西から東、あるいはその反対に横断するのはきわめて困難。日本海は海流の関係で危険が少なかった。流されて沖に流されるということのない、安全な海だった。2025/04/27 12:20:582397.名無しさん@涙目です。UDjI2(1/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼アンカーいつも間違うからすぐ分かるなこのキチ2025/04/28 00:23:521398.名無しさん@涙目です。UDjI2(2/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼オマエがトンデモ畿内キチだからだよ「北九州への弥生人流入はごくわずかだった」→完全に誤り コレでは前提が完全に狂っているので議論のしようがない北九州が最も初期の弥生文化発祥地であり、炭素年代測定や土器様式、遺跡(板付・菜畑など)からも、最初に稲作文化が根付いた地域であることは常識今のところ、コレは覆しようがない稲作と鉄器が一体で渡来している以上、人口流入が「ごくわずか」なら弥生文化そのものが成立しない弥生人は縄文人を一気に駆逐したわけではなく、交雑しながら拡大した。流入初期が少人数だったとしても、定着後に爆発的に人口が増えたのは考古学でも定説 北九州を経由せずに弥生文化が畿内に直接広がったなど絶対にありえないこれは初歩的な論理破綻北九州=弥生文化発祥地炭素年代測定(C14測定)や土器編年(板付式・菜畑式)から、紀元前10世紀頃には稲作が北部九州に定着していたことが確実板付遺跡(福岡)、菜畑遺跡(佐賀)などが典型つまり、「弥生文化=まず北九州」というのは学術的に揺るがない事実しかし、北九州弥生勢力は停滞し、東進北九州→瀬戸内沿岸(山口、広島、岡山)へ拡散し、「吉備文化圏」を形成瀬戸内は穏やかで稲作に適し、地理的にも移動が容易だったそのため弥生人の中心は、次第に中国地方へシフトした北九州から始まり、瀬戸内ルートを経て畿内へ拡散したのが常識山口(吉田遺跡)→広島→岡山(楯築遺跡など)→播磨(兵庫)→畿内(奈良盆地)このルート上に、稲作遺跡の年代連続が明確に存在する畿内に突然、稲作社会が出現するわけがない北九州発祥→東進のルートを無視する説は、完全な非科学的妄言2025/04/28 00:47:401399.名無しさん@涙目です。UDjI2(3/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● 九州内部はどうなったか北九州以外の九州(特に南九州=熊本・宮崎・鹿児島)は、縄文文化が根強く残存南九州は火山灰土壌(シラス台地)が多く、稲作に適さなかったため、稲作定着が遅れた(弥生文化の浸透が非常に緩やかだった)よって、九州全体が一気に弥生化したわけではない特に南九州では、縄文人系の勢力がむしろ盛り返していた● 重要ポイント九州は「北部だけが弥生」「中南部は縄文持続」という二重構造だったこれは後の歴史にも影響し、たとえば隼人(南九州系の勢力)が大和政権に強く抵抗した背景になっている「北九州発祥→中国地方へ移動」「九州自体は縄文勢力が根強く残った」という理解こそが正しい> > 396のように「北九州流入はわずかだった」「畿内に直接」なんていう話は、まったく現実に合っていない要するに、> 北九州は「弥生流入地」であり、拠点移動後に南九州から縄文圏が復活したこれが正解2025/04/28 00:48:041400.名無しさん@涙目です。UDjI2(4/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼「農業は排他的、だから寄留した渡来人は追い出された」→論理破綻農耕社会でも、新たな土地開発(開墾)こそが生存戦略。田畑を広げるために、共同体で協力して新天地を求める水資源が限られているのは事実だが、だからこそ稲作技術(用水路建設など)を持った渡来系が歓迎された縄文人はそもそも農業文明ではない(狩猟採集中心)ので、稲作技術を持つ弥生人に対して大きな抵抗力を持てない→ 渡来人は「寄留民」ではなく、技術者「但馬・若狭湾経由で畿内へ」→時代考証の誤り 典型的な時代考証バラバラのバカコイツのいつもやる手若狭ルートは弥生後期以降であり、北九州→瀬戸内→畿内ルートが先そもそも北部九州を無視して若狭や裏日本から直接畿内に流入したという証拠は存在しない地理的に考えても、日本海側から琵琶湖→畿内は険しい山岳地帯(比良山地・丹波高地)を越える必要があり、当時の技術では困難→ 主要ルートはあくまで北九州→瀬戸内→畿内。裏日本経由説は後期の話「日本海は安全、瀬戸内海は困難」→完全な無知日本海は冬季の季節風(北西季節風)と波浪が極めて激しい。特に出雲から若狭にかけては遭難が頻発瀬戸内海は島々に守られた内海であり、波も穏やか、視界も確保できるため弥生時代の手漕ぎ船でも航行可能だった古代の航路(例:神功皇后の伝承や、古事記・日本書紀記載の海路)も、瀬戸内ルートが主流であることが示されている→ 「日本海は安全、瀬戸内は危険」などというのは、古代航海の常識に反する無知な暴論2025/04/28 01:05:351401.名無しさん@涙目です。UDjI2(5/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼「殷が倭国はトンデモ本」→論点逸らし殷(商)と倭の関係を議論するには、ハプロ(Y染色体遺伝子)や文化比較が必要「トンデモ」とレッテルを貼るだけで、具体的な反論が一切ないため無意味殷末期の王族遺伝子に長江系O1b2系統が含まれる可能性や、稲作文化・青銅器文化の伝播ルートを考慮すると、長江系の倭人と殷人の一部に血統的・文化的接続を考えるのは十分合理的コレを日本人と言うとトンデモ→ 「トンデモ」とだけ言うのは、論理的議論を放棄している証拠【総括】この>>396の内容は、考古学的知識不足縄文・弥生文化の無理解古代航海技術への無知論理的整合性の欠如レッテル貼りだけで議論していないつまり、完全に破綻している2025/04/28 01:06:061402.名無しさん@涙目です。UDjI2(6/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼文化・遺伝子レベルの接続は合理的殷(商末期)は内部崩壊・王族逃亡が起きた倭人(弥生人)のO1b2(長江流域起源)と、殷末期の文化流出(青銅器・稲作)が地理・年代的に一致する稲作、青銅器、祭祀(呪術的儀礼)の特徴もかなり一致→だから殷の末裔の一部が倭人社会(弥生社会)に合流した可能性は高い「日本人」と「倭人」は区別が必要いきなり「殷=日本人」という極論を叩くのは詭弁日本人=長江系O1b2倭人+縄文人D1a2の混血と黄河系O2b1で補完、形成された集団その倭人社会の中に、殷末の難民や王族(祭祀階層)が一部流入した、という形なら十分に論理的【さらに補強:歴史的背景】殷末期の大動乱(武丁の後の混乱→帝乙・帝辛時代)で、東方(海岸部)への逃亡者が増えたその逃亡ルート上には、すでに稲作文化を持つ南方系(長江下流系)が展開していた日本列島(北部九州)は、長江稲作文化と直結するルート上にある青銅器・稲作・呪術祭祀・鳥信仰(朱雀信仰)の接続も確認できる→だから、殷の末裔が倭人社会に部分合流した可能性は高い、と科学的に言えるだが、イカれた畿内キチガイのオマエとは絶対に議論をしない2025/04/28 01:14:50403.名無しさん@涙目です。UDjI2(7/7)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼しかも、弥生時代後期に南九州の縄文勢力が九州全域を掌握し、四国のO2b1勢力が手を組み、一気に畿内に入っている南九州と四国の連携による畿内進出南九州のD1a2縄文勢力と四国のO2b1勢力が連携し、畿内に進出したこの連携は、文化の融合と社会的統一をもたらし、大和政権の成立に向けた土壌を作ったまた、O1b2との二重構造とO1b2の旧支配者としての痕跡南九州の縄文勢力は、元々自然崇拝や呪術的儀礼を重んじていたため、これらの文化的背景が、畿内の支配層に影響を与えたまた、四国のO2b1勢力は、灌漑や鉄器文化を基にしたより発展した社会構造を持ち込んだ可能性があり、これが畿内の文化的発展に大きな影響を与えたと見ることができる 畿内での文化的変化畿内(特に大阪、奈良、京都)では、弥生時代後期から古墳時代にかけて、弥生文化から古墳文化への移行が見られる。この時期、集落の構造や支配層の祭祀など、さまざまな社会的・文化的変化が起きた南九州と四国からの影響は、特に祭祀や宗教的儀式において顕著であり、また、鉄器文化や集落の構造においても新しい要素が取り入れられたと考えられる。これらの文化的な変化は、後の大和政権における中央集権的な社会構造の形成に寄与したこの内容に影響するのが饒速日と神武の伝承2025/04/28 01:56:20404.名無しさん@涙目です。dNDrVコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>395俺のせいじゃねえやボケ>>396古臭い学説かじってるなーお前、古本は全部捨てろw>>397従来のごくごく平凡な説だねお前は、古事記書紀史観に害されている。宮崎については書くこともあろう>>398みんな仲良くてよかったねしかし、農業による人口爆発力ってすごいんだぜ今は土地があっても、あっという間になくなる。みんな仲良く協力して、なんて言ってられないんだわな>>399殷のことなんか全然分からんのだよお前が一生懸命研究する分には勝手だ頑張ってねwwwwwww>>400殷でアタオカ確定>>401弥生時代後期に南九州の縄文勢力が九州全域を掌握し、四国のO2b1勢力が手を組み、一気に畿内に入っている神話神話wはい、ご苦労さん2025/04/28 05:51:10405.名無しさん@涙目です。So9cl(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼全部アンカー間違っているから何が何やらもう絡むなよアタオカ2025/04/28 08:49:49406.名無しさん@涙目です。GXviSコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>390-391高句麗勢力が北陸から畿内に落ち延びたちなみに携帯天皇以降2025/04/28 09:12:50407.名無しさん@涙目です。So9cl(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼そんなもんO1b2a1a6を見りゃいいんじゃねぇか?全然、メインじゃねぇし2025/04/28 09:29:49408.名無しさん@涙目です。So9cl(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼高句麗系のO1b2a1a6は北陸や畿内にはその痕跡が極めて薄いが何を以ってそんなワケ分からんこと言ってるのか知らんが2025/04/28 09:33:12409.名無しさん@涙目です。rzaAoコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼畿内説が有力学者も言っている2025/04/28 10:17:44410.名無しさん@涙目です。piE58コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼新井白石本居宣長「ふーん」2025/04/29 09:35:53411.名無しさん@涙目です。6I2iPコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼両方にあったし、両方に無かった分かるかな?分かんねぇだろうなぁ2025/04/29 22:50:09412.名無しさん@涙目です。VhNn5コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼魏志倭人伝のあの数値をどう弄っても意味がないことはとっくに判ってる数学者如きが数字を元に割り出せるわけないだろ、バカなの2025/04/29 22:58:03
数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。
本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。
半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/
学者がちゃんとした調査に基づいて発言してる内容と、お前が思い付きで何の根拠もなしに言ってることじゃまったく価値が違う。
そもそも、お前がソースにしたこの研究で言っていることは、半島を経由せずに伝わった品種もあるということで、半島を経由して伝わったことがないなんてことは主張していない。むしろ、半島を経由するルートもあっただろうと言っている。
ソースはちゃんと理解しとけ。ソースと真逆のこと言ってるのは理解が足りないとしか言いようがない。
お前がソースを理解できておらず、ソースに反することを喚いているのが問題。
関係ない話すんな。
北方文化は北方文化であるんだから
稲作の周辺遺物や環境からも明らかに日本は南方由来
せめて、四国との畑作との関連とか
あったとしても後期
>半島経由はないなんてソースは言っていない。
>むしろ半島経由はあったと言っている。
そこらへんのオバサンの議論www
アタマオカシイの?
学者持ち上げてケツなめてんの馬鹿みたい
大川隆法が東大出だから信者になった幸福の科学会員みたい
アタマオカシイの?
スレによってアンカーがおかしくなる
お前の病気が伝染したんじゃまいかw
つまり、ソースの真逆のことソースなしで喚いている。
半島は米作に不向きだからな
半島から来たのならば半島でまともに育つ稲があったはずなんだよ
こんなもん農業やってる人間なら分かる
その土地に種というのは順応するものだからな
野生種から栽培種になる時点で人間が育てないと
まともに育たなくなるんだよ
お前、なんか時代がバラバラ
と言っても主流の流量はほとんど変わらず、日本列島の太平洋側に流れる。
ちょっとだけ、20分の1くらいの量の支流がが壱岐・対馬の方向に流れる。これが対馬暖流。
これが隠岐の島あたりで二つに分かれて、まず下側の流れが日本列島の出雲あたりにぶつかる。
つぎに、上の流れは日本海の真ん中ぐらいまで流れて行って、秋田の八郎潟から
青森の十三湖あたりに押し寄せる。
秋田・青森の縄文人は、北海道の日本海沿岸を北上し、樺太まで行き、樺太西岸を北上し、
今の間宮海峡まで行った。
そこまでしか行けない。なぜなら、間宮海峡にはアムール川が流れ込んでいるからだ。
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html
この海上保安庁の海図を見ると分かるが、対馬暖流が北海道の宗谷岬の先端のところから
曲がってオホーツクの方に行ってしまう。
なぜかというと、対馬暖流はアムール川の流れにより押し戻され、右に行くしかなくなってしまうのだ。
http://bungakubu.kokushikan.ac.jp/chiri/EarthWacht/Dec2006/RSgazou.htm
アムール川から流れ出た水と対馬暖流が混ざってリマン海流になる。
つまり、リマン海流とは対馬暖流の戻りといってもいいのである。
その後、リマン海流は沿海州の岸をずっと辿っていき、朝鮮半島の付け根にぶつかる。
それで南にしか行きようがなくなり、釜山の方まで流れるのだ。
だから朝鮮半島の西岸は夏でも海水が冷たく、海水浴のできる海岸はあまり無い。
縄文人は樺太の先の方まで行って、さらに下って沿海州の海岸線に沿って西に行き、
途中日本海の真ん中を突っ切って帰ってくることもあるが、※ 朝鮮半島にまで行くことも
あった。そして半島西岸を下り、南端の島嶼部まで行き、そこから帰る。
秋田・青森に帰るには、途中出雲や丹後、越の国などに寄っただろう。
そのうち、朝鮮の島嶼部に住みつき、さらに対馬、さらに先の島々に住みついた縄文人もいただろう。
これが倭人の先祖である。
※ ナホトカ沖あたりで、リマン海流は二つに分かれ、日本列島の東北に向かう流れがある。
これに乗って帰ってくることもできるのだ。
D1a2縄文人とは別物
古代の分布と大陸の文献などがそれを物語る
朝鮮に鉄を取りにいってた頃の倭人とはちがう
今の日本人にも縄文人のDNAは混じってるわけだが、倭人とか今の西海や玄界灘に
住む人たちには混ざってないのか?
畿内人とどっちが縄文が濃い?
倭人には縄文人の血は混じってないのかよハプロ小僧w
日程はここから船なら10日、徒歩なら1ヵ月らしい。
それはともかく、金印も一大率に預けたし任務完了だな。
さて、帰るかw
北九州から中国地方のO1b2とは何の関係も無い
すべてが勘違いと間違いって感じ
そして、これらのクニグニがまとまったものが、邪馬台国連合だ。「魏志倭人伝」には、それぞれのクニの役割や、そこで導入されていた制度についても記されている。
これに相当する、または名残りがある地名がないと邪馬台国杯に参加する資格はない
纏向なんかは漢語というよりハングルの宛字に近い
半島北部から北陸を経由して来たのだろう
北陸って何だよ
殷王朝を作ったのは日本人
いや、弥生人は西から来たのではなくて、半島の方から縦方向、すなわち
但馬とか、丹後半島とか敦賀湾などから中国地方東部とか畿内に入ってきた可能性がある。
瀬戸内海を渡り(縦にたとえばち児島から坂出までを島伝いに)、四国にも一挙に入ってきた。
瀬戸内海は、横に航海するのは大変だが、縦は島伝いに行けばかなり楽に渡れる。
山陽側から四国に渡るのはけっこう楽にできたと思う。
殷が倭国なのは当たり前の話
弥生時代の開始地点は九州北部(西)で確定している
考古学的に、最古の弥生遺跡(板付遺跡・菜畑遺跡など)は福岡・佐賀エリアに集中しており、まず九州北部で稲作と弥生文化が始まったのは動かしがたい
つまり、「西から入った」のは確定事項
但馬や丹後が最初ではない
日本海ルートは制限的
たしかに但馬・丹後など日本海側から入るルートもあったが、
日本海は荒れやすく、当時の航海技術ではリスクが高かった
航路が安定するのはもっと後(古墳時代以降)
よって、本格的な渡来はまず九州・瀬戸内側がメインだった
四国の弥生文化は「西四国から」広がっている
四国も、まず愛媛や香川(西側)に弥生文化が入り、その後、東へ拡大している
つまり、山陽側から南下して四国入りしたのが実態
香川・愛媛の初期弥生遺跡がこれを裏付けている
ハプロ小僧の登場であるw
>殷が倭国なのは当たり前の話
こういうところに、トンデモ本の影響が見られる
北九州への弥生人の流入はごくわずかであった。
農業というのは、基本的に土地の排他的占有であり、他者を寄せ付けない。
かりに土地が無限にあっても、水資源は有限である。
後から来た人たちは、いったんは寄留しても、いずれは他に移っていかざるを得ない。
そうでなければ奴隷になるか。
陸地に近寄ったら襲撃されて、物は奪われ、人はさらわれるかも知れない。
人のいるところに滅多に近づけるものでもなかった。
弥生人主流は、但馬や若狭湾を中心とする裏日本から畿内や今の神戸明石方面に入ってきた。
そこから島伝いに四国に進んだ。
四国で人口が増えると、いわゆる海賊が横行し、関銭をとった。
当時貨幣はないので、ヒスイとか金属とかがその役割をしたはずである。
弥生人の三つのグループができた。
吉備を中心とする西の勢力、大和を中心とする畿内の勢力、そして琵琶湖東岸、岐阜、尾張を
中心とする東の勢力。さらに、どこにも属さないものとして伊勢地方の小勢力があった。
>日本海は荒れやすく、当時の航海技術ではリスクが高かった
笑える。瀬戸内海を西から東、あるいはその反対に横断するのはきわめて困難。
日本海は海流の関係で危険が少なかった。
流されて沖に流されるということのない、安全な海だった。
このキチ
「北九州への弥生人流入はごくわずかだった」→完全に誤り コレでは前提が完全に狂っているので議論のしようがない
北九州が最も初期の弥生文化発祥地であり、炭素年代測定や土器様式、遺跡(板付・菜畑など)からも、最初に稲作文化が根付いた地域であることは常識
今のところ、コレは覆しようがない
稲作と鉄器が一体で渡来している以上、人口流入が「ごくわずか」なら弥生文化そのものが成立しない
弥生人は縄文人を一気に駆逐したわけではなく、交雑しながら拡大した。流入初期が少人数だったとしても、定着後に爆発的に人口が増えたのは考古学でも定説
北九州を経由せずに弥生文化が畿内に直接広がったなど絶対にありえない
これは初歩的な論理破綻
北九州=弥生文化発祥地
炭素年代測定(C14測定)や土器編年(板付式・菜畑式)から、紀元前10世紀頃には稲作が北部九州に定着していたことが確実
板付遺跡(福岡)、菜畑遺跡(佐賀)などが典型
つまり、「弥生文化=まず北九州」というのは学術的に揺るがない事実
しかし、北九州弥生勢力は停滞し、東進
北九州→瀬戸内沿岸(山口、広島、岡山)へ拡散し、「吉備文化圏」を形成
瀬戸内は穏やかで稲作に適し、地理的にも移動が容易だった
そのため弥生人の中心は、次第に中国地方へシフトした
北九州から始まり、瀬戸内ルートを経て畿内へ拡散したのが常識
山口(吉田遺跡)→広島→岡山(楯築遺跡など)→播磨(兵庫)→畿内(奈良盆地)
このルート上に、稲作遺跡の年代連続が明確に存在する
畿内に突然、稲作社会が出現するわけがない
北九州発祥→東進のルートを無視する説は、完全な非科学的妄言
北九州以外の九州(特に南九州=熊本・宮崎・鹿児島)は、縄文文化が根強く残存
南九州は火山灰土壌(シラス台地)が多く、稲作に適さなかったため、稲作定着が遅れた(弥生文化の浸透が非常に緩やかだった)
よって、九州全体が一気に弥生化したわけではない
特に南九州では、縄文人系の勢力がむしろ盛り返していた
● 重要ポイント
九州は「北部だけが弥生」「中南部は縄文持続」という二重構造だった
これは後の歴史にも影響し、たとえば隼人(南九州系の勢力)が大和政権に強く抵抗した背景になっている
「北九州発祥→中国地方へ移動」「九州自体は縄文勢力が根強く残った」
という理解こそが正しい
> > 396のように「北九州流入はわずかだった」「畿内に直接」なんていう話は、まったく現実に合っていない
要するに、
> 北九州は「弥生流入地」であり、拠点移動後に南九州から縄文圏が復活した
これが正解
農耕社会でも、新たな土地開発(開墾)こそが生存戦略。田畑を広げるために、共同体で協力して新天地を求める
水資源が限られているのは事実だが、だからこそ稲作技術(用水路建設など)を持った渡来系が歓迎された
縄文人はそもそも農業文明ではない(狩猟採集中心)ので、稲作技術を持つ弥生人に対して大きな抵抗力を持てない
→ 渡来人は「寄留民」ではなく、技術者
「但馬・若狭湾経由で畿内へ」→時代考証の誤り 典型的な時代考証バラバラのバカ
コイツのいつもやる手
若狭ルートは弥生後期以降であり、北九州→瀬戸内→畿内ルートが先
そもそも北部九州を無視して若狭や裏日本から直接畿内に流入したという証拠は存在しない
地理的に考えても、日本海側から琵琶湖→畿内は険しい山岳地帯(比良山地・丹波高地)を越える必要があり、当時の技術では困難
→ 主要ルートはあくまで北九州→瀬戸内→畿内。裏日本経由説は後期の話
「日本海は安全、瀬戸内海は困難」→完全な無知
日本海は冬季の季節風(北西季節風)と波浪が極めて激しい。特に出雲から若狭にかけては遭難が頻発
瀬戸内海は島々に守られた内海であり、波も穏やか、視界も確保できるため弥生時代の手漕ぎ船でも航行可能だった
古代の航路(例:神功皇后の伝承や、古事記・日本書紀記載の海路)も、瀬戸内ルートが主流であることが示されている
→ 「日本海は安全、瀬戸内は危険」などというのは、古代航海の常識に反する無知な暴論
殷(商)と倭の関係を議論するには、ハプロ(Y染色体遺伝子)や文化比較が必要
「トンデモ」とレッテルを貼るだけで、具体的な反論が一切ないため無意味
殷末期の王族遺伝子に長江系O1b2系統が含まれる可能性や、稲作文化・青銅器文化の伝播ルートを考慮すると、長江系の倭人と殷人の一部に血統的・文化的接続を考えるのは十分合理的
コレを日本人と言うとトンデモ
→ 「トンデモ」とだけ言うのは、論理的議論を放棄している証拠
【総括】
この>>396の内容は、
考古学的知識不足
縄文・弥生文化の無理解
古代航海技術への無知
論理的整合性の欠如
レッテル貼りだけで議論していない
つまり、完全に破綻している
殷(商末期)は内部崩壊・王族逃亡が起きた
倭人(弥生人)のO1b2(長江流域起源)と、殷末期の文化流出(青銅器・稲作)が地理・年代的に一致する
稲作、青銅器、祭祀(呪術的儀礼)の特徴もかなり一致
→だから殷の末裔の一部が倭人社会(弥生社会)に合流した可能性は高い
「日本人」と「倭人」は区別が必要
いきなり「殷=日本人」という極論を叩くのは詭弁
日本人=長江系O1b2倭人+縄文人D1a2の混血と黄河系O2b1で補完、形成された集団
その倭人社会の中に、殷末の難民や王族(祭祀階層)が一部流入した、という形なら十分に論理的
【さらに補強:歴史的背景】
殷末期の大動乱(武丁の後の混乱→帝乙・帝辛時代)で、東方(海岸部)への逃亡者が増えた
その逃亡ルート上には、すでに稲作文化を持つ南方系(長江下流系)が展開していた
日本列島(北部九州)は、長江稲作文化と直結するルート上にある
青銅器・稲作・呪術祭祀・鳥信仰(朱雀信仰)の接続も確認できる
→だから、
殷の末裔が倭人社会に部分合流した可能性は高い、と科学的に言える
だが、イカれた畿内キチガイのオマエとは絶対に議論をしない
南九州と四国の連携による畿内進出
南九州のD1a2縄文勢力と四国のO2b1勢力が連携し、畿内に進出した
この連携は、文化の融合と社会的統一をもたらし、大和政権の成立に向けた土壌を作った
また、O1b2との二重構造とO1b2の旧支配者としての痕跡
南九州の縄文勢力は、元々自然崇拝や呪術的儀礼を重んじていたため、これらの文化的背景が、畿内の支配層に影響を与えた
また、四国のO2b1勢力は、灌漑や鉄器文化を基にしたより発展した社会構造を持ち込んだ可能性があり、これが畿内の文化的発展に大きな影響を与えたと見ることができる
畿内での文化的変化
畿内(特に大阪、奈良、京都)では、弥生時代後期から古墳時代にかけて、弥生文化から古墳文化への移行が見られる。この時期、集落の構造や支配層の祭祀など、さまざまな社会的・文化的変化が起きた
南九州と四国からの影響は、特に祭祀や宗教的儀式において顕著であり、また、鉄器文化や集落の構造においても新しい要素が取り入れられたと考えられる。これらの文化的な変化は、後の大和政権における中央集権的な社会構造の形成に寄与した
この内容に影響するのが饒速日と神武の伝承
俺のせいじゃねえやボケ
>>396
古臭い学説かじってるなー
お前、古本は全部捨てろw
>>397
従来のごくごく平凡な説だね
お前は、古事記書紀史観に害されている。
宮崎については書くこともあろう
>>398
みんな仲良くてよかったね
しかし、農業による人口爆発力ってすごいんだぜ
今は土地があっても、あっという間になくなる。
みんな仲良く協力して、なんて言ってられないんだわな
>>399
殷のことなんか全然分からんのだよ
お前が一生懸命研究する分には勝手だ
頑張ってねwwwwwww
>>400
殷でアタオカ確定
>>401
弥生時代後期に南九州の縄文勢力が九州全域を掌握し、四国のO2b1勢力が手を組み、一気に畿内に入っている
神話神話w
はい、ご苦労さん
もう絡むなよ
アタオカ
高句麗勢力が北陸から畿内に落ち延びた
ちなみに携帯天皇以降
何を以ってそんなワケ分からんこと言ってるのか知らんが
学者も言っている
本居宣長
「ふーん」
分かるかな?分かんねぇだろうなぁ
数学者如きが数字を元に割り出せるわけないだろ、バカなの