① 神武東征の挫折 神武は日向から瀬戸内海を経由して進軍しようとするが、大和に至る前に紀伊で長髄彦に敗北し、一度撤退している これは「瀬戸内海ルートの困難さ」を象徴する出来事とも言える 海からの進軍は容易ではなく、敵勢力の抵抗を受けやすい そこで熊野からの迂回ルートを取らざるを得なかったというのは、戦略的にも納得できる ② 饒速日命の先行 一方、饒速日命は「天磐船」で大和に降り立ったとされるが、これは実際には神武と違い、期間に余裕がある、長い開拓、開発期間を要している、陸路か別の航路、別の航行手段を利用した可能性がある 彼は大和の既存勢力と融合し、神武勢力と対峙する立場になる
数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。
本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。
半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/
畿内説が有力
学者も言っている
後漢書東夷伝には、西暦57年に後漢の光武帝が漢の委の奴国王に金印を授けたとある。しかし、金印に3段階の修飾には疑問がある。奴国王に金印を授けたなら、倭国王が朝貢に来たなら、金印より上のものを与えるのか?それは玉璽であって、漢の皇帝と同等のものである。また、倭と委は発音の違う漢字であり、金印のための略字というのは無理がある。委奴国は、倭の奴の国ではなく、伊都国と読むのではないのか。
江戸時代末期、1781年に糸島市の井原鑓溝遺跡から漢の時代の副葬品が多く発見された。1784年、福岡市東区の志賀島で農民が金印を発見し領主に届けた。国学者の亀井南冥が鑑定した。
なぜ、金印が志賀島で発見されたのか。本当は井原鑓溝遺跡で盗掘されたものを国学者の亀井南冥が買い取ったが、国の宝を盗品の中から買い取ったことを公表すると処刑されるので、志賀島で偶然見つかったことにしたのではないのかという学説がある。
井原鑓溝遺跡は、糸島市の平原遺跡と並び伊都国の王族の遺跡と考えられる。平原遺跡からは、三種の神器の原型とされる副葬品が見つかっている。平原遺跡に埋葬されていたのは、卑弥呼の原型のアマテラスであり、井原鑓溝遺跡に埋葬されていたのは、帥升ではないのか。
日本人の歴史研究者は無能しか居ないからなあ
やっぱ理系なり海外の研究者の言うことの方が信用できる
2000年3月、狭山事件の弁護団に依頼され「狭山事件脅迫状と石川一雄氏筆跡の異筆性」を提出した(半沢鑑定)。
うおー、やばい人だったwww
九州説を信じてるのは朝鮮人だけw
これは大陸側で架空の邪馬台国が信じられた時期があったというだけで、金印もそれに基づいたものか全く無関係のものなんだよ。
馬鹿かよ田舎者
学者が口を揃えて畿内だと言っているのに
魏志倭人伝の原文を読んだことないだろ
二言三言どころか記述は結構具体的
それなりどころか大和には邪馬台国所在地と卑弥呼の墓の有力候補地がある
金印はそもそも邪馬台国に送られたものではない
魏がわざわざ極東の架空国を信じなければならなかった事情も存在しない
だから九州説はない
あんなゴミみたいなやつが運営してる国が韓国に勝てるはずない
箸墓はせいぜい4世紀だろうな。
畿内説はどうかと思うわ。
いつの時代にも空想好きはいるし集団心理で信じ込むメカニズムもある。信じたい欲望がその候補地を創り出してる。おまえも陰謀論を信じて疑わないだろ。そういうことだよ。
自己分析乙
ちゃんと分かってるじゃないかw
根拠は?
あれが4世紀なら古墳時代の年代測定根拠自体が間違いってことになるんだけど
距離の旅程の後に日程の旅程有る事に違和感持てと
畿内までは絶対に行ってない
ないんですがね
最近知ったわ。 騙され続けてきた。
そりゃそうだ
イトって音と意味を考える必要もあるし
で、南部に日向国、狗奴国があった
饒速日命と磐余彦の勢力の対立と開拓の足跡、畿内(大和)での決着を迎えるという流れが形成され、最終的に大和朝廷が確立されるに至った
コレだけだからな
下克上やそれ以前の正当性にタブーがあるから記紀は誤魔化しているだけで
逆に魏志倭人伝なんてその部分だけをミスリードしたファンタジー小説
記紀の補完資料としての価値はあるが、どうかしてるよ、正確性の欠片も無い
でファンタジーな俺説を唱えると卑弥呼時代の魏の使者は神様だったの
輿に乗せて移動しててそれが神輿の原型
鉄器とか農業技術とかをもたらしたから神扱いされたのだろう
そして魏も無くなって来なくなったから我こそは神の子孫であると名乗り上げたのが天皇
天皇ねは詐欺の王だったんだよ
魏なんてO2 (O-M122, O-F46, O-FGC11160) じゃねぇか
日本人のどこにあるって言うんだよ
まだ特亜の詐欺バカはこんな戯言やってんのか
馬鹿かよ田舎者
学者が口を揃えて畿内だと言っているのに
当たり前じゃん
九州にあったのは伊都と日向なんだから
あるワケねぇじゃん
統一国家なんてその時代の西日本のどこにあんだよ?
大和は畿内に後に作られるんだから
磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ
から理解しろよ
日本の超古代史の中心が明らかに九州なのに
筑紫の 日向の 橘の 小戸の 阿波岐原
それがそれまでの倭人O1b2から7世紀頃までに日本人の形成と中心が畿内への移動というだけだろうが
馬鹿かよ田舎者
学者が口を揃えて畿内だと言っているのに
話にならん
どっちも完全に間違っているからな
スマホで余裕だわ
明らかに長江、弥生系O1b2の歴史だわ
14世紀以降の朝鮮なんて存在もしない
今ならサブクレードまで分かるのに
スマホで余裕だわ
説得力なしww
それとも九州に邪馬台国なんてファンタジーが存在したというアホか?
で、ハプロのサブクレードは?
保守でD1a2って言うんかな
説得力なしww
何度言えば、分かる
あるのは日本成立後の大和だ
そして、それ以前の歴史は九州の倭人O1b2を主体としたもの
伊都と日向のもの
いいかげんにしろよ、畿内バカ
邪馬台国はあった
なんで最初から最後まで畿内でそんな名称許すんだよ
お前一日中引きこもって監視かよ
どういうことだよ
スマホ片手にジム行って買い物してだわ
説得力なしww
引きこもりパソコン野郎
邪馬台国畿内説には琵琶湖湖畔、大阪府などの複数の説が存在し、特に奈良県桜井市三輪山近くの纒向遺跡を邪馬台国の都に比定する説が有力である。 邪馬台国畿内説では、「畿内には最大級の都市遺跡がある。 魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であった」という仮定に基づいている。
だからありえない
説得力なしww
最初からの大集団じゃねぇんだから
北部九州の集団が中国地方、河内、畿内と開拓を進めていく中で大きくなったのと
南部九州の集団が四国を吸収していく中で大きくなり、畿内で対立、決着しているんだから
弥生時代がどう見たって九州を中心としたO1b2の歴史なのに
ハプロのサブクレード見たって
オレも見るまではワカランかったが
D1a2からなのか、O1b2からなのか
明らかに北部九州起源だが
最終的な日本の成立が畿内で、というのは
ほとんど誰も否定しない
マジに論理の手前勝手なすり替え
何度も言わせるな
1. 日本成立の流れ
ほぼすべての考古学・歴史学者が認めるように、
最終的な日本(ヤマト政権・天皇制)の成立が畿内で起こったこと自体は否定しようがない
しかし、その前段階としての勢力移動や各地域の役割を無視するのは 「畿内中心史観」 という偏向にすぎない
2. すべての発祥が畿内ではない
畿内が最終的な統一の地となったのは 「畿内が結果的に7世紀までに有利な地理条件を持っていた」 だけの話であって
すべての文化・技術・民族的要素が畿内発祥なわけではない
例えば:
稲作・金属器文化(青銅・鉄)→北部九州に痕跡が多い
弥生文化の発展→北部九州から畿内・東日本へ拡大
神話の起源→北部九州が主流であり、「高天原」は九州の地名由来
3. 具体的な歴史の流れ
弥生時代初期(紀元前5世紀~)
北部九州(福岡・佐賀・長崎) で稲作と鉄器文明が発達
O1b2集団が中心 となり、農耕文化を拡大
弥生時代中期~後期(紀元1世紀~3世紀)
北部九州から出雲・吉備・河内(難波)へ勢力拡大
O1b2の流れとD1a2(縄文系)との混血が進む
その北部九州勢力が最初に畿内に入る
後継勢力が、大和へ進出する流れが生まれる
古墳時代(3世紀~7世紀)
畿内の勢力が統合し、ヤマト王権が確立
D1a2+O1b2+O2の連合勢力が天皇家の基盤に
物部(ニギハヤヒ系)が没落し、天皇系が主流化
すべての文化・技術・勢力が畿内発祥なら、
そもそも 畿内に「統一すべき異勢力」が存在すること自体おかしい
大和政権が九州・出雲・吉備などを統一したからこそ、日本が成立したわけで、
最初から畿内ですべてが揃っていたなら、そもそも 「大和の東征」「饒速日と神武の対立」「出雲との戦い」などが起こるわけがない
5. 「大和中心史観」のご都合主義
大和(畿内)で統一されたのは 「統一された結果の地」だったから にすぎない
それを「大和で起こったから、すべての始まりも大和」とするのは、
論理のすり替えであり、勝者の歴史観にすぎない
本来の流れは、
九州 → 出雲・吉備 → 畿内(統一の場) であり、
文化的な流れとしても、西から東へ発展するのが日本の歴史の大原則
これを無視するのは「日本列島の考古学的事実」そのものを無視するに等しい
結論
すべてが畿内で起きたわけではない。畿内は「統一の地」
北部九州→出雲→吉備→畿内という流れを無視するのは「大和中心史観」
ニギハヤヒは北部九州発祥で畿内で没落
神武天皇の勢力も九州発祥で最終的に畿内へ
「最終的な成立が畿内=すべてが畿内」は論理のすり替え
この構造を押さえずに「畿内で全部起こった」なんて言うのは、考古学的にも、神話の成立過程としても ナンセンス
何度も言わせるな
オマエの脳内では最新の主流学説だろうからな
NGにさせて貰うわ、キチガイ
日本や天皇の歴史が知りたいのか
物部守屋まで続く全く別の権力の二重構造
明らかに系統が違う
倭王天照彦大王とは
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
天照だの、卑弥呼だのは彼らの系統
宇摩志麻遅命も天子真稚命とかだよ
イトの饒速日命や物部の系統だよ
大陸の記述の主流は彼ら
日向の天皇家とは別
もしくは天皇家は傍流
下克上によって日本を成立
つまり、日向、狗奴国や狗古智卑狗、卑弥弓呼、臺與、台与
扱いが悲劇的過ぎるんだよなぁ
ジャイアン的なものを感じる
我が心の子よ、で利用しまくって冷遇するとか
物部系と天皇系の二重構造
倭王天照彦大王という物部守屋までの権威の継続と神武以降の天皇
推古天皇から逆算しても神武は4世紀頃だしな
倭や物部を取り込んでダブってるから紀元前とか大嘘ぶっこいているけど
1.饒速日命の系統(長江系O1b2a1)の畿内進出
九州北部→瀬戸内海→畿内へ拡大(弥生時代の支配層)
先住のD1a2a(縄文系)を吸収しながら定着
記紀の「天孫降臨」に対応
2.神武・磐余彦(縄文系D1a2a)の東征とO2a2b1の吸収
日向(狗奴国系)から北上、四国でO1b2a1とO2a2b1の混合(百済系避難民)を吸収
畿内でO1b2a1(饒速日)と合流・統合
記紀の「神武東征」に対応
3.畿内での融合と後の変化
D1a2a(天皇家)+ O1b2a1(物部)連合政権が成立
後にO2a2b1(蘇我・藤原)が台頭し、O1b2a1(物部)が排除される
奈良時代以降、D1a2a(天皇家)とO2a2b1(藤原)の共存体制へ
→「D1a2a(縄文)+ O1b2a1(長江)+ O2a2b1(黄河)」の融合が日本人の基盤を形成
ニギハヤヒ、物部系は滅びたが、稲作文化の広がりとともにO1b2a1の西日本での圧倒的な割合を維持
特に重要なのは、
長江系O1b2a1(ニギハヤヒ・物部)が一度、北部九州から中国地方、畿内を弥生時代に支配し、南部九州、縄文系D1a2a(磐余彦・神武)が後から融合した点
四国勢力だった黄河系O2a2b1を持つ(百済系・蘇我・藤原)が後に、長江系O1b2a1(物部)を排除した点
それでも長江系O1b2a1は西日本の大半で主要ハプログループとして存続している点
つまり、遺伝的な構成はO1b2a1が主体だが、支配層の交代が繰り返されてきたということ
神話・記紀がその痕跡を残しており、歴史と遺伝が高い精度で合致している
ハプロ的にも神話的な特徴も
通り道としてすべての勢力にバランス
何の偏りも無い
つまり、スタートでもゴールでも無い
中立地帯
しかも干満差が激しい。1.5メートルと途方もない差があるのだ。
これだと、船を陸に引き上げておくときに多人数を要し、その労力もただごとでない(当時は港はないはず)。
ちなみに日本海の干満差は50センチ。
船を使って大和の方面に行くなら、おそらく日本海の海岸伝いに行ったのだと考えるのが妥当。
北九州→今の山口、島根、鳥取、→岡山
あるいは鳥取から若狭湾→琵琶湖→当時あった奈良湖
学者も言っている
1. 瀬戸内海の潮流と干満差について
✅ 潮流が激しいのは事実
瀬戸内海は狭い海峡や多島海があるため、潮の流れが複雑で速くなる。特に「鳴門海峡」「来島海峡」「関門海峡」などは世界的に見ても潮流が強い部類に入る
⛔ 「当時の船では航行できない」は誤り
古代の船は決して優れていたとは言えないが、瀬戸内海での航行は可能だった。実際、考古学的にも弥生時代~古墳時代にかけて瀬戸内海交易が活発に行われていたことがわかっている。風待ちや潮待ちをしながら進む技術があったため、潮流が激しいからといって不可能ではない
✅ 干満差について
瀬戸内海の干満差は1.5m程度であることは正しい。ただし、「途方もない差」とまでは言えない。これより干満差の大きい地域は世界中にあり、日本国内でも有明海(4~6m)や三陸海岸(2~3m)の方が大きい。
⛔ 「当時港はない」は不正確
弥生時代後期~古墳時代には、簡易な港のような施設(船着き場、波止場など)があったと考えられる。例えば、兵庫県の赤穂市坂越や、岡山県の児島湾沿岸などで船着き場跡が見つかっている
2. 瀬戸内海を避けて日本海ルートを使った可能性
✅ 日本海ルートは有力な選択肢
瀬戸内海の航行は可能だったとはいえ、より安全で安定したルートを選ぶなら日本海沿岸を進むルートは妥当。特に古代の人々は、航海よりも陸地沿いの移動を好む傾向があった
✅ ルートの詳細
北九州→山口→島根→鳥取→岡山(瀬戸内海側へ)
または
鳥取→若狭湾→琵琶湖→奈良湖
は、いずれも十分考えられるルート。特に琵琶湖経由のルートは、敦賀~若狭湾を経由する古代の「鯖街道」や「北陸道」とも一致し、古墳時代以降も重要なルートだった
3. 総合的な評価
「瀬戸内海が危険だから使えなかった」という主張は極端すぎる(実際には利用されていた)
「日本海ルートが妥当」という考え方は十分にあり得る(特に安定した航路として)
「奈良湖(古琵琶湖)」経由は興味深い仮説(地形的にも整合性がある)
もし「瀬戸内海を使わずに大和に行った」と考えるなら、「完全に船を避けた」というよりは「比較的安全なルートを選んだ結果、日本海沿岸を利用した」と考える方が現実的
記紀における「瀬戸内海の困難性」の象徴
① 神武東征の挫折
神武は日向から瀬戸内海を経由して進軍しようとするが、大和に至る前に紀伊で長髄彦に敗北し、一度撤退している
これは「瀬戸内海ルートの困難さ」を象徴する出来事とも言える
海からの進軍は容易ではなく、敵勢力の抵抗を受けやすい
そこで熊野からの迂回ルートを取らざるを得なかったというのは、戦略的にも納得できる
② 饒速日命の先行
一方、饒速日命は「天磐船」で大和に降り立ったとされるが、これは実際には神武と違い、期間に余裕がある、長い開拓、開発期間を要している、陸路か別の航路、別の航行手段を利用した可能性がある
彼は大和の既存勢力と融合し、神武勢力と対峙する立場になる
結論:瀬戸内海は単なる移動ルートではなく、記紀の困難性を体現している
神武が直線的に進軍できなかったのは、瀬戸内海の潮流・地形的制約が背景にある
それが結果的に「長髄彦との対立」や「熊野経由の進軍」という記紀の展開につながった
古代航行技術を持っているのは常に水上交通に長けている長江系O1b2がメイン
饒速日命は弥生時代の支配者であり、O1b2がメインだと考えられる
対して神武はO1b2よりD1a2の印象が強い
北部九州の日向を起源としていることからも
1. 航行技術の担い手としてのO1b2a1(長江系)
O1b2a1(長江系)は水上交通に長けていた
長江流域の稲作文化と共に海洋活動にも適応
遺伝的には東南アジア・南方航海民と繋がりがあり、舟運・港湾技術に精通
日本においては、弥生時代の「海を利用した勢力拡大」に貢献
瀬戸内海のような潮流の激しい環境でも適応力を発揮した可能性がある
→ これに当てはまるのが饒速日命の勢力
饒速日命は「天磐船」に乗って先行していたとされるが、これは比喩ではなく実際に高度な航行技術を持っていた可能性が高い
すでに瀬戸内海を越えて畿内に定着し、大和の先住勢力と融合していた
つまり、「瀬戸内海を越えられた勢力=長江系O1b2a1」の痕跡と見なせる
2. 神武勢力のD1a2(縄文系)の影響と、航行技術の遅れ
神武は日向(南部九州)を起源とするが、ここはD1a2(縄文系)の影響が強い地域
特に神武軍は「陸上戦」や「迂回ルート」を選択しており、これは水上交通に不慣れだった可能性を示唆
また、長髄彦との衝突で敗北していることも、彼の勢力が瀬戸内海を十分に制圧できていなかったことを示す
→ つまり、神武勢力はO1b2a1の水上技術を持つ勢力と異なり、D1a2の影響が強いため、瀬戸内海の潮流や地理に適応できず、一度敗北
結果的に、陸路(熊野ルート)での進軍を余儀なくされた
これはD1a2系の「陸上移動の適応力」を示唆している
3. 瀬戸内海の困難性は「技術格差」と「民族の差」を示している
饒速日命のO1b2a1勢力は、航行技術を活かして先行し、大和に定着
神武のD1a2勢力は水上移動の困難に直面し、最終的に陸路での進軍を強いられる
長髄彦(畿内の先住勢力)が神武を撃退したのも、「水上交通の支配権」が神武勢力に欠けていたからかもしれない
結果的に、神武は戦略を変更し、陸地経由で徐々に畿内へ進入
饒速日命の勢力と交渉の末、大和政権が成立
つまり、瀬戸内海の困難性は、単なる地理的な問題ではなく、「O1b2a1(長江系)」と「D1a2(縄文系)」の移動手段・技術格差を象徴していると考えられる
これは、単に記紀の物語ではなく、日本列島における民族的・文化的・技術的な移動のパターンそのものを示しているのではないか
その時代に朝鮮人は居ない
朝鮮人とは14世紀以降
半島南部にも倭人中心のO1b2とD1a2の混血種、日本人の近縁しか存在しない
こんな馬鹿なことを言うのは保守イデオロギーで蒙昧に腐った畿内原理主義者
歴史を語る資格がない
話す意味も無い
消えろ
畿内原理主義者は
皇国史観にかぶれたバカだろ?
特にハプログループの視点では、O1b2(長江系)の移動経路が九州→畿内と考えられ、畿内説は成立しにくい
結論として、畿内説は古い日本史観に基づいたものであり、実際には九州勢力(O1b2+D1a2)が畿内へ移動して政権を樹立した可能性が高い
皇国史観は、「天皇を中心とした国家が古代から一貫して続いてきた」という国家主義的な歴史観だが、
考古学や遺伝学の研究が進むにつれ、科学的には否定されている
特に、日本の遺伝的多様性(O1b2+D1a2)や、古代の地方勢力(九州・出雲)の存在を無視している点が問題
現在の歴史学では、皇国史観は学問的に成立しない過去の歴史観とされている
アタマオカシイだろ
ハプログループの分布がハッキリ分かる現代においては通用しないし、説明がつかない
畿内のすぐ近くでも、遺伝形質の極端な違いが見られることは非常に重要です。もし畿内が中心的な役割を果たし、その周辺が波紋のように遺伝的に広がっていたのであれば、畿内の近隣地域でもより均一な遺伝的特徴が見られるはずですが、実際には極端に遺伝的な多様性が顕著に異なります
1. 畿内とその近隣地域の遺伝形質の違い
例えば、畿内とその周辺地域(特に近畿地方や西日本)では、弥生系のO1b2が主流であるのに対し、北九州や東北地方などでは、縄文系のD1a2が強く見られます。この差は、単に地理的に近い地域であっても、極端な遺伝的違いを示しています
特に、畿内を中心にした場合、遺伝的に西日本や東日本の間で極端な違いが生じることは、中心からの均等な広がりを示唆しない証拠となります。もし畿内が文化的・政治的中心であれば、その周辺地域にも影響が及んでいるはずですが、実際にはこれらの地域間で遺伝的に異なるグループが強く残っていることがわかります。
2. 畿内の近くでも遺伝的多様性
近畿地方とその周辺では、遺伝的に顕著な差が見られます。例えば、南部(特に奈良や和歌山)と、北部(京都、滋賀、滋賀北部)では、遺伝的な特徴に違いがあり、近畿地方内でも地域ごとの遺伝的な分布にばらつきが見られます。これは、波紋のような広がりがないことを示しており、中心から均等に広がったとは考えにくいです
畿内説に従えば、畿内から近隣地域(例えば兵庫県、岡山県、愛知県など)への遺伝的影響は、もっと均等に分布するはずですが、現実には、瀬戸内海沿岸や西日本には縄文系の影響が色濃く残り、遺伝的な違いが際立っています。例えば、岡山や広島には縄文系のD1a2が見られる一方、近畿地方や中部地方には弥生系のO1b2が強く見られ、これらの違いが短距離圏内でも顕著に現れるため、畿内が中心という説に矛盾が生じます
4. 文化的・遺伝的影響の非均等性
文化的中心地としての畿内は、確かに政治的・経済的に重要な地域でしたが、遺伝的影響が均等に広がったとは言い難いです。遺伝学的には、地域ごとの遺伝的独自性が強く、文化的・政治的な影響と遺伝的な影響が必ずしも一致していないことを示しています
---
結論
畿内説が正しいのであれば、畿内周辺の遺伝的特徴はもっと均等に分布するはずですが、実際には極端な遺伝形質の違いが確認されます。特に、畿内とその周辺地域間での遺伝的差異は、遺伝的多様性が広がったことを示唆しており、畿内説には矛盾が生じます。現代の遺伝学的データを基にすると、畿内が中心であったという説は成立しないと言えます
極端すぎるだろ
だから1000里ずつ進んでるだろ
陸行は多少真面目に計測してはいるようだが村から村に移動してるので直線では無いし古い祭りの神輿の振る舞い見ると恐らく一戸一戸巡ってたと思われ一つの村で1日なので陸行が日数かかってるんだよ
変になるんだよ
陸行と水行はそれぞれ別
女王国への行程と倭の女王の都への行程は別
宮崎あたりと畿内あたり
コレはその当時の短い期間に支配者の変化から来ている
2つの勢力を一つにしているから
紀元前なんて嘘をついている
2つにすれば3世紀から4世紀頃と分かる
政商
公的研究者に畿内説を取る人間が多い理由として、公的機関からの資金提供が影響している
1. 制度的な要因(資金・学閥)
文部科学省や大学の研究費の影響
日本の歴史学研究は、国の機関(大学、博物館、文化庁など)からの助成金や補助金によって支えられている
畿内説は「従来の定説」として認識されており、これに基づく研究が通りやすい
九州説や別の説を取ると「異端」と見なされ、研究費が得られにくい可能性がある
学閥・既存の研究体制
日本の歴史学界では「東大・京大系」の学閥が強い
彼らの多くが畿内説を支持しており、これに反する説を取ると論文の採択や研究の継続が難しくなることがある
2. 史料的な要因(従来の考古学・文献学)
記紀(日本書紀・古事記)との整合性
記紀は奈良時代に編纂されたもので、天皇家の正統性を主張するために畿内中心の歴史観が書かれている
公的研究者は文献学的に「記紀をベースに解釈する」という枠組みを採用しがち
九州説などを取ると「記紀の記述と矛盾する」として否定される
考古学の遺跡発掘の偏り
畿内(奈良・京都)は発掘調査が進んでおり、遺跡が多い
それに対して九州など他地域の調査は資金的・制度的に後回しにされがち
既存の研究体制が「畿内中心」なので、発掘結果も畿内説に都合のいい形で利用される
3. 畿内説を採ることの「無難さ」
公的な立場として無難
九州説や別の説を取ると「異端」と見なされ、学会での発表機会が限られる
研究者はキャリアを考えると、既存の学説に従う方が安全
特に公的機関(大学・博物館)に所属する研究者は、政府や学界の意向を無視できない
学界内での圧力
畿内説を支持しないと、査読論文が通らない、研究費が削られる、ポストを得られないなどのリスクがある
九州説を取ると「異端扱い」されやすい(特に東大・京大系の研究者からの批判)
ハプログループの分布
D1a2(縄文)、O1b2(長江系)、O2(黄河系)の分布を考えると、「畿内が最初の中心地だった」とするのは不自然
九州を起点にした移動の方が整合性がある
考古学的発見
鉄器・青銅器の分布を見ても、九州(北部)が最も早い
邪馬台国の位置を考えると、畿内よりも九州が妥当
畿内に大規模な王権が成立するのは3世紀後半以降で、それ以前に強力な勢力があった証拠が乏しい
結論:畿内説は制度的・歴史的な背景に支えられている
畿内説を取る研究者が多いのは、
✔ 資金的な問題(研究費の配分)
✔ 学閥・既存の研究体制
✔ 記紀との整合性を重視する傾向
✔ 公的立場としての無難さ
といった要素が大きい
しかし、遺伝学・考古学の進展により、畿内説の矛盾が指摘されるようになってきている
今後、九州説や別の説が再評価される可能性はあるが、それには学界の体制や研究資金の配分が変わる必要がある
だから使者は不彌國までは来ていると思う。
そこから先は行っていない。
だからそこから方角や国の名前がいい加減になる。
使者は北九州まできて、そこから帰ってしまった。
不彌國は宇美町ではないと思う。そんな山の中に行く必要がない。
遠賀町だと思う。
そこには遠賀川という大河が流れ、海に注いでいた。
昔の川は沼の連続のようなもので、河口はおそろしく広く、陸との境には葦やガマのような耐塩性の草が
生い茂っていた。汽水で魚類貝類は山ほどいた。
ここに千戸ぐらいはたしかにあっただろう。
ここに湊があった。湊と言っても江戸時代の川湊と同じ。
海から川を遡って数キロという地点にあった。
昔は海に面して防波堤を築いて湊を作る力はなく、川を遡り、そこの芦原を彫り広げて桟橋を作り湊とした。
江戸時代の銚子などもそういう湊である。
博多湾の湊からこの不彌國の湊に入り、本来は日本海航路で東に向かうはずだった。
1. 「魏志倭人伝」の記述と考古学的証拠が一致
「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国の特徴と、畿内に残る遺跡や出土品の内容が一致する点が多い。特に奈良県の**纒向遺跡(まきむくいせき)**は、邪馬台国の有力な候補地とされている。3世紀頃の大規模な集落跡が発見されており、当時の政治的中心地だった可能性が高い。
2. 卑弥呼と大和政権の繋がり
邪馬台国の女王・卑弥呼は3世紀に魏に使者を送り、金印や銅鏡を授かっている。日本の古代王権の始まりとされる大和政権(後のヤマト王権)が成長した時期と重なるため、邪馬台国=ヤマト王権の前身という説は非常に自然。
3. 九州説の「距離問題」
邪馬台国九州説を支持する人は「魏志倭人伝の距離をそのまま信じると九州になる」と言うけど、中国の記述には誤差や推測が多く、厳密な距離を保証するものじゃない。むしろ、畿内にあったと考えたほうが、後の日本の歴史とつながりがスムーズ。
4. 大和朝廷への発展の流れが自然
邪馬台国が九州にあったなら、大和朝廷(ヤマト政権)はどうやって成立したのか? 九州から畿内に権力が移る明確な証拠がないため、最初から畿内にあったと考えたほうが自然。
つまり、考古学・歴史的背景・政治の発展を考えたとき、邪馬台国は畿内にあった可能性が高い! 九州説も根強いけど、総合的に見れば畿内説のほうが妥当やと思うで。
今となっては畿内説を唱えるのは不可能
この解決が無いと畿内説言ってる奴はバカ丸出し
畿内説の最大の問題は、考古学的・歴史学的な議論よりも、遺伝的な連続性が証明されていない点。もし畿内がヤマト王権の発祥地だとするなら、そこに住んでいた人々の遺伝子が日本列島全体に影響を与えていなければならない。しかし、現代の遺伝子分布を見ると、畿内周辺に日本人の起源となるべき独自のハプログループの偏りが見られない
むしろ、D1a2(縄文系)とO1b2(長江系)が混ざっている九州や西日本の方が、ヤマト王権を形成するのに適した遺伝的基盤を持っている。これに対し、畿内にはO2(黄河系)の影響が見られるが、それは弥生時代後期以降の流入であって、ヤマト王権の成立以前に主体となるべき遺伝的影響がない
つまり、畿内説を主張するなら、
1. 畿内の住民がどのように日本全体に広がったのか
2. なぜ畿内に日本の基層となる遺伝的特徴がないのか
3. 畿内が後から政治的中心になった可能性を否定できるのか
これらの説明がないと、ただの思い込みになってしまう。現時点では遺伝的にも歴史的にも、畿内は後から発展した地域であり、ヤマト王権の発祥地ではないと考えるのが自然だね
記紀の編纂時に全国の古史古伝を集め、大規模な地方豪族の墓荒らしまでしているからな
全く話にならない
馬鹿な皇国史観
1. 「魏志倭人伝」の記述と考古学的証拠の不一致
纒向遺跡が邪馬台国とされる理由は、3世紀の大規模集落だからというだけで、決定的証拠がない。魏志倭人伝には邪馬台国までのルートが記されているが、これを素直に読めば九州にたどり着く。畿内説を成立させるためには、魏志倭人伝の記述が大幅に間違っていたと仮定しなければならない
2. 卑弥呼と大和政権の繋がりが不明
邪馬台国がヤマト王権に直接つながる証拠はない。畿内に邪馬台国があったなら、大和政権の初期記録に卑弥呼の名が出てこないのは不自然だ。実際には『古事記』や『日本書紀』には卑弥呼に相当する人物は登場せず、ヤマト王権の成立とは無関係の可能性が高い
3. 九州説の「距離問題」の誤解
距離の誤差を考慮しても、魏志倭人伝の記述を完全に無視して畿内に邪馬台国を置くのは不自然。むしろ、魏志倭人伝が示すルートは、九州北部(吉野ヶ里遺跡周辺)に邪馬台国があったとする方が理にかなっている
4. 九州から畿内への移動の証拠は存在する
ヤマト王権の形成には九州勢力の関与が見られる。大和政権初期の王族の墓からは、九州系の出土品が見つかっており、九州から畿内へ勢力が移動したと考えられる。これはむしろ、邪馬台国=九州説の方が、大和朝廷の成り立ちを説明しやすいということになる
結論として、邪馬台国=畿内説は、考古学的・遺伝学的・歴史的証拠に基づいた確証がない。むしろ、九州から畿内への勢力移動を考えたほうが、後のヤマト王権の成立と整合性が取れる
不彌國が糟屋郡宇美町だろうと遠賀町だろうと、方角も距離もかなり正確。
だから使者は不彌國までは来ていると思う。
そこから先は行っていない。
だからそこから先の方角や国の名前がいい加減になる。
つまり、使者は北九州まできて、そこから帰ってしまった。
ところで不彌國は宇美町ではないと思う。そんな山の中に行く必要がない。
遠賀町だと思う。
そこには遠賀川という大河が流れ、海に注いでいた。河口の町邑であった。
昔の川は沼の連続のようなもので、河口はおそろしく広く、陸との境には葦やガマのような耐塩性の草が
生い茂っていた。汽水で魚類貝類は山ほどいた。
ここに千戸ぐらいはたしかにあっただろう。
ここに湊があった。湊と言っても江戸時代の川湊のようなもの。
海から川を遡って数キロという地点にあった。
(川を何キロか遡れば干潮差が無くなったのが大きい)
昔は海に面して防波堤を築いて湊を作る力はなく、川を遡り、そこの芦原を彫り広げて桟橋を作り湊とした。
江戸時代の銚子などもそういう湊である。
博多湾の湊からこの不彌國の湊に入り、本来は日本海航路で東に向かうはずだった。
畿内に見られるO2(黄河系)は、弥生時代後期以降の流入と考えられ、ヤマト王権の起源となるべき基盤ではない。一方で、九州や西日本にはD1a2(縄文系)とO1b2(長江系)が混ざっており、これは倭人の遺伝的構成と一致する。つまり、ヤマト王権の源流は九州や西日本にあると考えるのが合理的だ
畿内説を支持するなら、以下の3点を合理的に説明できなければならない:
1. 畿内の住民がどのように日本全体に広がったのか → その証拠がない
2. なぜ畿内に日本の基層となる遺伝的特徴がないのか → 日本の古代史の後期流入であるO2系統が主体であり、日本の古層と一致しない
3. 畿内が後から政治的中心になった可能性を否定できるのか → むしろ、九州勢力が畿内に進出したと考えたほうが自然
結論として、畿内説は遺伝学的に完全に破綻しており、今となっては唱えること自体が無理筋。ヤマト王権は九州を中心とした勢力が東へ進出して成立したと考えるのが、遺伝・考古学・歴史のすべての観点で最も整合性が取れるね
また、不彌國が遠賀町の遠賀川河口付近だったという仮説は、地形的にも納得できる。大河の河口には自然と集落が形成されやすく、弥生時代にはすでに河口部を利用した港(川湊)が存在していたと考えられる。江戸時代の川湊のように、海に面した港ではなく、河口近くの穏やかな場所が交易の拠点となるのは自然な流れだ
魏志倭人伝の記述を考えると、倭の使者が魏に報告した情報は不彌國より先は伝聞の可能性が高い。つまり、不彌國まで来た魏使はそこで情報を得て、それを基に邪馬台国の方角や距離を記録した。しかし、その情報はあくまで現地人の伝聞であり、実際に魏の使者が現地を訪れたわけではない。だからこそ、不彌國から先の記述が不明瞭になっているわけだ
この仮説を基にすると、邪馬台国は「魏志倭人伝の記述通りに進めば畿内になる」という意見に対しても、「魏使は実際には九州までしか来ておらず、そこから先は伝聞情報だった」と反論できる。やはり、邪馬台国=九州説のほうが整合性が高そうだね
畿内の人より中国地方の人の方が縄文系の遺伝的影響が強い傾向(東日本の形質に近い)があるそうな。
それは、鎌倉や南北朝時代に東日本(主に関東地方)からの人口移動があったからではないか。
関東からの移入は、大きく分けて三回ある。
源氏・関東武士団による平家討滅
平家滅亡後、西国の平家の旧荘園に鎌倉の御家人が地頭として送り込まれた。
平家の領地は山陽、南海(四国)、西海(九州)に多かった。
その中でも山陽、すなわち今の兵庫・岡山・広島・山口県などの瀬戸内海側に多かった。
鎌倉幕府が成立しても、当初は旧平家領以外、その支配はほぼ東日本に限られていた。
例外として、1185年に京都守護(京都占領軍)を置いた。六波羅探題の前身である。
規模は分からないが当初は三千人ぐらいの部隊だったと思われる。
その後、徐々に畿内にも地頭を配置していった。
地頭を置くにあたって義経探索を理由としたのは有名。
鎌倉三代(頼朝頼家実朝)亡き後の承久の乱。
源氏の正統は絶え、幕府の存続は危ぶまれた。
そこで後鳥羽上皇によるクーデター計画。しかし、ただちに西上して朝廷軍を打ち破るべしと
する幕府の決断が功を奏した。
幕府鎮圧軍が朝廷方の武士を圧倒し、西国の武士は「鷹に追われる雀のようだった」と言われる。
その後20万(吾妻鏡)といわれる京都占領軍が数か月間京都を支配。
その後に新たに地頭として東国の御家人が入る。これを新補地頭というのは高校で習う。
乱において後鳥羽上皇に従ったのは、西国三十二ヵ国中十八ヵ国の守護である。
このとき、あくまでも鎌倉方についたのは四人のみ。
乱後、京方の武士のみならず公家からも多くの没収地を得た。上皇領ももちろん没収。
朝廷軍に僧兵などを送った寺社の荘園も幕府に取り上げられることになる。
このため多くの東国御家人が西国に所領を獲得した。
これによって幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶようになる。
仮に入部した御家人の数が畿内と中国地方で同程度であったとしても、人口比から言って中国の方に
人口移動の効果は大きかったのは間違いない。
なお、乱後京都に六波羅探題を設置。
武蔵七党の一つ児玉党の武士団は、このときに備前・備中に入った。
中国地方や北九州には児玉という姓が多いのはこのため。
長州出身の児玉源太郎はこの児玉党が先祖。
佐賀の千葉氏、薩摩の二階堂氏なども東国武士団の系統である。
文永・弘安の役(蒙古襲来)
中国地方や北九州に旧平家領が多かったこと、承久の乱後に朝廷軍に与した武士・公家・社寺の
領地荘園が西国にあったことにより坂東武者が多く地頭として入部していた。
これが元寇における日本軍勇戦の理由であったといわれる。
すなわち、元軍と戦った武者たちの中に少なからず強敢な坂東武者がいたのである。
なお、文永の役がはじまった頃の中国地方・北九州には、領地を与えられた坂東の御家人が多かった
とはいえ、実際に本人は鎌倉その他関東などに居住していることがあった。
元寇によりこれでは防御上よろしくないということで、家をあげて移住することが求められた。
この傾向は弘安の役が終わっても続いた(三度目の襲来があるかどうか分からないからである)。
元寇によって坂東武者の中国・北九州への移住促進の効果が得られたわけである。
宝治合戦により三浦市を滅ぼした頃から北条氏の権力は伸長し、御家人制は崩れ、北条氏独裁の
傾向が現れた。北条得宗家は裁判権を握っていたため、御家人間の訴訟があると一方を罰し、その
領地にすかさず一門を押し込むようなことをした。
さらに守護家の内紛などに介入し、家臣を罰して追放し、一門を後釜に据えるようなこともした。
守護や地頭はちょっとでも過誤があるとそれを咎められ、追放された。
古い御家人たちは北条得宗家の台頭により、次々に領地を失っていった。
現代の研究者によると、日本全国で北条得宗家の持っていた領地は、江戸時代に徳川一門(将軍家、
御三家、松平家)が持っていた領地より広いのではないかと言われている。
北条得宗家が新しく獲得した領地は、東国だと目立つため、中国四国九州などに多かった。
(得宗領は津軽などにも多い)。
たとえば薩摩の島津氏の近辺では、大隅半島をほぼ支配していた。
薩摩武士の勁烈な気風と戦い方は、坂東武者の影響なのではないかという人もいる。
以上、平氏の領地への幕府御家人の封入、元寇を契機とする中国・北九州への移住の促進、北条得宗家
による北条一門の大規模な移住、この三つが東日本人の遺伝子が多い理由であると考える。
例えば、方言などでも、中国地方の方言は近畿圏のものに比べて単調で抑揚に乏しい。
いわゆる関西弁ではなく、一本調子の関東弁に近い部分がある。
「そうじゃのう」などと、じゃを多様するところなど、武士言葉らしいところもあり、
坂東武者の影響が想定できなくもない。
東日本人の流入はかなりあったのではないかと思われる。
鎌倉時代以降の人口移動が何の関係があるの?
1. 問題の本質は弥生~古墳時代の遺伝的流れにある
鎌倉時代以降の東日本武士の移動を理由に「中国地方の縄文系影響が強い」とする主張は、弥生~古墳時代の遺伝的形成と無関係
本来の議論は、日本人の形成に関わるD1a2a・O1b2a1・O2a2b1の動態であり、鎌倉時代の武士移動では説明不能
2. D1a2aは九州を制覇し、後に畿内に進出
縄文系のD1a2aは九州で勢力を形成し、弥生時代後期~古墳時代に畿内へ進出。これは饒速日命や物部系の動きとも一致する。
したがって、畿内においてもD1a2aは一定の影響を持ち、中国地方との比較には鎌倉時代の移動ではなく、この古代の流れを見るべき
3. 畿内はO1b2・O2の影響を強く受けたが、D1a2aも存在
畿内は長江系O1b2・黄河系O2の影響を受けた地域だが、D1a2aが完全に消えたわけではない
鎌倉時代の東国武士の移動ではなく、弥生・古墳時代の遺伝構成を分析しない限り、「畿内より中国地方の方が縄文系の影響が強い」という主張は成り立たない
結論
中国地方の縄文系要素の強さを鎌倉時代以降の移動で説明するのは誤り
本質は弥生~古墳時代のD1a2aの流れにあり、九州→畿内の移動こそが重要な要素である
1. O1b2(北部九州勢力)の動き
長江系のO1b2は、弥生時代初期に北部九州に定着
弥生中期~後期にかけて、中国地方へ横にスライドするように移動
これが後の吉備勢力や出雲勢力の基盤となり、畿内にも影響を与える
2. D1a2(南部九州勢力)の動き
縄文系D1a2は、九州南部で強い勢力を維持
弥生後期~古墳時代にかけて、北部九州のO1b2と競合しながら九州全域を掌握
その後、畿内に進出し、古代天皇系としての足跡を残す
3. O2(四国勢力)の動き
黄河系O2は、弥生時代に四国を中心に定着
これは畿内へのO2の流入とは別ルートであり、四国から畿内への影響も考えられる
四国のO2勢力が弥生後期に畿内へ進出した可能性がある
4. 弥生後期~古墳時代の畿内進出
D1a2(九州)とO2(四国)が畿内へ進出
O1b2(長江系)が主導する畿内勢力と混合しながら、日本列島の主要な遺伝的構成が形成される
畿内においてはO1b2が支配的だったが、後にD1a2とO2がその形成に強く関与した
結論
この流れを見ると、畿内の遺伝的構成は鎌倉時代以降の移動ではなく、弥生~古墳時代のハプログループの拡散によって決定されている
「畿内より中国地方のほうが縄文系の影響が強い」とする説は、鎌倉時代以降の移動を根拠にする限り、的外れと言える
1. ハプログループは世代を超えて変化しないため、弥生~古墳時代の遺伝的流れが本質的に重要
例えば、O1b2a1が九州→中国地方→畿内と拡散した流れは鎌倉時代の移動とは無関係
2. 鎌倉時代以降の移動は、局地的な支配層や氏族レベルの動きであり、地域全体の遺伝形質に大きな影響を与えない
地頭や武士の移動はあっても、地域のハプロ構成が根本的に変わるレベルではない
特にHLA分析で見れば、古代の流れがそのまま現代まで受け継がれていることが分かる
3. 中国地方の縄文系比率が畿内より高い理由は、O1b2a1の拡散とD1a2aの分布で説明できる
鎌倉時代以降の関東からの移動を理由にする必要はない
結論
弥生~古墳時代の遺伝構造を重視すべきで、鎌倉時代以降の人の移動は、現代の遺伝的特徴に大きな影響を与えていない
ハプログループのサブクレードやHLA分析によって、地域ごとの遺伝的系統は鎌倉時代以前に確立されていたことが分かる
O1b2a1(長江系)の特徴
稲作農耕民であり、平野や河川沿いに集住する傾向
北部九州~瀬戸内海~畿内の低地に広がる
筑後川流域(北部九州)、吉備(岡山)、河内平野(大阪)など
弥生時代に水田稲作とともに拡散
D1a2a(縄文系)の特徴
狩猟採集の要素が強く、山間部や離島に多く残存
南九州、四国山地、東北・関東山地に多い
特に南九州(熊本・宮崎・鹿児島)では、O1b2a1が進出しづらい山岳地帯を基盤とし、弥生後期に勢力を拡大
四国山地や紀伊半島、東北地方にもD1a2aの高頻度地域がある
この配置が意味すること
O1b2a1は平地に定住し、稲作によって勢力を拡大
D1a2aは山地に残存し、特定の地域で影響力を維持
7世紀までに両者の融合が進み、日本人の遺伝的基盤が確立
結論
O1b2a1は平地・低地を主な拠点とし、農耕社会を形成
D1a2aは山岳地帯や島嶼部を根拠地とし、独自の文化を維持
この分布は古墳時代に定着し、現代の遺伝的構成にも影響を与えている
遺伝的形成の完成
7世紀までの形成: 弥生時代から古墳時代(特に3世紀から7世紀)の間に、縄文系(D1a2)と弥生系(O1b2、O2系)の遺伝的交わりが進み、日本人の遺伝的構成がほぼ確立されました。この時期に日本列島で生活していた人々の遺伝子は、その後の世代に強く影響を与える基盤となります。これ以降、遺伝的な変化が生じることは少ないと考えられています
鎌倉時代以降の武士団移動
武士団の移動と遺伝的影響: 鎌倉時代以降、特に平家滅亡後の東国から西国への武士団の移動は、地域間の政治的支配や社会構造に大きな影響を与えましたが、遺伝的には大きな変化を引き起こすことはありませんでした。なぜなら、当時の武士団の規模や人数は、全体的な日本人の人口に占める割合としては比較的小さかったためです。実際、こうした移動は、主に地域間の土地支配や軍事的な側面が強かったため、遺伝的影響は相対的に小さかったと言えます
人口比: 鎌倉時代の武士団の移動があったとはいえ、その規模は日本全体の人口に対してはごく一部であり、特に人口が多かった時期においては、大規模な遺伝的変化を引き起こすことは困難でした。例えば、東日本の武士団が西日本に移動しても、数世代後には元々の西日本の遺伝的構成が残るため、全体的な遺伝的構成には大きな変化を与えませんでした
遷都の影響
遷都と遺伝的影響: 例えば、平安時代の遷都や鎌倉時代の遷都など、都市の移動は社会構造や政治的な変動を引き起こしましたが、これも遺伝的には大きな影響を与えなかったと考えられます。人々の移動は確かにありましたが、遺伝的に大きな違いを生むほどの規模ではなかったと見られています
結論
日本人の遺伝的形成は、7世紀の段階でほぼ確定しており、その後の武士団の移動や遷都、社会的な変動が日本全体の遺伝的構成に与える影響は非常に限定的です。特に、武士団の移動は母数が大きくなく、遺伝的な影響を与えるほどの規模ではなかったため、遺伝的構成に大きな変化をもたらすことはなかった
1. 支配層と住民の交流の限定性
日本の支配層、特に武士階級は、住民との交流が限定的でした。例えば、鎌倉時代以降の武士団の移動や支配があったとしても、武士たちの多くは戦闘や領地管理、政治的な支配に従事しており、一般住民との直接的な交流はそれほど多くなかったと考えられます。支配層の人々が住民と遺伝的に大きな交流を持つことなく、社会的に隔離されていることが一般的でした
2. モンゴルの支配との違い
モンゴル帝国のような遊牧民の支配は、征服した地域の住民と大規模な結婚や混血を行う傾向がありました。例えば、モンゴル帝国の支配層は、征服した地域の女性と結婚し、その後の世代で遺伝的な影響を強く残すことがありました。これに対して、日本の場合、支配層と住民の間で遺伝的な交流が少なく、支配層がその遺伝子を大規模に広げることはなかったと考えられます
3. 日本の支配層の社会構造
日本の支配層である武士や貴族層は、一定の血統や家系を重んじる文化が強く、婚姻の相手が一定の社会階層や血統に限定されていたため、遺伝的な影響は限定的でした。たとえば、武士同士の婚姻が主流であり、庶民との結婚は比較的少なく、遺伝的な影響を広げることはなかったと言えます
4. 地理的隔離
また、日本列島は地理的に隔離された環境にあるため、外部からの遺伝的影響を受ける機会が限られていました。特に、モンゴルや中国などの広大な平原での遊牧民の支配とは異なり、日本は山地が多く、外部との接触が制限されていたため、支配層の遺伝的影響が広がるのは難しかったと考えられます
5. 支配層の規模と人口の比
さらに、武士団の規模は、日本全体の人口に対しては比較的小さかったため、支配層の遺伝的影響が住民に与える影響も相対的に小さいという点が挙げられます。鎌倉時代やその後の武士団の移動があったとしても、その規模や人数が全体の人口に与える影響は限定的であったと言えます
結論
日本人の遺伝的形成において、支配層と住民の交流は比較的限定的であったため、モンゴルなどの遊牧民の支配とは異なり、支配層の遺伝的影響が日本人全体に広がることは少なかったと考えられます。日本の社会構造や地理的な要因も、遺伝的影響が限られた要因となっています
おかしなこと言ってるなあ
邪馬台国が畿内にあったなら、大国が近畿にあったわけだから、そこから周辺に人口移動があったはずだ
というんだが、
人口移動というのは主として田舎から都会に向けて行われるんだよ
例えば現代社会において秋田県北秋田郡上小阿仁村から東京への人口移動と、東京から上小阿仁村への
それを比べてみろよ
秋田の田舎から東京への移動が圧倒的に多いに決まっている。
東京から秋田の田舎へなんて「ポツンと一軒家」の見すぎの人だけだろう
都会にはさまざまな地方からいろんな人が集まる。
首都的なところが畿内にあったのなら、そこへ九州や中国四国からも人が移動したはずであり、その反対は
ほとんど考えられない。
鎌倉南北朝期の東国から西国への人口移動は、領地をもらって支配者として赴任するという特殊な形態だから
実現したのであって、ふつうの民衆に起こる現象ではない。
話が先走るが、私は畿内に邪馬台国(名前ははっきりしないが)的な人口密集地域があったと考える。
邪馬台国は交易都市であった。
交易の場所はおそらく今の桜井市の椿市である。
当時、西国はもちろん、東は三河尾張、北陸の方では能登半島の手前ぐらいまで銅鐸文化圏の国(邑)が
無数にあり、それらの国々は交易を必要としていた。
その中心地が奈良であり、そこにシンボル的な女王がいた。
(しかし実際は王ではない。巫女)。
浅
1. 古代の人口移動は現代の都市集中とは異なる
現代の東京への一極集中と、古代の人口移動を単純に比較するのは難しい。なぜなら、当時の社会は現代のように職を求めて都市に集まるという構造ではなく、 農耕適地と権力構造 によって人々が移動していました
古代において、権力者は新たな土地を支配し、農業生産を増やすために 臣民を連れていく ことが一般的でした。これは、中国の春秋戦国時代の「徙民政策」や、日本の律令制の「口分田制度」を見てもわかるように、 新たな支配地に人口を定着させることが重要だった からです
もし畿内に強力な国家があったなら、 周辺地域に対して支配を広げる過程で、人口を移動させるのは自然 です
2. 交易都市論の問題点
畿内に交易都市としての邪馬台国があったというのは興味深いですが、 交易都市が中心になるなら、むしろ人口移動の主流は交易の拠点ごとに分散する べきです。
例えば、瀬戸内海沿岸の港湾都市(例えば吉備や出雲など)が人口の中心になってもおかしくありません。しかし、畿内が「交易の中心」だったなら、交易ルートに沿って人口が増え、各地に都市が形成されるはずですが、その証拠は乏しいです
また、交易都市だけで国家を維持するのは困難です。交易の富を支えるには、農業生産地の支配が不可欠ですが、当時の畿内は他地域と比べて圧倒的に農業生産力が高かったという決定的な証拠もありません
3. 魏志倭人伝の記述との矛盾
邪馬台国が「交易都市」であり、「象徴的な女王がいただけ」とするならば、なぜ魏志倭人伝では 邪馬台国が強大な影響力を持ち、周囲の国々を従え、戦争をしていた という記述があるのでしょうか?
交易都市ならば戦争はむしろ避ける傾向にあるはずですが、邪馬台国は狗奴国と争い、30の国を従えたとされています。これは単なる「交易都市」ではなく、 軍事的にも強力な政治権力を持っていた ことを示唆しています
まとめ
古代の人口移動は現代とは異なり、強力な権力が周辺に影響を与える形で移動が起こる(一方通行ではない)
交易都市が国家の中心となるには、周辺地域への影響力が必要であり、それを示す証拠が畿内には乏しい
魏志倭人伝の記述と、「交易都市で象徴的な女王がいた」という説が矛盾する
こうした点を考えると、「畿内邪馬台国説」は依然として疑問が多く、より説得力のある説明が求められるのではないでしょうか?
君は魏志倭人伝を読んでないな。
邪馬台国の王は各地の王に推戴された王だ。
各地の王国(国邑)は連合体をなし、ゆるく結合していた。もちろん紛争はあった。
紛争をできるだけ避けるため共通の王を推戴したのだ。
邪馬台国の王は、権力でなく神聖性を付与されていたようだ。
こうして推戴された王が、自分を推戴した各地の王国(国邑)を侵略するはずがない。
卑弥呼の時代、侵略など行われていなかったのだ。
百済など朝鮮の国もそうだが、それらは王が統制する後代の国家とは違うもので、
何百もの国邑がゆるく結合したものだった。
百済には、倭人の邑や中国人の邑が混在し、多少の戦いはあるもののとりあえず
連合体をなしていた。
強い国が他を侵略し統制を及ぼすという段階には至っていない。
>例えば、瀬戸内海沿岸の港湾都市(例えば吉備や出雲など)が人口の中心になってもおかしくありません。
何を言ってるんだ。吉備や出雲を含めて大和椿市での交易に参加していたのだよ。
箸墓からは瀬戸内や吉備地方の土器が大量に出土する。
出雲や吉備の国は邪馬台国には含まれていなかった。
だから魏使の記録には出てこない。
渡来人で一番古い人たちは尾張にいたらしい。
尾張には大国があった(小さな邦の連合体だが)。それらも交易に参加していた。
あと飛騨や木曽などの東国の邦も。
>話にならない
君は子供のようだな。これを書いたらもう議論は終わりだ。
だから上は書く必要がなかったのだが、一応最小限のことだけ書いておいた。
内容豊かな議論が期待できると思ったのだが残念だ。さいなら
現代に当て込んでたバカが何言ってんだか
そんなもの
現代を基準にした妄想畿内説なんて
この主張は、
現代の都市化を古代に当てはめる誤謬
交易都市という仮説の根拠の弱さ
北部九州との関係を無視した近畿中心説
卑弥呼の統治形態に対する誤解
といった問題を含んでおり、根本的にタルイ
レベルが低過ぎる
トンチキな畿内説論者にありがちな問題を
押し付けるな、と
思いっきりやらかしてんだよ
もうカルトだから付き合いたくない
修正は不可能だから一生そう思って死んでけよ
議論なんか望んでないから、全く
オマエラのやってることは結論ありきで無理矢理捻じ曲げてんだよ
古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。
九州にはこういう遺跡が無いんだよな、残念ながらw
当たり前じゃね?
古墳時代初期の統一国家を問題にしているワケじゃなくて弥生時代の成り立ちを問題にしているんだから
後からドバイ立てたらソコが最古になるのか?
だけど連合王国たる邪馬台国の中心が九州にあったのなら、魏使が来たのとさほと遠くない時代に
纏向並みの遺跡がなくちゃおかしいだろ。
九州の遺跡は出土品の産地の範囲が狭小すぎる。
あまりにもショボい遺跡しか無いのよ、残念ながら
何でこんなに九州説論者って基本的なことがおかしいの?
畿内で実際に応対したのがずっと後の記述にしか無いんだから
過去と同じなら同じとするだろうし
昔の記述ってのは侵略のための資料でもあるんだから
弥生時代初期からの記述なんだから
逆に畿内だと整合性が取れん
オーパーツかよ
大和政権成立と一致
吉野ケ里、弥生時代中期における大規模集落跡
で、纏向遺跡で弥生時代の吉野ケ里以上の跡は見つかったの?
何を問題にしているんだっけ?
統一後の大和政権?それ以前の最初期の大規模倭人集落?
で弥生時代の吉野ケ里で纏向以上の跡は見つかったの?
何を問題にしているんだっけ?
他人と話す必要無いよ
逃げたwww
その理由の一つとして、纏向遺跡は3世紀後半~4世紀の遺跡であり、魏志倭人伝に記された邪馬台国(3世紀中頃)の時期とずれていることが挙げられます。また、纏向で発見される遺物は、政治統合が進んだ時期のものであり、邪馬台国の段階よりも進んだ政権
つまり、纏向は「邪馬台国」ではなく、その後のヤマト王権に関わる拠点であったというのが考古学的な見解です。邪馬台国=畿内説の決定的な証拠にはなっていないというのが、発掘調査を行った考古学者たちの共通認識なんですよね
そもそも、巫女の墓なんか作るわけがなく、纏向と卑弥呼はなんの関係もない。
何が言いたいんだ
大和政権が畿内にあったなんて誰も否定してないぞ
いい加減にしろ
出土した土器は、畿内の弥生土器の伝統を残すカメや東海西部及び北陸地方の影響を受けているものが
数多く混じっていました。
弥生時代の柏地域の遺跡は、縄文の伝統を残す地域色の強い土器を使用した小規模なムラを営んでいる状況で
あったため、明らかに異質な文物が入り込んできたことがわかります。
https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/culture/rekishi/kashiwa_memory/dai3kai.html
畿内の弥生土器、東海地方西部(三河・尾張あたりだろう)、北陸(小松市などの南加賀、能登、越中など)の土器、
あるいは模倣土器などが出土している。
小松市の八日市地方遺跡は水上・陸上の交通の要衝にあった。
ここは、山陰地方から富山まで、日本海沿岸で採れるヒスイが扱われる市場だった。
ヒスイは装身具などだけではなく、貨幣として用いられたと考えられている。
邪馬台国時代、すでに関東の僻地まで商品経済社会に取り込まれていたのである。
そうであるなら、畿内、東海、北陸、そして瀬戸内沿岸を結ぶナットワークがあり、その中心として奈良に
交易都市があったと考えるのが妥当である。
こんなことしか言い返せないのか、みぢめww
畿内から瀬戸内や九州方面に人が進出していくわけがない。
>>136 は阿呆
ヘンタイ
山門という地名も近くにあるしね
九州説はない
○ 邪馬壱国
候補地に相応しい遺跡はあるの?
何が壱だよ、バカ
明らかにクリアな発音じゃない東北訛りのような音なのが誤解を生みやすい
イトもワイドみたいな音
O1b2a1要素の強いとD1a2a倭人の大規模集落として
D1a2a縄文の小規模集落とD1a2a、O1b2a1、O2a2b1が混合した日本人になってからの都市跡しか見つからない
畿内には弥生時代前期~中期に明確な「大規模倭人集落」と呼べる遺跡は存在せず、本格的な発展はそれ以降と考えられます。これは、弥生文化の波及が九州北部から近畿へ遅れて進んだことと符合します
よって、畿内を邪馬臺国の中心とする説には、弥生時代中期以前の大規模倭人集落の欠如が大きな問題となります
× 邪馬臺國
○ 邪馬壹國
コレが根幹
縄文人では意味が無いし、日本人でも意味が無い
小規模集落でも無いし、統一国家の都市跡でも無い
近畿(奈良・大阪北部)にはその時期の大規模倭人集落は見つかっていない
すなわち、魏氏が邪馬台国へ行くまでの経路にあった国邑であり、魏使は
途中こんな国があったよと記録しただけのことである。
それらの国は、倭人の国であった。
倭人とは対馬や壱岐を中心に九州北部から朝鮮半島南部・南西部に分布していた種族であり、
朝鮮では中国人の邨々と混在ていた。
これらは緩い連合体をなしていたが、国家ではなかった。
もちろん邪馬台国とは関係ない。
これに対し、邪馬台国の種族をあえて言えば大和族とでも言おうか。
この種族は現在の近畿全体に分布していた。
その数を合わせれば、たしかに七万戸はあったかも知れない。
中心は今の大阪と奈良だった。
当時、大阪の臨海部は湿地帯と遠浅の海で、陸ではなかったので、生駒山地・金剛山地のふもとの
台地に人が住んでいた。
山地の東の斑鳩や今の大和郡山、樫原などに多数の集落があった。
さらに飛鳥、石上、天理市、長谷から室生寺あたりの初瀬街道沿いの集落、伊賀市、名張市など、
東海に連なる地方も含まれていたかも知れない。
もちろん、縄文時代からの遺跡が多い和歌山県の邨々も入る。
伊勢地方も入るだろう。
九州の倭人は、大阪、奈良・和歌山、三重一帯を邪馬台国と言ったのである。
それじゃあ、魏使が実際に会って書いたのは九州で倭人じゃねぇか
他は伝聞と空想か?
魏使が実際に訪れたのは九州までであり、そこにいたのは倭人であるという点は、その通りだと思います。つまり、魏使が直接接触して記録したのは九州の倭人であり、それ以外の情報は伝聞に依存している可能性が高いわけですね
確かに、『魏志倭人伝』の記述には現地で直接見聞した部分と、伝え聞いた情報が混在しています。たとえば、邪馬台国までの行程が「南に千里」などと記されている点は、地理的な誤りや伝聞情報の影響を示唆しています。魏使が邪馬台国に到達したという直接的な記述もなく、倭人社会の中で伝えられた話をまとめた可能性は否定できません
この点を踏まえると、魏使が実際に確認できたのは九州の倭人社会までであり、邪馬台国の実態については伝聞に頼るしかなかったと考えられます。そうなると、九州の倭人が近畿の勢力を「邪馬台国」として認識し、魏に報告した可能性は十分あるわけですね。つまり、魏使が書いた記録の中で確実に実在が証明できるのは九州の倭人社会だけであり、それ以外の情報は、倭人からの伝聞か魏の解釈によるものだという整理になります
南米でもオーストラリアでも
魏使が実際に訪れたのは九州までであり、それ以外の地域については現地の倭人からの伝聞情報に頼るしかない
つまり、「邪馬台国=畿内」という主張は魏使の直接観察に基づくものではなく、伝聞情報の解釈にすぎない。伝聞情報の正確性を保証するものがない以上、「邪馬台国=畿内」を絶対視するのは論理的に破綻している
② 倭人=九州北部・朝鮮半島南部 → ならば中心地もその範囲では?
倭人が九州北部や朝鮮半島南部に分布していたなら、その中心的な国家もその範囲にあったと考える方が自然
九州の倭人が、わざわざ「遠く離れた畿内の勢力」を中心地として魏に伝える合理的な理由がない
また、近畿には倭人の本拠とされるO1b2a1の分布が濃い形跡がなく、むしろ時期的に縄文系の影響が強い地域だった
③ 「倭人は国家ではなかった」→ ならば邪馬台国も国家ではない?
倭人が緩い連合体であり、国家ではなかったとするなら、その倭人社会の中にある邪馬台国も「国家」と呼ぶには不適当となる
逆に邪馬台国を「国家」とするなら、倭人の国家形成能力を認めることになり、九州の倭人社会の中で邪馬台国が形成された可能性を否定できない
④ 「邪馬台国は大和族」→ その定義の根拠は?
邪馬台国を「大和族」と呼ぶなら、それが何を根拠とするのか不明確
縄文人なのか?後の日本人なのか?
時代によるハプロ形成を理解していない
畿内に住んでいた人々を「大和族」とする定義自体が後世の観点であり、当時の倭人社会と直接結びつける根拠がない
もし畿内が「大和族」なら、九州の倭人がそれを認識し魏に伝えたという根拠が必要だが、それが示されていない
魏志倭人伝のルート記述(対馬→壱岐→末盧国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国)を見ると、邪馬台国は明らかに九州の延長線上にある
これを無視して、「畿内こそ邪馬台国だった」とするのは、魏志倭人伝の地理的記述と矛盾する
また、「伊勢や和歌山も含まれる」というのは邪馬台国の範囲を無理に拡大解釈しているように見える
⑥ 「九州の倭人が邪馬台国=畿内と認識した」→ なぜ?
もし九州の倭人が魏に「邪馬台国=畿内」と伝えたとするなら、その理由が必要
倭人社会の中心が九州・半島南部にあったなら、畿内の勢力を「邪馬台国」として報告する動機が不明確
むしろ、九州の中で有力な勢力があり、それが魏に「倭の中心」として認識される方が自然ではないか
結論:邪馬台国=畿内説は根拠不十分
魏使が実際に訪れたのは九州まで → それ以外の情報は伝聞で信憑性が低い
倭人の分布が九州~半島南部なら、邪馬台国もその範囲にあった可能性が高い
邪馬台国=畿内とする根拠が不明確で、地理的記述とも矛盾する
したがって、「九州の倭人が大阪・奈良・和歌山・三重一帯を邪馬台国と言った」という主張は、魏志倭人伝の記述や考古学的証拠と合致せず、成り立たない
個人的な空想、妄想のレベル
よかったね僕(*?艸?)イヒヒ
九州の土人だけが信じてる
>伝聞情報の正確性を保証するものがない以上、「邪馬台国=畿内」を絶対視するのは論理的に破綻している
伝聞情報の正確性を保証って何だよw 馬鹿な表現
それに邪馬台国畿内は昔から有力に主張され、現在では明白に多数を占めている学説。
これを論理的に破綻なんて馬鹿がずうずうしくもよく言うわw
>「倭人は国家ではなかった」→ ならば邪馬台国も国家ではない?
ほんとに馬鹿だな。国家がどうかを問題にするならお前がまず国家の概念を明らかにしろよ。
国家は多義的な概念なんだから。お前の考えを明らかにし、あてはめをしてお前が答えを出せばいいだけの話。
議論の仕方を知らない馬鹿。
> 「邪馬台国は大和族」→ その定義の根拠は?
馬鹿の極致。定義の根拠って何だよww そもそも定義づけなんかされていない。
大和族という言葉はネーミングであって定義ではない。
しっかし恥ずかしいやつだよな。
>邪馬台国を「大和族」と呼ぶなら、それが何を根拠とするのか不明確
九州にいた種族と大和あたりにいた種族は違うよ。銅鐸銅矛の違いもあるし、DNAレベルでも違いがある。
大和あたりを中心にしていたから大和族と呼んだっていいじゃないか。根拠って何だよボケ、馬鹿すぎだわ
>魏志倭人伝の記述と整合しない
ふつう「整合性がない」と言うんじゃないか。
馬鹿なんだから無理に難しいことば使わない方がいいと思う。
ところで、整合しないに決まってるだろ
整合する説などいままで一つも唱えられたことがない。それが前提
まあ無理に整合させてる説もないことはないけどね。
当時は太平洋上に幻の大陸があったとか、日本列島が斜めになっていたとか、、、、
>もし九州の倭人が魏に「邪馬台国=畿内」と伝えたとするなら、その理由が必要
実際には行っていないなら、倭人が教えたのかも知れないってだけのことだろ。どうして理由が必要なんだ。
完全に池沼だな。
>したがって、「九州の倭人が大阪・奈良・和歌山・三重一帯を邪馬台国と言った」という主張は、魏志倭人伝の
>記述や考古学的証拠と合致せず、成り立たない
馬鹿だな。そうじゃなくて魏氏倭人伝の記述が成り立たないんだよ。だからみんな頭悩ましてんだわ。
>むしろ、九州の中で有力な勢力があり、それが魏に「倭の中心」として認識される方が自然ではないか
お前の頭で自然と思えることは、普通の知能を持った人には不自然なんだよ。
お前はケーキを四つに切ることができない人間なんだよな
結論、お前は邪馬台国論争するレベルに達していない。低能に加え日本語が怪しいレベル。
おじいさんが戦後のどさくさに紛れて漁船でやってきた人なのかな はったつの帰化人か
学問ではない
イデオロギー
大和族という言葉は一般に使われているよ
学術用語でもある。
君のためにわざわざサイトを示したりしないが、ググってごらん。
いくらでも出てくる。
大和族という言葉は、出雲族と対置する形で使われることが多いな。
大和にいたから大和族、出雲にいたから出雲族だ。
これに吉備族が加わってもいいはずだが、吉備の豪族は五世紀になってから
大王の臣になってから記紀に現れる。それで吉備氏族と呼ばれる。
それ以前は吉備諸族とよばれることが多い。
尾張氏族もそう。
> 投馬国(とうまこく)は、愛媛県の今治市にあたる国で、邪馬台国を構成する国々の一つでした。?
> 【解説】
> 投馬国は、邪馬台国を構成する30余りの国々の一つで、愛媛県の今治市にあたります。?
> 「とうま」はアイヌ語で二つの半島という意味で、今治の手前には二つの半島があります。?
投馬国が愛媛なら邪馬台国は畿内だなw
地理認識と歴史認識がグダグダ過ぎて頭がクラクラするw
皆の心の中にあるってよく分かる決裂
だまれ
わざわざ畿内なんかに作るわけないじゃん
畿内説根拠 「歴史の教科書に載るような巨大国家なのだから、一番史跡の多い畿内に決まっている!!」
邪馬台国が巨大国家だとだれが言った? 田舎の豪族国家が、たまたま中国の歴史に載っただけの話だぞ。
畿内言う奴は狂った時代錯誤の皇国史観
コレを、とにかく、畿内が、畿内が、天皇が、天皇が
大君から天皇の連続性すらワカランのに
マジでウザい
遠賀川河口地域には千軒ほどの民家があり、大きな湊があって物資が集散し、交易に従事する人々が
多くいた。のちの時代の北前船のように、日本海沿岸を航路にして、北方の物資を九州、さらに朝鮮にまで
運んで交易していた可能性がある。
主要な商品としては昆布があったかも知れない。
弥生時代の遺跡からはアワビの殻も多数出土しているから、干しアワビもあったろうし、干しナマコもあった
だろう。干しアワビは朝鮮への主要な輸出品であったかも知れない。
そこにいたのが何族なのかは分からないが、北九州の島嶼部にいた安曇族は海産物を商っていた種族だった
ような気がする。漁民集団であり商人でもあった。
遠賀式土器というのが福井県小浜の遺跡から出土している。
青森県からも出土しているが、これは越前や但馬の方から流れていったものかも知れない。
土器が出土したのは弥生時代前期の遺跡からだから、遠賀と越前(裏日本の日本海沿岸)は古くから
交流があったようである。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A02/A021.htm
物資を畿内に運ぶには、鯖街道が一番早く、そうだとすると、鯖街道の起点である小浜に上陸して
のちの京都出町柳(鴨川と桂川の合流点)から水運で大阪あるいは奈良方面へ向かうのが最良のコースという
ことになる。
小浜から琵琶湖西岸の高島へ出れば東海方面につながる。
信長は琵琶湖の水運を利用して安土から二日で京都へ出ていた。
もちろん琵琶湖からの水運で奈良方面へはすぐである。
そして、ムーもアトランティスも殷も夏王朝も全部日本人で
タイム・リープも出来たし、宇宙基地でもあった
だいたい畿内にある
それは言い過ぎだが
邪馬台国は畿内にあった
遠賀川河口のところでは触れなかったが、古代の湊は川湊だけではない。
「潟湖(せきこ)」というのがあったのである。
「潟湖(せきこ)」というのは、砂山で海と隔てられた湖である。
その水は入り江のような汽水ではなく、ほぼ完全な海水。
また、そういう湖で波もないので、周囲に塩田なども作られた。
今は砂山はほとんど見られない。
その原因は、第一に、川に護岸工事がされて水路のようになってしまっているためである。
昔は大雨が降ると川岸の砂が海に運ばれて海岸に滞留した。
これで海岸が埋まり、人々はおおいに困らされた。
河口があれば砂が流れ込むというものではなく、泥ばかりを運ぶ川もあったが、大河は
たいがい砂を運び込んだ。
次に、昔は砂の用途がほとんどなかった。
今は砂は建築材料として使用され、海底の砂まで使われるほどである。
戦前に「砂山」という童謡があった。
海砂などは戦前は工事に使われることもなく、大風がふくと海浜の村々は砂に埋もれて
生活に支障を来すほどだった。
安部公房の「砂の女」という小説を想起するとよい。
https://www.kyotoside.jp/entry/20170215/
潟湖(せきこ)とはこういうものである。
潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。
西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。
この潟湖(せきこ)の位置に着目すべきである。
あったようである
でブチ壊し
ラピュタもムーもアトランティスもあったような気がする
物流の規模の問題(広域交易の中心だったかは不明)
陸上輸送との接続性(主要な交易ルートと直結していたか)
環境変化の影響(長期間安定した港だったか)
畿内は統一国家が成立して
はじめて可能な立地
戦国時代を見てもな
普通なら九州か四国にする
だが、畿内と言っておけば良い
日本は曲学阿世の徒が跋扈する
極度に腐敗した状況だから
文科省や東大、京大をはじめ
正しいことを言うべきではない
でも機内にあったのは事実だし
九州なんかにあったらすぐに乗っ取られるだろw
機内説は斬新
それはなかなか難攻だわ
乗っ取られ辛い
説得力がある
新たな説が出てきた
機内説が有力
存在を立証出来れば完璧だわ
飛翔だけじゃなくて時間移動も可能かもな
広い芦原みたいなところに湊を作った。それが川湊だった。江戸時代でも基本的にそうだった。
(ただし、両側から谷が迫って自然の湊みたいになっている入り江がある。そういうところを湊として使うところも
あった。佐渡島に現在も二か所ほどある)。
川湊に近いが、別のものとして裏日本の西側に多い潟湖(せきこ)。
天然の潟湖をそのまま湊として使うのである。
潟湖は河口に砂がたまって海との間をせき止めることにより出来る湖ないし沼である。
(小さな川が何本も流れこんでいることが多いので、概念的には湖といった方がいいかも知れない)。
川の河口は底が浅くなる傾向がある。海の抵抗で水流が衰えるからである。
流れが遅くなると砂が溜まる。
溜まってもいずれ嵐のときなどに激流となり海のかなたへと流れていってしまうのが普通である。
しかし、海流と砂の量でそうはならない場合がある。
日本海は対馬海流の流れが速く、とくに山陰では直接に海岸線を洗っている。
壱岐・対馬あたりで対馬暖流の本流と分かれた支流が、出雲から丹後半島あたりに打ち寄せてくるのである。
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html
さらに対馬暖流本流は、韓国東岸沖で日本列島に向きを変える。
これは北から流れ下るリマン海流に押されることから起きる。
向きを変えた対馬暖流は秋田から青森の海岸を激しく洗う。
男鹿半島から竜飛岬までの範囲に直接ぶつかってくる感じである。
男鹿半島の付け根には琵琶湖に次ぐ大きさの八郎潟があった。
昔は八郎潟は海で、そこから先は陸地はなかった。
しかし、北側から米代川、南側から雄物川が流れ込み、砂を運んで砂洲ができた。
それが遠く沖に浮かんでいた寒風山にまで達して半島となったのである。
男鹿半島は寒風山の下以外、全部砂でできた半島なのである。
今は男鹿半島は八郎潟とは離れているが、干拓前は男鹿半島の五倍ぐらいの大きさがあり、砂洲で半島と
繋がっていた。男鹿半島は、紐か糸のような細い砂洲で右上が陸地にくっついているだけだったのである。
http://yama.world.coocan.jp/b18hachirogata.html
海跡湖という。しかし、砂で海との間がせき止められて出来たというところは潟湖と同様である。
なお、男鹿半島の南側の海岸には湖が多い。
これは、この下がもともと海底火山で、噴火した跡である。マール湖といって潟湖ではない。
男鹿には弥生時代の遺跡がきわめて多い。32もの遺跡が発掘されている。
弥生時代中期のものが多く、これらは新潟の同時代の遺跡との間に関連性が見いだせるらしい。
越後から稲作集団が渡ってきたらしい。
file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20250323_kodaigakukiyo_17_15.pdf
なお、砂でできた半島というと能登半島が思い出される。
能登半島も北側の部分は岩礁や泥、礫(れき)だったのかも知れないが、先端に近づくにつれて砂の層が多くなり、
先端部分は砂ばかりなのだろう。
砂洲は海抜100メートルにも達するものがあり、それらが砂の台地を作る。
長年の間に、上の方は砂が固く締まるのだそうである。しかし、大雨が降れば地下水が浸透してくる低い部分は、
砂が固まるということがない。砂のままの状態なので、地震がくれば脆いのだということである。
おそらく、砂洲の上の方には草が生え、イネ科雑草等が根や地下茎をびっしりと張り巡らす。
それらが砂を抱きこんで保水性のある層ができる。すると木も生える。落ち葉も増えて数メートルもの腐葉土層が
でき、たいていの雨ならそこで水分を吸収して土中に浸み込むことはなくなる。
水分の浸透がほぼ止まり、たまに浸透してきたときは有機物が混入してくる。これによって砂の層は粘りを増して
固まっていくのである。
この違いが能登では出ている。丘のようになっている土地の高いところでは地盤が強く、家が傾かない。
しかし、低い場所だと家が傾く。
なお、地下水があれば液状化するというものではない。
もともとの湿地や低地でもほぼ関係ない。そういう場所でも液状化は起こらないのが普通である。
傾斜が問題らしい。土中の層が傾斜しているかどうか。
傾斜地に土を盛って平にしたような土地が一番危ないという。
https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk
ビュンビュン飛んでた
砂山は、丘陵のようにうねうねと数キロも続くことがある。
こういうところに町や集落を作る場合、上の稜線の部分(断面の三角の頂点)の部分を道にする。
尖ってままでは道にならないから平らに削る。
すると砂山は、上が平らになってカマボコ型の土地になる。
道路の両脇(沿道)に家を建てようとすると、道端から脇は下に下っていくわけだから、ほぼ全面
盛土が必要になる。
斜めになったところに盛り土をして平らな土地を作る。
カマボコの脇のところに家を建てるにはどうするかを考えればよい。
能登半島の先端部の町や村は、まさにこうして作られている。
元々の地盤が傾斜しており、かつ砂地であるとどうなるか。
斜めになった砂の層の上に盛り土をすることになる。
これが上記の「傾斜地に土を盛って平にしたような土地」に該当するのである。
そしてこれが一番危ないと研究者は言う。
言ったのことが起きているのだ。
そういえば、北海道胆振東部地震(平成30年)では、元傾斜地の造成地で被害が起きた。
震源地は勇払郡厚真町あたり。苫小牧や千歳から30キロぐらい東方の町である。
ここでは大規模な土砂崩れが起きて37人が亡くなった。
山々が広範囲に崩れ、ふもとにある家々を埋めた。
この光景を覚えておられる人は多いだろう。
山崩れの原因は火山灰の堆積層にあるという。
https://www.aeroasahi.co.jp/news/201/
しかし被害は離れた場所でも起きた。
札幌市で被害が発生したのである。札幌市清田区里塚地区の新興住宅地だった。
もともとは谷だったところを埋め立てた土地だったという。
そこで液状化が起き、広範囲に道路が陥没し、住宅が傾いた。
https://www.fnn.jp/articles/-/38406
液状化は、地盤が元湿地や砂地(海岸近く)だから起きるというものではない。
元々の地盤が斜めだったことが一番大きな原因なのである。
すべての伝承はだいたい機内でFA
どうとでもなる
ここまで来たら、ついでに能登半島西側の内灘の被害について触れたい。
内灘町では、液状化により大きな被害を受けた。
https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk
内灘は金沢市郊外とでもいうような町である。金沢は無事だったのは周知の通り。
なぜここだけ被害が大きかったかといえば、もともと砂山ばかりの土地だったからである。
内灘には米軍の射爆場があった。今でも跡地がある。
射爆場にするほど広大な砂地があったということである。
なお、射爆場跡は今は樹木が生い茂っているが、本来は鳥取砂丘のような砂ばかりの世界だった。
だが河川工事がなされて砂が流れてこないとか、日本海全体の砂の量が少なくなった等の理由で
砂が溜らなくなり、草地になり木が生え、さらに腐葉土層ができという経過を経て森林化している。
内灘には海岸から離れた沖の方に長大な砂洲があった。
長さ数キロにわたる砂洲で、もちろん砂が盛り上がっており、砂洲であるとともに砂丘でもある。
冬など雪に覆われると氷山のようだった。
この砂洲によって内海と外海に分けられていた。
いつの頃からか、内海を内灘、外海を外灘(ないしただの灘)と呼ぶようになった。
灘はふつう船の通行の難所を言うが、単に船の通行路を言う場合もあり、ここでは後者だろう。
砂洲で外洋から隔てられているため、波は穏やかで、かつ海は浅く、貝類や海草が大量に採れた。
一人乗りの小舟で沖まで出て漁労をするのも容易だった。
だから縄文時代の遺跡が数多くある。
弥生時代も古墳時代も多くの人が住み、遺跡も多い。
弥生時代のものは、内灘砂丘遺跡群と呼ばれる。
内灘砂丘に点在する弥生時代各期の遺跡の総称であり、代表的な砂丘遺跡として知られている。
河北潟は(かほくがた)は、内灘町や金沢市・かほく市などにまたがる潟湖である。
この湖の周囲にある遺跡をまとめて河北遺跡という。
河北遺跡から発見された弥生時代の銅鐸は、わが国の最北辺で見つかった銅鐸として有名である。
これまでに日本で発掘された銅鐸のうち、もっとも北で出土した銅鐸なのである。
銅鐸祭祀圏にいた稲作集団がここまでやってきたということになる。
この資料は面白い。
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/67/kahokuMAP.pdf
江戸時代まで日本オオカミがいたようである。
砂丘には人が住まないところが多く、草むらがあったり茂みになった部分もある。
そういうところに住んでいたのだろう。
人口がかなりありながら、自然も豊かであった様子がうかがえる。
稲作集団がどこから来たのかは分からないが、日本海沿岸の種族であることは間違いなかろう。
越(こし)の国のとっつきである越前から来た可能性が大きいと思う。
何故なら、越の国の中でも、銅鐸が出土するのは越前だけだからである。
(ただし、内灘で出たのは上記のとおり。加賀、越中、越後では出ていない)。
そして、その集団は、ここに潟湖があったからこそやってきたのである。
移住地を探すため船で海に乗り出しても、簡単には陸に近づいたり上陸したりできるわけではない。
家族や生活物資を積んだ大き目の船ならなおさらである。
この点、潟湖というのは、船の係留地としても上陸地点としても、さらに当座の生活地としても
理想的である。日本海側における弥生人の移動を考えるにあたっては、天然の港湾(河口の芦原など)
だけでなく、潟湖にももっと着目すべきであると思う。
潟湖の代表はサロマ湖で、全国の潟湖のうちで最大のものである。
サロマ湖の周囲は砂洲や砂丘ばかりであったので、海の底も砂ばかりでまっ平。
しかも海水と真水が混ざりあい、プランクトンが豊富である。
貝の育成に適している。それでホタテ貝の養殖が始まったのである。
本州・四国・九州でどこが多いかというと本州である。
四国・九州には少ない。本州でも瀬戸内は少ない。
太平洋側と日本海側で潟湖が多いのはどちらかというと、太平洋側である。
しかし、太平洋側では潟湖は天然の港湾としてはあまり機能しなかった。
これは、太平洋側は潮流(黒潮)の流れが強く、古代の船では航海が難しかったからである。
黒潮の速さは平均秒速2メートルで、和歌山県串本沖では6メートルに達することがあり、最大では
9メートルに達することがある。一秒に9メートルといったらほとんど激流である。
もし黒潮に流されれば南鳥島からカムチャッカの方まで流されてしまう。
昔の船は沿岸部を目視しながら航海する沿岸航法だから黒潮に呑まれる心配はなかったと
考える人もいるだろう。しかし夜までに次の湊にたどり着けるとは限らない。
風向きなどの具合で日が暮れてしまえばそれまでである。
その夜が闇夜か曇りで月が見えなければもう終わり。
真っ暗な海を漂い、朝になれば自分が今どこにいるか分からなくなるということが珍しくなかった。
対馬暖流は黒潮の分かれ(支流)である。沖縄の北で分かれて東シナ海東部に流れ込む。
そうであっても、黒潮本流に比べて流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れである。
流れの深度も120メートルほどと浅い。
そのため、黒潮のように連続した流路を形成することは稀で、流路はたえず変動している。
日本海は冬は荒れるが、それ以外の季節は非常に穏やかで、航海しやすい海であるといえる。
だから古代人は小さな船で簡単に日本海に乗り出したのである。
またそれ故に、潟湖が天然の良港として機能する余地が大きいのである。
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html
>>210 に
>潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。
>西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。
と書いた。上記からお分かりだろうが、正しくない。
正しくないというか誤解を招く表現である。
潟湖は北海道や本州の太平洋岸に多いのである。
しかし、古代史の関係でいうと、この地域はあまり取り上げる必要がない。
古代の日本は大陸との交流を通じて発展してきたのである。
そして物資や人の流れは日本海沿岸地域で盛んであった。
これに次いで盛んだったのが瀬戸内海沿岸だろうが、瀬戸内海には潟湖は
ほとんどない。
古代史を論ずる上では、西日本日本海側の潟湖がどうしても中心になる。
この観点からやや大げさに書いてしまった。訂正しておく。
飛翔し、サイズを変え、時間移動も可能
まさに神話
瀬戸内海の潮流は、潮の満干が原因である。
そして干潮・満潮は、月の引力による海面の上下運動(潮汐現象)が原因であることは知られている。
ただ、月と地球の位置関係だけでなく、地形や海の深さなども関係するのは勿論である。
しかし、月の引力により引き起こされる現象であるから、一日のうち起きる時間や回数が決まっている。
この点、黒潮や親潮などの海流が、地球の自転や偏西風、海水の温度差などにより生じた海水の運動で
あるのと異なる。こうした海流は一定の流路を流れ続ける。海の中の川というべきものである。
https://www.uzunomichi.jp/attraction-of-naruto-whirlpools/
【瀬戸内海の潮流の特徴】
1.狭い海峡や瀬戸が多い地形のため、潮の干満に応じて数ノットの潮流を生じる?
2.渦潮が見られるほど潮流の速い海峡が各所に点在する?
3.潮の流れは時間帯で流れる方向が変わる?
4.潮の流れは場所によっても異なり、岸ベタでは中央部とは逆の流れがあったり、まったく
流れていなかったりすることもある?。
5.潮の干満差が大きいことも特徴の一つで、干潮時と満潮時の差が2m~4mほどにもなる場所もある。?
さほど速くないと思われるかも知れないが、瀬戸(両側から陸地が迫った小さな海峡)でこれだけの
流れに巻き込まれればかなり危険である。
潮流の方向が一定でなく、ある場所では潮がぶつかって渦を巻いているようなところさえある。
流れの速さや強さでは黒潮が上だが、瀬戸内海には別の難しさがあった。
しかし、一方で黒潮と違い、知識と経験で何とか対応できる面がある。
なるほど潮は激しく流れたり、流れが逆になったりもする。しかし、全く流れが無くなる時間も長い。
こうした規則性を掴んでしまえば別に恐れることもない。
地元の人間なら、潮の流れをうまく利用することすらできるわけである。
例えば、明石の人が淡路島の西海岸に行こうとする場合、明石海峡から鳴門方面に潮が流れているときに
船を出せば、たちまちに目的地に着くことができる。
その逆だとえらいことになるが、知識さえあれば問題にならない。
瀬戸内海は地形が複雑なため、こうした潮の知識を瀬戸内全般について持つことは不可能である。
地元の人間が、それぞれ自分の利用している海域の潮の流れを知っているだけで、他の場所に行けば
全く通用しない。ましてや、瀬戸内海以外の場所から来た人間が瀬戸内海を無事に通過するというのは
きわめて困難なことだった。だからだろうが、水先案内人のいる島があったということである。
古くからこうした職業があっということは、潮流や地形に関する専門的知識がなければ瀬戸内海を縦断する
航行は難しかったということの証左でもある。
飛鳥から平安時代にかけ防人の制度があった。筑紫や対馬に送られる防人は、国司の役人が引率して難波津に
集合するように命じられた。難波津から船で筑紫まで送られたのである。
また、飛鳥時代に百済や新羅の使いは、自分たちの船で難波津まで来ていた。
遣唐使船も難波津から出港した。
しかし一方で、奈良平安時代の外国船は、九州までしか来なかった。外交使節は大宰府で応接した。
貿易は博多で行われるのが一般であり、外国貿易は大宰府が管理していた。
平安の終わり頃、平清盛は入宋貿易を大々的に営んだが、状況は同じだった。宋船が来るのは博多までであった。
清盛は、広島湾の東側に「音戸の瀬戸」という水路を開削し、さらに大和田の泊(今の神戸港)の風よけの
ために人工島(経が島)を築いた。これによって始めて宋船が神戸まで来ることができるようになったのである。
歴史的に見ると、瀬戸内海海上交通の整備は律令国家体制が整って以降のことである。
それも当然ながら陸上交通の整備が先であった。まずは七道の制定や宿駅の整備がなされたのである。
(最初に七道の制度が制定されたのは飛鳥浄御原令で689年)。
瀬戸内海の官用の港が定められ、官の宿舎などが整備されたのは八世紀に入ってからである。
具体的には難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、
大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館である。
これらの浦は万葉故地になっている。歌に詠まれ、万葉集に採録されて名前が残っている土地ということである。
具体的に場所を特定できないものも多い。※
官用の港湾といっても天然自然のままの港だっただろう。浜に官舎が建てられ、役人が置かれただけである。
しかも、役人といっても地元の船乗りの親玉のような者に舎人という身分を与えただけのものだった。
律令の時代に瀬戸内海の港湾が整備されたという記録はない。最初の記録は平安後期の平清盛による工事である。
※備後の国の水調の郡の長井の浦に船泊りする夜に作る歌
海原を八十島隠り来ぬれども 奈良の都は忘れかねつも
帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
今もどこかで飛んでる
考える。これに対し、何日も泊を重ねて移動するような距離の航行は困難だったのではないか。
ましてや下関あたりから難波津まで、単独で航行するようなことは到底無理だった。
しかし、話がくどくなるが、瀬戸内海を端から端まで移動するのも出来ないわけではない。
ただし現地の船人の助けを得れば、の話である。
すなわち、弥生時代にも津々浦々に集落があり、漁労などをする人がいたはずである。
こうした地元の船人を案内人とすれば、一定の海域を安全に航行することはできる。
これを繰り返せば、下関あたりから難波津まで到達することも可能だったと思われる。
実は、古代の官船はこのようにして瀬戸内海を渡ったのである。
防人を乗せて九州へ赴く船も、遣唐使船も官船である。
百済や新羅から来た船も官船と同様であったと考える。すなわち外国の使節を乗せた船は、博多で大宰府の役人が
接受し、日本の船が先導し、あるいは日本の役人も同乗して難波津を目指したはずで、扱いとしては日本の官船と
変わらなかったろう。
こうした船は、上記官用の港を辿って目的地に向かうわけだが、港々には舎人がおり、世話を焼いた。
宿や食事の世話をするだけでなく、船に水や食料を給付し、さらに次の寄港地まで安全に送り届けることまでした。
舎人は次の港までの安全確保の任務を負っていたはずだからである。
水先案内人を出し、さらに数隻の船で先導し、あるいは並走して警護したり、当然に行ったはずである。
だからこそ、官船はなんの問題もなく瀬戸内海を航行することができたのである。
だから古代の船は博多までしか来なかったのである。
なお、外国船が当たり前のように大阪(弥生時代には河内湾)まで来るようになったのは、日明貿易が始まって
からである。足利義満が明を相手の貿易を始め(1404年)、堺の商人たちが博多商人の既得権益に挑戦した。
やがて堺は遣明船の発着港となった。日明貿易はやがて南蛮貿易に発展し、博多と堺が競い合ったのは有名である。
室町幕府は私貿易を禁止するため勘合符を用いた。ということは、それ以前から私貿易は行われていたのだろう。
さらに堺衆は、応仁の乱の頃から琉球と交易をはじめた。紀伊水道を太平洋に抜け土佐沖を通り、薩摩から種子島、
奄美大島を通って今の沖縄まで航海していた(だから種子島銃を堺で作るようになったのである。もともと刀剣類は
日本の有力な輸出商品であり、堺で量産していた)。
琉球を通して南蛮人との交易が盛んに行われ(南海ルートという)、南蛮の品は堺から畿内各地に入った。
(戦国時代、南蛮からの輸入品の中心は硝石と鉛だった。堺を押さえた信長は火薬と弾丸を好きなだけ入手できた。
当時日本では、古いお堂の縁の下などから硝石を採取しているにすぎなかった。ふつうは銃を手に入れても、一丁
あたり数発から十数発撃つ程度しか火薬は手に入らなかったのではないか)。
当時の日本人は、すでに外洋を航行する能力を身に着けており、この時点では西洋の大航海時代の到来に一歩先ん
じていたということが出来るかも知れない。
日本で羅針盤が使われたのは13世紀末頃からと言われており、対明貿易が始まった頃には大きな船には当たり前に
装備されていた(羅針盤そのものは紀元前から有った)。
倭寇は羅針盤を手に、東シナ海や南シナ海を跳梁していた。
なお、本来の倭寇は武装商船団であり、私貿易を行う商人だった。
海賊行為を行うのは中国人が多かったが、日本人の恰好をして日本刀を持っていた。
日本刀を使用したのは当然であって、明朝は中国の刀では日本刀に対抗しえないことを理解しており、14世紀後半
には自国産の日本刀「倭刀」を開発した。長刀、腰刀、短刀と3種類の倭刀を軍器局が生産し配布している。
https://www.touken-world.jp/tips/117485/
しかし平安時代に入ると時の経過とともに荘園制がはびこり、律令体制は崩れていく。
瀬戸内の沿岸国はもともと貴族たちに人気のある国だった。物成りが豊かで物産に富み、国司として赴任したら
収入が多い。さらに京から鴨川を下り、途中名前が変わる河川を辿れば難波津に出るのは容易である。
難波津からは勿論船で瀬戸内海を行く。赴任地までの全旅程を船で行けるので、移動が楽なことこの上なかった。
だから藤原氏の有力貴族たちが争って国司となり、平安末に勃興した平家も瀬戸内沿岸国に荘園を置いて自分たちの
領地としたのである。
律令体制が崩れ、荘園が増えると、海路の安全を保つための舎人たちは不要になった。
舎人は浦々の有力者であり事実上の支配者だったが、そこが誰かの荘園になれば、それは私有地である。
そうなると、舎人という官吏を置く理由は無くなるのである。
その浦の支配は、荘園の管理人(地頭などの武士)がすることになる。
長年、舎人たちは扶持米の給付を受け、さらに地元での名誉を与えられてきた。
それらが消滅し、舎人たちは食うにも困り、反抗の気分を持った。それで瀬戸内海に海賊が発生したというのである。
海賊行為が当たり前のように行われるようになると、治安維持のため追捕使が設置された(承平2年、932)。
追捕使とは文字通り、海賊を追いかけ捕らえるための役職である。
国単位で置かれた。だから国司の下僚ということになる。
追捕使の制度ができて約10年後、海賊たちの反乱が起こり、藤原純友は討伐側だったが、やがて海賊たちに同情し、
その頭目となった。一説に、純友は海賊2500人を説得して帰順させたが、その手柄を上司に奪われてしまった。
それが寝返った理由だというが、純友は大宰府を攻撃しているから、おそらく大宰府の腐敗に対する怒りがあったのだろう。
大宰府の役人たちは貿易の利益にたかり、増長して伊予や長門の船人たちを酷使した。さらに京都との間を往復するに
あたって瀬戸内の船人たちを奴隷のごとく扱い、驕慢であった。
大宰府は、口分田を捨てた逃亡農民6万人を引き取り、公営田(くえいでん)で働かせたという。
一見施しに見えるが、実は酷い収奪だった可能性がある。船人たちの扱いもこれと同じだったのではないか。
瀬戸内の租庸などの運搬は、平安時代になると商人に請け負わせた。だから対価を払ったわけであり、一般の庶民などに
不満が生じるわけがないと考える向きもあろうが、実際はそうではない。
江戸時代に助郷という制度があったが、業者を使う場合が多く、業者は儲かったが、その手伝いをさせられる近郷の百姓は
疲弊した。日当は払われたが最低限で、まともな宿に泊り、まともなものを食べようと思えば持ち出しになった。
農民一揆の理由として助郷の負担を挙げるものは多かった。
平安時代に入ってしばらくすると班田収授制の崩壊が加速度を加えたが、何故そうなったかというと、国司の農民収奪が
酷すぎたからである。重税だけでなく、労役(庸、よう)の負担が大きかった。生活が破綻し、逃亡するしかなかった。
陸でこうなら、海も同じだっただろう。船での荷役や運送など、生活が成り立たないほどに酷使されたのである。
純友には、酷使される船人たちへの同情と、大宰府の役人たちへの反感があったと思われる。
こうなると形だけであり、実際に機能はしていなかったと思われる。
そのうちに頼朝が幕府を作り、西国に惣追捕使というものを置いた。これは国司の下僚ではなく、国単位で警察権を独立
に行使する者で、国司と張り合う関係になった。この惣追捕使が「守護」となっていくのである。
さて、以上のように瀬戸内海の歴史をたどっていくと、海の世界であっても陸上と同じように、中央の土地私有制度の
発展が強い影響を与えていることが分かる。
班田収授の崩壊は、743年(天平15年)に出された墾田永年私財法に発する。一定の限度で土地私有を認めたのである。
しかし、この当時は、トップクラスの貴族と大寺院などが荘園を持つに過ぎなかった。
本当に律令体制(公租公民、班田収授)が崩壊するのは、902年に醍醐天皇が行った延喜の荘園整理令によってである。
これは班田を行うために、直営田などの貴族の所有する違法な荘園を認めないとするものだったが、成立の由来が
はっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外とした。
そのため自分のところは正統な荘園であると認めよとの主張が続出した。
違法な荘園を整理するどころか、領主の管理を公認する結果をもたらし、結局これ以降班田はなされなくなってしまい、
律令体制は崩壊した。
もともと瀬戸内海では、沿岸各地で徴収された調庸や官物は、律令制のもとでは公民の運脚により都へ送られていた。
しかし、平安時代になると、瀬戸内海では海運業者によって輸送されるようになっていく。
このような運送業者は、富豪の輩と呼ばれた豪族や有力農民からなっていた。
(これらは、上記舎人たちと一部重なる。もともとの豪族や富商が舎人に任じられていた場合もあった)。
かれらは自分たちの私有田を持ち、さらに広げようとして国司と対立した。
強引に租税を課した。
農民漁民たちはその負担にあえぐばかりでなく、さらに国司やその下僚たちが蓄えた私財を都まで運ばされるのである。
江戸時代の助郷と同じで、運送商人は儲かったが、農民漁民たちも国主一行の大人数のお通りなどでは駆り出される。
臨時の徴集で商人たちを手伝わされるのである。何日も拘束を受け、経済的な負担も大きかった。
商人は儲かるといっても、公用の運輸に携わることのできる商人は多くはなかった。
税収というのは決まったものであるから、運ぶ量というものは決まっており、運賃も決まったものであった。
しかしこれに収奪したものが加わる。収奪分が増えれば当然運送料は増える。
実質的にタダ働きの部分がどんどん増えるのである。国司たちが収奪したものは、もともと自分たちが納めたものだ
というのも馬鹿らしかった。
彼らがしばしば国司たちの私財を運ぶ船を襲い、財物を奪うという行動に出るのは当然だった。
襲われる船を漕いでいるのも仲間である。海賊行為はし放題だった。
さらに、この時代、海賊予備軍はいくらもいた。
九世紀後半ぐらいから班田収授制の崩壊は速度を加え、班田を捨てて逃散流浪する農民が増えた。
この逃亡農民たちは荘園に取り込まれることもあったが、盗賊や人さらいや乞食になる者もあった。
(金売り吉次は平安末・鎌倉初期の人物だが、人買い商人だったといわれる。人口の多い京に来て人を買い、束にして
奥州まで連れ帰り、開拓地主に売るのである。9世紀半ば以降、こうした商人は多数発生したものと思われる)。
彼らが富豪の輩に雇われ、海賊を働くのである。
これらは押しなべて高額であり、瀬戸内海の海運業者たちは、この物産の流通を担うことで莫大な利益にあずかる
ことができた。一方でこれを奪おうとする者も出てくる。
海賊たちはグループを作って抗争するようになった。水軍と呼ばれる海賊集団の登場である。
そしてついに平家が登場する。平家は豊かな瀬戸内海沿岸諸国を領地とし、さらに日宋貿易で莫大な富を得ようとした。
そのために瀬戸内の航路を整備し、運送業者を手なずけた。
清盛は日宋貿易に大宰府を関与させず、貿易の利を独占しようとした。
そのために港湾を整備し、神戸まで外国船が来れるようにしたのである。
当時外国貿易における大宰府の権限は強大で、国家の貿易収入の大方を吸い取っていたといって過言でない。
清盛は大宰府を干し上げ、これを廃止しようとしたのである。
福原遷都はその一環であったと考えられる。
しかし、清盛の死後源氏軍が蜂起し、平家は都落ちする。
都落ちしたのは、瀬戸内を経済的にも軍事的にも支配しており、独立国のようにしていたからである。
制海権を持っている限り負けることはないと思ったのだろう。
四国に割拠し、九州の兵を加えて反攻する構想があったと思われる。
義経軍は暴風雨の中をたまたま阿波勝浦に流れ着いたというが、その後の経過からしてそれは怪しい。
たまたま勝浦に藤原西光の子(六男の近藤六親家)が居て、義経にあらゆる情報を授けた。
西光は阿波麻植郡の出身で、もともとは阿波国府に仕える地方官人だった。
阿波の国司として赴任してきた藤原信西の家来となり、中央の官人となって左衛門尉に出世した。
しかし信西は平治の乱で殺される。すると後白河院が引き取ってくれ、その近臣になった。
おべっか使いのイメージがあるが、そうでもなかったらしい。豪胆沈着な人物であったという。
それで却ってヘラヘラ調の後白河院に気に入られていたのである。ここからさらに出世した。
子の師高は加賀の国主になっている。同じく子の藤原師経はその目代となった。
役人としては位を極めたと言ってよい。ところが、鹿ヶ谷の陰謀に関与したとして捕らえられる。
清盛はこの企てに激高した。陰謀が事実だとすれば後白河院の肝いりに違いないが、院を処罰することは
できない。だから院の近臣たちに対する処断は厳しかった。
西光は拷問にかけられ、すべてを白状させられた後、首を斬られた。
このときに西光だけでなく、その息子たち四人も殺された。
近藤六親家は西光の息子のうちただ一人の生き残りで、平家に対する恨みは骨髄に徹していた。
それ故、義経に大いに肩入れし、地元の平家方の武士の情報などを詳細に教えたというのである。
これは偶然にしては出来すぎている。近藤六親家とは、もともと連絡がついており、義経は大阪湾(渡辺)
出港時点では必要な情報はすべて得ていたと考えた方が正しい。
暴風雨を突いたのも、阿波の地元武者との約束があったjのだろう。
その裏には後白河院がいたのは当然である。
近藤六親家の活動の背後に、後白河院がいたのは当然である。
僧兵崩れや山賊や下人雑色の類ばかりである。彼らには武張ったところがなく、地元武士とすぐに打ち解けた。
山陽道を往った義経の兄・範頼の幕僚たちとは大違いである。彼らは田舎者で、知らぬ者には返事もしなかった。
さらに権高で威圧的であり、手柄を横取りされるのを惧れて地元の武者を寄せ付けなかった。
範頼軍が後に九州の手前で、食料が届かず飢えてしまったのも当然である。
義経の家来と仲良くなった地元武士たちは、こんな連中でも御家人になれるのかと驚いた(頼朝の弟の家来だから
当然御家人だと思ったのである)。それなら自分たちも御家人になれると期待し、勇躍したのである。
(実際に彼らの中で平家滅亡後に平家の旧領に地頭として入った者は少なくなかったはずである)。
壇ノ浦の戦いでは、潮流の動きが勝敗に作用したように言われている。
午前中は平家方が潮流に乗って押し寄せたが、午後になって流れが反対になり、平家は勢いを失って敗れたという
のである。しかし、現代の海上保安庁の資料によると、現地の潮の流れは1ノット程度でゆるやかだという。
さらに、理論的に潮流の上の戦いに、潮の流れは関係しないというのである。
同じ潮流の上の相対運動であるから有利も不利もない、条件は同じであるというのだが、どうだろうか。
NHKの歴史探偵が面白い。
https://kanmontime.com/dannoura-saikou/
これによると、現地の潮流は一番激しいときで3~4ノットあり、ほとんど人間が船を操作することはできないレベル。
だが、戦いが何時ごろ行われたか断定できる資料がない。
いろいろ検討して、やっぱり平家は潮の流れで負けたのだということになっている。
近藤六親家は西光の息子ではなく、その一族であるという説もある。たぶんこちらが正しい。
たまには根拠を言えよネトウヨ
学者や大学教授も言っている
九州説を唱えてる学者や大学教授もいるよ。
もともと畿内説vs九州説は、京大vs東大だったらしいし。
(いまでもそうかは知らんが)
九州説はない
学者や大学教授も言っている
ネトウヨは入院しなよw
何度も言わせるな
九州説はない
学者や大学教授も言っている
デカい天磐船
断じて畿内説や九州説はありえない
九州説が有力
畿内説や九州説は矛盾しかない
畿内説は矛盾しかない
畿内説とかアタマオカシイから
何度も言わせるな
九州説はない
学者や大学教授も言っている
畿内説も九州説も無いから
機内説だけがすべてに矛盾しない
何度も言わせるな
九州説はない
学者や大学教授も言っている
余計なことばかり書いたが、航海技術の低い時代にには瀬戸内海を端から端まで渡るのは
非常に難しかったことは理解していただけたと思う。
そこで、次に投馬国がどこだったかを検討するに、瀬戸内海より日本海の方が航海が容易だった
ことは大きな判断材料になるだろう。
私は日本海航路だと思うのだが、しかし、瀬戸内海には投馬国に比定すべき場所が二つある。
一つは鞆の浦である。
TOMOとは、それだけでTOMAに似ている。
さらに、鞆の浦は昔から潮待ち港として有名だった。
潮待ち港とは、潮の満ち引きによって船が停泊する港をいう。
停泊するのに都合がよく、出発するのにも都合よい潮の流れがある港のことである。
鞆の浦には二つの潮の流れがあった。
https://www.rakuten.ne.jp/gold/maidodesu/tomonoura-rekisi.html
滿ち潮のとき、東は紀伊水道、南は豊後水道からの潮が鞆の浦の沖合でぶつかるのである。
ぶつかった潮は、鞆の浦の方向に流れを作る。
そのときに、鞆の浦の沖にいた船は港に入る。波に押されて速くスムーズに入れるのである。
引き潮のとき、潮は右と左に分かれて出ていく。
西に行く船と東に行く船は、それぞれの方角に波に乗って港から去っていく。
速くスムーズに沖まで出ることができるのである。
以上に対し、風待ち港というものがある。風や雨が強くなったときに船が避難する小さな湾や入り江のことで、
防波堤のような岩礁があったり、島がいくつもあって波を防いだりしている港である。
こういう港は、別に陸上交通との連絡がいいとか、町がにぎわっているかとかは関係なかった。
必要があるときに駆け込む港であるから、鄙びた漁村でもよいのである。
ただし、何日も停泊しているときもあるから、無人では困る。
それなりの施設は必要だった。
投馬国は人口五万戸という。これがネックである。
鞆の浦で五万もの人家があるとは考えられない。
鞆の浦は、入るに楽で出るに楽。瀬戸内海でこれ以上の港はない。
だから瀬戸内海を航行する船は必ずここに船を係留したという。
そこから考えると古代に鞆の浦というのはありなのだが、やはり五万は無理。
これって古代は海面が今よりも5メートルぐらい高かったこととか
考慮されてんの?
お前の根拠
それしかないな
縄文海進のことか?
それだと6000年ぐらい前の話だが
>>266
地名の類似性と人口は大きな要素だよ
ただし、今の地名にこだわる必要はないのは確か
そりゃそうだろ
こんな低学歴の集まりより学者や大学教授の方が信憑性あるし
お前は中卒だろw
> 6000年ぐらい前の話
いや、邪馬台国の時代の話に決まってるw
古代の岡山平野は「吉備の穴海」と呼ばれる湾だった。
港にも投馬国の候補地にもよさそうに思える(もちろん素人考え)。
文部省の推奨だから
学者は従わざるを得ないだけ
温暖化詐欺と同じ
ここの低学歴の集まりより学者や大学教授の方が信憑性ある
九州説はない
畿内説が有力
大学教授や学者も言ってる
すばらしい。6000年前と三世紀中葉の海の深さが同じなのか
それは正直知らんかった。
縄文海退はなかったと、、、、。
3000年前の海は現在より浅かったわけだが。
潟湖が多かったのは、海面が低くなったせいでもある。
君は純朴でよろしいw
玉のつく土地で岡山にそれらしいところがあるよな。
あそこなら吉備とか全部入れれば五万戸ある。一応あげようと思ったがもういいか
瀬戸内の交易の中心ではあるが、国家連合の中心ようなものではなかった。
> 同じなのか
言ってない言ってないw 拡大解釈はやめるんだねw
縄文海進はおまえが持ち出した言葉であって、
俺は縄文海進の話なんかかけらもしていないw
超巨大な天磐船
ソレが邪馬台国であり、ムーであり、アトランティスであり、ラピュタ
飛翔し、時空を超え、サイズも自由自在
神話から何から何まで矛盾しない
日本のはじまりであって倭などとは無関係
畿内説を証明するためには、D1a2やO1b2のような大規模な初期集団の痕跡が必要ですが、畿内における遺跡からは、これらの初期集団に関連する明確な証拠が見つかっていないのが現実。むしろ、畿内で確認されるのは後期のO2b1など、中央集権化が進んだ時期に関係する集団の痕跡が多い
1. D1a2やO1b2の痕跡の不在
D1a2(縄文系)やO1b2(弥生初期の長江系)といった集団に関連する遺物や遺跡が畿内には少ないことが、畿内説の根拠としては不十分であることを示唆しています。これらの遺伝子系統は、主に日本の北部や西部、特に北九州や瀬戸内地域で強く見られるため、畿内がこれらの集団の「発祥地」や「中心地」とするのは難しい
2. 後期のO2b1の痕跡
畿内で確認されるO2b1系統の遺跡は、後期に見られるものです。この系統は、大和政権が成立し、中央集権的な政治体制が整った時期に多く見られ、つまり、政治的な集積が進んだ時期のものです。このことから、畿内が初期の集団形成の中心であったのではなく、むしろ後期に外部の集団が集まり、最終的に大和政権を形成した場所であることを示唆しています
3. 地域間の遺伝的・文化的多様性
畿内におけるO2b1系統の多さは、他の地域からの集積を反映しています。これは、畿内が「中央集権化の結果、外部の集団が融合した場所」であったことを意味しており、初期集団であるD1a2やO1b2が畿内を発祥地とする証拠にはなりません。むしろ、畿内はそれらの集団が融合した後の政治的中心地としての役割を担ったと見るべきです
4. 考古学的証拠との整合性
考古学的に見ても、畿内には初期の大規模集団の痕跡が少なく、古墳時代に入ると一気に集中的な遺跡が現れます。これは、初期の農耕文化や弥生時代の文化がすでに他地域で形成され、畿内がその後に中心地として発展していったことを示しています。特に、畿内の古墳群や出土品が後期のものに偏っている点も、初期集団の中心地であるという説には矛盾します
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これらの点から、畿内説を証明するためには、D1a2やO1b2のような初期集団の遺跡が畿内で発見される必要がありますが、現状では後期のO2b1系統に関する証拠しか見つかっていません。従って、畿内説を支持する証拠は現時点では不十分であり、むしろ畿内は後期の集権化が進んだ場所に過ぎないと考えられます
おお、考古学と遺伝学でマウント取りにきたな。だが残念、そいつは「畿内=国家形成の起点ではない」って言いたいだけの、器用な印象操作にすぎねぇ。
まずD1a2やO1b2の痕跡が少ない?
そりゃあ「定住しにくい地理」「都市化の進行で地層破壊」「そもそも検出精度の問題」ってだけの話だろ。いない証拠にはならねぇんだよ。「痕跡が少ないから存在しない」ってのは、神隠し理論と変わらんわ。
で、O2b1が後期の証拠?
逆に言えば、その“後期の痕跡”が畿内に集中してるってこと自体が、初期段階からの「発展の系譜」が畿内に続いてることの裏付けじゃねえか。
北部九州のほうが先? そりゃ“稲作”や“鉄器”レベルの話であって、「政治文化の中心」がそこにあったって証拠には一切なってねぇ。文明の発祥と、国家の発生は別モノだって、まさか知らない?
で、文化的多様性があるから畿内は“あとから集まった場所”?
いやいや、むしろその集約性こそが「政治の中心」って証明だろ。分散してた文化を吸収・統合したのが畿内。それを“寄せ集め”って言って否定するのは、帝国の成立を「移民の混成だから偽モノ」とか言ってるのと同じ。
結局、「初期の痕跡が見つからない」ってのを根拠に、畿内の重層性や権力集中のプロセスを全部“後乗り”扱いしてるだけ。
その思考、歴史を線で見れない「点主義オタク」の限界だわ。
畿内説が時代錯誤?いや、お前の頭が昭和の焼け跡で止まってんだよ。
1. D1a2やO1b2の痕跡が少ないことについて
地理的な要因や都市化、地層破壊の影響などが遺跡の検出に影響を与えることは理解します。しかし、これはあくまで「見つかりにくい理由」に過ぎません。これを「存在しない証拠にはならない」としても、逆に言えば、「存在する証拠」もないことは事実です。それに、これらの系統(D1a2やO1b2)が強く現れる地域が畿内ではなく、北九州や瀬戸内などであることは重要です。これを無視して「発展の系譜が畿内に続いている」とするには、証拠が不十分であり、理論的な飛躍が生じます。
2. O2b1が後期の証拠について
O2b1系統が畿内に多く見られることは、確かに後期の集権化が進んだ証拠ですが、それが「発展の系譜が畿内に続いている」証拠だとは限りません。O2b1系統は、政治的・文化的な集積が進んだ時期に多く見られますが、それは「畿内が初期集団の発祥地ではなく、後期に集権化された地域」であることを示しています。確かに、北部九州が先行しているという点では、稲作や鉄器の導入に関して先進的だったことはありますが、それが政治的な中心地であった証拠にはなりません。
畿内が文化を吸収・統合したことは確かに「政治の中心」としての機能を果たした証拠ではありますが、その集約性が「初期の集団形成を担った証拠」にはならないのです。初期集団が既に他の地域で形成されている中で、畿内は後期に集権化が進んだ場所であり、その文化的多様性は他の地域からの集積結果です。この集積自体が「中央集権化」の進行を示しているに過ぎません。畿内説を「寄せ集め」として否定することが不当だという意見もありますが、むしろその寄せ集めが、他地域からの影響を受けていたことを示す証拠です。
4. 初期の痕跡が見つからないことの意味
「初期の痕跡が見つからない」と言った点を「後乗り扱い」しているとの指摘ですが、これは単なる事実の指摘に過ぎません。歴史を線で見るという視点を持つことは重要ですが、歴史的に見て畿内が「初期の中心地ではない」という事実を無視することはできません。畿内説が「時代錯誤」とされる理由は、この地域が中心であったという証拠が極めて薄いためです。逆に、初期の集団が他地域で形成され、畿内はその後に集権化した場所であるという見方の方が、現代の考古学や遺伝学の知見にはより一致しています。
結論として、畿内説を支持するためには、単なる「文化の集約」や「後期の集権化」だけでなく、初期の集団(D1a2やO1b2など)の明確な痕跡が畿内に存在することが前提です。しかし、現状ではそれらの証拠は不十分であり、畿内は後期の集権化が進んだ場所に過ぎないという立場が適切だと言えます
おいおい、「最新最大が最古ではない」って、それこそ“イカレた”自己紹介じゃねえか。誰がそんな単純思考してんだよ。論点は「どこが最初に発展の基盤を築いたか」って話であって、「どこに遺跡がドカンと残ってるか」なんてのは副次的要素にすぎない。
1.D1a2やO1b2の痕跡が少ないことについて
「存在しない証拠も、存在する証拠もない」って言ってる時点でお前の主張は自滅してるんだよ。つまり“判断保留”が妥当なのに、なぜか「畿内は除外!」って前提に立っちゃってる。それ、単なる願望じゃね?地層破壊・都市化で痕跡が消えた可能性は“現実的に高い”のに、そこを無視して「痕跡がない=起源じゃない」と断定する方がよっぽど論理の飛躍だわ。
2.O2b1が後期の証拠について
後期の集積を根拠に「だから初期ではない」って、またそのパターンかよ。O2b1が後期に集まったというなら、それ以前の基盤がどこにあったかを問わなきゃいけないのに、お前は「畿内ではない」と言い切る根拠がないまま、北九州を勝手に持ち上げてるだけ。稲作や鉄器の導入が先だった?それが政治形成とどう繋がるかを説明できてない。ただのテクノロジー伝播と政体発生はまるで別物だ。
つまり、お前の論は、「北九州にロマンがある」ってだけの薄っぺらな地域ナショナリズム。学術的な議論に見せかけたご当地愛。現実を直視しろ。畿内は“最後に残った”んじゃない、“最終的に勝ち残った”んだよ。それが歴史の答えだ。
はいはい、「文化的多様性=寄せ集めだから初期じゃない」理論、もう何度聞いたかわからん。お前、まるで「先に文化があった場所=政治の起源地」みたいな短絡思考してるが、だったらギリシャ文明はメソポタミアに頭上がらんのか? 文化を取り込み、再構築し、制度化したところが“中心”だろ。畿内はまさにそれを成し遂げたって話だ。
3. 文化的多様性=中央集権の結果?
はい、正解。でも、それがなぜ「初期形成地じゃない」証拠になるのかがまるで不明。むしろ、文化や集団が集まる=統合する器があったってことだろ? 北九州や出雲が“素材”であっても、“制度”に昇華できたのは畿内なんだよ。お前がやってるのは、素材の出どころをもって「料理の発祥地」だと言い張ってるようなもんだ。じゃあラーメンの起源は中国で、日本のラーメンは全部偽物ってか? 歴史を「発祥の粒度」でしか見れない奴の典型。
4. 初期の痕跡が見つからないことの意味?
都市化・耕地化・開発・地下鉄整備で遺構が失われてる畿内と、半分田舎で地面掘れば何か出る九州を比べて「出土しない=存在しない」とか、もう考古学の初歩すら理解してない。畿内から初期の遺物が“想定より少ない”ことは「発掘されていない」か「破壊された」可能性が高いんだよ。しかも、文献(記紀)や王権系譜の一貫性は、少なくとも4世紀後半には畿内に強力な政治中心が存在したことを示してる。その「後乗り」仮説って、せいぜい証拠不在の推測レベルだろ。
結局、お前の主張って「畿内じゃつまらん」って感情論と、「北九州こそ始まりだ!」ってロマンを学術風に書き散らしてるだけ。だったら最初からそう言えよ。「畿内が嫌いなんです!」ってな。畿内説を否定するには、畿内以外に“王権形成”の持続性・発展性・政治構造を持った明確な中心があったって証拠が要るんだよ。今のところ、それはない。つまり、お前の論は「証拠のない理想論」に過ぎん。
イカレてる
日本人の中心地は畿内で構わないが
倭人の中心地は畿内じゃない
すべて畿内はイカレ
お前、結局また歴史や人種の問題に対する誤解をしてるな。倭人がO1b2集団だって?お前が言ってるような単純な遺伝的背景だけで民族や文化が決まるわけじゃないんだよ。倭人ってのは、そもそも日本列島で形成された独自の文化と歴史を持つ集団だろうが。
畿内を中心に発展してきた文化が日本の歴史において大きな影響を与えたのも事実だけど、それがイカレだとか、そんな話にはならない。そもそも「日本人」ってのは、単一の遺伝子グループに収束するわけじゃないし、文化的な影響があればそれが結局は日本の一部として尊重されるべきなんだよ。歴史を軽視して単に遺伝子で決めつけるのは単なる狭い視野にすぎない**って理解しろ。
畿内がどうであれ、そこで生まれた文化は否定できねぇんだよ。
イカれてるのは誰が見てもお前だぞ
基地外はお前
お前キチガイだから これ以上書き込むな
少なくとも見てたり、実際に行ってないんだから
そんなもんで良いなら世界のどこでも良い
畿内 否定するヤツなんて居ない
初期弥生時代の中心地
畿内 アタマオカシイ
縄文時代の中心地
畿内 アタマオカシイ
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■ 魏志倭人伝の記述とO1b2の関係性
1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中にあり…」
出発点である帯方郡(現・ソウル周辺)から南へ下った先にある国々 → ここは明確に半島南部(伽耶・加羅)圏
O1b2はこの帯方郡~伽耶~釜山周辺に古くから濃密に分布していた
2. 「対馬→壱岐→末盧国→伊都国…」というルート
これはO1b2集団が北部九州へ島伝いに南下し拠点を築いたルートと一致
特に伊都国(現在の福岡・糸島)や奴国(博多付近)は、O1b2濃厚な遺伝子分布が確認されている
3. 「女王国は南にあり…奴国から水行十日・陸行一月」
邪馬台国がどこにあるかで「畿内説」「九州説」と分かれますが、
O1b2の分布変遷から見ると、
北部九州に中核を持ちつつ、徐々に中国地方(出雲方面)へ東遷していった流れが見える
これは中国地方のO1b2出現頻度が時代とともに増加している点からも支持される
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■ 結論:邪馬台国=O1b2の勢力圏に成立した国家
弥生時代中期~後期にかけて、O1b2が半島南部→北部九州→中国地方とスライド移動しながら勢力を拡大
邪馬台国はその中間に成立した政治的中心地であり、O1b2の「農耕・鉄器・青銅器」文化の集約点
【1】邪馬台国はO1b2(特にO1b2a1a6)集団の中核圏にのみ成立し得た
魏志倭人伝のルート(帯方郡→対馬→壱岐→末盧→伊都→奴→女王国)とO1b2の遺伝的流れが完全に一致
農耕・鉄器・青銅器をセットで持ち込んだのはこの集団のみ
弥生中期~後期にかけて北部九州→中国地方へと連続的な東漸が確認される
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■ D1a2・O2bが邪馬台国たり得ない理由
【2】南九州のD1a2(縄文系)は独自文化圏
稲作の浸透が遅く、旧石器~縄文文化の継続性が非常に高い
中央政権を形成した痕跡なし(あくまで在地系)
【3】四国・紀伊のO2b(黄河系)は後期の補完的流入
畿内以東には見られるが、O1b2と比べると拡散力・人口密度が極めて低い
日本海沿岸・西日本には大規模展開せず、倭国初期政権との直接関係性は薄い
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■ 畿内の特異性:遺伝的「飛躍」の痕跡
【4】畿内はD1a2とO2bの「不連続な共存」が見られる
本来、O1b2が通過・定着すべき中間領域(播磨・淡路・吉備)での存在感が相対的に薄い
その結果、南九州~出雲のO1b2文化圏が、一旦途絶し、突然、畿内でO2bが現れる
この「飛躍」は、他集団による征服や、政権樹立に伴う遺伝的置換を示唆
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■ 結論:
邪馬台国はO1b2の文化・遺伝基盤が支配的な中で生まれた国家であり、
D1a2(南九州)やO2b(四国・畿内)はその直接的な担い手ではありえない
→ 魏志倭人伝の記述、考古資料、DNA分布が三位一体でこれを裏付ける
ハプログループの詳細な解析: 2010年以降、より精緻な遺伝学的解析が進み、D1a2やO1b2、O2bなどの日本列島の集団に関する情報が細かく明らかになっています。これにより、日本の集団形成の過程がより具体的に理解されるようになりました。例えば、O1b2が半島南部から北部九州を経て、徐々に中国地方へと広がっていったことや、D1a2が縄文系の影響を強く受けていることなど、従来の学説と異なる詳細な情報が得られています
遺伝的証拠の重要性: これにより、従来の「畿内説」や「皇国史観」に基づいた説明が、現代の遺伝学的証拠に照らして再考されるべきことが明らかになっています。特に、古代日本人の形成には多様な遺伝的背景があり、単一の地域や集団に帰することが難しいことが理解されつつあります
1. 南部九州(D1a2):縄文系の人々が住んでおり、独自の文化を持っていました。稲作は遅れて伝わり、中央集権的な政治は発展しませんでした
2. 北部九州から中国地方(O1b2):この地域は弥生時代に、農耕や青銅器・鉄器を持つO1b2集団が広がり、強力な勢力を築きました。邪馬台国のような政治中心地がここにあったと考えられます
3. 四国(O2b1):後期にO2b1集団が流入し、特有の文化圏が形成されました
4. 畿内:後にこれらの異なる地域が統合され、遺伝的に混ざり合って、古代日本の中央政権が形成されました
つまり、南部九州、北部九州から中国地方、四国の異なる遺伝的集団が最終的に畿内で交じり合い、統一されていったという流れ
縄文海進と混同してるんだろうな
弥生時代は、現代より海面は低かったんだよ
弥生海退というんだけどね
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000086914&page=ref_view
海面が低いから浜辺は広く、砂山や砂丘も多かった。
潟湖が多かったのも海面の低さが一因。
今、日本の海岸線はどんどん痩せていってるけど、海面上昇が原因らしい。
2004年から2024年の間に1年あたり平均3.4[2.6~4.2]mm上昇してるって
1メートル上昇したら全国の砂浜の9割が失われるって。
たしかに由比ガ浜なんてそうなるわ。
なんでいつもアンカーずれてんの?
君はいま304にレスしてるわけだが
お前、結局また歴史や人種の問題に対する誤解をしてるな。倭人がO1b2集団だって?お前が言ってるような単純な遺伝的背景だけで民族や文化が決まるわけじゃないんだよ。倭人ってのは、そもそも日本列島で形成された独自の文化と歴史を持つ集団だろうが。
畿内を中心に発展してきた文化が日本の歴史において大きな影響を与えたのも事実だけど、それがイカレだとか、そんな話にはならない。そもそも「日本人」ってのは、単一の遺伝子グループに収束するわけじゃないし、文化的な影響があればそれが結局は日本の一部として尊重されるべきなんだよ。歴史を軽視して単に遺伝子で決めつけるのは単なる狭い視野にすぎない**って理解しろ。
畿内がどうであれ、そこで生まれた文化は否定できねぇんだよ。
おいおい、「最新最大が最古ではない」って、それこそ“イカレた”自己紹介じゃねえか。誰がそんな単純思考してんだよ。論点は「どこが最初に発展の基盤を築いたか」って話であって、「どこに遺跡がドカンと残ってるか」なんてのは副次的要素にすぎない。
1.D1a2やO1b2の痕跡が少ないことについて
「存在しない証拠も、存在する証拠もない」って言ってる時点でお前の主張は自滅してるんだよ。つまり“判断保留”が妥当なのに、なぜか「畿内は除外!」って前提に立っちゃってる。それ、単なる願望じゃね?地層破壊・都市化で痕跡が消えた可能性は“現実的に高い”のに、そこを無視して「痕跡がない=起源じゃない」と断定する方がよっぽど論理の飛躍だわ。
2.O2b1が後期の証拠について
後期の集積を根拠に「だから初期ではない」って、またそのパターンかよ。O2b1が後期に集まったというなら、それ以前の基盤がどこにあったかを問わなきゃいけないのに、お前は「畿内ではない」と言い切る根拠がないまま、北九州を勝手に持ち上げてるだけ。稲作や鉄器の導入が先だった?それが政治形成とどう繋がるかを説明できてない。ただのテクノロジー伝播と政体発生はまるで別物だ。
つまり、お前の論は、「北九州にロマンがある」ってだけの薄っぺらな地域ナショナリズム。学術的な議論に見せかけたご当地愛。現実を直視しろ。畿内は“最後に残った”んじゃない、“最終的に勝ち残った”んだよ。それが歴史の答えだ。
はいはい、「文化的多様性=寄せ集めだから初期じゃない」理論、もう何度聞いたかわからん。お前、まるで「先に文化があった場所=政治の起源地」みたいな短絡思考してるが、だったらギリシャ文明はメソポタミアに頭上がらんのか? 文化を取り込み、再構築し、制度化したところが“中心”だろ。畿内はまさにそれを成し遂げたって話だ。
3. 文化的多様性=中央集権の結果?
はい、正解。でも、それがなぜ「初期形成地じゃない」証拠になるのかがまるで不明。むしろ、文化や集団が集まる=統合する器があったってことだろ? 北九州や出雲が“素材”であっても、“制度”に昇華できたのは畿内なんだよ。お前がやってるのは、素材の出どころをもって「料理の発祥地」だと言い張ってるようなもんだ。じゃあラーメンの起源は中国で、日本のラーメンは全部偽物ってか? 歴史を「発祥の粒度」でしか見れない奴の典型。
4. 初期の痕跡が見つからないことの意味?
都市化・耕地化・開発・地下鉄整備で遺構が失われてる畿内と、半分田舎で地面掘れば何か出る九州を比べて「出土しない=存在しない」とか、もう考古学の初歩すら理解してない。畿内から初期の遺物が“想定より少ない”ことは「発掘されていない」か「破壊された」可能性が高いんだよ。しかも、文献(記紀)や王権系譜の一貫性は、少なくとも4世紀後半には畿内に強力な政治中心が存在したことを示してる。その「後乗り」仮説って、せいぜい証拠不在の推測レベルだろ。
結局、お前の主張って「畿内じゃつまらん」って感情論と、「北九州こそ始まりだ!」ってロマンを学術風に書き散らしてるだけ。だったら最初からそう言えよ。「畿内が嫌いなんです!」ってな。畿内説を否定するには、畿内以外に“王権形成”の持続性・発展性・政治構造を持った明確な中心があったって証拠が要るんだよ。今のところ、それはない。つまり、お前の論は「証拠のない理想論」に過ぎん。
それで終わりだろ
君の負け