フィリピン大統領博物館・図書館が公開している、日本兵たちによって燃やされた郊外(の町)から 安全をもとめて走り(去る)マニラ市民たちとされる、2.10の写真。ただしどこに逃げるかが問題だ。 https://i.imgur.com/MRWfdhs.jpeg Citizens of Manila run for safety from suburbs burned by Japanese soldiers (Feb. 10, 1945) ttps://www.flickr.com/photos/govph/16425088005/in/album-72157650334720246
207.
名無しさん
HrCCK
また市街戦が始まったあとでも、一時停戦して民間人を避難させるというやり方もあった。
アメリカ第14軍団報告によると、米軍は2.16に、要塞化された旧市街のイントラムロスに 立てこもっている日本軍に対してすべての民間人をビクトリア門から避難させるよう呼びかけている。 しかし反応はなかったという。 https://i.imgur.com/pVJY5QW.jpeg After action report, XIV Corps, M-1 operation ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞の授賞式が16日、マニラで開かれた。
受賞したアニメ映画監督の宮崎駿氏(83)は式典を欠席。
代わりに寄せたメッセージで、太平洋戦争時にフィリピンで日本による多数の市民殺害を「日本人は忘れてはいけない」と強調。
そうした歴史がある中、フィリピンから贈られる賞を「厳粛に受け止めている」と述べた。
▽転載ここまで。記事の続きはリンク先でお読み下さい
https://news.livedoor.com/article/detail/27573560/
2024年11月16日 20時51分 共同通信
写真:16日、マニラで開かれたマグサイサイ賞の授賞式で、宮崎駿監督のメッセージを代読するスタジオジブリの依田謙一取締役(左端)
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/c/8/c8607_1675_3b6b17274734faa3fafed9db24f8e504.jpg
■ 解説
マニラ大虐殺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
前スレ
https://talk.jp/boards/newsplus/1731798539
前スレ
https://talk.jp/boards/newsplus/1731822805
火垂るの墓のような
フィリピン人虐殺をテーマにしたアニメを作れ
彼はそう言いたいんですよ
戦争の後に生まれた赤子は罪を背負って生まれてきたのだろうか
日本のフィリピン支配は、フィリピン社会の多様性とか亀裂を利用して成り立っていた。
フィリピンには、侵攻してきた日本軍にすり寄ることで特権的地位を保ったり強化しようとしたフィリピン人もいたし、
日本軍がお金で手なずけた社会の底辺層のチンピラもいて、同胞に対して暴力的にふるまったりもした。
またフィリピンのいわゆる華僑は、日本が侵攻する前には中国で戦ってる蒋介石政権に呼応して日貨排斥とかやってたが、
日本軍が来ると大部分は親日に転換した。商売を守ることがもっとも大事なのだろう。
そのなかでの抗日ゲリラだ。地方社会の支配層の若者がやってたり、山間地に残留したアメリカ軍人が
中心になっていたり、それから共産主義のグループもあったりとか、いろいろあるみたいだな。
いや、アメリカには負ける
そもそも拳銃のコルト・ガバメントはフィリピン原住民をやっつけるために作られた
忘れなければ、いいんじゃないでしょうか
メッセージ程度ならあいさつで良いのに
わざわざ重いことをどうせAIだろうけど
今の日本の子供達に「私共の親達がひどいことをして皆さまと日本を貶めております。大変申し訳無い」って
毎日土下座する姿をようつべとかで配信すべきなんだよなぁ
「ワシらの親たちがやらかしたけど尻拭いはお前らがやれよガハハ」
だもんなぁ。 じごくにおちろよ
地雷、爆弾、機関銃で
一瞬にして数多くの人間を殺せる
一年やってたら、大量虐殺になるだろう
骨をつみしほ流ししもののふの
おもかげうかぶ赤川の水
浅井洌作歌
この場所にはかつて、建御名方命[たけみなかたのかみ]を主祭神とし、西寺尾村岡組の産土守[うぶすながみ]として勧請された神社(赤川神社)があった。永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、この神社周辺を中心に甲越両軍の主力による激戦が展開され、死者8千余名と伝えられる数多くの将兵や里人が犠牲となった。社前を流れる川は、凄まじい激戦の中で討ち死にしたり、
傷を負った将兵が流す血で、
三日三晩赤く染まったという。
当時は地雷、爆弾、機関銃などなくても
この有様
人間は人殺し大好き
それを否定するのは偽善者だけ
ボブディランが
人間はいつになったら
人殺しに飽きるのかな
みたいな歌でノーベル賞もらったが
人間は人殺しに飽きることはないだろう
文鮮明様の御誓文を十万回唱えながら壺を磨けば助かる
お前らの戯言をたった一言で打ち消してもらってんだから
日本人六人を殺害したペルー人ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンの供述かと思った
外国人に殺されたりすると
過剰反応する人間がいたりするようだが
バカげた話
別に親鸞を気取るわけではないが
自分が人を殺さなかったのは
善人だからではなく
たまたまその機会がなかっただけ
機会があったら
何百人何千人も殺していたかもしれない
近代において戦争やったら
必ずそうなる
重要なのは
なぜやったか
松岡洋介は
満州は日本のライフラインだと言って
国連脱退した
満州の石油なしに当時の日本の工業は成り立たなかった
そして戦争をやり
大英帝国を中東から追い出すことで
日本は中東から石油を輸入できるようになり
今の繁栄がある
壺は何もかも巻き上げるからなあ
意外なことだ
どちらが政権を握っても地獄になるだろうけど
比島決戦の歌
https://youtu.be/u3RGvq4Yh7c
[2番歌詞]
陸には猛虎の 山下将軍
海に鉄血 大川内
見よ頼もしの 必殺陣
いざ来いニミッツ マッカーサー
出て来りゃ地獄へ 逆落とし
1944年に捷一号作戦として発動されたフィリピン決戦は、日本が20年以上温めてきたアイデアだった。
戦史叢書によれば、フィリピン決戦の構想は大正時代の海軍の第一次改定用兵綱領のときから
あったようだという(戦史叢書091巻、大本営海軍部・聯合艦隊<1> 開戦まで、pp.175f.)。
仮想敵の一つのアメリカに対しては、まず陸海軍でルソン島を攻略し、そのあとフィリピンの
救援のためにアメリカの主力艦隊が日本近海やフィリピン近海に現れたら、艦隊決戦で撃滅する
というプランである。
1941年に日本が実際にフィリピンに侵攻すると、フィリピンの中部(ビサヤ諸島)や南部
(ミンダナオ島)に飛行場がたくさん整備され、日本軍の陸上戦力が小分けされて分散配置された。
陸上戦というよりは、アメリカ艦隊の来襲を想定した空海戦の備えである。
しかしどうだろう、そこは無数の島とジャングルが入り組んでいて、いまのフィリピン政府
にとっても面の支配が困難な地域である。
マグサイサイの出身地のセブ島にあるセブは、中部(ビサヤ諸島)の重要拠点だった。
戦史叢書によると、セブ市は絶対国防圏の決戦期において船舶作戦中枢とされ、海軍が中比空の基地を置き、
陸海軍の軍司令部や根拠地隊司令部があったという(戦史叢書060巻、捷号陸軍作戦<2>、p.623)。
で、抗日ゲリラというのは、
> セブ島を占領されたフィリピン人の一部は、ゲリラとなって、日本軍に抵抗します。セブ島での
> 抗日ゲリラを指揮したのは、戦前は技師として働いていた米国人、ジェームズ・M・クッシング中佐でした。
>
> この抗日ゲリラを討伐するために、1944年(昭和19年)1月、大西中佐以下1000名あまりの
> 独立歩兵第173大隊がセブに派遣されます。同大隊は、中国戦線でゲリラ戦に従事した経験があり、
> セブ島での抗日ゲリラ掃討でも大きな成果をあげたようです。
> 一方、これは、フィリピン抗日ゲリラ側からすれば、大きな痛手であり、恨みは大西大隊に向かいます。
在セブ日本国総領事館、セブ便り(第6回) 「日本とセブとの関わり-戦中、戦後」、2022.08.10
https://www.cebu.ph.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_00446.html
無知無学はその中で生きるためには幸せなんだろうけどかわいそうに
ネトウヨにトリプルパーンチ!!!!!w🤪
謝罪までいかなくても反省の声明を出してるのになあ
「絶対謝らない」と言われるアメリカですら先住民族に謝罪し
ベトナムには「反省の声明」を出した
意外なことにソ連時代のロシアもバルト海周辺国に謝罪した
中国も文化大革命に「反省すべき点がある」と声明した
「絶対認めないし謝らない」と言えば歴史を通じて韓国、北朝鮮、イスラエルだな
フィリピン人被害者の多寡は議論の余地があるが
知りもしないのはおまえが無知なだけだ
「してねーよそんなこと。何年何月何日何時何分?地球が何回転した時?」
壺w
比に派兵されて戦闘に参加して自分が比島民を殺したとかいうならべつだが、それなら賞を辞退すると表明し、ついでにそう言ったならまだ論理として通るがそうじゃない状況なので極めて違和感がある。
何が言いたいのこのジジイは
CARPの勧誘もブチ切れたらそうやって開き直る
戦後生まれに戦時中のこと言われても反省も何もない
おまけに財産のむしり取り方がハンパないし
ジブリの比じゃない
マグロ丼の件w
こいつらを せばいいんじゃないかな?
Japanese Atrocities in Manila with James Scott-Episode 405、2024.07.16
https://youtu.be/cRHBbhJ1KMg
マニラ大虐殺をやった海軍の部隊は、卑劣かつ残虐な行為で日本人の名誉を完膚なきまでに汚そうとしてるだろ。
大日本帝国の最期にふさわしい出来事だな。
https://youtu.be/HXYW2cHlz-M?si=sOR2w5GTlgqDPO8q
あなたも召集されて南方戦に駆り出されたら
当時の日本兵と同じことするよ
わたしだけはしないって?
それがあんたら左翼の驕りであり滅亡した由縁だ
日本で起こる犯罪被害者の痛み苦しみは無視して犯罪者を擁護する左翼人権派
どういう感情なんだろ?
このひとら
要は左翼に都合のいい政治論に戦争被害者を利用したいだけの鬼畜なんじゃないのか?
まだ生きてたか
>>45さんも同じ環境に生まれて育って同じ犯罪グループのシチュエーションにおかれたら、
これらの犯罪者達と同じことするよ
わたしだけはしないって?
よっぽど殺人を忌避する信念とか、運命に抗い、強制される宿命を何とか変えようとする強い意志とかがない限り、同じ事をしてしまいかねないのが人間だろうな。
そんな哀れな犯罪者だからこそ、死刑にするのは躊躇せざるを得ないよね。
そして同様に、戦争を指揮した東條英機らはむろんのこと、マニラ軍事裁判で死刑判決を受けたBC級戦犯の一般将兵の人は哀れだよな。
中にはかなり良心的で殺人命令も拒否したりもしていたのに、冤罪で死刑になった人もいるから。
組織内では皇族方を「陛下」「殿下」と尊称で呼ぶことも許されない
あの君が悪い油ぎった朝鮮人だけが「唯一の救世主にして我らの真の御父様」だからな
各所の壺の書き込みに「陛下」「殿下」がないのはそのせいだ
もちろん神社を参詣することも拍も礼も許されない
口で「靖国万歳!」と唱えるにも関わらず
宮崎ですら「陛下」と尊称しているのに、こいつらにはそれができない
口で愛国を唱えつつ腹の底では「いかに日本を孤立させて滅ぼすか」
それしか考えていないのが壺だ
一生抜けられない洗脳の無限地獄
可哀想な奴らだ
同じことをしたら尚更忘れてはいけないだろ
おまえの考える右翼は日本の歴史を忘れる生き物なのか
5W1Hでこのフィリピンでの
大量虐殺ってやつを簡潔に説明してくれ。
たとえば小野田さん。
多くの地元のフィリピン人が小野田さんの捜索に加わったが、
「それは殺すためだった」と告白した人がいる。
祖母と父、兄を豚を盗みに来た小野田さんに殺されて恨んでいたそうだ。
要するに、泥棒に行って、そこで居直り強盗化するみたいな話を
カメラの前で多くの人が証言してるけど、
NHKのオンデマ入ってる?
「それは何年何月?」
「何時何分?」
「地球が太陽の周りを何回転したとき?」
といつまでもしつこく延々繰り返すのが壺だ
一晩中これをやられて多くの日本人が参ってしまった
現金、預貯金、親の土地や家屋もすべて差し出して
その頃には文鮮明や韓鶴子を本当の父母と思い込み
「日本はなにもしていない!」とわめき続けるようになる
壺は壺から戻れない
悪名高い日本共産党ですら一般人の預貯金土地家屋は奪わないというのに
壺にのめり込むというのは本当に恐ろしいことだ
自分で調べるってことをしないんだね。
できないのかなあ
書籍でもネット上でもどこでも参照できることを自分で調べるってことをしないんだね。
できないのかなあ
つーか日本史の話を学者の諸説を持ち合って議論するとかじゃなくて
一から説明しろとかバカ丸出しだろ恥ずかしくないのか
あ、日本人じゃないから「恥」という概念が無かったか
そういう家庭環境で育てられた人間が「マニラ虐殺事件って、具体的に何年何月何日何時何分?」と絡みたくなる気持ちもしかたない
そうやってネットで絡みまくらなければならない組織の指示や重圧があるのもしかたない
自分の知らんことを
聞くのは恥だとは思わんよ。
自分で調べても良いが
説明を求めたほうが早いとおもただけだ。
で具体的に大量虐殺の説明は
ここでは無いままだったのが事実で現状だ。
それを知らないのは家庭の事情か何かで日本の教育をまともに受けてないか
まともに受けさせてもらえなかった壺家庭の子息だったからだ
普通の認識力があればネットで入り口を探して「ここでのこの移動は矛盾がないか?」というところから議論がスタートする
それができないのが壺メディア以外「サタンの言葉」として禁じられた壺の愚かさと哀れさだ
壺は永遠に壺の中から逃げられない
ごく稀に脱出できる奴もいるがそんなのは本当にごく稀だ
壺は壺の中で否定された事実に対して永久に「何年何月何日何時何分?」と唱えることしかできない
そこが壺の壺たる面目だ
馬鹿だろおまえ。
壺の逆ギレ捨て台詞
「バカだろお前」「興味ないね」「どうでもいい」
壺は効率主義だから「こいつは靡かないな」という相手には意外と根気がない
「捨て台詞で逃げろ」と教えられているせいもある
ネットでの有益な発言がカネになる世の中で
無知無学に対して匿名で分かりやすく歴史を講義するお人好しなんて居ないぞ
おまえみたいなのはNG登録されるだけだ
彼らには彼らを人間として伸ばすための日本の社会的資源がほとんど届かないから
だから、海軍がやったことだ
陸軍は関係ない
陸軍にすら関係ないものが
なんで、俺たちに関係あるんだよ
恐喝だろw
大東亜共栄圏なるものです。まったくの誤った解釈によるものなので迷惑している。
しかし欧州列強に洗脳された大日帝国のもとではそういうものではなくなった。
天皇は権威ではなく、欧州列強化以来の政治をしもじもがやりたい放題行っては
その責任だけを負う者とというかたちの体制が作られた。そりゃあ暴走するよね?
ほんとそれ。江戸時代はまだ天皇の権威があったが、
そのあと天皇の言うことをまったく聞かなくなって
大戦責任だけ負わせる愚かな時代が大日帝国という
お人形国家体制。武士道に戻って日本を振り返りたい。
アメリカ合衆国軍がアジア諸国とともに解放してくれたと言っていい。
行われたのはもっぱらゲリラおよびその協力者の処刑であって、切迫した状況を鑑みれば
処刑された人の裁判を受ける権利を侵害しているとまではいえない、一部で幼児の殺害や
レイプなどの行き過ぎた行為があったが、アメリカ軍に包囲されて自暴自棄になったことによる
散発的なもので組織性はない、死傷者とされているものの相当部分はアメリカ軍の砲撃による犠牲者である、
といった感じ。
おまえは何を言ってるのだ
民間人の犠牲者を出さないようにするためには戦争をしないこと、それだけ。
悪い国々に肩を並べるべく日本も悪い国になったんだ。
だから偽善も言うよね。
だな、
民間人虐殺をしたのはゲリラが先なんだよ
そのゲリラの平和賞なんだぜ
ゲリラには言うべきを言わずに
振ってきたと云うことなんだよ
まぁ、そう云う上司も
いたけれどもw
特に終わりかたがどの作品も尻切れトンボで「何が言いたかったの?」という感じ
絵は綺麗だと思う
しかし突き出したテーマを追いきれず掘り下げかたが甘く感じる
反面
ここの壺工作員の壺臭さは無知無能の愚鈍がデタラメを並べ立てるだけで
洗脳された人間はこうも醜くなれるのかと感心する
文鮮明の脂ぎった顔面を押し付けられるようで吐き気がする
ネットで自分がみつけられなかったから、何w?
何がいいたいのw?
英語ならあるので、日本人の認知のギャップが大きくなっている原因かと思われ
だから自分が見つけられなかったから何?
何がいいたいの?
戦前は抗日ゲリラの工作員、
戦後も一貫として
抗日ゲリラの工作員なんだよw
宮崎駿は戦前まだ四歳だろ
統一教会にハマるとこうなる
年月も空間も不明のまま「正義」を語り出すようになる
公明党支持者や共産党支持者にトップの身体を舐めまわしたいという奴はいないが
壺はあの君の悪い太った朝鮮人の表皮に浮いた脂を舐めまわして味わいたいと本気で考えてる
度が過ぎたジブリファンの中に狂ってる奴は多いが
壺の狂いかたはレベルが遥かに違う
歴史的な虐殺と言うなら、兵士の個人的な犯罪でなくて、マ海防かその下の大隊か中隊かそのあたりのレベルの組織性は
ありそうだと言えないと針小棒大かもしれない。
もっとも責任という点では、軍隊には兵士の個人的な犯罪を防ぐ責任があるだろうけど。
戦後の軍事裁判でこのマニラ虐殺がとりあげられたのは、マニラ軍事裁判の山下奉文裁判(1945年)や
フィリピン軍事裁判の横山静雄裁判(1948年)のようだ。
まず横山静雄裁判については、ネットではフィリピン軍事裁判の裁判記録が見られないようだが、
ある紀要論文に訴因の明細表と思われるものがあった。先頭の番号は、証人尋問や文書証拠提出のときなどに
言及されるので、裁判記録を読むのに必要。
マニラ市に関するものは、
19 マニラ市 トンド 2月3日
20 マニラ市 トンド 2月3日
21 マニラ市 シンガロン 2月7日
22 マニラ市 パコ 2月7日
23 マニラ市 タフト通り 2月13日
24 マニラ市 タフト通り 2月13日
25 マニラ市 イントラムロス 2月8日
26 マニラ市 イントラムロス 2月17日
27 マニラ市 マラテ 2月 7日?10日
28 マニラ市 マラテ 2月9日
29 マニラ市 サン・マルセリーノ教会 2月10日
30 マニラ市 エルミタ 2月10日
31 マニラ市 エルミタ 2月10日
32 マニラ市 パコ 2月10日
33 マニラ市 パコ 2月10日
34 マニラ市 カンザス街 2月10日
35 マニラ市 ドイツクラブ 2月10日
36 マニラ市 ドイツクラブ 2月10日
37 マニラ市 イサアック・ペラル通り 2月11日
38 マニラ市 シンガロン 2月12日
39 マニラ市 シンガロン 2月12日
40 マニラ市 デ・ラサール大学 2月7日? 14日
41 マニラ市 デ・ラサール大学 2月7日? 14日
42 マニラ市 ベイビューホテル 2月9日? 17日
43 マニラ市 イサアック・ペラル通り 2月17日
44 マニラ市 イサアック・ペラル通り 2月17日
45 マニラ市 イントラムロス 2月20日
46 マニラ市 イントラムロス 2月20日
47 マニラ市 サン・オーガスチン教会 2月6日?22日
48 マニラ市 サン・オーガスチン教会 2月6日?22日
49 マニラ市 サンチャゴ要塞 2月6日? 23日
50 マニラ市 フィリピン総合病院 1月1日? 2月17日
51 マニラ市 フィリピン総合病院 2月10日
52 マニラ市 フィリピン赤十字社本社 2月10日
53 マニラ市 フィリピン赤十字社本社 2月10日
54 マニラ市 マラテ 2月8日
55 マニラ市 マニラ大聖堂 2月5日?7日
56 マニラ市 タフト通り 2月13日
57 マニラ市 パンダカン 2月7日?10日
58 マニラ市 パンダカン 2月7日?8日
フィリピンの日本人戦犯の記録について、立命館大学国際平和ミュージアム紀要、第20号
(p.155、表 2 横山裁判の訴因事件の発生地域と時期(1945 年))
https://www.ritsumeikan-wp-museum.jp/wp-content/uploads/2019/03/mwp_20_nagai-%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E6%B8%88%E3%81%BF.pdf
表中の日付の ? はすべて ~ の文字化け
南京大虐殺があったと信じてるアホの記事しか出て来んのだが。
Document 119-3 で始まるものと、Volumes XXVII などで始まるものは、内容はほぼ同じでデジタル化スキャンの質が違ってる。
後者のほうが質が比較的低い。
U.S. v. Tomoyuki Yamashita
https://exhibits.stanford.edu/virtual-tribunals/browse/u-s-v-tomoyuki-yamashita
以前ニュルンベルク裁判の裁判記録を読んでいたときに、裁判のいわば議事録のほかに、文書証拠の写真版をあつめた
Document series とかいうのも何巻もあったと思うが、そういうのは上のサイトでは公開されてない。
山下奉文裁判の訴因の明細表は、Document 119-3; Tomoyuki Yamashita; Volumes 1-7 の Page 92 から始まる
(文書中のページ数は Volume 1, p.38)。明細表の番号は裁判記録のなかで言及されるので必要。
うちマニラに関するものは、
[明細表の番号] 事案が起きた日付またはだいたいの日付, 場所 (およその内容)
[02] 1944.10.09-1945.02.02, Santo Tomas internment camp (収容施設の民間人収容者に対する虐待、栄養不足、裁判によらない処刑)
[03] 1944.10-12, Cortabitarte and Mabini Streets (憲兵隊本部における民間人の虐待、拷問)
[12] 01.01-02.17, Philippine General Hospital, Ermita (砲撃による病院の患者や民間人避難民の殺害)
[14] 02.10, Nurses' Home of Philippine General Hospital, Ermita (病院の職員寮での複数の民間人女性のレイプ)
[15] 01.01-03.01, Manila全域 (公共や民間や教会の建物を破壊して略奪)
[16] 02.04, Dy-Pac Lumber Yard (2名の民間人男性の殺害)
[17] 02.07-02.14, De La Salle College, No.1501 Taft Avenue (40名の男女子どもの裁判によらない殺害、17名の殺害未遂、2名の女性のレイプ、1名の女性のレイプ未遂、1名の女性の死姦の試み)
[18] 02.07, Malate (2名の民間人男性の裁判によらない殺害、1名の殺害未遂)
[20] 02.10, Malate (1名の民間人男性の裁判によらない殺害、3名の殺害未遂)
[22] 02.11, near Singalong Church (民間人のオーストリア人男性1名、ドイツ人男性1名、ロシア人男性1名の裁判によらない殺害)
[23] 02.07, Singalong (元軍人2名と民間人18名の裁判によらない殺害)
[24] 02.07, Paco (民間人8名の裁判によらない殺害)
[25] 01.01-03.01, マニラ市およびその周辺 (数多くの民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、無差別な虐殺)
[26] 02.12, No.914 Indiana Street (10名の民間人の裁判によらない殺害)
[27] 02.09-10, San Marcelino Church and Saint Vincent de Paul House, Ermita (5名の聖職者と21名の民間人の裁判によらない殺害、1名の殺害未遂)
[28] 02.10, corner of Taft Avenue and Padre Faura Street, Ermita (フィリピン最高裁判官1名ほか民間人37名の裁判によらない殺害、22名の殺害未遂)
[29] 02.10, Poco (12名の民間人の裁判によらない殺害、3名の殺害未遂)
[30] 02.10, Philippine Red Cross Building, Isaac Peral and General Luna Streets (53名以上の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、4名の殺害未遂)
[32] 02.09, St. Paul's College, Malate (373名の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、27名の殺害未遂、約600名への虐待)
[34] 02.09-17, Bay View Hotel, Alhambra Apartment Hotel, Miramar Apartment Hotel, Manila Hotel, Ermita (40名以上の成人および未成年の女性のレイプ、36名以上のレイプ未遂、約400名の女性の虐待)
[35] 02.08-09, Malate (民間人10名の裁判によらない殺害)
[36] 02.13, No.1609 Taft Avenue 付近, Malate (ベネズエラ領事1名ほか民間人3名の裁判によらない殺害、2名の殺害未遂)
[37] 02.11, No.1580 Taft Avenue, Malate (民間人の英印人4名、フィリピン人4名の裁判によらない殺害)
[38] 02.07, Syquia Apartments近く, Malate (4名の聖職者、8名の民間人などの裁判によらない殺害)
[39] 02.09, No.515 Dakota Street, Malate (子どもを含む民間人4名の裁判によらない殺害)
(つづく)
[41] 02.12, No.150 Vito Cruz Street, Singalong (29名以上の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、2名の焼殺未遂)
[48] 02.10, Paco District (300名以上の民間人の裁判によらない殺害、100名以上の殺害未遂)
[50] 02.08, Santa Rosa College, Intramuros (7名などの民間人の裁判によらない殺害)
[51] 02.10, Santa Rosa College and Manila Armory (61名の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、3名の殺害未遂)
[52] 02.10-23, Fort Santiago, Intramuros (4000名以上の民間人の虐待、または拷問、または焼殺、または裁判によらない殺害)
[53] 02.17, Santo Domingo Church, Intramuros (5名などの民間人の裁判によらない殺害)
[60] 02.19-20, Plaza McKinleyおよび近くの防空壕, Intramuros (100名以上の聖職者やスペイン人や民間人の裁判によらない殺害、5名などの殺害未遂)
[61] 02.06-22, St. Augustine Church, Intramuros (約6000名の民間人の男女子どもの監禁、食料や医薬品を与えないなどの虐待)
[62] 02.06-22, St. Augustine Church, Intramuros (50名以上の民間人の裁判によらない殺害)
[63] 02.23, St. Augustine Church, Intramuros (医師1名などの裁判によらない殺害、複数名の殺害未遂)
[64] 02.06-23, St. Augustine Church and Convent, Intramuros (成人および未成年の複数の女性のレイプまたはレイプ未遂、私有物の略奪、教会の中および敷地内の軍事拠点化)
(了)
軍事拠点化やそれに関係ありそうなことが書いてあるのは、他にも2件あった
> [12] 01.01-02.17, Philippine General Hospital, Ermita (砲撃による病院の患者や民間人避難民の殺害)
[12] 01.01-02.17, Philippine General Hospital, Ermita (砲撃による病院の患者や民間人避難民の殺害、病院の軍事拠点化)
> [32] 02.09, St. Paul's College, Malate (373名の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、27名の殺害未遂、約600名への虐待)
[32] 02.09, St. Paul's College, Malate (373名の民間人の男女子どもの裁判によらない殺害、27名の殺害未遂、約600名への虐待、軍事目的に使えない設備を破壊)
BATTLE OF MANILA IN WORLD WAR II, 2016.11
https://factsanddetails.com/asian/ca67/sub428/entry-5337.html#chapter-1
もしかするとゲリラっていうより、教会や病院といった堅牢な建物あるいは防空壕が避難してきた民間人で一杯になってて、
場所とりというか、日本軍が入ってきて自分たちの防御施設として使う、民間人を人間の盾にして同居する部分もあるだろうし、
邪魔だどけって民間人を追い出そうとしたり殺したりする部分もある、そういうなかで起きた虐殺の可能性も検討すべきかも。
今調べられるようなものは戦勝国に都合のいい歴史しか残ってないのでは?
日本兵20万人がどこでどのように死んだのか?
まったくわからないのが現状
わが祖父の遺骨も帰ってこない
日本では、違法なゲリラを処刑しただけ、アメリカ軍が市街を包囲したため日本軍は脱出できなくなった、
市民の犠牲者はアメリカ軍の砲撃によるもの、って言われてるので。
自分は絶対そんなことしない
と言い張る
大東亜共栄圏なるものです。まったくの誤った解釈によるものなので迷惑している。
しかし欧州列強に洗脳された大日帝国のもとではそういうものではなくなった。
天皇は権威ではなく、欧州列強化以来の政治をしもじもがやりたい放題行っては
その責任だけを負う者とというかたちの体制が作られた。そりゃあ暴走するよね?
ほんとそれ。江戸時代はまだ天皇の権威があったが、
そのあと天皇の言うことをまったく聞かなくなって
大戦責任だけ負わせる愚かな時代が大日帝国という
お人形国家体制。武士道に戻って日本を振り返りたい。
アメリカ合衆国軍がアジア諸国とともに解放してくれたと言っていい。
あらわれていたように思う。
つまり、マニラの海軍部隊が市内にとどまるという勝手な行動をとろうとしている、天皇陛下から任命されている
陸軍の司令官の指揮に従っていない、という陸軍からの不満があった。しかし海軍は、港湾については陸軍からは
指図され得ない固有の任務があるのだと主張した。
日本では年間一万人以上の行方不明者がいるのに殺人事件の真犯人なんかわかるはずないよね
壺理論
何を説こうが壺の耳に念仏
総連に賠償
本来は人質目的だったのではないかという可能性を検討してもいいかも。
この行為の数日前の3/5に、日本軍が英米の民間人などを収容していたサント・トーマス大学が、予想外に急速に進攻
してきたアメリカ軍に戦闘後制圧されたが、日本の部隊は収容者のうち221人を人質にして大学内の建物に立てこもり、
米軍側と交渉して、人質と交換というかたちで戦線を越えて日本軍支配地域に脱出できたという事例があった。
敵の支配下に取り残されても、人質を持っていれば脱出できるという先例を見てるわけだな。
ちなみに国際赤十字による戦時国際法の解説によると、武力紛争において人質をとる行為が条約によって禁止されたのは
1949年のジュネーブ四条約によってであって、それ以前には占領軍が人質をとるのは、他に手段がなく、かつある程度
厳しい条件を満たせばまったく禁止というわけではないという裁判例もあったという。
Rule 96. The taking of hostages is prohibited.
https://ihl-databases.icrc.org/en/customary-ihl/v1/rule96#Fn_E597D6C_00003
いわゆるマニラ大虐殺の1945年には、現在とは違って、軍隊が人質をとる行為はまだグレーゾーンだったようだ。
>>93
> [34] 02.09-17, Bay View Hotel, Alhambra Apartment Hotel, Miramar Apartment Hotel, Manila Hotel, Ermita (40名以上の成人および未成年の女性のレイプ、36名以上のレイプ未遂、約400名の女性の虐待)
Bay View Hotel (取り壊されいて現存しない)
https://i.imgur.com/8AmTgmC.jpeg
Alhambra Apartment Hotel
不明
Miramar Apartment Hotel (写真中央、ライトアップされてる黄色い建物)
https://i.imgur.com/m5CmY3Q.jpeg
Manila Hotel (後ろの高層ビルは当時なかった)
https://i.imgur.com/zherDvy.jpeg
米軍軍事地図1945年、マニラおよび周辺。ベイビューホテル、ミラマーホテル、マニラホテルの場所を書込み
https://i.imgur.com/gszDYeg.jpeg
(地図のソース) 1945年のアメリカ第14軍団報告付録地図集
https://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/5770/
よく分からないな。
デカい空き地を作っただらしない中華が発端とも言えるし。
奴等がしっかりしていて頼りになるなら日本は苦労しないのだが。
市街戦を戦っていた陸軍の野口部隊は、斬込をしつつマニラから脱出するという方面軍・集団の意図や
決行の時機についてわりとまともに理解していたように見えるが、
岩淵やその参謀が、陸軍用語や文学に不慣れでその意図が所々理解できないうえに、市内残留にむけては
勝手に判断しようとする一方で、自分たちの戦力と判断で切り拓かなければならない郊外マッキンレーへの
主力の後退はかえって命令されるまでグズグズしてたので、わずか数日の判断の遅れだけども脱出できなく
なったということだろう。
短兵急にマニラに乗り込んできたアメリカ軍は、日本の方面軍・集団の情勢判断によっても、"大した兵力"
ではなく側面が脆弱だからと反撃を実施した程度のものであったから、進攻後数日の混乱の中なら、
郊外マッキンレーへの主力の後退は不可能とまではいえない。
子どもたち対して模範として示す英雄の人物史、日本はすごいというエピソードをたんに並べる、
南京大虐殺はなかった、反日的なストーリーは左翼・外国のプロパガンダだからウソ、ということなんだな。
その立場から歴史の従来の叙述の仕方を「自虐史観」と呼んでる。
しかしながら従来からあった歴史解釈のなかにも、すでに歪んでいて「自虐」じゃないやつもある。
このマニラ大虐殺がその一例
どうしてそういうことが起きたのか、全体がわかりにくい。
それは加害者を知ってる日本人がやるべき仕事かも
もっぱら土地の生産力で成り立っていた近世までと比べたら社会の仕組みが複雑になってる。
経済、法律、政治あたりの専門をある程度知らないといけない。
小林秀雄までいかなくても、仲代達矢くらい著名な俳優なら文化の端くれくらい担ってるだろう
という前提でいうと、仲代が過去のインタビューなんかで言ってきたのは、戦前から演劇をやってた連中には
左翼として収監された経験があったりして反体制の気風があって、家庭の事情で社会からこぼれおちた
自分のような人間には、よい居場所になったということなんだな。それが映画業界の労働環境の底辺にあった。
つまり戦後文化をつくってきた人たちには、一般社会よりも、戦前の反体制派のほうに近いものがあったということだな。
それで気分から右傾化してみた昨今に日本人には合わないんだわ。
スペインに行って「旧日本軍がスペイン人を殺害した事実などない」と言い張ったらスペイン人が日本をまともに相手すると思うか?
つまりどういう日本に対してどんな意図を持つ連中がデマを吐きまくってるのかお見通しなんだよ
勝者も敗者も両方とも虐殺しまくりであるにも関わらずな
ぼやぼやしてると中国共産党に騙されてまた戦争に負けるぞ
歴史に残された史跡や記録がすべてウソだというなら
東京大空襲も広島長崎への原爆投下も
シベリア抑留もなかったことにできる
こういう連中はロシアもウクライナもイスラエルもガザも色眼鏡でしか見えない実質盲目だ
日本の国際的立場に対して腹に何を抱えた連中がデマを煽動してるか簡単に透けて見える
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
赤子を抱えた母親たちは命乞いをしたが、海軍兵士らは銃剣で赤子を突き刺し、地面に叩きつけた[96]。
そして女性たちの髪を掴み、強姦し始めた[96]。
20人を超す海軍兵士たちが13歳に満たない外見の少女を輪姦した上、少女の乳房を切り取り、そのうちの一人が自分の胸に切り取った乳房を押し当てて女の真似をし、他の兵士たちはそれを囃し立てた[96]。
海軍兵士たちは他複数名の女性も強姦した挙句、髪にガソリンを撒いて焼いた[96]。
まさに戦場の狂気
オマエラがアメリカの原爆投下や無差別空爆に沈黙しているだけだろ
勝ち負けにかかわらず人類の愚行は歴史に刻んでいかなければならない
そこに触れると大東亜戦争が正義の戦いであった事がバレるからな
その「正義」とやらと「虐殺の事実」は別問題だろ
目的が正しければ殺戮は正当化されるなんて発想はアメリカンの思考だ
「日本軍は酷いことなんてしてなーい」「正義!正義!」と連投しながら
日本の戦争被害に積極的に触れようとしない連中
二枚舌を駆使して世論を引っ張ろうと必死の工作だな
フィリピンに関してはそのロジックは通用しないんだよなぁ
フィリピンの独立は法で確定されてたし、そこに土足で上がり込んでフィリピン人が抵抗すればゲリラとして殲滅する。これのどこに正義があるんだよ
おまえみたいな無知蒙昧が歴史を改竄しフィリピン人の心象を悪化させ日本とフィリピンの関係をぶっ壊す
害悪、国賊以外のなにものでもない
過去は変えられない
我々にできることは過去の歴史を受け入れ記憶すること
日本軍、文官の進言に耳を貸さず植民地化後も殺しまくり学校どころか病院まで破壊
寝言は寝てから言え
フランス人がアフリカ人の右手首落としてまわった話しや強制労働しらんのか
強制労働は現在まで続いてる
へー
だから日本人は犯罪者でもないドイツ人やスペイン人を殺害していいって理屈か
こいつイカれてやがるな
マニラ戦に於いては
米軍、ゲリラに相対して海軍があって
間に市民がいるけれども
左翼は立ち位置がゲリラ側じゃないのか
マニラ戦は
市民と陸軍が被害者なんだけろw
韓国では「日本はサタンに毒されたエヴァの国である」
日本では「日本軍正義!正義!」
二枚舌三枚舌だな
言語不自由かよw
出たな
壺おなじみの罵倒戦法
知らんかった。
子供達に日本含め確認取れてる世界の虐殺の正確な情報を隠さずに教育すればいいのに。特に現在進行形で未だに続けてる中国とか。
なんでおれが壺だよばーか
でなければ自分でも気づかず壺に染まって壺に操られ壺の援護射撃をしてる馬鹿だな
差くらい佳子や小林よしのりなんて拝米ウク信にジョブチェンジしてるし、桜井誠とか言うやつも完全に消えた
結局市民の多くがゲリラとアメリカ軍のほうについちゃったんだね。少なくとも日本側ではそう見てた。
戦史叢書060巻によると、
https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=060
p.200
2月4日0330発 振武参電第723号
1800 「ノバリチェス」南約2kmを自動車約300の敵南下中にして付近住民は全部沿道に於て之を歓迎しあり(航空情報隊金森少尉目撃談)
p.203
3日夜から全市民(当時約70万)は米比軍に同調あるいはゲリラ化し、通信線は寸断された。
p.229
住民が匪化している関係などから敵の捕虜を全然獲得しえなかった…
また林博史「日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『自然・人間・社会』第48巻(2010年1月)、pp.69-95 によると、
http://hayashihirofumi.g1.xrea.com/paper93a.pdf
6日1752 第31特別根拠地隊機密第061125番電
「マニラ海軍防衛部隊戦訓第二号
比人の大部は尚親米にして敵国人に等しく 市民は平素一見我に協力の装ひつありしも比島上陸作戦開始以後其の態度漸く露骨化し 敵マニラに侵入するや市民は双手を挙げて之を歓迎万事我が戦闘作動を阻害しつつあり 市民は敵マニラ侵入の今日尚約70万ありと認めらるも 3日より5日に至るパシック河以北戦線に於て我が戦闘行動を困難ならしめ奇襲攻撃を不可能ならしめたるは ゲリラ化せる一般市民にして我が奇襲攻撃前に米軍に内通せられ 戦車に一□を受けたり一日肉攻隊員にして市民の射撃を受け米潜水艦宛(?)所在を表示せられ目的を達せざりしもの等枚挙に限りあらず 米軍進入の地帯は既に米軍旗を掲揚しある等敵国人として差当り処置を要するものあり 尚華僑地区には青天旗竿を挙げるものあり」(「菲電綴」)
9日0453 第31特別根拠地隊機密第080119番電
「二 北部隊6日夜斬込隊予定の如く発進せるも 大半市民並にゲリラに妨害せられ成功せず 戦果トラック一台炎上放火三」(「菲電綴」)
10日2214 第31特別根拠地隊「作戦特別緊急」機密第081631番電
「四各地区共住民は全面的敵と連絡 我等をして困窮せしむるものあり 之に対し断乎容赦せざるに決す」(「菲電綴」)
13日0000 第31特別根拠地隊「作戦特別緊急」機密第121453番電
「12日1430 マニラ戦概
二 パサイ方面一部敵兵力(戦車一装甲車三兵力約二小隊)浸入砲兵陣地構築中 昨夜切込隊を以て之を撃滅せんと計りしも 付近住民並に兵員ゲリラ隊に包囲せられゲリラ一〇数名殺害 手榴弾一鹵獲せる外目的を達せず」(「菲電綴」)
首都マニラという日本のフィリピン支配の中心的な拠点は、もともとはゲリラがいるところじゃなかったね。
「匪軍」つまりゲリラの多くが軍服を着ているが、そういうのはルソン島の外から来たか、一部は米軍上陸地点の
北部リンガエンで編成されたものも入ってるようだ、という観察もあった。
21日2255 振武参電第1037号
「敵に捕はれ炎日使役せられある海軍台湾邦人の報告に依れば、(1)マニラ市内の戦闘に参加しある匪軍の大部正規軍の服着用せるは島外に於て編成し来り 又一部はリンガエン地区に於て編成せるものを混入しあるが如し」
「(1)現地ゲリラは主として市内警察業務に任じあり(2)各小隊には日本人(第二世か)通訳一名あり(以下略)」(「振電綴」)
(上記林博史2010年、p.82)
ゲリラ兵が日本兵をどのように残酷に殺したのか?
そこも歴史なのでちゃんと張り付けてね
戦場はどこも同じ
ロシア兵が日本人一般女性を戦地で強姦しまくったことも張り付けてね
西洋列強が日本の一般人に何をして殺戮したのか?
究極は原爆実験の材料にしたかった
それだけだよ
もっと人間のカルマや資質と向き合おうぜ
左翼諸君
日本人は悪魔そのもの
ってか?
左翼諸君
戦地の現場すら何も知らない戦後生まれの左翼ジジィども
机の上で資料調べてるだけでは戦場の兵士の痛みも苦しさも葛藤も
戦争の現実とそれに付随する人間の本質なんてなんもわからんよ
血の通わない頭でっかちの戦後生まれお坊ちゃん左翼さん
俺のじいさまの遺骨は見つからんのよ
遺骨になった経緯もあんたらの偏りまくった資料にはなにも記載されてないわけ
フィリピンの大地の下に埋められたわけ
それが歴史というもので汗水流さないで手に入るあんたらの資料じゃ何もわからんのさ
現地でその歴史を掘り返してそういう遺骨の声に耳を傾けなさいよ
西洋列強をあがめてるんだろうけど
ちょっと俺の爺様の代弁をしてみました
「おまえらは犬死なんだよ」
と左翼がいつも言ってるように言い放って来い
それくらいしかできないのが左翼の理性限界だ
左翼界隈の理性限界
ともいえるか
とっくに遺族や日本人に忘れ去られてることだろうに
だけどもよ、違うんだよ
俺の中で武士とした戦いそこに命潰えたじいさまは俺の矜持であり楔になって生きてるんだよ
そこはあんたら左翼の理性の辿り着けない領域であることだけは言っておく
ロシア兵が強姦してまわった?
日本軍が撤退したんで満州の男連中が保身のために女を差し出したんだろ
「あんたが乙女なのは知ってるがお願いします」と土下座して若い女をソ連兵に差し出した
昔テレビでかたせ梨乃が演じてたドラマみたことあるわ
ちなみに日本占領した米兵か英国兵かが警察署にきて「女を差し出せ」って言ってきた話しがある
「女なんていない」と言うと、窓から外を指差して「あそこにいるだろう」といったとか
いや、負けたら「犬死に」なんだよ
だから阿南は徹底抗戦を主張したし若い将校は玉音の音源を奪って阻止しようとしたし、
日本人の多くは玉音聴きながら無念の涙を流したんだよ
みたりの子 国に捧げし ながざりし
母とふ人の 号泣をきく
この母の無念さを考えてみ?
3人の息子を次々に戦争で失っても人前で涙をみせなかった気丈な母親が、
敗戦の日には人目も憚らず号泣してた
そんな母に「武士の誇りガー」「英霊にカンシャ」がどれほど軽薄で欺瞞的で、人の命を軽視した傲慢な言葉か自覚しろや
実際忘れてるから日本の総理もネトウヨも恥とも感じずアメリカに媚びてるんだろ
大半の英霊は誰に殺された?原爆は誰が落とした?
怒りも復讐もせずアメリカに首輪嵌められてワンワンいってるだけの今の日本人に誇りもなにもない
ID:yJiEQ←wwwwwwwwwwwwwwwwwww
日本人の大多数、90パーセント以上は「パヨク」ではないから相手をするのが面倒になって反論をやめる
そこが壺の狙いだ
壺はフィリピンでは「日本ヤバいですよね。私たちは日本軍に酷い目に遭わされましたね」と現地の資産家を勧誘する
驚くべきことに同じ舌で日本では「フィリピン事件はウソ!あれを認めるのはパヨク!パヨク!」と何万回も連呼する
感化される日本人が続々とでてくる
歴史を多角的に学ぶ機会がなかったかわいそうな人たちだ
壺の恐ろしさはそこにある
ベルリン陥落
連合軍側はセーフでした
真珠湾を引き合いに原爆投下を正当化するアメリカ人や
対テロを理由にガザでジェノサイドを行うアングロサクソンの思考
虐殺も侵略も「神」だの「明白なる運命」と言って美化正当化する一神教的ロジック
汎神論と多様性を認める大和心とは相反する
ネトウヨは「歴史が~」「歴史が~」言うくせに日本の歴史を何も知らないアメリカに飼い慣らされた半アメリカン
名誉白人を自称したがるのもわかる
それを、相手も悪いから日本だけ悪いわけじゃない、とか
すごいめめしい、武士らしくない言い訳
近年日本人のモラル低下もこういう屁理屈と責任転嫁をするようになったからだろう
教団内にいれば時と場面でコロコロとなんとでも歴史を変えるよな
「そんなアホな…」と歴史を解けば
「パヨクだあー!」「こいつは中国モスクワだあー!」と大騒ぎ
それが壺
だから壺
壺汁に浸った脳は漬物と同じで
元の新鮮な野菜には戻らない
お爺さんには生きて帰ってきてほしかったな。
それに史実とは逆に、もし日本軍が戦争に勝っていまもフィリピンを勢力下に置いてて、
お爺さんが戦病死していなければ、何か知らんけどすごい英雄だったかもしれないんじゃないの?
たとえるなら武器を手によそのウチに乗り込んで、一人か二人ぶっ殺して、食べ物を分捕ったり
ネエちゃんといいことしたりしても、そのまま居座り続けることが出来れば、
むしろぶっ殺されたほうが邪悪なやつでこっちは社会正義なんだ、というのがなんかありそうな話。
大むかしの歴史はそんな感じでしょ。
ただその場合のリスクとして、向こうが応援を呼んだり必死の返り討ちをしてきたりして
こっちが命を落としたり、武力対決に負けて強盗や強姦魔と決めつけられてひどい目にあうのは、
もともとそういうやり取りなんだから仕方ない気もする。
まあ、戦前の左翼は上記とは少し発想が違って、昭和の初めに防空演習なんかが導入されると、
戦争は支配層の資本家がひき起こすもので自分たちのような庶民は苦しむだけだとか主張してビラを撒いて、
「反軍思想」の疑いで当局に身柄を拘束されたりしてたので、戦争そのものがいかんという感じだ。
戦場の主役はもはや人間ではなく英雄もいなくて産業と産業の闘いといった総力戦になってるという
認識もあったようだね。左翼はこっちの流れに乗ってる。
ただ同じ時代に石原莞爾なんかは戦争は文明の母であると書いてるわけだから、反対の発想もありえた。
実際1934年に、大学は学問とかお高くとまるのはやめて実用的な研究をやれという「知育偏重の排撃」
があって、軍需のための科学技術の振興がはじまると、やっぱり理系の科学者にとっては予算が潤沢
になるし、軍事に役立つ方向なら自由に研究ができるということで、すごくいい時代だと思った人も多かった。
あれがいい時代と思えたのかw
独立が嫌だった史観なら奴隷やってろよ。その代わり日本が占領しても発言権は無い。
独立史観なら役立たずの足手纏いだけどな。
https://i.imgur.com/3M2UKWL.jpeg
マ海防の管轄区域はだいたい、タラハン川(河口は現ナヴォタス市)以南および現ケソン市マタンダング・バラーラとマリキナ川以西の
現マニラ首都圏の主要部(面積で6割~7割くらいか)と、南のカヴィテ半島の軍港
(参照)
・戦史叢書060巻、p.184
・フィリピン大統領博物館・図書館、Dispositions of Manila Naval Defense Force, January 21, 1945
https://www.flickr.com/photos/govph/16142612370/in/album-72157650334720246
なおマ海防の本部はこのときは「農商務省」(現フィリピン国立自然史博物館)か
「マッキンレイ」(櫻兵営)というのは、その8kmくらい南東の現在のフォート・ボニフェイシオにあたる。
2.8に潰乱後退した西山大隊の「サンファンデルモンテ」は同約6km東北東の現在のサヌアンあたり。
いろんな価値観があるので。
いまはよくみる歴史叙述であっても、戦前は共産党とか左翼しかそういうことを言ってなかったということはよくある。
廃墟から失意にまみれて立ち上がった日本人たちが泥水を飲みながら築いてきた他国との信頼関係を
洗脳とウソで根こそぎからひっくり返して破壊しようとする勢力がいる
それが壺だ
紛争相手国が嘘八百並べて敵を悪魔化、自己正当化なんてのは人類の福利には害でしかない。
まず相対化して正しい歴史を理解させなけりゃあならない。自分にも悪いところはあった、などと言ってもあいつら自分もだな・・とか決して思わん。
万能感こじらせて世界に戦争吹っかけて回るのを助けるだけだ。
甘っちょろい事を言う日本人が多くて草
全体的には日本の赤字で品目別を見ると黒字と赤字が分かれるが黒字の分野は明らかに日本の国益に適っている
壺「日本はあなた方の国になーんも害を及ぼしたことありません」
スペイン「へ?」
壺「自国に不利なことは否定するのが国際慣例でしょ?」
スペイン(いや、我々はアメリカ大陸での惨禍やアジアでの無理な植民地政策を認めてるけど…)
壺「でしょ?でしょ?そんなの普通封印してなかったことにするよね?w」
スペイン「アメリカですらベトナムに謝ったけど…」
壺「我々日本人は知らぬ存ぜぬでーす!w」
スペイン(この国、おかしいよな…つきあわないほうがいいかも…)
これが壺の狙い
3,000億〜3,500億ユーロだ
スペインさんは莫大な賠償を現在進行形でしているんでしょうなあ
イギリスやロシアは触れられないよなあ
草
「フィリピン虐殺を事実と認める奴はパヨク!モスクワ!コミンテル〜ン!」を連投する日本の壺がフィリピンやスペインに行くと
「日本って酷い国ですね。私達もむごい目に遭いましたからわかりますよ。私達は共に被害者で、お互いの良き理解者です」
「我々の御父様は日本の軍国主義と闘い、天皇をサタンとして最大の標的にしてたんですよ。私達は仲間です!」
同じ口でしゃあしゃあと日本を貶めている
それが壺と壺にハマった連中の正体だ
大東亜共栄圏なるものです。まったくの誤った解釈によるものなので迷惑している。
しかし欧州列強に洗脳された大日帝国のもとではそういうものではなくなった。
天皇は権威ではなく、欧州列強化以来の政治をしもじもがやりたい放題行っては
その責任だけを負う者とというかたちの体制が作られた。そりゃあ暴走するよね?
ほんとそれ。江戸時代はまだ天皇の権威があったが、
そのあと天皇の言うことをまったく聞かなくなって
大戦責任だけ負わせる愚かな時代が大日帝国という
お人形国家体制。武士道に戻って日本を振り返りたい。
アメリカ合衆国軍がアジア諸国とともに解放してくれたと言っていい。
狙った獲物の預貯金や土地を根こそぎ奪いとり昼夜問わず奉仕活動にこき使う壺よりは遥かにマシだ
むしろ「自慢げに話されたので不快だった」と回顧する自叙伝代筆者の関係者がいるぐらいだ
ここにいる大嘘つきの朝鮮壺右翼とは人間性が全く違う
小野田少尉は、眼光鋭くてこれぞ大日本帝国軍人という感じだったので、昭和45年に市ヶ谷台1号館
(旧陸士、旧陸軍省)に乱入して軍人キャラ風のダブルブレストのコスプレで演説して自殺した
作家の三島由紀夫のとっちゃん坊やぶりが、ますます時代から浮いてしまう原因にもなった。
居残りみたいな感じで使ってたのかね。
壺はそもそも映画やアニメ全部禁止だろ
「七つの罪」とかで
朝鮮壺右翼は教団映画や教団アニメで文鮮明の顔を見ながら
朝鮮壺人間同士で涙流してうっとりしてればいいんだよ
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001210015_00000
マ海防についてのNHK戦争証言シリーズ。
注目点(前半)
01:58「日本陸軍は市街地での戦いは甚大な被害を招くとして山中での持久戦を主張しました。しかし一方の海軍は港を守ることにこだわり市街戦に踏み切ります」
→ 直後に映像に映る電報は、南西方面艦隊(GKF)の参謀から大川内伝七・南西方面艦隊長官にあてた1945.1.18付の「マニラ防衛要領要旨」と同じ内容。
https://i.imgur.com/G7zB9e7.jpeg
(「親展電報 昭和20年1月~昭和20年4月(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010009300、昭和20年1~昭和20年4 親展 電報(防衛省防衛研究所))
→ ただし海軍の「死守」は、一般には玉砕という意味だけでなく、頑強に防御するという意味で使われていたようだという。
(戦史叢書第054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、p.487)
しかしいずれにしても市内には小部隊を残して郊外のマッキンレーに後退する(小部隊は後退を可能にするための殿軍、あとで撤収)という陸軍の指示は実施されなかった。
07:43「このとき小林勇さんも、この国会議事堂にいました」
→ 現フィリピン国立美術館。下記はマニラ戦の時代の写真(フィリピン大統領博物館・図書館公開)
https://i.imgur.com/LniWuQX.jpeg
08:31「マニラ海軍防衛隊の司令部は、マニラ中心部にあった農務省ビルに置かれました」
→ 現国立自然史博物館。下記はマニラ戦の時代の写真(フィリピン大統領博物館・図書館公開)
https://i.imgur.com/9fWJzKY.jpeg
09:17「2月3日アメリカ軍の先陣700人がマニラ市内に入りました。マニラ市北部サント・トーマス大学です。大学にいた日本軍は2日間で制圧されました」
→ 戦闘に負けて残った日本側は221人を人質にして米側と交渉し、撤退に成功した。
(戦史叢書第060巻 捷号陸軍作戦<2> マニラ決戦、p.213)
15.49「宮沢さんや山口さんたちが目指したのは、マニラ中心部から東へ5km、当時マッキンレーと呼ばれていた地域でした」
→ どうも2.8にサンファンデルモンテの陣地を放棄して壊走した西山大隊のエピソードらしい。
約880名がボソボソ(約22km東北東の山中)へ、一部がマッキンレーに避退したという。
(戦史叢書第054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、p.505)
(地図)マ海防管轄区域1945.1.21時点
https://i.imgur.com/3M2UKWL.jpeg
農務省ビルまたは「農商務省」(現フィリピン国立自然史博物館)は海岸近く。
マッキンレー(桜兵営)というのは、その8kmくらい南東の現在の"フォート・ボニフェイシオ"にあたる。
サンファンデルモンテは同約6km東北東の現在の"サヌアン"あたり。
https://www.flickr.com/photos/govph/albums/72157650334720246/
米第1騎兵師団所属の第8および第5騎兵連隊である。どうやら東西から挟まれたようだ。
うち西側の第8騎兵連隊は自動火器や小火器、20ミリ機銃、6インチ(約15cm)艦砲による攻撃を受けたという。
地図(アメリカ第14軍団報告の地図に書き込み)
https://i.imgur.com/PB5HJjE.jpeg
p.89-90
https://i.imgur.com/PBZHc8s.jpeg
p.97
https://i.imgur.com/hevi4t6.jpeg
アメリカ第14軍団報告、After action report, XIV Corps, M-1 operation
https://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
で、第8および第5騎兵連隊が何をやってるかというと、郊外をぐるっと回って南から来る部隊と合流し、
マニラの市街地を包囲するということだ。マニラ郊外の西山大隊が陣地を放棄したことで、
市街中心部にいるマ海防の本隊が包囲されてマッキンレーに脱出できなくなるリスクが高まった。
それがこの陣地放棄の意味だった。陣地に「帰れ」と言われるのも一応理由があるだろう。
日本で
「日本軍は正義の軍隊!日本は虐殺などしていない!」
海外で
「我々は日本の軍国主義と戦っていました!我々が父と仰ぐ指導者は、天皇は敵だ!サタンだ!と人々に訴えました!」
フィリピンに出向いた朝鮮壺右翼「サタンに呪われた悪しき日本人に代わって土下座申し上げますー!!」
> 6インチ(約15cm)艦砲による攻撃を受けたという
これは北墓地陣地の海軍の120mm高角砲8門らしい(戦史叢書第054巻、p.505)
(地図)北墓地陣地の位置を表示
https://i.imgur.com/9ApDdTx.jpeg
それは思うに、敵軍に都市民の面倒を見させておいて時折山から下りてきて嫌がらせするほうが楽だから
住民疎開の計画はないという陸軍と、塀や壁といった遮蔽物に囲まれた市街のほうが安心できるし上手く戦えそうな
気がするから邪魔な民間人には消えてほしいという海軍の間で調整がうまくいかず、リスクがすべて民間人に
押しつけられたからだろう。
「マニラ市においては、「マ海防」(農商務省)の希望(市民排開)にかかわらず 橋本参謀(サンタメサ)は
本属上司の方針に基づき市民がわが軍隊の移動や軍需品搬出の妨げにならないよう市民の安居楽業を
指導していたのであって、市民約70万がまだとどまっていた。」(戦史叢書060巻、p.213)
「…岩淵司令官は住民の退去を軍政担当の陸軍側(担当 橋本参謀)に要望していたが、橋本参謀はすぐに、
それに応ずるわけにはゆかなかった。同参謀には、マニラ市の軍隊や居留民の移動 軍需品の三大拠点搬入
を円滑に行なうため、住民を安定させておかねばならぬ任務があったからである。住民が疎開を始めれば、
道路が閉塞され輸送機関の使用も制限される。」(戦史叢書054巻、p.503)
もともとマニラには陸軍の「マ防」と海軍の「マ海防」があって、「マ防」の主力が山の中に移転したので、
マニラ戦のときには海軍の「マ海防」がマニラとその郊外の全域を担当していた。しかしながら「マ海防」
の担当区域内に依然として陸軍部隊が多少残っていたし、「マ海防」そのものが陸軍の指揮に従うことに
なっていたので、「マ防」の小林(隆)兵団の橋本参謀が一定の力を持っていた。
結局、市民は自力で脱出するか
置いて行くしかないな
残置諜者と共に
占領下でゲリラ組織を構築する
くらいの準備は必要だった
米軍の裏返しになるがw
2.3の米軍マニラ市内突入のあとの、避難民の初期の発生のようすがまずは気になる。
初期でなく後々のエピソードとしては、米軍の砲撃が2.12から制限解除により本格的になって、
2.17からはさらに大口径も投入されて激しくなったようだが、2.17にはフィリピン総合病院の
民間人約5千人が、2.23にはサンアグスティン教会とデルモニコ教会の民間人約3千人が米軍に保護された。
この人たちは逃げられなかったわけだな。
いちおう初期には、2.4のマニラのようすについて報告した海軍の機密第041910番電で、
「市民の一部避退を開始せる外 概ね良好…」と言ってて、民間人が逃げようとしたことは分かる。
https://i.imgur.com/QPQ0i5A.jpeg
(「比島方面電報綴 昭和20年2月~昭和20年3月(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010013900、昭和20年2月~昭和20年3月 比島方面 電報 綴(防衛省防衛研究所))
フィリピン大統領博物館・図書館が公開している、日本兵たちによって燃やされた郊外(の町)から
安全をもとめて走り(去る)マニラ市民たちとされる、2.10の写真。ただしどこに逃げるかが問題だ。
https://i.imgur.com/MRWfdhs.jpeg
Citizens of Manila run for safety from suburbs burned by Japanese soldiers (Feb. 10, 1945)
ttps://www.flickr.com/photos/govph/16425088005/in/album-72157650334720246
アメリカ第14軍団報告によると、米軍は2.16に、要塞化された旧市街のイントラムロスに
立てこもっている日本軍に対してすべての民間人をビクトリア門から避難させるよう呼びかけている。
しかし反応はなかったという。
https://i.imgur.com/pVJY5QW.jpeg
After action report, XIV Corps, M-1 operation
ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001210015_00000
マ海防についてのNHK戦争証言シリーズ。
注目点(後半)
17.29「マニラ海軍防衛隊の岩淵三次司令官は当時指揮権限を持っていた陸軍14方面軍に市内からの撤退を上申します。しかし陸軍からの撤退命令は出ませんでした」
→ 戦史上一番込み入ってる論点だが、簡単にまとめると下記のとおり。
2.9夕刻、[岩淵]司令官は萱島[海軍]参謀を市内から招致し、戦況報告およびマニラ撤退の意見を具申するため、[陸軍]振武司令部に出頭することを命じた(戦史叢書054巻、p.508)。
2.10、萱島参謀は、戦況報告後直ちに反撃計画を示されたため、撤退に関する意見具申を言い出す機会を失ってしまった。なお横山[陸軍]振武集団長も、[陸軍]第14方面軍の武藤参謀長も、岩淵司令官のマッキンレー移動は当然の推移として受け取っていた(同、p.511)。
20:49「当時市民たちの多くは頑強なビルに避難していました。このスペインクラブにも大勢の市民が身を寄せていました。2004年に亡くなった、当時マニラ海軍防衛隊司令部付の西岡半一さんが、スペインクラブで起きたことを手記に書き残しています。」
『マニラ市の一角に、スペインクラブという500m四方くらいの土地に2階建ての建物あり…』
『ゲリラが多数入り込んで活動し始めたので、再三フィリピン人を外に出すように勧告したが、聞き入れられず…』
『司令官が、正午を期してゲリラは一兵も逃さず全滅せよと、私たち分隊に命令した。』
『当日、朝から四方の入り口に爆雷を一本ずつ装置し、正午、12時を期して一斉に点火。飛び出してくるフィリピン人を、待ち構えた兵隊たちは機関銃で射殺。正気の沙汰で出来ることではない。』
『抵抗しない者、まして婦女子が大多数…』
→ これはwikiでドイツ人クラブと言われている事件のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA#%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E4%BA%BA%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
スペインクラブ(Casino Espanol)の土地を買って、そこに1925年からドイツ人クラブが移転してきていた。
German Club, 2014.01.28
http://www.lougopal.com/manila/?p=1869
山下裁判の文書証拠No.132にも、ドイツ人クラブの場所としてTaft通り、San Luis通り、San Marcelino通りに囲まれたこの場所が示されている。
https://i.imgur.com/rU2Qgs6.png
米連邦議会図書館、山下奉文裁判、裁判記録および文書証拠、 Exhibits Volume 2 - Prosecution Exhibits、p.122(PDFページ数)
https://www.loc.gov/item/68050464/
これようするに"反日分子"の処刑に近いものがある。
武器をとって、ゲリラが一斉に蜂起して市内の公共機関を襲ったりしてたが、少なくともそういう都市ゲリラ戦ではないな。
またマニラじゃなくて地方ならゲリラ部隊との交戦というのはあって拠点を獲ったり獲られたりして、戦闘記録もあるが、
そういう〇〇の戦いみたいな具体的な戦いがない。
たとえば市街地の日本軍の戦線の後方にゲリラが拠点をつくって戦いはじめたら、戦線の向こうのアメリカ軍とに挟まれて、
日本軍が一気に後退するようなエピソードもあるはずだが、それもない。ゲリラはそういう戦果を挙げてないな。
マ海防が怖がったのはお化けかもしれない。
通信線を寸断された(サボタージュ)、アメリカ軍の狙撃部隊に加わってる、
アメリカ軍より先に日本軍の正面にあたる地区に軽機関銃を持って入ってきた、
日本軍の行動をアメリカ軍に通報したり(諜報)、夜間アメリカ側に斬り込みに行くと取り囲んで妨害する、といった感じだろう。
ゲリラじゃないっしょ、日本の軍人が惨殺したのは
戦線を越えて日本側に侵入してきたり、日本軍に捕まったりしたのは犯罪者ではなくて捕虜の資格をもった交戦者だから、
それだけで殺したりしちゃいかん。
(1)責任を有する指揮官のいる組織である
(2)徽章をつけるとか、ありゃゲリラだなと分かるような恰好をしてる
(3)武器を隠していないで、大っぴらに持ち歩いている
(4)国際的な交戦規則を遵守している
1907年のハーグ陸戦規則
https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hc4.htm
戦線を越えて日本側に侵入してきたり、日本軍に捕まったりしたのは ?
→ 戦線を越えて日本側に侵入してきたりして、日本軍に捕まったのは 〇
アメリカ軍が支配している地域のことであって、これ自体は日本軍の支配下にとどまっている住民の反日化
とは関係ない。
そうでなくて日本軍の支配地域となっているところで、電話線を切断したり(サボタージュ)、そのあとも
日本軍の行動をひそかにアメリカ軍に通報したり(スパイ行為)した場合には、これはたぶん交戦者だと
分かるような姿の人ではなくて、民間人に紛れてるのがふつうだから、
日本軍に捕まれば罰を受けることになるだろうが、その場合も裁判を受ける権利はあるということだ。
日本軍の殺害の対象になった、反日化したとみられる、あるいは反日化のおそれのあるフィリピン人という
のは主にこのカテゴリーの人々だろう。
いや、そんなかっこいいもんじゃなく食料を盗みにいって
見つかって殺したりしてたんだよ。
小野田さんとかね
目的は口封じではないかとも言われてる。
> ルンバンの村にはゲリラはおらず、むしろ日本軍に協力的であったという。それにもかかわらず
> 住民の皆殺しを計ったのは、口封じと、この地域を作戦区域として無人化することをねらったのではないかと思われる
リパ市に戦争の傷跡を訪ねる
http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=1371763
(スクリーンショット)
https://i.imgur.com/fUX4e9F.jpeg
日本軍に接して人数とか装備を見てるんだから、米軍に捕まってべらべら喋ってもらっちゃ困るというはあるだろう。
米側の報告をみても、たとえばマニラを攻略した米第14軍団の報告では、ゲリラや民間人といった言葉が出てくるのは
情報収集に関するものが多い。他にゲリラ同士で仲たがいしたエピソードとか、バンダープール少佐のゲリラ部隊の
ことも買いてあるけども。
After action report, XIV Corps, M-1 operation
ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
いや小野田さんのルバング島じゃなくて、マニラ戦ではいちおう何回かアメリカ側に斬り込みには行ってるみたいなんだよ。
しかし向こうの民間人やゲリラに妨害されるし、(水兵だから)訓練が足らずゲリラにも劣ると電報でボヤいてる。
後方の米麦の量はマニラの量に近いと書いてあるので、総量をだいたい2分の1にすればいいだろう。
「マ海防」の兵力および配置、「マ海防」用兵器弾薬および糧食
戦史叢書054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、pp.499-503
https://i.imgur.com/4BbsorV.jpeg
一方の戦闘は2.3米軍マニラ市内侵入、2.26マ海防岩淵司令官自決だ。食べ物に困ったという話もない。