フィリピン大統領博物館・図書館が公開している、日本兵たちによって燃やされた郊外(の町)から 安全をもとめて走り(去る)マニラ市民たちとされる、2.10の写真。ただしどこに逃げるかが問題だ。 https://i.imgur.com/MRWfdhs.jpeg Citizens of Manila run for safety from suburbs burned by Japanese soldiers (Feb. 10, 1945) ttps://www.flickr.com/photos/govph/16425088005/in/album-72157650334720246
207.
名無しさん
HrCCK
また市街戦が始まったあとでも、一時停戦して民間人を避難させるというやり方もあった。
アメリカ第14軍団報告によると、米軍は2.16に、要塞化された旧市街のイントラムロスに 立てこもっている日本軍に対してすべての民間人をビクトリア門から避難させるよう呼びかけている。 しかし反応はなかったという。 https://i.imgur.com/pVJY5QW.jpeg After action report, XIV Corps, M-1 operation ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞の授賞式が16日、マニラで開かれた。
受賞したアニメ映画監督の宮崎駿氏(83)は式典を欠席。
代わりに寄せたメッセージで、太平洋戦争時にフィリピンで日本による多数の市民殺害を「日本人は忘れてはいけない」と強調。
そうした歴史がある中、フィリピンから贈られる賞を「厳粛に受け止めている」と述べた。
▽転載ここまで。記事の続きはリンク先でお読み下さい
https://news.livedoor.com/article/detail/27573560/
2024年11月16日 20時51分 共同通信
写真:16日、マニラで開かれたマグサイサイ賞の授賞式で、宮崎駿監督のメッセージを代読するスタジオジブリの依田謙一取締役(左端)
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/c/8/c8607_1675_3b6b17274734faa3fafed9db24f8e504.jpg
■ 解説
マニラ大虐殺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
前スレ
https://talk.jp/boards/newsplus/1731798539
前スレ
https://talk.jp/boards/newsplus/1731822805
https://i.imgur.com/3M2UKWL.jpeg
マ海防の管轄区域はだいたい、タラハン川(河口は現ナヴォタス市)以南および現ケソン市マタンダング・バラーラとマリキナ川以西の
現マニラ首都圏の主要部(面積で6割~7割くらいか)と、南のカヴィテ半島の軍港
(参照)
・戦史叢書060巻、p.184
・フィリピン大統領博物館・図書館、Dispositions of Manila Naval Defense Force, January 21, 1945
https://www.flickr.com/photos/govph/16142612370/in/album-72157650334720246
なおマ海防の本部はこのときは「農商務省」(現フィリピン国立自然史博物館)か
「マッキンレイ」(櫻兵営)というのは、その8kmくらい南東の現在のフォート・ボニフェイシオにあたる。
2.8に潰乱後退した西山大隊の「サンファンデルモンテ」は同約6km東北東の現在のサヌアンあたり。
いろんな価値観があるので。
いまはよくみる歴史叙述であっても、戦前は共産党とか左翼しかそういうことを言ってなかったということはよくある。
廃墟から失意にまみれて立ち上がった日本人たちが泥水を飲みながら築いてきた他国との信頼関係を
洗脳とウソで根こそぎからひっくり返して破壊しようとする勢力がいる
それが壺だ
紛争相手国が嘘八百並べて敵を悪魔化、自己正当化なんてのは人類の福利には害でしかない。
まず相対化して正しい歴史を理解させなけりゃあならない。自分にも悪いところはあった、などと言ってもあいつら自分もだな・・とか決して思わん。
万能感こじらせて世界に戦争吹っかけて回るのを助けるだけだ。
甘っちょろい事を言う日本人が多くて草
全体的には日本の赤字で品目別を見ると黒字と赤字が分かれるが黒字の分野は明らかに日本の国益に適っている
壺「日本はあなた方の国になーんも害を及ぼしたことありません」
スペイン「へ?」
壺「自国に不利なことは否定するのが国際慣例でしょ?」
スペイン(いや、我々はアメリカ大陸での惨禍やアジアでの無理な植民地政策を認めてるけど…)
壺「でしょ?でしょ?そんなの普通封印してなかったことにするよね?w」
スペイン「アメリカですらベトナムに謝ったけど…」
壺「我々日本人は知らぬ存ぜぬでーす!w」
スペイン(この国、おかしいよな…つきあわないほうがいいかも…)
これが壺の狙い
3,000億〜3,500億ユーロだ
スペインさんは莫大な賠償を現在進行形でしているんでしょうなあ
イギリスやロシアは触れられないよなあ
草
「フィリピン虐殺を事実と認める奴はパヨク!モスクワ!コミンテル〜ン!」を連投する日本の壺がフィリピンやスペインに行くと
「日本って酷い国ですね。私達もむごい目に遭いましたからわかりますよ。私達は共に被害者で、お互いの良き理解者です」
「我々の御父様は日本の軍国主義と闘い、天皇をサタンとして最大の標的にしてたんですよ。私達は仲間です!」
同じ口でしゃあしゃあと日本を貶めている
それが壺と壺にハマった連中の正体だ
大東亜共栄圏なるものです。まったくの誤った解釈によるものなので迷惑している。
しかし欧州列強に洗脳された大日帝国のもとではそういうものではなくなった。
天皇は権威ではなく、欧州列強化以来の政治をしもじもがやりたい放題行っては
その責任だけを負う者とというかたちの体制が作られた。そりゃあ暴走するよね?
ほんとそれ。江戸時代はまだ天皇の権威があったが、
そのあと天皇の言うことをまったく聞かなくなって
大戦責任だけ負わせる愚かな時代が大日帝国という
お人形国家体制。武士道に戻って日本を振り返りたい。
アメリカ合衆国軍がアジア諸国とともに解放してくれたと言っていい。
狙った獲物の預貯金や土地を根こそぎ奪いとり昼夜問わず奉仕活動にこき使う壺よりは遥かにマシだ
むしろ「自慢げに話されたので不快だった」と回顧する自叙伝代筆者の関係者がいるぐらいだ
ここにいる大嘘つきの朝鮮壺右翼とは人間性が全く違う
小野田少尉は、眼光鋭くてこれぞ大日本帝国軍人という感じだったので、昭和45年に市ヶ谷台1号館
(旧陸士、旧陸軍省)に乱入して軍人キャラ風のダブルブレストのコスプレで演説して自殺した
作家の三島由紀夫のとっちゃん坊やぶりが、ますます時代から浮いてしまう原因にもなった。
居残りみたいな感じで使ってたのかね。
壺はそもそも映画やアニメ全部禁止だろ
「七つの罪」とかで
朝鮮壺右翼は教団映画や教団アニメで文鮮明の顔を見ながら
朝鮮壺人間同士で涙流してうっとりしてればいいんだよ
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001210015_00000
マ海防についてのNHK戦争証言シリーズ。
注目点(前半)
01:58「日本陸軍は市街地での戦いは甚大な被害を招くとして山中での持久戦を主張しました。しかし一方の海軍は港を守ることにこだわり市街戦に踏み切ります」
→ 直後に映像に映る電報は、南西方面艦隊(GKF)の参謀から大川内伝七・南西方面艦隊長官にあてた1945.1.18付の「マニラ防衛要領要旨」と同じ内容。
https://i.imgur.com/G7zB9e7.jpeg
(「親展電報 昭和20年1月~昭和20年4月(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010009300、昭和20年1~昭和20年4 親展 電報(防衛省防衛研究所))
→ ただし海軍の「死守」は、一般には玉砕という意味だけでなく、頑強に防御するという意味で使われていたようだという。
(戦史叢書第054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、p.487)
しかしいずれにしても市内には小部隊を残して郊外のマッキンレーに後退する(小部隊は後退を可能にするための殿軍、あとで撤収)という陸軍の指示は実施されなかった。
07:43「このとき小林勇さんも、この国会議事堂にいました」
→ 現フィリピン国立美術館。下記はマニラ戦の時代の写真(フィリピン大統領博物館・図書館公開)
https://i.imgur.com/LniWuQX.jpeg
08:31「マニラ海軍防衛隊の司令部は、マニラ中心部にあった農務省ビルに置かれました」
→ 現国立自然史博物館。下記はマニラ戦の時代の写真(フィリピン大統領博物館・図書館公開)
https://i.imgur.com/9fWJzKY.jpeg
09:17「2月3日アメリカ軍の先陣700人がマニラ市内に入りました。マニラ市北部サント・トーマス大学です。大学にいた日本軍は2日間で制圧されました」
→ 戦闘に負けて残った日本側は221人を人質にして米側と交渉し、撤退に成功した。
(戦史叢書第060巻 捷号陸軍作戦<2> マニラ決戦、p.213)
15.49「宮沢さんや山口さんたちが目指したのは、マニラ中心部から東へ5km、当時マッキンレーと呼ばれていた地域でした」
→ どうも2.8にサンファンデルモンテの陣地を放棄して壊走した西山大隊のエピソードらしい。
約880名がボソボソ(約22km東北東の山中)へ、一部がマッキンレーに避退したという。
(戦史叢書第054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、p.505)
(地図)マ海防管轄区域1945.1.21時点
https://i.imgur.com/3M2UKWL.jpeg
農務省ビルまたは「農商務省」(現フィリピン国立自然史博物館)は海岸近く。
マッキンレー(桜兵営)というのは、その8kmくらい南東の現在の"フォート・ボニフェイシオ"にあたる。
サンファンデルモンテは同約6km東北東の現在の"サヌアン"あたり。
https://www.flickr.com/photos/govph/albums/72157650334720246/
米第1騎兵師団所属の第8および第5騎兵連隊である。どうやら東西から挟まれたようだ。
うち西側の第8騎兵連隊は自動火器や小火器、20ミリ機銃、6インチ(約15cm)艦砲による攻撃を受けたという。
地図(アメリカ第14軍団報告の地図に書き込み)
https://i.imgur.com/PB5HJjE.jpeg
p.89-90
https://i.imgur.com/PBZHc8s.jpeg
p.97
https://i.imgur.com/hevi4t6.jpeg
アメリカ第14軍団報告、After action report, XIV Corps, M-1 operation
https://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
で、第8および第5騎兵連隊が何をやってるかというと、郊外をぐるっと回って南から来る部隊と合流し、
マニラの市街地を包囲するということだ。マニラ郊外の西山大隊が陣地を放棄したことで、
市街中心部にいるマ海防の本隊が包囲されてマッキンレーに脱出できなくなるリスクが高まった。
それがこの陣地放棄の意味だった。陣地に「帰れ」と言われるのも一応理由があるだろう。
日本で
「日本軍は正義の軍隊!日本は虐殺などしていない!」
海外で
「我々は日本の軍国主義と戦っていました!我々が父と仰ぐ指導者は、天皇は敵だ!サタンだ!と人々に訴えました!」
フィリピンに出向いた朝鮮壺右翼「サタンに呪われた悪しき日本人に代わって土下座申し上げますー!!」
> 6インチ(約15cm)艦砲による攻撃を受けたという
これは北墓地陣地の海軍の120mm高角砲8門らしい(戦史叢書第054巻、p.505)
(地図)北墓地陣地の位置を表示
https://i.imgur.com/9ApDdTx.jpeg
それは思うに、敵軍に都市民の面倒を見させておいて時折山から下りてきて嫌がらせするほうが楽だから
住民疎開の計画はないという陸軍と、塀や壁といった遮蔽物に囲まれた市街のほうが安心できるし上手く戦えそうな
気がするから邪魔な民間人には消えてほしいという海軍の間で調整がうまくいかず、リスクがすべて民間人に
押しつけられたからだろう。
「マニラ市においては、「マ海防」(農商務省)の希望(市民排開)にかかわらず 橋本参謀(サンタメサ)は
本属上司の方針に基づき市民がわが軍隊の移動や軍需品搬出の妨げにならないよう市民の安居楽業を
指導していたのであって、市民約70万がまだとどまっていた。」(戦史叢書060巻、p.213)
「…岩淵司令官は住民の退去を軍政担当の陸軍側(担当 橋本参謀)に要望していたが、橋本参謀はすぐに、
それに応ずるわけにはゆかなかった。同参謀には、マニラ市の軍隊や居留民の移動 軍需品の三大拠点搬入
を円滑に行なうため、住民を安定させておかねばならぬ任務があったからである。住民が疎開を始めれば、
道路が閉塞され輸送機関の使用も制限される。」(戦史叢書054巻、p.503)
もともとマニラには陸軍の「マ防」と海軍の「マ海防」があって、「マ防」の主力が山の中に移転したので、
マニラ戦のときには海軍の「マ海防」がマニラとその郊外の全域を担当していた。しかしながら「マ海防」
の担当区域内に依然として陸軍部隊が多少残っていたし、「マ海防」そのものが陸軍の指揮に従うことに
なっていたので、「マ防」の小林(隆)兵団の橋本参謀が一定の力を持っていた。
結局、市民は自力で脱出するか
置いて行くしかないな
残置諜者と共に
占領下でゲリラ組織を構築する
くらいの準備は必要だった
米軍の裏返しになるがw
2.3の米軍マニラ市内突入のあとの、避難民の初期の発生のようすがまずは気になる。
初期でなく後々のエピソードとしては、米軍の砲撃が2.12から制限解除により本格的になって、
2.17からはさらに大口径も投入されて激しくなったようだが、2.17にはフィリピン総合病院の
民間人約5千人が、2.23にはサンアグスティン教会とデルモニコ教会の民間人約3千人が米軍に保護された。
この人たちは逃げられなかったわけだな。
いちおう初期には、2.4のマニラのようすについて報告した海軍の機密第041910番電で、
「市民の一部避退を開始せる外 概ね良好…」と言ってて、民間人が逃げようとしたことは分かる。
https://i.imgur.com/QPQ0i5A.jpeg
(「比島方面電報綴 昭和20年2月~昭和20年3月(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010013900、昭和20年2月~昭和20年3月 比島方面 電報 綴(防衛省防衛研究所))
フィリピン大統領博物館・図書館が公開している、日本兵たちによって燃やされた郊外(の町)から
安全をもとめて走り(去る)マニラ市民たちとされる、2.10の写真。ただしどこに逃げるかが問題だ。
https://i.imgur.com/MRWfdhs.jpeg
Citizens of Manila run for safety from suburbs burned by Japanese soldiers (Feb. 10, 1945)
ttps://www.flickr.com/photos/govph/16425088005/in/album-72157650334720246
アメリカ第14軍団報告によると、米軍は2.16に、要塞化された旧市街のイントラムロスに
立てこもっている日本軍に対してすべての民間人をビクトリア門から避難させるよう呼びかけている。
しかし反応はなかったという。
https://i.imgur.com/pVJY5QW.jpeg
After action report, XIV Corps, M-1 operation
ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001210015_00000
マ海防についてのNHK戦争証言シリーズ。
注目点(後半)
17.29「マニラ海軍防衛隊の岩淵三次司令官は当時指揮権限を持っていた陸軍14方面軍に市内からの撤退を上申します。しかし陸軍からの撤退命令は出ませんでした」
→ 戦史上一番込み入ってる論点だが、簡単にまとめると下記のとおり。
2.9夕刻、[岩淵]司令官は萱島[海軍]参謀を市内から招致し、戦況報告およびマニラ撤退の意見を具申するため、[陸軍]振武司令部に出頭することを命じた(戦史叢書054巻、p.508)。
2.10、萱島参謀は、戦況報告後直ちに反撃計画を示されたため、撤退に関する意見具申を言い出す機会を失ってしまった。なお横山[陸軍]振武集団長も、[陸軍]第14方面軍の武藤参謀長も、岩淵司令官のマッキンレー移動は当然の推移として受け取っていた(同、p.511)。
20:49「当時市民たちの多くは頑強なビルに避難していました。このスペインクラブにも大勢の市民が身を寄せていました。2004年に亡くなった、当時マニラ海軍防衛隊司令部付の西岡半一さんが、スペインクラブで起きたことを手記に書き残しています。」
『マニラ市の一角に、スペインクラブという500m四方くらいの土地に2階建ての建物あり…』
『ゲリラが多数入り込んで活動し始めたので、再三フィリピン人を外に出すように勧告したが、聞き入れられず…』
『司令官が、正午を期してゲリラは一兵も逃さず全滅せよと、私たち分隊に命令した。』
『当日、朝から四方の入り口に爆雷を一本ずつ装置し、正午、12時を期して一斉に点火。飛び出してくるフィリピン人を、待ち構えた兵隊たちは機関銃で射殺。正気の沙汰で出来ることではない。』
『抵抗しない者、まして婦女子が大多数…』
→ これはwikiでドイツ人クラブと言われている事件のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA#%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E4%BA%BA%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
スペインクラブ(Casino Espanol)の土地を買って、そこに1925年からドイツ人クラブが移転してきていた。
German Club, 2014.01.28
http://www.lougopal.com/manila/?p=1869
山下裁判の文書証拠No.132にも、ドイツ人クラブの場所としてTaft通り、San Luis通り、San Marcelino通りに囲まれたこの場所が示されている。
https://i.imgur.com/rU2Qgs6.png
米連邦議会図書館、山下奉文裁判、裁判記録および文書証拠、 Exhibits Volume 2 - Prosecution Exhibits、p.122(PDFページ数)
https://www.loc.gov/item/68050464/
これようするに"反日分子"の処刑に近いものがある。
武器をとって、ゲリラが一斉に蜂起して市内の公共機関を襲ったりしてたが、少なくともそういう都市ゲリラ戦ではないな。
またマニラじゃなくて地方ならゲリラ部隊との交戦というのはあって拠点を獲ったり獲られたりして、戦闘記録もあるが、
そういう〇〇の戦いみたいな具体的な戦いがない。
たとえば市街地の日本軍の戦線の後方にゲリラが拠点をつくって戦いはじめたら、戦線の向こうのアメリカ軍とに挟まれて、
日本軍が一気に後退するようなエピソードもあるはずだが、それもない。ゲリラはそういう戦果を挙げてないな。
マ海防が怖がったのはお化けかもしれない。
通信線を寸断された(サボタージュ)、アメリカ軍の狙撃部隊に加わってる、
アメリカ軍より先に日本軍の正面にあたる地区に軽機関銃を持って入ってきた、
日本軍の行動をアメリカ軍に通報したり(諜報)、夜間アメリカ側に斬り込みに行くと取り囲んで妨害する、といった感じだろう。
ゲリラじゃないっしょ、日本の軍人が惨殺したのは
戦線を越えて日本側に侵入してきたり、日本軍に捕まったりしたのは犯罪者ではなくて捕虜の資格をもった交戦者だから、
それだけで殺したりしちゃいかん。
(1)責任を有する指揮官のいる組織である
(2)徽章をつけるとか、ありゃゲリラだなと分かるような恰好をしてる
(3)武器を隠していないで、大っぴらに持ち歩いている
(4)国際的な交戦規則を遵守している
1907年のハーグ陸戦規則
https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hc4.htm
戦線を越えて日本側に侵入してきたり、日本軍に捕まったりしたのは ?
→ 戦線を越えて日本側に侵入してきたりして、日本軍に捕まったのは 〇
アメリカ軍が支配している地域のことであって、これ自体は日本軍の支配下にとどまっている住民の反日化
とは関係ない。
そうでなくて日本軍の支配地域となっているところで、電話線を切断したり(サボタージュ)、そのあとも
日本軍の行動をひそかにアメリカ軍に通報したり(スパイ行為)した場合には、これはたぶん交戦者だと
分かるような姿の人ではなくて、民間人に紛れてるのがふつうだから、
日本軍に捕まれば罰を受けることになるだろうが、その場合も裁判を受ける権利はあるということだ。
日本軍の殺害の対象になった、反日化したとみられる、あるいは反日化のおそれのあるフィリピン人という
のは主にこのカテゴリーの人々だろう。
いや、そんなかっこいいもんじゃなく食料を盗みにいって
見つかって殺したりしてたんだよ。
小野田さんとかね
目的は口封じではないかとも言われてる。
> ルンバンの村にはゲリラはおらず、むしろ日本軍に協力的であったという。それにもかかわらず
> 住民の皆殺しを計ったのは、口封じと、この地域を作戦区域として無人化することをねらったのではないかと思われる
リパ市に戦争の傷跡を訪ねる
http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=1371763
(スクリーンショット)
https://i.imgur.com/fUX4e9F.jpeg
日本軍に接して人数とか装備を見てるんだから、米軍に捕まってべらべら喋ってもらっちゃ困るというはあるだろう。
米側の報告をみても、たとえばマニラを攻略した米第14軍団の報告では、ゲリラや民間人といった言葉が出てくるのは
情報収集に関するものが多い。他にゲリラ同士で仲たがいしたエピソードとか、バンダープール少佐のゲリラ部隊の
ことも買いてあるけども。
After action report, XIV Corps, M-1 operation
ttps://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4680/rec/1
いや小野田さんのルバング島じゃなくて、マニラ戦ではいちおう何回かアメリカ側に斬り込みには行ってるみたいなんだよ。
しかし向こうの民間人やゲリラに妨害されるし、(水兵だから)訓練が足らずゲリラにも劣ると電報でボヤいてる。
後方の米麦の量はマニラの量に近いと書いてあるので、総量をだいたい2分の1にすればいいだろう。
「マ海防」の兵力および配置、「マ海防」用兵器弾薬および糧食
戦史叢書054巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、pp.499-503
https://i.imgur.com/4BbsorV.jpeg
一方の戦闘は2.3米軍マニラ市内侵入、2.26マ海防岩淵司令官自決だ。食べ物に困ったという話もない。