① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です ③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事 ④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。 ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。 1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。 2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。 iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。 iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。 v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。 vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。 vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。 viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。 ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。 x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。 xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。 xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。
これは普通「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下すのですが、なんと、これに異論をとなえる人が現れました。
↓
>714:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:11:09.30 ID:8CZMz
>五蘊は空じる対象であって、五蘊自体が空な訳ないでしょう。
>720:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:27:47.44 ID:8CZMz
>五蘊を全て空じるから五蘊皆空って言うんですけど^^
これに対して私は反証します。
↓
726:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 07:56:37.70 ID:a73cR
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
812:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 12:10:55.05 ID:NWMbh
話すのもいちいち馬鹿馬鹿しい事だけど「照見」五蘊皆空だから。
つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われている。
対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)ってなるから。
中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのですよ。
さて、みなさん!
般若心経の「照見五蘊皆空」の正しい解釈はどちらでしょう?
みなさんの忌憚のないご意見をお待ちしております。
(なお、誹謗中傷はその場で退場して頂きます)
宜しかったらご覧ください。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
お断りします。
👽👽👽👽👽👽👽👽👽👽👽👽
反論をどうぞ!
👽👽
宜しかったらご覧ください。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
お断りします。
では反論をどうぞ!
これに対する鹿野園さんのご意見をお聞かせ下さい。
議論になりませんが、、、、。
😄
ここに書いてください。
コピペでも構いませんので。
こちらのサイトに目を通して頂きたい。
空の思想史
https://1000ya.isis.ne.jp/0846.html
https://ameblo.jp/gen-maru/entry-11447982411.html
↑こちらでも「空じる」行為として紹介されております。
https://talk.jp/boards/psy/1691203417
↑ここでリダンさんが空について述べておられますが、リダンさんはどうやら「空」というこのを鹿野園さんよりも正しく捉えておられると思われます。
何故なら彼は、
「五蘊を空じる必要がある」
と表現されておられるからである。
鹿野園氏や麦氏の理解は五蘊そのものが、もともと「空」としてあるものと勘違いしておられ、このような考えは空を「但空」でしか理解出来なかった小乗仏教や禅宗に強く見られる傾向である。
その「但空」について、今から詳しくお話してまいります。
わたしが鹿野園氏に、
「五蘊を空じている人がどうして画面の文字が読み取れるんですか?」
と尋ねましたら、
「答える義務はないけど、気の毒だから云うけど、認識してるからだろうがw」
と言われまして、
「認識という作用が五蘊の働きなのですが、、、。」と突っ込みますと、
今度は、
「そもそも五蘊は空なんだから、実体なんて生じもしなければ滅しもしないだろ」
とこれまたおかしな事を言ってこられます。
そもそも「五蘊は空なんだから」とは、一体彼は五蘊をなんだと思っておられるのやら、、、、。
五蘊は人間が外の情報を五感で感知し、それを意識が経験値として脳に記憶し「概念」として構築していく働きを言います。その五蘊がもとから「空っぽ」だと鹿野園氏は言う。
それは人間には「概念」は存在しないと言っているのと同じ事である。
人間はさまざまなモノを概念化する事で、様々なモノを「実体」として認識します。
目の前のテーブル、コップ、パソコンといったモノを我々は概念によってテーブル、コップ、パソコンとして認識している訳です。
五蘊を「空じる」という事は、まず目を閉じてみて下さい。テーブル、コップ、パソコンは消えましたよね。これは眼識の働きを停止させたからモノの「色相」、即ち姿かたちが消滅した訳です。これを眼識を空じるといいます。同じように鼻識や舌識、耳識、身識を空じていくと人間の意識の働きは止滅していきます。これが色界禅定と言いまして、禅天に意識として入って行く瞑想法です。この禅定という瞑想を行う事で人間の五蘊の働きを完全に停止させる事が出来ます。
この瞑想をしない限り通常、人間はこの五蘊が働いてその働きによってモノを「実体」として認識します。
「モニターは様々な構成要素が因縁仮和合してるのだし、それを認識する者も等しく因縁仮和合しているのだから、実体はないだろうがw」
構成要素が因縁仮和合してモニターがそこに存在しているのです。
それを人間が五蘊の働きで認識し、概念でもってモニターとして認識されます。
未だモニターという概念の無い一歳児が見てもそこにはモニターは存在しません。
それ自体は有るんですが、モニターとして認識されないということです。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
(観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時)
って言ってますよね。これって観音さまのお話なんです。観音さまって肉体って備わっていると思いますか?
解脱してますので肉体はありません。なので五蘊も当然のように働きません。
ですから
「照見五蘊皆空 度一切苦厄」
五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。
ここでの「空」は、形容詞と動詞の二つの意味を含んでいます。しかしここで大事な事はそんな事ではないんです。「観音さまの場合は」ということで、我々凡夫は肉体を備えておりますので五蘊は普通に働きます。
それを人間は本来五蘊は空っぽなんですなんて読んでしまうのって、なんて仏教的センスがないんだろうとあきれ果ててしまいます。そんな人が「私は仏教の研究機関にいた」なんて言っても誰が信用しますかって話です。
(舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、)
「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」
(生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。)
ここでも最初に「是諸法空相」(この諸法の空相(空の世界観)は、)とはっきりと言われております。
そして次の文句も多くの方が勘違いされている箇所です。「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。」これをもって生じることも滅することもないんだから空を「無」なんだと勘違いしている人が一杯おられます。しかし、ここで言う「生じることも滅することもない」の意味は、そんな事ではないんです。
> >「空」という言葉は、「空っぽ」という形容詞と「空にする」という動詞としての二種類の使われ方がされている事は、仏教の経典に詳しい方ならあたりまえ過ぎる常識である。
ですから、般若心経での「照見五蘊皆空」の空はそのどちらですか?
形容詞として使われてますか?
動詞として使われてますか?
ちゃんと書いておりますが、、、、。
「空」という言葉は、「空っぽ」という形容詞と「空にする」という動詞としての二種類の使われ方がされている事は、仏教の経典に詳しい方ならあたりまえ過ぎる常識である。
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
「照見」五蘊皆空なんですよ。
つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われているのです。
対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)ってなるのです。
これは中国語や漢文を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのですよ。
それは誰のご意見でしょうか?
ですから、般若心経の「照見五蘊皆空」のそれはどちらですか?
動詞でありかつ形容詞であるというのは排中律に反してますよ。
はい、お答え下さい。
併せて「照見五蘊皆空」を和訳して下さると幸甚です。
はい、どうぞ、法介さん!
わたしは仏教の教理的解釈としての意見を述べております。
私の主張ですが?
すでに和訳しております、、、、、。
あなたのご意見は単なる文法上の説明ではないですか。
わたしは仏教の教理的解釈としての意見を述べております。
という言葉をご存知ない?
>31:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 22:21:12.60 ID:8CZMz
>>併せて「照見五蘊皆空」を和訳して下さると幸甚です。
>
>すでに和訳しております、、、、、。
お手数ですが、その 部分 を明示して下さいますか?
スレ違い。
却下。
五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。
はぁ?
形容詞でかつ動詞というのは排中律に反してるから論理破綻ですが?
般若心経の「照見五蘊皆空」の空は形容詞ですよね?
違うというのですか?
どうなんですか、法介さん!
理由をご説明ください。
その回答が↓です。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
>五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、
ですから、それは排中律に反するので論理破綻ですよ?
そもそも「五蘊を空じる」なんて何処にあるのですか?
「五蘊を空じる」のなら漢文で「空五蘊」とあるはずですが、そんな文字は何処にもないじゃありませんか?
どうなんですか、法介さん!
スレタイとテンプレで決めたルールだから。
↓
般若心経に曰く 「照見五蘊皆空」 と。
これは普通「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下すのですが、なんと、これに異論をとなえる人が現れました。
↓
>714:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:11:09.30 ID:8CZMz
>五蘊は空じる対象であって、五蘊自体が空な訳ないでしょう。
>720:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:27:47.44 ID:8CZMz
>五蘊を全て空じるから五蘊皆空って言うんですけど^^
これに対して私は反証します。
↓
726:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 07:56:37.70 ID:a73cR
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
812:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 12:10:55.05 ID:NWMbh
話すのもいちいち馬鹿馬鹿しい事だけど「照見」五蘊皆空だから。
つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われている。
対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)ってなるから。
中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのですよ。
さて、みなさん!
般若心経の「照見五蘊皆空」の正しい解釈はどちらでしょう?
みなさんの忌憚のないご意見をお待ちしております。
(なお、誹謗中傷はその場で退場して頂きます)
しょーもない
お話に付き合わされるのですか?
これにて失礼させて頂きます。
付き合いきれません。
>51:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 22:31:29.48 ID:8CZMz
>わたしは仏教の話をしておりますが。
私はスレタイの通り、般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について論じてます。
はい、どうなんですか?
形容詞ですよね?
↓
>>36
>五蘊を皆〝空(空っぽ)〟とみなす。(五蘊を空じる)ことで、
ですから、それは排中律に反するので論理破綻ですよ?
そもそも「五蘊を空じる」なんて何処にあるのですか?
「五蘊を空じる」のなら漢文で「空五蘊」とあるはずですが、そんな文字は何処にもないじゃありませんか?
どうなんですか、法介さん!
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
これの何処がおかしいのやら???
それの何処に五蘊を空じるとあるのやら???
どうなんですか、法介さん!
議論放棄ですか、法介さん?
つまり、般若心経での「照見五蘊皆空」の空は、形容詞だと認めたのですね?
(当たり前過ぎるけど)
どうなの?
はい、法介さんが議論放棄しました。
般若心経の「照見五蘊皆空」の「空」は形容詞として
使われているという結論です。
まぁ、当たり前過ぎる事ですが😊
このスレは終了致します。
**************************
> それの何処に五蘊を空じるとあるのやら???
書いてあるだろ
↓
> 原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
「五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた」=「五蘊を空じる」
この2つは、言ってることが同じだよ
いったい、何の話をしてるつもりなのか?😅
魔術師サイババじゃあるまいし、物質を空中から出したり消したりするわけではない
これは、隠された真実だ
普通に見たら、人間も存在しているし、この世界の事物も存在している
だが、それらが仮の姿であり、実は空なんだってこと
それは、観自在力を身につけた者が見抜くこと
静学的な定常の状態ではない
動学的なんだよ
>「五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた」=「五蘊を空じる」
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あなたの脳裏では、例えば「コップには水が空だと見極めた」=「水を空じる」となるのですか?
精神病院に行きなさい🏥 🚑💨💨💨 😂
>「五薀を空じる」とは、「五薀は空だと見抜く」ってことだよ
www www www www www
あなたの脳内では、「水を空っぽにする」とは「水が空だと見抜く」事なんですね?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
> あなたの脳裏では、例えば「コップには水が空だと見極めた」=「水を空じる」となるのですか?
いや、「水を空じる」というのは、「コップの水を飲み干してカラッポにする」ということだな
精神病院に行きなさい🏥 🚑💨💨💨 😂
>いや、「水を空じる」というのは、「コップの水を飲み干してカラッポにする」ということだな
wwwwwwwwwwwwwwwwww
そもそもコップには水が入ってないんですけど?
お前より遥かに健康でマトモだよ
大丈夫か?😅
>
> そもそもコップには水が入ってないんですけど?
「空じる」というのは、「水が入ってるのをカラッポにする」ということ
>「空じる」というのは、「水が入ってるのをカラッポにする」ということ
だから、そもそもコップには水が入ってない(五蘊皆空)のに、どうやって空っぽするんですか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
> 原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
↑
だから、この話をしてるんだろうがよ
この場合、「五薀あり」というのが、「コップに水が入っている」
「自性空であると見抜く」というのが、「コップの中をカラッポにする」というのに相当する
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
つまり、第一段階では我が五蘊から構成されてると知見し、更にその五蘊も空だって見極めたって言う事ですけどね。
https://i.imgur.com/koHmVms.png
(宮坂 宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
>この場合、「五薀あり」というのが、「コップに水が入っている」
だから、それが第二段階の知見で否定されてるでしょw
あなたの脳裏では否定する事が空じる事なんですか?
www
いやいや、錯綜ではない
「五薀を空じる」ってのは、「五薀を空と見極める」ということ
それ意外の意味はない
たまには思い込みを捨てて、少しは調べてみたらどうか?
> あなたの脳裏では否定する事が空じる事なんですか?
> www
その通りだよ
「五薀あり」を否定することが、「五薀を空じる」ということだ
何回、言ったらわかるのか?😅
「空なり」でいいんです。
「空じる」なんて何処にも書いて無いのですから。
いや、「五薀は皆空と照見する」も、「五薀を空じる」も、意味はほぼ同じ
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
上記の「空」は品詞として何になりますか?
動詞になるとでも?
動詞は「照見」で「空」は形容詞じゃないんですか?
>83:◆JBLfMwCXhY:[sage]:2023/08/08(火) 23:37:41.70 ID:NzjEC
>>>82
>
>いや、「五薀は皆空と照見する」も、「五薀を空じる」も、意味はほぼ同じ
「空と照見す」ると「空じる」は別でしょw
空と見ると空にするが別途である様にね。
五蘊を空じる瞑想法ではないんです。
掲諦、掲諦……とマントラをとなえた結果、我が五蘊と見抜き更にそれが空であると見極め、一切の苦厄を度したって事なんです。
すなわち「行深般若波羅蜜多」とはマントラをとなえる事なのです。
先に云う「空」は手段ではなく結果って事です。
マントラをとなえる事によって、言語によって構築された虚妄が看破されるって事なんです。
例えば「りんごは赤いと見極めた」を「りんごを赤にする」とは云いませんからね。
まぁ、確かに「空」には形容詞や動詞としての使い方があるのですが、この場合は動詞としてではなく形容詞として使われてるのです。
というか、五蘊は空でしょw
空じるから空になるのではないでしょw
www
般若心経の「照見五蘊皆空」の「空」は形容詞として
使われているという結論です。
サイド確認されました。
まぁ、当たり前過ぎる事ですが😊
このスレは終了致します。
************************
************************
般若心経の「照見五蘊皆空」の「空」は形容詞として
使われているという結論が、再度確認されました。
まぁ、当たり前過ぎる事ですが😊
このスレは終了致します。
************************
>
> 我が五蘊と見抜き更にそれが空であると見極め
>
そう、それが「五薀を空じる」という意味
>
> 例えば「りんごは赤いと見極めた」を「りんごを赤にする」とは云いませんからね。
>
「見極める」も、一種の行為
現存する最古の仏典と考えられている『スッタニパータ』です。この仏典は、「歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近いものであり、文献としてはこれ以上遡ることができない」(中村元『ブッダのことば』岩波書店 438頁)とされます。いわゆる原始仏典を代表する、とても有名な仏典です。
その『スッタニパータ』の「第5 彼岸ひがんに至る道の章」におさめられている第1119偈げ(詩句)に、こう説かれています。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。(『ブッダのことば』岩波書店、236頁)
「世界を空なりと観ぜよ」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。文脈から考えると、「自我に固執する見解をうち破」ることと、深い関係があるようです。そして、「世界が空なり」と見抜くことができれば、その人は「死を乗り超えることができる」と説かれています。
世の中は泡沫うたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(中村元『真理のことば・感興のことば』岩波書店、34頁)
『ダンマパダ』は、『スッタニパータ』に比べると、「かなり古いものであろうが、歴史的人物としての釈尊の時からはかなり隔たっていたのであろう」(同上、377頁)時期に成立したとみなされています。ですから、『スッタニパータ』よりは教義の整備が進んでいたと思われます。
つまり、そんなに難しい話ではありません。空という言葉に、深い哲学的な意味が込められているわけではないようです。
この点は、訳者の中村元氏も、「そこには後代のような煩瑣な教理は少しも述べられていない。ブッダ(釈尊)はこのような単純ですなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである」と指摘しています。
『スッタニパータ』にはこれ以外に、空という言葉は見当たりません。たとえ一箇所でもあれば、ブッダが空を説いたことになるのかもしれませんが、一箇所しかないということは、ブッダにとって、空という概念はさして重要ではなかったとも言えます。
ただし、中村元氏は、自我に対する執着を離れること=空を観じることという認識が、やがて大乗仏教の空観に至る道の端緒となった、とも指摘しています。その意味では、とても重要な文言と言えます。
つまり、そんなに難しい話ではありません。空という言葉に、深い哲学的な意味が込められているわけではないようです。
この点は、訳者の中村元氏も、「そこには後代のような煩瑣な教理は少しも述べられていない。ブッダ(釈尊)はこのような単純ですなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである」と指摘しています。
『スッタニパータ』にはこれ以外に、空という言葉は見当たりません。たとえ一箇所でもあれば、ブッダが空を説いたことになるのかもしれませんが、一箇所しかないということは、ブッダにとって、空という概念はさして重要ではなかったとも言えます。
ただし、中村元氏は、自我に対する執着を離れること=空を観じることという認識が、やがて大乗仏教の空観に至る道の端緒となった、とも指摘しています。その意味では、とても重要な文言と言えます。
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
上記の「空」は品詞として何になりますか?
動詞になるとでも?
動詞は「照見」で「空」は形容詞じゃないんですか?
まだ粘るのですかwww
「空と観ぜられた事」と「空じる事」は別でしょ?
とどのつまり、般若心経での「照見五蘊皆空」の「空」は形容詞なのに、法介さんとJBLさんは動詞とし間違って読み下していたって事です。
以上
****************
エロエロな説があって、楽しかったかい?
次のお題は、↓これとか、いかがでしょうか。
観自在菩薩 ? 観音菩薩と観自在菩薩の違いとは?
https://neo-buddhism.com/hannya-sutra-3/#index_id1
結局、法介さんは宗教板から去りました。
JBLはまだいる様ですが。
存在自体空なら、そもそも存在を分類分けする必要がない
なのに五蘊という分類を今も使ってる大乗のやり方に違和感は湧く
でも、要はこういうことですよ。
便宜上、分類分けは便利なんですよ
人間は性質上それらしさによって存在を分類しますから
そして言葉とは経験的に得られたそれらしさの延長線上にあるものです。
でも、厳密にはそういう分類分けはナンセンスだよね?ってことです。
たとえば、犬という分類がありますが
犬を犬とそれら以外から分類することは有意義でしょう。
猫と犬はちがうものです。犬は犬でしょう。それ以上のものではありません。
しかし、犬という分類を精細に分類していくと違和感が起こります。
犬とは何かを定義すると、四本足の牙をもつ人間のペットとなる動物と一応区切られます。
しかし、猫もそう言えます。犬とは何か?は経験的に我々は認識していますが
それは何か?言葉で説明することは難しいです。
たとえば、こういう遺伝子をもつものが犬であると定義したとして、
遺伝的に足が一本ない犬は犬と言えるのか?という問題が出てきます。
我々が直感的に犬だと思っていてもです。
また、直感的にそれだと思っていても、厳密にはそうではないこともあります。
たとえば、ウツボと蛇は似ていますが、魚類と爬虫類で距離が遠い生き物です。
また、首長竜や恐竜は似ていますが、距離が遠い生き物です。
逆に、鳥と恐竜は見た目はちがいますが、距離が近い生き物です。
このように、何かのイデアがあって、そのイデアをもつものがその種類であるという
言語的なアプローチも科学的なアプローチも直感的なアプローチも困難であるのです。
分類分けの厳密な立証は難しいのです。
しかし、我々は普段それがあたかも正しいという前提で使うでしょう。
便利だからです。
法則は再現可能であるから、あたかも真理です。
したがって、ひるがえってその区分自体真理であるかのように扱われます。
電子や陽子の存在を疑う人はいないでしょう。
しかし、法則は厳密に正確かと言われればそうではありません。
誤差というものがあります。それは測定できなかった
あるいは分類上カウントされなかった遊びの部分が
カオスとなり、目に見える形で我々の前に現れたときに起こるものです。
また電子や陽子は永久不変の存在として有るわけではありません。
電子は雲上に存在していて変化しつづけているものです。
陽子はさらに細かな素粒子の集合体です。
↓
芳助さんの言い分は理解できます。存在が空であれば、存在を分類する必要はないはずです。大乗の方法で使われている五蘊という分類に疑問を持つのは理解できますが、結局は分類は便宜的であり、人間は類似性に基づいて物事を分類する傾向があります。言葉も経験的な類似性の延長線上に存在しますが、厳密にはその分類がナンセンスであることも認識されています。例えば、犬という分類も精細に分類すると疑問が生じますが、我々は便宜的な分類を使って日常的に物事を捉えることが多いです。
↓
科学は世界を分けて法則を見つけ出すが、法則が再現可能なため真理のように扱われ、その分類も真理として考えられる。電子や陽子の存在は疑問視されないが、法則は完全に正確とは限らず、誤差が生じることもある。電子や陽子も永久不変ではなく、変化する存在である。
五蘊皆空というのがそれなのですが😧
おおざっぱな区分の範囲では五蘊が有効であるのと同じように
五蘊の区分の効果はある程度認めるべきなんですよね。
そこが大乗が空理空論に陥っている失であり、改めるところでもあります。
たとえば、ある大乗の修行者は上座部の阿羅漢に布施しても空であるから
功徳が帰ってくることはないと主張したそうですが、
そうした空の使い方は科学的な分類が厳密には無意味だから
その法則の再現性もないと言っているに等しいんですよね
↓
厳密な意味では空であるということだけど、おおざっぱな区分では五蘊が有効で、大乗はこの区分の効果を認めるべき。大乗が空理空論に陥っているのは問題であり、改める必要がある。例えば、大乗の修行者が上座部の阿羅漢に布施しても効果がないと主張したが、これは科学的な分類が厳密でないため、法則の再現性もないと言える。
空即是色は?
↓
存在が空なら分類は不要。五蘊という分類に違和感。分類は便利だが厳密には難しい。科学も分類して法則を見つけるが、法則は誤差があり永遠の真理ではない。大乗の空の理念も厳密な分類に疑問。五蘊の効果は大乗が問題を抱えている一因。ある大乗修行者は阿羅漢に布施しても功徳は帰ってこないと主張。しかし、この空の使い方は科学的分類には無意味で法則の再現性もないと指摘されている。
受想行識亦復如是なんですよね
つまり受即是空、空即是受、想即是空、空即是想・・・
とつづいていくわけです。
つまり、色≠受≠想≠行≠識であるのに、色=空、受=空、想=空、行=空、識=空
と言っているわけで、
よくわからないんですよね
色即是空でとまっていれば、色は自性なしってことでわかりますが
自性なしってことは色であるってのは意味が通らない。
仮に自性がないことは色だとして、あとの受想行識も同じというとさらに分らない。
これでは論理性がないと言われても仕方ありません。
日本人≠アメリカ人≠フランス人≠中国人だけど、日本人=人間、アメリカ人=人間、フランス人=人間、中国人=人間っていうのと同じなんじゃないんですかw
太郎≠花子≠次郎だけど、太郎=貧乏、花子=貧乏、次郎=貧乏とかね😌
日本人しか人間ではないということなんだけどな
色即是空は色⇒空であり、空即是色は空⇒色であり
ゆえに色=空という論理になる。
つまり、色⊂空であり、空⊂色というわけ
空は色であり、空は受であり・・・空は識であるということは
人間は日本人であり、人間はアメリカ人であり、人間はフランス人であるということ。
人間というのは、ちがう集合の同じ要素と言っているということ。
これを正しいとするならば、要するに日本人=アメリカ人=フランス人という解しかない。
しかし、日本人≠アメリカ人≠フランス人が前提であり、矛盾する。
要するに論理的ではないんだよ
それ、スマナサーラ長老が指摘して石飛先生が論破したのは、かれこれ10年位前の話だし、何度も宗教板ではやり取りされて終わった話。
分析知の埒外にあるといわば降参したと言えるのですが
その件については『空の発見』の「第8章 般若心経は間違いでない?」にされてますから、一読されたらどうですか?
空即是色の意味は空⊂色ではないという言い分を仮に受け入れて
空だからこそ色があるという意味に補完したのだとしてもおかしい
ある存在がそれより細かな集合に分解できるから
存在はいろいろな形をとりうる、ということなのだとしても
原子という安定的な存在は仮定できるからだ
つまり、世界が空ではなくとも現象は十分想定できる、ということだ。
だから、空だから色がある、というのはいわば
色即是空が、神は存在するであり
空即是色は、神がいるから人間はすばらしい生を享受する、というに等しい。
つまり、信仰告白であって、論理の演繹にはなっていない。
色即是空にかぎって言えば一応科学的な説明が可能だが
空即是色は分析的な説明が難しいということ。
そうじゃない世界も十分想定できる
>原子という安定的な存在は仮定できるからだ
www
原子はそのままでは安定してないでしょw
その構成要素、素粒子、クオーク等は生成消滅や相互作用をしてるのだからw
違いますよwww
それはスマナサーラ長老や貴方の単なる誤読です。
サンスクリット訳見れば、「空即是色」が何らおかしくない事は一目瞭然です。
https://i.imgur.com/w6YJxVj.png
まぁ、先に紹介したい本を一瞥すれば、そうした誤読に起因する低次元の誤解も解けますから。
これがあらゆる物質の基底にある。いわば世界は空ではないとも言える根拠だと言える。
日常生活をしている分には、ほぼそれ以上分解できないわけだからね。
サンスクリット原典があろうと、論理的ではないのは確かだよ
7年ごとに死に生まれ変わる。
十念す。
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
なーむ あみたー ぶっだー
色即是空は空即是色へと還(かえ)る。
問う。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
>原子単体で安定ではないが、原子が物質の安定的な基本要素であることはたしか。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
不安定なもの(素粒子、クオーク)の上に成立しているのもの(原子)が安定してしているとは言えないだろ😧
答える。
大人しく死んでなさい。
↓
科学雑誌Newton (ニュートン) 《原子にも"寿命”がある!?》
Newton
寿命があるのは何も生物だけではありません。 素粒子物理学によると, 何と原子にも寿命があるといいます。
原子は,中心にプラスの電気を帯びた原子核が あり、その周囲にマイナスの電気を帯びた電子 が分布しています。 原子核は,プラスの電気を 帯びた「陽子」 という粒子と, 電気を帯びてい ない 「中性子」という粒子が, 複数集まってで きています。
陽子には,寿命があり、長い年月の間に壊れて しまうだろうと, 理論的に予言されています 。このような現象を「陽子崩壊」と 呼びます。
陽子の寿命はこれまでの実験から 「10の34乗年以上」 だと分かっています。 10 の34乗年とは 「1兆年の1兆倍の100億倍」で す。 陽子がすべて崩壊してしまうと、原子も存 在できなくなってしまいます。
これがもし本当なら, 10 の34乗年を大きくこ えるような未来の宇宙には, 原子がほとんど存 在できませんから、 生命は存在できず,地球や 太陽のような天体も存在できないことになって しまいます。 何とも寂しいですね......。
発売中のNewton5月号では、この陽子崩壊現象 を検出することを大きな目的の一つとした巨大 素粒子実験装置 「ハイパーカミオカンデ」の計 画を徹底紹介した. 「ハイパーカミオカンデ 「実現に前進」と題する記事を掲載しています。
科学雑誌Newton(ニュートン) - 《原子にも“寿命”がある
しかも、「陽子にも寿命がある」というのは理論的に予言されているだけであり、実験で確認されたわけではない
スーパーカミオカンデが30年以上も実験しているが、30年なんかじゃ短すぎる
原子核の種類等によって、エネルギー状態があるため、放出される放射線の種類は同じでも、その放出される放射線の持つエネルギーは様々です。
原子核の壊変の規則性のひとつに、半減期があります。
ある不安定な原子核が壊変して別の原子核になるとき、その個数が半分になるまでの時間をいいます。
この時間は、原子核の種類によって様々で、短いものでは100万分の1秒程度から長いものでは100億年以上のものまであります。
なお、半減期が30年のものは、30年で半分になるのですが、さらに30年(合計60年)ですべてなくなってしまうかというと、そうではありません。
最初の30年で半分、次の30年で残りの半分(つまり4分の1)、次の30年でさらに残りの半分(8分の1)というようになっていきます。
半減期の10倍の時間が経過すると、約1000分の1になります。
原子核は、陽子と中性子の組み合わせでできている
ウランのような重い元素は、時間がたてば放射線を出しながら崩壊する
でも、安定した元素が崩壊するのには100億年かかる
人間の時間感覚からすれば、ほぼ「永遠」と言ってよい存在だ
古代インドの説一切有部によれば、
物質は原子から成り立っている
もちろん、21世紀の素粒子論はもちろん、19世紀のドルトン原子説やアボガドロ分子説もない時代だから限界はあるのだが
説一切有部の哲学者、ていうか、瞑想哲人たちによると
「物質は時間が経てば壊れる。でも、原子は永遠だ」
ということになる
現代の科学が進歩するにつれて、
古代インドの瞑想哲人が「観えた」と
主張する「世界の真実」に、だんだん
近づいていく
ごくみ 微塵みじん 仏教的原子論
■原子を意味する極微ごくみ。
■これ以上分割できない最小の実体。
できない最小の実体。
■極微は極微塵ごくみじんの略。
■極微はサンスクリット語のパラマーヌの訳。
極微、仏教では「ごくみ」と読みます。原子レベルの大きさを指します。隣虚りんこと訳された時代もあります。
すべての物は、この極微の組み合わせで出来ている、と考えられました。原子論の原型とも言える様な考え方です。
ひとつの極微に上下と四方=合計7個の極微が集結したものを微塵みじんと言います。木っ端微塵こっぱみじんの微塵です。微塵が物質の最小単位です。
極微 の7倍が 微塵 or 微みor 阿耨塵あのくじん
微塵 の7倍が 金塵 or 銅塵 or 鉄塵
金塵 の7倍が 水塵
水塵 の7倍が 兎毛塵ともうじん
兎毛塵 の7倍が 羊毛塵ようもうじん
羊毛塵 の7倍が 牛毛塵ごもうじん
牛毛塵 の7倍が 隙遊塵げきゆうじんor 向遊塵こうゆうじんor 日光塵
隙遊塵 の7倍が 蟻き
蟻 の7倍が 蝨しつ
蝨 の7倍が 麭麥こうばく
麭麥 の7倍が 指節しせつ
指節 の3倍が 指
極微から麭麥までが立体的な大きさで、最後の二つは少し異なります。
金塵は、金属の分子の間を動くことが出来る程度の大きさ。
水塵は、水の分子の間を動くことが出来る程度の大きさ。
毛塵は、毛の端の塵程度の大きさ。
日光塵は、日光の中に浮遊する微細な塵のことです。
極微は、見ることも触ることも出来ないモノ、とされています。微塵から水塵は、普通の人には見えない世界で、天眼と輪王眼と菩薩の眼に見える、とされています。
天眼は超人的な視力で、物を透過して見る事も出来るような能力です。輪王と菩薩は仏様の眼=悟りの眼と言うことです。
兎毛塵や日光塵あたりから、肉眼でもなんとか確認できる程度の大きさとなります。
また、微塵を小微塵、中微塵、大微塵に区分する分け方もあります。大微塵が普通の人が見ることのできる大きさで、遊塵とも言います。
逆に物を微塵に分解すると、その数は非常に多くなるので、極めて数の多いことを微塵数みじんじゅと言います。
見ることも触ることもできない原子の世界。極微は実在するのか?実在するとすればどの様な形で?
原子のまま多数であると考えるグループ=説一切有部せついっさいうぶ
集結した原子と考えるグループ=経量部きょうりょうぶ
両者とも否定するグループ=唯識派ゆいしきはなどがあります。
経量部:説転部とも言い、説一切有部から分かれたグループ。
唯識派:瑜伽行派ゆがぎょうはとも呼ばれ、当初は瑜伽行中心で、後に唯識説の理論に重点を置
なんていったら、神秘的だが
実際には、古代ギリシャの
デモクリトス原子論に影響を受けた
つまり、不安定。
説一切有部の理論では、構成要素である「極微」が
集まって、あらゆるモノを構成している
寄せ集めだから、刹那ごとに生滅を繰り返している
刹那生滅のは寄せ集めの方であって、
構成要素である「極微」の方は
恒常的に実有であるとした
「三世実有 法体恒有」
それが、かの有名な説一切有部のスローガン
原子が集まって、刹那生滅する
不安定な万象万物ができている
それが、仏教哲学の世界観のベースとなる基本構造
方向に大きく傾斜したといえる
これに胃を唱えたのが、中観派
「無い」という方向に大きく舵をきり、
「空の思想」を提唱した
とはいっても、「原子は不安定」と
考えたわけではない
「寄せ集めは仮の姿」という考えを
より一層、推し進めたのが中観派
常なら安定だが無常ならそうとはいえない。
出直してきなさいwww
たとえば、つぎの文章を見よ。
「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」(13.3a)
(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) より)
「刹那」というのは、時間の極小の単位をさし、瞬間を意味するが、『倶舎八』では、これを、「体を得る無間(無限小の間隔)に滅するなり」(13.2b)と定義し、こうした刹那を有するダルマを「有刹那」と呼び、有刹那の有為法を「刹那滅」としてとらえる。
たとえば、つぎの文章を見よ。
「法(有為法)は自然に(おのずから)滅す。是れ、壊する性なるが故なり。自然に滅するが故に、わずかに生じて即ち滅す。わずかに生じて即ち滅するによりて、刹那滅の義成ず」(13.3a)
(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) より)
www
そこが、お前のセンスないとこだ
説一切有部は、釈迦の入滅後の初期に
100年くらい仏教思想界を牛耳ってた、
いわば仏教哲学全般のベースとなる学派
その説一切有部が
「極微(素粒子)は永遠にして三世恒有」
という説を唱え、「モノは極微が集まって
構成された仮の姿」であるとした
刹那生滅しているのは、寄せ集めの仕切り直し
みたいなもの。極微は三世恒有とされた
後の中観派や唯識派は、「極微も永遠ではない」
としたが、別に極微が不安定だと考えたわけではない
「永遠ではない」ってだけ
「永遠不変なものなど何もない。
だから、極微でさえ恒有ではない」
と唱えたのであって、
別に「極微(素粒子)は不安定な存在だ」
と思っわけではない
説一切有部の「刹那滅」の思想をさらに推し進め、
極微にも適用することにしただけだ
寄せ集めで成り立っている、この世の事物と
比べたら、ずっと安定した存在であることに
変わりはない
仏教的な考え方ではない
奇しくも現代の科学と符合している
↓
陽子の寿命はこれまでの実験から 「10の34乗年以上」 だと分かっています。 10 の34乗年とは 「1兆年の1兆倍の100億倍」で す。 陽子がすべて崩壊してしまうと、原子も存在できなくなってしまいます。
有部も極微な刹那生滅してるって説いてるよ。
残念でした。
出直して来なさい😧
wwwwwwwwwwwwwwwwww
有部も極微は刹那生滅してるって説いてるよ。
残念でした。
出直して来なさい👋
偉そうなわりに、しょうがねえ奴っちゃなあ
もともと説一切有部の無常思想
「諸行無常」という仏教の理念を
説明するため、説一切有部は
「刹那生滅」を唱えた
この現象世界における、あらゆる事物は
「極微」(ごくみ)と呼ばれる微小な
構成要素からできている
現代でいえば、「素粒子」だ
「極微」は想像を絶するほど、途方もなく小さい。
まさに現代でいう「素粒子」に似ている
(ただし、素粒子は物質存在に限定される。
極微は物質に限定されない)
仏教では諸行無常って説いてるのです。
極微(原子でも素粒子でもクオークでも)も例外ではなく、刹那生滅をしているって説かれており、刹那生滅は全ての仏教の学派(勿論有部も)で主張されております。
つまり、ものつまり有為法が恒常的に安定してるとは仏教では観ないのです。
以上
極微の寄せ集めで出来ている
しょせん寄せ集めだから、
時間が経てばバラバラになる
時間が経てばバラバラになるだけでなく、
刹那ごとに現れたり消えたりしている
刹那というのが、また途方もなく短い時間
「1秒の70分の1」という説もあり、
それだったら、たいした短さではないが(笑)
これまた、現代の物理学でいう
原子時間を思わせる、
途方もなく短い時間
>説一切有部も、もとより、すべてのものは瞬間的にしか存在しないということを強調する。
>(仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫ソフィア)より)
「無常なのは、極微の寄せ集めで
できている万物」だということ
極微という微小な構成要素は、
永遠不変の絶対安定と考えられていた
これを、「三世実有 法体恒有」という
仏教思想史上に名高い、説一切有部を
象徴するスローガンだ
釈迦の入滅から百年後
説一切有部は圧倒的な巨大勢力となった
しかし、数百年後に現れた中観派によって
「三世実有 法体恒有」は批判されることになる
仏教に永遠で常住不変なものはあり得ないはずだ
そう考えた中観派は、「刹那生滅」の
考え方を、微小な構成要素にも適用
することにした
こうして、極微ですら永遠ではなくなった
これが説一切有部の思想をベースに
発展させたものだということ
刹那生滅を極微にも適用することにはなったが
それが「不安定な存在」と考えたわけではない
仏教思想の伝統として、寄せ集めで
できた万物は不安定な存在
でも、寄せ集められる側の構成要素は安定した存在
それが仏教思想、というよりインド哲学の伝統的な発想
確かに有部は永遠なる本体を説いてるのですけどね。
しかし一方では同時に刹那生滅を説いているのです。
そしてこの問題については経量部と激しい論争があったそうですが、
>三時にわたって恒常的な本体と刹那滅的な現象とは、同一の時間においては調和する事は出来ないからである。
>(以下の著)
という事で、有部の論理破綻という事で決着がついた様です。
そこら辺の消息については、『仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫ソフィア)』の第一部第一章第三節「アビダルマの思想家たち」に詳しいでしょう。
その様にみえる対象は、刹那生滅しながら相続されているだけなのだ、と云うのが仏教の基本的な考え方となる訳です。
お後がよろしい様で😆
「大学で宗教史を学んだ」っていうから
「これくらい解るだろ」と思ったんだが
やはり、無理だったか
> 確かに有部は永遠なる本体を説いてるのですけどね。
そう、その永遠なる本体ってのが、
万物を構成する微小な構成要素
古代の仏教思想界における大きな論点
経量部や中観派から批判された
↓
173:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/18(金) 08:47:23.31 ID:0DLa5
つまり、仏教では永遠に存続する安定した本体なるものは否定されているのです。
その様にみえる対象は、刹那生滅しながら相続されているだけなのだ、と云うのが仏教の基本的な考え方となる訳です。
現代の物理学と、不思議なほど符合する
↓
171:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/18(金) 08:42:11.46 ID:0DLa5
wwwwwwwwwwwwwwwwww
確かに有部は永遠なる本体を説いてるのですけどね。
しかし一方では同時に刹那生滅を説いているのです。
そしてこの問題については経量部と激しい論争があったそうですが、
>三時にわたって恒常的な本体と刹那滅的な現象とは、同一の時間においては調和する事は出来ないからである。
>(以下の著)
という事で、有部の論理破綻という事で決着がついた様です。
そこら辺の消息については、『仏教の思想 3 空の論理<中観> (角川文庫ソフィア)』の第一部第一章第三節「アビダルマの思想家たち」に詳しいでしょう。
やっぱりダメだな、お前は😅
「大学で宗教史を学んだ」という話だが
残念ながら、その手のセンスは無い
コンプレックスを晴らしたいのは分かるが
ネットの掲示板でなら無双できるほど、世の中は甘くない
>現代の物理学と、不思議なほど符合する
全ての素粒子が安定してるわけじゃないだろ😧
はいはい☺️
仏教では永遠に存続し恒常不変たる安定した本体(基体)は説きませんから。
諸行無常っていうんです。
それは外道の見解ですよ、知障くん☺️
つまり、連続して見えているようでも、実際は1秒で30回刹那的に明滅している。
これは脳機能の問題になるのかも。
wwwwwwwwwwwwwwwwww
いや、だから、そこがお前の理解の浅いとこなんだっての😅
「説一切有部」は、なんで「一切は有りと説く部」と呼ばれるのか?
そこからの展開は、仏教思想史上に名高いエピソードだよ
> そもそも仏教は基体説では無いのに、一体どこに安定した基体があるというんですかねえ?
だから、基体の代わりに登場したのが
「微小な構成要素」なんだっての
わかんねえ奴っちゃなあ😅
現代の物理学では、この物質世界そのものが
そうなんじゃないかという話になっている
???
だから、それ、経量部に論破されたでしょ?
確かに、「刹那生滅」を極微にも適用することになった
「極微でさえ、刹那生滅している」ということになった
だが、それは「不安定な存在」というわけではない
極微の寄せ集めで出来ている
現象世界の事物と比べたら、
やはり、極めて安定的
だからそれ(極微)も刹那生滅の相続って有部も主張してたでしょ。
また同時にそれは永遠なる本体だって有部は説明した訳です。
そしてその両立の理路として、未来から現在過去へとダルマが落謝するからだと説明したけど、
>三時にわたって恒常的な本体と刹那滅的な現象とは、同一の時間においては調和する事は出来ない
と云う経量部からの指摘に反証出来ず、論理破綻したんでしょ?
知障くん☺️
寄せ集めや刹那生滅で構成されている状態を、我々健常者は「安定」しているとは観ないのですよ。
勿論、その最小の構成要素である極微も生滅してるのですから、安定してると観ないのです。
物質や精神の最小構成要素であるダルマは、刹那生滅しながら相続されているのです。
これが仏教の思想なんです。
そして我々健常者は、生滅を繰り返すそれを安定してるとは観ないのです。
学びなさい、知障くん☺️
なにが「知障」だよ
お前より遥かに頭良いわ、バカが😅
アートと同じで、センスがモノをいう
言ってみれば、「霊感」だ
残念ながら、お前にはセンスもない
わざわざ、悪い頭で勝負しようとしている
何がモノを言うかっていったら、
「センス」だ
これが哲学とか歴史とかだったら、
国語の偏差値が高い文系秀才タイプが
有利だが
宗教・スピリチュアルは、そういう分野ではない
むしろ、「何も考えていない」というのが強みになる世界だ
それを忘れてはならない
知的な土俵での勝負に持ち込もうという発想、それ自体が誤り
> これが哲学とか歴史とかだったら、
> 国語の偏差値が高い文系秀才タイプが
> 有利だが
申し訳ないが、この点に関して、
鹿野園は当方に遠く及ばない
センスを磨くしかないんだ
信者でさえドン引きするほどの宗教的情熱
それがなければ、本物のアンチではない
霊性を高めようじゃないか
存在そのものが分解されているって意味ではないよ
「刹那」は、あまりに短い
そのたびに解体した再構築したのでは、とても間に合わんだろう~😆
う~ん、言い得て妙ですな~😆
随分と勉強になる議論をしてたんですね
↓
193:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/18(金) 09:34:02.96 ID:0DLa5
いいですか、知障くん☺️
物質や精神の最小構成要素であるダルマは、刹那生滅しながら相続されているのです。
これが仏教の思想なんです。
そして我々健常者は、生滅を繰り返すそれを安定してるとは観ないのです。
学びなさい、知障くん☺️
>210:神も仏も名無しさん:[sage]:2023/08/18(金) 10:27:34.57 ID:boLxI
>有部の刹那滅ってのは映画のフィルムが入れ替わってるって意味で
>存在そのものが分解されているって意味ではないよ
wwwwwwwwwwwwwwwwww
その通りですが、結局は同じ事なのですよ、知障くん☺️
それは、永遠の存在とされるダルマが未来から現在、そして過去に落謝する時、現在において瞬間的に存在するという事ですが、それも経量部や龍樹によって誤謬だと論破さてれるのです。
その詳細は割愛しますが、先に紹介した本を一瞥する時いいでしょう。
陽子という恒常不変のダルマが未来から現在そして過去に落謝し、現在に置いては刹那生滅として瞬間に認識されるけど、陽子自体は三世に亘って恒常不変で安定した存在であるのだと。
しかし、その陽子は「未来雑乱住」って術語では云うのですが、いつどの様に現在に落謝するは未知数な訳で不安定な存在なんです。
また重ねて云いますが、構造としても刹那生滅をしている訳で、有部の落謝説は経量部等に依って矛盾が指摘され論破されているのです。
残念ながら知障くんが必死になって主張している安定論は、仏教の説く有為法には、その余地は無いのです・・・
まぁ、有部の落謝論を勉強したのは評価しますけどね😌
がんばって出直してきなさい、知障くん😄
がんばれ!知障くん😄
>
> 陽子という恒常不変のダルマが未来から現在そして過去に落謝し、現在に置いては刹那生滅として瞬間に認識されるけど、陽子自体は三世に亘って恒常不変で安定した存在であるのだと。
「陽子」は余分だな
>恒常不変のダルマが未来から現在そして過去に落謝し、現在に置いては刹那生滅として瞬間に認識されるけど、ダルマ自体は三世に亘って恒常不変で安定した存在であるのだと。
↑これなら、説一切有部の「三世実有、法体恒有」の主張そのもの。
その簡潔な要約文と言える
未来のダルマって何処に存在するのでしょうね?
また、落謝した過去のダルマは何処に?
未来とか過去という別次元があるとでも?
そもそも三世に亘って不変なら、三世に分ける必要は無いでしょ?
刹那生滅を説きながら恒常不変を説くための苦肉の理路でしょう?
そういう事ですよ、知障くん😄
仏教思想史を教えたくはないのだが、
まあ流れでこうなった
だから、それが説一切有部の主張であり、
後に続く中観派や唯識派からの批判の対象に
なったと、何度も言ってるだろ?
以前から思うことだが、お前には
「思想の歴史」に対するセンスが
皆無だな
頭が固すぎて、「変遷」を追えない
陽子も有為法のダルマに分類されますよ☺️
> 刹那生滅を説きながら恒常不変を説くための苦肉の理路でしょう?
いや、どっちかっていったら、むしろ逆だ
「三世実有、法体恒有」が、説一切有部の基本理念
それと「永遠で不変なものは何もない」という
お釈迦様の教えとの矛盾を説明するのが「刹那生滅」
誤魔化しや言い訳はやめなさい、知障くん🙁
安定の根拠として有部の説を出したのはあなたで、それが経量部等に論破された事を話したのは私ですよ!
上にも書いたが、現代の物理学でいう原子や陽子と、
小乗仏教理論の「極微」には、似ているところと
違うところがある
似ているのは、「途方もなく小さくて、
あらゆるモノの構成要素になっている」、
「ほぼ永遠といってよい寿命を持ち、
極めて安定している」というところ
異なるのは、「原子や陽子は、物質存在に
限定されている。極微は、物質に限定されない」
というところ
だから、紹介した本を読みなさいってwww
電子版で1,000円しないでKindleで即読めますから。
お前なあ・・・
調子に乗るなよ。少しは謙虚になれや
このままだと、仏教思想史が分からずに
一生を終えることになるぞ
日常生活に支障を来すわけではないが(笑)
仏教思想史を「解説」してやってるんだよ
いくらなんでも、態度が悪すぎる
しょうがねえ奴だな、まったく(笑)
(くっ…KindleUnlimited対象外)
横からすみません
極微は、物質に限定されない
↑
これはマジなんですか?
マジなら私的に捗るんですが
こんなマイナーな分野に関心があるなら課金するしかないでしょうな(笑)
マジですわ
それが何か?
そういうのを負け犬の遠吠えって云うんですよ。
素直に反省しなさい。
いえありがとうございます
頑固さだけが取り柄だな😅
何か分かったら、よろしく~😄
はーい
鹿ちゃんもありがとうございましたー
横からですが……
初期仏教では.存在は五蘊に解体してましたけど、部派仏教の時代ではさらにその分析が深化し、五位七十五法に分類されたんです。
その五位とは、形相のあるもの(色法)、精神的なもの(心法)、その作用(心所有法)、色心どちらでもないもの(心不相応行法)、作用しないもの(無為法)なのですが。
で、極微は色法に該当するでしょうね。
まぁ色法=物質とするのは少し問題があるのですが、「極微は物質に限定されない」というのは……
リダンさんの疑義は当然の事でしょうね。
役割しないですかね
「極微は物質に限定されない」
ってのは
もっともタコ介🐙みたいにわざわざ述語を引用して支離滅裂な解釈をするほど悪質なものではなくて、単純な支離滅裂・デタラメなんですけどね。
線ではなく点で飛ぶらしいんで
色法と心法も橋渡し的なものはなく
隔絶してるんかなあ
なるほど~😄
「物質に限定されない」は言いすぎかもしれんなあ
ここは検討を要する
佐々木閑先生は、
>心不相応行法の本質は、「物質でもなく、心・心所でもない、一種のエネルギーのような存在」である。
>とはいっても、物理学のエネルギー概念のように体系的にまとめられた端正な存在ではない。
>(仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN選書))
と仰ってますけどね。
これはあくまでも私の勝手な想像ですけど、E=mc2でしたっけ?
つまり極微はエネルギーに転換可能なのでしょうけど、そのままではやはり色法に分類されるものであって、心不相応行法に該当するかは疑問です。
それよりは、だいぶ神秘主義がかっている
まあ、大昔だかは当たり前だけど
「エネルギー」に最も近い仏教用語っていったら、「如是力」だろう
ちなみにその「時間」ですが、なんと!五位法には無いんです!
つまり、仏教に於いて時間は、存在の構成要素としてカウントされていないってなる訳です。
如是力(心法)→エネルギー(色法)
もありえるか
はー色法にも入れないんですね
> ちなみにその「時間」ですが、なんと!五位法には無いんです!
五位七十五法のうち、七十五法に含まれる
「生・住・異・滅」の四相が、時間的経過を
表すモノとされている
とはいっても、この4つを合わせても
1刹那のうちに起きるので、時間経過と
呼ぶには、あまりに短い(笑)
如是相・如是性・如是体に内在する
潜在的な力のことですな
いわゆる「四相(生相・住相・異相・滅相)」に連なるものでしょう。
なんか違う気がするんだよね(笑)
そういうことでしょうな
短いとはいえ、一応、時間は経過している(笑)
>「エネルギー」に最も近い仏教用語っていったら、「如是力」だろう
「力」ではなくて「作」の方でしょwww
そうかな?
「如是力」は物理でいう「エネルギー」
「如是作」は物理でいう「仕事」
に似てると思うんだけど
>「エネルギー」に最も近い仏教用語っていったら、「如是力」だろう
「力」ではなくて「作」の方でしょwww
何故なら、「エネルギー」という言葉は、ギリシャ語で「仕事」を意味する「ergon(エルゴン)」に由来するそうで、「ergon」に接頭語の「en」を加えた「energos(エネルゴス)」は「活動している状態」を表し、この言葉から古代ギリシャの哲学者アリストテレスが創作した「energeia(エネルゲイア)」が、「活動」を表す言葉として一般化したそうですから。
つまり、「力(能力)」よりも「作(作用)」の方が適切な訳です。
https://i.imgur.com/Zv6RhAq.png
(仏教の思想 5 絶対の真理<天台> より)
ありがとう!
私はよくそうしてますけどね。
>「如是力」は潜在的な力、「如是作」は顕在的な作用
これを見ても、やっぱり
「如是力」は物理でいう「エネルギー」
「如是作」は物理でいう「仕事」
に似てるんじゃないかな
潜在的なエネルギーを、作用させて
顕在化したのが仕事だから
まあ、これは余談だから別にいいけど
要は実体に対する基体がマジでそこにあると言うのがモヤモヤする
多少話は飛躍するけど、奇妙な言い分ですが、私は結果があって原因があると思ってます。
エネルギーが内在している事は、それが顕在することによって初めて遡って証明されるのだって考えです。
余談ですから、お後がよろしい様で。
ありがとうございました
やせっぽちだったヨガナンダを、師は想いで一晩でぽっちゃり小太りにしてしまった。
とか、
ババジは一夜で黄金の宮殿を作って消したなど。
裏から操作すると自由自在のようですね。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌヤマ談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ自白調書:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ來 ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーだったに過ぎず仏法からは門外漢だから、しったかぶる以外に承認欲求を満たすものは一切無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人で寸
① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
物質そのもの(素粒子の結合)はそこにあって五蘊はそれに意味を持たせてるに
すぎないということか
ぬぅ納得いかないが仏教は皆そう言うな
> うーんどうも仏教では五蘊が情報を物質に変換しているのではなく
> 物質そのもの(素粒子の結合)はそこにあって五蘊はそれに意味を持たせてるに
> すぎないということか
> ぬぅ納得いかないが仏教は皆そう言うな
説一切有部では、そういうことになりますな
唯識論では物質は情報にすぎず、元ネタとしても存在しない
だから結局のところ、仏教の基本は外界不存在論
説一切有部は「有」に傾斜しており
唯識論は「無」に傾斜している
(物質に関しては)
「非有非無から逸脱している」という
批判は古来からある
また、龍樹の思想は虚無主義ではないかと批判された。
「説一切有部は、【有る】にこだわった。
中観派は、【無い】にこだわった。
この両派を止揚するのが中観派なのだ」
ということになる(笑)
自分たちが【無】にこだわっている
などは思っていなかった
自分たちこそ、仏教思想界の王道をゆく
【非有非無】の思想だと思ってた
でも、他の諸学派から見れば
中観派は【無】の思想に見えた
当時の有力学派が、それだけ【有】の思想
だったということ
もちろん、【有】の思想ったって、
仏教思想であることに変わりはない
欧米人から見れば、説一切有部だって
十分に虚無主義に見える(笑)
唯識派ほど【無い】と明言することは
中観派にもない
唯識論は、徹底した外界不存在論
「物質世界は存在しない。
すべては意識の中の世界」
と断じる
「おいおい、それじゃ非有非無の中道から
逸脱してるだろ~?」と批判されても
唯識派は意に介さなかった
なにせ、「深い瞑想状態で体験した世界の真実」なだけに(笑)
「法体」だ
有部によると、万物(諸法)は「極微」(ゴクミ)
と呼ばれる微小な構成要素から成り立っている
極微は、現代の物理学でいう素粒子みたいなものだ。
それくらい小さい
諸法は無我であり実体がないのだが、
微小な構成要素である極微は永遠に
実有であると、有部は唱えた
「三世実有、法体恒有」
説一切有部の有名なスローガンだ
非有非無の中道から逸脱している」
という批判は、当時からあった
だが、説一切有部は意に介さなかった
釈迦の本入滅後、百年から数百年
説一切有部は最も有力な部派として
一世を風靡した
だが、やがて、それに異を唱える強力な派が登場した
中観派だ
「釈迦の入滅後」に訂正
すっきりした
でもまあ物質の強固な存在感は凄いので
中観派?興味あるね調べてみる
おはようございます
法介さんも戻ってきたらいいのに
おはよ~ございます☀️😃❗
ご健在のようですな?
ここは鹿野園がウザすぎる。
JCB、おまえを別の意味で尊敬する^^
鹿の~
遠吠え~
https://www.youtube.com/watch?v=Yw2SEiX-Dis
>この両派を止揚するのが中観派なのだ」
???
唯識派でしょ😙
280 ◆JBLfMwCXhY 2023/08/19(土) 07:57:18.91 ID:tQ6se
唯識派に言わせれば、
「説一切有部は、【有る】にこだわった。
中観派は、【無い】にこだわった。
この両派を止揚するのが中観派なのだ」
ということになる(笑)
そんなにウザいのか~😫
気分が悪くなる^^
居たくないんだ
議論をする勇気もおれにはない^^
動画はどうだろ
https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=https%3A%2F%2Fchie-pctr.c.yimg.jp%2Fdk%2Fiwiz-chie%2Freply-1476808026%3Fw%3D320%26h%3D320%26up%3D0
意見があったら向こうで聞く。
原子(パラマ・アヌ)説が導入されたのは説一切有部が成立してから大分経ってからだけどな😙
おそらくジャイナ教やヴァイシェーシカ学派の影響があったとされてるよ😙
>唯識論は、徹底した外界不存在論
というか、外界実在論の否定だな😙
>284:神も仏も名無しさん:2023/08/19(土) 08:11:22.58 ID:f72AG
>https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14281013794
またまたまたまた、凄まじいデタラメだな、タコ介🐙は。
なんでそんなデタラメを普通に回答出来るんだ?
ガチで壊れてるな😟
まあ、そうだな
当初は、「法体」という構成要素が実有と
されてたが、原子論が最初からあったわけではない
なんでもそうだが、「法体」も後になるほど
種類が増えて「七十五法」になった
いや、「徹底した外界不存在論」だ
お前はやはり、唯識派の主張がピンときていない
鹿の~遠吠え~♪
鼻毛~
ボウボウ~♪
おまえTalk はやらないって
言ってなかったっけ?
ここに
定着してんだ?
現前立少物 謂是唯識性
以有所得故 非實住唯識
(意訳)
目の前に何かモノを置いて、
「唯識論によると、物質ってのは
意識の中の幻影であり、
本当は存在しないんだよな~」
とかなんとか思ってるうちは、
唯識ワールドの住人ではない
(つまり、唯識論がピンときていない)
「物質ってのは意識の中の幻影であり、
本当は存在しない」ということが
本当に解れば、そんな風には思わなくなる
それを虚無思想という。
仏はそれを因果で認識する=真諦
非有非無
但空
無駄な事はすまい
仏教哲学でも、初期はそういうことになっていた
唯識論は、空の思想を突き詰めた極端な思想
>310:◆JBLfMwCXhY:2023/08/19(土) 09:22:05.06 ID:tQ6se
>>>307
>
>いや、「徹底した外界不存在論」だ
>お前はやはり、唯識派の主張がピンときていない
wwwwwwwwwwwwwwwwww
これな
↓
https://i.imgur.com/wDpAgfS.png
(仏教の思想 4 認識と超越<唯識より)
つまり、論をたてない。
要は否定神学的な要素が濃厚なんですよ😧
その極みが龍樹(初期中観派)と云う事ですけどね。
私の立ち位置は帰謬論証派みたいなものですから、まるで赤ペン先生みたいに「ウザい」とか「否定ばかり」というのは、実は褒め言葉なんですよ😘
>313:神も仏も名無しさん:2023/08/19(土) 09:34:48.27 ID:f72AG
>なんで
>
>ここに
>
>定着してんだ?
お前らみたいなどんぐり園のおばかちゃん達を善導する為にいるだけ😘
だから、赤ペンでチョメチョメされるのよ😘
鼻毛~
ボウボウ~♪
シンチンを~♪
ムギュっとする~♪
変だし~♪
つじつまも~♪
合わない~♪
> 仏教というのは基本的に主張しない。
> つまり、論をたてない。
お前は頭が固すぎて、
「建前と本音」ってものが分からない
「お釈迦様はこう語ったのだ」
「いや、これがお釈迦様の本意だったのだ」
そういって、自説を展開するのが仏教思想史だ
自らは主張をもたずただ対論者の主張の過失を指摘することによって空性を論証すべきことを主張し,〈帰謬論証派〉と呼ばれ,特にツォンカパにおいて絶対視された。
ってな🤗
思想の歴史には、まったく向いてないな(笑)
進む道を誤った悲劇
そこがお前の最大の欠点だ
たまたま読んだ本に書いてあった
どれかの学派の見解を見て、
「そうか。仏教ってのは、
そういうもんだったのか」
と、単純に思い込んでしまう😅
哲学史には最も向かないタイプ
>お前は頭が固すぎて、
>「建前と本音」ってものが分からない
>
>「お釈迦様はこう語ったのだ」
>「いや、これがお釈迦様の本意だったのだ」
>
>そういって、自説を展開するのが仏教思想史だ
wwwwwwwwwwwwwwwwww
↓
>わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
>もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
>(スッタニパータ 837)
>
> まるで赤ペン先生みたいに「ウザい」とか「否定ばかり」というのは、実は褒め言葉なんですよ😘
いや、お前の場合はラピスと同じで、
単に人間性がおかしいから嫌われてるだけだ
おかしいというより、幼稚だ
お前が出てくると、子どものケンカになる
だから、そういうとこを言ってるんだよ😅
愚かな奴だな、まったく
君も知能の欠片があればもう十二分に理解してる筈だ。
お前らどんぐり園児が誤謬を犯すと、途端に私が経典や著作・論文等を提示して疑義を呈してる事をな😧
これが何を意味するのか分かるだろ😧
量子真空内のスターターエネルギーは
他次元から借りるらしいので
もしかしたら如是力から借りているのかなと妄想
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
いい加減に後付けで「俺もそういう主旨で言ってたんだ」みたいな誤魔化しはやめろってwww
欧米のビジネスマンがインド駐在員になると、
インド人があまりに理屈っぽくて
自己主張が強く論争好きなので
辟易する
日本人から見ると、欧米人が
そういう人たちに見えるんだが
世界は広い
上には上がいる
バカか
お前がいつものコピペをペタッと貼ったのを見て
「ほら、そういう行動パターンのことを言ってるんだよ」と
こちらはコメントしたんだが😅
「思想の歴史」というテーマには
マトモに取り組めない
とにかく、頭が固すぎて無理
激しく同感!
付け加えたいぐらいだ
「世界で最も論争好き」というのが、インド人の本音
それが、「建前と本音」という真実
ここに居ると
朱に染まる
ちなみに十如是とアリストテレスのカテゴリー論からの類似概念の写メです。
アリストテレス
https://i.imgur.com/LN1AYtS.jpeg
十如是
https://i.imgur.com/7idIntL.png
立ち去ろう
はいはい、知障くん😚
もういいから。
見苦しいですよ😚
>わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
>もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
>(スッタニパータ 837)
いつものコピペをペタッと貼って、
「古代インドの仏教哲学者たちは
自説を主張しなかった。証明終わり」
ときたか😅
むしろ、逆だ
お釈迦様はなぜ、これほど「論争するな」と熱心に説いたのか?
「世界で最も論争好きな国民性」という背景を忘れてはならない
タコ介🐙wwwwwwwwwwwwwwwwww
そもそもお前はお呼びでないのだよwww
こちらの言ってることが、
本気で理解できないようだな😅
しょうがねえな、まったく・・・
消えていってしまう^^
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
↓
もし、この世に論がなくて惑い途方にくれる者が多いならば、世間のよこしまな知恵や巧みな言い回しのために、共に惑わされてしまい悪い行いをなして、悪しき境涯に輪廻し、真実のことがらを見失ってしまう。
もし、論に到達するなら、おのずから善悪の特徴と空の特徴を理解して、仏教の反対派であれ、他学派の者であれ、謬見を持つ者であれ、皆悩みなくさまたげをなすことがない。
それ故に、私は人々の利益となるように望むために、この論を造るのである。
(龍樹 「方便心論」)
三論宗では「破邪顕正」って云ってるけどな😚
善吉(須菩提)呵せられ、身子(舎利弗)責めらる。
有に非ず、無に非ず、亦有亦無にも非ず、非有非無にも非ず。
言語の道断じ、心行の処滅す。
湛湛として寄る無く、寥寥として拠を絶す。
知らず、何を以ってか銘けん。強いて顕正と名づくるなり。
(八宗綱要より)
うーん🧐
流石だ👍
いつも不思議なんだが、
これほど頭が悪くてセンスないのに、
なんでプライドだけは高いのか?
やはり、「劣等感の裏返し」だと思うんだよな~
はいはい、いつもの負け犬の遠吠えですね😚
色々と
お世話になりました。
437:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/17(木) 17:56:33.89 ID:AITmd
みなさん
ごきげんよう
438:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/17(木) 17:56:44.48 ID:AITmd
では
これにて
いや、ただの率直な感想だ
当方は、お前とはキャラが違う
ムダな勝利宣言や、負け惜しみは言わない
>ムダな勝利宣言や、負け惜しみは言わない
負け惜しみしか言えないだろ😧
↓
知障くん……
君も知能の欠片があればもう十二分に理解してる筈だ。
お前らどんぐり園児が誤謬を犯すと、途端に私が経典や著作・論文等を提示して疑義を呈してる事をな😧
これが何を意味するのか分かるだろ😧
まあいいや
= by 鹿野園 =
照見五蘊皆空の問題については解決を見ました。
ここではとあるネットで見た「色(rūpa)」への誤解について、所文献等を参照に新たに考えてみようと思います。
勿論、仏教ビギナー向けに「色」を「物質」とか「物質的」と仮に説明する事自体は悪くは無いと思いますが、ここは専門板ですからね😄
出来ればアリストテレス哲学も絡めて考察出来ればと考えてます。
と言うもの、Amazonのセールで本を五冊買ったものの、殆ど読んで無いし😥
この先、読みたい本が何冊か出てくるし。
……時間が欲しい😥
🐕🦺🐕🦺🐕🦺
> このスレの提起した問題については結論をみたので閉じます。
> = by 鹿野園 =
なんだ、このスレは終わりかよ
「ガテーガテーパーラーガテー…」
のマントラなのに、
導入部分の解説文を
あーでもないこーでもないと
いじくり回しての哲学ごっこは
時間の無駄。
導入部なしにそういう訳にいかないでしょwww
一階のない二階建ての建物があるわけ無いだろ、馬鹿が。
逝ってよし!
いい加減にこの手の馬鹿は消えたと思ってたが、5chのトラブルで流れ込んできたのか?
一階のない二階建ての建物があるわけ無いだろ、馬鹿が。
逝ってよし!
肝心の2階を放置している解説書ばかり
般若心経は弘法大師が指摘している通り、
密教経典であり真言こそがそのキモ
さらに言えば真言そのものは口密なので、
意密と身密もあるということだよ
三密加持の3つ揃っての密教なんだからね
従って、般若心経を徒に写経したり
ただ暗唱しているだけじゃダメだってこと
「パーラーサンガテー」
この4つはそれぞれ何を意味している?
全部違う
そして東南西北の各方位に結び付いている
どういうことか説明できるか?
二番煎じ三番煎じの知識の吹聴、ご苦労さん!
wwwwwwwwww
🤢
> 従って、般若心経を徒に写経したり
> ただ暗唱しているだけじゃダメだってこと
真言の読誦が言語によって構築された虚妄からの超越であれば、等しく、無心に写経や暗唱するのもそれであるのだよ。
出直してきなさい、ビギナーさん💕
あ、コテつけろよ、二重人格wwwwwww
密教について何も知らない人間は
せいぜいこう反応するしかないだろう
そうだね、頑張りなさい。
そしてそこから得たにわか知識で「どうだぁ、俺様はすごいんだじょー!」ってドヤ顔する訳で、私はそんなのは今まで何度も何度も見てきたので「またかw」なのですけどね😌
ともあれ、煩悩は六識とともに現勢化するのでしょうから、行中に定に入って六識の機能が停止してる時に、それも一時的な停止はしても根本的には絶たれないというのが仏教の通説だと思うんです。
掛かる意味において呪もそれが深層識に沈殿しなければ、にわか知識の馬鹿がここで非難する薀蓄語りと変わらないわけですw
そうした知識なしに闇雲に呪をとなえても要らぬ業を重なるだけなんです。
勿論、そうして得られた知識も所詮は凡夫の煩悩のフィルターを通して得られた所知に過ぎませんから、それを経て、次のステージに向かわないと仏道の成就は叶わないのですけどね。
🫠
一周どころか10週遅れの知識を今更初めて知って「禅は語らないんだじょーーー!語るのは駄目なんだじょーーー!」って、まるで天下を獲ったように喚いてるのその無知ぶりがその証左。
そのくせ相手にされないと誹謗中傷を始めるのですから、彼の存在意義は単なる通報案件に過ぎないのです。
なんとかにつける薬なし
調子こいて好き勝手な事を言っていた10年位前のあの頃の栄光wが、忘れられないんだろうなあ。
駆除された全滅したんだよ、そういうゴミカスどもはw
いつまでも昔のやり方じゃ、勿論煽り方もw、通用しないのwww
10年来、一切反論出来なくてもはや草木の化石状態ww
時代錯誤のゴミwww
今までが余りにも酷過ぎた。
汚物は消毒して除去したんだから、もう来るな😟
今はそういう時代ではないからな😌
反論できていないのはお前だぞ(笑)
ガテーガテー…のマントラと方位の関係性について述べてみよ
何故ならその呪は、言語によって構築された世界からの超越を為すための真言ですから。
混沌に穴を穿つような愚行を智者はしないものです。
🤢
paJcaskandhAs tAMz ca svabhAva-zUnyAn pazyati sma ||
「五蘊があり、それらは自性が空であると見た。」
身口意揃っての密教。
その身口意を統合化し超越するための方位。
https://www.youtube.com/watch?v=AyZXZtsI9hQ&list=RDCMUCckMQY8MjvJmqH_2UtFsf6g&start_radio=1&rv=AyZXZtsI9hQ&t=55
https://i.imgur.com/PRiy71a.jpg
> その身口意を統合化し超越するための方位。
主語は?
何を超越するの?
お〜な〜り〜
🤢
http://takeda.wnaja.com/menu.php
http://takeda.wnaja.com/Contents/author.php#chyo
マントラは実は2つある。
菩提薩埵が一切の顚倒夢想を遠離して究竟した涅槃と、
三世の諸仏が得たアノクタラサンミャクサンボダイは
同一のものか、それとも別か。
菩提薩埵とはそも何者か?
観自在菩薩はなぜ舎利子の名前を二回口にしたのか。
全て深い意味と理由があるぞ。
さあ、暗黙知を総動員して洞察してみなさい。
内容の解釈をするのはそれからです☺️
とても
威張ってる
🤢
そういう時代じゃないから😌
とても
意地に
なっていふよーだ
🤢🤢🤢
自己紹介しなくていいですよ
具体的なことに何も言及出来ない時点であなたの負けです
今日も
決して
まけない〜〜
🤢
> 先ず読み下し文から学びましょうね☺️
>
> 内容の解釈をするのはそれからです☺️
まず、腹下し薬を飲むことから始めよう
聖ウンコを出すのは、それからだ
【解説】 ガザから最も大胆な攻撃、イスラエルは意表を突かれた=BBC国際編集長
2023年10月9日
ジェレミー・ボウエン、BBC国際編集長
パレスチナ側からの大規模攻撃を受けて、イスラエルはガザ地区を相次ぎ空爆した。写真は、イスラエルの攻撃で破壊された民家のがれきの中から、生存者を見つけようとする人たち(8日、ガザ地区南部ハーンユニス)
パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、かつてないほど大胆な攻撃をガザから仕掛けた。イスラエルはそれによって、完全に意表を突かれた。
展開した事態は、前例がない規模のものだ。ハマスはガザ地区とイスラエルを隔てるフェンスを複数個所で突破した。イスラエルにとっては数十年来、最も深刻な国境を超える攻撃だ。
第4次中東戦争の発端となった、エジプトとシリアによるイスラエルへの奇襲攻撃は1973年10月6日のことだった。今回の攻撃はその50周年の翌日に始まった。ハマス幹部は、この日付の重要性を認識していただろう。
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は「これは戦争だ」と宣言し、敵は重い代償を払うことになると述べた。
武装したハマス戦闘員がイスラエル兵や民間人を拘束し、ガザへ連行する動画は、イスラエル人を激怒させ、警戒させた。
攻撃開始から数時間のうちに、イスラエルはガザ空爆を開始して応戦し、多くのパレスチナ人を殺害した。イスラエル軍の将軍たちは、地上作戦を計画している。
イスラエル人が人質になっているだけに、従来のガザ攻撃に比べてこの地上作戦はいっそう複雑なものになる。
イスラエルとパレスチナの双方は、ヨルダン川西岸地区を注視していた。イスラエルが1967年以来占領支配する、エルサレムとヨルダン国境の間の区画だ。ここでは、対立と暴力ではほぼ常態となっている。
西岸地区のジェニンやナブルスを拠点とするパレスチナ武装勢力が、イスラエル兵やイスラエル人入植者を攻撃する。イスラエル軍は、武装勢力の拠点を次々と強襲する。武装したイスラエル入植者は、自らの手でパレスチナの集落を報復攻撃する――といった具合だ。
イスラエルの右派政権の中には、極端な宗教右派ナショナリストが複数いる。この勢力は、イスラエルが占領し続ける土地のすべてが、ユダヤのものだと主張し続ける。
イスラエルではすでに、この事態を予測できなかった情報機関を責める声が相次いでいる。自国の情報機関が張り巡らせる情報提供者や工作員、そしてハイテク技術を駆使した監視機能によって、こうした動きは事前に察知できるものと、イスラエルの人たちは思っていたのだ。
ユダヤ教の祭日でイスラエルの人たちがのんびりしたり祈ったりしていた週末に、ハマスは攻撃を開始した。イスラエルの情報機関は、これに意表を突かれた。
アル・アクサ・モスクが建つ場所は、旧約聖書に出てくるユダヤ教の聖地でもある。信心深いユダヤ教徒が「神殿の丘」と呼ぶ場所で祈ったという、話がそれだけならば大したことには思えないかもしれない。しかし、パレスチナ人にとってはきわめて挑発的な行為のため、イスラエル政府はそれを禁止している。
とは言うものの、エルサレムは常に国同士や宗教同士が対立する火薬庫のような場所なので、そのエルサレムの基準からすると、アル・アクサでユダヤ教徒が祈ったことは、それほど緊張感を高める出来事ではなかった。
なぜハマスとイスラエルがまたしても戦っているのか。その理由はさらに奥深い。イスラエルとパレスチナの紛争は、各国の報道機関のトップニュースから遠ざかっている時でも、加熱を続けていたのだ。
それでも、いまだに公には「二国家解決」と呼ばれる和平案の実施を求める国々の間で、最近の緊張悪化はほとんど無視されてきた。「二国家解決」とは、独立パレスチナ国家とイスラエル国家の平和的共存を確立しようとするものだ。1990年代にオスロで和平協議が続いていたころ、パレスチナとイスラエルという二つの国家が共存するという展望は、一時的にでも現実的な希望だった。しかし今では、空疎なスローガンに過ぎない。
イスラエルとパレスチナの和平実現へ向けたアメリカの仲介努力は、約10年前を最後に失敗に終わっている。バラク・オバマ政権でのことだ。
問題の核心にあるのは、100年前から続く未解決の難問だ。アラブ人とユダヤ人は、地中海とヨルダン川にはさまれた土地の支配権をめぐり、対立を続けてきた。
この紛争は、ただ管理すればそれで済むというものではない。急速に悪化する目下の情勢が、そのことをあらためて立証した。
対立をそのままにして、ただ水面下で悪化するのを放置したのでは、暴力と流血は避けがたい。
イスラエルの三大国境紛争だ
【解説】 ハマスとは何者か 今イスラエルを攻撃した理由は
2023年10月11日
パレスチナの武装組織ハマスがイスラエルに対し、かつてない規模の攻撃に出た。戦闘員らはガザ地区に近いイスラエルのコミュニティーに侵入。住民数百人を殺害し、数十人を人質に取った。
この事態を理解するうえで知っておくと役立つ集団や場所、背景について、説明する。
ハマスとは、パレスチナ・ガザ地区を実効支配する武装組織。イスラエルの破壊と、その後のイスラム国家の樹立を、目標に掲げている。2007年にガザ地区を掌握して以来、イスラエルと何度か交戦してきた。
戦争と戦争の合間にも、イスラエルに向けてロケット弾を何千発も発射するほか、他の武装勢力にも発射させてきた。別の攻撃方法でもイスラエル人らを殺害してきた。一方のイスラエルも、繰り返しハマスを空爆。2007年からは治安対策を理由に、ガザ地区をエジプトと共同で封鎖している。
ハマスおよびその軍事部門は、イスラエル、アメリカ、欧州連合(EU)、イギリス、その他の強国がテロリスト集団に指定している。そうした中で、イランはハマスを支援し、資金や武器、訓練を提供している。
ガザ地区はどんな場所?
ガザ地区は、イスラエル、エジプト、地中海に挟まれた全長41キロ、幅10キロの領土だ。約230万人が暮らし、世界で最も人口密度が高い地域の一つとなっている。
ガザ地区の上空と海岸線はイスラエルが掌握しており、人と物の行き来もイスラエルが検問所で制限している。同様にエジプトも、ガザ地区との国境で出入りを管理している。
国連によると、ガザ地区の住民の約8割が国際支援を頼りに生活している。日々の食料支援を必要とする人は、約100万人いるという。
現在のヨルダン川西岸とガザ地区、東エルサレム、イスラエルはすべて、古代ローマ時代からパレスチナと呼ばれる土地の一部だった。
聖書に書かれたユダヤ人の王国の土地ともされ、ユダヤ人は古来の祖国とみなしている。
イスラエルはその土地で1948年、建国を宣言した。しかし、イスラエルの生存権を認めない勢力は、その土地を今もパレスチナと呼ぶ。パレスチナ人はまた、ヨルダン川西岸、ガザ地区、東エルサレムを総称してパレスチナと呼んでいる。
ハマスのイスラエル攻撃、外国人も犠牲に 「イスラム国」並みに野蛮で残酷と米高官が非難
ハマスはなぜこの時期に攻撃?
ハマスの7日早朝の攻撃は、警告なく始まった。ただ、イスラエルとパレスチナの緊張はかねて高まっていた。
イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区で殺害されたパレスチナ人の数は今年、過去最多を記録している。それが、ハマスによる今回の派手なイスラエル攻撃の動機となった可能性がある。ハマスはまた、一般のパレスチナ人の間での支持を伸ばそうと、イスラエルとのプロパガンダ戦で目覚ましい勝利を狙ったのかもしれない。
イスラエル人を多く人質にしたのは、イスラエルの刑務所に収容されているパレスチナ人約4500人の一部解放を求め、イスラエルに圧力をかけるのが目的である可能性が高い。パレスチナ人にとって、同胞の解放は極めて感情に訴える問題だ。
今回の攻撃については、イスラエルの宿敵イランが仕組んだとの見方も出ている。ただ、イランの国連大使は自分たちの関与を否定している。
イランとハマスは、イスラエルとサウジアラビアの歴史的な和平合意の機運が高まっていることに強く反発している。今後、イスラエルの軍事対応がアラブ世界全般の怒りを呼ぶことになれば、和平合意は実現しないかもしれない。
BBCのジェレミー・ボウエン国際編集長が書いたように、今回のハマスの攻撃は、ガザから仕掛けたものとしてはかつてないほど大胆で、イスラエルにとってはここ数十年で最も深刻な越境攻撃だ。
武装戦闘員らは、ガザとイスラエルを隔てるワイヤーフェンスを複数箇所で破って侵入した。
この前例のない攻撃は、1973年にエジプトとシリアがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた日、つまり第4次中東戦争が始まった日の50周年にあたる、その翌日に始まった。ハマス幹部はこの日の重要性を認識していただろう。
中東和平問題とは 経緯と争点(2020年1月)
イスラエル情報機関の重大な失態なのか?
BBCのフランク・ガードナー安全保障担当編集委員は、今回の攻撃を許したことは、イスラエル当局にとっての重大な失態だとみている。国内保安機関のシンベト、対外スパイ機関のモサド、そしてイスラエル国防軍のすべての能力をもってしても、この事態を事前に察知できなかったこと、あるいは警告を受けていても行動に移さなかったことは、率直に言って驚きだとガードナー記者は言う。
イスラエルは、中東で最もネットワークが広く、資金力が豊富とされる諜報機関を抱えている。情報提供者や工作員は、パレスチナ武装集団やレバノン、シリアなどの内部にもいる。
フェンスの上部には有刺鉄線が張られていて、まさに今回のような侵入を防ぐ「スマート・バリア」のはずだった。しかし、ハマス戦闘員はブルドーザーでこれを突破し、鉄条網に穴を開けた。海からイスラエルに侵入したり、パラグライダーで越境する戦闘員もいた。
ハマスのムハンマド・デイフ司令官は、パレスチナ人やその他のアラブ人に向かい、「(イスラエルの)占領を一掃する」作戦に参加するよう呼びかけている。
この呼びかけに、ヨルダン川西岸と東エルサレム、さらにその他の地域のパレスチナ人が応じるかが、当面の大きな問題点になっていると、BBCエルサレム特派員のヨランド・ネル記者は言う。
イスラエルは間違いなく、複数の前線で戦争になる可能性を見据えている。最悪のシナリオは、レバノンの強力な武装組織ヒズボラを引き込むことだ。ヒズボラは8日朝、イスラエル北部に向けて多数のミサイルと砲弾を発射した。ただ、死傷者は出なかった。
イスラエル軍は大規模な部隊の強化を指示している。ガザへの激しい空襲と同時に、地上作戦も計画していると示唆している。
説明済み。
↓
405 鹿野園◆00MWura8lSZF[] 2023/10/08(日) 20:29:47.96 ID:ze4nC
関係を持たせた時点でその呪の効力は失効するんです。
何故ならその呪は、言語によって構築された世界からの超越を為すための真言ですから。
混沌に穴を穿つような愚行を智者はしないものです。
川^〇^ハレ法華経陀羅尼品第二十六もそうみたいですね
>五種不翻(ごしゅふぼん)―陀羅尼を翻訳しない理由
この陀羅尼を翻訳せずに音をそのままにして文字をあてた、つまり音写したのはどうしてなのかということについて、唐の玄奘(げんじょう)は五つの理由をあげている。
1、「秘密の故に翻せず」
陀羅尼のような神呪は秘密の法であるから翻訳すべきでないし、また、できるものではない。
2、「多義を含むが故に翻せず」
陀羅尼はたくさんの意味があるから、それを訳すとかえってその意を傷つけそこなうことになりかねない。例えば「摩 訶」という言葉には、大きいという意味の他に、数や量が多いということ、さらに、非常に勝れているとか優っているという意味もあるので、意味を限定すると不都合なことが起きてくる。
3、「この方に無きが故に翻せず」
陀羅尼のようなものは唐の国には無いので訳すことができない。
4、「古例にしたがうが故に翻せず」
陀羅尼のようなものは翻訳しないのが古来のしきたりである。
5、「善を生ぜん為の故に翻せず」
たとえば、「般若」という言葉は、これを智慧と解するよりもそのまま般若と言った方が言葉に重みと深みがある。これと同じように陀羅尼もまた訳さずにそのままの方が神秘的で有難さや味わい深さがあるというわけである。
引用文献「法華経講話・下」田中日淳猊下講述
さすが麦さん、仰っしゃる通りだと思います。
ついでなので、その混沌七竅に死す(『荘子』内篇應帝王篇、第七)の話を載せておこうと思います。
(原文)
南海之帝為儵、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。
儵與忽時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善。
儵與忽謀報渾沌之德、曰
「人皆有七竅以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」
日鑿一竅、七日而渾沌死。
(読み下し)
南海の帝を儵と為し、北海の帝を忽と為し、中央の帝を渾沌と為す。
儵と忽と、時に相与に渾沌の地に遇う。渾沌、之を待つこと甚だ善し。
儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、曰わく
「人皆七竅有りて、以て視聴食息す。此れ独り有ること無し。嘗試みに、之を鑿たん。」と。
日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。
(意訳)
南海の帝・儵と北海の帝・忽は、自分たちを手厚くもてなしてくれた渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったという
ところで、この話がなんの関係あるんかい?
🤢
🤢
アタマがいいのら〜〜〜
という
設定〜〜〜
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
そんな顔ですな~
↓
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
思うよーにはウンコが出ない
人生全部
四苦八苦な
聖ウンコ様の
シンボルマークである
🤢🤢
たまに
大絶叫する〜〜
🤢
せっかく
仏教本を
読んだのに
聖ウンコ様の
四苦八苦は
まったく
変わらない〜
🤢
聖ウンコ様は
仏教本を
読んでいるのだろうか〜〜?
ママンに
百点満点取る
僕ちゃんを
見て欲しいのか?
🤢
何の説明にもなっていない
逃げているだけ
↓
>>422
説明済み。
↓
405 鹿野園◆00MWura8lSZF[] 2023/10/08(日) 20:29:47.96 ID:ze4nC
関係を持たせた時点でその呪の効力は失効するんです。
何故ならその呪は、言語によって構築された世界からの超越を為すための真言ですから。
混沌に穴を穿つような愚行を智者はしないものです。
🤢
それでは問い掛けに対する回答になってません
ゴマカシテ逃げているだけです
四回目
↓
>>422
説明済み。
↓
405 鹿野園◆00MWura8lSZF[] 2023/10/08(日) 20:29:47.96 ID:ze4nC
関係を持たせた時点でその呪の効力は失効するんです。
何故ならその呪は、言語によって構築された世界からの超越を為すための真言ですから。
混沌に穴を穿つような愚行を智者はしないものです。
特に無し
誤魔化して逃げてないでちゃんと質問に答えなさい
またこの本の簡易要約版として同一著者監修による『図解 眠れなくなるほど面白い般若心経』(日本文芸社)がある。
まず後者を読んだ後で前者を熟読玩味すれば、他のピントのずれまくった般若心経解説本などゴミとしか映らなくなるだろうし、弘法大師最晩年の名著『般若心経秘鍵』へとスムーズに繋げることも出来るだろう。
特に無し
箴言4:18では、「あけぼのの光のようだ」と光は義を象徴していす。
ピリピ2:15―16では、「非難されるところのない純真な」神の子供たちを空に輝く星のように,、「世の光として輝くため」として、比喩しています。
詩篇76:4は神のことを、「あなたは輝かしく」と言っています。
ウンコローラーがガンバッテいるのか?
と
思った
😄
ウンコローラーがいなくても
スレは伸びる~😂
佐保田鶴治先生の1982年の御著書、
『般若心経の真実』もお勧め(絶版だが)
般若心経は密教経典であり、
六波羅蜜の般若波羅蜜多ではないこと、
咒を奉ずる対象は般若波羅蜜多仏母、
チベット仏教ならターラー女神であること、
等に触れられていたと記憶している
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
「ゾクチェン」という言葉は「大いなる完全性」という意味で、これは、あらゆる仏性は、明知(リクパ、純粋な意識)のレベル、つまり、最も深い基礎において完全であるという事実を指しています。始まりも終わりもない「基本の明知」に足りないものは何もないのですが、現在、仏性はその力を最大限発揮してはいません。これはなぜでしょう。なぜなら、明知を曇らせる昏昧(あっけに取られていること、幻惑)が、明知と共に、同じように始まりなく生じているためです。
始原清浄-概念的な認識や煩悩、そして通常の感覚をも含むあらゆる粗大なレベルの認識(限られた気づき、心(sem))が存在しないこと。あらゆる不可能な存在の仕方とも根本的に無縁である。
自然成就-あらゆる顕現(精神的なホログラム)を生みだす。
反応性-原因や条件、他者の要求に反応して生まれる。要求と慈悲深く「コミュニケーションする」とも言える。
この三つの性質はそれぞれ、私たちの心・身体・発話に対応しています。
記憶
カルマ的な可能性や習気(習慣・傾向)
煩悩や名目上の悪見(心を乱す態度)の習気
不可能な存在の仕方を理解しようとする習気
ゾクチェンの瞑想の目標の一つは、昏昧を真に停止させることと、それに伴って、習慣をもたらす阿頼耶識を真に停止させることです。もう一つは、生まれ持った全ての明知の徳を完全に機能させ、全ての衆生にとって最大の利益となることです。
ゾクチェンは、チベット仏教ニンマ派と、チベット古来の宗教であるボン教で教えられ、後からカギュ派の諸派にも取り入れられました。ニンマ派の九乗(九つの段階に分けられた心の車)では「アティヨーガ」と呼ばれ、六つのタントラの車の中で最上位のものとされます。しかし今日では、ゾクチェン式の瞑想は、心を落ち着けるためとかサマタ(静かで落ち着いた精神状態)の完璧な集中力を得るためなど、スートラやタントラの枠組みの外で教えられることもよくあります。たしかに、ゾクチェンの瞑想は、そのような目標を達成するためにはとても効果的でしょう。し
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
お勉強するべ~~
😄
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なるほど~~
😄
14)サマーディの効果は何ですか
サマーディを経験すると、求道者はすべての束縛をバラバラに断ち切り、そしてまた無知、不純性、執着、恐怖、苦悩から解放されます。最終的に彼は歓びと 平安と愛に満たされて智慧を確立します。このようにして彼の人生は成就するのです。カルマは彼を束縛することはできず、再生がなくなるように欲望の種は焼 き尽くされます。彼は自由な魂となるのです。
これは良いサイトだ!😆
全ての善心、悪心、無記心のいずれとも必ず相伴います。
●触:刺激。各識・各感官・各対象の合する作用。
●受:感覚と一次感情。{苦・楽・不苦不楽・喜・憂}
●想:情報を印付けする記銘作用。
●思:有部の教説では三業の意表に該当し、心理的活動。
※原始仏教やパーリ上座部では思と意業を別々に想定します。
●作意:注意。
●欲:意欲。
●勝解:確認。
●念:正念(憶念)・失念
●定:正念(瞑想)・散乱(動揺)
●慧:有漏の智慧・悪見{有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見}
ーーーーーーーーーーー
②大善地法(10種):
全ての善心と相伴います。
●信:信心。清らかで、明るいこと。
●勤:精進。努め励むこと。
●捨:平静。
●慚:悪行を恥じること。
●愧:悪行を畏れること。
●無貪:貪らないこと。
●無瞋:怒らないこと。
●不害:害わないこと。
●軽安:心身が軽やかなこと。平安。
●不放逸:自制的であること。
全ての悪心と有覆無記心と相伴います。
●無明:無知蒙昧。癡。
●放逸:勝手気ままなこと。我儘。
●懈怠:怠惰。
●不信:心が清らかでなく、暗いこと。
●?沈:憂鬱。心が沈むこと。
●掉拳:興奮。心が昂ること。
ーーーーーーーーーーーーー
④大不善地法(2種):
全ての悪心と相伴います。
●無慚:悪行を恥じないこと。
●無愧:悪行を畏れないこと。
ーーーーーーーーーーーーーー
⑤小煩悩地法(10種):
ある種(第六意識)の悪心や有覆無記心と相伴います。
●忿:憤り。
●覆:罪の隠蔽。
●慳:物惜しみ、吝嗇。
●嫉:嫉妬。
●悩:頑迷。
●害:害心、害意。
●恨:恨み。
●誑:欺くこと。
●諂:媚び諂うこと。
●?:傲り。
ーーーーーーーーーー
⑥不定地法(8種):
ある時は善心、ある時は悪心、ある時は無記心と相伴います。
●悪作:後悔。反省とは異なる後悔。
●睡眠:睡魔。
●尋:言葉による思考。
●伺:言葉によらない思考。
※原始仏教では尋伺を語表を引き起こす一要因とします。
※有部では語表と身表を引き起こす一要因としています。
●貪:貪欲。貪ること。
●瞋:瞋恚。怒ること。
●慢:自他を比較する慢心。
●疑:真理に対する疑い。
● 能とは動作の主体、はたらきかける側をいい、所とは動作の客体、はたらきかけられる側をいう。なお、『改邪鈔』第8条に「もつとも能・所ともに恥づべきものをや」
とあるのは、教え導く師 (能化のうけ) と教えを受ける弟子 (所化しょけ) をいう。
● 衆生が信じ行じていることについて、その信心を能信のうしん、行じているところの行を所行しょぎょうとする。『六要鈔』には「十七・十八両願供に存し、所行・能信共にもつて周備す」 などとある。(浄土真宗辞典)
「能所」
(能)能動と(所)受動。行為の主体と客体のこと。
「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。
ある動作の主体となるのを能、
その動作の客体(目的)となるものを所という。
例えば依り手を能依、依り所となるもの(依られ手)を所依、物を見る目は能見、見られるものは所見、
行ずる者は能行、行われる内容は所行、讃嘆するものは能讃、讃嘆されるものは所讃、帰依する者は能帰、帰依されるものは所帰というようなもの。
所取(捉えられるもの。客観。)と
能取(捉えるもの。主観。)の
二取を分別すること、また、その分別のことを、虚妄分別(こもうふんべつ)という
次は受ですね。
【苦・楽】または【苦でも楽でもない】(捨受)と【感受する作用】を云うそうです。
そしてそれは【身受】(五蘊相応)と【心受】(意識相当)に分けられ、以下の通り分類されます。
|苦 |楽 |捨
ーーーーーーーーーーー
身受|苦受|楽受|捨受
心受|憂受|喜受|捨受
まぁ、肉体的なものと精神的なものと云えるでしょうね。
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。
<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺
妙観察智
↓
平等性智
↓
大円鏡智
↓
成所作智
となります。
この人は取りあげ、あの人は下げる、という心が無くなった状態をいいますね、
こうなって、初めて心が鏡のようになり、能・取、見・相、を遠離して、真如が体現されることになります、
そうすると、五識が統合された唯一の識が受用されます、
いながらにして、ヒマラヤの聖者を見て聞いて会話をしたり、人の過去世を見てきたり、人の心が見えて聞こえたり、します、
ですから、前五識がどうのではなくて、成所作智とは、超越的に五識と同じ所作を為す智なのです。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。
● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。
すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、
また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。
● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、
その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】
はじめて、【前五識】が、
ようやく【成所作智】となり、
阿頼耶識が【大円鏡智】になります。
>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
>この段階を見道という。真如に達するからまた通達位ともいわれる。具体的には四智のうち妙観察智と平等証智との二つの智が生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)
● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と≪【成所作智】≫とは、
この【仏位かにおいてはじめて生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)
ーーーーー
● なお、この【転識得智】は、【仏陀】になって一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。
【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、
【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】、
【仏陀】になると
【大円鏡智】と
【成所作智】が
【獲得される】。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、
「妙観・平等、初地文得、大円・成事、唯仏果起
【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、
【大円鏡智と成所作智】は唯仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)
特に無し
「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と、勝解(しょうげ)と三摩地(さんまじ)とは、一切の心に遍ねし」(倶舎論・分別根品第二)
六分類の一番目は、「大地法」ですが、これは善・悪・無記に関係なく、あらゆる心と常に倶生する「心所法」のことで、十あります。
①「受」:対象を心に感受する作用。苦・楽・捨の三を受け入れるもの。五蘊のひとつ。
②「想」:対象の姿を表象する作用。取像。これも五蘊の一つ。
③「思」:意思的な働きの作用。意思の発動。五蘊の中の「行」と同じ。
④「触」:内なる心と外なる対象の接触。根・境・識の三事の和合で生ずる。
⑤「欲」:希求。物事をしたいという欲求。
⑥「慧」:分別し判断する作用。所縁の正邪、善悪を判別するもの。
⑦「念」:対象を忘失しない心の働き。かつて経験した事柄を記憶維持して後事の不忘失の因となるもの。
⑧「作意」:対象に注意を向ける作用。驚覚の義。
⑨「勝解」:対象のいかなるものかを確認し了解する作用。所縁の境相をこれこれと審決判定するもの。
⑩「三摩地」:定(じょう)。心を浮動させず集中する働き。等持。
アビダルマでは、この十の作用すべてが、心に伴って常に起こるとしています。心の作用のもっとも基本的な要素としています。
「信及び不放逸と、軽安(きょうあん)と捨と慚と愧と、ニ根(無貪と無瞋)及び不害と、勤とは唯善心に遍ねし」(倶舎論・同上)
二番目は「大善地法」で、あらゆる善心と常に倶生する「心所法」で、十あります。
⑪「信」:心の清らかさ、澄み切った心。また四諦、三宝、業及び果報に対する確信、忍許。
⑫「不放逸」:なげやりの心でなく精励して善をおこなうこと。また心を守護するもの。「放逸」の反対。
⑬「軽安」:心が軽快で巧みな適応性があること。
⑭「捨」:心が平静で偏りのないこと。
⑮「慚」:2通りの解釈。ひとつは他社の徳に対する恭敬。ふたつは自らを観察することによって己の過失を恥じること。
⑯「愧」:これも二通りの解釈。ひとつは自己の罪に対する畏怖。ふたつは他を観察することによって己の過失を恥じること。
⑰「無貪」:貪りのないこと。境に対して愛染の貪りのないこと。欲望の対象を厭捨すること。
⑱「無瞋」:憎しみのないこと。他を愛憐すること。
⑲「不害」:他を害しないこと。非暴力。
⑳「勤」:精進。善に対して果敢にいそしむこと。不放逸よりも積極的に善に取り組む。
「癡(ち)と逸と怠と不信と、?(こん)と掉(じょう)とは、恒に唯染なり」(倶舎論・同上)
「大煩悩地法」はあらゆる染汚心(煩悩)と倶生する「心所法」で、六あります。
21.「癡」:無明。愚癡。おろかさ。心の昏さ。「慧」のないもの。
22.「放逸」:なげやりで善に努めないこと。「不放逸」の反対。
23.「懈怠(けたい)」:善に対して敢為ならぬこと。怠惰。「勤」の反対。
24.「不信」:心が澄明でなく信順のないこと。「信」の反対。
25.「?沈(こんじん)」:心の沈鬱。不軽快。「軽安」の反対。
26.「掉挙(じょうこ)」:心の軽躁。浮動して静まりのないこと。
(4)大不善地法
「唯不善心に遍ねきは、無慚及び無愧なり」(倶舎論・同上)
「大不善地法」はあらゆる不善心と倶生する「心所法」で、ニあります。不善=悪としてはここに挙げる二つが最も重視すべきものといえます。
27.「無慚」:他者の徳に対し恭敬の心がないこと。「慚」の反対。
28.「無愧」:自己の罪に対する畏怖の念がないこと。「愧」の反対。
「唯不善心に遍ねきは、無慚及び無愧なり」(倶舎論・同上)
「大不善地法」はあらゆる不善心と倶生する「心所法」で、ニあります。不善=悪としてはここに挙げる二つが最も重視すべきものといえます。
27.「無慚」:他者の徳に対し恭敬の心がないこと。「慚」の反対。
28.「無愧」:自己の罪に対する畏怖の念がないこと。「愧」の反対。
(5)小煩悩地法
「忿(ふん)と覆と慳(けん)と嫉(しつ)と悩と、害と恨と諂(てん)と誑(おう)と?(きょう)と、是くの如き類を名づけて、小煩悩地法と為す」(倶舎論・同上)
「小煩悩地法」は、心が第六意識として働くときのみおこり、無明とだけ倶生する「心所法」で、十あります。
29.「忿」:いかり。憤発、短気。「愼」と同種類か。
30.「覆」:自己の過ちの隠蔽。
31.「慳」:ものおしみ。吝嗇、聖教や財を惜しむもの。
32.「嫉」:ねたみ。他の栄達を妬むもの。
33.「悩」:他の諌めを入れず、自ら苦悶するもの。玄奘の漢訳では「悩」とするが、真諦は「不捨」と漢訳している。自己の考えに固執して捨てない。
34.「害」:害意。他を損せんとして打撃罵詈をなすもの。「不害」の反対。
35.「恨」:うらみ。忿に次いでおこる。
36.「諂」:心の邪曲。本心を顕さず、従順をよそおい、他を籠絡しようというもの。
37.「誑」:欺瞞。惑他で、有徳をよそおい、上品に擬して他をして顛倒の理解を生じさせようというもの。
38.「?」:自己満足。自己の戒行、智慧、身分、財産などに染著自負して、他をしのごうとするもの。
「欲は尋、伺有るが故に、善の心品の中に於いては、二十二の心所あり。有る時は悪作を増す。・・・四煩悩(貪、瞋、慢、疑)・忿等・悪作あるは二十一なり。・・・睡眠は遍ねく違せず。・・・慢は他に対して心挙がる。・・・」(倶舎論・同上)
「不定法」は、ある時は善心、ある時は、悪心(不善心)、ある時は無記心と伴うので、不定といわれるのですが、八あります。
39.「尋」:推求的な粗大な心の作用。
40.「伺」:観察的な細密な心の作用。
41.「睡眠」:心の鈍重さ。明瞭に境を取らしめないもの。
42.「悪作(あくさ)」:過去においてなしたこと、なさなかったことを追想して悔やむもの。
43.「貪」:むさぼり。身体、財宝等に染著し已得を守り、未得を求めるもの。「無貪」の反対。
44.「瞋」:瞋恚。憎しみ。他を憎み嫌うもの。「無瞋」の反対。
45.「慢」:慢心。他に対して己の方が優れているという心の高上り。「?」に似るが、「慢」は他人に対して誇りたがる心であるという。
46.「疑」:四諦、因果に対する懐疑。
以上で四十六で、並べるだけでも一大作業です。
【大佛頂首楞嚴経】十巻(詳(ツマビ)らかには《大佛頂如來密因修証了義諸菩薩萬行首楞嚴経》と云ひ、
唐の中宗皇帝の神龍元年(AD七〇二)に般刺密帝の訳出せるものであるは、
実に此の首楞嚴三昧を所依の三摩地とする経典にして、
其の思想は多かれ少なかれ、首楞嚴三昧経に基き、首楞嚴三昧(如來藏)の開顕を教へ、且つ釈学するものである。
従って此の経が、往昔より【禅宗】の【所依の経典】とされている限り、
【首楞嚴三昧】の何たるかを知ることは、吾々に取つて全き無意昧なことでなく、
むしろ此の三昧の研究に依つて、後世の祖師禅的思想が、かかる種の三昧思想に基いて発展したものではなかろうかとの示唆を得るのである。
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
無色界定
色というのは物質的なもののことなので、物質的な束縛から完全に解放された世界を無色界といいます。
つまり無色界は肉体のない世界です。
無色界定では、心が肉体の束縛を離れて自在に働きます。
天親菩薩の『倶舎論くしゃろん』には、空無辺処くうむへんしょ定、識無辺処しきむへんしょ定、無所有処むしょうしょ定、非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定の4つが説かれています。
⑤空無辺処くうむへんしょ定とは、虚空の無辺なることを観察して、第四禅を離れて生ずる状態です。
⑥識無辺処しきむへんしょ定とは、無辺の識を思って、空無辺処を離れて生ずる状態です。
心の働きが虚空と同じようにほとりがないと観察します。
⑦無所有処むしょうしょ定とは、無所有を思って、識無辺処を離れて生ずる状態です。
何ものも対象を見ない観察です。
⑧非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定とは、そのように見る想念があるのでもなく、ないのでもないと観察します。
『倶舎論』によれば、「非想非ひそうひ非想処ひそうしょ」という名前は、「想の昧劣なるによるなり、謂く明勝の想なければ、非想の名を得、昧劣の想あるが故に非非想と名付く」と解説されています。
これは、表象された明らかな心の動きは無いので、非想と名づけられ、極めてわずかな心の動きが無いわけではないために、非非想となづけられる、ということです。
無所有処を離れて、極めてわずかな想がある状態です。
また余人の作にも非ず。
しかるに彼の如来出世するも、
及び未だ出世せざるも法界常住なり。
(漢文:縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如來出世 及未出世 法界常住)
(引用:『雑阿含経ぞうあごんきょう』)
では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。
例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。
『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。
1.心が変わりにくくなる
2.すべての生きとし生けるものに平等に接する
3.布施をする
4.正しい仏教の先生に親しみ近づく
5.仏法を求める
6.出家する
7.仏身を愛楽する
8.仏法を説く
9.自惚れを破る
10.真実の言葉を語る
初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。
それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。
それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。
『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。
百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。
滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。
このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』
(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)
(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)
これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。
これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。
それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。
②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。
③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。
④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。
⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。
⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。
⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。
依他起性について、教えて下さい。
【回答】
依他起性(えたきしょう)とは、
唯識学の専門用語ですが、原始仏教で言う、因縁生起(縁起)の意味です。
意味は文字通り、「他に依りて起きるもの」で、様々の条件の結びつきによって、そこにある、ということです。一言でいえば、私達の現実の相です。
因縁和合して、出来上がった現象です。
存在という点からいえば、多くの力によって支えられている、という存在の実態です。
言葉を変えれば、無我、無常の真相でもあります。
色々な力によって支えられていながら、八識として生きているのが、私達であります。
八識とは、その根底に阿頼耶識に無限の過去の種子が薫習、集積された存在です。
阿頼耶識には、無限と言ってもよい位の善悪の様々な種子を薫習しており、それによって存在している、という点で、八識は依他起性です。
私達とは、自分が蓄えてきた総合的な自己、しかも、その時の条件によって、様々に千変万化する自己、それが依他起性としての自己です。
しかも、これは阿頼耶識に限ったことではなく、阿頼耶識を一つの場として、末那識や意識、前五識が働いています。
それらが、相互に関わり合って、働いているのが私です。
それだけではなく、八つの心王(しんおう)に、それぞれ、心所(しんじょ)と呼ばれる、51の細かい心の働きが、付随しています。
私が生きているということは、複雑な心の関わり合いの中にある、ということです。
すべてが縁に依って生起し、縁に依って消滅する存在が、私達「依他起性」というものなのです。
自分の思いや願いで、自由自在になるようなものではありません。
自分の存在が、縁に依って存在するように、善も悪も、有漏心も無漏心も、依他起性です。
これは、私達の識が、依他起性のものとして在る、という言い方ですが、
同時にそれは、こういう複雑な仕組みの上に、私達の認識活動が展開していることでもあります。
ものを見たり、聞いたりする、という単純な営みの仕組みの中に、
能変(のうへん)としての識の働きが、十重二十重に重なり合い、関わり合っているのが、私達の認識だ、ということです。
あらゆるものは、他のものに依存して存在が成り立っている。
● 自性は無い
それが、依他起性依他起性という、世界の真実
● これを凡夫の側から見たのが、遍計所執性
仏の側から見ると、円成実性
完全な悟りは最早弓を手に持つ必要も無し。
剣道の世界ではこれを無刀流と云(い)う。
i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。
ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。
1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。
2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。
iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。
iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。
v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。
vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。
vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。
viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。
ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。
x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。
xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。
xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。
引用元:心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い
https://www.yuishiki.org/category/%e5%94%af%e8%ad%98/%e5%bf%83%e7%8e%8b/
『秘蔵宝鑰』の理解なしに『般若心経』はわからない。
↓
● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、
その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、
空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。
● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。
例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。
● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。
けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。
● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。
● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。
その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を
――単なる論理としてではなく――
強い実感を伴って了解できる。
● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。
①見分無くて、相分無い、
ここでは、一切の心の内容物が無い、
眼の内にも、眼の外にも、相が無い、故に見る作用も無い、
故に得るものが無い、
②見分あって、相分無い、
ここでは、円満相である真如の、あるがままの状態として識はある、が取る者が居ないので、取る物も無い、
③見分あって、相分ある、
ここでは、円満相の中から、一部分において識自体分の焦点をあて、見る、
見たことで、相を得た、この相は円満相真如から動いた識の分化された見分によって、見られ得られた故に、相分として顕れ、見分によって得られたもの、
ーーー
つまり、
見ることで、相は、顕れ、
見ないことで、相は消える、
脳の実際も、唯識と同じだと思われます、
全ての世界相は、脳の後頭部のスクリーンにて、構築され、認識されていると、
ただ、思考や雑念は後頭部では無くて、前頭葉と左脳が当該箇所としてあたる、
言語も文字として見る場合は映像なので、後頭部と思われる、
なので、見る時と読んだ時の、脳の関与部位は離れているのでは?と思う。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
必ず①~③まで見ること。
空海的解釈がよくわかる
見るべき内容無し。
ポタ公の嫌がらせウザいな。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
*****************
禅定で言えば、無分別のこと?何処へも向かっていない点(3次元的には極小の球体)
2次元で描写してみると、欲界世間から引き隠って部屋で一人になったのが欲界定
0禅定🚙ーーーー👤ーーーー🏚️
今度は、完全に物質世界を離れて、部屋も忘れ、我だけの意識世界に遊び、欲世間を遠離した事による喜悦を感じている
1禅定ーーーーー👤ーーーー
次に、我の様々な想いが止んで、尋ね伺うような荒い思考と微細な想いが消えてしまい、
見るべき内容無し。
レベルを下げるレスは
自粛願います。
*****************
>色・受・想・行・識は、人間の認識作用を説いた仏教の教えです。 > この認識作用を完全に停止させる事を「五蘊皆空」と言います。
五蘊とは有為法の分類であって、物質的存在と精神作用の事。
五蘊皆空とは、先述の通り。
>pañca skandhān tāṃś ca svabhāvaśūnyān ですので、 >五蘊を、それらは自性空である となります。
以下、参照。 pañca skandhān 「五蘊を」 •pañca:「五」 •skandhān:「蘊(要素、集合)」 ※対格形(「~を」)。 tāṃś ca svabhāvaśūnyān 「それらが自性空(本質的に空)であることを」 •tāṃś:「それらを」 •ca:「そして」 •svabhāvaśūnyān:「自性空、本質が空である(複数形)」 ※「svabhāva」は「自性」、「śūnya」は「空」。
その「空(svabhāvaśūnyān)」は形容詞で「空じる」という動詞ではない。
よこからだが
刹那生滅はダルマにたいしてもあるので
物質に限らず、
去るものというダルマ
去らないというダルマ
去るというダルマ
去らないというダルマ
これらも刹那生滅やないかな
タコ🐙はあれ、認知障害者だろ。
しかもかの時より悪化してるな。
手間の掛からない棺桶付き自動自滅型馬鹿だなぁwwww
能動的に擬似的な無為法
有為法でありながら無漏
プラパンチャには「広がり」「分裂」という語源があるそうで、まさにそれって「分別」ではないかって思われた。