i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。 ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。 1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。 2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。 iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。 iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。 v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。 vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。 vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。 viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。 ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。 x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。 xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。 xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。
これは普通「五蘊は皆空なりと照見して」と読み下すのですが、なんと、これに異論をとなえる人が現れました。
↓
>714:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:11:09.30 ID:8CZMz
>五蘊は空じる対象であって、五蘊自体が空な訳ないでしょう。
>720:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/08(火) 01:27:47.44 ID:8CZMz
>五蘊を全て空じるから五蘊皆空って言うんですけど^^
これに対して私は反証します。
↓
726:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 07:56:37.70 ID:a73cR
漢訳 照見五蘊皆空
読み下し 五蘊は皆空なりと照見して
原典和訳 五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
(宮坂宥洪 真釈 般若心経 (角川ソフィア文庫)より)
812:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/08(火) 12:10:55.05 ID:NWMbh
話すのもいちいち馬鹿馬鹿しい事だけど「照見」五蘊皆空だから。
つまり、ここでは「照見」が動詞として、「空」は形容詞として使われている。
対してもし「空」が動詞として使われるのなら、空五蘊(五蘊を空じる)ってなるから。
中国語を習った人には常識ですが、動詞が先に来るのですよ。
さて、みなさん!
般若心経の「照見五蘊皆空」の正しい解釈はどちらでしょう?
みなさんの忌憚のないご意見をお待ちしております。
(なお、誹謗中傷はその場で退場して頂きます)
次は受ですね。
【苦・楽】または【苦でも楽でもない】(捨受)と【感受する作用】を云うそうです。
そしてそれは【身受】(五蘊相応)と【心受】(意識相当)に分けられ、以下の通り分類されます。
|苦 |楽 |捨
ーーーーーーーーーーー
身受|苦受|楽受|捨受
心受|憂受|喜受|捨受
まぁ、肉体的なものと精神的なものと云えるでしょうね。
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。
<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺
妙観察智
↓
平等性智
↓
大円鏡智
↓
成所作智
となります。
この人は取りあげ、あの人は下げる、という心が無くなった状態をいいますね、
こうなって、初めて心が鏡のようになり、能・取、見・相、を遠離して、真如が体現されることになります、
そうすると、五識が統合された唯一の識が受用されます、
いながらにして、ヒマラヤの聖者を見て聞いて会話をしたり、人の過去世を見てきたり、人の心が見えて聞こえたり、します、
ですから、前五識がどうのではなくて、成所作智とは、超越的に五識と同じ所作を為す智なのです。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。
● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。
すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、
また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。
● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、
その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】
はじめて、【前五識】が、
ようやく【成所作智】となり、
阿頼耶識が【大円鏡智】になります。
>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
>この段階を見道という。真如に達するからまた通達位ともいわれる。具体的には四智のうち妙観察智と平等証智との二つの智が生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)
● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と≪【成所作智】≫とは、
この【仏位かにおいてはじめて生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)
ーーーーー
● なお、この【転識得智】は、【仏陀】になって一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。
【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、
【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】、
【仏陀】になると
【大円鏡智】と
【成所作智】が
【獲得される】。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、
「妙観・平等、初地文得、大円・成事、唯仏果起
【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、
【大円鏡智と成所作智】は唯仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)
特に無し
「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と、勝解(しょうげ)と三摩地(さんまじ)とは、一切の心に遍ねし」(倶舎論・分別根品第二)
六分類の一番目は、「大地法」ですが、これは善・悪・無記に関係なく、あらゆる心と常に倶生する「心所法」のことで、十あります。
①「受」:対象を心に感受する作用。苦・楽・捨の三を受け入れるもの。五蘊のひとつ。
②「想」:対象の姿を表象する作用。取像。これも五蘊の一つ。
③「思」:意思的な働きの作用。意思の発動。五蘊の中の「行」と同じ。
④「触」:内なる心と外なる対象の接触。根・境・識の三事の和合で生ずる。
⑤「欲」:希求。物事をしたいという欲求。
⑥「慧」:分別し判断する作用。所縁の正邪、善悪を判別するもの。
⑦「念」:対象を忘失しない心の働き。かつて経験した事柄を記憶維持して後事の不忘失の因となるもの。
⑧「作意」:対象に注意を向ける作用。驚覚の義。
⑨「勝解」:対象のいかなるものかを確認し了解する作用。所縁の境相をこれこれと審決判定するもの。
⑩「三摩地」:定(じょう)。心を浮動させず集中する働き。等持。
アビダルマでは、この十の作用すべてが、心に伴って常に起こるとしています。心の作用のもっとも基本的な要素としています。
「信及び不放逸と、軽安(きょうあん)と捨と慚と愧と、ニ根(無貪と無瞋)及び不害と、勤とは唯善心に遍ねし」(倶舎論・同上)
二番目は「大善地法」で、あらゆる善心と常に倶生する「心所法」で、十あります。
⑪「信」:心の清らかさ、澄み切った心。また四諦、三宝、業及び果報に対する確信、忍許。
⑫「不放逸」:なげやりの心でなく精励して善をおこなうこと。また心を守護するもの。「放逸」の反対。
⑬「軽安」:心が軽快で巧みな適応性があること。
⑭「捨」:心が平静で偏りのないこと。
⑮「慚」:2通りの解釈。ひとつは他社の徳に対する恭敬。ふたつは自らを観察することによって己の過失を恥じること。
⑯「愧」:これも二通りの解釈。ひとつは自己の罪に対する畏怖。ふたつは他を観察することによって己の過失を恥じること。
⑰「無貪」:貪りのないこと。境に対して愛染の貪りのないこと。欲望の対象を厭捨すること。
⑱「無瞋」:憎しみのないこと。他を愛憐すること。
⑲「不害」:他を害しないこと。非暴力。
⑳「勤」:精進。善に対して果敢にいそしむこと。不放逸よりも積極的に善に取り組む。
「癡(ち)と逸と怠と不信と、?(こん)と掉(じょう)とは、恒に唯染なり」(倶舎論・同上)
「大煩悩地法」はあらゆる染汚心(煩悩)と倶生する「心所法」で、六あります。
21.「癡」:無明。愚癡。おろかさ。心の昏さ。「慧」のないもの。
22.「放逸」:なげやりで善に努めないこと。「不放逸」の反対。
23.「懈怠(けたい)」:善に対して敢為ならぬこと。怠惰。「勤」の反対。
24.「不信」:心が澄明でなく信順のないこと。「信」の反対。
25.「?沈(こんじん)」:心の沈鬱。不軽快。「軽安」の反対。
26.「掉挙(じょうこ)」:心の軽躁。浮動して静まりのないこと。
(4)大不善地法
「唯不善心に遍ねきは、無慚及び無愧なり」(倶舎論・同上)
「大不善地法」はあらゆる不善心と倶生する「心所法」で、ニあります。不善=悪としてはここに挙げる二つが最も重視すべきものといえます。
27.「無慚」:他者の徳に対し恭敬の心がないこと。「慚」の反対。
28.「無愧」:自己の罪に対する畏怖の念がないこと。「愧」の反対。
「唯不善心に遍ねきは、無慚及び無愧なり」(倶舎論・同上)
「大不善地法」はあらゆる不善心と倶生する「心所法」で、ニあります。不善=悪としてはここに挙げる二つが最も重視すべきものといえます。
27.「無慚」:他者の徳に対し恭敬の心がないこと。「慚」の反対。
28.「無愧」:自己の罪に対する畏怖の念がないこと。「愧」の反対。
(5)小煩悩地法
「忿(ふん)と覆と慳(けん)と嫉(しつ)と悩と、害と恨と諂(てん)と誑(おう)と?(きょう)と、是くの如き類を名づけて、小煩悩地法と為す」(倶舎論・同上)
「小煩悩地法」は、心が第六意識として働くときのみおこり、無明とだけ倶生する「心所法」で、十あります。
29.「忿」:いかり。憤発、短気。「愼」と同種類か。
30.「覆」:自己の過ちの隠蔽。
31.「慳」:ものおしみ。吝嗇、聖教や財を惜しむもの。
32.「嫉」:ねたみ。他の栄達を妬むもの。
33.「悩」:他の諌めを入れず、自ら苦悶するもの。玄奘の漢訳では「悩」とするが、真諦は「不捨」と漢訳している。自己の考えに固執して捨てない。
34.「害」:害意。他を損せんとして打撃罵詈をなすもの。「不害」の反対。
35.「恨」:うらみ。忿に次いでおこる。
36.「諂」:心の邪曲。本心を顕さず、従順をよそおい、他を籠絡しようというもの。
37.「誑」:欺瞞。惑他で、有徳をよそおい、上品に擬して他をして顛倒の理解を生じさせようというもの。
38.「?」:自己満足。自己の戒行、智慧、身分、財産などに染著自負して、他をしのごうとするもの。
「欲は尋、伺有るが故に、善の心品の中に於いては、二十二の心所あり。有る時は悪作を増す。・・・四煩悩(貪、瞋、慢、疑)・忿等・悪作あるは二十一なり。・・・睡眠は遍ねく違せず。・・・慢は他に対して心挙がる。・・・」(倶舎論・同上)
「不定法」は、ある時は善心、ある時は、悪心(不善心)、ある時は無記心と伴うので、不定といわれるのですが、八あります。
39.「尋」:推求的な粗大な心の作用。
40.「伺」:観察的な細密な心の作用。
41.「睡眠」:心の鈍重さ。明瞭に境を取らしめないもの。
42.「悪作(あくさ)」:過去においてなしたこと、なさなかったことを追想して悔やむもの。
43.「貪」:むさぼり。身体、財宝等に染著し已得を守り、未得を求めるもの。「無貪」の反対。
44.「瞋」:瞋恚。憎しみ。他を憎み嫌うもの。「無瞋」の反対。
45.「慢」:慢心。他に対して己の方が優れているという心の高上り。「?」に似るが、「慢」は他人に対して誇りたがる心であるという。
46.「疑」:四諦、因果に対する懐疑。
以上で四十六で、並べるだけでも一大作業です。
【大佛頂首楞嚴経】十巻(詳(ツマビ)らかには《大佛頂如來密因修証了義諸菩薩萬行首楞嚴経》と云ひ、
唐の中宗皇帝の神龍元年(AD七〇二)に般刺密帝の訳出せるものであるは、
実に此の首楞嚴三昧を所依の三摩地とする経典にして、
其の思想は多かれ少なかれ、首楞嚴三昧経に基き、首楞嚴三昧(如來藏)の開顕を教へ、且つ釈学するものである。
従って此の経が、往昔より【禅宗】の【所依の経典】とされている限り、
【首楞嚴三昧】の何たるかを知ることは、吾々に取つて全き無意昧なことでなく、
むしろ此の三昧の研究に依つて、後世の祖師禅的思想が、かかる種の三昧思想に基いて発展したものではなかろうかとの示唆を得るのである。
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
無色界定
色というのは物質的なもののことなので、物質的な束縛から完全に解放された世界を無色界といいます。
つまり無色界は肉体のない世界です。
無色界定では、心が肉体の束縛を離れて自在に働きます。
天親菩薩の『倶舎論くしゃろん』には、空無辺処くうむへんしょ定、識無辺処しきむへんしょ定、無所有処むしょうしょ定、非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定の4つが説かれています。
⑤空無辺処くうむへんしょ定とは、虚空の無辺なることを観察して、第四禅を離れて生ずる状態です。
⑥識無辺処しきむへんしょ定とは、無辺の識を思って、空無辺処を離れて生ずる状態です。
心の働きが虚空と同じようにほとりがないと観察します。
⑦無所有処むしょうしょ定とは、無所有を思って、識無辺処を離れて生ずる状態です。
何ものも対象を見ない観察です。
⑧非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定とは、そのように見る想念があるのでもなく、ないのでもないと観察します。
『倶舎論』によれば、「非想非ひそうひ非想処ひそうしょ」という名前は、「想の昧劣なるによるなり、謂く明勝の想なければ、非想の名を得、昧劣の想あるが故に非非想と名付く」と解説されています。
これは、表象された明らかな心の動きは無いので、非想と名づけられ、極めてわずかな心の動きが無いわけではないために、非非想となづけられる、ということです。
無所有処を離れて、極めてわずかな想がある状態です。
また余人の作にも非ず。
しかるに彼の如来出世するも、
及び未だ出世せざるも法界常住なり。
(漢文:縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如來出世 及未出世 法界常住)
(引用:『雑阿含経ぞうあごんきょう』)
では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。
例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。
『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。
1.心が変わりにくくなる
2.すべての生きとし生けるものに平等に接する
3.布施をする
4.正しい仏教の先生に親しみ近づく
5.仏法を求める
6.出家する
7.仏身を愛楽する
8.仏法を説く
9.自惚れを破る
10.真実の言葉を語る
初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。
それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。
それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。
『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。
百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。
滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。
このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』
(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)
(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)
これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。
これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。
それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。
②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。
③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。
④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。
⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。
⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。
⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。
依他起性について、教えて下さい。
【回答】
依他起性(えたきしょう)とは、
唯識学の専門用語ですが、原始仏教で言う、因縁生起(縁起)の意味です。
意味は文字通り、「他に依りて起きるもの」で、様々の条件の結びつきによって、そこにある、ということです。一言でいえば、私達の現実の相です。
因縁和合して、出来上がった現象です。
存在という点からいえば、多くの力によって支えられている、という存在の実態です。
言葉を変えれば、無我、無常の真相でもあります。
色々な力によって支えられていながら、八識として生きているのが、私達であります。
八識とは、その根底に阿頼耶識に無限の過去の種子が薫習、集積された存在です。
阿頼耶識には、無限と言ってもよい位の善悪の様々な種子を薫習しており、それによって存在している、という点で、八識は依他起性です。
私達とは、自分が蓄えてきた総合的な自己、しかも、その時の条件によって、様々に千変万化する自己、それが依他起性としての自己です。
しかも、これは阿頼耶識に限ったことではなく、阿頼耶識を一つの場として、末那識や意識、前五識が働いています。
それらが、相互に関わり合って、働いているのが私です。
それだけではなく、八つの心王(しんおう)に、それぞれ、心所(しんじょ)と呼ばれる、51の細かい心の働きが、付随しています。
私が生きているということは、複雑な心の関わり合いの中にある、ということです。
すべてが縁に依って生起し、縁に依って消滅する存在が、私達「依他起性」というものなのです。
自分の思いや願いで、自由自在になるようなものではありません。
自分の存在が、縁に依って存在するように、善も悪も、有漏心も無漏心も、依他起性です。
これは、私達の識が、依他起性のものとして在る、という言い方ですが、
同時にそれは、こういう複雑な仕組みの上に、私達の認識活動が展開していることでもあります。
ものを見たり、聞いたりする、という単純な営みの仕組みの中に、
能変(のうへん)としての識の働きが、十重二十重に重なり合い、関わり合っているのが、私達の認識だ、ということです。
あらゆるものは、他のものに依存して存在が成り立っている。
● 自性は無い
それが、依他起性依他起性という、世界の真実
● これを凡夫の側から見たのが、遍計所執性
仏の側から見ると、円成実性
完全な悟りは最早弓を手に持つ必要も無し。
剣道の世界ではこれを無刀流と云(い)う。
i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。
ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。
1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。
2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。
iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。
iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。
v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。
vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。
vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。
viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。
ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。
x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。
xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。
xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。
引用元:心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い
https://www.yuishiki.org/category/%e5%94%af%e8%ad%98/%e5%bf%83%e7%8e%8b/
『秘蔵宝鑰』の理解なしに『般若心経』はわからない。
↓
● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、
その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、
空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。
● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。
例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。
● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。
けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。
● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。
● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。
その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を
――単なる論理としてではなく――
強い実感を伴って了解できる。
● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。
①見分無くて、相分無い、
ここでは、一切の心の内容物が無い、
眼の内にも、眼の外にも、相が無い、故に見る作用も無い、
故に得るものが無い、
②見分あって、相分無い、
ここでは、円満相である真如の、あるがままの状態として識はある、が取る者が居ないので、取る物も無い、
③見分あって、相分ある、
ここでは、円満相の中から、一部分において識自体分の焦点をあて、見る、
見たことで、相を得た、この相は円満相真如から動いた識の分化された見分によって、見られ得られた故に、相分として顕れ、見分によって得られたもの、
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つまり、
見ることで、相は、顕れ、
見ないことで、相は消える、
脳の実際も、唯識と同じだと思われます、
全ての世界相は、脳の後頭部のスクリーンにて、構築され、認識されていると、
ただ、思考や雑念は後頭部では無くて、前頭葉と左脳が当該箇所としてあたる、
言語も文字として見る場合は映像なので、後頭部と思われる、
なので、見る時と読んだ時の、脳の関与部位は離れているのでは?と思う。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
必ず①~③まで見ること。
空海的解釈がよくわかる
見るべき内容無し。
ポタ公の嫌がらせウザいな。
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
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禅定で言えば、無分別のこと?何処へも向かっていない点(3次元的には極小の球体)
2次元で描写してみると、欲界世間から引き隠って部屋で一人になったのが欲界定
0禅定🚙ーーーー👤ーーーー🏚️
今度は、完全に物質世界を離れて、部屋も忘れ、我だけの意識世界に遊び、欲世間を遠離した事による喜悦を感じている
1禅定ーーーーー👤ーーーー
次に、我の様々な想いが止んで、尋ね伺うような荒い思考と微細な想いが消えてしまい、
見るべき内容無し。
レベルを下げるレスは
自粛願います。
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>色・受・想・行・識は、人間の認識作用を説いた仏教の教えです。 > この認識作用を完全に停止させる事を「五蘊皆空」と言います。
五蘊とは有為法の分類であって、物質的存在と精神作用の事。
五蘊皆空とは、先述の通り。
>pañca skandhān tāṃś ca svabhāvaśūnyān ですので、 >五蘊を、それらは自性空である となります。
以下、参照。 pañca skandhān 「五蘊を」 •pañca:「五」 •skandhān:「蘊(要素、集合)」 ※対格形(「~を」)。 tāṃś ca svabhāvaśūnyān 「それらが自性空(本質的に空)であることを」 •tāṃś:「それらを」 •ca:「そして」 •svabhāvaśūnyān:「自性空、本質が空である(複数形)」 ※「svabhāva」は「自性」、「śūnya」は「空」。
その「空(svabhāvaśūnyān)」は形容詞で「空じる」という動詞ではない。
よこからだが
刹那生滅はダルマにたいしてもあるので
物質に限らず、
去るものというダルマ
去らないというダルマ
去るというダルマ
去らないというダルマ
これらも刹那生滅やないかな
タコ🐙はあれ、認知障害者だろ。
しかもかの時より悪化してるな。
手間の掛からない棺桶付き自動自滅型馬鹿だなぁwwww
能動的に擬似的な無為法
有為法でありながら無漏
プラパンチャには「広がり」「分裂」という語源があるそうで、まさにそれって「分別」ではないかって思われた。