ゆゆしき法界 パート36最終更新 2024/12/05 16:331.神も仏も名無しさん7khqM【ゆゆしき法界とは】Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。前スレゆゆしき法界 パート33https://talk.jp/boards/psy/1708481282ゆゆしき法界 パート34https://talk.jp/boards/psy/1708884825ゆゆしき法界 パート35https://talk.jp/boards/psy/17092529472024/03/04 15:56:10966コメント欄へ移動すべて|最新の50件917.神も仏も名無しさんocnpj決死ナルシズム造山活動〜 🧟2024/06/29 14:26:01918.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm1c584741:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/06/29(土) 20:27:13.13 ID:crZHU3jqでおー🫵😂教会や寺社から出禁処分!神社での失禁!文化財の破壊!一時期措置入院!現在も統失発狂!バイトを即クビ! ↓2024/06/29 21:52:04920.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmQqJ22こうしたことから思うに、声聞とは、理論・技能・特技などの高度なレベルをもつ出家主義者で、仏土においてもその存在価値をもち、また教団上、少なからず大きな役割を有する階層であったと考えられる。そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。即ち、「童子のれに沙を繋めて仏塔を為れる。かくの加き諸の人等は、皆、日に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の数えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示される、「橋慢・怠・計我・浅識・深著・不解・不信・盛・疑惑・誹謗・軽・憎・・結恨」という、いわゆる十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する著告と言えよう2024/07/08 12:25:29921.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmFluoEこうしたことから思うに、声聞とは、理論・技能・特技などの高度なレベルをもつ出家主義者で、仏土においてもその存在価値をもち、また教団上、少なからず大きな役割を有する階層であったと考えられる。そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。即ち、「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を為れる。かくの如き諸の人等は、皆、已に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の教えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示される、「憍慢・懈怠・計我・浅識・深著・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽賤・憎・嫉・結恨」という、いわゆる十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する警告と言えよう。(同論文より引用)2024/07/08 12:31:37922.神も仏も名無しさんefSV2せいうんこあらわるるっ〜!!!!!🧟2024/07/08 13:23:08923.神も仏も名無しさんW4uIn文化的なジャイアニズム(『ドラえもん』に登場する横暴なキャラ由来、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」に象徴される)2024/07/08 14:49:39924.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmFluoE>>758他人の体験や知識に対する妬みや嫉み・・・実に見苦しいものです。此のスレに参加されたいのなら、相応の努力をされてからにして下さい。誹謗中傷はお断りです。エラーの原因が分からない?2024/07/08 18:09:29925.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmFluoE宗教板にて、バランスが取れた宗教感覚を有してレスをできる人がほんの数人しかいない現状で、此の様に多岐にわたっていろいろと論じるのは、実に骨の折れる作業ですw先ず住人の95%位は、偏った宗教感覚ですからね。それにしても、規制が続くのはスクリプト荒らし対策なのでしょうかね。困ったものです。2024/07/08 19:49:20926.神も仏も名無しさんnropY文化的なジャイアニズム(『ドラえもん』に登場する横暴なキャラ由来、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」に象徴される)2024/07/08 20:03:34927.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmAIqBtカトリック教会のカテキズム第1編信仰宣言第2部キリスト教の信仰宣言第3章聖霊を信じます683「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえない」(一コリント12・3)。「神は、『アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ46)。信仰によるこの認識は、ただ聖霊の助けだけによって可能となります。キリストと交わるには、まず聖霊に動かされなければなりません。わたしたちに働きかけ、わたしたちのうちに信仰を生じさせてくださるのは聖霊です。信仰の最初の秘跡である洗礼によって、御父のうちに源泉を持ち、御子によってわたしたちに与えられるいのちが、教会の中で、聖霊により、親しく一人ひとりに与えられます。2024/07/11 10:45:09928.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmAIqBt18聖霊[*] pneuma hagion (5) spiritussanctus【笑]Holy Spinit、新約聖書以前になる器についてるのはクムラン文をお最初であるが、新約聖書では「神の部「。おしたキリストの意をしばし豊感と呼ぶ、日数会における聖神、・富はヘプライでルニアッハ。ギリシア語でプネウマだが、どもに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある、キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト。そして聖霊が*三位一体としての神を表す2024/07/11 10:55:50929.鹿野園栖雲居士◆dqam8SqGUPdmAIqBt聖霊[ギ]pneuma hagion(ラ) spiritus sanctus(英)Holy Spinit新約聖書以前になる器「聖なる霊」について語るのはクムラン文が最初であるが、新約聖書では「神の霊」「復活したキリストの霊」の意をしばしば聖霊と呼ぶ。正数会における聖神、霊はヘブライ語ででルーアッハ。ギリシア語でプネウマだが、ともに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある。キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト、そして聖霊が三位一体としての神を表す。(『岩波キリスト教辞典』 「聖霊」 より)2024/07/11 11:01:29930.神も仏も名無しさんaSeSj文化的なジャイアニズム(『ドラえもん』に登場する横暴なキャラ由来、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」に象徴される)2024/07/11 11:05:49931.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmDqYFt又た云く、「始覚の本に合するを之れ仏と謂う」と。言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王湖畔を以って本覚と為す。個より此の理に非ず!既に此の理に非されば、何者か臭れ覚?若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て忽然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這個の道理なり。然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。(『大慧普覚禅師語録』巻十八)2024/07/11 12:18:26932.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmDqYFtいずれも、本来性(本覚)に自足し、現実態の自己を克服する契機(始覚)をもたない、という点では、択ぶところが無かったからです。大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)には立っています。しかし、人は、現実には迷っている。だから看話によって大悟し(「始覚」、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬーそれが大慧の主張でした。「本覚→不覚→始覚→本覚」というこの構造は、近くは『碧眼録』にみられたかの円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に-方法を禅定から看話に発展させつつ-回帰するものでもありました。さきにも述べたように、このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に応えるものであり、中国禅の論理のひとつの完成形と言えるでしょう。のちの『十牛図』の構成も、この「本覚→不覚→始覚→本覚」という円環構造を視覚化したものにほかなりません。(『禅思想史講義』小川隆 より)2024/07/11 12:38:30933.神も仏も名無しさんL8CVOせいうんこハッタリナルシズムショー盛り上がって躁転してそーやなー🧟🧟🧟🧟🧟2024/07/11 19:16:35935.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmFxFv8そして、覚ってみると念を離れるわけですから、時間・空間の限定も離れます。まさに時間を超えた、無分別智の世界に入ることになります。そうすると、時間的な変化を超えた世界があったと理解し、時空を超えた世界に目覚めるわけです。その時空を超えた世界は、時間の世界に戻ってきて説明しょうとすると、本より覚っていると言わざるをえません。本よりある世界というように表現せざるをえないことになってしまいます。そのため始覚があり、それは本覚と同じだからと説明しているのです。この初めて覚るということは、私たちは現実に体験するわけです。禅の世界でも見性を果たしたとか、さらに覚りが深まったとかはありえる話です。ですから、初めて覚ることは厳然として実際にあるわけで、なぜそうなのかというと、今度は不覚があるからだ、覚りを成就していない状態があるからだと「起信論」では説明します。しかも、迷っていること自体が本来覚りの世界があるからこそ迷っていると言えるのだという論理を展開しています。2024/08/06 12:06:58936.神も仏も名無しさんyUgrR992:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:03:37.19 ID:NyfO5dCzそうかそうか、頑張れや〜💕994:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:04:18.32 ID:NyfO5dCzビギナーさん、かわいいな😍999:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:07:36.87 ID:NyfO5dCzはいはい、かわいいなぁ〜💕2024/08/06 12:14:09937.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmtOT3Oルカ福音書 10:25-37 に記された論争は、ある律法の専門家が、イエスを陥れようと、「何をなすことで私は永遠の生命を受け継ぐことができるか」と問うところから始まる。イエスは彼に「律法には何と書いてあるか、あなたは〔それを〕どう〔解釈して〕読むか」と尋ね返し、彼は神を愛し、隣人を自分を愛するように愛するという原則を正しく答える。イエスは彼に「あなたは正しく答えた。これを成せ、〔そうすることによって〕あなたは生きる」と促す。律法学者は「では私の隣人とは誰か」と質問を返す。注目したいのは、ルカによる福音書がここで、この質問はこの律法学者が自分自身を正当化するためにした質問であると述べていることである。この質問は、隣人とそうでは ない者が存在するという発想に基づいており、そのように「隣人」の範囲を定めた場合に、「隣人」愛を実現し得 ているという自負があったであろうことを、「正当化」という動機の存在が示している。イエスは彼のこの問いに対し、あるたとえ話をもって答える。強盗に襲われ道端に倒れていた重傷者を、聖職者たちは見捨て、しかしサマリア人に属する通りがかりの人物が助けた、という話である。サマリア人とは、イエスや 律法学者たちが属し、おそらくたとえ話のけが人もそう前提されているであろうユダヤ人とは反目し合う関係にあっ たとされている民族である。この話を語り終えた後、イエスは「では、これらの三人の中の誰が、強盗たち〔の手〕 に落ちた人の隣人になったと、あなたには思われるか」と、律法学者に問う。2024/08/18 09:42:58938.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmtOT3Oここに驚くべき発想の転換が示され ている。「隣人」とは「である」と定めることができるものではなく、「なる」ものなのだ、というのである。誰かが自分の「隣人である」と固定しようとする発想は、「隣人でない」存在を生み出すことに直結する。そのように隣人と非隣人とを区別するところに差別や敵意が生まれる。すなわち、隣人を限定しようとする「隣人」愛こそが戦争や差別を生み出すといってよいのではないか。前項において概観した、核をめぐるキリスト教の言説の中には、安全保障や経済的繁栄などを「正当化」しようとする(あるいは少なくともそのような目的と密接にかかわった)ものが含まれていた。また、隣人と非隣人を区別する発想に基づくものが含まれていた。しかし、「善いサマリア人のたとえ」(ルカ 10:25-37)は、我々に、隣人の地平を無限定に広げていこうとするような隣人愛こそが、互いの尊厳に向ける深い敬意や、平和を生み出し、「生きる」者となることを示している。核時代におけるいかなるキリスト教倫理も、「隣人」愛という自己正当化の動機についての自己批判なしには成立し得ないのである。2024/08/18 09:43:14939.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmtOT3O「核時代とキリスト教―核をめぐるキリスト教の言説についての一考察―」1澤村 雅史2024/08/18 09:45:44940.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmkKlSeその「耕田」とよばれるバーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊が托鉢のために、そこに立ったのを見た。見て、彼は、世尊にむかっていった。「沙門よ、わたしは耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである。沙門よ、そなたも、耕して種を蒔くがよろしい。耕し種を蒔いて、しかる後に食するがよろしい」「婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである」「されど、わたしどもは、そなたゴータマ(瞿曇)の、軛も、鋤も、鋤の先も、鞭も、牛も見たことはない。それにもかかわらず、そなたゴータマが、〈婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである〉というのは、どうしたことであるか」そして、「耕田」とよばれるバーラドヴァージャ姓の婆羅門は、偈をもって世尊にいった。「そなたはみずから耕す者なりといえどわれいまだそなたの耕すを見ずわれはそなたに問う、語れよかしいかにしてわれ、そなたの耕すを知らん」世尊もまた、偈をもって答えていった。「信は種子なり、戒は雨なり智慧は軛につなぎし鋤にして反省はその柄、禅定はその縄正念はわが鋤の先と鞭なり身をまもり、語をまもり食するに量を制し真理をもって草刈をなし楽住をたのしむはわが休息なり精進はわがひく牛にしてわれを静けき安穏に運び行いて帰ることなく到って悲しむことなしかくのごときがわが耕耘にして甘露(涅槃)はその果実なりわれはかくのごとく耕してすべての苦悩より解脱せり」2024/08/18 15:44:28941.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmkKlSe「不可逆」とは端的に言えば、絶対者と人間とのあいだには順序を絶対に「逆にすることが出来ない」厳然とした関係構造が存在するということ、換言すれば、絶対者の自己否定が我々人間に「先立って」働いているという「先行性」が存在することを意味する。絶対者と人間における「不可逆」的関係性を強調したのは滝沢克己だが、彼は両者の関係を「不可同・不可分・不可逆」と捉える。つまり、絶対者と人間とは絶対的に断絶していながら(不可同)、同時に密接につながっている(不可分)のであり、しかも両者は絶対に逆にできない順序をもって区別される(不可逆)という。滝沢においては絶対者と人間との「不可逆」の関係が最重要視され、そこから不可同・不可分的な関係も規定されて把握される。そして滝沢は西田の思索を十分評価しながらも、西田哲学に対して彼独自の批判を行っている。それは、西田哲学における絶対者と人間との関係には「不可逆」の把握が不徹底で曖昧であるという厳しい批判である。2024/08/18 23:04:21942.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmugowJ親鸞は「摂取」(阿弥陀仏による救い)の語に対する左訓(書き添えられた解釈)において、「摂」の横に「もののにくるをおわえとるなり」と注釈している。と同時に、「取」には「むかへとる」と記しているのである(浄土和談』)。これは「追いかける仏」と「迎える仏」を表現しているのであるが、つまり「救いに背を向ける自己」と「救いを希求する自己」をも同時に語っているのである。仏から逃げ、背き続け、悟りから一番遠い自己が現れた時、そのままで仏に迎えられている自己を見るのである。(『構築された仏教思想 親鸞──救済原理としての絶対他力』 釈 徹宗 より)2024/08/22 20:39:18943.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmYaCpjひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。すると、前の鬼が後のに言うには、「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の見は、すぐ死酸の手を取って米で猫った。後の見はますます終ってさらに手を抜き見を取り、調を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の処は水々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。2024/09/03 13:40:09944.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmYaCpjひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。すると、前の鬼が後の鬼に言うには、「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って補った。後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。2024/09/03 13:44:37945.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmtwVHb母の本質と処女の本質とを一つに統一せる・・・・・完全なる愛と美のイデーが、幾千年の昔より人類の願望の的となり、幾度となく想像力によって具体化された2024/09/04 13:15:40946.神も仏も名無しさんV6w3x742:和紙:2024/09/18(水) 10:45:14.22 ID:2oMn7Nrj既に君たちに証を見せる為に台風の進路を変えている日本中を巻き込んでいるイエスの復活と同じであるこれの意味がわかるか?君たちが僕に関われば関わるほど負債は蓄積していく僕はどんどんやるよ疑うなら証明する為にとことんやるね2024/09/20 05:16:25947.神も仏も名無しさんSVpIjセイウンコーンが居着いているよーだ🧟2024/09/20 07:37:21948.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmEU9Dbhttps://i.imgur.com/lis1VLT.jpeg2024/09/20 08:58:02949.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmVs9ch0997 神も仏も名無しさん 2024/09/20(金) 18:46:30.16>>994ちがわねーじゃん。。w否定即肯定・肯定即否定なのだから、無=有、有=無です。。あなた、自分でわかってないことを引用してるよね。。パッチワークというやつ。。いつものことだが。。wID:B8FRagA/(21/22)2024/09/21 04:13:21950.神も仏も名無しさんbmMRGセイウンコーン〜げんきだなー🧟2024/09/22 19:57:11951.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm8dBMJこの真言は何物をか詮すや。よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。かの字母とは梵書の阿字等乃至町字等これなり。この阿字等はすなわち法身如来の一ーの名字密号なり。乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。2024/09/30 22:11:04952.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm8dBMJこの真言は何物をか詮すや。よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。この阿字等はすなわち法身如来の十一の名字密号なり。乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。(『声字実相義』空海 より)2024/09/30 22:16:11953.◆JBLfMwCXhYeOs46聖ウンあげ2024/10/02 14:34:49954.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmkfkImhttps://i.imgur.com/5c9UBub.jpeg2024/10/02 20:11:20955.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmaA64Jまた香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。かくのごとくして大に潙まうす、「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」大潙のいはく、「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」つひに偈をつくりていはく、 一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず 動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず 処々蹤跡無し、声色外の威儀なり 諸方達道の者、咸く上上の機と言はんこの偈を大潙に呈す。大潙いはく、「此の子、徹せり。」2024/10/11 08:49:16956.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmc8EzDhttps://i.imgur.com/Neo4VaR.jpeghttps://i.imgur.com/32CLo5t.jpeghttps://i.imgur.com/6oShFBH.jpeg2024/10/12 11:23:44957.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm9mvDi+無知と根本煩悩ただ宇井、和辻がなおざりにし、木村がその虚をいた一点がある。前にも論じた「凡夫を明から遠ざける根本動力」とは何か、という問題だ。私は木村説を敷衍するかたちで、それを本能と言語によって駆動される盲目的生存欲望、根本煩悩であると推定した。つまり、根本悩に覆われているから無知なのであり、無知だから根本悩に覆われるのだ。盲目的だから無知になるのであり、無知だから盲目的になるのだ。この二者は相依の関係にある。ナーガールジュナは「もし無明の因縁を、更にその本を求むれば即ち無にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。この故に求むべからず。もしさらに求めなば即ち戯論に堕せん。これ仏法に非ず」(「大智度論」第九〇巻)と戒めている。しかしあえて、木村、宇井、和辻に倣って、無明のさらなる「本」を追究しようとすれば、無知と根本煩悩の相互依存に突き当ってしまう。相依関係は無限に循環するため、これ以上遡及できない。即ち無明が「本」であり、縁起の起源であり終極なのだ。これが私の無明解釈であり、縁起論の根紙だ。この私説は稿を改めて論述する予定である。2024/10/22 11:01:56958.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmCorcehttps://i.imgur.com/ZQUrY5G.jpeg2024/10/27 05:41:29959.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmWYi9a>>995>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?人間を許容しないのではなくて、教義として許容されないのでは?2024/11/11 19:32:25960.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmWYi9a>>995>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?人間を許容しないのではなくて、教義としてそうした行為が許容されないのでは?2024/11/11 19:35:37961.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmj3Ghq「空」の解釈は、 (一)空を実体視しないものと (二)それを実体視するものとの二つに分けることができる。前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。2024/11/20 22:00:03962.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmj3Ghq(二)の解釈も二種に大別される。前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。2024/11/20 22:00:25963.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmj3Ghqここでわれわれは再び「空の論理とは何か」と問わねばならない。空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。2024/11/20 22:12:50964.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmR3qbx(🔥👃🔥) 燃えるロンパーマン!2024/11/23 14:28:28965.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmKUMHdスティラマティとダルマパーラのあいだには、唯識説の解釈に相違点がある。前者はアーラヤ識が究極的には否定されて、最高実在が個体において現成し、見るものと見られるものとが分かたれない絶対知が得られると説くが、後者はアーラヤ識を実有の識体とみなし、それが変化して見るものと見られるものとが生ずるという説をたてる。後者の説に従えば、絶対知を得てもアーラヤ識そのものが否定されるのではなく、その中にある感営の潜勢力が根絶されるのみであるから、絶対知においても見るものと見られるものはあることになるのである。2024/12/05 16:28:42966.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmKUMHdスティラマティとダルマパーラのあいだには、唯識説の解釈に相違点がある。前者はアーラヤ識が究極的には否定されて、最高実在が個体において現成し、見るものと見られるものとが分かたれない絶対知が得られると説くが、後者はアーラヤ識を実有の識体とみなし、それが変化して見るものと見られるものとが生ずるという説をたてる。後者の説に従えば、絶対知を得てもアーラヤ識そのものが否定されるのではなく、その中にあるの煩悩の潜勢力が根絶されるのみであるから、絶対知においても見るものと見られるものはあることになるのである。前者を無相唯識派、後者を有相唯識派というのです。法相宗は後者の系統。2024/12/05 16:33:59
【イブ】アメリカ人は失笑する!? なぜ日本だけ「クリスマスには、ケンタッキー」なのか? 米兵を通じ12月が「特別な時期」になり、KFCのCMで「七面鳥」の代替品にニュース速報+975655.42024/12/26 02:31:19
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Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。
前スレ
ゆゆしき法界 パート33
https://talk.jp/boards/psy/1708481282
ゆゆしき法界 パート34
https://talk.jp/boards/psy/1708884825
ゆゆしき法界 パート35
https://talk.jp/boards/psy/1709252947
🧟
でおー🫵😂
教会や寺社から出禁処分!
神社での失禁!
文化財の破壊!
一時期措置入院!
現在も統失発狂!
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↓
そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。
即ち、「童子のれに沙を繋めて仏塔を為れる。かくの加き諸の人等は、皆、日に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の数えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。
このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。
つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示さ
れる、「橋慢・怠・計我・浅識・深著・不解・不信・盛・疑惑・誹謗・軽・憎・・結恨」という、いわゆる
十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する著告と言えよう
そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。
即ち、「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を為れる。かくの如き諸の人等は、皆、已に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の教えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。
このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。
つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。
そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示さ
れる、「憍慢・懈怠・計我・浅識・深著・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽賤・憎・嫉・結恨」という、いわゆる十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する警告と言えよう。
(同論文より引用)
あらわるるっ〜!!!!!
🧟
他人の体験や知識に対する妬みや嫉み・・・
実に見苦しいものです。
此のスレに参加されたいのなら、相応の努力をされてからにして下さい。
誹謗中傷はお断りです。
エラーの原因が分からない?
先ず住人の95%位は、偏った宗教感覚ですからね。
それにしても、規制が続くのはスクリプト荒らし対策なのでしょうかね。
困ったものです。
第1編信仰宣言
第2部キリスト教の信仰宣言
第3章聖霊を信じます
683「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえない」(一コリント12・3)。
「神は、『アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ46)。
信仰によるこの認識は、ただ聖霊の助けだけによって可能となります。
キリストと交わるには、まず聖霊に動かされなければなりません。
わたしたちに働きかけ、わたしたちのうちに信仰を生じさせてくださるのは聖霊です。
信仰の最初の秘跡である洗礼によって、御父のうちに源泉を持ち、御子によってわたしたちに与えられるいのちが、教会の中で、聖霊により、親しく一人ひとりに与えられます。
なる器についてるのはクムラン文をお最初であるが、新約聖書では「神の部「。
おしたキリストの意をしばし豊感と呼ぶ、
日数会における聖神、・富はヘプライでル
ニアッハ。ギリシア語でプネウマだが、どもに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある、キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト。そして聖霊が*三位一体としての神を表す
新約聖書以前になる器「聖なる霊」について語るのはクムラン文が最初であるが、新約聖書では「神の霊」「復活したキリストの霊」の意をしばしば聖霊と呼ぶ。
正数会における聖神、霊はヘブライ語ででルーアッハ。ギリシア語でプネウマだが、ともに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある。
キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト、そして聖霊が三位一体としての神を表す。
(『岩波キリスト教辞典』 「聖霊」 より)
言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。
往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王湖畔を以って本覚と為す。
個より此の理に非ず!
既に此の理に非されば、何者か臭れ覚?
若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?
若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て忽然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。
所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。
禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這個の道理なり。
然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。
(『大慧普覚禅師語録』巻十八)
大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)には立っています。
しかし、人は、現実には迷っている。
だから看話によって大悟し(「始覚」、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬーそれが大慧の主張でした。
「本覚→不覚→始覚→本覚」というこの構造は、近くは『碧眼録』にみられたかの円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に-方法を禅定から看話に発展させつつ-回帰するものでもありました。
さきにも述べたように、このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に応えるものであり、中国禅の論理のひとつの完成形と言えるでしょう。
のちの『十牛図』の構成も、この「本覚→不覚→始覚→本覚」という円環構造を視覚化したものにほかなりません。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
盛り上がって
躁転してそーやなー
🧟🧟🧟🧟🧟
この初めて覚るということは、私たちは現実に体験するわけです。禅の世界でも見性を果たしたとか、さらに覚りが深まったとかはありえる話です。ですから、初めて覚ることは厳然として実際にあるわけで、なぜそうなのかというと、今度は不覚があるからだ、覚りを成就していない状態があるからだと「起信論」では説明します。しかも、迷っていること自体が本来覚りの世界があるからこそ迷っていると言えるのだという論理を展開しています。
そうかそうか、頑張れや〜💕
994:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:04:18.32 ID:NyfO5dCz
ビギナーさん、かわいいな😍
999:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:07:36.87 ID:NyfO5dCz
はいはい、かわいいなぁ〜💕
イエスは彼に「律法には何と書いてあるか、あなたは〔それを〕どう〔解釈して〕読むか」と尋ね返し、彼は神を愛し、隣人を自分を愛するように愛するという原則を正しく答える。
イエスは彼に「あなたは正しく答えた。これを成せ、〔そうすることによって〕あなたは生きる」と促す。
律法学者は「では私の隣人とは誰か」と質問を返す。
注目したいのは、ルカによる福音書がここで、この質問はこの律法学者が自分自身を正当化するためにした質問であると述べていることである。
この質問は、隣人とそうでは ない者が存在するという発想に基づいており、そのように「隣人」の範囲を定めた場合に、「隣人」愛を実現し得 ているという自負があったであろうことを、「正当化」という動機の存在が示している。
イエスは彼のこの問いに対し、あるたとえ話をもって答える。
強盗に襲われ道端に倒れていた重傷者を、聖職者たちは見捨て、しかしサマリア人に属する通りがかりの人物が助けた、という話である。
サマリア人とは、イエスや 律法学者たちが属し、おそらくたとえ話のけが人もそう前提されているであろうユダヤ人とは反目し合う関係にあっ たとされている民族である。
この話を語り終えた後、イエスは「では、これらの三人の中の誰が、強盗たち〔の手〕 に落ちた人の隣人になったと、あなたには思われるか」と、律法学者に問う。
誰かが自分の「隣人である」と固定しようとする発想は、「隣人でない」存在を生み出すことに直結する。
そのように隣人と非隣人とを区別するところに差別や敵意が生まれる。
すなわち、隣人を限定しようとする「隣人」愛こそが戦争や差別を生み出すといってよいのではないか。
前項において概観した、核をめぐるキリスト教の言説の中には、安全保障や経済的繁栄などを「正当化」しようとする(あるいは少なくともそのような目的と密接にかかわった)ものが含まれていた。また、隣人と非隣人を区別する発想に基づくものが含まれていた。
しかし、「善いサマリア人のたとえ」(ルカ 10:25-37)は、我々に、隣人の地平を無限定に広げていこうとするような隣人愛こそが、互いの尊厳に向ける深い敬意や、平和を生み出し、「生きる」者となることを示している。
核時代におけるいかなるキリスト教倫理も、「隣人」愛という自己正当化の動機についての自己批判なしには成立し得ないのである。
澤村 雅史
見て、彼は、世尊にむかっていった。
「沙門よ、わたしは耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである。沙門よ、そなたも、耕して種を蒔くがよろしい。耕し種を蒔いて、しかる後に食するがよろしい」
「婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである」
「されど、わたしどもは、そなたゴータマ(瞿曇)の、軛も、鋤も、鋤の先も、鞭も、牛も見たことはない。それにもかかわらず、そなたゴータマが、〈婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである〉というのは、どうしたことであるか」そして、「耕田」とよばれるバーラドヴァージャ姓の婆羅門は、偈をもって世尊にいった。
「そなたはみずから耕す者なりといえどわれいまだそなたの耕すを見ずわれはそなたに問う、語れよかしいかにしてわれ、そなたの耕すを知らん」
世尊もまた、偈をもって答えていった。
「信は種子なり、戒は雨なり智慧は軛につなぎし鋤にして反省はその柄、禅定はその縄正念はわが鋤の先と鞭なり身をまもり、語をまもり食するに量を制し真理をもって草刈をなし楽住をたのしむはわが休息なり精進はわがひく牛にしてわれを静けき安穏に運び行いて帰ることなく到って悲しむことなしかくのごときがわが耕耘にして甘露(涅槃)はその果実なりわれはかくのごとく耕してすべての苦悩より解脱せり」
「不可逆」とは端的に言えば、絶対者と人間とのあいだには順序を絶対に「逆にすることが出来ない」厳然とした関係構造が存在するということ、換言すれば、絶対者の自己否定が我々人間に「先立って」働いているという「先行性」が存在することを意味する。
絶対者と人間における「不可逆」的関係性を強調したのは滝沢克己だが、彼は両者の関係を「不可同・不可分・不可逆」と捉える。つまり、絶対者と人間とは絶対的に断絶していながら(不可同)、同時に密接につながっている(不可分)のであり、しかも両者は絶対に逆にできない順序をもって区別される(不可逆)という。滝沢においては絶対者と人間との「不可逆」の関係が最重要視され、そこから不可同・不可分的な関係も規定されて把握される。
そして滝沢は西田の思索を十分評価しながらも、西田哲学に対して彼独自の批判を行っている。それは、西田哲学における絶対者と人間との関係には「不可逆」の把握が不徹底で曖昧であるという厳しい批判である。
と同時に、「取」には「むかへとる」と記しているのである(浄土和談』)。
これは「追いかける仏」と「迎える仏」を表現しているのであるが、つまり「救いに背を向ける自己」と「救いを希求する自己」をも同時に語っているのである。
仏から逃げ、背き続け、悟りから一番遠い自己が現れた時、そのままで仏に迎えられている自己を見るのである。
(『構築された仏教思想 親鸞──救済原理としての絶対他力』 釈 徹宗 より)
間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後のに言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」
後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の見は、すぐ死酸の手を取って米で猫った。後の見はますます終ってさらに手を抜き見を取り、調を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の処は水々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。
間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後の鬼に言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」
後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って補った。後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。
既に君たちに証を見せる為に
台風の進路を変えている
日本中を巻き込んでいる
イエスの復活と同じである
これの意味がわかるか?
君たちが僕に関われば関わるほど
負債は蓄積していく
僕はどんどんやるよ
疑うなら証明する為にとことんやるね
居着いているよーだ
🧟
>>994
ちがわねーじゃん。。w
否定即肯定・肯定即否定なのだから、無=有、有=無です。。
あなた、自分でわかってないことを引用してるよね。。
パッチワークというやつ。。
いつものことだが。。w
ID:B8FRagA/(21/22)
げんきだなー
🧟
よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。
その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。
真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。
『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。
かの字母とは梵書の阿字等乃至町字等これなり。
この阿字等はすなわち法身如来の一ーの名字密号なり。
乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。
名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍
く転じて世流布の言となるのみ。
よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。
その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。
真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。
『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。
かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。
この阿字等はすなわち法身如来の十一の名字密号なり。
乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。
名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍
く転じて世流布の言となるのみ。
(『声字実相義』空海 より)
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」
大潙のいはく、
「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」
かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。
あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。
沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、
「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」
つひに偈をつくりていはく、
一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず
動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず
処々蹤跡無し、声色外の威儀なり
諸方達道の者、咸く上上の機と言はん
この偈を大潙に呈す。
大潙いはく、
「此の子、徹せり。」
https://i.imgur.com/32CLo5t.jpeg
https://i.imgur.com/6oShFBH.jpeg
ただ宇井、和辻がなおざりにし、木村がその虚をいた一点がある。
前にも論じた「凡夫を明から遠ざける根本動力」とは何か、という問題だ。私は木村説を敷衍するかたちで、それを本能と言語によって駆動される盲目的生存欲望、根本煩悩であると推定した。
つまり、根本悩に覆われているから無知なのであり、無知だから根本悩に覆われるのだ。
盲目的だから無知になるのであり、無知だから盲目的になるのだ。この二者は相依の関係にある。
ナーガールジュナは「もし無明の因縁を、更にその本を求むれば即ち無にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。この故に求むべからず。もしさらに求めなば即ち戯論に堕せん。これ仏法に非ず」(「大智度論」第九〇巻)
と戒めている。
しかしあえて、木村、宇井、和辻に倣って、無明のさらなる「本」を追究しようとすれば、無知と根本煩悩の相互依存に突き当ってしまう。
相依関係は無限に循環するため、これ以上遡及できない。
即ち無明が「本」であり、縁起の起源であり終極なのだ。
これが私の無明解釈であり、縁起論の根紙だ。
この私説は稿を改めて論述する予定である。
>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?
人間を許容しないのではなくて、教義として許容されないのでは?
>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?
人間を許容しないのではなくて、教義としてそうした行為が許容されないのでは?
(一)空を実体視しないものと
(二)それを実体視するもの
との二つに分けることができる。
前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。
空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。
後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。
もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。
(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、
(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、
(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。
(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。
もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。
(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。
前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。
この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。
すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。
この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。
因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。
(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。
(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。
後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。
空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。
空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。
『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。
とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。
もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。
言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。
もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。
ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。
このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。
つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。
言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。
「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。
その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。
前者はアーラヤ識が究極的には否定されて、最高実在が個体において現成し、見るものと見られるものとが分かたれない絶対知が得られると説くが、後者はアーラヤ識を実有の識体とみなし、それが変化して見るものと見られるものとが生ずるという説をたてる。
後者の説に従えば、絶対知を得てもアーラヤ識そのものが否定されるのではなく、その中にあるの煩悩の潜勢力が根絶されるのみであるから、絶対知においても見るものと見られるものはあることになるのである。
前者を無相唯識派、後者を有相唯識派というのです。
法相宗は後者の系統。