古本屋のつぶやき最終更新 2024/12/10 10:191.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBcd1E古本屋が仏教について思った事を勝手につぶやくスレです。1.sage進行でお願いします。2.荒らしは完全スルーで。3.体験談や雑談はお断り。4.質問等には基本的に応じません。5.コテハン・トリ付き必須。6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。7.その他、スレ主の指示にはご協力を。*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。2024/03/23 22:05:31204コメント欄へ移動すべて|最新の50件156.鹿野園◆Bs4PlQ2rjutFfJU5C九条錫杖⼿執錫杖 當願衆⽣説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳以清浄⼼ 供養三寳發清浄⼼ 供養三寳願清浄⼼ 供養三寳當願衆⽣作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞供養三寳 値遇諸佛 速證菩提當願衆⽣眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳當願衆⽣檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣當願衆⽣⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧驕慢者恭敬 放逸者攝⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提過去諸佛 執持錫杖 已成佛現在諸佛 執持錫杖 現成佛未来諸佛 執持錫杖 當成佛故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳南無恭敬供養 三尊界會恭敬供養 顕密聖教哀愍攝受 護持弟⼦2024/08/08 20:44:29157.鹿野園◆Bs4PlQ2rjutFfJU5C九条錫杖⼿執錫杖 當願衆⽣説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳以清浄⼼ 供養三寳發清浄⼼ 供養三寳願清浄⼼ 供養三寳當願衆⽣作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞供養三寳 値遇諸佛 速證菩提當願衆⽣眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳當願衆⽣檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣當願衆⽣⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧驕慢者恭敬 放逸者攝⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提過去諸佛 執持錫杖 已成佛現在諸佛 執持錫杖 現成佛未来諸佛 執持錫杖 當成佛故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳南無恭敬供養 三尊界會恭敬供養 顕密聖教哀愍攝受 護持弟⼦2024/08/08 20:46:41159.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmfJU5Cでおー、お前死ぬかも知れないよ。勿論、そうで無い事を願うけど。改心・懺悔とかはしておいた方が良いよ。2024/08/08 20:51:30160.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmB3m2b九条錫杖⼿執錫杖 當願衆⽣説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳以清浄⼼ 供養三寳發清浄⼼ 供養三寳願清浄⼼ 供養三寳當願衆⽣作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣法界囲繞 供養三寳 値遇諸佛速證菩提當願衆⽣眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳當願衆⽣檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣當願衆⽣⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧驕慢者恭敬 放逸者攝⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲摧伏毒害 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提當願衆⽣⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼具修萬⾏ 速證菩提過去諸佛 執持錫杖 已成佛現在諸佛 執持錫杖 現成佛未来諸佛 執持錫杖 當成佛故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳南無恭敬供養 三尊界會恭敬供養 顕密聖教哀愍攝受 護持弟⼦2024/08/09 09:16:07161.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmkDPlI俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆俺縛日羅目乞灑穆👉👉👉(オンバザラモクシャボク)2024/08/21 18:47:05162.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm6tUT3彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。彼まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。イザヤ53:3-52024/08/30 13:19:34163.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmr9ZZFこのガリラヤ湖にはユダヤ教徒が圧倒的に多いのですが、基督教徒もイスラム教徒もいます。ぼくは日本人であるために彼等から興味をひかれ、時々、キブツに遊びにいくこともありますし、イスラム教徒の家庭にもよばれました。彼等のなかにぼくは玉ねぎを見つけます。それなのになぜ彼等が他の宗教の徒を軽蔑したり、心ひそかに優越感を感じねばならぬのでしょう。ぼくは玉ねぎの存在をユダヤ教の人にもイスラムの人にも感じるのです。玉ねぎはどこにもいるのです。(『深い河』 遠藤周作 より)2024/08/31 09:08:21164.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmr9ZZF偉大な世界宗教はさまざまに異なる人間の文化的な在り方の中から、実在者なり究極者なりに対して、さまざまに異なる知覚や概念を体現しており、したがってまた、その実在者なり究極者なりに対して、さまざまに異なる応答を示しているし、さらにまた、それぞれの宗教内で〈自我中心から実在中心への人間存在の変革〉が明らかに生じているとする見解のことである。(『宗教多元主義』 ジョン・ヒック より)2024/08/31 09:13:23165.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmHNmuuすべての実在を司る者、万物の究極点となる者、それが実在者であり、究極者です。ヒックも「神」という言葉を用いていません。それは大津が「玉ねぎ」というのと同じ理由です。ここでヒックは究極的実在者と呼ぶべきものは、一様には表われない。それぞれの時代、文化に呼応した姿で顕現する。当然、人間の応答も一様ではない。しかし、その異なる姿をした究極的実在者も一つの淵源から生まれたものではないか、というのです。「宗教多元主義」はどの宗教も同じだから何でもいい、という考え方ではありません。 力点は「一なるもの」の方にあります。 そして、先のヒックの言葉で重要なのは、「一なるもの」が多様な姿で顕現するという概念ではなく「自我中心から実在中心への人間存在の変革」を説いている点です。()2024/08/31 09:32:54166.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmruZtj宗教的真理の理性的基準に照らして真理と目される宗教は複数存在する。世界宗教と称されるものは三つもある。これらの宗教は今後も世界的、歴史的に展開しつづけるであろう。これらの宗教の宗教哲学的平和共存はいかにして可能であろうか。各宗教が排他的に自己を絶対化するならば、非難の応酬は避けられない。相互の対論は必要である。しかし、相互否認に走ってはならない。相互承認に進まなければならない。各宗教は自己の真理性を主張してやまない。ふつうはこれによって自己絶対化と他者否定が起こる。それは自己絶対化が単に有的であるからである。そうであれば、他者否定は不可避的となる。2024/09/01 12:41:43167.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmruZtjしかしながら、自己絶対化が同時に無的であるならば、対立はあっても、相互否認は起こりえない。対立・対論は必要なのである。必要というより、必然的なのである。これがなければ、真理性の放棄に等しい。互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。真理と真理とは対立しつつ融和するものである。2024/09/01 12:42:07168.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmruZtjそれぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。けっして有限性の自覚に存するのではない。人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。しかしそうではないのである。そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 )2024/09/01 12:43:10169.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmMqIQ5住庵十日、意茫々たり、脚下の紅糸線甚だ流し。他日、君来って如し我を問わば、魚行、酒肆、又た淫坊。一休さんの禅は難しい。2024/09/07 09:13:50170.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmhH6u3ところで華厳の立場は、現象の背後に形而上学的実体を置かないことをたてまえとしており、現実の個物相互間の関係を説こうとしたものであるが、このような華厳の立場から心識説をみると、大乗終教で述べたような「一心」とか、「真如」というようなものは、もはや必要がなくなり、ありのままなる現実の心が問題とされてくるのである。(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)2024/09/09 10:37:46171.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmhH6u3現実や現象をありのままに見ることができない凡夫のあやまった観念を打破するため、現象を成り立たしめている真理の領域にひとたび考え方を還元する必要が生じる。そのために設定されたのが第二理法界の世界である。理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)2024/09/09 10:40:22172.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmtDAdSところで、この立場がおし進められると、相対そのものを滅却し、相対を絶対化し、矛盾を解消し、単なる内在と化し、存在するものはただ絶対だけ、絶対的なありかたのみとする危険性をはらむにいたる。この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった2024/09/21 04:31:24173.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm31ItI智頭の絶対観ー三種の絶対いま、天台智顗の絶対に関する論理を一般化してみると、(1)相対を相対として否定し、それに対して絶対を立てること。(2)相対が相対そのままで絶対化されること。(3) 相対を相対として否定しながら、しかも、それを続する絶対。の三種に分けることができょう。第一は、相対的、有限的存在にたいして、それを超越する無限者を絶対と見、相対にたいする絶対、時間にたいする永遠を立てるところの二論である。ここでは、両者は全く異質的、隔絶的関係にある。強調されるものは、ただ神の超越・絶対であり、人間は、あくまで相対者としてとどまり、絶対の神と断絶し、救いがない。それは神の啓示を待つか、神にたいする絶望か、反逆しかない。単なる超越的な一神論におちいるか、イデー(理念)の観想のみにとどまり、対立の止場は生まれない。このような超越・絶対は、そのかぎり、あくまで相対に対立するものとしてて、真の絶対たりえず、かえって一の相対に堕するものであり、永遠は、常に時間に対立するものとして、永遠たりえず、一の時間に堕するものである。すなわち、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、ただ、相対的矛盾対立のみである。第二は、第一の絶対と相対との論理的矛盾を克服し、両者を具体的統一にもたらさんとするものである。これは、相対にたいして絶対を立て、相対の外に絶対を見ようとするものではなく、相対の当処そのものにおいて、絶対を見ようとするものである。すなわち、第一のごとく、相対に対立し、相対の外に漁対を立てるのでなく、時間に対立し、時間の外に永遠を立てるのではない。2024/09/21 06:43:13174.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm31ItIその意味においては、相対・絶対の対立を絶した絶対的絶対ということができよう。第一が天台智顎のいう相待妙であり、この第二が絶妙にあたると、一応、考えられる。「絶還って絶ならず。事に即して真、乃ち是れ絶待」(『法華玄義』巻第二上)と説かれてもくるところである。永遠についていえば、只今の瞬間に永遠を感じとることである。日本の天台本覚思想において強調された久遠即今日や、現代よく使われる「永遠の今」ということばは、それをいいあらわしたものといえよう。ところで、この立場がおし進められると、相対そのものを滅却し、相対を絶対化し、矛盾を解消し、単なる内在と化し、存在するものはただ絶対だけ、絶対的なありかたのみとする危険性をはらむにいたる。この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった2024/09/21 06:46:41175.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmqdnJd真の言は為に対し仮に対するなり。(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(中略)為といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。(『教行証文類』「信巻」)2024/09/25 10:21:49176.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmqdnJd真の言は偽に対し仮に対するなり。(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(中略)偽といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。(『教行証文類』「信巻」)2024/09/25 10:22:56177.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmqdnJdhttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E3%83%BB%E4%BB%AE%E3%83%BB%E5%81%BD2024/09/25 11:01:12178.神も仏も名無しさんnI3BPセイウンコーン論語読みの論語知らずスタートです〜🧟🧟🧟2024/09/25 11:03:49179.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmPNb2jhttps://i.imgur.com/4piNe2d.jpeghttps://i.imgur.com/fRmABEo.jpeghttps://i.imgur.com/WLGD8TK.jpeg2024/09/27 12:39:04180.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmxXxmiギリシア文化の「理性」とキリスト教文化の「霊性」が総合されるところにヨーロッパの思想文化の特徴を求めてきたが、こういう文化総合も、キリスト教古代のアウグスティヌスとか中世盛期のトマス・アクィナスではある程度の実現を見たが、宗教改革はこの総合を破壊し、その後隆盛となった近代思想でも多くの試みがなされたが、すべて失敗に帰した。ヘーゲル哲学こそ哲学によるキリスト教の霊性と理性を総合する試みであったが、続く解体の時代を迎えることによって、文化総合の試みはことごとく失敗に帰した。そこには信仰の世俗化によってキリスト教の衰退が何よりも問題であって、ヨーロッパ史を通してキリスト教が実践してきた貧困者や病人に対する重要な福祉のわざも、やがて近代国家に譲り渡されたことによって、キリスト教は個人の領域に押し込められるという世俗化の一途を辿ることになった。2024/09/28 20:56:45181.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmexnIaヨーロッパ思想史: 理性と信仰のダイナミズム金子晴勇2024/09/28 20:57:40182.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmIsxWO仏祖のおしかりを覚悟のうえで、少し室内の秘密を満らしてみましょう。「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の(盤琲)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。天地ひた一枚の燈火です。もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。師匠はかに微笑しました。2024/10/08 07:55:55183.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmIsxWO仏祖のおしかりを覚悟のうえで、少し室内の秘密を満らしてみましょう。「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。天地ひた一枚の燈火です。もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。師匠はかに微笑しました。2024/10/08 07:57:00184.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmIsxWO仏祖のおしかりを覚悟のうえで、少し室内の秘密を満らしてみましょう。「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。師匠は「それではた<析空観>だ」と言いました。次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。天地ひた一枚の燈火です。もう消すだの消さぬだのという分別の入り込む余地はありません。師匠は静かに微笑しました。2024/10/08 07:58:58185.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmIsxWO(『口語で読む禅の古典 無門関を読む』 秋月龍珉より)2024/10/08 08:02:15186.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmc8EzD>絶を論ずるは有門に絶して明かす。>この絶をも又絶するは空門に約して絶を明かすなり>(『法華玄義』天台智顗 より)2024/10/12 10:22:46187.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmc8EzD>如来は、〔衆生が輪廻する迷いの世界である欲界・色界・無色界の〕三界をありのままに見ている(如実知見)からである。>三界〔の衆生〕は、生まれることなく、死ぬこともなく、消滅することもなく、生ずることもなく、生存領域の循環(輪廻)を繰り返すこともなく、涅槃することもなく、真実でもなく、虚妄でもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、このようであるのでもなく、別のようであるのでもなく、虚偽でもなく、真理でもない。>如来は、愚かな凡人たちが見るような見方で三界を見ることはないのだ。>如来は、三界を明らかに見るものであり、見誤ることはないのだ。>(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より 如来寿量品)2024/10/12 10:28:51188.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmc8EzD本末究竟等については、以下をご参考にされて下さい。 https://i.imgur.com/Neo4VaR.jpeg https://i.imgur.com/32CLo5t.jpeg https://i.imgur.com/6oShFBH.jpeg(『仏教の思想 5 絶対の真理<天台> 』角川ソフィア文庫 より)2024/10/12 11:28:58189.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmILcTt【普遍論争】なぜ普通名詞を使えるのかイチローや太郎や花子は、生まれたとき「イチロー」「太郎」「花子」と名づけられ、その名でよばれます。けれども、その三人を含む全人類がひとしく「人間」という普通名詞でよばれるのはどうしてでしょう。全人類を一人ひとり「人間」と命名していくなど、不可能です。この問題は中世のキリスト教徒にとって、信仰の根拠に関わる大問題でした。アダムとイブの原罪が全人類におよぶのは、全員が「人間」という同じ名でよばれるからです。しかし、「人間」という言葉は、どうして普遍的に、つまり全人類にあてはまるのでしょう。この問題を巡って三つの立場が登場し、それは普遍論争とよばれました。ひとつは、だれもが人間とよばれるのに必要な性質を備えており、「人間」という本質・概念は、すべての人間のなかに現実に内在するという立場です。「普遍は個物のなか」にあるというアンセルムスらのこの立場は「概念実在論」とよばれました。二つ目は、わたしたちが「ニンゲン」という名前を現に各人にあてはめているにすぎない、とするロスケリヌスらの立場です。「普遍は個物のあと」にくるというこの立場は「唯名論」とよばれます。三つ目は、神がアダムを作ったとき、神の頭のなかには「自分の似姿」という「人間」についてのプランがあり、だから「人間」は全人類にあてはまるという、アベラールの立場です。「普遍は個物の前」にあったというこの立場は「概念論」とよばれます。2024/11/05 09:50:15190.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmILcTt貫成人大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる2024/11/05 09:51:46191.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmILcTt【トマス・アクィナス】神の自由と人間の自由「神」とはどんな存在なのでしょう。そもそも存在するのでしょうか。この二つの難問をトマス・アクィナスは一気に解決します。トマスは「本質」と「存在」の区別に注目しました。富士山は「日本一高い山」という本質をもち、現に存在します。ペガサスは「翼ある馬」という本質をもちますが、どこにも存在しません。ところで、神については、その本質を規定することが許されません。「神は完全な存在だ」と言うのも、本当はいけないのです。そう言ってしまうと、神が不完全になる自由が奪われてしまいます。三船敏郎について「男のなかの男」という謳い文句ができると、もうオネエっぽくできなくなってしまいますが、それと同じです。実は、『旧約聖書』で神は「在りて在るもの」、つまり、ひとえに存在することだけをその本質とする存在とされていました。神の本質と存在は区別されません。存在することが本質なら、神は必ず存在することになります。上の二つの問題は一度に解決できました。存在する、という以上の規定はないので、逆に、神はなんにでもなれる自由があります。なにをやっても自由で制約はありません。神がつくる世界にも制約はなく、人間にも制約はなく自由です。かりに神がいても人間は自由だというこの帰結は、神学的決定論に対する強力な反論です。神という現実離れした仮説でも、それについて徹底的に考えたとき、人間の在り方についての思わぬ逆転に結びつきます。これも哲学的思考の醍醐味です。2024/11/05 09:56:18192.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmILcTt普遍論争https://i.imgur.com/0myTLL3.jpegトマス・アクィナスhttps://i.imgur.com/ZxdmG2G.jpeg2024/11/05 09:59:13193.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmQNcfuこのとき国体論は求道的な煩悶青年にとって、魅力ある存在に映った。国体の構造では、超越的な天皇のもと、国民は一般化され、平等化される。国民の間に格差や断絶は存在せず、一つの渦に溶け込んでいく。疎外や苦悩は存在しない。すべては大御心に導かれ、一元化される。濁りなき透明な共同体が現前する。 彼らは国体に随順することによって、煩悶を超克しようとした。三井甲之や倉田百三が大正期から昭和初期にかけて超国家主義化していったのは、国体に包摂されることで自己が救済され、国民が救済されると考えたからだった。 しかし、日本には国体が存在し、天皇が存在するにもかかわらず、平等社会は実現していない。多くの不幸と混乱が顕在化し、国民は苦悩にあえいでいる。他ならぬ自己の苦悩も依然として解消されない。 なぜか。 それは天皇と国民の間に入って、両者を分断する「君側の奸」が存在するからである。天皇の大御心が国民に届かないのは、「君側の奸」が阻害しているからである。 だったら、どうすべきか。 「君側の奸」を除去する必要がある。天皇と国民を分断する「輩」を排除し、国体を現前する必要がある。 こう考えた三井は、蓑田胸喜とともに『原理日本』を刊行し、言論弾圧事件を次々に引き起こしていった。攻撃を加えたのは、外来思想に影響を受けた帝国大学の知識人であった。三井・蓑田にとってエリート知識人たちは、賢しらな理性や知性によって社会を変革しようとする自力主義者に他ならなかった。2024/11/09 12:37:23194.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmQNcfu『親鸞と日本主義』中島岳志2024/11/09 12:38:13195.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmNLXpZ250:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/11/16(土) 10:29:13.14 ID:BjzXICOs>>249そうじゃなくて、IDがそのままだって指摘だよ。これでキリスト教スレの荒らしがブラフマンさんではなくてロンだって事が確定されたって事。ご愁傷様です🪦チーーーン🙏2024/11/16 12:23:23196.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmAQxLo知ってる証拠w ↓佛説五蘊皆空經大唐三藏法師義淨奉制譯如是我聞。一時薄伽梵。在婆羅痆斯仙人墮處施鹿林中。爾時世尊。告五苾芻曰。汝等當知。色不是我。若是我者。色不應病及受 画像苦惱。我欲如是色。我不欲如是色。既不如是。隨情所欲。是故當知。色不是我。受想行識。亦復如是。復次苾芻。於汝意云何。色爲是常爲是無常。白言大徳。色是無常。佛言。色既無常。此即是苦。或苦苦。壞苦。行苦。然我聲聞。多聞弟子。執有我不。色即是我。我有諸色。色屬於我。我在色中不。不爾世尊。應知受想行識。常與無常。亦復如是。凡所有色。若過去未來現在。内外麁細。若勝若劣若遠若近。悉皆無我。汝等當知。應以正 画像智而善觀察。如是所有受想行識。過去未來現在。悉應如前正智觀察。若我聲聞聖弟子衆。觀此五取蘊。知無有我及以我所。如是觀已。即知世間。無能取所取。亦非轉變。但由自悟而證涅槃。我生已靈。梵行已立。所作已辦。不受後有。説此法時。五苾芻等。於諸煩惱。心得解脱。信受奉行2024/11/27 15:03:11197.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmDE1N5思想、においては、「相対否定jとは否定対象が否定されることによってそれ以外のものが定立されること 一352一E 52 ツオンカパによる f非有・非無jの解釈〈四津谷)を示し、「絶対否定」とは否定対象がただ単に否定されることを示すもの である的。そして、中観派はこのコンテクストにおける否定を「絶対否定Jと捉えるのである。つまり、そこにおいて「有j並びに「無j という分別 が否定され滅する、部ち通常我々が諸現象を理解する上で最も基本となる 範轄である「有j と「無j という裁論が滅することによって真実が示され ることとなるので為る1九このように、究極的に分別(=裁論)を滅することが、通常この「非存・非無Jによって表されていると考えられるので ある。Nでは、ツオン2024/12/02 13:33:22198.神も仏も名無しさんOrrsa🤡屋のつぶやき〜🤡2024/12/02 14:55:52199.神も仏も名無しさんOrrsa🤡屋のガンバル背伸びーガンはルンバー🤡2024/12/02 14:56:30200.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmgemkO四句否定の意味「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であるものは非実である」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてある。けれど四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論義領域においてのみなりたつ。いずれの命題も一定の条件の下でのみ肯定されたり否定されたりするのであって、無条件に、絶対的に真であることはできない。このように、四句のいずれをも絶対的なものとしては否定するのが四句否定の意味であり、中観の真理である、ということになる。「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」という第四句は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その限りにおいては否定されるべきものではない。けれどもその真理は第一句のなりたっている論議領域、あるいは第二、第三句と同一の領域において成立しているわけではない。いい換えれば、第四句も第一ないし第三句のなりたつ諸領域においては否定されるべき性質のものである。2024/12/10 09:55:36201.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmgemkOそのように中観の真理も世間の立場、一般的な論理の領域において真であるとはかぎらない、というところに、仏教者の無裁者の精神を見ることができる。『般若経』では、空に執着するものに対しては、空をも空ずる必要のあることが強調されている。神秘的直観としての空を世間的な有の世界においてそのまま妥当すると考えることは危険である。そこに一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界とを弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じてくる。次章で詳しく述べるように、中観者が二つの世界の弁別を説くのはそのためである。もしそうとすれば、世間的な事物の処理に当たっては、ただ宗教的直観を誇示しても意味がなくて、方便として世間的な論理と知識を活用することの必要性も理解されてくる。すべてのものの空を悟った聖者がいま一度常識的な有の世界、一般の論理の世界を回復する、ということも、上述のような四句否定の精神から出てくるものである。2024/12/10 09:57:30202.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmgemkOアビダルマの区別の哲学の立場からは、善い行為と悪い行為、煩悩のないものと順悩のあるもの、苦、苦の原因、苦の止滅、止滅に至る道というようなさまざまのものが区別され、それぞれ本体をもつものと考えられる。そしてすべてのものが修道の体系の中にそれぞれの位置を与えられる。それが行なわれなければ、苦から苦の止滅へ、迷いから悟りへの道程はなりたたないからである。そのようなすべてのものが空ならば、それらが生ずることも滅することもない。修道とその結果が本体のない空なものであれば、道徳も宗教もありえないではないか、という。2024/12/10 10:08:47203.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmgemkOものが空であるということは、そのものが本体として存在するのではなくて、原因や他のものに依って生じてきているということである。一般には空ということばは、無ということばと通じるから、空はものが存在しないという意味に取られやすい。しかし、ことばが誤解されるのはことば自体が本体をもたないからである。われわれがいう空性とは本体のない存在ということであって、存在の無ではない。空性という表現も、たとえば、車輪や車軸や車体の集まりをかりに車というように、仮の名づけにすぎない。車という実体があると思い込むのが誤りであるように、空という本体があると考えてはいけない。また車ということばでかりに呼ばれるものがないのではないように、空であるといわれるものは存在しない、というわけでもない。そのようにものの本体の存在、その滅としての非存在のいずれをも越えるものであって、それはシャカムニ・ブッダの説いた中道のほんとうの意味である。2024/12/10 10:11:39204.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmgemkOナーガールジュナは、説一切有部などが考えていた本体と現象という二つの世界の価値評価を逆転させる。永遠に実在するとされた本体はナーガールジュナによってことばの虚構にすぎないと抹殺されてしまう。現象は本体の影ではなしに、それのみが実在する世界となる。本体という虚構のおおいを取り除かれたとき、現象はそのまま真実の世界である。だから、本体も現象という二つの存在の世界ではなしに、ことばの虚構を離れた一つの真実の世界|空の世界があるだけである。2024/12/10 10:19:15
【イブ】アメリカ人は失笑する!? なぜ日本だけ「クリスマスには、ケンタッキー」なのか? 米兵を通じ12月が「特別な時期」になり、KFCのCMで「七面鳥」の代替品にニュース速報+975657.72024/12/26 02:31:19
【妻は衛藤美彩】「不倫関係にはありました…」『侍ジャパン』西武・源田壮亮(31)が銀座高級クラブ勤務の菜々緒似女性と衝撃不倫を告白「プレミア12の台湾でも密会、元乃木坂妻は…」ニュース速報+2726162024/12/26 02:29:11
1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き必須。
6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。
*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。
九条錫杖
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞
供養三寳 値遇諸佛 速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞
供養三寳 値遇諸佛 速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓
毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
勿論、そうで無い事を願うけど。
改心・懺悔とかはしておいた方が良いよ。
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣
法界囲繞 供養三寳 値遇諸佛
速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神
毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲
摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
👉👉👉
(オンバザラモクシャボク)
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
彼まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
イザヤ53:3-5
ぼくは日本人であるために彼等から興味をひかれ、時々、キブツに遊びにいくこともありますし、イスラム教徒の家庭にもよばれました。
彼等のなかにぼくは玉ねぎを見つけます。
それなのになぜ彼等が他の宗教の徒を軽蔑したり、心ひそかに優越感を感じねばならぬのでしょう。
ぼくは玉ねぎの存在をユダヤ教の人にもイスラムの人にも感じるのです。玉ねぎはどこにもいるのです。
(『深い河』 遠藤周作 より)
(『宗教多元主義』 ジョン・ヒック より)
ヒックも「神」という言葉を用いていません。
それは大津が「玉ねぎ」というのと同じ理由です。
ここでヒックは究極的実在者と呼ぶべきものは、一様には表われない。
それぞれの時代、文化に呼応した姿で顕現する。
当然、人間の応答も一様ではない。
しかし、その異なる姿をした究極的実在者も一つの淵源から生まれたものではないか、というのです
。「宗教多元主義」はどの宗教も同じだから何でもいい、という考え方ではありません。 力点は「一なるもの」の方にあります。 そして、先のヒックの言葉で重要なのは、「一なるもの」が多様な姿で顕現するという概念ではなく「自我中心から実在中心への人間存在の変革」を説いている点です。
()
世界宗教と称されるものは三つもある。
これらの宗教は今後も世界的、歴史的に展開しつづけるであろう。
これらの宗教の宗教哲学的平和共存はいかにして可能であろうか。
各宗教が排他的に自己を絶対化するならば、非難の応酬は避けられない。
相互の対論は必要である。
しかし、相互否認に走ってはならない。
相互承認に進まなければならない。
各宗教は自己の真理性を主張してやまない。
ふつうはこれによって自己絶対化と他者否定が起こる。
それは自己絶対化が単に有的であるからである。
そうであれば、他者否定は不可避的となる。
対立・対論は必要なのである。
必要というより、必然的なのである。
これがなければ、真理性の放棄に等しい。
互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。
単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。
真理と真理とは対立しつつ融和するものである。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。
けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。
しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。
各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 )
他日、君来って如し我を問わば、魚行、酒肆、又た淫坊。
一休さんの禅は難しい。
(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)
そのために設定されたのが第二理法界の世界である。
理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。
この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。
すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。
理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。
(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)
この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。
ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。
しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。
日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった
いま、天台智顗の絶対に関する論理を一般化してみると、
(1)相対を相対として否定し、それに対して絶対を立てること。
(2)相対が相対そのままで絶対化されること。
(3) 相対を相対として否定しながら、しかも、それを続する絶対。
の三種に分けることができょう。
第一は、相対的、有限的存在にたいして、それを超越する無限者を絶対と見、相対にたいする絶対、時間にたいする永遠を立てるところの二論である。
ここでは、両者は全く異質的、隔絶的関係にある。
強調されるものは、ただ神の超越・絶対であり、人間は、あくまで相対者としてとどまり、絶対の神と断絶し、救いがない。それは神の啓示を待つか、神にたいする絶望か、反逆しかない。単なる超越的な一神論におちいるか、イデー(理念)の観想のみにとどまり、対立の止場は生まれない。
このような超越・絶対は、そのかぎり、あくまで相対に対立するものとしてて、真の絶対たりえず、かえって一の相対に堕するものであり、永遠は、常に時間に対立するものとして、永遠たりえず、一の時間に堕するものである。
すなわち、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、ただ、相対的矛盾対立のみである。
第二は、第一の絶対と相対との論理的矛盾を克服し、両者を具体的統一にもたらさんとするものである。
これは、相対にたいして絶対を立て、相対の外に絶対を見ようとするものではなく、相対の当処そのものにおいて、絶対を見ようとするものである。すなわち、第一のごとく、相対に対立し、相対の外に漁対を立てるのでなく、時間に対立し、時間の外に永遠を立てるのではない。
第一が天台智顎のいう相待妙であり、この第二が絶妙にあたると、一応、考えられる。
「絶還って絶ならず。事に即して真、乃ち是れ絶待」(『法華玄義』巻第二上)と説かれてもくるところである。永遠についていえば、只今の瞬間に永遠を感じとることである。
日本の天台本覚思想において強調された久遠即今日や、現代よく使われる「永遠の今」ということばは、それをいいあらわしたものといえよう。
ところで、この立場がおし進められると、相対そのものを滅却し、相対を絶対化し、矛盾を解消し、単なる内在と化し、存在するものはただ絶対だけ、絶対的なありかたのみとする危険性をはらむにいたる。
この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。
ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。
しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。
日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった
(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
(中略)為といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。
(『教行証文類』「信巻」)
(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
(中略)偽といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。
(『教行証文類』「信巻」)
論語読みの論語知らず
スタートです〜
🧟🧟🧟
https://i.imgur.com/fRmABEo.jpeg
https://i.imgur.com/WLGD8TK.jpeg
ヘーゲル哲学こそ哲学によるキリスト教の霊性と理性を総合する試みであったが、続く解体の時代を迎えることによって、文化総合の試みはことごとく失敗に帰した。
そこには信仰の世俗化によってキリスト教の衰退が何よりも問題であって、ヨーロッパ史を通してキリスト教が実践してきた貧困者や病人に対する重要な福祉のわざも、やがて近代国家に譲り渡されたことによって、キリスト教は個人の領域に押し込められるという世俗化の一途を辿ることになった。
金子晴勇
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の(盤琲)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。
師匠はかに微笑しました。
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。
師匠はかに微笑しました。
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<析空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すだの消さぬだのという分別の入り込む余地はありません。
師匠は静かに微笑しました。
>この絶をも又絶するは空門に約して絶を明かすなり
>(『法華玄義』天台智顗 より)
>三界〔の衆生〕は、生まれることなく、死ぬこともなく、消滅することもなく、生ずることもなく、生存領域の循環(輪廻)を繰り返すこともなく、涅槃することもなく、真実でもなく、虚妄でもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、このようであるのでもなく、別のようであるのでもなく、虚偽でもなく、真理でもない。
>如来は、愚かな凡人たちが見るような見方で三界を見ることはないのだ。
>如来は、三界を明らかに見るものであり、見誤ることはないのだ。
>(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より 如来寿量品)
https://i.imgur.com/Neo4VaR.jpeg
https://i.imgur.com/32CLo5t.jpeg
https://i.imgur.com/6oShFBH.jpeg
(『仏教の思想 5 絶対の真理<天台> 』角川ソフィア文庫 より)
イチローや太郎や花子は、生まれたとき「イチロー」「太郎」「花子」と名づけられ、その名でよばれます。けれども、その三人を含む全人類がひとしく「人間」という普通名詞でよばれるのはどうしてでしょう。全人類を一人ひとり「人間」と命名していくなど、不可能です。
この問題は中世のキリスト教徒にとって、信仰の根拠に関わる大問題でした。アダムとイブの原罪が全人類におよぶのは、全員が「人間」という同じ名でよばれるからです。しかし、「人間」という言葉は、どうして普遍的に、つまり全人類にあてはまるのでしょう。
この問題を巡って三つの立場が登場し、それは普遍論争とよばれました。
ひとつは、だれもが人間とよばれるのに必要な性質を備えており、「人間」という本質・概念は、すべての人間のなかに現実に内在するという立場です。「普遍は個物のなか」にあるというアンセルムスらのこの立場は「概念実在論」とよばれました。
二つ目は、わたしたちが「ニンゲン」という名前を現に各人にあてはめているにすぎない、とするロスケリヌスらの立場です。「普遍は個物のあと」にくるというこの立場は「唯名論」とよばれます。
三つ目は、神がアダムを作ったとき、神の頭のなかには「自分の似姿」という「人間」についてのプランがあり、だから「人間」は全人類にあてはまるという、アベラールの立場です。「普遍は個物の前」にあったというこの立場は「概念論」とよばれます。
大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる
「神」とはどんな存在なのでしょう。そもそも存在するのでしょうか。この二つの難問をトマス・アクィナスは一気に解決します。
トマスは「本質」と「存在」の区別に注目しました。富士山は「日本一高い山」という本質をもち、現に存在します。ペガサスは「翼ある馬」という本質をもちますが、どこにも存在しません。
ところで、神については、その本質を規定することが許されません。「神は完全な存在だ」と言うのも、本当はいけないのです。そう言ってしまうと、神が不完全になる自由が奪われてしまいます。三船敏郎について「男のなかの男」という謳い文句ができると、もうオネエっぽくできなくなってしまいますが、それと同じです。
実は、『旧約聖書』で神は「在りて在るもの」、つまり、ひとえに存在することだけをその本質とする存在とされていました。神の本質と存在は区別されません。存在することが本質なら、神は必ず存在することになります。上の二つの問題は一度に解決できました。
存在する、という以上の規定はないので、逆に、神はなんにでもなれる自由があります。なにをやっても自由で制約はありません。神がつくる世界にも制約はなく、人間にも制約はなく自由です。
かりに神がいても人間は自由だというこの帰結は、神学的決定論に対する強力な反論です。
神という現実離れした仮説でも、それについて徹底的に考えたとき、人間の在り方についての思わぬ逆転に結びつきます。これも哲学的思考の醍醐味です。
https://i.imgur.com/0myTLL3.jpeg
トマス・アクィナス
https://i.imgur.com/ZxdmG2G.jpeg
>>249
そうじゃなくて、IDがそのままだって指摘だよ。
これでキリスト教スレの荒らしがブラフマンさんではなくてロンだって事が確定されたって事。
ご愁傷様です🪦
チーーーン🙏
↓
佛説五蘊皆空經
大唐三藏法師義淨
奉制譯
如是我聞。一時薄伽梵。在婆羅痆斯仙人墮
處施鹿林中。爾時世尊。告五苾芻曰。汝等
當知。色不是我。若是我者。色不應病及受 画像
苦惱。我欲如是色。我不欲如是色。既不如
是。隨情所欲。是故當知。色不是我。受想
行識。亦復如是。復次苾芻。於汝意云何。
色爲是常爲是無常。白言大徳。色是無常。
佛言。色既無常。此即是苦。或苦苦。壞苦。行
苦。然我聲聞。多聞弟子。執有我不。色即是
我。我有諸色。色屬於我。我在色中不。不爾世
尊。應知受想行識。常與無常。亦復如是。凡
所有色。若過去未來現在。内外麁細。若勝若
劣若遠若近。悉皆無我。汝等當知。應以正 画像
智而善觀察。如是所有受想行識。過去未來
現在。悉應如前正智觀察。若我聲聞聖弟子
衆。觀此五取蘊。知無有我及以我所。如是
觀已。即知世間。無能取所取。亦非轉變。但
由自悟而證涅槃。我生已靈。梵行已立。所作
已辦。不受後有。説此法時。五苾芻等。於諸
煩惱。心得解脱。信受奉行
とは否定対象が否定されることによってそれ以外のものが定立されること 一352一
E
52 ツオンカパによる f非有・非無jの解釈〈四津谷)
を示し、「絶対否定」とは否定対象がただ単に否定されることを示すもの である的。そして、中観派はこのコンテクストにおける否定を「絶対否定J
と捉えるのである。つまり、そこにおいて「有j並びに「無j という分別 が否定され滅する、部ち通常我々が諸現象を理解する上で最も基本となる 範轄である「有j と「無j という裁論が滅することによって真実が示され ることとなるので為る1九このように、究極的に分別(=裁論)を滅する
ことが、通常この「非存・非無Jによって表されていると考えられるので ある。
N
では、ツオン
🤡
ガンバル背伸びー
ガンはルンバー🤡
「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であるものは非実である」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてある。
けれど四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論義領域においてのみなりたつ。
いずれの命題も一定の条件の下でのみ肯定されたり否定されたりするのであって、無条件に、絶対的に真であることはできない。
このように、四句のいずれをも絶対的なものとしては否定するのが四句否定の意味であり、中観の真理である、ということになる。
「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」という第四句は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その限りにおいては否定されるべきものではない。
けれどもその真理は第一句のなりたっている論議領域、あるいは第二、第三句と同一の領域において成立しているわけではない。
いい換えれば、第四句も第一ないし第三句のなりたつ諸領域においては否定されるべき性質のものである。
『般若経』では、空に執着するものに対しては、空をも空ずる必要のあることが強調されている。
神秘的直観としての空を世間的な有の世界においてそのまま妥当すると考えることは危険である。
そこに一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界とを弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じてくる。
次章で詳しく述べるように、中観者が二つの世界の弁別を説くのはそのためである。
もしそうとすれば、世間的な事物の処理に当たっては、ただ宗教的直観を誇示しても意味がなくて、方便として世間的な論理と知識を活用することの必要性も理解されてくる。
すべてのものの空を悟った聖者がいま一度常識的な有の世界、一般の論理の世界を回復する、ということも、上述のような四句否定の精神から出てくるものである。
そしてすべてのものが修道の体系の中にそれぞれの位置を与えられる。
それが行なわれなければ、苦から苦の止滅へ、迷いから悟りへの道程はなりたたないからである。
そのようなすべてのものが空ならば、それらが生ずることも滅することもない。
修道とその結果が本体のない空なものであれば、道徳も宗教もありえないではないか、という。
一般には空ということばは、無ということばと通じるから、空はものが存在しないという意味に取られやすい。
しかし、ことばが誤解されるのはことば自体が本体をもたないからである。
われわれがいう空性とは本体のない存在ということであって、存在の無ではない。
空性という表現も、たとえば、車輪や車軸や車体の集まりをかりに車というように、仮の名づけにすぎない。
車という実体があると思い込むのが誤りであるように、空という本体があると考えてはいけない。
また車ということばでかりに呼ばれるものがないのではないように、空であるといわれるものは存在しない、というわけでもない。
そのようにものの本体の存在、その滅としての非存在のいずれをも越えるものであって、それはシャカムニ・ブッダの説いた中道のほんとうの意味である。
本体という虚構のおおいを取り除かれたとき、現象はそのまま真実の世界である。だから、本体も現象という二つの存在の世界ではなしに、ことばの虚構を離れた一つの真実の世界|空の世界があるだけである。