パーリーの今期周回のまとめ最終更新 2024/12/22 18:221.名無しさんJsEVdわたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます2024/10/08 18:23:32591コメント欄へ移動すべて|最新の50件542.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF>>541現量からフォーカスして認識完了やわな2024/12/13 17:56:22543.パ◆GyEhhmlxmzjrhFQz5>>540少なくとも左脳に関しては無為の状態じゃないかな?止めると言うか、離れるような感じか?2024/12/13 17:57:55544.パ◆GyEhhmlxmzjrhFQz5>>542認識はフォーカスだろうねたぶん2024/12/13 17:58:47545.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF現量は情報が垂れ流しなんやとおもうわ2024/12/13 18:00:10546.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF刹那生滅にあって相続、戯論でフォーカス、現象化2024/12/13 18:01:09547.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF棒さんは如実知見と分析を行き来してんだと思うよ何かの論文であったわ無分別と認識出来るところと無分別を行き来しているって2024/12/13 18:03:23548.登り棒◆0mnwMe9WsAo4vNwそう、これは無意識に意を向けてるから分かることだけども、理解するためのもので意を向けなきゃ何が起こってるのかわからん。んでその浮かび上がってくるものを直接コントロールは出来ない。間接的には意を向ける場所を変えるとそれらも変わるから出来る。えーとだ、つまり私がその無意識への観察をやめると、目的地を設定してそれに意を向けるだけだと、目的地に着いた後はっとするという現象が起こる。ナンバーを認識しないのも、意を向ける対象が違うからで、その意を何に向けるかは決まってないし何処にも向けないということもする。2024/12/13 18:17:44549.リダン◆gEV3xsS//kHhXYFそもそも離脱がそんな感じで構成されとるしな意生身、器世間をフォーカス、相続することで維持、生成しとる2024/12/13 18:27:10550.パ◆GyEhhmlxmzjrTtrE0≫目的地に着いた後はっとするという現象が起こる。完結すると、向かう先が無くなって、識自体が自身にきづく起こるけど上のはそれっぽいね2024/12/13 18:33:25551.登り棒◆0mnwMe9WsAhSSEl>>549いやだから現量は分析も何も無い無分別だけども、如実知見は現量と同じ意味での無分別ではないと言いたい。2024/12/13 18:33:37552.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF>>551やたらにそここだわるな如実知見は言葉通りそのまんまで現量ってことだろうであるならば戯論静寂、言語がつぶれてるってことだその如実知見と分析出来るところを自在に行き来するでスッキリ解決だろ2024/12/13 18:41:04553.パ◆GyEhhmlxmzjrTtrE0>>548良いところ、惜しいところまで観れてるねまだ意思が自由に動き回るのを無為の識で観照されていない感じだけどその動く意思を、最初は何処かに固定しておいて、完全な無分別三昧に入るんだよねそこから進むと最初から、無為にして不動の識本体に留まれてそうやってると動き回るいしが静止して、とても微細な妄想の動きも消えてしまって本物の本自然な識に安住されるような、そういう三昧が顕になって現れると2024/12/13 18:41:35554.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF直接知覚にしても言葉通り、現量だろ行き来してるでスッキリ解決だろ無色界にしてもここらから識無辺処でーすって看板があるわけやないからさ空無辺処やら非想非非想処やらを行き来しながら漂うねん2024/12/13 18:50:15555.リダン◆gEV3xsS//kHhXYFお釈迦様もアッチャコッチャいって涅槃に言ったんや智慧の発現に肝心なんはそのステージチェンジのギャップやと思うで2024/12/13 18:52:09556.リダン◆gEV3xsS//kHhXYF涅槃にいったんや2024/12/13 18:52:26557.パ◆GyEhhmlxmzjrTyrKR>>554標識はある目印よいうか◯第五、第六の空と識には対象の有り無しが空は対象を一旦は認めてからその広さを計る識はその空を認識する、そのもの当体の識って感じで◯≪無 所有 処≫は、対象無く、在る、処の識◯非想 非非想処は、対象の思いではなくて、その識自体を想うのでも無く、想わないのでも無いと言う処◯想受滅(滅尽定)は、在った識自体の非在なので、出定した時に、滅尽定に入ったという記憶の痕跡も、意識には昇って来ないような処まあおれの理解では、だけど2024/12/13 19:38:22558.登り棒◆0mnwMe9WsALXxVN>>553まぁ日常生活、という制限がなく瞑想って言うならまた話は変わるんだけども認識がないまま日常生活が出来るというなら私にはその境地はわからないな。上でも言ったようにオートでの行動は出来るけど、それも何をするって決めてからのオート化だしな。2024/12/13 22:10:04559.パ◆GyEhhmlxmzjrTvT06いや瞑想中の話だよ普通人は、認識無く行動しているよ要は反応と習慣で人間は意識的に生きた時間って、完全に記憶されていて、何十年経っても鮮明に思い出せるんだよね3日前になに食ったか思い出せんとかは、その食ってる間に妄想念に在ったってことですからまあ認識無くって、逆の意味で覚醒が無いってことだからさ2024/12/13 23:22:21560.登り棒◆0mnwMe9WsA6OZ3c>>559瞑想中ならわかる。日常で大半が意識せずに行動してるのもわかる。だから歳をとると日常の動作が経験済みの事が増えてさらに意識に上がってこなくなるから記憶に残らなくなっていく⋯1日が早く感じる。2024/12/14 10:38:47561.パ◆GyEhhmlxmzjrgTMAEですよね子供時代の1日は長かった2024/12/15 21:35:15562.神も仏も名無しさんN6gC7だから、坐禅で変成意識みたいになると、子供時代の時間感覚に戻る。。それもすぐ過ぎ去ってしまうけどね。。2024/12/15 21:41:13563.法介◆T3azX0Hk1UhCtyB>>551共感します。如実知見は〝聖典量〟でしょ。2024/12/16 08:22:15564.法介◆T3azX0Hk1UhCtyB非量=妄想分別2024/12/16 08:23:42565.法介◆T3azX0Hk1UhCtyB現量=赤ちゃんの認識のようなもの。(覚っていない)2024/12/16 08:25:23566.法介◆T3azX0Hk1UhCtyB聖典量=仏典に説かれている教えによる思量(智慧)2024/12/16 08:30:07567.法介◆T3azX0Hk1UhCtyB聖教量か2024/12/16 08:31:38568.パ◆GyEhhmlxmzjrWOoxy聖教新聞思い出すね法介さんお久しぶりですね!2024/12/16 15:44:55569.パ◆GyEhhmlxmzjrWOoxy●色即是空◯世間の事物有情の実体は、縁起して空である●空即是色◯空であって縁起していなければ、事物有情の実体は器世間に、現れ得ない2024/12/16 15:48:03570.パ◆GyEhhmlxmzjrB4Bj0禅はインドから伝わった大乗佛教から派生しててチベット佛教、ボン教などのゾクチェンやマハムドラー系統の頓悟の系統と同じでしょ大乗はその後に金剛大乗へ進化してそこで悟り、解脱への成仏次第の行程が編み出されたって流れで方法論として中国で独自に編まれた大乗禅の公案には、明確な次第は存在しないけど金剛大乗には、明確な次第行程が存在していて空海で有名な求聞持法などは、無心→悟りを引き起こす行法だと思われる解脱へは、ここから出発する2024/12/16 17:44:19571.パ◆GyEhhmlxmzjrB4Bj0まあ初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどねこれの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが道元禅師のお示しの身心脱落が釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定であるて~言うことを、誰も指摘しないけどねそうなんですよ、これは2024/12/16 17:44:32572.パ◆GyEhhmlxmzjrB4Bj0比叡山延暦寺では、大乗の修業の、お堂をグルグル回るやつを行ってたように記憶している睡眠は一日4時間、それも坐禅の状態で寝るとか2024/12/16 17:50:45573.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70520.html☝五蘊の四つの変化の色相ってどういう事だか解るかな三乗の智慧(三諦)を覚る事で導きだされる三身即一の仏の智慧なんだけども。それを如実知見と言うんだと、わたしは思っております。2024/12/17 01:31:25574.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7成唯識論で説くところの、四縁によるところの4段階の意識の変化ではないでしょうか。2024/12/17 01:35:33575.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7声聞の意識縁覚の意識菩薩の意識仏の意識2024/12/17 01:37:55576.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7声聞の意識(析空)縁覚の意識(体空)菩薩の意識(法空)仏の意識(非空)2024/12/17 01:41:19577.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI三転法輪の初転法輪(蔵教=此縁性縁起)で声聞衆は、前五識が成所作智へ識転します。五蘊の四っつの変化の相がこれにあたります。順観の色即是空です。(客観=実在=有門)時間軸の中で起こる客観(客体)の此縁性縁起。2024/12/17 08:49:45578.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI以下は、興味がある方はご自分でお考え下さい。2024/12/17 08:51:10579.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI色々と忙しい状況なもんで。2024/12/17 08:52:06580.登り棒◆0mnwMe9WsAvyLs7>>579お久しぶり。忙しい時は無理せず。落ち着いたらまたゆっくりと語りましょう2024/12/18 12:53:15581.法介◆T3azX0Hk1UnDqABhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103082330302024/12/19 02:35:24582.登り棒◆0mnwMe9WsA96h7u>>581こーゆーのはちと参加しにくいなぁ。やはり色々とあったみたいですね。生活がガラッと変わってしまった感じなのかな?今は色々と考える時期なのかもしれません。2024/12/19 19:57:26583.パ◆GyEhhmlxmzjrYWYGA人間じゃなくて仏だとか気付くのが成仏らしいねzen坊主の中では2024/12/19 21:03:35584.登り棒◆0mnwMe9WsA96h7u>>583馬さんの言ってる純無垢の識を体験するとこーなるのかのぅ?確かにそれは変化の影響受けない静寂な状態だから無為みたいな感じだけども、私にゃそれは変化の影響の外にいるような感じで影響受けないだけで、変化の中にいて変化の影響を受けない状態じゃないのよねぇ。それが馬さんの言ってるのと同じかわからんけどもリダンの話をきくに。んでそれ自体が無為だったとしてもそこに留まるのは有為だから変化する。戻っちゃう。だからそれは継続的な解決で、変化の中にいながら変化の影響を受けない、因果の超越が永続的な解決と考えてるからアプローチが違う。そうなると留まる必要さえなくなってロンぽく言うなら元のままで良くなる。まぁ心の在りようはまるで別物だけど。でもその変化の影響を受けない状態は結構大事でそうじゃないと変化をありのままに見ることが難しい2024/12/19 21:29:40585.神も仏も名無しさんKhvIB9世紀唐の時代、保福というわりと洒落がきいたお坊さんがいて、あるとき、保福和尚は若い僧を呼んで「手をだしてみな」といい、その僧が手を突き出すと、その手のひらに土のカタマリをのせて、それを縁側まで持って行って庭に投げてこい、と指示します。僧は言われたとおり、縁側から庭にむかってその土くれを投げて、また保福の元に戻ってきて、「投げました」といいますが、その様子を観察していた保福は、おまえは今、絶好のチャンスをのがしたな…。2024/12/21 14:26:31586.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi>>584その中間に在るのが真如でしょ有為と無為は同参するって有為の裏に無為が無為の表に有為がみたく日常の中で、有為→有為→有為って連続してて意図せずに突如として有為→無為→無為 ってなるそうすると有為と無為が出会う中間地点がふわりと現れるようなね2024/12/21 15:51:56587.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqiサンスクリット原典約(発音+翻訳)https://m.youtube.com/watch?v=-O455rfL1Vk2024/12/21 15:53:02588.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi27-a gate gate paragate para- sangate bodhih svaha.27-b ガテー, ガテー, パーラ ガテー, パーラ サン ガテー, ボーディ スヴァーハー.ーーー27-c(1)行き着いた(と思っても実際は到達できず),(2)(再び)行き着いた(と思っても実際は到達できず),(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.ーーー(これがまさに、叡智の超越的境地に至る神髄である.) 悟りよ、幸いあれ!27-d 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶28-a iti prajna- paramita-hrdayam samaptam.28-b イティ プラジュニャー パーラミター フリダヤム サマープタム.28-cここで 叡智の超越的境地が 完結した.28-d (該当する漢訳なし)2024/12/21 16:05:05589.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),≪と思っても長くは留まれず俗世に戻り≫ここが第四禅定の処(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.≪彼岸に完全に行き着いた.≫これ‼️ジュニャーナヨーガで言うと(3)はニルビカルパサマディーで(4)がサハジャサマディーです2024/12/21 16:06:02590.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.≫そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついにここ、大事これが、完全に再現性のある第四禅定の処毎日でも同じ禅定の境地へ、意図して入禅定可能である処です一回こっきりで、もう一度、身心脱落に入禅定出来ないはこれはまだ(3)の前の(2)です(4)では、入禅定の必要がなくなっていて、身心脱落へは、移行しようと思うだけで、瞬時にその意識に至ります此岸に彼岸が同時に在る状態だから、そこに断絶が無いわけですね2024/12/21 16:06:33591.パ◆GyEhhmlxmzjrqjOy2◯日没時の詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるときそのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」◯真夜中の詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるときそのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」◯夜明けの詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」『ウダーナ』2024/12/22 18:22:58
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
現量からフォーカスして認識完了やわな
少なくとも左脳に関しては無為の状態じゃないかな?
止めると言うか、離れるような感じか?
認識はフォーカスだろうね
たぶん
おもうわ
相続、戯論でフォーカス、現象化
何かの論文であったわ
無分別と認識出来るところと
無分別を行き来しているって
んでその浮かび上がってくるものを直接コントロールは出来ない。間接的には意を向ける場所を変えるとそれらも変わるから出来る。
えーとだ、つまり私がその無意識への観察をやめると、目的地を設定してそれに意を向けるだけだと、目的地に着いた後はっとするという現象が起こる。
ナンバーを認識しないのも、意を向ける対象が違うからで、その意を何に向けるかは決まってないし何処にも向けないということもする。
意生身、器世間をフォーカス、相続することで維持、生成しとる
完結すると、向かう先が無くなって、識自体が自身にきづく起こるけど
上のはそれっぽいね
いやだから現量は分析も何も無い無分別だけども、如実知見は現量と同じ意味での無分別ではないと言いたい。
やたらにそここだわるな
如実知見は言葉通り
そのまんまで現量ってことだろう
であるならば
戯論静寂、言語がつぶれてるってことだ
その如実知見と分析出来るところを
自在に行き来するで
スッキリ解決だろ
良いところ、惜しいところまで観れてるね
まだ意思が自由に動き回るのを
無為の識で観照されていない感じだけど
その動く意思を、最初は何処かに固定しておいて、完全な無分別三昧に入るんだよね
そこから進むと
最初から、無為にして不動の識本体に留まれて
そうやってると動き回るいしが静止して、とても微細な妄想の動きも消えてしまって
本物の本自然な識に安住されるような、そういう三昧が顕になって現れると
言葉通り、現量だろ
行き来してるでスッキリ解決だろ
無色界にしても
ここらから識無辺処でーす
って看板があるわけやないからさ
空無辺処やら非想非非想処やらを
行き来しながら漂うねん
いって涅槃に言ったんや
智慧の発現に肝心なんは
そのステージチェンジのギャップやと思うで
標識はある
目印よいうか
◯第五、第六の空と識には対象の有り無しが
空は対象を一旦は認めてからその広さを計る
識はその空を認識する、そのもの当体の識
って感じで
◯≪無 所有 処≫は、対象無く、在る、処の識
◯非想 非非想処は、対象の思いではなくて、その識自体を想うのでも無く、想わないのでも無いと言う処
◯想受滅(滅尽定)は、在った識自体の非在なので、出定した時に、滅尽定に入ったという記憶の痕跡も、意識には昇って来ないような処
まあおれの理解では、だけど
まぁ日常生活、という制限がなく瞑想って言うならまた話は変わるんだけども
認識がないまま日常生活が出来るというなら私にはその境地はわからないな。
上でも言ったようにオートでの行動は出来るけど、それも何をするって決めてからのオート化だしな。
普通人は、認識無く行動しているよ
要は反応と習慣で
人間は意識的に生きた時間って、完全に記憶されていて、何十年経っても鮮明に思い出せるんだよね
3日前になに食ったか思い出せんとかは、その食ってる間に妄想念に在ったってことですから
まあ認識無くって、逆の意味で覚醒が無いってことだからさ
瞑想中ならわかる。日常で大半が意識せずに行動してるのもわかる。
だから歳をとると日常の動作が経験済みの事が増えてさらに意識に上がってこなくなるから記憶に残らなくなっていく⋯1日が早く感じる。
子供時代の1日は長かった
それもすぐ過ぎ去ってしまうけどね。。
共感します。
如実知見は〝聖典量〟でしょ。
法介さんお久しぶりですね!
◯世間の事物有情の実体は、縁起して空である
●空即是色
◯空であって縁起していなければ、事物有情の実体は器世間に、現れ得ない
チベット佛教、ボン教などのゾクチェンやマハムドラー系統の頓悟の系統と同じでしょ
大乗はその後に金剛大乗へ進化して
そこで悟り、解脱への成仏次第の行程が編み出されたって流れで
方法論として
中国で独自に編まれた大乗禅の公案には、明確な次第は存在しないけど
金剛大乗には、明確な次第行程が存在していて
空海で有名な求聞持法などは、無心→悟りを引き起こす行法だと思われる
解脱へは、ここから出発する
初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどね
これの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが
道元禅師のお示しの身心脱落が
釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定である
て~言うことを、誰も指摘しないけどね
そうなんですよ、これは
睡眠は一日4時間、それも坐禅の状態で寝るとか
☝五蘊の四つの変化の色相って
どういう事だか解るかな
三乗の智慧(三諦)を覚る事で導きだされる三身即一の仏の智慧なんだけども。
それを如実知見と言うんだと、わたしは思っております。
四縁によるところの
4段階の意識の変化ではないでしょうか。
縁覚の意識
菩薩の意識
仏の意識
縁覚の意識(体空)
菩薩の意識(法空)
仏の意識(非空)
五蘊の四っつの変化の相がこれにあたります。
順観の色即是空です。(客観=実在=有門)
時間軸の中で起こる客観(客体)の此縁性縁起。
お久しぶり。忙しい時は無理せず。
落ち着いたらまたゆっくりと語りましょう
こーゆーのはちと参加しにくいなぁ。
やはり色々とあったみたいですね。生活がガラッと変わってしまった感じなのかな?
今は色々と考える時期なのかもしれません。
zen坊主の中では
馬さんの言ってる純無垢の識を体験するとこーなるのかのぅ?
確かにそれは変化の影響受けない静寂な状態だから無為みたいな感じだけども、私にゃそれは変化の影響の外にいるような感じで影響受けないだけで、変化の中にいて変化の影響を受けない状態じゃないのよねぇ。
それが馬さんの言ってるのと同じかわからんけどもリダンの話をきくに。
んでそれ自体が無為だったとしてもそこに留まるのは有為だから変化する。戻っちゃう。
だからそれは継続的な解決で、変化の中にいながら変化の影響を受けない、因果の超越が永続的な解決と考えてるからアプローチが違う。
そうなると留まる必要さえなくなってロンぽく言うなら元のままで良くなる。まぁ心の在りようはまるで別物だけど。
でもその変化の影響を受けない状態は結構大事でそうじゃないと変化をありのままに見ることが難しい
あるとき、保福和尚は若い僧を呼んで「手をだしてみな」といい、
その僧が手を突き出すと、その手のひらに土のカタマリをのせて、
それを縁側まで持って行って庭に投げてこい、と指示します。
僧は言われたとおり、縁側から庭にむかってその土くれを投げて、
また保福の元に戻ってきて、「投げました」といいますが、
その様子を観察していた保福は、
おまえは今、絶好のチャンスをのがしたな…。
その中間に在るのが真如でしょ
有為と無為は同参するって
有為の裏に無為が
無為の表に有為が
みたく
日常の中で、有為→有為→有為って連続してて
意図せずに突如として
有為→無為→無為 ってなる
そうすると
有為と無為が出会う中間地点がふわりと現れるようなね
https://m.youtube.com/watch?v=-O455rfL1Vk
27-b ガテー, ガテー, パーラ ガテー, パーラ サン ガテー, ボーディ スヴァーハー.
ーーー
27-c
(1)行き着いた(と思っても実際は到達できず),
(2)(再び)行き着いた(と思っても実際は到達できず),
(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),
(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.
ーーー
(これがまさに、叡智の超越的境地に至る神髄である.)
悟りよ、幸いあれ!
27-d 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
28-a iti prajna- paramita-hrdayam samaptam.
28-b イティ プラジュニャー パーラミター フリダヤム サマープタム.
28-c
ここで 叡智の超越的境地が 完結した.
28-d (該当する漢訳なし)
≪と思っても長くは留まれず俗世に戻り≫
ここが第四禅定の処
(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.
≪彼岸に完全に行き着いた.≫
これ‼️
ジュニャーナヨーガで言うと
(3)はニルビカルパサマディーで
(4)がサハジャサマディーです
彼岸に完全に行き着いた.
≫そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに
ここ、大事
これが、完全に再現性のある第四禅定の処
毎日でも同じ禅定の境地へ、意図して入禅定可能である処です
一回こっきりで、もう一度、身心脱落に入禅定出来ないは
これはまだ(3)の前の(2)です
(4)では、入禅定の必要がなくなっていて、身心脱落へは、移行しようと思うだけで、瞬時にその意識に至ります
此岸に彼岸が同時に在る状態だから、そこに断絶が無いわけですね
「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき
そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。
それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
◯真夜中の詩
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき
そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。
それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
◯夜明けの詩
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき
彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。
あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
『ウダーナ』