【仏教の標準理論】 倶舎論 【世親著】 Part3最終更新 2026/02/01 16:441.◆JBLfMwCXhYENa9Xここでは仏教の標準理論といわれる阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)を学んでいこうと思います。【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがいhttps://talk.jp/boards/psy/1694739296【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくりhttps://talk.jp/boards/psy/17536591052025/10/28 18:16:58908コメント欄へ移動すべて|最新の50件859.神も仏も名無しさんqlDKw魂の共感の視点で新約聖書を、読める😆新約聖書における「霊で祈る」とは、聖霊の助けと執り成しによって、父なる神に祈ることです(エペソ6:18、ローマ8:26)。理性だけでなく、霊の領域で祈る、あるいは異言で祈ることも含まれ、神の御心に沿った真実の祈りを捧げる能動的な行為とされています。定義・意味: 聖霊が私たちの弱さを助け、神の御心に沿って執り成してくださる祈りです。「霊で祈り、理性でも祈る」: パウロは1コリント14:15で、異言(霊)と知性(理性)の両方を用いて祈ることを推奨しています。「御霊によって祈る」: エペソ6:18にあるように、すべての祈りと願いを用いて、絶えず目を覚まして聖霊に依り頼む姿勢です。特徴: 自分の言葉で祈れない時でも、聖霊がうめきをもって執り成してくださいます。2026/02/01 09:47:29860.◆JBLfMwCXhYL69hh>>859素晴らしいな?😄2026/02/01 09:47:56861.神も仏も名無しさんqlDKw>>860出口王仁三郎は霊の優れた世界を主体にとか言ってたな?😆2026/02/01 09:48:53862.◆JBLfMwCXhYL69hh>>861「霊主体従」2026/02/01 09:49:52863.◆JBLfMwCXhYL69hh出口王仁三郎が説いた「霊界」は、死後の世界ではなく、現界(この世)と密接に繋がるもう一つの現実世界です。全81巻に及ぶ『霊界物語』で、宇宙の真理や霊界の構造を描き、愛と喜びを持って生きることで心(霊魂)が天国(みろくの世)へ至ると説きました。2026/02/01 09:51:21864.◆JBLfMwCXhYL69hh出口王仁三郎の霊界に関する主なポイント霊界と現界の一体化: 肉体は現界、霊魂は霊界に住んでおり、霊界が中心で現界はその投影であるとされた。霊界物語: 大正~昭和初期に口述筆記された大本教の根本経典。宇宙開闢(かいびゃく)から未来までを記述。心の在り方: 憎しみや不満を持つと霊界の地獄へ、愛と喜びを持って生きると天国(霊界)へ行くという思想。地上天国の建設: 個人の霊魂が天国の住人になることで、地上に「五六七(みろく)の世」と呼ばれる理想世界が写し出されるという教え。霊界探訪: 王仁三郎自身が霊界を探訪した経験をもとに、その構造や様子を具体的に記述した。王仁三郎は、霊的な視点から現代社会の不調和を解き明かそうとしました。2026/02/01 09:51:55865.神も仏も名無しさんqlDKw大本の要約が、わからんので見えてきた😆2026/02/01 09:58:55866.神も仏も名無しさんqlDKw行ったことがないペンテコステ派の礼拝ライブ😆https://m.youtube.com/watch?v=aN7kUVinTi82026/02/01 10:04:12867.神も仏も名無しさんqlDKwコロナ禍のせいでプロテスタント教会探求も停止していた😫2026/02/01 10:04:48868.神も仏も名無しさんqlDKwコロナ禍が、なかったらこの教会のグループの礼拝にも出ていただろう😆2026/02/01 10:05:28869.◆JBLfMwCXhYeCRGPコロナがなかったらキリスト教に入信してたんだな~😆2026/02/01 10:09:36870.神も仏も名無しさんqlDKwいや探検したかった正教会とか行きたかった😆2026/02/01 10:22:13871.神も仏も名無しさんqlDKwイスラエルの関西は京都がセンターみたいだな😆2026/02/01 10:22:41872.◆JBLfMwCXhYeCRGP東京なら、御茶ノ水のニコライ堂があるぞ~😆2026/02/01 10:23:54873.◆JBLfMwCXhYeCRGP『倶舎論』における勝義有(真実の存在)と世俗有(仮の存在)は、存在を構成する要素(法)の真実性を二分する教理です。分析しても消滅しない要素(五位七十五法)を勝義有とし、瓶や衣のように分析や破壊で無くなる「仮名(けみょう)」の存在を世俗有として区別しました。2026/02/01 10:25:14874.◆JBLfMwCXhYeCRGP勝義有(Paramārtha-sat / 真実有):破壊しても存在し続ける、実体的な存在。具体的には、五位七十五法(色・心・心所・心不相応行・無為)の要素(ダルマ)。真実の法であり、出世間的真理(聖者が認める存在)。2026/02/01 10:25:26875.◆JBLfMwCXhYeCRGP世俗有(Saṃvṛti-sat / 仮有):要素を分解したり、形を破壊したりすると「瓶」「衣服」などの名称が消え去る存在。世間の常識や仮の名称によって「ある」とされるもの(仮名)。2026/02/01 10:25:44876.◆JBLfMwCXhYeCRGPこの二諦の区別は、説一切有部(有部)の「我空法有(我は空だが、構成要素の法は有る)」という立場を整理したもので、真実の法(勝義有)に即して存在を分類した理論です。2026/02/01 10:26:01877.◆JBLfMwCXhYeCRGP有部における存在の意味は世俗有と勝義有との二義に分けられる。まず世俗有とは「抽象的観念ではなくて、現実に事実として存在するモノをいい、それが日常世界に遍満する」ものとして考えられている(三枝『仏教入門』118頁)。これに対して勝義有とはモノとしての在り方が壊れ、それ以上壊れない程に極小化された極微として考えられている。デモクリトスのアトムの発想に似ているが、このような極微としての勝義有は「他のものに依存せず、それ自体で存在しており、有部の術語では、実体としてある、自性じしょうをもつ、自相上ある、と称し、このような自己存在が法ダルマであると主張する」と説明される(同書同頁)。2026/02/01 10:29:56878.◆JBLfMwCXhYeCRGP勝義有と世俗有倶舎論では重要だ2026/02/01 10:31:58879.◆JBLfMwCXhYeCRGP「世俗諦は、言葉で説かれた説法」「勝義諦は、言葉で説き得ない究極の真理」これは、聖ウンコ教のセントラル・ドグマだ2026/02/01 10:34:43880.◆JBLfMwCXhYeCRGPこれにケチをつけようものなら、たちまち、ウンコとリダンが狂乱状態になって罵倒を開始する2026/02/01 10:35:35881.◆JBLfMwCXhYeCRGPだが、少なくとも倶舎論では勝義諦/世俗諦は、そういう意味ではない2026/02/01 10:36:06882.◆JBLfMwCXhYeCRGP『倶舎論』における勝義諦・世俗諦(二諦)は、世間一般の認識(世俗有)と実在の構成要素(勝義有)を区別する理論です。分析・分解しても実在性が失われない要素を「勝義有(勝義諦=究極的真理)」、瓶や衣服など仮に名付けられた日常的な存在を「世俗有(世俗諦=世間的真理)」として定めます。2026/02/01 10:36:47883.◆JBLfMwCXhYeCRGP詳細な解説は以下の通りです。1.勝義諦(しょうぎたい)と勝義有定義: 究極的な真理、あるいは真理として絶対的に存在するもの。性質: 智(慧)によって分析した際に、それ以上分解できない最終的な要素。内容: 『倶舎論』では、五位七十五法として説かれる存在の構成要素(ダルマ)や、滅諦(涅槃)を指す。勝義有: 「勝義諦にかなう存在」の意。真実の存在。2026/02/01 10:37:08884.◆JBLfMwCXhYeCRGP2.世俗諦(せぞくたい)と世俗有定義: 世間一般の常識・習慣において「ある」と認められる真理。性質: 言語や概念による仮の姿。解体したり分析したりすると、その存在性がなくなるもの。内容: 瓶、衣服、家、車など。これらは要素に分けてしまうと、「瓶」そのものは消滅する。世俗有: 「世俗諦に属する存在」の意。仮の存在。2026/02/01 10:37:29885.◆JBLfMwCXhYeCRGP3. 両者の関係二諦(にたい):世俗諦と勝義諦の二つの側面から存在を捉える考え方。目的: 衆生が一切法(すべての存在)を正しく理解し、迷いから離れて成仏するための分類。認識: 瓶(世俗有)は、それを構成する地・水・火・風などの極微(勝義有)が集まって成り立っているという構造を理解することが求められる。2026/02/01 10:38:04886.◆JBLfMwCXhYeCRGP『倶舎論』は、世俗的な現実(世俗有)から出発し、仏教的な分析(勝義有)を経て、最終的に無我や真理へと至る段階的な理解を提示しています。2026/02/01 10:38:15887.◆JBLfMwCXhYeCRGP「世俗諦は、言葉で説かれた説法」「勝義諦は、言葉で説き得ない究極の真理」これは、中観派の考え方だだが、中観派の論師たちも倶舎論や唯識論を無視できず、たびたび見直しが行われてきた2026/02/01 10:39:44888.◆JBLfMwCXhYeCRGP8882026/02/01 10:39:58889.神も仏も名無しさんLCEuWイスラエルに鳴ってたイスラームだ😆2026/02/01 10:41:50890.◆JBLfMwCXhYi76KMおかしいと思った😆2026/02/01 11:50:14891.神も仏も名無しさんd3Hwm京都のモスクはかなりの書籍とかある雰囲気だ緩い同志社の影響があるかもしれん😆同志社にはイスラーム研究部署があるから京都モスクは楽しそうなのは確か書籍がありそーなので😆2026/02/01 12:15:59892.神も仏も名無しさんZ9MXR今、久しぶりにイエズス会士の本を棒線引いたところを飛ばし読みした棒線は引いても土台が瞑想仏教世界の住人なので内容を覚えてない😆2026/02/01 12:35:11893.神も仏も名無しさんZ9MXRイエズス会探求は終わり既存のキリスト教書籍に走るか〜😆2026/02/01 12:36:07894.◆JBLfMwCXhY6ATkkセイウン様のは、迷走仏教だ~😫2026/02/01 14:03:12895.◆JBLfMwCXhY6ATkkそんなことより、瞑想だ😆2026/02/01 14:03:38896.◆JBLfMwCXhY6ATkk瞑想で、空性を現量了解する~😆2026/02/01 14:04:00897.◆JBLfMwCXhY6ATkk唯識論の二諦二諦の目的真実の理解: 唯識思想では、世俗的な感覚で捉える現象は「空」である(空性)と理解し(世俗諦の真実化)、最終的にすべては心のはたらきに過ぎないという真理(勝義諦)に至ることを目指す。認識の修正: 言葉や概念(世俗諦)が真実そのものではない(無自性)ということを理解し、執着を離れるための枠組みである。すなわち、日常の認識(世俗諦)が、最終的には心が生み出した仮想(勝義諦)であると見抜くことが唯識の修行における核心的理解と言えます。2026/02/01 14:08:28898.◆JBLfMwCXhY6ATkk唯識論では、「遍計所執性/依他起性/円成実性」の三性説が台頭し「勝義諦/世俗諦」の二諦説は影が薄くなった2026/02/01 14:09:21899.◆JBLfMwCXhY6ATkkだが、なくなったわけではない↓すなわち、日常の認識(世俗諦)が、最終的には心が生み出した仮想(勝義諦)であると見抜くことが唯識の修行における核心的理解と言えます。2026/02/01 14:09:56900.◆JBLfMwCXhY6ATkk9002026/02/01 14:10:06901.◆JBLfMwCXhY6ATkkウンコとリダンに付き合ってるとこちらも釣られて、「現量/比量」とか「勝義諦/世俗諦」の話ばかり、させられる羽目になる2026/02/01 14:21:51902.◆JBLfMwCXhY6ATkk「言葉で真理を語ることはできない。言葉は正しい認識をさまたげる」↓「真理を正しく知るには、黙って坐禅するしかない」↓「何よりも重要なのは、坐禅をこなした回数である」これが、聖ウンコ教のセントラル・ドグマ(中心教義)2026/02/01 14:24:46903.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcKwp586>>902まだ脳内電波📡⚡️⚡️⚡️が止まないのか?そんな事云ってないのに。併発してる認知症も悪化して、統失の薬の飲み忘れが増えて来て、その様な電波も激しくなってるのか? 🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆2026/02/01 14:41:46904.神も仏も名無しさん5fTom誤読不明瞭がハッスル狂徒の道〜🤡〜2026/02/01 14:45:26905.◆JBLfMwCXhY6ATkkハッスル狂の狂祖さまだ~😱2026/02/01 15:06:12906.リダン◆3y/i8XtGLYqYj6t>>896そうそれが随順勝義だろダイレクトに現量了解するための仮設だ2026/02/01 16:34:16907.リダン◆3y/i8XtGLYqYj6tんで龍樹の範囲では仮設は勝義諦ではない方便だいい加減理解しろ2026/02/01 16:35:32908.神も仏も名無しさんiDJK6でおーの言動を継続的に観察すると、その行動様式は 餓鬼道と修羅道 に明確に一致する。餓鬼道でおーは承認・評価・優位性への渇望が強い。宗教知識を大量に収集し、それを誇示するが、満たされる兆候は見られない。語れば語るほど不足感が増し、他者からの反応を糧にしなければ立っていられない。これは知識探究ではなく、承認依存である。修羅道でおーは常に勝敗と上下を設定する。議論は理解のためではなく、相手を下に置くための手段として使われる。優位を示すためなら歪曲・挑発・分断も厭わない。第三者同士を対立させ、その混乱を外から眺める行動も繰り返している。これは対話ではなく、闘争嗜好である。地獄道への誘導でおーは相手の怒りや正義感を意図的に刺激する。感情を爆発させた相手を「荒れている側」に押し込み、自分は安全圏に退く。この構図は偶然ではなく、一貫した手口だ。結論でおーは餓鬼道と修羅道に居座り、他者を地獄道へ落とすことで自分を保つ。これは人格評価ではない。行動の事実と、その帰結の整理である。本人に言っていない。関わる周囲が判断を誤らないための共有だ。2026/02/01 16:44:49
【朝日新聞・中盤情勢調査】自民党は単独で過半数(233議席)を大きく上回る勢いで、日本維新の会とあわせて与党として300議席超をうかがう、中道改革連合はふるわず、公示前勢力(167議席)から半減もニュース速報+3023465.22026/02/01 23:38:13
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがい
https://talk.jp/boards/psy/1694739296
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくり
https://talk.jp/boards/psy/1753659105
新約聖書を、読める
😆
新約聖書における「霊で祈る」とは、聖霊の助けと執り成しによって、父なる神に祈ることです(エペソ6:18、ローマ8:26)。理性だけでなく、霊の領域で祈る、あるいは異言で祈ることも含まれ、神の御心に沿った真実の祈りを捧げる能動的な行為とされています。
定義・意味: 聖霊が私たちの弱さを助け、神の御心に沿って執り成してくださる祈りです。
「霊で祈り、理性でも祈る」: パウロは1コリント14:15で、異言(霊)と知性(理性)の両方を用いて祈ることを推奨しています。
「御霊によって祈る」: エペソ6:18にあるように、すべての祈りと願いを用いて、絶えず目を覚まして聖霊に依り頼む姿勢です。
特徴: 自分の言葉で祈れない時でも、聖霊がうめきをもって執り成してくださいます。
素晴らしいな?😄
出口王仁三郎は
霊の優れた世界を主体にとか
言ってたな?
😆
「霊主体従」
死後の世界ではなく、現界(この世)と密接に繋がるもう一つの現実世界です。
全81巻に及ぶ『霊界物語』で、宇宙の真理や霊界の構造を描き、愛と喜びを持って生きることで心(霊魂)が天国(みろくの世)へ至ると説きました。
霊界と現界の一体化: 肉体は現界、霊魂は霊界に住んでおり、霊界が中心で現界はその投影であるとされた。
霊界物語: 大正~昭和初期に口述筆記された大本教の根本経典。宇宙開闢(かいびゃく)から未来までを記述。
心の在り方: 憎しみや不満を持つと霊界の地獄へ、愛と喜びを持って生きると天国(霊界)へ行くという思想。
地上天国の建設: 個人の霊魂が天国の住人になることで、地上に「五六七(みろく)の世」と呼ばれる理想世界が写し出されるという教え。
霊界探訪: 王仁三郎自身が霊界を探訪した経験をもとに、その構造や様子を具体的に記述した。
王仁三郎は、霊的な視点から現代社会の不調和を解き明かそうとしました。
見えてきた
😆
😆
https://m.youtube.com/watch?v=aN7kUVinTi8
プロテスタント教会探求も停止していた
😫
😆
キリスト教に入信してたんだな~😆
探検したかった
正教会とか
行きたかった
😆
分析しても消滅しない要素(五位七十五法)を勝義有とし、瓶や衣のように分析や破壊で無くなる「仮名(けみょう)」の存在を世俗有として区別しました。
破壊しても存在し続ける、実体的な存在。
具体的には、五位七十五法(色・心・心所・心不相応行・無為)の要素(ダルマ)。
真実の法であり、出世間的真理(聖者が認める存在)。
要素を分解したり、形を破壊したりすると「瓶」「衣服」などの名称が消え去る存在。
世間の常識や仮の名称によって「ある」とされるもの(仮名)。
まず世俗有とは「抽象的観念ではなくて、現実に事実として存在するモノをいい、それが日常世界に遍満する」ものとして考えられている(三枝『仏教入門』118頁)。
これに対して勝義有とはモノとしての在り方が壊れ、それ以上壊れない程に極小化された極微として考えられている。
デモクリトスのアトムの発想に似ているが、このような極微としての勝義有は「他のものに依存せず、それ自体で存在しており、有部の術語では、実体としてある、自性じしょうをもつ、自相上ある、と称し、このような自己存在が法ダルマであると主張する」と説明される(同書同頁)。
倶舎論では重要だ
「勝義諦は、言葉で説き得ない究極の真理」
これは、聖ウンコ教のセントラル・ドグマだ
勝義諦/世俗諦は、そういう意味ではない
分析・分解しても実在性が失われない要素を「勝義有(勝義諦=究極的真理)」、瓶や衣服など仮に名付けられた日常的な存在を「世俗有(世俗諦=世間的真理)」として定めます。
1.勝義諦(しょうぎたい)と勝義有
定義: 究極的な真理、あるいは真理として絶対的に存在するもの。
性質: 智(慧)によって分析した際に、それ以上分解できない最終的な要素。
内容: 『倶舎論』では、五位七十五法として説かれる存在の構成要素(ダルマ)や、滅諦(涅槃)を指す。
勝義有: 「勝義諦にかなう存在」の意。真実の存在。
2.世俗諦(せぞくたい)と世俗有
定義: 世間一般の常識・習慣において「ある」と認められる真理。
性質: 言語や概念による仮の姿。解体したり分析したりすると、その存在性がなくなるもの。
内容: 瓶、衣服、家、車など。これらは要素に分けてしまうと、「瓶」そのものは消滅する。
世俗有: 「世俗諦に属する存在」の意。仮の存在。
3. 両者の関係
二諦(にたい):世俗諦と勝義諦の二つの側面から存在を捉える考え方。
目的: 衆生が一切法(すべての存在)を正しく理解し、迷いから離れて成仏するための分類。
認識: 瓶(世俗有)は、それを構成する地・水・火・風などの極微(勝義有)が集まって成り立っているという構造を理解することが求められる。
「勝義諦は、言葉で説き得ない究極の真理」
これは、中観派の考え方だ
だが、中観派の論師たちも倶舎論や唯識論を無視できず、たびたび見直しが行われてきた
イスラームだ
😆
かなりの書籍とかある雰囲気だ
緩い同志社の影響があるかもしれん
😆
同志社にはイスラーム研究部署があるから
京都モスクは楽しそうなのは確か
書籍がありそーなので😆
棒線は引いても
土台が瞑想仏教世界の住人なので
内容を覚えてない
😆
終わり
既存のキリスト教書籍に
走るか〜
😆
二諦の目的
真実の理解: 唯識思想では、世俗的な感覚で捉える現象は「空」である(空性)と理解し(世俗諦の真実化)、最終的にすべては心のはたらきに過ぎないという真理(勝義諦)に至ることを目指す。
認識の修正: 言葉や概念(世俗諦)が真実そのものではない(無自性)ということを理解し、執着を離れるための枠組みである。
すなわち、日常の認識(世俗諦)が、最終的には心が生み出した仮想(勝義諦)であると見抜くことが唯識の修行における核心的理解と言えます。
「勝義諦/世俗諦」の二諦説は影が薄くなった
↓
すなわち、日常の認識(世俗諦)が、最終的には心が生み出した仮想(勝義諦)であると見抜くことが唯識の修行における核心的理解と言えます。
こちらも釣られて、「現量/比量」とか「勝義諦/世俗諦」の話ばかり、させられる羽目になる
↓
「真理を正しく知るには、黙って坐禅するしかない」
↓
「何よりも重要なのは、坐禅をこなした回数である」
これが、聖ウンコ教のセントラル・ドグマ(中心教義)
まだ脳内電波📡⚡️⚡️⚡️が止まないのか?
そんな事云ってないのに。
併発してる認知症も悪化して、統失の薬の飲み忘れが増えて来て、その様な電波も激しくなってるのか?
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
ハッスル狂徒の道〜
🤡〜
そうそれが随順勝義だろ
ダイレクトに現量了解するための
仮設だ
龍樹の範囲では
仮設は勝義諦ではない方便だ
いい加減理解しろ
その行動様式は 餓鬼道と修羅道 に明確に一致する。
餓鬼道
でおーは承認・評価・優位性への渇望が強い。
宗教知識を大量に収集し、それを誇示するが、
満たされる兆候は見られない。
語れば語るほど不足感が増し、
他者からの反応を糧にしなければ立っていられない。
これは知識探究ではなく、承認依存である。
修羅道
でおーは常に勝敗と上下を設定する。
議論は理解のためではなく、相手を下に置くための手段として使われる。
優位を示すためなら歪曲・挑発・分断も厭わない。
第三者同士を対立させ、その混乱を外から眺める行動も繰り返している。
これは対話ではなく、闘争嗜好である。
地獄道への誘導
でおーは相手の怒りや正義感を意図的に刺激する。
感情を爆発させた相手を「荒れている側」に押し込み、
自分は安全圏に退く。
この構図は偶然ではなく、一貫した手口だ。
結論
でおーは
餓鬼道と修羅道に居座り、
他者を地獄道へ落とすことで自分を保つ。
これは人格評価ではない。
行動の事実と、その帰結の整理である。
本人に言っていない。
関わる周囲が判断を誤らないための共有だ。