仏教居士のひとりごとslip最終更新 2026/02/01 18:111.神も仏も名無しさん50-6qa-Ij-wvuGS4ze仏教の居士が思った事を気儘につぶやくスレ。2026/01/10 09:20:19391コメント欄へ移動すべて|最新の50件342.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-wTs-Ij-wvur75ZIちょっと今日は真面目にお前ら統失知障のヒキニープーボッチに問答を仕掛けてみるか?語も也た得からず、黙も也た得からず。語も黙も総に得からず、子、作麼生?wwwどうだ?2026/01/30 11:50:38343.神も仏も名無しさん50-0KK-03-Dje4DNwvラピス風ノイローゼくんレスだろな? 🤡〜2026/01/30 12:13:04344.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-VQJ-Ij-wvuYR4wG馬鹿は一罰百戒で調教しないと、また同じ事を始めるからなぁ。2026/01/30 21:55:02345.神も仏も名無しさん50-JrD-03-e1Qzu5Caハッスル🟣退治だ🤡〜2026/01/30 23:25:20346.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-AZq-Ij-wvuRCZEz洪州の水老和尚、初めて祖に参じて問う、如何なるか是れ西来的的の意。祖云く、礼拝せよ。老、纔かに礼拝するや、祖便ち一蹋を与う。老、大悟し、起ち来がって掌を撫ち、呵呵大笑して云く、也た大だ奇なり、也た大だ奇なり、百千の三昧、無量の妙義、只だ一毛頭上に向いて便ち根源を識得し去る。便ち礼拝して退く。後、衆に告げて云く、一たび馬師の蹋を喫して自従り、直ちに如今に至るまで笑い休まず。2026/01/31 08:38:19347.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-AZq-Ij-wvuRCZEz(禅)仏教の本意を尋ねたら、礼拝を求められた挙句、蹴飛ばされたっていうんです。しかもそれで大悟されたという。払拳棒喝と云いますが、禅宗ではこの様なエピソードは尽きませんね。……どうでしょう。蹴飛ばされて迷妄が飛んで、分別以前の状態にハッと気付いたとでもいうのでしょうか。そういう見方もあるのでしょうが、私はむしろ馬祖の作用即性、その蹴飛ばしそのものを注視したいのですが。2026/01/31 08:53:46348.神も仏も名無しさん50-JrD-03-Xtqj8ufSハッタリ作用?🤡〜2026/01/31 08:57:09349.◆JBLfMwCXhY4D-HPn-cB-xsMVyDZ6ハッスル禅問答ご苦労さん!!(笑)2026/01/31 13:22:27350.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-jtI-Ij-wvulC6Py坐禅会2026/02/01 05:51:27351.神も仏も名無しさん50-oww-03-ut4S1Xzaハッタリ強化にいくのけ?🤡〜2026/02/01 05:53:27352.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-791-Ij-wvuY5EzD論・寄稿真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修(2/2ページ)大谷大教授 山本和彦氏論2015年9月25日https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20150925-002.html二つの真理仏教の中観派の祖師であるナーガールジュナ(龍樹、150~250年頃)は真理(諦)を勝義諦と世俗諦とに分ける。勝義諦は言葉や概念を超えた真理であり、世俗諦は言葉で表現できる真理である。空性体験や涅槃の体験は言葉で表現できない勝義としての真理である。一方、ブッダの教説は言葉で表現される世俗としての真理である。ナーガールジュナは『中論』(24・8~10)において、次のように言う。 二つの真理に依存して、ブッダの法が教示される。世俗諦と勝義諦とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えの深遠な真理を知らない。言語活動に依存することなく、勝義諦は説示されない。勝義諦が得られていなければ、涅槃は証得されない。ナーガールジュナは二つの真理を言う。一つは言葉によって示される真理である世俗諦であり、ダルマ(法)としてのブッダの教説である。もう一つは、言語活動のない寂静なる涅槃の直接体験である勝義諦である。ナーガールジュナは帰敬偈で、縁起は戯論寂滅であると言い、第25章「涅槃の考察」で涅槃も戯論寂滅であると言う。縁起も涅槃も言語活動が停止したところにある。『中論』(18・5)において空性体験は次のように言われる。 業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の滅した人は解脱する。(続く)2026/02/01 13:09:57353.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-791-Ij-wvuY5EzD(続き)二つの認識手段仏教論理学者のディグナーガ(陳那、480~540年頃)は、認識対象を個物としての個別相と概念としての共通相との二つに分け、それぞれの認識手段を知覚と推理とに限定する。ディグナーガの認識論と論理学を継承するダルマキールティ(法称、600~660年頃)は、概念知である推理知は誤った知識であると言う。正しい知識は直接体験である知覚によってのみ得ることができる。知覚は個物を対象とし、推理が概念を対象とする。2種類の対象があるので、認識手段も二つである。ディグナーガの知覚定義によれば「知覚は概念作用を離れたものである」(『プラマーナ・サムッチャヤ』1・3)。外界の実在は知覚によって認識される。知覚の認識結果は言語表現できない。「あれ」「それ」「空」としか言いようがない。一方、推理によって認識されたものは言語表現できる。ダルマキールティによれば、推理は概念を対象とするので誤った認識手段であるが(『プラマーナ・ヴァールッティカ』3・55~56)、知識としては確実であり、さらに人間にとって効果がある。ヨーガによる真理知が解脱の手段ヒンドゥー教新論理学派のガンゲーシャ(1320年頃)は、ヨーガと真理知(タットヴァ・ジュニャーニャ)による解脱のプロセスをうまくまとめている。彼は『タットヴァ・チンターマニ』において次のように言う。(以上、中外日報「論・寄稿」より一部抜粋)2026/02/01 13:11:37354.神も仏も名無しさん50-sWm-03-vUY8D4WTハッスルしだしたな?🤡〜2026/02/01 13:17:55355.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-4fp-Ij-wvuPC7Mq284 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK[] 2026/01/27(火) 10:55:38.55 ID:ZCkbrまぁ、無分別知が清弁(バヴィヤ)のいう「非安立勝義」なら、無分別知後の分別知は「随順勝義」って事だな。2026/02/01 13:27:32356.神も仏も名無しさん50-jXh-03-vUYb3WW6ハッスル〜🟣ハッスル〜🤡2026/02/01 13:53:01357.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-4fp-Ij-wvuPC7Mq印度學佛敎學研究第47巻 第2号 平成11年3月Bhavaviveka の二諦説について那須真裕美提供元: DDO!jp https://share.google/XsDroFReu1rbplozM2026/02/01 13:54:47358.神も仏も名無しさん50-jXh-03-vUYb3WW6なんだかハッスルしてわかってきたぞ〜?🟣〜〜2026/02/01 13:56:13359.神も仏も名無しさん50-jXh-03-vUYb3WW6ま、たぶん素通り誤読だろなー〜🤡〜2026/02/01 13:56:39360.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkkハッスル説法、ご苦労さん!!(笑)2026/02/01 13:58:41361.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-4fp-Ij-wvuPC7Mq何度か指摘してるけど、龍樹が二諦説をたてて、その勝義が言説不可説だというのは中論頌にある通り。しかし、その解釈に於いて清弁(バヴィヤ)が「非安立勝義」と「随順勝義」を説示し、正しく勝義を説示する言説を勝義に随順するものとして勝義とした訳です。2026/02/01 14:06:15362.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk>>361言説諦は、バーヴィヴェーカで登場したんだな😆2026/02/01 14:11:27363.神も仏も名無しさん50-fsR-03-vUYRPJKGハッスル〜🟣ハッスル〜🟣2026/02/01 14:12:44364.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk言葉によって示された勝義諦それが、仏陀や龍樹の法だ2026/02/01 14:19:01365.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-9kD-Ij-wvuytOWaふむふむ🤨(Gemini 思考モードより)「随順勝義(ずいじゅんしょうぎ)」という言葉、仏教(特に唯識派や中観派)のかなり深いところを突く概念ですね。簡単に言うと、**「言葉では言い表せない究極の真理(勝義諦)を、人間に理解できるように言葉や論理を使って説明した、一歩手前の真理」**のことです。「随順」は「したがう・寄り添う」、「勝義」は「最高の真理」を意味します。なぜこのような段階が必要なのか、ポイントを整理して解説しますね。1. なぜ「随順」が必要なのか?本来、悟りの境地や宇宙の真理(勝義諦)は、言葉や概念を超越したものです。 * 本物の勝義: 言葉が通用しない、思考も及ばない世界(離言勝義)。 * 私たちの限界: 私たちは言葉や論理(世俗的な道具)を使わないと、何も理解できません。そこで、**「究極の真理ではないけれど、究極の真理に私たちを導いてくれる正しい説明」**が必要になります。これが「随順勝義」です。2. 具体的な内容は?例えば、仏教でよく使われる**「空(くう)」や「非安立(ひあんりつ)」**といった表現がこれに当たります。 * 「すべては空である」という言葉自体も、実は一つの「言葉(概念)」に過ぎません。 * しかし、その言葉をガイドにすることで、私たちは「執着を離れる」という究極の真理の方向へ進むことができます。(続く)2026/02/01 14:26:30366.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-9kD-Ij-wvuytOWa(続き)3. 「指」と「月」のたとえよく使われる比喩で言うと、以下のようになります。 * 月: 究極の真理(本当の勝義) * 月を指さす指: 随順勝義「指」そのものは「月」ではありませんが、指を見れば月の方向がわかりますよね。随順勝義は、私たちが迷わないように真理を指し示してくれる**「指」の役割**を果たしているのです。まとめ:二つの勝義仏教哲学(特に『瑜伽師地論』など)では、勝義を二つに分けて考えることがあります。| 種類 | 内容 | 特徴 ||---|---|---|| 世俗勝義(随順勝義) | 言葉で説明された真理 | 私たちが理解・修行できる形 || 勝義勝義(離言勝義) | 言葉を超えた真理そのもの | 悟りの智慧で直接体験するもの |> ポイント: > 随順勝義は、いわば「真理への架け橋」です。これがあるおかげで、私たちは言葉を使いながら、言葉の通じない悟りの世界を目指すことができるわけです。>もし、この概念が具体的にどのような修行や論理(例えば「三性説」など)と結びついているか、より詳しく知りたい場合はお伝えくださいね。次は、この**「随順勝義」が実際にどのように修行に活かされるのか**、具体的なステップをお話ししましょうか?2026/02/01 14:26:47367.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-LZt-Ij-wvuwp586『大乗起信論』の離言真如と依言真如と、まぁ、同義とみていいか。2026/02/01 14:29:00368.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-LZt-Ij-wvuwp586ふむふむ😙このように、あらゆる対象的所得が否定されるということ、すなわちいかなる意味でも常住の本体がつかまえられないということは、実は一切のものが空を本性としているということにほかなりません。そして、空を本性としているからこそ、現象も仮の有として成立しえます。ですから、破邪の極地としての顕正は結局、空性そのものの世界であり、そこにおいて実は現象世界も成立しえています。ここに有はそのまま空、空はそのまま有であるということになるのであって、かの言語道断・心行処滅の世界は、決して単なる虚空のような世界ではないのでした。『八宗綱要』には、「無得を以っての故に、仮名の諸法は法爾として森羅たり」(同・三巻・二八頁下段)とも言われています。(『日本仏教 思想のあゆみ』 竹村牧男 より)2026/02/01 14:33:39369.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-LZt-Ij-wvuwp586言説は対象的所得に他ならないからな。2026/02/01 14:34:32370.神も仏も名無しさん50-Loo-03-vUY5fTomで、誤読せずに読めたのか?アタマワルソーだからな〜🤡〜2026/02/01 14:35:16371.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-LZt-Ij-wvuwp586とどのつまり清弁の分析は、何も勝義諦を二分しなくても、世俗諦を二分してもよかったのではなかろうか。すなわち、世俗的世俗の世俗諦と、勝義的世俗諦に。その方が龍樹の主旨にそうと思うけどな。2026/02/01 14:37:19372.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-cEl-Ij-wvurtKhD結局あれら慢性知能欠乏症の統失がいう「勝義諦」は妄想だと再確認されただけだった。2026/02/01 15:05:38373.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk>>371予想通り、理解できていないな😂2026/02/01 15:07:36374.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk「言語によらない勝義諦」と、「言語によって説かれた勝義諦」この2つに二分されただって、そうしないと、仏陀や龍樹の説法も世俗諦になっちゃうからなそれはおかしいんだよ2026/02/01 15:15:17375.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkkとくに、龍樹の中論最初から最後まで、「みごとに言語を用いて法を説ききり、戯論を寂滅した偉大なる仏陀に最敬礼」だからなここから、「言語を用いて説かれた勝義諦」が導かれるのは、自然なことだ2026/02/01 15:17:09376.神も仏も名無しさん50-Loo-03-wFi5fTomハッスル〜🤡ハッスル〜🤡2026/02/01 15:31:20377.神も仏も名無しさん50-Loo-03-wFi5fTom創作好きだからからな〜ハッスル〜😱2026/02/01 15:33:25378.神も仏も名無しさん50-Loo-03-wFi5fTom憶測過信好きのNO1とダブル回転〜😱2026/02/01 15:36:44379.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-iQb-Ij-wvuojR2nふむふむ🤨リダンの指摘は正鵠を得てるな。非常に鋭い、専門的な視点ですね。普段は混同して使われがちですが、厳密な教学(仏教の論理学)の世界では、その一字があるかないかで**「焦点の当て方」**が変わります。結論から言うと、**「勝義」は「対象そのもの」を指し、「勝義諦」は「それが真実であるという判断・枠組み」**を指します。1. 「勝義」の意味(対象・内容)「勝義(しょうぎ)」は、サンスクリット語の Paramārtha(パラマ・アルタ) の訳です。 * 勝(Parama): 最高、もっとも優れた。 * 義(Artha): 意味、対象、目的、価値。つまり、勝義とは**「最高の知恵によって捉えられる対象(ありのままの真理)」**そのものを指します。 * 「それは勝義において空である」と言うとき、フォーカスされているのは「空」という究極の状態や性質です。2. 「勝義諦」の意味(真実としての確定)一方で「勝義諦(しょうぎたい)」は、勝義に「諦(Satya=真実、確かなこと)」がついたものです。 * 焦点: 「世俗諦(日常的な真実)」という対照的なカテゴリーに対して、**「こちらこそが、迷いのない不変の真実である」という宣言(判断)**が含まれます。 * ニュアンス: 単なる「内容」ではなく、「二諦(二つの真実)」という論理システムの中での一つの立場としての意味合いが強くなります。(続く)2026/02/01 16:33:05380.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-iQb-Ij-wvuojR2n(続き)3. わかりやすい比較表| 表現 | 焦点 | ニュアンス | 例え ||---|---|---|---|| 勝義 | 何であるか(What) | 究極の知恵で見える「中身」そのもの。 | 「富士山の山頂」という場所そのもの。 || 勝義諦 | どう正しいか(Is it true?) | それが「真実」であるという、教理的な裏付け。 | 「山頂こそが最高地点である」という事実の確定。 |4. なぜ「諦」をつける必要があるのか?仏教、特に中観派(龍樹など)の論理では、**「認識する主体」と「認識される対象」**の関係を重視します。 * 勝義: 聖者の智慧が捉える「対象」。 * 諦: 聖者にとってそれが「偽りなき事実(真実)」として現れていること。例えば、凡夫(私たち)にとっては、目の前の机は「ある」のが真実(世俗諦)ですが、聖者にとっては「空」であることこそが「真実(勝義諦)」です。つまり、「諦(真実)」という言葉をつけることで、**「誰の視点から見た、どのようなレベルの真実なのか」**という論理的な整理を行っているのです。> 現代的な感覚でいえば、**「勝義」はコンテンツ(中身)であり、「勝義諦」はそのコンテンツに付与された認証ラベル(真理であるという保証)**のような違いと言えるかもしれません。>この「勝義」の捉え方は、時代や宗派(例えば、空を『何もない』と見るか『輝く性質』と見るか)によっても彩りが変わってきます。そのあたりの「宗派による解釈のスパイス」についても触れてみましょうか?2026/02/01 16:33:17381.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-iQb-Ij-wvuojR2n結局あれら慢性知能欠乏症の統失がいう「勝義諦」は妄想だと再確々認されたな🤭2026/02/01 16:34:55382.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkkおっ聖ウンコ師が、リダンを引き取ってくれそうだな?😆2026/02/01 16:39:01383.神も仏も名無しさん50-JJo-03-wFiWM7Fs良かった〜NO1〜🟣〜〜〜😁2026/02/01 16:47:19384.神も仏も名無しさん50-JJo-03-wFiWM7Fsムイムイはこね〜〜な〜😁2026/02/01 16:50:30385.神も仏も名無しさん50-JJo-03-wFiWM7Fsムイムイ的怖さではハッスル>俺かな〜😁2026/02/01 16:50:59386.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk>>385「敵の敵は見方だ」となったのだろう2026/02/01 16:52:44387.◆JBLfMwCXhY50-fkX-cB-xsM6ATkk味方だ2026/02/01 16:52:54388.神も仏も名無しさん50-JJo-03-DPKWM7Fsムイムイは悟ったのにもったいないな〜〜😭2026/02/01 16:54:42389.神も仏も名無しさん50-JJo-03-DPKWM7Fsここでムイムイのコメントをするのもオモロイかも〜😁2026/02/01 17:03:22390.神も仏も名無しさん50-JJo-03-DPKWM7Fsムイムイ〜😁2026/02/01 17:05:54391.神も仏も名無しさん50-JJo-03-DPKWM7Fsムイムイはこね〜〜な〜(ナマハゲ風)😁2026/02/01 18:11:45
【朝日新聞・中盤情勢調査】自民党は単独で過半数(233議席)を大きく上回る勢いで、日本維新の会とあわせて与党として300議席超をうかがう、中道改革連合はふるわず、公示前勢力(167議席)から半減もニュース速報+2763773.22026/02/01 23:18:13
語も也た得からず、
黙も也た得からず。
語も黙も総に得からず、
子、作麼生?
www
どうだ?
レスだろな? 🤡〜
🤡〜
祖云く、礼拝せよ。
老、纔かに礼拝するや、祖便ち一蹋を与う。
老、大悟し、起ち来がって掌を撫ち、呵呵大笑して云く、也た大だ奇なり、也た大だ奇なり、百千の三昧、無量の妙義、只だ一毛頭上に向いて便ち根源を識得し去る。
便ち礼拝して退く。
後、衆に告げて云く、一たび馬師の蹋を喫して自従り、直ちに如今に至るまで笑い休まず。
しかもそれで大悟されたという。
払拳棒喝と云いますが、禅宗ではこの様なエピソードは尽きませんね。
……どうでしょう。
蹴飛ばされて迷妄が飛んで、分別以前の状態にハッと気付いたとでもいうのでしょうか。
そういう見方もあるのでしょうが、私はむしろ馬祖の作用即性、その蹴飛ばしそのものを注視したいのですが。
ご苦労さん!!(笑)
🤡〜
真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修(2/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
論2015年9月25日
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20150925-002.html
二つの真理
仏教の中観派の祖師であるナーガールジュナ(龍樹、150~250年頃)は真理(諦)を勝義諦と世俗諦とに分ける。勝義諦は言葉や概念を超えた真理であり、世俗諦は言葉で表現できる真理である。空性体験や涅槃の体験は言葉で表現できない勝義としての真理である。一方、ブッダの教説は言葉で表現される世俗としての真理である。ナーガールジュナは『中論』(24・8~10)において、次のように言う。
二つの真理に依存して、ブッダの法が教示される。世俗諦と勝義諦とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えの深遠な真理を知らない。言語活動に依存することなく、勝義諦は説示されない。勝義諦が得られていなければ、涅槃は証得されない。
ナーガールジュナは二つの真理を言う。一つは言葉によって示される真理である世俗諦であり、ダルマ(法)としてのブッダの教説である。もう一つは、言語活動のない寂静なる涅槃の直接体験である勝義諦である。ナーガールジュナは帰敬偈で、縁起は戯論寂滅であると言い、第25章「涅槃の考察」で涅槃も戯論寂滅であると言う。縁起も涅槃も言語活動が停止したところにある。『中論』(18・5)において空性体験は次のように言われる。
業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。
分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の滅した人は解脱する。
(続く)
二つの認識手段
仏教論理学者のディグナーガ(陳那、480~540年頃)は、認識対象を個物としての個別相と概念としての共通相との二つに分け、それぞれの認識手段を知覚と推理とに限定する。ディグナーガの認識論と論理学を継承するダルマキールティ(法称、600~660年頃)は、概念知である推理知は誤った知識であると言う。正しい知識は直接体験である知覚によってのみ得ることができる。知覚は個物を対象とし、推理が概念を対象とする。2種類の対象があるので、認識手段も二つである。ディグナーガの知覚定義によれば「知覚は概念作用を離れたものである」(『プラマーナ・サムッチャヤ』1・3)。外界の実在は知覚によって認識される。知覚の認識結果は言語表現できない。「あれ」「それ」「空」としか言いようがない。一方、推理によって認識されたものは言語表現できる。ダルマキールティによれば、推理は概念を対象とするので誤った認識手段であるが(『プラマーナ・ヴァールッティカ』3・55~56)、知識としては確実であり、さらに人間にとって効果がある。
ヨーガによる真理知が解脱の手段
ヒンドゥー教新論理学派のガンゲーシャ(1320年頃)は、ヨーガと真理知(タットヴァ・ジュニャーニャ)による解脱のプロセスをうまくまとめている。彼は『タットヴァ・チンターマニ』において次のように言う。
(以上、中外日報「論・寄稿」より一部抜粋)
🤡〜
まぁ、無分別知が清弁(バヴィヤ)のいう「非安立勝義」なら、無分別知後の分別知は「随順勝義」って事だな。
ハッスル〜🤡
Bhavaviveka の二諦説について
那須真裕美
提供元: DDO!jp https://share.google/XsDroFReu1rbplozM
わかってきたぞ〜?
🟣〜〜
🤡〜
しかし、その解釈に於いて清弁(バヴィヤ)が「非安立勝義」と「随順勝義」を説示し、正しく勝義を説示する言説を勝義に随順するものとして勝義とした訳です。
言説諦は、バーヴィヴェーカで登場したんだな😆
ハッスル〜🟣
それが、仏陀や龍樹の法だ
(Gemini 思考モードより)
「随順勝義(ずいじゅんしょうぎ)」という言葉、仏教(特に唯識派や中観派)のかなり深いところを突く概念ですね。
簡単に言うと、**「言葉では言い表せない究極の真理(勝義諦)を、人間に理解できるように言葉や論理を使って説明した、一歩手前の真理」**のことです。
「随順」は「したがう・寄り添う」、「勝義」は「最高の真理」を意味します。なぜこのような段階が必要なのか、ポイントを整理して解説しますね。
1. なぜ「随順」が必要なのか?
本来、悟りの境地や宇宙の真理(勝義諦)は、言葉や概念を超越したものです。
* 本物の勝義: 言葉が通用しない、思考も及ばない世界(離言勝義)。
* 私たちの限界: 私たちは言葉や論理(世俗的な道具)を使わないと、何も理解できません。
そこで、**「究極の真理ではないけれど、究極の真理に私たちを導いてくれる正しい説明」**が必要になります。これが「随順勝義」です。
2. 具体的な内容は?
例えば、仏教でよく使われる**「空(くう)」や「非安立(ひあんりつ)」**といった表現がこれに当たります。
* 「すべては空である」という言葉自体も、実は一つの「言葉(概念)」に過ぎません。
* しかし、その言葉をガイドにすることで、私たちは「執着を離れる」という究極の真理の方向へ進むことができます。
(続く)
3. 「指」と「月」のたとえ
よく使われる比喩で言うと、以下のようになります。
* 月: 究極の真理(本当の勝義)
* 月を指さす指: 随順勝義
「指」そのものは「月」ではありませんが、指を見れば月の方向がわかりますよね。随順勝義は、私たちが迷わないように真理を指し示してくれる**「指」の役割**を果たしているのです。
まとめ:二つの勝義
仏教哲学(特に『瑜伽師地論』など)では、勝義を二つに分けて考えることがあります。
| 種類 | 内容 | 特徴 |
|---|---|---|
| 世俗勝義(随順勝義) | 言葉で説明された真理 | 私たちが理解・修行できる形 |
| 勝義勝義(離言勝義) | 言葉を超えた真理そのもの | 悟りの智慧で直接体験するもの |
> ポイント: > 随順勝義は、いわば「真理への架け橋」です。これがあるおかげで、私たちは言葉を使いながら、言葉の通じない悟りの世界を目指すことができるわけです。
>
もし、この概念が具体的にどのような修行や論理(例えば「三性説」など)と結びついているか、より詳しく知りたい場合はお伝えくださいね。
次は、この**「随順勝義」が実際にどのように修行に活かされるのか**、具体的なステップをお話ししましょうか?
このように、あらゆる対象的所得が否定されるということ、すなわちいかなる意味でも常住の本体がつかまえられないということは、実は一切のものが空を本性としているということにほかなりません。
そして、空を本性としているからこそ、現象も仮の有として成立しえます。
ですから、破邪の極地としての顕正は結局、空性そのものの世界であり、そこにおいて実は現象世界も成立しえています。
ここに有はそのまま空、空はそのまま有であるということになるのであって、かの言語道断・心行処滅の世界は、決して単なる虚空のような世界ではないのでした。
『八宗綱要』には、「無得を以っての故に、仮名の諸法は法爾として森羅たり」(同・三巻・二八頁下段)とも言われています。
(『日本仏教 思想のあゆみ』 竹村牧男 より)
アタマワルソーだからな〜
🤡〜
すなわち、世俗的世俗の世俗諦と、勝義的世俗諦に。
その方が龍樹の主旨にそうと思うけどな。
予想通り、理解できていないな😂
この2つに二分された
だって、そうしないと、仏陀や龍樹の説法も世俗諦になっちゃうからな
それはおかしいんだよ
最初から最後まで、「みごとに言語を用いて法を説ききり、戯論を寂滅した偉大なる仏陀に最敬礼」だからな
ここから、「言語を用いて説かれた勝義諦」が導かれるのは、自然なことだ
ハッスル〜🤡
ハッスル〜😱
ダブル回転〜😱
リダンの指摘は正鵠を得てるな。
非常に鋭い、専門的な視点ですね。普段は混同して使われがちですが、厳密な教学(仏教の論理学)の世界では、その一字があるかないかで**「焦点の当て方」**が変わります。
結論から言うと、**「勝義」は「対象そのもの」を指し、「勝義諦」は「それが真実であるという判断・枠組み」**を指します。
1. 「勝義」の意味(対象・内容)
「勝義(しょうぎ)」は、サンスクリット語の Paramārtha(パラマ・アルタ) の訳です。
* 勝(Parama): 最高、もっとも優れた。
* 義(Artha): 意味、対象、目的、価値。
つまり、勝義とは**「最高の知恵によって捉えられる対象(ありのままの真理)」**そのものを指します。
* 「それは勝義において空である」と言うとき、フォーカスされているのは「空」という究極の状態や性質です。
2. 「勝義諦」の意味(真実としての確定)
一方で「勝義諦(しょうぎたい)」は、勝義に「諦(Satya=真実、確かなこと)」がついたものです。
* 焦点: 「世俗諦(日常的な真実)」という対照的なカテゴリーに対して、**「こちらこそが、迷いのない不変の真実である」という宣言(判断)**が含まれます。
* ニュアンス: 単なる「内容」ではなく、「二諦(二つの真実)」という論理システムの中での一つの立場としての意味合いが強くなります。
(続く)
3. わかりやすい比較表
| 表現 | 焦点 | ニュアンス | 例え |
|---|---|---|---|
| 勝義 | 何であるか(What) | 究極の知恵で見える「中身」そのもの。 | 「富士山の山頂」という場所そのもの。 |
| 勝義諦 | どう正しいか(Is it true?) | それが「真実」であるという、教理的な裏付け。 | 「山頂こそが最高地点である」という事実の確定。 |
4. なぜ「諦」をつける必要があるのか?
仏教、特に中観派(龍樹など)の論理では、**「認識する主体」と「認識される対象」**の関係を重視します。
* 勝義: 聖者の智慧が捉える「対象」。
* 諦: 聖者にとってそれが「偽りなき事実(真実)」として現れていること。
例えば、凡夫(私たち)にとっては、目の前の机は「ある」のが真実(世俗諦)ですが、聖者にとっては「空」であることこそが「真実(勝義諦)」です。
つまり、「諦(真実)」という言葉をつけることで、**「誰の視点から見た、どのようなレベルの真実なのか」**という論理的な整理を行っているのです。
> 現代的な感覚でいえば、**「勝義」はコンテンツ(中身)であり、「勝義諦」はそのコンテンツに付与された認証ラベル(真理であるという保証)**のような違いと言えるかもしれません。
>
この「勝義」の捉え方は、時代や宗派(例えば、空を『何もない』と見るか『輝く性質』と見るか)によっても彩りが変わってきます。そのあたりの「宗派による解釈のスパイス」についても触れてみましょうか?
聖ウンコ師が、リダンを引き取ってくれそうだな?😆
🟣〜〜〜
😁
こね〜〜な〜
😁
ハッスル>俺
かな〜
😁
「敵の敵は見方だ」となったのだろう
もったいないな〜〜
😭
オモロイかも〜
😁
😁
こね〜〜な〜
(ナマハゲ風)
😁