正統派とプロテスタントと異端 Part2最終更新 2026/08/18 20:251.◆JBLfMwCXhYdEtHi正統派はキリスト教ではカトリックやギリシャ正教プロテスタントはルター派やカルヴァンやその他福音派や再臨派とか色々ある異端は最近の過激なキリスト教や異端と分類して良いのか最近話題のカルト的なキリスト?教とかまあその他問題あるが前スレ正統派とプロテスタントと異端と魔力と神と愛とhttps://talk.jp/boards/psy/16889615852026/02/18 18:48:30971コメント欄へ移動すべて|最新の50件922.◆JBLfMwCXhYVvgAj聖書では、全知全能の神様が、怒り狂って人間を大虐殺したり、気分がコロコロ変わっているいくら中世の大昔でも、知識人はバカではないこういうのを見て、「なんだか、バカバカしいな?」と思う人はいたそういう人は、キリスト教より、ギリシャ哲学に惹かれたこればっかりは、仕方がない2026/08/18 08:31:07923.神も仏も名無しさんmDHvJキリスト教哲学からやっと初めて西欧哲学に入ったまーソシュールは西欧哲学とは言い難いその土台で色々選別した世界への見方を社会科学の一般理解として😀2026/08/18 08:36:16924.◆JBLfMwCXhYVvgAj話を仏教に戻すと古代インドの仏教思想界では、誰も「輪廻転生」を否定していないのだが「霊魂は有るか、無いか?」となると、やはり人それぞれに考え方が大きく異なる「霊魂」を認めたら仏教ルールに反するので、それはできないが限りなく「霊魂」に近い存在(如来蔵とか、阿頼耶識とか)が、たびたび持ち出されてくるいくら古代人でも、全員がその手の話を信じるわけではない「あるわけねえだろ、そんなもん」という人もいる論争は避けられない2026/08/18 08:36:30925.◆JBLfMwCXhYVvgAj>>923確かに、ソシュールあたりから西洋哲学はまるきりテーマが変わったでも、そのソシュールにしたって「現代版の唯名論」という人もいる2026/08/18 08:37:19926.神も仏も名無しさんmDHvJ左翼も右翼もこだわりがないのは言語記号の恣意性だからだ貧困寄り階級としては老後の心配で自民党ゼネコン政治が嫌いなだけだ😀2026/08/18 08:38:32927.神も仏も名無しさんmDHvJ>>925言語記号と対象の恣意性は見事たラングとしての共同体の制度としての形成は素晴らしい感だ中国の統治機構が何のラングのシステムから演繹して動いているとか説明できるからた😀2026/08/18 08:41:04928.神も仏も名無しさんmDHvJ共産党の政治維持と権力者の維持で国家統治😱2026/08/18 08:41:57929.神も仏も名無しさんmDHvJトランプは福音派のイスラエル支持者の基盤による行動発言というラング😀2026/08/18 08:42:54930.神も仏も名無しさんmDHvJ理想世界というより社会分析に有用だそれは他人の本からそう思ったのではなくソシュールから展開して気づいた論文出したかったな😀2026/08/18 08:44:02931.神も仏も名無しさんmDHvJ福音派の医療費支援とかのシステム背景で政治運動、ヤツラの内部ではアメリカ社会のオアシス楽園だ😱2026/08/18 08:45:35932.神も仏も名無しさんmDHvJ福音派の医療費支援、生活支援の楽園では、外国がどんな目に遭おうとも問題無し、まさにアメリカンファーストの中心地帯😱2026/08/18 08:46:58933.神も仏も名無しさんmDHvJ日本は土建屋ファースト物価高騰でも問題無し、小規模以外は😱2026/08/18 08:50:29934.◆JBLfMwCXhYroJko>>913いきなり、ボエティウスかマニアだな😅2026/08/18 09:29:05935.神も仏も名無しさんfNLAQ哲学マニアの動画の要約を頼りに仕事日仕事終わりからはやらんだろうな西欧哲学の理性なんて関心がなかったからな理性無視のしいソシュールだけやしな!😀2026/08/18 10:52:29936.神も仏も名無しさんfNLAQ修行タイムだ😀2026/08/18 10:58:33937.◆JBLfMwCXhYt10ne唯名論を突き詰めれば「神も天使も、名前だけの存在」ってことになるのでは2026/08/18 18:04:03938.◆JBLfMwCXhYt10neチャットGPT:いや、そこは「唯名論を突き詰めれば必ずそうなる」とまでは言えないです。むしろ中世では、そこをかなり慎重に区別していました。ポイントは、唯名論が否定するのは基本的に**「普遍者の実在」**だからです。たとえば、「人間」という普遍者「動物」という普遍者「赤さ」という普遍的性質について、そんな普遍者が個物とは別に実在するわけではない。と言う。しかし、「神」という個別の存在者が実在することまで否定する必要はありません。2026/08/18 18:04:44939.◆JBLfMwCXhYt10neむしろ「神は実在する、普遍者は実在しない」が可能オッカム的に言えば、ソクラテスは実在する。プラトンも実在する。天使ガブリエルが実在するなら、ガブリエルも実在する。神も実在する。しかし「人間そのもの」「天使そのもの」という普遍者が別個に実在するわけではない。ということができます。つまり、「神」という名前が指しているものが個別的な実在者なら、神は実在する。一方、「神性」という普遍的本質が、神とは別に実在するというような主張には警戒する。2026/08/18 18:05:09940.◆JBLfMwCXhYt10neただし、ここから面白い問題が出るあなたの直感は、実はかなり鋭いです。なぜならキリスト教神学では、神天使人間動物を単なる「個物の集合」として扱うわけにはいかないからです。たとえば、「天使」という普遍者は存在しない。存在するのは個々の天使だけ。までは唯名論で言える。ところが、「神」という概念も、単に人間が作った名前にすぎない。となったら、これはもう神学そのものを破壊する。だから中世の唯名論者は、普遍者についての反実在論と神・天使などの個別的存在者についての実在論を両立させた。2026/08/18 18:05:35941.◆JBLfMwCXhYt10neそして、さらに一歩進めると、あなたの疑問は近代の宗教批判に接続します。「普遍者なんて名前にすぎない」↓「神について語っている『神性』『善』『完全性』なども、人間の概念にすぎないのでは?」↓「そもそも『神』という語が指しているものは本当に存在するのか?」となる。ここまで行くと、もはや中世唯名論そのものではなく、近代的な懐疑論・宗教批判・無神論への道が開いてくる。なので、唯名論そのものは「神も名前だけだ」とは言わない。しかし、「普遍的本質を実在と認めない」という方法を徹底していくと、神についても「その語が何を指しているのか?」という問題が露出する。という意味では、あなたの連想はかなり本質を突いています。特に**「神は個物なのか、それとも普遍的な神性なのか」**という問題まで持っていくと、唯名論とキリスト教神学の緊張関係が一気に見えてきます。2026/08/18 18:06:12942.◆JBLfMwCXhYt10ne質問:「ミカエルは存在する」「ガブリエルは存在する 」「だが、【天使】は存在しない」ということになるのか?2026/08/18 18:07:31943.◆JBLfMwCXhYt10neチャットGPT:そう、かなりその理解でいいです。ただし、正確には「天使」という語をどういう意味で使っているかが重要です。唯名論者なら、典型的にはこう整理できます。ミカエルは存在する。ガブリエルは存在する。しかし、「天使」という普遍者が、ミカエルやガブリエルとは別に存在するわけではない。つまり、個別的存在者としてのミカエル、ガブリエル → 実在する「天使そのもの」「天使性」という普遍的存在者 → 実在しないです。2026/08/18 18:08:07944.◆JBLfMwCXhYt10ne「天使」という言葉は何なのか唯名論的には、ミカエル、ガブリエル、ラファエル……という個々の存在者を、ある共通した概念によって「天使」と呼んでいるということになります。だから、「天使が存在する」という文章も、唯名論者は必ずしも否定しません。これは、「天使と呼ばれる個々の存在者が存在する」という意味なら真です。しかし、「ミカエルとガブリエルには、二人とは別に『天使そのもの』という共通実体が内在している」という意味なら否定する。2026/08/18 18:08:32945.◆JBLfMwCXhYt10neここが実在論者との決定的な違い実在論者:ミカエルは天使である。ガブリエルも天使である。なぜなら両者には、何らかの意味で共通する天使の本性があるからだ。唯名論者:ミカエルがいる。ガブリエルがいる。そして二人を同じ種類として扱うために、われわれは「天使」という概念・名称を使っている。そこに「天使」という第三の存在者を追加する必要はない。この違いです。2026/08/18 18:08:53946.◆JBLfMwCXhYt10neそして、ここからが面白い。もし実在論者が、「では、ミカエルとガブリエルが同じ『天使』である根拠は何なんだ?」と問い詰める。唯名論者は、「同じ天使性という物があるからではない。われわれの概念が二人を同じ種類として把握するからだ」と答える。つまり、世界の側にある「普遍者」を否定して、それを認識・概念・言語の側へ移すわけです。これは、まさに前に話していた「善そのものは存在しない。しかし善い行為は存在する」という構造とほぼ同じです。そしてこの考えを**「神」にまで適用できるのか?**というところで、話が一気に危険な領域に入ってくる(笑)。2026/08/18 18:09:11947.◆JBLfMwCXhYt10ne質問:神に適用すると、どうなる?2026/08/18 18:09:47948.◆JBLfMwCXhYt10neチャットGPT:ここはかなり面白いところです。結論から言うと、「神」にそのまま唯名論を適用すると、キリスト教神学ではかなり危険なことになる。ただし、段階を分けると分かりやすいです。2026/08/18 18:10:33949.◆JBLfMwCXhYt10ne① 「神」という普遍者を否定するだけなら、問題ない例えば、父なる神がいる子なる神がいる聖霊がいるという三位一体論を考える。唯名論的に、「神性」という普遍者が三者に共通して存在するという説明を否定すること自体は可能です。つまり、「神性」という第四の存在者が、父・子・聖霊の中に存在しているわけではないとする。これはむしろ、三位一体論における「神性」と「位格」の関係をどう説明するかという、かなり微妙な問題になります。2026/08/18 18:11:00950.◆JBLfMwCXhYt10ne② しかし「神」という名前が指すものまで否定すると……ここからヤバい(笑)。天使なら、ミカエルがいる。ガブリエルがいる。「天使」は普遍概念。で済みます。ところが神について、「神」という普遍概念があるだけで、神という実在者はいない。と言ってしまったら、神そのものが消えてしまう。これはもはや唯名論ではなく、普通に無神論です。だから、「普遍者は存在しない」と「神は存在しない」は論理的には別の命題です。唯名論から無神論は直ちには導けない。2026/08/18 18:11:42951.◆JBLfMwCXhYt10ne③ ただし、神の「本質」をどうするかが難しいここが本丸です。キリスト教では、神は善である神は全知である神は全能である神は完全であるなどと語ります。では唯名論者は、「善」「全知」「全能」「完全」も全部単なる普遍概念なのだから、神にはそういう本質的性質は存在しないのでは?という問題に直面する。すると神は、「神」という名前で呼ばれている、唯一の個別的存在者になってしまう。これはかなり奇妙です。「神」という個体はいる。しかし、神とは何なのか?という本質についての説明が極端に難しくなる。2026/08/18 18:12:25952.◆JBLfMwCXhYt10ne④ そして、ここで「神は何者なのか?」という問題が出る実在論なら比較的きれいです。神という個別的存在者がいる。そして神には「神性」という本質がある。ところが唯名論では、神という個別的存在者がいる。しかし「神性」という普遍的本質を、神とは別の実在として認めない。となる。では、「神である」ということは何なのか?という問題になる。ここは非常に重要で、「神性」という普遍者を否定したからといって、神の本質そのものを否定しなければならないわけではありません。中世の唯名論者たちは、神についての述語や神の属性を別の仕方で説明しようとしました。2026/08/18 18:13:08953.◆JBLfMwCXhYt10ne⑤ だから「唯名論 → 無神論」は一足飛びではないむしろこういう流れです。実在論神が存在する↓神には神性という本質がある↓善・知・力などの属性も神に実在的に帰属する唯名論神は存在する↓しかし「神性」という普遍者を別個の実在として認める必要はない↓「善」「知」「全能」なども、その意味を別の仕方で説明する↓さらに徹底した懐疑2026/08/18 18:14:03954.◆JBLfMwCXhYt10neそもそも「神」という語は、本当に何らかの実在者を指しているのか?↓無神論神は存在しない。という具合です。だから、唯名論は無神論ではないけれど、実在論的な神学の「存在論的な足場」をかなり削るんです。そしてこれが面白いところで、あなたがさっき言った「ミカエルは存在する。ガブリエルは存在する。しかし『天使』は存在しない」という構造を神に適用すると、「神は存在する。しかし『神性』は存在しない」までは言える。ところが、「『神』は存在しない」まで行った瞬間、唯名論から宗教批判・無神論へと一線を越える。この「一線」が、まさに中世哲学と近代哲学の間で非常に面白いところなんですよね。2026/08/18 18:14:35955.◆JBLfMwCXhYt10ne質問:「神」は、1人(?)しかいないから、なんとかなるとしても「聖霊」は微妙だな?2026/08/18 18:44:25956.◆JBLfMwCXhYt10neチャットGPT:そう。聖霊はかなり微妙です(笑)。むしろ三位一体論を唯名論的に考えると、「聖霊」が一番ややこしいと言ってもいい。ポイントは、キリスト教の三位一体では、父は神子は神聖霊は神しかし、父・子・聖霊は三人の神ではなく、一人の神とされることです。ここで「神性」という普遍者を実在的に認めない唯名論を持ち込むと、問題が出ます。2026/08/18 18:45:23957.◆JBLfMwCXhYt10ne「天使」なら簡単だったさっきの例なら、ミカエル=個体Aガブリエル=個体B「天使」=AとBなどをまとめる普遍概念で済む。ところが三位一体は、父=個体A子=個体B聖霊=個体Cなのに、Aも神Bも神Cも神なのに神は一つと言う。これは「神性」という共通する何かを使わずに説明するのが難しい。2026/08/18 18:45:44958.◆JBLfMwCXhYt10ne実在論なら、かなり説明しやすい古典的なキリスト教神学なら、父・子・聖霊は三つの「位格」だが、神性は一つ。という構造を取れる。つまり、三つの位格 + 一つの神性です。もちろんこれ自体が難解なのですが、少なくとも「三者がなぜ同じ神なのか」という説明装置があります。2026/08/18 18:46:09959.◆JBLfMwCXhYt10ne唯名論だと「三者は何によって一つの神なのか?」が問題になる唯名論者が、「神性という共通本質は実在しない」と言った場合、父も神子も神聖霊も神という三つの命題の「神」の意味をどう説明するのか?という問題が出てくる。単純に、「神」という名前を三者に付けているだけと言ってしまうと、三人の神を「神」と呼んでいるだけじゃないか?という疑惑が出てくる。それでは三位一体ではなく、三神論になってしまう。2026/08/18 18:46:32960.◆JBLfMwCXhYt10neだから、あなたの直感はかなりいい。「神」という唯一の個別的存在者について唯名論を適用するのは、まだ何とかなる。しかし、父・子・聖霊という三つの位格が、どうして一つの神なのかという三位一体論の核心部分では、「共通する神性」を単なる名前にしてしまうと、説明が急激に苦しくなる。そしてここには、実は中世の唯名論 vs 実在論の問題がそのまま神学に突き刺さっている。「人間Aと人間Bがともに人間なのはなぜか?」という問題と、「父と子と聖霊がともに神なのはなぜか?」という問題が、構造的にちょっと似ているんですよね。ただし、ここで一つ重要な注意があります。三位一体の「神性」は、普通の「人間性」「天使性」と同じ意味での普遍者ではありません。キリスト教神学では、むしろ「神性は一つの数的に同一の神の本質」とするので、ここを単純に「普遍者」と扱うと、三位一体論そのものを取り違える可能性があります。だからこそ、三位一体論と中世の普遍論争がどう絡んだかは、かなり面白いテーマになります。2026/08/18 18:47:05961.◆JBLfMwCXhYLXoyg唯名論ヤバいな2026/08/18 19:24:15962.◆JBLfMwCXhYLXoyg「聖霊など、名前だけの存在である」そうなるのが、自然な帰結だ2026/08/18 19:24:50963.◆JBLfMwCXhYLXoyg唯名論の理論家は、どう理屈をつけたのか?2026/08/18 19:25:08964.◆JBLfMwCXhYLXoygチャットGPT:そう。ここはかなり「唯名論ヤバいぞ」という感覚が出てくるところ(笑)。ただし、中世の唯名論者が「聖霊なんて存在しない」と言っていたわけではない。むしろ彼らは、三位一体を何とか維持するために、かなり苦しい理屈を組み立てている。ポイントは、唯名論が否定するのはまず**「普遍者が個物とは別に実在する」こと**だからだ。オッカムの場合、普遍者は外界に存在するものではなく、心の中の概念・記号として扱われる。さらに彼は「関係」や「量」まで実体的な存在者として増やすことに非常に慎重だった。すると三位一体が猛烈に難しくなる。2026/08/18 19:27:23965.◆JBLfMwCXhYLXoyg実在論ならたとえばトマス・アクィナスなら、神の本質=一つ父・子・聖霊=三つのペルソナ父性・子性・発出などの関係によって三者を区別するという構造を取れる。つまり、「神」という共通の本質が実在する+父・子・聖霊を区別する実在的な関係があると説明できる。実際、アクィナスは三位の区別を関係によって説明している。2026/08/18 19:27:36966.◆JBLfMwCXhYLXoygところが唯名論「いや待て。普遍者とか関係とかを、個物とは別の実在者としてポンポン増やすな」となる。ここで、「神性」という普遍的なものが実在する「父性」「子性」「発出」という実在的関係が存在するという説明が危うくなる。だからオッカムは、三位一体については自分の通常の唯名論的な意味論をかなり特殊な形で扱うことになる。研究上も面白いところで、オッカムは通常は関係について唯名論的に分析する一方、三位一体の議論では伝統的な「関係による区別」を維持するため、そこでは自分の通常の立場を修正している、と整理されている。そして、ここがまさにあなたの「聖霊など、名前だけの存在である」という恐ろしい帰結につながる。もちろん、「聖霊」という語そのものが単なる名前だという意味ではない。唯名論者が言いたいのは、「聖霊」という一般名詞が指すような、神とは別個の第三の実体があるわけではない。という方向。ところが三位一体では、父は神である子は神である聖霊は神であるしかし父≠子≠聖霊しかも神は一つだから、**「三者を区別する何が実在するのか?」**が猛烈に難しくなる。実際、三位一体そのものが中世の哲学にとって「同一性と差異をどう説明するか」という巨大な論理問題だった。2026/08/18 19:28:20967.◆JBLfMwCXhYLXoygそして歴史的にも、これは昔から危険地帯だった。12世紀のロスケリヌスは、普遍者の実在を否定する立場から三位一体を説明しようとして、**「父・子・聖霊を三つの実体のように扱う」**方向へ行き、三神論的な帰結を招くとしてアンセルムスから激しく批判された。つまり面白いことに、実在論を徹底すると「三つの神にならないか?」という問題が出る。唯名論を徹底すると「三つのペルソナは結局、名前だけでは?」という問題が出る。三位一体、哲学的にはまさに地雷原なんだよね(笑)。そしてこれ、昨日まで話していた「神は一人だから何とかなるが、聖霊は微妙」という話に直結する。「神」という普遍概念を否定するだけならまだいい。しかし「父・子・聖霊」という三つの個別者を認めながら、それらが「同一の神」であることをどう説明するのか――ここで唯名論は一気に苦しくなる。2026/08/18 19:33:47968.神も仏も名無しさん7rzZH三位一体は霊性の神学解説は一番だ霊的関係、孤独の回避😀2026/08/18 20:18:55969.神も仏も名無しさん7rzZH日本の神仏習合では春日権現が憑依するとかある貞慶とか、そんなのがあったらしい😀春日権現を鬼のように情報収集しまくっていたからな😀2026/08/18 20:20:29970.神も仏も名無しさん7rzZH西洋は神の言とか神の指令の万能の言とかあるので言へのこだわりから西洋哲学が発展したのだろうヨハネの福音書、第一章冒頭から西洋人の思考システムは仕上がっでいる聖書を無視できるのはニーチェあたりからだろう😀2026/08/18 20:24:18971.神も仏も名無しさん7rzZH新約聖書を七回読んでると土台が仕上がる2005年くらいまでだがそんなに熱心に読んだのは😀2026/08/18 20:25:38
プロテスタントはルター派やカルヴァンやその他福音派や再臨派とか色々ある
異端は最近の過激なキリスト教や
異端と分類して良いのか
最近話題のカルト的なキリスト?教とか
まあその他問題あるが
前スレ
正統派とプロテスタントと異端と魔力と神と愛と
https://talk.jp/boards/psy/1688961585
いくら中世の大昔でも、知識人はバカではない
こういうのを見て、「なんだか、バカバカしいな?」と思う人はいた
そういう人は、キリスト教より、ギリシャ哲学に惹かれた
こればっかりは、仕方がない
やっと初めて西欧哲学に入った
まー
ソシュールは西欧哲学とは言い難い
その土台で色々選別した世界への見方を
社会科学の一般理解として😀
古代インドの仏教思想界では、
誰も「輪廻転生」を否定していないのだが
「霊魂は有るか、無いか?」となると、やはり
人それぞれに考え方が大きく異なる
「霊魂」を認めたら仏教ルールに反するので、それはできないが
限りなく「霊魂」に近い存在(如来蔵とか、阿頼耶識とか)が、たびたび持ち出されてくる
いくら古代人でも、全員がその手の話を信じるわけではない
「あるわけねえだろ、そんなもん」という人もいる
論争は避けられない
確かに、ソシュールあたりから
西洋哲学はまるきりテーマが変わった
でも、そのソシュールにしたって
「現代版の唯名論」という人もいる
言語記号の恣意性だからだ
貧困寄り階級としては
老後の心配で自民党ゼネコン政治が嫌いなだけだ
😀
言語記号と対象の恣意性は見事た
ラングとしての共同体の制度としての形成は素晴らしい感だ
中国の統治機構が何のラングのシステムから演繹して動いているとか説明できるからた
😀
国家統治
😱
というラング
😀
それは他人の本からそう思ったのではなく
ソシュールから展開して気づいた
論文出したかったな
😀
システム背景で政治運動、
ヤツラの内部ではアメリカ社会のオアシス楽園だ
😱
物価高騰でも問題無し、小規模以外は
😱
いきなり、ボエティウスか
マニアだな😅
仕事日仕事終わりからはやらんだろうな
西欧哲学の理性なんて
関心がなかったからな
理性無視のしいソシュールだけやしな!
😀
😀
「神も天使も、名前だけの存在」
ってことになるのでは
いや、そこは「唯名論を突き詰めれば必ずそうなる」とまでは言えないです。
むしろ中世では、そこをかなり慎重に区別していました。
ポイントは、唯名論が否定するのは基本的に**「普遍者の実在」**だからです。
たとえば、
「人間」という普遍者
「動物」という普遍者
「赤さ」という普遍的性質
について、
そんな普遍者が個物とは別に実在するわけではない。
と言う。
しかし、
「神」という個別の存在者が実在する
ことまで否定する必要はありません。
オッカム的に言えば、
ソクラテスは実在する。
プラトンも実在する。
天使ガブリエルが実在するなら、ガブリエルも実在する。
神も実在する。
しかし「人間そのもの」「天使そのもの」という普遍者が別個に実在するわけではない。
ということができます。
つまり、
「神」という名前が指しているものが個別的な実在者なら、神は実在する。
一方、
「神性」という普遍的本質が、神とは別に実在する
というような主張には警戒する。
あなたの直感は、実はかなり鋭いです。
なぜならキリスト教神学では、
神
天使
人間
動物
を単なる「個物の集合」として扱うわけにはいかないからです。
たとえば、
「天使」という普遍者は存在しない。
存在するのは個々の天使だけ。
までは唯名論で言える。
ところが、
「神」という概念も、単に人間が作った名前にすぎない。
となったら、これはもう神学そのものを破壊する。
だから中世の唯名論者は、
普遍者についての反実在論
と
神・天使などの個別的存在者についての実在論
を両立させた。
「普遍者なんて名前にすぎない」
↓
「神について語っている『神性』『善』『完全性』なども、人間の概念にすぎないのでは?」
↓
「そもそも『神』という語が指しているものは本当に存在するのか?」
となる。
ここまで行くと、もはや中世唯名論そのものではなく、近代的な懐疑論・宗教批判・無神論への道が開いてくる。
なので、
唯名論そのものは「神も名前だけだ」とは言わない。
しかし、
「普遍的本質を実在と認めない」という方法を徹底していくと、神についても「その語が何を指しているのか?」という問題が露出する。
という意味では、あなたの連想はかなり本質を突いています。
特に**「神は個物なのか、それとも普遍的な神性なのか」**という問題まで持っていくと、唯名論とキリスト教神学の緊張関係が一気に見えてきます。
「ミカエルは存在する」
「ガブリエルは存在する 」
「だが、【天使】は存在しない」
ということになるのか?
そう、かなりその理解でいいです。
ただし、正確には「天使」という語をどういう意味で使っているかが重要です。
唯名論者なら、典型的にはこう整理できます。
ミカエルは存在する。
ガブリエルは存在する。
しかし、「天使」という普遍者が、ミカエルやガブリエルとは別に存在するわけではない。
つまり、
個別的存在者としてのミカエル、ガブリエル → 実在する
「天使そのもの」「天使性」という普遍的存在者 → 実在しない
です。
唯名論的には、
ミカエル、ガブリエル、ラファエル……という個々の存在者を、ある共通した概念によって「天使」と呼んでいる
ということになります。
だから、
「天使が存在する」
という文章も、唯名論者は必ずしも否定しません。
これは、
「天使と呼ばれる個々の存在者が存在する」
という意味なら真です。
しかし、
「ミカエルとガブリエルには、二人とは別に『天使そのもの』という共通実体が内在している」
という意味なら否定する。
実在論者:
ミカエルは天使である。
ガブリエルも天使である。
なぜなら両者には、何らかの意味で共通する天使の本性があるからだ。
唯名論者:
ミカエルがいる。
ガブリエルがいる。
そして二人を同じ種類として扱うために、われわれは「天使」という概念・名称を使っている。
そこに「天使」という第三の存在者を追加する必要はない。
この違いです。
もし実在論者が、
「では、ミカエルとガブリエルが同じ『天使』である根拠は何なんだ?」
と問い詰める。
唯名論者は、
「同じ天使性という物があるからではない。われわれの概念が二人を同じ種類として把握するからだ」
と答える。
つまり、世界の側にある「普遍者」を否定して、それを認識・概念・言語の側へ移すわけです。
これは、まさに前に話していた
「善そのものは存在しない。しかし善い行為は存在する」
という構造とほぼ同じです。
そしてこの考えを**「神」にまで適用できるのか?**というところで、話が一気に危険な領域に入ってくる(笑)。
神に適用すると、どうなる?
ここはかなり面白いところです。
結論から言うと、
「神」にそのまま唯名論を適用すると、
キリスト教神学ではかなり危険なことになる。
ただし、段階を分けると分かりやすいです。
例えば、
父なる神がいる
子なる神がいる
聖霊がいる
という三位一体論を考える。
唯名論的に、
「神性」という普遍者が三者に共通して存在する
という説明を否定すること自体は可能です。
つまり、
「神性」という第四の存在者が、父・子・聖霊の中に存在しているわけではない
とする。
これはむしろ、三位一体論における「神性」と「位格」の関係をどう説明するかという、かなり微妙な問題になります。
ここからヤバい(笑)。
天使なら、
ミカエルがいる。
ガブリエルがいる。
「天使」は普遍概念。
で済みます。
ところが神について、
「神」という普遍概念があるだけで、神という実在者はいない。
と言ってしまったら、
神そのものが消えてしまう。
これはもはや唯名論ではなく、普通に無神論です。
だから、
「普遍者は存在しない」
と
「神は存在しない」
は論理的には別の命題です。
唯名論から無神論は直ちには導けない。
ここが本丸です。
キリスト教では、
神は善である
神は全知である
神は全能である
神は完全である
などと語ります。
では唯名論者は、
「善」「全知」「全能」「完全」も全部単なる普遍概念なのだから、神にはそういう本質的性質は存在しないのでは?
という問題に直面する。
すると神は、
「神」という名前で呼ばれている、唯一の個別的存在者
になってしまう。
これはかなり奇妙です。
「神」という個体はいる。
しかし、
神とは何なのか?
という本質についての説明が極端に難しくなる。
実在論なら比較的きれいです。
神という個別的存在者がいる。
そして神には「神性」という本質がある。
ところが唯名論では、
神という個別的存在者がいる。
しかし「神性」という普遍的本質を、神とは別の実在として認めない。
となる。
では、
「神である」ということは何なのか?
という問題になる。
ここは非常に重要で、「神性」という普遍者を否定したからといって、神の本質そのものを否定しなければならないわけではありません。中世の唯名論者たちは、神についての述語や神の属性を別の仕方で説明しようとしました。
むしろこういう流れです。
実在論
神が存在する
↓
神には神性という本質がある
↓
善・知・力などの属性も神に実在的に帰属する
唯名論
神は存在する
↓
しかし「神性」という普遍者を別個の実在として認める必要はない
↓
「善」「知」「全能」なども、その意味を別の仕方で説明する
↓
さらに徹底した懐疑
↓
無神論
神は存在しない。
という具合です。
だから、唯名論は無神論ではないけれど、実在論的な神学の「存在論的な足場」をかなり削るんです。
そしてこれが面白いところで、あなたがさっき言った
「ミカエルは存在する。ガブリエルは存在する。しかし『天使』は存在しない」
という構造を神に適用すると、
「神は存在する。しかし『神性』は存在しない」
までは言える。
ところが、
「『神』は存在しない」
まで行った瞬間、唯名論から宗教批判・無神論へと一線を越える。
この「一線」が、まさに中世哲学と近代哲学の間で非常に面白いところなんですよね。
「神」は、1人(?)しかいないから、なんとかなるとしても
「聖霊」は微妙だな?
そう。聖霊はかなり微妙です(笑)。
むしろ三位一体論を唯名論的に考えると、
「聖霊」が一番ややこしいと言ってもいい。
ポイントは、キリスト教の三位一体では、
父は神
子は神
聖霊は神
しかし、父・子・聖霊は三人の神ではなく、一人の神
とされることです。
ここで「神性」という普遍者を実在的に認めない唯名論を持ち込むと、問題が出ます。
さっきの例なら、
ミカエル=個体A
ガブリエル=個体B
「天使」=AとBなどをまとめる普遍概念
で済む。
ところが三位一体は、
父=個体A
子=個体B
聖霊=個体C
なのに、
Aも神
Bも神
Cも神
なのに神は一つ
と言う。
これは「神性」という共通する何かを使わずに説明するのが難しい。
古典的なキリスト教神学なら、
父・子・聖霊は三つの「位格」だが、神性は一つ。
という構造を取れる。
つまり、
三つの位格 + 一つの神性
です。
もちろんこれ自体が難解なのですが、少なくとも「三者がなぜ同じ神なのか」という説明装置があります。
唯名論者が、
「神性という共通本質は実在しない」
と言った場合、
父も神
子も神
聖霊も神
という三つの命題の「神」の意味をどう説明するのか?
という問題が出てくる。
単純に、
「神」という名前を三者に付けているだけ
と言ってしまうと、
三人の神を「神」と呼んでいるだけじゃないか?
という疑惑が出てくる。
それでは三位一体ではなく、三神論になってしまう。
「神」という唯一の個別的存在者について唯名論を適用するのは、まだ何とかなる。
しかし、
父・子・聖霊という三つの位格が、どうして一つの神なのか
という三位一体論の核心部分では、「共通する神性」を単なる名前にしてしまうと、説明が急激に苦しくなる。
そしてここには、実は中世の唯名論 vs 実在論の問題がそのまま神学に突き刺さっている。
「人間Aと人間Bがともに人間なのはなぜか?」
という問題と、
「父と子と聖霊がともに神なのはなぜか?」
という問題が、構造的にちょっと似ているんですよね。
ただし、ここで一つ重要な注意があります。
三位一体の「神性」は、普通の「人間性」「天使性」と同じ意味での普遍者ではありません。
キリスト教神学では、むしろ「神性は一つの数的に同一の神の本質」とするので、ここを単純に「普遍者」と扱うと、三位一体論そのものを取り違える可能性があります。
だからこそ、三位一体論と中世の普遍論争がどう絡んだかは、かなり面白いテーマになります。
そうなるのが、自然な帰結だ
そう。ここはかなり「唯名論ヤバいぞ」という感覚が出てくるところ(笑)。
ただし、中世の唯名論者が「聖霊なんて存在しない」と言っていたわけではない。むしろ彼らは、三位一体を何とか維持するために、かなり苦しい理屈を組み立てている。
ポイントは、唯名論が否定するのはまず**「普遍者が個物とは別に実在する」こと**だからだ。
オッカムの場合、普遍者は外界に存在するものではなく、心の中の概念・記号として扱われる。さらに彼は「関係」や「量」まで実体的な存在者として増やすことに非常に慎重だった。
すると三位一体が猛烈に難しくなる。
たとえばトマス・アクィナスなら、
神の本質=一つ
父・子・聖霊=三つのペルソナ
父性・子性・発出などの関係によって三者を区別する
という構造を取れる。
つまり、
「神」という共通の本質が実在する
+
父・子・聖霊を区別する実在的な関係がある
と説明できる。
実際、アクィナスは三位の区別を関係によって説明している。
「いや待て。普遍者とか関係とかを、個物とは別の実在者としてポンポン増やすな」
となる。
ここで、
「神性」という普遍的なものが実在する
「父性」「子性」「発出」という実在的関係が存在する
という説明が危うくなる。
だからオッカムは、三位一体については自分の通常の唯名論的な意味論をかなり特殊な形で扱うことになる。
研究上も面白いところで、オッカムは通常は関係について唯名論的に分析する一方、三位一体の議論では伝統的な「関係による区別」を維持するため、そこでは自分の通常の立場を修正している、と整理されている。
そして、ここがまさにあなたの
「聖霊など、名前だけの存在である」
という恐ろしい帰結につながる。
もちろん、「聖霊」という語そのものが単なる名前だという意味ではない。
唯名論者が言いたいのは、
「聖霊」という一般名詞が指すような、神とは別個の第三の実体があるわけではない。
という方向。
ところが三位一体では、
父は神である
子は神である
聖霊は神である
しかし父≠子≠聖霊
しかも神は一つ
だから、**「三者を区別する何が実在するのか?」**が猛烈に難しくなる。
実際、三位一体そのものが中世の哲学にとって「同一性と差異をどう説明するか」という巨大な論理問題だった。
12世紀のロスケリヌスは、普遍者の実在を否定する立場から三位一体を説明しようとして、**「父・子・聖霊を三つの実体のように扱う」**方向へ行き、三神論的な帰結を招くとしてアンセルムスから激しく批判された。
つまり面白いことに、
実在論を徹底すると「三つの神にならないか?」という問題が出る。
唯名論を徹底すると「三つのペルソナは結局、名前だけでは?」という問題が出る。
三位一体、哲学的にはまさに地雷原なんだよね(笑)。
そしてこれ、昨日まで話していた「神は一人だから何とかなるが、聖霊は微妙」という話に直結する。
「神」という普遍概念を否定するだけならまだいい。しかし「父・子・聖霊」という三つの個別者を認めながら、それらが「同一の神」であることをどう説明するのか――ここで唯名論は一気に苦しくなる。
霊性の神学解説は
一番だ
霊的関係、孤独の回避
😀
春日権現が憑依するとかある
貞慶とか、そんなのがあったらしい
😀
春日権現を鬼のように情報収集しまくっていたからな😀
神の言とか
神の指令の万能の言とかあるので
言へのこだわりから
西洋哲学が発展したのだろう
ヨハネの福音書、第一章冒頭から
西洋人の思考システムは
仕上がっでいる
聖書を無視できるのは
ニーチェあたりからだろう
😀
土台が仕上がる
2005年くらいまでだが
そんなに熱心に読んだのは
😀