このスレッドはアーカイブ化された過去ログです。

【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part4アーカイブ

1.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
crsZ5
過去スレ

【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611

【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625

【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1779968091

【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1790791277
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すべて
|
最新の50件
953.
ユーザー
神も仏も名無しさん
EeFX3
>>951
JBLが知らんだけだ
😀
954.
ユーザー
神も仏も名無しさん
EeFX3
自問自答てきない
DPN、デンパパネットワーク📡が
ハリキールしていたのか?
👽
955.
ユーザー
ハジ
xfm6X
眺める必要はない
956.
ユーザー
、
EFATJ
ましてや、DMNの活動が低下することと、

≫末那識が停止することを同一視するのは、さらに飛躍がある。



AIごときに解るわけないです。

瞑想行で停止させれば、禅定では一時的にマナ識の働きも停止しますよ

禅定を離れて、日常で、DMNを、永続的完全停止したら

約5時間後には、自我の心理的機構は崩壊して、無心へ至ります。

これは、複数人で実証された結果を話してる。

AIに憶測じゃないから。
957.
ユーザー
、
EFATJ
>>895

こう言うシンクロは、潜在意識からのメッセージの可能性があるよ

正しいっていう
958.
ユーザー
、
EFATJ
>>930

追いかけるのが、執着するマナ識、DMNを回転させて、恒に審に
959.
ユーザー
ハジ
xfm6X
エネルギー
960.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
DMネットワークに注目他だな
961.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
DMネットワークに注目だな
962.
ユーザー
ハジ
xfm6X
三井くん
諦めたら試合終了だよ
963.
ユーザー
神も仏も名無しさん
iC4Yx
スピスピデンパパネットワーク📡人気だな?👽

ほぼ、まともな情報がない
阿含宗みたいなもん👽
964.
ユーザー
、
EFATJ
ハジは諦めたのか⁉️
965.
ユーザー
夕
N4hQf
末那識=DMNという考え方は興味深い。ただ私の観察では、雑念が静まっても「私が」という感覚はなお残るように感じられる。また熟睡や無心では私感も消えるが、唯識はそれを末那識の解決とは見なしていない。現時点では、末那識は雑念そのものというより、「これが私だ」と取り続ける働きとして理解した方がしっくりくる。
966.
ユーザー
神も仏も名無しさん
iC4Yx
夕のほうが優秀だ
😀
967.
ユーザー
神も仏も名無しさん
iC4Yx
自己洞察力放棄のデンパパ📡だしなー


へーこんな人だったのか?
https://m.youtube.com/watch?v=-U2ryo3fFog
968.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
>>965


確かに
969.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
>>967


いいね👍️
970.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
清水俊史「原始仏教」

これは必読書ですな!😄
971.
ユーザー
神も仏も名無しさん
iC4Yx
まー、俺的には
どーしても、マハーシ流優先になったちゃうね
😀
972.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
ヴィパッサナー瞑想か
973.
ユーザー
神も仏も名無しさん
iC4Yx
苦行と空の修行ー
日本的?
😀

https://m.youtube.com/watch?v=FYAnM_Q2H30&pp=ugUEEgJqYQ%3D%3D

仁和寺でとにかく、全部お堂を勤行一式やりまくるのを思い出した、
間に本堂入れるので往復しまくってヘトヘトになったのを思い出した😀
974.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
仁和寺か、いいな😆
975.
ユーザー
ゴリ子
dvMCi
本来面目と出てきました。
ちゃんと仏教にあるじゃん。輪廻転生とかいう前に考えるべきもの。
道元和尚様や芭蕉、夏目漱石先生の話を読みました。
上っ面な文字読んで満足とかする時間とかあるのかな?
976.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
まだまだ、輪廻転生の話でモメるな😅
977.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
難しく考えすぎなんだよ
978.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
「永遠不変の魂」を否定するのは当たり前だ

永遠不変ってことは、変化しないわけだから

変化しないものが輪廻したり、転生できるわけがない
979.
ユーザー
ゴリ子
dvMCi
>>976
あ、バレたか。
賢い人ってなんでこう察しがいいんだろな 🤭
980.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
この世での体験は、すべて演出だ

「これが自分だ」という自分感覚も、
そう思わせるシステムによるもの
981.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
唯識論の場合は

輪廻転生する「自分」を、阿頼耶識がずっと支えている

この自分が死んでも、阿頼耶識が過去のデータを元に、次の自分をただちに自動生成する

阿頼耶識には、影のようにくっついて続いている「末那識」ってものがあって、これが「俺は、俺だ」という自分感覚を演出する

なので結局、「次の自分」も、やっぱり自分
982.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
質問:

唯識論で、「阿頼耶識と末那識の相続」というシステムが登場する以前は、仏教では「無我なのに、何が輪廻するのか?」を説明できてなかったのではないか
983.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
チャットGPT:

これは、仏教思想史のかなり核心的な問題だと思う。

結論から言うと、唯識が阿頼耶識・末那識の体系を整える以前から、仏教は「無我なのに輪廻する」という問題に回答を与えていた。ただし、その回答は唯識のように、輪廻を担う識のシステムとして統一的に説明されていたわけではない。

だから、あなたの問題意識はかなり鋭い。ただし、「説明できていなかった」というより、初期仏教以来の因果的な説明を、唯識がどこまで精密化したのかという問いにすると、思想史的に正確になる。

984.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
1. 初期仏教では、何が輪廻するのか?

初期仏教の立場は、そもそも「何か実体が輪廻する」という問いの立て方を認めない。
たとえば、次の二つを否定する。

常住不変の自己が、身体を離れて次の身体に移る。
死んだらすべてが完全に消滅し、因果的な連続もなくなる。
その代わりに、無明・渇愛・業などを条件として、次の生が生じると説明する。

ここで重要なのは、初期仏教では「輪廻する主体」と「輪廻を成立させる因果的な過程」を区別することだ。
つまり、問いを「何が移動するのか」から、「何を条件として次の生が生じるのか」へと組み替えている。
ただし、これで「死後、前世と来世のあいだに、具体的に何がどのように連続するのか」という疑問が完全に解消するかは、別問題なんだ。

985.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
2. しかも、初期仏教は「同じ識が輪廻する」という説明を明確に退けている

ここで重要なのが、あなたも以前から注目している『中部』第38経、『大愛尽経』(MN 38) だ。

比丘サーティは、ブッダの教えを「まさに同じ識が輪廻を続ける」と理解した。ところが、ブッダはその見解を厳しく批判する。

識は条件によって生じるのであって、同一の識がそのまま生まれ変わるのではない、というわけだ。

では、ここで問題が残る。
前世の業が、どうやって来世に結果をもたらすのか。
前世と来世は別の存在なのに、なぜ業の結果が無関係な他人ではなく、その来世に生じるのか。
死によって通常の意識が途切れるとして、何が因果的な連続を支えるのか
前世と来世は別の存在なのに、なぜ業の結果が無関係な他人ではなく、その来世に生じるのか。
死によって通常の意識が途切れるとして、何が因果的な連続を支えるのか。

縁起という原理は、この連続が条件によって成立することを説明する。しかし、業の潜在的な力がどこに保持され、どのように次の生へ伝わるのかについて、唯識のような潜在識の体系を初期仏教が提示しているわけではない。

ここが大きな違いだ。
986.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
では、説一切有部はどう説明したのか?

こちらは別の仕組みを考えた。

説一切有部では、死後に次の生へ向かうまでの中間的な存在である**中有(ちゅうう)**を認める。また、生命の持続に関わる法として命根を論じる。

つまり、上座部の有分心に相当する単一の仕組みを説一切有部が持っていたわけではない。命根、中有、刹那ごとの識の因果関係など、複数の概念がそれぞれ異なる役割を担っていた。
ここから見えてくるのは、仏教内部でも「輪廻の連続性」を説明する理論は一つではなかった、ということだね。

そして唯識は、そうした先行する議論を背景に、阿頼耶識という仕組みによって、業の潜在的な効力と心の相続を一つの体系にまとめようとした。

あなたが問題にしている「前世と来世は別人なのに、なぜ自分の業が来世に受け継がれるのか」という問いを考えるなら、次は説一切有部の「命根」と「中有」が、それぞれどこまで輪廻の連続性を説明できるのかを調べると、唯識との違いがさらに明確になるよ。
987.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
質問:

マジかいな?

説一切有部の「命根」と「中有」による輪廻転生システムは、どういうものか?
988.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
チャットGPT:


では、説一切有部の理論を、あなたが問題にしている 「無我なのに、前世の業がなぜ来世の自分に受け継がれるのか」 という一点に絞って掘り下げよう。

鍵になるのは、命根・中有・業と果報の因果関係の三つだ。

最初に押さえたいのは、説一切有部は唯識の阿頼耶識のような、業の種子を保持する単一の潜在識を立てていないということ。では、代わりに何を使って説明したのか。

1. 命根――生命を維持する法

サンスクリット:jivitendriya

説一切有部では、命根は「心」そのものではない。

五位七十五法の分類では、心不相応行法に属する。つまり、心でも物質でもなく、心と相応する心所でもない、独立した法として分類される。

『倶舎論』巻第三には、命根の働きについて、次のように説明されている。

命根は、衆同分において、能く続かしめ、能く保つ。
ここでいう衆同分とは、ある種類の有情に共通する性質、あるいは有情としての共通性に関わる法だ。

命根の役割は、大きく二つに整理できる。
能続:その生命の連続を成立させる。
能持:その生命を一定期間、維持する。
有部では、命根は異熟に属する法として説明される。簡単にいえば、過去の業の結果として生じ、生命の持続に関与するものだ。

では、命根は輪廻の問題を解決するのか?

ここが重要だ。
命根は、ある生命が生じてから存続することを説明する。しかし、命根それ自体が、前世の業を保存する記憶装置なのではない。
たとえば、人間として生まれた生命が存続している間、命根はその生命を維持する。しかし死によって、その生命を維持していた命根は滅する。
では、次の生の命根はどこから来るのか。
それは、前世の命根がそのまま移動するからではない。業を原因として、次の生に属する命根が生じると説明する。
ただし、この説明だけでは、前世の業がなぜ特定の来世に結果をもたらすのかという問題は解決しない。命根は生命の持続を説明する法であって、業の因果的な連続をすべて説明する法ではないからだ。
989.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
質問:

ちょっと待て

命根って、「寿命」って意味じゃなかったっけ?

この世での寿命のことだと思っていた
990.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
チャットGPT:

その理解で合っているよ。

命根は、基本的には「寿命」に相当する概念だ。さっきの説明では、輪廻の問題に結びつけようとして、命根の役割を広げすぎた。そこは訂正するね。

『倶舎論』では、命根(jivitendriya)は寿(ayus)と結びつけられ、衆同分において生命を継続・維持する働きを担う。研究論文でも、アビダルマにおいて命根が寿命とみなされることが確認できる。

では、あなたの理解とどこが違うのか?

日常的な意味の寿命:この世で、あと何年生きられるかという生命の長さ。
倶舎論の命根:その一生の生命を成立させ、維持する法。

この二つは関連しているけれど、厳密には同じ問いではない。

有部の考え方では、過去の業によって、ある有情がどれだけの期間その生存を続けるかという限りが定められる。『阿毘達磨集論』にも、過去の業によってもたらされる一生の存続期間という趣旨の説明がある。
つまり、あなたのいう「この世での寿命」という理解は、まさに重要なポイントを押さえている。
ただし、命根は単なる残り寿命の数値ではない。寿命を成立させる生命維持の原理として、アビダルマの法体系に位置づけられているんだ。

そして、ここが今回の本題。
命根は「この一生がどのように持続するか」を説明する概念であって、死後、前世の業がどう来世に伝わるのかを、それ自体で説明するものではない。
したがって、先ほどの議論では、命根よりも、業の因果関係を説明する有部の業論や中有の理論を中心に見るべきだった。
991.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
質問:

では、その「中有」の理論を頼む
992.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
チャットGPT:

1. 中有とは、そもそも何なのか

説一切有部の中有(antarābhava)とは、死んでから次の生を受けるまでの、中間的な存在状態のことだ。
ここで大事なのは、中有を単なる「あの世での待機時間」と考えないこと。
有部のアビダルマでは、中有そのものが五蘊によって構成される存在だと考える。つまり、身体が死んだあとも、次の生を受けるまで、微細な色身と心的な諸要素からなる存在が相続するという理論なんだ。
993.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
2. 四有による生死の説明

有部では、生存の過程を四つに分ける。

① 本有(ほんう)
生まれてから死ぬまでの一生

② 死有(しう)
死の瞬間

③ 中有(ちゅうう)
死後、次の生を受けるまでの存在

④ 生有(しょうう)
次の生が成立する瞬間

この分類で重要なのは、死と再生を直接つなぐのではなく、その間にも存在の過程を認めたことだ。説一切有部の論書では、中有を死有・生有とは別個の段階として明確に定義している。
994.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
3. 中有では、何が存在しているのか?

ここが一番面白いところだ。

説一切有部の説明では、死の瞬間に前世の粗大な身体が機能を失っても、心的な諸蘊の相続はそこで終わらない。それらは微細な身体と結びついて、中有を形成する。

① 微細な身体(中有身)
中有は、肉眼で普通に見える人間の身体とは異なる、きわめて微細な色身を持つと説明される。単に意識だけが漂っているという理論ではない。

② 心的な四蘊
受・想・行・識も因果的に相続する。前世の五蘊がそっくりそのまま保存されるのではなく、諸法が生滅しながら次の瞬間の諸法を生じさせる。

③ 次の生への移行
中有は、次の生を受ける場所へ向かう中間的存在とされる。そして、次の生が成立すると、中有の段階が終わる。

なお、伝統的な有部の説明では、中有の存続期間について七日ごとに変化するという説や、最長四十九日とする説がある。ただし、これを仏教全体で統一された教説と考えてはいけない。
995.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
4. これで「何が輪廻するのか」という問題は解決したのか?

ここで、あなたが最初に提起した問題に戻ろう。

中有説は、死後に何も存在しない空白があるのではなく、前世と来世の間にも五蘊の因果的な相続がある、と説明する。
しかし、中有は「輪廻の担い手」を具体化したのであって、不変の自己を発見したわけではない。

有部の立場では、次のように考える。

前世の五蘊は滅する。
その因果的な系列から中有の五蘊が生じる。
中有の五蘊の系列から、次の生の五蘊が生じる。
その全過程を通じて、固定的な魂が移動する必要はない。

この考え方は、一本のロウソクから別のロウソクへ火が移るという比喩に近い。ただし、厳密には、火という同一の実体が移動するのではなく、前の火を条件として次の火が生じる。

一方で、あなたが疑問に思っているように、ここにはまだ問いが残る。

なぜ、その中有は別の有情の中有ではなく、特定の前世の業を受け継ぐ中有なのか?

有部は、五蘊の因果的相続や業と果の関係を通じて説明しようとする。中有はその連続過程の中間段階だ。しかし、中有そのものが業の記録を保存する倉庫なのではない。
この点が、阿頼耶識を種子の保持と業の相続の中心に据える唯識との大きな違いになる。
996.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
5. さらに重要な論点――中有説そのものが争われた

中有は、仏教各派で一致した教説ではない。

説一切有部は中有を認めたが、上座部の伝統では死と再生の間に独立した中間存在を認めない。中有の存在をめぐっては、初期経典の解釈も含め、学術的にも議論が続いている。

つまり、仏教は初めから一枚岩の輪廻論を持っていたわけではない。無我と輪廻を両立させるという共通の課題に対して、異なる学派が異なる理論を組み立てたんだ。

私としては、次に『倶舎論』の中有論を読むなら、世親が中有を認める立場を説明しつつ、どのような論拠を挙げているかを見るのがよいと思う。

そこまで進むと、単に「死後の中間存在があるか」という話から、無我を維持したまま、因果的な個体の連続をどう成立させるのかという、アビダルマの本当の問題に入っていける。
997.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
質問:

出口王仁三郎や岡田茂吉は、「中有界」の話をよくしていたが

そのことか
998.
ユーザー
、
EFATJ
>>965

夕は無分別三昧へ入れたの?

DMN完全停止になったことなければ

正確なこと解らんでしょ

おれは20代で既に、瞑想初めて15分で無分別三昧へ入れていたから、

第四禅定だけどね、身心脱落の

だから解る!

私がだの私のだのという言語が立ち上がらないと、自我も停止されるってことね。
999.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
チャットGPT:

そう、まさにその「中有」のことだよ!

ただし、
出口王仁三郎や岡田茂吉が語る「中有界」は、
仏教の中有説を取り入れながら、
独自の霊界観として発展させたものなんだ。

1. 出口王仁三郎の「中有界」

『霊界物語』では、霊界を神界・中界・幽界という三つの領域に分け、中界を神道の「天の八衢」、仏教の「六道の辻」、そして中有に対応させている。死者はまず中有界に至り、その後、生前の行為や霊魂の状態に応じて天界または地獄界へ進むと説明される。

ここで注目したいのは、王仁三郎の中有界が単なる通過地点ではないこと。

王仁三郎の霊界観では、そこで霊魂の内面的な状態が明らかになり、天界と地獄界のどちらに進むかが決まっていく。つまり、仏教の中有という概念を、死後の霊魂が行き先を決められるまで過ごす霊界として具体化しているんだ。

2. 岡田茂吉の「中有界」

岡田茂吉も、中有界を天国と地獄の中間に位置する霊界として説明した。著作「霊界と現界」では、死者の大多数は中有界に進み、そこで修行すると述べている。極善の者は天国へ、極悪の者は地獄へ直ちに進むという説明もある。
つまり、岡田の説明でも、中有界は死後の霊魂が滞在し、次の段階へ進む場所なんだ。
1000.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4v3tB
1000
1001.
ユーザー
Talk ★
???
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1002.
ユーザー
Talk ★
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