① 蔵教の四念処析空観(分析による解体)界内の俗諦・但空身体を物質の要素に細かく分解し、そこに「実体(我)」がないことを愚直に観察する。 ② 通教の四念処体空観(当体即空)界内の真諦・即空分析するまでもなく、身体や心という現象は「生じたその瞬間のままで幻のように空である」と観ずる。 ③ 別教の四念処歴劫修行の観界外の単中(中道)迷い(空)を抜けた先にある、無限の仏法(仮諦)や仏性(中道諦)を、順序を追って段階的に観察する。 ④ 円教の四念処円融三諦の観最高の真理(実相)身体も心も、そのままで「空・仮・中」の三諦を完璧に備えている(一念三千)と一気に観ずる。
法念処で見るべきなのは、もっと内側の条件関係です。
相手の言葉が耳に触れた。
その音声・意味を認識した。
不快な受が生じた。
「自分が否定された」という想が働いた。
「私は尊重されるべきだ」という見解が触れられた。
自己防衛が起こった。
押し返す心が起こった。
怒りが強まった。
それを正当化する思考が続いた。
こういう条件の連鎖を見る。
つまり、法念処で見る関係性は、
相手が悪いから怒った
という外的因果ではなく、
触・受・想・行・識、見解、取、我慢、渇愛などが、どう関係して苦を構成しているか
です。
ここを見るには、身・受・心の根っこを知らないと難しい。
身・受・心を見ていないと、法が物語になる
いきなり法を見ようとすると、だいたいこうなります。
あの人がこう言ったから怒った
自分にはこういう過去があるから反応した
これは承認欲求の問題だ
これは自己防衛だ
これは執着だ
これは縁起だ
これらは間違いとは限りません。
説明は法念処ではありません。
法念処は、経験の中で実際に、
どの条件があると強まるか
どの条件が抜けると弱まるか
どこで取が入るか
どこで「私」が立つか
どの受から反応が始まるか
を見ることです。
「相手が原因」は粗い
相手の罵倒は、もちろん条件の一つではあります。
しかし、それだけでは怒りは説明できない。
同じ言葉を聞いても、怒るときと怒らないときがある。
同じ相手でも、体調が悪いと反応が強い。
同じ罵倒でも、自分が気にしている部分を突かれると激しく反応する。
逆に、相手を重要視していなければ反応が弱いこともある。
つまり、外的刺激だけが原因ではない。
苦受
想
記憶
見解
自己像
執着
慢
防衛
正当化
反復思考
が絡んでいる。
これを見ずに「相手が罵倒したから怒った」と見ると、法の観察ではなく、通常の因果解釈になります。
根っこを知らないまま法を見る危険
身を見ていないと、怒りが身体でどう燃料を得ているかが見えない。
受を見ていないと、怒りの根にある不快さが見えない。
心を見ていないと、押し返す心、責める心、守る心、勝とうとする心が見えない。
その状態で関係性を見ようとすると、
出来事Aがあったから、感情Bが起きた
という表面的な関係に留まる。
本当は、
触があり、受があり、その受に無明が伴い、渇愛・取・我見が絡んで、怒りという心が構成される
というところを見たい。
そのためには、身・受・心の観察が材料になる。
法念処は抽象から入るものではない
法念処は高次の分類や概念ではなく、身・受・心の観察が熟して見えてくる 条件性 です。
だから順序としては、
身で反応の現れを見る。
受で反応の根を見る。
心で反応の動きを見る。
法でそれらの条件関係を見る。
という流れが重要になる。
いきなり法から入ると、関係性を見ているつもりで、実際には外的出来事や心理的物語を見てしまう。
まとめると
いきなり関係性を見ること自体が不可能ではありません。
ただし、身・受・心の直接観察がないと、法念処ではなく 解釈 になりやすい。
怒りの例なら、
相手が罵倒したから怒った
ではまだ浅い。
法念処では、
その言葉に触れたとき、どんな受が生じたか。
その受に対して、どんな想・見解・我執が働いたか。
何を守ろうとしたか。
何を「私」として掴んでいたか。
どの条件が怒りを生じさせ、どの条件がそれを持続させたか。
を見る。
だから法念処は、最初から頭で関係性を探すものではなく、
身・受・心を十分に見た結果として、関係性が露わになるもの と言った方が正確です。
では主客一如を誤解してしまう心念処の段階の話を深堀りしようか
主客一如を誤解する心念処段階の問題とは、
主体と対象の分離が薄れた心の状態を、
無我や縁起の洞察そのものだと誤認すること
です。
これは「主客一如が間違い」という話ではありません。
問題は、主客一如っぽい体験を、法念処の到達点と取り違えることです。
1. 心念処が深まると「見る私」と「見られる怒り」が薄くなる
最初はこうです。
怒りがある。
それを見ている自分がいる。
ここではまだ、かなり明確に二つがあります。
観察する側
観察される怒り
しかし心の観察が深まると、怒りも、見る働きも、呼吸も、身体感覚も、思考も、同じ一つの場に現れているように感じられることがある。
すると、
怒りを見ている私がいる
というより、
怒りも、見ている働きも、ただ一つの経験の場に現れている
という感じになる。
ここで主客の分離が弱まる。
これが「主客一如」や「主客未分」っぽく感じられる。
ここまでは悪くない。
むしろ、粗い同一化がほどけている。
問題はここです。
その一体感、静けさ、分離のなさ、広がりは、まだ 条件によって生じた心の状態 かもしれない。
たとえば、
集中が高まった
思考が静まった
身体の緊張がほどけた
対象への反応が弱まった
快い落ち着きがある
観察者と対象の対立が薄れた
こういう条件によって、「主客一如のような状態」が生じる。
しかし、条件によって生じているなら、それは法念処で観察されるべきものです。
最終解決として安住するものではない。
つまり、
主客一如の体験がある
ことと、
主客一如を成り立たせている条件を観ている
ことは違う。
前者は心念処の範囲に留まることがある。
後者が法念処です。
3. 誤解の核心は「一如である自分」を立てること
粗い段階では、
怒っている私
がある。
次に、
怒りを見ている私
になる。
さらに進むと、
怒りも私も一つの場にある
主客は分かれていない
となる。
ここで誤解が起きると、
私は主客を超えている
私は一如を知っている
私は分別に囚われていない
私はもう対象に巻き込まれない
という自己感覚が立ち上がる。
これはかなり微細です。
表面上は「主体が消えた」ように見える。
でも実際には、今度は 一如を知っている主体 が残っている。
つまり、
観察者としての私
が、
主客一如を体験している私
に変わっただけの可能性がある。
これは無我ではなく、より精妙な自己同一化です。
ここも大事です。
本当に起きているものは、ただ、
静けさ
広がり
分離感の薄さ
反応の弱まり
対象化のゆるみ
かもしれない。
そこに、
これは主客一如だ
これは無我だ
これは分別を超えた状態だ
という解釈が乗る。
すると、現象そのものではなく、主客一如という概念で加工された心の状態 を見てしまう。
これは前に話した「怒りを見ようとして、自分の思う怒りを立ち上げる」問題と同型です。
ここでは、
主客一如を見ようとして、自分の思う主客一如を立ち上げる
ことが起きる。
8. 本当に見るべきなのは「一如かどうか」ではない
法念処へ進むなら、問いはこう変わります。
今これは一如か?
主客は消えたか?
無我になっているか?
ではない。
むしろ、
何が生じているか
何に依って生じているか
何を好んでいるか
何を避けているか
何を解決と見ているか
どこで「私」が再構成されているか
どの条件があると苦が生じるか
どの条件が抜けると苦が弱まるか
を見る。
ここで、主客一如の体験すら観察対象になる。
まとめ
心念処の段階で主客一如を誤解するとは、こういうことです。
怒りや悲しみを観察できるようになる。
観察者と対象の分離も薄れてくる。
その一体感を「無我」「解決」「主客一如」と見なす。
しかし実際には、その一体感も条件によって生じた心の状態である。
さらに、それを解決と見ることで、その状態への取、快受、慢、見解、維持欲を観察しなくなる。
その結果、法念処に進まなくなる。
だから重要なのは、
主客一如を否定することではなく、
主客一如と見える状態もまた、条件によって生じた法として観ること。
ここです。
一如の体験に安住するのではなく、
一如を解決と見る心の条件性を観る。
そこから初めて、心念処が法念処へ開いていきます。
さらに厄介なのは、主客一如を解決と見ると、今度はこういう対立が生まれることです。
好ましいもの
嫌うもの
一如
分別
静けさ
反応
無心
思考
巻き込まれない状態
感情に揺れる状態
観察できる自分
観察できない自分
つまり、主客を超えたつもりが、別の次元で二元性を作っている。
一如でありたい
分別したくない
揺れたくない
巻き込まれたくない
主客が分かれる状態に戻りたくない
これが起きるなら、そこにはまだ取があります。
この場合、主客一如は自由ではなく、維持したい心の状態 になっている。
5. 法念処に進まないと、主客一如の条件性が見えない
法念処で見るべきなのは、
主客一如かどうか
ではなく、
その一如感は何に依って生じたのか
それを好む心はないか
それを失う恐れはないか
「分かっている自分」という慢はないか
その状態を解決と見る見解はないか
そこに快受と取はないか
です。
たとえば、主客一如っぽい静けさがある。
心念処では、
静かな心がある
分離感の薄い心がある
広がった心がある
と見る。
法念処では、さらに、
この静けさは集中に依っている
この一体感には快受がある
その快受を好む心がある
一如を失いたくない取がある
「これが解決だ」という見解がある
その見解によって探究が止まろうとしている
と見る。
ここまで行って、初めて主客一如の体験も法の観察材料になる。
この段階の人は、怒りや悲しみが起きても、
それも一つの現象だ
ただ生じているだけだ
私はそれに巻き込まれていない
主客は分かれていない
だから問題はない
と見ることがあります。
これは一部では正しい。
でも危険なのは、そこで 苦の構造を見なくなる ことです。
たとえば怒りが起きたとき、本来は、
どんな受があったのか
何を守ろうとしたのか
どんな見解が働いたのか
どこで自己像が刺激されたのか
どの条件が怒りを持続させたのか
を見る必要がある。
でも「すべて一つの現象だから」で済ませると、条件関係の観察に進まない。
つまり、主客一如の理解が、縁起の観察を開くのではなく、逆に閉じてしまう。
その主体が薄れる感じがそのまま主体が成立していないと短絡的に考えてしまう。
つまりこれこそが、無我という発想にいたり、判断、思考の類をなくすことで解決とみる、つまり結局は怒りを消すとか、目を向けないに近づくということ。
本来ならその体験を理解、知っているのならその体験そのものは主体がなくなったわけではないのだがその区別の働きが収まったことで主体が成立していないと誤解してしまうことにあるのでは?
問題は、主体感が薄れることと、主体が条件によって成立していると見抜くことを混同する点です。
この二つは似て見えますが、まったく同じではない。
主体感が薄れること
心が静まる。
判断が止まる。
思考が弱まる。
対象への反応が減る。
「見ている私」と「見られている対象」の境界が曖昧になる。
すると、
主体がなくなった
無我が分かった
主客が消えた
分別を離れた
と感じることがある。
でもこれは、厳密には 主体を構成している一部の働きが一時的に弱まった状態 です。
たとえば、
判断する働き
比較する働き
言語化する働き
対象化する働き
自己参照する働き
好悪で反応する働き
これらが静まることで、主体感が薄くなる。
しかし、そこで主体が根本から見抜かれたわけではない。
一方、無我の理解は、
主体感が薄くなった
という体験そのものではありません。
むしろ、
主体感がどのような条件で生じるか
主体感がどのような条件で薄れるか
主体感が薄れた体験を「私が分かった」と掴む心がどう生じるか
「判断がない状態」を好む心がどう生じるか
「思考が止まれば解決」と見る見解がどう生じるか
を見ることです。
つまり無我は、主体感が一時的に消えることではなく、
主体感そのものが条件づけられた現象だと見抜くことです。
誤解の構造
ここで起きている誤解はこうです。
まず、心の働きが静まる。
判断がない
思考が少ない
対象への反応が薄い
主客の境界が薄い
そこに快さや安堵がある。
苦しくない
静かだ
分離していない
これが本来だ
そして、その体験を概念で解釈する。
これが無我だ
主体は成立していない
分別が苦だから、判断と思考をなくせばよい
怒りや悲しみも、判断しなければ問題ではない
すると、実践の方向が変わってしまう。
本来は、怒りや悲しみを消すことではなく、
怒りや悲しみがどのような条件で生じているか
そこにどんな受・想・見解・取があるか
主体感がどう立ち上がるか
を見ることだったはずです。
判断を止める
思考を止める
怒りを起こさない
反応しない
対象に目を向けない
一如の状態を保つ
ことが解決に見えてくる。
これは法念処ではなく、心の状態を維持する方向です。
「怒りを消す」と「怒りを観る」は違う
この誤解が進むと、怒りに対してもこうなります。
怒りは分別から生じる。
だから分別を止めれば怒りは消える。
怒りが起きても、そこに目を向けなければ巻き込まれない。
判断しなければ怒りはない。
これは一部では機能します。
確かに判断や思考が弱まると、怒りは燃料を失って弱まる。
しかし、それは怒りの条件を見抜いたというより、怒りを成立させる一部の働きを抑えている状態に近い。
本来なら、
怒りが立ち上がる直前にどんな苦受があったか
どんな想が「攻撃された」と意味づけたか
どんな自己像が守られようとしたか
どんな見解が正当化を生んだか
どの条件で怒りが持続したか
怒りを見ている自分という構造はどう生じたか
を見る。
そこに進むのが法念処です。
「区別の働きが収まる」ことと「主体がない」は別
あなたの言うここが重要です。
区別の働きが収まったことで、主体が成立していないと誤解してしまう。
まさにそうです。
主体感は、区別・判断・対象化・自己参照と深く関係しています。
だから、それらが収まると主体感も薄れる。
でもそれは、
主体が本当にないと見抜いた
のではなく、
主体を立ち上げる働きが一時的に作動していない
だけかもしれない。
眠っているときに自己意識が弱いからといって、無我を見抜いたわけではない。
同じように、瞑想中に主客の分離が薄れたからといって、それだけで無我を見抜いたとは言えない。
主体感が生じるとき
主体感が薄れるとき
主体感が薄れた体験を「私の理解」とする心
まで観察対象になる必要があります。
ここでの決定的なズレ
誤解した人は、
主体が薄れた状態になること
を目指します。
しかし本来見るべきなのは、
主体が立つ条件と、薄れる条件を見ること
です。
この違いは大きいです。
前者は状態管理です。
後者は法の観察です。
前者は、
思考を止めよう
判断を止めよう
怒りを消そう
一如を保とう
になります。
後者は、
思考が生じる条件を見る
判断が生じる条件を見る
怒りが生じる条件を見る
一如を保とうとする取を見る
主体感が立つ条件を見る
主体感が薄れたことを解決と見る見解を見る
になります。
だから主客一如の体験は入口であって、結論ではない
主客一如っぽい体験は、価値がないわけではありません。
それによって、普段の強い主体感が絶対ではないと分かることはある。
ただし、それは入口です。
その体験をもとに、
主体感は条件によって強まったり薄れたりする
では、主体感は何によって成立しているのか
それを「私」と掴む心はどう生じるのか
一如を解決と見る見解はどう生じるのか
と進むなら、法念処に開かれる。
しかし、
主体感が薄れた。
だから無我だ。
だから判断や思考をなくせばよい。
となると、そこで止まる。
要するに、問題はこうです。
主体が薄れた体験を、主体の条件性を見抜いた洞察と取り違える。
その結果、法を観る代わりに、主体感を薄くする心の状態を維持しようとする。
そして、判断・思考・怒りを消すことを解決と見てしまう。
ここが、主客一如の誤解が心念処で止まる典型的な構造だと思います。
的を得ていると思う。
どちらも固定されない
・客体:此縁性縁起(有)--- 蔵教
・主体:相依性縁起(空)--- 通教
別教で〝亦有亦空〟で唯識が展開される。
・見られる側(有:此縁性縁起)
・見る側(空:相依性縁起)
↑これをチャッピーに投げてみ
https://share.google/aimode/Um5cYtEGuysY004Bp
ほーさんこんちゃ。JBLさんが四念処を取り上げてたから自分なりに整理してたんよ。
かなり良い投げ方です。返すなら、こう整理できます。
ポイントは、「客体がある/主体が見る」という構図そのものが固定されないということですね。
1. 蔵教的には、客体は「縁によって有る」
客体:此縁性縁起=有
「此れあれば彼あり」という因果的・条件的な縁起として見ると、対象は一応“有る”。
ただしそれは、実体として有るのではなく、縁によって成立している仮有です。
だから、
見られる側=有
というのは、
「対象がまったく無い」という意味ではなく、
条件づけられた現象としては立ち現れている
という意味になる。
2. 通教的には、主体も「相依して空」
主体:相依性縁起=空
ここが大事で、見る側も絶対的な観察者ではない。
「私が対象を見る」というと、主体が先に固定されているように見えるけれど、実際には主体もまた、対象との関係の中で立ち上がる。
つまり、
見る側=空
とは、
「主体が無い」というより、
主体もまた客体との相依関係によって仮に成り立つだけで、自性を持たない
ということ。
ここで、
見られる側=有
見る側=空
を単純に分けたままにせず、別教的に
亦有亦空
有でもあり、空でもある
として展開すると、唯識にかなり近づきます。
唯識で言えば、
見られる側:相分
見る側:見分
です。
しかし相分も見分も、別々に独立して存在するのではなく、どちらも識の転変として現れる。
だから唯識では、
客体が先にあって、それを主体が見る
のではなく、
「見る働き」と「見られる像」が同時に立ち上がる
と見る。
ここで、主体も客体も固定されない。
4. より唯識っぽく言うなら
このメモは、唯識の三性説に重ねるとさらに明確になります。
遍計所執性:主体と客体が別々に実在すると誤って執着する
依他起性:見る側・見られる側は縁によって生起する
円成実性:主客二元の実体視が空であると見る
つまり、
見られるものも、見るものも、固定実体ではない。
ただし現象としては立ち現れる。
その立ち現れは有であり、同時に自性なき空である。
という構造です。
少しだけ修正するなら、こう言うとさらに精密です。
客体は「有」、主体は「空」と固定的に割り振るのではなく、
客体も仮有であり空、主体も仮有であり空である。
ただ、教判上の展開として、まず客体の縁起的有を見、次に主体の相依的空を見、さらに別教的に亦有亦空として、主客二元そのものを唯識的に解体する。
要するに、この図式の肝は、
客体の固定性も崩れ、主体の固定性も崩れる。
そのうえで、見られるものと見るものが相即的に立ち現れる。
というところです。
質問
四念処は分析による解体である蔵教のレベルなのか?
① 蔵教の四念処析空観(分析による解体)界内の俗諦・但空身体を物質の要素に細かく分解し、そこに「実体(我)」がないことを愚直に観察する。
② 通教の四念処体空観(当体即空)界内の真諦・即空分析するまでもなく、身体や心という現象は「生じたその瞬間のままで幻のように空である」と観ずる。
③ 別教の四念処歴劫修行の観界外の単中(中道)迷い(空)を抜けた先にある、無限の仏法(仮諦)や仏性(中道諦)を、順序を追って段階的に観察する。
④ 円教の四念処円融三諦の観最高の真理(実相)身体も心も、そのままで「空・仮・中」の三諦を完璧に備えている(一念三千)と一気に観ずる。
ではそれぞれの段階の四念処を教えてくれ
2. 通教(つうきょう)の四念処 =「体空観(たいくうかん)」蔵教のようにわざわざ細かく分解しなくても、「いま目の前にあるそのままで、最初から幻(空)である」と見抜く大乗の初歩のレベルです。観じ方:当体即空(とうたいそくくう)= 幻を幻として観る4つのアプローチ:身念処:身体をわざわざ解体しなくても、因縁(条件)によって仮に形作られているだけで、まるでマジック(幻術)が見せている映像のように「最初から空である」と観る。受念処:感情や感覚(苦楽)は、夢の中で受けている傷のようなもので、目が覚めれば(空を悟れば)実体として受けるものなど何もないと観る。心念処:心は水面に映った月のようなもので、形は見えても触れる中身はないと観る。法念処:すべての現象は、エコー(こだま)のように響いているだけで、実体的に生じることも滅することもない(不生不滅)と観る。
4. 円教(えんきょう)の四念処 =「円融三諦の観(えんゆうさんたいのかん)」智顗が最高峰とした「不可思議の四念処」です。分断や段階がなく、「いま、ここに立つ私」の心身に、宇宙のすべての真理が完璧に備わっていると一瞬で観じます。観じ方:一即一切(いっそくいっさい)= 身・受・心・法がそのまま「空・仮・中」である
とはいえ主体を客体として扱うということでもない。そのままで諸法実相ということだな。
それらは否定されるべき汚れではなく、今この理解が現れるために関わってきた縁である。
煩悩に囚われれば苦が固定される。
しかし煩悩の成り立ちが見えるなら、その煩悩もまた執着から離れるための縁となる。
ここにおいて、捨てるべきものとしての煩悩と、得るべきものとしての悟りは別々に立たない。
煩悩として現れたものも、そのまま法の相であり、諸法実相である。
まず観察というと対象を定めて詳細に知ろうとする働きを思い浮かべるが、それも含まれるがそれが全てではない。
例えば禅宗では坐禅の最中に思考が浮かんでくる。それを悪いものと思わずにとらない、放っておくという。
それに意識を向けるのをやめまた戻る。
だが意識を向けてなくてもそれは浮かんでくる。意識をそれに向けなくてもそれを認識する働きが起こっている。
それに意識を向けて分析したわけでもないのにそれを思考と認識し理解している。
では意識しないのに浮かんでくるのか?というと半分正解で半分は違う。
例えば呼吸に意識を向けて瞑想している時に、意識を向けているものに関わるもの、それらは近々の記憶等様々な関係性からそれが浮かんできている。
呼吸に意識を向け続けてもそれにそれに無関係というわけではなく思考というものは立ち上がっている。
つまり、思考は中心化していなくてもそれに関わるものに意識を向けてそれが浮かび上がっているから認識している。
例えば閃きがあれば解けるような問題を出されるとする。
ここでは簡単にパンはパンでも食べられないパンは?
みたいな問題にしてみよう。
まずパンに関わるものが次々と浮かんでくる。食べられないものというのも関わり合って食事に関わるパンが浮かび上がりやすい。
分析の場合、フランスパン等その浮かび上がった一つに意識を向け、これは違う、ジャムパン、サンドイッチみたいにパンに関わるものに次々と意識を向けて分析し、候補を絞っていく。
そしてフライパンに行き着いた時に答えを閃く。
食べられないパン、食べられないパンとその言葉を頭で何度も反芻させて、関わるものが浮かんでは消えとらず、それを続ける事でその関わるものに行き着いてフライパンを閃く。
これは分析をせずに答えに行き着くタイプだ。
直接智とか直感とか言われたりする。
どちらも関わり合いによって得られた答えであり、分析を繰り返す事で条件を増やし答えの幅を減らし閃く。
その分析という関わり合いをどれだけ介入させずに閃くかはその人のこれまでに依存する。
多くの瞑想の場合、目的は分析よりもその眺めるだけを目的にしたものが多い。
それは詳細な情報を知るために意識は常にあちこちに焦点をあてそれに関わるものを浮かびあがらせて情報を集めるからだ。
だがそれは疲れるし、関係のないものに焦点を当てると明後日の方向に行ってしまい必要な情報を集めているとは限らないからでもある。
この範囲の保持そのものは集中と呼ばれる。
その集中によって保持された範囲に関わるものが浮かび上がってそれを認識するのが観るであり、その浮かび上がったものの一部にまた焦点を当てるのは集中と言える。
集中の範囲を狭めれば浮かび上がる範囲も狭まり0に近付くし、集中の範囲を広げ続ければ関わり合って浮かぶものが広がり続ける。
だが広げ続けてもリソースは、有限であり、そのうちの1点の情報はどんどん希薄になっていき0に近付く。
例えば木を観察している。でも集中できないため、例えば木の緑色の部分に意識が移る。
すると緑に関わるものとして例えばピッコロ大魔王が浮かんできてそれに移ってしまう。木を観察する所をピッコロ大魔王になっていては観察できていない。
例えば呼吸に集中する。
観察の場合は、呼吸に関わるものを認識するが、この場合呼吸そのものを対象としていて呼吸以外を雑念と排除してしまう。
その人が吸ったり吐いたりを呼吸と考えているなら吸うこと、吐くこと以外は関係ないものとして範囲に含めなくなってしまう。
関わるものが範囲外となる。
先程も言ったように浮かび上がるものをとらない、放っておくという話をそのまま受け取って余計なものとして排除した上で集中しようとする。
観察の伴わない集中が何をもたらすか?
そのものになる、とよく言われる。音なら音そのもの、景色なら景色そのもの、主客を超えた一体感のような表現が多いがそのような状態になる。
これも三昧の一つだが観察を伴う集中もまた三昧であるという事を言っておく。
余計なものをとらないが、その集中の範囲で正しく観察されているならばそれは雑念なくその範囲に関わるものにきちんと向き合って集中しているからだ。
ここでいう関わらないもの、というのは木を観察する時は木に関係するものを浮かびあがらせることであって、緑もまた木に関わるものだが緑からピッコロと行ってしまったらそれは木に関わるもの、ではなくて緑に関わるものに変わってしまっているということ。
同様に瞑想して不安が立ち上がっているならそれは今の状態に関わり合っている不安になるが、そこで不安に意識を向けて不安に関わるものを見て例えば明日はどうしようか悩んでいるという関わり合いに意識を向ける時それは瞑想に向かっていないで不安に向かっているということ。
だから木に集中するなら緑に焦点を移す必要はない。これが分析しないで木の観察をしている時の働きとなる。
これはさっきの集中による主客の統合とは別物。
木、そのものである時、それを見ている私はどこにいるか?という言葉が禅宗ではよくある。
これは木に集中しそれ以外をとらないだけでなく排除したことによって観察が働かず、私が見ているという関わり合いがとられず木という認識に留まってるんだよ。
だからそのものであり、主客から離れた境地にはなるがこれでは縁起の理解も何もない。
単に主体というのも固定されたものではないと後から気付くきっかけになりうるだけ。
後からそれを観察する形になる。
だから主客から離れるというのは正確には主客の区別がないということではなく、主客の区別があるわけでもないわけでもない、
思考もあるわけでもないわけでもない。
そのような関わり合いからその結果が現れる。
それは見方によってあるとも言えるしないとも言える。
店名、場所、メニュー、料理や外観の写真、レビュー、保存したレビュー一覧の検索機能。
よさげなアプリがない。まてよ?チャッピー有料使ってるならアプリ作れるんじゃね?とチャッピーと相談しながらアプリを自作。
すげぇ。自分に必要なものを全て備えたアプリが出来た。不便な所も修正版を作ってくれる。
可能性を感じるわぁ。