棒さんの独り言

1.
ユーザー
KgPZe
私、棒が思ったことをつらつら書くだけの場所。
323
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274.
ユーザー
LMoUa
無我の理解には、
主体感が生じるとき
主体感が薄れるとき
主体感が薄れた体験を「私の理解」とする心
まで観察対象になる必要があります。
ここでの決定的なズレ
誤解した人は、
主体が薄れた状態になること
を目指します。
しかし本来見るべきなのは、
主体が立つ条件と、薄れる条件を見ること
です。
この違いは大きいです。
前者は状態管理です。
後者は法の観察です。
前者は、
思考を止めよう
判断を止めよう
怒りを消そう
一如を保とう
になります。
後者は、
思考が生じる条件を見る
判断が生じる条件を見る
怒りが生じる条件を見る
一如を保とうとする取を見る
主体感が立つ条件を見る
主体感が薄れたことを解決と見る見解を見る
になります。
だから主客一如の体験は入口であって、結論ではない
主客一如っぽい体験は、価値がないわけではありません。
それによって、普段の強い主体感が絶対ではないと分かることはある。
ただし、それは入口です。
その体験をもとに、
主体感は条件によって強まったり薄れたりする
では、主体感は何によって成立しているのか
それを「私」と掴む心はどう生じるのか
一如を解決と見る見解はどう生じるのか
と進むなら、法念処に開かれる。
しかし、
主体感が薄れた。
だから無我だ。
だから判断や思考をなくせばよい。
となると、そこで止まる。
要するに、問題はこうです。
主体が薄れた体験を、主体の条件性を見抜いた洞察と取り違える。
その結果、法を観る代わりに、主体感を薄くする心の状態を維持しようとする。
そして、判断・思考・怒りを消すことを解決と見てしまう。
ここが、主客一如の誤解が心念処で止まる典型的な構造だと思います。
275.
ユーザー
LMoUa
そう、主体もまた対象と同じように条件によって現れ、その条件が成立しなければ現れない。それは主体がないということではなく、主体も空であるという見抜きであり主体が成立しないことが空ではない
276.
ユーザー
GwAdg
良い考察をやってるね
277.
ユーザー
GwAdg
導き出している結論は

的を得ていると思う。
278.
ユーザー
GwAdg
主体も客体も

どちらも固定されない

・客体:此縁性縁起(有)--- 蔵教
・主体:相依性縁起(空)--- 通教

別教で〝亦有亦空〟で唯識が展開される。

・見られる側(有:此縁性縁起)
・見る側(空:相依性縁起)

↑これをチャッピーに投げてみ
279.
ユーザー
GwAdg
280.
ユーザー
IYwR0
>>276
ほーさんこんちゃ。JBLさんが四念処を取り上げてたから自分なりに整理してたんよ。
281.
ユーザー
IYwR0
>>278

かなり良い投げ方です。返すなら、こう整理できます。
ポイントは、「客体がある/主体が見る」という構図そのものが固定されないということですね。
1. 蔵教的には、客体は「縁によって有る」
客体:此縁性縁起=有
「此れあれば彼あり」という因果的・条件的な縁起として見ると、対象は一応“有る”。
ただしそれは、実体として有るのではなく、縁によって成立している仮有です。
だから、
見られる側=有
というのは、
「対象がまったく無い」という意味ではなく、
条件づけられた現象としては立ち現れている
という意味になる。
2. 通教的には、主体も「相依して空」
主体:相依性縁起=空
ここが大事で、見る側も絶対的な観察者ではない。
「私が対象を見る」というと、主体が先に固定されているように見えるけれど、実際には主体もまた、対象との関係の中で立ち上がる。
つまり、
見る側=空
とは、
「主体が無い」というより、
主体もまた客体との相依関係によって仮に成り立つだけで、自性を持たない
ということ。
282.
ユーザー
IYwR0
3. 別教で「亦有亦空」として主客が同時に扱われる
ここで、
見られる側=有
見る側=空
を単純に分けたままにせず、別教的に
亦有亦空
有でもあり、空でもある
として展開すると、唯識にかなり近づきます。
唯識で言えば、
見られる側:相分
見る側:見分
です。
しかし相分も見分も、別々に独立して存在するのではなく、どちらも識の転変として現れる。
だから唯識では、
客体が先にあって、それを主体が見る
のではなく、
「見る働き」と「見られる像」が同時に立ち上がる
と見る。
ここで、主体も客体も固定されない。
4. より唯識っぽく言うなら
このメモは、唯識の三性説に重ねるとさらに明確になります。
遍計所執性:主体と客体が別々に実在すると誤って執着する
依他起性:見る側・見られる側は縁によって生起する
円成実性:主客二元の実体視が空であると見る
つまり、
見られるものも、見るものも、固定実体ではない。
ただし現象としては立ち現れる。
その立ち現れは有であり、同時に自性なき空である。
という構造です。
少しだけ修正するなら、こう言うとさらに精密です。
客体は「有」、主体は「空」と固定的に割り振るのではなく、
客体も仮有であり空、主体も仮有であり空である。
ただ、教判上の展開として、まず客体の縁起的有を見、次に主体の相依的空を見、さらに別教的に亦有亦空として、主客二元そのものを唯識的に解体する。
要するに、この図式の肝は、
客体の固定性も崩れ、主体の固定性も崩れる。
そのうえで、見られるものと見るものが相即的に立ち現れる。
というところです。
283.
ユーザー
8j225
ほーさんのGeminiにそのままぶっこむ

質問
四念処は分析による解体である蔵教のレベルなのか?
284.
ユーザー
8j225
結論から申し上げますと、智顗の教理において、四念処そのものは「蔵教のレベル」だけに留まるものではありません。智顗は四念処を蔵教の「分析による解体(析空観)」としてのみ捉えるのではなく、蔵・通・別・円の4つすべての階級(化法の四教)にそれぞれ異なる四念処が存在すると定義しました。智顗の著書『四念処(全4巻)』や『摩訶止観』に基づくと、四念処は教えの深さに応じて以下のように4つの全く異なる次元へと進化します。天台教学における「四種の四念処」教えの段階四念処のアプローチ真理のレベル智顗による定義(観じ方)

① 蔵教の四念処析空観(分析による解体)界内の俗諦・但空身体を物質の要素に細かく分解し、そこに「実体(我)」がないことを愚直に観察する。
② 通教の四念処体空観(当体即空)界内の真諦・即空分析するまでもなく、身体や心という現象は「生じたその瞬間のままで幻のように空である」と観ずる。
③ 別教の四念処歴劫修行の観界外の単中(中道)迷い(空)を抜けた先にある、無限の仏法(仮諦)や仏性(中道諦)を、順序を追って段階的に観察する。
④ 円教の四念処円融三諦の観最高の真理(実相)身体も心も、そのままで「空・仮・中」の三諦を完璧に備えている(一念三千)と一気に観ずる。
285.
ユーザー
8j225
質問
ではそれぞれの段階の四念処を教えてくれ
286.
ユーザー
8j225
1. 蔵教(ぞうきょう)の四念処 =「析空観(しゃっくうかん)」物質や心を細かく「分析・解体」することで、執着を無くす初歩のレベルです。観じ方:生滅を前提とし、実体をバラバラに壊して「空」を導く4つのアプローチ:身念処(不浄):身体を皮膚、肉、血、骨、排泄物などに細かく分析し、「どこを探しても美しい実体などない(不浄)」と観る。受念処(苦):あらゆる感覚は、外部の刺激と器官が衝突して生まれる一時的な摩擦に過ぎず、最終的にはすべて「苦(思い通りにならない)」であると観る。心念処(無常):心は一瞬ごとに生まれては消える、実体のないモザイク画のようなものである(無常)と観る。法念処(無我):あらゆる現象や概念を分析しても、そこにコントロール可能な「永遠の主人公(我)」などは存在しない(無我)と観る。

2. 通教(つうきょう)の四念処 =「体空観(たいくうかん)」蔵教のようにわざわざ細かく分解しなくても、「いま目の前にあるそのままで、最初から幻(空)である」と見抜く大乗の初歩のレベルです。観じ方:当体即空(とうたいそくくう)= 幻を幻として観る4つのアプローチ:身念処:身体をわざわざ解体しなくても、因縁(条件)によって仮に形作られているだけで、まるでマジック(幻術)が見せている映像のように「最初から空である」と観る。受念処:感情や感覚(苦楽)は、夢の中で受けている傷のようなもので、目が覚めれば(空を悟れば)実体として受けるものなど何もないと観る。心念処:心は水面に映った月のようなもので、形は見えても触れる中身はないと観る。法念処:すべての現象は、エコー(こだま)のように響いているだけで、実体的に生じることも滅することもない(不生不滅)と観る。
287.
ユーザー
8j225
3. 別教(べっきょう)の四念処 =「歴劫修行の観(れっこうしゅぎょうのかん)」「空」で行き止まりにせず、人々を救うために「あえて社会や現象(仮)に飛び込み、段階的に仏の智慧を学ぶ」という大乗菩薩のレベルです。観じ方:空から「仮(け)」へ、そして「中(ちゅう)」へと段階を追って深く観る4つのアプローチ:身念処:自分の身体は空(幻)であるが、同時に「仏の清浄な身体(法身)」を宿すための器(仮)でもあると観る。受念処:自分の個人的な苦楽(受)を離れ、一切衆生の苦しみを自分の感覚として受け止め、大慈悲の心を生じる。心念処:凡夫の迷いの心(無常)の奥底に、本来備わっている「真如・仏性(永遠不変の心)」を段階的に観察していく。法念処:無我を悟るだけでなく、衆生を救うための無限の教え(無量の法門)を一つずつ精緻に観察し、マスターしていく。
4. 円教(えんきょう)の四念処 =「円融三諦の観(えんゆうさんたいのかん)」智顗が最高峰とした「不可思議の四念処」です。分断や段階がなく、「いま、ここに立つ私」の心身に、宇宙のすべての真理が完璧に備わっていると一瞬で観じます。観じ方:一即一切(いっそくいっさい)= 身・受・心・法がそのまま「空・仮・中」である
288.
ユーザー
8j225
4つのアプローチ:身念処(即法身):この生身の身体が、そのまま宇宙の真理そのもの(法身)であると観る。身体を壊す必要も、幻と否定する必要もない。受念処(即般若):湧き上がるどんな感情(苦や楽)も、それはエネルギーの現れであり、そのままで「仏の究極の智慧(般若)」にほかならないと観る(煩悩即菩提)。心念処(即解脱):いまの私の凡夫の一念(心)に、地獄から仏界までのすべて(一念三千)が収まっており、その心そのものが最初から自由な境地(解脱)であると観る。法念処(即大涅槃):目の前のあらゆる現象(法)が、そのまま不生不滅の絶対的な静寂(大涅槃)の現れであると観る。
289.
ユーザー
8j225
まとめ:智顗がしたこと智顗は、初期仏教の四念処(蔵教)を「世俗諦の低い教え」として切り捨てませんでした。むしろ、「四念処という観察の枠組みそのものは完璧である。ただ、観る側の視点が『蔵』から『円』へと深まることで、同じ身体や心を観ていても、到達する宇宙の景色(真理)が全く変わるのだ」と証明したのです。智顗のこの「円教の四念処」のロジックは、のちの『摩訶止観』における「一念三千」の実践法へと直結していきます。
290.
ユーザー
TKIRC
主体と客体を別々にしない。
とはいえ主体を客体として扱うということでもない。そのままで諸法実相ということだな。
291.
ユーザー
TKIRC
過去の煩悩も、欲も、感情も、今の現れから切り離されたものではない。
それらは否定されるべき汚れではなく、今この理解が現れるために関わってきた縁である。
煩悩に囚われれば苦が固定される。
しかし煩悩の成り立ちが見えるなら、その煩悩もまた執着から離れるための縁となる。
ここにおいて、捨てるべきものとしての煩悩と、得るべきものとしての悟りは別々に立たない。
煩悩として現れたものも、そのまま法の相であり、諸法実相である。
292.
ユーザー
TKIRC
では怒りが現れていいのか?と言われたらそうではない。そのようなものに囚われないようにする事は必要であり、そのままで法だから何もしないで良いということではない。
293.
ユーザー
cCkP7
最近でおちゃんが観るということに拘っているのでそれについて深掘りしていこう。

まず観察というと対象を定めて詳細に知ろうとする働きを思い浮かべるが、それも含まれるがそれが全てではない。

例えば禅宗では坐禅の最中に思考が浮かんでくる。それを悪いものと思わずにとらない、放っておくという。

それに意識を向けるのをやめまた戻る。
だが意識を向けてなくてもそれは浮かんでくる。意識をそれに向けなくてもそれを認識する働きが起こっている。

それに意識を向けて分析したわけでもないのにそれを思考と認識し理解している。
294.
ユーザー
cCkP7
これも観察だが一般的な観察とは違い詳細な分析をするというものとは別物だ。

では意識しないのに浮かんでくるのか?というと半分正解で半分は違う。

例えば呼吸に意識を向けて瞑想している時に、意識を向けているものに関わるもの、それらは近々の記憶等様々な関係性からそれが浮かんできている。

呼吸に意識を向け続けてもそれにそれに無関係というわけではなく思考というものは立ち上がっている。
つまり、思考は中心化していなくてもそれに関わるものに意識を向けてそれが浮かび上がっているから認識している。
295.
ユーザー
cCkP7
分析とはこの浮かび上がったものに意識を向け、それによって関わるものが現れまたその関わるものに意識を向けを繰り返しその詳細を知ろうとする働きだ。
296.
ユーザー
cCkP7
まぁこの関わるものが浮かんでくるというのは閃きにとても関わる。
例えば閃きがあれば解けるような問題を出されるとする。
ここでは簡単にパンはパンでも食べられないパンは?
みたいな問題にしてみよう。

まずパンに関わるものが次々と浮かんでくる。食べられないものというのも関わり合って食事に関わるパンが浮かび上がりやすい。

分析の場合、フランスパン等その浮かび上がった一つに意識を向け、これは違う、ジャムパン、サンドイッチみたいにパンに関わるものに次々と意識を向けて分析し、候補を絞っていく。

そしてフライパンに行き着いた時に答えを閃く。
297.
ユーザー
cCkP7
一方で分析しない場合もある。

食べられないパン、食べられないパンとその言葉を頭で何度も反芻させて、関わるものが浮かんでは消えとらず、それを続ける事でその関わるものに行き着いてフライパンを閃く。

これは分析をせずに答えに行き着くタイプだ。
直接智とか直感とか言われたりする。
298.
ユーザー
cCkP7
これらはどちらが優秀ということではない。
どちらも関わり合いによって得られた答えであり、分析を繰り返す事で条件を増やし答えの幅を減らし閃く。

その分析という関わり合いをどれだけ介入させずに閃くかはその人のこれまでに依存する。
299.
ユーザー
cCkP7
さて、瞑想に戻ろう。

多くの瞑想の場合、目的は分析よりもその眺めるだけを目的にしたものが多い。

それは詳細な情報を知るために意識は常にあちこちに焦点をあてそれに関わるものを浮かびあがらせて情報を集めるからだ。

だがそれは疲れるし、関係のないものに焦点を当てると明後日の方向に行ってしまい必要な情報を集めているとは限らないからでもある。
300.
ユーザー
cCkP7
観るということは特定の対象がないことではない。その範囲を保持し、それに対して浮かぶことを認識する行為といえる。
この範囲の保持そのものは集中と呼ばれる。
その集中によって保持された範囲に関わるものが浮かび上がってそれを認識するのが観るであり、その浮かび上がったものの一部にまた焦点を当てるのは集中と言える。
301.
ユーザー
cCkP7
だから集中と観察は無関係ではないしセットで働いている。
集中の範囲を狭めれば浮かび上がる範囲も狭まり0に近付くし、集中の範囲を広げ続ければ関わり合って浮かぶものが広がり続ける。

だが広げ続けてもリソースは、有限であり、そのうちの1点の情報はどんどん希薄になっていき0に近付く。
302.
ユーザー
cCkP7
もし、集中を伴わない観察の場合は、
例えば木を観察している。でも集中できないため、例えば木の緑色の部分に意識が移る。
すると緑に関わるものとして例えばピッコロ大魔王が浮かんできてそれに移ってしまう。木を観察する所をピッコロ大魔王になっていては観察できていない。
303.
ユーザー
cCkP7
そして集中が強くて観察がない場合、
例えば呼吸に集中する。
観察の場合は、呼吸に関わるものを認識するが、この場合呼吸そのものを対象としていて呼吸以外を雑念と排除してしまう。
その人が吸ったり吐いたりを呼吸と考えているなら吸うこと、吐くこと以外は関係ないものとして範囲に含めなくなってしまう。
関わるものが範囲外となる。
304.
ユーザー
cCkP7
そして瞑想をその集中の方ばかりに目を向けるものも少なくない。
先程も言ったように浮かび上がるものをとらない、放っておくという話をそのまま受け取って余計なものとして排除した上で集中しようとする。

観察の伴わない集中が何をもたらすか?
そのものになる、とよく言われる。音なら音そのもの、景色なら景色そのもの、主客を超えた一体感のような表現が多いがそのような状態になる。

これも三昧の一つだが観察を伴う集中もまた三昧であるという事を言っておく。
余計なものをとらないが、その集中の範囲で正しく観察されているならばそれは雑念なくその範囲に関わるものにきちんと向き合って集中しているからだ。
305.
ユーザー
cCkP7
そもそも完全に関わらないものというのは存在しない。全てが関わり合って成立しているから厳密にいうなら関わらないものという境界線はない。
ここでいう関わらないもの、というのは木を観察する時は木に関係するものを浮かびあがらせることであって、緑もまた木に関わるものだが緑からピッコロと行ってしまったらそれは木に関わるもの、ではなくて緑に関わるものに変わってしまっているということ。
同様に瞑想して不安が立ち上がっているならそれは今の状態に関わり合っている不安になるが、そこで不安に意識を向けて不安に関わるものを見て例えば明日はどうしようか悩んでいるという関わり合いに意識を向ける時それは瞑想に向かっていないで不安に向かっているということ。
306.
ユーザー
cCkP7
緑に意識を向けてもその緑から立ち上がるものがその木に関わる緑に向いているならばそれは木の分析であり観察の一つだが、緑からピッコロでは木に関わる緑ではない別のものに行ってる。
307.
ユーザー
cCkP7
ここで直接智とも関わるが木を見て緑に意識を移さずともその特徴から緑というものは立ち上がっている。
だから木に集中するなら緑に焦点を移す必要はない。これが分析しないで木の観察をしている時の働きとなる。
これはさっきの集中による主客の統合とは別物。
308.
ユーザー
cCkP7
前者の一体感では観察が働いていないのでそれが何なのかを理解していない。
木、そのものである時、それを見ている私はどこにいるか?という言葉が禅宗ではよくある。

これは木に集中しそれ以外をとらないだけでなく排除したことによって観察が働かず、私が見ているという関わり合いがとられず木という認識に留まってるんだよ。
だからそのものであり、主客から離れた境地にはなるがこれでは縁起の理解も何もない。

単に主体というのも固定されたものではないと後から気付くきっかけになりうるだけ。
後からそれを観察する形になる。
309.
ユーザー
cCkP7
だから観察しているわけではない、という時の観察は主にこの分析による観察の事を指していることが多く、それはその焦点がその都度因果を見るように連鎖的に続く。

だから主客から離れるというのは正確には主客の区別がないということではなく、主客の区別があるわけでもないわけでもない、
思考もあるわけでもないわけでもない。
そのような関わり合いからその結果が現れる。
それは見方によってあるとも言えるしないとも言える。
310.
ユーザー
tuKPb
休みの日にやる事がない。そうだ!普段食べなさそうな外食してそれを日記みたいにつけていこう。

店名、場所、メニュー、料理や外観の写真、レビュー、保存したレビュー一覧の検索機能。

よさげなアプリがない。まてよ?チャッピー有料使ってるならアプリ作れるんじゃね?とチャッピーと相談しながらアプリを自作。

すげぇ。自分に必要なものを全て備えたアプリが出来た。不便な所も修正版を作ってくれる。

可能性を感じるわぁ。
311.
ユーザー
aa6Tz
離脱日記というアプリの制作。
寝る前の状態記入、寝る時間、起きる時間、起きた後の状態や夢の記入。
さらには訓練法としてバイノーラルビートやアラーム、キューや音声案内を導入し、自分でそれらを設定したり出来るようにした。
音声案内の指示に従いながらMILD法やらなんやらを訓練出来るように固定プリセットもいくつか用意。
チャッピーの可能性を堪能してるけどわし別に訓練を必要としてないけどな。
312.
ユーザー
aa6Tz
プリセットを利用すれば瞑想の訓練の補助にも使えるか。まぁ色々な用途で使えはしそう。
314.
ユーザー
wg03I
AIも大分賢くはなってきた。でもまだまだなんだよなー。どうしても2項対立に落とし込みたいというか余白を埋めないと気がすまないというか。

315.
ユーザー
o8g8P
次の見宝塔品第十一では、場面が一気に壮大になる。
釈迦が説法していると、大地から巨大な宝塔が出現し、空中に浮かぶ。その中から「釈迦の説くことは真実である」と称賛する声が響く。
大楽説菩薩が「これはどういうことか」と尋ねると、釈迦は、塔の中には遠い過去に入滅した多宝如来がいると説明する。多宝如来は、法華経が説かれる場所へ宝塔とともに現れ、その教えを証明するという誓願を立てていた。�
bdk.or.jp
人々が多宝如来の姿を見たいと願うと、釈迦は各地で説法している自分の分身の仏たちを集める。そして宝塔を開く。多宝如来は釈迦に座の半分を譲り、二人の仏が並んで坐る。会衆も空中へ引き上げられる。


316.
ユーザー
U23W4
さて、明晰夢を利用した修行でも話してみる。

まずはその土台として集中と観察を出来るようにする必要がある。

集中は一点に意識を向け、他をとらないようなイメージだ。目安としては見る事に集中したら他の五感、例えば音とか触覚が感じなくなるような感じ。
音に集中していたら目を開けていても景色を認識していないような感じ。

観察はその集中によって現れたものを意図も混ぜず一切いじらずにそのままの現れを眺める感じかなぁ。

317.
ユーザー
U23W4
ちなみに明晰夢とは夢と自覚している夢って感じ。まぁ現実の意識のまま夢の中にいるみたいなイメージで良い。

ではその集中と観察が出来ると明晰夢がどうなるか?

明晰夢を自在にするとよくいうが一般的にはこの集中によって世界を書き換える事になる。

集中は一点に集めてそれ以外が現れなくなるので例えば飛びたいと思えば飛びたい以外の雑念がなくなりその世界は飛びたいに書き換わり空を飛ぶようなイメージだ。

強い集中がいるわけだが観察を鍛えると集中の範囲が現れてそれを眺める形になるのでだんだん集中力は必要なくなり、集中力を要さない集中になる。

これは最初の集中は他に気がいかないように抑え込んでいたものが、その現れだけを扱うと結果的に雑念が現れなくなるから集中力がいらなくなるようなイメージだ。
ようは雑念がわかないのであれば集中力は必要ないということ。
318.
ユーザー
U23W4
それが普通になると明晰夢の中で飛びたいと思えば世界は飛びたい世界に書き換わり飛んだり、生き物を呼び出したいと思えば呼び出すことが出来るようになる。

一般的に言われる明晰夢を自在にコントロールするとはこんな感じ。

だが集中を要さない、このレベルの観察をするようになると意識をそこに向けただけでそれら実現するようになる。

ゴキブリを見かけて気持ち悪いと思ったら世界は書き換わり気持ち悪い世界になってしまう。
じゃあそういう事を考えないようにすればいいか?望むものだけをイメージすればいいか?

ここが割と分岐点になる。
319.
ユーザー
U23W4
思うだけで世界が書き換わってしまうなら望みの世界を常に思っていればいい。
確かにそうだが思うたびに世界は書き換わってしまう。

それは望む世界を思い続けなければいけないことになるし、思うことをやめたら何もない世界になる。

これはどちらかというと禅病とか空を虚無論にしてしまう方向に進む。
ではそうであると知って普段は集中や観察をしなければいいのか?それは結局
雑念にまみれた日常を送ることになって本末転倒だ。
320.
ユーザー
U23W4
ならどうするか?

ゴキブリが現れたならゴキブリが現れたままにする。そうすれば世界はそのまま変わらず現れたままとなる。
でもこれはさっき言った意図を挟まない観察と変わらない。これでは行動も何も出来ない。
つまり観察だけでも駄目、集中だけでも駄目。その両方でも駄目ということになる。

なんだ八方塞がりか?ここで本当の意味で空の理解が必要になる。
321.
ユーザー
U23W4
目の前に現れたゴキブリも単独で成立しているわけではない。
気持ち悪いと思う心も明晰夢ということもそれらが成立して今目の前にそのような景色として現れている。

つまり自分の行為も他と切り離されておこるわけではなく条件によってそれが現れているとわかるようになる。

するとゴキブリを見て気持ち悪いと思う心がなくなったわけではない。その世界が意図的に作り変えられてしまうわけでもない。
ただありのままにそれが現れるようになる。
322.
ユーザー
U23W4
じゃあそうなるとどうなってるのか?例えば今までは空を飛びたい、という意図に集中し、世界を作り変えて空を自在に飛んでいた。

でも条件の成立によって現れるとなると、空を飛ぼうとするわけではなく、すでに飛んでいる、というような感じになる。

そこには飛びたいという意図がないわけでも行為がないわけでもない。
ただそれらが条件として成立し、今飛ぶという行為が成立しているとなる。
だから意図、というものが前衛化することもなく、はたからみたら前に行こうと思ったら何も考えずとも歩き始めるように自然にその行為は行われている。
323.
ユーザー
U23W4
何故明晰夢なのか?

現実の世界でも見方は変わる。良い人だと思ってたのに一つの出来事で嫌な奴だに変わるみたいに。

でも見方が変わるということはその人の世界が書き換わってる事に他ならないがそれに気付けない。
相手は変わらずいつも通りに見えるし、自分の考えも地続きであり世界が書き換わったという自覚がない。

ゴキブリを見て気持ち悪いと思ってもそう思っただけで客観的には何も変わってないように見えるしその変化に本人も気付かない。
気持ち悪いと思ったから不快な気持ちなんだと思う。


でも明晰夢でこのような集中と観察があると話は変わる。
その思いや意図はただちにその世界を書き換えてしまう。
現実と違い否が応でもその変化と向き合う事になる。その部分だけが変わったのではなく、全てが変わってしまうという事実を突きつけられてしまう。

逆に言えば自分の些細な変化すら明晰夢の世界では分かりやすく現れてくれるという事でもある。

気付かなかった自分の心の変化、見方、そういうものを教えてくれる場と言える。