小林邦昭選手を語りましょう最終更新 2024/09/12 05:241.お前名無しだろx1Ilo「虎ハンター」として知られた名レスラーです。2024/09/10 19:42:559コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.お前名無しだろrlPUuフィッシャーマンズ・スープレックス2024/09/10 19:54:133.お前名無しだろyqI2q自宅で対面からわずか5日後に… 7月にはがん治療で入院中の西村を見舞う元プロレスラーで“虎ハンター”の異名を持つ小林邦昭さんが9日、亡くなった。68歳だった。小林さんは今年2月すい臓がんが判明。人知れず闘病生活を送っていた。新日本プロレス時代の後輩で食道がんステージ4闘病中の西村修は、4日に自宅で小林さんを見舞ったばかり。それからわずか5日後の訃報に強い悲しみを口にした。「4日にお会いしたときは、想像以上にやせたっていう思いと、あと想像以上に必死になって生きようとしている気持ちは感じました。立ち上がろうとするし、しゃべろうとするし。ちゃんと意思の疎通もできたじゃないですか」9日夜、小林さんの訃報を知った西村は、こう声を絞り出した。5日前に三澤威トレーナーらと都内の自宅を訪れ、小林さんを見舞ったばかり。50分にわたって本人と会話していた。小林さんは1992年に大腸がんを患い手術。その後も肝臓がん、肺がんと30年以上にわたり、大病と格闘してきた。一方、西村も98年に最初のがん(後腹膜腫瘍)を発症。頼れる相手のいない中、相談に乗ってくれたのが小林さんだった。「最初のがんの時もそうでしたけども、誰よりも心配してくれたし、2人で情報を共有し合ってきました。がんサバイバーとしてどれだけ生きる糧になったか」小林さんとは西村が新日本を離れても、毎年定期的に会食を開いていた。今年4月、西村に食道がんが発覚すると、毎日連絡を取り合った。7月には自身も闘病中の身ながら抗がん剤治療のため入院中の西村の病棟を訪れ、体調を気遣った。症状は聞いていたが、4日に見舞いにいくと小林さんは別人のようにやせ細っていた。ベッドに横たわり、食事が取れない状態だった。しかし、西村や三澤トレーナーの前では、気丈な姿を見せた。「みんなにスクワットやってるって伝えてくれ」上半身をゆっくりと起こし、冗談を交えた。病気のことは一部の人にしか告げていない。長年新日本の道場管理人を務め、突然姿を見せなくなった小林さんを心配する選手は多かったが、弱っていく姿は見せたくないという小林さんの意思は一貫していた。昭和の時代、人気絶頂だった初代タイガーマスク相手にライバルとして何度も立ち向かった小林さん。病魔に何度襲われても、決して折れなかったその不屈の生きざまはいつまでも記憶に残り続ける。2024/09/10 21:43:174.お前名無しだろTKd81虎ハンターとして有名でしたね。🐯私はカニハンター。小林邦昭さんに負けないようにカニを捕まえるぞ〜🦀2024/09/11 01:50:215.お前名無しだろKODLd覆面はぎとは考えたなあ2024/09/11 07:11:346.お前名無しだろTDKMy1982年の小林邦昭2024/09/11 17:00:157.お前名無しだろS0M67新日本プロレスで初代タイガーマスクのライバルとして活躍し「虎ハンター」の異名を取った元プロレスラー小林邦昭さんが死去していたことが10日、分かった。9日に亡くなり、68歳だった。覆面をはぎにかかるヒール役に徹し、ファンをドキドキさせ、興奮させた。現役時代の92年に大腸がんが発覚。99年に肝臓への転移が分かり、切除手術を行った。引退後は新日本プロレス道場の管理人として後進の育成にもあたっていた。◇ ◇ ◇小林さんと初代タイガーマスク佐山サトル(現ストロングスタイルプロレス総監)の“ラストバトル”が、実は先月末に行われていた。小林さんは1972年に新日本プロレスへ入門。翌73年に栗栖正伸を相手にデビューを果たした。メキシコ武者修行を経て、82年に帰国。以降、当時絶大な人気を博していた初代タイガーとのライバル抗争がスタート。初対戦は同年10月26日の大阪府立体育会館。WWFジュニアヘビー級選手権試合での反則負けだった。試合を重ねるごとにタイガーのマスクを剥ぐ無法殺法が“虎ハンター”として、大きな注目を浴びた。リング上では国民のヒーローと悪役の関係だった。だが、マスクを脱げば仲の良い親友だ。この日、佐山は発表した追悼コメント(原文まま)で「体調が悪いのは、二週間前の電話の声で、わかっていました」と明かした。何度も闘い、何度も語り合った仲だからこそ感じることができた異変だった。「その時、『俺達、良い試合をしたなあ』と言うので、タイガーマスクでの試合の事かなと思い、私はその気で思い出を話すと、何と、小林さんは若手時代の事を淡々と意味深げに話すのです」。不思議な会話のずれ。約5分で小林さんの疲れたトーンも感じた。「『元気になってメシ行こう!』『それじゃ元気で!』『元気で!』と言い合って電話を切りました」。今月7日、また声が聞きたくなって佐山から電話。呼び出すもつながらず…。電話の返信はなかった。「心配をしていたところへ、四代目(タイガーマスク)からの電話です」。訃報の連絡だった。2週間前に語り合えなかった2人の思い出を振り返りながら「小林邦昭対タイガーマスク」の約42年間の闘いが終わった。ようやく親友だけの関係に。素顔同士で-。2024/09/11 18:11:238.お前名無しだろS0M67小林邦昭アラカルト◆生まれ 1956年(昭31)1月11日、長野・小諸市生まれ。◆新日入り 長野・丸子実を中退して72年に新日本プロレスへ入門。73年に栗栖正伸戦でデビュー。◆全日でも 84年には“維新軍団”長州力、マサ斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口らと新日本プロレスを離脱。ジャパンプロレス所属となり、全日本プロレスへ参戦。全日では2代目タイガーマスク(三沢光晴)ともライバル抗争を繰り広げた。全日では第2代世界ジュニアヘビー級王者となった。◆新日にカムバック 87年から新日に戻り、同年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。89年4月の東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。00年、自身の引退試合の相手もライガーだった。◆抗争 91年12月に勃発した新日本プロレスと誠心会館の抗争では、斎藤彰俊、青柳誠司との異種格闘技戦などで闘いの最前線に立った。抗争の終結をめぐって新日本プロレス選手会と対立。越中詩郎らと反選手会同盟を結成。のちの平成維震軍の一員としても活躍した。◆得意技 フィッシャーマンズ・スープレックスの他、前蹴り、ソバット、トラース・キックなど蹴り技が多かった。◆裏方としても 引退後は主に裏方を担い、新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務した。◆限定復帰 07年にはリアルジャパンプロレス後楽園大会で、初代タイガー佐山を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の野生の虎を復活させるため」だった。その後は11年にも再戦している。2024/09/11 18:12:109.お前名無しだろo4e4N相手を光らせる能力が素晴らしかった。2024/09/12 05:24:33
元プロレスラーで“虎ハンター”の異名を持つ小林邦昭さんが9日、亡くなった。68歳だった。小林さんは今年2月すい臓がんが判明。人知れず闘病生活を送っていた。新日本プロレス時代の後輩で食道がんステージ4闘病中の西村修は、4日に自宅で小林さんを見舞ったばかり。それからわずか5日後の訃報に強い悲しみを口にした。
「4日にお会いしたときは、想像以上にやせたっていう思いと、あと想像以上に必死になって生きようとしている気持ちは感じました。立ち上がろうとするし、しゃべろうとするし。ちゃんと意思の疎通もできたじゃないですか」
9日夜、小林さんの訃報を知った西村は、こう声を絞り出した。
5日前に三澤威トレーナーらと都内の自宅を訪れ、小林さんを見舞ったばかり。50分にわたって本人と会話していた。
小林さんは1992年に大腸がんを患い手術。その後も肝臓がん、肺がんと30年以上にわたり、大病と格闘してきた。
一方、西村も98年に最初のがん(後腹膜腫瘍)を発症。頼れる相手のいない中、相談に乗ってくれたのが小林さんだった。
「最初のがんの時もそうでしたけども、誰よりも心配してくれたし、2人で情報を共有し合ってきました。がんサバイバーとしてどれだけ生きる糧になったか」
小林さんとは西村が新日本を離れても、毎年定期的に会食を開いていた。今年4月、西村に食道がんが発覚すると、毎日連絡を取り合った。7月には自身も闘病中の身ながら抗がん剤治療のため入院中の西村の病棟を訪れ、体調を気遣った。
症状は聞いていたが、4日に見舞いにいくと小林さんは別人のようにやせ細っていた。ベッドに横たわり、食事が取れない状態だった。
しかし、西村や三澤トレーナーの前では、気丈な姿を見せた。
「みんなにスクワットやってるって伝えてくれ」
上半身をゆっくりと起こし、冗談を交えた。病気のことは一部の人にしか告げていない。長年新日本の道場管理人を務め、突然姿を見せなくなった小林さんを心配する選手は多かったが、弱っていく姿は見せたくないという小林さんの意思は一貫していた。
昭和の時代、人気絶頂だった初代タイガーマスク相手にライバルとして何度も立ち向かった小林さん。病魔に何度襲われても、決して折れなかったその不屈の生きざまはいつまでも記憶に残り続ける。
私はカニハンター。小林邦昭さんに負けないようにカニを捕まえるぞ〜🦀
◇ ◇ ◇
小林さんと初代タイガーマスク佐山サトル(現ストロングスタイルプロレス総監)の“ラストバトル”が、実は先月末に行われていた。
小林さんは1972年に新日本プロレスへ入門。翌73年に栗栖正伸を相手にデビューを果たした。メキシコ武者修行を経て、82年に帰国。以降、当時絶大な人気を博していた初代タイガーとのライバル抗争がスタート。初対戦は同年10月26日の大阪府立体育会館。WWFジュニアヘビー級選手権試合での反則負けだった。試合を重ねるごとにタイガーのマスクを剥ぐ無法殺法が“虎ハンター”として、大きな注目を浴びた。
リング上では国民のヒーローと悪役の関係だった。だが、マスクを脱げば仲の良い親友だ。この日、佐山は発表した追悼コメント(原文まま)で「体調が悪いのは、二週間前の電話の声で、わかっていました」と明かした。何度も闘い、何度も語り合った仲だからこそ感じることができた異変だった。
「その時、『俺達、良い試合をしたなあ』と言うので、タイガーマスクでの試合の事かなと思い、私はその気で思い出を話すと、何と、小林さんは若手時代の事を淡々と意味深げに話すのです」。不思議な会話のずれ。約5分で小林さんの疲れたトーンも感じた。「『元気になってメシ行こう!』『それじゃ元気で!』『元気で!』と言い合って電話を切りました」。今月7日、また声が聞きたくなって佐山から電話。呼び出すもつながらず…。電話の返信はなかった。「心配をしていたところへ、四代目(タイガーマスク)からの電話です」。訃報の連絡だった。
2週間前に語り合えなかった2人の思い出を振り返りながら「小林邦昭対タイガーマスク」の約42年間の闘いが終わった。ようやく親友だけの関係に。素顔同士で-。
◆生まれ 1956年(昭31)1月11日、長野・小諸市生まれ。
◆新日入り 長野・丸子実を中退して72年に新日本プロレスへ入門。73年に栗栖正伸戦でデビュー。
◆全日でも 84年には“維新軍団”長州力、マサ斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口らと新日本プロレスを離脱。ジャパンプロレス所属となり、全日本プロレスへ参戦。全日では2代目タイガーマスク(三沢光晴)ともライバル抗争を繰り広げた。全日では第2代世界ジュニアヘビー級王者となった。
◆新日にカムバック 87年から新日に戻り、同年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。89年4月の東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。00年、自身の引退試合の相手もライガーだった。
◆抗争 91年12月に勃発した新日本プロレスと誠心会館の抗争では、斎藤彰俊、青柳誠司との異種格闘技戦などで闘いの最前線に立った。抗争の終結をめぐって新日本プロレス選手会と対立。越中詩郎らと反選手会同盟を結成。のちの平成維震軍の一員としても活躍した。
◆得意技 フィッシャーマンズ・スープレックスの他、前蹴り、ソバット、トラース・キックなど蹴り技が多かった。
◆裏方としても 引退後は主に裏方を担い、新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務した。
◆限定復帰 07年にはリアルジャパンプロレス後楽園大会で、初代タイガー佐山を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の野生の虎を復活させるため」だった。その後は11年にも再戦している。