老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2024/11/07 08:121.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59184コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無CCDさん@画素いっぱいkD3f3西暦1976と言うのは、私がwinからファーイーストに行って、現代日本写真家展と言うドイツを県内で巡回した写真展の準備に行った年である。29歳の時のストーリーだった。ところがその直前に私は日本の劇場映画のスチール写真を担当する必要があった。そのうちの1つはフォルカーシュレンドルフ作品であって、もう一つがこの三流のギャングムービーである。その2つの典型的なコントラストの作品の制作を手伝って、私が痛感したのは、映画を制作する手間と言うのは、芸術作品であろうが、エンターテイメント作品であろうが同じ位手間がかかると言うことなのだ。私はその2年ほど前にウィーンでMekasの映画を大量に見ていたから、このようなコマーシャルフィルムと言うのは、最初から相手にしていなかったのであるが、ハリウッドを頂点とする鳴り物入りの劇映画の制作の虚しさについて教えられたのであった。ところがその体験から50年が経過してびっくりしたのは、このタイトルの映画はドイツ語ではあるのだが、それが英語の字幕が付いて、YouTubeにアップされていることを最近発見したのである。ここに登場する。2人の主演俳優の右のほうの人は三船敏郎並みのスーパースターらしいが、そういうことよりも50年前のウィーンのリアルな風景が動いていると言うことが私にとってはまさにタイムマシンなのである。それで時々このムービーを見ながらその背景に展開している1976年のリアルなウィーンの光と影を見て楽しんでいるわけだ。2023/08/02 06:06:513.名無CCDさん@画素いっぱいymVCvフォトコンテスト言う月刊、カメラ雑誌の1965年12月だったと思うが、そこにセカンドプライスで入選した富士山の近くの白糸の滝に集まっている。ツーリスト。このレンズで撮影した。そのタイトルは単純明快で観光客と言うのではなかったか?これが私がカメラ雑誌に写真を発表した最初の機会であって、本当に嬉しかったな。でも、その後私が同じ会社のカメラ雑誌で新しく発行されたカメラ時代と言う今見てもシリアスな写真集にほぼ1月おきに8ページの東京のシリーズのモノクロ作品を出していたのに、比べると、1番最初の私のデビューと言うのはかなり方向違いなやり方だった。要するに、最初にデビューした写真は200ミリから400ミリのズームレンズであったのに対して、その翌年から本格的に発表する。1連のシリーズはカメラは同じニコンエフであるが、レンズはニッコール2.1センチで全く異なっているからだ。それでもこの200 400ミリレンズはよく使ったもので、不具合が起きると赤羽の駅から徒歩10分位の木造2階建ての普通の住宅に持ち込んで。そこで修理をお願いしたものだった。看板も何もついていない普通の住宅であったから、今までそれがタムロンの赤羽営業上だと思っていたのは、私の勝手な勘違いで、埼玉の本社まで来てもらうのは恐縮だと言うので、タムロンの社員の方のご自宅に私がレンズを届けると言う形になったらしい。クロネコヤマトの宅急便が登場する数、10年も前の話である。最初に手にした200 400タムロンズームだが、本当はニッコール200ミリが欲しかったのだが、何しても値段が高すぎる。それでこのレンズで我慢したわけだが、それが結果として面白い。私の写真表現の展開のスタートになったわけだ。それに1960年代に作られたこのレンズの仕上げのクオリティーが非常に高いと言うことに。60年後に気がついて驚いているのである。2023/08/03 00:41:444.名無CCDさん@画素いっぱいdT4un私の70歳の記念の時に、我楽多屋さんが中心になって、悪の枢軸のメンバーが四谷のホテルで立派な大宴会を開いてくれた。それと、前後してオーダーを取って、このようなカスタムメイドのTシャツを作ったのである。その後も何年かかけていくつかの私の作品がプリントされたTシャツを出してくれたのはありがたい。それで私などは貧乏性であるからそのように作ってもらった。Tシャツを着るのは、もったいなくて仕事場のカメラのジャングルの金属のラックに並べて展示してある。Tシャツと言うものは意外と長持ちするものであって、例えば私がいまだに着ている自衛隊の売店で売っていた。Tシャツは生地がいいのかどうか知らないが、非常に肌触りの良い逸品になっている。片岡義男さんと何かの雑誌で対談をしたときに片岡さんが言うにはやはりTシャツは古いものに限ると言うので、片岡さんが持っている。最も古いものは50年だか60年だかは聞き忘れたけれど、もうまさに繊維を感じさせない身にまとう、不思議なバリアであると言うような意味のことを話しておられた。そのTシャツの私の場合、ストックが少なくなってきたので、私の仕事場にぶら下がっているうちの1つのTシャツを展示品から、実用品にしたわけだ。言ってみれば品物が本来の実用物としての役割を果たすようになったのだから、これはこれで良いと思う。ここにプリントされているのは1970年代全般に撮影されたワンショットであって、メトロの駅での花売りのおじさんである。これを撮影した時は、確かソ連製コンタックスに85ミリのゾナーレンズのコピーで撮影したと記憶しているが、その写真ができたときに私は第一印象として、そこに写っているモデルのおじさんが大変なおじいさんに見えたことである。あれから50年が経過して、今この写真に写っている人を見るに、ちょうどガラクタ屋さん2代目位の歳だと思うから、若い人に見えるというのが非常に面白い。年齢のパースペクティブと言うやつだな。何十年も前京都の古いおうちの人から、平塚雷鳥の先祖は友達だと言うことなのだがライカカメラのオスカーバルナックのカタログを見せてもらったことがあった。有名な最初のページにライカの発明者が印刷されている。その時の第一印象はものすごいおじいさん ライカと言うカメラを作ったんだねと感心したのであるが、あれから半世紀が経過してみると、別に驚くことがない。私よりずっと若い外国人が作ったのがライカカメラなのである。2023/08/06 05:52:155.名無CCDさん@画素いっぱいMxeZf映画の第3の男で有名だが、1955年までウィーンはドナウ運河の西と東でアメリカ軍フランス軍とソ連軍に占領されていた。その2つの占領軍をドナウ運河で隔てて両方を結ぶ橋が平和橋と言うのである。その平和橋の東のドナウ運河のほとりにあったのがウィーンで3件しかない馬肉屋さんであった。ナポレオン3世の影響でwin人は馬肉を食べる習慣になったそうである。しかもフランス人の真似をして勢力をつけるために生で食べたりしたのがタルタルステーキの元になったそうだ。レバーKaseと言うのは1種のソーセージであるが、オーストリア独特のものかもしれない。冷たい状態でも食べるが、普通は熱くしたやつをこのように丸いパンに挟んで食べるのはなかなか簡単で早くて便利なランチになる。肉屋さんで出していたソーセージである馬の肉である。7年とロッカ月いつもこの駅さんの前を通っていたので、私が食べた馬の肉の量はおそらく1頭分位だったのではなかったか?1973年から1980年までここの常連客であって、その翌年1981年から2000年位まで20年間ウィーンに行くと思い出して、このドナウ運河沿いの馬肉屋さんにこれを買いに行ったし、馬刺しも買いに行った。馬刺しは1キロ単位で買うのである。日本の馬刺しは高くて買えませんね。そしてその頃には、馬肉屋さんの売り子のお姉さんも同じ人であったから、私が数年ぶりに馬肉屋さんに行くと、お久しぶりね。今は休暇ですか?などと愛想言ってくれる。2023/08/08 06:38:106.名無CCDさん@画素いっぱい3zKiNヨーロッパは夏の休暇と言えば45日間ぐらいあるから、それは彼女たちの生活の実態から私にそういうことを言ってくれるのである。こちらはフリーランスで年がら年中仕事をしなければならないのでなどと説明しても、彼女たちはそれを理解できないからこっちのほうもそうそうバカンスなんだよと受け流していた。それから、数年経って最後にウィーンに行った時、例によってドナウ運河沿いの馬肉屋さんに行ったのであるが、スタッフが全員別の人になっていたのは残念だった。考えてみれば、若い頃を馬肉屋さんのスタッフになった人はおばさんになって、そして定年退職してしまったのだから、新しい人が入ってくるのは当然である。私の大切なドナウ運河のそばの駅さんの重要な記憶が、そこで全て消えてしまったような感じがして残念だった。それでいつもの通り買ったパンはそれなりにおいしいのだが、この業界でも改革が激しいらしくて、最後に私が行ったときには、このレバーKaseのフレーバーの種類が3種類位になってしまって、注文するときに指定しなければいけなくなったので、こういうのは本当に面倒な次第だなと思う。2023/08/09 05:51:267.名無CCDさん@画素いっぱいlsPkDiPhoneが最初にいつ登場したのかはもう忘れた。今使っているのは家人のお下がりの時代遅れのiPhone SEである。雅人は普通の人だからアンドロイドに転校してしまったのである。スティーブジョブズがアップルを飛び出して、自分で立ち上げたネクストが好きで、これで何冊か本を書いた。ところがまだ皮肉なことにインターネットが普及する前であったから、ブラックネクストで打ち込んだデータはフロッピーディスクに入れて、それに封筒に切手をなめて貼って出版社に送っていた。今にして思うと非常に優雅な動作であったことがわかる。一番最初のiPhoneを使いだしたのは、リコーの馬込の本社でデジタルカメラの発表会があったときに、黒川紀章さんの息子さんの手にしていたのがこれだって、長徳さんこれ写真がすぐ送れるから面白いですよと言われたのが最初の出会いであった。その翌日に私は最初のiPhoneを買ってきたのだ。当時はMacBookで仕事をしていたから、iPhoneなんて使い道がないと思っていたのであるが、あれから20年近くが経過してどうなっているかというと私の仕事はiPhoneとiPadいずれも型遅れで形成されているのである。最初のiPhoneで、あの頃世界的に有名になったのは、中国でアッセンブルしているときに、最終の段階のカメラテストというのがあって、そこに写っていた中国人の女の子を消去するのを忘れて出荷してしまったので、そのことで彼女は世界的に有名になった。確かアップルの女神とか言うニックネームではなかったか?それで今そのオリジナルボックスを手に取ってみるとなかなかよくできていて、すでにこの3次元立体空間がアートになっているのである。その理由を考えてみたら、iPhoneは単なる実用品であるから3次元空間ではあるけれども、道具としてはそこで行き止まりになってしまう。iPhoneのボックスは3次元空間だが、平面で構成されているから、そこにファインアートが出現するのである。しかしこれだけ手の込んだ箱を作るのは、アップルの会社のコストには合わないと見えて、その直後はこのiPhoneのイメージのボックスはなくなってしまった。しかし、このオリジナルボックスの存在感は素晴らしいものである。もしできるなら、最後の審判の日までこれを持ち続けてみたいものだ。夫私は無神論者だから関係ないけどね。2023/08/11 10:59:168.名無CCDさん@画素いっぱいPr4i5チェコのビロード革命の頃にプラハのバザールで買った腕時計である。この辺の時間経過をはっきり記憶しているのには理由があって、1988年の12月24日クリスマスイブにハリネズミが昇天して、その遺体を隅田川に流したのである。当時はハリネズミブームが起きる前なので、獣医さんに連れて行っても珍しがられると言う大変なパンダ並みの動物であった。その翌年1989年の2月と言う時に家人とアエロフロートでウィーンに行く予定がウィーンが霧が濃いために着陸できなくてプラハに着陸してしまった。それで当時はまだ元気だった。友人のプラハのビーに出会って、プラハのペンクラブでビール飲んだりしながら、最近のチェコの民主化のデモの様子を聞いたのである。ーその年の11月に有名なビロード革命で、共産主義は打倒されたと言うことになる。この時計はその頃に手に入れたものである。バザールと言うのは、別に、イスタンブールやカイロのバザールの意味ではなく、耐久消費財とか日用品の中古を扱っているのをプラハではバザールと言うのだ。このモデルはれっきとしたチェコの製品であるが、なかなかに精度がよろしい。ビロード革命以来オーバーホールもしていないけど、クロノメーター並みの精度である。実は、軍用のウォッチと言うことで、社会主義の時代にも、チェコは空軍用のウォッチにLemaniaを使っていた。それがビロード革命の後に考え直したらしくて、高い外貨をスイス製のウォッチに使うのはもったいないと言うことで、それ以降チェコ空軍の軍用ウォッチはこのブランドになった。この間、寝室で型遅れのiPhone SEを見失って。ベッドの下を捜索したらこのウォッチが出てきたのである。iPhone SEのほうはシーツの間に挟まっていた。それで想像もしなかった。30数年前の懐かしいビロード革命の記憶がこの家を発見したことで、いきなり呼び覚まされたのだ。2023/08/14 03:53:019.名無CCDさん@画素いっぱいTSGoWヒラリーがエベレストに最初に登ったときの記録カメラはコダックリッチなであった。それも戦前のモデルであったらしい。ヒラリーは結構ちゃんとしたカメラ付きであったようで頂上をアタックする前のベースキャンプ等での記録にはコンタックス2使っていたしかしコンタックスでは最終アタックはやはり重いので、より軽量なエッチなカメラにしたのである。石川直樹から直接聞いた事であるがエベレストのアタックなどではありとあらゆる重さのあるものは敬遠する方向にあって、ボールペンも半分にちょんぎったものをもっていくのだそうである。いつであったかエミレーツ航空の帰りの便で進行方向左側にエベレスト山白がよく見えて私は水割りウイスキーを飲みながらそれを見ていて写真も映して目の下にメールあんな雪山になんで登りたがるのだろうといぶかしく思ったのであるが、それはそこにエベレストがあるからだ35ミリレンジファインダーと言えば来客がコンタックスかなどと言う話にすぐ単純で行ってしまうのであるが我々にはシンプルな蛇腹カメラと言うものがある。レチナカメラなども好きであるがあれは戦前のドイツコダックがパトローネ入りのフイルムを大衆に得るために作ったものであるからどうしても作りが安っぽい。私が好きなのはそれほどメジャーではないけれどもドレスデンで作られたちょっとマイナーブランドの蛇腹7時35ミリカメラである。このカメラ等がその一例であるが。作りはなかなか凝った構造になっている。テッサーレンズのef 2.8がついているところがレンズをたくさんとしてはまず納得できるのであるが、距離計ファインダーとビューファインダーの構造が結構複雑怪奇な状態になっているのはいかにもバロックの街ドレスデンで作られたと言う印象がよろしい。1番ユニークなのはボディーのトップについているフォーカシングダイヤルである。これでピントを合わせると言うのは蛇腹の先に付いているフォーカシングレバーを回転させるよりも確実にピント合わせることができると言うグッドアイデアである。それともう一つすばらしいと思うのはそのずんぐりむっくりとしたカメラのスタイリングである。なかなか存在感があってこういう猫がいたらかわいいだろうなと言うようなスタイルをしている。2023/08/17 06:29:4910.名無CCDさん@画素いっぱいHGcqBWin滞在の最後の1年間だけどライカにもコンタックスにも飽きてきたので戦前のドイツの蛇腹カメラを使っていた。蛇腹カメラの良さはその携帯性にある。6 × 6センチもそうだが35ミリのレンジファインダでも蛇腹になるとかなり小型軽量で時々持っていることを忘れてしまう位である。それでメインカメラと言うわけではないが自分の写真を撮るときに35ミリの蛇腹カメラを使うことがある。実際にはレンジファインダーなどが付いている必要は無い。私の場合はほとんどがinfinityで撮影しているから最初からレンジファインダーは不要なのである。最近手に入れたドレスデンの古い35ミリ蛇腹カメラがこれだ。このカメラに惹かれたのは本体の上のほうにシンプルなファインダーが付いているのであるがそのファインダーをパララックスで矯正できるようになっていてインフィニティーから0.8メーターまでのダイヤルがファインダーの下に付いている。ここら辺がかなり個性的な存在である。このカメラの名前なのであるがなかなか覚えられなくて時代によってカメラそのものの名前が変わってしまっているらしい。しかしカメラの名前などはわからなくてもカメラの存在感が個性的なのであったらそれで問題ないと考えている。蛇腹カメラの最大の良さ良さと言うのは撮影するときにカメラをセットするかしないかと言う最初のステップがあるから余計なものは撮影しないと言うメリットがある。これはなかなか蛇腹カメラの持っているライカを超すような素晴らしい魅力だと思う。2023/08/20 02:02:0611.名無CCDさん@画素いっぱいHxx7Rライカのレンジファインダカメラは戦前には別に趣味のクラシックカメラではなくて、非常に重要な軍事物資であった。それで第二次大戦末期になってライカカメラがドイツから来ないことになると非常に困った状態になってパテントなどは勝手に無視して日本国内で日本製のライカを作ったのであった。これがニッカカメラである。完全なライカのデッドコピーであった。その当時にはキャノンが作ったレンジファインダモデルもあったけどこちらのほうはライカやコンタックスのパテントをうまく避けて作られている。戦艦ヤマトのレンジファインダを作っていたニコンは戦後になって平和産業と言うことで35ミリ小型カメラのニコンを開発したが、それよりも日本カメラを作ったニッカの方が歴史としては長いことになる。戦後になってこのカメラはアメリカに輸出されてなかなか良い成果を上げたようであるがその時はすでに戦後力を出してきたヤシカカメラのブランドになっていた。ヤシカカメラはその当時、最も進んでいる35ミリ一眼レフであると言われていた頭脳工学の頭脳カメラの存在も自分の会社に吸収したのである。時代が降って1970年にはカールツアイスと提携してコンタックスの一眼レフも登場させた。そのような系統を見てみるとヤシカカメラと言うのは世界的なカメラの系統で見た場合でもかなり歴史的な1本の長いLINEでカメラの歴史をトレースすることができることになる。このカメラニッカYEと言うモデルはレバー巻き上げ式であって同じ時代のライカモデルよりもかなり先を行っていた。1958年頃の話であるが、アメリカ市場ではかなり安く販売されていたようである。要するにアメリカ人はある意味で実用主義者であるからこういう日本製のライカ的なカメラもブランド志向でないから何の問題もなく使えるわけだ。ライカカメラを50年使ってきた私の感覚からするとむしろこういう日本製のライカが道具として何か存在感としての意味を持っているような気がするのである。2023/08/23 06:16:1712.名無CCDさん@画素いっぱい4JUZP半世紀前に高梨さんと話をしていてファインダーも距離計もついていないライカは街が戦場のように映るのではないかなどと冗談を言っていたのであった。日本デザインセンターに勤務していたときのボーナスを手に銀座のカメラ屋さんに行ってライカMD買おうとしたら在庫がなくてその代わりにライカのM2から距離計を省いたライカエムワンを買った。これがなかなか良いカメラだった。レンジファインダカメラで実際にレンジファインダで距離を合わせる必要が生じると言うのはただ言えば50ミリで明るさが、エフ1.4のレンズで1メーター位の距離で人物ポートレートを撮影するときにはモデルさんの目にピントが合ってないといけないから必要なのである。でも私の場合はスナップショットだからインフィニティーに合わせてあれば問題は無い。それでこの半世紀以上にわたってライカであろうがなんであろうがレンジファインダでまともにピントを合わせた事は無い。リコーの初期のレンジファインダカメラで距離計を省いたものが気に入っていて手元に何台かある。写真撮影の基本の基本の魅力をそのまま具現化してあるところが素晴らしい。西独のスプリングモーターが付いた。35ミリレンジファインダカメラにロボットカメラがある。その中のレアなモデルで距離計を省いているのがあるが、これもなかなかスタイルがよろしい。スターバックスのレンジ、ファインダーの場合は、性格が真面目なので、そういうレンジファインダを省略するような手抜きのことはできないらしい。2023/08/24 06:40:0113.名無CCDさん@画素いっぱいaUjMe唐松さんの数多い写真の仕事以外で美術家としての実例を見たのはこの1度だけである。私は自分をストレートフォトグラフィーの末裔と考えているので、環境的なインスタレーションは最初から可能性がないと思っている。だから東松さんのこの仕事も高く評価しているわけではない。ナンバー24と言うのは、このグループ展の時に写真家が当てはめられた展示スペースの番号なのである。何もないカーテンで仕切られた空間に床の中央に丸くマークが書かれているだけだ。写真家でも美術家でもそうだが、平面で仕事をしている人が立体とかインスタレーションで大失敗をすると言う例を私はよく知っていて、身近なところでは杉本博とかいる。けれど、ルイスヴァルツもそのうちの1人である。ルイスヴァルツの仕事は、何十年にもわたって尊敬しているが、唯一の彼の失敗を始めたルーツというのがインスタレーションをやってしまったことなのだ。サウスカリフォルニア生まれのルイスヴァルツがなくなったのはパリである。けれども、日本と同じアートの最も遠いところに生まれ育ったからパートに対するコンプレックスはなみなみではなかったのでは?中平さんがナンバー24の東松さんの展示空間に入った時、彼はまだ写真家ではなく雑誌編集者であった。その前の年の8月に東松さんの新宿のオフィスに行って、私はポートフォリオを見ていただいたことがあるのだが、その時に東松さんから紹介されたのが中平さんであった。それで中平さんも私の写真を一緒に見てくれて、入間航空基地で撮影したアメリカの巨大な輸送機の写真がよろしいと褒めてくれたのであった。最後に中平さんとすれ違ったのは四谷曙橋である。トレードマークの赤いウィンドブレーカーで赤いキャップで驚いたことに。その時はサポーターをつけないで1人で歩いていたのである。びっくりして声をかけ損ねてしまった。そのそういう現場と言うのは、その数年後に、私が森山大道さんと偶然遭遇した。すぐ近くであった。2023/08/27 06:30:5614.名無CCDさん@画素いっぱいT6SIv10年前の写真集「とうきょう散歩カメラ」に登場した豊島区北池袋の「すて石」を思いだして10年ぶりにいったら健在であったので嬉しかった。頭狂(とうきょうと、読む)の変貌は池之端の菊竹さんの名作ホテルコシマに宿泊しようと思っているうちにある日、高層のタワーが消えてなくなったり、雑司ヶ谷宣教師館の隣の黒田さん宅の「奥様カフェ」でコーヒーとカレーライスのつもりで来たら、すでに更地になっていたりで、油断できない。何時までもあると思うランドマークは消失し、風前ではないかと思われる建物が生存しているのはまさに人の消息に等しい。実はすて石の前の小路はお店とT字路になっていて、その小路の左側が小高い位置にあり、そこが名もなき小公園である。綺麗に掃き清めされていて、細長い公園で遊具は昭和40年代感覚なのも好ましい。先週、思いつきで浮間船渡で下車して、駅前から常盤台駅行きのバスに乗った。工藤ゆきゆかりの、天祖神社とか閉店した渋谷カメラを見て、シャーロックホームズのあった場所も訪問した。東上線で北池袋まで来て、くだんのすて石がここで下車であることを思いだして、ふらりと降りた。ここから東に200メーターほどですて石である。西側からアプローチするにはその細長い小公園の北側に付属の路地を東に行く。その路地の入り口の左手にある、古い疑混土(コンクリートと読む)の古ビルは「東京宝石」とか言うのである。これもすがれたここらの環境に似つかわしくないので、なにか江戸川乱歩の世界だ。小路の中程に小公園に上がる大谷石の階段がある。その前で老女が立ったまま、おむすびを食べている。この人もエキストラの通行人だか、通行人がものを食べて画立っているというのは新演出だ。ここらはつげ義春の漫画の世界だ。小公園に2つしかない、古いベンチのひとつに腰掛けたら、眼前がすて石である。しかもことらの方が数メーター高い位置にあるので、なにか屋外劇場の感じがする。もう一つのベンチでは妙に大人びた綺麗な女子高生がパックのいちごミルクをストローで飲んでいる。ああ、これも実は前衛劇の俳優のひとりだなと思った。真夏の太陽が時々雲に隠れるとその瞬間だけすらりと冷涼になる。これも前衛劇団の照明装置である。頭にタオルを江戸時代の瓦版売りみたいにたたんで載せたじいさんが花道から登場。ゴミ箱のまえで七三で見栄をきる。ゴミ箱尾をを鍵で開けて、数個のごみ袋に仕分けしている。2023/08/28 04:51:2215.名無CCDさん@画素いっぱいZJLetややあって、上手からばあさんが登場。「この間の、年金のことだけど、あれ、税金の関係があるからああなってるんだけけど、、、分かった?」じいさん返事せず。「ちゃんと水飲んでる?」「ああ、今日はもう4本飲んだよ」ばあさんがそのまま下手に退場しようとしたら、「もう京都にはいかない。ここに3日居ないだけで、他のやつが分別したんで、やり方が違うんだ。また全部やりなおしだ」ばあさんを追いかけるように「貴船の床で一杯やろうとしたんだが、満員。それでつまらない高い店につれていかれちゃった」「あたしは3年前に京都に行ったよ」とばあさん。これでごみの分別をしている町内のじいさんの属性が明らかになった。こういう会話はまったく、三流の台本書きを超越している。町行く人。町に居る人はそれぞれに、とんでもない秘密を内包して生きているのだ。この小公園を「すて石劇場」と命名した。2023/08/28 14:32:5816.名無CCDさん@画素いっぱいo3uWK8月の終わりの頃の京都の地蔵盆の頃になると私は1970年にニコンサロンブックスで出版された森さんの1番最初のシリーズ京都を思い出す。森さんはその後は日吉の東京総合写真専門学校の校長になられたりすごいキャリアの人だ。それでその当時ニコンサロンブックスから森さんの写真集が出てえらいなぁと思ったのはあの当時のニコンカメラの会社はまだ文化的にゆとりがあったと言うことだ。つまり競合他社のしかも安物カメラのオリンパスワイドで撮影した作品を世界一を自負するニコンのそれまたプライドの高いニッコールクラブの写真集の最初のシリーズとして出したと言う事はかなり懐が広いと言うことになる。美術出版社が出していた1970年代に有名だったデザインと言うグラフィック関係の月刊誌があってそこのページで16ページ位まとまった作品を掲載するセクションがあった。森さんはそこでも京都のオリンパスワイドを使った写真を掲載している。それに私も影響受けて美術出版社のデザインに売り込んで東京のシリーズを掲載したりしたこともあった。ニコンサロンブックスの京都のシリーズでは街の通りのガラスの窓にうっすらと森さんがオリンパスワイドを構えているところが映ったりしている。それは不確かな情報だったが何かカメラ雑誌だと思うけど森さんが紹介された彼自身の写真であるが、なんと森さんは頭の上に一番最初のモデルのオリンパスワイドを乗っけてこっちを見ておどけているのである。それを私も真似をしてみたがカメラと言うものはなかなか微妙なバランスの感覚があるもので頭の上で乗せた状態で固定すると言うのはそんなに簡単なことではない。こういうのはオリンパスワイドのスナップショットのバランス感覚と言うのかな?この8月の終わりの京都の地蔵盆の猛暑と言うのに憧れていて数年前よせば良いのにその時期を狙って京都に撮影に行った。年寄りの冷水と言うやつで途中で熱中症になりかかって電信柱につかまってかろうじて転倒は防ぐことができたが周りのスタッフに迷惑をかけた。年寄りの冷水と言うことだな。2023/08/30 06:02:0217.名無CCDさん@画素いっぱいSMqsXタルコフスキーは熱狂的な信者が多くて、Facebook上でもいろいろなコメントが見られる。みんな彼の映画をあいしているのである。その中で私はかなり変わり者だから、タルコフスキーが使っていたカメラに興味がある。西側に移動してからの彼の仕事は必然的に西側の35ミリ映画撮影カメラを使うようになったから、その点では面白くない。私が興味を持っているのはソ連で仕事をしていた。当時のタルコフスキーが使っていたカメラである。名作惑星ソラリスの撮影中の映画監督の写真が残っていて、彼が撮影に使っているカメラがこれなのである。西側ではほとんど知られていないが、同時にかなり高級なスペックを持ったカメラらしい。プロ用映画撮影機であるから35ミリの回転式のミラーレフレックスカメラである。同時録音のためのサイレントの構造にはなっていないようだ。面白いのはカメラの中心部というのがブロックとしてあって、その左右にフイルムマガジンをつけると言う方式のようである。私が見たのは1200フィートのマガジンがついた。カメラスタイルであるので、全体のカメラ本体の構造がよくわからなかった。でもこちらは400フィートマガジンがついているから、カメラの全体構造とカメラのメカニズムがよくわかる。それで惑星ソラリスを実際に見るとわかるけれども、アメリカのプロ用映画撮影機と全く同じ画面の安定性である。それはまずそうだよな。それでもタルコフスキーはソ連時代には映画撮影機には苦労したようで、ごく初期の作品、僕の村は戦場だったがあるが、あれは第二次大戦中にソ連の戦争カメラマンが使用したコンバースオートマットを使っている。当時のソ連は、西側のカメラをかなりコピーして制作したのでありフレックス35もあるし、Eyemoカメラもある。もちろんアメリカの代表的な映画撮影機ミッチェルがソ連の時代にデッドコピーが作られていてかなり使われたようだ。これは外見はミッチェルと全く同じである。それを構えているタルコフスキーの写真が残っているので、これは欲しいカメラだと思っていたら、ある時、それがアメリカのeBayに現れた。2023/09/02 15:11:3418.名無CCDさん@画素いっぱいY9KGN大昔1時流行した。小さなダウンサイズした有名カメラの実際に小さなフィルムを入れて撮影するのが存在したけど、あれもライカとかローライフレックスの存在感の基本のところをうまく押さえている。この組み立てユニットも、実に本物のありフレックスの気分が上手く再現されている。本物よりその存在感が勝っているような感じであるのが面白い。その16ミリフィルムカメラの組み立て模型を見て、私が考えたのはこれを考え出した人のアイディアが日本的ではないと言うことである。おそらく日本以外で作られたおもちゃだと思うけど、今の子供だったら画像と音声を形成するのはスマートフォンだと思っているから、これを見せて、このフォルムが何であるかがわかる人というのは少ないと思われる。それにもかかわらず、このようなクラシックなムービー、カメラの組み立ておもちゃを作ると言うのは、おそらく子供たちに何らかの情操教育を与える可能性があると私などは考えている。全く同じカメラありフレックスの本物の方を携帯してモスクワの空港の税関のところで検査を受けたときに検査官のおばあちゃんはカメラを手にとってロシア語しかしゃべらないから私はわからなかったけれども、彼女のジェスチャーはクランクを回す仕草をするのである。これはほとんど世界中で今でも通用する。フイルムカメラを回転させる時の共通のジェスチャーなのである。 つまり、つい先ごろまで、映画撮影機と言うのは、カメラ本体に付属したクランクを回転させると言うジェスチャーで世界的に認識ができたのである。それに対して今の普通の映像の記録手段であるスマートフォンはどのようにこれをゼスチャーで表すかと言うと、そのための共通言語としての身振り実際はいまだに我ら人類は持っていないのだ。一言付け加えておくとヨーロッパで電話をかけるよーと言う。ゼスチャーは、右手で親指と薬指を長く伸ばして電話の受話器のような形にして、それを耳に当てると言うジェスチャーである。2023/09/05 06:38:5119.名無CCDさん@画素いっぱいc7HeA1985年に東ベルリンの空港から私がタラップを上る時に見送りに来た。ドイツ人の女性が私に向かって示した。ジェスチャーがこれであった。東ベルリンの工場建築を撮影して危険だから、東ベルリン市民の彼女に撮影した数百枚のフィルムを預けておいたのである。彼女にあって空港でピックアップするつもりが西ベルリンから走ってきた。私の空港バスは直接出国ゲートに行ってしまったので、フイルムをピックアップすることができなかった。その時に彼女は見送りゲートで私にそのジェスチャーをやったのである。その日の夕方に、私は東ベルリンと連絡をとって、その翌日にプラハに出かけた。彼女はポーランド製のフィアット500に乗って、プラサまで来てそれでフイルムをピックアップできたと言うフレンチコネクションであった。だから、1985年の電話をする。ジェスチャーと言うのは固定電話のことであって、iPhoneのことではない。2023/09/08 09:58:1320.名無CCDさん@画素いっぱいkQBkz風景論と言うのは、生半可な連中が振りかざす便利な道具である。写真展のタイトルにつけたりすれば、何かそこで重要なステートメントがあるように錯覚するからである。1960年代後半から70年代初め風景論が流行したのは今見るとそこに現れている。写真表現と言うのは象徴表現主義なのだ。同時に社会主義的な運動を目指すことが他のジャンルもそうだけれども、写真家にとっても重要と言うふうに勘違いされていた時期であった。東京の赤羽からJRで南に行く次の駅が10条駅である。歩くと1時間20分ぐらいかかると思うが、いわゆる東京のはけた道の様相がよく残っていて、断崖絶壁の繰り返しだ。大昔にはこのあたりまで荒川だったわけである。そういう事は別に得意なことではなくて、ウィーンの旧市街にある。かなり初期のゴシック教会で岸辺のマリア教会というのがある。数百年前まで、ドナウ川の水がここら辺まで来ていたから、その名残を命名した名前だ。そこで50年以上前にベンジャミンブリテンの隅田川の演奏を聞いたのも、何かドナウ川と隅田川が姉妹都市であるような気がして面白い。実際の隅田川は、確かセーヌ川と、姉妹の河川であった。赤羽と重城の中間ポイントにあるこの界隈が好きで春先によく行くのである。そのチャームポイントは写真でわかるように高台の斜面に可憐なスミレの花が咲いている。私はスミレの花を愛するような人間ではないが、春先のこの時期だけに、ここの赤羽と重城の中間地点に咲くスミレの花と言うのは好きなのだ。しかも右側のバラック建築の春の午後の日差しが実に存在学的である。カメラはライカで、レンズは戦前のソ連製の28ミリ。いいレンズです。2023/09/11 05:26:4621.名無CCDさん@画素いっぱいDmsQt1972年頃だったと思うけれども、東京に大雪が降った。この写真は毎日新聞が出した当時としても結構高い写真集の中に掲載されているものだ。売れない写真集だったので、1部は裁断されたらしい。それで今この写真集の中古価格は結構高いのである。東京の雪が珍しいので、その頃住んでいた練馬区大泉学園町2207番地からちょっと表に出て、カメラで撮影してすぐまた家に戻る。家人がいつも言うには、自分の誕生日とクララシューマンの誕生日が同じだと。人間の誕生日になると言うものは、1年のたくさんある日日の1日だけなのだから。それは珍しくもなかろうが、私の場合は5月30一日であって、木村伊兵衛先生のご命日と同じと言うのが自慢なのである。この写真を好きだと言ってくれる人がたくさんいて、それが嬉しいのであるが、なぜこの写真が良いかというと、これはストレートフォトグラフィーであるからだ。象徴表現主義的な何か胡散臭いメッセージを持った写真ではないと言うところが良いのだと思う。それでこの雪のシーンを撮った翌年、だったと思うが、横浜から船に乗ってナホトカに行き、そこからシベリア鉄道でハバロフスクまで行った。私は今まで50年以上ずっと勘違いをしていてナホトカから西1000キロ離れたところにハバロフスクがあるとばかり思っていた。今回地図を見て私の勘違いに気がついたのである。調べてみると、1973年5月に私たちが利用した列車と言うのは、ワゴンリーのようなファーストクラスの列車であって、これは当時の外国人専用の列車であったらしい。そしてその経路は、ナホトカから北北東に900キロばかり走るのである。つまり逆戻りと言うことだな。2023/09/13 15:03:0022.名無CCDさん@画素いっぱいaYUZh私は自分の本とか写真集を持っていない。それで資料として必要になるときに、慌てふためいてガラクタ屋さんで手に入れたり、ネットオークションで買ったりしているのである。この写真集は、世界で最初にライカタイプのレンジファインダーを出したエプソンとタイアップして出した写真集であって、ヨーロッパに夏と冬に撮影に行ってなかなか面白い仕事だった。今の時代がばかばかしいのは、世界中のありとあらゆるクラシックレンズをマウントアダプターで、デジカメにつけて素晴らしい描写ですとかやっている連中のことである。こういうレンズ交換が遊びは、文化的に見たらマイナスだな。私は40代から70代までプラハに捕まっていたので、もうプラハには行かないつもりである。それで私のプラハ生活を34年間支えてくれた。プラハのアトリエが別に意識したわけではないが、このエプソンの写真集の表紙になっている。それで、私の個人的な興味なのであるが、表紙の写真を見ると窓の部分が鉄になっていることがわかる。今では全部アルミサッシになっているから、この建物が1930年代に建設されたことの証拠である。とにかく住みにくい環境であって、夏はシャワーを浴びて水で濡れた体のまま部屋にいて気化熱で体を覚ましていたし、真冬はガスストーブの聞き方がほとんどダメであった。それが2005年ごろにアトリエを大改装して、今のモダンな二重構造のアルミサッシにしたのである。こうなると窓をいっぱいに開けて空気を入れることもできるし、暖房の効果も高いから、アトリエは私が暮らした最後の15年間ぐらいは非常に快適な場所になった。2023/09/16 06:12:5023.名無CCDさん@画素いっぱい6fT7W朝日新聞の人気連載漫画ののちゃんと言うのは9000回以上毎日やっているらしい。私がこの漫画を気をつけて見出したのは30年近く前なのである。それで不思議なのはサザエさんと同じであるが、登場人物は全く歳を取らないと言う不思議な時間の中に生きているわけだ。紙兎ロペと言う漫画は、猫の中田さんから教えてもらって、つい最近ファンになったのであるが、そのオリジナルの店というのが葛飾区にあって、隣が床屋さんと言う作りになっているが、私はこの店のオリジナルの状態を知っていた。葛飾区ではなく、豊島区雑司が谷の奥にある角地の八百屋さんであって、1時はドラマの撮影などにも使われていた。その後しばらく閉店になって1年位前であったが、そこがラーメン屋さんだったので、1000円のラーメンを食べて、冷酒をいっぱい飲んだ記憶がある。そのラーメン屋さんが紙兎ロペの撮影現場だと言うので、人が集まってくると言う事はあるのかな?それで漫画の中でよく見ているのであるが、この写真に出ている警察官の左側の道路表示である。一方通行の表示であるが、そこに漫画の中では、田中さんを除くと書き込まれているのである。それで私などはその道路標識の指示に従って、ここは一方通行に歩行者として入っていったりする。写真のワークショップで三越の本店前をウロウロしていた時に、当時の三越の経理部長さんだった人が私に声をかけてくれた。それでその時は中央区のお祭りでソーマの馬追の実演があって、馬が一方通行の出口に逆行して入ったのである。そしたら経理部長さんは馬と言うのは、交通分類から言うと、軽四輪になるから、一方通行無視で入ったのは交通違反であると。2023/09/17 16:45:5824.名無CCDさん@画素いっぱいiFACD続編 佃日記 2003年 5月 15日 (木)大雨。私がパリに居た時には、東京では豪雨があったらしい。それは知らないので、今日の雨、隅田川の向こう岸の見えない雨は、いかにも東洋であるな、という脅威を感じる。銀座。クリエイトにてアサヒカメラの連載のライカl型で撮影したモノクロプリントを受け取る。一瞥して一驚したのは、そのデテイルの細かさである。旧エルマーは実に優秀なレンズだ。ネガで見ている時には、こんなに焼くパワーを秘めているとは思えないのだけど、プリントになってみたら、パリの舗道を行く男性と彼の連れている白い犬と、男性のもっている6本のミネラルウオーターと道路を隔てて反対側の店の様子が、逆光の中に遺憾なく再現されている。ライカM7などは、もう要らない!と言いたいほどの、優れた描写なのだ。こういう事実に、世の中のライカファンが気がつかないのは、ライカ社の為には幸せなことである。銀座線にて上野広小路まで出て、大江戸線にて両国経由で帰宅。夕刻になっても雨は激しい。ボーイング社のHPを閲覧する。その中で、特にボーイング777の300ERの試験飛行とロールアウトのお披露目パーテイのビデオを、リアルプレーヤーで見る。小さい画面と不自然な音声はなかなかの臨場感だ。ハイビジョンよりも確かなリアリテイがここにはある。それにしても、ボーイングの最高責任者の言うインタビューのコメント(別にボーイングに限らないが)は、常に我が社の市場占有率の拡大と、ビシネスの成功であるとは、あまりに退屈である。飛行機の中で上映される、3流のアメリカのラブロマンスのストーリーなみだ。2023/09/22 00:24:0825.名無CCDさん@画素いっぱいTA4lmソニーがデジタルカメラに進出して、1番最初に出した一眼レフがα 100である。それまでのミノルタのノーハウをそのままもらってきて、カメラのネームをミノルタからαに変えただけのカメラである。その当時私はソニーとちょっとお付き合いがあってお手伝いをしていた。ソニーの関係者の話によると、ミノルタの本社と工場は堺市にあるからそれは遠いと言うので、新大阪駅のすぐそばに事業所を作ったそうである。別にスポンサーであるから、α 100を使ったと言うのではなく、当時私はこういうカメラを持っていなかったから、ソニーから貸してもらったカメラでついでに広告の仕事もやった。エキスポが上海であるとか言う数年前にα 100を持って撮影に行って、大きなポスターを作ったりした。もっとも、その大手の企業のポスターと言うのは、中国の若い男女がエキスポの会場の橋の上で未来をワクワクして眺めていると言う作り写真なのである。モデルさんは最初はスタジオでモデル選びをして、本番では橋の上に立ってもらって、その他色々な30カット位のショットをα 100で撮影した。そこで、カリスマレタッチ屋さんの登場となって、素晴らしいB0サイズのポスターができたのである。私はカリスマレタッチ屋さんの素材を提供しただけに過ぎないけれども、アマチュアカメラと言われているAPS-Cのそういう安カメラでちゃんとした仕事ができるのには撮影した私自身がびっくりした。そのα 100はソニーに返却してしまったが、それから10年ぐらい経ってネットオークションで安く手に入れて使ってみたらなかなか使い勝手がよろしい。新型ソニーカメラの追っかけ部隊は、そういうのは全く評価していないと言うのは情けない連中だなそれでこの作例は、α 100 300ミリのソ連製望遠レンズ、フルシチョフ第一書記はカメラが趣味でこのレンズ愛用していたそうであるが、部屋から永代橋にαを向けて息を吸って止めて、シャッター速度は2分の1秒であった。私は生きている人間だから、息遣いがカメラぶれになっているが、それはそれで良いと思う。2023/09/23 07:10:2126.名無CCDさん@画素いっぱい9zXWcモスクワの蚤の市でカメラを漁っていたらKGBの人にミスター田中KGBのスパイカメラ買いませんかと言われた件私の本でロシアカメラがむせぶ夜はというのがあるんだけど今読み返してみると面白い。ことの発端はさっきタワーの1階で仕事をしていたらクロネコヤマトさんが私を見つけてカメラを到着したやつを届けてくれたのである。つまりクロネコヤマトは私が誰であるかを認識しているわけだ。20年位前のストーリーであるがクレムリンから赤旗が降りた後にモスクワの写真集を撮影に行ったのである。モノクロームの写真集でそれはアメリカの何とか言う団体のプライスを取ったりしたのである。それで蚤の市でカメラを漁っていたら黒ずくめの青年が私に声をかけてきた。ミスター田中KGBのスパイカメラ買いませんか?と言うのである。アメリカン・エキスプレスが日本で活動を始めた頃の広告に、外国では誰も私を知りませんというのがあって面白いと思ったがモスクワではKGBが私のことを知っているのである。これをどのように解釈したら良いのだろうか?KGBのスパイカメラが値段が2500ドルだと言うのでちょっとオペレーションしてみてと言ったら彼は私から3メーター位離れたところで16ミリのハンドバックの中に隠したムービーカメラなのであるがそれを回転させてみた。あたりに響き渡るような映画カメラの回転音であった。その時私はレーニンがずっと暮らしていたと言う赤の広場のすぐそばのホテルに泊まっていた。それでキャッシュディスペンサーでアメックスのカードで何百ドルかの金を下ろしたのである。それが印刷したばかりのルーブルみたいな感じの真新しいフランクリンルーズベルトの100ドル札だった。ニューヨークでは20ドルしか見てないので偽物ではないかといぶかしく思ったのである。そんな回転音の大きなカメラはいらないよと言って中古カメラ業者さんの店を見て3秒ぐらいだったと思うけど振り向いたらその黒ずくめの青年は既になかった。この身のこなしは結構すごいものであって、数年前夏の暑い盛りに赤羽の高台の上ですれ違った人が地元の氏神様であったことが思い出された。ステテコ姿のハゲの小さなじいさんでペットボトルを下げていてこればっかり飲んでいると私みたいになっちゃいますよと言うので誰かなぁと思った瞬間にあーこれは氏神様だと思って2秒後に振り返ったら姿がないのである。2023/09/25 16:15:4327.名無CCDさん@画素いっぱいgjYhh数年前のことになるが、我楽多屋のにだいめさんとこの界隈を歩行してなかなか面白かった。こちらは平気な顔をして、にだいめさんを案内しているつもりだが、その道の方向が分からなくなってドキドキしたものであった。赤羽の丘の上と言うのは、それなりに見晴らしが効いて、なかなか胸が空く感じがする場所である。その土地の感じがどこかの街に似ていると思って、坂上まで来て思い出したのが私が長年住んだプラハの地形に似ていることに気がついたのは、これもわりと最近のことであった。プラハは緩やかな丘と結構深い谷が交互に連続している地形だが、その連続というのが東西に広がっているのである。赤羽のこの地域の場合は、それほど複雑な繰り返しではないけれども、やはりプラハの土地の傾きに似ているのだ。今はもう取り壊されてしまったが、かつて社会主義国の頃にチェコの迎賓館として使われていたところがあって、世界の大統領とかトップアーティストとかその頃の日本の皇太子殿下もお泊まりになった施設がある。そこが今では高級ホテルになっているので、私が住んでいたプラハのアトリエから遠くないので2009年に宿泊してみた。風景の感じがこの写真と結構似ているのである。ところで私がこのカットで気に入っているのはチューリップが自由奔放に咲き乱れていると言うことだ。数年前から私は冗談で自分はお花がライフワークであるなどとふざけているが、この写真がその代表的なサンプルと言うわけだ。カメラはライカでレンズは戦前のソ連製の28ミリ。2023/09/27 07:50:2128.名無CCDさん@画素いっぱいJdJeAインターネットが登場するずっと前の写真の時代であるから、写真が必要になるとフォトエージェントから借り出すわけである。そのストックフォトを撮影していたのが小松さんであった。車で長距離を走るというのが、このビジネスの成功失敗を決めるものであるらしい。1970年代に同じ職種の写真家で糸数さんと言う人がいて、彼は数年前に昇天してしまったのであるが、糸数さんの武勇伝もすごくて、シトロエンの高級車をぶっ飛ばして1日に1000キロ以上走ったりするのである。だからおしっこはペットボトルにして走ると言うのはまるで宇宙飛行士のようだな。そのように急ぐ必要がある仕事と言うのも存在したのであろう。小松さんの車での移動ネットワークと言うのもすごくて、型遅れのルノーに乗っていた。それでウィーンに住んでいた近藤くんと言う写真家志望の人と友達になって、いろいろ東ヨーロッパにも行ったようである。それを思い出したのは、70年代に活躍して有名な文化人であった大学の先生がいて、ウィーンの連中がその先生に触発されて、Oh! Jananと言うゼロックス雑誌をウィーンで出していた。レベルとしては、学生新聞以下のものであったのであるが、環境活動家の先生の関係かどうかは知らないけれど、紀伊国屋書店にそのゼロックス雑誌が並んだとか言う話がウィーンにまで伝わってきて騒ぎになった。ゼロックスの写真帳と言うのは、神話になりやすい。天才荒木が作ったゼロックス写真集も実際に販売したかどうかわからないけれども、数はしれたものだろうし、尊敬されすぎて復刻版ができてしまったプロボークにしても私等は頼まれて20冊ほどあてがわれて、友人知人に売ったのであるが、数冊が売れ残った。それはまだ家のどこかに残っているはずだ。ウィーンに来たときに、小松さんは意気投合した近藤くんの家に宿泊していたりしたらしい。ウィーンの西のはずれにある一戸建てで、かなり大きな庭のついている古い家だった。当時の私の友人関係としては、まず古屋誠一がいて、山本寛がいてと言う日本人の小さなネットワークであったが、そこに新しく入ってきた小松さんはなかなか人気者だった。それで近藤君と一緒に、小松さんはハンガリーとかルーマニアのほうに車で一緒に出かけたらしい。2023/09/29 06:03:4529.名無CCDさん@画素いっぱいwHMcBん私はデジタルカメラはほとんど使っていなくて、唯一使うのはiPhoneとiPadだけだ。それで十数年前に真剣にやっていたのは人に工事用のカラーネガフィルムを100本買って、それにこういう種類のカメラを使って撮影したものをスキャンしてそれを印刷物にしたり、オンラインでアップしていたりした。その理由と言うのは、色彩の再現性がデジタルカメラに比べてかなり自由がきかないので、そこにフイルムで撮影したと言う不思議な臨場感がにじみ出てくるのが好きだったのである。でもその後考え方を変えて発表する。色のついた写真は全部iPhoneとiPadで撮影することにした。フィルムはモノクロームしか使わないと言うふうに表現の方向変換させたのである。このカメラはウィーン時代に初めて使いだして、それ以来なかなか気に入っている。面白いのは、当時のソ連のカメラのレンジファインダのクラスとしては、ゾルキーというのがあって、これは世界初の宇宙飛行士。ガガーリンも愛用していた。カメラであるが、ゾナレンズ50ミリのコピーのF2と言うレンズが付いていた。こちらもフェドカメラはそれより階級したと言う認識なのか、標準レンズは50ミリ2.8なのである。私はF2と言う絞り開放で撮影することもないし、ef 2.8-50ミリレンズで充分なのであるが、そのef 2.8レンズですが、開放で使った事は私の記憶ではほとんどない。ウィーン生活時代の結構記憶に残るポイントはこのカメラは巻き上げが重いのであるが、フィルム巻き上げを1戦回ぐらいやると中で油が循環するのかどうか知らないけれども、巻き上げが軽くなるのである。それで1970年代には、インターネットも何もなかったから、その代わりに夕方から深夜にかけて、このカメラの素振りをして、右手の親指と人差し指が痛くなる位シャッターを切ったものだった。このカメラのプロトタイプと言われているモデルがあって、それはレンジファインダーの窓が0ではなくて資格なのである。ところが不思議なことにそのレンジファインダーの四角い窓と言うのは、単に日本の美術でパーツがカメラ本体に取り付けられているだけなので、フェイクなのか本物のプロトタイプなのかわからないと言うところがこのカメラの魅力かもしれない。2023/10/01 06:53:5930.名無CCDさん@画素いっぱいEiDduドブチェックのプラハの春を見て、ゲバラはこんなのは本物の社会主義ではないと憤慨したそうだが、カーター77関係の自由化を目指すぜ。子の文化人にとっては、ボルシェビキ政府に守られた革命家がプラハに潜伏しているなどというのは、最初から相手にしていないと言うところがあった。だから、政治的なバックグラウンドはここでは触れない。ゲバラが来日したのが1959年で、どうも彼はその時にこの手にしているニコンエスツーを買ったらしい。レンズはニッコール5センチ、1.1のインナーバイオネットと言うところがコレクターズアイテムで渋い。私もこのレンズを使っているのであるが、実は大きなレンズだからフォーカシングが硬くて大変なのである。つまり欠陥商品だから、日向がすぐにもっとフォーカシングがスムーズな外爪のバイオネットを作ってそれを流通させたわけだ。さらに詳しく見ると、各メーカーが使っているニコンエスツーは、後期モデルのフィルムカウンターとシャッターダイヤル設定がブラックのやつである。革命家の姿を記録した。写真集を結構細かく見たことがあって、写真撮影はゲバラのかなり重要な趣味であったらしい。数多くある写真の中でニコンを構えているのは多くは無いけれども、その中で私が注目したのは、ニコンのボディーからレンズを外して何か他のレンズに交換しようとしている瞬間の写真がある。しかし残念ながら交換レンズが何であったかがわからない。レンズマウントしか見えていないのであと数秒後に撮影すればレンズ交換したゲバラの写真術がわかったのに残念である。しかし、下腹が1番偉いところはCIAに殺される。ちょっと前に、彼はこのニコンを友人の医師が持っていた。コンタックスレンジファインダモデルのキエフと交換したのだそうだ。ここら辺が革命家の革命家たる所以である。そのカメラは今はゲバラのミュージアムに展示されているのであるが、その展示の仕方が単にウインドウの中にいい加減にカメラが転がっているだけなのが面白いなと思った。まさに革命家のカメラであるといえよう。2023/10/03 06:06:0931.名無CCDさん@画素いっぱいMQRJeこの本は定価3600円+税金と言うことになっているが当時の事だから消費税は5%だったのかな?この10年位なかなか発見できない本になっていて日本の古本屋などでリクエストをかけているのだがなかなか浮上してこないようだ。定価よりも高く売っている場合もあるしオンラインで見たら999円で出ていたこともある。しかし全般的に品薄であることには変わりがない。この新書版の写真集は将来作るためのちゃんとした写真集の予告編と言う形で出したのである。それから25年が経過してハードカバーの本版の写真集が出たわけであるが当初の計画ではハードカバーで500ページ位の本を考えていた。これは25年前の話なのである。でも時代が変わってしまったので昨年出したハードカバーのスクエアなページ数はあまりない薄い本の方が実際の写真集としては役割が大きいのではないかと考えるようになった。それで一応昨年のハードカバーの写真集を東京ニコン日記が予告編とすればそちらの方を本編と言うふうに認識しておこう。^_^銀座や新宿の中古カメラ市に行かなくなって20年近くになるがそういう会場でカメラジャーナルの出版社が出店していた時は私もお付き合いでサイン会などに参加させてもらった。それで100人ぐらいのお客さんが列を作るようになると1人の方に1分かけても140分になるからそういう時は黙ってサインをさせてもらうだけである。しかし東京ニコン日記にサインを求める読者の方は私も1番嬉しいのでついつい30秒ぐらいお話をさせていただいてますます列を長くしてしまったりする。それで東京に行くん日記の見開きのページのこの左側であるがこれがオリンパス35で撮影したものだ。右のほうは建て替える前のブリヂストン美術館のエントランスのところでこれは鏡に映ってるからライカM2を構えているのがわかるが、言うのも愚かではあるが左側のオリンパスワイドの撮影した作例とライカで撮影したのとで描写が非常に異なるなると言う事は無いのは言うまでもない。2023/10/05 08:14:4032.名無CCDさん@画素いっぱいAhDWLコレクターの間でコンタックスの出っ張りと言われているこの現象は単純に考えてみればカメラの裏蓋を止めているフイルムプレッシャープレートを固定している金具が腐食してそれが出っ張ってカメラの側の貼ってある部分を押し出しているわけである。それがドレスデンで作られたカメラとシュツットガルトで作られたカメラに全く同じ問題が発生しているというのが非常に面白い。カールツアイスは世界で最も進化したカメラメーカーでありレンズメーカーであるはずだから彼らが作っているこのカメラ本体裏側の出っ張りと言うものはネガティブイメージであるからそれを改良して出ないようにするというのがごくごく普通のカメラメーカーに対する考え方である。ところが東ドイツで作られても西ドイツで作られても同じ出っ張りが出ると言う事はカールツアイスの会社は西でも東でもこれはコンタックスをコンタックスたらしめている非常に重要な性能の1部であると言うような認識をしているのではなかろうか?それで私などはこのサイズの出っ張りはカメラをホールドしたときの親指のフィンガーチャンネルとして使いやすいと言うような認識をしているのである。いやこれは冗談で言ってるのではなくて本当にその出っ張りがしっかりしたものだからちゃんと指係として使えるのは事実なのである。2023/10/06 07:15:1633.名無CCDさん@画素いっぱい4xJff確かウィークリーレートで128ドルだったな。当時の日本円のレートは280円だったからその界隈のホテルとしては安いけれどもやはりかなり高い宿泊料である。それで3ヶ月経過したらキャッシュバックがあったのにはびっくりした。要するにウェルフェアの人と勘違いされたわけである。しかしいまだにウェルフェアだからそれはそれでニューヨーク市当局の私の見定め方は正しかったわけだ。48丁目から8 × 10インチの大型カメラを担いでセントラルパークに撮影に行った。当時のトライエックスの8 × 10インチの25枚入りのフイルムは確か60ドル位だったと思う。その撮影済フィルムをたくさんストックしておいて1983年の夏の数ヶ月ウースターストリートの大きなロフトに^_^暮らしていたのでそこで現像をした。タイトルは春のセントラルパークと言うことで撮影したのであるがこれには結構シニカルな意味が込められていてニューヨークが春で素晴らしいから春のセントラルパークとタイトルをつけたわけではない。単なるプロジェクトのコードネームとしてつけただけの話である。メトロポリタンミュージアムの辺りまで北に行くと風景はちょっとセントラルパークも変わってくる。それでちょうどこの樹木Dog Woodの花が咲き始めたところを撮影した。この作品は非常に好きなものなのであるが素人ウケしにくい作品である。素人ウケすると言うのはミュージアムとかBrooklyn Bridgeが写っているのが人気があるのである。それで23年来田中長徳ギャラリーと言うオンラインギャラリーを展開しているのであるがその販売している作品の中で人気のないものなのだがこれを手に入れるコレクターはかなり写真がわかっている人だと思っていた。それでこの間この作品が売れたので私はそのコレクターのレベルが結構高いと言うことを言っておきたいのである。樹木と言うのは不思議な存在であってニューヨークにはもともと樹木がないから大切なのである。フルクサス運動の創始者常時マチューナスは漏話マンハッタンのウースターストリートに住んでいた。彼が植えた1本の樹木はポリスが撤去しろと文句を言いに来たのだがそれを撤去しないでそのまま何十年も経ってウェスターストリートで唯一の巨大な樹木になった。そのことはジョナスめかすも書いている。2023/10/08 06:30:2034.名無CCDさん@画素いっぱいzTwTLそのダニエルズであるが50年前は非常に高価なお酒であって日本で買うと8000円位した。それで日本デザインセンターの友達の高木くんが香港に行くと言うので1本買ってきてもらったことがある。彼に買ってきてもらったのはジャックダニエルズのほかに中国製の2眼レフシーガルであった。私が中国製の2眼レフが使えると言うことを初めて知ったのであるが、その当時の取扱説明書がまたすごくてその表紙には工場が立ち並んで煙突たくさん煙もくもくというのが国を発展される象徴的シンボルなのである。1970年代終わりにまだ共産主義バリバリの東ベルリンの劇場フリードリヒパレスに行ったときのステージの緞帳も工場外立ち並ぶ嵐で煙突たくさん煙もくもくのデザインだったのでこれはポジティブな絵柄であると思われる。香港から高木くんが買ってくれたテネシーウイスキーの値段は2000円しないと言うので私は感動して香港に永住したいなどと馬鹿を言っていたのである。それからずいぶん世界中を仕事で旅行して飛行機の中でもたくさんお酒を飲んだが1番飲んだのがジャックダニエル着で2番目はカルバドスであった。ビジネスクラスで旅行している日本の皆さんを見ているとCAさんが最初に飲み物を聞きに来るととりあえずビールとか言っている。酒の好みとオーダーの仕方と言うのは生活環境に深く関わり合ってくることがわかって面白かった。ジャックダニエルではいろいろなノベルティーグッズを売り出しているので1時はアパートメントの中がジャックダニエル子のスピークイージーみたいな感じになってしまった。この間聖路加病院に行った時に診察の待ち時間にコンビニから買ってきたのはこの間である。テネシーウイスキーのソーダ割だと思って飲んでみてびっくり。コカコーラが中に入っているのかと思った。血液検査なんか終了した後だからこういうものを飲んでも別にドクターに叱られる筋合いは無い。2023/10/09 07:18:0435.名無CCDさん@画素いっぱい7QnFV1980年に日本に戻ってきたらしばらくしてM6が登場したのでこのカメラ値崩れしたので安く手に入れることができた。それで1時はごだいぐらい持っていて海外の取材で使った。トップカバーが広いので長い期間の海外取材等では退屈なのでそこに手元にある各種雑多なシールを貼って遊んでいたのである。撮影してる瞬間と言うのは仕事の写真であるからノーファインダーで撮影する事はなくてちゃんとライカのファインダーを覗いて構図を決めて撮影するのはプロ写真家として当然である。それでオフの時間帯は何を見ているかというとやはり手元のライカをじっと眺めていたりするのだ。そこで退屈であるからヨーロッパの地元の八百屋さんで買ってきたトマトのシールを貼ったり、スーパーで買ってきた安い栗羊羹のシールを貼ったりするのである。そのシールを貼って20年ぐらい経過して気がついたことだが。日本の栗羊羹のシールはすぐに印刷がフェードアウトして色が薄くなってくる。ヨーロッパのトマトのシールは今でもくっきりしている。最近ではこのカメラの値段も底を打ったようであって少しずつ値段が回復している。それで複数台持っていてもいけないので1部をネットオークションに出した。シールがベタベタ貼ってあるので使うときにはシールを剥がしてからお使いくださいとネットオークションのコメントに書いておいた。ローマで出会ったミュンヘンから来たと言うカメラ女子が使っていたのはバルナックライカでそれはおじいさんが使っていたカメラであると言う説明を聞いたことがある。それと同じでデジタルカメラの命は短いけどフイルムカメラの命が長い。2023/10/10 23:28:2436.名無CCDさん@画素いっぱい3k91D子供の時に見たときには気がつかなかったけれど、第3の男の映画には1種のちゃんとしたリアリティーがあって、関係者が話しているのは英語であるが、カフェに入って90人に注文したり、あるいは街中で何か買い物をするときは、ちゃんとオーソンウェルズはドイツ語。しかもwin訛りで注文をしているところがリアリティーがあってよろしい。それと1連の映画の進行状態で、巨大な地下水道の空間が描写されているが、私は写真集の必要があって、そこに前後に開取材許可を出して撮影に入ったことがある。最初に取材した時は、警察の管理下にあって、制服の警官と言うよりも胸まであるような長いゴムの長靴を着てヘッドライトをつけた。本物の専門のポリスが同行してくれた。そのショットは私の写真集ウィーンとライカの日々に出ている。2度目は管轄が変わったのかどうか知らないが、winの下水道局の人が案内してくれた。それでwinの大観覧車であるが、これは立っている。ロケーションが非常に悪いところにあって、上からウィーンの旧市街を一望するようなことは絶対できないと言うような構造になっている。だから19世紀の終わりにこれに上った連中は眺めが良くない蔵金返せと言うので、よく暴動が起きなかったものだ。直大観覧車に乗るのが退屈である。我大観覧車をwinの風景の1部として眺めると言うのはなかなかすばらしいことなのである。このショットは85ミリレンズでウィーンの外周を結んでいる。高速電車の中から撮影した一瞬の光景なのであるが、なかなかうまく撮れていると思う。2023/10/13 07:32:0437.名無CCDさん@画素いっぱいAfgguそれで50年以上レオタックス で撮影をしてきたわけだが、今回大発見があった。このモデルが戦後に作られたのであるが、スタイルとしては完全に戦前のライカである。1947年にライカ関係のレンジファインダーに関するパテントが無効になったので、それでライカと全く同じカメラが作れるようになった。1938年の当時にはライカのパテントが有効であったから、距離計とファインダーの位置関係がパテントに抵触しないように作ったために、レンジファインダベースが23ミリメーターと言う非力な距離を図る能力であった。私が使っていたこのシリーズのカメラは今にして思うと、ダイカストタイプでボディーが大きくなってからのシリーズなのである。それで今まで板金加工のクラシックなレオタックスを使う事はなかったのである。それが昨日のことをネットオークションで初めて手に入れた。1番びっくりしたのは、その仕上げが非常に優秀で、本家のライカカメラよりも優れている位のものなのである。レオタックス古谷さんが言っていた言葉が思い出された。ライカスリーシーの頃のライカカメラの制作ですが、あそこら辺はあまり良くありませんね。 今にして思うと、この一言が真実であったと言うことに私は理解できるのである。このすぐれたカメラの落札価格はたった1400円だった。2023/10/14 14:02:2738.名無CCDさん@画素いっぱいxBYwq30年位前にロンドンのビックベンがデジタル化されたと言うエイプリルフールネタがあって、世界中が引っかかったのである。日本の知識人をお連れして、らいかワークショップをやったときに、銀座4丁目の和幸の前でその話をしたら、慶応大学の先生が引っかかった。本当にそういうことがあったのだと信用てしまうのである。学識経験者の方が引っかかるね。それで銀座和光ミッキーマウスで検索したら、ウォルトディズニーの生誕100周年か何かを記念して1ヵ月だけネズミの大きな時計になったそうだ。それでセイコーの時計の社長さんとかディズニーの関係の偉い人が出て、つまらないことを言っているのは業界記事に掲載されているが、トップの挨拶と言うのはいつもあまりにも退屈だからやらない方がスマートなのだ。イーストマン・コダックの会社のオフィシャルディナーに30年近く前に呼ばれてケルンで食事をしたことがあるが、コダックのトップのステートメントが、我々の目標は売り上げの向上とシェアの拡大であります。などと言っているとああ言うことになる。びっくりしたのはディズニー関係の偉い人の風貌が、空気の抜けたれいわ新選組の山本太郎と言う感じなので、さらにびっくりした。ミッキーマウスの腕時計と言うのは、昭和天皇に会いに来たアメリカの大統領がプレゼントして、昭和天皇はそれをずっと使っていらして、外国の訪問の時にもつけておられるので、それが話題になったこともある。アメリカに負けた日本らしい象徴的な受け入れ方を昭和天皇はなさっていたと言うことか。2023/10/16 12:18:2939.名無CCDさん@画素いっぱいMqRlq1950年代半ば過ぎだと思うが、彼がこのカメラつまりRiken35で撮影した佃島の1連の写真が非常に良かった。私が住んで、すでに30年以上になる石川島、播磨重工の敷地の様子も、彼は利権35で撮影している。理化学研究所の長い歴史の中で、1番最後のRIKEN と言うカメラブランドがこれなのである。特に1950頃の隅田川のショットとか佃の渡船のショットがよろしい。なぎら健一さんと何かで対談をしたときに彼は小学生の頃に渡船に乗って、佃の小学校に喧嘩を売り込みに行ったそうだ。そういうのは武勇伝には違いないが実際に撮影された佃の渡船の方が強いのは言うまでもないそれでこの利権カメラと言うのは探すとなかなか存在しないのである。理化学研究所の名前に関係のある最後のカメラだからな。ミスターリコーが使っていたカメラが素敵なのは当時の最新型ではあるが、それに自分なりにカスタマイズをして、佃島のスナップを撮影したと言うことだ。ミスターリコーはまずレンズ関係のセルフコッキングのメカニズムを隠している。金属カバーを外している。そうなるとレンズシャッターをチャージするときのレバーが外から見えるから機械的な美学がそこに結実する。それとミスターリコーは巻き戻しも改造してクランクが使えるようにしたそうである。カメラメーカーさんの関係者がやっているから、何でもできると言う所が素晴らしい。資料を調べると、1954年に登場した1番最初のモデルの利権35カメラは、自社製のシャッターを使っていて、これが最高速度100分の1秒までだっそうである。私のようなスナップシューターはカメラを振り回すタイプの写真家だから500分の1秒までが使いたいシャッターユニットである。それで私が最近手に入れたカメラもミスターリコーが改造して使っていたカメラも当時の最高級シャッターである。成功者ラピッドが付いているので、これは500分の1秒までシャッターが使える。フォーカルプレーンシャッターを出しているニコンやキャノンではなかなかできない技であって、高級なカメラにしたければ、そのシャッターを交換すれば良いと言うのはなかなか合理的なカメラのプロジェクトだと思う。それにしても、このカメラのロゴタイプと言うのは非常に進んでいたと思う。2023/10/18 06:51:3540.名無CCDさん@画素いっぱいQBUuuでも、それ以前に、私はこのビルには何度か入ったことがあると言うのは、友人がここで写真スタジオをやっていたからである。でもその時に草森さんがここに仕事場を持っていると言う事は、当時は知らなかった文芸評論家、福田和也さんの勧めで雑誌、タクシーで連載を始めたのは、草森さんが亡くなって数年後のことなのである。それで私は草森さんのことを思い出そうと、この茶色のビルに見学に行ったのである。草森さんは写真もなかなか写真評論だけではなく、撮影も腕が達人であって、よく記憶しておるのは、雪の降った日に、隅田川の永代橋のあたりを部屋から撮影したモノクロのショットである。今のマンションなどが売りというのがリバービューと言うことになっていた。けれど、この茶色いマンションは非常に古い建築年代らしくて、せっかくの代わり面した方向は壁なのである。もっとも草森さんは30,000冊以上の蔵書を入れるために、なるべく壁の多い部屋というのがリクエストであったから、それはそれでよろしい。それで東京に大雪が降った時に、草森さんはそれを取ろうと非常階段のドアを開けてカメラを持ち出した。その非常階段の方向がリバービューと言うのは何か皮肉っぽくて面白い。古本屋さん協会のニュースレターでしたのであるが、草森さんの膨大な場所は色々と行き先に迷った。挙句に幸に彼の出身の北海道の帯広だったかの廃校になった小学校のスペースに終の棲家を得ることになった。そこまでのいきさつがドラマみたいにワクワクするのである。ぎっしり詰めた大きな段ボールで700個あったそうだ。これで国会図書館並みに貴重な資料が保全されたわけであるが、例えば私などにしても国会図書館に行く事はもうなくなって、自分の見たい資料は例えば正岡子規の果物帳なども、オンラインで見るのが普通である。実物主義というところから、データをオンライン主義に移動しているのは間違いがない。2023/10/20 06:42:3841.名無CCDさん@画素いっぱい2Kn5Pそれで本物のカサブランカのカサブランカ状態の光がどういうものか知りたいので、カサブランカに来たのである。それで旧市街の白い建物が、北アフリカのまぶしい光に照らされていると、まさにカサブランカ状態であると言うことが納得できた上が旅の大収穫であった。ツーリストの皆さんは、カサブランカの巨大なモスクに行くようである。私はカサブランカの路地裏を撮影して歩いているうちに、自分の意思とは関係なく、街の北の海岸にメールした。つまり地中海を超えて1戦キロ北に進むと、ポルトガルなのであるが、その巨大モスクを見て、不思議な錯覚に陥ったことがある。モスクのミナレットと言うのは、ジョンソンスペースセンターのサターンロケットみたいなもので、実際にジョンソンスペースセンターに黒人初めての宇宙飛行士を取材に行ったことがあるのだが、林のように立っているロケットを見て、私が第一印象として持ったの上、おやこれはイスタンブールじゃないかと言う印象なのである。ところが、私を驚かせたのは、カサブランカ最大のモスクのスタイルというのがミナレットが円筒形であると言う存在がないので、私の印象としては間違ってロンドンのビックベンを見に来てしまったのではないかと言う不思議な感覚であった。それでツーリストは入場料を払ってこのビックベンを見学に行くのであるが、私は中に入らないで、もうちょっと進んだところの岩場の海岸めいたところにまで行って、そこで泳いでいるカサブランカの若者を撮影して、そのまま踵を返して、自分の住むホテルに戻ってきたのであった。それでも大西洋の波打ち際を見て、この北1000キロにポルトガルが存在して、大昔はレコンキスタでいろいろあったんだなと言う。ポルトガルの存在感を身近に感じたのである。2023/10/23 14:58:3642.名無CCDさん@画素いっぱいiSQw6正岡子規はなかなか写真に対する理解があったようで、お弟子さんが持ってきたステレオ写真を非常に高く評価していた。その中で面白いのはステレオ写真を立体で見ると言うのは誰でもできることではなくて、ものを見る感覚の鈍い人は何度試しても立体的に見えないと言う。かなり鋭いところを指摘している。このファインダーを正岡しき人の拭いてもらったら、彼は視神経がちゃんとしているから、片方の目でファインダーの実際の光景を見て、もう片方で35ミリのブライトフレームのラインだけを見て、それを頭の中で合成してちゃんと確認することができると思う。大昔はカメラ屋さんでこのファインダーを手に取って、これは壊れている。ブライトフレームだけ見えるけれども、あっちの光景が見えないと騒いだ人間が既に伝説として存在している。このフレーム、ファインダーで試合を合成すると言う事は写真を撮影する。第一段階で、まずその人間の視神経の運動能力が試されているわけである。その意味で任期がなかったのかどうか私は1960年代後半の日大の写真、学生の時は銀座ばかり撮影していて、その時銀座の交差点からちょっと晴海通りを築地に行った。右側にあったカメラ屋さんでこのファインダーが大和積まれているのを思い出す。値段もよく記憶していて、1600円であった。それでほとんど売れなくて、在庫の山の数が減っていないこともよく覚えている。実際に使ってみるとこの両方の目を開けて撮影範囲を確認する。ファインダーはなかなかよくできていて、特に暗い場所での撮影には効果を発揮する。それとライカの35ミリファインダーのようにファインダー視野の周辺で画像が歪むと言うこともない。当然のことであって、ガラスのブロックを通して風景を見ているのではなくて、人間の視神経そのもので見ているからである。2023/10/26 00:13:4943.名無CCDさん@画素いっぱいlOQjdそれで文化庁の人が私にこれからあなたが行く研究機関で何をやりたいかと言うことをその国の言葉で説明してくださいと言う。私はその時までアメリカのモダンフォトグラフィーのニューヨークのボスのアシスタントをしていたから、ニューヨーク訛りで話し始めたら1分もたたないうちに、あー田中君は英語は大丈夫だからそれで結構ですと中止させられた。三木さんは極めて江戸っ子的なキャラクターを持っている人だから、それなりに面白いと思っていたのであるが、調べてみたら倉敷あたりのご出身なのである。そういう方が逆に江戸っ子を意識してべらんめぇになったりするのかな?三木さんはなかなか江戸っ子の冗談が強い方で、東京でスノードンさんの展覧会、この人は英国王室の偉い人であるそうだが、そのオープニングレセプションにいた私を引っ張って、わざわざスノードンさんに紹介したのである。恐れ多いことだね。それで三木さんは流暢な英語でここにいる。田中長徳と言う奴は、俺より英語がうまいと言ったのだから、キングズイングリッシュのSnowdomeさんはびっくりしたことであろう。みきさんが愛用していたニコンの1番最初のモデルである。朝鮮戦争の取材で出かける時にスナイパーに打たれると嫌だからと言うので、カメラをブラック仕上げにしてもらったそうだ。ところが時間が間に合わなかったのか、このブラックニコンはクロームの上に、単にブラックペイントが吹き付けてあるだけなのである。それまで我々カメラ雀は、クロムの上にブラックペイントを吹き付けるなどと言うのは、ブラックカメラの美学に反しているから、けしからんと批判していたのであるが、三木さんのこのにわかに作られたやっつけブラックニコンを見て、これこそが本当のブラック仕上げではないかと騒ぎになったこともあった。三木さんは、当時ライフの契約カメラマンでその月給が1000ドルであった。吉田茂の月給が100,000円であるから、それよりも3倍以上の高給取りなのである。名人、木村伊兵衛さんがニックネームをつけるのが得意なので、三木さんのことを三木ライフと呼んでいた。ここら辺は結構ブラックジョークであって、高給取りの世界のライフカメラマンをねたんでいたような感じもありそうだな。2023/10/28 06:22:5944.名無CCDさん@画素いっぱいGKm0Rその写真家で登山家が言うには、例えばボールペンとか鉛筆を持参する時も重さを減らすために半分にちょんぎるのだそうである。それで感心していたのであるが、鉛筆を半分にちょんぎるのはわかるけれども、ボールペンを半分にちょんぎるとインキが出てきたりして面倒であろうと言うことをその写真家と話して20年以上が経過した。さっき思い出したのである。これはおそらく私の記憶の補充性によるものであろうから、鉛筆のことを言っていたのだと思う。エベレストに最初に上った。ヒラリーは同行の天神にエベレストの頂上で写真を撮ってもらっているが使っていたカメラはレチナカメラであった。ヒラリーが地上で使っていたのはコンタックスのレンジファインダカメラであるから、やはり登山家は少しでも軽いカメラと言う事を選んだのであろう。アラブ系頭のどこかの航空であったと思うが、ドーハであったかドバイであったか覚えてないが、飛行機の関係でファーイーストからヨーロッパに行く時は真夜中だから、飛行中は真っ暗である。しかし帰りの便ではちょうどいい時間帯にタクラマカン砂漠とかヒマラヤの上を飛行するのである。すると進行方向の右手すなわち南側にこのような素晴らしい光景が展開する。登山家の場合はこういう風景を見ているときは生きるか死ぬかと言う。瀬戸際で鉛筆を半分にちょんぎったり。当時としては小型軽量なリッチなカメラを持って苦労しているわけであるが、私のような非国民は、ウイスキーの水割りを片手にヒマラヤのちょっと炙ったやつを、肴にこういう楽しみができる。2023/10/29 05:52:2945.名無CCDさん@画素いっぱいQwJxU何かなぁと思って近づいてみるとこれが当時の最新型の一眼レフの搬送用の段ボール箱なのである。ついにカメラのオリジナルボックスは段ボールの箱に成り下がってしまったのかなあとヨーロッパから帰ってきたばかりの私はちょっとがっかりした。それ以前のカメラはなかなか作りのよろしい美しい印刷のオリジナルボックスに入っていたからカメラを買った人はそれを大切にして何十年もその本箱が保存されていたりする。ところがカメラの箱は段ボールになってしまうとカメラを買ったときにもういらないと言うので捨ててしまうのである。ヴィローラと言うブランドのドイツ製の小型の35ミリカメラがあって、このカメラが素晴らしいのは紅茶の缶みたいななかなかデザインの素晴らしい金属の間に入っていることだ。リコーGR-が出たときに私はちょっとお手伝いをしていた関係でリコーの人に缶詰みたいなカメラがいいでしょうと進言したのであるがそれは聞いてもらえなかった。実際に金属製の缶詰のカメラはその外側のケースが捨てられることがなくて長くカメラとその外側が一緒に保管されるから生存する時間が非常に長い。これはニコンエスツーのオリジナルボックスであるがそのデザインと存在感と高級感が素晴らしい。私は世界でも数の少ないカメラのオリジナルボックスのコレクターであるが今ではオリジナルボックスに入ったクラシックカメラと言うのはけっこうなコレクターズアイテムになっている。カメラ本体が入っていないカメラのオリジナルボックスの戦前から戦後にかけての仕上げの良いライカの赤いボックス等はガラクタ屋さんに時々出るのでそれをコレクションしている。アメリカのニコンコレクターにはすごい人がいて、オリジナルボックスに取扱説明書と一緒に付いている。品質保証書と検査完了書を研究している人がいるのである。そのためにそのアメリカの人は日本語を研究して検査完了するように押されている三文判もちゃんと判別できるそうだ。2023/10/30 06:16:3546.名無CCDさん@画素いっぱいNLxI6四半世紀前に日本で1番最初のライカのDVDを出した。その頃は書店の販売の規制がうるさかったので、本の付録と言う形にしないと書店に扱ってもらえなかった。それでDVDを挟む感じでライカ本を1冊作って、その時にお世話になったのが赤瀬川さんと坂崎さんである。その収録は大崎あたりのスタジオで行ったのだが、広い庭がついていて、そこはやぶ蚊が多い。それでストーリーの立て付けとしては蓼科の別荘と言うことになっていて、このように対談していると、やぶ蚊がどんどん襲ってくる。赤瀬川さんはブラックユーモアな人だからモスキート叩きながら、今年の蓼科はやぶ蚊が多いですねと言うので、完全なブラックジョークであった。沢木耕太郎さんに初めてホーチミンの空港のラウンジで会ったとき、私はどのように沢木さんにアプローチしようかと考えていたら、沢木さんは立ち上がってラウンジに潜入してきた蚊を両手で叩いて撃退したのである。そこで私はおもむろに立ち上がって、こんばんは。沢木さん、ここはモスキートが多いですねと赤瀬川さんにしても、沢木さんにしても、モスキートが取り持つ縁と言うことなのだ。千葉の県立美術館の赤瀬川さんのトークに応募して当たって喜んでいたら、そこに赤瀬川さんの昇天したニュースが届けられた。これは悲しいことで、オープニングレセプションのパーティーはそのまま赤瀬川さんをしのぶ会になってしまった。みんな泣いてたな、、、、2023/10/31 13:29:2047.名無CCDさん@画素いっぱい2cfPIそれでニコンカメラに憧れて。それから4年後には300倍の難関を突破したかどうか知らないが、とりあえず日本デザインセンターの1年生になった。当時のニコンの広告を見てみると、見開き画面の下のほうに小さくNDC の3つのアルファベットを組み合わせた記号が見えるのがわかるかな?日本デザインセンターは自分が作った広告にちゃんとサインを入れていたと言うわけで、これは凄いことだった。今の広告業界にそういうプライドはなくなってしまった。それで面白いのはニコンの50ミリ標準レンズでef 1.4とF2ではその価格の差が9000円もあると言うことだ。9000円は大金ですよ。もう一つ、面白いのはニコマートの広告であって、メーターの入っているニコマートよりも7000円安いのがメーターの入っていない普及型のニコマートFSなのである。日本の人の買い物は豪華主義だから、このメーターの入っていないほうのカメラは、最近はコレクターズアイテムになっている。ニッコールレンズが安いカメラボディーで使えると言うので、大人気のカメラになった。2023/11/01 13:33:1848.名無CCDさん@画素いっぱい5RajEウィーンの蚤の市などでいつも感じることであるが、時々古いアルバムが売られていて、私が残念に思うのは、業者さんは古い写真の入ったアルバムには価値を認識してないようであって、写真を全部破り撮って、アルバムの抜け殻だけを売っているのである。こちらがその中身の方が見たいのに実にけしからんと思う。それでよくかきちらしているのであるが、堀口大学は私が好きな翻訳家であって、私はフランス語はからきしダメ。だから、高校生の頃に堀口大学が訳した1連のものを読んで、サンテグジュペリなどに触れたのである。それ故、結婚して数年後にカジンガ、堀口大学の親戚にあたるという話を聞いたときはびっくりした。そしてその時から何十年か経過して、実際の証拠物件が出てきたと言う前後関係になる。他にも面白い写真は昭和天皇が樺太に行った時に何かの式典を撮影した写真もあって、それを見て私がびっくりしたのは、お付きの女官の人が天皇陛下の着ているものの、裾を持って腰を変な具合にかがめていたことである。皇室で働いている関係者の首都は腰痛になりやすいなと心配であった。私などがあの真似をしたら、まず3分でひどい腰痛になると思う。それで、この堀口大学が、おそらく20代全般と思われる頃のスナップショットであるが、場所は不明だが、父親がステージパパさんであって、家庭内の言葉はフランス語であったそうだが、メキシコの大使館に赴任するときの途中のスナップショットであろう。アウトフォーカスになっている背景を見ると、マストのついた船舶が写っているから、ここら辺も時代と言うやつだ。このショットでは堀口大学の父上と再婚したベルギー人の奥さんが写っている。それで別のショットがあって、これが面白いのだが、堀口大学の父上夫妻とベルギー人の3人のお子さんが写っているのである。それで男の子が1人いて、彼がきているのがセーラー服であると言うのも、その時代の男の子の普通の服装であったことがわかって面白い。この2つの写真を見比べてみると、この写真が誰が撮影したのかかなり正確に想像することができる。ベルギー人の3人のお子さんの中で、男の子のセーラー服が撮影した事はほぼ確かである。ピントもちゃんとモチーフに合っているし、なかなか立派な腕前である。文芸評論家の福田和也先生にこのスナップ写真を見せたら、これだけ若い時代の堀口大学の写真は珍しいと感心していた。2023/11/03 07:17:2349.名無CCDさん@画素いっぱいsQgFhハリネズミはヨーロッパではどこにもいる。ポピュラーな動物だから、アサヒビールやキリンビールに並んでハリネズミ。ビールがあっても不思議ではない。それでグロッサリーで探して早速手に入れて飲んでみたらうまかった。チェコのビールはどこでもうまいから別にハリネズミブランドになったところで甘さが際立つと言う意味ではない。プラハの町並みを歩いている時に、手書きのビールの看板であるが、そこに猫と言う文字を見つけたので、私は興味を持った。私は結婚はできないが張り、ネズミと猫の2つの単語とそれからウサギと言う単語も知っている。まず動物でこれだけ結婚を知っていればネイティブスピーカーだな。プラハの街並みを歩いている時に、手書きのビールの看板であるが、そこに猫と言う文字を見つけたので、私は興味を持った。私は結婚はできないが、ハリネズミと猫の2つの単語とそれからウサギと言う単語も知っている。まず動物でこれだけ結婚を知っていればネイティブスピーカーだな。猫はチェコ語でCockaと言うのであるが、3つ目の文字の上にちょんがつくので、破裂音ぽくなる。音で聴くとこちかと言うふうに聞こえる。チェコのビールでいつも特徴的に思うのはちゃんとアルコール度数が書いてあることだ。日本のビールはまずいけど。故に、飲む方は思い込みで飲んでいるから、度数等は最初から問題がないらしい。日本から来るツーリストの場合は、バドワイザーとかピルスナーを好んでいるが、私は34年も進んだので、もうちょっとひねくれ者になっていて、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領が好んだローカルビールをよく飲んでいた。そのローカルビールの味は佃島のスーパーマーケットで売られていた。韓国製のビールの味に割と近いので、それを何年も愛用していたが、数年前に韓国ビール不買運動があったのか、どうか知らないが、店から見えなくなってしまった。2023/11/04 06:11:0850.名無CCDさん@画素いっぱいnkQgzその当時のNHKのニュース報道だと、なかなか南と北の大勢の呼び方が面白くてニクソンさんと共産側と言うのが普通であったのもすごい。その伝統は60年経過してもいまだに保持されているようで、ロシアとウクライナの戦争の報道の仕方もロシアに天罰これでは宗教戦争の何百年前と同じとんでもない世界観である。私などはかつての北ベトナムが本当に遠い国であると思っていたので、23年前に講習から飛行機でいきなりハノイに行ったときにはびっくりした。そういう行動半径が自分が生きているときに可能になるとは思っていなかったからだ。その23年前のベトナムの経済状態は、日本の無責任な連中から言うと、世界で最も貧しいと言う言い方だったが、23年経つうちに状況が逆転して、今ではわが国が世界で最も貧しい国の1つになりかかっているのは感動ものである。宿泊したホテルは外国人のためにクレジットカードが使えるわけであるが、これは地元の会社の正体であったので、チェックアウトするときに驚いたのはベトナムのその会社のスタッフが大きな紙袋を持ってきて、そこで1000ドン札の分厚い束を何束もブロックで払うのである。なるほどなと思った。今では500,000ドンと言う高額紙幣があるから、そういうことは起こらなくなった。それでベトナムの紙幣は全部ホーチミンの症状なのである。毛沢東主席の肖像の入ったお札も凄いけど、ホーチミンの肖像の入ったお札もなかなかもう一つの記念に来たなと言う印象が強い。インドシナ戦争でフランスに対してベトナムが優位に立ったのはディエンビエンフーの戦いである。その戦争の跡地は、ベトナムの国家的な遺産となっている。ディエンビエンフーは観光地としては非常に小さな街なのであるが、そこが戦略上は非常に重要であったことがわかる。そのフランス軍の人智は文化財、歴史的記念物なので、地元の中学生、高校生などが見学に行く。私もこの場所に行ったらやってきた。地元の中学生が私を見てホーチミンと言って、記念写真を一緒に取るのを求めてきたのでカメラに収まった。ベトナム語が分からないからホーチミンという言葉しかわからなかったのであるが、おそらく太ったホーチミンと言われたのではないかと思う。体重オーバーのホーチミンは革命的じゃないよな。2023/11/11 07:39:5851.名無CCDさん@画素いっぱいu5Gb3そのデザインで1番惹かれたのはライカエム型のようにファインダーとレンジファインダーの間に光を取り入れるためのウインドウがあるのではなくて、カメラ本体の向かって1番右側にあるというのが何かメカニズムとして非常に優れていると言う印象を持ったのである。しかもその光を取り入れるウインドウがすごいのは平面ではなくて、全体が曲がった面になっていると言うのにしびれたのである。そのウインドウのプラスチックの素材が何かこの時代ではまだ技術が未熟であったのではないかと思うのであるが、その材質がまだ完璧でないと言うところに、私はカメラの技術の進化とでも言うものを感じたのである。このスーパーがカメラの売り物と言うのは、レンズシャッター式であるにもかかわらず、レンズ交換ができると言うことで、1950年代の終わりの頃はこういうカメラが結構流行であった。このカメラの交換レンズは35ミリと50ミリと90ミリと135ミリだった。1番使っているのは35ミリの広角レンズであって、この頃のロッコールレンズと言うものはグリーンのコーティングが売りになっていて、リチャードアヴェドンのアシスタントをやっていたHiroもこのレンズは愛用してアメリカのカメラ雑誌の表紙をミノルタのグリーンコーティングのレンズで撮影して、その色の具合が良いと褒めているのである。このカメラの魅力は、やはりそのデザインにあって、正面から見ると、フロントエプロンの具合などが非常にデザインとして優れている。それで何十年もこのカメラを手にして、謎がいまだに解明できないところがあって、カメラ本体の下の部分を見ていただくと分かるのだが、右と左に金属の凹みがあるのだ。普通だと複写装置などを使う場合にその凹みに複写装置の出っ張りを当てると、自動的にカメラが固定されると言うシステムであるのだが、資料などを調べてもそのようなデバイスが作られたと言う技術がないので、いまだにこの凹みの使い方の意味がわからない。そういうのはカメラの魅力を増強させるものだ。このシリーズのミノルタの1番最初のモデルは、1955年に登場したミノルタAと言うレンズ交換をできないシンプルなモデルであるが、そのカメラのデザインは全体が膨らんでいて、なかなかユニークでこれもかっこ良いね。いずれもカメラデザインのネームのロゴが凝っていて、アルファベットの上に2つの小さいドットがうってあるのである2023/11/15 09:59:4152.名無CCDさん@画素いっぱいzfroTそれでもこの会社はカメラメーカーであるから高級なカメラを作ろうと思うのは当然のことであってこのアカレックスが最高クラスのカメラなのである。1960年代初めで上アメリカの市場で結構売れたらしい。それでレンズはライカのレンズとかカールツアイスのレンズとは言えなくて3番手とは言わないけれどもレンズブランドファンには非常に人気のシュナイダーのレンズがレンズ交換して3本ついている。すなわち35ミリと50ミリと100ミリである。シュナイダーのブランドレンズがいちどに使えると言うところが魅力なのである。ライカの場合はファインダーのシステムに色々とカラクリを突っ込んでそれぞれの焦点距離に対応しているがこのカメラの場合はもっと単純明快でレンズと補助ファインダーが一体になっているのをそのまま交換するのである。ちょうどライカのカメラシステムでも35ミリとか135ミリレンズのファインダーが本体に付いているやつがあったがそれと同じ。このカメラは実際に使った人でないとわからないから癖があるのでそれをちょっと説明しておく。このカメラの巻き戻しレバーはどこについていると思いますか?巻き戻しいれば巻き戻しボタンというのは非常に重要な問題であって、何十年も前にアサヒカメラでソ連製の300ミリがついた 一眼レフカメラのレポートをしたのであるが、驚くべきことにそのカメラには巻き戻しボタンが付いていなかった。あるいは隠しコマンドでどこかについているの私が見逃したのかもしれないが未だに謎である。それでこのカメラの場合は普通考えつかないようなところに巻き戻しの切り替えの小さいボタンが付いている。どこだと思いますか?ちょっと考えつかない場所なのだが巻き上げればの1部の根元に近いところについているのだ。カメラを最初に手に入れて巻き戻しての方法を発見するまでに結構時間がかかった。カメラの謎はその他にももう一つあってレンズ交換でファインダーユニットは外れるわけであるがそのユニットを外したカメラのボディーの上にビューファインダー用のアクセサリー秋がついているのである。何のためにそこにビューファインダー用のアクセサリーShoeがついているのかわからない。しかしシュナイダーと言えばスーパーアングロン21ミリで有名なレンズメーカーであるからあるいは35ミリよりもワイドアングルのレンズをこのカメラに付けて単独ファインダーを設置すると言う計画があったのかもしれない。2023/11/18 07:40:2453.名無CCDさん@画素いっぱいIEgR1サイバーショットだと普通のサイズの普通の画質のクオリティーで確か30枚ぐらい撮影できたと記憶している。これは町歩きにはなかなか良い撮影枚数である。今のやたらでかい容量のSDメモリーだと画面サイズを小さくするとほとんど無制限に画像が撮れるなどと言うのはおしゃれではない。それでサイバーショットでフロッピーディスクで撮影してフィルムというかメモリーがなくなりそうになると近くのコンビニに入ってフロッピーディスクを1枚だけ買うのである。これを繰り返すということが街を撮影すると言うリズムになっていた時代はなかなか充実した撮影体験であった。その30年近く前の夏の8月の1番最後の日に我々はワークショップと称して板橋の北の果てから国境越えて埼玉県のほうにゲリラ戦術を開始していた。フロッピーディスクが空になったので近くのコンビニで1枚購入して撮影を続けようとしたときに私の知り合いの編集者が私を発見して走っている車を止めて私に短く伝えたのである。すなわちダイアナさんがパリで交通事故に遭ってひどい状態で助からないかもしれないと言うのである。フロッピーディスクとダイアナ妃の相乗効果というかあの夏の日の最後の光の印象というのが忘れられない。というのもその十数年前に私はロンドンで日曜日の慈善事業で教会に入っていくときのダイアナ妃の後ろ姿を撮影していたからだ。フロッピーディスクは30年位前の時代には私のメインの通信メディアであった。ブラックネクストキューブで原稿を書いて当時はまだインターネット等なくてスタンドアローンの通信状況であったから、ネクストキューブで書いた原稿はそのまま封筒に入れてなめて切手を貼ってそれをポストに投函しに行ったこともあった。その時代の私のエッセイとか写真集はそういう形で作られたのだ。キャプションはネクストブラックキューブでクウォークエクスプレスで書かれていた。そんなわけでフロッピーディスクを見ると私はフロッピーそのものがノスタルジックメモリーであるのだが、気がついてみると私の周辺には1枚のフロッピーディスクもない。思えばあの頃のクラシックなMacintoshを起動するときには何十枚ものフロッピーディスクが付属していてそれを交代に差し込んで覚えさせていたのもつい最近のことに思えるのである。2023/11/19 20:39:5754.名無CCDさん@画素いっぱいBmv3m日本デザインセンターで広告の仕事をやっていた時ニコンカメラも撮影した子トヨタのクラウンも撮影した。いつかはクラウンと言うキャッチコピーがあったようにニコンエフを手に入れることが人生の目的の1つであった。開発途上国の証と言うと変な風に聞こえるけれどもとりあえずもので分そうすれば幸せがつかめると言う時代であったのだ。その頃のカメラ雑誌で雑誌の後ろのほうに売ります買いますと言うコーナーがずらっと並んでいたのは今のネット時代からするとなかなかに貴重な記事であったと思う。それをぼつぼつ読んでいくと当時のカメラに対する欲望がわかって面白い。そういう記事の中で私にいまだに鮮烈に記憶されているのは、コニカカメラによる風変わりなアルバイトでニコンエフの購入に成功した実例を10円切手10枚を送れば教えますと言うような内容のものであった。当時のニコンエフの値段は標準付で70,000円台半ばと言うところであるから庶民感覚からすると大変高いカメラなのである。その頃レンジファインダーニコンのSPモデルはそれよりもさらに数千円高かった。私は中学2年生の頃に父親にニコンエフを交わせたのであるがこれは私のカメラと言うのはフェイントであって実際には父親のカメラであった。しかし実際に使っていたのは私であるから実質的には私のカメラであったと言っても間違いではない。小学校高学年の時に父親と日光の東照宮を見に行った時、英語をしゃべれる外国人が地球に眠り猫の前で何か聞いてきて、父親はスリーピングキャットしか答えられなかったのがちょっと恥ずかしい気がした。その後に会ってきた日本人のジェントルマンがニコンエフの50ミリレンズを外してボストンバッグから200ミリの望遠レンズを交換したのでかっこいいなと思った。あゆ大人に将来なりたいと思ったのである。ところが大人になってさらに後期高齢者になると少年の憧れであった頃のニッコール200ミリあるいは20センチは値崩れがしてしまってすでに1ダース位の数の20センチが手元にある。私の人生の目的はその意味で達成されたわけでめでたしめでたし。ここについている2 = 2.8センチはガラクタ屋さんで手に入れたものだが番号がすごい 製造番号が33033と言うのだ。2023/11/21 00:07:4355.名無CCDさん@画素いっぱいsx3eB山登りをするときにならチョコレートと言うのは重要であろうが、そういう生活をしてないので、チョコレートを食べるチャンスと言うのは無い。ギャラリーバウハウスでコンプリメントとして出されるのがウィーンとか、プラハなどのかつてのハプスブルグ文化圏で提供されていた銀色の小さなお盆の上に、並べられたコーヒーのサーバーなのである。これはなかなか長年慣れ親しんだのでそういうものでコーヒーをサーブされると、気分は完全にwinである。その時銀色のお皿で提供されるコーヒーの側にキスチョコレートが1個だけ置いてあって、これがなかなかいい存在感であった。誰それは食べないでポケットに入れて佃島に戻って家人の小さなお土産にした。そういう事は割とあることであって、ライカインコが生きていた頃は、飲み屋のつけだしでお刺身に出てくるパセリをポケットに入れて持ち帰った。これが数日経過して乾燥してパリパリになったのがライカインコが好きなのである。ギャラリーバウハウスのキスチョコレートが最近出なくなったので、家人が懐かしがっていたからアマゾンで注文した。到着してしみじみその存在を鑑賞してみるにクローズアップしてみると、結構なアート的存在になっているのである。私などは幼年時代にアメリカ軍横流しのハーシーチョコレートなどを食べていたので、口がおごっていたのである。ある時、手元にハーシーチョコレートがなくなったので、近くのパン屋さんに出かけていって、ハーシーくださいと言った。パン屋のおじさんは、その意味がわからなくてハーシーと言うのはなんですか?手に持って食べるお箸のことですか?と言うような生意気な子供であったわけだ。2023/11/23 00:18:1356.名無CCDさん@画素いっぱいCbGquちょうど40年前ニューヨークに文化庁から派遣されていた頃の話である。ニューヨーク近代美術館に1番近いと言う理由で48丁目westのホテルに暮らしていた。番地が234である。その頃のマンハッタンはなかなかけんのんなところであって、日が暮れて朝になるまでに拳銃の発行が聞こえない開ないと言うような治安の良さであった。ホテルプレジデントと言うのはオフオフブロードウェイに売り込みに来る芸人が修学していたりウェルフェアの皆さんがいたりするようなそういうレベルのホテルなのである。ウィークリーレートが確か128ドルだったが、当時の俺レートは280円位下からマンハッタンのど真ん中とは言いながらなかなか高かった。懐かしいのは今のようなコンピューターシステムではないのでウィークリーレートを払いに行くと100年前から使っている陰気で印刷したキャッシュレジスターの領収書が出てくるのだ。豚の肉の表面の脂身に干してあるスタンプとあれと同じロット2名位のやつだ。そう言っても見たことのある人いるのかな?その部屋がまたエキセントリック出会ってからテレビは置いてあってもチャンネルもボリュームも全部ないやつしかも人間の顔が緑色に移ってそれがモダンアート的にゆらゆら揺れるのである。部屋は何十年も掃除していないと言う感じでウインドウにはニューヨークの真っ黒な雪がこびりついている。その真っ黒な子子のフォルムが私にインスピレーションを与えたのであった。音速で急降下するカラスその頃ビデオで日々の暮らしを撮影していたのでこの音速で急降下するカラスはトップスーパースターだった。他にはジャックダニエル頭の便を振ったときの音をビデオで収録したりとかさすがモダンアートのニューヨークに行くと私などまで刺激を受けてしまったわけだ。これは時代がずっと降って2009年6月にプラハのアトリエで朝急いでスケッチした広がっ飲むこうの高い高いテレビのアンテナの上に止まっている鳥さんである。マンハッタンの音速で急降下するカラスのコンセプトを受け継いでその後音速で急降下して見えなくなった。2023/11/25 00:47:0657.名無CCDさん@画素いっぱいLcUHr日本カメラから出ていたクラシックカメラブームの火付け役でもあった私の本 名機礼賛に登場するカメラである。はかりのメーカーの寺岡製作所がスプリングの専門の会社であることを生かして出した。スプリングモータードライブカメラだ。一番最初に出されたモデルが旧態然とした蛇腹カメラであったが、それでは時代にマッチしないと言うことで、2番目のモデルから近代的なレンズシャッター式35ミリカメラのスタイルになった。これがオートテラ35 2bというモデルだが、これはフィルム巻き上げのボタンを押すと、フイルムが巻き上げられてシャッターボタンを押すとシャッターが切れると言う。それぞれの仕事をそれぞれのボタンに割り振っているので、automaticなスプリングモデルと言うわけではない。その改良型がこれでスーパーと言う名前が付いているのである。この場合はシャッターボタンを押すと連続してシャッターとフィルム巻き上げが行われる。日本カメラの私のカメラ本3冊の中の1番最初のセクションでこのカメラを登場させたと思うが、そこにはレンズマニアさんが大好きな頭脳レンズが付いていた。45ミリef 1.8の頭脳レンズである。ここに示すのは今持っているモデルで、自社ブランドのレンズが付いているか、別に写り方が異なると言うわけではない。ところで、最初に手に入れたモデルは高輪のマックカメラで買ったのである。そのレンズ付きはコレクターズアイテムで高いカメラになってしまうのであるが、私が手に入れたものは外人ナンバー入りと言うので、これがマイナスポイントで結構安かった。アメリカ人のソーシャルセキュリティーナンバーが刻印されていると言うわけである。2023/11/26 00:39:5358.名無CCDさん@画素いっぱいmOcKdオキュパイドジャパンの刻印のついた日本製品をコレクションすると言うのは新ミストをして良いのかわからないのかはわからないけれども、あの時代を思い出すには非常に正統派のコレクションだと思う。私も占領国日本の国民のついたカメラや双眼鏡はいくつも承知している。講話条約が締結される前のカメラやレンズがそのような黒人をしなければならなかった。それでそれぞれのメーカーでいろいろ工夫を凝らしていたようで、言い訳というかすり抜けをしたのではないかと思われる。日本のメーカーの頭の良さがそこに現れている。ニコンカメラのニッコールレンズであるが、デビットダグラスダンカンで有名になった。85ミリのレンズの場合はちゃんと外側の見えるところにメイドインオキュパイドジャパンのスタンプがついている。一方で35ミリの広角レンズのほうはなるべく見えない場所というので、レンズの裏側の連動距離計の株のところに小さく刻印してある。キャノンのレンジファインダモデルの場合は、2bというのがその時期にあたるわけで、この写真のカメラと同じ位置に同じようなスタンプが売ってある。そのキャノンのレンジファインダは私も何台か持っているが、カメラ本体が数千円で買えるのである。ところが不思議なことにニコンの同じ時代の製品は、生産台数としてはそんなに違わないにも関わらず、数百10,000円するのだ。コレクターの気ままとか思いつきがそういう末端価格に反映されているのだと思われる。このカメラは偽物ライカ愛好会の会長が所持しているもので、しばらく拝借してその後の持てるつまり離婚するモデルとどちらが使いやすいかと言う資格テストをやったことがあった。カメラ雑誌で我々のようなメカニズムライターがよくやるやつである。それで面白かったのは1番最初のメイドインをスパイロジャパンのこの日本よりも、その後の普通のメイドインジャパンのニコンエスの方が巻き上げのなめらかさとかシャッターの切れ具合ははるかに上等であったことだ。冷静に考えてみると、カメラの進化なのだから、まず当たり前のことなんだけれどね。数年前ヤフオクで登場した。出品物で面白かったのは、虎の離婚のオキュパイド時代の裏蓋だけが出品されたのである。どうしてカメラ本体と離れ離れになってしまったのはわからないが。それで結構な高値で落札されたことがあったら。2023/11/29 04:57:4659.名無CCDさん@画素いっぱいo39K38年ほど前にカサブランカに行った時、帰国した翌朝にピーターバラカンさんと新宿で会って対談をやった。ピーターバラカンさんの事は私もその名前は聞いていたが、どういう人なのかよくわからなかった。音楽とかポップス関係ではすごく有名なスターなんだね。それでバラカンさんは、NHKの海外向けの番組を担当していて、そこでキャスターをしているんだが、たまたまテーマがカメラであったので、私が指名されたわけだ。ウィキペディアで調べたら、1951年の生まれでロンドンの大学の日本語学科を出ていると言うので、なるほど、日本語が達者なのは当然のことかと思った。私より日本語のネイティブなのである。ところが面白かったのは外国向けのテレビ番組であるから、バラカンさんが英語で聞いてきたことを私が日本語で答えたりあるいはその逆でバラカンさんが日本語で聞いてきた返事を私が英語ですると言うような言葉のクロスオーバーがインタビューの効果をあげているのが面白かった。それで移動の時にバラカンさんと車の中で雑談になった内容でいまだによく記憶しているのは彼が使っている。1ギガか何かのハードディスクドライブがもうすぐいっぱいになるのでどうしようと言う悩み話なのである。それでわかる事は、この対談が収録されたときには、まだiCloudが一般的でなかったことがわかる。誰もが自分のハードディスクの容量を心配していて、私などもそうだが、ハードディスクがクラッシュしてしまったら、お手上げで書きかけの光文社の原稿を書き直しにイスタンブールに缶詰に行ったこともあった。今ではちょっと信じられないような大昔の話。それから数ヶ月経ってエミレーツ航空でプラハから帰る時にCAさんが私のことを見たと言うのである。その番組を見たと言う意味である。私はこういう外見だから他の人と間違えられる事は無い。それよりもびっくりしたのは、プラハからドバイまで勤務したそのCAさんが日本語が私より上手であったことだ。だから私が言ったのは、あなたはプラハドバイ便ではなくて、ドバイ東京便にしたほうがいいですよーとサゼッションしたことが忘れられない。2023/12/01 04:29:1260.名無CCDさん@画素いっぱいOkgh5一方で、オペラグラスと言うのには全く縁がない。家人が隣の部屋から持ってきたのがこのオペラグラスである。私がオペラグラスは自分で買ったことがないから、これは家人がヨーロッパの旅行中とか、オペラの見学などで必要で手に入れたのか、あるいは誰かからもらったものであろう。それでしばらく私のデスクの上にあって、オペラグラスは開閉式のものなので、開かれた状態でこちら向きにレンズが睨んでいる。それでなにげに手に取ってどうせおもちゃみたいなものであろうと思い、窓からスカイツリーを見たら意外とよく見えるのでびっくりした。もともと後期高齢者の視力であって、それが基本的な自分の世界認識の方法であるから、たかだか2倍に現実世界を拡大するオペラグラスであっても、大変な視力の進化と言うふうに錯覚するのである。何十年も前にヨーロッパの中古カメラ屋さんを行ったり来たりするときには、カールツアイスのプリズム好きの双眼鏡ではなくて、単眼鏡をいつも首から下げていた。これはヨーロッパのカメラ屋さんと言うのは、大抵プライスが小さなPrice Tagでカメラやレンズに貼ってある。そしてそれが非常に醜いことがあるので、その時にはこれで観察するのである。値段を知ると言うのに必要なデバイスであった。考えてみれば、このレンズシステムと言うのはガリレオ双眼鏡である。つまり、ガリレオが初めて天体を観察した時と同じレンズの組み合わせであるから、それがパワーがないわけはないと考え直した。それでセットアップされたこのオペラグラスを閉じようと思って、レンズの部分を押したり引いたりしたのであるが、どうしても閉じることができない。それでこのオペラグラスはまたそれから数週間テーブルの上にあった。しかし、光学ガラスが出ているのも嫌なので本体を両側から力を加えたら何の事は無い。そのままパチンと閉じて携帯しやすいようになった。オペラグラスでオペラを見る人間が折りたたみ式のオペラグラスを閉じるときに、複雑な指の動きをするのでは、オペラを楽しむことができないわけで、私のように長年複雑怪奇な機械式カメラを使っている週間の間違いというのが、そういうところに出たのである。恐ろしいことだね。2023/12/03 05:57:5961.名無CCDさん@画素いっぱいE5Jvnアパートメントは非常に広くて2部屋ではあるが、150平米近いと思う。現場は4メーター近くあった。ここに住み始めた頃は、建物ができてから100年以上などと手紙に書いていたのであるが、それから50年が経過してしまったから建築されて150年の歴史的な建築物と言うこともできる。建物のエントランスには、大日大戦中に爆撃を受けて、国の復興事業として建物が再興されたと言う意味の看板がエントランスの上に掲げられていた。2部屋の1つは、カジンガピアノを置いて使っていて、そこにベッドもあって、もう一つは私の部屋でこのような感じである。広いだけでベッドと小さな物入れがある位で、他には何もなかった。実にシンプルライフそのものである。部屋には4日× 5インチのカメラが木製の三脚の上に乗せられている。壁に現代日本写真家、展示会のポスターが見えると言う事は、写真展が1976年だから、それ以降に撮影されたものであるのはわかる。その左に見えるのは、私自身が制作したイラストレーションである。このようなシリーズでかなりの作品を創作していたと言うのは、時間がふんだんにあったと言う事とクリエイティブなスペースが確保できたと言うことに他ならない。佃島の生活では、写真集を広げるしても、まず場所を作らなければならない。アパートには電話がなかったのですぐに電話を引いたのであるが、電話代が高価だから日本に電話をするなどと言う事は全くしなかった。これはその当時の日本人特に家のようにシンプルライフを送っている人間は当然のことであって、例えばこちらで日本人留学生がどこかのコンクールを受けるとする。それで最初のコンクールの第一段階に受かった時は日本に電話してベルを一塊だけ鳴らして電話を切る。予選で落ちた時は、例えばウィーンから電話をしてベルを3回鳴らして切る。と言うような心を事前に手紙で連絡しておいて、そのような通信手段をとっていたのである。このポスターの日本人写真家の展覧会にしても、打ち合わせは電話ではなくて、全て手書きの手紙で行われたと言うのは今にして思えばとなかなか優雅だったと思う。インターネットなどない時代の方が、生活にゆとりとフレキシビリティーがあった。2023/12/05 07:21:4462.名無CCDさん@画素いっぱいTqC1Vデジタルカメラマガジンの創刊号から十数年にわたってデジカメ風雲帳と言う連載をやっていていつもデジタルカメラのデザインが悪いと批判し続けてきたのである。カメラメーカーが広告を出している雑誌であるからよく無傷のまま十数年やって来れたと思うが編集長が変わったのをチャンスに首を斬られた。それから10年が経過してデジタルカメラマガジンが元気なのは誠に嬉しい次第である。しかしデジタルカメラの世界が退屈なのは10年前よりも今の方がひどくなって、1番腹が立つのは小鳥の目玉にピントが合いますと言う宣伝文句である。ピントぐらい自分で合わせろよと言いたい。それで今の時点でデザインに関してデジタルカメラを褒める事はほとんどない。強いてあげればリコーのGRシリーズがフイルム時代から変わっていないと言うので評価できるし、もう一つはライカをしのいで世界で1番最初にデジタルカメラを出したエプソンアールディー1である。当時Codina の社長の小林さんに聞いた所では何しろカメラの金型代というのが高いのでエプソンのフィルムのレンジファインダカメラと言うのはビッグセールスになった子品の安い35ミリ一眼レフの金型が土台になっているそうである。それからすれば世界最初のコシナレンダーのデジタルレンジファインダカメラと言うのは正統派であると言うことができる。このカメラが登場したときにはフルサイズデジカメがようやくブームになり始めたころで初心者さんが僕の写真芸術はフルサイズデジカメでないとぼくちゃんの芸術の心が許さないとかお笑を垂れていたのであるがあれから20年近くが経過するとようやくAPS-Cにちゃんとした評価が下されるようになったのは正当な時代が来たと言う気がする。例えばエプソンアールディーに50ミリのレンズを各種つけているのであるがシングルフレームに50ミリと言うのは映画の初期の頃の映像の断片が今でもそこに残っていると言う印象があって私には好ましいものである。エプソンコシナレンダーで私が20年近く経過して高く評価しているのはセイコーエプソンの作ったアナログ式フィルムカウンターである。これが実にメモリを使っていない時は500枚以上と言うことで針がアナログ表示でどんどんすくなってくると最後の1枚まで正確に表示できるところがちゃらんぽらんの私の性格からするとこれは真面目なカメラであると言うので評価できるのである。2023/12/07 14:23:2763.名無CCDさん@画素いっぱいTqC1Vエプソンコシナレンダーのネガティブポイントはブライトフレームの設定がめちゃめちゃであるから最初からブライトフレームなどは覗いていないポイントです。その頃にライカエム82が登場してあのカメラのブライトフレームがいい加減なのでライカジャパンにアサヒカメラの記事のライターとして質問したら当社の範囲内ですから問題ありませんと言うヘンテコリンな答えであった。私は素人であるから、念のためにいっこ品の小林さんにないかをチェックしてもらったら、やはりブライトフレームが変ですと言う答えであった。ライカエム8が登場する前後にライカの会社の偉い人が毎度来日して八重洲富士屋ホテルに泊まっていっぱいやったりしたのであるが明日の予定を聞いたら長野に行くと言うのである。ライカの偉い人に善光寺を訪問する予定は無いようだから信州中野に行ったのかもしれない。これが事実かどうかはわからない未確認情報であるがコシナレンダーのレンジファインダデジタルカメラとライカエム8のブライトフレームの作り方がいい加減というのがもし真実であるのなら出所は同じだから非常に納得できるわけだ。でもそういうファインダーの見え方が狂っていると言うようなマイナーな話は私は気にしない方で撮影にはコシナレンダーには12ミリのレンズをつけっぱなしにして15年撮影しているのだからファインダーが正確であろうがなかろうがそれは気にしません。2023/12/07 14:24:0564.名無CCDさん@画素いっぱいWZ4nx1960年代終わりにもろに曲がったらいいかは非常に高価なものだった。それで21ミリのスーパーアングル等は買うことができないから、皆さん非常に苦労したのである。私の好きな写真家柳沢信さんはニコンエスマウントのニッコール2.1センチにライカスクリューマウントアダプターをつけて、それをエムマウントにさらに変換して来会物に付けて使っていた。一方で、フォトピーナッツと言うユニット名で銀座をスナップして有名になった。東京総合写真専門学校の秋山さんと佐藤さんの2人組はもっぱらミノルタの一眼レフ用のロッコール21ミリをレンズマウントアダプターでライカM2使っていた。それぞれに皆さんアイディアを絞って写真表現に突き進んでいたのであった。私の場合は大学1年の時に手に入れたニコンエフ様のミラーアップして使う2.1センチニッコールレンズを父親の会社に出入りの機械屋さんにお願いしてマウントアダプターを作ってもらった。あの当時まだ今のような中国製のありとあらゆるマウントアダプターを自由に使えると言うような時代ではなくて、必要に応じて自分で作る時代であったのだ。それで私の場合ニッコール2.1センチをつけたエム型ライカを半世紀以上使ってきたのだが、最近ロッコール21ミリレンズを手に入れて中国製のマウントアダプターでそれをエム型レンズマウントに付けて使っているのである。何か自分が50年若返ったような感じがして、気分的に非常によろしい。それで私の大学生の頃、銀座にあったミノルタのサービスセンターに行って、サービスセンターの所長さんにいろいろお話を聞いたことが忘れられない。所長さんは田中さんと言う方であって、その当時原稿だったロッコール21ミリF4よりもその前のモデルである同じ焦点距離のエフ4.5の方が素晴らしいと言っていた。これは事実であろうと思われる。カールツアイスの日を組んでしても21ミリでエフが4.5であった。次何か信用するに足りる話があったと今になって懐かしく思い出しているのである。2023/12/09 00:10:5765.名無CCDさん@画素いっぱいzJfeC人類最初の宇宙飛行士である。ガガーリンは古紙色から勲章をもらったり、世界中を回ってパレードをしたり大変な人気であった。ネットを見ていたら、カメラ付きのガガーリンの姿があるので非常に面白く思った。私が小学校低学年の頃に、音羽の実家の近くの大日本講談社が立派なビルであった。そこで出されたソ連の少年向けのストーリーで、少年火星探検隊というのがあって、少年の熱血を沸かせたのである。その少年冒険小説の中で、主人公役の少年が写真記録係で、かなりいろいろなカメラでロケットの中から火星人を探して撮影をすると言う行があって、少年の私はワクワクした。それに関連して世界初の宇宙飛行士がカメラ付きであったと言う事は、実にシンプルに私も共感するところとなるのである。この写真を見るとコスモノートはライカカメラタイプのソ連製カメラが標準レンズ付きでもう1台下げているのはソ連製の一眼レフで、レンズは135ミリの望遠レンズだ。いかにも初心者と言うレンズの組み合わせであるが、考えてみたらこれよりちょっと前の時代に朝鮮戦争を撮影に行った。ライフのデビットダグラスダンカンはやはり50ミリと135ミリレンズなのであるから、よりガガーリンのレンズ洗濯は非常に正しいのかもしれない。ガガーリンは、雨中飛行士としての功績のために、ソ連のモスクワの赤の広場の前の百貨店に秘密裏に作られている外国製品を売っている売り場に入場できる特別なチケットを1回だけもらったそうである。だから、ガガーリンにしてみれば、西側のカメラを使うなどと言う事は想像の外にあったのに違いない。モスクワに赤旗が店ビーテいた時に、私はドイツはミュンヘンにあるリンホフカメラの工場を取材に行ったことがあるが、見学コースには20人ぐらいのロシア人がいて、レイオフカメラの人に聞いたら、これはソ連の通信等の国営通信社のリンホフカメラ買い付けツアーであると言う。なるほど、au的な宇宙飛行士はソ連製カメラを使えと言うことで、プロパガンダとしての通信車は西側のカメラを使った時代なんだ。宇宙飛行士がダンスをしている。隣の男性が頭に包帯を巻いているのが気になる。不思議な写真である。2023/12/11 04:45:4166.名無CCDさん@画素いっぱいiJ4mk写真家の中藤さんが(写真集WINTER LICHTの人)が、アサヒカメラ別冊「世界のカメラ」(1965年版)を送ってくれた。これは嬉しい。高校時代の愛読書である。その翌年の1966年版は持っているが、これは長年探していた本である。久しぶりにページをめくると、土門拳さんや秋山庄太郎さんの懐かしい顔が見える。これはヤシカのハーフカメラの広告なのだ。中藤さんは最近、ライカD3を手にいれてその使いやすさを再確認したそうだ。まったく同感である。私もウイーンに行く年、1973年に日本デザインセンターの退職金で(確か77000円だった)で、ライカD3のブラックを買ってその使いやすさに吃驚したものであった。中藤さんは8月にモスクワとレニングラードに撮影に行くそうだ。彼の写真集「WINTER LICHT」には文字通り、すでに過去の記憶になった東欧の「冬の光」が写っているのだが、聞けば中藤さんはまだモスクワに行ってないそうだ。「冬の光の本場」はモスクワなわけだから、これは楽しみである。(9:52)在室。仕事。ダンボールを捜索してようやくリコーのバッテリーチャージャーを発見して、エネルギー危機を脱する。机の上にあるデジカメはルミックスLC1とキャプリオGXであるが、接写はGXの方がずっと強いからこの2機種を揃えることは必須だ。天候は朝よりは回復して雲の尾根が太陽に照らされてはっきり見えるようになった。雲の流れる方角は相変わらず東から西。バッテリーチャージャーと一緒に1997年に倫敦で買ったサンダーソンの4X5カメラが「出土」した。これは2台持っていて、一台はアローカメラの2階に展示してある。撮影の為にホルダーを探したが、それが見つからない。大体、カメラがあるとホルダーがない。ホルダーがあるとカメラがない。その両方が揃っている時にはフィルムがない。フィルムを揃えると時間がない。(15:14)午後4時過ぎに、下の書源にて本日発売のPENを買う。ロシアウオッチ特集を8ページほどやったのだ。丁度、引っ越しの直前でリバーポイントタワーの下のロビーとか、早朝に何も荷物のない部屋で原稿を書いたのも懐かしい。最初に印刷物を見て感心するのは日本の印刷物のその印刷のクオリテイの高さである。実に手にとれるようなシャープネスと臨場感だ。午後5時を廻って空から白雲が消え、快晴となる。2023/12/13 04:50:2367.名無CCDさん@画素いっぱいy0Fop最近のライカインコもっぱら、小さな篭に入って引きこもっている。朝夕、家人がかごを持って広いヴェランダを「散歩」するのが日課だ。右端はエクター付きのレチナ。昨日は久しぶりに「長時間」六本木ヒルズに居た。午後3時から午後11時までだから自分としては「長時間勤務」に属する。午後4時にリコーの紳士連が来て、午後5時から8時まで個室にて本を読んだ。内容はイタリアワインの本、シシリーの喰い歩きの本、チーズの本である。読みながらこの前のローマ行きやら10年前のシシリー行きのことを頭に描いた。これは知的な放蕩というもので、お金もかからないし体重も増えないし時差もないので恰好の暑気払いだ。もう少し「知的な本」をと思って探したら、ライブラリの受付近くに松岡正剛の「山水画論」がありそれをめくる。松岡さんは1970年の「off」(真面目な写真集)以来の知己であるが、私がウイーンで飲んだくれている間だに「ジャパネスク」の大家(たいか)になってしまい、その変身に吃驚したものだった。やはり私が松岡さんを買うのは、「稲垣足穂」を救助した点にある。松岡さんの知的な空間は「書名」の無限宇宙で彼自身がそこを自由落下しているのが残念だ。午後8時になって、PENの多田さん來。タイアップ広告(トヨタ)の打ち合わせ。初対面だが、彼の愛用のOSがマックの9.2,2というのが気に入った。私などは偏屈者だから相手の支持政党などどうでも良いけど、OSXのユーザーは信用できず(WINは最初から評価外)9.2.2だと全面的に信用するきらいがある。打ち合わせの後に51階の天川(鉄板焼き)にて夕食。2023/12/15 00:12:0368.名無CCDさん@画素いっぱいfgBRMノルマンディー上陸作戦のロバートキャパであるが、彼が実際にどのような軍服を着ていたと言うことに関しては、今までほとんど注意を払っていなかった。ちょっとピンボケでキャンプ地震が降っている事は途中で出身してしまったと言うことぐらいである。その上陸作戦の前か後か知らないけれど、シガレットを指に挟んだ戦争写真家が友人の戦争写真家と話をしている画像を発見した。左のキャパが来ているのは、当時のアメリカ軍の軍服であろうが、右の頬の戦場カメラマンは、それとはスタイルが違うから、おそらく英国の軍服なのであろうか?そこら辺は私は軍服大田区ではないので、よくわからない。それで、キャパがぶら下げているカメラはエバレディケースに入ったコンタックス2型である。まさに彼がDDで使ったカメラである。右の戦争写真家はライカだな。で、それで私が驚いたのはキャパの着ているユニフォームは、私が今の今着ているアメリカ軍のユニホームと全く同じであると言うことに気がついた。私の着ているのは湾岸戦争の頃だからカモフラージュのジャケットである。先輩キャパが来ているのはそうではないと言う違いこそ、あれこういうユニフォームと言うのは100年近く時間が経過しても全く変わらないというのが面白い。自分が20歳の頃に自衛隊の中古のユニフォームを着て、ひょっとしたら自分は50歳になってもこういうものを着ているのではないかなどと予想していたら、実際には後期高齢者になってもきているのである。老兵は死なず、ただ去りゆくのみ。ではなくて、まだウロウロしている。2023/12/17 04:48:0969.名無CCDさん@画素いっぱいsy83g2001年に毎日新聞から出た長徳アットワークである。写真集と言うのはできてから20年以上理想なら半世紀経過してから見ると非常に面白い。左側の鳩が飛び立つ瞬間をとらえた。ヘンテコリンな写真はニコンエフ2.1センチのニッコールで撮影された。撮影場所は皇居である。1966年4月29日だった。その皇居で亡くなった写真家の須田さんに初めてお目にかかったのである。須田さんとの付き合いはその時から1970年の3月末までであった。その後私は日本デザインセンターに仕事に行ってしまい、1973年の4月からはオーストリアのウィーンで行ってしまったからだ。だから逆に須田さんとの出会いは忘れない。右のショットは日劇前に立っているアメリカ軍のセーラーである。面白いのはこの当時はアメリカの兵隊が東京を歩く時に制服でうろうろしていた事にある。まぁアメリカに負けて占領されたわけだから当然だな。それで彼らがぶら下げているのが例外なく、コダックの安いボックスカメラであるのもいい感じである。出雲の写真家小池さんが好むカメラだ。ウィキで調べてみたらソニービルは、1966年の4月にオープンしている。1969年に知り合った家人とデートする時などは、銀座ソニービルでドレミファ階段だった。当時は、数千個のブラウン管がソニービルの表面にずらっと並んで、それで文字を作ったりしていた。最後にソニービルに行ったのは何年前だか忘れたけど、写真家の中藤さんがソニーのフォトギャラリーで写真集をいろいろ取り揃えて見せてワークショップをした時だ。重いスーツケースに永藤さんはたくさんの写真集を入れてきた。その次にソニービルの跡地に行ったのは、数年前の話だが、驚いたのは想像以上に狭い敷地に立っていたんだね。狭い公園になっていた。2023/12/18 04:15:0570.名無CCDさん@画素いっぱいMiRqE8年間暮らしたウィーンで面白かったのは、時々出かける美術館であった。いくつか気に入った映画があって、それはフェルメールの名作とかそういうのではなく、私の知らないルネッサンスより後に描かれた絵描きの作品なのだが、その風景を見ていると、何か空間感覚がバラバラになるような気がして、それが不愉快ではなく、快楽に通じるようなのがある。なぜその作品をそのように感じるのかと言うと、遠近感の消失点が2つ以上あったりする。それを写真に転用したわけであって、この写真もそうであるが、東京駅八重洲口のすぐそばのビルに地下のショッピングセンターに行くエントランスがあるのだけれど、その隣にはパーキングロットのエントランスの道があって、その角度が違っているから、結果として消失点が2つある風景写真になる。撮影は15年以上使っているエプソンレンジファインダデジタルカメラで、そこに12ミリの広角レンズが付いている。モノクロでしか撮影しない。この組み合わせが大好きなのだ。東京の風景は1964年から撮り続けているのだが、この場合撮り続けていると言うことにはほとんど意味がない。今の時間のこのポイントから1964年を振り返ってみて、そこに感じる視神経の消失、に至る道を自分で楽しむということが本来の目的であることに最近気がついた。1966年の1月号にトップで30ページ以上を掲載された高梨さんの作品東京人に影響を受けて、その時私は高校3年生であったが、その勢いが止まらずにいまだにルーカスを描いているのである2023/12/22 06:46:1971.名無CCDさん@画素いっぱいEIVhj毎日新聞社から長徳アットワークが出たのは2001年だったと思うけれど、よくこんな売れない写真集を出してくれたものだと思う。そのしばらく前に高梨さんの写真集が出て、有名写真家の写真集が売れたであろうから、その後に、その編集者さんに、私の企画を話して、それで企画が通ってしまったと言うのは、勢いもあるかもしれないけれどこれは高梨先輩のおかげによるものなのである。それで今まで使ってきた色々なカメラをいくつかグループに分けてニコンエフからライカM2からデアドルフ8 × 10インチまでいろいろなカメラを交代で登場させて、カメラ読み物として面白く見られるようにした。3800円の定価であったが、やはり売れ残ったようで残りは裁断されたそうである。私は自分の写真集が持たない主義であるが、仕事のプレゼンテーションで必要になったりすると、古本屋さんというか、オンラインの日本の古本屋で買おうとしたら値段が倍になっていたのでびっくりした。長徳アットワークの元ネタはいろいろなところに書いたけれど、ニューヨーク近代美術館でアメリカのモダンフォトグラフィーを研究していた時に、あそこの図書館にあって面白い本だと思った。写真家が生きたその時々の手紙やメモも入っている。写真家が生きたその時代の貴重なドキュメントなのである。下の本のウォーカーエバンスアットワークと言うタイトルは、まだインターネットが登場する前であるが、私がこの写真集を出した。2000年には@というのが使われるようになっていたから、それを使ったのである。@と@ワークが似ているもんね。見開き画面の左は、東松さんが空間から環境へと言うタイトルの銀座松屋だったと思うが、そこで展開した現代美術展の時にナンバー24と言うセクションを東松さんがインスタレーションして何もない。白い部屋の真ん中に人間が立つ丸いマークがついている。そこに来た中平琢磨さんを撮影したものだ。右のショットは、私が大学1年の時に原爆の樹と名前をつけたもので、独協大学の脇東京カテドラルの小道にあるエキセントリックなオブジェである。この撮影ポイントも気に入ってよく4 × 5インチのカメラでも撮ったが21ミリのニッコールで撮影したノーファインダーの方が良い写真に仕上がっている。2023/12/24 07:02:2872.名無CCDさん@画素いっぱいz2i0m1985年につくば万博の時にその建物の内部ではなくて、その近くにオープンしたのが石原悦郎さんのつくば写真美術館であった。私も取材などでつくば万博は何度か行って不思議なことなのだが、腕章をもらって内閣記者団の一員として中曽根を追いかけていた。ところがあの人は別にカメラが好きだとは思わないけど、私がライカを構えていると、私のほうにどんどん歩いて接近してくるのだ。あれは不思議だった。それでこれがつくば写真美術館のカタログの表紙である。タイトルから見ると3つの都市の物語と言うような感じになってしまうのが面白い。カタログの内部を見たら、私はウィーンのモノクロ写真を出しているから、別にその3つの都会からは離れているわけだが、そこはヨーロッパと言うことで問題は無いのであろう。このカタログは既に捨ててしまって手元にはない。しかしその時に一緒に石原悦郎さんが作ったつくば写真美術館のトートバッグと言うのはいまだに手元にある。何が面白いかと言うと、当時私はニューヨーク近代美術館で買ったトートバッグを8 × 10インチのカメラを入れて、フイルムホルダーを入れて持ち歩くカメラバッグにしていたのだ。石原さんは何度も近代美術館にはおいでになったであろうが、私がカメラバックとして使っていたトートバッグの事はご存じなかったに違いない。ちょうど日本でトートバッグが流行し始める最初の時間的ポイントであったのだが、残念なことにつくば写真美術館のトートバッグは、ランドリーバッグのクオリティーなのである。それで実際にランドリーバックとして使っていたらそのまま長生きしていまだに手元にあると言うのは、石原さんのつくば写真美術館の唯一の思い出として懐かしい。2023/12/26 06:36:0873.名無CCDさん@画素いっぱいwsoBn私のFacebookは3000以上のお友達がいる。しかし、お友達と言うのは好きな言葉で、その中で実際に会ったことのある人は100人ぐらいではないかと思う。しかし、同時に会ったことがなくても、Facebook上のやり取りで十分に友情を感じている人もいる。バーチャルリアリティーと言う Facebookバーチャルリアリティーは大切だね。あっちゃんという人も、そういう意味で大切な友達なのである。それともう一つの理由は山梨県のこの街には写真美術館があって、そこに3年ほど前にロバートフランク写真展を1泊2日で見に行ったことがその理由の1つである。非常に環境の良いところで、宿泊したホテルは巨大な牧場の脇にあった。それで私がふざけて、南チロルから衛星生中継などと言って、Facebookに書き込んでいたのだった。そのtFacebook友達のあっちゃんも車で移動しているのである。それはそうだろうなぁ。宿泊したホテルから写真美術館まで行って帰ってくるだけでタクシー代が10,000円。それを2往復したら20,000円になる位の交通弱者の街なのだ。これは日本カメラの仕事であったが、領収証渡すチャンスを忘れているうちに、日本カメラは廃刊になってしまった。まぁそれはそれでいいか。それで友達のあっちゃんの書き込みで35年ぶりに高校時代の女子高生を思い出して会ってみたいけど、もう連絡がつかないと言うような話だった。それで私が思い出したのは東京ニコン日記に出ているsさんの話である。35年ぶりで私の仕事場だった六本木ヒルズの49階に遊びに来てくれたのだが、久しぶりに好きだった女の子を見るので、私はエレベーターホールの前を行ったり来たりしていた。それで判明したのはそれは35年も経過しているから、それなりの時間経過はあるにしても喋り方とか声と言うのは全く変わらないと言うこと。これはあっちゃんも同じことをFacebook上で指摘していた。それで高校の時の男子のサッカー部の菅田くんが家の近くにお寿司屋さんをやっているので、そこでクラスメイトと食べに行ったりしてなかなか楽しかった。家人のリサイタルにもSさんは来てくれて、びっくりしたのはきものが非常に高そうに見えたこと。それで今でも彼女の誕生日にはメールメッセージを交換している。それで面白いのは私のことを田中君と呼ぶのである。それは高校生なんだから当然の事ですけど、長徳先生なんて言うわけない。2023/12/28 05:49:3674.名無CCDさん@画素いっぱいQYzt81955年であったが当時の皇太子殿下がアメリカ経由でヨーロッパに半年の大旅行をされた時に持参のカメラが登場したばかりのこのカメラであった。レンズは5センチのエフ1.4だった。同行の写真記者は皆さん4 × 5インチのスピードグラフィックなのである。その取材人を皇太子殿下は逆に日本の新しいカメラで撮影なさったりした。ニコンのレンジファインダーはこの次のニコンSPモデルからあのつまらないロゴタイプに変わってしまうのである。その次のモデルのニコンS3も同じロゴであってそれの普及があったのに今S4でレンジファインダのにこんな歴史は終わってしまう。そのことを嘆いていたら突撃隊長が手先が器用なので私のニコンS3にクラシックなぐにゃりロゴを貼り付けてくれたのである。でもこれはテープで止めているだけであるから外れると下のつまらないニコンのロゴに戻ってしまうわけだ。ニコンカメラが登場した50周年であったかどうかよく覚えていないが、その当時の最新型のニコンf5にどういう風の吹き回しか限定版でぐにゃりニコンのロゴをつけたバージョンが少数販売された。ニコンの商品の流通からすればそれはちゃんと問屋経由で流通させなければならないのであるが私はニコンカメラ販売に友人がいたので特に頼み込んで内緒で1台販売してもらったのである。その時点の最新型のニコンの一眼レフでもクラシックなぐにゃりニコンマークは非常にマッチしていたからこれが正解だと思った。1990年代であったか各カメラメーカーがCIのブームに押し流されてどのメーカーもつまらない爽やかなブルーを基本にするようになって私などはそれ以前のニコンのブラックとイエローのカラーコンビネーションが大好きだったのでついにニコンまで爽やかな空色を試合で使うようになってしまってそれまでのニコンに対する夢がいちどに覚めたのであった。ぐにゃりニコンのロゴに限りますね。2023/12/30 17:14:1475.名無CCDさん@画素いっぱいAPg6B10年近く前いちどだけ土佐の高知に行った。高知県立美術館で尊敬する写真家のコレクション展示があったのだ。その人は日系アメリカ人で戦争中は敵国人だと言うので、キャンプに収容されていた。その時にその人が覚えたのが写真術だったの。だから、何が人間を救うがわからない。その日系人の写真家は、戦後になって、桂離宮の調査に来た時、写真家関係者として活躍して、日本の大学などでも写真を教えて。最終的には日本国に帰化するのである。その写真家の父上の出身地が、土佐の高知と言うわけだ。高知と言うと、坂本龍馬とかで有名だけど、私はどうもそこら辺には興味がないのだ。高知の街には東西を結ぶ非常に長い。路面電車があって、それが非常に面白く感じた。そしてその路面電車の東に向かってかなり停留所を進んだところに高知県立美術館があった。私は一時期メディア関係の仕事で、世界中のいわゆる有名観光地を取材して歩いたことがある。観光地の有名な観光物件と言うのは、どこでも非常につまらないものであるが、世界的なレベルで見ると、シンガポールのマーライオンなどもそれに匹敵する。世界で最もつまらない観光ポイントの紹介と言う意味では、このはりまや橋と言う物件はかなり上のクラスにランクされるのではないか?国内の観光物件では、今まで札幌の時計台がダントツ1位だと思っていたのだけど、土佐の高知のはりまや橋はそれに対して逆転したと言う格好だな。2024/01/01 06:07:1376.名無CCDさん@画素いっぱいjNt7aちょうどこの時代に私は最初の35ミリ一眼レフを手に入れたのであるが、その時迷ったのはミランダカメラにするか、それともアサヒペンタックスにするかと言うことで、最終的にはアサヒペンタックスになった。トプコンカメラのほうは最初から選択肢には入っていなかった。そしてそのまま半世紀近くが経過して、ある時四谷荒木町のガラクタ屋さんでこのカメラを手にいれたのである。その時非常にびっくりしたのは、このトプコンカメラの巻き上げの感じとシャッターの落ちる感じが非常にスムーズで静粛であると言うことだった。当時のアサヒカメラのニューフェイス診断室等では、このトプコンカメラをして軍用カメラと表現していたりしたので、その大きなサイズからするとシャッターの音も大きいのではないかと勝手に思い込んでいたのである。だからこのトプコンカメラの真実の存在感を知るために半世紀近い時間がかかったと言うことになる。ところで、このカメラのブラック仕上げであるが、実はかなり数が少ないらしい。一説によれば200台程度が作られて、日本の警察などに納入されたと言う話がある。ライカM2とかライカM3のブラック仕上げの製造台数を考えてみると、2000数百台と言うところでそれで現在の末端価格は数百10,000円になっているそうだ。私がライカM2のブラックペイントモデルを手に入れた時は確か120,000円位だったけれども。結局、ライカ0型の10分の1以下のブラックペイントの製造台数ではあるのだけれど、マーケットプライスにはそういう事は加入しないということなのだが、それゆえに、このブラック仕上げのトプコンの一眼レフに魅力を感じるというのが、かなり複雑なコレクター心理と言うわけだ。そのようなわけで、ブラックカメラに対する興味もさることながら、私の興味はそれ以上にこのオリジナルボックスのほうにある。私はカメラのオリジナルボックスのコレクターでもあるのだが、この箱は初めて見たのである。赤が主体になっているのは、同じ時代のライカカメラのオリジナルボックスに似ているところも微笑ましい。コレクターだからうるさいことを言うようですが、ちゃんとカメラのボックスには本体番号とレンズ番号が書かれています。2024/01/03 00:46:4277.名無CCDさん@画素いっぱいsJnrD篠山さんに最後にお目にかかったのは、1976年の6月だった。ヨーロッパを2年間、ドイツ語圏で巡回した日本の写真家の展覧会のために出品していただくので、六本木のスタジオにお邪魔したのである。オーストリアのこの写真展を企画しているディレクターの美術評論家DR Breichaのアシスタントと通訳と言う立場で、篠山さんのところに行った。4十数年前だってビッグネームのスターフォトグラファーである。篠山さんが亡くなったと言う新聞の第一報を聞いて、私の頭にフラッシュバックしたのはリチャードアヴェドンだった。彼は撮影でニューヨーカーのためにヒューストンに行ってそこで亡くなったのである。もう1人思い出したのはヘルムートニュートンである。彼は自分でキャデラックを運転中に事故にあった。篠山さんはその意味でインターナショナルクラスのスターフォトグラファーなのである。篠山さんが最も若い頃に使ったカメラというのがアメリカ製のハーフサイズのマーキュリーと言うカメラだった。それでスライドを撮影して、小学生の頃に友達を集めてスライドショーをやったと言うこれは有名な話だ。篠山さんの撮影振りを激写と言うのである。これは完全に一般的な用語になっている。ところで、1976年の6月に篠山さんのオフィスをディレクターと一緒に訪問したときに、ディレクターが持っているのが子供が使うような表紙が極彩色の金魚のイラストで、メモ帳も全く同じに金魚の形に切りぬかれているやつだった。ディレクターはモダンアートに対する評論もかなりやっているから、そういうところの遊び心が旺盛なのである。それで打ち合わせをしているときに、篠山さんはディレクターに対してその金魚のメモ帳がかっこいいと言う話をしたのである。あーこの人はジョークの通じる人なんだなとディレクターの表情が柔らかくなったのを記憶している。篠山さんのスタジオのあったところは考えてみると、私が10年間通った六本木ヒルズのエントランスの長いエスカレーターホールの場所なのだ。2024/01/05 17:19:3978.名無CCDさん@画素いっぱいgFWwrところでデビットダグラスダンカンの戦争写真であるがまずはバトルフィールドの全景を撮影するには5センチのニッコールレンズである。そしてかなり離れたところから身の安全を図りつつ撮影する写真家としての安全牌のレンズが13.5センチである。つまり戦場の全景とクローズアップを2つのバージョンで撮影するためにはこの2つのレンズが非常に重要であったと言うことだ。ロバートキャパの場合はもっと戦争写真家としての視点が先鋭化されていて彼が使っていたのは5センチの標準レンズだけなのである。これも凄いことだと思う。望遠レンズを使ったロバートキャパと言うのはイメージするのもなかなか困難だと思う。ところで時代が下ってベトナム戦争の頃になるとデビットダグラスダンカンの使っているレンズも進化した。彼が使っていたのは1台のライカM3に2.8センチと50ミリのライカのレンズ。そして二台のニコンエフカメラには105ミリと200ミリのレンズがそれぞれ付いていた。つまり戦争写真家としての安全牌の位置から撮影すると言う意味では朝鮮戦争の13.5センチから望遠側が長くなって20センチになったのである。これは写真家を戦場からサバイバルさせるためのかなり有効な望遠レンズ効果であったと思われる。同じ時代にベトナム戦争で活躍した岡村昭彦も同じであって彼は二台のライカレンジファインダーと二台のニコンエフを使っている。二台のニコンエフに付いているのはそれぞれ105ミリと200ミリのレンズであった。もう1人の有名な戦場カメラマン澤田の場合はライカのレンジファインダーに135ミリの望遠レンズである。安全への逃避と言う名作で澤田はピューリッツァー賞を獲得しているがこの作品は200ミリではなくて135ミリなのである。、澤田の場合は徹頭徹尾一眼レフを使わないでレンジファインダーのライカを使う戦争写真家だった。この135ミリレンズは135mm系を1.5倍に拡大してレンズのピントが合わせやすくなっているレンズシステムである。2024/01/07 05:15:2379.名無CCDさん@画素いっぱいflp4n1970余年にウィーンで勝ったことになっているが、実際にはプラハで買ったのかもしれない。そこら辺の記憶は曖昧である。このファインダーはソ連製の28ミリから135ミリまでのレンズを使うことのできるターレットファインダーである。それをwin高プラハだか知らないが、とにかくスナップの好きな人がファインダーをバラバラにして、28日利用の対物レンズだけをセットして、なおかつファインダーの工学系を90度横倒しにして作ったのがこのホームメイドのファインダーである。あまりに複雑すぎて、どのような頭を働かせれば、こういうファインダーができるのか、私にはよくわからない。 十数年前にガラクタ屋さんで買った。2代目さんの話によると、カメラメーカーで仕事をしていた。ジェントルマンが自分用に作った。28ミリ相当のブライトフレームビューファインダーと言うのを安く手に入れたことがあった。これは極めてトラディショナルな28ミリファインダーでブライトフレームはライカのウェブ方みたいにフレーム自身が証明されると言うような構造になっている。ただし全体はかなり大きめである。好みとしては、私はこちらの方が好きなのは、もともとスナップシューティングにはバインダーをあまりつけて使ったりしないから28ミリ用のファインダーの必要性をあまり感じないと言う。不届きな思想が背景にあるからに他ならない。だから、手に入れて50年になるのに時々私のセコハンカメラの波打ち際にこのユニークなファインダーが打ち寄せられると半世紀前のプラハのことを思い出したりしながら、ちょっと手の上に乗せて遊んでみて、もうちょっと気分が高揚すると手元にある適当なライカタイプにつけると言うような使い方をしているのである。この場合は、ライカ人類の人類の英知と言うよりも、ソ連生カメラ、人類のもうちょっと反社会主義的な悪知恵と言うような思想が背景に感じられて、そこが好きなのだ。なお、このファインダーの製造番号は通常のものだと最初の2桁が製造番号、例えば56と言うのは1956年のことだが、これは独自のロットで31で始まっているから、実際にはかなり古いと思う。2024/01/09 09:25:0480.名無CCDさん@画素いっぱい6UFAD私の好きな稲垣足穂の文学は稲垣自身が行っているが自分の文学はおかずがない分楽であると言うのである。つまり食物に対する文字列と言うものが一切出てこないところが稲垣文学の美学なのだ。私は稲垣研究家であるから初版から全集まで全部彼の描いたものに目を通しているが膨大な著作の中で唯一食物に関して記述している短い文章がある。それは、ハンバーグサンドイッチはうまかった作家の室生犀星は田畑の文新に暮らす前は東京の南のその頃畑を開いた新開地であった馬込界隈に暮らしていて、室生再生を訪問した稲垣は駅前のカフェあたりでハンバーグサンドイッチをご馳走になったらしい。それ以来私の頭脳の中では稲垣とハンバーグサンドイッチが不可分に結びついているのだ。日常でハンバーガー屋さんに行ってそれを食べると言う習慣が一切ない。ただしヨーロッパではバーガーキングとかに行く事はある。単純な理由であってあちらはアルコールライセンスを持っているからハンバーガー屋でビールが飲めるのである。稲垣好みのハンバーグサンドイッチを作ろうと思い立って明治の冷凍ハンバーグの20個入りと言うのを注文して忘れている頃にアマゾンから発送の連絡があった。発注して1から11日目なのである。これは時間がかかりすぎるな普通のアマゾンだと注文した翌日の午前中には品物がついている。アマゾンの沖杯と言うのは勝手にドアの外に置いてくれるから便利なのであるが、最近はアマゾンの配送にクロネコヤマトが下請けをするようになった。そうすると起き杯ができなくて対面でものを渡すようになるのが面倒である。しかも冷凍ハンバーグなのでクール宅急便で到着するのがさらに面倒だ。もう一つの問題点は家の古いアパートのインターホンが30数年ぶりに新しくなったのだけどこれが回線の不具合などでうまく働かないこともある。だから配達員の人が画面で見えているのにこちらが連絡が取れなくて配達員の人は帰ってしまったりした。せっかくの稲垣風ハンバーグサンドイッチであるがそれを作るまでに2週間近く時間が必要と言うのも面倒なものである。2024/01/11 09:28:5581.名無CCDさん@画素いっぱい45B3j女性の職業で1番人気があってセクシーであるとかかっこいいとか言われているのはエアラインのCAさんである事は間違いない。私は仕事柄なのかどうなのか知らないがCAさんの友人知人がたくさんいるのである。だからよく話す皆さんが仕事の時はCAさんの制服を着てちゃんと仕事をしていると言う事はそのレベルで理解していてそういう職業を退職した後に日本航空あたりだと証明書が出てきてそれが1,000,000時間にもうちょっと足りないと言うような証明書があったりするのが凄いと思う。レモン別の見方を考えてみるとこれは日本の事だけではないと思うがいわゆるCAさんの勤務中に写真的な興味を覚えてそれを盗撮したりしてそれがけしからんと言うことでまた犯罪のいっぽ手前まで行くようなことがあったりするのは私から見るとなかなか不思議である。女性の専門職の職業としてこれはNew York Cityの話なのであるが女性のポリスマンはいるけれども私がマンハッタンにいた当時の十数年前は確か女性のファイヤーファイターは禁止されていた。要するに非常に危険な職業で死亡率は高いと言うような理由で女性の消防士はいなかった。、、、一方で女性のポリスマンはいるわけだからそこら辺の違いが面白いと感じているかっこいいポリスウーマンもいるしね。それでこのワンショットは墨田区京島で物流関係の女子なのであるが別のショットを撮影していた時車が私の向かい側に泊まってそこからものを運ぶのでバックドアを開けている女子なのである。仕事をしているキビキビした感じのほかに例えば飛行機内で感じるCAの人みたいにちょっと軽いセクシーな感じが私のほうに波として伝わってくるので反射的に持っているエプソンのデジタルカメラで撮影したのである。かなりのロングショットで細かいところがよくわからないかもしれないがこの女子のセクシーポイントは何かと考えてみるとまぁこれは男性から見ると普通の評価点であるのだがまずポニーテールである事とそれから足元がハイソックスであることかな?でもそれだけでは重要なセクシーポイントである事はなくてドアを開けている全体的なアクションが何かそこにローマ時代の女性のアマゾネスの彫刻を見ているような感じがするというのがこの場合1番適切な表現の仕方かもしれない。2024/01/13 14:48:1182.名無CCDさん@画素いっぱいgcNz730年近く前の話だがコシナレンダーの小林さんから連絡があった関係でスタートアップした頃のフォクトレンダーブランドのライカマウントレンズの広告のお手伝いをしたことがあった。30年前からコシナレンダーが登場して多くのライカマウントレンズを供給した事は画期的なことだった。それ以前の我々は古めかしいライカのレンズとか、キャノンとかニッコールを探して使っていたのである。1番使っているレンズはこの35ミリef 1.7である。このレンズが素敵なのは描写も素晴らしいのであるがそれよりもレンズの第一面が凹レンズになっていることだ。数年前に亡くなった超有名写真家大倉さんとはよく中古カメラ屋さんで出くわしたものだが彼が持っていたのが頭脳35ミリef 1.7なのである。新宿の大倉さんの事務所に遊びに行ってレンズ談義などをしていると、大倉さんは合法磊落な人だから俺が死んでもこのレンズはお前みたいな奴には絶対やらないぞなどと冗談をおっしゃるのである。35ミリef 1.7の頭脳レンズは手に入らなかったけれど同じスペックの子のコシナレンダーなら何しろ第1面が凹レンズであるから描写が優れている上にセラピーレンズと言うアドバンテージがある。2024/01/14 14:46:2283.名無CCDさん@画素いっぱいWK4aT足掛け3年以上前に久しぶりに関東カメラに見学に行くので、川崎駅からではなくてわざと遠回りして名前を忘れてしまった何とか駅で降りた。そこには川崎市木月と言う地名であって、これは我々オールドカメラアクセサリー、愛好家にとっては忘れられない名前なのである。日本のカメラに電気露出計が入る前の話であるが、この川崎市木月と言うところで露出計算尺が作られていたのであった。カメラ雑誌でも結構有名で、カメラ雑誌の名前は忘れてしまったが、サロン露出計と言う名前で販売されていた。カメラ雑誌の名前は確かフォトアートではなかったかと思うが、そこら辺はよく記憶していない。30年ほど前に東京カメラクラブとかアルパ研究会と言うばかばかしい集まりを佃島でやっていたのであるが、その時一時的にブームでこのサロン露出計の話題で盛り上がったことがあった。このサイズが標準的なサロン露出計のスタンダードモデルであるが、それよりももっと小さくてアクセサリー、シューがつけてあって、カメラの上に乗せると言うことができるモデルもあった。要するに、これは万能露出計算尺とでも言えるものであって、日中の光から月の光までありとあらゆる露出に適応しているのである。夜景等と言うのは撮影が1番決定しにくいものであるが、それも何段階か明るさがあって、銀座の一流店とそうでないところでは、同室に1段ステップに差があるとか、なかなか細かい展開となっている。しかし、30年前のアルパ研究会の時代の時間軸で見ても、このサロン露出計はすでにできてから40年近く経っているのである。だから珍しいものであると言うだけの話題であって、これを実際に使うと言うカメラクラブのメンバーはいなかった。大体30年前に話題になっているこの露出計算尺であるが、その頃すでにメンバーは中年であったから、それから30年経てば、ものすごい老眼になって、こんなに細かい文字が見えるわけもない。2024/01/16 08:31:0884.名無CCDさん@画素いっぱいmT4eC東京の時間経過を50年以上の長さで観察していて、面白いと思うのは、すぐなくなってしまうであろうと予想している。風景が想像の外長いこと生存していたり、あるいはその逆で、これはすぐ失われていく風景ではなくて、ずっと留まっていると思っている風景が、案外すぐなくなってしまうという皮肉なポイントがあるのだ。この街角は東京スカイツリーの敷地のすぐ外側にある。ガラスとか鏡を扱っているお店であるのだが、東京スカイツリーの建設が決まった。 15 6年前にこの界隈を歩きまわったのである。それで敷地のエリアに面接している場所に、この古いガラス屋さんがあったので、ここら辺は賑やかになって別の新しい食品店にでもなるのであろうと考えていたのである。ところが実際に華々しく東京スカイツリーがオープンしてみて、それに面している古いガラス屋さんはどうなったのかなあと興味を持って見に行ったら、驚いたことに十数年前と全く変わらない状況であったので、スカイツリーのケーキで何か街が元気になるのではないかと思っていたが、私の予想は完全に覆されてしまった。お店はボロボロで、このように文字の並び方もそのままで十数年間何も変わらないまま、お店はどんどん古くなっていくと言うポイントは私の古い街を愛すると言う視点からすれば、それはそれで納得できることなのであるけれども、逆のポイントで考えれば、スカイツリーだけ反映して、後は野となれ、山となれというのが、恐ろしい東京の風景であることを再確認したのである。お店はボロボロで、このように文字の並び方もそのままで十数年間何も変わらないまま、お店はどんどん古くなっていくと言うポイントは私の古い街を愛すると言う視点からすれば、それはそれで納得できることなのであるけれども、逆のポイントで考えれば、スカイツリーだけ反映して、後は野となれ、山となれというのが、恐ろしい東京の風景であることを再確認したのである。2024/01/18 06:32:3985.名無CCDさん@画素いっぱい173jF50年以上前のウィーンの旧市街の路地裏には、歴史的な車が普通の感じで止まっていたが、それは50年以上前だから、当時はそういう車がクラシックカーであると言う認識もなかった。このスタイルが遅れた古めかしい青い車に関しても、これが有名なブランドであると言うことを知ったのは、それから10年以上経過してのことなのである。撮影はオリンパスワイドスーパーの35ミリF2と言う木村伊兵衛さんがアサヒカメラのニューフェイス診断室で絶賛したレンズシャッター式35ミリ広角カメラでレンズは明るいF2のレンズが付いている。1973年からウィーンに暮らす以前の私の仕事と言うのは広告写真家であって、主にトヨタの車の撮影をしていた。それでこのライティングであるが、これはヨーロッパの普通の狭い道に止めてある車でその仕上げが素晴らしいのなら、スカイライトから光が降ってきて、車の側面と言うのは車道になると言う理想的なライティングなのである。私は会社の中でも駆け出しカメラマンであったから、写真部長はいつかはクラウンを撮影して我々1番下っ端は出たばかりの800 CCのトヨタパブリカを撮影したりした。そういう安い車をブガッティと同じように取ると言うのはなかなか大変な仕事であって、同じように撮影できるわけは無い。スタジオ撮影などでも周りに黒い影が来るようなライティングをして撮影したが、やはりトヨタパブリカはトヨタパブリカであって、ブガッティではないと言うところをごまかして、撮影しようと言うところに、当時の開発途上国の広告写真のリアリティーが存在したわけだ。2024/01/20 09:52:3786.名無CCDさん@画素いっぱいMYqYB1983年のことだが、ニューヨーク近代美術館でアメリカの写真を研究していて、その影響で8 × 10インチのカメラでニューヨークをかなり撮影したのである。あるとき、それに飽きてきたと言うのではないが、キャナルストリートの蚤の市でパノラマカメラを発見したので、これで縦画面でマンハッタンをとってやろうと浅はかな思いつきをした。ロバートフランクは自分はコンセプトで自分の写真を撮った事は1度もないと言っているが、私の場合そういう迷いが生じたわけである。キャナルストリートのセラーさんはそのパノラマカメラを250ドルだと言うのである。280円レートの時だから250ドルは大金である。それでセラーさんを連れてソーホー地区のロフトまで来てもらって、250ドルを支払った。それで私のニューヨークのパノラマたて画面シリーズがスタートしたのである。ニューヨークの空間構造からするとパノラマカメラを横画面でとると言う事はちょっと考えられない。ワールドトレードセンターはカメラの距離がちかすぎてうまく撮影ができなかったが、Empire State Buildingは撮影距離を十分にとって周囲から観察できるので、むしろ魅力的なモチーフだった。その当時のニューヨークの出来事を記録した茶色い表紙のメモが手元に8冊ほど残っている。それのページをくっていると時々午後エンパイア光るなどと書かれていた。午後のビルの谷間の闇の中を歩いていると、その界隈で1番高いエンパイアがまだ光を浴びて路上を歩いている我々に語りかけてくるのである。なくなった写真評論家の平木が編集した日本写真全集とか言うシリーズの最後のページにこのショットが掲載されていたそうだ。2024/01/22 05:20:4087.名無CCDさん@画素いっぱいbNnvhアンリカルティエブレッソンは撮影旅行に行く時に50ミリと90ミリと135ミリのレンズを持って出かけるのであるが135ミリのレンズが重いからと言うので2日目か3日目に旅先から小包で送り返してくるのだそうである。確かにこれはフットワークの良いブレッソンにしてみれば当然のことで大きく思い135ミリのレンズは使いたくないのはよくわかる。例えば雑誌の仕事などで海外に行った時であるが私の仕事のやり方はライカエム5に21ミリと35ミリと90ミリのレンズを持っていく。それでこの3本のレンズがあれば雑誌のアサインメントならば完璧にこなすことができる。90ミリのレンズの使い勝手と言うのはこの場合非常に重要なものであってまずポートレートには絶対欠かすことができないレンズであるが風景とか建築物の1部をその存在感を自然に表現すると言うバックグラウンドで撮影するときには90ミリレンズは非常に有効である。かなり前マレーシアに取材に行った時もライカエムファイブに同じように3本のレンズだったがその時はたまたま戦前のエルマー90ミリを持っていったのである。このレンズの描写が素晴らしくてもちろんメディアであるからカラーで撮影したのであるが表紙に使ったのも戦前のエルマーの90ミリで撮影したショットであった。その他によく使う90ミリはコラプシブルなエルマ90ミリである。50ミリの標準レンズみたいにコラプシブルでへこますと全長が短くなると言うレンズであるがその構造はかなり複雑で当時のライカの会社はよくこんな頭痛の種になるようなめんどくさい構造のレンズを作ったものだと尊敬するのである。それで最近よく使うのはこのトップコール9センチ3.5のレンズである。これは描写が非常に素晴らしくてライカのレンズと同等かあるいはそれを超えているかもしれない。さらにありがたいのは後期高齢者にとっては重さのことなのである。このレンズが設計された昭和30年代初めに当時新しい素材としてポピュラーになっていた生産物用のアルミニウムの強靭で軽いと言う素材があってそれを積極的に使っているのだ。しかもレンズのデザインが素晴らしい。2024/01/24 04:44:4088.名無CCDさん@画素いっぱいAs093日本が敗戦してその後に作られてすべての興行生産物はメイドインオキュパイドジャパンの名称をつけることになった。ところがこれがなかなか屈辱的と言うのか何と言うのかわからないけどその刻印をなるべくわからないところにつけるというのが当時のトレンドであったのかどうか?ニコンのカメラもキャノンのカメラもメイドインオキュパイドジャパンの刻印は取り外し式の底蓋の表面に付いている。これがメイドインジャパンだとローマ字表記の場合短くて頼りないのだが、メイドインオキュパイドジャパンの場合には全体の文字が小さくなってしかも文字列が長いので何か非常に精密カメラの印象をそこに与えるのが面白い。^_^その当時のキャノンの交換レンズの場合であるがこれはレンズキャップにメイドインオキュパイドジャパンの刻印が打たれている。つまりレンズ本体からリアキャップを外してしまうと所属不明になってしまうわけだ。ニッコールの交換レンズの場合はレンズ本体にメイドインオキュパイドジャパンの刻印が付いているがこれがまたかなり変わったところでレンズの裏側の真鍮製の距離計連動カムの表面に小さく小さく刻印されているのである。それでこのカメラミニオンであるがこれはカメラの底蓋の裏側に目立たないように刻印されているのである。2024/01/27 00:14:1489.名無CCDさん@画素いっぱいpH2il10年近く前パリにライカの1番最初のモデルつまりレンジファインダーのついてないシンプルなカメラを持参してアサヒカメラのための撮影をした。その時痛感したのは逆ガリレオ式のシンプルなファインダーであっても構図を決定するのには何の問題もなくてむしろ使いやすいと言う印象を持ったことだ。世の中では1956年に登場したライカM3のファインダーがベストであると言うことになっているが実際にライカで撮影をするときはそんなに厳密に細かいフレーミングをするわけではない。むしろ逆ガリレオ式のシンプルなファインダーの方が構図を作りやすいと言う意外な一面もある。それで東京光学が戦後すぐに作った非常に小さな35ミリカメラがあってミニオンと言う名前である。40ミリの広角レンズの撮影の角度が分かる小さな小さなファインダーが小さなカメラの上にちょこんとついていると言うところがいかにも精密機械と言う感じで嬉しくなる。そのファインダーの形状が素晴らしいのであるが特に見所はこのファインダーの目から覗く方つまりアイピースの仕上げが非常に良いというのがポイントだな。2024/01/28 04:09:4990.名無CCDさん@画素いっぱいUFZwpジョナスめかすはリトアニアの出身で戦後になってドイツの収容所に収容されていたのだ。そして最終的にはニューヨークに到着したのである。最初はシカゴに行く予定だったらしいが、ニューヨークの夜景に感激してそこを住処にすることにしたと言うストーリーがある。ジョナスめかすは移民のファーストジェネレーションであるから、英語はあまり得意ではない。英語がネイティブではない。それが逆にいい感じであった。1連の彼のムービーで語られている彼の言葉は、映画はライブレコーディングではなくて、アフターレコーディングなのであるが、そのネイティブスピーカーではない。言葉の端橋に彼のリアリティーがにじみ出ている。私はジョナスめかすに会うことができたのは2回だけであるが、それでも多すぎるのではと自分では思っている。1983年の11月のファーストウィークに午後5時ごろであったが、当時暮らしていたソーホー地区の角で出会ったのである。ショッピングバックを下げていた。その翌月の12月に、ジョナスめかすのレトロスペクティブの映画界が、原美術館で会ったときにが2度目なのである。そこで彼の事、映画で有名な故郷の母上が最近なくなったと言う話を本人の口から聞いたのである。私が彼に聞いたのは、いくつの?のボレックスカメラを持っていますかと言う最低のインタビュアーの質問であった。それに対して彼は今までカメラを3台買いましたというのが答えであった。これが彼が最初に買ったボレックスカメラである。900ドルもして、当時は大変な高い買い物で借金をしたそうである。このカメラは数年後に友人のフィルムメーカーに貸したのであるが、デモの撮影をしているときに海に落としたそうである。泳ぎの上手なそのフィルムメーカーは落下したボレックスを回収したそうだが、それ以来そのカメラは完璧に動く事はなくなったので、その翌年ににだいめのボレックスカメラを手に入れた。ごく初期の彼の日記映画では、若者のジョナスめかすが気取った感じで、ロフトの屋上を行ったり来たりしている。短いフイルムが残されている。なかなかのイケメンであるな。2024/02/01 04:51:1391.名無CCDさん@画素いっぱいtkHgA1960年代の交換レンズでなかなか懐かしいのはこの写真に示すようなゼブラパターンのレンズである。その当時の小村レンズにはこの仕上げのレンズが多かった。それが私にとってその頃の価値観からするとちょっとネガティブイメージであって、当時のトップクラスのカメラの交換レンズ例えばニッコールとかキャノンレンズにはゼブラパターンのレンズはなかった。ライカのレンズにもゼブラパターンはなかった。そのようなレンズメーカーのゼブラパターンのレンズが安物であると言う認識は私のレンズ差別と言うわけでこれは良くないことだと思う。それに実際に私が1番最初に手にしたのは小村の135ミリレンズであったことだそれでも当時は1万3800円もして当時の労働者の1月の給料のまさに同じプライスであったのだ。その^_^時代の流行歌に13,800円の給料で贅沢をしなければ食べられるじゃないかというのがあってこれがまさに時代背景なのである。ところが時代が変わってくると現代のレンズではゼブラパターンと言うのは全く見なくなったから逆に人気が出てきているということが面白い。手元にある小村80ミリef 1.8のレンズがゼブラパターンであってこれはレンズマウントが歪んでいるので撮影用には使えない。もう一つのゼブラパターンのレンズは同じく小村の105ミリである。これは数年前にガラクタ屋さんのところから安く買ったものであるが、レンズマウントはぶつけてないから手元のカメラに使うことができる。2024/02/03 10:23:4792.名無CCDさん@画素いっぱいKT3kOディーラー向きのライカのカタログ1966年版初めてライカカメラを見たのはシュミットの当時の神田のお店である。この立派なカタログは当時ライカのディーラー向けに発行されていたもので一般的には手に入らないものだった。それが後の時代になって入手できるようになったので私の1番最初のライカと接触した記憶を懐かしく思い出している。1960年代当時はこのディーラー向き総合カタログはドイツ語と英語とフランス語とイタリア語やスペイン語はあったかどうかはわからないが日本語のカタログはなかった。1966年と言えば高校3年生であったわけで神田のシュミットに行ってライカの実物を見てびっくりした後に高校生のお小遣いでも買える純正のストラップを購入した。部長さんが2本のストラップを1本の値段で売ってくれたのでそのストラップはあれから60年が経過しているがいまだに使っているのである。1966年版のカタログを見ていていろいろ懐かしいのはライカビットMPが掲載されていることだ。その当12000円で日本橋のカメラ屋さんで買ったのだがそれからの60年近くの私のライカの生活は このライカビットを売ったり買ったりすることで、半世紀が流れていった。1966年版のライカの総合カタログがダンディーなのは、最初のページがライカM3であることだ。その次がライカM2であって、そこにライカエムディーが続くのである。ライカフレックス等は新人と言うので、だいぶ奥のほうのページに押し込められていたのを面白い。この総合カタログが素晴らしいのは、カメラの画像は実物の写真ではなくて、精密なイラストレーションであったことだ。これはなかなか頭の良いことであって、カメラやレンズをイメージして、それが欲しいと思うには、実物の写真よりかはイラストレーションの方がはるかに欲望をかきたてるのである。ニコンのカメラもレンジファインダーの時代とか、最初のニコンエフの時代には広告は写真ではなくイラストレーションであった。これはカメラの画像のアイコンであるわけだから、そういう宗教絵画をみながら私は成長してきたわけである。2024/02/05 11:18:2893.名無CCDさん@画素いっぱいIzV2Lなくなった写真家須田さんに初めてお目にかかったのは1966年の4月29日の当時の天皇誕生日の日に皇居で出会ったのである。須田さんはその頃から活躍していたし、私も作品を発表し始めた頃だからお互いにこれからがんばりましょうと言うことでずいぶん一緒に撮影に行ったりコーヒーを飲んだりお酒を飲んだりした。須田さんのご実家は千代田区神田富山町25番地の何のご商売かはわからなかったが木造2階建てでエントランスには広い土間があってその奥がリビングになっていた。ちょうど滝田ゆうの古い漫画に出てくるのと同じ典型的な昭和の家であった。それで須田さんに連れられてずいぶんあっちこっち社会勉強をさせてもらったのである。このお店は神田駅前から斜めに道をまっすぐ行って蕎麦屋の松屋に出る手前の右の角にあった。しかし今見ても何屋さんであるのか一向にわからないと言う不思議なお店なのである。この建物が亡くなってちょうどウィーンから戻ってきた頃のこの場所は覚えている吉野家の牛丼屋さんになったのだ。その店が今あるかどうかはちょっとわからないが須田さんと私はこの店の先を通っておそばの松屋ではなくさらにその先にあるお蕎麦屋さんで酒を飲んだりしたのであるから20歳代の人間としては生意気な振る舞いであったと思う。ずいぶんいろいろ東京を案内してもらって、社会勉強したわけだが、唯一須田さんに勧められたけれどもいかないところがあった。トルコ風呂である。私は猫が膝の上を歩いてもくすぐったくて悶絶するようなのである。有名なカメラ関係の会社の人に接待されて川崎で飲んでいた時に赤瀬川さんと私がお客さんであった。その時にそういうのを知らないと川崎に行ったことにならないと言うので、社長さんにソープランドを勧められたのであるが、赤瀬川さんと私はいきなり急な用件を思い出して速報。失礼したのも、今は懐かしい。2024/02/09 05:06:5394.名無CCDさん@画素いっぱいJXhVV前世紀の30年代になにが流行したか?これは手元に保管されている、当時のシュミット商会の「新時代のカメラ ライカ」にちゃんと表現されている。40ページほどのカラー表紙の冊子だ。「発売後十年、ライカは全世界に亘って十六萬の愛用者をもち、その使用者は所謂燎原の火の如く日々激増しつつある事実は、ライカが実に年間十六萬の人々によって試験され、その、無比なる卓越性が完全に認められたる(る)ことを立証するに他なりません。これが冒頭の文章でなかなか名文だ。(る)はママであって、最初に力を入れすぎたのか、誤植である。その後、精密万能性速写性能形態の美と、それぞれの長所が各ページで述べられている。こういう昔のリーフレットの良さは、時間がそこで停止している紙の上のタイムマシンである点だ。そこに登場するイラストのライカは実に美しい。実際に欲しくなる。いや、その時代のライカは皆、机の上に存在するのに、自分の欲しいライカというのは、実物のライカではなく、紙上の「存在しないライカ」だ。つまり、そこに「偽ライカ同盟」の神髄がある。2024/02/11 05:21:1395.名無CCDさん@画素いっぱいIrZzQ40年前マンハッタンにいた時は42丁目と8番街の安ホテルに行ったので、そこに1番近くにある文房具屋にメモ帳を買いに行った。アメリカでどこにでもある。メモ帳で75セントだったかな?42丁目東8番街の角に結構乱暴なバーがあって、そこでビールをいっぱい飲んだりすると頭の上をからのビール瓶が飛び交ったりしている。周りは私と同じようなジャンキーさんだらけ。後で知ったのだが、ツーリストが言ってはいけない。ニューヨークのバーのトップスリーであったらしい。それでニューヨーク近代美術館のコレクションの記録を取った。近代美術館はスタディールームには鉛筆しか持ち込めない。それはインクで落書きなんかされたら困るからね。それ以外の街の風景とか、街の印象はボールペンかインクで書いてある。へたくそな風景とか通行人のスケッチもある。その6冊のメモ帳を今進行中のホームインプルーブメント運動でネットオークションに出した。そうしたら住人の人が購入を希望して50,001選円と言う値段ついた。誠にありがたい。今の時代ならテキストも写真もクラウドでなくなる事はないが、アナログのデータはこれ1つだから私のことを考えてくれている人の手に渡ったのは嬉しい。よく書いていることだが、私の写真を理解してくれる人は世界でおよそ50人ぐらいだと思うから、メモ帳を手にした人は、そのうちのお一人と言うわけだ。2024/02/14 11:11:5396.名無CCDさん@画素いっぱいtOCRfFacebookなどを見て私が感心しているのは何が何でも最新型のフルサイズのデジタルカメラでないと気が落ち着かないと言う1種のカタルシスに落ち込んでいるカメラファンが非常に多いと言うことである。これは最近の状況なのかなと思ってカメラブログの20年前の頃をチェックしてみたら、その頃私は有楽町のビックカメラに行って、売り場を観察したら、その当時から何が何でも最高級でないと気に食わないと言うそういう価値思っているカメラファンが当時の最新式のデジタル一眼レフカメラに密集して集まっていたと言うことだ。20年前の最新式のデジカメと言うのは、今はほとんど市場価値のないモデルだけども、そうなると今度はそういう皆さんはやはり最新型のモデルのほうに興味がいっていくわけだから、これでデジタルカメラのマーケットはうまく展開しているのであろう。昨年あたりからフィルムの値段が異常に高くなっていて、モノクロフィルムが特に高くて1本4000円だと言うようなそれを買ったということがステータスになっているのも不思議な状況である。要するに、ハワイに行った日本人ツーリストがあちらの物価高を自慢しているのと変わるところは無い。それで私のフイルムカメラとデジタルカメラに対する考え方が最近変貌してきたのは非常に面白いことだと思う。実用品としてのフイルムカメラの場合はそこにフイルムを入れないとスタートラインに立てないわけであるが、自分には型遅れのiPhoneとかiPadがあるから、日常生活で必要とする画像がそれで撮影するということが1番簡単なやり方なのである。常用しているiPhoneは5年位前のファーストモデルと言うやつで小型軽量だしコストパフォーマンスは非常によろしい。5年ほど前に中古で買ったのである。それは家人が使うiPhoneであったのだが、家人はアンドロイドを新しく使うようになったので、そのお下がりで使うようになった。それは別にお財布携帯にするわけでもないし携帯電話として通話をするわけでもない。カメラがわりに使うのである。携帯電話で通話をしないと言う私の最も重要な哲学的生き方になっていて、緊急事態以外には携帯電話を使う事は無い。最後の私の緊急事態は2千11年3月11日の東日本大震災である。2024/02/16 06:53:2797.名無CCDさん@画素いっぱい23pIvニッコールレンズの製造番号と言うのは、研究いいえの間ではいろいろな研究が進んでいるようであるが.ごとのばらつきがかなり大きくて1つのルールによって製造番号が設定されてはいないようである。ところがこの場合戦後になって作られたニッコール5センチレンズと言うものは、なぜか1つのルールで作られていたようである。この個体であるが、製造番号の最初の705と言うのは1947年5月に生産されたと言う意味なのだ。その次の3桁のロットが実際の製造本数である。なぜこんな細かいことを言い出したのかと言うと、レンジファインダーのニコンカメラで正式に5センチ、エフ3.5のレンズが標準レンズとして付いているのはファーストモデルだけなのである。その後以降のモデルは5センチの標準レンズは明るさがf2あるいはエフ1.5が決められている。日本カメラで20年ぐらい連載した私のカメラエッセイの1番最初がロバートキャパのニコンエスと言うストーリーであった。そこで登場したニコンエスには5センチ幅3.5のレンズが付いていた。こういうことが普通にはありえないので、おそらく物好きな人がライカマウントのこのレンズのヘッドだけを使って、ニコンエフマウントに改造したものだと思う。それでもこのレンズが非常に注目をひいたようで、ニコンコレクターの有名な人がそれを見たいと言うので、新宿の喫茶店でお昼ごろにあったのだが、次から次えとニッコールレンズ談義が展開して6時間位のロングトークになってしまった2024/02/17 07:02:3598.名無CCDさん@画素いっぱい1NWlvエルマーレンズでもテッサーレンズでも4枚構成が標準と言うことになっている。それより下1枚レンズ構成の少ないレンズが好きなのである。理由はよくわからないが、レンズ構成が少ない方が、逆にレンズの余計な濁りとかゴミとか数が少ないから、ちゃんとした写真が映るのであろうと言う初心者的考えが常に半世紀以上私の頭脳に存在する。例えばこのレンズはカールツアイスが出した。蛇腹式カメラスーパーねってる用のレンズである。数が多いのはテッサー5センチef 2.8である。それで3枚構成のこっちの方が値段は少し安かった。ここら辺にトリックがあって、我々日本人のカメラ選びはまさにそこに尽きるのであるが、高い方が良いと言う認識があって、皆さんとんでもない値段のエフ0.9号のレンズを買ったりするのである。3枚構成レンズで、最近私が気に入っているのが日本製。6 × 6センチの一眼レフのすごくシンプルな藤田66と言うモデルがあるのだが、これの80ミリef 3.5のレンズがやはり3枚構成なのである。30年ほど前に矢切の渡しをこのカメラどこのレンズで撮影してみたらその仕上がりが良かった。当然の話であって、昼間の光がたくさんあるところで、3枚構成のレンズで絞り11に絞って撮ったのであるからその結果が悪いはずは無い。でも、こういう思い込みが写真家にとっては、結構大切な心理的ポイントであるのだ。2024/02/19 06:04:5699.名無CCDさん@画素いっぱいtOpX3写真家の小松さんは半世紀近い友達である。私の1970年代のウィーン時代に東京カメラクラブの田村さんから紹介された。小松さんは50年来世界中の人の暮らしを撮り続けている人である。Telcと言うのは、南モラヴィアにある。ルネッサンスの広場がそのまま取り残されて現代になっている。古い古い街だ。オーストリアの国境に近いのであるが、社会主義国時代には外国人は立ち入り禁止であったので、世の中に全く知られていなかった。私がこの町を初めて知ったのは、コロナで亡くなった。プラハのPと一緒にウィーンに遊びに行った帰りに車でここに来たときにびっくりしたのである。だからそれは1989年よりも後のことだ。90年代初めになって、100円カメラ雑誌である。カメラジャーナルを始めた頃に、二十数人の旅行団を結成したのである。それでウィーンからこのサウスモラヴィアの古い街を経由して、ドレスデンを通ってベルリンに行くコース。おそらく私はこの古い街に宿泊した最初の日本人の1人であると思う。広場に一見しかない。ホテルに予約を入れたら、日本人を受け入れるのは初めてだと言っていた。ウィーンから観光バスでこの小さな広場に入る時、街のゲートから観光バスが入れないので、広場の外まで出るの車を歩のスーツケースを運んだのである。結構広い街の広場をぐるりと四角く取り巻く回廊があった。街の広場の周囲には水路があって、かつては水運で栄えた街であるとの話だった。この古い広場を我々がびっくりさせられるのは広場に入る前はごく普通のチェコの街並みなのである。それが街の広場に通じるゲートをくぐると、いきなり時代が数百年前に戻ると言う具合だ。小松さん撮影したこの画像はその広場にアプローチする。手前の堀割の上に架けられた橋から北側を撮影したものなのである。これは何やら懐かしくてこの通りを北に進んだ細い道が広場に通じる。手前の右側に私がよく通ったレストランがあったのだ。レストランの佇まいは、何かイタリアのそれに似ていた。最も被害の広がる辺には、ガストロノミーはほとんどなくて、私が宿泊していたシティーホールの隣の古いホテルの1階のレストランと、このレストランの2つ位しか当時は存在しなかった。2024/02/23 00:39:36100.名無CCDさん@画素いっぱい8Q5VW昨日(火曜)は、講談社のセオリーのインタビューがあった。次号で「定番」特集をするので、そこで「カメラの定番」に関しての取材であった。講談社の新井さんとライターの遠藤さん、それとカメラの方が2人見えた。遠藤さんは「チョートクのぼくのカメラたち」を持参。この本は好きな本なので、こういう時に持参してもらうと非常に嬉しい。例の1000ページの厚い写真集である。この本はもともと昼寝の枕にするつもりで製作した。最初はワールドフォトプレスの今井今朝春さんの意見で、自分の持っている全部のカメラを収録する予定だった。しかしそんなことは不可能なので、ここには400点弱の写真機が収録されている。それも嬉しいのだけど、それと同じようにうれしかったのは、講談社の向かいにある、小さな和菓子屋「群林堂」の豆大福を新井さんから頂戴したことだ。話は一気に三丁目の夕日時代になるのであるが、昭和30年代の自分の少年音羽時代によく御世話になったのが、このお店の豆大福なのである。当時、豆大福は10円であった。こずかいを持って買いに行ったのは、何壱百回になるか。音羽の5丁目郵便局の裏、2番地が我が家であって、関東大震災の直後に建った二階建てである。狭いながらも門構えがあり庭もついていた。路地を出てすぐ左手が郵便局。右に曲がると中学の同窓生の小林君のかみくずや(古紙回収業)があり、そのとなりにも和菓子屋があった。これを福田屋という。その隣(つまり護国寺方面に向かって)が、石黒電気商会でウインドウにはモノクロの16インチTVが鎮座していた。その隣は「かまや」という洋品店。一戸その隣にしもたやがあり、その隣はパン屋だが青柳製パンと言った。ここはほとんど営業していなかった。 その角は路地であって、そこを右折すると広い敷地の奥村印刷所があった。路地の先の角が東京電力の出張所で、これはテラコッタ造りの3階建てだった。そこをずっと護国寺方面に行くと、音羽三丁目に大塚警察署があり、(左側に)その先に白亜の堂々たる建物が大日本講談社である。ここが都電20番の音羽3丁目停留所で、自分の中学生当時であったか、デビューしたばかりの野坂さんが「アメリカひじき」か何か、単行本を周囲にみせびらかすように抱えて、横断歩道に立っていたのを思いだす。2024/02/27 08:34:20101.名無CCDさん@画素いっぱいsPIEq一夜明けて、ニュースでチエ・ゲバラが殺害されて、40年が経過したことを知った。革命の戦士も最近では、ファッションなどの流行りものに利用されて気の毒である。、それより気の毒なのは、生き残ったフィデロの方か?10時前にはヒルズ。今日はワークスペース1に入る。眼前は曇り空の東京であるが、仕事をするには格好の天候である。今日は雨ならデジカメの日だ。あ、カメラはR7で、昨日発見したムービーモード。そうそうゲバラの時代にはまだ、こういうのはなかったな。ニュースは全部、16ミリのアリとかエクレール、フィルモなどで撮影していた。そう言えば、ゲバラは大のカメラ人類であった。マグナムのルネブリが撮影したカットに、ゲバラが、ニコンS2に50ミリのf1、1付きを構えている写真がある。思えば、偽ライカ同盟は10年前の今ころに設立された。だから、ゲバラを偽ライカ同盟の名誉会員にしようと思う。「今日から新段階がはじまった」これはゲバラ日記の冒頭の部分だけど、それをよく、自分のエッセイで真似ているのだし、ゲバラのTシャツも若いころは着古したし、ゲバちゃんはニコンS2好きだし、偽ライカ同盟の構成員たる資格はある。それと、ゲバラが身分を隠していた時、その娘さんが一目みて、その人物が父親であることを感知したそうだが、それはその男性(ゲバラ)が、赤ワインを水で割って飲んでいるのを見て、それと気がついたそうだ。こういう人間の行動のパターンは認識可能だ。だから、プラハなどで赤ワインをソーダでなく、水で割ったりすると、自分も革命家になったような気分だ。革命の赤旗の赤ワイン。ああ、それとイカスモンのブログによれば、10月7日はデブシロの日であると、なったようだし、ついでにデブシロには偽ライカ同盟の「名誉猫」になってもらおうと思う。これはデブジロ本猫にお伺いせねばならない。偽ライカ同盟の旗は、下に掲載の「偽ライカ同盟入門」という本の表紙になっているように、シンボルはライカインコなのである。ここに、デブシロのマークが入ると、さらに革命的な旗になるであろう。2024/02/28 18:59:30102.名無CCDさん@画素いっぱいXAJkQ窓際に置いてあるのが150年位前のフランス製のステレオキャビネットである。そのステルヴィアの上に置かれているモデルがソ連製の飛行機ツポレフ154である。その下に見えるのがツールドフランスで記録映画を撮影するためのルノー16である。ウィーンとかプラハから東京に往復するというのは1番安い飛行機の会社がアエロフロートであった。仕事でオーストリア航空を使ったこともあったが、今の日本は経済的にドイツを負ける位の時代になってきたので、目敏いオーストリア航空はしばらく前からウィーンと東京を結ぶ便を止めている。それとも最近また復活したのかな?それで私は安いチケットと言うことで、もっぱらKLMを使う。以前にはアエロフロートを使ってダイヤモンド会員にまでなったのだ。そういう時が変なもので、あとちょっとで上のクラスのステータスになると言う時は用もないのにチケットを買って、モスクワ経由でスペインのマラガに行ったりするのである。ところで、それ以上にアエロフロートを愛用した理由というのがあって、それはソ連製の飛行機に搭乗できると言うことであった。普通の日本の人には理解できないと思うけれども、私はソ連製飛行機フェチなのである。それで当時成田からモスクワ便はイリューシン62はもうやめになって、エアバスの300であったが、その先のモスクワの乗り換えでウィーンとかプラハに行くのには、アエロフロートのツポレフ154が私の好みの飛行機だった。ーうちのハリネズミが1988年のクリスマスイブに昇天して、その翌年の2月に家人と一緒に針供養ということでウィーンに向かったのである。ところがモスクワを乗り換えようとしたら、ウィーンが、天候不良、キャンセルになって、我々乗客には伝えられないままに、プラハの空港に到着してしまった。ビロード革命が起こった。その年の2月であるからプラハは騒然としていて、我々はトランジットの特例でホテルにいっぱくしただけで、本来外は歩き回れないのであるが、当時元気だったプラハの友人のジャーナリストを電話で呼び出して、我々はモルダウ川のほとりのペンクラブに行ってうまいビールを飲んだ。その時の友人のジャーナリストは非常にポジティブで、今日のデモの効果で体制は消したから、ビロード革命は絶対に起きると胸を張っていたのである。事実彼が言っていたようになった。2024/03/03 06:50:05103.名無CCDさん@画素いっぱいwBeWQ徒歩、八丁堀駅から日比谷線にて秋葉原。昨年来、きれたままになっていた、読書スタンドのハロゲンランプ(12v 20w)をヨドバシカメラで買う。一緒にスタンド用の小型の蛍光灯も買う。これでようやくベッドの上で読書する環境が整う。徒歩、総武線沿いに浅草橋方面のラビリンスに分け入る。ポケットからGRDを取り出して連射。浅草橋のちょっと手前に「ベレッタ屋さん」(例のピストルの)があるので、その前を通り過ぎようとして果たさず。一本、北側の道を歩いてしまった。柳橋の小松屋にて「手むきのあさりの佃煮」(大潮限定)というのを曲げ物入りで求める。この前、冬の時分に「かきの佃煮」を買ったきりだが、半年に一度くらい、徒歩で柳橋に行って船の上にしつらえられた船宿のお店から、佃煮を買うのは、いい感じだ。佃煮は歩いて自分で買いに行くというのに味がある。これはなかなかの老人趣味だ。断腸亭が下町まで行って佃煮を買ってやたらに喜んでいた記述があったが、これは戦前の食料難の時とはいえ、その感じが彷彿とする。それで今日、佃煮を求める時に、一瞬ではあるが売り手の中年と初老の間という感じの男性のたたずまいを良く観察した。佃煮屋さんの男性というのは、なかなか役者でないとつとまらないという気が前からしていてのだけど、小松屋のお店の男性はその役にはまったなかなか渋い人だ。脇のお店の女性も個性的な美人であった。それで思いだしたのは、プラハで毎年、クリスタルグラスを買う時に、プラハの旧市街のユダヤ人街の老舗のクリスタル屋で買い物をしていたのだけど、そこの女性にその面差しが似ていることに気がついた。ご商売というのは、沢山の人間を相手にしているので、買い手の顔は忘れるであろうが、半年に一度ほどの客でも、それなりにお店の人の風貌は案外に忘れないものだ。晩餐にその「あさりの佃煮」を賞味する。昨夕の夕焼けは今年に入って最高とも思える美麗さであった。夜は日付の変わる時まで、「GRDワークショップ」の文字校正を見る。150ページを一挙に読んだら自分の書いたモノとはいえ、ちゃんと頭に入った。(8:12)2024/03/08 22:30:35104.名無CCDさん@画素いっぱいtVsp1今のカメラ^_^露出がオートマチックになってしまって非常につまらなくなった。人間が光を感じてそれに対処すると言うのはカメラを操作する人間にとってはかなり知的なレベルの高い作業なのである。すなわち光を感じてその光と自分が今置かれている状況を確認してそれで搾り取っシャッターを設定すると言うかなり複雑な作業をしているわけだ。、アメリカのウエストンが電気式セレニウム露出計を発売したのが1938年だった。そしてその当時の価格と言うのは50ドル近いからかなり高価な商品でもあった。だから普通のカメラユーザはフィルムの発行に表面に印刷されている露出のアドバイスを元に搾り取っシャッターを決めていたのである。そしてそれは実際効果的でちゃんと映るのであった。何十年も前にリーフリードランダーとカメラのテクニックについて話をしているときに私は聞いたことがある。フリードランダーさんあなたは撮影に同行している限り私が知ったことですがメーターは使わないんですか?それに対するフリードランダーの答えがすごい露出計は持っていないけどフイルムのパッケージに露出の氷がついているでしょうあれを使えば充分なんだ。当時のライカのカメラはスペースが10分であるから露出計算表がついていないがこのオリンパスの昭和20年代のオリンパスフレックスのようにスペースが十分にあるとこんな立派な露出計算表がついている。これはなかなかゴージャスだと思う。この良質計算表を見ていてなかなかゴージャスだと思うのは当時の最高シャッタースピードであった400分の1秒をよく使うような指示がされていることと夜の室内では400分の1秒でしぶり外付2.8で使えとあるところが凄いと思う。要するに普通の写真愛好家の考えているフイルムとシャッター速度の限界を超えた数字をカメラの計算表が支持している意味でこれはかなりスーパーな露出計残業なのである2024/03/15 03:25:04105.名無CCDさん@画素いっぱいInqfaウィーンに暮らしていた当時はドナウ運河のほとりに住んでいて、街の規模は小さいから運河沿いに歩いて行くと、旧市街のブリッジにぶつかる。そこを渡ってウィーンの中心のステファン子ドームまで行ってウロウロして戻ってくるというのが私と家人の通常の散歩コースであった。、非常に厳密なカソリックの生活習慣が生きている街であるから、金曜日の午後6時から日曜日の深夜までありとあらゆる商業施設は休みである。だから日曜日の旧市街の中心部を歩いている人が何をやるかと言うとウインドウショッピングなのである。ここいら辺が消費こそ全てと考えている。アメリカ帝国主義の手下の日本とは違うところだな。私たちが暮らしていた1970年代のウィーンと言うのは、まだ第二次世界大戦の残りの香りがそこはかとなく漂っていて、そこが良かった。モノクロームの第3の男の世界なのである。もっとも第3の男を私はオーストリアウィーンには見ていなくて、80年代に日本に戻ってから見たのである。オーソンウェルズがかっこいいと思ったのはかなりネイティブな。ドイツ語でカフェなどで店の人に注文をしているところだ。ところで、我々のウィーンの散歩のドナウ運河を渡るときのこの画像で右に見えている立派な建物であるが、これは警察本部なのである。ウィーンの警察と言うのは日本の区役所のようなところであるのだが、この砦のような例えものは、いわゆる治安とか犯罪を専門に取り扱っているデパートメントである。世界的に有名なwinの下水道私は2度撮影したことがあって、最初は警察の管内でポリスと一緒に地下に潜った。その10年後はウィーンの下水道局の管轄になっていて、要するにお役所の縦割り行政が異なったと言うことらしい。それで最初に警察に同行されて、地下トンネルに入った時は、その様子は私の写真集ウィーンとライカの日々に掲載されているけれども、犯罪警察の1番偉い人のところに最初に紹介されて勧められたのが朝のコーヒーなのである。そこで形通りビジネスマン同士だから名刺交換をするのであるが、その時私がびっくりしたのは、犯罪警察の部署のトップの人の偉いさんの名刺のタイトルは物々しい肩書が連ねられているが、名刺の反対側をひっくり返すと彼のプライベートアドレスと電話番号が印刷されているのである。これがオーストリアの警察の普通の名刺なのかどうかは知らないけれども、今は状況が変わってしまっている事は確かだろうね。2024/03/16 16:12:22106.名無CCDさん@画素いっぱいhoJuu1976年にヨーロッパを巡回した日本人写真家による3年がかりの巡回展の準備のために1976年の6月にディレクターの偉い人と一緒にファーイーストに行ったのである。当時のウィーンはまだエアラインが不便であったから夜行列車でまずパリに行ってオルリー空港からアエロフロートでモスクワ経由で東京の羽田空港に着いた。当時はまだ成田空港はできていなかった。飛行機のドアが開いてタラップから降りるときの空気の第一印象は佃煮と干物の匂いがすると言うことだった。ウィリアムクラインが1957年に羽田空港に到着した時もおそらく同じような干物の匂い雨が彼の端をくすぐったのであろう。同行のブライガー博士は切れ者の美術評論家でミュージアムのディレクターなのであるがそうなるとプロレスファンであると言う側面も持っていて、モハメッドありと猪木の試合をぜひ見たいと言うので上野のアメ横で小さな中華屋さんでその試合を見たのである。その間にドクターはラーメンを2杯頼んで餃子を2皿頼んで他に野菜炒めか何かでビールを飲んでいた。ヨーロッパ人にするとラーメンと言うのはヌードルスープであるから2杯ぐらい飲むのは問題ないのである。そのヨーロッパ巡回展がそこそこの成果を得て私の名前がザルツブルグあたりまで伝わったのでワークショップの先生のお誘いが来たのだ。写真家のシリーズで当時はシンディーシャーマンもいたけどワークショップでは実際に会っていない。私がザルツブルグのワークショップで会ったのは日本のHosoe先生とラルフギブソンである。そのザルツブルグでのワークショップの時もそうだったし一旦日本に戻ってから80年代半ばに始まる30年以上のプラハ暮らしでもこの懐中時計と言うやつはいつも私の脇でチクタク言っていた。この時計は1976年の日本での写真展準備で篠山さんとか東松さんとか森山さんとか天才荒木にあった後に小さな旅行を試みて新潟経由で富山から京都岡山に行った時岡山の時計屋さんで手に入れたのである。17,000円位したから結構高い買い物だった。最近時々てっちゃん番組をYouTubeで見るのだが私がびっくりしたのは実際の列車の運転席には凹みがあってこの時計を置くスペースというのがあるのだね。今でも実際にこれが使われていると思うとかなりびっくりしてしまう。2024/03/20 12:50:42107.名無CCDさん@画素いっぱいFjmqEプラハのアトリエで春夏秋冬を34年間ぐらい経験した。もちろん年がら年中プラハにいるわけではなくて、年間8回位2週間ペースでプラハに滞在したと言う意味だ。長い原稿を書いたりするには、6階建ての屋根裏部屋のもう一回上の7fと言うのは、結構超絶的な空間で周りと何も関係がないと言うところがよし。そうなるとよく観察するというか、親しくなるのは空を流れる雲とかレインボーとか鳥である。天窓の上を白鳥の4人組が飛んだり入ったりするのは見ていてびっくりする。あるいは出たばかりの月を見ていると、その近くを人工衛星が横切ったりする。このアトリエは、10年ほど前に、戦前の古い鉄骨製のガラス窓からモダンな透明のガラスになったので、空から光が降り注いでくる。天窓であるから、直接外を見ることができないので、椅子に乗って自分の身長を高くして外を見ると言うのは結構楽しみなものだ。それでノーベル賞クラスの発明家ニコラテスラの名前をそのまま撮った広場なのであるが、これは私のいたアトリエの1部がプラハ工科大学であったと言うことに関係があるらしい。向かいの屋根の高い高いテレビアンテナの上に黒い鳥が止まった。2009年7月の午前8時20分次の事とメモに書いてあるから、これは特定がしやすい。黒い鳥はカラスではなくてヨナスなのである。ヨナスと言う名前の種類の鳥がいるわけではなくて、カラスよりちょっと小さなサイズのなかなか頭の良さそうな黒い鳥であって、ベルリンの友人がしばらくこの鳥を飼っていて、彼女がその名前をヨナスと命名した。それで家でもこの黒い鳥をヨナスと呼んでいる。幸せのブラックバードと言うわけだ。このニコラテスラの広場は、1930年代に建物の屋根裏部屋は絵描きのアトリエとして作られたと話を聞いた。それでビロード革命の時にプラハで有名なモダンアーティストにインタビューをしたことがあって、その時の話で分かったのは、彼が住んでいるアパートメントが、ちょうど私の屋根裏部屋から広場を隔てた北側になるのである。ビロード革命の直後の話であって、そのアーティストに私のアトリエの場所を言ったら、彼はびっくりしてその広場の向かい側に住んでいると言うのである。それで付け加えて、最近1番上のアトリエに夜になると明かりがつくので、どなたかがお住まいだと思ったら、ミスター田中あなたでしたかと言うのだ。2024/03/23 08:12:35108.名無CCDさん@画素いっぱいO4iFy1973年の5月と言う時に初めて体験したヨーロッパの文化風物そして光にびっくりしたわけであるが当時のガイドブックの指示に従ってwinの中心部にあるミュージアムに行ったのである。長い長い大理石の階段を上って広大な広さのミュージアムと言うのは人間の文化の歴史がそのままに展開しているということに圧倒される。Winのミュージアムに最初に出会ったと言う事自身が私にとって非常に幸せなことであってこのくらいの大きさというかこのくらいのコンパクトサイズが人間の後の歴史的な側面を見るには適当であると思われる。これがパリのルーブルになってしまうと広すぎて歩くだけで披露してしまうと言うことになる。それでも私がwinのミュージアムに最初に出会った時と現代を比較する2店50年前は名作のオリジナルと言うのはそこにいかなければ見ることができないと言うものだった。ところが今では世界中のそーゆー美術品のコレクションがオンラインでしかもかなり細かいディティールを見ることができる。^_^人間の通信手段に関する常識を覆したのが1980余年のアップルの登場であった。私がニューヨークにいたのが1983年だからその翌年19840世界は変貌したのである。それと同じように美術品の複製と言うことに関してはあの当時と今とでは世界感覚世界構造と言うものが全く違うのだ。いわゆるフランスに代表されるような巨大な絵画と言うのは私はこの前なくてフェルメールに関しても外側の細い廊下の奥にひっそりと置かれていると言うところが気にいっている。だからwinの生活で暇な時間があると今日はやることがないからミュージアムに行ってフェルメールの作品の前に1日中座っていたいなると言うことを考えるのだ。日本の場合20年にいっぺんぐらいフェルメールがやってくるようだがこれは文化的なムーブメントと言うよりもビジネスであるから会場は超満員らしいの山手線みたいで押すな押すなで前の人の頭しか見えなくてけれどもそれでもそこに行った人は前の人の頭は見たしかしフェルメールはよく見えなかったと言うので満足するのだこれが文化と言うものですね。2024/03/25 06:15:35109.名無CCDさん@画素いっぱいXr4EJ写真集は一切手元におかない主義であるが何かの必要でガラクタ屋さんで買ったのがこの1冊である。1999年の6月頭あるから発行されたのは20世紀の最後の方なんだね。1973年の5月にヨーロッパに行くのでトランジットで雅人と一緒にモスクワのメトロポールホテルに数日滞在した。当時は反体制派の作家がこのことを書いていて人気ホテルかどうかは知らないが5つ星ホテルで結構高かった。でもその当時外国人ツーリストが宿泊できるところはそういうクラスのホテルなのである。モスクワから赤い旗が降りてその関係でその後ずいぶんモスクワには行った。でもアサインメントの仕事が多かったから自分の目で街をウロウロしてライカで写真を撮ると言うのはほとんどこのときの撮影だけだと思う。ライカに28ミリレンズだけでとったと記憶しているが、街の中心部にあるKGBの本部の建物だって自由自在に撮影できてストレスがたまらなかったなどからこれは時代が変貌したのだと考えを強くした。KGBの建物の前で警備している兵士を1枚撮影した。彼は私をその瞬間見ていたが別に何も言わない。それで面白かったのはその兵士が来ているカモフラージュジャケットと、私が着ていたカモフラージュジャケットの柄が全く同じなのである。こういうのは国際交流と言うのにあたるのであろうか?赤の広場でウロウロ撮影をしていたらジプシーの子供たちが私に寄ってきてわらわらとポケットに手を突っ込んで何かとろうとするのである。必死になって逃げた。人生で自分があんなに速く走れると思ったのはその時が初めてである。もっとも四半世紀前だからね。それでどこに緊急待機したのかと言うとパトロール中のポリスである。助けてくれdeepシーの柿にあれってれたと言うのだ。こんな事は以前はなかった。このときの撮影は35ミリフィルムが50本でそれはプラハで現像した。それを東京でプリントしたのだと思う。このモスクワの撮影の数ヶ月前おそらく1999年の春に私はプラハでウィリアムクラインに合っているのである。彼のレトロスペクティブエキジビションの展示を見るためであったがその他に依頼されて数日間ウィリアムクラインと一緒にいた。アシスタントみたいな立場であるが別にフィルム交換なんかしない。それは私などにフィルム交換をさせたら危険でしょうがないよな。2024/03/29 08:55:29110.名無CCDさん@画素いっぱいeutruブラックロードで有名な岡谷光学の双眼鏡である。そのブラックペイントの仕上げが良いので気にいっている。旅行中によく双眼鏡を使うのには理由があって名所旧跡を見るときに必要なのではない。空港の待合時間をチェックするときに座った位置からモニターをチェックできると言うのがメインの目的である。もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。2024/04/08 06:18:28111.名無CCDさん@画素いっぱい14zjS1番初期のニコンのレンジファインダカメラは601で始まる製造番号だ。その最初の300万位が数百10,000円の値が付いてコレクターズアイテムになっている。でも基本的なダイキャストは変わっていないからフルサイズに近くなった初期のニコンカメラを使うのは良いアイディアだと思う。それで我々が惹かれるのは最近あちこちで見ることのできる当時のニコンカメラの小さな広告である。^_^そのデザインが今の時点で見ると非常に優れているのも不思議だ。モダンデザインなのである。それで思い出すのは1925年にできたライカの1番最初のモデルも似たようなデザインであったことだ。この日本の広告はおそらくカメラ雑誌に登場したものだと思うけどライカの1番最初の広告は建築雑誌の中のごくごく小さなマッチ箱内の広告スペースであった。ニコンの所在地品川区大井1護前町と言うのはニコンカメラのエルサレムである。そのニコンが生まれた101号館にニコンの偉い人に招待されて最後の日の未婚の夕暮れを見たのも忘れられない。2024/04/11 05:08:07112.名無CCDさん@画素いっぱい4ECJQブラックロードと言うカメラのことをいつも考えている。プロ用であるがアマチュア用であり、日本には沢山のブラック仕上げのカメラがあるが、その中で1番ハイレベルなのがこのカメラであると言う事は50年考えてやはり間違いがないと言うことに気がついた。それで小学生の頃に見た私の記憶しているアサヒカメラのこのカメラの広告なのであるが、私の記憶に間違いがなければ中年のジェントルマンがブラック仕上げのこのカメラを構えている1ページの写真なのである。それでここら辺が面白いのであるが、子供の時私が見た記憶では、そのゼントルマンはベレー帽をかぶっているのだ。私はこれに反発した。我々の子供のときの印象では、ベレー帽をかぶっている大人と言うのはどうも信用ができないところがある。1番信用ができないのは南ベトナムで人民を殺戮したグリーンベレーがその代表だな。このブラックカメラと言うものは、製造された数から考えれば間違いなくライカM2やM3のブラックペイントよりはその数が少ないと思う。それで調べてびっくりしたのだがこの当時のブラックカメラと言うのはクロームであろうがブラックである方が値段は同じなのだ。それから数年後に日本のカメラメーカーは、ブラックペイントのカメラにステータスを持たせるために1500円位値段を上げたと言う優雅な時代だった。それぞれのブラックロードカメラには、それぞれの個性があるが、このエグザンプルは純正のちゃんとしたフィルターが付いていると言うところが泣かせる。ちゃんとした写真を撮っていたオーナーであることが偲ばれるのである。2024/04/13 14:06:59113.名無CCDさん@画素いっぱいtBepTもともとこの写真家はプラハで絵画を志したのだが、共産党を称える。絵画を書けと言われて、拒否してから苦難の人生が始まった。何度も精神病院に収容されたりもした。絵画から写真に転向して、手作りのカメラで彼が住んでいたスロバキアの小さな街でプールの女性とか通行の女性をホームメイド、カメラで撮影した膨大なプリントを制作した。地元では単なる変人扱い。しかも5月1日の命令には、予防手段として精神病院に収容されたりした。ひどい待遇だった。非常に面白いのは、その当時の社会主義国では、街のプールを盗撮することが犯罪ではなくて、このアーティストそのもののアンチ社会主義的な行動を犯罪とみなしていたのである。写真家が有名になったのは、2008年頃のバルセロナの写真展でスタートして、その後ニューヨークのミュージアムでも写真展があり、最後はプラハで大規模な写真展があったが、プラハの写真家はこの人の存在を知らなかった。その理由はスロバキアの写真家であったこともその一つだ。チェコとスロバキアが分断したのと、同じ背景で、チェコの写真家はスロバキアの写真家を認めないのである。私もプラハでの写真展を見るまで全く知らなかった。それで非常にプアーなクオリティーのプリントが集積すると1つの表現になることに気がついた。ちょうど14年前の今頃にこのすぐれた写真家はなくなったのである。その後著作権とかプリントの所有で醜い争いが展開したのはこれは仕方がないね。変わり者のおじさんが持っていたぐしゃぐしゃの大量のプリントが、いちどに黄金の山になったわけだ。この写真家の仕事を盗撮と言う人がいるが、とんでもない勘違いである。写真はもともと盗撮だからね。2024/04/15 13:07:38114.名無CCDさん@画素いっぱい8fQKM足立区は広さもかなりあるし、北千住あたりがラビリンスで面白い。それで北千住の公園で原稿を書いたりしていたのであるが、界隈で私がカサブランカと名付けた小さな白い家がこれなのである。もともとの私の言うカサブランカの意味は、佃島の部屋から見た中央大橋の白いカラーが光の具合でまぶしく輝くのをカサブランカ状態と言うのである。でもそれは私の想像に過ぎないので、モロッコのカサブランカの光が実際にどうであったのかを調べるために、2009年にカサブランカに白い街の調査に行った。それで私の想像力は実際のカサブランカからそれほど外れていないということがわかった。2024/04/19 14:34:16115.名無CCDさん@画素いっぱい8fQKMこのボール紙製のカメラは、スロバキアの著名な写真家で、世界中で写真展を開催したTickyの手作りカメラである。写真表現と言うものは、カメラメーカーに製造を頼まなくてもなくてもちゃんと自立して自分を発表できるものなのである。しかし、一般の人はこの大写真家のように才能に欠けているから、とりあえずライカとかカールツアイスが作ったと言われている、本当は全然関係ないメーカーが作っているブランド品と言うものを高い値段で手に入れてそれを使わざるを得ないというのが現状である。インターネットが登場する。20年も前に毎年秋に開催されたドイツのケルンのフォトキナと言うのは何が面白かったかと言うと、定期的な新製品発表のほかに親しいジャーナリストにアンダーテーブルと言うのであるが、内緒で数年後に計画しているカメラを見せると言うしきたりがあった。これが当時メカニズムライダーをやっていた私が未来のカメラを予測するための非常に素晴らしいナビゲーションの働きをした。その経験もあって、当時世界で最大の780,000の販売部数を誇るモダンフォトグラフィーの極東通信員でいろいろ仕事をすることができた。今の時代が残念なのは、インターネットの関係で新製品の発表がオープンになると言うのは、全部コントロールされている間だな。新製品に対する夢がなくなっちゃったね。2024/04/19 14:56:03116.名無CCDさん@画素いっぱいVpzxCフィルムを使うライカやニコンで真剣に撮影していた当時、購読するカメラ雑誌で一番ス テータスの高かったのは、スイスはルッツエルンのCJ BUCHERが出していたCameraだっ た。戦前からあるカメラ雑誌で、作品中心でメカ記事は最後の数頁に「平打ち」で入って いるあたりが、現今のメカ情報満載のカメラ雑誌とはまったくことなる方向性だった。ここに作品を出せば「国際的写真家」として認められるというのが、当時20代であった 若者のあたしの考え過ぎなのであるが、ある部分でそれは真実でもあったようで、1970 年に同誌に発表した時は巻頭が浜谷浩さん(はまやひろし)なので嬉しかった。浜谷さん は家人の親戚にあたる堀口大学が新潟の山中に疎開していた当時、大学と親交があり、終 戦のその日の真昼の太陽を撮影した名作がある。その浜谷さんと一緒にCameraに作品を出したりすれば、ライカ青年のアドレナリンの上 昇は当然だ。 当時のカメラは毎号、編集長のアラン・ポーター氏が個性的な切り口で特集を組んでい た。その中の記憶に残るのが「シークエンス」というのである。まだビデオは黎明期でデ ジカメなどない時代の話しだ。35ミリフィルムの隣同士に並んだ画像をそのまま無作為 に掲載すると、そのふたつのコマに撮影者も意識しなかった、カメラの移動と時間の経過 が自然に開示する。なんでもそんな意味の特集であった。ヘルシンキから戻って、上の事情に思い当たったのは、ヘルシンキのラストショットは半 月が見えるホテルの窓からの瞬視であり、その次の時間軸上の記録は東京は小川町のオリ ンパスにペンデジタル2の素子の埃を取るので出かけ、その戻りに「顔」の大看板に出会 って、少年時の記憶がいきなり巻き戻されたことにある。この顔の看板は過去半世紀以上 の東京のポイントの中で、一番息が長い。子供の時には都電で小川町を経由して、日本橋 に行くのが都心への正当なアクセスであった。まだ丸ノ内線のない時代の話しだ。しみじみ「顔」の看板を見て、この光景を撮影したのはこの前は1970年当時であった ことも記憶から発掘された。当時はライカM2であるがそのライカは今でも使っている。 デジカメの将来は一体どのようになるのか?2024/04/20 06:31:15117.名無CCDさん@画素いっぱいfshJOFacebookの私のメインのセクションが4月の初めに1週間ほどアクセスできなかった。それと同じトラブルがまた起こっているので、別のアカウントでやっている。ついでにトップのカバー写真を交換。これで見ると、半世紀前はカメラのファインダーを覗いているように見えるが、実際にはこれはニコンサロンで開いたエキジビションのはがきのためのヤラセです。ノーファインダーでは写真にならないので演出を加えました。2024/04/21 11:20:29118.名無CCDさん@画素いっぱいjjMpV^_^ 1996年の日本カメラの2月号と言うバックナンバーだ。友人の秋沢さんが国会図書館並みに古いものを探してきてくれるので楽しい。それで私の記憶から言うと、四半世紀前のカメラや訪問と言うよりも、ディズニーリアルに記憶の中によみがえってくる。^_^坂崎さんと中古カメラ屋さんをめぐるというのが当時の連載であって、ずいぶんいろいろ歩きました。こちらはよくが深いから坂崎さんと打ち合わせて1日5軒回ろうなどと言っていたのですが、人間の想像力と行動力は全く異なるものであると言う事をその時理解した。3軒も回ればくたくたになってしまうのではある。連載のタイトルはもう忘れてしまったが、カメラバトルロイヤルとかカメラ買い物対決とか、何かそういうB級グルメの名前が付いていたがよく覚えていません。これは銀座のカメラ屋さんでうろうろしたときのショットであるが、この企画の肝は1日の買い物は50,000円までと言うことなのだ。けれども、感心するのは、これが編集部からの経費ではなく、自腹ということなのである。面倒見が悪いというふうに思われるかもしれないが、自分の欲望に忠実であるためには、自分のポケットからお金を出すというのがこの場合欲望を満足させるための最大の理由なのである。だから面白かった。それで面白いのは銀座のカメラ屋さんの場合なのだけれど、坂崎さんと私で欲しいカメラをマーキングしておいてお互いに遠慮してそれは買わないのである。そしてここがカメラブラザーズの愛情の凄いところなのだが、翌日1人で出かけたらその時に坂崎さんに鉢合わせした。そこで坂崎さん曰く、欲望には従順に遠慮は禁物ということなのである。2024/04/23 07:20:48119.名無CCDさん@画素いっぱいOLLa4普通の優良なリスボンのツーリストは、ファドが流れる街であるなると言ってそれで盛り上がっているのであるが、私がリスボンに着いた時に、Amalia Rodriguesの何枚6日のCDを買って、後は映画の中に出てきたブリティッシュバーにほとんど毎日通う位のレベルのツーリストなのである。そーゆーわけでファドとはあまり関係がない。それよりもα間を登ったり降りたりして、そこに生活の実態のスライスされたものが現れていると言うのを見たり、写真に撮ったりするのが好きなのだ。Α間の途中に小さな公園があって、その公園はいつも子供たちの元気な声が響き渡っているのであるが、その急な坂の広場を見下ろすところに幅が3メーター位の4階建ての小さな時計屋さんがあった。その時計屋さんはすでにお店は閉じていて、ボロボロになっていて、こんなところに住んだらいいなと思っていたのであるが、それから10年ぐらい経過したら、きれいな住居になって不動産会社の札が出ていた。こういうところで余生を送ると言う楽しみも、人生には残されているのだなとちょっと感心した。それで赤い真っ赤な建物の壁に黒いズボンが下がっていると言うのはそこに生活の断面が見えると言うレベルではなくて、一瞬のパフォーミングアートのようになっているように、私には見えるのである。2024/04/25 09:45:34120.名無CCDさん@画素いっぱい6wTqq^_^ 1980年9月にリスボンのこの駅に初めて到着したのである。ポルトガルに行くと決めた。犯行の動機はその数ヶ月前にウィーンのベルベデーレきれいに出会った。ジェントルマンがポルトガルのコインブラから来たと言うので、アドレスを交換して、リスボンコインブラ経由でポルトガルをぐるぐる回った。パリの駅から出発して列車の中で2泊して着いたと言うのは、ヨーロッパの列車の旅行感覚からするとかなり遠くにきたなと言う感じがするのである。しかもこのアポロニア駅の良いところはターミナル駅であって、その先のレールは無いと言うところにある。これを私はターミナル駅の美学と呼んでいるのである。要するに、延々とレールが続いた。その途中が終着駅でまだその先にレールがあると言うのは、鉄道の美学として面白くない。それでアポロニア駅に着いて、ズルズルスーツケースを引っ張って、近くの安宿に落ち着いたのがリスボンの最初の日のことであった。まず近くのバーに飛び込んで、ビールを1杯とタラのコロッケをつまんで一息入れたのである。いつでも旅をしているときはそうだが、ホテルから1番近い飲み屋に飛び込んで、そこの名物をつまんだりすると、こちらは外国人であるから、翌日いくと思う。常連さんとして扱ってくれる。2024/04/27 09:35:52121.名無CCDさん@画素いっぱいCr6rYハリネズミ飼育としてはかなり初期ではないかと思うが、1986年から88年までハリネズミを飼っていた。その学名はをエリナセウス オイロペウス という。 オイロペウスというあたりが、いかにも「格調」が高い。欧州系ですね。欧風カレーなど よりも本当の欧州の香りがする。実際、針ねはかなりハリネズミ臭いのである。この小動物は欧州からユーラシア大陸に分布しているが、なぜか朝鮮半島まででその先には来ないのである。その針ねが、病気になって獣医さんに連れていったら、先生は「へえ、ハリネズミですか、、、もっとよく見せてください」というくらいで、当時(80年代なかば)は珍獣のうちであった。最近ではMIXIなどで「うちの子自慢」があるほどだから針ねも一般的になった。以前、羽仁進監督にお目にかかったとき、なんとなく話題がハリネズミの話しになり、監督も以前飼っておられたとかで「あの人はねえ、、」ということになった。人称で呼ぶ所に監督の針ねへの「愛」が感じられた。坂崎幸之助さんは、「あの針ねの左右の耳がラッパのようになってるとこが、可愛いですねえ」と言う。その針ねに、大枚2万5千圓で我が家に来ていただいたのだけど、同じ「商品」が家族連 れで夜更けのプラハの郊外の丘陵地を歩いているのは、なかなか可愛いものだ。 それでプラハの住民は夜、お皿にミルクを出しておく。その「恩返し」に針ねが針にりんごを刺して届けにくるのであって、これは民芸品のモチ ーフにもある。まず、「鶴の恩返し」よりも現実的だな。個人カメラ雑誌「カメラジャーナル」を10年やったけど、針ねのマーク入りの限定のリコーカメラとか、英国製のカメラバッグなどを限定販売してこれがなかなか好評だった。だからカメラジャーナルの読者さんには、その動物が何であるのか周知されていたが、銀 座の松屋のカメラショーでの自著のサイン会などでは、知らない人には「イグアナ」とか 「針千本」とか「おこぜ」を本に描いてください、とか言われた。これはひとえにあたし のイラストが下手なので針ねには多大なご迷惑をかけた。1988年だかに、動物学の分類法がかわって、それまでハリネズミ目とかいうのがあったのが、もぐら目に変更になった。それでプライドの高い、我が家の針ねは憤慨して「自死」したのではないかと考えている。2024/04/28 07:12:28122.名無CCDさん@画素いっぱいcowwP音声入力がシュールレアリズムなので、リスボンの巨大な川を音声入力したら定常側と出た。貞女川と出ることもあるし、なかなか尻は頭が良い。おだからそのままにしておく。けれども、このリスボンの巨大なリバーは、まさに海である。リスボン空港に海側からアプローチする時の飛行機の窓から見える水の広さと言うのは、川の幅ではなくて海なのである。ポルトガルの大航海時代には、ここから数多くの船が出発して、世界を帝国主義にしたわけだから、悪いところだね。それで40年通っているのに、α間の1番上の展望台の名前もいまだに覚えられないのだ。もっともいつも一人旅で自分と話をしているわけだから、場所の特定の名前等は必要がないのだ。40年前にIKKOさんと話をしていた時に、彼はその展望台の名前を私に見せてくれたのだが、何しろ40年前だから完全に忘れてしまった。私がリスボンに通うようになってから20年ぐらい経過してビームヴェンダースがリスボン物語を出した。それでドイツ人にとってはこの展望台は失恋の涙を拭くところなのである。40年前に私がこの展望台から貞女川の写真を撮っていたら、ミュンヘンから来た若くて綺麗な女性と知り合いになった。それでちょっと話をしたのだが、彼女が失恋の傷を癒すためにここに来たなどと言う事は、その人を見ればすぐ理解できるのである。それから十数年後にビームヴェンダースのリスボン物語を私が見た。ほとんど唯一の映画なのであるが、そのストーリー展開というのがやはり食えなくなった。映画監督がリスボンまで流れてきて、そこでリスボンの女性と恋愛関係になると言うまず三流のストーリーなのである。しかし映画だからこれは仕方ないよな。行方不明の映画監督をサウンドマンがリスボンで発見したときには、映画監督は、リスボンの町外れのゴミ捨て場に落ちているBMWのイセッタに隠れていたのである。2024/04/29 03:58:21123.名無CCDさん@画素いっぱいkb8lX塾長とかいう人が「チョートクの本は最初の銘記礼賛以外読む価値ねーよ」と仰ってましたが、私はそんな事無いと思いました。どれも素晴らしい本で若い頃カメラを選ぶ時の指針とさせて頂きました。2024/05/01 16:00:19124.名無CCDさん@画素いっぱいU8abo1980年の秋に初めてリスボンに行って、この黄色い電車にふられたわけである。1890年のイギリスの会社が作った。路面電車であるから古いなどと言う常識は既に超えてしまって文化財になっているところがすごい。3ブロック位前から路面電車の音がガタゴト言うので、電車が近づいてきたなぁということがよくわかる。ところが困るのは、列車の編成で、シーメンスの長い長い蛇のようなシルバーメタリックの最新型もあって、こちらのほうは全く音がしないのである。それでシーメンスの路面電車は非常に危険であって、角を曲がった時に音がしないからひかれそうになったこともあった。つまり、人類の路面電車の最初の形と最後の形が同じレールの上を走っていると言うところが面白いというか、結果としてそうなったというのが^_^歴史の美術館と言うわけだ黄色いリスボンの電車は団子になってすぐ来るかと思えば、30分たっても来ないことがある。とにかく、細い道のあちこちで、車が勝手に止まっているから、それが通行の妨げになるのだ。黄色い電車は看板を下げているのだが、40年間私が見た中で1番黄色い電車にいますのがコルゲートの歯磨きの広告なのである。これは理由を説明するよりも実際に見てもらったほうがよろしい。黄色い電車に1番似合わない広告は何だと思いますか?コカコーラ。2024/05/02 07:04:45125.名無CCDさん@画素いっぱいZAIJb10数年ほど前のことだ。Penと言う名前の雑誌で第二特集でソ連製の腕時計をやることに なった。それで当時のeBayで海外からソ連製の時計を買いまくったのである。その数 200位ではないかと思う。といっても大した事ではなくていっこの腕時計が10ドルとし てもトータルで2,000ドルと言うわけだ。 それでも向こうの業者さんにバイアと勘違いされたこともある。その時あまりいい加減も書けないのでロシアの時計の歴史を簡単に調べたら確か最初の時 計が国内で作られたのは1925年のことでモスクワ第一時計ファクトリーと言うところが 作ったのだそうである。最初期モデルの時計は石が6石位でデザインもなかなか良い。それらの時計は人にあげたり間違ってゴミと一緒に出してしまい今ほとんど手元にない。 これなどはその残りの数個のうちの1つである。当たり外れと言うものが機械にはあるようでこの個体などはクロノメーターの正確さなの でびっくりしている。 ガガーリンがつけていた最初のスペース空間で使った時計などはあちらの高校生がつけて いるような市販の安いものであった。でもそういう腕時計をつけるのが本当のダンディだと思う。ガガーリンはカメラも好きだった。あれだけ世界中を回って英雄になったのに、当時のソ連共産党はガガーリンをただ一塊だけモスクワ中心部の百貨店の外国製品を売っているところに入場を許可したのである。共産主義ケチだね。共産主義時代の彼らの西川製品に対する憧れはものすごいものだった。つまり、帝国主義よりも帝国主義を03するから、帝国主義の度合いが強い。2024/05/03 16:04:51126.名無CCDさん@画素いっぱいztoc4それで街撮影のカメラは小型の方がいいという事実に今更ながら気がついた。二十八ぶりに大阪に長滞在して週末に「帰国」した。帰国というのは実感であって、十年 ほど前にオーストリア航空でよくプラハやウイーンにいったことがあって(ビジネスクラ スが成田発より安かった)帰りは関空に着くのであるが、これが午前6時の到着である。ANAの乗り継ぎは午後までないので、南海電車?でなんばに行った。この時の印象は不 思議なものであった。旅路の果ての「世界のもっとも遠い都市」なのである。心斎橋のカメラ屋に行ったら、店 がしまっている。どうしたのかと思って、零細に考えるにまだローカルタイムの8時前で ある。ようするに、時差ぼけである。なんばに戻って、2/10 (つうてん)閣界隈を歩行して東洋情緒にひたった。それはデリ ーやハノイや、北京や、平壌よりずっと東の絶海の孤島の魔都という印象なのである。通天閣が見える範囲を歩行していれば、街中で道に迷うことはなかった。これはちょうど ウイーンの街で、シュッテフェル(シュテファン大聖堂の尖塔)を目印にしていれば道に 迷うことがないのと同じである。通天閣は羅針盤であった。通天閣はその意味でなにわの「杭」のようなものだった。マンハッタンではかつて、ツイ ンタワーが同じ役割を果たしてた。あたしはマンハッタンの街歩きでその杭を見て歩行す る方向を見定めていたのである。それにしても新世界とジャンジャン横町が「怖くない街」に変身してしまったのは残念で ある。ちょうどマンハッタンのバワリーが安全な街になってしまったのと似通ったところがある。2024/05/04 14:49:24127.名無CCDさん@画素いっぱいEc7xP今はもう存在しないカメラ雑誌の取材で、ドイツはケルンのフォトキナ2970年代から30年近く通ったわけである。現地レポートで新製品のカメラを拝借して撮影することもあったが、当時の新製品は全部デジタルカメラではなく、フィルムカメラであったと言うのも何やら感慨深い。 スイスの最高級一眼レフカメラアルパカメラが資本が変わって新しいセミ版を出したのでそれを取材に行った。その小さな会社の社長さんが冗談で作ったのがアルパカメラブランドのピンホールカメラなのである。カメラコレクターで特にアルパカメラのコレクションをしている人は、このカメラは限定版であったから、買い逃して今になって残念がっているのだと思う確か学研の付録みたいなボール紙の組み立て式であってピンホールである。それでケルンのカメラ屋さんに1本だけモノクロフィルムを買いに行って撮影した。ストリートスナップを取るわけにはいかないから、心がけるんだという意味で、大聖堂とローマ時代のコレクションがあるミュージアムのエントランスを撮影した。この当時のケルンと言うところは、ローマ帝国の最も北の部分に位置する植民地であったからだ。半世紀以上にわたって、ずいぶんたくさんのカメラを使ったが、ピンホールカメラを使ったのはそのうちの貴重なワンショットと言うわけだ。島根の出雲に在住の写真家の小池さんが、私のカメラジャーナルのバックナンバーをコレクションして、時々Facebookでアップしてくれるのでありがたい。2024/05/06 01:20:01128.名無CCDさん@画素いっぱい2BEunなにわに10日ほど居るののだが、その初日に東京でGRの発表会があった。 森山大道さんがステートメントを述べるというので、行きたかったのだけど、残念であっ た。思えば、森山さんはコニカビッグミニを使われていて、たしかなにか森山さんにお目にか かった時に、あたしの持っていたフィルム時代のGR-1をお渡しした。 あれが1995年ころであったか。森山さんのGR使いは有名である。今度のカタログは繰上さんが撮影しているのであるが、そのマンハッタンのショットが素 晴らしい。 あたしはパナソニックのLC5の当時(2001)にカタログを担当したのであるが、カメラの 作例写真というのは、それを欲しくなるというような「綺麗綺麗写真」であることが必須 である。繰上さんの写真はまず真冬のマンハッタンだから、作例としては「失敗」だが「作品」と しては大成功している。 ようするに今までのカメラのカタログの常識をひっくり返したのだ。なにわ撮影時に毎日、XZ-10をポケットに入れていたのを、GRに持ち替えて撮影してみ た。GRD4に比較するとかなりレスポンスが早くなったのはいい。デジタルの意味のDが付いていないのもいい。 ライカMと同じ方面のネーミングである。これからはその意味でOM-Dに対して、フィル ムを使う方のOMとか、ペンもフィルムを使うペンというような、電子写真機を意識しな いような故障になって行くのであろう。ライカMとGRとの最大の違いは前者が「お道具」であるのに対して、後者は「道具「で あることだ。レンズ交換して「深遠なクラシックレンズの味わいを楽しむ」というよう な、道楽はここには存在しない。そこがいいと思う。★カメラのスタイリングはiPhone5で撮影。2024/05/07 23:39:25129.名無CCDさん@画素いっぱいs8j31持参したMacBookAirのデスクトップ上に上の画像を発見した。 タイトルは「隠された庭園」となっている。これはプラハの王宮のモルダウ河に面した東側の庭園で、その名前はたしか、イインスキ ーガーデンと言ったと思う。その庭園の境は高い塀になっていて、石畳の通りの反対側に は財務省のいかめしい建物がある。まず、あまり美的とは言えない環境であるが、その細い殺風景な通りには路面電車の軌道 がしかれていて、ここを頻繁にプラハの市電が往来する。バロックの建物の中がくりぬかれていて、そのトンネルは1車線しかないのに、市電は正 面衝突もしないでどんどん交通しているのは、なにか特別なからくりがあるのであろう。バロック庭園には一箇所だけ、ドアがある。開園日に限ってそのドアは開く。それがなにか楽園への扉のように思われる。あたしはアトリエから市電に乗って、旧市街に行く時にこの庭園の前を高速で通過する。その時には、デジカメを連写するのであるが、なかなか背景と人物のバランスの良い構図はとれたためしがない。そういうことを昔はライカで、今はデジカメで行って十年がみっつも重なってしまった。この1枚はベストとは言えないがまずまずのできだ。人物の服装からすると、昨年の今頃のプラハで撮影されたものだ。ほぼ理想のスナップショットというように、こっち側の人物とあちら側の人物が呼応している。プラハを30年も撮っていて、これはなかなか撮影しがたいショットだと思う。 ★カメラはOM-D 12-50mmなにこれは2024/05/12 16:18:25130.名無CCDさん@画素いっぱいRNh9F2002年のことであるから、大昔なのだが、人気のライフスタイルマガジンがソ連製の特集をやると言うので私に依頼してきた。それでソ連製ウォッチは安いものであるから、それを200個ぐらい買って系統的な分析をしてソ連製のウォッチの歴史についても結構調べた。実は東西ベルリンの壁が壊れた後にCheckpoint Charlieでソ連製の品物を売る蚤の市みたいなのがあって、そこでソ連製の時計のクオリティーを初めて知ったのである。ドイツ語の研究資料と言うのもあって、それを手に入れてなかなか調べ物の参考にはなった。その後、雑誌の企画があって、200個1キロに買ったものだから、ドイツのセラーは私は業者さんと勘違いして、次回からはもっと安い掛け率で売りますと連絡が来たのも面白かった。^_^実際には、この雑誌の企画は、当時売りたかったソ連製のウォッチを販売するための脇から再度プッシュする企画というわけであったから、私ほど真面目に記事を書かなくてもよかったのであるが、今にしてみると、奥のチャンスが私にとってソ連製ウォッチのエントランスになったわけだ。その一例をあげておくとこのウォッチであるが、普通は西のデザインを真似したと言うことになっている。ところが調べるってみると、どうもこのウォッチの場合は逆のようであって、このユニークなデザインを西側のカンパニーがコピーしていると言うのを発見して、非常に面白く思った。ガガーリンが初めて宇宙飛行したときのウォッチ等はいろいろ話題になっているが、あのモデルは普通の市民が使っている。ごく普通のウォッチであって、クロノグラフのような特殊なモデルではないと言うこともわかって面白かった。2024/05/14 07:55:24131.名無CCDさん@画素いっぱい3UqO8その4 デジタルカメラの時間領域は昨日と今日の話である。アナログカメラの時間領域は数百年にわたる話である。若い人はデジタルカメラは江戸時代後期から存在するのではないかなどと言っていてこれはまたコミックみたいで面白い。私のすぐ近くにお住まいのライカデジタルカメラの最新方をお持ちの女性のフォトグラファーさんにパーティーでお目にかかったとき彼女はものすごいシュールレアリストなことを言った。あのライカと言うのは以前はアナログカメラを作っていたんですってね?こういうトリスタン・ツァラみたいなモダンポエットを口にする人は私は反論のしようもないのである。それでも冷静にデジタルカメラが管理している時間領域とアナログカメラフイルムカメラが管理している時間領域を区別してみるのは意味のあることだと思う。私は現在あるコレクションにかなりの数のモノクロームのヴィンテージプリントを納入しているのであるがこれが60年位前のプリントなのである。要するに古いプリントですよ。私が20歳の頃に撮影した東京の風景である。60年前に撮影された写真と言うのはデジタルイメージでは存在しないわけだ。一方でデジタルイメージングはシステムとしてスタートしてからは25年毎にはなるが実用と言うことから考えると実に20年代のものなのである。私は2000年にパナソニックの新型デジタルカメラの広告の仕事をしたことがあるがそれ以前のデジタルカメラと言うのはシステムをスタートアップするのに30秒以上かかっていた。こういう話は言ってもあなたは信じないでしょうでも本当なんです。だからスナップショットには使えなかったのである。パナソニックのルミックスと言うカメラでそれが7秒8秒でスタートするようになった。これでようやく仕事に使えるようになった。それでもたった20年の話です。2024/05/18 13:48:35132.名無CCDさん@画素いっぱいx9gI2^_^ご覧のようにアルファベットの真ん中の文字を入れ替えるだけで地名になったり飲み物になったりするのである。オーストリアの面倒なのはオーストラリアと間違えられることでもある。それで暗闇坂のオーストリア大使館のエントランスには、ここはオーストラリア大使館ではありませんと言う看板が出ている。^_^ニューヨークから出された手紙がオーストラリア経由でウィーンに着いたので、2ヶ月もかかったと言うような友人の自慢話だってある。それでwinのワインの話なのであるが、日本航空と全日空が露先を争っていた時に、日本航空の機内食の取材^_^で、ウィーンに来たことがある。日本航空が自分のディスティネーションでないところで、雑誌の特集を組むのは異例のことであった。それでwinの郊外のワインを飲ませる。有名なところなどを加えた。30ページ位の特集をやったのだが、同行の女性ライターが勉強不足であるから、ヨーロッパワイン発祥の地などとすごいことを書くのでヒヤヒヤさせられた。オーストリアウィーンのボジョレヌーボーに関しては、マリアテレジアの頃からの伝統があるらしい。普通のワイン酒場では2リッターの大きなワインの瓶で提供される。テーブルの上にあるのは1リッターのであるから、それの2倍の大きさで極めてプロフェッショナルな感じがする。テーブルの上に見える1リッターの小さいワインの瓶と言うのは、おそらくこの時に国家予算が足りなかったので、2リッターの大きいのが買えなかったのではないかと推測されるのである。ところで、残念なことに、このプロフェッショナルな2リッターの大きな瓶なのであるが、数年ぶりからスーパーマーケットなどで流通しなくなってしまった。ドップラーと言うのである。ドップラー効果みたいなもので、これでないとワインが楽しめないんだけどね。このセルフポートレートなんだけど、当時の日本のカメラ雑誌のために撮影した。セルフタイマーをかけてテーブルの上でカメラをこっちに向かせて撮影したのであるが、結局このショットは使わなかった。2024/05/20 08:30:54133.名無CCDさん@画素いっぱいkhtaS私の好きなウォーカーエバンスの写真集の表紙の見返しに、彼が20代と70代のときのポートレートが並んでいるのが、彼の制作した。すべての時間帯の写真よりも、何か象徴的であって、それが気にいっている。それで真似をして20代の写真と70代の写真を並べてみた。と言うよりも、数年前のパリの写真展を開催したときに、どなた参加が左の私の若い頃の写真を当時の写真展のカタログから探し出してきて、このように送って下さったのだ。ありがたい。ウォーカーエバンスはニューヨークの生まれではないが、若い頃はパリのソルボンヌに留学して文学を志していた。それが20代後半にマンハッタンにやってきて、いきなり写真家としてのキャリアをスタートさせたのであるが、本よりキャリア等は無い。若い頃であるから、ブルックリンブリッジを撮影したりしていた。そしたら^_^キューバを撮影しないかと言う仕事が舞い込んできて、それで彼の偉人伝の重要なキューバの仕事が、そこに登場したわけである。大写真家になぞらえてみれば、私も3年間の広告の仕事の後に家人に誘われて、オーストリアウィーンで行ったわけで、自分とは何の関係もないwinであったのだが、結果として同じようなことになったのが非常にありがたいことだと思う。20代の私が使っている東ドイツ製の一眼レフであるが、ジョセフクーデルカが使っていたのと全く同じモデルだ。これがこのカメラを使いだした最初のチャンスなのであるが、なかなかシンプルで良いカメラだと思っている。2024/05/23 07:14:30134.名無CCDさん@画素いっぱいncdGz日本とヨーロッパの交通システムの基本的な違いは今更言うことないけれども、ヨーロッパの路面電車や鉄道やバスなどにはチケットをチェックする人がいない。それで時々検察係が回ってきて、不正が発覚すると罰金を取られると言う仕組みになっている。1970年代のウィーンの留学生がいつもただのり利用して捕まって、罰金を払うのと、真面目に定期券を買うのとどちらが得なのかを計算したら前者の方であったそうだ。でもこれでは社会秩序と言うものが成り立たないから、私はもちろん定期券を買う方である。それで今改めてその頃の顔写真を見ると、30代初めの私が写っているのは当然の話である。私の写真集ウィーンとライカの日々は、ドイツの国会図書館にも収蔵されているらしいけど、その作品集の1番最後のところに当時の定期券を掲載したのは、その当時のウィーンをめぐる時の私の非常に重要な道具の1つになっていたからだ。定期券の表面にはゾーン100と記載されているが、これは私が普通動くウィーンの路面電車とか一般のバス路線の終点までいける。かなり広い範囲なのである。だからこの範囲を移動していて、この定期券で不便に感じる事は1度もなかった。2024/05/26 08:03:10135.名無CCDさん@画素いっぱいgpuXE今日のランドマークの日である中で、私が1番好きなお店と言うのは金網屋さんなのである。ところが、これは非常にレアなご職業らしくて、私は東京の街動いている割には、3つしか知らないのだ。それでそこら中にあって、目について好みの分かれるのは不動産屋さんなのである。JR板橋駅の踏み切りの脇にある。この店は大昔から非常に気にいっている。このお店の斜め向かいにあった結構本格的な中華料理の気にいっていたのだが、そこは15年位前から開いていない。この不動産屋さんの魅力は角部屋になっていると言うことだ。その細い路地を入っていくと、飲み屋がたくさんあって、突き当たりにあった。飲み屋を大昔に私が朝日新聞社の連載でたまたま撮影した。そしたらその飲み屋のオーナーが朝日新聞に連絡を下さって、記念にプリントを欲しいというのである。それで私は自分で撮影した。その写真のプリントを作って自分で持っていって飲み屋さんに届けたら非常に喜ばれた。お店の名前は既に忘れてしまったし、そのお店も今は既に存在しない。何かアザラシとかラッコとかそういう動物の名前であったような気がする。それでこの不動産屋さんなのであるが、角地にあると言う。その立地条件が1970年代にウィーンでドラマのロケをしたときに、全体のストーリーの中で有名な役割を持つ喫茶店と言うのを探していて、小さな喫茶店と言う名前の喫茶店が、ウィーンの旧市街にあるのだが、そこで撮影をした。その小さな喫茶店と言うのも、これと同じように角地に立っているのである。その喫茶店を登場させたサスペンスドラマは、ボンバーとパガニーニと言うやつで、これはYouTubeで今でも無料で見ることができる。不動産屋さんとヨーロッパの喫茶店の雰囲気の共通点を認めているのは、おそらく私ぐらいなものだと思う。日本の場合は残念ながらスタバばっかりだから、お店の個性も何もありはしない。2024/05/29 03:43:09136.名無CCDさん@画素いっぱいF4Lffhttps://oyanozasshi.jp/?wbraid=ClUKCAjwpNuyBhALEkUAd4Ea-RYl2ya8JjYymN50oPtxQlxuJ67zIZERfDj87C8noL9OBMk55uEdEh-T15x4KJXe8Q_6luHjSBXvkDDBR2XFRmIaAscn2024/05/30 18:09:55137.名無CCDさん@画素いっぱいTkLewそこら辺の端を取ると言うのはいかにもカメラメーカーが喜びそうな初心者のモチーフのように思うかもしれないが、実はお花をとるというのは写真家にとってはかなり重要な人生のテーマなのである。ロバートフランクが英国のテレビ番組に出たとき、彼はニューヨークのアグレッシブな自分で撮影した風景とパリでバラの花を持って歩こうとこの1枚の作品と並べて語っている。つまりニューヨークは醜いけれどもパリは素晴らしいというのである。これを普通の価値観の通りに理解してしまうと、かなりの方向違いな場所に行ってしまうのであるが、ロバートフランクがパリにお花の写真を撮りに行ったと言う事は、彼の写真家の人生の中での自分の美学を決定するための1種の総決算、一か八かの旅ではあったのだ。ロバートフランクの非常にクラシックなパリをテーマにした。お花の写真の中で、私が忘れられないのは縦画面で無骨なトランクが半分開いていて、その中にバラの花が無造作に10本近く置かれている写真である。花屋さんとも見えないし、インスタレーションとも思えないし、実にフランクならではの作品なのである。この作品は、私が1970年代にウィーンの路面電車で1本のバラの花を手にしたおじさんが眠りこけていると言うショットである。電車の中ではっとこのシーンに気がついて、もちろん1枚しか撮影していない。象徴主義的と言うのでもないだ。それでも人類一般と彼らが抱いているお花に対するRE-ILLUSIONとでも言えるものが浮上していると言うふうに考えられるのである。お花はそれが綺麗だから取るとか言うものではなくて、極めて意味深長に人生を具体化したものであると言うことになるのかな?2024/06/01 08:13:51138.名無CCDさん@画素いっぱいHYeWz80年代にニューヨーク近代美術館で写真を研究していた頃は、やはりワールドトレードセンターが風景の中心になっていたのだった。滞在中にソーホー地区のロフトに住んでいたので、自分の楽しみといえば、午後遅くなるとFire Escapeにテーブルと椅子を持ち出してそこでいっぱいやることだった。ただし、Fire Escape出祐川祐祐であるから、下の通行人にものを落とさないように最大の注意を払った。いっぱいやりながら同時に思いついて、その当時はまだ新しいメディアだったビデオカメラを長時間撮影した。つまりマンハッタンの暮れ、なずむ時間の午後5時ごろから6時間ビデオを回し続けると、午後11時の夜になるわけである。^_^観察していて面白かったのはワールドトレードセンターはマンハッタンで1番最後に暗くなる建物なのである。それが2001年6月11日にあのようなことになってしまった。私はパナソニックの新しいデジタルカメラの広告の撮影でドイツのバイエルンにいたのであるが、大変なショックであった。私のカタログの撮影予定では、バイエルンの次にはフランクフルトに行く予定であったけれども、ヨーロッパが攻撃されるとすれば、次は間違いなくフランクフルトであろうとスタッフと協議して、急遽撮影の予定を切り替えて、かつての東西ドイツの国旗大当たりの街巡りにしたのであった。このショットはデアドルフ8 × 10インチカメラ。360ミリ2024/06/07 06:46:25139.名無CCDさん@画素いっぱいdl93o10年近く前に帯状疱疹をやって左手が痛くて大変苦労した。スーパーの買い物で荷物は持ってないし拍手もできないと言う状況なのである。自然に治ったのであるが、それからしばらくして何かの衣料品のメーカーらしいけど、そこから電話でインタビューがあった。結構長いインタビューで、私がヨーロッパで取材していると言うような話をいろいろしたのである。狭い写真業界だと田中長徳はこういう風|の人間であるということを知っているわけであるが、狭い世間だとそういう事は全くわからない。それで普通の人がイメージしている国際的に活躍しているカメラマンあるいは写真家と言うのはこういうイメージであるらしい。印刷物が送られてきて大笑いした。20年以上前正岡子規をテーマにしたドラマというのがあってテレビドラマであるが、私はそういうのは見ないけど正岡子規であると言うのでちょっと見たのである。これがまた正岡子規と全くイメージの外れた。いわゆるイケメンなのでびっくりして途中で見るのをやめたりしたのである。この逆のイメージもあるわけで、私は堀口大学の愛読者であるが、何かかっこいい男性を予想していたら、老人になってからの堀口大学の写真を見て非常に驚いたのである。どう見てもケチな呉服屋の親父さんである。このような一般的なイメージが膨らんでくるのと、実物の間に大変なギャップが生じると言うのは、ごく普通の世間の常識と言うことなのであろう。2024/06/10 04:52:39140.名無CCDさん@画素いっぱいRO3b81973年から1980年間で暮らした。Winのアパートメントは今にして思い出してみると非常に貴重な体験である。当時はできてから100年以上経ったアパートメントであると自慢をしていたが、今ではそれから40数年が経過しているから。結果として、歴史的な建造物物になってしまった。当時のウィーンの不動産屋さんのシステムと言うのは、社会問題になるほどいい加減なもので、インチキ不動産屋でアドレスをもらってそこに行ってみるとベッドレンタルする部屋はありませんと言うのが普通のやり方で、これは私が外国人であるからそうなったのではなくて、ウィーンに暮らしている友人の写真家に頼んで一緒に回ったのに、このザマなのである。ドナウ運河沿いのこのアパートメントは知り合いからその存在をきかされてオーナーに電話して交渉したのだが、ここでまたびっくりしたのはそのオーナーは大学でラテン語は修復したけれども、英語はやってないから意思疎通ができないと言っている。向こうで言っているのである。実際に会話に使わないラテン語を教わったというのが、さすがヨーロッパ文化圏だと思う。それでこのドナウ運河の小鳥の春夏秋冬を暮らしてきたのである。もとよりシンプルライフであるから天井の高さは4メーターあったけど、そこには空気が入っているだけで室内に置いたり展示するものは何もない?の壊れたベッドと数台のカメラがあるのみなのである。古道具屋で買ってきた旧式のブラウン管のテレビはもちろんものくろ使用であった。その日、空に展示された唯一の私の家の部屋の舞台は、現在日本写真家展示会のポスターとその隣にあるのが私が制作していたドローイングなのである。2024/06/11 07:31:09141.名無CCDさん@画素いっぱいsaSZCブラックロードで有名な岡谷光学の双眼鏡である。そのブラックペイントの仕上げが良いので気にいっている。旅行中によく双眼鏡を使うのには理由があって名所旧跡を見るときに必要なのではない。空港の待合時間をチェックするときに座った位置からモニターをチェックできると言うのがメインの目的である。もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。2024/06/14 07:54:21142.名無CCDさん@画素いっぱい5xmml^_^中平さんと吉村くんを写真家になる前から初対面で知っていると言う。私は実に不思議な存在であると自分で感心するのである。中平さんの場合は、東松さんの事務所で会った事はずいぶんあちこちに紹介したけれど、これが1966年の夏の事だった。中平さんはまだ雑誌の編集者であって、そのように紹介されたのである。吉村君の場合は、1980年の夏の話であって、私がザルツブルグカレッジインターナショナルフォトワークショップで教えていた時に、MITの学生さんのワークショップのグループに入ってきたのだ。他に日大の写真学科の女子が2名いたな。ところが、私のいい加減な英語はMITの学生さんには通じるけれども、吉村くんたちには通じないということが判明して、急遽英語と日本語の複式学級になったのも懐かしい。20年位前になるけど、吉村くんが自由が丘にギャラリーで個展を開催しているときに言ったら、吉村くんの話では毎日中平さんが決まった時間にやってくるのです。もうすぐお見えになると思いますよ。^_^それで中平さんは、吉村君の予言通りにやってきて、写真家の中平琢磨ですと自己紹介をするのである。毎日そのような自己紹介をするのだと吉村君は言っていた。その時中平さんが持っていたキャノンの一眼レフ200ミリが付いているのを見せてもらって、そのファインダーは6割以上腐食して画像が見えないのである。本物の写真家はこういうカメラを使わなければダメだとその時強く印象付けられたのであった。2024/06/18 09:16:13143.名無CCDさん@画素いっぱいivzq8塾長さんが長徳氏に会っても宜しいとおっしゃってます2024/06/21 03:52:35144.名無CCDさん@画素いっぱいx21fE友人から教わって人気アニメの紙兎ロペを見た。好きな漫画ではないと言うよりも、もともと私は漫画は見ないのである。葛飾あたりのウサギの高校生がいて、その先輩が理想であって、高校生は上下関係に厳しいのか歳上のリースの方がタメ口を聞いたりするのが印象が悪かった。しかし、面白いと思ったのは、その漫画の葛飾区あたりの果物屋さんというのが、紙兎ロペの実家なのであるが、その実際のお店と言うのは、豊島区雑司が谷にあって、そのお店のことを私はよく知っているのである。ドラマの撮影などにも使われている。典型的な八百屋さんの店構えであると言うふうにも聞いた。そして紙兎ロペではそこが果物屋さんになっている。私の友人でも実家が果物屋さんだったところがあって、そのお店の屋号がフルーツパレットなのである。いかにもありそうな名前だね。それで八百屋さんの現役時代、栃木家さんの時に私は買い物はしたことないけれども、そこがラーメン屋さんになってからは何度か行ったことがある。いわゆる町のラーメン屋さんではなくて、デザイナーズブランドのラーメン屋さんでラーメンはいっぱい1000円位して高い。しかし、昼間からコップ酒がいっぱい飲めるというのが非常に良かった。2024/06/21 08:48:24145.名無CCDさん@画素いっぱいsB9fMネットオークションではいろいろお世話になっているが、写真の撮り方でかなり見え方が違うのでちゃんとした写真を撮るためにはその撮影テクニックが非常に重要なのである。20年ぐらいネットオークションを見ていて数多く登場した。出版物ではなかった。出品の中でいまだに忘れられないのはタイムマシンを出品したい人がいたことだ。こういう空想上のネットオークションの冗談と言うものは今では存在できないようになってしまうから、大昔は楽しい時代であった。だから、タイムマシンが出た時は、入札者のほうも心得たもので、220ボルトにも通用しますかとか、60歳来る地域でもタイムマシンは動きますかなどといろいろ渋い質問があったものである。それでこれは非常にレアなトップコール。35ミリのファインダーのネットオークションでの紹介である。ご覧になるとお分かりになるようにファインダーの向きが前後逆なのである。しかしこれを叱ることができなくて、ライカのファインダーの90ミリとか135ミリならファインダーの直系の太い方が雪何分になると言うわけだから決して間違いではない。しかしこれは広角レンズ用のファインダーだから、前後が逆になると言うわけだ。このファインダーで私が感心するのは、レアなファインダーにもかかわらず、非常にちゃんと使い込まれてファインダー本体に磨きがかかっていることだ。これだけ使うと言う事は20年位スナップショットをやった位ではこのようにはなりません。2024/06/23 05:27:43146.名無CCDさん@画素いっぱいg4iCm20世紀の最も偉大な写真芸術運動写真分離派のメンバーの1人である、ポールストランドを発見したのはアルフレッドスティグリッツである。彼の代表作はいろいろあるけれど初期の作品で1番有名なのは、アメリカ中そこらにある白い木製のフェンスを正面から撮った作品である。白いフェンスと言うのはアメリカの原風景だね。白いフェンスと言うのはどうもアメリカに独特なもののようで緑の芝生があって一戸建ての家があって道路と区別しているそのために白いフェンスが作られている。ヨーロッパではよほどのカントリーに行かない限り集合住宅であるからこのような白いフェンスを見る事は無い。白いフェンスで私が1番思い出すのは古い友人の東京カメラクラブ会長の田村が19歳の時に撮影した横浜の米軍基地の白いフェンスである。私が非常に記憶している2つの風景としての白いフェンスの作品と言うのはつまりポールストランドと古い友人の田村の2つの作品と言うわけだ。古い友人田村はニコンS3にニッコール2.8センチをつけてしかも赤外線フィルムでアメリカ軍のフェンスを撮影しているのだ。その白い柵の永遠性というのが何かすごい感じで好きな作品なのである。2024/06/25 14:04:51147.名無CCDさん@画素いっぱいiVbbx渋谷駅周辺は怖いから、何年分が忠犬。ハチ公の銅像が外人さんにもすごい人気だそうで、ビックイベントがあるときは、中堅ハチ公を守るためにガードLINEができたりするらしい。^_^結婚して何十年かだった時に家人から聞いたのであるが、家人の父親は東京帝国大学農学部出身であって、そこのプロフェッサーが忠犬ハチ公の買い越しであったそうだ。こういう歴史的な事実が身近にあったりすると非常にびっくりするのだが、もう一つは私が愛読している。フランス文学者の堀口大学も、家人の親戚にあたるそうである。世の中、油断も隙もないと言うのはこういうことだ。それで忠犬ハチ公のビザに関してはよく知られているらしいが、ベルギー政府観光局で取材でベルギーに行った時に、編集者から頼まれて、フランダースの犬の舞台になった場所に行ったのであるが、驚いたことに。これは日本だけで夢であって、島のベルギーではほとんど知られていない中堅ハチ公物語なのである。もちろんこういう例は外にあって、2型がどこだか忘れたけども、中けんたま公の銅像と言うのもあったな。わんわんそれでこのショットを見て、私が非常に驚いたのは忠犬。ハチ公が亡くなったときのその時の写真で周りに関係者や学生さんが集まって追悼していると言う写真があったのだ。もちろん当時から有名なワンチャンだからそういう事はあったに違いないが、それが凄いと思うのは、現代のIT技術で着色化されているのである。^_^最近のブームとしては、IT技術でモノクロから色がついているのを皆さん感激しているようであるが、私は逆の考えである。こういうのは不自然であって、例えばカラー写真でも色を抜いた方が歴史的事実として強烈な印象を与えるというのが私の考え方である。2024/06/27 06:56:17148.名無CCDさん@画素いっぱいlyiEl10年位前のことになるのだが、プラハからスイスに時計の見本市の取材に行った。行き先はバーゼルである。バーゼルはフランス語圏ではなくて、ドイツ語圏であるから街を歩いていても言葉はわかるから気が楽である。^_^それで仕事を終えて、チューリヒからプラハ行きの飛行機に搭乗した。プラハの飛行場はプラハ市内の西之保にあるのだが、そこにアプローチするために、飛行機は手前から旋回してプラハの東の端からアプローチしていくのである。そのプラハの東の端というのは、私がいつも移動している。プラハの地下鉄の東の終点にあるのだ。飛行機が行動を落として、地下鉄の終点にある広場を見ると、ちょうどカーニバルの直前なので、移動の遊園地がメリーゴーラウンドを組み立てているのが飛行機の窓から見えた。ヨーロッパは巨大な街であっても、そこにディズニーランドみたいなものはないから、祝祭日になると、旧市街の広場などを利用して臨時に遊園地ができて、これが子供も大人も大変なエンターテイメントになるのである。チューリヒを出てプラハに着陸する。飛行機のファイナルアプローチで遊園地を組み立てていると言う情報を知ったので、空港に着いてプラハのアトリエに戻って荷物をおくとすぐ私はいつものメトロに乗ってメトロの東の終点まで来て撮影した。1連の画像がこれなのである。^_^ヨーロッパはどこでもそうだが、復活祭の春の到来まで、街の風景はモノクロームで非常に殺風景である。それが復活祭の到来で、花が咲いて、光と色が戻ってくると言う感じだ。2024/07/06 08:23:10149.名無CCDさん@画素いっぱいK5k2I1970年代赤い市街電車の終点がのんびりWinに暮らし始めた頃に、基本的な交通機関は今も変わっていないのであるが、ストリートを走る。路面電車があって、赤と白に塗り分けられたバスがある。そして東京の山手線みたいな感じで、街をぐるりと1周するような形の赤いボギー車があった。これが好きだった直訳すると、街の前者と言う言い方なのだけど、そういう日本語は存在しないから市街電車と言うことにしておく。この赤い路面電車は、ウィーンの中心部をほぼ三角型に取り囲んでいて、そのしっぽのほうは西に伸びていて、ウィーンの西のカントリーサイドにまで達している。その終点の駅がこのパノラマ写真で撮影したショットである。win人の楽しみと言うのは、そういう町外れのその先の丘というか、ウィーンの森の斜面にあるワイン酒場に行くことなのである。私もずいぶん行きました。そこら辺の路上の犬がどれだけのんびりしているかというのを私は犬がリラックスできる尺度と言うので世界中観察しているが、犬が1番リラックスできるのはポルトガルである。それから大分クラスは落ちるけれど、50年前のwinも、なかなかワンチャンのリラックス度ではレベルが高かった。^_^それでこのように市街電車の終点に立ち食いのソーセージ屋さんがあったりするのは別にびっくりしないけれども、右側のエントランスから太ったおじさんの後ろ姿が見えると思うけれども、その先には路面電車の駅の内部の終点なのにガーデンというのがあるのである。要するに、win人の楽しみとしての強外にワインを飲みに行くと言う。その図式が駅の構内ですすら既に構築つかされていると言うところがすごいと思う。このことは撮影して50年経ってたった今気がついたことなのである。2024/07/09 11:24:49150.名無CCDさん@画素いっぱいyFglk世の中1通の高級時計のしっぽを追っかけ回したりしたのであるが、ジュネーブサロンとかバーゼルの春の時計のフェスティバルなどにも言って納得したことがある。それはすなわち時計などというものは人生には必要がない。だから時計が欲しくなるのだと言うことであった。それでロレックスから始まって、各種高級ブランドに手を出して、バーチャロンコンスタンティンのプレスコンファレンスまで行ったあたりでようやく目が覚めたのである。ここら辺のウォッチが私の好きなものだが、やはり最高にオシャレなのはタイメックスではないかと思う。30年位前にそのことに気がついて、その当時のタイメックスを手に入れて、その値段の安さにもびっくりしたのであるが、最大の問題点は3年から5年位でバッテリーがアウトになるので、そのたびごとに交換が必要なことだ。^_^左にある時計とか右にある時計は機械式であるからバッテリーがなくても問題ない。思うに現在の世界と言うのは私がこの文章を吹き込んでいるiPhoneにしてもそうだが、電池がなくなるとこの世界はても足も出なくて動かなくなってしまうのである。左側にあるのはチェコスロバキアの軍隊が公式に使用していた0マニアなのであるが、東ヨーロッパの時代にはスイスの時計を買う事は非常にお金のかかることであった。さらにチェコ共和国には優秀なプリマと言う名前の時計があるそれでチェコの政府は、自分の国で作った時計を軍用時計に制定したと言うのは、ブランド主義に騙されない真面目な態度であると思う。2024/07/12 00:30:06151.名無CCDさん@画素いっぱいiVkE1ウィーンのフィルムミュージアムで、ジョナスめかすのレトロスペクティブをまとめてみたのが1973年の秋のことだった。オーストリアフィルムミュージアムの10周年の記念行事だった。その時オーストリアの放送局のインタビューを受けたのである。当時はまだビデオカメラではなくて、フランスの16ミリ撮影機エクレールを回転させて、テープレコーダーで私の声を収録した。話の内容は、要するにジョナスめかすなんて日本だと雑誌に登場するだけで実際の映画を見ることができないから、この企画が素晴らしいと言うことを英語で話したのである。それにドイツ語の文字の翻訳がついてゴールデンタイムに登場したものだから、私はいちどに有名人になってしまった。それからちょうど重言年後にニューヨークに暮らしていて、明日は東京に帰ると言う。11月の週末に私はキャナルストリートで本物のめかすに偶然あったのである。これには感動しましたね。月が変わって12月になって原美術館でジョナスめかすの大きな映画界が開催されたときに、数百人の人々が集まっていた中で、会場に入場したジョナスめかすは、まっすぐ私のほうに歩いてきて、私と握手をしたのだから、主催者としては面白くないよな。でも、映画監督としては、先月マンハッタンの自分の家の近くで、偶然話しかけてきた日本人だからよく記憶していたと言うのがその理由であろう。そのオープニングレセプションの時に、私はジョナスめかすの口から数年前に母はなくなりましたと言う言葉を聞いたのである。これは重い言葉だったな。リトアニアのカントリーサイドにまだ社会主義国のソ連の時代にめかすは28年ぶりに里帰りをしているのである。その時の撮影した画像がこれお母さんである。東ヨーロッパの夫人はある。一定の年代より下上になるとみんな頬被りをすると言うのが愛らしい。カチューシャ人形みたいなものだ。ウィーンのお知り合いの老婦人もそうであって、まさに、こういうカチューシャ、人形的な風貌なのである。ジョナスめかすが昇天してから直後のこと。私の古い友人の野々宮がめかすが出身の場所リトアニアのカントリーサイドを実際に取材に行ったのはなかなか見上げた精神だったと思う。2024/07/16 08:43:16152.名無CCDさん@画素いっぱいsncTd1973年にウィーンの映画ミュージアムが創立10周年と言うことで、それを見に行ったら、地元の放送局からインタビューを受けたので、ジョナスめかすは私の大脳の中でより重要なポジションを占めることになった。そして、その10年後に、マンハッタンの路上で、尊敬する映画館時に、偶然会うことができたのも、不思議な縁と言うべきであった。それで自分も自分の映画を取ろうと言うことに思いついて、ロシアから亡命してきた大学教授と偶然蚤の市で出会って、彼から2台のソ連製の16ミリ映画撮影機を手に入れたのである。ジョナスめかすが彼の映画制作活動ですごく苦労したことが彼の映画日記に書かれている。会心の撮影をしたのだが、現像代がないので、撮影済のフィルムは全部部屋に積み上げてあるというのが気にいった。私の場合はプラハに行った時に、安い東ドイツ製のフィルムを買ってきて、現像するのは当時の東ベルリンの友人に送って光で現像してもらってそれを送り返してもらったのである。当時の鉄の壁の東ヨーロッパとしては誠に不思議なことであって、彼らは印刷物に対してのアレルギーはあるが、それ以外のメディアに対してのアレルギーはほとんどなかったと言うことなのである。ソ連製の16ミリ撮影機はコストパフォーマンスに優れたミラーシャッター式のなかなか優れたカメラであった。後に西側世界で結構売れたのだが、その時はカメラの特集マウントをペンタックスマウントに変えて販売している。スーパー16に改造したものもあった。2024/07/18 05:38:58153.名無CCDさん@画素いっぱいarFv5友人関係が歌を歌ったりギターを弾いたりするのでうらやましいと思うけれども、坂崎さんとか荻さんはそういう人々であって、私だって中学と高校の時はブラスバンドでトランペットを吹いていたと言う話をすると皆さんびっくりする。それでギターも少しやっていたのであるが、これは行動を抑えるのがめんどくさいのですぐにやめてしまって。そのかわりカメラでノーファインダーで東京を撮影するような方向に行ってしまった。中学生の頃は、私が入学したときにブラスバンドの楽器が全部入ったので、それでクラスメイトが全員ブラバンの退院になったのである。といっても、中学生のブラスバンドでその当時でたかが知れたものであるから、怒りを上げてとか文京第7中学校の校歌を演奏すると言う位が関の山であった。それでも3年間練習をすると、卒業式のときには我々同級生の卒業式を送り出す位のレベルまでテクニックが発展したのは何でも練習すればそれなりの結果が出ると言うことなのだ。それで高校生活も中学生活の名残でブラスバンド部に入ってトランペットを吹いていた。トランペットよりもコルネットの方が楽器としてはちょっと面白いと言うことに気がついたのもこの頃である。1964年と言う年は東京オリンピックの年であって、その時のファンファーレというのが人気だったが、見よう見まねで似たような演奏をトランペットでやったので、クラスメイトの女子になかなかモテたのだ。ライカでスナップするのは全然モテないけど、楽器と言うのはそういうエンターテイメント性があると言うことに気がついた。それでも面白いもので、中学と高校の時にちょっと触っただけのトランペットのバルブの押し方と言うのは体が覚えていて、今でも曲を聞いたりすると無意識に右手の3本指が動いた。と言うのは、これはそれなりの効果があったというべきであろう。2024/07/26 08:31:56154.名無CCDさん@画素いっぱいieT7Y1960年代まではソ連製のカメラと言うのは非常に差別されていた。これは西側の帝国主義者のカメラ同盟が意図的にソ連製のカメラを締めていたのだと考えることができる。ソ連製のカメラで人気が高いのはスプリングモーターを内蔵した。35ミリレンジファインダーモデルで1957年のブリュッセルのエキスポでグランプリを取ったカメラである。ここら辺が実はよくわからないことであって、ブリスベンのグランプリで、どのような背景でグランプリが取れたのかということは未だに明らかになっていない。さらにその数年前だと思うけど、スプリングモータードライブのカメラ以前にそれよりもさらに作りのよろしいレニングラードと言うカメラのアウトフィットが発表されていた。私などはその当時カメラ雑誌のニュースで見ただけである。実際にそのカメラを見たのは、発表の時から何十年も経過した後で、フォトキナの会場でソ連カメラの好きな人がいて、その人が持っているのを見せてもらったのが唯一の機械であった。とにかく珍しいカメラなので、こちらも興奮していたが、後で冷静に考えてみると、私が使っていたスプリングモータードライブ付きのレニングラードと、そのオリジナルになるはずの最初のレニングラードカメラの巻き上げがどのようになっていたのかということを全くチェックし忘れていたのである。これは残念なことだ。それでこのオリジナルのレニングラードカメラは時々世界的なレベルのオークションに登場するのであるが、肝心の巻き上げのシステムの写真がなかったりするので、いまだにこのユニークなカメラはどのようにフィルムを巻き上げるのかわからないでいる。まぁカメラと言うのはそのように謎めいている。ところがそれなりの魅力でもあるのだが。2024/07/28 01:01:41155.名無CCDさん@画素いっぱいGB40O左右逆のA型ライカってフェイクなんですか?2024/07/28 21:25:02156.名無CCDさん@画素いっぱいFm0Rl33台だけ作られたのだけどだからレアカメラと言うわけではない寺岡と言うのはハカリで有名だが1950年代終わりにその技術を利用してモータードライブスプリングカメラを制作していた。日本カメラから出した私のカメラ本3冊の1番最初のセクションでこのカメラ大戸寺スーパーのことを紹介している。これにはコレクターの好む頭脳レンズブランドがついている。しかしこのスプリングカメラはあまり成功しなくてトータルで製造開始から終わりまで4000台弱が作られただけであった。それならばコレクターの間で高い値段がつくかと思うとほとんど相手にされていないから私の周囲にこのカメラが集結すると言うことになる。レンズ固定式カメラだからレンズの製造番号で台数が特定できる。このブラック仕上げのボディーは警察用に作られたもので製造番号からすると617001でスタートして最後の番号が617033である。つまり30ちょっと作られただけ。だから値段が高いと言うことではない。これだけ数が少ないとその存在を知っている人もいないのだ。カメラの値段のことを言うわけではないが1番滑稽なのは例えば私が最初に手に入れたライカM2のブラックペイントは当時110,000円で中古を買った。それから40年後に2500ドルでアメリカから買って安いと思っていたが今では末端価格が10,000,000円位するらしい。ライカM2のブラックペイントは3000台弱の製造台数である。その100分の1の製造台数のこのカメラが大変なプライスになるかというとそうではないと言うところがクラシックカメラコレクションの面白さだ。2024/08/01 20:07:24157.名無CCDさん@画素いっぱいrxYb4マンハッタンではずいぶんいろいろな劇場のファサードを見て暮らしたのであるが、ユニオンスクエアから東に行ったこの劇場のファサードというのが最も見事であったと思う。私が見ている慣れ親しんだオペラハウスと言うのはパリであれ、ミラノであれウィーンであれ、普通のクラシックな建築物のファサードであるから、こういうような派手派手なイラストレーションがモザイクになっていると言うのはちょっと想定外なのである。それでこういうファサードの建物がモダンであるのかと自分に質問してみれば、実はそうではなくて、ギリシャローマ時代の遺跡として残されている床にちりばめられたモザイクがそのままモダンナ劇場のファサードになったと言う感じなのである。クラシックモダンの典型的な劇場のファサードと言うべきであろう。そしてこのモザイクで描かれたワクワクするようなレビューの感じと言うのは、実際の劇場では起こり得ない夢の世界をここに象徴化していると言うところがむなしいのであるが、それが理想と現実のギャップを、最初から劇場がファサードに合意的に示していると言うことを考えれば、責任感のある劇場のファサードのエントランスと言うこともできる。この私が好きだった劇場もとっくの昔に取り壊されて今では普通の住居ビルになってしまった。2024/08/12 11:20:38158.名無CCDさん@画素いっぱいpa0Oj銀座7丁目か8丁目の表通りに黒沢と言うタイプライターの専門店があったことを今でもよく記憶している。私の大学生時代の頃はまだ存在したと思う。真実はどうかわからないが、そこの黒沢さんがカメラが好きでSawa Kuroと言うペンネームでたくさんのカメラボを出していて、それが我々学生時代の愛読書であった。カメラとムービーカメラと写真のテクニックで10冊以上のシリーズになっていたと思う。それでこのイラストは、黒澤タイプライターのエントランスにかかっていたと記憶する。あるいはヨーロッパでこういう場所があったのかとも思うが、どうも銀座の黒沢で確かなような気がするのである。最近はセクハラということで、女性のタイピストそのものをこのようなセクシャルなシンボルとして掲載する事は無いと思う。でも戦前の映画など見ているとタイピストと言うのは、みんなセクシーな存在でセクシー田中さんみたいなものだな。実際問題として私が暮らしていた1970年代でも会社の偉い人が口述筆記するのをタイピストさんがタイプに打つと言うのが普通で、それが仕事のやり方だった。このやり方が劇的に変わったのは、1984年のMacintoshの登場まで待たなければならなかった。それでも私も昔の人間だから、こういうタイピストのセクシャルなシンボルを見ると、ノスタルジーを感じる1人である。それっていけない反社会的行為なんだよね。戦前の林文子の文章など読んでいると当時のタイピストのお給料は40円だったそうである。ライカの値段が600円であるから、タイピストのお給料の1年分がライカの値段であったわけだ。2024/08/13 08:48:34159.名無CCDさん@画素いっぱいn7jbiかつて東京の四谷に存在したインディギャラリーのオーナーが津田基さんであって、彼はロバートフランクと非常に親しいのである。それで何度もロバートフランクのところに行って、いろいろ一緒に生活をしたり、あるいは一緒に旅をしたらしい。津田さんはその意味でヨーロッパあるいはアメリカ的なジェントルマンであるから、世界的な写真家と親しいと言うことをパブリックな場所で発言した事は1度もなかったと思う。しかしロバートフランクが昇天した後に追悼の意味もあっdたと思うけれど、ちゃんとフランクと自分の関係について、彼のブログ等でオフィシャルにしたのである。ロバートフランクのオフィシャルな写真と言うのはちゃんとした世界的写真家であり、イギリスで作られたロバートフランクのフィルムにしても、それはちゃんとした世界的写真家の存在感というところから逸脱していないのである。その一方で津田さんが撮影したこの写真の凄いところは、列車のコンパートメントで靴を脱いでリラックスしているロバートフランクの姿である。これはヨーロッパでもそうなのだけど、こういうリラックスの仕方と言うのは、ジェントルマンのやることではないと言うふうに通常は思われているので、このようにリラックスしたロバートフランクの姿を見ることが私には嬉しいのだ。写真家の繰上さんがロバートフランクが来日したときに彼をずっと記録したらしいのだが、北海道に一緒に旅行に行った時、彼は旅館で自分の靴を見失ってしまって、裸足で雪の中を歩いたと言うのは、これは現代のイエス・キリストだと思う。そういえばビートルズのレコードのジャケットでもあったよね。裸足の男性が歩いていると言う話は、このロバートフランクの件だが、私は実際に真冬のプラハの路面電車で裸足でいる青年を見たことがある。この人も私の目から見ると、イエス・キリストスーパースターのように見えた。5年ほど前に清里の写真ミュージアムでロバートフランクを見た。またロバートフランクの写真展をやっているそうなのでこれは見てみたいと思う。2024/08/17 14:22:32160.名無CCDさん@画素いっぱいVaWF2部屋の窓からの風景と言うのは、日々差し替えられる絵画のようなものである。と言うのは、有名な私の尊敬する小説家のコメントである。この風景にしてもそうだし、世界中のホテルを旅した時は年間230日ぐらい旅行をしていたので、それぞれのホテルの部屋から見るそれぞれの風景と言うのは、冷静に考えてみると、美術館で眺める風景よりもはるかに面白いものであった。しかも1つのホテルに2週間いたりすると、その間の天候の変化というものが非常に面白い変化を私に見せるのである。窓と言うのは、その意味で不思議な存在だな。ただ私が言いたいのはまずから見た風景が、お風呂屋さんの絵のように海岸があって、三保の松原があって、遠くが富士山で綺麗で、絶景絶景と言うような意味ではない。バルセロナの安宿に泊まった時、道の幅があまりになくて、手を伸ばせば反対側の建物の壁に手が届くのではないかと言う。狭い路地のこちら側にあるホテルの窓から見ると、反対側の建物の住民の生活が丸見えになるのである。しかし、ヨーロッパと言うのは礼儀のわきまえているところだから、目があったりするとお互いに挨拶をしたりすると言うのは痛快である。パリジャンの暮らしにしてもそうであって、世界的な有名な写真家を取材に行った時、彼は大金持ちであると聞いていたが、パリで暮らしている部屋というのは、まさに6畳と4畳半の長屋という感じであった。2024/08/18 09:03:03161.名無CCDさん@画素いっぱいoswMp54年前の話である。1970のエキスポに行ったことを記憶している人はもう後期高齢者になっている。それなりの貴重な体験であると思う。私が属していた日本デザインセンターもスタートしてから10年と言うので、高度成長期の波に乗ってきたので、ここら辺で社員教育には公的なイベントだと言うことで、会社の研修で大阪に行ったのは記憶しているが、何を見たのかは全く記憶していない。ただ、ただこの写真のように人混みばっかりだったと言うのは、記憶にかすかに残っている。それともう一つは何時間待ちというのが自慢話になったことだ。日本に有名な世界的美術館クラスの名画が来たりすると、やはり同じことが起こって、そこに到着するまでに何時間待ちというのがステータスになる。主催者側のコンセプトに完全に騙されているのは言うまでもないが、54年前に大阪で開催されたエキスポで、果たして半世紀後に確実に我々の生活に生きていると言うものは、一体何が残っているのであろう。彼らの未来予測と言うのは、ことごとく外れてしまった。1つ確実なのは1984に代表されるような政府が人間を管理するその方法は50年前の仕掛けがそのままうまく機能していると言う位のものであろう。1984が私にとって重要なのはMacintoshがスタートした時と言う意味でもある。2024/08/26 07:14:40162.名無CCDさん@画素いっぱいy37sM女の子の顔がわかるように正面から盗撮とか言うので犯罪を形成するらしい。スナップ写真を撮影して50年以上になるけれども、世の中はどんどんヘンテコリンな方向に行ってしまって、卒業アルバムなどでも個人が特定できるような顔写真の使い方はダメだと言うことらしい。かつてのスターリンが統治した東ヨーロッパよりももっと凄いことになってしまって、しかもそれを誰も危険だうざっと思っていないところが大問題なのである。 このショットは某写真コレクションに入っている1枚であるが気にいっている。何かの弾みで1960年代の京王線のどこかの駅で偶然撮影したショットである。この写真がかなり古いのは、今はこんな床の材料を電車のプラットホームに使っているとこがないからだ。 女の子2人がそれを石けりの感覚で遊んでいるというのが実に不思議であって、しかも2人が後ろ姿であると言うところになんとなくかっこいいなと思っておそらく1枚ぐらいしかシャッターを押していないと思う。これを今の時代に発表すると、正面から女の子の顔がわかるというのが、特定の人間がわかってしまうと言うことで、世の中が騒ぎになると言うことなのであろう。私の感覚は全くその反対側であって、後ろ姿と言うものは、女の子の存在感が普遍的に強調されるものなのである。私が撮っている写真はいずれもそうだけれど、人間の存在感を強力に浮上させるためには、後ろ姿に限るというのが私のセオリーなのである。2024/08/30 06:38:12163.名無CCDさん@画素いっぱいQ1aNE1974年にウィーンのアパートメントで撮影されたものだ。まだ寒い時期であるが、おそらくお正月の記念写真として撮ったものではないか?そういう自分の作品以外の記念写真と言うのを家人が丁寧に保管していて、1996年に日本カメラから出した私のウィーンとライカの日々の本編とは関係ない。読み物のところで使う写真を探していた時に、これらの写真を提供してくれたのである。よく写真集とか何かで作者本人の写真が登場していると言うのは何か意味ありげというか全体の時間的な構造が分厚くなるという意味で効果的だと思う。例えば皮肉なのはアルチュールランボーは武器商人としてアフリカに滞在しているときに、写真の技術に興味を持って、当時のお金で4000フラン位をパリに送金して写真機を手に入れているのだ。ところがアルチュールランボーが撮影した写真は全部で8枚しかなくて、そのうちの6枚は自分を撮影したセルフポートレートなのである。その意味でアルチュールランボーは写真が持っている良い意味と言うものをいち早く認識して、そしてあっという間に写真の興味から遠ざかっていったと言う意味では天才なのだ。このショットは家人を椅子に座らせて、そのすぐ上に私が立って撮影したありきたりのポーズではあるが、その時のセルフタイマーのなる音とか、撮影の瞬間のライカのシャッターの音などを未だによく覚えているのは、このようなセルフポートレート私がめったに撮影しないと言う理由によるのであろう。それで左のほうにある文字列に何が書いてあるのかつまんで読んでみたら、なんと70年代全般にライツオーストリアに行ったら、レアなライカエムピーが50,000円位でウインドウに出ていて、それを買おうと思ったら、お店の人がレアなライカであることに、気がついて、うってくれなかったと言うくどくどしい文章が書いてあった。2024/08/31 07:58:44164.名無CCDさん@画素いっぱいb970Mメイドインオキュパイドジャパンの刻印のついたカメラやレンズやアクセサリーをコレクションする連中がいて、あまり上等な趣味だとは思わないが、平和のためだと言う理屈をつけると通用するようである。私もその1人である。 当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。 昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。 同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。2024/09/01 06:35:36165.名無CCDさん@画素いっぱいWMnESドイツの国会図書館ではこの私のライカの本ライカマイライフは写真集として登録されているのは嬉しいことだ。最初は写真集として発刊しようと思ったのであるが、いろいろな事情があって写真集は売れなくて、書店などでも写真集のコーナーに並べられてしまうと全然書いてがつかないのである。それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。2024/09/03 04:45:54166.名無CCDさん@画素いっぱいHwdyR東京の亀有駅のすぐ近くにあるポーラ化粧品の看板である。例えば70年代に私がいつも発見すると、ノスタルジックオブジェとして撮影していたのに、ベルモットの広告などがある。ドイツバイエルの広告もそうだし、カールツアイスの広告もそうだ。その広告のロゴタイプが、そのままモダンアートの存在感になっているところが好きなのだ。ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。2024/09/04 07:10:59167.名無CCDさん@画素いっぱいKRfoCウィーンに暮らしていた頃に映画の仕事を手伝ったことがある。ちゃんとタイトルロールに私の名前がスタンドフォトグラフと言うので出てくる。ちゃんとした仕事である。1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。2024/09/07 09:04:14168.名無CCDさん@画素いっぱいUKBrW^_^通りを歩いている時、私の通行を横断妨害する形で、コカコーラの配送車が入ってきたり、出て行くときに私は一瞬歩行を停止して考える。さてこれは何の夢の続きであったのかと言うことなのだ。日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。2024/09/09 08:25:01169.名無CCDさん@画素いっぱい9wBmtロバートフランクはわざわざパリのフラワーを撮影するために取材に出かけたのである。アマチュア写真家にしてみるとお花は綺麗だからとると言うので、カメラメーカーの新型カメラのテーマなどでもやたら推奨されているが、花の写真と言うのは実はそんなに生易しい身近なモチーフではない。写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。2024/09/11 06:49:44170.名無CCDさん@画素いっぱいUxirO日本カメラにこのシリーズの連載を始めたのは30年位前のことだ。最初は1ページもので1番最初に登場したカメラがロバートキャパが使っていたニコンカメラの話だった。それで読者の皆さんがついてきてくれたので、5年位連載したところで、単行本の出版が決まった。ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。 このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。2024/09/14 11:55:12171.名無CCDさん@画素いっぱいSfPgnウィーンの駅のターミナルでお花を販売しているジェントルマンである。1970年代の後半の撮影だと思われるが、そうなると使っていたのはソ連製のコンタックスのコピーである。キエフでレンズはこの焦点距離の感じからすると、ジュピター85ミリに違いない。ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。 その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。2024/09/15 06:29:32172.名無CCDさん@画素いっぱい08iDiWinの日常の日々で毎日のルーティンと言うのは、別に観光客の皆さんのように旧市街のシュテファン大聖堂に行くわけではない。カメラを持ってうろうろするのはなるべくツーリストが集中していない地域なのである。それでそれぞれに私のカメラ散歩のルートが知らない間に出来上がってきたと言うわけだ。映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。2024/09/16 06:42:25173.名無CCDさん@画素いっぱいGBR2R人物スナップと言うのは半世紀やり続けてもなかなか思うように取れないところがある。特に少年少女のスナップショットと言うのは2つのやり方があって、1つは出会い頭にノーファインダーで撮影してしまうことだ。これだと非常に自然なスナップショットが取れる。これがまずその良い例と言うわけだ。スナップショットのカメラの高さと言うのは、目の高さと言うふうに決まっているわけではないのである。これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。2024/09/21 07:12:50174.名無CCDさん@画素いっぱいQkrPq人類が歩いていく。後ろ姿と言うのは、人類が写真を観察するときの最もシンパシーを感じるシチュエーションの1つであると思う。だから1番有名な人類が歩いて行く後ろ姿と言うものは、友人スミスの撮影したタイトル忘れてしまったけど、楽園への歩行だっけ?あの種類のわかりやすい写真と言うのはちょっとポピュリズムすぎるところがあって、それは気に食わないけれども、写真を理解する。共通点としてはそれなりに有効だと私も考えるのだ。このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。2024/09/23 10:37:53175.名無CCDさん@画素いっぱいy5wHSチューリップの花と、大仏の頭チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?2024/09/26 06:08:37176.名無CCDさん@画素いっぱいlOkU7京都と言う街は、上から下を見下ろすには向いていないカメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。2024/09/27 07:57:23177.名無CCDさん@画素いっぱいk3OyBデジカメ時代にライカピストルのことを考えてみるウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。2024/10/02 09:39:31178.名無CCDさん@画素いっぱいG1DJs私が撮影したのではない。Facebook上でどなたかが撮影されたものであるのだが、非常に面白い劇サンプルなので保存しておいた。これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。2024/10/06 10:08:01179.名無CCDさん@画素いっぱいDQS1Pプラハのアトリエの日時計まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。2024/10/20 14:33:56180.名無CCDさん@画素いっぱいDcgse私がヨーロッパに暮らしていた頃は、社会主義のヨーロッパが存在したから、その社会主義の国にぐるりと囲まれたのがオーストリアなのである。そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。2024/10/21 11:57:59181.名無CCDさん@画素いっぱい952fc^_^フランスのエクレールと言うフィルムカメラメーカーは映画な発明された当初からの代表的なカメラメーカーである。戦前はどこにでもあるような長方形の本体のカメラを制作していたが、戦後になって手持ちカメラにふさわしいムービーカメラを登場させて、それが一世を風靡したのであった。Cameflexである。ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。2024/10/22 18:42:24182.名無CCDさん@画素いっぱいAt3Eiこの時住んでいたのはタイムズスクエアの近くのホテルである。ドルレートが280円の時に1週間で130ドル位するコストだから結構高かった。それで大晦日の大騒ぎをタイムズスクエアで体験した後にマンハッタンの全体が撮りたくなって、フイルムはフォルダーに1枚だけ残っていたのを持ってアンダーグラウンドに乗ってBrooklyn Heightsに撮影に出かけた。天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。2024/10/24 06:23:26183.名無CCDさん@画素いっぱいQ7VWY東京ニコン日記は、ニコンのブランドが登場した50年をタイアップして出された戦勝版の800ページ近い写真集である。新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。2024/10/31 15:05:56184.名無CCDさん@画素いっぱいkB0xi1970年代はなかなかウィーンの建物を観察するには良い時代であった。それというのも今のようにセキュリティーの観点からドアのエントランスにオートロックと言う装置がなかったから、建築ガイドブックを見て、有名な建築家の建物のインテリアなどをごく普通に見に行くことができたのである。それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。2024/11/07 08:12:32
【渡辺真衣被告】「何度、農薬やロープを持ち出したことか…」『頂き女子りりちゃん』に3800万円を騙し取られた50代男性「月給20万円」「自宅はゴミ屋敷」の困窮生活ニュース速報+862189.32024/12/25 15:07:47
【イブ】アメリカ人は失笑する!? なぜ日本だけ「クリスマスには、ケンタッキー」なのか? 米兵を通じ12月が「特別な時期」になり、KFCのCMで「七面鳥」の代替品にニュース速報+858869.62024/12/25 15:04:43
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
29歳の時のストーリーだった。ところがその直前に私は日本の劇場映画のスチール写真を担当する必要があった。そのうちの1つはフォルカーシュレンドルフ作品であって、もう一つがこの三流のギャングムービーである。
その2つの典型的なコントラストの作品の制作を手伝って、私が痛感したのは、映画を制作する手間と言うのは、芸術作品であろうが、エンターテイメント作品であろうが同じ位手間がかかると言うことなのだ。
私はその2年ほど前にウィーンでMekasの映画を大量に見ていたから、このようなコマーシャルフィルムと言うのは、最初から相手にしていなかったのであるが、ハリウッドを頂点とする鳴り物入りの劇映画の制作の虚しさについて教えられたのであった。
ところがその体験から50年が経過してびっくりしたのは、このタイトルの映画はドイツ語ではあるのだが、それが英語の字幕が付いて、YouTubeにアップされていることを最近発見したのである。
ここに登場する。2人の主演俳優の右のほうの人は三船敏郎並みのスーパースターらしいが、そういうことよりも50年前のウィーンのリアルな風景が動いていると言うことが私にとってはまさにタイムマシンなのである。
それで時々このムービーを見ながらその背景に展開している1976年のリアルなウィーンの光と影を見て楽しんでいるわけだ。
これが私がカメラ雑誌に写真を発表した最初の機会であって、本当に嬉しかったな。でも、その後私が同じ会社のカメラ雑誌で新しく発行されたカメラ時代と言う今見てもシリアスな写真集にほぼ1月おきに8ページの東京のシリーズのモノクロ作品を出していたのに、比べると、1番最初の私のデビューと言うのはかなり方向違いなやり方だった。
要するに、最初にデビューした写真は200ミリから400ミリのズームレンズであったのに対して、その翌年から本格的に発表する。1連のシリーズはカメラは同じニコンエフであるが、レンズはニッコール2.1センチで全く異なっているからだ。
それでもこの200 400ミリレンズはよく使ったもので、不具合が起きると赤羽の駅から徒歩10分位の木造2階建ての普通の住宅に持ち込んで。そこで修理をお願いしたものだった。看板も何もついていない普通の住宅であったから、今までそれがタムロンの赤羽営業上だと思っていたのは、私の勝手な勘違いで、埼玉の本社まで来てもらうのは恐縮だと言うので、タムロンの社員の方のご自宅に私がレンズを届けると言う形になったらしい。
クロネコヤマトの宅急便が登場する数、10年も前の話である。
最初に手にした200 400タムロンズームだが、本当はニッコール200ミリが欲しかったのだが、何しても値段が高すぎる。それでこのレンズで我慢したわけだが、それが結果として面白い。私の写真表現の展開のスタートになったわけだ。
それに1960年代に作られたこのレンズの仕上げのクオリティーが非常に高いと言うことに。60年後に気がついて驚いているのである。
その後も何年かかけていくつかの私の作品がプリントされたTシャツを出してくれたのはありがたい。それで私などは貧乏性であるからそのように作ってもらった。Tシャツを着るのは、もったいなくて仕事場のカメラのジャングルの金属のラックに並べて展示してある。
Tシャツと言うものは意外と長持ちするものであって、例えば私がいまだに着ている自衛隊の売店で売っていた。Tシャツは生地がいいのかどうか知らないが、非常に肌触りの良い逸品になっている。
片岡義男さんと何かの雑誌で対談をしたときに片岡さんが言うにはやはりTシャツは古いものに限ると言うので、片岡さんが持っている。最も古いものは50年だか60年だかは聞き忘れたけれど、もうまさに繊維を感じさせない身にまとう、不思議なバリアであると言うような意味のことを話しておられた。
そのTシャツの私の場合、ストックが少なくなってきたので、私の仕事場にぶら下がっているうちの1つのTシャツを展示品から、実用品にしたわけだ。言ってみれば品物が本来の実用物としての役割を果たすようになったのだから、これはこれで良いと思う。
ここにプリントされているのは1970年代全般に撮影されたワンショットであって、メトロの駅での花売りのおじさんである。これを撮影した時は、確かソ連製コンタックスに85ミリのゾナーレンズのコピーで撮影したと記憶しているが、その写真ができたときに私は第一印象として、そこに写っているモデルのおじさんが大変なおじいさんに見えたことである。
あれから50年が経過して、今この写真に写っている人を見るに、ちょうどガラクタ屋さん2代目位の歳だと思うから、若い人に見えるというのが非常に面白い。年齢のパースペクティブと言うやつだな。
何十年も前京都の古いおうちの人から、平塚雷鳥の先祖は友達だと言うことなのだがライカカメラのオスカーバルナックのカタログを見せてもらったことがあった。有名な最初のページにライカの発明者が印刷されている。その時の第一印象はものすごいおじいさん ライカと言うカメラを作ったんだねと感心したのであるが、あれから半世紀が経過してみると、別に驚くことがない。私よりずっと若い外国人が作ったのがライカカメラなのである。
その平和橋の東のドナウ運河のほとりにあったのがウィーンで3件しかない馬肉屋さんであった。ナポレオン3世の影響でwin人は馬肉を食べる習慣になったそうである。しかもフランス人の真似をして勢力をつけるために生で食べたりしたのがタルタルステーキの元になったそうだ。
レバーKaseと言うのは1種のソーセージであるが、オーストリア独特のものかもしれない。冷たい状態でも食べるが、普通は熱くしたやつをこのように丸いパンに挟んで食べるのはなかなか簡単で早くて便利なランチになる。
肉屋さんで出していたソーセージである馬の肉である。7年とロッカ月いつもこの駅さんの前を通っていたので、私が食べた馬の肉の量はおそらく1頭分位だったのではなかったか?
1973年から1980年までここの常連客であって、その翌年1981年から2000年位まで20年間ウィーンに行くと思い出して、このドナウ運河沿いの馬肉屋さんにこれを買いに行ったし、馬刺しも買いに行った。馬刺しは1キロ単位で買うのである。日本の馬刺しは高くて買えませんね。
そしてその頃には、馬肉屋さんの売り子のお姉さんも同じ人であったから、私が数年ぶりに馬肉屋さんに行くと、お久しぶりね。今は休暇ですか?などと愛想言ってくれる。
それから、数年経って最後にウィーンに行った時、例によってドナウ運河沿いの馬肉屋さんに行ったのであるが、スタッフが全員別の人になっていたのは残念だった。考えてみれば、若い頃を馬肉屋さんのスタッフになった人はおばさんになって、そして定年退職してしまったのだから、新しい人が入ってくるのは当然である。
私の大切なドナウ運河のそばの駅さんの重要な記憶が、そこで全て消えてしまったような感じがして残念だった。それでいつもの通り買ったパンはそれなりにおいしいのだが、この業界でも改革が激しいらしくて、最後に私が行ったときには、このレバーKaseのフレーバーの種類が3種類位になってしまって、注文するときに指定しなければいけなくなったので、こういうのは本当に面倒な次第だなと思う。
スティーブジョブズがアップルを飛び出して、自分で立ち上げたネクストが好きで、これで何冊か本を書いた。ところがまだ皮肉なことにインターネットが普及する前であったから、ブラックネクストで打ち込んだデータはフロッピーディスクに入れて、それに封筒に切手をなめて貼って出版社に送っていた。今にして思うと非常に優雅な動作であったことがわかる。
一番最初のiPhoneを使いだしたのは、リコーの馬込の本社でデジタルカメラの発表会があったときに、黒川紀章さんの息子さんの手にしていたのがこれだって、長徳さんこれ写真がすぐ送れるから面白いですよと言われたのが最初の出会いであった。
その翌日に私は最初のiPhoneを買ってきたのだ。当時はMacBookで仕事をしていたから、iPhoneなんて使い道がないと思っていたのであるが、あれから20年近くが経過してどうなっているかというと私の仕事はiPhoneとiPadいずれも型遅れで形成されているのである。
最初のiPhoneで、あの頃世界的に有名になったのは、中国でアッセンブルしているときに、最終の段階のカメラテストというのがあって、そこに写っていた中国人の女の子を消去するのを忘れて出荷してしまったので、そのことで彼女は世界的に有名になった。確かアップルの女神とか言うニックネームではなかったか?
それで今そのオリジナルボックスを手に取ってみるとなかなかよくできていて、すでにこの3次元立体空間がアートになっているのである。その理由を考えてみたら、iPhoneは単なる実用品であるから3次元空間ではあるけれども、道具としてはそこで行き止まりになってしまう。
iPhoneのボックスは3次元空間だが、平面で構成されているから、そこにファインアートが出現するのである。しかしこれだけ手の込んだ箱を作るのは、アップルの会社のコストには合わないと見えて、その直後はこのiPhoneのイメージのボックスはなくなってしまった。
しかし、このオリジナルボックスの存在感は素晴らしいものである。もしできるなら、最後の審判の日までこれを持ち続けてみたいものだ。夫私は無神論者だから関係ないけどね。
その翌年1989年の2月と言う時に家人とアエロフロートでウィーンに行く予定がウィーンが霧が濃いために着陸できなくてプラハに着陸してしまった。それで当時はまだ元気だった。友人のプラハのビーに出会って、プラハのペンクラブでビール飲んだりしながら、最近のチェコの民主化のデモの様子を聞いたのである。
ー
その年の11月に有名なビロード革命で、共産主義は打倒されたと言うことになる。この時計はその頃に手に入れたものである。バザールと言うのは、別に、イスタンブールやカイロのバザールの意味ではなく、耐久消費財とか日用品の中古を扱っているのをプラハではバザールと言うのだ。
このモデルはれっきとしたチェコの製品であるが、なかなかに精度がよろしい。ビロード革命以来オーバーホールもしていないけど、クロノメーター並みの精度である。
実は、軍用のウォッチと言うことで、社会主義の時代にも、チェコは空軍用のウォッチにLemaniaを使っていた。それがビロード革命の後に考え直したらしくて、高い外貨をスイス製のウォッチに使うのはもったいないと言うことで、それ以降チェコ空軍の軍用ウォッチはこのブランドになった。
この間、寝室で型遅れのiPhone SEを見失って。ベッドの下を捜索したらこのウォッチが出てきたのである。iPhone SEのほうはシーツの間に挟まっていた。それで想像もしなかった。30数年前の懐かしいビロード革命の記憶がこの家を発見したことで、いきなり呼び覚まされたのだ。
しかしコンタックスでは最終アタックはやはり重いので、より軽量なエッチなカメラにしたのである。石川直樹から直接聞いた事であるがエベレストのアタックなどではありとあらゆる重さのあるものは敬遠する方向にあって、ボールペンも半分にちょんぎったものをもっていくのだそうである。
いつであったかエミレーツ航空の帰りの便で進行方向左側にエベレスト山白がよく見えて私は水割りウイスキーを飲みながらそれを見ていて写真も映して目の下にメールあんな雪山になんで登りたがるのだろうといぶかしく思ったのであるが、それはそこにエベレストがあるからだ
35ミリレンジファインダーと言えば来客がコンタックスかなどと言う話にすぐ単純で行ってしまうのであるが我々にはシンプルな蛇腹カメラと言うものがある。レチナカメラなども好きであるがあれは戦前のドイツコダックがパトローネ入りのフイルムを大衆に得るために作ったものであるからどうしても作りが安っぽい。
私が好きなのはそれほどメジャーではないけれどもドレスデンで作られたちょっとマイナーブランドの蛇腹7時35ミリカメラである。このカメラ等がその一例であるが。作りはなかなか凝った構造になっている。テッサーレンズのef 2.8がついているところがレンズをたくさんとしてはまず納得できるのであるが、距離計ファインダーとビューファインダーの構造が結構複雑怪奇な状態になっているのはいかにもバロックの街ドレスデンで作られたと言う印象がよろしい。
1番ユニークなのはボディーのトップについているフォーカシングダイヤルである。これでピントを合わせると言うのは蛇腹の先に付いているフォーカシングレバーを回転させるよりも確実にピント合わせることができると言うグッドアイデアである。
それともう一つすばらしいと思うのはそのずんぐりむっくりとしたカメラのスタイリングである。なかなか存在感があってこういう猫がいたらかわいいだろうなと言うようなスタイルをしている。
蛇腹カメラの良さはその携帯性にある。6 × 6センチもそうだが35ミリのレンジファインダでも蛇腹になるとかなり小型軽量で時々持っていることを忘れてしまう位である。
それでメインカメラと言うわけではないが自分の写真を撮るときに35ミリの蛇腹カメラを使うことがある。実際にはレンジファインダーなどが付いている必要は無い。私の場合はほとんどがinfinityで撮影しているから最初からレンジファインダーは不要なのである。
最近手に入れたドレスデンの古い35ミリ蛇腹カメラがこれだ。このカメラに惹かれたのは本体の上のほうにシンプルなファインダーが付いているのであるがそのファインダーをパララックスで矯正できるようになっていてインフィニティーから0.8メーターまでのダイヤルがファインダーの下に付いている。ここら辺がかなり個性的な存在である。
このカメラの名前なのであるがなかなか覚えられなくて時代によってカメラそのものの名前が変わってしまっているらしい。しかしカメラの名前などはわからなくてもカメラの存在感が個性的なのであったらそれで問題ないと考えている。
蛇腹カメラの最大の良さ良さと言うのは撮影するときにカメラをセットするかしないかと言う最初のステップがあるから余計なものは撮影しないと言うメリットがある。これはなかなか蛇腹カメラの持っているライカを超すような素晴らしい魅力だと思う。
これがニッカカメラである。完全なライカのデッドコピーであった。その当時にはキャノンが作ったレンジファインダモデルもあったけどこちらのほうはライカやコンタックスのパテントをうまく避けて作られている。
戦艦ヤマトのレンジファインダを作っていたニコンは戦後になって平和産業と言うことで35ミリ小型カメラのニコンを開発したが、それよりも日本カメラを作ったニッカの方が歴史としては長いことになる。
戦後になってこのカメラはアメリカに輸出されてなかなか良い成果を上げたようであるがその時はすでに戦後力を出してきたヤシカカメラのブランドになっていた。
ヤシカカメラはその当時、最も進んでいる35ミリ一眼レフであると言われていた頭脳工学の頭脳カメラの存在も自分の会社に吸収したのである。
時代が降って1970年にはカールツアイスと提携してコンタックスの一眼レフも登場させた。そのような系統を見てみるとヤシカカメラと言うのは世界的なカメラの系統で見た場合でもかなり歴史的な1本の長いLINEでカメラの歴史をトレースすることができることになる。
このカメラニッカYEと言うモデルはレバー巻き上げ式であって同じ時代のライカモデルよりもかなり先を行っていた。
1958年頃の話であるが、アメリカ市場ではかなり安く販売されていたようである。要するにアメリカ人はある意味で実用主義者であるからこういう日本製のライカ的なカメラもブランド志向でないから何の問題もなく使えるわけだ。
ライカカメラを50年使ってきた私の感覚からするとむしろこういう日本製のライカが道具として何か存在感としての意味を持っているような気がするのである。
日本デザインセンターに勤務していたときのボーナスを手に銀座のカメラ屋さんに行ってライカMD買おうとしたら在庫がなくてその代わりにライカのM2から距離計を省いたライカエムワンを買った。これがなかなか良いカメラだった。
レンジファインダカメラで実際にレンジファインダで距離を合わせる必要が生じると言うのはただ言えば50ミリで明るさが、エフ1.4のレンズで1メーター位の距離で人物ポートレートを撮影するときにはモデルさんの目にピントが合ってないといけないから必要なのである。でも私の場合はスナップショットだからインフィニティーに合わせてあれば問題は無い。
それでこの半世紀以上にわたってライカであろうがなんであろうがレンジファインダでまともにピントを合わせた事は無い。リコーの初期のレンジファインダカメラで距離計を省いたものが気に入っていて手元に何台かある。写真撮影の基本の基本の魅力をそのまま具現化してあるところが素晴らしい。
西独のスプリングモーターが付いた。35ミリレンジファインダカメラにロボットカメラがある。その中のレアなモデルで距離計を省いているのがあるが、これもなかなかスタイルがよろしい。
スターバックスのレンジ、ファインダーの場合は、性格が真面目なので、そういうレンジファインダを省略するような手抜きのことはできないらしい。
ナンバー24と言うのは、このグループ展の時に写真家が当てはめられた展示スペースの番号なのである。何もないカーテンで仕切られた空間に床の中央に丸くマークが書かれているだけだ。
写真家でも美術家でもそうだが、平面で仕事をしている人が立体とかインスタレーションで大失敗をすると言う例を私はよく知っていて、身近なところでは杉本博とかいる。けれど、ルイスヴァルツもそのうちの1人である。ルイスヴァルツの仕事は、何十年にもわたって尊敬しているが、唯一の彼の失敗を始めたルーツというのがインスタレーションをやってしまったことなのだ。
サウスカリフォルニア生まれのルイスヴァルツがなくなったのはパリである。けれども、日本と同じアートの最も遠いところに生まれ育ったからパートに対するコンプレックスはなみなみではなかったのでは?
中平さんがナンバー24の東松さんの展示空間に入った時、彼はまだ写真家ではなく雑誌編集者であった。その前の年の8月に東松さんの新宿のオフィスに行って、私はポートフォリオを見ていただいたことがあるのだが、その時に東松さんから紹介されたのが中平さんであった。それで中平さんも私の写真を一緒に見てくれて、入間航空基地で撮影したアメリカの巨大な輸送機の写真がよろしいと褒めてくれたのであった。
最後に中平さんとすれ違ったのは四谷曙橋である。トレードマークの赤いウィンドブレーカーで赤いキャップで驚いたことに。その時はサポーターをつけないで1人で歩いていたのである。びっくりして声をかけ損ねてしまった。そのそういう現場と言うのは、その数年後に、私が森山大道さんと偶然遭遇した。すぐ近くであった。
頭狂(とうきょうと、読む)の変貌は池之端の菊竹さんの名作ホテルコシマに宿泊しようと思っているうちにある日、高層のタワーが消えてなくなったり、雑司ヶ谷宣教師館の隣の黒田さん宅の「奥様カフェ」でコーヒーとカレーライスのつもりで来たら、すでに更地になっていたりで、油断できない。
何時までもあると思うランドマークは消失し、風前ではないかと思われる建物が生存しているのはまさに人の消息に等しい。
実はすて石の前の小路はお店とT字路になっていて、その小路の左側が小高い位置にあり、そこが名もなき小公園である。綺麗に掃き清めされていて、細長い公園で遊具は昭和40年代感覚なのも好ましい。
先週、思いつきで浮間船渡で下車して、駅前から常盤台駅行きのバスに乗った。工藤ゆきゆかりの、天祖神社とか閉店した渋谷カメラを見て、シャーロックホームズのあった場所も訪問した。
東上線で北池袋まで来て、くだんのすて石がここで下車であることを思いだして、ふらりと降りた。ここから東に200メーターほどですて石である。西側からアプローチするにはその細長い小公園の北側に付属の路地を東に行く。その路地の入り口の左手にある、古い疑混土(コンクリートと読む)の古ビルは「東京宝石」とか言うのである。これもすがれたここらの環境に似つかわしくないので、なにか江戸川乱歩の世界だ。
小路の中程に小公園に上がる大谷石の階段がある。その前で老女が立ったまま、おむすびを食べている。この人もエキストラの通行人だか、通行人がものを食べて画立っているというのは新演出だ。ここらはつげ義春の漫画の世界だ。
小公園に2つしかない、古いベンチのひとつに腰掛けたら、眼前がすて石である。しかもことらの方が数メーター高い位置にあるので、なにか屋外劇場の感じがする。もう一つのベンチでは妙に大人びた綺麗な女子高生がパックのいちごミルクをストローで飲んでいる。ああ、これも実は前衛劇の俳優のひとりだなと思った。
真夏の太陽が時々雲に隠れるとその瞬間だけすらりと冷涼になる。これも前衛劇団の照明装置である。
頭にタオルを江戸時代の瓦版売りみたいにたたんで載せたじいさんが花道から登場。ゴミ箱のまえで七三で見栄をきる。ゴミ箱尾をを鍵で開けて、数個のごみ袋に仕分けしている。
「この間の、年金のことだけど、あれ、税金の関係があるからああなってるんだけけど、、、分かった?」
じいさん返事せず。
「ちゃんと水飲んでる?」
「ああ、今日はもう4本飲んだよ」
ばあさんがそのまま下手に退場しようとしたら、
「もう京都にはいかない。ここに3日居ないだけで、他のやつが分別したんで、やり方が違うんだ。また全部やりなおしだ」
ばあさんを追いかけるように「貴船の床で一杯やろうとしたんだが、満員。それでつまらない高い店につれていかれちゃった」
「あたしは3年前に京都に行ったよ」とばあさん。
これでごみの分別をしている町内のじいさんの属性が明らかになった。
こういう会話はまったく、三流の台本書きを超越している。
町行く人。町に居る人はそれぞれに、とんでもない秘密を内包して生きているのだ。
この小公園を「すて石劇場」と命名した。
森さんはその後は日吉の東京総合写真専門学校の校長になられたりすごいキャリアの人だ。それでその当時ニコンサロンブックスから森さんの写真集が出てえらいなぁと思ったのはあの当時のニコンカメラの会社はまだ文化的にゆとりがあったと言うことだ。
つまり競合他社のしかも安物カメラのオリンパスワイドで撮影した作品を世界一を自負するニコンのそれまたプライドの高いニッコールクラブの写真集の最初のシリーズとして出したと言う事はかなり懐が広いと言うことになる。
美術出版社が出していた1970年代に有名だったデザインと言うグラフィック関係の月刊誌があってそこのページで16ページ位まとまった作品を掲載するセクションがあった。森さんはそこでも京都のオリンパスワイドを使った写真を掲載している。それに私も影響受けて美術出版社のデザインに売り込んで東京のシリーズを掲載したりしたこともあった。
ニコンサロンブックスの京都のシリーズでは街の通りのガラスの窓にうっすらと森さんがオリンパスワイドを構えているところが映ったりしている。それは不確かな情報だったが何かカメラ雑誌だと思うけど森さんが紹介された彼自身の写真であるが、なんと森さんは頭の上に一番最初のモデルのオリンパスワイドを乗っけてこっちを見ておどけているのである。
それを私も真似をしてみたがカメラと言うものはなかなか微妙なバランスの感覚があるもので頭の上で乗せた状態で固定すると言うのはそんなに簡単なことではない。こういうのはオリンパスワイドのスナップショットのバランス感覚と言うのかな?
この8月の終わりの京都の地蔵盆の猛暑と言うのに憧れていて数年前よせば良いのにその時期を狙って京都に撮影に行った。年寄りの冷水と言うやつで途中で熱中症になりかかって電信柱につかまってかろうじて転倒は防ぐことができたが周りのスタッフに迷惑をかけた。年寄りの冷水と言うことだな。
西側に移動してからの彼の仕事は必然的に西側の35ミリ映画撮影カメラを使うようになったから、その点では面白くない。私が興味を持っているのはソ連で仕事をしていた。当時のタルコフスキーが使っていたカメラである。
名作惑星ソラリスの撮影中の映画監督の写真が残っていて、彼が撮影に使っているカメラがこれなのである。西側ではほとんど知られていないが、同時にかなり高級なスペックを持ったカメラらしい。プロ用映画撮影機であるから35ミリの回転式のミラーレフレックスカメラである。同時録音のためのサイレントの構造にはなっていないようだ。
面白いのはカメラの中心部というのがブロックとしてあって、その左右にフイルムマガジンをつけると言う方式のようである。私が見たのは1200フィートのマガジンがついた。カメラスタイルであるので、全体のカメラ本体の構造がよくわからなかった。でもこちらは400フィートマガジンがついているから、カメラの全体構造とカメラのメカニズムがよくわかる。
それで惑星ソラリスを実際に見るとわかるけれども、アメリカのプロ用映画撮影機と全く同じ画面の安定性である。それはまずそうだよな。それでもタルコフスキーはソ連時代には映画撮影機には苦労したようで、ごく初期の作品、僕の村は戦場だったがあるが、あれは第二次大戦中にソ連の戦争カメラマンが使用したコンバースオートマットを使っている。
当時のソ連は、西側のカメラをかなりコピーして制作したのでありフレックス35もあるし、Eyemoカメラもある。もちろんアメリカの代表的な映画撮影機ミッチェルがソ連の時代にデッドコピーが作られていてかなり使われたようだ。これは外見はミッチェルと全く同じである。それを構えているタルコフスキーの写真が残っているので、これは欲しいカメラだと思っていたら、ある時、それがアメリカのeBayに現れた。
この組み立てユニットも、実に本物のありフレックスの気分が上手く再現されている。本物よりその存在感が勝っているような感じであるのが面白い。
その16ミリフィルムカメラの組み立て模型を見て、私が考えたのはこれを考え出した人のアイディアが日本的ではないと言うことである。おそらく日本以外で作られたおもちゃだと思うけど、今の子供だったら画像と音声を形成するのはスマートフォンだと思っているから、これを見せて、このフォルムが何であるかがわかる人というのは少ないと思われる。
それにもかかわらず、このようなクラシックなムービー、カメラの組み立ておもちゃを作ると言うのは、おそらく子供たちに何らかの情操教育を与える可能性があると私などは考えている。
全く同じカメラありフレックスの本物の方を携帯してモスクワの空港の税関のところで検査を受けたときに検査官のおばあちゃんはカメラを手にとってロシア語しかしゃべらないから私はわからなかったけれども、彼女のジェスチャーはクランクを回す仕草をするのである。これはほとんど世界中で今でも通用する。フイルムカメラを回転させる時の共通のジェスチャーなのである。
つまり、つい先ごろまで、映画撮影機と言うのは、カメラ本体に付属したクランクを回転させると言うジェスチャーで世界的に認識ができたのである。それに対して今の普通の映像の記録手段であるスマートフォンはどのようにこれをゼスチャーで表すかと言うと、そのための共通言語としての身振り実際はいまだに我ら人類は持っていないのだ。
一言付け加えておくとヨーロッパで電話をかけるよーと言う。ゼスチャーは、右手で親指と薬指を長く伸ばして電話の受話器のような形にして、それを耳に当てると言うジェスチャーである。
その日の夕方に、私は東ベルリンと連絡をとって、その翌日にプラハに出かけた。彼女はポーランド製のフィアット500に乗って、プラサまで来てそれでフイルムをピックアップできたと言うフレンチコネクションであった。
だから、1985年の電話をする。ジェスチャーと言うのは固定電話のことであって、iPhoneのことではない。
1960年代後半から70年代初め風景論が流行したのは今見るとそこに現れている。写真表現と言うのは象徴表現主義なのだ。同時に社会主義的な運動を目指すことが他のジャンルもそうだけれども、写真家にとっても重要と言うふうに勘違いされていた時期であった。
東京の赤羽からJRで南に行く次の駅が10条駅である。歩くと1時間20分ぐらいかかると思うが、いわゆる東京のはけた道の様相がよく残っていて、断崖絶壁の繰り返しだ。大昔にはこのあたりまで荒川だったわけである。そういう事は別に得意なことではなくて、ウィーンの旧市街にある。かなり初期のゴシック教会で岸辺のマリア教会というのがある。
数百年前まで、ドナウ川の水がここら辺まで来ていたから、その名残を命名した名前だ。そこで50年以上前にベンジャミンブリテンの隅田川の演奏を聞いたのも、何かドナウ川と隅田川が姉妹都市であるような気がして面白い。実際の隅田川は、確かセーヌ川と、姉妹の河川であった。
赤羽と重城の中間ポイントにあるこの界隈が好きで春先によく行くのである。そのチャームポイントは写真でわかるように高台の斜面に可憐なスミレの花が咲いている。私はスミレの花を愛するような人間ではないが、春先のこの時期だけに、ここの赤羽と重城の中間地点に咲くスミレの花と言うのは好きなのだ。
しかも右側のバラック建築の春の午後の日差しが実に存在学的である。カメラはライカで、レンズは戦前のソ連製の28ミリ。いいレンズです。
家人がいつも言うには、自分の誕生日とクララシューマンの誕生日が同じだと。人間の誕生日になると言うものは、1年のたくさんある日日の1日だけなのだから。それは珍しくもなかろうが、私の場合は5月30一日であって、木村伊兵衛先生のご命日と同じと言うのが自慢なのである。
この写真を好きだと言ってくれる人がたくさんいて、それが嬉しいのであるが、なぜこの写真が良いかというと、これはストレートフォトグラフィーであるからだ。象徴表現主義的な何か胡散臭いメッセージを持った写真ではないと言うところが良いのだと思う。
それでこの雪のシーンを撮った翌年、だったと思うが、横浜から船に乗ってナホトカに行き、そこからシベリア鉄道でハバロフスクまで行った。私は今まで50年以上ずっと勘違いをしていてナホトカから西1000キロ離れたところにハバロフスクがあるとばかり思っていた。
今回地図を見て私の勘違いに気がついたのである。調べてみると、1973年5月に私たちが利用した列車と言うのは、ワゴンリーのようなファーストクラスの列車であって、これは当時の外国人専用の列車であったらしい。そしてその経路は、ナホトカから北北東に900キロばかり走るのである。つまり逆戻りと言うことだな。
この写真集は、世界で最初にライカタイプのレンジファインダーを出したエプソンとタイアップして出した写真集であって、ヨーロッパに夏と冬に撮影に行ってなかなか面白い仕事だった。今の時代がばかばかしいのは、世界中のありとあらゆるクラシックレンズをマウントアダプターで、デジカメにつけて素晴らしい描写ですとかやっている連中のことである。こういうレンズ交換が遊びは、文化的に見たらマイナスだな。
私は40代から70代までプラハに捕まっていたので、もうプラハには行かないつもりである。それで私のプラハ生活を34年間支えてくれた。プラハのアトリエが別に意識したわけではないが、このエプソンの写真集の表紙になっている。
それで、私の個人的な興味なのであるが、表紙の写真を見ると窓の部分が鉄になっていることがわかる。今では全部アルミサッシになっているから、この建物が1930年代に建設されたことの証拠である。
とにかく住みにくい環境であって、夏はシャワーを浴びて水で濡れた体のまま部屋にいて気化熱で体を覚ましていたし、真冬はガスストーブの聞き方がほとんどダメであった。
それが2005年ごろにアトリエを大改装して、今のモダンな二重構造のアルミサッシにしたのである。こうなると窓をいっぱいに開けて空気を入れることもできるし、暖房の効果も高いから、アトリエは私が暮らした最後の15年間ぐらいは非常に快適な場所になった。
紙兎ロペと言う漫画は、猫の中田さんから教えてもらって、つい最近ファンになったのであるが、そのオリジナルの店というのが葛飾区にあって、隣が床屋さんと言う作りになっているが、私はこの店のオリジナルの状態を知っていた。
葛飾区ではなく、豊島区雑司が谷の奥にある角地の八百屋さんであって、1時はドラマの撮影などにも使われていた。その後しばらく閉店になって1年位前であったが、そこがラーメン屋さんだったので、1000円のラーメンを食べて、冷酒をいっぱい飲んだ記憶がある。
そのラーメン屋さんが紙兎ロペの撮影現場だと言うので、人が集まってくると言う事はあるのかな?それで漫画の中でよく見ているのであるが、この写真に出ている警察官の左側の道路表示である。一方通行の表示であるが、そこに漫画の中では、田中さんを除くと書き込まれているのである。それで私などはその道路標識の指示に従って、ここは一方通行に歩行者として入っていったりする。
写真のワークショップで三越の本店前をウロウロしていた時に、当時の三越の経理部長さんだった人が私に声をかけてくれた。それでその時は中央区のお祭りでソーマの馬追の実演があって、馬が一方通行の出口に逆行して入ったのである。そしたら経理部長さんは馬と言うのは、交通分類から言うと、軽四輪になるから、一方通行無視で入ったのは交通違反であると。
大雨。
私がパリに居た時には、東京では豪雨があったらしい。それは知らないので、今日の雨、隅田川の向こう岸の見えない雨は、いかにも東洋であるな、という脅威を感じる。
銀座。
クリエイトにてアサヒカメラの連載のライカl型で撮影したモノクロプリントを受け取る。
一瞥して一驚したのは、そのデテイルの細かさである。旧エルマーは実に優秀なレンズだ。ネガで見ている時には、こんなに焼くパワーを秘めているとは思えないのだけど、プリントになってみたら、パリの舗道を行く男性と彼の連れている白い犬と、男性のもっている6本のミネラルウオーターと道路を隔てて反対側の店の様子が、逆光の中に遺憾なく再現されている。
ライカM7などは、もう要らない!と言いたいほどの、優れた描写なのだ。こういう事実に、世の中のライカファンが気がつかないのは、ライカ社の為には幸せなことである。
銀座線にて上野広小路まで出て、大江戸線にて両国経由で帰宅。
夕刻になっても雨は激しい。
ボーイング社のHPを閲覧する。その中で、特にボーイング777の300ERの試験飛行とロールアウトのお披露目パーテイのビデオを、リアルプレーヤーで見る。
小さい画面と不自然な音声はなかなかの臨場感だ。
ハイビジョンよりも確かなリアリテイがここにはある。それにしても、ボーイングの最高責任者の言うインタビューのコメント(別にボーイングに限らないが)は、常に我が社の市場占有率の拡大と、ビシネスの成功であるとは、あまりに退屈である。
飛行機の中で上映される、3流のアメリカのラブロマンスのストーリーなみだ。
その当時私はソニーとちょっとお付き合いがあってお手伝いをしていた。ソニーの関係者の話によると、ミノルタの本社と工場は堺市にあるからそれは遠いと言うので、新大阪駅のすぐそばに事業所を作ったそうである。
別にスポンサーであるから、α 100を使ったと言うのではなく、当時私はこういうカメラを持っていなかったから、ソニーから貸してもらったカメラでついでに広告の仕事もやった。エキスポが上海であるとか言う数年前にα 100を持って撮影に行って、大きなポスターを作ったりした。
もっとも、その大手の企業のポスターと言うのは、中国の若い男女がエキスポの会場の橋の上で未来をワクワクして眺めていると言う作り写真なのである。モデルさんは最初はスタジオでモデル選びをして、本番では橋の上に立ってもらって、その他色々な30カット位のショットをα 100で撮影した。
そこで、カリスマレタッチ屋さんの登場となって、素晴らしいB0サイズのポスターができたのである。私はカリスマレタッチ屋さんの素材を提供しただけに過ぎないけれども、アマチュアカメラと言われているAPS-Cのそういう安カメラでちゃんとした仕事ができるのには撮影した私自身がびっくりした。
そのα 100はソニーに返却してしまったが、それから10年ぐらい経ってネットオークションで安く手に入れて使ってみたらなかなか使い勝手がよろしい。新型ソニーカメラの追っかけ部隊は、そういうのは全く評価していないと言うのは情けない連中だな
それでこの作例は、α 100 300ミリのソ連製望遠レンズ、フルシチョフ第一書記はカメラが趣味でこのレンズ愛用していたそうであるが、部屋から永代橋にαを向けて息を吸って止めて、シャッター速度は2分の1秒であった。私は生きている人間だから、息遣いがカメラぶれになっているが、それはそれで良いと思う。
私の本でロシアカメラがむせぶ夜はというのがあるんだけど今読み返してみると面白い。ことの発端はさっきタワーの1階で仕事をしていたらクロネコヤマトさんが私を見つけてカメラを到着したやつを届けてくれたのである。つまりクロネコヤマトは私が誰であるかを認識しているわけだ。
20年位前のストーリーであるがクレムリンから赤旗が降りた後にモスクワの写真集を撮影に行ったのである。モノクロームの写真集でそれはアメリカの何とか言う団体のプライスを取ったりしたのである。
それで蚤の市でカメラを漁っていたら黒ずくめの青年が私に声をかけてきた。ミスター田中KGBのスパイカメラ買いませんか?と言うのである。
アメリカン・エキスプレスが日本で活動を始めた頃の広告に、外国では誰も私を知りませんというのがあって面白いと思ったがモスクワではKGBが私のことを知っているのである。これをどのように解釈したら良いのだろうか?
KGBのスパイカメラが値段が2500ドルだと言うのでちょっとオペレーションしてみてと言ったら彼は私から3メーター位離れたところで16ミリのハンドバックの中に隠したムービーカメラなのであるがそれを回転させてみた。あたりに響き渡るような映画カメラの回転音であった。
その時私はレーニンがずっと暮らしていたと言う赤の広場のすぐそばのホテルに泊まっていた。それでキャッシュディスペンサーでアメックスのカードで何百ドルかの金を下ろしたのである。それが印刷したばかりのルーブルみたいな感じの真新しいフランクリンルーズベルトの100ドル札だった。ニューヨークでは20ドルしか見てないので偽物ではないかといぶかしく思ったのである。
そんな回転音の大きなカメラはいらないよと言って中古カメラ業者さんの店を見て3秒ぐらいだったと思うけど振り向いたらその黒ずくめの青年は既になかった。
この身のこなしは結構すごいものであって、数年前夏の暑い盛りに赤羽の高台の上ですれ違った人が地元の氏神様であったことが思い出された。ステテコ姿のハゲの小さなじいさんでペットボトルを下げていてこればっかり飲んでいると私みたいになっちゃいますよと言うので誰かなぁと思った瞬間にあーこれは氏神様だと思って2秒後に振り返ったら姿がないのである。
赤羽の丘の上と言うのは、それなりに見晴らしが効いて、なかなか胸が空く感じがする場所である。その土地の感じがどこかの街に似ていると思って、坂上まで来て思い出したのが私が長年住んだプラハの地形に似ていることに気がついたのは、これもわりと最近のことであった。
プラハは緩やかな丘と結構深い谷が交互に連続している地形だが、その連続というのが東西に広がっているのである。赤羽のこの地域の場合は、それほど複雑な繰り返しではないけれども、やはりプラハの土地の傾きに似ているのだ。
今はもう取り壊されてしまったが、かつて社会主義国の頃にチェコの迎賓館として使われていたところがあって、世界の大統領とかトップアーティストとかその頃の日本の皇太子殿下もお泊まりになった施設がある。そこが今では高級ホテルになっているので、私が住んでいたプラハのアトリエから遠くないので2009年に宿泊してみた。風景の感じがこの写真と結構似ているのである。ところで私がこのカットで気に入っているのはチューリップが自由奔放に咲き乱れていると言うことだ。
数年前から私は冗談で自分はお花がライフワークであるなどとふざけているが、この写真がその代表的なサンプルと言うわけだ。カメラはライカでレンズは戦前のソ連製の28ミリ。
1970年代に同じ職種の写真家で糸数さんと言う人がいて、彼は数年前に昇天してしまったのであるが、糸数さんの武勇伝もすごくて、シトロエンの高級車をぶっ飛ばして1日に1000キロ以上走ったりするのである。だからおしっこはペットボトルにして走ると言うのはまるで宇宙飛行士のようだな。そのように急ぐ必要がある仕事と言うのも存在したのであろう。
小松さんの車での移動ネットワークと言うのもすごくて、型遅れのルノーに乗っていた。それでウィーンに住んでいた近藤くんと言う写真家志望の人と友達になって、いろいろ東ヨーロッパにも行ったようである。それを思い出したのは、70年代に活躍して有名な文化人であった大学の先生がいて、ウィーンの連中がその先生に触発されて、Oh! Jananと言うゼロックス雑誌をウィーンで出していた。
レベルとしては、学生新聞以下のものであったのであるが、環境活動家の先生の関係かどうかは知らないけれど、紀伊国屋書店にそのゼロックス雑誌が並んだとか言う話がウィーンにまで伝わってきて騒ぎになった。ゼロックスの写真帳と言うのは、神話になりやすい。
天才荒木が作ったゼロックス写真集も実際に販売したかどうかわからないけれども、数はしれたものだろうし、尊敬されすぎて復刻版ができてしまったプロボークにしても私等は頼まれて20冊ほどあてがわれて、友人知人に売ったのであるが、数冊が売れ残った。それはまだ家のどこかに残っているはずだ。
ウィーンに来たときに、小松さんは意気投合した近藤くんの家に宿泊していたりしたらしい。ウィーンの西のはずれにある一戸建てで、かなり大きな庭のついている古い家だった。
当時の私の友人関係としては、まず古屋誠一がいて、山本寛がいてと言う日本人の小さなネットワークであったが、そこに新しく入ってきた小松さんはなかなか人気者だった。それで近藤君と一緒に、小松さんはハンガリーとかルーマニアのほうに車で一緒に出かけたらしい。
でもその後考え方を変えて発表する。色のついた写真は全部iPhoneとiPadで撮影することにした。フィルムはモノクロームしか使わないと言うふうに表現の方向変換させたのである。
このカメラはウィーン時代に初めて使いだして、それ以来なかなか気に入っている。面白いのは、当時のソ連のカメラのレンジファインダのクラスとしては、ゾルキーというのがあって、これは世界初の宇宙飛行士。ガガーリンも愛用していた。カメラであるが、ゾナレンズ50ミリのコピーのF2と言うレンズが付いていた。
こちらもフェドカメラはそれより階級したと言う認識なのか、標準レンズは50ミリ2.8なのである。私はF2と言う絞り開放で撮影することもないし、ef 2.8-50ミリレンズで充分なのであるが、そのef 2.8レンズですが、開放で使った事は私の記憶ではほとんどない。
ウィーン生活時代の結構記憶に残るポイントはこのカメラは巻き上げが重いのであるが、フィルム巻き上げを1戦回ぐらいやると中で油が循環するのかどうか知らないけれども、巻き上げが軽くなるのである。それで1970年代には、インターネットも何もなかったから、その代わりに夕方から深夜にかけて、このカメラの素振りをして、右手の親指と人差し指が痛くなる位シャッターを切ったものだった。
このカメラのプロトタイプと言われているモデルがあって、それはレンジファインダーの窓が0ではなくて資格なのである。ところが不思議なことにそのレンジファインダーの四角い窓と言うのは、単に日本の美術でパーツがカメラ本体に取り付けられているだけなので、フェイクなのか本物のプロトタイプなのかわからないと言うところがこのカメラの魅力かもしれない。
ゲバラが来日したのが1959年で、どうも彼はその時にこの手にしているニコンエスツーを買ったらしい。レンズはニッコール5センチ、1.1のインナーバイオネットと言うところがコレクターズアイテムで渋い。私もこのレンズを使っているのであるが、実は大きなレンズだからフォーカシングが硬くて大変なのである。つまり欠陥商品だから、日向がすぐにもっとフォーカシングがスムーズな外爪のバイオネットを作ってそれを流通させたわけだ。
さらに詳しく見ると、各メーカーが使っているニコンエスツーは、後期モデルのフィルムカウンターとシャッターダイヤル設定がブラックのやつである。
革命家の姿を記録した。写真集を結構細かく見たことがあって、写真撮影はゲバラのかなり重要な趣味であったらしい。数多くある写真の中でニコンを構えているのは多くは無いけれども、その中で私が注目したのは、ニコンのボディーからレンズを外して何か他のレンズに交換しようとしている瞬間の写真がある。しかし残念ながら交換レンズが何であったかがわからない。レンズマウントしか見えていないのであと数秒後に撮影すればレンズ交換したゲバラの写真術がわかったのに残念である。
しかし、下腹が1番偉いところはCIAに殺される。ちょっと前に、彼はこのニコンを友人の医師が持っていた。コンタックスレンジファインダモデルのキエフと交換したのだそうだ。ここら辺が革命家の革命家たる所以である。そのカメラは今はゲバラのミュージアムに展示されているのであるが、その展示の仕方が単にウインドウの中にいい加減にカメラが転がっているだけなのが面白いなと思った。まさに革命家のカメラであるといえよう。
定価よりも高く売っている場合もあるしオンラインで見たら999円で出ていたこともある。しかし全般的に品薄であることには変わりがない。
この新書版の写真集は将来作るためのちゃんとした写真集の予告編と言う形で出したのである。それから25年が経過してハードカバーの本版の写真集が出たわけであるが当初の計画ではハードカバーで500ページ位の本を考えていた。これは25年前の話なのである。
でも時代が変わってしまったので昨年出したハードカバーのスクエアなページ数はあまりない薄い本の方が実際の写真集としては役割が大きいのではないかと考えるようになった。それで一応昨年のハードカバーの写真集を東京ニコン日記が予告編とすればそちらの方を本編と言うふうに認識しておこう。
^_^銀座や新宿の中古カメラ市に行かなくなって20年近くになるがそういう会場でカメラジャーナルの出版社が出店していた時は私もお付き合いでサイン会などに参加させてもらった。それで100人ぐらいのお客さんが列を作るようになると1人の方に1分かけても140分になるからそういう時は黙ってサインをさせてもらうだけである。
しかし東京ニコン日記にサインを求める読者の方は私も1番嬉しいのでついつい30秒ぐらいお話をさせていただいてますます列を長くしてしまったりする。
それで東京に行くん日記の見開きのページのこの左側であるがこれがオリンパス35で撮影したものだ。右のほうは建て替える前のブリヂストン美術館のエントランスのところでこれは鏡に映ってるからライカM2を構えているのがわかるが、言うのも愚かではあるが左側のオリンパスワイドの撮影した作例とライカで撮影したのとで描写が非常に異なるなると言う事は無いのは言うまでもない。
それがドレスデンで作られたカメラとシュツットガルトで作られたカメラに全く同じ問題が発生しているというのが非常に面白い。カールツアイスは世界で最も進化したカメラメーカーでありレンズメーカーであるはずだから彼らが作っているこのカメラ本体裏側の出っ張りと言うものはネガティブイメージであるからそれを改良して出ないようにするというのがごくごく普通のカメラメーカーに対する考え方である。
ところが東ドイツで作られても西ドイツで作られても同じ出っ張りが出ると言う事はカールツアイスの会社は西でも東でもこれはコンタックスをコンタックスたらしめている非常に重要な性能の1部であると言うような認識をしているのではなかろうか?
それで私などはこのサイズの出っ張りはカメラをホールドしたときの親指のフィンガーチャンネルとして使いやすいと言うような認識をしているのである。いやこれは冗談で言ってるのではなくて本当にその出っ張りがしっかりしたものだからちゃんと指係として使えるのは事実なのである。
48丁目から8 × 10インチの大型カメラを担いでセントラルパークに撮影に行った。当時のトライエックスの8 × 10インチの25枚入りのフイルムは確か60ドル位だったと思う。その撮影済フィルムをたくさんストックしておいて1983年の夏の数ヶ月ウースターストリートの大きなロフトに^_^暮らしていたのでそこで現像をした。
タイトルは春のセントラルパークと言うことで撮影したのであるがこれには結構シニカルな意味が込められていてニューヨークが春で素晴らしいから春のセントラルパークとタイトルをつけたわけではない。単なるプロジェクトのコードネームとしてつけただけの話である。
メトロポリタンミュージアムの辺りまで北に行くと風景はちょっとセントラルパークも変わってくる。それでちょうどこの樹木Dog Woodの花が咲き始めたところを撮影した。
この作品は非常に好きなものなのであるが素人ウケしにくい作品である。素人ウケすると言うのはミュージアムとかBrooklyn Bridgeが写っているのが人気があるのである。それで23年来田中長徳ギャラリーと言うオンラインギャラリーを展開しているのであるがその販売している作品の中で人気のないものなのだがこれを手に入れるコレクターはかなり写真がわかっている人だと思っていた。
それでこの間この作品が売れたので私はそのコレクターのレベルが結構高いと言うことを言っておきたいのである。樹木と言うのは不思議な存在であってニューヨークにはもともと樹木がないから大切なのである。
フルクサス運動の創始者常時マチューナスは漏話マンハッタンのウースターストリートに住んでいた。彼が植えた1本の樹木はポリスが撤去しろと文句を言いに来たのだがそれを撤去しないでそのまま何十年も経ってウェスターストリートで唯一の巨大な樹木になった。そのことはジョナスめかすも書いている。
香港から高木くんが買ってくれたテネシーウイスキーの値段は2000円しないと言うので私は感動して香港に永住したいなどと馬鹿を言っていたのである。それからずいぶん世界中を仕事で旅行して飛行機の中でもたくさんお酒を飲んだが1番飲んだのがジャックダニエル着で2番目はカルバドスであった。ビジネスクラスで旅行している日本の皆さんを見ているとCAさんが最初に飲み物を聞きに来るととりあえずビールとか言っている。酒の好みとオーダーの仕方と言うのは生活環境に深く関わり合ってくることがわかって面白かった。
ジャックダニエルではいろいろなノベルティーグッズを売り出しているので1時はアパートメントの中がジャックダニエル子のスピークイージーみたいな感じになってしまった。
この間聖路加病院に行った時に診察の待ち時間にコンビニから買ってきたのはこの間である。テネシーウイスキーのソーダ割だと思って飲んでみてびっくり。コカコーラが中に入っているのかと思った。血液検査なんか終了した後だからこういうものを飲んでも別にドクターに叱られる筋合いは無い。
トップカバーが広いので長い期間の海外取材等では退屈なのでそこに手元にある各種雑多なシールを貼って遊んでいたのである。
撮影してる瞬間と言うのは仕事の写真であるからノーファインダーで撮影する事はなくてちゃんとライカのファインダーを覗いて構図を決めて撮影するのはプロ写真家として当然である。
それでオフの時間帯は何を見ているかというとやはり手元のライカをじっと眺めていたりするのだ。そこで退屈であるからヨーロッパの地元の八百屋さんで買ってきたトマトのシールを貼ったり、スーパーで買ってきた安い栗羊羹のシールを貼ったりするのである。
そのシールを貼って20年ぐらい経過して気がついたことだが。日本の栗羊羹のシールはすぐに印刷がフェードアウトして色が薄くなってくる。ヨーロッパのトマトのシールは今でもくっきりしている。
最近ではこのカメラの値段も底を打ったようであって少しずつ値段が回復している。それで複数台持っていてもいけないので1部をネットオークションに出した。
シールがベタベタ貼ってあるので使うときにはシールを剥がしてからお使いくださいとネットオークションのコメントに書いておいた。
ローマで出会ったミュンヘンから来たと言うカメラ女子が使っていたのはバルナックライカでそれはおじいさんが使っていたカメラであると言う説明を聞いたことがある。それと同じでデジタルカメラの命は短いけどフイルムカメラの命が長い。
それと1連の映画の進行状態で、巨大な地下水道の空間が描写されているが、私は写真集の必要があって、そこに前後に開取材許可を出して撮影に入ったことがある。
最初に取材した時は、警察の管理下にあって、制服の警官と言うよりも胸まであるような長いゴムの長靴を着てヘッドライトをつけた。本物の専門のポリスが同行してくれた。そのショットは私の写真集ウィーンとライカの日々に出ている。2度目は管轄が変わったのかどうか知らないが、winの下水道局の人が案内してくれた。
それでwinの大観覧車であるが、これは立っている。ロケーションが非常に悪いところにあって、上からウィーンの旧市街を一望するようなことは絶対できないと言うような構造になっている。だから19世紀の終わりにこれに上った連中は眺めが良くない蔵金返せと言うので、よく暴動が起きなかったものだ。
直大観覧車に乗るのが退屈である。我大観覧車をwinの風景の1部として眺めると言うのはなかなかすばらしいことなのである。このショットは85ミリレンズでウィーンの外周を結んでいる。高速電車の中から撮影した一瞬の光景なのであるが、なかなかうまく撮れていると思う。
1947年にライカ関係のレンジファインダーに関するパテントが無効になったので、それでライカと全く同じカメラが作れるようになった。1938年の当時にはライカのパテントが有効であったから、距離計とファインダーの位置関係がパテントに抵触しないように作ったために、レンジファインダベースが23ミリメーターと言う非力な距離を図る能力であった。
私が使っていたこのシリーズのカメラは今にして思うと、ダイカストタイプでボディーが大きくなってからのシリーズなのである。それで今まで板金加工のクラシックなレオタックスを使う事はなかったのである。それが昨日のことをネットオークションで初めて手に入れた。
1番びっくりしたのは、その仕上げが非常に優秀で、本家のライカカメラよりも優れている位のものなのである。レオタックス古谷さんが言っていた言葉が思い出された。
ライカスリーシーの頃のライカカメラの制作ですが、あそこら辺はあまり良くありませんね。
今にして思うと、この一言が真実であったと言うことに私は理解できるのである。このすぐれたカメラの落札価格はたった1400円だった。
それで銀座和光ミッキーマウスで検索したら、ウォルトディズニーの生誕100周年か何かを記念して1ヵ月だけネズミの大きな時計になったそうだ。
それでセイコーの時計の社長さんとかディズニーの関係の偉い人が出て、つまらないことを言っているのは業界記事に掲載されているが、トップの挨拶と言うのはいつもあまりにも退屈だからやらない方がスマートなのだ。
イーストマン・コダックの会社のオフィシャルディナーに30年近く前に呼ばれてケルンで食事をしたことがあるが、コダックのトップのステートメントが、我々の目標は売り上げの向上とシェアの拡大であります。などと言っているとああ言うことになる。
びっくりしたのはディズニー関係の偉い人の風貌が、空気の抜けたれいわ新選組の山本太郎と言う感じなので、さらにびっくりした。
ミッキーマウスの腕時計と言うのは、昭和天皇に会いに来たアメリカの大統領がプレゼントして、昭和天皇はそれをずっと使っていらして、外国の訪問の時にもつけておられるので、それが話題になったこともある。
アメリカに負けた日本らしい象徴的な受け入れ方を昭和天皇はなさっていたと言うことか。
特に1950頃の隅田川のショットとか佃の渡船のショットがよろしい。なぎら健一さんと何かで対談をしたときに彼は小学生の頃に渡船に乗って、佃の小学校に喧嘩を売り込みに行ったそうだ。そういうのは武勇伝には違いないが実際に撮影された佃の渡船の方が強いのは言うまでもない
それでこの利権カメラと言うのは探すとなかなか存在しないのである。理化学研究所の名前に関係のある最後のカメラだからな。ミスターリコーが使っていたカメラが素敵なのは当時の最新型ではあるが、それに自分なりにカスタマイズをして、佃島のスナップを撮影したと言うことだ。
ミスターリコーはまずレンズ関係のセルフコッキングのメカニズムを隠している。金属カバーを外している。そうなるとレンズシャッターをチャージするときのレバーが外から見えるから機械的な美学がそこに結実する。それとミスターリコーは巻き戻しも改造してクランクが使えるようにしたそうである。カメラメーカーさんの関係者がやっているから、何でもできると言う所が素晴らしい。
資料を調べると、1954年に登場した1番最初のモデルの利権35カメラは、自社製のシャッターを使っていて、これが最高速度100分の1秒までだっそうである。私のようなスナップシューターはカメラを振り回すタイプの写真家だから500分の1秒までが使いたいシャッターユニットである。それで私が最近手に入れたカメラもミスターリコーが改造して使っていたカメラも当時の最高級シャッターである。成功者ラピッドが付いているので、これは500分の1秒までシャッターが使える。
フォーカルプレーンシャッターを出しているニコンやキャノンではなかなかできない技であって、高級なカメラにしたければ、そのシャッターを交換すれば良いと言うのはなかなか合理的なカメラのプロジェクトだと思う。
それにしても、このカメラのロゴタイプと言うのは非常に進んでいたと思う。
文芸評論家、福田和也さんの勧めで雑誌、タクシーで連載を始めたのは、草森さんが亡くなって数年後のことなのである。それで私は草森さんのことを思い出そうと、この茶色のビルに見学に行ったのである。草森さんは写真もなかなか写真評論だけではなく、撮影も腕が達人であって、よく記憶しておるのは、雪の降った日に、隅田川の永代橋のあたりを部屋から撮影したモノクロのショットである。
今のマンションなどが売りというのがリバービューと言うことになっていた。けれど、この茶色いマンションは非常に古い建築年代らしくて、せっかくの代わり面した方向は壁なのである。もっとも草森さんは30,000冊以上の蔵書を入れるために、なるべく壁の多い部屋というのがリクエストであったから、それはそれでよろしい。
それで東京に大雪が降った時に、草森さんはそれを取ろうと非常階段のドアを開けてカメラを持ち出した。その非常階段の方向がリバービューと言うのは何か皮肉っぽくて面白い。
古本屋さん協会のニュースレターでしたのであるが、草森さんの膨大な場所は色々と行き先に迷った。挙句に幸に彼の出身の北海道の帯広だったかの廃校になった小学校のスペースに終の棲家を得ることになった。そこまでのいきさつがドラマみたいにワクワクするのである。
ぎっしり詰めた大きな段ボールで700個あったそうだ。これで国会図書館並みに貴重な資料が保全されたわけであるが、例えば私などにしても国会図書館に行く事はもうなくなって、自分の見たい資料は例えば正岡子規の果物帳なども、オンラインで見るのが普通である。
実物主義というところから、データをオンライン主義に移動しているのは間違いがない。
ツーリストの皆さんは、カサブランカの巨大なモスクに行くようである。私はカサブランカの路地裏を撮影して歩いているうちに、自分の意思とは関係なく、街の北の海岸にメールした。つまり地中海を超えて1戦キロ北に進むと、ポルトガルなのであるが、その巨大モスクを見て、不思議な錯覚に陥ったことがある。
モスクのミナレットと言うのは、ジョンソンスペースセンターのサターンロケットみたいなもので、実際にジョンソンスペースセンターに黒人初めての宇宙飛行士を取材に行ったことがあるのだが、林のように立っているロケットを見て、私が第一印象として持ったの上、おやこれはイスタンブールじゃないかと言う印象なのである。
ところが、私を驚かせたのは、カサブランカ最大のモスクのスタイルというのがミナレットが円筒形であると言う存在がないので、私の印象としては間違ってロンドンのビックベンを見に来てしまったのではないかと言う不思議な感覚であった。
それでツーリストは入場料を払ってこのビックベンを見学に行くのであるが、私は中に入らないで、もうちょっと進んだところの岩場の海岸めいたところにまで行って、そこで泳いでいるカサブランカの若者を撮影して、そのまま踵を返して、自分の住むホテルに戻ってきたのであった。
それでも大西洋の波打ち際を見て、この北1000キロにポルトガルが存在して、大昔はレコンキスタでいろいろあったんだなと言う。ポルトガルの存在感を身近に感じたのである。
このファインダーを正岡しき人の拭いてもらったら、彼は視神経がちゃんとしているから、片方の目でファインダーの実際の光景を見て、もう片方で35ミリのブライトフレームのラインだけを見て、それを頭の中で合成してちゃんと確認することができると思う。
大昔はカメラ屋さんでこのファインダーを手に取って、これは壊れている。ブライトフレームだけ見えるけれども、あっちの光景が見えないと騒いだ人間が既に伝説として存在している。
このフレーム、ファインダーで試合を合成すると言う事は写真を撮影する。第一段階で、まずその人間の視神経の運動能力が試されているわけである。その意味で任期がなかったのかどうか私は1960年代後半の日大の写真、学生の時は銀座ばかり撮影していて、その時銀座の交差点からちょっと晴海通りを築地に行った。右側にあったカメラ屋さんでこのファインダーが大和積まれているのを思い出す。
値段もよく記憶していて、1600円であった。それでほとんど売れなくて、在庫の山の数が減っていないこともよく覚えている。実際に使ってみるとこの両方の目を開けて撮影範囲を確認する。ファインダーはなかなかよくできていて、特に暗い場所での撮影には効果を発揮する。それとライカの35ミリファインダーのようにファインダー視野の周辺で画像が歪むと言うこともない。当然のことであって、ガラスのブロックを通して風景を見ているのではなくて、人間の視神経そのもので見ているからである。
三木さんは極めて江戸っ子的なキャラクターを持っている人だから、それなりに面白いと思っていたのであるが、調べてみたら倉敷あたりのご出身なのである。そういう方が逆に江戸っ子を意識してべらんめぇになったりするのかな?
三木さんはなかなか江戸っ子の冗談が強い方で、東京でスノードンさんの展覧会、この人は英国王室の偉い人であるそうだが、そのオープニングレセプションにいた私を引っ張って、わざわざスノードンさんに紹介したのである。恐れ多いことだね。それで三木さんは流暢な英語でここにいる。田中長徳と言う奴は、俺より英語がうまいと言ったのだから、キングズイングリッシュのSnowdomeさんはびっくりしたことであろう。
みきさんが愛用していたニコンの1番最初のモデルである。朝鮮戦争の取材で出かける時にスナイパーに打たれると嫌だからと言うので、カメラをブラック仕上げにしてもらったそうだ。ところが時間が間に合わなかったのか、このブラックニコンはクロームの上に、単にブラックペイントが吹き付けてあるだけなのである。
それまで我々カメラ雀は、クロムの上にブラックペイントを吹き付けるなどと言うのは、ブラックカメラの美学に反しているから、けしからんと批判していたのであるが、三木さんのこのにわかに作られたやっつけブラックニコンを見て、これこそが本当のブラック仕上げではないかと騒ぎになったこともあった。
三木さんは、当時ライフの契約カメラマンでその月給が1000ドルであった。吉田茂の月給が100,000円であるから、それよりも3倍以上の高給取りなのである。名人、木村伊兵衛さんがニックネームをつけるのが得意なので、三木さんのことを三木ライフと呼んでいた。
ここら辺は結構ブラックジョークであって、高給取りの世界のライフカメラマンをねたんでいたような感じもありそうだな。
エベレストに最初に上った。ヒラリーは同行の天神にエベレストの頂上で写真を撮ってもらっているが使っていたカメラはレチナカメラであった。ヒラリーが地上で使っていたのはコンタックスのレンジファインダカメラであるから、やはり登山家は少しでも軽いカメラと言う事を選んだのであろう。
アラブ系頭のどこかの航空であったと思うが、ドーハであったかドバイであったか覚えてないが、飛行機の関係でファーイーストからヨーロッパに行く時は真夜中だから、飛行中は真っ暗である。しかし帰りの便ではちょうどいい時間帯にタクラマカン砂漠とかヒマラヤの上を飛行するのである。
すると進行方向の右手すなわち南側にこのような素晴らしい光景が展開する。登山家の場合はこういう風景を見ているときは生きるか死ぬかと言う。瀬戸際で鉛筆を半分にちょんぎったり。当時としては小型軽量なリッチなカメラを持って苦労しているわけであるが、私のような非国民は、ウイスキーの水割りを片手にヒマラヤのちょっと炙ったやつを、肴にこういう楽しみができる。
それ以前のカメラはなかなか作りのよろしい美しい印刷のオリジナルボックスに入っていたからカメラを買った人はそれを大切にして何十年もその本箱が保存されていたりする。
ところがカメラの箱は段ボールになってしまうとカメラを買ったときにもういらないと言うので捨ててしまうのである。
ヴィローラと言うブランドのドイツ製の小型の35ミリカメラがあって、このカメラが素晴らしいのは紅茶の缶みたいななかなかデザインの素晴らしい金属の間に入っていることだ。リコーGR-が出たときに私はちょっとお手伝いをしていた関係でリコーの人に缶詰みたいなカメラがいいでしょうと進言したのであるがそれは聞いてもらえなかった。実際に金属製の缶詰のカメラはその外側のケースが捨てられることがなくて長くカメラとその外側が一緒に保管されるから生存する時間が非常に長い。
これはニコンエスツーのオリジナルボックスであるがそのデザインと存在感と高級感が素晴らしい。私は世界でも数の少ないカメラのオリジナルボックスのコレクターであるが今ではオリジナルボックスに入ったクラシックカメラと言うのはけっこうなコレクターズアイテムになっている。
カメラ本体が入っていないカメラのオリジナルボックスの戦前から戦後にかけての仕上げの良いライカの赤いボックス等はガラクタ屋さんに時々出るのでそれをコレクションしている。
アメリカのニコンコレクターにはすごい人がいて、オリジナルボックスに取扱説明書と一緒に付いている。品質保証書と検査完了書を研究している人がいるのである。そのためにそのアメリカの人は日本語を研究して検査完了するように押されている三文判もちゃんと判別できるそうだ。
その収録は大崎あたりのスタジオで行ったのだが、広い庭がついていて、そこはやぶ蚊が多い。それでストーリーの立て付けとしては蓼科の別荘と言うことになっていて、このように対談していると、やぶ蚊がどんどん襲ってくる。
赤瀬川さんはブラックユーモアな人だからモスキート叩きながら、今年の蓼科はやぶ蚊が多いですねと言うので、完全なブラックジョークであった。
沢木耕太郎さんに初めてホーチミンの空港のラウンジで会ったとき、私はどのように沢木さんにアプローチしようかと考えていたら、沢木さんは立ち上がってラウンジに潜入してきた蚊を両手で叩いて撃退したのである。そこで私はおもむろに立ち上がって、こんばんは。沢木さん、ここはモスキートが多いですねと
赤瀬川さんにしても、沢木さんにしても、モスキートが取り持つ縁と言うことなのだ。
千葉の県立美術館の赤瀬川さんのトークに応募して当たって喜んでいたら、そこに赤瀬川さんの昇天したニュースが届けられた。これは悲しいことで、オープニングレセプションのパーティーはそのまま赤瀬川さんをしのぶ会になってしまった。
みんな泣いてたな、、、、
日本デザインセンターは自分が作った広告にちゃんとサインを入れていたと言うわけで、これは凄いことだった。今の広告業界にそういうプライドはなくなってしまった。
それで面白いのはニコンの50ミリ標準レンズでef 1.4とF2ではその価格の差が9000円もあると言うことだ。9000円は大金ですよ。
もう一つ、面白いのはニコマートの広告であって、メーターの入っているニコマートよりも7000円安いのがメーターの入っていない普及型のニコマートFSなのである。日本の人の買い物は豪華主義だから、このメーターの入っていないほうのカメラは、最近はコレクターズアイテムになっている。
ニッコールレンズが安いカメラボディーで使えると言うので、大人気のカメラになった。
それでよくかきちらしているのであるが、堀口大学は私が好きな翻訳家であって、私はフランス語はからきしダメ。だから、高校生の頃に堀口大学が訳した1連のものを読んで、サンテグジュペリなどに触れたのである。それ故、結婚して数年後にカジンガ、堀口大学の親戚にあたるという話を聞いたときはびっくりした。
そしてその時から何十年か経過して、実際の証拠物件が出てきたと言う前後関係になる。他にも面白い写真は昭和天皇が樺太に行った時に何かの式典を撮影した写真もあって、それを見て私がびっくりしたのは、お付きの女官の人が天皇陛下の着ているものの、裾を持って腰を変な具合にかがめていたことである。皇室で働いている関係者の首都は腰痛になりやすいなと心配であった。私などがあの真似をしたら、まず3分でひどい腰痛になると思う。
それで、この堀口大学が、おそらく20代全般と思われる頃のスナップショットであるが、場所は不明だが、父親がステージパパさんであって、家庭内の言葉はフランス語であったそうだが、メキシコの大使館に赴任するときの途中のスナップショットであろう。
アウトフォーカスになっている背景を見ると、マストのついた船舶が写っているから、ここら辺も時代と言うやつだ。このショットでは堀口大学の父上と再婚したベルギー人の奥さんが写っている。それで別のショットがあって、これが面白いのだが、堀口大学の父上夫妻とベルギー人の3人のお子さんが写っているのである。それで男の子が1人いて、彼がきているのがセーラー服であると言うのも、その時代の男の子の普通の服装であったことがわかって面白い。
この2つの写真を見比べてみると、この写真が誰が撮影したのかかなり正確に想像することができる。ベルギー人の3人のお子さんの中で、男の子のセーラー服が撮影した事はほぼ確かである。ピントもちゃんとモチーフに合っているし、なかなか立派な腕前である。
文芸評論家の福田和也先生にこのスナップ写真を見せたら、これだけ若い時代の堀口大学の写真は珍しいと感心していた。
プラハの町並みを歩いている時に、手書きのビールの看板であるが、そこに猫と言う文字を見つけたので、私は興味を持った。私は結婚はできないが張り、ネズミと猫の2つの単語とそれからウサギと言う単語も知っている。まず動物でこれだけ結婚を知っていればネイティブスピーカーだな。
プラハの街並みを歩いている時に、手書きのビールの看板であるが、そこに猫と言う文字を見つけたので、私は興味を持った。私は結婚はできないが、ハリネズミと猫の2つの単語とそれからウサギと言う単語も知っている。まず動物でこれだけ結婚を知っていればネイティブスピーカーだな。
猫はチェコ語でCockaと言うのであるが、3つ目の文字の上にちょんがつくので、破裂音ぽくなる。音で聴くとこちかと言うふうに聞こえる。チェコのビールでいつも特徴的に思うのはちゃんとアルコール度数が書いてあることだ。日本のビールはまずいけど。故に、飲む方は思い込みで飲んでいるから、度数等は最初から問題がないらしい。
日本から来るツーリストの場合は、バドワイザーとかピルスナーを好んでいるが、私は34年も進んだので、もうちょっとひねくれ者になっていて、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領が好んだローカルビールをよく飲んでいた。そのローカルビールの味は佃島のスーパーマーケットで売られていた。韓国製のビールの味に割と近いので、それを何年も愛用していたが、数年前に韓国ビール不買運動があったのか、どうか知らないが、店から見えなくなってしまった。
ニクソンさんと共産側
と言うのが普通であったのもすごい。その伝統は60年経過してもいまだに保持されているようで、ロシアとウクライナの戦争の報道の仕方も
ロシアに天罰
これでは宗教戦争の何百年前と同じとんでもない世界観である。私などはかつての北ベトナムが本当に遠い国であると思っていたので、23年前に講習から飛行機でいきなりハノイに行ったときにはびっくりした。そういう行動半径が自分が生きているときに可能になるとは思っていなかったからだ。
その23年前のベトナムの経済状態は、日本の無責任な連中から言うと、世界で最も貧しいと言う言い方だったが、23年経つうちに状況が逆転して、今ではわが国が世界で最も貧しい国の1つになりかかっているのは感動ものである。
宿泊したホテルは外国人のためにクレジットカードが使えるわけであるが、これは地元の会社の正体であったので、チェックアウトするときに驚いたのはベトナムのその会社のスタッフが大きな紙袋を持ってきて、そこで1000ドン札の分厚い束を何束もブロックで払うのである。なるほどなと思った。今では500,000ドンと言う高額紙幣があるから、そういうことは起こらなくなった。
それでベトナムの紙幣は全部ホーチミンの症状なのである。毛沢東主席の肖像の入ったお札も凄いけど、ホーチミンの肖像の入ったお札もなかなかもう一つの記念に来たなと言う印象が強い。
インドシナ戦争でフランスに対してベトナムが優位に立ったのはディエンビエンフーの戦いである。その戦争の跡地は、ベトナムの国家的な遺産となっている。
ディエンビエンフーは観光地としては非常に小さな街なのであるが、そこが戦略上は非常に重要であったことがわかる。そのフランス軍の人智は文化財、歴史的記念物なので、地元の中学生、高校生などが見学に行く。
私もこの場所に行ったらやってきた。地元の中学生が私を見てホーチミンと言って、記念写真を一緒に取るのを求めてきたのでカメラに収まった。ベトナム語が分からないからホーチミンという言葉しかわからなかったのであるが、おそらく太ったホーチミンと言われたのではないかと思う。体重オーバーのホーチミンは革命的じゃないよな。
しかもその光を取り入れるウインドウがすごいのは平面ではなくて、全体が曲がった面になっていると言うのにしびれたのである。そのウインドウのプラスチックの素材が何かこの時代ではまだ技術が未熟であったのではないかと思うのであるが、その材質がまだ完璧でないと言うところに、私はカメラの技術の進化とでも言うものを感じたのである。
このスーパーがカメラの売り物と言うのは、レンズシャッター式であるにもかかわらず、レンズ交換ができると言うことで、1950年代の終わりの頃はこういうカメラが結構流行であった。このカメラの交換レンズは35ミリと50ミリと90ミリと135ミリだった。
1番使っているのは35ミリの広角レンズであって、この頃のロッコールレンズと言うものはグリーンのコーティングが売りになっていて、リチャードアヴェドンのアシスタントをやっていたHiroもこのレンズは愛用してアメリカのカメラ雑誌の表紙をミノルタのグリーンコーティングのレンズで撮影して、その色の具合が良いと褒めているのである。
このカメラの魅力は、やはりそのデザインにあって、正面から見ると、フロントエプロンの具合などが非常にデザインとして優れている。それで何十年もこのカメラを手にして、謎がいまだに解明できないところがあって、カメラ本体の下の部分を見ていただくと分かるのだが、右と左に金属の凹みがあるのだ。
普通だと複写装置などを使う場合にその凹みに複写装置の出っ張りを当てると、自動的にカメラが固定されると言うシステムであるのだが、資料などを調べてもそのようなデバイスが作られたと言う技術がないので、いまだにこの凹みの使い方の意味がわからない。そういうのはカメラの魅力を増強させるものだ。
このシリーズのミノルタの1番最初のモデルは、1955年に登場したミノルタAと言うレンズ交換をできないシンプルなモデルであるが、そのカメラのデザインは全体が膨らんでいて、なかなかユニークでこれもかっこ良いね。
いずれもカメラデザインのネームのロゴが凝っていて、アルファベットの上に2つの小さいドットがうってあるのである
それでレンズはライカのレンズとかカールツアイスのレンズとは言えなくて3番手とは言わないけれどもレンズブランドファンには非常に人気のシュナイダーのレンズがレンズ交換して3本ついている。
すなわち35ミリと50ミリと100ミリである。シュナイダーのブランドレンズがいちどに使えると言うところが魅力なのである。ライカの場合はファインダーのシステムに色々とカラクリを突っ込んでそれぞれの焦点距離に対応しているがこのカメラの場合はもっと単純明快でレンズと補助ファインダーが一体になっているのをそのまま交換するのである。ちょうどライカのカメラシステムでも35ミリとか135ミリレンズのファインダーが本体に付いているやつがあったがそれと同じ。
このカメラは実際に使った人でないとわからないから癖があるのでそれをちょっと説明しておく。このカメラの巻き戻しレバーはどこについていると思いますか?巻き戻しいれば巻き戻しボタンというのは非常に重要な問題であって、何十年も前にアサヒカメラでソ連製の300ミリがついた 一眼レフカメラのレポートをしたのであるが、驚くべきことにそのカメラには巻き戻しボタンが付いていなかった。
あるいは隠しコマンドでどこかについているの私が見逃したのかもしれないが未だに謎である。それでこのカメラの場合は普通考えつかないようなところに巻き戻しの切り替えの小さいボタンが付いている。どこだと思いますか?ちょっと考えつかない場所なのだが巻き上げればの1部の根元に近いところについているのだ。カメラを最初に手に入れて巻き戻しての方法を発見するまでに結構時間がかかった。
カメラの謎はその他にももう一つあってレンズ交換でファインダーユニットは外れるわけであるがそのユニットを外したカメラのボディーの上にビューファインダー用のアクセサリー秋がついているのである。
何のためにそこにビューファインダー用のアクセサリーShoeがついているのかわからない。しかしシュナイダーと言えばスーパーアングロン21ミリで有名なレンズメーカーであるからあるいは35ミリよりもワイドアングルのレンズをこのカメラに付けて単独ファインダーを設置すると言う計画があったのかもしれない。
それでサイバーショットでフロッピーディスクで撮影してフィルムというかメモリーがなくなりそうになると近くのコンビニに入ってフロッピーディスクを1枚だけ買うのである。これを繰り返すということが街を撮影すると言うリズムになっていた時代はなかなか充実した撮影体験であった。
その30年近く前の夏の8月の1番最後の日に我々はワークショップと称して板橋の北の果てから国境越えて埼玉県のほうにゲリラ戦術を開始していた。フロッピーディスクが空になったので近くのコンビニで1枚購入して撮影を続けようとしたときに私の知り合いの編集者が私を発見して走っている車を止めて私に短く伝えたのである。
すなわちダイアナさんがパリで交通事故に遭ってひどい状態で助からないかもしれないと言うのである。フロッピーディスクとダイアナ妃の相乗効果というかあの夏の日の最後の光の印象というのが忘れられない。というのもその十数年前に私はロンドンで日曜日の慈善事業で教会に入っていくときのダイアナ妃の後ろ姿を撮影していたからだ。
フロッピーディスクは30年位前の時代には私のメインの通信メディアであった。ブラックネクストキューブで原稿を書いて当時はまだインターネット等なくてスタンドアローンの通信状況であったから、ネクストキューブで書いた原稿はそのまま封筒に入れてなめて切手を貼ってそれをポストに投函しに行ったこともあった。
その時代の私のエッセイとか写真集はそういう形で作られたのだ。キャプションはネクストブラックキューブでクウォークエクスプレスで書かれていた。
そんなわけでフロッピーディスクを見ると私はフロッピーそのものがノスタルジックメモリーであるのだが、気がついてみると私の周辺には1枚のフロッピーディスクもない。思えばあの頃のクラシックなMacintoshを起動するときには何十枚ものフロッピーディスクが付属していてそれを交代に差し込んで覚えさせていたのもつい最近のことに思えるのである。
開発途上国の証と言うと変な風に聞こえるけれどもとりあえずもので分そうすれば幸せがつかめると言う時代であったのだ。その頃のカメラ雑誌で雑誌の後ろのほうに売ります買いますと言うコーナーがずらっと並んでいたのは今のネット時代からするとなかなかに貴重な記事であったと思う。それをぼつぼつ読んでいくと当時のカメラに対する欲望がわかって面白い。
そういう記事の中で私にいまだに鮮烈に記憶されているのは、コニカカメラによる風変わりなアルバイトでニコンエフの購入に成功した実例を10円切手10枚を送れば教えますと言うような内容のものであった。
当時のニコンエフの値段は標準付で70,000円台半ばと言うところであるから庶民感覚からすると大変高いカメラなのである。その頃レンジファインダーニコンのSPモデルはそれよりもさらに数千円高かった。
私は中学2年生の頃に父親にニコンエフを交わせたのであるがこれは私のカメラと言うのはフェイントであって実際には父親のカメラであった。しかし実際に使っていたのは私であるから実質的には私のカメラであったと言っても間違いではない。
小学校高学年の時に父親と日光の東照宮を見に行った時、英語をしゃべれる外国人が地球に眠り猫の前で何か聞いてきて、父親はスリーピングキャットしか答えられなかったのがちょっと恥ずかしい気がした。
その後に会ってきた日本人のジェントルマンがニコンエフの50ミリレンズを外してボストンバッグから200ミリの望遠レンズを交換したのでかっこいいなと思った。
あゆ大人に将来なりたいと思ったのである。ところが大人になってさらに後期高齢者になると少年の憧れであった頃のニッコール200ミリあるいは20センチは値崩れがしてしまってすでに1ダース位の数の20センチが手元にある。私の人生の目的はその意味で達成されたわけでめでたしめでたし。
ここについている2 = 2.8センチはガラクタ屋さんで手に入れたものだが番号がすごい 製造番号が33033と言うのだ。
その時銀色のお皿で提供されるコーヒーの側にキスチョコレートが1個だけ置いてあって、これがなかなかいい存在感であった。誰それは食べないでポケットに入れて佃島に戻って家人の小さなお土産にした。
そういう事は割とあることであって、ライカインコが生きていた頃は、飲み屋のつけだしでお刺身に出てくるパセリをポケットに入れて持ち帰った。これが数日経過して乾燥してパリパリになったのがライカインコが好きなのである。
ギャラリーバウハウスのキスチョコレートが最近出なくなったので、家人が懐かしがっていたからアマゾンで注文した。到着してしみじみその存在を鑑賞してみるにクローズアップしてみると、結構なアート的存在になっているのである。
私などは幼年時代にアメリカ軍横流しのハーシーチョコレートなどを食べていたので、口がおごっていたのである。ある時、手元にハーシーチョコレートがなくなったので、近くのパン屋さんに出かけていって、ハーシーくださいと言った。
パン屋のおじさんは、その意味がわからなくてハーシーと言うのはなんですか?手に持って食べるお箸のことですか?
と言うような生意気な子供であったわけだ。
その頃のマンハッタンはなかなかけんのんなところであって、日が暮れて朝になるまでに拳銃の発行が聞こえない開ないと言うような治安の良さであった。ホテルプレジデントと言うのはオフオフブロードウェイに売り込みに来る芸人が修学していたりウェルフェアの皆さんがいたりするようなそういうレベルのホテルなのである。
ウィークリーレートが確か128ドルだったが、当時の俺レートは280円位下からマンハッタンのど真ん中とは言いながらなかなか高かった。懐かしいのは今のようなコンピューターシステムではないのでウィークリーレートを払いに行くと100年前から使っている陰気で印刷したキャッシュレジスターの領収書が出てくるのだ。豚の肉の表面の脂身に干してあるスタンプとあれと同じロット2名位のやつだ。そう言っても見たことのある人いるのかな?
その部屋がまたエキセントリック出会ってからテレビは置いてあってもチャンネルもボリュームも全部ないやつしかも人間の顔が緑色に移ってそれがモダンアート的にゆらゆら揺れるのである。
部屋は何十年も掃除していないと言う感じでウインドウにはニューヨークの真っ黒な雪がこびりついている。その真っ黒な子子のフォルムが私にインスピレーションを与えたのであった。
音速で急降下するカラス
その頃ビデオで日々の暮らしを撮影していたのでこの音速で急降下するカラスはトップスーパースターだった。他にはジャックダニエル頭の便を振ったときの音をビデオで収録したりとかさすがモダンアートのニューヨークに行くと私などまで刺激を受けてしまったわけだ。
これは時代がずっと降って2009年6月にプラハのアトリエで朝急いでスケッチした広がっ飲むこうの高い高いテレビのアンテナの上に止まっている鳥さんである。
マンハッタンの音速で急降下するカラスのコンセプトを受け継いでその後音速で急降下して見えなくなった。
一番最初に出されたモデルが旧態然とした蛇腹カメラであったが、それでは時代にマッチしないと言うことで、2番目のモデルから近代的なレンズシャッター式35ミリカメラのスタイルになった。これがオートテラ35 2bというモデルだが、これはフィルム巻き上げのボタンを押すと、フイルムが巻き上げられてシャッターボタンを押すとシャッターが切れると言う。それぞれの仕事をそれぞれのボタンに割り振っているので、automaticなスプリングモデルと言うわけではない。
その改良型がこれでスーパーと言う名前が付いているのである。この場合はシャッターボタンを押すと連続してシャッターとフィルム巻き上げが行われる。
日本カメラの私のカメラ本3冊の中の1番最初のセクションでこのカメラを登場させたと思うが、そこにはレンズマニアさんが大好きな頭脳レンズが付いていた。45ミリef 1.8の頭脳レンズである。ここに示すのは今持っているモデルで、自社ブランドのレンズが付いているか、別に写り方が異なると言うわけではない。
ところで、最初に手に入れたモデルは高輪のマックカメラで買ったのである。そのレンズ付きはコレクターズアイテムで高いカメラになってしまうのであるが、私が手に入れたものは外人ナンバー入りと言うので、これがマイナスポイントで結構安かった。アメリカ人のソーシャルセキュリティーナンバーが刻印されていると言うわけである。
私も占領国日本の国民のついたカメラや双眼鏡はいくつも承知している。講話条約が締結される前のカメラやレンズがそのような黒人をしなければならなかった。それでそれぞれのメーカーでいろいろ工夫を凝らしていたようで、言い訳というかすり抜けをしたのではないかと思われる。日本のメーカーの頭の良さがそこに現れている。
ニコンカメラのニッコールレンズであるが、デビットダグラスダンカンで有名になった。85ミリのレンズの場合はちゃんと外側の見えるところにメイドインオキュパイドジャパンのスタンプがついている。一方で35ミリの広角レンズのほうはなるべく見えない場所というので、レンズの裏側の連動距離計の株のところに小さく刻印してある。
キャノンのレンジファインダモデルの場合は、2bというのがその時期にあたるわけで、この写真のカメラと同じ位置に同じようなスタンプが売ってある。そのキャノンのレンジファインダは私も何台か持っているが、カメラ本体が数千円で買えるのである。ところが不思議なことにニコンの同じ時代の製品は、生産台数としてはそんなに違わないにも関わらず、数百10,000円するのだ。コレクターの気ままとか思いつきがそういう末端価格に反映されているのだと思われる。
このカメラは偽物ライカ愛好会の会長が所持しているもので、しばらく拝借してその後の持てるつまり離婚するモデルとどちらが使いやすいかと言う資格テストをやったことがあった。カメラ雑誌で我々のようなメカニズムライターがよくやるやつである。
それで面白かったのは1番最初のメイドインをスパイロジャパンのこの日本よりも、その後の普通のメイドインジャパンのニコンエスの方が巻き上げのなめらかさとかシャッターの切れ具合ははるかに上等であったことだ。冷静に考えてみると、カメラの進化なのだから、まず当たり前のことなんだけれどね。
数年前ヤフオクで登場した。出品物で面白かったのは、虎の離婚のオキュパイド時代の裏蓋だけが出品されたのである。どうしてカメラ本体と離れ離れになってしまったのはわからないが。それで結構な高値で落札されたことがあったら。
音楽とかポップス関係ではすごく有名なスターなんだね。それでバラカンさんは、NHKの海外向けの番組を担当していて、そこでキャスターをしているんだが、たまたまテーマがカメラであったので、私が指名されたわけだ。
ウィキペディアで調べたら、1951年の生まれでロンドンの大学の日本語学科を出ていると言うので、なるほど、日本語が達者なのは当然のことかと思った。私より日本語のネイティブなのである。ところが面白かったのは外国向けのテレビ番組であるから、バラカンさんが英語で聞いてきたことを私が日本語で答えたりあるいはその逆でバラカンさんが日本語で聞いてきた返事を私が英語ですると言うような言葉のクロスオーバーがインタビューの効果をあげているのが面白かった。
それで移動の時にバラカンさんと車の中で雑談になった内容でいまだによく記憶しているのは彼が使っている。1ギガか何かのハードディスクドライブがもうすぐいっぱいになるのでどうしようと言う悩み話なのである。
それでわかる事は、この対談が収録されたときには、まだiCloudが一般的でなかったことがわかる。誰もが自分のハードディスクの容量を心配していて、私などもそうだが、ハードディスクがクラッシュしてしまったら、お手上げで書きかけの光文社の原稿を書き直しにイスタンブールに缶詰に行ったこともあった。今ではちょっと信じられないような大昔の話。
それから数ヶ月経ってエミレーツ航空でプラハから帰る時にCAさんが私のことを見たと言うのである。その番組を見たと言う意味である。私はこういう外見だから他の人と間違えられる事は無い。
それよりもびっくりしたのは、プラハからドバイまで勤務したそのCAさんが日本語が私より上手であったことだ。だから私が言ったのは、あなたはプラハドバイ便ではなくて、ドバイ東京便にしたほうがいいですよーとサゼッションしたことが忘れられない。
それでしばらく私のデスクの上にあって、オペラグラスは開閉式のものなので、開かれた状態でこちら向きにレンズが睨んでいる。それでなにげに手に取ってどうせおもちゃみたいなものであろうと思い、窓からスカイツリーを見たら意外とよく見えるのでびっくりした。
もともと後期高齢者の視力であって、それが基本的な自分の世界認識の方法であるから、たかだか2倍に現実世界を拡大するオペラグラスであっても、大変な視力の進化と言うふうに錯覚するのである。
何十年も前にヨーロッパの中古カメラ屋さんを行ったり来たりするときには、カールツアイスのプリズム好きの双眼鏡ではなくて、単眼鏡をいつも首から下げていた。これはヨーロッパのカメラ屋さんと言うのは、大抵プライスが小さなPrice Tagでカメラやレンズに貼ってある。そしてそれが非常に醜いことがあるので、その時にはこれで観察するのである。値段を知ると言うのに必要なデバイスであった。
考えてみれば、このレンズシステムと言うのはガリレオ双眼鏡である。つまり、ガリレオが初めて天体を観察した時と同じレンズの組み合わせであるから、それがパワーがないわけはないと考え直した。
それでセットアップされたこのオペラグラスを閉じようと思って、レンズの部分を押したり引いたりしたのであるが、どうしても閉じることができない。それでこのオペラグラスはまたそれから数週間テーブルの上にあった。しかし、光学ガラスが出ているのも嫌なので本体を両側から力を加えたら何の事は無い。そのままパチンと閉じて携帯しやすいようになった。オペラグラスでオペラを見る人間が折りたたみ式のオペラグラスを閉じるときに、複雑な指の動きをするのでは、オペラを楽しむことができないわけで、私のように長年複雑怪奇な機械式カメラを使っている週間の間違いというのが、そういうところに出たのである。恐ろしいことだね。
建物のエントランスには、大日大戦中に爆撃を受けて、国の復興事業として建物が再興されたと言う意味の看板がエントランスの上に掲げられていた。
2部屋の1つは、カジンガピアノを置いて使っていて、そこにベッドもあって、もう一つは私の部屋でこのような感じである。広いだけでベッドと小さな物入れがある位で、他には何もなかった。実にシンプルライフそのものである。
部屋には4日× 5インチのカメラが木製の三脚の上に乗せられている。壁に現代日本写真家、展示会のポスターが見えると言う事は、写真展が1976年だから、それ以降に撮影されたものであるのはわかる。
その左に見えるのは、私自身が制作したイラストレーションである。このようなシリーズでかなりの作品を創作していたと言うのは、時間がふんだんにあったと言う事とクリエイティブなスペースが確保できたと言うことに他ならない。佃島の生活では、写真集を広げるしても、まず場所を作らなければならない。
アパートには電話がなかったのですぐに電話を引いたのであるが、電話代が高価だから日本に電話をするなどと言う事は全くしなかった。これはその当時の日本人特に家のようにシンプルライフを送っている人間は当然のことであって、例えばこちらで日本人留学生がどこかのコンクールを受けるとする。それで最初のコンクールの第一段階に受かった時は日本に電話してベルを一塊だけ鳴らして電話を切る。予選で落ちた時は、例えばウィーンから電話をしてベルを3回鳴らして切る。と言うような心を事前に手紙で連絡しておいて、そのような通信手段をとっていたのである。
このポスターの日本人写真家の展覧会にしても、打ち合わせは電話ではなくて、全て手書きの手紙で行われたと言うのは今にして思えばとなかなか優雅だったと思う。インターネットなどない時代の方が、生活にゆとりとフレキシビリティーがあった。
それから10年が経過してデジタルカメラマガジンが元気なのは誠に嬉しい次第である。しかしデジタルカメラの世界が退屈なのは10年前よりも今の方がひどくなって、1番腹が立つのは小鳥の目玉にピントが合いますと言う宣伝文句である。ピントぐらい自分で合わせろよと言いたい。
それで今の時点でデザインに関してデジタルカメラを褒める事はほとんどない。強いてあげればリコーのGRシリーズがフイルム時代から変わっていないと言うので評価できるし、もう一つはライカ
をしのいで世界で1番最初にデジタルカメラを出したエプソンアールディー1である。
当時Codina の社長の小林さんに聞いた所では何しろカメラの金型代というのが高いのでエプソンのフィルムのレンジファインダカメラと言うのはビッグセールスになった子品の安い35ミリ一眼レフの金型が土台になっているそうである。それからすれば世界最初のコシナレンダーのデジタルレンジファインダカメラと言うのは正統派であると言うことができる。
このカメラが登場したときにはフルサイズデジカメがようやくブームになり始めたころで初心者さんが僕の写真芸術はフルサイズデジカメでないとぼくちゃんの芸術の心が許さないとかお笑を垂れていたのであるがあれから20年近くが経過するとようやくAPS-Cにちゃんとした評価が下されるようになったのは正当な時代が来たと言う気がする。
例えばエプソンアールディーに50ミリのレンズを各種つけているのであるがシングルフレームに50ミリと言うのは映画の初期の頃の映像の断片が今でもそこに残っていると言う印象があって私には好ましいものである。
エプソンコシナレンダーで私が20年近く経過して高く評価しているのはセイコーエプソンの作ったアナログ式フィルムカウンターである。これが実にメモリを使っていない時は500枚以上と言うことで針がアナログ表示でどんどんすくなってくると最後の1枚まで正確に表示できるところがちゃらんぽらんの私の性格からするとこれは真面目なカメラであると言うので評価できるのである。
ライカエム8が登場する前後にライカの会社の偉い人が毎度来日して八重洲富士屋ホテルに泊まっていっぱいやったりしたのであるが明日の予定を聞いたら長野に行くと言うのである。ライカの偉い人に善光寺を訪問する予定は無いようだから信州中野に行ったのかもしれない。
これが事実かどうかはわからない未確認情報であるがコシナレンダーのレンジファインダデジタルカメラとライカエム8のブライトフレームの作り方がいい加減というのがもし真実であるのなら出所は同じだから非常に納得できるわけだ。
でもそういうファインダーの見え方が狂っていると言うようなマイナーな話は私は気にしない方で撮影にはコシナレンダーには12ミリのレンズをつけっぱなしにして15年撮影しているのだからファインダーが正確であろうがなかろうがそれは気にしません。
一方で、フォトピーナッツと言うユニット名で銀座をスナップして有名になった。東京総合写真専門学校の秋山さんと佐藤さんの2人組はもっぱらミノルタの一眼レフ用のロッコール21ミリをレンズマウントアダプターでライカM2使っていた。それぞれに皆さんアイディアを絞って写真表現に突き進んでいたのであった。
私の場合は大学1年の時に手に入れたニコンエフ様のミラーアップして使う2.1センチニッコールレンズを父親の会社に出入りの機械屋さんにお願いしてマウントアダプターを作ってもらった。あの当時まだ今のような中国製のありとあらゆるマウントアダプターを自由に使えると言うような時代ではなくて、必要に応じて自分で作る時代であったのだ。
それで私の場合ニッコール2.1センチをつけたエム型ライカを半世紀以上使ってきたのだが、最近ロッコール21ミリレンズを手に入れて中国製のマウントアダプターでそれをエム型レンズマウントに付けて使っているのである。何か自分が50年若返ったような感じがして、気分的に非常によろしい。
それで私の大学生の頃、銀座にあったミノルタのサービスセンターに行って、サービスセンターの所長さんにいろいろお話を聞いたことが忘れられない。所長さんは田中さんと言う方であって、その当時原稿だったロッコール21ミリF4よりもその前のモデルである同じ焦点距離のエフ4.5の方が素晴らしいと言っていた。これは事実であろうと思われる。
カールツアイスの日を組んでしても21ミリでエフが4.5であった。次何か信用するに足りる話があったと今になって懐かしく思い出しているのである。
私が小学校低学年の頃に、音羽の実家の近くの大日本講談社が立派なビルであった。そこで出されたソ連の少年向けのストーリーで、少年火星探検隊というのがあって、少年の熱血を沸かせたのである。その少年冒険小説の中で、主人公役の少年が写真記録係で、かなりいろいろなカメラでロケットの中から火星人を探して撮影をすると言う行があって、少年の私はワクワクした。
それに関連して世界初の宇宙飛行士がカメラ付きであったと言う事は、実にシンプルに私も共感するところとなるのである。この写真を見るとコスモノートはライカカメラタイプのソ連製カメラが標準レンズ付きでもう1台下げているのはソ連製の一眼レフで、レンズは135ミリの望遠レンズだ。
いかにも初心者と言うレンズの組み合わせであるが、考えてみたらこれよりちょっと前の時代に朝鮮戦争を撮影に行った。ライフのデビットダグラスダンカンはやはり50ミリと135ミリレンズなのであるから、よりガガーリンのレンズ洗濯は非常に正しいのかもしれない。
ガガーリンは、雨中飛行士としての功績のために、ソ連のモスクワの赤の広場の前の百貨店に秘密裏に作られている外国製品を売っている売り場に入場できる特別なチケットを1回だけもらったそうである。
だから、ガガーリンにしてみれば、西側のカメラを使うなどと言う事は想像の外にあったのに違いない。モスクワに赤旗が店ビーテいた時に、私はドイツはミュンヘンにあるリンホフカメラの工場を取材に行ったことがあるが、見学コースには20人ぐらいのロシア人がいて、レイオフカメラの人に聞いたら、これはソ連の通信等の国営通信社のリンホフカメラ買い付けツアーであると言う。
なるほど、au的な宇宙飛行士はソ連製カメラを使えと言うことで、プロパガンダとしての通信車は西側のカメラを使った時代なんだ。宇宙飛行士がダンスをしている。隣の男性が頭に包帯を巻いているのが気になる。不思議な写真である。
これは嬉しい。
高校時代の愛読書である。その翌年の1966年版は持っているが、これは長年探していた本である。
久しぶりにページをめくると、土門拳さんや秋山庄太郎さんの懐かしい顔が見える。これはヤシカのハーフカメラの広告なのだ。
中藤さんは最近、ライカD3を手にいれてその使いやすさを再確認したそうだ。
まったく同感である。
私もウイーンに行く年、1973年に日本デザインセンターの退職金で(確か77000円だった)で、ライカD3のブラックを買ってその使いやすさに吃驚したものであった。
中藤さんは8月にモスクワとレニングラードに撮影に行くそうだ。
彼の写真集「WINTER LICHT」には文字通り、すでに過去の記憶になった東欧の「冬の光」が写っているのだが、聞けば中藤さんはまだモスクワに行ってないそうだ。
「冬の光の本場」はモスクワなわけだから、これは楽しみである。
(9:52)
在室。
仕事。
ダンボールを捜索してようやくリコーのバッテリーチャージャーを発見して、エネルギー危機を脱する。机の上にあるデジカメはルミックスLC1とキャプリオGXであるが、接写はGXの方がずっと強いからこの2機種を揃えることは必須だ。
天候は朝よりは回復して雲の尾根が太陽に照らされてはっきり見えるようになった。
雲の流れる方角は相変わらず東から西。
バッテリーチャージャーと一緒に1997年に倫敦で買ったサンダーソンの4X5カメラが「出土」した。これは2台持っていて、一台はアローカメラの2階に展示してある。
撮影の為にホルダーを探したが、それが見つからない。
大体、カメラがあるとホルダーがない。
ホルダーがあるとカメラがない。
その両方が揃っている時にはフィルムがない。
フィルムを揃えると時間がない。
(15:14)
午後4時過ぎに、下の書源にて本日発売のPENを買う。
ロシアウオッチ特集を8ページほどやったのだ。丁度、引っ越しの直前でリバーポイントタワーの下のロビーとか、早朝に何も荷物のない部屋で原稿を書いたのも懐かしい。
最初に印刷物を見て感心するのは日本の印刷物のその印刷のクオリテイの高さである。
実に手にとれるようなシャープネスと臨場感だ。
午後5時を廻って空から白雲が消え、快晴となる。
もっぱら、小さな篭に入って引きこもっている。
朝夕、家人がかごを持って広いヴェランダを「散歩」するのが日課だ。
右端はエクター付きのレチナ。
昨日は久しぶりに「長時間」六本木ヒルズに居た。
午後3時から午後11時までだから自分としては「長時間勤務」に属する。
午後4時にリコーの紳士連が来て、午後5時から8時まで個室にて本を読んだ。
内容はイタリアワインの本、シシリーの喰い歩きの本、チーズの本である。読みながらこの前のローマ行きやら10年前のシシリー行きのことを頭に描いた。
これは知的な放蕩というもので、お金もかからないし体重も増えないし時差もないので恰好の暑気払いだ。
もう少し「知的な本」をと思って探したら、ライブラリの受付近くに松岡正剛の「山水画論」がありそれをめくる。
松岡さんは1970年の「off」(真面目な写真集)以来の知己であるが、私がウイーンで飲んだくれている間だに「ジャパネスク」の大家(たいか)になってしまい、その変身に吃驚したものだった。
やはり私が松岡さんを買うのは、「稲垣足穂」を救助した点にある。松岡さんの知的な空間は「書名」の無限宇宙で彼自身がそこを自由落下しているのが残念だ。
午後8時になって、PENの多田さん來。
タイアップ広告(トヨタ)の打ち合わせ。
初対面だが、彼の愛用のOSがマックの9.2,2というのが気に入った。私などは偏屈者だから相手の支持政党などどうでも良いけど、OSXのユーザーは信用できず(WINは最初から評価外)9.2.2だと全面的に信用するきらいがある。
打ち合わせの後に51階の天川(鉄板焼き)にて夕食。
その上陸作戦の前か後か知らないけれど、シガレットを指に挟んだ戦争写真家が友人の戦争写真家と話をしている画像を発見した。左のキャパが来ているのは、当時のアメリカ軍の軍服であろうが、右の頬の戦場カメラマンは、それとはスタイルが違うから、おそらく英国の軍服なのであろうか?そこら辺は私は軍服大田区ではないので、よくわからない。
それで、キャパがぶら下げているカメラはエバレディケースに入ったコンタックス2型である。まさに彼がDDで使ったカメラである。右の戦争写真家はライカだな。
で、それで私が驚いたのはキャパの着ているユニフォームは、私が今の今着ているアメリカ軍のユニホームと全く同じであると言うことに気がついた。私の着ているのは湾岸戦争の頃だからカモフラージュのジャケットである。先輩キャパが来ているのはそうではないと言う違いこそ、あれこういうユニフォームと言うのは100年近く時間が経過しても全く変わらないというのが面白い。
自分が20歳の頃に自衛隊の中古のユニフォームを着て、ひょっとしたら自分は50歳になってもこういうものを着ているのではないかなどと予想していたら、実際には後期高齢者になってもきているのである。老兵は死なず、ただ去りゆくのみ。ではなくて、まだウロウロしている。
左側の鳩が飛び立つ瞬間をとらえた。ヘンテコリンな写真はニコンエフ2.1センチのニッコールで撮影された。撮影場所は皇居である。1966年4月29日だった。その皇居で亡くなった写真家の須田さんに初めてお目にかかったのである。須田さんとの付き合いはその時から1970年の3月末までであった。その後私は日本デザインセンターに仕事に行ってしまい、1973年の4月からはオーストリアのウィーンで行ってしまったからだ。だから逆に須田さんとの出会いは忘れない。
右のショットは日劇前に立っているアメリカ軍のセーラーである。面白いのはこの当時はアメリカの兵隊が東京を歩く時に制服でうろうろしていた事にある。まぁアメリカに負けて占領されたわけだから当然だな。それで彼らがぶら下げているのが例外なく、コダックの安いボックスカメラであるのもいい感じである。出雲の写真家小池さんが好むカメラだ。
ウィキで調べてみたらソニービルは、1966年の4月にオープンしている。1969年に知り合った家人とデートする時などは、銀座ソニービルでドレミファ階段だった。当時は、数千個のブラウン管がソニービルの表面にずらっと並んで、それで文字を作ったりしていた。
最後にソニービルに行ったのは何年前だか忘れたけど、写真家の中藤さんがソニーのフォトギャラリーで写真集をいろいろ取り揃えて見せてワークショップをした時だ。重いスーツケースに永藤さんはたくさんの写真集を入れてきた。
その次にソニービルの跡地に行ったのは、数年前の話だが、驚いたのは想像以上に狭い敷地に立っていたんだね。狭い公園になっていた。
なぜその作品をそのように感じるのかと言うと、遠近感の消失点が2つ以上あったりする。それを写真に転用したわけであって、この写真もそうであるが、東京駅八重洲口のすぐそばのビルに地下のショッピングセンターに行くエントランスがあるのだけれど、その隣にはパーキングロットのエントランスの道があって、その角度が違っているから、結果として消失点が2つある風景写真になる。
撮影は15年以上使っているエプソンレンジファインダデジタルカメラで、そこに12ミリの広角レンズが付いている。モノクロでしか撮影しない。この組み合わせが大好きなのだ。
東京の風景は1964年から撮り続けているのだが、この場合撮り続けていると言うことにはほとんど意味がない。今の時間のこのポイントから1964年を振り返ってみて、そこに感じる視神経の消失、に至る道を自分で楽しむということが本来の目的であることに最近気がついた。
1966年の1月号にトップで30ページ以上を掲載された高梨さんの作品東京人に影響を受けて、その時私は高校3年生であったが、その勢いが止まらずにいまだにルーカスを描いているのである
それで今まで使ってきた色々なカメラをいくつかグループに分けてニコンエフからライカM2からデアドルフ8 × 10インチまでいろいろなカメラを交代で登場させて、カメラ読み物として面白く見られるようにした。
3800円の定価であったが、やはり売れ残ったようで残りは裁断されたそうである。私は自分の写真集が持たない主義であるが、仕事のプレゼンテーションで必要になったりすると、古本屋さんというか、オンラインの日本の古本屋で買おうとしたら値段が倍になっていたのでびっくりした。
長徳アットワークの元ネタはいろいろなところに書いたけれど、ニューヨーク近代美術館でアメリカのモダンフォトグラフィーを研究していた時に、あそこの図書館にあって面白い本だと思った。写真家が生きたその時々の手紙やメモも入っている。写真家が生きたその時代の貴重なドキュメントなのである。
下の本のウォーカーエバンスアットワークと言うタイトルは、まだインターネットが登場する前であるが、私がこの写真集を出した。2000年には@というのが使われるようになっていたから、それを使ったのである。@と@ワークが似ているもんね。
見開き画面の左は、東松さんが空間から環境へと言うタイトルの銀座松屋だったと思うが、そこで展開した現代美術展の時にナンバー24と言うセクションを東松さんがインスタレーションして何もない。白い部屋の真ん中に人間が立つ丸いマークがついている。そこに来た中平琢磨さんを撮影したものだ。
右のショットは、私が大学1年の時に原爆の樹と名前をつけたもので、独協大学の脇東京カテドラルの小道にあるエキセントリックなオブジェである。この撮影ポイントも気に入ってよく4 × 5インチのカメラでも撮ったが21ミリのニッコールで撮影したノーファインダーの方が良い写真に仕上がっている。
それでこれがつくば写真美術館のカタログの表紙である。タイトルから見ると3つの都市の物語と言うような感じになってしまうのが面白い。カタログの内部を見たら、私はウィーンのモノクロ写真を出しているから、別にその3つの都会からは離れているわけだが、そこはヨーロッパと言うことで問題は無いのであろう。
このカタログは既に捨ててしまって手元にはない。しかしその時に一緒に石原悦郎さんが作ったつくば写真美術館のトートバッグと言うのはいまだに手元にある。何が面白いかと言うと、当時私はニューヨーク近代美術館で買ったトートバッグを8 × 10インチのカメラを入れて、フイルムホルダーを入れて持ち歩くカメラバッグにしていたのだ。
石原さんは何度も近代美術館にはおいでになったであろうが、私がカメラバックとして使っていたトートバッグの事はご存じなかったに違いない。ちょうど日本でトートバッグが流行し始める最初の時間的ポイントであったのだが、残念なことにつくば写真美術館のトートバッグは、ランドリーバッグのクオリティーなのである。
それで実際にランドリーバックとして使っていたらそのまま長生きしていまだに手元にあると言うのは、石原さんのつくば写真美術館の唯一の思い出として懐かしい。
あっちゃんという人も、そういう意味で大切な友達なのである。それともう一つの理由は山梨県のこの街には写真美術館があって、そこに3年ほど前にロバートフランク写真展を1泊2日で見に行ったことがその理由の1つである。非常に環境の良いところで、宿泊したホテルは巨大な牧場の脇にあった。それで私がふざけて、南チロルから衛星生中継などと言って、Facebookに書き込んでいたのだった。
そのtFacebook友達のあっちゃんも車で移動しているのである。それはそうだろうなぁ。
宿泊したホテルから写真美術館まで行って帰ってくるだけでタクシー代が10,000円。それを2往復したら20,000円になる位の交通弱者の街なのだ。これは日本カメラの仕事であったが、領収証渡すチャンスを忘れているうちに、日本カメラは廃刊になってしまった。まぁそれはそれでいいか。
それで友達のあっちゃんの書き込みで35年ぶりに高校時代の女子高生を思い出して会ってみたいけど、もう連絡がつかないと言うような話だった。それで私が思い出したのは東京ニコン日記に出ているsさんの話である。35年ぶりで私の仕事場だった六本木ヒルズの49階に遊びに来てくれたのだが、久しぶりに好きだった女の子を見るので、私はエレベーターホールの前を行ったり来たりしていた。それで判明したのはそれは35年も経過しているから、それなりの時間経過はあるにしても喋り方とか声と言うのは全く変わらないと言うこと。これはあっちゃんも同じことをFacebook上で指摘していた。
それで高校の時の男子のサッカー部の菅田くんが家の近くにお寿司屋さんをやっているので、そこでクラスメイトと食べに行ったりしてなかなか楽しかった。家人のリサイタルにもSさんは来てくれて、びっくりしたのはきものが非常に高そうに見えたこと。それで今でも彼女の誕生日にはメールメッセージを交換している。それで面白いのは私のことを田中君と呼ぶのである。それは高校生なんだから当然の事ですけど、長徳先生なんて言うわけない。
ニコンのレンジファインダーはこの次のニコンSPモデルからあのつまらないロゴタイプに変わってしまうのである。その次のモデルのニコンS3も同じロゴであってそれの普及があったのに今S4でレンジファインダのにこんな歴史は終わってしまう。
そのことを嘆いていたら突撃隊長が手先が器用なので私のニコンS3にクラシックなぐにゃりロゴを貼り付けてくれたのである。でもこれはテープで止めているだけであるから外れると下のつまらないニコンのロゴに戻ってしまうわけだ。
ニコンカメラが登場した50周年であったかどうかよく覚えていないが、その当時の最新型のニコンf5にどういう風の吹き回しか限定版でぐにゃりニコンのロゴをつけたバージョンが少数販売された。
ニコンの商品の流通からすればそれはちゃんと問屋経由で流通させなければならないのであるが私はニコンカメラ販売に友人がいたので特に頼み込んで内緒で1台販売してもらったのである。その時点の最新型のニコンの一眼レフでもクラシックなぐにゃりニコンマークは非常にマッチしていたからこれが正解だと思った。
1990年代であったか各カメラメーカーがCIのブームに押し流されてどのメーカーもつまらない爽やかなブルーを基本にするようになって私などはそれ以前のニコンのブラックとイエローのカラーコンビネーションが大好きだったのでついにニコンまで爽やかな空色を試合で使うようになってしまってそれまでのニコンに対する夢がいちどに覚めたのであった。
ぐにゃりニコンのロゴに限りますね。
その日系人の写真家は、戦後になって、桂離宮の調査に来た時、写真家関係者として活躍して、日本の大学などでも写真を教えて。最終的には日本国に帰化するのである。その写真家の父上の出身地が、土佐の高知と言うわけだ。
高知と言うと、坂本龍馬とかで有名だけど、私はどうもそこら辺には興味がないのだ。高知の街には東西を結ぶ非常に長い。路面電車があって、それが非常に面白く感じた。そしてその路面電車の東に向かってかなり停留所を進んだところに高知県立美術館があった。
私は一時期メディア関係の仕事で、世界中のいわゆる有名観光地を取材して歩いたことがある。観光地の有名な観光物件と言うのは、どこでも非常につまらないものであるが、世界的なレベルで見ると、シンガポールのマーライオンなどもそれに匹敵する。
世界で最もつまらない観光ポイントの紹介と言う意味では、このはりまや橋と言う物件はかなり上のクラスにランクされるのではないか?
国内の観光物件では、今まで札幌の時計台がダントツ1位だと思っていたのだけど、土佐の高知のはりまや橋はそれに対して逆転したと言う格好だな。
当時のアサヒカメラのニューフェイス診断室等では、このトプコンカメラをして軍用カメラと表現していたりしたので、その大きなサイズからするとシャッターの音も大きいのではないかと勝手に思い込んでいたのである。だからこのトプコンカメラの真実の存在感を知るために半世紀近い時間がかかったと言うことになる。
ところで、このカメラのブラック仕上げであるが、実はかなり数が少ないらしい。一説によれば200台程度が作られて、日本の警察などに納入されたと言う話がある。ライカM2とかライカM3のブラック仕上げの製造台数を考えてみると、2000数百台と言うところでそれで現在の末端価格は数百10,000円になっているそうだ。私がライカM2のブラックペイントモデルを手に入れた時は確か120,000円位だったけれども。
結局、ライカ0型の10分の1以下のブラックペイントの製造台数ではあるのだけれど、マーケットプライスにはそういう事は加入しないということなのだが、それゆえに、このブラック仕上げのトプコンの一眼レフに魅力を感じるというのが、かなり複雑なコレクター心理と言うわけだ。
そのようなわけで、ブラックカメラに対する興味もさることながら、私の興味はそれ以上にこのオリジナルボックスのほうにある。私はカメラのオリジナルボックスのコレクターでもあるのだが、この箱は初めて見たのである。赤が主体になっているのは、同じ時代のライカカメラのオリジナルボックスに似ているところも微笑ましい。コレクターだからうるさいことを言うようですが、ちゃんとカメラのボックスには本体番号とレンズ番号が書かれています。
ヨーロッパを2年間、ドイツ語圏で巡回した日本の写真家の展覧会のために出品していただくので、六本木のスタジオにお邪魔したのである。
オーストリアのこの写真展を企画しているディレクターの美術評論家DR Breichaのアシスタントと通訳と言う立場で、篠山さんのところに行った。4十数年前だってビッグネームのスターフォトグラファーである。
篠山さんが亡くなったと言う新聞の第一報を聞いて、私の頭にフラッシュバックしたのはリチャードアヴェドンだった。彼は撮影でニューヨーカーのためにヒューストンに行ってそこで亡くなったのである。もう1人思い出したのはヘルムートニュートンである。彼は自分でキャデラックを運転中に事故にあった。篠山さんはその意味でインターナショナルクラスのスターフォトグラファーなのである。
篠山さんが最も若い頃に使ったカメラというのがアメリカ製のハーフサイズのマーキュリーと言うカメラだった。それでスライドを撮影して、小学生の頃に友達を集めてスライドショーをやったと言うこれは有名な話だ。
篠山さんの撮影振りを激写と言うのである。これは完全に一般的な用語になっている。
ところで、1976年の6月に篠山さんのオフィスをディレクターと一緒に訪問したときに、ディレクターが持っているのが子供が使うような表紙が極彩色の金魚のイラストで、メモ帳も全く同じに金魚の形に切りぬかれているやつだった。ディレクターはモダンアートに対する評論もかなりやっているから、そういうところの遊び心が旺盛なのである。
それで打ち合わせをしているときに、篠山さんはディレクターに対してその金魚のメモ帳がかっこいいと言う話をしたのである。あーこの人はジョークの通じる人なんだなとディレクターの表情が柔らかくなったのを記憶している。
篠山さんのスタジオのあったところは考えてみると、私が10年間通った六本木ヒルズのエントランスの長いエスカレーターホールの場所なのだ。
つまり戦場の全景とクローズアップを2つのバージョンで撮影するためにはこの2つのレンズが非常に重要であったと言うことだ。
ロバートキャパの場合はもっと戦争写真家としての視点が先鋭化されていて彼が使っていたのは5センチの標準レンズだけなのである。これも凄いことだと思う。望遠レンズを使ったロバートキャパと言うのはイメージするのもなかなか困難だと思う。
ところで時代が下ってベトナム戦争の頃になるとデビットダグラスダンカンの使っているレンズも進化した。彼が使っていたのは1台のライカM3に2.8センチと50ミリのライカのレンズ。そして二台のニコンエフカメラには105ミリと200ミリのレンズがそれぞれ付いていた。
つまり戦争写真家としての安全牌の位置から撮影すると言う意味では朝鮮戦争の13.5センチから望遠側が長くなって20センチになったのである。これは写真家を戦場からサバイバルさせるためのかなり有効な望遠レンズ効果であったと思われる。
同じ時代にベトナム戦争で活躍した岡村昭彦も同じであって彼は二台のライカレンジファインダーと二台のニコンエフを使っている。二台のニコンエフに付いているのはそれぞれ105ミリと200ミリのレンズであった。
もう1人の有名な戦場カメラマン澤田の場合はライカのレンジファインダーに135ミリの望遠レンズである。安全への逃避と言う名作で澤田はピューリッツァー賞を獲得しているがこの作品は200ミリではなくて135ミリなのである。
、澤田の場合は徹頭徹尾一眼レフを使わないでレンジファインダーのライカを使う戦争写真家だった。この135ミリレンズは135mm系を1.5倍に拡大してレンズのピントが合わせやすくなっているレンズシステムである。
それをwin高プラハだか知らないが、とにかくスナップの好きな人がファインダーをバラバラにして、28日利用の対物レンズだけをセットして、なおかつファインダーの工学系を90度横倒しにして作ったのがこのホームメイドのファインダーである。あまりに複雑すぎて、どのような頭を働かせれば、こういうファインダーができるのか、私にはよくわからない。
十数年前にガラクタ屋さんで買った。2代目さんの話によると、カメラメーカーで仕事をしていた。ジェントルマンが自分用に作った。28ミリ相当のブライトフレームビューファインダーと言うのを安く手に入れたことがあった。これは極めてトラディショナルな28ミリファインダーでブライトフレームはライカのウェブ方みたいにフレーム自身が証明されると言うような構造になっている。ただし全体はかなり大きめである。
好みとしては、私はこちらの方が好きなのは、もともとスナップシューティングにはバインダーをあまりつけて使ったりしないから28ミリ用のファインダーの必要性をあまり感じないと言う。不届きな思想が背景にあるからに他ならない。
だから、手に入れて50年になるのに時々私のセコハンカメラの波打ち際にこのユニークなファインダーが打ち寄せられると半世紀前のプラハのことを思い出したりしながら、ちょっと手の上に乗せて遊んでみて、もうちょっと気分が高揚すると手元にある適当なライカタイプにつけると言うような使い方をしているのである。
この場合は、ライカ人類の人類の英知と言うよりも、ソ連生カメラ、人類のもうちょっと反社会主義的な悪知恵と言うような思想が背景に感じられて、そこが好きなのだ。
なお、このファインダーの製造番号は通常のものだと最初の2桁が製造番号、例えば56と言うのは1956年のことだが、これは独自のロットで31で始まっているから、実際にはかなり古いと思う。
私は稲垣研究家であるから初版から全集まで全部彼の描いたものに目を通しているが膨大な著作の中で唯一食物に関して記述している短い文章がある。それは、
ハンバーグサンドイッチはうまかった
作家の室生犀星は田畑の文新に暮らす前は東京の南のその頃畑を開いた新開地であった馬込界隈に暮らしていて、室生再生を訪問した稲垣は駅前のカフェあたりでハンバーグサンドイッチをご馳走になったらしい。
それ以来私の頭脳の中では稲垣とハンバーグサンドイッチが不可分に結びついているのだ。
日常でハンバーガー屋さんに行ってそれを食べると言う習慣が一切ない。ただしヨーロッパではバーガーキングとかに行く事はある。単純な理由であってあちらはアルコールライセンスを持っているからハンバーガー屋でビールが飲めるのである。
稲垣好みのハンバーグサンドイッチを作ろうと思い立って明治の冷凍ハンバーグの20個入りと言うのを注文して忘れている頃にアマゾンから発送の連絡があった。発注して1から11日目なのである。これは時間がかかりすぎるな普通のアマゾンだと注文した翌日の午前中には品物がついている。
アマゾンの沖杯と言うのは勝手にドアの外に置いてくれるから便利なのであるが、最近はアマゾンの配送にクロネコヤマトが下請けをするようになった。そうすると起き杯ができなくて対面でものを渡すようになるのが面倒である。
しかも冷凍ハンバーグなのでクール宅急便で到着するのがさらに面倒だ。もう一つの問題点は家の古いアパートのインターホンが30数年ぶりに新しくなったのだけどこれが回線の不具合などでうまく働かないこともある。だから配達員の人が画面で見えているのにこちらが連絡が取れなくて配達員の人は帰ってしまったりした。
せっかくの稲垣風ハンバーグサンドイッチであるがそれを作るまでに2週間近く時間が必要と言うのも面倒なものである。
私は仕事柄なのかどうなのか知らないがCAさんの友人知人がたくさんいるのである。だからよく話す皆さんが仕事の時はCAさんの制服を着てちゃんと仕事をしていると言う事はそのレベルで理解していてそういう職業を退職した後に日本航空あたりだと証明書が出てきてそれが1,000,000時間にもうちょっと足りないと言うような証明書があったりするのが凄いと思う。
レモン別の見方を考えてみるとこれは日本の事だけではないと思うがいわゆるCAさんの勤務中に写真的な興味を覚えてそれを盗撮したりしてそれがけしからんと言うことでまた犯罪のいっぽ手前まで行くようなことがあったりするのは私から見るとなかなか不思議である。
女性の専門職の職業としてこれはNew York Cityの話なのであるが女性のポリスマンはいるけれども私がマンハッタンにいた当時の十数年前は確か女性のファイヤーファイターは禁止されていた。要するに非常に危険な職業で死亡率は高いと言うような理由で女性の消防士はいなかった。、、、
一方で女性のポリスマンはいるわけだからそこら辺の違いが面白いと感じているかっこいいポリスウーマンもいるしね。それでこのワンショットは墨田区京島で物流関係の女子なのであるが別のショットを撮影していた時車が私の向かい側に泊まってそこからものを運ぶのでバックドアを開けている女子なのである。仕事をしているキビキビした感じのほかに例えば飛行機内で感じるCAの人みたいにちょっと軽いセクシーな感じが私のほうに波として伝わってくるので反射的に持っているエプソンのデジタルカメラで撮影したのである。
かなりのロングショットで細かいところがよくわからないかもしれないがこの女子のセクシーポイントは何かと考えてみるとまぁこれは男性から見ると普通の評価点であるのだがまずポニーテールである事とそれから足元がハイソックスであることかな?でもそれだけでは重要なセクシーポイントである事はなくてドアを開けている全体的なアクションが何かそこにローマ時代の女性のアマゾネスの彫刻を見ているような感じがするというのがこの場合1番適切な表現の仕方かもしれない。
30年前からコシナレンダーが登場して多くのライカマウントレンズを供給した事は画期的なことだった。それ以前の我々は古めかしいライカのレンズとか、キャノンとかニッコールを探して使っていたのである。
1番使っているレンズはこの35ミリef 1.7である。このレンズが素敵なのは描写も素晴らしいのであるがそれよりもレンズの第一面が凹レンズになっていることだ。
数年前に亡くなった超有名写真家大倉さんとはよく中古カメラ屋さんで出くわしたものだが彼が持っていたのが頭脳35ミリef 1.7なのである。新宿の大倉さんの事務所に遊びに行ってレンズ談義などをしていると、大倉さんは合法磊落な人だから俺が死んでもこのレンズはお前みたいな奴には絶対やらないぞなどと冗談をおっしゃるのである。
35ミリef 1.7の頭脳レンズは手に入らなかったけれど同じスペックの子のコシナレンダーなら何しろ第1面が凹レンズであるから描写が優れている上にセラピーレンズと言うアドバンテージがある。
日本のカメラに電気露出計が入る前の話であるが、この川崎市木月と言うところで露出計算尺が作られていたのであった。カメラ雑誌でも結構有名で、カメラ雑誌の名前は忘れてしまったが、サロン露出計と言う名前で販売されていた。カメラ雑誌の名前は確かフォトアートではなかったかと思うが、そこら辺はよく記憶していない。
30年ほど前に東京カメラクラブとかアルパ研究会と言うばかばかしい集まりを佃島でやっていたのであるが、その時一時的にブームでこのサロン露出計の話題で盛り上がったことがあった。このサイズが標準的なサロン露出計のスタンダードモデルであるが、それよりももっと小さくてアクセサリー、シューがつけてあって、カメラの上に乗せると言うことができるモデルもあった。
要するに、これは万能露出計算尺とでも言えるものであって、日中の光から月の光までありとあらゆる露出に適応しているのである。夜景等と言うのは撮影が1番決定しにくいものであるが、それも何段階か明るさがあって、銀座の一流店とそうでないところでは、同室に1段ステップに差があるとか、なかなか細かい展開となっている。
しかし、30年前のアルパ研究会の時代の時間軸で見ても、このサロン露出計はすでにできてから40年近く経っているのである。だから珍しいものであると言うだけの話題であって、これを実際に使うと言うカメラクラブのメンバーはいなかった。
大体30年前に話題になっているこの露出計算尺であるが、その頃すでにメンバーは中年であったから、それから30年経てば、ものすごい老眼になって、こんなに細かい文字が見えるわけもない。
この街角は東京スカイツリーの敷地のすぐ外側にある。ガラスとか鏡を扱っているお店であるのだが、東京スカイツリーの建設が決まった。 15 6年前にこの界隈を歩きまわったのである。それで敷地のエリアに面接している場所に、この古いガラス屋さんがあったので、ここら辺は賑やかになって別の新しい食品店にでもなるのであろうと考えていたのである。
ところが実際に華々しく東京スカイツリーがオープンしてみて、それに面している古いガラス屋さんはどうなったのかなあと興味を持って見に行ったら、驚いたことに十数年前と全く変わらない状況であったので、スカイツリーのケーキで何か街が元気になるのではないかと思っていたが、私の予想は完全に覆されてしまった。
お店はボロボロで、このように文字の並び方もそのままで十数年間何も変わらないまま、お店はどんどん古くなっていくと言うポイントは私の古い街を愛すると言う視点からすれば、それはそれで納得できることなのであるけれども、逆のポイントで考えれば、スカイツリーだけ反映して、後は野となれ、山となれというのが、恐ろしい東京の風景であることを再確認したのである。お店はボロボロで、このように文字の並び方もそのままで十数年間何も変わらないまま、お店はどんどん古くなっていくと言うポイントは私の古い街を愛すると言う視点からすれば、それはそれで納得できることなのであるけれども、逆のポイントで考えれば、スカイツリーだけ反映して、後は野となれ、山となれというのが、恐ろしい東京の風景であることを再確認したのである。
このスタイルが遅れた古めかしい青い車に関しても、これが有名なブランドであると言うことを知ったのは、それから10年以上経過してのことなのである。撮影はオリンパスワイドスーパーの35ミリF2と言う木村伊兵衛さんがアサヒカメラのニューフェイス診断室で絶賛したレンズシャッター式35ミリ広角カメラでレンズは明るいF2のレンズが付いている。
1973年からウィーンに暮らす以前の私の仕事と言うのは広告写真家であって、主にトヨタの車の撮影をしていた。それでこのライティングであるが、これはヨーロッパの普通の狭い道に止めてある車でその仕上げが素晴らしいのなら、スカイライトから光が降ってきて、車の側面と言うのは車道になると言う理想的なライティングなのである。
私は会社の中でも駆け出しカメラマンであったから、写真部長はいつかはクラウンを撮影して我々1番下っ端は出たばかりの800 CCのトヨタパブリカを撮影したりした。そういう安い車をブガッティと同じように取ると言うのはなかなか大変な仕事であって、同じように撮影できるわけは無い。スタジオ撮影などでも周りに黒い影が来るようなライティングをして撮影したが、やはりトヨタパブリカはトヨタパブリカであって、ブガッティではないと言うところをごまかして、撮影しようと言うところに、当時の開発途上国の広告写真のリアリティーが存在したわけだ。
ロバートフランクは自分はコンセプトで自分の写真を撮った事は1度もないと言っているが、私の場合そういう迷いが生じたわけである。キャナルストリートのセラーさんはそのパノラマカメラを250ドルだと言うのである。280円レートの時だから250ドルは大金である。それでセラーさんを連れてソーホー地区のロフトまで来てもらって、250ドルを支払った。
それで私のニューヨークのパノラマたて画面シリーズがスタートしたのである。ニューヨークの空間構造からするとパノラマカメラを横画面でとると言う事はちょっと考えられない。ワールドトレードセンターはカメラの距離がちかすぎてうまく撮影ができなかったが、Empire State Buildingは撮影距離を十分にとって周囲から観察できるので、むしろ魅力的なモチーフだった。
その当時のニューヨークの出来事を記録した茶色い表紙のメモが手元に8冊ほど残っている。それのページをくっていると時々午後エンパイア光るなどと書かれていた。午後のビルの谷間の闇の中を歩いていると、その界隈で1番高いエンパイアがまだ光を浴びて路上を歩いている我々に語りかけてくるのである。
なくなった写真評論家の平木が編集した日本写真全集とか言うシリーズの最後のページにこのショットが掲載されていたそうだ。
例えば雑誌の仕事などで海外に行った時であるが私の仕事のやり方はライカエム5に21ミリと35ミリと90ミリのレンズを持っていく。それでこの3本のレンズがあれば雑誌のアサインメントならば完璧にこなすことができる。
90ミリのレンズの使い勝手と言うのはこの場合非常に重要なものであってまずポートレートには絶対欠かすことができないレンズであるが風景とか建築物の1部をその存在感を自然に表現すると言うバックグラウンドで撮影するときには90ミリレンズは非常に有効である。
かなり前マレーシアに取材に行った時もライカエムファイブに同じように3本のレンズだったがその時はたまたま戦前のエルマー90ミリを持っていったのである。このレンズの描写が素晴らしくてもちろんメディアであるからカラーで撮影したのであるが表紙に使ったのも戦前のエルマーの90ミリで撮影したショットであった。
その他によく使う90ミリはコラプシブルなエルマ90ミリである。50ミリの標準レンズみたいにコラプシブルでへこますと全長が短くなると言うレンズであるがその構造はかなり複雑で当時のライカの会社はよくこんな頭痛の種になるようなめんどくさい構造のレンズを作ったものだと尊敬するのである。
それで最近よく使うのはこのトップコール9センチ3.5のレンズである。これは描写が非常に素晴らしくてライカのレンズと同等かあるいはそれを超えているかもしれない。さらにありがたいのは後期高齢者にとっては重さのことなのである。このレンズが設計された昭和30年代初めに当時新しい素材としてポピュラーになっていた生産物用のアルミニウムの強靭で軽いと言う素材があってそれを積極的に使っているのだ。しかもレンズのデザインが素晴らしい。
ニコンのカメラもキャノンのカメラもメイドインオキュパイドジャパンの刻印は取り外し式の底蓋の表面に付いている。これがメイドインジャパンだとローマ字表記の場合短くて頼りないのだが、メイドインオキュパイドジャパンの場合には全体の文字が小さくなってしかも文字列が長いので何か非常に精密カメラの印象をそこに与えるのが面白い。
^_^その当時のキャノンの交換レンズの場合であるがこれはレンズキャップにメイドインオキュパイドジャパンの刻印が打たれている。つまりレンズ本体からリアキャップを外してしまうと所属不明になってしまうわけだ。
ニッコールの交換レンズの場合はレンズ本体にメイドインオキュパイドジャパンの刻印が付いているがこれがまたかなり変わったところでレンズの裏側の真鍮製の距離計連動カムの表面に小さく小さく刻印されているのである。
それでこのカメラミニオンであるがこれはカメラの底蓋の裏側に目立たないように刻印されているのである。
世の中では1956年に登場したライカM3のファインダーがベストであると言うことになっているが実際にライカで撮影をするときはそんなに厳密に細かいフレーミングをするわけではない。むしろ逆ガリレオ式のシンプルなファインダーの方が構図を作りやすいと言う意外な一面もある。
それで東京光学が戦後すぐに作った非常に小さな35ミリカメラがあってミニオンと言う名前である。40ミリの広角レンズの撮影の角度が分かる小さな小さなファインダーが小さなカメラの上にちょこんとついていると言うところがいかにも精密機械と言う感じで嬉しくなる。
そのファインダーの形状が素晴らしいのであるが特に見所はこのファインダーの目から覗く方つまりアイピースの仕上げが非常に良いというのがポイントだな。
ジョナスめかすは移民のファーストジェネレーションであるから、英語はあまり得意ではない。英語がネイティブではない。それが逆にいい感じであった。1連の彼のムービーで語られている彼の言葉は、映画はライブレコーディングではなくて、アフターレコーディングなのであるが、そのネイティブスピーカーではない。言葉の端橋に彼のリアリティーがにじみ出ている。
私はジョナスめかすに会うことができたのは2回だけであるが、それでも多すぎるのではと自分では思っている。1983年の11月のファーストウィークに午後5時ごろであったが、当時暮らしていたソーホー地区の角で出会ったのである。ショッピングバックを下げていた。
その翌月の12月に、ジョナスめかすのレトロスペクティブの映画界が、原美術館で会ったときにが2度目なのである。そこで彼の事、映画で有名な故郷の母上が最近なくなったと言う話を本人の口から聞いたのである。
私が彼に聞いたのは、いくつの?のボレックスカメラを持っていますかと言う最低のインタビュアーの質問であった。それに対して彼は今までカメラを3台買いましたというのが答えであった。
これが彼が最初に買ったボレックスカメラである。900ドルもして、当時は大変な高い買い物で借金をしたそうである。このカメラは数年後に友人のフィルムメーカーに貸したのであるが、デモの撮影をしているときに海に落としたそうである。泳ぎの上手なそのフィルムメーカーは落下したボレックスを回収したそうだが、それ以来そのカメラは完璧に動く事はなくなったので、その翌年ににだいめのボレックスカメラを手に入れた。
ごく初期の彼の日記映画では、若者のジョナスめかすが気取った感じで、ロフトの屋上を行ったり来たりしている。短いフイルムが残されている。なかなかのイケメンであるな。
その当時の小村レンズにはこの仕上げのレンズが多かった。それが私にとってその頃の価値観からするとちょっとネガティブイメージであって、当時のトップクラスのカメラの交換レンズ例えばニッコールとかキャノンレンズにはゼブラパターンのレンズはなかった。
ライカのレンズにもゼブラパターンはなかった。
そのようなレンズメーカーのゼブラパターンのレンズが安物であると言う認識は私のレンズ差別と言うわけでこれは良くないことだと思う。それに実際に私が1番最初に手にしたのは小村の135ミリレンズであったことだそれでも当時は1万3800円もして当時の労働者の1月の給料のまさに同じプライスであったのだ。その^_^時代の流行歌に13,800円の給料で贅沢をしなければ食べられるじゃないかというのがあってこれがまさに時代背景なのである。
ところが時代が変わってくると現代のレンズではゼブラパターンと言うのは全く見なくなったから逆に人気が出てきているということが面白い。
手元にある小村80ミリef 1.8のレンズがゼブラパターンであってこれはレンズマウントが歪んでいるので撮影用には使えない。もう一つのゼブラパターンのレンズは同じく小村の105ミリである。これは数年前にガラクタ屋さんのところから安く買ったものであるが、レンズマウントはぶつけてないから手元のカメラに使うことができる。
初めてライカカメラを見たのはシュミットの当時の神田のお店である。この立派なカタログは当時ライカのディーラー向けに発行されていたもので一般的には手に入らないものだった。それが後の時代になって入手できるようになったので私の1番最初のライカと接触した記憶を懐かしく思い出している。
1960年代当時はこのディーラー向き総合カタログはドイツ語と英語とフランス語とイタリア語やスペイン語はあったかどうかはわからないが日本語のカタログはなかった。
1966年と言えば高校3年生であったわけで神田のシュミットに行ってライカの実物を見てびっくりした後に高校生のお小遣いでも買える純正のストラップを購入した。部長さんが2本のストラップを1本の値段で売ってくれたのでそのストラップはあれから60年が経過しているがいまだに使っているのである。
1966年版のカタログを見ていていろいろ懐かしいのはライカビットMPが掲載されていることだ。その当12000円で日本橋のカメラ屋さんで買ったのだがそれからの60年近くの私のライカの生活は このライカビットを売ったり買ったりすることで、半世紀が流れていった。
1966年版のライカの総合カタログがダンディーなのは、最初のページがライカM3であることだ。その次がライカM2であって、そこにライカエムディーが続くのである。
ライカフレックス等は新人と言うので、だいぶ奥のほうのページに押し込められていたのを面白い。
この総合カタログが素晴らしいのは、カメラの画像は実物の写真ではなくて、精密なイラストレーションであったことだ。これはなかなか頭の良いことであって、カメラやレンズをイメージして、それが欲しいと思うには、実物の写真よりかはイラストレーションの方がはるかに欲望をかきたてるのである。
ニコンのカメラもレンジファインダーの時代とか、最初のニコンエフの時代には広告は写真ではなくイラストレーションであった。これはカメラの画像のアイコンであるわけだから、そういう宗教絵画をみながら私は成長してきたわけである。
須田さんのご実家は千代田区神田富山町25番地の何のご商売かはわからなかったが木造2階建てでエントランスには広い土間があってその奥がリビングになっていた。ちょうど滝田ゆうの古い漫画に出てくるのと同じ典型的な昭和の家であった。
それで須田さんに連れられてずいぶんあっちこっち社会勉強をさせてもらったのである。このお店は神田駅前から斜めに道をまっすぐ行って蕎麦屋の松屋に出る手前の右の角にあった。しかし今見ても何屋さんであるのか一向にわからないと言う不思議なお店なのである。
この建物が亡くなってちょうどウィーンから戻ってきた頃のこの場所は覚えている吉野家の牛丼屋さんになったのだ。その店が今あるかどうかはちょっとわからないが須田さんと私はこの店の先を通っておそばの松屋ではなくさらにその先にあるお蕎麦屋さんで酒を飲んだりしたのであるから20歳代の人間としては生意気な振る舞いであったと思う。
ずいぶんいろいろ東京を案内してもらって、社会勉強したわけだが、唯一須田さんに勧められたけれどもいかないところがあった。トルコ風呂である。私は猫が膝の上を歩いてもくすぐったくて悶絶するようなのである。
有名なカメラ関係の会社の人に接待されて川崎で飲んでいた時に赤瀬川さんと私がお客さんであった。その時にそういうのを知らないと川崎に行ったことにならないと言うので、社長さんにソープランドを勧められたのであるが、赤瀬川さんと私はいきなり急な用件を思い出して速報。失礼したのも、今は懐かしい。
「発売後十年、ライカは全世界に亘って十六萬の愛用者をもち、その使用者は所謂燎原の火の如く日々激増しつつある事実は、ライカが実に年間十六萬の人々によって試験され、その、無比なる卓越性が完全に認められたる(る)ことを立証するに他なりません。
これが冒頭の文章でなかなか名文だ。
(る)はママであって、最初に力を入れすぎたのか、誤植である。
その後、
精密
万能性
速写性能
形態の美
と、それぞれの長所が各ページで述べられている。
こういう昔のリーフレットの良さは、時間がそこで停止している紙の上のタイムマシンである点だ。
そこに登場するイラストのライカは実に美しい。
実際に欲しくなる。
いや、その時代のライカは皆、机の上に存在するのに、自分の欲しいライカというのは、実物のライカではなく、紙上の「存在しないライカ」だ。
つまり、そこに「偽ライカ同盟」の神髄がある。
42丁目東8番街の角に結構乱暴なバーがあって、そこでビールをいっぱい飲んだりすると頭の上をからのビール瓶が飛び交ったりしている。周りは私と同じようなジャンキーさんだらけ。後で知ったのだが、ツーリストが言ってはいけない。ニューヨークのバーのトップスリーであったらしい。
それでニューヨーク近代美術館のコレクションの記録を取った。近代美術館はスタディールームには鉛筆しか持ち込めない。それはインクで落書きなんかされたら困るからね。
それ以外の街の風景とか、街の印象はボールペンかインクで書いてある。へたくそな風景とか通行人のスケッチもある。
その6冊のメモ帳を今進行中のホームインプルーブメント運動でネットオークションに出した。そうしたら住人の人が購入を希望して50,001選円と言う値段ついた。誠にありがたい。
今の時代ならテキストも写真もクラウドでなくなる事はないが、アナログのデータはこれ1つだから私のことを考えてくれている人の手に渡ったのは嬉しい。よく書いていることだが、私の写真を理解してくれる人は世界でおよそ50人ぐらいだと思うから、メモ帳を手にした人は、そのうちのお一人と言うわけだ。
20年前の最新式のデジカメと言うのは、今はほとんど市場価値のないモデルだけども、そうなると今度はそういう皆さんはやはり最新型のモデルのほうに興味がいっていくわけだから、これでデジタルカメラのマーケットはうまく展開しているのであろう。
昨年あたりからフィルムの値段が異常に高くなっていて、モノクロフィルムが特に高くて1本4000円だと言うようなそれを買ったということがステータスになっているのも不思議な状況である。要するに、ハワイに行った日本人ツーリストがあちらの物価高を自慢しているのと変わるところは無い。
それで私のフイルムカメラとデジタルカメラに対する考え方が最近変貌してきたのは非常に面白いことだと思う。実用品としてのフイルムカメラの場合はそこにフイルムを入れないとスタートラインに立てないわけであるが、自分には型遅れのiPhoneとかiPadがあるから、日常生活で必要とする画像がそれで撮影するということが1番簡単なやり方なのである。
常用しているiPhoneは5年位前のファーストモデルと言うやつで小型軽量だしコストパフォーマンスは非常によろしい。5年ほど前に中古で買ったのである。それは家人が使うiPhoneであったのだが、家人はアンドロイドを新しく使うようになったので、そのお下がりで使うようになった。それは別にお財布携帯にするわけでもないし携帯電話として通話をするわけでもない。カメラがわりに使うのである。
携帯電話で通話をしないと言う私の最も重要な哲学的生き方になっていて、緊急事態以外には携帯電話を使う事は無い。最後の私の緊急事態は2千11年3月11日の東日本大震災である。
この個体であるが、製造番号の最初の705と言うのは1947年5月に生産されたと言う意味なのだ。その次の3桁のロットが実際の製造本数である。なぜこんな細かいことを言い出したのかと言うと、レンジファインダーのニコンカメラで正式に5センチ、エフ3.5のレンズが標準レンズとして付いているのはファーストモデルだけなのである。その後以降のモデルは5センチの標準レンズは明るさがf2あるいはエフ1.5が決められている。
日本カメラで20年ぐらい連載した私のカメラエッセイの1番最初がロバートキャパのニコンエスと言うストーリーであった。そこで登場したニコンエスには5センチ幅3.5のレンズが付いていた。こういうことが普通にはありえないので、おそらく物好きな人がライカマウントのこのレンズのヘッドだけを使って、ニコンエフマウントに改造したものだと思う。
それでもこのレンズが非常に注目をひいたようで、ニコンコレクターの有名な人がそれを見たいと言うので、新宿の喫茶店でお昼ごろにあったのだが、次から次えとニッコールレンズ談義が展開して6時間位のロングトークになってしまった
例えばこのレンズはカールツアイスが出した。蛇腹式カメラスーパーねってる用のレンズである。数が多いのはテッサー5センチef 2.8である。それで3枚構成のこっちの方が値段は少し安かった。ここら辺にトリックがあって、我々日本人のカメラ選びはまさにそこに尽きるのであるが、高い方が良いと言う認識があって、皆さんとんでもない値段のエフ0.9号のレンズを買ったりするのである。
3枚構成レンズで、最近私が気に入っているのが日本製。6 × 6センチの一眼レフのすごくシンプルな藤田66と言うモデルがあるのだが、これの80ミリef 3.5のレンズがやはり3枚構成なのである。30年ほど前に矢切の渡しをこのカメラどこのレンズで撮影してみたらその仕上がりが良かった。
当然の話であって、昼間の光がたくさんあるところで、3枚構成のレンズで絞り11に絞って撮ったのであるからその結果が悪いはずは無い。でも、こういう思い込みが写真家にとっては、結構大切な心理的ポイントであるのだ。
Telcと言うのは、南モラヴィアにある。ルネッサンスの広場がそのまま取り残されて現代になっている。古い古い街だ。オーストリアの国境に近いのであるが、社会主義国時代には外国人は立ち入り禁止であったので、世の中に全く知られていなかった。私がこの町を初めて知ったのは、コロナで亡くなった。プラハのPと一緒にウィーンに遊びに行った帰りに車でここに来たときにびっくりしたのである。だからそれは1989年よりも後のことだ。
90年代初めになって、100円カメラ雑誌である。カメラジャーナルを始めた頃に、二十数人の旅行団を結成したのである。それでウィーンからこのサウスモラヴィアの古い街を経由して、ドレスデンを通ってベルリンに行くコース。
おそらく私はこの古い街に宿泊した最初の日本人の1人であると思う。広場に一見しかない。ホテルに予約を入れたら、日本人を受け入れるのは初めてだと言っていた。ウィーンから観光バスでこの小さな広場に入る時、街のゲートから観光バスが入れないので、広場の外まで出るの車を歩のスーツケースを運んだのである。
結構広い街の広場をぐるりと四角く取り巻く回廊があった。街の広場の周囲には水路があって、かつては水運で栄えた街であるとの話だった。この古い広場を我々がびっくりさせられるのは広場に入る前はごく普通のチェコの街並みなのである。それが街の広場に通じるゲートをくぐると、いきなり時代が数百年前に戻ると言う具合だ。
小松さん撮影したこの画像はその広場にアプローチする。手前の堀割の上に架けられた橋から北側を撮影したものなのである。これは何やら懐かしくてこの通りを北に進んだ細い道が広場に通じる。手前の右側に私がよく通ったレストランがあったのだ。レストランの佇まいは、何かイタリアのそれに似ていた。
最も被害の広がる辺には、ガストロノミーはほとんどなくて、私が宿泊していたシティーホールの隣の古いホテルの1階のレストランと、このレストランの2つ位しか当時は存在しなかった。
遠藤さんは「チョートクのぼくのカメラたち」を持参。この本は好きな本なので、こういう時に持参してもらうと非常に嬉しい。例の1000ページの厚い写真集である。この本はもともと昼寝の枕にするつもりで製作した。最初はワールドフォトプレスの今井今朝春さんの意見で、自分の持っている全部のカメラを収録する予定だった。しかしそんなことは不可能なので、ここには400点弱の写真機が収録されている。
それも嬉しいのだけど、それと同じようにうれしかったのは、講談社の向かいにある、小さな和菓子屋「群林堂」の豆大福を新井さんから頂戴したことだ。
話は一気に三丁目の夕日時代になるのであるが、昭和30年代の自分の少年音羽時代によく御世話になったのが、このお店の豆大福なのである。当時、豆大福は10円であった。こずかいを持って買いに行ったのは、何壱百回になるか。
音羽の5丁目郵便局の裏、2番地が我が家であって、関東大震災の直後に建った二階建てである。狭いながらも門構えがあり庭もついていた。
路地を出てすぐ左手が郵便局。右に曲がると中学の同窓生の小林君のかみくずや(古紙回収業)があり、そのとなりにも和菓子屋があった。
これを福田屋という。その隣(つまり護国寺方面に向かって)が、石黒電気商会でウインドウにはモノクロの16インチTVが鎮座していた。
その隣は「かまや」という洋品店。一戸その隣にしもたやがあり、その隣はパン屋だが青柳製パンと言った。ここはほとんど営業していなかった。 その角は路地であって、そこを右折すると広い敷地の奥村印刷所があった。路地の先の角が東京電力の出張所で、これはテラコッタ造りの3階建てだった。
そこをずっと護国寺方面に行くと、音羽三丁目に大塚警察署があり、(左側に)その先に白亜の堂々たる建物が大日本講談社である。
ここが都電20番の音羽3丁目停留所で、自分の中学生当時であったか、デビューしたばかりの野坂さんが「アメリカひじき」か何か、単行本を周囲にみせびらかすように抱えて、横断歩道に立っていたのを思いだす。
革命の戦士も最近では、ファッションなどの流行りものに利用されて気の毒である。、
それより気の毒なのは、生き残ったフィデロの方か?
10時前にはヒルズ。
今日はワークスペース1に入る。
眼前は曇り空の東京であるが、仕事をするには格好の天候である。
今日は雨ならデジカメの日だ。
あ、カメラはR7で、昨日発見したムービーモード。そうそうゲバラの時代にはまだ、こういうのはなかったな。
ニュースは全部、16ミリのアリとかエクレール、フィルモなどで撮影していた。
そう言えば、ゲバラは大のカメラ人類であった。マグナムのルネブリが撮影したカットに、ゲバラが、ニコンS2に50ミリのf1、1付きを構えている写真がある。
思えば、偽ライカ同盟は10年前の今ころに設立された。だから、ゲバラを偽ライカ同盟の名誉会員にしようと思う。
「今日から新段階がはじまった」
これはゲバラ日記の冒頭の部分だけど、それをよく、自分のエッセイで真似ているのだし、ゲバラのTシャツも若いころは着古したし、ゲバちゃんはニコンS2好きだし、偽ライカ同盟の構成員たる資格はある。
それと、ゲバラが身分を隠していた時、その娘さんが一目みて、その人物が父親であることを感知したそうだが、それはその男性(ゲバラ)が、赤ワインを水で割って飲んでいるのを見て、それと気がついたそうだ。
こういう人間の行動のパターンは認識可能だ。だから、プラハなどで赤ワインをソーダでなく、水で割ったりすると、自分も革命家になったような気分だ。革命の赤旗の赤ワイン。
ああ、それとイカスモンのブログによれば、10月7日はデブシロの日であると、なったようだし、ついでにデブシロには偽ライカ同盟の「名誉猫」になってもらおうと思う。これはデブジロ本猫にお伺いせねばならない。
偽ライカ同盟の旗は、下に掲載の「偽ライカ同盟入門」という本の表紙になっているように、シンボルはライカインコなのである。ここに、デブシロのマークが入ると、さらに革命的な旗になるであろう。
ウィーンとかプラハから東京に往復するというのは1番安い飛行機の会社がアエロフロートであった。仕事でオーストリア航空を使ったこともあったが、今の日本は経済的にドイツを負ける位の時代になってきたので、目敏いオーストリア航空はしばらく前からウィーンと東京を結ぶ便を止めている。それとも最近また復活したのかな?
それで私は安いチケットと言うことで、もっぱらKLMを使う。以前にはアエロフロートを使ってダイヤモンド会員にまでなったのだ。そういう時が変なもので、あとちょっとで上のクラスのステータスになると言う時は用もないのにチケットを買って、モスクワ経由でスペインのマラガに行ったりするのである。
ところで、それ以上にアエロフロートを愛用した理由というのがあって、それはソ連製の飛行機に搭乗できると言うことであった。普通の日本の人には理解できないと思うけれども、私はソ連製飛行機フェチなのである。
それで当時成田からモスクワ便はイリューシン62はもうやめになって、エアバスの300であったが、その先のモスクワの乗り換えでウィーンとかプラハに行くのには、アエロフロートのツポレフ154が私の好みの飛行機だった。
ー
うちのハリネズミが1988年のクリスマスイブに昇天して、その翌年の2月に家人と一緒に針供養ということでウィーンに向かったのである。ところがモスクワを乗り換えようとしたら、ウィーンが、天候不良、キャンセルになって、我々乗客には伝えられないままに、プラハの空港に到着してしまった。
ビロード革命が起こった。その年の2月であるからプラハは騒然としていて、我々はトランジットの特例でホテルにいっぱくしただけで、本来外は歩き回れないのであるが、当時元気だったプラハの友人のジャーナリストを電話で呼び出して、我々はモルダウ川のほとりのペンクラブに行ってうまいビールを飲んだ。その時の友人のジャーナリストは非常にポジティブで、今日のデモの効果で体制は消したから、ビロード革命は絶対に起きると胸を張っていたのである。事実彼が言っていたようになった。
昨年来、きれたままになっていた、読書スタンドのハロゲンランプ(12v 20w)をヨドバシカメラで買う。一緒にスタンド用の小型の蛍光灯も買う。
これでようやくベッドの上で読書する環境が整う。
徒歩、総武線沿いに浅草橋方面のラビリンスに分け入る。ポケットからGRDを取り出して連射。浅草橋のちょっと手前に「ベレッタ屋さん」(例のピストルの)があるので、その前を通り過ぎようとして果たさず。
一本、北側の道を歩いてしまった。
柳橋の小松屋にて「手むきのあさりの佃煮」(大潮限定)というのを曲げ物入りで求める。
この前、冬の時分に「かきの佃煮」を買ったきりだが、半年に一度くらい、徒歩で柳橋に行って船の上にしつらえられた船宿のお店から、佃煮を買うのは、いい感じだ。佃煮は歩いて自分で買いに行くというのに味がある。
これはなかなかの老人趣味だ。
断腸亭が下町まで行って佃煮を買ってやたらに喜んでいた記述があったが、これは戦前の食料難の時とはいえ、その感じが彷彿とする。
それで今日、佃煮を求める時に、一瞬ではあるが売り手の中年と初老の間という感じの男性のたたずまいを良く観察した。
佃煮屋さんの男性というのは、なかなか役者でないとつとまらないという気が前からしていてのだけど、小松屋のお店の男性はその役にはまったなかなか渋い人だ。
脇のお店の女性も個性的な美人であった。
それで思いだしたのは、プラハで毎年、クリスタルグラスを買う時に、プラハの旧市街のユダヤ人街の老舗のクリスタル屋で買い物をしていたのだけど、そこの女性にその面差しが似ていることに気がついた。
ご商売というのは、沢山の人間を相手にしているので、買い手の顔は忘れるであろうが、半年に一度ほどの客でも、それなりにお店の人の風貌は案外に忘れないものだ。
晩餐にその「あさりの佃煮」を賞味する。
昨夕の夕焼けは今年に入って最高とも思える美麗さであった。
夜は日付の変わる時まで、「GRDワークショップ」の文字校正を見る。
150ページを一挙に読んだら自分の書いたモノとはいえ、ちゃんと頭に入った。
(8:12)
アメリカのウエストンが電気式セレニウム露出計を発売したのが1938年だった。そしてその当時の価格と言うのは50ドル近いからかなり高価な商品でもあった。だから普通のカメラユーザはフィルムの発行に表面に印刷されている露出のアドバイスを元に搾り取っシャッターを決めていたのである。そしてそれは実際効果的でちゃんと映るのであった。
何十年も前にリーフリードランダーとカメラのテクニックについて話をしているときに私は聞いたことがある。フリードランダーさんあなたは撮影に同行している限り私が知ったことですがメーターは使わないんですか?
それに対するフリードランダーの答えがすごい露出計は持っていないけどフイルムのパッケージに露出の氷がついているでしょうあれを使えば充分なんだ。
当時のライカのカメラはスペースが10分であるから露出計算表がついていないがこのオリンパスの昭和20年代のオリンパスフレックスのようにスペースが十分にあるとこんな立派な露出計算表がついている。これはなかなかゴージャスだと思う。
この良質計算表を見ていてなかなかゴージャスだと思うのは当時の最高シャッタースピードであった400分の1秒をよく使うような指示がされていることと夜の室内では400分の1秒でしぶり外付2.8で使えとあるところが凄いと思う。要するに普通の写真愛好家の考えているフイルムとシャッター速度の限界を超えた数字をカメラの計算表が支持している意味でこれはかなりスーパーな露出計残業なのである
非常に厳密なカソリックの生活習慣が生きている街であるから、金曜日の午後6時から日曜日の深夜までありとあらゆる商業施設は休みである。だから日曜日の旧市街の中心部を歩いている人が何をやるかと言うとウインドウショッピングなのである。ここいら辺が消費こそ全てと考えている。アメリカ帝国主義の手下の日本とは違うところだな。
私たちが暮らしていた1970年代のウィーンと言うのは、まだ第二次世界大戦の残りの香りがそこはかとなく漂っていて、そこが良かった。モノクロームの第3の男の世界なのである。もっとも第3の男を私はオーストリアウィーンには見ていなくて、80年代に日本に戻ってから見たのである。オーソンウェルズがかっこいいと思ったのはかなりネイティブな。ドイツ語でカフェなどで店の人に注文をしているところだ。
ところで、我々のウィーンの散歩のドナウ運河を渡るときのこの画像で右に見えている立派な建物であるが、これは警察本部なのである。ウィーンの警察と言うのは日本の区役所のようなところであるのだが、この砦のような例えものは、いわゆる治安とか犯罪を専門に取り扱っているデパートメントである。
世界的に有名なwinの下水道私は2度撮影したことがあって、最初は警察の管内でポリスと一緒に地下に潜った。その10年後はウィーンの下水道局の管轄になっていて、要するにお役所の縦割り行政が異なったと言うことらしい。
それで最初に警察に同行されて、地下トンネルに入った時は、その様子は私の写真集ウィーンとライカの日々に掲載されているけれども、犯罪警察の1番偉い人のところに最初に紹介されて勧められたのが朝のコーヒーなのである。そこで形通りビジネスマン同士だから名刺交換をするのであるが、その時私がびっくりしたのは、犯罪警察の部署のトップの人の偉いさんの名刺のタイトルは物々しい肩書が連ねられているが、名刺の反対側をひっくり返すと彼のプライベートアドレスと電話番号が印刷されているのである。これがオーストリアの警察の普通の名刺なのかどうかは知らないけれども、今は状況が変わってしまっている事は確かだろうね。
飛行機のドアが開いてタラップから降りるときの空気の第一印象は佃煮と干物の匂いがすると言うことだった。ウィリアムクラインが1957年に羽田空港に到着した時もおそらく同じような干物の匂い雨が彼の端をくすぐったのであろう。
同行のブライガー博士は切れ者の美術評論家でミュージアムのディレクターなのであるがそうなるとプロレスファンであると言う側面も持っていて、モハメッドありと猪木の試合をぜひ見たいと言うので上野のアメ横で小さな中華屋さんでその試合を見たのである。その間にドクターはラーメンを2杯頼んで餃子を2皿頼んで他に野菜炒めか何かでビールを飲んでいた。ヨーロッパ人にするとラーメンと言うのはヌードルスープであるから2杯ぐらい飲むのは問題ないのである。
そのヨーロッパ巡回展がそこそこの成果を得て私の名前がザルツブルグあたりまで伝わったのでワークショップの先生のお誘いが来たのだ。写真家のシリーズで当時はシンディーシャーマンもいたけどワークショップでは実際に会っていない。私がザルツブルグのワークショップで会ったのは日本のHosoe先生とラルフギブソンである。
そのザルツブルグでのワークショップの時もそうだったし一旦日本に戻ってから80年代半ばに始まる30年以上のプラハ暮らしでもこの懐中時計と言うやつはいつも私の脇でチクタク言っていた。
この時計は1976年の日本での写真展準備で篠山さんとか東松さんとか森山さんとか天才荒木にあった後に小さな旅行を試みて新潟経由で富山から京都岡山に行った時岡山の時計屋さんで手に入れたのである。17,000円位したから結構高い買い物だった。
最近時々てっちゃん番組をYouTubeで見るのだが私がびっくりしたのは実際の列車の運転席には凹みがあってこの時計を置くスペースというのがあるのだね。今でも実際にこれが使われていると思うとかなりびっくりしてしまう。
長い原稿を書いたりするには、6階建ての屋根裏部屋のもう一回上の7fと言うのは、結構超絶的な空間で周りと何も関係がないと言うところがよし。そうなるとよく観察するというか、親しくなるのは空を流れる雲とかレインボーとか鳥である。天窓の上を白鳥の4人組が飛んだり入ったりするのは見ていてびっくりする。あるいは出たばかりの月を見ていると、その近くを人工衛星が横切ったりする。
このアトリエは、10年ほど前に、戦前の古い鉄骨製のガラス窓からモダンな透明のガラスになったので、空から光が降り注いでくる。
天窓であるから、直接外を見ることができないので、椅子に乗って自分の身長を高くして外を見ると言うのは結構楽しみなものだ。それでノーベル賞クラスの発明家ニコラテスラの名前をそのまま撮った広場なのであるが、これは私のいたアトリエの1部がプラハ工科大学であったと言うことに関係があるらしい。
向かいの屋根の高い高いテレビアンテナの上に黒い鳥が止まった。2009年7月の午前8時20分次の事とメモに書いてあるから、これは特定がしやすい。黒い鳥はカラスではなくてヨナスなのである。ヨナスと言う名前の種類の鳥がいるわけではなくて、カラスよりちょっと小さなサイズのなかなか頭の良さそうな黒い鳥であって、ベルリンの友人がしばらくこの鳥を飼っていて、彼女がその名前をヨナスと命名した。それで家でもこの黒い鳥をヨナスと呼んでいる。幸せのブラックバードと言うわけだ。
このニコラテスラの広場は、1930年代に建物の屋根裏部屋は絵描きのアトリエとして作られたと話を聞いた。それでビロード革命の時にプラハで有名なモダンアーティストにインタビューをしたことがあって、その時の話で分かったのは、彼が住んでいるアパートメントが、ちょうど私の屋根裏部屋から広場を隔てた北側になるのである。
ビロード革命の直後の話であって、そのアーティストに私のアトリエの場所を言ったら、彼はびっくりしてその広場の向かい側に住んでいると言うのである。それで付け加えて、最近1番上のアトリエに夜になると明かりがつくので、どなたかがお住まいだと思ったら、ミスター田中あなたでしたかと言うのだ。
Winのミュージアムに最初に出会ったと言う事自身が私にとって非常に幸せなことであってこのくらいの大きさというかこのくらいのコンパクトサイズが人間の後の歴史的な側面を見るには適当であると思われる。これがパリのルーブルになってしまうと広すぎて歩くだけで披露してしまうと言うことになる。
それでも私がwinのミュージアムに最初に出会った時と現代を比較する2店50年前は名作のオリジナルと言うのはそこにいかなければ見ることができないと言うものだった。ところが今では世界中のそーゆー美術品のコレクションがオンラインでしかもかなり細かいディティールを見ることができる。
^_^人間の通信手段に関する常識を覆したのが1980余年のアップルの登場であった。私がニューヨークにいたのが1983年だからその翌年19840世界は変貌したのである。それと同じように美術品の複製と言うことに関してはあの当時と今とでは世界感覚世界構造と言うものが全く違うのだ。
いわゆるフランスに代表されるような巨大な絵画と言うのは私はこの前なくてフェルメールに関しても外側の細い廊下の奥にひっそりと置かれていると言うところが気にいっている。だからwinの生活で暇な時間があると今日はやることがないからミュージアムに行ってフェルメールの作品の前に1日中座っていたいなると言うことを考えるのだ。
日本の場合20年にいっぺんぐらいフェルメールがやってくるようだがこれは文化的なムーブメントと言うよりもビジネスであるから会場は超満員らしいの山手線みたいで押すな押すなで前の人の頭しか見えなくてけれどもそれでもそこに行った人は前の人の頭は見たしかしフェルメールはよく見えなかったと言うので満足するのだこれが文化と言うものですね。
1973年の5月にヨーロッパに行くのでトランジットで雅人と一緒にモスクワのメトロポールホテルに数日滞在した。当時は反体制派の作家がこのことを書いていて人気ホテルかどうかは知らないが5つ星ホテルで結構高かった。でもその当時外国人ツーリストが宿泊できるところはそういうクラスのホテルなのである。
モスクワから赤い旗が降りてその関係でその後ずいぶんモスクワには行った。でもアサインメントの仕事が多かったから自分の目で街をウロウロしてライカで写真を撮ると言うのはほとんどこのときの撮影だけだと思う。
ライカに28ミリレンズだけでとったと記憶しているが、街の中心部にあるKGBの本部の建物だって自由自在に撮影できてストレスがたまらなかったなどからこれは時代が変貌したのだと考えを強くした。
KGBの建物の前で警備している兵士を1枚撮影した。彼は私をその瞬間見ていたが別に何も言わない。それで面白かったのはその兵士が来ているカモフラージュジャケットと、私が着ていたカモフラージュジャケットの柄が全く同じなのである。こういうのは国際交流と言うのにあたるのであろうか?
赤の広場でウロウロ撮影をしていたらジプシーの子供たちが私に寄ってきてわらわらとポケットに手を突っ込んで何かとろうとするのである。必死になって逃げた。人生で自分があんなに速く走れると思ったのはその時が初めてである。もっとも四半世紀前だからね。それでどこに緊急待機したのかと言うとパトロール中のポリスである。助けてくれdeepシーの柿にあれってれたと言うのだ。こんな事は以前はなかった。
このときの撮影は35ミリフィルムが50本でそれはプラハで現像した。それを東京でプリントしたのだと思う。このモスクワの撮影の数ヶ月前おそらく1999年の春に私はプラハでウィリアムクラインに合っているのである。彼のレトロスペクティブエキジビションの展示を見るためであったがその他に依頼されて数日間ウィリアムクラインと一緒にいた。アシスタントみたいな立場であるが別にフィルム交換なんかしない。それは私などにフィルム交換をさせたら危険でしょうがないよな。
もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。
^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。
書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。
でも基本的なダイキャストは変わっていないからフルサイズに近くなった初期のニコンカメラを使うのは良いアイディアだと思う。
それで我々が惹かれるのは最近あちこちで見ることのできる当時のニコンカメラの小さな広告である。^_^
そのデザインが今の時点で見ると非常に優れているのも不思議だ。モダンデザインなのである。それで思い出すのは1925年にできたライカの1番最初のモデルも似たようなデザインであったことだ。
この日本の広告はおそらくカメラ雑誌に登場したものだと思うけどライカの1番最初の広告は建築雑誌の中のごくごく小さなマッチ箱内の広告スペースであった。
ニコンの所在地品川区大井1護前町と言うのはニコンカメラのエルサレムである。そのニコンが生まれた101号館にニコンの偉い人に招待されて最後の日の未婚の夕暮れを見たのも忘れられない。
それで小学生の頃に見た私の記憶しているアサヒカメラのこのカメラの広告なのであるが、私の記憶に間違いがなければ中年のジェントルマンがブラック仕上げのこのカメラを構えている1ページの写真なのである。それでここら辺が面白いのであるが、子供の時私が見た記憶では、そのゼントルマンはベレー帽をかぶっているのだ。私はこれに反発した。
我々の子供のときの印象では、ベレー帽をかぶっている大人と言うのはどうも信用ができないところがある。1番信用ができないのは南ベトナムで人民を殺戮したグリーンベレーがその代表だな。
このブラックカメラと言うものは、製造された数から考えれば間違いなくライカM2やM3のブラックペイントよりはその数が少ないと思う。それで調べてびっくりしたのだがこの当時のブラックカメラと言うのはクロームであろうがブラックである方が値段は同じなのだ。
それから数年後に日本のカメラメーカーは、ブラックペイントのカメラにステータスを持たせるために1500円位値段を上げたと言う優雅な時代だった。
それぞれのブラックロードカメラには、それぞれの個性があるが、このエグザンプルは純正のちゃんとしたフィルターが付いていると言うところが泣かせる。ちゃんとした写真を撮っていたオーナーであることが偲ばれるのである。
絵画から写真に転向して、手作りのカメラで彼が住んでいたスロバキアの小さな街でプールの女性とか通行の女性をホームメイド、カメラで撮影した膨大なプリントを制作した。
地元では単なる変人扱い。しかも5月1日の命令には、予防手段として精神病院に収容されたりした。ひどい待遇だった。
非常に面白いのは、その当時の社会主義国では、街のプールを盗撮することが犯罪ではなくて、このアーティストそのもののアンチ社会主義的な行動を犯罪とみなしていたのである。
写真家が有名になったのは、2008年頃のバルセロナの写真展でスタートして、その後ニューヨークのミュージアムでも写真展があり、最後はプラハで大規模な写真展があったが、プラハの写真家はこの人の存在を知らなかった。
その理由はスロバキアの写真家であったこともその一つだ。チェコとスロバキアが分断したのと、同じ背景で、チェコの写真家はスロバキアの写真家を認めないのである。
私もプラハでの写真展を見るまで全く知らなかった。それで非常にプアーなクオリティーのプリントが集積すると1つの表現になることに気がついた。
ちょうど14年前の今頃にこのすぐれた写真家はなくなったのである。その後著作権とかプリントの所有で醜い争いが展開したのはこれは仕方がないね。変わり者のおじさんが持っていたぐしゃぐしゃの大量のプリントが、いちどに黄金の山になったわけだ。
この写真家の仕事を盗撮と言う人がいるが、とんでもない勘違いである。写真はもともと盗撮だからね。
もともとの私の言うカサブランカの意味は、佃島の部屋から見た中央大橋の白いカラーが光の具合でまぶしく輝くのをカサブランカ状態と言うのである。でもそれは私の想像に過ぎないので、モロッコのカサブランカの光が実際にどうであったのかを調べるために、2009年にカサブランカに白い街の調査に行った。それで私の想像力は実際のカサブランカからそれほど外れていないということがわかった。
しかし、一般の人はこの大写真家のように才能に欠けているから、とりあえずライカとかカールツアイスが作ったと言われている、本当は全然関係ないメーカーが作っているブランド品と言うものを高い値段で手に入れてそれを使わざるを得ないというのが現状である。
インターネットが登場する。20年も前に毎年秋に開催されたドイツのケルンのフォトキナと言うのは何が面白かったかと言うと、定期的な新製品発表のほかに親しいジャーナリストにアンダーテーブルと言うのであるが、内緒で数年後に計画しているカメラを見せると言うしきたりがあった。これが当時メカニズムライダーをやっていた私が未来のカメラを予測するための非常に素晴らしいナビゲーションの働きをした。
その経験もあって、当時世界で最大の780,000の販売部数を誇るモダンフォトグラフィーの極東通信員でいろいろ仕事をすることができた。今の時代が残念なのは、インターネットの関係で新製品の発表がオープンになると言うのは、全部コントロールされている間だな。新製品に対する夢がなくなっちゃったね。
ここに作品を出せば「国際的写真家」として認められるというのが、当時20代であった 若者のあたしの考え過ぎなのであるが、ある部分でそれは真実でもあったようで、1970 年に同誌に発表した時は巻頭が浜谷浩さん(はまやひろし)なので嬉しかった。浜谷さん は家人の親戚にあたる堀口大学が新潟の山中に疎開していた当時、大学と親交があり、終 戦のその日の真昼の太陽を撮影した名作がある。
その浜谷さんと一緒にCameraに作品を出したりすれば、ライカ青年のアドレナリンの上 昇は当然だ。 当時のカメラは毎号、編集長のアラン・ポーター氏が個性的な切り口で特集を組んでい た。その中の記憶に残るのが「シークエンス」というのである。まだビデオは黎明期でデ ジカメなどない時代の話しだ。35ミリフィルムの隣同士に並んだ画像をそのまま無作為 に掲載すると、そのふたつのコマに撮影者も意識しなかった、カメラの移動と時間の経過 が自然に開示する。なんでもそんな意味の特集であった。
ヘルシンキから戻って、上の事情に思い当たったのは、ヘルシンキのラストショットは半 月が見えるホテルの窓からの瞬視であり、その次の時間軸上の記録は東京は小川町のオリ ンパスにペンデジタル2の素子の埃を取るので出かけ、その戻りに「顔」の大看板に出会 って、少年時の記憶がいきなり巻き戻されたことにある。この顔の看板は過去半世紀以上 の東京のポイントの中で、一番息が長い。子供の時には都電で小川町を経由して、日本橋 に行くのが都心への正当なアクセスであった。まだ丸ノ内線のない時代の話しだ。
しみじみ「顔」の看板を見て、この光景を撮影したのはこの前は1970年当時であった ことも記憶から発掘された。当時はライカM2であるがそのライカは今でも使っている。 デジカメの将来は一体どのようになるのか?
これで見ると、半世紀前はカメラのファインダーを覗いているように見えるが、実際にはこれはニコンサロンで開いたエキジビションのはがきのためのヤラセです。ノーファインダーでは写真にならないので演出を加えました。
^_^坂崎さんと中古カメラ屋さんをめぐるというのが当時の連載であって、ずいぶんいろいろ歩きました。こちらはよくが深いから坂崎さんと打ち合わせて1日5軒回ろうなどと言っていたのですが、人間の想像力と行動力は全く異なるものであると言う事をその時理解した。3軒も回ればくたくたになってしまうのではある。
連載のタイトルはもう忘れてしまったが、カメラバトルロイヤルとかカメラ買い物対決とか、何かそういうB級グルメの名前が付いていたがよく覚えていません。これは銀座のカメラ屋さんでうろうろしたときのショットであるが、この企画の肝は1日の買い物は50,000円までと言うことなのだ。けれども、感心するのは、これが編集部からの経費ではなく、自腹ということなのである。
面倒見が悪いというふうに思われるかもしれないが、自分の欲望に忠実であるためには、自分のポケットからお金を出すというのがこの場合欲望を満足させるための最大の理由なのである。だから面白かった。
それで面白いのは銀座のカメラ屋さんの場合なのだけれど、坂崎さんと私で欲しいカメラをマーキングしておいてお互いに遠慮してそれは買わないのである。そしてここがカメラブラザーズの愛情の凄いところなのだが、翌日1人で出かけたらその時に坂崎さんに鉢合わせした。そこで坂崎さん曰く、欲望には従順に遠慮は禁物ということなのである。
そーゆーわけでファドとはあまり関係がない。それよりもα間を登ったり降りたりして、そこに生活の実態のスライスされたものが現れていると言うのを見たり、写真に撮ったりするのが好きなのだ。
Α間の途中に小さな公園があって、その公園はいつも子供たちの元気な声が響き渡っているのであるが、その急な坂の広場を見下ろすところに幅が3メーター位の4階建ての小さな時計屋さんがあった。その時計屋さんはすでにお店は閉じていて、ボロボロになっていて、こんなところに住んだらいいなと思っていたのであるが、それから10年ぐらい経過したら、きれいな住居になって不動産会社の札が出ていた。こういうところで余生を送ると言う楽しみも、人生には残されているのだなとちょっと感心した。
それで赤い真っ赤な建物の壁に黒いズボンが下がっていると言うのはそこに生活の断面が見えると言うレベルではなくて、一瞬のパフォーミングアートのようになっているように、私には見えるのである。
パリの駅から出発して列車の中で2泊して着いたと言うのは、ヨーロッパの列車の旅行感覚からするとかなり遠くにきたなと言う感じがするのである。しかもこのアポロニア駅の良いところはターミナル駅であって、その先のレールは無いと言うところにある。これを私はターミナル駅の美学と呼んでいるのである。要するに、延々とレールが続いた。その途中が終着駅でまだその先にレールがあると言うのは、鉄道の美学として面白くない。
それでアポロニア駅に着いて、ズルズルスーツケースを引っ張って、近くの安宿に落ち着いたのがリスボンの最初の日のことであった。まず近くのバーに飛び込んで、ビールを1杯とタラのコロッケをつまんで一息入れたのである。いつでも旅をしているときはそうだが、ホテルから1番近い飲み屋に飛び込んで、そこの名物をつまんだりすると、こちらは外国人であるから、翌日いくと思う。常連さんとして扱ってくれる。
この小動物は欧州からユーラシア大陸に分布しているが、なぜか朝鮮半島まででその先には来ないのである。
その針ねが、病気になって獣医さんに連れていったら、先生は「へえ、ハリネズミです
か、、、もっとよく見せてください」というくらいで、当時(80年代なかば)は珍獣のうちであった。
最近ではMIXIなどで「うちの子自慢」があるほどだから針ねも一般的になった。
以前、羽仁進監督にお目にかかったとき、なんとなく話題がハリネズミの話しになり、監督も以前飼っておられたとかで「あの人はねえ、、」ということになった。人称で呼ぶ所
に監督の針ねへの「愛」が感じられた。
坂崎幸之助さんは、「あの針ねの左右の耳がラッパのようになってるとこが、可愛いですねえ」と言う。
その針ねに、大枚2万5千圓で我が家に来ていただいたのだけど、同じ「商品」が家族連 れで夜更けのプラハの郊外の丘陵地を歩いているのは、なかなか可愛いものだ。 それでプラハの住民は夜、お皿にミルクを出しておく。
その「恩返し」に針ねが針にりんごを刺して届けにくるのであって、これは民芸品のモチ ーフにもある。
まず、「鶴の恩返し」よりも現実的だな。
個人カメラ雑誌「カメラジャーナル」を10年やったけど、針ねのマーク入りの限定のリコーカメラとか、英国製のカメラバッグなどを限定販売してこれがなかなか好評だった。
だからカメラジャーナルの読者さんには、その動物が何であるのか周知されていたが、銀 座の松屋のカメラショーでの自著のサイン会などでは、知らない人には「イグアナ」とか 「針千本」とか「おこぜ」を本に描いてください、とか言われた。これはひとえにあたし のイラストが下手なので針ねには多大なご迷惑をかけた。
1988年だかに、動物学の分類法がかわって、それまでハリネズミ目とかいうのがあったのが、もぐら目に変更になった。それでプライドの高い、我が家の針ねは憤慨して「自死」したのではないかと考えている。
おだからそのままにしておく。けれども、このリスボンの巨大なリバーは、まさに海である。リスボン空港に海側からアプローチする時の飛行機の窓から見える水の広さと言うのは、川の幅ではなくて海なのである。ポルトガルの大航海時代には、ここから数多くの船が出発して、世界を帝国主義にしたわけだから、悪いところだね。
それで40年通っているのに、α間の1番上の展望台の名前もいまだに覚えられないのだ。もっともいつも一人旅で自分と話をしているわけだから、場所の特定の名前等は必要がないのだ。40年前にIKKOさんと話をしていた時に、彼はその展望台の名前を私に見せてくれたのだが、何しろ40年前だから完全に忘れてしまった。
私がリスボンに通うようになってから20年ぐらい経過してビームヴェンダースがリスボン物語を出した。それでドイツ人にとってはこの展望台は失恋の涙を拭くところなのである。40年前に私がこの展望台から貞女川の写真を撮っていたら、ミュンヘンから来た若くて綺麗な女性と知り合いになった。それでちょっと話をしたのだが、彼女が失恋の傷を癒すためにここに来たなどと言う事は、その人を見ればすぐ理解できるのである。
それから十数年後にビームヴェンダースのリスボン物語を私が見た。ほとんど唯一の映画なのであるが、そのストーリー展開というのがやはり食えなくなった。映画監督がリスボンまで流れてきて、そこでリスボンの女性と恋愛関係になると言うまず三流のストーリーなのである。しかし映画だからこれは仕方ないよな。
行方不明の映画監督をサウンドマンがリスボンで発見したときには、映画監督は、リスボンの町外れのゴミ捨て場に落ちているBMWのイセッタに隠れていたのである。
3ブロック位前から路面電車の音がガタゴト言うので、電車が近づいてきたなぁということがよくわかる。ところが困るのは、列車の編成で、シーメンスの長い長い蛇のようなシルバーメタリックの最新型もあって、こちらのほうは全く音がしないのである。それでシーメンスの路面電車は非常に危険であって、角を曲がった時に音がしないからひかれそうになったこともあった。
つまり、人類の路面電車の最初の形と最後の形が同じレールの上を走っていると言うところが面白いというか、結果としてそうなったというのが^_^歴史の美術館と言うわけだ
黄色いリスボンの電車は団子になってすぐ来るかと思えば、30分たっても来ないことがある。とにかく、細い道のあちこちで、車が勝手に止まっているから、それが通行の妨げになるのだ。
黄色い電車は看板を下げているのだが、40年間私が見た中で1番黄色い電車にいますのがコルゲートの歯磨きの広告なのである。これは理由を説明するよりも実際に見てもらったほうがよろしい。黄色い電車に1番似合わない広告は何だと思いますか?
コカコーラ。
その時あまりいい加減も書けないのでロシアの時計の歴史を簡単に調べたら確か最初の時 計が国内で作られたのは1925年のことでモスクワ第一時計ファクトリーと言うところが 作ったのだそうである。最初期モデルの時計は石が6石位でデザインもなかなか良い。
それらの時計は人にあげたり間違ってゴミと一緒に出してしまい今ほとんど手元にない。 これなどはその残りの数個のうちの1つである。
当たり外れと言うものが機械にはあるようでこの個体などはクロノメーターの正確さなの でびっくりしている。 ガガーリンがつけていた最初のスペース空間で使った時計などはあちらの高校生がつけて いるような市販の安いものであった。でもそういう腕時計をつけるのが本当のダンディだと思う。
ガガーリンはカメラも好きだった。あれだけ世界中を回って英雄になったのに、当時のソ連共産党はガガーリンをただ一塊だけモスクワ中心部の百貨店の外国製品を売っているところに入場を許可したのである。共産主義ケチだね。
共産主義時代の彼らの西川製品に対する憧れはものすごいものだった。つまり、帝国主義よりも帝国主義を03するから、帝国主義の度合いが強い。
二十八ぶりに大阪に長滞在して週末に「帰国」した。帰国というのは実感であって、十年 ほど前にオーストリア航空でよくプラハやウイーンにいったことがあって(ビジネスクラ スが成田発より安かった)帰りは関空に着くのであるが、これが午前6時の到着である。
ANAの乗り継ぎは午後までないので、南海電車?でなんばに行った。この時の印象は不 思議なものであった。
旅路の果ての「世界のもっとも遠い都市」なのである。心斎橋のカメラ屋に行ったら、店 がしまっている。どうしたのかと思って、零細に考えるにまだローカルタイムの8時前で ある。
ようするに、時差ぼけである。
なんばに戻って、2/10 (つうてん)閣界隈を歩行して東洋情緒にひたった。それはデリ ーやハノイや、北京や、平壌よりずっと東の絶海の孤島の魔都という印象なのである。
通天閣が見える範囲を歩行していれば、街中で道に迷うことはなかった。これはちょうど ウイーンの街で、シュッテフェル(シュテファン大聖堂の尖塔)を目印にしていれば道に 迷うことがないのと同じである。通天閣は羅針盤であった。
通天閣はその意味でなにわの「杭」のようなものだった。マンハッタンではかつて、ツイ ンタワーが同じ役割を果たしてた。あたしはマンハッタンの街歩きでその杭を見て歩行す る方向を見定めていたのである。
それにしても新世界とジャンジャン横町が「怖くない街」に変身してしまったのは残念で ある。ちょうどマンハッタンのバワリーが安全な街になってしまったのと似通ったところがある。
スイスの最高級一眼レフカメラアルパカメラが資本が変わって新しいセミ版を出したのでそれを取材に行った。その小さな会社の社長さんが冗談で作ったのがアルパカメラブランドのピンホールカメラなのである。カメラコレクターで特にアルパカメラのコレクションをしている人は、このカメラは限定版であったから、買い逃して今になって残念がっているのだと思う
確か学研の付録みたいなボール紙の組み立て式であってピンホールである。それでケルンのカメラ屋さんに1本だけモノクロフィルムを買いに行って撮影した。ストリートスナップを取るわけにはいかないから、心がけるんだという意味で、大聖堂とローマ時代のコレクションがあるミュージアムのエントランスを撮影した。
この当時のケルンと言うところは、ローマ帝国の最も北の部分に位置する植民地であったからだ。半世紀以上にわたって、ずいぶんたくさんのカメラを使ったが、ピンホールカメラを使ったのはそのうちの貴重なワンショットと言うわけだ。島根の出雲に在住の写真家の小池さんが、私のカメラジャーナルのバックナンバーをコレクションして、時々Facebookでアップしてくれるのでありがたい。
思えば、森山さんはコニカビッグミニを使われていて、たしかなにか森山さんにお目にか かった時に、あたしの持っていたフィルム時代のGR-1をお渡しした。 あれが1995年ころであったか。
森山さんのGR使いは有名である。
今度のカタログは繰上さんが撮影しているのであるが、そのマンハッタンのショットが素 晴らしい。 あたしはパナソニックのLC5の当時(2001)にカタログを担当したのであるが、カメラの 作例写真というのは、それを欲しくなるというような「綺麗綺麗写真」であることが必須 である。
繰上さんの写真はまず真冬のマンハッタンだから、作例としては「失敗」だが「作品」と しては大成功している。 ようするに今までのカメラのカタログの常識をひっくり返したのだ。
なにわ撮影時に毎日、XZ-10をポケットに入れていたのを、GRに持ち替えて撮影してみ た。GRD4に比較するとかなりレスポンスが早くなったのはいい。
デジタルの意味のDが付いていないのもいい。 ライカMと同じ方面のネーミングである。これからはその意味でOM-Dに対して、フィル ムを使う方のOMとか、ペンもフィルムを使うペンというような、電子写真機を意識しな いような故障になって行くのであろう。
ライカMとGRとの最大の違いは前者が「お道具」であるのに対して、後者は「道具「で あることだ。レンズ交換して「深遠なクラシックレンズの味わいを楽しむ」というよう な、道楽はここには存在しない。そこがいいと思う。
★カメラのスタイリングはiPhone5で撮影。
これはプラハの王宮のモルダウ河に面した東側の庭園で、その名前はたしか、イインスキ ーガーデンと言ったと思う。その庭園の境は高い塀になっていて、石畳の通りの反対側に は財務省のいかめしい建物がある。
まず、あまり美的とは言えない環境であるが、その細い殺風景な通りには路面電車の軌道 がしかれていて、ここを頻繁にプラハの市電が往来する。
バロックの建物の中がくりぬかれていて、そのトンネルは1車線しかないのに、市電は正 面衝突もしないでどんどん交通しているのは、なにか特別なからくりがあるのであろう。
バロック庭園には一箇所だけ、ドアがある。開園日に限ってそのドアは開く。それがなに
か楽園への扉のように思われる。
あたしはアトリエから市電に乗って、旧市街に行く時にこの庭園の前を高速で通過する。
その時には、デジカメを連写するのであるが、なかなか背景と人物のバランスの良い構図
はとれたためしがない。そういうことを昔はライカで、今はデジカメで行って十年がみっ
つも重なってしまった。
この1枚はベストとは言えないがまずまずのできだ。
人物の服装からすると、昨年の今頃のプラハで撮影されたものだ。
ほぼ理想のスナップショットというように、こっち側の人物とあちら側の人物が呼応して
いる。
プラハを30年も撮っていて、これはなかなか撮影しがたいショットだと思う。 ★カメラはOM-D 12-50mmなにこれは
実は東西ベルリンの壁が壊れた後にCheckpoint Charlieでソ連製の品物を売る蚤の市みたいなのがあって、そこでソ連製の時計のクオリティーを初めて知ったのである。ドイツ語の研究資料と言うのもあって、それを手に入れてなかなか調べ物の参考にはなった。
その後、雑誌の企画があって、200個1キロに買ったものだから、ドイツのセラーは私は業者さんと勘違いして、次回からはもっと安い掛け率で売りますと連絡が来たのも面白かった。
^_^実際には、この雑誌の企画は、当時売りたかったソ連製のウォッチを販売するための脇から再度プッシュする企画というわけであったから、私ほど真面目に記事を書かなくてもよかったのであるが、今にしてみると、奥のチャンスが私にとってソ連製ウォッチのエントランスになったわけだ。
その一例をあげておくとこのウォッチであるが、普通は西のデザインを真似したと言うことになっている。ところが調べるってみると、どうもこのウォッチの場合は逆のようであって、このユニークなデザインを西側のカンパニーがコピーしていると言うのを発見して、非常に面白く思った。
ガガーリンが初めて宇宙飛行したときのウォッチ等はいろいろ話題になっているが、あのモデルは普通の市民が使っている。ごく普通のウォッチであって、クロノグラフのような特殊なモデルではないと言うこともわかって面白かった。
若い人はデジタルカメラは江戸時代後期から存在するのではないかなどと言っていてこれはまたコミックみたいで面白い。
私のすぐ近くにお住まいのライカデジタルカメラの最新方をお持ちの女性のフォトグラファーさんにパーティーでお目にかかったとき彼女はものすごいシュールレアリストなことを言った。あのライカと言うのは以前はアナログカメラを作っていたんですってね?
こういうトリスタン・ツァラみたいなモダンポエットを口にする人は私は反論のしようもないのである。それでも冷静にデジタルカメラが管理している時間領域とアナログカメラフイルムカメラが管理している時間領域を区別してみるのは意味のあることだと思う。
私は現在あるコレクションにかなりの数のモノクロームのヴィンテージプリントを納入しているのであるがこれが60年位前のプリントなのである。要するに古いプリントですよ。私が20歳の頃に撮影した東京の風景である。
60年前に撮影された写真と言うのはデジタルイメージでは存在しないわけだ。一方でデジタルイメージングはシステムとしてスタートしてからは25年毎にはなるが実用と言うことから考えると実に20年代のものなのである。
私は2000年にパナソニックの新型デジタルカメラの広告の仕事をしたことがあるがそれ以前のデジタルカメラと言うのはシステムをスタートアップするのに30秒以上かかっていた。こういう話は言ってもあなたは信じないでしょうでも本当なんです。だからスナップショットには使えなかったのである。
パナソニックのルミックスと言うカメラでそれが7秒8秒でスタートするようになった。これでようやく仕事に使えるようになった。それでもたった20年の話です。
^_^ニューヨークから出された手紙がオーストラリア経由でウィーンに着いたので、2ヶ月もかかったと言うような友人の自慢話だってある。それでwinのワインの話なのであるが、日本航空と全日空が露先を争っていた時に、日本航空の機内食の取材^_^で、ウィーンに来たことがある。
日本航空が自分のディスティネーションでないところで、雑誌の特集を組むのは異例のことであった。それでwinの郊外のワインを飲ませる。有名なところなどを加えた。30ページ位の特集をやったのだが、同行の女性ライターが勉強不足であるから、ヨーロッパワイン発祥の地などとすごいことを書くのでヒヤヒヤさせられた。
オーストリアウィーンのボジョレヌーボーに関しては、マリアテレジアの頃からの伝統があるらしい。普通のワイン酒場では2リッターの大きなワインの瓶で提供される。テーブルの上にあるのは1リッターのであるから、それの2倍の大きさで極めてプロフェッショナルな感じがする。
テーブルの上に見える1リッターの小さいワインの瓶と言うのは、おそらくこの時に国家予算が足りなかったので、2リッターの大きいのが買えなかったのではないかと推測されるのである。
ところで、残念なことに、このプロフェッショナルな2リッターの大きな瓶なのであるが、数年ぶりからスーパーマーケットなどで流通しなくなってしまった。ドップラーと言うのである。ドップラー効果みたいなもので、これでないとワインが楽しめないんだけどね。
このセルフポートレートなんだけど、当時の日本のカメラ雑誌のために撮影した。セルフタイマーをかけてテーブルの上でカメラをこっちに向かせて撮影したのであるが、結局このショットは使わなかった。
それで真似をして20代の写真と70代の写真を並べてみた。と言うよりも、数年前のパリの写真展を開催したときに、どなた参加が左の私の若い頃の写真を当時の写真展のカタログから探し出してきて、このように送って下さったのだ。ありがたい。
ウォーカーエバンスはニューヨークの生まれではないが、若い頃はパリのソルボンヌに留学して文学を志していた。それが20代後半にマンハッタンにやってきて、いきなり写真家としてのキャリアをスタートさせたのであるが、本よりキャリア等は無い。若い頃であるから、ブルックリンブリッジを撮影したりしていた。そしたら^_^キューバを撮影しないかと言う仕事が舞い込んできて、それで彼の偉人伝の重要なキューバの仕事が、そこに登場したわけである。
大写真家になぞらえてみれば、私も3年間の広告の仕事の後に家人に誘われて、オーストリアウィーンで行ったわけで、自分とは何の関係もないwinであったのだが、結果として同じようなことになったのが非常にありがたいことだと思う。
20代の私が使っている東ドイツ製の一眼レフであるが、ジョセフクーデルカが使っていたのと全く同じモデルだ。これがこのカメラを使いだした最初のチャンスなのであるが、なかなかシンプルで良いカメラだと思っている。
1970年代のウィーンの留学生がいつもただのり利用して捕まって、罰金を払うのと、真面目に定期券を買うのとどちらが得なのかを計算したら前者の方であったそうだ。でもこれでは社会秩序と言うものが成り立たないから、私はもちろん定期券を買う方である。それで今改めてその頃の顔写真を見ると、30代初めの私が写っているのは当然の話である。
私の写真集ウィーンとライカの日々は、ドイツの国会図書館にも収蔵されているらしいけど、その作品集の1番最後のところに当時の定期券を掲載したのは、その当時のウィーンをめぐる時の私の非常に重要な道具の1つになっていたからだ。
定期券の表面にはゾーン100と記載されているが、これは私が普通動くウィーンの路面電車とか一般のバス路線の終点までいける。かなり広い範囲なのである。だからこの範囲を移動していて、この定期券で不便に感じる事は1度もなかった。
それでそこら中にあって、目について好みの分かれるのは不動産屋さんなのである。JR板橋駅の踏み切りの脇にある。この店は大昔から非常に気にいっている。このお店の斜め向かいにあった結構本格的な中華料理の気にいっていたのだが、そこは15年位前から開いていない。
この不動産屋さんの魅力は角部屋になっていると言うことだ。その細い路地を入っていくと、飲み屋がたくさんあって、突き当たりにあった。飲み屋を大昔に私が朝日新聞社の連載でたまたま撮影した。そしたらその飲み屋のオーナーが朝日新聞に連絡を下さって、記念にプリントを欲しいというのである。
それで私は自分で撮影した。その写真のプリントを作って自分で持っていって飲み屋さんに届けたら非常に喜ばれた。お店の名前は既に忘れてしまったし、そのお店も今は既に存在しない。何かアザラシとかラッコとかそういう動物の名前であったような気がする。
それでこの不動産屋さんなのであるが、角地にあると言う。その立地条件が1970年代にウィーンでドラマのロケをしたときに、全体のストーリーの中で有名な役割を持つ喫茶店と言うのを探していて、小さな喫茶店と言う名前の喫茶店が、ウィーンの旧市街にあるのだが、そこで撮影をした。その小さな喫茶店と言うのも、これと同じように角地に立っているのである。
その喫茶店を登場させたサスペンスドラマは、ボンバーとパガニーニと言うやつで、これはYouTubeで今でも無料で見ることができる。不動産屋さんとヨーロッパの喫茶店の雰囲気の共通点を認めているのは、おそらく私ぐらいなものだと思う。日本の場合は残念ながらスタバばっかりだから、お店の個性も何もありはしない。
ロバートフランクが英国のテレビ番組に出たとき、彼はニューヨークのアグレッシブな自分で撮影した風景とパリでバラの花を持って歩こうとこの1枚の作品と並べて語っている。つまりニューヨークは醜いけれどもパリは素晴らしいというのである。
これを普通の価値観の通りに理解してしまうと、かなりの方向違いな場所に行ってしまうのであるが、ロバートフランクがパリにお花の写真を撮りに行ったと言う事は、彼の写真家の人生の中での自分の美学を決定するための1種の総決算、一か八かの旅ではあったのだ。
ロバートフランクの非常にクラシックなパリをテーマにした。お花の写真の中で、私が忘れられないのは縦画面で無骨なトランクが半分開いていて、その中にバラの花が無造作に10本近く置かれている写真である。花屋さんとも見えないし、インスタレーションとも思えないし、実にフランクならではの作品なのである。
この作品は、私が1970年代にウィーンの路面電車で1本のバラの花を手にしたおじさんが眠りこけていると言うショットである。電車の中ではっとこのシーンに気がついて、もちろん1枚しか撮影していない。象徴主義的と言うのでもないだ。それでも人類一般と彼らが抱いているお花に対するRE-ILLUSIONとでも言えるものが浮上していると言うふうに考えられるのである。
お花はそれが綺麗だから取るとか言うものではなくて、極めて意味深長に人生を具体化したものであると言うことになるのかな?
滞在中にソーホー地区のロフトに住んでいたので、自分の楽しみといえば、午後遅くなるとFire Escapeにテーブルと椅子を持ち出してそこでいっぱいやることだった。ただし、Fire Escape出祐川祐祐であるから、下の通行人にものを落とさないように最大の注意を払った。
いっぱいやりながら同時に思いついて、その当時はまだ新しいメディアだったビデオカメラを長時間撮影した。つまりマンハッタンの暮れ、なずむ時間の午後5時ごろから6時間ビデオを回し続けると、午後11時の夜になるわけである。
^_^観察していて面白かったのはワールドトレードセンターはマンハッタンで1番最後に暗くなる建物なのである。それが2001年6月11日にあのようなことになってしまった。私はパナソニックの新しいデジタルカメラの広告の撮影でドイツのバイエルンにいたのであるが、大変なショックであった。
私のカタログの撮影予定では、バイエルンの次にはフランクフルトに行く予定であったけれども、ヨーロッパが攻撃されるとすれば、次は間違いなくフランクフルトであろうとスタッフと協議して、急遽撮影の予定を切り替えて、かつての東西ドイツの国旗大当たりの街巡りにしたのであった。
このショットはデアドルフ8 × 10インチカメラ。360ミリ
結構長いインタビューで、私がヨーロッパで取材していると言うような話をいろいろしたのである。狭い写真業界だと田中長徳はこういう風|の人間であるということを知っているわけであるが、狭い世間だとそういう事は全くわからない。それで普通の人がイメージしている国際的に活躍しているカメラマンあるいは写真家と言うのはこういうイメージであるらしい。印刷物が送られてきて大笑いした。
20年以上前正岡子規をテーマにしたドラマというのがあってテレビドラマであるが、私はそういうのは見ないけど正岡子規であると言うのでちょっと見たのである。これがまた正岡子規と全くイメージの外れた。いわゆるイケメンなのでびっくりして途中で見るのをやめたりしたのである。
この逆のイメージもあるわけで、私は堀口大学の愛読者であるが、何かかっこいい男性を予想していたら、老人になってからの堀口大学の写真を見て非常に驚いたのである。どう見てもケチな呉服屋の親父さんである。
このような一般的なイメージが膨らんでくるのと、実物の間に大変なギャップが生じると言うのは、ごく普通の世間の常識と言うことなのであろう。
当時のウィーンの不動産屋さんのシステムと言うのは、社会問題になるほどいい加減なもので、インチキ不動産屋でアドレスをもらってそこに行ってみるとベッドレンタルする部屋はありませんと言うのが普通のやり方で、これは私が外国人であるからそうなったのではなくて、ウィーンに暮らしている友人の写真家に頼んで一緒に回ったのに、このザマなのである。
ドナウ運河沿いのこのアパートメントは知り合いからその存在をきかされてオーナーに電話して交渉したのだが、ここでまたびっくりしたのはそのオーナーは大学でラテン語は修復したけれども、英語はやってないから意思疎通ができないと言っている。向こうで言っているのである。実際に会話に使わないラテン語を教わったというのが、さすがヨーロッパ文化圏だと思う。
それでこのドナウ運河の小鳥の春夏秋冬を暮らしてきたのである。もとよりシンプルライフであるから天井の高さは4メーターあったけど、そこには空気が入っているだけで室内に置いたり展示するものは何もない?の壊れたベッドと数台のカメラがあるのみなのである。古道具屋で買ってきた旧式のブラウン管のテレビはもちろんものくろ使用であった。
その日、空に展示された唯一の私の家の部屋の舞台は、現在日本写真家展示会のポスターとその隣にあるのが私が制作していたドローイングなのである。
もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。
^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。
書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。
中平さんの場合は、東松さんの事務所で会った事はずいぶんあちこちに紹介したけれど、これが1966年の夏の事だった。中平さんはまだ雑誌の編集者であって、そのように紹介されたのである。
吉村君の場合は、1980年の夏の話であって、私がザルツブルグカレッジインターナショナルフォトワークショップで教えていた時に、MITの学生さんのワークショップのグループに入ってきたのだ。他に日大の写真学科の女子が2名いたな。
ところが、私のいい加減な英語はMITの学生さんには通じるけれども、吉村くんたちには通じないということが判明して、急遽英語と日本語の複式学級になったのも懐かしい。
20年位前になるけど、吉村くんが自由が丘にギャラリーで個展を開催しているときに言ったら、吉村くんの話では毎日中平さんが決まった時間にやってくるのです。もうすぐお見えになると思いますよ。
^_^それで中平さんは、吉村君の予言通りにやってきて、写真家の中平琢磨ですと自己紹介をするのである。毎日そのような自己紹介をするのだと吉村君は言っていた。
その時中平さんが持っていたキャノンの一眼レフ200ミリが付いているのを見せてもらって、そのファインダーは6割以上腐食して画像が見えないのである。本物の写真家はこういうカメラを使わなければダメだとその時強く印象付けられたのであった。
しかし、面白いと思ったのは、その漫画の葛飾区あたりの果物屋さんというのが、紙兎ロペの実家なのであるが、その実際のお店と言うのは、豊島区雑司が谷にあって、そのお店のことを私はよく知っているのである。
ドラマの撮影などにも使われている。典型的な八百屋さんの店構えであると言うふうにも聞いた。そして紙兎ロペではそこが果物屋さんになっている。私の友人でも実家が果物屋さんだったところがあって、そのお店の屋号がフルーツパレットなのである。いかにもありそうな名前だね。
それで八百屋さんの現役時代、栃木家さんの時に私は買い物はしたことないけれども、そこがラーメン屋さんになってからは何度か行ったことがある。いわゆる町のラーメン屋さんではなくて、デザイナーズブランドのラーメン屋さんでラーメンはいっぱい1000円位して高い。しかし、昼間からコップ酒がいっぱい飲めるというのが非常に良かった。
20年ぐらいネットオークションを見ていて数多く登場した。出版物ではなかった。出品の中でいまだに忘れられないのはタイムマシンを出品したい人がいたことだ。こういう空想上のネットオークションの冗談と言うものは今では存在できないようになってしまうから、大昔は楽しい時代であった。
だから、タイムマシンが出た時は、入札者のほうも心得たもので、220ボルトにも通用しますかとか、60歳来る地域でもタイムマシンは動きますかなどといろいろ渋い質問があったものである。
それでこれは非常にレアなトップコール。35ミリのファインダーのネットオークションでの紹介である。ご覧になるとお分かりになるようにファインダーの向きが前後逆なのである。しかしこれを叱ることができなくて、ライカのファインダーの90ミリとか135ミリならファインダーの直系の太い方が雪何分になると言うわけだから決して間違いではない。しかしこれは広角レンズ用のファインダーだから、前後が逆になると言うわけだ。
このファインダーで私が感心するのは、レアなファインダーにもかかわらず、非常にちゃんと使い込まれてファインダー本体に磨きがかかっていることだ。これだけ使うと言う事は20年位スナップショットをやった位ではこのようにはなりません。
彼の代表作はいろいろあるけれど初期の作品で1番有名なのは、アメリカ中そこらにある白い木製のフェンスを正面から撮った作品である。
白いフェンスと言うのはアメリカの原風景だね。
白いフェンスと言うのはどうもアメリカに独特なもののようで緑の芝生があって一戸建ての家があって道路と区別しているそのために白いフェンスが作られている。
ヨーロッパではよほどのカントリーに行かない限り集合住宅であるからこのような白いフェンスを見る事は無い。白いフェンスで私が1番思い出すのは古い友人の東京カメラクラブ会長の田村が19歳の時に撮影した横浜の米軍基地の白いフェンスである。
私が非常に記憶している2つの風景としての白いフェンスの作品と言うのはつまりポールストランドと古い友人の田村の2つの作品と言うわけだ。
古い友人田村はニコンS3にニッコール2.8センチをつけてしかも赤外線フィルムでアメリカ軍のフェンスを撮影しているのだ。
その白い柵の永遠性というのが何かすごい感じで好きな作品なのである。
^_^結婚して何十年かだった時に家人から聞いたのであるが、家人の父親は東京帝国大学農学部出身であって、そこのプロフェッサーが忠犬ハチ公の買い越しであったそうだ。こういう歴史的な事実が身近にあったりすると非常にびっくりするのだが、もう一つは私が愛読している。フランス文学者の堀口大学も、家人の親戚にあたるそうである。世の中、油断も隙もないと言うのはこういうことだ。
それで忠犬ハチ公のビザに関してはよく知られているらしいが、ベルギー政府観光局で取材でベルギーに行った時に、編集者から頼まれて、フランダースの犬の舞台になった場所に行ったのであるが、驚いたことに。これは日本だけで夢であって、島のベルギーではほとんど知られていない中堅ハチ公物語なのである。もちろんこういう例は外にあって、2型がどこだか忘れたけども、中けんたま公の銅像と言うのもあったな。わんわん
それでこのショットを見て、私が非常に驚いたのは忠犬。ハチ公が亡くなったときのその時の写真で周りに関係者や学生さんが集まって追悼していると言う写真があったのだ。もちろん当時から有名なワンチャンだからそういう事はあったに違いないが、それが凄いと思うのは、現代のIT技術で着色化されているのである。
^_^最近のブームとしては、IT技術でモノクロから色がついているのを皆さん感激しているようであるが、私は逆の考えである。こういうのは不自然であって、例えばカラー写真でも色を抜いた方が歴史的事実として強烈な印象を与えるというのが私の考え方である。
^_^それで仕事を終えて、チューリヒからプラハ行きの飛行機に搭乗した。プラハの飛行場はプラハ市内の西之保にあるのだが、そこにアプローチするために、飛行機は手前から旋回してプラハの東の端からアプローチしていくのである。そのプラハの東の端というのは、私がいつも移動している。プラハの地下鉄の東の終点にあるのだ。
飛行機が行動を落として、地下鉄の終点にある広場を見ると、ちょうどカーニバルの直前なので、移動の遊園地がメリーゴーラウンドを組み立てているのが飛行機の窓から見えた。
ヨーロッパは巨大な街であっても、そこにディズニーランドみたいなものはないから、祝祭日になると、旧市街の広場などを利用して臨時に遊園地ができて、これが子供も大人も大変なエンターテイメントになるのである。
チューリヒを出てプラハに着陸する。飛行機のファイナルアプローチで遊園地を組み立てていると言う情報を知ったので、空港に着いてプラハのアトリエに戻って荷物をおくとすぐ私はいつものメトロに乗ってメトロの東の終点まで来て撮影した。1連の画像がこれなのである。
^_^ヨーロッパはどこでもそうだが、復活祭の春の到来まで、街の風景はモノクロームで非常に殺風景である。それが復活祭の到来で、花が咲いて、光と色が戻ってくると言う感じだ。
Winに暮らし始めた頃に、基本的な交通機関は今も変わっていないのであるが、ストリートを走る。路面電車があって、赤と白に塗り分けられたバスがある。そして東京の山手線みたいな感じで、街をぐるりと1周するような形の赤いボギー車があった。これが好きだった
直訳すると、街の前者と言う言い方なのだけど、そういう日本語は存在しないから市街電車と言うことにしておく。
この赤い路面電車は、ウィーンの中心部をほぼ三角型に取り囲んでいて、そのしっぽのほうは西に伸びていて、ウィーンの西のカントリーサイドにまで達している。その終点の駅がこのパノラマ写真で撮影したショットである。win人の楽しみと言うのは、そういう町外れのその先の丘というか、ウィーンの森の斜面にあるワイン酒場に行くことなのである。私もずいぶん行きました。
そこら辺の路上の犬がどれだけのんびりしているかというのを私は犬がリラックスできる尺度と言うので世界中観察しているが、犬が1番リラックスできるのはポルトガルである。それから大分クラスは落ちるけれど、50年前のwinも、なかなかワンチャンのリラックス度ではレベルが高かった。
^_^それでこのように市街電車の終点に立ち食いのソーセージ屋さんがあったりするのは別にびっくりしないけれども、右側のエントランスから太ったおじさんの後ろ姿が見えると思うけれども、その先には路面電車の駅の内部の終点なのにガーデンというのがあるのである。
要するに、win人の楽しみとしての強外にワインを飲みに行くと言う。その図式が駅の構内ですすら既に構築つかされていると言うところがすごいと思う。このことは撮影して50年経ってたった今気がついたことなのである。
それでロレックスから始まって、各種高級ブランドに手を出して、バーチャロンコンスタンティンのプレスコンファレンスまで行ったあたりでようやく目が覚めたのである。
ここら辺のウォッチが私の好きなものだが、やはり最高にオシャレなのはタイメックスではないかと思う。30年位前にそのことに気がついて、その当時のタイメックスを手に入れて、その値段の安さにもびっくりしたのであるが、最大の問題点は3年から5年位でバッテリーがアウトになるので、そのたびごとに交換が必要なことだ。
^_^左にある時計とか右にある時計は機械式であるからバッテリーがなくても問題ない。思うに現在の世界と言うのは私がこの文章を吹き込んでいるiPhoneにしてもそうだが、電池がなくなるとこの世界はても足も出なくて動かなくなってしまうのである。
左側にあるのはチェコスロバキアの軍隊が公式に使用していた0マニアなのであるが、東ヨーロッパの時代にはスイスの時計を買う事は非常にお金のかかることであった。さらにチェコ共和国には優秀なプリマと言う名前の時計がある
それでチェコの政府は、自分の国で作った時計を軍用時計に制定したと言うのは、ブランド主義に騙されない真面目な態度であると思う。
その時オーストリアの放送局のインタビューを受けたのである。当時はまだビデオカメラではなくて、フランスの16ミリ撮影機エクレールを回転させて、テープレコーダーで私の声を収録した。
話の内容は、要するにジョナスめかすなんて日本だと雑誌に登場するだけで実際の映画を見ることができないから、この企画が素晴らしいと言うことを英語で話したのである。それにドイツ語の文字の翻訳がついてゴールデンタイムに登場したものだから、私はいちどに有名人になってしまった。
それからちょうど重言年後にニューヨークに暮らしていて、明日は東京に帰ると言う。11月の週末に私はキャナルストリートで本物のめかすに偶然あったのである。
これには感動しましたね。月が変わって12月になって原美術館でジョナスめかすの大きな映画界が開催されたときに、数百人の人々が集まっていた中で、会場に入場したジョナスめかすは、まっすぐ私のほうに歩いてきて、私と握手をしたのだから、主催者としては面白くないよな。
でも、映画監督としては、先月マンハッタンの自分の家の近くで、偶然話しかけてきた日本人だからよく記憶していたと言うのがその理由であろう。
そのオープニングレセプションの時に、私はジョナスめかすの口から数年前に母はなくなりましたと言う言葉を聞いたのである。これは重い言葉だったな。
リトアニアのカントリーサイドにまだ社会主義国のソ連の時代にめかすは28年ぶりに里帰りをしているのである。その時の撮影した画像がこれお母さんである。東ヨーロッパの夫人はある。一定の年代より下上になるとみんな頬被りをすると言うのが愛らしい。
カチューシャ人形みたいなものだ。ウィーンのお知り合いの老婦人もそうであって、まさに、こういうカチューシャ、人形的な風貌なのである。
ジョナスめかすが昇天してから直後のこと。私の古い友人の野々宮がめかすが出身の場所リトアニアのカントリーサイドを実際に取材に行ったのはなかなか見上げた精神だったと思う。
そして、その10年後に、マンハッタンの路上で、尊敬する映画館時に、偶然会うことができたのも、不思議な縁と言うべきであった。
それで自分も自分の映画を取ろうと言うことに思いついて、ロシアから亡命してきた大学教授と偶然蚤の市で出会って、彼から2台のソ連製の16ミリ映画撮影機を手に入れたのである。
ジョナスめかすが彼の映画制作活動ですごく苦労したことが彼の映画日記に書かれている。会心の撮影をしたのだが、現像代がないので、撮影済のフィルムは全部部屋に積み上げてあるというのが気にいった。
私の場合はプラハに行った時に、安い東ドイツ製のフィルムを買ってきて、現像するのは当時の東ベルリンの友人に送って光で現像してもらってそれを送り返してもらったのである。
当時の鉄の壁の東ヨーロッパとしては誠に不思議なことであって、彼らは印刷物に対してのアレルギーはあるが、それ以外のメディアに対してのアレルギーはほとんどなかったと言うことなのである。
ソ連製の16ミリ撮影機はコストパフォーマンスに優れたミラーシャッター式のなかなか優れたカメラであった。後に西側世界で結構売れたのだが、その時はカメラの特集マウントをペンタックスマウントに変えて販売している。スーパー16に改造したものもあった。
それでギターも少しやっていたのであるが、これは行動を抑えるのがめんどくさいのですぐにやめてしまって。そのかわりカメラでノーファインダーで東京を撮影するような方向に行ってしまった。
中学生の頃は、私が入学したときにブラスバンドの楽器が全部入ったので、それでクラスメイトが全員ブラバンの退院になったのである。といっても、中学生のブラスバンドでその当時でたかが知れたものであるから、怒りを上げてとか文京第7中学校の校歌を演奏すると言う位が関の山であった。
それでも3年間練習をすると、卒業式のときには我々同級生の卒業式を送り出す位のレベルまでテクニックが発展したのは何でも練習すればそれなりの結果が出ると言うことなのだ。
それで高校生活も中学生活の名残でブラスバンド部に入ってトランペットを吹いていた。トランペットよりもコルネットの方が楽器としてはちょっと面白いと言うことに気がついたのもこの頃である。
1964年と言う年は東京オリンピックの年であって、その時のファンファーレというのが人気だったが、見よう見まねで似たような演奏をトランペットでやったので、クラスメイトの女子になかなかモテたのだ。ライカでスナップするのは全然モテないけど、楽器と言うのはそういうエンターテイメント性があると言うことに気がついた。
それでも面白いもので、中学と高校の時にちょっと触っただけのトランペットのバルブの押し方と言うのは体が覚えていて、今でも曲を聞いたりすると無意識に右手の3本指が動いた。と言うのは、これはそれなりの効果があったというべきであろう。
ソ連製のカメラで人気が高いのはスプリングモーターを内蔵した。35ミリレンジファインダーモデルで1957年のブリュッセルのエキスポでグランプリを取ったカメラである。ここら辺が実はよくわからないことであって、ブリスベンのグランプリで、どのような背景でグランプリが取れたのかということは未だに明らかになっていない。
さらにその数年前だと思うけど、スプリングモータードライブのカメラ以前にそれよりもさらに作りのよろしいレニングラードと言うカメラのアウトフィットが発表されていた。私などはその当時カメラ雑誌のニュースで見ただけである。
実際にそのカメラを見たのは、発表の時から何十年も経過した後で、フォトキナの会場でソ連カメラの好きな人がいて、その人が持っているのを見せてもらったのが唯一の機械であった。とにかく珍しいカメラなので、こちらも興奮していたが、後で冷静に考えてみると、私が使っていたスプリングモータードライブ付きのレニングラードと、そのオリジナルになるはずの最初のレニングラードカメラの巻き上げがどのようになっていたのかということを全くチェックし忘れていたのである。これは残念なことだ。
それでこのオリジナルのレニングラードカメラは時々世界的なレベルのオークションに登場するのであるが、肝心の巻き上げのシステムの写真がなかったりするので、いまだにこのユニークなカメラはどのようにフィルムを巻き上げるのかわからないでいる。まぁカメラと言うのはそのように謎めいている。ところがそれなりの魅力でもあるのだが。
寺岡と言うのはハカリで有名だが1950年代終わりにその技術を利用してモータードライブスプリングカメラを制作していた。
日本カメラから出した私のカメラ本3冊の1番最初のセクションでこのカメラ大戸寺スーパーのことを紹介している。これにはコレクターの好む頭脳レンズブランドがついている。
しかしこのスプリングカメラはあまり成功しなくてトータルで製造開始から終わりまで4000台弱が作られただけであった。それならばコレクターの間で高い値段がつくかと思うとほとんど相手にされていないから私の周囲にこのカメラが集結すると言うことになる。
レンズ固定式カメラだからレンズの製造番号で台数が特定できる。このブラック仕上げのボディーは警察用に作られたもので製造番号からすると617001でスタートして最後の番号が617033である。つまり30ちょっと作られただけ。
だから値段が高いと言うことではない。これだけ数が少ないとその存在を知っている人もいないのだ。カメラの値段のことを言うわけではないが1番滑稽なのは例えば私が最初に手に入れたライカM2のブラックペイントは当時110,000円で中古を買った。
それから40年後に2500ドルでアメリカから買って安いと思っていたが今では末端価格が10,000,000円位するらしい。ライカM2のブラックペイントは3000台弱の製造台数である。
その100分の1の製造台数のこのカメラが大変なプライスになるかというとそうではないと言うところがクラシックカメラコレクションの面白さだ。
私が見ている慣れ親しんだオペラハウスと言うのはパリであれ、ミラノであれウィーンであれ、普通のクラシックな建築物のファサードであるから、こういうような派手派手なイラストレーションがモザイクになっていると言うのはちょっと想定外なのである。
それでこういうファサードの建物がモダンであるのかと自分に質問してみれば、実はそうではなくて、ギリシャローマ時代の遺跡として残されている床にちりばめられたモザイクがそのままモダンナ劇場のファサードになったと言う感じなのである。
クラシックモダンの典型的な劇場のファサードと言うべきであろう。そしてこのモザイクで描かれたワクワクするようなレビューの感じと言うのは、実際の劇場では起こり得ない夢の世界をここに象徴化していると言うところがむなしいのであるが、それが理想と現実のギャップを、最初から劇場がファサードに合意的に示していると言うことを考えれば、責任感のある劇場のファサードのエントランスと言うこともできる。
この私が好きだった劇場もとっくの昔に取り壊されて今では普通の住居ビルになってしまった。
それでこのイラストは、黒澤タイプライターのエントランスにかかっていたと記憶する。あるいはヨーロッパでこういう場所があったのかとも思うが、どうも銀座の黒沢で確かなような気がするのである。
最近はセクハラということで、女性のタイピストそのものをこのようなセクシャルなシンボルとして掲載する事は無いと思う。でも戦前の映画など見ているとタイピストと言うのは、みんなセクシーな存在でセクシー田中さんみたいなものだな。
実際問題として私が暮らしていた1970年代でも会社の偉い人が口述筆記するのをタイピストさんがタイプに打つと言うのが普通で、それが仕事のやり方だった。
このやり方が劇的に変わったのは、1984年のMacintoshの登場まで待たなければならなかった。
それでも私も昔の人間だから、こういうタイピストのセクシャルなシンボルを見ると、ノスタルジーを感じる1人である。それっていけない反社会的行為なんだよね。
戦前の林文子の文章など読んでいると当時のタイピストのお給料は40円だったそうである。ライカの値段が600円であるから、タイピストのお給料の1年分がライカの値段であったわけだ。
津田さんはその意味でヨーロッパあるいはアメリカ的なジェントルマンであるから、世界的な写真家と親しいと言うことをパブリックな場所で発言した事は1度もなかったと思う。しかしロバートフランクが昇天した後に追悼の意味もあっdたと思うけれど、ちゃんとフランクと自分の関係について、彼のブログ等でオフィシャルにしたのである。
ロバートフランクのオフィシャルな写真と言うのはちゃんとした世界的写真家であり、イギリスで作られたロバートフランクのフィルムにしても、それはちゃんとした世界的写真家の存在感というところから逸脱していないのである。
その一方で津田さんが撮影したこの写真の凄いところは、列車のコンパートメントで靴を脱いでリラックスしているロバートフランクの姿である。これはヨーロッパでもそうなのだけど、こういうリラックスの仕方と言うのは、ジェントルマンのやることではないと言うふうに通常は思われているので、このようにリラックスしたロバートフランクの姿を見ることが私には嬉しいのだ。
写真家の繰上さんがロバートフランクが来日したときに彼をずっと記録したらしいのだが、北海道に一緒に旅行に行った時、彼は旅館で自分の靴を見失ってしまって、裸足で雪の中を歩いたと言うのは、これは現代のイエス・キリストだと思う。そういえばビートルズのレコードのジャケットでもあったよね。
裸足の男性が歩いていると言う話は、このロバートフランクの件だが、私は実際に真冬のプラハの路面電車で裸足でいる青年を見たことがある。この人も私の目から見ると、イエス・キリストスーパースターのように見えた。
5年ほど前に清里の写真ミュージアムでロバートフランクを見た。またロバートフランクの写真展をやっているそうなのでこれは見てみたいと思う。
この風景にしてもそうだし、世界中のホテルを旅した時は年間230日ぐらい旅行をしていたので、それぞれのホテルの部屋から見るそれぞれの風景と言うのは、冷静に考えてみると、美術館で眺める風景よりもはるかに面白いものであった。しかも1つのホテルに2週間いたりすると、その間の天候の変化というものが非常に面白い変化を私に見せるのである。
窓と言うのは、その意味で不思議な存在だな。ただ私が言いたいのはまずから見た風景が、お風呂屋さんの絵のように海岸があって、三保の松原があって、遠くが富士山で綺麗で、絶景絶景と言うような意味ではない。
バルセロナの安宿に泊まった時、道の幅があまりになくて、手を伸ばせば反対側の建物の壁に手が届くのではないかと言う。狭い路地のこちら側にあるホテルの窓から見ると、反対側の建物の住民の生活が丸見えになるのである。しかし、ヨーロッパと言うのは礼儀のわきまえているところだから、目があったりするとお互いに挨拶をしたりすると言うのは痛快である。
パリジャンの暮らしにしてもそうであって、世界的な有名な写真家を取材に行った時、彼は大金持ちであると聞いていたが、パリで暮らしている部屋というのは、まさに6畳と4畳半の長屋という感じであった。
ただ、ただこの写真のように人混みばっかりだったと言うのは、記憶にかすかに残っている。それともう一つは何時間待ちというのが自慢話になったことだ。日本に有名な世界的美術館クラスの名画が来たりすると、やはり同じことが起こって、そこに到着するまでに何時間待ちというのがステータスになる。主催者側のコンセプトに完全に騙されているのは言うまでもないが、54年前に大阪で開催されたエキスポで、果たして半世紀後に確実に我々の生活に生きていると言うものは、一体何が残っているのであろう。彼らの未来予測と言うのは、ことごとく外れてしまった。
1つ確実なのは1984に代表されるような政府が人間を管理するその方法は50年前の仕掛けがそのままうまく機能していると言う位のものであろう。
1984が私にとって重要なのはMacintoshがスタートした時と言う意味でもある。
このショットは某写真コレクションに入っている1枚であるが気にいっている。何かの弾みで1960年代の京王線のどこかの駅で偶然撮影したショットである。この写真がかなり古いのは、今はこんな床の材料を電車のプラットホームに使っているとこがないからだ。
女の子2人がそれを石けりの感覚で遊んでいるというのが実に不思議であって、しかも2人が後ろ姿であると言うところになんとなくかっこいいなと思っておそらく1枚ぐらいしかシャッターを押していないと思う。
これを今の時代に発表すると、正面から女の子の顔がわかるというのが、特定の人間がわかってしまうと言うことで、世の中が騒ぎになると言うことなのであろう。私の感覚は全くその反対側であって、後ろ姿と言うものは、女の子の存在感が普遍的に強調されるものなのである。私が撮っている写真はいずれもそうだけれど、人間の存在感を強力に浮上させるためには、後ろ姿に限るというのが私のセオリーなのである。
そういう自分の作品以外の記念写真と言うのを家人が丁寧に保管していて、1996年に日本カメラから出した私のウィーンとライカの日々の本編とは関係ない。読み物のところで使う写真を探していた時に、これらの写真を提供してくれたのである。
よく写真集とか何かで作者本人の写真が登場していると言うのは何か意味ありげというか全体の時間的な構造が分厚くなるという意味で効果的だと思う。例えば皮肉なのはアルチュールランボーは武器商人としてアフリカに滞在しているときに、写真の技術に興味を持って、当時のお金で4000フラン位をパリに送金して写真機を手に入れているのだ。
ところがアルチュールランボーが撮影した写真は全部で8枚しかなくて、そのうちの6枚は自分を撮影したセルフポートレートなのである。その意味でアルチュールランボーは写真が持っている良い意味と言うものをいち早く認識して、そしてあっという間に写真の興味から遠ざかっていったと言う意味では天才なのだ。
このショットは家人を椅子に座らせて、そのすぐ上に私が立って撮影したありきたりのポーズではあるが、その時のセルフタイマーのなる音とか、撮影の瞬間のライカのシャッターの音などを未だによく覚えているのは、このようなセルフポートレート私がめったに撮影しないと言う理由によるのであろう。
それで左のほうにある文字列に何が書いてあるのかつまんで読んでみたら、なんと70年代全般にライツオーストリアに行ったら、レアなライカエムピーが50,000円位でウインドウに出ていて、それを買おうと思ったら、お店の人がレアなライカであることに、気がついて、うってくれなかったと言うくどくどしい文章が書いてあった。
当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。
同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。
昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。
同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。
もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。
それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。
それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。
この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。
ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。
言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。
ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。
1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。
ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。
もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。
要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。
それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。
右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。
日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。
中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。
梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。
それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。
あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。
時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。
写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。
20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。
なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。
ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。
ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。
業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。
一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。
大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。
2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。
3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。
このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。
ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。
それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。
その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。
ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。
このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。
その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。
映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。
その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。
それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。
写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。
これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。
1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。
だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。
パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。
カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。
このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。
そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。
文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。
プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。
そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。
^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。
チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。
お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。
例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。
ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。
チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。
まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。
そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。
あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。
実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?
カメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。
かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。
すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。
ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。
ウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。
そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。
^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。
ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。
ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。
私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。
このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。
これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。
ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。
一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。
それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。
^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。
ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。
要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。
まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。
ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。
それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。
今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。
そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。
そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。
それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。
プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。
ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。
Cameflexである。
ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。
カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。
もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。
それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。
天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。
まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。
8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。
新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。
普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。
東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。
右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。
それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。
^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。
もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。
このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。