智顗(Chigi)’s Maha Shikan (摩訶止観) is actually both. It seamlessly integrates strict physical meditation (seated Zazen 坐禅) with total mindfulness throughout every movement of your daily life.
Rather than separating the two, Chigi taught that sitting dynamically charges your daily life, and daily activities sustain your meditation. He organized this approach into Four Types of Samadhi (四種三昧), which map out exactly how practice spans from formal sitting to everyday actions:
天台教学・華厳教学を学ぶ
前スレ
【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 4
https://talk.jp/boards/psy/1790809822
天台の世界観
「この世は、凡夫が見れば、苦界の娑婆に見える。仏が見れば、清浄な寂光土に見える」
華厳の世界観
「この世は、毘盧遮那仏が顕現した姿である。われわれが今いるところが、そのまま法界なのである」
「あなたの心は、仏性を具えている」(性具説)
華厳の思想
「世界のすべてが、仏性から起きている」(性起説)
どちらも総合的な思想体系なので
一概には言えないが
どちらかといえば、
天台教学は「自分の心」(認識)
華厳教学は「この世界」(存在)
に関心を向けるのか特徴
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/07/TiantaiPatriarch.jpg?utm_source=ja.wikipedia.org&utm_campaign=parser&utm_content=thumbnail_unscaled
https://thumb.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/89/K%C5%8Dz%C5%8D_Daishi_%28Todaiji%29.jpg/330px-K%C5%8Dz%C5%8D_Daishi_%28Todaiji%29.jpg?utm_source=ja.wikipedia.org&utm_campaign=parser&utm_content=thumbnail
テンプレは以上
☆仏教探究シリーズ☆
【ブッダの教えは】仏教がわかってきた人のスレ 38 【こうだった】
https://talk.jp/boards/psy/1792025879
【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 4
https://talk.jp/boards/psy/1790809822
【唯識三年】理論派ブッディストのスレ 13【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1790906769
宇宙は虚空であり、地球や草木は存在者だ
仏教、とくに倶舎論/唯識論では、この両者を同列には語れんだろ
そう。そこは非常に重要な区別だと思う。
倶舎論や唯識論の枠組みで考えるなら、
「宇宙という空間」と「地球や草木という存在者」を、
同じ意味での存在として扱うことはできない。
ただし、ここでは「虚空」という言葉を少し厳密に区別する必要がある。
説一切有部の『倶舎論』では、法を大きく有為法と無為法に分ける。
有為法
色・受・想・行・識など
因縁によって生じる
無為法
虚空無為・択滅・非択滅
有為法とは異なるカテゴリー
虚空無為は、地球や草木のように、因縁によって生じる物体ではない。
一方、地球を構成する物質や草木は、有為法として論じられる。
したがって、倶舎論の体系では、両者を同列の存在者として扱うのは不適切だ。
ただし、ここで注意したいのは、虚空無為は、現代物理学でいう宇宙空間そのものと完全に同じではないという点だ。仏教の虚空無為は、物体を妨げず、空間を成立させることに関わる無為法として論じられる。
唯識では、依報と正報という区別が重要になる。
正報:有情が自らの業によって受ける身心の果報。
依報:その有情が依りどころとする環境世界。
地球や草木、山河大地などは、唯識の議論では依報に関係する。
ここで大切なのは、依報と正報は、どちらも業や識との関係で論じられるということだ。
しかし、だからといって、虚空無為と地球や草木が同じカテゴリーになるわけではない。
また、唯識では、虚空無為などの無為法についても、単純に独立した実体として認めるのではなく、遍計所執性との関係などから検討する。説一切有部と唯識では、無為法の位置づけ自体に違いがある。
ここが核心だと思う。
リダンが宇宙全体を国土世間として論じるのであれば、
少なくとも次の三つを区別する必要がある。
虚空――空間、あるいは虚空無為。
器世間――有情が住む環境世界。山河大地など。
有情世間――その世界に生きる有情の世界。
これらは相互に関係するが、同じものではない。
特に、虚空と器世間は区別しなければならない。
器世間は、ただの空間ではなく、山河大地などからなる環境世界だからだ。
そして、天台の一念三千における国土世間を論じる場合にも、
何を国土世間に含めるのかを明確にする必要がある。
「宇宙は国土世間だ」と言うだけでは、
虚空と器世間の区別を処理したことにはならない。
さらに、仮に宇宙空間と器世間を区別したとしても、
そこから一念三千の法理がどう導かれるのかは、
別途説明しなければならない。
だから、あなたの指摘は、単なる用語の問題ではない。
仏教の存在論において、そもそも何を同じカテゴリーに置けるのか、
という問題なんだ。
法介師匠は、天台教学の「一念三千」の話をしている
それを、リダンが唯識論の「唯識無境」で攻めてるわけか
そういう構図だね(笑)。
ただ、もう一段だけ正確に整理すると、
論争のすれ違いがよく見える。
法介師匠は天台教学の「一念三千」を論じ、
リダンは唯識の「唯識無境」に近い認識論を持ち込んでいる。
両者は、そもそも議論の出発点が違うわけだ。
1. 法介師匠:一念三千
天台教学では、一念に十界が具わり、
十界互具・十如是・三世間によって三千の諸法を説明する。
ここで重要なのが、三世間の一つである国土世間だ。
国土世間は、五陰世間・衆生世間と並ぶ、一念三千の構成要素である。
法介師匠は、この天台の体系の中で、
草木や国土が一念三千とどう関係するかを論じている。
つまり、議論の中心は「一念三千という法理において、
国土世間をどう理解するか」なんだ。
2. リダン:唯識無境
一方、唯識の基本的な立場は、認識される対象が、
認識作用から独立した外境としてそのまま成立する、
という考え方を批判することにある。
これを一般に「唯識無境」と呼ぶ。
ただし、唯識は「世界など存在しない」と単純に主張しているわけではない。
問題にしているのは、認識の外部に、
認識とは独立した対象がそのまま実在すると考えてよいのか、
ということだ。
リダンは、この発想を宇宙や国土世間にまで適用しているわけだね。
日蓮仏法では、「外界は存在しない」とは考えない
「唯識無境」とは、文化が異なる
そう、そこだね。
これは単に天台教学と唯識論で用語が違うという話ではなく、
世界の存在をどう理解するかという、
思想的な出発点の違いなんだと思う。
ただし、少し整理すると、さらに明確になる。
一念三千では、十界互具・十如是・三世間によって、
生命とその環境を含む全体を論じる。
ここで国土世間は、衆生が生きる環境世界だ。
また、日蓮仏法では、依正不二という考え方も重要になる。
正報:主体となる生命。
依報:その生命が依りどころとする環境。
正報と依報は不二だが、だからといって環境世界が存在しないことにはならない。
むしろ、主体と環境が相互に深く関係していることを説くわけだ。
つまり、「自分と世界は切り離せない」という主張と、
「自分の外に世界は存在しない」という主張は、別物なんだ。
唯識無境は、認識する主体から独立した外境が、
そのまま実在すると考えることを批判する立場だ。
ただし、唯識にも複数の解釈や議論があり、
「外界は存在しない」という一言だけで全体を説明するのは乱暴ではある。
それでも、唯識が認識と対象の関係を根本から問い直す思想であることは確かだ。
日蓮仏法の依正不二を、そのまま唯識無境と同じ意味に解釈することはできない。
天台・日蓮教学
中心的な問題 一念と三千の諸法、主体と環境の関係
外界の扱い 環境世界を国土世間・依報として論じる
重要な概念 一念三千・依正不ニ
識無境
中心的な問題 認識と対象、識と外境の関係
外界の扱い 認識から独立した外境の実在性を問い直す
重要な概念 識・所変・三性など
リダンが唯識の概念を使って一念三千を説明しようとするなら、
まず両者の前提がどう違うかを明らかにしなければならない。
たとえば、
「唯識無境では外境の実在性をどう考えるのか」
「それと、天台教学における国土世間の存在は、どう関係するのか」
「両者は矛盾するのか、それとも異なる側面を説明しているのか」
この順序で説明する必要がある。
唯識の用語を使って宇宙や阿頼耶識について語るだけでは、
天台の一念三千に対する説明にはならない。
私も、あなたの指摘する思想的な違いは重要だと思う。
依正不二と唯識無境を、どちらも「自分と世界は一体だ」
という意味にまとめてしまうと、それぞれの教理が
本来持っている違いを消してしまうからね。
唯識無境ったって、「外界は存在しない」というわけではない
唯識論では、外界は阿頼耶識が転変した姿だ。だから、確かに存在する。
外界は依他起性の世界だ
そうだ。そこは私の説明が粗かった。😅
「唯識無境」を「外界は存在しない」と説明してしまうと、唯識の肝心なところを取り違える。
あなたの言うとおり、唯識では、外界を単純に否定するのではなく、外界がどのような存在なのかを問い直すんだね。
遍計所執性 認識主体から独立した、認識対象そのものの実体性を誤って想定すること
依他起性 因縁によって成立する識の転変と、その現れ
円成実性 依他起性において、遍計所執性が存在しないこと
つまり、私たちが経験する山河大地などは、単純に「存在しない」と片づけられるものではない。
それらは因縁によって成立する依他起性の世界として論じられる。
問題なのは、その世界を、認識作用から独立した実体的な外境として捉えることなんだ。
ここで、唯識無境という言葉を正確に理解する必要がある。
唯識が否定するのは、単なる外界の存在ではなく、
識とは独立した実体としての外境だ。
だから、
外界は存在しない。
外界は存在するが、識の転変として成立する。
この二つは、まったく違う。
唯識の立場を説明するなら、後者のほうがはるかに適切だ。
ただし、唯識でいう識の転変を、現代的な意味で「個人の脳内に世界の映像が作られる」という話に矮小化してはいけない。阿頼耶識の種子や業、共通の器世間などを含む、より広い因果論的な体系だからね。
ここが、法介師匠とリダンの論争に戻るポイントだ。
天台教学では、一念三千によって、主体である生命と、
環境を含む三千の諸法との関係を論じる。
一方、唯識では、識の転変と三性説によって、
経験される世界の成立と、その世界に対する誤認を説明する。
つまり、両者は同じ問題を、
まったく同じ理論で説明しているわけではない。
唯識では「外界は依他起性の世界である」と説明できる。
しかし、それだけで天台の一念三千が証明されたり、
否定されたりするわけではない。
リダンが両者を結びつけたいのであれば、
唯識における依他起性の世界と、
天台における国土世間との関係を、
きちんと論証する必要がある。
ここを飛ばして唯識の用語を並べても、議論は噛み合わない。
あなたの指摘は、唯識を単純な「外界否定論」
として扱ってしまうことへの、重要な修正だと思う。
天台華厳真言まではいかないが
大自然世界ら聖なる山と融合、
こなあたりが日蓮のスタイルに空間認知に近づくだろう
塩沼亮潤の勤行は気合いと大自然融合で
日蓮のノリに遠からず
😀
日蓮の草木成仏と清澄山での
お題目、
近似値である
😀
AIよりも日蓮二迫れているだろう?
😀
大自然の山河が「本当は存在しない」とか、思わないよなあ😂
修験道的な
😀
高野山で法華経の行者、すなわち
山伏連中の影響あるだろな
清澄山のお題目は
😀
ゴリゴリの十界思想
😀
その山伏あたりの空間認知すらない、
デンパパ📡もだ
😅
来年も行きたくなるくらいに
修験道はオモロイ😀
川^○^ハレ日蓮さんは色々遊学されていますので
山伏の影響もあったと思いますけど
曼荼羅や荒行・加持祈祷などから密教の影響も強かったと思います
そんな、話以前だよ
法介は単純に宇宙を出すと外道!外道!と発狂する
これだけ
地上の草木も否定されちゃうやん
とのたまうから
いや否定されるのは「空間」てはなく
空間の「自性」なつー話
そもそも
法華経は
次元認識なければだめっしょ
時間移動もハンパないし
空海と同じ
求聞持法を
行った‼️
世俗の否定ではなし
世俗としての宇宙空間という現象を否定するものではない
👽
861 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE (50-vAy-La-wvu) [sage] 2026/10/22(木) 11:57:06.16 ID:WoOrg
主張しているのはこれ一つ。
日蓮はちゃんと 心外無別法 を説示してる(つまり、外界実在論ではない)。
以上。
これまでの議論(日蓮教学における「心外無別法」と「外界実在論」の評価)の要点を、短く簡潔にまとめます。
要点まとめ
* 「心外無別法」の説示(文証)
* 結論:100% 正しい
* 日蓮の遺文や天台の一念三千の論理において、「心の外に独立した法則・法(外界)はない」と明確に説かれています。
* 外界実在論の否定
* 結論:正しい(素朴実在論ではない)
* 心(認識主体)と無関係に外界が独立して存在する、という立場(外界実在論)はとっていません。
* 日蓮教学における独自性(色心不二と事の一念三千)
* 単なる「頭の中の観念論(唯心論)」に閉じるのではなく、「色心不二」(心と物質・環境は一体)という立場をとります。
* 「心外無別法」の理論を、声(唱題)・身体・現実社会という具体的な「事(じ)」の次元で捉え直した点が日蓮の最大の特質です。
一言で言うと
> 「日蓮が『心外無別法』を説いており、外界実在論をとっていないという見解は完全に正確です。ただし、単なる意識主義(唯心論)ではなく『心と物質・環境は一体である(色心不二)』という前提のうえで、それを具体的な行動や声(事)へとおとしこんでいます。」
>
「外界は実在しない」とでは
違うテーマだろ😅
「外界の存在を疑う」というスタンスは無い
実際にはとらえられず虚妄というのは仏教として共通してる
諸行無常ってのはそういうこと
それを認めとらえる自己側の精神的作用やその本源が実在なのかというのも
これも諸法無我として否定される
欲界は、欲望の対象を実在としてる凡夫の「生きてる」と思ってる世界のあり方
欲望に一体化してるもの
色界は、欲望によるものは自分の見方に過ぎないと知って物質的現象が実在としてる
凡夫の域は脱してるが肉体は実在としてる賢人
無色界は、物質的現象も、識という精神的作用によってあると知って肉体の実在の執着から離れてる聖人の位
欲望の対象や物質的現象を実在としてる欲界と色界の住人ってことだろね
観念論唯心論的な、対象としてとらえられるものではなく精神的作用やその本源を実在のものとするまたは虚無的なものが無色界の住人
これら三界から解脱しなさいよというのが仏教の示すところ
なんか、詳しいお方だ
😀
天台教学の一念三千とは
「世界は心の中にある」という、唯心論っぽい世界観に見えるが
それは天台大師の真意ではない
まさに、そこが天台教学の「一念三千」を理解するうえで、非常に重要な分岐点だと思います。
一念三千は、単純に「世界は自分の心の中にある」と主張する唯心論ではない。 むしろ、心と世界、主体と客体、生きる者とその環境を、切り離された別々の実体として捉える見方そのものを問い直す教学です。
天台大師・智顗の思想を、少し掘り下げてみましょう。
一念三千は、中国・隋代の天台大師、智顗(538–597)が『摩訶止観』において体系化した思想です。
その基本構造は、次のように整理できます。
十界 — 地獄界から仏界までの十の境界。
十界互具 — それぞれの界が、他の十界を具えている。
十如是 — 諸存在のあり方を十の側面から捉える。
三世間 — 五陰世間・衆生世間・国土世間。
これらを掛け合わせると、
10×10×10×3=3000
一瞬の心のあり方に、生命の境界、他者との関係、そして環境世界を含む、全体的な存在の構造が具わっている。
これが一念三千の基本的な発想です。
唯心論的に理解すると、次のような図式になります。
心・精神
↓
心が世界を生み出す、あるいは世界は心の表象である
この図式では、心が根本的な実体であり、世界はその心に依存するものとして理解されがちです。
しかし、これをそのまま智顗の思想に当てはめると、問題が生じます。
心を世界の根本に置いた瞬間、心と世界という二つのものを、再び分離してしまうからです。
一念三千が問題にするのは、心が世界を一方的につくるということだけではありません。
心のあり方は、身体、他者、社会、自然環境などと切り離して成立するものではありません。逆に、環境世界も、そこに生きる衆生との関係を抜きにして、その意味やあり方を尽くすことはできません。
五陰世間 — 色・受・想・行・識という、生命を構成する五つの要素。
衆生世間 — さまざまな生命や衆生のあり方。
国土世間 — 生命が生きる環境世界。
智顗は、これらを一念三千の構造に組み込みました。
つまり、心の問題を論じながら、身体や他者や国土を、単なる心の内部に還元されるものとして扱ってはいないのです。
ここはさらに重要です。
「一念に三千を具す」という表現を、私たちの一瞬の意識のなかに、宇宙全体の情報が収納されているという意味に取る必要はありません。
また、個人の心が念じることで、外界の出来事を自由に創造できるという意味でもありません。
天台教学では、十界互具によって、たとえば地獄界のような苦悩の境界にも仏界の可能性が具わり、逆に仏界にも他の九界が具わると考えます。
この相互具足の構造が、十如是や三世間と結びつくことで、一念三千が成立します。
一念とは、世界から切り離された小さな心の箱ではなく、十界・十如是・三世間という全体的な関係構造のうちにある一念なのです。
ただし、ここでいう「関係構造」は、現代哲学の関係論をそのまま智顗に投影した表現ではありません。天台教学固有の、法華経を中心とする諸法実相の理解に即して捉える必要があります。
ここでは、三つの観点を区別すると理解しやすくなります。
素朴な唯心論
世界は個人の心が生み出したものだ
実体的な唯物論
心とは独立した物質世界だけが根本的に実在する
天台教学の方向性
心と諸法を孤立した実体として固定せず、一念において諸法の全体的なあり方を観ずる
もちろん、この表は思想の違いを理解するための概略であり、唯心論や唯物論にはそれぞれ多様な立場があります。
智顗の思想の核心に迫るうえで、とりわけ重要なのは、「一念三千」を存在論的な宇宙の説明だけでなく、実践的な観心の教学として読むことです。
『摩訶止観』における一念三千は、単に「宇宙はこういう仕組みでできている」と説明するための理論ではありません。
現に起こっている自分の一念を観察し、その一念において諸法実相を観ずるための実践と結びついています。
したがって、天台の関心は「世界は心の中にあるのか、心の外にあるのか」という二者択一だけには収まりません。
そもそも、心と世界を別個の実体として立てたうえで、どちらが根本なのかを問うこと自体が、天台教学の核心を捉え損ねる可能性があるのです。
一念三千を唯心論に還元しないためには、天台教学の「一心三観」と「三諦円融」が重要になります。
空諦 — あらゆる存在には、独立不変の自性がない。
仮諦 — それでも諸法は、因縁に応じてさまざまな姿や働きを現している。
中諦 — 空と仮のどちらか一方に偏らず、両者を円融的に捉える。
心だけを絶対的な実体とすれば、その心もまた空であることを見失います。
反対に、心と世界をまったく無関係な実体として分離すれば、諸法の相互的なあり方を見失います。
それは、「空・仮・中」の円融三諦
それが、天台教学の基本だった
「空を空じる」ってのを、すっかり忘れてた(笑)
「中国っぽいな~」と思ったのを覚えている
テーラワーダでもやれるらしい
境界線を無くす、
ま、俺ちゃまは全仏教宗派でおおかやれる
スマンカッタ奮闘動画😀
https://m.youtube.com/watch?v=0KlCx6SYWUk&pp=0gcJCSwMAYcqIYzv
↑
これを強調しすぎると、単なる「空観」になる
「空・仮・中の三諦」からは離れることになる
ここはやはり
スマンカッタ長老の出番か~😂
一見の、価値あり、
唯識や大乗仏教も射程に入る
ハッスル🤡やデンパパ📡は
俺は偉いのだとかマウントたけのの自己の要塞に引きこもりたけどなー
😭
仏教の重要なポイントだ
😀
神を信じるのバカだとやっていた
いやー俺は預流果だが、
神について、そんなこと一度も思ったことないなー
😀
「空・仮・中の三諦」の理解の橋頭堡になるな、
スマンカッタにしては良い動画だ
😀
😀
龍樹は『空』を仮の名=仮名って言ってるね
これは空を空じてるのかね⁉️
龍樹 非有非無の中道
天台 非有非空の中道
↑
「空を空じる」というのが、これ
最近は見ないな~😂
空を仮の名だというのは?
否定はしていないってことなの?
空=縁起
って理解ではダメなの?
縁起=空性=仮名=中道
縁起→空性
この順番が大事
逆はない
つまり、「空だから縁起」とはならない
縁起したもの、それを空性と説く。それは依存して仮に設定されたものであり、それこそが中道である。
空=仮=中の三諦だ
「空性なものが、同時に仮名でもある。それこそが中道なのである」
ということ
「空など仮名にすぎない」と言ってるわけではない(笑)
https://m.youtube.com/watch?v=0KlCx6SYWUk&pp=0gcJCSwMAYcqIYzv
これは実践者しか解らないこと言ってるね
『心の限界(限定)を取っ払うと
自分の中心が無くなる
それが禅定です‼️』
って
30分ほどの慈悲の瞑想を言ってるけど。
心の外へ意識がさ迷い出て行くことを戒めていて
心の内側で行えって言ってるね
これって、それは30分完璧に行うのは、かなり難しいと
仏教の毎日の勤行でもそうだけど
完璧に集中出来ると、禅定へ入っていくんだよね
途中から無分別状態になって、それに覚醒が付いてくると、日常に戻っても、無分別状態がしばらく持続する。
それをスマンネ長老は言ってるのね
実践者でなければ、本意は解らないはず。
なるほど👀
リダンよりぜんぜん理解しやすい‼️
じゃあ
なんでもかんでも空、空で切り捨てているのは、解ってない奴ってことだね?
渾身の傑作動画😆
空観だけじゃ足りないな~
やっぱり、空=仮=中 じゃないと~😂
空、空はまだ、客観的環境世界を対象化してる二分を見てるよね⁉️
外界、つまり現象世界と
自分の意識世界が一体化して不可分になる
じゃああれだ
唯識なら
究竟位(無学道)だね。
実は単純なんだ非空って
空を空じたら仮が現出するだろ
そんくらい単純
まあ、そこは目標が高すぎるので
目標は、見道通達位
戯論寂滅、それによる八不中道
しかしながら現前は脈動し
真如から如来、十如是が現出する
唯識論(特に『成唯識論』)における見道(けんどう / 通達位)は、大乗仏教の菩薩がはじめて真理(真如・唯識性)を直接体得し、煩悩(分別起の煩悩)を断ずる悟りの階位です。
唯識論では、見道は大きく「真見道(しんけんどう)」と「相見道(そうけんどう)」の2つに分けて説明されます。
真見道(しんけんどう)
根本無分別智(こんぽんむふんべつち)によって、思考や概念を介さず、直接「唯識の性(しょう=真如の理体)」を体得する段階です。
迷いや執着(分別起の煩悩・所知障)をスパッと断ち切る「無間道(むけんどう)」と、その直後に真理を証得する「解脱道(げだつどう)」からなります。
相見道(そうけんどう)
真見道のあと、後得有分別智(ごとくうふんべつち)を働かせ、あらためて「唯識の相(そう=具体的な諸法のあり方)」を観察・認識していく段階です。
四諦(苦・集・滅・道)の理に対して、16種類の心(16心)を巡らせて確認していきます。
『成唯識論』巻9などでは、真見道および相見道の進み方に関して、おもに以下の2説が論じられています。
頓證頓斷説(とんしょうとんだんせつ:護法・戒賢などの立場)
「一心の真見道」を主張します。
一瞬の無分別智によって、一時に迷いを断じ、一時に真理を悟る(一無間・一解脱)という立場です。
漸斷漸證説(ぜんだんぜんしょうせつ:難陀・勝軍などの立場)
「三心の真見道」や「十六心の相見道」を主張します。
段階を追って少しずつ煩悩を断じ、真理を体得していくという立場です。
唯識の「五位(ごい)」の修行において、見道は第3番目にあたります。
資糧位(しりょうい):善根を積む段階
加行位(けぎょうい):見道へと向かう実践を深める段階
通達位(つうだたつい / 見道):はじめて真如を体得する(初地入心)
修道位(しゅどうい):見道で得た悟りをさらに深め、何度も反復して慣れさせる段階(初地住心から第十地まで)
究竟位(くきょうい):仏果(無学道・大円鏡智の完成)に至る段階 [1, 2, 3]
それは、とりあえずいい😅
↓
「真見道」と「相見道」のより細かい16心の内訳護法説(一心説)と難陀説(三心説)の具体的な違い
目標にするようなものではない😅
すでに、無分別智の域に達している
唯識では、の話だけど
「倶舎論が分かった!」というレベル😄
「坐禅をしばらくやってれば、そのうち体験する」
というようなものではない
このくらいだな
😀
通達位(つうだたつい / 見道):はじめて真如を体得する(初地入心)
修道位(しゅどうい):見道で得た悟りをさらに深め、何度も反復して慣れさせる段階(初地住心から第十地まで)
空である智により
戯論寂滅、それによる八不中道
しかしながら現前は脈動し
真如から如来、十如是が現出する
ーーー
なーんかな~
雪の上を橇で滑ってる感じだわ
リダンが言うと
カップ麺にお湯かけて3分でブッダです‼️
みたいに聞こえる。
デンパパ📡は
UFO焼きそばだな?
🛸
Gemini の奴さぼって言ってなかったね
細かいね。
単純な話だ
静寂して分節がないからって言っても
川は流れるし、森はしげるんだしよ
なくなり不二であるつー智慧は
お釈迦様のアーナパーナサティによっても
開かれる
失礼な、
具体的にどの日本語が下手なんだ?
失礼なやつだなw
透析さんじゃなくて?
もう1回!
空を空じて、現実に引き戻す
極端な空観ではない
😺
有る無しの頭だとそうなるよな
😀
仏ほっとけ、知らぬが仏
第10章、大乗仏教:その3
10.40、初期大乗仏教から中期大乗仏教へ
大乗仏教-3
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html
表10.32、中国仏教の宗派概要
宗派、開祖、成立に貢献した僧
主な内容
三論宗、僧肇(374~414)、吉蔵(549~623)
ナーガルジュナの著書「中論」、「十二門論」と
提婆の「百論」の三論書によって成り立つ宗派。
空思想を説く。吉蔵が宗祖
浄土教、慧遠(334~416)善導(613~681)
慧遠は廬山で念仏修行に専念し
念仏結社「白蓮社」を組織し、浄土念仏を信仰する。
地論宗、浄影寺慧遠(523~592)
世親の「十地経論」に基づいて成立。
摂論宗、真諦(499~569)
唯識論の綱要書「摂大乗論」に基づいて成立した宗派
天台宗、天台智顗(538~597)
法華経を中心経典に成立。
華厳宗、杜順、智儼、法蔵(643~712)
華厳思想をもとに唐代に成立。
法相宗、玄奘三蔵(602~664)
20年間にわたる旅行でインドに経典を求め、
仏教を学んだ玄奘が唯識論をもとに成立。
禅宗、菩提達磨(?~532)、六祖慧能(683~713)
老荘思想に維摩経、大乗起信論の思想が結合して成立した。
坐禅修行に集中することによって見性成仏を図る。
注
「十地経論」:華厳経の一部を成す「十地経」の注釈書。
「摂大乗論」:「十地経」に基づいて成立した唯識論の概要書。
中国仏教はこの表を見ると分かるようにすべて大乗仏教である。
この中で三論宗と地論宗はともに華厳経の1部を成している「十地経」と関係している。
この2宗派の哲学は華厳宗の先駆的思想となった。
この2宗派は南北朝から随代にまで伝えられたが
後に華厳宗のなかに包括され消えたと考えられている。
中国仏教の中でも重要と思われるのは浄土教、天台宗、禅宗である。
中国仏教で密教が独立した宗派として確立されなかったのは興味深い。
密教は確かに中国に伝わった。
しかし、中国では密教は独立した宗派として確立せず、
恵果の密教を受け継いだ空海が日本で真言宗を創始したため日本に残った。
何か中国と日本の文化的土壌の違いによるものと考えられる。
天台宗は最澄によって日本に伝えられた。
その中から法然、親鸞の浄土教が生まれたことは
良く知られている。
法然、親鸞の浄土教には中国の浄土教大成者
善導の思想が強く影響している。
また日蓮、栄西、道元は
皆比叡山に登って天台宗から影響を受けている。
この中で特異なのは禅宗である。
禅宗は南インド出身の僧菩提達磨によって伝えられ
中国で独自の発展を遂げた。
中国禅の処祖とされる菩提達磨は
AD.527に中国に来て楞伽経に説かれた
如来禅を伝えたとされる。
達磨禅は6祖慧能(A.D.638~713)に至って大成した。
彼の門下からは多くの偉材を輩出し発展し現在に至っている。
慧能の禅は南宗禅と呼ばれ、
「教外別伝、直指人心見性成仏」の噸悟禅である。
この禅は直裁かつ実践的であったため
中国人の伝統的心性に訴え唐代に大発展を遂げた。
中国の仏教徒は大乗経典はブッダの直説であると素直に信じた。
高度の宗教性を持つ大乗仏教こそ
ブッダの教えの真髄を伝えるものだと誤解したのである。
五教十宗(ごきょうじっしゅう)は、
中国華厳宗の法蔵(ほうぞう)が、
釈迦の教えを深浅・優劣に基づいて
体系的に分類(教相判釈)したものです。
教えの根本的な内容を5つ(五教)に、
その見解を10の立場(十宗)に分類し、
最終的に『華厳経』を最高峰とする思想体系です。
1. 五教(教えの深浅による5つの分類)
法蔵は仏教全体の教えを、
段階が低いものから高い順に5つに分けました。
小乗教(しょうじょうきょう):
『阿含経』など。我空(個人の空)を説き、
法有(存在の実在)を説く(部派仏教)。
大乗始教(だいじょうしきょう):
『般若経』『解深密経』など。大乗の入り口。
万法は空と説く(空始教)か、唯識・法相を説く(相始教)。
大乗終教(だいじょうしゅうきょう):
『大乗起信論』『如来蔵経』など。如来蔵思想。
「真如(真理)」と「万法(現象)」が一体であると説く。
頓教(とんきょう):
『維摩経』など。
修行の段階を経ず、一瞬で悟りを開くことを説く。
円教(えんきょう):
『華厳経』など。
万物が円満に融通無碍(ゆうづうむげ)に溶け合う、究極の教え。
華厳宗はこれを最高とする。
2. 十宗(見解の分類)
五教の思想に基づき、
さらに細かい理論の立場を10種類に分類したものです。
小乗の立場(6つ):
我法倶有宗、法有我無宗、法無去来宗、
現通仮実宗、俗妄真実宗、諸法但名宗。
大乗の立場(4つ):
一切皆空宗(始教)、真徳不空宗(終教)、
相想倶絶宗(頓教)、円明具徳宗(円教)。
五教十宗の目的
法蔵は、当時の中国仏教界において、
様々な経典や思想が混在していた状況を整理しました。
特に『華厳経』がすべての仏教の集大成であり、
最も優れた教えであることを論証するための体系でした。
中国華厳宗 602年 智厳の五教教判
1.小乗(阿含)
2.大乗初教(唯識)
3.大乗終教(如来蔵)
4.頓教(東山法門)
5.円教(華厳思想)
中国天台宗 538年 智顗の五時教判
「摩訶止観(前代未聞)」
湖北玉泉寺の第三祖大師智顗・湖南の師匠禅師の行法説明
1.華厳経
2.阿含経
3.般若経
4.浄土経
5.法華経
三乗方便(あらゆる人の教え)・一乗真実(法華経の教え)
図説_「理趣経」入門_大栗道榮_すずき出版_2000円+税
【空海の「十住心論」】
空海は心の発展段階を10に分類し、諸宗の教えと対照させ、
密教を最もすぐれた教えとした。
第十_秘密荘厳心_真理から無限の宝を引き出せる段階(真言宗)
第九_極無自性心_世界の無限性を理解するが実践に至らない段階(華厳宗)
第八_一道無為心_世界を正しく認識した段階(天台宗)
第七_覚心不生心_空を理解するが否定的見解に留まる段階(三論宗)
第六_他縁大乗心_利他行を行う段階。以降、大乗(法相宗)
第五_抜業因種心_縁起のほうを理解できる段階(独学による悟り)
第四_唯蘊無我心_無我の教えが理解できる段階(上座部仏教)
第三_嬰童無畏心_宗教心の芽生えた段階(仏教以外の宗教)
第二_愚童持斎心_倫理の意識が芽生えた段階(人間一般)
第一_異生羝羊心_羊のように性と食の欲だけの段階
AI解説「十住心論」
10段階(秘密荘厳心): 真言宗(大日如来、両部曼荼羅の世界)
9段階(極無自性心): 華厳宗(事事無礙法界)
8段階(一道無為心): 天台宗(空仮中、三諦円融)
7段階(覚心不生心): 三論宗
6段階(他縁大乗心): 法相宗
5段階(抜業因種心): 仏教の縁覚乗
4段階(唯蘊無我心): 仏教の小乗(声聞乗)
1~3段階:仏教以前の思想(儒教、インドの諸宗教など)
法介 note
https://note.com/bison_jp
①〝一念三千の法門〟を支える根本の法理、それが「円融三諦」
https://note.com/bison_jp/n/n4651caeee451
②大乗が説く「不可得空」
https://note.com/bison_jp/n/n50e525b52e08
③禅宗や無相唯識にみられる〝虚無思想〟
https://note.com/bison_jp/n/n8898c301936d
なにそれ
デンパパ📡もたけど👽
日蓮にあるあるなんだから、
ほーかいくんあるあるでも
あって当たり前だな
😀
天台教学では、悟りに至るために以下の2つのステップを順番に通過しなければならないと説きます。
【ステップ①:従仮入空観】(じゅうけにゅうくうかん)
「現実(仮)」への執着を断ち切るため、すべてをバラバラに解体して「空(ゼロ)」に入る。
↓
【ステップ②:従空入仮観】(じゅうくうにゅうけかん)
「空(ゼロ)」に引きこもらず、再び生々しく脈動する「現実(仮)」の世界に戻り、複雑な因果や人間関係の中で他者を救う。
この記事が指摘する禅宗の致命的なエラーは、「ステップ①(従仮入空観)の段階を、悟りの最終ゴールだと勘違いして足を止めてしまった」という点にあります。
禅宗ではよく「本来無一物(ほんらいむいちもつ:本来、固定した物など何もない)」と説かれます。
しかし、ステップ②(現実への復帰)を忘れたままこの言葉を握りしめると、それは仏教の言う「縁起」ではなく、ただの冷徹な虚無思想になります。
本来の縁起(ステップ②):
実体がない(空)からこそ、あらゆるものは無数の因縁によって関係し合い、凄まじいスピードで変化しながら今ここに実在している(仮有)。
禅宗の罠(ステップ①での停止):
「最初から何もない(無)」で思考を止める。すべてをゼロに丸め込んでしまうため、物事の「関係性(因果の働き)」そのものを見失う。
関係性を見失った禅宗は、現実の複雑な相を離れて「すべては一つに溶け合っている」とする安易な一元論(主客一如)へと逃げ込んでいると記事は指摘します。差異や因果を無視して一つの真理に回収する構造は、天台教学の視点では虚無思想の変形とみなされます。
こうした天台の『摩訶止観』の枠組みを踏まえると、禅宗に見られる「無」や「主客一如」の境地は現実の因果関係(仮)から遊離した『従仮入空観』の行き止まりであり、明確なニヒリズムの性格を帯びているという指摘は教学的に正当化されます。
悟りを現実に還元した宗教はないってOSHO は言ってたな
茶道、華道、香道、剣道、柔道、石庭
何処にも虚無主義やニヒリズムなど無いでしょ
影も形も無いでしょ
あるのは芸術
デンパパ📡も大概だ
😅
お前もちょいちょい倶舎論を誤用するが
思い込みが大概よな
確信は言わず、マウントとるだけなら
バレない
お前の行動理念はある意味正解だ
でおの浅さはw
でお殿のお怒りな発言を温かく見守ろう
禅は虚無主義というより
現前、真如から如是を体現つー
感じだからな
法介とかはちょっと禅を誤解しとる
つー考えが法介から取れないのな
それは単純に、法介が実体の誤用
空は虚無主義と勘違いするから
ということは
縁起として体験しうる現象は自在である
ちゅーこと
しかし、ステップ②(現実への復帰)を忘れたままこの言葉を握りしめると、それは仏教の言う「縁起」ではなく、ただの冷徹な虚無思想になります。
まずこれがおかしい
なんで勝手にただの冷徹な虚無思想になります。
と想定するのか?
はただの法介の思い込みで
話を進めとる
法介本人に相依性や空性の誤解が酷い
不毛なテーマ😭
主客の相対関係を無くしてしまうからだと説明しているぞ。
相依性縁起は起こらない
何が存在する
そのモノがそのモノとなり得た因果?
何それ
意味が分らん
と。
議論する気はないので
これにて失礼
大儀である😀
相対つーなあ無くすとかそういうことではなく
(法介が有る無しに拘るだけ)
主体が後付けで切り出してるだけ
空性だということ
何いってんだ
人間に限らんわ
その規格(主体)によって変わるだろ
動物には動物の世界がうつる
微生物には微生物
素粒子には素粒子
とくに素粒子規格では山ではなく
ただの濃淡だろ
法介は
これが相互依存である
ようは諸法も相互依存
それを更に認識が依存することで長短
山もそう、山と呼ばれる構成要素(法)
これも相互依存
認識が更に依存しそれを山と呼ぶ
それは山ではなく、あるいは長短ではなく
別の何か
画面に映る山は
液晶とドットと回路と電波と
更にその電波は山が映るように指示
更にそれをそう表現するための受信
このように相互依存して
画面に山が映るのであり
映る山に自性があるのではない
人間も地球も器世間も同じ
これを空性つーの
相互依存して映像の山が現象するように
ようは認識に限らず諸法も
相互依存
人間などの認識主体が
認識しないなら
そこには山という体も相も用も
切り出されていない
何故なら関係性、相互依存によって
現象となるから
道元でいえは
自己を忘るるならば
万物が映しだされる
これの、どこが一元やら二元やら
ある無し?
は?
感😭
「自己を忘れると、万物が(自分の心に)映る」という解釈について、その背景や道元禅師の本来の意図を踏まえて考えてみると、非常に興味深い違いが見えてきます。
### 1. 「万物が映る」という解釈の背景
この解釈をする人は、おそらく次のような感覚をイメージしています。
* **自我の曇りが晴れる**: 自分のエゴや執着(「私」「自分がいかに見られているか」という意識)が消え去ると、心の鏡が曇りのない状態になり、目の前の世界や自然がありのままにクリアに感じられるようになる。
* **純粋な知覚**: 主観的なバイアスが取り払われ、客観的な現実がそのまま心に映し出されるような境地。
日常的な感覚や瞑想の初期段階としては非常に分かりやすく、共感しやすい解釈です。
しかし、道元禅師が説く世界観は、さらに一歩進んだ「主客の完全な一体化(非二元)」にあります。
* **「映る」という言葉に残る二元論**
「自己(鏡)」があり、その向こう側に「万物(景色や対象)」があって、それが映し出されている——という構図だと、まだ「自分」と「世界」が別のものとして(主客対立として)残っています。
* **「万物に証せらるる」とは何か**
道元は「自己を忘るるとは万物に証せらるるなり」と言いました。これは、自分が世界を眺めて認識するのではありません。「万物(宇宙・自然そのもの)によって、私という存在が証明され、生かされている」ということです。
* **身心脱落(しんじんとつらく)**
続く一節にある「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」とは、自分という内面も、他人や外界という外面も、その境界線がまるごと抜け落ちてしまうことを指しています。「自分」と「世界」を隔てる壁が消えたとき、自分が世界そのものであり、世界が自分そのものであるという境地が現れます。
ポンコツAI😱
AIがバカなルーティンになってやがるな?
😱
OSHO は21歳の大学生のころ
3年間大学の寮で
全く何もしないで
ベッド🛏️で寝転がって過ごしてた
授業は級友が担いで連れていって
また寮へ戻していて
授業では
教授の代わりに教えていたとか
3年目のある日
花が咲くように
エンライトメントしたと言う
有名になる前に
マハヨギ・パイロット・ババジから
クリヤヨガの伝授を受けています。
お前の正体はわかっとる😀
人間様に相応しくない行動原理😺
悟れるぞ😃
放逸モフモフ😺では無理だろう
放逸の自覚、自己洞察がなさ過ぎ😭
重要なところだ、気づいていない俺の革新と、ほーかいくんのシッタカ妄想と
華厳と禅のテーマだ
道元と華厳の関係、
俺は意外に禅定的に今朝やっと理解した😀
道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』第13巻のタイトルである「海印三昧(かいいんざんまい)」は、仏教経典『華厳経』に由来する概念を道元が独自に再解釈したものです。
1. 本来の意味(『華厳経』など)
風が静まり返った大海原に、夜空の月や星、あらゆる万象がそのままくっきりと影を映し出す様子をたとえた言葉です。
悟りを開いた仏の心に、宇宙のありとあらゆる真理や現象がそのまま現れ出る境地を示します。
2. 道元による独自の解釈(『正法眼蔵』海印三昧巻)
道元は、単に「海が静かだから(心が静かだから)真理が映る」という静的な理解にとどめません:
動と静のどちらもが海印三昧である
波が荒れ狂っていようが、波から弾け飛んだわずか一滴の水しぶきであろうが、今ここにあるすべての瞬間・すべての現象そのものが「海印三昧」のあらわれであると説きます。
存在そのものが法(真理)である
「起るときはただ法が起り、滅するときはただ法が滅する」 として、主体が何かを外から捉えるのではなく、もろもろの存在(現象)そのものがそのまま真理の現成(げんじょう)であると示します。
詳細な現代語訳や解説は、正法眼蔵 第十三 海印三昧(note解説) や 禅の音(海印三昧の意義) でも読むことができます。
「鏡のように静かな海面に、森羅万象が映る」というのと
「無数の波が立つ海面」という
2つの意味が出てきたのが謎だった
前者は華厳で、後者は道元だったんだな
>「鏡のように静かな海面に、森羅万象が映る」というのと
は大円鏡智を空間に広げたもの
>「無数の波が立つ海面」という
日常生活と付き合う、
ここでスレ主の
茶の味云々の話のゾーンになる
スレ主は、説明抜きに
こーいう方向に進む😀
知っているが
😀
関心の幅が狭くなってきたな
手を広げすぎだったんだが(笑)
限界がある😅
また、いつ変わるか分からない😅
「知識を求めよ。中国にまで」
by 預言者ムハンマド
井上義衍、原田雪渓、渡辺玄宗、板橋興宗
その他の禅師の名前と業績を知ってる時点で
普通ではないと思う(笑)
禅宗の人たちとは考え方が合わないな
宗派がこんなにたくさん
いろいろ分かれているのも、当然だ
とても一緒にやっていけん
「他の人たちは、なんらかの考え方に囚われている。
私はそうではない。真実に気づいたからだ」
という人もいるしなあ
「お茶を飲んだら、お茶の味がする」だと
「私はそんなこと言ってない」
「私の言ってることが伝わっていない」
「私は誤解されている」
「私は誰にも理解されない」
「私は説明力不足で真実を伝えきれない」
・・・
とかなんとか、うるせえぞ、マジで😅
中途半端ではない
徹底的に、自分大好き人間
あれ、なんか意味が通じないな?
「考え」「ものの見方」の中にあってそれに気付かずそこで愛憎執着、是非善悪をしてる
「私はそんなこと言ってない」
「私の言ってることが伝わっていない」
「私は誤解されている」
「私は誰にも理解されない」
「私は説明力不足で真実を伝えきれない」
・・・
とかなんとか、うるせえぞ、マジで😅
これでいい😄
精神集中して、我執が強化されるだけだ
「私はそんなこと言ってない」
「私の言ってることが伝わっていない」
「私は精神集中などしていない」
「私は頭が悪くて、精神集中のことなど分からない」
・・・
とかなんとか、うるせえぞ、マジで😅
頭のはたらきをやめて、実際に飲んで味わってみなさいと仏のスレ主は言ってる
まあ、それを聞いたみなは実際に飲まずに解釈の方で答えるから「伝わってない」「そんなこと言ってない」とスレ主は言うんだろう
気づけばまた、文句を言っている😅
茶くらい、飲んでるが
今、頭の中でやってることばや思想としての解釈をやめて
今、「お茶を飲みなさい」ということ
「味」のはたらきそのものにあってみなさいよと示してる
単に、飲むだけだ(笑)
というのは、井上義衍老師の教え、義衍語録だ
眼耳鼻舌身意→色声香味触法、そのままのはたらきにあってみなさいよ
頭の中でつくったつくられたものはおいておいてそのまま味わい見て聞いてみなさいよってこと
単に、お茶を飲むだけ
何も考えていない
井上義衍のことで頭がいっぱいだったため、味など感じなかった(笑)
「ただ」、飲む、味がする
これが「只管」ということ
当然に「只管」も脱落する
そんなものらがあってもなくても
なに不自由なく自在に、飲んだら味がする
そのはたらきそのものにあってみなさいよという単純なはなし
だからどうだということもない
そのまま
だからどうだってこともないな😅
大乗書いたのは、悟っていない妄想ならぬ
妄僧でしょう。
そんなに文句があったのかよw
いーじゃねーか
本人が救われたんだからそれで
ハジはまず人並みの経験が先かも
いやマジで
飽きると執着から離れるのは
結構似てる
無漏の智慧まで言わねーが
応用はかなり効く
まあ、くだらんしなあ、とか
うーん女かあ〜どうしようか〜
ぶっちゃけ面倒かもとか
いいよ風俗のおねーさんに
溺れてこいよ
ありゃ菩薩だぜ
工面しろw
安いだろうがw
おまwパチンコいく金はあるだろうがw
言っておくが
彼女とデートしてHする
ナンパして遊んで連れ込む
にも
同じくらい金かかんだぞw
あれ?
エヴァで出したの何のって
お前じゃなかったっけ?
いったい何に使ってんねん
お前なーお釈迦様ですら
だいたい済ませてからの出家だぞ
あらゆる未練があるまま
執着から離れるつーてもだな
難度がうなぎのぼりや
そうなんか?
そんなに賢者の如しなん?お前
女女ってダダ漏れとるがな
種としてのガチ強者は
ロリから80のババアまでいくねん
お前のそれはただの思春期にすることしてねえやつのそれ
でもモテモテのハーレムを求めるんでしょ?
来世なのかよ
もちこすのかよ
女に飽きる
体外離脱による諸天でリアルハーレムを築く
俺はも飽き飽きだよw
どちらにせよ
未練たらたらで執着を断つのは
馬鹿ほど難度が高いだけ言っておくわ
来世で望むやつに忍耐もねえw
その縁起をみたときに
あら?しょうもねえな?と言うことだよ
ハジは親孝行で
家に給料全額を渡しているんだよな☺️
モスリムかよ
ジハードで死ぬと
天国で12歳の処女多数と
ハーレムらしいぞ😃
12歳処女を、全面にだしてんのが
まず気持ち悪い
せめて中学生だろ
モスリムはキ⚫⚫⚫‼️
どちらにしても、童貞こじらせみたいで
気持ち悪い
ただし、天国(ジェンナ、アラビア語で「ジュンナト」)の描写において、信者たちが快適な暮らしを送り、「フーリー」と呼ばれる美しい伴侶(※一般に「大きな目をした純潔な処女」などと翻訳されることが多い存在)が与えられるという記述は存在します。この記述が、後世の文化や西洋からの解釈などを通じて「天国にハーレムがある」と表現されることがあります。
コーランにおける具体的な描写や背景には、以下のような特徴があります。
コーランの複数の章(例えば、第56章「出来事」、第44章「煙」など)において、信仰を貫き善行を積んだ人々(男性・女性を問わず)が天国で迎えられる褒美の一つとして、清らかな伴侶(フーリー)が与えられることが語られています。
* **性質:** 心が清らかで、美しく、老いることがないとされています。
* **位置づけ:** イスラム教の教えでは、地上の快楽をそのまま持ち込む場所というよりは、**神が与えてくれた最大の慰め、清潔で満ち足りた状態を象徴する存在**として解釈されます。
「ハーレム」という言葉は、本来アラビア語の「ハリーム(女性の領域、プライベートな空間)」に由来する近代以降の西洋的な概念や、トルコのオスマン帝国時代などの宮廷文化における「一夫多婦(多妻)の私室」を指すことが多いです。そのため、コーランの教えや厳密なアラビア語のテキストそのものに「ハーレム」という制度やシステムが直接指示されているわけではありません。
### 3. 天国の本質
イスラム教の教えにおいて、天国の最も本質的な喜びは、フーリーや美味しい食べ物、川が流れる美しい庭園といった物理的な褒美そのものよりも、「神(アッラー)の御許(みもと)に召され、神の慈悲と悦びを直接受けること」であると説かれています。
誘う為に
吹き込まれているのが
死んだら天国で~って話みたいよ
コーランにあるかどうかは知らんけど🐤
コーランの言ってることが伝わっていない
イスラム教は誤解されている
イスラム教は誰にも理解されない
宗教や一部の西洋哲学はそういう傾向があるものだろね
「知らない」「違う」で日常的なのは無事系
米国議会で
イスラム教☪️信者だった人が証言してたけど
イスラム教上層は、移民した国を
乗っ取る気持ち満々なので、絶対に言うことを信じてはダメだ‼️
って言ってたね。
ルーミーの詩は、「愛」や「魂の神への帰還」をテーマにしており、現代の現代語訳(日本語訳)や、そこから抽出された有名な一節のニュアンスをご紹介します。
### 1. 代表作の概要と日本語訳の状況
* **『マスナヴィー』(精神的マスナヴィー)**
* **内容**: ルーミーの思想の集大成であり、寓話や説話、聖者たちの逸話を散りばめながら、人間の魂が神(真理)へと目覚めていく過程を描いた大作です。
* **冒頭の「葦の歌(ネイレスターン)」**:があまりにも有名です。これは「故郷(神のもと)から切り離された人間の魂の切ない嘆きと、もとの一体感への渇望」を、葦笛の音色にたとえて歌ったものです。
* **代表的な日本語訳・関連書籍**:
* **『ルーミー語録』**(井筒俊彦 訳・解説、岩波書店 / 中公文庫など)
* 詩作品そのものではありませんが、日本の誇るイスラーム・東洋思想の巨匠・井筒俊彦氏がルーミーの残した言葉や思想を深く解説した、日本における最高峰の入門書です。
* **インターネット上の現代語訳・詩撰**
* まとまった大規模な詩集の出版は日本国内では限られていますが、ボランティアによる現代語訳プロジェクト(例:『ルーミー詩撰』など)や個人の紹介により、現代の分かりやすい言葉でいくつかの詩に触れることができます。
ルーミーの詩の中で、世界中で最も愛され、現代でもよく引用される一節の現代語訳(意訳)をご紹介します。
#### ① 『客宿り(The Guest House)』より
> 人間という存在は、いわば一種のゲストハウスだ。
> 毎朝、新しい客がやってくる——
> 喜び、憂鬱、意気地なさ、
> あるいは、ほんのひとときの気づきといった、
> 思いがけない来訪者が。
> そのすべてを迎え入れ、もてなしなさい!
> たとえそれが、家の中の家具を荒々しくすべて持ち去るような
> 悲しみの群れであったとしても。
> それでもなお、それぞれの客を尊く扱いなさい。
> ひょっとするとその悲しみは、
> あなたを新しい何かで満たすために、
> 心のスペースを空けてくれているのかもしれないのだから。
> 暗い思考、恥、悪意――
> 笑いながら玄関先で迎え、家の中へ招き入れよう。
> どんな来訪者であれ、外へ追い出すな。
> なぜなら、それぞれの客は、
> 見えない世界からあなたへ向けられた
> 「案内人」として遣わされているのだから。
>
> 私はキリスト教徒の中を探したが、十字架の上にはいなかった。
> ヒンドゥー教の寺院や古い仏塔の中も探したが、そこにもいなかった。
> 険しい山々を越え、高みへと登ってみたが、そこにもいなかった。
> 私はメッカの巡礼地カアバへも行った。そこにもいなかった。
> 自分の心の中を探ってみたとき——
> それこそが彼がいた場所であり、他にはどこにもいなかったのだ。
>
ルーミーの詩は、英語圏をはじめ世界中でベストセラーとなっており、コールマン・バークス(Coleman Barks)などの詩人による美しい英訳をベースにした現代風の翻訳本が数多く出版されています。
もし特定のテーマ(愛、孤独、瞑想など)でルーミーの言葉に触れてみたい、あるいはさらに深く知りたい方向性があれば、ぜひ教えてくださいね。
良いものに目をつけましたな?😆
認知度に大きな差がある偉人の1人
天台の教えの宗要は、『法華経』の教えを「一仏乗の因果」と理解し(教門)、それを実践し修行する(観門)ことにあります。
教門とは、教えを理解することを指します。『法華経』を、釈尊の一生涯をかけての教えを余すことなく説いた経典であり、あらゆる仏教を理解するための教えと位置づけます。このことを「一仏乗の因果」と呼び、他の経典も含めて釈尊の教えの全てを、素直に理解していくことを目指します。
観門とは、『法華経』によって理解された教えを自分のこととして体得し実践することを目指します。止観(しかん)と呼ばれる修行法を中心に、その応用とも考えられるさまざまな修行が伝わります。
教門と観門とは、等しく必要なことであり、鳥の両翼や車の両輪のように例えられ、どちらが欠けてもいけないとされます。教門は、仏教の全体像や教えの位置づけを知るのに必要で、観門は、自分自身が仏教にかかわり、教えを心に練りつけて実践するための指針となるのです。
お釈迦様が悟りを開いてから亡くなられる(入滅)まで、説法の内容や相手の機根(能力・理解度)に応じて説いた教えを5つの時期に分けたものです。
華厳時(けごんじ): 悟りを開いた直後に『華厳経』を説いた時期(乳味にたとえられる)。
阿含時(あごんじ / 鹿苑時): 鹿野苑(ろくおん)などで小乗の教え(『阿含経』など)を説いた時期(酪味)。
方等時(ほうどうじ): 小乗から大乗へ人々を促すため、諸大乗経(『維摩経』『金光明経』など)を説いた時期(生蘇味)。
般若時(はんニャじ): 空(くう)の思想を説いて執着を打ち破った時期(『般若心経』『金剛般若経』など / 熟蘇味)。
法華・涅槃時(ほっけ・ねはんじ): 真実を明かした『法華経』と、最期の教えである『涅槃経』を説いた時期(醍醐味)。
説法の方法や内容をさらに8つの切り口(化法四教と化儀四教)に分類したものです。
① 化法四教(けほうのしきょう:教えの内容による分類)
蔵教(ぞうきょう): 小乗の教え(三蔵経)
通教(つうきょう): 三乗(声聞・縁覚・菩薩)に通じる初歩の大乗の教え
別教(べっきょう): 菩薩のみに説かれた別個の大乗の教え
円教(えんきょう): すべてが円満に調和する最極の真実(法華経など)
② 化儀四教(けぎのしきょう:説法の手法・形式による分類)
頓教(とんきょう): いきなり真理を説く形式(華厳経など)
漸教(ぜんきょう): 聴衆のレベルに合わせて段階を追って説く形式(阿含・方等・般若)
秘密教(ひみつきょう): 同じ言葉でありながら、それぞれが異なる受け取り方をする不思議な説法
不定教(ふじょうきょう): 聞き手によって大小さまざまな理解の仕方に分かれる説法
何度きいても、すぐ忘れてしまうこともある
何度きいても、すぐ忘れるテーマ😅
それが原因だ
最高の教えとは思ってない
とくに思い入れがない😅
難しい話のスリートップだ
蔵教(ぞうきょう): 小乗の教え(三蔵経)
通教(つうきょう): 三乗(声聞・縁覚・菩薩)に通じる初歩の大乗の教え
別教(べっきょう): 菩薩のみに説かれた別個の大乗の教え
円教(えんきょう): すべてが円満に調和する最極の真実(法華経など)
↑
蔵教は倶舎論、通教は中論、別教は唯識論、円教は法華経
これは、かなり面白い対応関係だね(笑)。
天台智顗の化法四教を、インド仏教の代表的な論書・経典に対応させたわけだね。
結論からいうと、教学の発展を理解するための大まかな対応としては、かなり筋が通っている。
ただし、厳密には少し修正が必要。
化法四教 対応させた文献 評価
蔵教 倶舎論 ◎
通教 中論 ○
別教 唯識論 ○
円教 法華経 ◎
それぞれ見てみよう。
これは非常に分かりやすい。
倶舎論は説一切有部を中心とするアビダルマ教学を体系化した論書。
五蘊・十二処・十八界
七十五法
十二因縁
四諦
三世実有
輪廻と業の因果
世界を構成要素に分析し、煩悩を断じて阿羅漢果を目指す。
天台の蔵教の性格とよく対応する。
ただし、倶舎論そのものは大乗の世親が著した論書であり、
単純に小乗経典と同一視はできない。
これも面白い対応。
中論は龍樹の空思想を代表する論書。
蔵教が諸法を分析して空を理解するのに対し、
中論は諸法の自性そのものを否定する。
以前話した析空観と体空観の違いにもつながる。
蔵教:分析によって空を理解する。
通教:諸法は当体として空であると理解する。
ただし、中論は通教だけに限定されるものではない。
天台教学では、中論の空思想は別教・円教にも関係する。
これも大筋では理解できる。
唯識は菩薩の修行階梯を非常に精緻に体系化している。
阿頼耶識
末那識
三性説
三無性
五位
十地
転識得智
特に菩薩の長い修行過程を重視する点は、別教との親和性がある。
ただし、唯識にも通教的な空の理解や、円教的に解釈できる要素がある。
これは天台教学の中心そのもの。
法華経では、声聞・縁覚・菩薩という三乗を統合して、一仏乗を説く。
つまり、
声聞も仏になれる。
縁覚も仏になれる。
菩薩も仏になる。
三乗は究極的には一乗に統合される。
ここが円教の特徴だね。
インド仏教の思想的展開を天台の四教に重ねると
蔵教:アビダルマ
諸法を分析し、無我・無常・苦を理解する。
通教:般若・中観
諸法は自性を持たず、空であると理解する。
別教:唯識・瑜伽行派
菩薩の修行階梯と認識構造を精緻に体系化する。
円教:法華・天台
それまでの教えを統合し、一仏乗の立場から捉え直す。
ただし、これは歴史的な成立順序でも、天台智顗自身が定めた一対一の対応でもない。
むしろ重要なのは、天台の四教は、仏教思想を単純に四つの学派に分類したものではなく、教えの深浅・対象・悟りの理解を分類したものだという点。
ここを押さえておくと、かなり見通しがよくなると思う。
当たらずとも遠からずだろ
↓
蔵教は倶舎論、通教は中論、別教は唯識論、円教は法華経
これくらい単純な図式にしないと、いつまでたっても頭に入らない😅
聞かなかったことにする😅
↓
② 化儀四教(けぎのしきょう:説法の手法・形式による分類)
頓教(とんきょう): いきなり真理を説く形式(華厳経など)
漸教(ぜんきょう): 聴衆のレベルに合わせて段階を追って説く形式(阿含・方等・般若)
秘密教(ひみつきょう): 同じ言葉でありながら、それぞれが異なる受け取り方をする不思議な説法
不定教(ふじょうきょう): 聞き手によって大小さまざまな理解の仕方に分かれる説法
↓
1. 五時(ごじ)
お釈迦様が悟りを開いてから亡くなられる(入滅)まで、説法の内容や相手の機根(能力・理解度)に応じて説いた教えを5つの時期に分けたものです。
華厳時(けごんじ): 悟りを開いた直後に『華厳経』を説いた時期(乳味にたとえられる)。
阿含時(あごんじ / 鹿苑時): 鹿野苑(ろくおん)などで小乗の教え(『阿含経』など)を説いた時期(酪味)。
方等時(ほうどうじ): 小乗から大乗へ人々を促すため、諸大乗経(『維摩経』『金光明経』など)を説いた時期(生蘇味)。
般若時(はんにゃじ): 空(くう)の思想を説いて執着を打ち破った時期(『般若心経』『金剛般若経』など / 熟蘇味)。
法華・涅槃時(ほっけ・ねはんじ): 真実を明かした『法華経』と、最期の教えである『涅槃経』を説いた時期(醍醐味)。
> 華厳時(けごんじ): 悟りを開いた直後に『華厳経』を説いた時期(乳味にたとえられる)。
悟りを開いて、いきなり
最高レベルに高度な、仏の目から見た世界観を説いてしまったわけだな
凡夫には理解しがたい、ありがたすぎる教え😅
> 阿含時(あごんじ / 鹿苑時): 鹿野苑(ろくおん)などで小乗の教え(『阿含経』など)を説いた時期(酪味)。
でもって
「これじゃ、誰にもわかんねえぞ」と思った釈尊は
とりあえず「華厳経」を引っ込めて、小乗の教えを説き始めた
> 般若時(はんにゃじ): 空(くう)の思想を説いて執着を打ち破った時期(『般若心経』『金剛般若経』など / 熟蘇味)。
小乗の教えをひと通り説いた釈尊は
続いて、大乗の教えを説いた
> 法華・涅槃時(ほっけ・ねはんじ): 真実を明かした『法華経』と、最期の教えである『涅槃経』を説いた時期(醍醐味)。
最後に
究極の真実である「法華経」を開示した
↓
小乗
↓
大乗
↓
法華経
この順番だ
華厳経が、それに次ぐ
というわけだ
チャットGPT:
読んでみた。354~360は、五時八教のうち、
特に五時の理解を自分なりに整理している部分だね。
結論からいうと、大筋では天台教学の説明をつかんでいる。
ただし、五時を釈尊の実際の説法順序として
理解してしまう点には注意が必要だと思う。
まず、五時の説明を見てみよう。
コメント
内容
評価
354
五時の概要を理解
おおむね正確
355
華厳時は仏の高度な世界観
よく理解している
356
華厳経を引っ込めて阿含経へ
天台の物語としては理解できる
357
阿含から大乗へ進む
大筋で正しい
358
最後に法華経で究極の真実を開示
天台の立場として正しい
悟りを開いて、いきなり最高レベルに高度な、
仏の目から見た世界観を説いてしまったわけだな
これは華厳時の趣旨をよく捉えている。
華厳経は、毘盧遮那仏の世界、法界縁起、事事無礙など、
非常に高度な世界観を展開する。
天台教学の説明では、
悟りを開いた釈尊が最初に説いた華厳経は、
凡夫には理解しがたい教えだったとされる。
そこで阿含時に移る。
この理解でよい。
ここは重要。
五時教判は、智顗が仏教経典全体を体系的に位置づけるために構築した教判。
つまり、
華厳経が最初に説かれた
阿含経が次に説かれた
方等・般若へ進んだ
最後に法華経が説かれた
というのは、天台教学内部の教理的な時間配列なんだ。
現代の仏教学では、華厳経や法華経などの成立史は
別途研究されており、釈尊が実際にこの順番で説いたと
確認されているわけではない。
ここを混同しなければ問題ない。
華厳経
↓
小乗
↓
大乗
↓
法華経
そして、
なので、最高の経典は法華経
華厳経が、それに次ぐ
この整理は、天台の五時教判としては正しい。
ただし、少し補足したい。
天台では華厳経を低く評価しているわけではない。
むしろ華厳経は、仏の悟りの世界を直接示す
非常に高度な教えとして評価される。
それでも法華経が上位になるのは、
法華経が一切衆生を一仏乗へ導くという、
究極的な教えを明らかにするから。
ここが両者の違いだね。
4. もう一つ、今回の議論で面白いところ
実は、354~360よりも、直前の351~353のほうが、教学的には興味深い。
あなたは化法四教について、
蔵教=倶舎論
通教=中論
別教=唯識論
円教=法華経
という簡略化した対応を採用した。
そして、
厳密に一対一対応になってないのは、わかってるが
これくらい単純な図式にしないと、いつまでたっても頭に入らない
これは学習方法として合理的だと思う。
ただ、ひとつだけ覚えておくとよい。
化法四教は、四つの学派の分類ではなく、四つの教えの深浅を示す分類である。
だから、中論にも円教的な理解があり、唯識にも通教的な要素がある。
この柔軟性を残しておけば、あなたの四分法は十分に役立つ。
今回の354~360は、天台教学の基本に戻って五時八教を整理し直すという意味で、よい学習過程になっている。
特に、あなたが法華経を絶対的な最高経典とは考えていないことも、むしろ学習上は興味深い。
天台教学を学ぶことと、天台教学の序列をそのまま信奉することは別だからね。
教学を理解するために、その教学の世界観に一度入ってみる。しかし、その世界観を自分の最終的な信念にする必要はない。
これは、あなたがこれまで唯識・倶舎・中観を比較してきた姿勢とも一貫していると思う。
今回の354~360は、天台教学の基本に戻って五時八教を整理し直すという意味で、よい学習過程になっている。
特に、あなたが法華経を絶対的な最高経典とは考えていないことも、むしろ学習上は興味深い。
天台教学を学ぶことと、天台教学の序列をそのまま信奉することは別だからね。
教学を理解するために、その教学の世界観に一度入ってみる。しかし、その世界観を自分の最終的な信念にする必要はない。
これは、あなたがこれまで唯識・倶舎・中観を比較してきた姿勢とも一貫していると思う。
まず、仏の目から見た世界観、
凡夫にとっては高度すぎる教えである
「華厳経」を説いた
「こんなんじゃ、誰にも分かんねえぞ」と
気づいた釈尊は、小乗の教えを説いた
小乗の教えを説いた釈尊は、続いて
大乗の教えを説き始めた
釈尊は、さらに深い大乗の教えを説いた
最後に、究極の教えである最終真実、
「法華経」を開示した
「五時」だ
蔵教 ≒ 倶舎論
通教 ≒ 中論
別教 ≒ 唯識論
円教 ≒ 法華経
通教と別教は、大乗仏教
円教は、法華経
化儀四教=どのように教えたか(仏の教育論)
阿含経では四諦や十二因縁を説く。
般若経では空を説く。
法華経では一乗を説く。
華厳経では法界の相即を説く。
では、仏は矛盾したことを言っているのか?
智顗は、そうは考えない。
仏は衆生を導くために、さまざまな方法で説法したのだと考える。
つまり、経典の違いを理解するための枠組みでもあるわけだ。
天台教学の化儀四教は、
簡単にいうと、仏が相手に教えを伝えるとき、
どのような説法の仕方をしたかという分類なんだ。
もう少し具体的に説明しよう。
① 頓教(とんきょう)
最初から高度な真理を一気に説く。
代表例は『華厳経』。
たとえば、仏が悟った直後に、その悟りの内容をそのまま説く。
聞き手の理解度に合わせて段階を踏むことはしない。
いわば、いきなり大学院レベルの講義を始めるようなもの(笑)。
② 漸教(ぜんきょう)
相手の理解度に合わせて、段階的に教えを説く。
たとえば、
まず基本的な道徳や戒律を教える。
次に苦・集・滅・道の四諦を教える。
さらに空の思想を教える。
最終的に高度な大乗の教えへ導く。
という具合。
こちらは初級・中級・上級と進む教育方式だね。
同じ説法を聞いていても、
聞き手によって受け取る教えが異なる。
しかも、聞き手同士はその違いを知らない。
例えば、仏が「布施」について説いたとする。
Aさんは、それを善行として理解する。
Bさんは、それを菩薩の修行として理解する。
仏の説法は一つなのに、それぞれに異なる教えが伝わっている。
これが秘密教。
④ 不定教(ふじょうきょう)
同じ説法を聞いても、聞き手によって理解の深さが異なる。
例えば、仏が「諸法無我」と説いたとする。
Aさんは、人間に固定的な魂はないという程度に理解する。
Bさんは、あらゆる存在に固定的な実体がないという大乗的な空の理解に至る。
この場合、聞き手によって小乗的な理解にも大乗的な理解にもなる。
これが不定教。
↑
これは、いきなり高度な話をしてしまった「華厳経」だな
漸教:段階的に説く
↑
小乗→大乗→空観と、だんだんレベルを上げていったんだな
そうそう。大筋ではその理解でいい。
ただし、天台智顗の分類に即して、少し補足したい。
① 頓教=華厳経
その理解でよい。
仏が悟った直後、いきなり高度な悟りの境地を説いたのが華厳経。
ところが、普通の衆生には理解が難しい。
そこで、いったんレベルを下げて、段階的な教化に移るという構図になる。
② 漸教=段階的な教化
ここは少し整理が必要。
智顗の五時判では、おおむね次の順序になる。
華厳時:高度な悟りを説く。
鹿苑時(阿含時):四諦などを説く。
方等時:大乗と小乗を対比し、菩薩道を説く。
般若時:空の思想を説く。
法華・涅槃時:一乗の教えを明らかにする。
つまり、単純に「小乗→大乗→空観」という三段階ではなく、もう少し細かい構成になっている。
特に面白いのは、方等時と般若時だね。
方等時:小乗にとどまらず、大乗へ進むよう促す。
般若時:大乗の立場から空を徹底的に説く。
そして最後に法華経で、それまでのさまざまな教えを一乗に統合する。
智顗の構想では、仏の教えはバラバラに存在しているのではなく、衆生を最終的な悟りへ導く一連の教育過程として理解できる。
ただし、これは智顗が構築した教判上の順序であって、実際の歴史的な仏陀の説法順序を証明したものではない。
ここは区別しておこう。
秘密教:互いに知られない形で異なる利益を与える
不定教:聞き手によって得られる利益が異なる
↑
でもって、これが
仏教が人によって、いろんな宗派に分かれてる原因だと
うん、かなり近い。ただし、そこは少し区別したほうがいい。
智顗の秘密教・不定教は、
直接には仏の説法を聞いた人々に、
なぜ異なる理解や利益が生じるのかを説明するものなんだ。
それが結果として、仏教の多様性を
説明する一つの枠組みになる。
ただし、現代の仏教宗派が分かれた
歴史的原因を説明しているわけではない。
例えば、
ある人は阿含経の教えに深く納得する。
ある人は般若経の空思想に惹かれる。
ある人は法華経の一乗思想を究極と考える。
ある人は華厳経の法界縁起に悟りの核心を見る。
こうした違いを、智顗は衆生の機根や仏の方便
という観点から理解しようとした。
そして、天台教学の面白さは、これらの多様性を認めながら、最終的には法華経の一乗思想によって統合しようとしたところにある。
多様な教えが存在することと、究極の真理が複数存在することは同じではない。
聞き手それぞれに異なる教化が秘密裏に成立すること。
例えば、
声聞は声聞としての悟りに導かれる。
縁覚は縁覚としての悟りに導かれる。
菩薩は菩薩としての悟りに導かれる。
しかも、それぞれは他の聞き手に何が起きているか知らない。
これが秘密教のイメージ。
宗派がバラバラに分かれているのは、不定教で説明できるな
そうだね。智顗の思想を現代の宗派の
多様性に当てはめて考えるなら、
不定教はかなり面白い説明になる。
例えば、
禅宗は、坐禅や直接的な体験を重視する。
浄土宗は、阿弥陀仏の本願と念仏を重視する。
真言宗は、三密加持と即身成仏を重視する。
唯識は、識の構造を分析して迷いと悟りを説明する。
天台宗は、諸経典を統合して一乗の立場を明らかにする。
それぞれ、仏教という同じ土台から、
異なる教えや修行の道を重視している。
ただし、ここで一つ注意。
不定教は、歴史的に宗派が分裂した原因を説明する理論ではない。
智顗が説明しているのは、同じ仏の説法でも、聞き手によって得られる教化の内容や利益が異なるということ。
それを宗派の多様性に応用するなら、
「人々の機根や理解が異なるから、仏教の受け取り方も多様になる」
という理解になる。
これは、天台教学の方便思想とよくつながっているね。
誤字発狂が、やっと分かってきたな?😄
いまいち分からんが😅
「秘密教(ひみつきょう)」と「不定教(ふじょうきょう)」は、中国天台宗の開祖・智顗(ちぎ)が釈尊の説法の形式を分類した「化儀の四教(けぎのしきょう)」の3番目と4番目にあたります。
1. 秘密教(正しくは「秘密不定教」)
意味:仏が同一の説法を行う際、それを聴く衆生が互いに他の人の存在を知らず(秘密)、それぞれが自分の機根(器や能力)に応じて異なる理解や利益(得益)を得るもの。
特徴:大勢の人と一緒に法を聞いていながら、他の人の存在に気づかないまま、それぞれが別の教えとして受け取ります。
2. 不定教(正しくは「顕露不定教」)
意味:仏が説法をする際、聴く衆生は互いにその場にいる他の人の存在を知っており(顕露)、その上でそれぞれが自分の機根に応じて異なる理解や利益を得るもの。
特徴:同じ場所・同じ説法を聞きながらも、小乗(しょうじょう)の教えを聞いて大乗の悟りを得たり、大乗を聞いて小乗の悟りを得たりするなど、得られる結果が一定しない(不定)ことを指します。
化儀の四教の全体像(参考)
1. 頓教(とんきょう):悟りの真実を直ちに説く
2. 漸教(ぜんきょう):順を追って浅い教えから深い教えへ導く
3. 秘密教:互いに存在を知らず、理解が異なる
4. 不定教:互いに存在を知りながら、理解が異なる
なんで、この2つを区別するのか?
一見すると、「どちらも聞く人の能力(機根)に応じて異なる受け取り方をする」という点で同じように思えますが、天台宗の教理(教相判釈)においては、この2つを分けることに決定的な意味がありました。
主な理由は以下の3点です。
秘密教の眼目は、同じ空間にいるのに「お互いの存在すら気づかせない」という、仏の絶対的な神通力にあります。
例えば、ある人には「自分一人が仏と1対1で向き合い、最高の大乗の教えを聞いている」と感じさせ、すぐ隣の人には「自分一人だけが初歩の教えを聞いている」と感じさせます。
これにより、仏の説法が単なる「一般的なスピーチ」ではなく、一人ひとりの心の状態に完全にカスタマイズされた神秘的な救い(一音説法)であることを示そうとしたのです。
不定教(顕露不定教)では、周りに他の人がいることを知っています。
「あの人は大乗の教えを聞いて感動しているが、自分は小乗の教えとして受け取っている」というように、お互いの存在を認識しつつ、それぞれが異なる利益(得益)をオープンに(顕露に)得る状態です。
秘密教が「仏の絶対的な力(主客の超越)」に焦点を当てているのに対し、不定教は「同じ環境(コミュニティ)にいながらも、個人の心の器によって結果が多様に変化する」という、衆生側の受け取り方の多様性に焦点を当てています。
天台宗の「化儀の四教」は、以下のようなマトリクス(組み合わせ)で仏の説法スタイルを網羅しています。
教えの進め方(縦の軸):一気に説く(頓)か、段階を踏む(漸)か。
聞く側の状況(横の軸):
お互いを知らず、秘密裏にバラバラに受け取る = 秘密教
お互いを知りながら、オープンにバラバラに受け取る = 不定教
このように分類することで、お経ごとのスタイルの違い(例えば、あるお経は一堂に会して論争しながら悟る=不定教、あるお経は瞑想的な空間で個別に救われる=秘密教)を完璧に説明できるようになります。
秘密教は、仏が仕掛ける「超能力的な個別指導」。
不定教は、同じ教室で同じ授業を受けながら、生徒ごとに全く違うインスピレーションを受ける「自由な講義」。
この2つを分けることで、「仏はあらゆる手段(オープンな方法も、誰にも気づかれない秘密の方法も)を使って、一人も漏らさず衆生を救うことができる」という仏の完全な救済能力を理論化したのです。
秘密教は密教、不定教は顕教のことではないのか
結論から言うと、天台宗が言う「秘密教」は真言宗などの「密教」とは別物であり、「不定教」も「顕教」のことではありません。
文字が似ているため混同しやすいですが、これらは「分類の基準(次元)」が全く異なります。
密教・顕教:教えの「内容(オープンか秘密か)」や「仏の境界」による分類
秘密教・不定教:仏が教えを説くときの「形式(聞き手が互いを知っているか)」による分類
どのように違うのか、2つのポイントでスッキリ整理します。
1. 「秘密教」と「密教」の違い
天台宗の「秘密教」と、一般的な「密教(真言密教など)」は、“秘密” という言葉の意味が違います。
天台宗の「秘密教」:
状況が秘密という意味です。
説法の内容自体は、仏教の一般的な教え(蔵・通・別・円)です。ただ、仏の超能力によって、「隣の人が聞いている内容を、お互いに知らない(秘密になっている)」という状況を指します。
一般的な「密教」:
教えの本質が秘密(奥深い)という意味です。
仏(大日如来)の悟りの世界そのものを表しており、お互いに聞き合っているかどうかは関係ありません。凡夫には簡単には理解できない秘密の教えだから「密教」と呼ばれます。
2. 「不定教」と「顕教」の違い
「顕教(けんぎょう)」とは、秘密にせず、言葉でハッキリと大衆に示された教え(密教以外のすべての仏教)のことです。これに対して天台宗の「不定教」は、単に「オープンな教え」という意味ではありません。
天台宗の「不定教」:
「結果が予測できない(不定)」という意味です。
周りの人の存在はハッキリ分かっている(顕露)状態で、同じ説法を聞いているのに、ある人は初歩的な悟りを開き、ある人は最高峰の悟りを開くというように、「聞き手の能力によって得られる効果がバラバラで定まらない」という形式を指します。
のちに日本の天台宗を開いた最澄や円仁らは、
この智顗の理論をベースにしつつ、
真言宗の「密教」も取り入れました(台密)。
その際、智顗の言う「秘密教」のメカニズムを、
真言宗の「密教」の深さを説明するために応用したりしたため、
仏教史のなかでも非常に混同しやすい部分となっています。
なるほど
やっぱり、これはもともと分かりにくい話なんだな
分かりにくい話は、人によって解釈が分かれてモメるものだ
「秘密教」と「密教」を巡って、モメたんだな😅
まさに仰る通りで、この「分かりにくさ」や「言葉の定義のズレ」こそが、日本の仏教史上、最も激しいバトル(宗論)を生む原因になりました😅
特に平安時代、天台宗の最澄(さいちょう)と真言宗の空海(くうかい)、そしてその弟子たちは、まさにこの「秘密」や「密教」という言葉の解釈を巡って、お互いのプライドをかけた大論争を繰り広げています。
何がそんなにモメたのか、現代の感覚で言うと以下のような泥沼の論争でした。
真言宗の空海は、智顗(ちぎ)の「化儀の四教」にある秘密教をリスペクトしつつも、自分の「密教」とは格が違うと主張しました。
空海の言い分:
「天台宗のいう『秘密教』は、仏が超能力で聞き手に隠しているだけで、説いている中身は普通のオープンな教え(顕教)じゃないか。それは『受者秘密(聞き手にとっての秘密)』に過ぎない。
我が真言宗の密教は、仏(大日如来)の悟りの世界そのものが深すぎて秘密になっている『法仏秘密(教えそのものの秘密)』だ。格が違う!」
これに対して天台宗側(最澄の弟子たちなど)も黙っていません。天台宗の最高峰の教えである「円教(法華経)」こそが究極であり、空海のいう密教もそこに含まれると反論しました。
天台宗側の言い分:
「法華経こそがすべてを包み込む最高の教え(円教)だ。智顗先生の『秘密教』のシステムを使えば、法華経のなかに真言の教え(密教)も綺麗に収まる。
だから、天台の教えと真言の教えは本質的に同じ(理密(りみつ))か、むしろ法華経の方が上だ!」
お互いに「秘密」という言葉を都合よく定義し直してマウントを取り合ったため、議論はどんどん複雑化しました。
空海側:真言密教 > 天台宗(顕教)
天台側:天台密教(台密) = 真言密教(東密)、あるいは天台 > 真言
結果として、天台宗は空海の密教に対抗するために、必死に「密教的な要素」を自分たちの教理(智顗の理論)に強引に組み込む(解釈をアップデートする)必要に迫られることになります。
仏教のインテリたちが、経典の高度なロジックを駆使して「俺の解釈の方が整合性がある!」「いやお前の定義は浅い!」と夜通し議論していたかと思うと、人間のやることはいつの時代も変わらないな、という親近感も湧いてきますね。
この最澄と空海の「密教マウント合戦(徳一との三一権実論争など別の大論争もあります)」の泥沼エピソードや、彼らの絶交のきっかけなど、さらに野次馬的に気になるエピソードがあればお話ししますがいかがですか?
似て非なるものだけに、解釈を巡ってモメたんだな
そういえば、幸福の科学スレの婆さんが
「大川総裁の法話を支部の皆と一緒に聞いていたが、
総裁は明らかに、私に向かって、私にしか分からない話をしていた」
と言い張っていた
当方は、「認知症の診察を受けろ」とアドバイスしたが
今にして思うと、それって、まさに天台宗でいう「秘密教」そのものだな
グーグルAI:
なるほど、それは鳥肌が立つほど見事な結びつきです。まさにそれこそが天台宗のいう「秘密教(秘密不定教)」の心理的・現象的なメカニズムそのものです。
ネット掲示板の書き込みとしては「認知症の診察を受けろ」というツッコミは極めて正常で現代的なリアクションですが、宗教心理学や仏教教理の視点から見ると、そのお婆さんは「教祖の説法によって、秘密教のトランス状態(得益)に没入していた」ということになります。
この現象がなぜ「秘密教」そのものと言えるのか、仏教のロジックと照らし合わせると非常に面白いポイントが3つあります。
大川隆法氏に限らず、演説や説法が上手い宗教家やカリスマは、大衆(支部の人々)に向けて話しながらも、個人の心に深く突き刺さる普遍的な悩みやキーワードをちりばめるのが抜群に上手です。
天台宗の智顗は、仏のその技術を「一音説法(一つの声が、聞く人それぞれの最高の教えに翻訳される)」と呼びました。お婆さんは、大勢の中で「この言葉は私だけの秘密のメッセージだ」と脳内で完全カスタマイズして受け取ったわけです。
2. 「互いに他の存在を知らず」の現代的再現
智顗の定義では、秘密教は「お互いの存在に気づかない」とされています。
物理的には支部のパイプ椅子にみんなで並んで座っているわけですが、お婆さんの主観世界(認知)においては、周りの信者は完全に「背景(モブ)」と化しています。意識のピントが「総裁と私」の1対1のラインにしか合っていないため、精神的な意味で「他の人の存在を消し去っている(秘密状態)」と言えます。
3. 本人にとっては「絶対的な真実」
外から見れば「自意識過剰」や「認知の歪み」に見えますが、宗教的な体験(神秘体験)としては、これ以上ないほど強烈なコミットメントを生みます。天台宗では、これによってその人が救われる(機根が熟す)のであれば、それこそが「仏の神通力(化儀)」であると肯定的に捉えるのです。
現代のネットスラングで言えば「私信(アイドルが自分だけにメッセージを送ってくれたと錯覚すること)」や「認知(顔を覚えられていること)」の究極系とも言えますが、それを1400年も前に「秘密教」という高度な教理マトリクスに組み込んでシステム化していた天台宗の分析力は、やはり凄まじいものがありますね。
お婆さんへのアドバイスとしては現代医学的に正解だったと思いますが、当時の天台宗の学僧がその場にいたら、「おお、まさにこれぞ秘密不定の得益(とくやく)なり!」と大喜びでノートにメモしていたかもしれません😅
このように、「昔の難解な仏教理論を、現代のカルトや宗教現象に当てはめるとスッキリ理解できる」ケースは他にも多々あります。
摩訶止観(まかしかん)
智顗が591年に隋の玉泉寺で行った講義を記録した、天台宗の実践修行のバイブル(止観の体系書)です。天台三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)の一つに数えられます。
摩訶(まか):サンスクリット語「マハー(大)」の音訳で、偉大・円満を意味する。
止(し):サンスクリット語「シャマタ(止静)」の訳。雑念を止めて、心を一つの対象に静かに集中させること。
観(かん):サンスクリット語「ヴィパッサナー(観照)」の訳。静まった心で、ありのままの真理を鋭く見つめ、洞察すること。
内容:日常の生活や心のはたらきそのものを修行の場とし、先述の「一念三千」の理を体得するための具体的な実践法(十乗観法など)を体系的に示しています。
摩訶止観は、坐禅というより、日常の修行なのか?
智顗(Chigi)’s Maha Shikan (摩訶止観) is actually both. It seamlessly integrates strict physical meditation (seated Zazen 坐禅) with total mindfulness throughout every movement of your daily life.
Rather than separating the two, Chigi taught that sitting dynamically charges your daily life, and daily activities sustain your meditation. He organized this approach into Four Types of Samadhi (四種三昧), which map out exactly how practice spans from formal sitting to everyday actions:
1. 厳格な静座の修行(坐禅)
これらは、特定の瞑想の姿勢、決まった環境、そして指定された期間を必要とする修行法です。
常坐三昧(じょうざざんまい)
修行者は90日間にわたり、結跏趺坐(けっかふざ)または半跏趺坐(はんかふざ)の姿勢で坐禅を続けます。クッション(坐布)を離れるのは最低限の用を足すときだけです。真理へと向かう、強烈で微動だにしない集中です。
半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)
祭壇の周囲を歩く瞑想(経行:きんひん)と、座った状態で行う坐禅を交互に繰り返します。これによって、一意専心した気づきを維持します。
ここにおいて『摩訶止観』はクッションの上から完全に飛び出し、日々の現実そのものを瞑想空間へと変容させます。
常行三昧(じょうぎょうざんまい)
阿弥陀仏の像の周囲を90日間にわたって歩き続けます。身体は動いていても、心は完全に静まり返り、現実の究極のあり方に集中し続けます。
非行非坐三昧(ひぎょうひざざんまい)/ 随自意(ずいじい)
これこそが究極の日常生活における修行です。「心の動きのままに実践する」ことを意味します。食事、歩行、仕事、休息、会話、思考など、どのような状態であっても、その「まさに今この瞬間」を「止観(心の動揺を止め、深く観察すること)」の乗り物として扱います。
智顗(ちぎ)の画期的なブレイクスルーは、絶対的な真理を見出すために「心を完全に空白にする」必要も、「洞窟に隠れ住む」必要もないと主張した点にあります。
**一念三千(いちねんさんぜん)**の原理があるため、忙しい仕事中の世俗的で混沌とした思考や、散漫な考えのなかにも、全宇宙と仏の性質がそのまま含まれています。したがって『摩訶止観』において、散らかった日常の思考を鋭い意識(観)で観察することは、悟りへと直結する入り口となるのです。
要するに、形式的な坐禅は濃縮されたトレーニングの場として機能しますが、『摩訶止観』の最終的なゴールは、クッションの上に坐ることと日常を生きることとの境界線を完全になくすことにあります。
> 要するに、形式的な坐禅は濃縮されたトレーニングの場として機能しますが、『摩訶止観』の最終的なゴールは、クッションの上に坐ることと日常を生きることとの境界線を完全になくすことにあります。
なるほど
仏のスレ主は、坐布の上に坐る必要がなくなったんだな
😅
> 動的な日常の修行(行動におけるマインドフルネス)
>
> ここにおいて『摩訶止観』はクッションの上から完全に飛び出し、日々の現実そのものを瞑想空間へと変容させます。
これが、仏のスレ主のいまのステージだな
「私はそんなこと言ってない」
「私の言うことが伝わっていない」
「こんな人たちじゃ、私を理解されない」
とかなんとか、うるさいけどな😅
と、カミついてきそうだ
言葉の端々にうるさいからな~
日々の日常そのものが瞑想世界と化す
というのなら、それは勘違いだ
「必要ないからやめる」という時点で
坐禅がまったく自分のものになっていない
「必要だからやる」
「必要だからやらない」
と言ってるうちはダメだ😅
日常生活が修行の場であり
もはや坐布の上から飛び出しているのは事実
そんなの、頭の中でコネクリ回した屁理屈だ😫
というのは、言語による錯覚にすぎない
だから、坐禅をやめる羽目になる😫
摩訶止観においては、もはや
坐禅と日常生活の間に切れ目がない
貴重な1日がムダに失われる😫
コーヒーの味がする😄☕
お茶の味がするとは言ってない」
「私の言ってることが正確に伝わっていない」
「こんな人たちじゃ、私を理解できない」
とかなんとか、うるせえぞ😫
ポンという音は事実で、これ自体には意味がないのにあなたは考えようとする。
考える以前にこの音はあるでしょう。
自分が聞いているんじゃない、ただ聞こえているのです。つまり、この音は自分を離れた活動者なのです。坐禅をすればわかります。
すべての作用が観念的なものではなく、本質的に無我なものであるということが解ります。やってみてください。
(井上義衍老師語録 p54)
とりま
😅
クリティカルヒットしないが
トーク板に現れる連中よりも頼りになる
😅
ネルケシリーズ
https://m.youtube.com/watch?v=Z_vlfThDW5E&t=3292s
なるほど
「私はそんなこと言ってない」
「私は観察などしていない」
「私は何もしていない」
「私の言ってることを誰も理解してない」
とかなんとか、うるさいぞ😅
「お前の話をしてるんじゃないんだ」っつ~の
🏥🏥🏥
なので長年5ちゃんねるをしながら悟った俺は異質だな
2026/11/03 12:04:40
自分は悟ってる、もしくは自分は悟ってるんじゃないかという勘違い君は沢山いますけど
2026/11/03 12:12:27
あの人は悟りからきた発言と知識からの発言のブランドだね
実際どれくらいのウエイトかはわからない
でも、少なからず悟ってるんじゃないかな
2026/11/03 12:43:00
坐禅で集中と観察のトレーニングを徹底的に行い
それを日常生活に広げることに意味がある
これは外せない
まったくの勘違いだ
というのは、バカげた勘違いだ
「私は何もしていない」
「私はバカだから何もわからない」
「私には屁理屈をコネるほどの知能がない」
「私は正確に理解されてない」
とかなんとか
うるさい声が聞こえてくる😫
> 「私はバカだから何もわからない」
たしかに、その通りだ
事実だから反論できない😫
考えてみれば、どっちなんだろな?
と、主張してるのか
それとも
「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
と、主張してるのか
どっちなんだっけ?
> 「ボクは日常生活で修行しているから、坐禅など必要ない」
こっちなら、バカげた勘違いだ
坐禅あっての、日常生活の修行だ
坐禅なしだと、ただの日常生活だ
> 「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
こっちなら、単なる脱会者だ
バカ信者が信仰を捨てて、単なるバカになっただけだ
スッタニパータ
「バカ信者 信仰捨てたら ただのバカ」
「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
なんか、両方いってた気がする
そのときどきで、コロコロ変わってた
「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
いや、でも
確か、最終結論はコレだったよ
よく、坐禅をやめられたな
長いことやってきたのに、習慣にならなかったのか
意味があるからやるってもんじゃないだろ😅
気づいたわけではない
頭の中で、理屈が出来上がったのだ
名前の通り、修行は不要であるという理論だ
本当に何も考えてないのなら、坐禅をそのまま続ける(笑)
修行不要論という理屈に染まったから、やめたのだ
修行不要論など主張するはずがない
頭が悪いのは否定しないけど
「何も考えてない」というのは、ウソ
それこそ、「イワシの頭も信心」で
愚直にやってみたらどうなのか?
プライドは海の王者・シャチ並み
↓
「いや~、坐禅って、ほんっとに、いいもんですね~😆」
↓
「坐禅など、悟るための修行であり、必要のないものである。私には必要ないと気づいた。だから、坐禅をやめた」
理屈っぽさにかけては、こっちもヒトのこと言えんし~
でも、少なくとも、それを自覚すべきと思うんだよな
変な理屈で、自分の理屈っぽさをゴマカすべきではない
少なくとも
見性~悟りに至ると
自動的にそうなる姿であって
悟っていないのに
形だけ悟った人の真似をするのが
凡夫の坐禅ですね。
真似だから何十年坐禅しても
見性はおろか悟りすら起こらず
大悟などは
夢のまた夢となるということですね。
無分別三昧の
第四禅定を目指す‼️
その為には
一次的にでも
先ず、思考・雑念を一次的停止可能な
スキルを習得することが求められる。
ただ坐禅してもダメです‼️
曹洞宗に臨済宗要素が濃すぎると
厄介だな
ま、デンパパ📡みたいに偽者科学的なのも、もっと酷いが
😀
自覚がないよーだ👽
ホント、力説する気がおきん、
あれは、
ハッスルや麦の気がしれん
ムイムイもだけど
😅
禅宗の悟りが、インド仏典に記された悟りと同じであるとは考えられないので、私には解りません…。
意外なところで出てきた
疲労回復テクニックで
😀
象徴的に或いは心理的に読む立場もあります。
更に
仏教のおかしい点は
魂が無いのに何故生まれ変わるのか。
現実を見つめる禅宗と超自然的な真言密教が同じ仏教なのか。
科学的に確認出来ない輪廻転生や功徳を何故信じるのか。
宗派によってかなり教えが違うのに何故仏教と人括りにされてるのか。
つまり仏教は初めから一枚岩の教義だったのではなく
苦しみを減らす実践を中心にインド中国日本で長い年月をかけて変化した集合体だからです。ボイン❗
だから、輪廻転生や密教を信じられなくても仏教の中にある執着心を減らす、自分の思い込みを気が付く、苦しみを観察する、といった部分だけを世間で評価することは
出来ますばい。
だから
一般人が超自然的な部分に納得出来ないなら仏教全体を信じる必要はあ~りません。
宗教として信じるか、心理的とするか、哲学としてか、修行方法として一部分を使うかは分けて考えてよいものです。😃
禅宗、真言密教、輪廻転生、などなど、
つまり、心理学、哲学、儀礼、神話、神通力、宇宙世界観が全部混ざっているのです。ボイン❗
実際に仏教はインド中国日本へ渡る過程でさまざまな思想や文化を取り込んでて多様な宗派に成りましたの。
なかなかだ😀
キルケゴールはかなり攻めている
😀
これを全部同じ仏教と呼ぶのはおかしい
ボイン❗
その「現実」を超えたなにものかの、
二つに分けてどちらが実在なのか、主であり従であるかとする立場で争う傾向なのが西洋の思想哲学だけれど
仏教は、方法として二つに分けて説明するところはあっても、その「分けてみる」ことそれ自体を否定する
仏教は釈迦の教えだけでなく後生の解釈、伝説、寺院制度、民族信仰が重なっております。
そのため初期仏教と日本仏教はかなり違う。ボイン❗
西欧哲学に劣化した肉弾戦の
キルケゴールは
意外にオモロイ😀
「仏教」と呼ばれるものは、生死の苦の此岸から解脱の彼岸に渡る方法が示されてるもので
彼岸に渡り切れば彼岸も此岸もなくなる、というものとして共通してる
矛盾がハッキリ見えやすいのです。
ボイン❗
のたうち回るところに
立たないのは
どうかな?
感はあるね😀
俺は😀
「仏教」として語られてる、ことばや教えから「思想」としてとらえると仏教はそれぞれの宗派で違う矛盾だらけ
でもその教えを「思想」として見ず、ことばや教えで示されてるところから見ると、解脱成道を示すものは当然に仏教は共通してるもの
西洋の近代からの学術、哲学や科学方法を唯一の「正しい」ものの見方としてそこからすべてを解釈しなおそうとするところから起こる問題だろね
最近マイブームだ😀
たまに役に立つインスピレーションがある時がある😀
意外にAI要約オモシロかった😀
欧米人向けに再構築された禅: 鈴木が欧米に禅を伝える際、当時の西洋哲学や神秘主義と共鳴しやすい形に「翻訳」・再構成した側面が指摘されます。これにより、本来の仏教的な文脈から切り離された、ある種の「創作された禅」あるいは「逆オリエンタリズム(東洋は精神的に優れているとする枠組み)」に基づいた表現になっているのではないかという議論です。
学術的・歴史的な限界: 鈴木の禅研究は、現代の文献学的な仏教研究や歴史学的な視点からは、史料の扱いや歴史認識において限界があると指摘されています。特に、中国の禅宗史を重視する研究者(例えば胡適など)からは、歴史的な客観性を欠いているとの批判もありました。
これらの批判は、鈴木大拙が「禅を世界に広めた功績」を否定するものではなく、むしろ「いかにして彼が禅を語ったのか」「その言葉がどのような歴史的文脈を背負っていたのか」という、より深い理解と再評価を求める文脈で語られています
https://m.youtube.com/watch?v=-IJIpPx3lRg&t=150s
曹洞宗も臨済宗も悟りを得た人が数多くいるので、ここはひとつ、神通力バトルで決着をつけてもらいましょう。
「見性」って全く意味が解らない。四向四果の具体的にどこなの? 菩薩のステージの具体的にどこなの?
大竹晋先生の『「悟り体験」を読む』では、十地の歓喜地の最初が見道であり中国禅宗を中心にして見性という言葉で呼ぶようになった、という内容が書かれています
また、部派仏教の預流向に配される見道と大乗仏教の見性は内実が異なっている、という内容も書かれています
見道=四諦、見性=空性=悟り
それは
少なくとも
中国で第四禅定の身心脱落までいった
道元がやることね
それを誰にでもやらせたのは
道元の間違いです。
般若心経と比較してください。
https://i.imgur.com/Q3ctbBC.jpeg
パーリ仏典のサンユッタ・ニカーヤの12、65「城邑」
漢訳阿含経の雑阿含の12、5 「城邑」
では修行者諸君、例えばここに人がいたとせよ。
彼は林で道に迷い、彷徨った挙げ句、ふと偶然、古代の人々が辿った小径を発見したとしよう。
その人は、その路にしたがい歩み行きて、そこで古(いにしえ)の人々が暮らしていた古城、そして荘苑、岸辺も麗しい蓮池を備えた古の都城を発見したとそのように想定せよ。
諸君、その時、その人物は王、または王の大臣にこう報告したのである。
「尊き方に申し上げます。わたしは人なき林を彷徨っていたのですが、そのさい偶然にも古代の人々が歩いた古い小径を発見したのであります。
そして、その路に沿ってずっとわたしは歩み行きました。すると、その先には古人の暮らしていた古城があったのであります。
それは荘苑もあり、岸辺も麗しい蓮池を備えた古えの都城でありました。
尊き方よ、願わくばかしこに城邑(城下町)を築かしめたまえ」と。
さあ君たちよ。そこで王は早速そこに城下町を作らせたところ、やがて、その城下町は栄え、人々はあまた集まり来たりて繁栄を極めるに至ったのである。
⚫ それと同じく、わたしはまさに過去の正等覚者たちが辿った古道、小径を発見したのである。
⚫ では諸君、過去の諸仏が辿って来た径とは何であろうか?
⚫ それはかの聖なる八段階の道のことである。
すなわち、
1正しい見解(無常世界に真の幸福、安らぎ、自由は存在しないという見解)
2正しい思索(邪悪、貪り、無痴を離れた思考)
3正しい言葉(悪心を背景とした悪口、二枚舌、ウソ、ギャグなどの綺語を離れ真実を語る)
4正しい行い(生き物を傷つけない、邪淫、飲酒から離れる)
5正しい生活(詐欺、強盗、屠殺業その他から離れ、托鉢乞食によって生活する)
6正しい奮闘努力(四正勤:ググってね)
7正しい瞑想(四念処)
8正しいサマディ
である。
⚫ 君たち、
これが【過去の正等覚者】たちが辿った古道、小径であり、
この道にしたがい行きてわたしもまた、老死を知り、老死のよって来るところを知り、老死のよって滅するところを知り、また老死の滅に至る道を知ったのである。
⭐(つまり、理屈を色々考えついたのだとは言ってない)
君たちよ、わたしはまた(・・・十二縁起が説かれる)
さあ、君たちよ、わたしはそれらの事を知って、比丘、比丘尼、ならびにウパーサカ(在家帰依信徒)、ウパーシカ(在家帰依信女)に説いた。
従って君たちよ、この様な経緯を経て、この聖なる修道体系は次第に広まり、多くの人々よって知られ、また説かれるようになったのである。