【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 5最終更新 2026/11/04 00:231.◆JBLfMwCXhYXBX7C中国仏教のツートップ天台教学・華厳教学を学ぶ前スレ【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 4https://talk.jp/boards/psy/17908098222026/10/20 18:29:01524コメント欄へ移動すべて|最新の50件475.◆JBLfMwCXhYzI8c1「ボクは日常生活で修行しているから、坐禅など必要ない」「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」なんか、両方いってた気がするそのときどきで、コロコロ変わってた2026/11/03 17:26:24476.◆JBLfMwCXhYzI8c1「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」いや、でも確か、最終結論はコレだったよ2026/11/03 17:28:13477.◆JBLfMwCXhYzI8c1でも、むしろよく、坐禅をやめられたな長いことやってきたのに、習慣にならなかったのか2026/11/03 17:29:42478.◆JBLfMwCXhYzI8c1「意味がないと気づいたので、やめた」というが意味があるからやるってもんじゃないだろ😅2026/11/03 17:30:41479.◆JBLfMwCXhYzI8c1「私は、坐禅など意味がないと気づいた」というのは気づいたわけではない頭の中で、理屈が出来上がったのだ2026/11/03 17:31:59480.◆JBLfMwCXhYzI8c1修行不要論は、理論だ名前の通り、修行は不要であるという理論だ本当に何も考えてないのなら、坐禅をそのまま続ける(笑)修行不要論という理屈に染まったから、やめたのだ2026/11/03 17:42:20481.◆JBLfMwCXhYzI8c1本当に何も考えてない人が修行不要論など主張するはずがない2026/11/03 17:46:33482.◆JBLfMwCXhYzI8c1「私は頭が悪くて、何も考えていない」というが頭が悪いのは否定しないけど「何も考えてない」というのは、ウソ2026/11/03 17:47:26483.◆JBLfMwCXhYzI8c1おのれの頭の悪さを自覚しているのならそれこそ、「イワシの頭も信心」で愚直にやってみたらどうなのか?2026/11/03 17:55:36484.◆JBLfMwCXhYzI8c1頭脳はイワシ並みだがプライドは海の王者・シャチ並み2026/11/03 17:57:34485.◆JBLfMwCXhYzI8c1頑固さは、カメの甲羅並み2026/11/03 18:00:46486.◆JBLfMwCXhYjwnyi本当何も考えてない人だと、こうなる↓「いや~、坐禅って、ほんっとに、いいもんですね~😆」2026/11/03 18:04:48487.◆JBLfMwCXhYjwnyiこれは、理屈っぽい人がいうセリフだろ↓「坐禅など、悟るための修行であり、必要のないものである。私には必要ないと気づいた。だから、坐禅をやめた」2026/11/03 18:05:47488.◆JBLfMwCXhYjwnyi別に、理屈っぽくてもいいんだけどな~理屈っぽさにかけては、こっちもヒトのこと言えんし~でも、少なくとも、それを自覚すべきと思うんだよな変な理屈で、自分の理屈っぽさをゴマカすべきではない2026/11/03 18:12:55489.。iEkIW奴って⁉️2026/11/03 18:43:19490.。iEkIW実際の坐禅は少なくとも見性~悟りに至ると自動的にそうなる姿であって悟っていないのに形だけ悟った人の真似をするのが凡夫の坐禅ですね。2026/11/03 18:48:12491.。iEkIWだから真似だから何十年坐禅しても見性はおろか悟りすら起こらず大悟などは夢のまた夢となるということですね。2026/11/03 18:50:20492.。iEkIW先ずは無分別三昧の第四禅定を目指す‼️その為には一次的にでも先ず、思考・雑念を一次的停止可能なスキルを習得することが求められる。ただ坐禅してもダメです‼️2026/11/03 18:53:44493.神も仏も名無しさんB802s>>488曹洞宗に臨済宗要素が濃すぎると厄介だなま、デンパパ📡みたいに偽者科学的なのも、もっと酷いが😀2026/11/03 19:21:50494.神も仏も名無しさんB802sデンパパ📡論外👽自覚がないよーだ👽2026/11/03 19:26:14495.◆JBLfMwCXhYjwnyi曹洞宗の良さが失われているな2026/11/03 19:29:28496.◆JBLfMwCXhYjwnyi只管打坐の原点に戻るべし2026/11/03 19:29:45497.神も仏も名無しさんB802s臨済宗のホンモノは厄介だからホント、力説する気がおきん、あれは、ハッスルや麦の気がしれんムイムイもだけど😅2026/11/03 19:38:23498.◆JBLfMwCXhYjwnyiただ、坐る2026/11/03 19:38:39499.神も仏も名無しさんgIjNl一流の仏教学者禅宗の悟りが、インド仏典に記された悟りと同じであるとは考えられないので、私には解りません…。2026/11/03 20:02:27500.神も仏も名無しさんJfzC3シェリング研究効果が意外なところで出てきた疲労回復テクニックで😀2026/11/03 20:39:28501.ゴンぎつねswnOg仏教内部でも輪廻転生を文字通り受け入れる立場だけでなく象徴的に或いは心理的に読む立場もあります。更に仏教のおかしい点は魂が無いのに何故生まれ変わるのか。現実を見つめる禅宗と超自然的な真言密教が同じ仏教なのか。科学的に確認出来ない輪廻転生や功徳を何故信じるのか。宗派によってかなり教えが違うのに何故仏教と人括りにされてるのか。つまり仏教は初めから一枚岩の教義だったのではなく苦しみを減らす実践を中心にインド中国日本で長い年月をかけて変化した集合体だからです。ボイン❗だから、輪廻転生や密教を信じられなくても仏教の中にある執着心を減らす、自分の思い込みを気が付く、苦しみを観察する、といった部分だけを世間で評価することは出来ますばい。だから一般人が超自然的な部分に納得出来ないなら仏教全体を信じる必要はあ~りません。宗教として信じるか、心理的とするか、哲学としてか、修行方法として一部分を使うかは分けて考えてよいものです。😃2026/11/03 20:42:58502.ゴンぎつねswnOg仏教は一枚岩ではありません。禅宗、真言密教、輪廻転生、などなど、つまり、心理学、哲学、儀礼、神話、神通力、宇宙世界観が全部混ざっているのです。ボイン❗実際に仏教はインド中国日本へ渡る過程でさまざまな思想や文化を取り込んでて多様な宗派に成りましたの。2026/11/03 20:53:09503.神も仏も名無しさんJfzC3キルケゴールは哲学者としてなかなかだ😀2026/11/03 20:56:27504.ゴンぎつねswnOgそもそも科学的に疑わしい、輪廻転生や極楽浄土や地獄などの死後の世界は科学で確認された事実ではないのにそこを絶対的な真実とするのは宗教ならではです。2026/11/03 20:56:41505.神も仏も名無しさんJfzC3他人事の評論家でないキルケゴールはかなり攻めている😀2026/11/03 20:57:35506.ゴンぎつねswnOg禅宗ではいまここでの自己のありかた、なのに、密教では宇宙世界観の仏の体系化する、更に浄土系統では来世や極楽浄土が意味を持つ。これを全部同じ仏教と呼ぶのはおかしいボイン❗2026/11/03 20:59:32507.神も仏も名無しさん5ks4P「現実」という、超越的観念的なものを排するところとその「現実」を超えたなにものかの、二つに分けてどちらが実在なのか、主であり従であるかとする立場で争う傾向なのが西洋の思想哲学だけれど仏教は、方法として二つに分けて説明するところはあっても、その「分けてみる」ことそれ自体を否定する2026/11/03 21:00:24508.ゴンぎつねswnOg仏教は後生の要素が多い。仏教は釈迦の教えだけでなく後生の解釈、伝説、寺院制度、民族信仰が重なっております。そのため初期仏教と日本仏教はかなり違う。ボイン❗2026/11/03 21:02:14509.神も仏も名無しさんJfzC3>>507西欧哲学に劣化した肉弾戦のキルケゴールは意外にオモロイ😀2026/11/03 21:04:45510.神も仏も名無しさん5ks4P密教はヒンドゥー教と習合してるものだからそこに仏教としての引っ掛かりを見るのは分かるが「仏教」と呼ばれるものは、生死の苦の此岸から解脱の彼岸に渡る方法が示されてるもので彼岸に渡り切れば彼岸も此岸もなくなる、というものとして共通してる2026/11/03 21:05:56511.ゴンぎつねswnOg仏教は異なる時代、異なる地域の思想が巨大なひとつの看板に入っているから矛盾がハッキリ見えやすいのです。ボイン❗2026/11/03 21:06:05512.神も仏も名無しさんJfzC3キルケゴール並みの肉弾戦でのたうち回るところに立たないのはどうかな?感はあるね😀2026/11/03 21:08:18513.神も仏も名無しさんJfzC3キルケゴールみたいなアナログ戦闘なんかやる気にならんけどな、俺は😀2026/11/03 21:09:07514.神も仏も名無しさん5ks4P>>511「仏教」として語られてる、ことばや教えから「思想」としてとらえると仏教はそれぞれの宗派で違う矛盾だらけでもその教えを「思想」として見ず、ことばや教えで示されてるところから見ると、解脱成道を示すものは当然に仏教は共通してるもの2026/11/03 21:10:51515.神も仏も名無しさん5ks4Pこの辺からの思想、文献としての取り扱いから仏教を批判する視点というのも西洋の近代からの学術、哲学や科学方法を唯一の「正しい」ものの見方としてそこからすべてを解釈しなおそうとするところから起こる問題だろね2026/11/03 21:14:59516.神も仏も名無しさんJfzC3西欧人の発想に詳しくなかったので最近マイブームだ😀たまに役に立つインスピレーションがある時がある😀2026/11/03 21:16:43517.神も仏も名無しさんJfzC3鈴木大拙点数付ける動画見つけた意外にAI要約オモシロかった😀欧米人向けに再構築された禅: 鈴木が欧米に禅を伝える際、当時の西洋哲学や神秘主義と共鳴しやすい形に「翻訳」・再構成した側面が指摘されます。これにより、本来の仏教的な文脈から切り離された、ある種の「創作された禅」あるいは「逆オリエンタリズム(東洋は精神的に優れているとする枠組み)」に基づいた表現になっているのではないかという議論です。学術的・歴史的な限界: 鈴木の禅研究は、現代の文献学的な仏教研究や歴史学的な視点からは、史料の扱いや歴史認識において限界があると指摘されています。特に、中国の禅宗史を重視する研究者(例えば胡適など)からは、歴史的な客観性を欠いているとの批判もありました。これらの批判は、鈴木大拙が「禅を世界に広めた功績」を否定するものではなく、むしろ「いかにして彼が禅を語ったのか」「その言葉がどのような歴史的文脈を背負っていたのか」という、より深い理解と再評価を求める文脈で語られています2026/11/03 21:33:17518.神も仏も名無しさんJfzC3これだ😀https://m.youtube.com/watch?v=-IJIpPx3lRg&t=150s2026/11/03 21:34:46519.神も仏も名無しさんgIjNl一流の仏教学者曹洞宗も臨済宗も悟りを得た人が数多くいるので、ここはひとつ、神通力バトルで決着をつけてもらいましょう。2026/11/03 22:02:31520.神も仏も名無しさんgIjNl一流の仏教学者「見性」って全く意味が解らない。四向四果の具体的にどこなの? 菩薩のステージの具体的にどこなの?大竹晋先生の『「悟り体験」を読む』では、十地の歓喜地の最初が見道であり中国禅宗を中心にして見性という言葉で呼ぶようになった、という内容が書かれていますまた、部派仏教の預流向に配される見道と大乗仏教の見性は内実が異なっている、という内容も書かれています見道=四諦、見性=空性=悟り2026/11/03 22:07:32521.。0Z7QO≫只管打坐の原点に戻るべしそれは少なくとも中国で第四禅定の身心脱落までいった道元がやることねそれを誰にでもやらせたのは道元の間違いです。2026/11/04 00:18:27522.。0Z7QOウダーナヴァルガでお釈迦様が語った究竟涅槃の様相般若心経と比較してください。https://i.imgur.com/Q3ctbBC.jpeg2026/11/04 00:20:47523.。0Z7QO 城邑パーリ仏典のサンユッタ・ニカーヤの12、65「城邑」漢訳阿含経の雑阿含の12、5 「城邑」では修行者諸君、例えばここに人がいたとせよ。彼は林で道に迷い、彷徨った挙げ句、ふと偶然、古代の人々が辿った小径を発見したとしよう。その人は、その路にしたがい歩み行きて、そこで古(いにしえ)の人々が暮らしていた古城、そして荘苑、岸辺も麗しい蓮池を備えた古の都城を発見したとそのように想定せよ。諸君、その時、その人物は王、または王の大臣にこう報告したのである。「尊き方に申し上げます。わたしは人なき林を彷徨っていたのですが、そのさい偶然にも古代の人々が歩いた古い小径を発見したのであります。そして、その路に沿ってずっとわたしは歩み行きました。すると、その先には古人の暮らしていた古城があったのであります。それは荘苑もあり、岸辺も麗しい蓮池を備えた古えの都城でありました。尊き方よ、願わくばかしこに城邑(城下町)を築かしめたまえ」と。さあ君たちよ。そこで王は早速そこに城下町を作らせたところ、やがて、その城下町は栄え、人々はあまた集まり来たりて繁栄を極めるに至ったのである。2026/11/04 00:21:00524.。0Z7QOそこでだ、君たち。⚫ それと同じく、わたしはまさに過去の正等覚者たちが辿った古道、小径を発見したのである。⚫ では諸君、過去の諸仏が辿って来た径とは何であろうか?⚫ それはかの聖なる八段階の道のことである。すなわち、1正しい見解(無常世界に真の幸福、安らぎ、自由は存在しないという見解)2正しい思索(邪悪、貪り、無痴を離れた思考)3正しい言葉(悪心を背景とした悪口、二枚舌、ウソ、ギャグなどの綺語を離れ真実を語る)4正しい行い(生き物を傷つけない、邪淫、飲酒から離れる)5正しい生活(詐欺、強盗、屠殺業その他から離れ、托鉢乞食によって生活する)6正しい奮闘努力(四正勤:ググってね)7正しい瞑想(四念処)8正しいサマディである。⚫ 君たち、これが【過去の正等覚者】たちが辿った古道、小径であり、この道にしたがい行きてわたしもまた、老死を知り、老死のよって来るところを知り、老死のよって滅するところを知り、また老死の滅に至る道を知ったのである。⭐(つまり、理屈を色々考えついたのだとは言ってない)君たちよ、わたしはまた(・・・十二縁起が説かれる)さあ、君たちよ、わたしはそれらの事を知って、比丘、比丘尼、ならびにウパーサカ(在家帰依信徒)、ウパーシカ(在家帰依信女)に説いた。従って君たちよ、この様な経緯を経て、この聖なる修道体系は次第に広まり、多くの人々よって知られ、また説かれるようになったのである。2026/11/04 00:23:30
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天台教学・華厳教学を学ぶ
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【天台三年】 教学探究 統合スレッド 【華厳八年】 4
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「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
なんか、両方いってた気がする
そのときどきで、コロコロ変わってた
「私は日常生活で修行などしていない。何の修行もしていない」
いや、でも
確か、最終結論はコレだったよ
よく、坐禅をやめられたな
長いことやってきたのに、習慣にならなかったのか
意味があるからやるってもんじゃないだろ😅
気づいたわけではない
頭の中で、理屈が出来上がったのだ
名前の通り、修行は不要であるという理論だ
本当に何も考えてないのなら、坐禅をそのまま続ける(笑)
修行不要論という理屈に染まったから、やめたのだ
修行不要論など主張するはずがない
頭が悪いのは否定しないけど
「何も考えてない」というのは、ウソ
それこそ、「イワシの頭も信心」で
愚直にやってみたらどうなのか?
プライドは海の王者・シャチ並み
↓
「いや~、坐禅って、ほんっとに、いいもんですね~😆」
↓
「坐禅など、悟るための修行であり、必要のないものである。私には必要ないと気づいた。だから、坐禅をやめた」
理屈っぽさにかけては、こっちもヒトのこと言えんし~
でも、少なくとも、それを自覚すべきと思うんだよな
変な理屈で、自分の理屈っぽさをゴマカすべきではない
少なくとも
見性~悟りに至ると
自動的にそうなる姿であって
悟っていないのに
形だけ悟った人の真似をするのが
凡夫の坐禅ですね。
真似だから何十年坐禅しても
見性はおろか悟りすら起こらず
大悟などは
夢のまた夢となるということですね。
無分別三昧の
第四禅定を目指す‼️
その為には
一次的にでも
先ず、思考・雑念を一次的停止可能な
スキルを習得することが求められる。
ただ坐禅してもダメです‼️
曹洞宗に臨済宗要素が濃すぎると
厄介だな
ま、デンパパ📡みたいに偽者科学的なのも、もっと酷いが
😀
自覚がないよーだ👽
ホント、力説する気がおきん、
あれは、
ハッスルや麦の気がしれん
ムイムイもだけど
😅
禅宗の悟りが、インド仏典に記された悟りと同じであるとは考えられないので、私には解りません…。
意外なところで出てきた
疲労回復テクニックで
😀
象徴的に或いは心理的に読む立場もあります。
更に
仏教のおかしい点は
魂が無いのに何故生まれ変わるのか。
現実を見つめる禅宗と超自然的な真言密教が同じ仏教なのか。
科学的に確認出来ない輪廻転生や功徳を何故信じるのか。
宗派によってかなり教えが違うのに何故仏教と人括りにされてるのか。
つまり仏教は初めから一枚岩の教義だったのではなく
苦しみを減らす実践を中心にインド中国日本で長い年月をかけて変化した集合体だからです。ボイン❗
だから、輪廻転生や密教を信じられなくても仏教の中にある執着心を減らす、自分の思い込みを気が付く、苦しみを観察する、といった部分だけを世間で評価することは
出来ますばい。
だから
一般人が超自然的な部分に納得出来ないなら仏教全体を信じる必要はあ~りません。
宗教として信じるか、心理的とするか、哲学としてか、修行方法として一部分を使うかは分けて考えてよいものです。😃
禅宗、真言密教、輪廻転生、などなど、
つまり、心理学、哲学、儀礼、神話、神通力、宇宙世界観が全部混ざっているのです。ボイン❗
実際に仏教はインド中国日本へ渡る過程でさまざまな思想や文化を取り込んでて多様な宗派に成りましたの。
なかなかだ😀
キルケゴールはかなり攻めている
😀
これを全部同じ仏教と呼ぶのはおかしい
ボイン❗
その「現実」を超えたなにものかの、
二つに分けてどちらが実在なのか、主であり従であるかとする立場で争う傾向なのが西洋の思想哲学だけれど
仏教は、方法として二つに分けて説明するところはあっても、その「分けてみる」ことそれ自体を否定する
仏教は釈迦の教えだけでなく後生の解釈、伝説、寺院制度、民族信仰が重なっております。
そのため初期仏教と日本仏教はかなり違う。ボイン❗
西欧哲学に劣化した肉弾戦の
キルケゴールは
意外にオモロイ😀
「仏教」と呼ばれるものは、生死の苦の此岸から解脱の彼岸に渡る方法が示されてるもので
彼岸に渡り切れば彼岸も此岸もなくなる、というものとして共通してる
矛盾がハッキリ見えやすいのです。
ボイン❗
のたうち回るところに
立たないのは
どうかな?
感はあるね😀
俺は😀
「仏教」として語られてる、ことばや教えから「思想」としてとらえると仏教はそれぞれの宗派で違う矛盾だらけ
でもその教えを「思想」として見ず、ことばや教えで示されてるところから見ると、解脱成道を示すものは当然に仏教は共通してるもの
西洋の近代からの学術、哲学や科学方法を唯一の「正しい」ものの見方としてそこからすべてを解釈しなおそうとするところから起こる問題だろね
最近マイブームだ😀
たまに役に立つインスピレーションがある時がある😀
意外にAI要約オモシロかった😀
欧米人向けに再構築された禅: 鈴木が欧米に禅を伝える際、当時の西洋哲学や神秘主義と共鳴しやすい形に「翻訳」・再構成した側面が指摘されます。これにより、本来の仏教的な文脈から切り離された、ある種の「創作された禅」あるいは「逆オリエンタリズム(東洋は精神的に優れているとする枠組み)」に基づいた表現になっているのではないかという議論です。
学術的・歴史的な限界: 鈴木の禅研究は、現代の文献学的な仏教研究や歴史学的な視点からは、史料の扱いや歴史認識において限界があると指摘されています。特に、中国の禅宗史を重視する研究者(例えば胡適など)からは、歴史的な客観性を欠いているとの批判もありました。
これらの批判は、鈴木大拙が「禅を世界に広めた功績」を否定するものではなく、むしろ「いかにして彼が禅を語ったのか」「その言葉がどのような歴史的文脈を背負っていたのか」という、より深い理解と再評価を求める文脈で語られています
https://m.youtube.com/watch?v=-IJIpPx3lRg&t=150s
曹洞宗も臨済宗も悟りを得た人が数多くいるので、ここはひとつ、神通力バトルで決着をつけてもらいましょう。
「見性」って全く意味が解らない。四向四果の具体的にどこなの? 菩薩のステージの具体的にどこなの?
大竹晋先生の『「悟り体験」を読む』では、十地の歓喜地の最初が見道であり中国禅宗を中心にして見性という言葉で呼ぶようになった、という内容が書かれています
また、部派仏教の預流向に配される見道と大乗仏教の見性は内実が異なっている、という内容も書かれています
見道=四諦、見性=空性=悟り
それは
少なくとも
中国で第四禅定の身心脱落までいった
道元がやることね
それを誰にでもやらせたのは
道元の間違いです。
般若心経と比較してください。
https://i.imgur.com/Q3ctbBC.jpeg
パーリ仏典のサンユッタ・ニカーヤの12、65「城邑」
漢訳阿含経の雑阿含の12、5 「城邑」
では修行者諸君、例えばここに人がいたとせよ。
彼は林で道に迷い、彷徨った挙げ句、ふと偶然、古代の人々が辿った小径を発見したとしよう。
その人は、その路にしたがい歩み行きて、そこで古(いにしえ)の人々が暮らしていた古城、そして荘苑、岸辺も麗しい蓮池を備えた古の都城を発見したとそのように想定せよ。
諸君、その時、その人物は王、または王の大臣にこう報告したのである。
「尊き方に申し上げます。わたしは人なき林を彷徨っていたのですが、そのさい偶然にも古代の人々が歩いた古い小径を発見したのであります。
そして、その路に沿ってずっとわたしは歩み行きました。すると、その先には古人の暮らしていた古城があったのであります。
それは荘苑もあり、岸辺も麗しい蓮池を備えた古えの都城でありました。
尊き方よ、願わくばかしこに城邑(城下町)を築かしめたまえ」と。
さあ君たちよ。そこで王は早速そこに城下町を作らせたところ、やがて、その城下町は栄え、人々はあまた集まり来たりて繁栄を極めるに至ったのである。
⚫ それと同じく、わたしはまさに過去の正等覚者たちが辿った古道、小径を発見したのである。
⚫ では諸君、過去の諸仏が辿って来た径とは何であろうか?
⚫ それはかの聖なる八段階の道のことである。
すなわち、
1正しい見解(無常世界に真の幸福、安らぎ、自由は存在しないという見解)
2正しい思索(邪悪、貪り、無痴を離れた思考)
3正しい言葉(悪心を背景とした悪口、二枚舌、ウソ、ギャグなどの綺語を離れ真実を語る)
4正しい行い(生き物を傷つけない、邪淫、飲酒から離れる)
5正しい生活(詐欺、強盗、屠殺業その他から離れ、托鉢乞食によって生活する)
6正しい奮闘努力(四正勤:ググってね)
7正しい瞑想(四念処)
8正しいサマディ
である。
⚫ 君たち、
これが【過去の正等覚者】たちが辿った古道、小径であり、
この道にしたがい行きてわたしもまた、老死を知り、老死のよって来るところを知り、老死のよって滅するところを知り、また老死の滅に至る道を知ったのである。
⭐(つまり、理屈を色々考えついたのだとは言ってない)
君たちよ、わたしはまた(・・・十二縁起が説かれる)
さあ、君たちよ、わたしはそれらの事を知って、比丘、比丘尼、ならびにウパーサカ(在家帰依信徒)、ウパーシカ(在家帰依信女)に説いた。
従って君たちよ、この様な経緯を経て、この聖なる修道体系は次第に広まり、多くの人々よって知られ、また説かれるようになったのである。