【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 7【倶舎八年】最終更新 2024/12/12 07:551.◆JBLfMwCXhYet5dQ倶舎論、中論、唯識論かなり難しい話だ😫前スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 6【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/17091578032024/06/29 18:57:09476コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYet5dQインドの仏教思想 主な流れ1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃 お釈迦様の教え2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃 いわゆる小乗仏教、南方で継承される3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃 部派仏教の時代、最も有力な部派4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~ 説一切有部から分派、世親はここの出身5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~ 空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~ 阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、 「誰でも成仏できる」という思想2024/06/29 18:57:243.◆JBLfMwCXhYet5dQ初期仏教の世界観五蘊・十二処・十八界1、五蘊(ごうん)・色 物質的な存在(身体)・受 感受する作用・想 表象する作用・行 意志する作用・識 認識する作用→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。「我」として執着するような実体は無い2、十二処(じゅうにしょ)・六根:六つの認識器官眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・六境:六つの認識対象色境・声境・香境・味境・触境・法境六根と六境を合わせて十二処3、十八界(じゅうはちかい)・六識:六つの認識作用眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識十二処に六識を加えて十八界→自分が認識しているもの、それが世界のすべてである2024/06/29 18:57:414.◆JBLfMwCXhYet5dQお釈迦様の入滅後、多くの部派に分かれて、仏教理論の体系化が進んだ最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた↓(1)五位七十五法法(ダルマ)=存在するものに2種類・有為(うい)…煩悩で汚れたもの・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの1~4は有為法、5は無為法1、色・・・物質的現象 11種類 眼・耳・鼻・舌・身・ 色・声・香・味・触・ 無表色2、心・・・心の本体 1種類3、心所・・・心の作用 46種類 大地 常駐する心の動き 大善地 善の動き 大不善地 悪の動き 不定 どちらでもない心の動き 大煩悩地 根本的な煩悩 小煩悩地 付随する煩悩4、心不相応行・・・ 14種類色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの5、無為・・・ 3種類常住不変な存在虚空、択滅、非択滅2024/06/29 18:57:595.◆JBLfMwCXhYet5dQお釈迦様が入滅して数百年の後、大乗仏教が登場した中観派は「空」の思想を唱えた説一切有部と違って、中観派は実体を持って存在するものなど一切、認めなかった中観派の創始者である龍樹は『中論』などの著作により、「空」の理論を大成した空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、龍樹は大乗の第一祖とされる2024/06/29 18:58:276.◆JBLfMwCXhYet5dQ小乗仏教の時代、倶舎論の五位七十五法は「実体のある存在の構成要素」と考えられていただが、大乗仏教の時代には、「実体のある存在など無い」という空の思想が主流になった(ここでいう『実体がある』とは、『永遠で不変の存在』というような意味)唯識派は、倶舎論の五位七十五法を「空」の思想に基づいて書き換えた眼耳鼻舌身の五識と意識に、深層意識の「末那識」と「阿頼耶識」が加わった心の分析が細かくなり、五位百法に増えた「物質は意識から生じる」とされたため、色法(物質的存在)を後回しにして心法(精神的存在)を先に持ってきた↓五位百法① 心王(表面意識と深層意識)眼・耳・鼻・舌・身・意の六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。② 心所(精神的な作用)51種。③色(物質的な作用)眼・耳・鼻・舌・身の五根と、色・声・香・味・触法の五対境、および意識のみの対象である法処所摂色11種。④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)24種。⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如6種。2024/06/29 18:58:447.◆JBLfMwCXhYet5dQテンプレはここまで2024/06/29 18:59:038.◆JBLfMwCXhYet5dQ唯識の思想著者 横山紘一要点1私たちは「自分」や「もの」が存在していると考えているが、あるのはただ心の働きだけで、「自分」や「もの」は存在しないと考えるのが唯識思想。要点2「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される。要点3物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる。善業によって阿頼耶識は清められ、悪業によって濁る。阿頼耶識が濁ればその人の世界も汚れて暗くなる。善い行いをすることは自身の世界を清め、自分のためにもなる。2024/06/29 19:02:359.◆JBLfMwCXhYet5dQ唯識思想の要約心だけしか存在しない仏教を興した釈尊の根本的教理とは、「自分」は存在しないという教え、すなわち「無我」である。「手を見てください。それはだれの手ですか」と問いかけてみると、聞かれた人は必ず「自分の手です」と答える。「いまあなたが言った自分という言葉に対応するものがあるでしょうか」と再び問いかけると、相手は困った顔をするだけで、答えが返ってくることはない。なぜなら、「自分」という言葉が指し示すものを発見できないからだ。あるのは「自分」という言葉だけなのに、あたかも自分というものが存在するかの如くに思い、すべての行動の主体、主人公としてとらえるのは自分本位なことである。静かに心の中を観察すると、存在するのは唯だ(ただ)手、足、身体、あるいは心の働きだけだ。これを自分のものと誤認しているという事実を認識することから、仏教理解が始まるといっても過言ではない。2024/06/29 19:03:1710.◆JBLfMwCXhYet5dQ身心を構成する諸要素があるだけで、それらから構成される我(自分)が存在しないゆえに無我なのだ。そして、この「唯だ」あるのはなにかという探究をとおして、すべての存在の構成要素が心の中に認識されて初めて成立するとしたのが、「唯識」という思想である。唯識とは、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて阿頼耶識(あらやしき)から生じたもの、変化したものである」と主張する思想だ。すべては心の中にあり、心の外にはものはない。2024/06/29 19:03:3311.◆JBLfMwCXhYet5dQ一人一宇宙私たちは1つの共通の宇宙に住んでいると思っている。しかしそれは、人間同士が言葉で語り合うことで、「ある」と認め合った抽象的な存在に過ぎない。朝、目を覚ますと、その人の宇宙がいわばビッグバンを起こして再び生じる。個人が毎朝経験するこのビッグバンによって生じた宇宙には、決して他人が入ってくることはできない。この「一人一宇宙」を〈人人(にんにん)唯識〉という。3人いれば3つの世界がある。たとえば「そこに1本の木がある」と3人で言い合うとき、3人の外に実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中にある木の影像(観念)があるだけである。3人が言葉をとおして、あたかも1本の木があるが如くに認め合っているにすぎないのだ。一人一宇宙だから、その個人の気分がすぐれなければ暗い世界となり、うれしいことがあれば明るい世界に変わる。私たちは、自分の心の中にある一宇宙に閉じ込められていて、そこから抜け出すことはできない。2024/06/29 19:03:4812.◆JBLfMwCXhYet5dQ感覚、思い、言葉「感覚」が感じとったものを「思い」で色づけし、「言葉」として語ることで、心が織りなす世界をはっきり認識できる。たとえば、誰かに対して私たちは憎いという「思い」を生じさせ、「あの人は憎い人だ」と「言葉」で決めつける。その人そのものは本来はいわば無色の人なのに、キャンバスの絵が色付けされていくように、私の思いと言葉によって「憎い人」になるのだ。世界はもともと無色だった。2024/06/29 19:04:1313.◆JBLfMwCXhYrZNAW1人1宇宙これがピンとくれば、唯識論が分かったも同然だ2024/06/30 07:05:1914.◆JBLfMwCXhYrZNAWついでに、現代ドイツ哲学の新・観念論も分かる2024/06/30 07:05:4915.◆JBLfMwCXhYrZNAW1人1宇宙これを、「世界が有る。それを、1人1人が個別バラバラに認識している」ということだと思うなら、まだピンと来ていないそうではなくて、「世界は無い。1人1人が、それぞれの『世界』を見ているだけ」ということだ2024/06/30 07:09:0816.◆JBLfMwCXhYrZNAWこれを以前から、「オンラインゲームの例え」で説明してきた(どうも不評だが😫)ネットカフェで、個室のブースが並んでいるそれぞれの個室の中では、ゲームオタクがリクライニングシートに座って、ヘッドギアを着けている皆がそれぞれ、ゲームのデータをサーバー、つまり中央のホストコンピュータからダウンロードするダウンロードしてログインする。それぞれの端末のコンピュータは、過去のプレイ履歴のデータに基づき、プレイヤーのアバターを自動生成して、ゲーム世界に投入するプレイヤーは、リアルな立体映像と、360度のサラウンド音声の世界で、アバターになりきってゲーム世界を探索するゲーム内で死んだら、ゲームオーバーだ2024/06/30 07:15:4417.◆JBLfMwCXhYrZNAWこの例えで何を言いたいのかというと、「1人1宇宙」ということだ世界は、どこにあるのか?それは、1人1人のプレイヤーの端末コンピュータの中だそれぞれが、リアルな立体映像とサラウンド音声の世界に没入している自分1人ならともかく、別の個室ブースにいるゲーム仲間たちがいて、一緒にゲーム世界を探索したり、戦闘したりできるあまりにリアルな上に、自分だけじゃなくて他人もいるだから、なんだか、こんな世界が本当にリアルに存在するんじゃないかと思えてくるだが、実体のある世界など存在しない2024/06/30 07:19:3018.◆JBLfMwCXhYrZNAW「この世界と自分は、本当は存在しない」これがピンと来るのは、非常にハードルが高い2024/06/30 07:23:4919.◆JBLfMwCXhYrZNAW最終的には、空性の現量了解だ2024/06/30 08:01:2620.◆JBLfMwCXhYrZNAWチベット仏教ゲルク派だ2024/06/30 08:01:4021.◆JBLfMwCXhYrZNAWチベット仏教ゲルク派 宗学研究室何のために空を覚るのか【苦諦】 まず最初に、私たちが生死を繰り返している六道輪廻の本質を、苦だと知る必要があります。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣はもちろんのこと、人間・阿修羅・天の三善趣も苦しみの世界です。天には一見苦しみが無さそうですけれど、長い寿命が尽きて転落が差し迫ったときの苦悩は、地獄以上のものだといいます。【集諦】 そこで次に、そうした苦の原因を追求しなければいけません。苦の直接の原因は、業(カルマ)だといいます。そして業は、諸煩悩によって惹き起こされます。だから、苦を完全に止滅させるためには、諸煩悩を種子から断つ必要があります。諸煩悩の大もとにあるのは無明(我執)ですから、これを種子から断じることが一番肝要です。【滅諦】 あるレベルの苦の原因となる煩悩と無明を種子から断じたら、その苦はもはや生じません。それゆえ、諸々の煩悩と無明を完全に種子から断じたら、一切の苦が止滅します。そのような境地を解脱や涅槃といい、これを実現することこそ、仏教一般に共通するの宗教的な理想です。【道諦】 そうした理想の境地を実現するための手段が、修行の道として設定されます。今までの流れから分かるように、道の主たる内容は、諸煩悩を種子から断じることです。そのためには、諸煩悩の大もとにある無明を種子から断じなければなりません。無明とは何かといえば、私たち輪廻の衆生に生まれつき具わっている実体視の習性です。それを種子から断じるためには、空性の現量了解(空を直観的に体得している智慧)が必要になります。なぜなら、無明の心が虚構している実体性の非存在こそが、空の意味だからです。2024/06/30 08:02:4722.◆JBLfMwCXhYrZNAWこの四諦の枠組みを大乗仏教のレベルで解釈すると、宗教的な理想は、大解脱や無住処涅槃、つまり一切衆生を救済し得る仏陀の境地になります。それを実現するために断じなければならないのは、諸煩悩と所知障です。所知障とは、中観帰謬論証派の見解によれば、煩悩の薫習だといいます。恰も汚物を完全に取り除いた後にも悪臭が残るように、煩悩の影響で後に残っている心の汚れです。これを断じるのも、空性の現量了解にほかなりません。2024/06/30 08:04:4623.◆JBLfMwCXhYrZNAWさて、無明を種子から断じるためには、空性の了解が必要なわけですが、これは空を直観的に体得している智慧でなければなりません。それを、仏教哲学の用語では、「空性の現量了解(げんりょう りょうげ)」といいます。空という真理は、目で見たり手で触れたりできません。しかし、恰も目で見ているように、手で触れているように、意識によって直観的に空を体得しなければならないということです。そのようなレベルの智慧を獲得しない限り、諸煩悩を種子から断じることはできません。私のような凡夫は、まだ空性の現量了解を得ていないから、煩悩を抑制することはできても、根絶することは不可能なのです。2024/06/30 08:05:0624.◆JBLfMwCXhYrZNAWでは、空性の現量了解は、どのようにしたら獲得できるのでしょうか? 無念無想で座禅していて突如ひらめく・・・というようなものでは、決してありません。そうではなく、まず空性を推論的・概念的に理解することから始めるのです。そのためには、中観派の見解をよく学び、空の意味を徹底的に吟味する必要があります。自分の心の中で、「諸煩悩の大もとにある実体視の習性とは、どのような心の動きか? その心によって虚構された実体性とは何か? そのような実体性が本当に存在したら、どのような矛盾に陥るか?」といった点について検証を重ね、十分な納得を引き出すことが大切です。そのようにして得られた結論を、「聞と思による空性了解」といいます。2024/06/30 08:05:2325.◆JBLfMwCXhYrZNAWしかしそれは、いわば頭の中の理解にすぎません。そこで次の段階として、止観の修習(瞑想)を通じ、これを体得してゆく必要があります。そのためにはまず、心の集中力を高める訓練(止の修習)が欠かせません。これを達成できたら、よく精神集中している三昧状態で、空性を観察します(観の修習)。このときは、既に十分納得している結論への流れに心を指向させるのであって、前述の段階のようにあれこれ散乱して考えるわけではありません。その次は、観を修習しながら、さらに心の集中力を高めます(止観不離の修習)。こうして止と観を分かち難く結びつける修行を徹底的に積み重ねてゆくことにより、いつか概念的な分別が全く介在しない状態で空を直観認識できるようになるといいます。これが、空性の現量了解なのです。2024/06/30 08:05:3726.◆JBLfMwCXhYrZNAW顕教の大乗仏教では、空性の現量了解を達成するのに、一阿僧祇劫という途方もない期間を要するといいます。つまり、空性の現量了解を得るまでに、無数の生まれ変わりを繰り返さなければならないということです。しかし密教では、それを大巾に短縮できます。所作・行・瑜伽タントラの場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性の止観を修習する無相ヨーガによって、顕教より速やかに空性の現量了解を得られるといいます。2024/06/30 08:05:4827.◆JBLfMwCXhYrZNAW無上瑜伽タントラの究竟次第の場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性を修習する点は同じですが、チャクラ、脉管、風、滴などを駆使する優れたヨーガの技法により、さらに大巾なスピードアップが可能です。これらのヨーガを通じて止観を修習することにより、倶生大楽で空性を了解するという、無上瑜伽タントラ独特の体験が得られます。そうした究竟次第の実践を積み重ねて達成した空性の現量了解を、無上瑜伽タントラの用語で「義の光明」といい、それによって諸煩悩を全て一気に断滅できると説かれています。2024/06/30 08:06:0528.◆JBLfMwCXhYrZNAWということだつまり、最初は哲学を一生懸命に勉強して、「世界は無い」ということを理解する次に、瞑想して、空性を現量了解するそういうプロセス2024/06/30 08:07:1429.◆JBLfMwCXhYrZNAWそれによって、諸煩悩を一気に断滅できるとされている2024/06/30 08:19:0530.神も仏も名無しさんcziLUチベット密教ゲルク派はインド大乗空気感覚ありそーやろ😄ま、オレは流し読みだなー唯識よりも精読しやすそーやけど発想がニンマ派なのでお勉強苦手といいながらも今日、空海著作読み下し文音声動画をたくさん落とした😄だがオレの魂はー日蓮〜https://www.xn--gmqx52bpnexk914iu0fkyv.net/texts/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E6%BB%85%E5%BE%8C%E4%BA%94%E4%BA%94%E7%99%BE%E6%AD%B3%E5%A7%8B%E8%A6%B3%E5%BF%83%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E6%8A%84/?q=%E8%A6%B3%E5%BF%83%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E6%8A%84&period=kamakura,sado,minobu&trueAutographOnly=0&orSearch=0&page=undefined2024/06/30 08:43:5831.神も仏も名無しさんcziLU>>29おもろい?動画を見つけた、評価はわからんけどーAIによるカバー曲スゲーな時代やのー😄2024/06/30 08:55:3632.神も仏も名無しさんcziLUKINGGUNのファンではないので似ているのか不明AIhttps://m.youtube.com/watch?v=qkYUl0969JU&pp=ygUQ5pys6IO944CAS0lOR0dVTg%3D%3D2024/06/30 08:56:2433.神も仏も名無しさんcziLUこれは歌手と原曲がわかるからクオリティがわかる😄https://m.youtube.com/watch?v=iWKl7ljaKN8意外にオモロいほんと、歌手の著作権問題発生しそーかも😄2024/06/30 09:03:3634.神も仏も名無しさんcziLUこの動画チャンネルしばらく楽しめそーだ😄2024/06/30 09:04:0535.神も仏も名無しさんcziLUAIのくせに意外にハマる😄https://m.youtube.com/watch?v=aXkcWY14g0E2024/06/30 09:29:2136.神も仏も名無しさんcziLUAIさらに😄https://m.youtube.com/watch?v=g3ttldzYDtg2024/06/30 09:31:3937.神も仏も名無しさんcziLU原曲知らんけどAIボーカルは少し知っている程度だがオモローhttps://m.youtube.com/watch?v=b-z0RPwbN4A2024/06/30 09:39:1438.◆JBLfMwCXhYrZNAWA.I.カバーはホントにすごいな歌手とかミュージシャンって、この先どうなっちゃうんだろ2024/06/30 09:53:1539.神も仏も名無しさんcziLUユーチューブ的には楽しめる動画落としでリターンするプラン😄2024/06/30 09:55:0340.神も仏も名無しさんcziLU玉置浩二のAIが凄いなー当人のボーカルレベル高いからなー😄2024/06/30 09:56:0841.神も仏も名無しさんcziLUジョージ・マイケルが日本語歌うースゲーAIhttps://m.youtube.com/watch?v=Co9ONcXaoUA😄2024/06/30 09:58:2842.神も仏も名無しさんcziLUスティーブ・ペリーAIやってほしいー気づかんかなー?WBCの季節が来るまで😄2024/06/30 09:59:5243.神も仏も名無しさんcziLUリック・アストリーAI〜〜〜ユーロビートボーカルがー原曲知らんけどオモローhttps://m.youtube.com/watch?v=in-8S2ubdJg2024/06/30 10:07:1844.神も仏も名無しさんcziLUリック・アストリーAIもなかなかええなー日本語歌わんぞー😄https://m.youtube.com/watch?v=cV-H2wt4HC02024/06/30 10:10:4445.◆JBLfMwCXhYrZNAWすごいな山下達郎より断然いいhttps://youtu.be/T5NUv-XSCyI?si=-f7kXS2rsFI-ukb-2024/06/30 10:17:1046.◆JBLfMwCXhYrZNAW『大乗起信論』と一元的世界観仏典翻訳者 大竹晋氏・・・ここでは、そのような奇説のうち、日本仏教に大きな影響を与えた一元的世界観を採り上げ、その問題性について再考したい。2024/06/30 10:30:4547.◆JBLfMwCXhYrZNAWインド大乗仏教の説インド大乗仏教においては、現象を構成しているあらゆる法(枠組み)は、空(からっぽ)、すなわち、無我(おのれがない)と説かれている。言い換えれば、インド大乗仏教においては、あらゆる法に、空性(からっぽさ)、すなわち、無我性(おのれのなさ)という共通的属性が内在すると説かれている。この、空性、すなわち、無我性は、真如(そのとおりのまこと)と呼ばれる。われわれはこの真如について伝聞するにすぎないが、インド大乗仏教の聖者は、修行によってこの真如を実見し、最終的にブッダとなる。2024/06/30 10:30:5748.◆JBLfMwCXhYrZNAW『大乗起信論』の奇説ところが、『大乗起信論』においては、インド大乗仏教と異なる奇説が説かれている。具体的に言えば、『大乗起信論』においては、あらゆる法は一なる真如であり、われわれの妄念によって、あらゆる法へと分節されていると説かれている。インド大乗仏教においては、あらゆる法に内在する共通的属性が真如なのであるが、『大乗起信論』においては、あらゆる法が真如なのである。インド大乗仏教は二元的世界観である。あらゆる法と、真如との二元にもとづいて、あらゆる法を実見する凡夫と、真如を実見する聖者との区別がある。それに対し『大乗起信論』は一元的世界観である。そこには凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性があった。2024/06/30 10:31:2049.◆JBLfMwCXhYrZNAW『大乗起信論』から生まれた修行軽視現実に、『大乗起信論』からは、凡夫はすでに真如のうちにいる以上もともと悟っていると説く、修行軽視の学説が生まれた。中国においては、唐の偽経『円覚経』(8世紀初頭)に次のようにある。善男子よ、〔あらゆる者には〕悟っていることが完成されているゆえに、「菩薩は法によって縛られもせず、法から脱がれることを求めもせず、輪廻を厭いもせず、涅槃を愛しもせず、持戒を敬いもせず、破戒を憎みもせず、長期修行者を重んじもせず、初心者を軽んじもしない」と知るべきである。それはなぜかというならば、あらゆる者は悟っているからである。2024/06/30 10:32:0350.◆JBLfMwCXhYrZNAWおそらく『円覚経』のような説に対する批判と考えられるが、唐の偽経『楞厳経』(8世紀初頭)においては、天魔に取り憑かれた人々の説として次のようにある(文中、「法身」とあるのは真如を指す)。これらの人々は「仏の涅槃や菩提や法身は、目の前にあるわが肉体の上にある。父から子へと代々生まれてきたことこそが、法身が常住かつ途絶えないことである」と思い込む。(巻九)これら愚かで惑わされている人々は菩薩となってその心を推し進め、仏の律儀(戒)を破り、貪欲を潜行させ、口で好んで「眼耳鼻舌はいずれも浄土である。男女の性器は菩提や涅槃という真の場所である」と言う。(巻九)2024/06/30 10:32:1351.◆JBLfMwCXhYrZNAW日本においては、『大乗起信論』にもとづいて天台宗において発生した本覚思想(誰でももともと悟っているという思想)の文献、『真如観』(13世紀)に次のようにある。今日よりのちは、わが心こそ真如であると知り、悪業や煩悩も〔極楽往生にとって〕障りとならず、名声や利得も却って仏果たる菩提にとって備えとなる以上、ただただ破戒無慙であり懈怠嬾惰であるにすぎなくても、もしつねに真如を観じて忘れることがないならば、悪業や煩悩を極楽往生にとって障りと思ってはならない。これらはいずれも『大乗起信論』の一元的世界観にもとづく修行軽視(特に戒の軽視)である。2024/06/30 10:32:3952.◆JBLfMwCXhYrZNAW『大乗起信論』は修行軽視ではないただし、『大乗起信論』そのものは修行軽視ではない。たとえあらゆる法は一なる真如であるにせよ、そのことは、戒を始めとする修行によってあらゆる法を一なる真如に還元しないかぎり、本当にはわからない。それゆえに、同論は修行を勧めている。2024/06/30 10:33:0853.◆JBLfMwCXhYrZNAW日本においても、たとえば、曹洞宗の祖、道元(1200~53)はそのことを正しく理解していた。道元は『大乗起信論』の一元的世界観に立って、「草木などがどうして真如・仏性でないはずがあろうか」(『正法眼蔵』発菩提心)と、あらゆる法が真如であることを認めたが、それでもなお、修行を勧めた。たとえわれわれはもともと真如を証得しているにせよ、それは修行によってはじめてわかる。彼はこのことを「修証一等」(修行イコール証得。『弁道話』)と呼んだ。2024/06/30 10:33:2454.◆JBLfMwCXhYrZNAW一元的世界観は慎重な扱いを要するなお、一元的世界観に立つかぎり、凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性は常にある。近代の曹洞宗においても、坐禅する凡夫はすでに仏(聖者)であると信じ、「坐禅が成仏である」(『禅談』)と説いた沢木興道(1880~1965)が現われた。一元的世界観は、一歩間違えば、観念的遊戯である「仏ごっこ」に堕するのである。興道の説の問題点については、拙著、新潮選書『「悟り体験」を読む』(2019年11月)において触れた。2024/06/30 10:34:1555.◆JBLfMwCXhYrZNAWただし、その点に慎重な扱いを期するかぎり、『大乗起信論』は決して無益ではない。むしろ、古来、同論に裨益された修行者は少なくない。近世の京都に日蓮宗の学僧がいた。彼は学問の限界を慨き、求道の末、臨済宗の建仁寺において『大乗起信論』の一文を見て開悟した。臨済宗に移った彼は、1599年9月1日、禅定のさなかに中国禅の第六祖、曹溪慧能(638~713)が、黄檗宗の祖、黄檗希運(?~850)と臨済宗の祖、臨済義玄(?~867)を伴って現われたのに相見し、問答の末、ついに慧能から印可された。没後400年を迎えた臨済宗興聖寺派の祖、虚応円耳(1559~1619)がその人である(『続日本高僧伝』)。たとえインド大乗仏教の論ではないにせよ、『大乗起信論』は今後も真摯な修行者に示唆を与え続けるであろう。2024/06/30 10:34:2756.◆JBLfMwCXhYrZNAWなるほどね~😃2024/06/30 10:34:4457.◆JBLfMwCXhYrZNAWやはり、大乗起信論こそ「本当は、みんな悟っているんだよ。そこに気づけばいいだけなんだ」のルーツなのか2024/06/30 10:35:2758.◆JBLfMwCXhYrZNAW>近代の曹洞宗においても、坐禅する凡夫はすでに仏(聖者)であると信じ、「坐禅が成仏である」(『禅談』)と説いた沢木興道(1880~1965)が現われた。そんな人がいたのか2024/06/30 10:36:1959.◆JBLfMwCXhYrZNAW>一元的世界観は、一歩間違えば、観念的遊戯である「仏ごっこ」に堕するのであるロンはそんな人ではないと信じている😫2024/06/30 10:36:4960.神も仏も名無しさんyMCgZ近代の曹洞宗においても、坐禅する凡夫はすでに仏(聖者)であると信じ、「坐禅が成仏である」(『禅談』)と説いた沢木興道(1880~1965)が現われた。>>57曹洞宗系統が色濃いかもしれんなー最近、現在曹洞宗の盲点がそのよーなところがあると解ってきた道元禅師は空間的な扱いのテーマがあるが現在曹洞宗は空間的扱いが薄いか、只管打坐一辺倒かもしくは道徳的二もっともであるけど)ま、大乗起信論は空間的扱いテーマは薄いやろなー個人の内面乃悟りの側面扱い限定ぽさがあるからな😄2024/06/30 10:44:1061.神も仏も名無しさんyMCgZ>>59せいうんこほど酷くはないが100がマックスでせいうんこが1000としたら、ロンは40は観念遊戯しとるなー😫2024/06/30 10:49:3962.神も仏も名無しさんyMCgZやっぱり外は蒸し暑いな除湿用にエアコンかけてしまうなー😄2024/06/30 10:52:4163.神も仏も名無しさんyMCgZ既存キリスト教、ユダヤ教、イスラム、日蓮はある種の理性絶対主義だなーとそういう霊的認知の構造になっているのだと昨晩から模索してたー😄2024/06/30 10:54:2964.神も仏も名無しさんyMCgZ既存キリスト教の「信仰」は解釈的には絶対的真理、絶対的理性のイメージで読解されているやろなーカトリックではそれを内面に見プロテスタントは神の側に、それがあるま、俺的なキリスト教ではその志向はないけどなー😄2024/06/30 11:02:2465.神も仏も名無しさんyMCgZ既存のキリスト教でない目をつけている牧師https://m.youtube.com/watch?v=pDSNB8-GiMA2024/06/30 11:12:1366.神も仏も名無しさんyMCgZ>>45ジョージ・マイケルのほうがクリスマスソングで上だからAIにやらせたんやろなーワム、ラスト・クリスマス😄2024/06/30 11:19:0867.神も仏も名無しさんyMCgZワムの曲はゴーひろみがカバーしてたな原曲はケアレスウィスパーか😄2024/06/30 11:20:2768.神も仏も名無しさんyMCgZ既存キリスト教、ユダヤ教、イスラム、日蓮あたりの脳内霊的要約整理ができてきたーま、この方向性で天理教あたりの霊的?読解ができる😄2024/06/30 11:38:1469.神も仏も名無しさんyMCgZジョージ・マイケルAIの山下達郎、時間差ではまってきた😄2024/06/30 11:38:5070.神も仏も名無しさんyMCgZワムのファーストとセカンドは割合リアルタイムでは結構聞いたなー😄2024/06/30 11:40:0071.◆JBLfMwCXhYVt8sY今日も朝から、空性を現量了解している~😄2024/07/01 08:29:3672.神も仏も名無しさん0vHryなんか難しそーだなそんなの考えたことがない😄唯識はゴールワープしちゃうからなー😄2024/07/01 08:41:4073.◆JBLfMwCXhYfbqtO真言宗智山派 総本山智積院こころは無限の世界を画(えが)く―華厳経は現代に何を語るのか―講師:東京大学名誉教授 文学博士 木村 清孝 先生『華厳経』の成り立ち日本において『華厳経』を読誦することは、現在ほとんど行われておりません。わずかに日本の華厳宗の大本山である奈良の東大寺で、儀式の中で『華厳経』の一部である「唯心偈(ゆいしんげ)」をお唱えしているくらいです。そういう意味では、あまり知られていないお経ではありますが、大乗仏教の歴史や思想を見ていく上で、とても大事なお経なのです。2024/07/02 19:20:2674.◆JBLfMwCXhYfbqtO『華厳経』は、大乗仏教運動が起こってから数百年の間に、インド各地で成立したいくつかの大乗経典を集めて、それらを理論的にまとめあげる過程で形作られ、今から千六百年ほど前、四世紀の末頃に成立したと考えられます。2024/07/02 19:21:1475.◆JBLfMwCXhYfbqtO法華経と華厳経は、どちらが仏教の神髄であるか?2024/07/02 19:21:4276.◆JBLfMwCXhYfbqtO日本では決着がついた法華経に軍配が上がった2024/07/02 19:22:0277.◆JBLfMwCXhYfbqtO『華厳経』がまとめられた意図『華厳経』がまとめられたのは、私たち自身が菩薩であり、その菩薩として生きる道を明確にしようという意図によるものです。『華厳経』は『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』というのが正式名称ですが、現在残っている完本の『華厳経』には四種類があります。ここではそのうちの包括的なもの三つをご紹介します。一つは『六十華厳』とよばれる全六十巻の漢訳本、二つ目に『八十華厳』と呼ばれる全八十巻の漢訳本、そして三つ目にチベット語訳の『蔵訳華厳経』です。2024/07/02 19:23:0878.◆JBLfMwCXhYfbqtOそんなにいろんな訳本があるんかい2024/07/02 19:23:2679.◆JBLfMwCXhYfbqtOそのうち漢訳が2つ1つはチベット語訳か2024/07/02 19:23:5880.◆JBLfMwCXhYfbqtOこの三つの『華厳経』を横に並べて章題を比べてみますと、『六十華厳』にいくつかの章が加わって『八十華厳』の章立てがなされています。その『八十華厳』にいくつかの章が加わって『蔵訳華厳経』ができています。ですから、もともとの『華厳経』に一番近いものは『六十華厳』ということになります。2024/07/02 19:24:3081.◆JBLfMwCXhYfbqtOへえ、そうなのかじゃあ、読むべきなのは「六十華厳」だな?2024/07/02 19:24:5882.◆JBLfMwCXhYfbqtOさて、この『六十華厳』の内容を見ていきますと、釈尊がおられる場面が八つあります。はじめの場面は、マガダ国の寂滅道場会(じゃくめつどうじょうえ)、そして普光法堂会(ふこうほうどうえ)です。その後は章を進めるに従って、忉利天宮会(とうりてんぐうえ)、夜摩天宮会(やまてんぐうえ)、兜率天宮会(とそつてんぐうえ)、他化天宮会(たけてんぐうえ)と、釈尊の所在が、天の世界へ、上へ上へと動いていきます。そして最後に釈尊は再びマガダ国の普光法堂会(ふこうほうどうえ)、逝多園林会(せいたおんりんえ)というように、私たちと同じ世界に戻ってこられます。2024/07/02 19:25:5683.◆JBLfMwCXhYfbqtO仏教では天の世界も迷いの世界であり、欲界の一部と考えます。ですからさとりを開かれた釈尊によるこの天の世界と私たちの世界との往還という描き方は、欲望の世界全体を舞台としながら、釈尊の精神的内実のありようが変化するということを暗示しているのかもしれません。2024/07/02 19:26:0684.神も仏も名無しさんNr918>>76法華経は修験道の支持が高かったからねーあと観音信仰ー大河光る君の時代だ藤原道長は大峰山詣り後の院政の熊野詣で完璧に法華経、天台密教と天台密教系統修験道😄2024/07/02 20:21:3485.◆JBLfMwCXhY1HK3K平安時代に決着がついたな2024/07/03 06:04:5986.◆JBLfMwCXhY1HK3K奈良時代は華厳が優勢だった2024/07/03 06:05:1387.◆JBLfMwCXhY1HK3K華厳思想の広がり『華厳経』が中国に伝えられたのは五世紀の初め頃です。当時の中国には、西域からやって来る「訳経僧(やくきょうそう)」や、あるいは中国から西域に仏教を求めた「求法僧(ぐほうそう)」によって、多くの経典や論書が伝えられました。彼らは、まさに法のためには命を投げ出す「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の決意をもって仏教を伝えました。そのおかげで現代の私たちも仏の教えに触れられるということを忘れてはいけないでしょう。2024/07/03 06:05:2388.◆JBLfMwCXhY1HK3Kともあれ中国の場合、『華厳経』だけでなく、大乗仏教以前の伝統仏教の経典類や、さまざまな大乗経典、論書や注釈書が成立の順序とあまり関係なく伝えられたため、中国の人たちは仏教の経典が、いつごろ、どういう人たちのために説かれたのかを、釈尊の「説法の遍歴」に応じて、それぞれ整理するということを行いました。2024/07/03 06:05:5289.◆JBLfMwCXhY1HK3Kその中で『華厳経』は、釈尊が悟りを開かれた直後に明らかにされた教えとされ、大乗の中でも特別に優れた教えであるという解釈がなされました。2024/07/03 06:06:2190.◆JBLfMwCXhY1HK3K『華厳経』は、教えそのものが大きな広がりを持っています。特に唐代の中国において、智儼(ちごん)、法蔵(ほうぞう)、澄観(ちょうかん)といった祖師たちによって『華厳経』の教えは壮大な「華厳思想」として体系化されました。そして唐代以降に発展した仏教、つまり禅や密教にも大きな影響を与えながら、中国だけでなく、朝鮮半島や日本、東アジア全体に展開していったのです。2024/07/03 06:06:3191.◆JBLfMwCXhY1HK3K現代でも華厳思想は海外の研究者や仏教徒にも注目され、世界的な広がりを見せています。環境倫理学、宇宙物理学などといった分野の研究者や科学者も華厳思想に関心を持たれる方は少なくないようです。『華厳経』は現代にあっても汲み尽くせない魅力を持っているのです。2024/07/03 06:06:4592.◆JBLfMwCXhY1HK3K智儼(ちごん)、法蔵(ほうぞう)、澄観(ちょうかん)か2024/07/03 06:23:1693.神も仏も名無しさんGgekm明恵上人は華厳でもっとあっとのほうだ😄2024/07/03 07:33:3594.◆JBLfMwCXhYQPPoU日本では天台宗、朝鮮では華厳宗が主流になった2024/07/06 06:41:4095.◆JBLfMwCXhYQPPoU「心は巧みな画師である」 ―三界唯心の思想―ここからは『華厳経』の現代的意義というテーマに沿ってお話をしたいと思います。『華厳経』には一番有名な教えとして「三界唯心(さんがいゆいしん)」の思想があります。「三つの世界はただ心のみである」という意味で、「三界」とは、もともとインド的な瞑想の体験に基づいて設定されたたもので、欲界、色界、無色界のことです。これらの三層で「迷いの世界の全体」を捉え、その全体が心に基づいて存在するというわけです。2024/07/06 06:51:4996.神も仏も名無しさん4yuwY金曜日のヒラメキは仕事しながらの止サマタだ😄純正ではない仕事中の暑さのさなかの的確な判断力の自分側の判断のコントロールは簡単だがイミフな同僚の対応は意外に難しい😄2024/07/06 09:08:5197.神も仏も名無しさん4yuwY華厳の教義は2つの悟りを所有している海印三昧と華厳三昧である😄2024/07/06 09:11:5098.◆JBLfMwCXhY1O6rr海印?😫2024/07/06 18:32:2199.◆JBLfMwCXhY1O6rr雪印なら知ってるが😫2024/07/06 18:33:08100.◆JBLfMwCXhY8iYdb1002024/07/06 18:49:10101.神も仏も名無しさんchIrW今日は朝はプロテスタント教会に行った昼からカトリック教会行く予定だったが暑いのでやめた😄2024/07/06 18:55:25102.◆JBLfMwCXhY8iYdbカトリックとプロテスタントは相容れない😫2024/07/06 19:09:51103.神も仏も名無しさんchIrW5chサバオチ規制しとる〜やはり都知事選挙絡みの連投かもなーウヨサヨ石丸の〜😫2024/07/06 19:12:23104.神も仏も名無しさんchIrW>>102両方とも実は理性先行で霊的関係の探求が薄い日本では首都圏のみの少数だけのよーだプロテスタント、カトリックの霊的関係の意識した教会は日本の首都圏は先進的教会のある可能性があるが地方はダメぽ😫2024/07/06 19:15:00105.◆JBLfMwCXhYshSU5>>1035ch はまたスクリプト荒らしだ2024/07/07 00:36:00106.◆JBLfMwCXhYshSU5>>104まあ、霊的探求したいならペンテコステでしょうな2024/07/07 00:36:41107.神も仏も名無しさんNvKneスクリプトだったのかー😫朝の間の鹿島神宮の空気は涼しげで清々しいそうだなー😄2024/07/07 06:42:32108.神も仏も名無しさんNvKne>>106ま俺は聖霊カリスマ派マシーンだから教団無分別で自動聖霊バプテスマできる?😄2024/07/07 06:52:13109.◆JBLfMwCXhYOrfA4華厳 三界は唯心私たちの世界の見方は、最初に客観的な世界があって、それを意識がありのままに受け止めて作り上げられているというものではありません。例えば、この世界をどう見るかと尋ねたときに、いろいろ人がいろいろな考え方を述べますよね。これはまさに「唯心」だからであり、人それぞれに心で描いている世界が違うからなのです。2024/07/07 19:53:19110.◆JBLfMwCXhYOrfA4また、『華厳経』の中には「心は巧みな画師である」という言葉が出てきます。絵描きさんが絵を描くのと同じように、心も自由に世界を描き出します。だから同じものを見ても、皆それぞれ捉え方が違う、表れ方が違います。2024/07/07 19:53:29111.◆JBLfMwCXhYOrfA4このことから、知覚とか認識のレベルで「対象は心が作り上げている」という言い方も可能になります2024/07/07 19:53:47112.◆JBLfMwCXhYOrfA4これは主体的にいえば、まさにそうなのです。世界は私が死んでも存在するじゃないかというかもしれませんが、私にとっての世界、私が捉えている世界は消えてしまいますよね。そういう意味では「私があって世界がある」ということもいえます。2024/07/07 19:54:42113.◆JBLfMwCXhYOrfA4ともあれ、私の存在の在りようは、心にかかっているということなのです。それが生き方の中にも当然反映されてくるわけです。2024/07/07 19:54:55114.◆JBLfMwCXhYOrfA4このように、『華厳経』をはじめとして、仏教には「心」がいかに大きなはたらきをもっているのかということを強く打ち出しています。2024/07/07 19:55:10115.神も仏も名無しさんmTbMJ>>114日本の華厳の聖地、俺はここで華厳経の現在語訳を読みながら経典の観想にふけり悦楽ゲットだ😄https://m.youtube.com/watch?v=sz0CIwgDKlc&pp=ygUY5piO5oG15LiK5Lq644CA5ZKM5q2M5bGx2024/07/07 20:14:24116.◆JBLfMwCXhYOrfA4>>115へえ、どの辺なんだろ?2024/07/07 20:15:44117.◆JBLfMwCXhYOrfA4奈良県かな?2024/07/07 20:15:56118.神も仏も名無しさんmTbMJ頂上も行ったがお寺の小堂の前に座って華厳経典を読んでいたこの小堂https://m.youtube.com/watch?v=w_jt4rBWjzA&pp=ygUY5piO5oG15LiK5Lq644CA5ZKM5q2M5bGx2024/07/07 20:19:46119.神も仏も名無しさんmTbMJ和歌山県有田郡湯浅町😄2024/07/07 20:20:15120.神も仏も名無しさんmTbMJなお、京都の初の日本マンガの源流?と言われる絵巻のある高山寺も明恵上人の華厳の聖地だな行ったことはないがディアゴのDVDでその雰囲気はある😄2024/07/07 20:22:31121.神も仏も名無しさんmTbMJ和歌山の海を見ながら修行していつかインドに渡りたいと夢みたらしい😄2024/07/07 20:23:12122.神も仏も名無しさんmTbMJ承久の乱の時に後鳥羽上皇の配下の武士をかくまい北条家武士の要求を堂々とはねつけたらしいーま、戦国期だったら無理だろうけど😄2024/07/07 20:25:27123.神も仏も名無しさんmTbMJ俺は華厳宗高山寺派の唯一継承者と自称できるま、華厳宗高山寺派は現存しないからー😄2024/07/07 20:26:57124.神も仏も名無しさんmTbMJ心理学者の河合隼雄は明恵上人がやたら好きで本を出している😄2024/07/07 20:27:42125.神も仏も名無しさんmTbMJ有田市には天台密教寺院が新しく建ってはいるが俺は華厳宗高山寺派の唯一継承者のせいなのか、この場所ではもはや天台密教の気配がかんじられず華厳一色になってまう〜😫https://ameblo.jp/yukimaru-1978-waka/entry-12015933704.html2024/07/07 20:39:50126.◆JBLfMwCXhY4St6eへえ、継承してるのか~😄2024/07/08 06:31:52127.神も仏も名無しさん5XRCVなんか好かれてるで〜出口王仁三郎的ワールド😄2024/07/08 06:57:37128.◆JBLfMwCXhY4St6e明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。2024/07/08 21:58:52129.◆JBLfMwCXhY4St6e草創から現在に至るまで、高山寺は明恵(みょうえ)上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。以下では、明恵について概観した上で、高山寺の宝物を、明恵に関わるもの、関わらないものに分けて概説し、最後に高山寺の典籍の伝来について述べる。京都大学大学院准教授 大槻 信2024/07/08 21:59:57130.◆JBLfMwCXhY4St6e明恵は承安三年(一一七三)に生まれ、寛喜四年(一二三二)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。建永元年(一二〇六)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。残された和歌も自在な境地を伝える。2024/07/08 22:00:21131.◆JBLfMwCXhY4St6eあかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月(明恵上人歌集)2024/07/08 22:00:39132.◆JBLfMwCXhY4St6e没後は、空達房定真(じょうしん)、義林房喜海(きかい)、義淵房霊典、順性房高信ら高弟がその衣鉢を継いだ。伝記に『明恵上人行状』『明恵上人伝記』などがある。2024/07/08 22:00:57133.◆JBLfMwCXhY4St6e明恵の教学は華厳を基礎とするが、華厳と真言密教を融合した厳密(ごんみつ)と呼ばれる独自の宗教観を打ち立てた。実践的な修行を重んじ、中でも仏光観と光明真言とが重視される。2024/07/08 22:01:14134.◆JBLfMwCXhY4St6e明恵の宗教思想を理解するため、入寂時を見てみよう。場所は禅堂院、その持仏堂には五秘密曼荼羅(ごひみつまんだら)、華厳善財善知識図(けごんぜんざいぜんちしきず)、華厳海会諸聖衆図(けごんかいえしょしょうじゅうず)が飾られていた。臨終のしつらえとして明恵は弥勒菩薩像を置き、五聖(ごしょう)曼荼羅図をかけ、光明真言、文殊五字真言を唱える。華厳善財善知識図、華厳海会諸聖衆図、五聖曼荼羅図は華厳・仏光観に関わり、五秘密曼荼羅、光明真言、五字真言は密教に関わる。臨終の場はまさに厳密を具現化したものであった。2024/07/08 22:01:39135.◆JBLfMwCXhY4St6e明恵はまた、釈迦、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)をはじめ、文殊、弥勒、春日明神などに深い信仰を寄せている。高山寺の宝物が多岐にわたることは、明恵の信仰の多様性に起因するといえよう。2024/07/08 22:01:52136.神も仏も名無しさんoiypWやはり、明恵上人はやりきってるなー😄2024/07/09 07:07:09137.神も仏も名無しさんoiypW高山寺が関東圏でも行ける華厳宗の絶対的聖地やな😄2024/07/09 07:07:48138.神も仏も名無しさんoiypWオートマチック仏光観マシーンの自信はある😄2024/07/09 07:08:56139.神も仏も名無しさんoiypWその内実クオリティを高まるのは先月までおあづけだったらしい😄2024/07/09 07:10:18140.◆JBLfMwCXhYbsG8B>>137そうなのか2024/07/09 07:28:26141.神も仏も名無しさんOoCIm暑くなりだしてメンタルパワーが上がったーこれは寒くなっても維持できたらまーなかなかなもんやー😄2024/07/09 08:12:16142.神も仏も名無しさんhRoZ6先週金曜日に開発した最新対暑さ集中力モードを試験運用再開だ〜😄2024/07/09 09:10:11143.神も仏も名無しさんhRoZ6この最新バージョンにより道元禅師も明恵流解釈もバージョンアップだ〜😄2024/07/09 09:11:24144.◆JBLfMwCXhYWesE3「皆さんは本当の自分を知っていますか?」 先に読み進める前に少し考えてみてください。果たして自分は何をもって本当の自分とするのでしょうか?仏教では、我という存在を考えるとき、まず無我(むが)を説きます。無我とは我が無いと書きますが、その意味は「われは自分のものではない」という考え方のことです。2024/07/28 14:58:06145.◆JBLfMwCXhYWesE3仏教では「自分で自由にコントロールできないものは自分のものではない」と説かれます。自分で自分をコントロールすることができるのであれば、老いをコントロールして若くい続けることもできますし、病も自分の意志でコントロールできます。寿命、運動能力、学習能力、容姿、性格、癖、いずれも外的要素なしに自分で思いのままにコントロールすることはできません。つまり自分でコントロールできない自分は自分のものではないと説かれます。2024/07/28 14:58:26146.◆JBLfMwCXhYWesE3さらに、自分とは自分が認識した自分と他人が認識した自分がいます。どちらも自分ですが、それには異なる認識があるでしょう。さらに、経験や人間関係、年齢、様々な条件で思考も変わります。それに伴い、言っていることも変わることでしょう。ではどこに本当の自分がいるのか?それは…結局のところどれも本当の自分ではないでしょうか?2024/07/28 14:58:41147.◆JBLfMwCXhYWesE3時に勇敢に、時に臆病に、時に慈しみ、時にさげすみ、時に嘆き、時にうそをつき、時に傷つき。人といるときの自分、一人だけの時の自分。どれも本当の自分と理解することで、自分探しの旅は終わるかもしれません。2024/07/28 14:58:54148.◆JBLfMwCXhYWesE3しかし、「え?今の自分が本当の自分?そんなはずない!」これは本当の自分ではないと否定したくなる気持ちもあります。それは、こうありたいという思い「志」であり、自分を作る基礎になります。今生でも来世でも、 どういう自分でありたいかが大切ではないでしょうか。そういう意味では人はいつからでも変われます。2024/07/28 14:59:06149.◆JBLfMwCXhYWesE3もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を行い奉り、自らの心を浄くあれと努める。そこに本当の自分を見出すことが愉しく生きる道だと仏教は説きます。世情様々なことがございますが、自らの希望と芯を要にこれからも精進いたしましょう。南無阿弥陀仏2024/07/28 14:59:20150.神も仏も名無しさんXrCC5>148Aコースオレメインコースホントウとか固定できるものは一切無いと形式無しの果てにBコースありがたい聖なる無我コース瞑想トレーニングコース2024/07/28 16:36:08151.神も仏も名無しさんXrCC5Cコース霊的な存在のパワーを受けてホントウの自分に向かうキリスト教、イスラーム、神道日蓮宗、浄土宗系統とざっと区別してるしかし、神祇の世界は霊的に知らぬ世界が多い個別に知ってるのは上賀茂、室生龍穴、大神神社、伏見稲荷までが限度😄2024/07/28 16:36:49152.◆JBLfMwCXhYKdpskスーパーパワースポットな神社ばかりだな😄2024/07/28 17:51:13153.神も仏も名無しさんXrCC5春日大社は少しリアクションでまだディープではない、八幡社は石清水八幡宮はまだ行ったことがない地方八幡神社はとある宗派解釈でコミュニケーション取ってるけど伏見稲荷みたいな快楽リアクションではない😄地元の鹿島神社の霊感も快楽までは解ってはいない😄2024/07/28 17:56:59154.神も仏も名無しさんXrCC5地元の厳島神社も謎のまま、地元の諏訪神社はパワーを食らって入るけど快楽ではないやはり謎やはり神社系統は謎が多い地元稲荷社は伏見稲荷の神を召喚するといいリアクションある稲荷社とノーリアクションな稲荷社があるやはり謎だ😄2024/07/28 18:00:03155.神も仏も名無しさんXrCC5日蓮宗や浄土宗や浄土真宗の寺院は霊感パターンは一定である華厳宗、天台宗も大方同じだ真言宗各派、臨済宗各派、曹洞宗は寺院別の感覚の個性があるキリスト教は教団別の霊感パターンは同じだ😄2024/07/28 18:04:04156.名無しさんD7nDu>>155貴様ここは唯識スレやぞ唯識の話をせんかい2024/07/28 18:25:19157.リダン◆gEV3xsS//kD7nDuコテぬけてた2024/07/28 18:25:40158.神も仏も名無しさんXrCC5👻2024/07/28 18:26:17159.リダン◆gEV3xsS//kD7nDu>>158反応がはやすぎやろ2024/07/28 18:26:46160.リダン◆gEV3xsS//kD7nDu日蓮宗と浄土宗の感覚が同じかふーんまあロジック的にはオートメーションにまとめてあるってところだからまあそうなんだろ2024/07/28 18:29:49161.神も仏も名無しさんXrCC5👻2024/07/28 18:32:00162.◆JBLfMwCXhYKdpsk確かに、日蓮宗と浄土宗は、イスラム教とノリが似ているな~😄2024/07/28 18:35:38163.◆JBLfMwCXhYKdpsk普通、仏教っていったら「ヴァッチャよ、汝もまた信仰を捨て去れ」の世界なんだけど2024/07/28 18:37:06164.◆JBLfMwCXhYKdpsk日蓮宗と浄土真宗は、信仰を極限まで強めていく道だ2024/07/28 18:37:38165.神も仏も名無しさんXrCC5>>162というんではなくて臨済宗、曹洞宗、真言宗は宗派として霊感が統一されてない、ということ、浄土宗寺院は、どの浄土宗の寺院へ行っても同じ浄土宗の霊感があるといいかた、誤解を招いた😄2024/07/28 18:37:43166.◆JBLfMwCXhYKdpsk>>165なるほど、そういうことか~😄2024/07/28 18:38:45167.◆JBLfMwCXhYKdpsk真言宗はとくにバラバラだ2024/07/28 18:39:10168.神も仏も名無しさんXrCC5言葉足らずであった浄土宗でも西山派、知恩院派は似ているが、微妙に違う真宗でも、大谷派と本願寺派ではやはり微妙に違う真言宗は特に高野山真言宗は別宗派か?というぐらいに宿坊ごとに霊感が違う、😄2024/07/28 18:40:15169.◆JBLfMwCXhYKdpsk真言宗智山派は、怪しい新興宗教みたいな寺もある😅2024/07/28 18:42:30170.神も仏も名無しさんXrCC5>>166そういう意味では神社の霊感の差はさらに謎である😄その前に神社別の霊感を全部コンプしたない😄2024/07/28 18:43:07171.◆JBLfMwCXhYOerP6心だけがあってそれ以外は無いのか? 唯識思想は仏教でもっとも関心を持たれている思想ではないかと思います。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』や『空の境界』などアニメや漫画にアーラヤ識や唯識という言葉が使われているのを見たことのある人がいると思います。 唯識思想は読んで字のごとく、「唯一識だけがあって、それ以外のものは存在しない」思想と理解されています。識は心みたいなものと理解しておきましょう。 なぜ仏教のなかにそんなことを主張し出す人たちが現れたのでしょうか? 仏教徒たちは瞑想をしていました。その瞑想を特に熱心に行なっていた人たちの体験の語りがもとになっているのが唯識思想です。 彼らは瞑想のなかで心が作り出す映像を見ました。そしてよくよく考えれば、瞑想していないときに見ているものも、それと違わないことに気づいたのです。そして彼らが唯識を主張するグループになりました。 ただ、彼らの気づきを基にした主張が「ただ心だけがあって、それ以外のものは存在しない」であるかどうかは微妙な問題です。 唯識の本場インドでの原語にさかのぼってみると、唯は「~だけ」であり、識は「認識させられた」というような意味で、「認識させられただけ」のように翻訳できます。 唯識を「認識させられただけ(で本当は違う)」と翻訳すると、「心だけがある」という主張とかなり違ってきます。 実際、唯識思想には「あるがままのもの」(真如)や、「認識させられたもの=心によって作り出された映像」を拭い去っても「残ったもの」、悟ったブッダが対象とするもの、のように、誤って認識させられているものの先にある本当の存在を表現する言葉が出てくるのです。 この「誤って認識させられている」というのが苦の原因であり、それをどうにかしようというのが唯識の主張なのです。そう考えると、仏教思想らしさが出て来ます。 ただ、唯識思想にも強弱があり、他の思想と論争するときなどには、ものが存在すると証明する根拠に対して攻撃を加えて、ものは存在しないということを強調して証明しようとすることもありました。 しかし、唯識思想の真意は心以外のものが存在するかどうかを論争することにはなく、どのように誤った認識を正して、苦に対抗するかの実践にあったのだと思います。 ですから、唯識は世界を唯識的見方で見て、苦に対抗しようとする、修行法の一つとも言えます。2024/08/02 09:30:41172.◆JBLfMwCXhYOerP6心とは何か 唯識は瞑想中に心が作り出した映像に気づくことから始まったと説明しました。心の働きに注目した思想として、心理学からも興味を持たれている思想と紹介されがちです。 さらに心の働きを脳の働きに還元して考えれば、唯識思想は脳の働きに注目した思想とも言え、現在、瞑想中の脳波を測るような研究と唯識研究がタッグを組んでいたりもします。 心とは何なのでしょうか。なぜ我々に映像を見せてくるのでしょうか? それは心の働き、そして言葉の働きによるのです。 とりあえず本記事で心と理解している識は、人間の識別判断の機能のことを指しています。そして識別判断は言葉の働きによって可能になります。 言葉は存在するものの代理をする働きを持っています。識はその言葉を道具に使って、感覚された存在を言葉に代理させていくのです。これが識別判断です。 私たちは識が機能したあとの世界にいます。実際の存在がすでに代理されたあとの世界です。 これが識、つまり心が映像を見せてくるということです。映像とは実際の存在を言葉が代理したもののことです。 瞑想といえば、無心になるために行うというイメージがあるようです。実際に瞑想をするといろんな考えが頭に浮かんできます。感覚が静まることで、心の働きが表面化してくるのです。 私たちは常に代理されたあとの世界にいると言いましたが、それが苦の原因なのです。 気分が落ちこんでいるときにはすべてが悪く感じられます。それは心が世界を作っているからです。苦しく感じられるのは心がそういうように作っているからなのです。 唯識の修行者は修行のなかで心を作り替えます。それを転依といいます。そうして苦しみを無くしていくのです。2024/08/02 09:30:51173.リダン◆gEV3xsS//kmqpgE私たちは識が機能したあとの世界にいます。実際の存在がすでに代理されたあとの世界です。↑これよな2024/08/02 09:44:59174.リダン◆gEV3xsS//kmqpgE禅の場合はそれ全部無視するが唯識の場合は魔境とは何かどっからそれは映るのか誰が映してるのかと探求と目的が違う2024/08/02 09:56:04175.神も仏も名無しさん34SUF👻2024/08/02 10:24:58176.リダン◆gEV3xsS//kmqpgE>>175👻幽体離脱のそれもある意味現実かあるいはそれに近い仮想か唯識のいう瞑想時に映る映像は想像やイメージとは違いリアルに現実と遜色のない風景を見せる体外離脱の場合はその風景を自在に動き、変えることが出来ると言えばなんとなく分かるだろうか2024/08/02 10:52:12177.リダン◆gEV3xsS//kmqpgE唯識は瞑想中に心が作り出した映像に気づくことから始まったと説明しました。心の働きに注目した思想↑これは想像やイメージとは一線を画すいうなれば投影方式が違う識の現れであるといいきってしまうくらいの没入感とリアルさだ2024/08/02 10:58:34178.リダン◆gEV3xsS//kmqpgE現実は識の現れといいきってしまうくらいのだ2024/08/02 10:59:50179.神も仏も名無しさんEtbbI👻2024/08/02 11:05:43180.神も仏も名無しさんEtbbIしかし関心がいまや神道に移っている😄仕事帰り、不意に神社参拝してきたしー😄2024/08/02 21:31:45181.神も仏も名無しさんEtbbI神祇の世界は霊的生命力だ〜唯識は結構快楽度合いが高い😄2024/08/02 21:33:28182.◆JBLfMwCXhYMFf1Gわれわれは、言語というフィルターを通して世界を認識している2024/08/03 05:43:15183.◆JBLfMwCXhYMFf1G意識の中に観念があるその観念に当てはめることによって、世界を認識している2024/08/03 05:43:42184.◆JBLfMwCXhYMFf1Gもともと有るのは、意識の中の観念外部の事物についての情報は、後から入ってくる2024/08/03 05:44:59185.◆JBLfMwCXhYMFf1Gそういう、言語や観念を抜きにした認識あるがままの認識それを現量了解という2024/08/03 05:46:05186.◆JBLfMwCXhYMFf1Gデカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント近代西洋哲学者たちが発見してきた真実じつは、古代インドの論書に全部、書いてあった2024/08/03 05:47:59187.◆JBLfMwCXhYMFf1G古代インド哲学は、世界の驚異2024/08/03 05:48:37188.◆JBLfMwCXhYMFf1G古代インド哲学と、近代西洋哲学知れば知るほど、あまりにも似ている2024/08/03 05:49:00189.◆JBLfMwCXhYMFf1G地球人類は、古代インドでやったことを近代ヨーロッパで、もういっぺんやり直した2024/08/03 05:49:37190.◆JBLfMwCXhYMFf1Gそれに比べて、日本の復古神道シャーマニズムは異質だ(笑)2024/08/03 05:50:16191.神も仏も名無しさんvKnrLベースは山伏的な天台本覚思想やろなー😄2024/08/03 05:57:28192.◆JBLfMwCXhYtmEnKまた、ナナシロ家の動画を見てしまった2024/08/03 09:01:47193.◆JBLfMwCXhYtmEnKジャパニーズ・スピリチュアルだ2024/08/03 09:02:33194.神も仏も名無しさんvKnrL>>193教祖がいないホントにエンタメオンリー😄2024/08/03 09:05:05195.神も仏も名無しさんvKnrLナナシロ家すげえー幽霊ヒロシを連れて浅草神社でお祓い〜😄https://m.youtube.com/watch?v=BatExMnpRAg2024/08/03 16:10:58196.神も仏も名無しさんvKnrLめちゃんこウケた幽霊ヒロシのリアクションに😄2024/08/03 16:14:22197.神も仏も名無しさんvKnrL初めて声が出るくらいにワロタ😄2024/08/03 16:14:53198.神も仏も名無しさんvKnrL幽霊ヒロシとくまこがであったのは浅草らしい😄2024/08/03 16:20:17199.神も仏も名無しさんvKnrL幽霊ヒロシとナナシロ家の交流歴史〜😄https://m.youtube.com/watch?v=XmEWKstVhGI2024/08/03 16:27:28200.神も仏も名無しさんvKnrLナナシロ家の動画をみているとやはり出口王仁三郎関連の動画も上がってくる?😄2024/08/03 16:47:11201.◆JBLfMwCXhYJ7lof>>200日本のスピリチュアル関係者は大なり小なり、全員が影響を受けている~😂2024/08/03 18:37:56202.神も仏も名無しさんvKnrLナナシロ家は特殊やな修行意識がない😄昔から気になっていた曲、NHKの番組の曲落としてリターン聴きだ😄https://m.youtube.com/watch?v=ChwLT4ByNU8&pp=ygUP5bed44G544KK44Gu5a62大阪南部の寂れた?地域の内容はおもろかった台湾系チベット密教の新興宗教の寺院の内容がおもろかった😄2024/08/03 18:44:43203.神も仏も名無しさんvKnrLリターン聴きしてなかったのでハマる😄2024/08/03 18:45:42204.神も仏も名無しさんvKnrLここだなチベット密教の新興宗教https://www.sankei.com/article/20141120-LNIN4DS2W5I7JB3ACOUHGDZJIU/2024/08/03 18:49:50205.神も仏も名無しさんvKnrL阪南市箱作のあたりはアッセンブリーの聖霊派の教会があり場所的には修験道の葛城修験の近辺なので霊的な雰囲気が凄い😄2024/08/03 18:51:47206.◆JBLfMwCXhYs90yT>>205そりゃスゴいな2024/08/04 07:57:57207.◆JBLfMwCXhYs90yTパワースポットに教会を建てるとは、さすが聖霊派2024/08/04 07:58:40208.神も仏も名無しさんTrOHyおはー近所の諏訪神社へ行ってきた蚊に食われた夏場は不向きだな😄2024/08/04 08:29:04209.神も仏も名無しさんTrOHyナナシロ家最新、なんかスゲェーエンタメhttps://m.youtube.com/watch?v=ea-alf10ncY2024/08/04 08:38:36210.神も仏も名無しさんTrOHy今回のナナシロ家動画奥深い〜😄キリスト教や人格仏寄りの仏教の世界観みたいなイマジネーションがわいてくるなー😄2024/08/04 08:53:42211.神も仏も名無しさんTrOHyうーむキリスト教と仏教の優秀さが見えてくるなーこの動画は当人たちはその意識はないだろうけとーキリスト教は孤立しない、人間の世界の価値に呪縛されない仏教は人間の価値に呪縛されない、ヒンズーヨガも人間の価値に呪縛されないというポイントがある😄2024/08/04 09:07:37212.◆JBLfMwCXhYDXqK2こんな宗派もあるんだな本山修験宗天台宗の流れをくむ修験道の一派本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)は、天台宗の流れをくむ修験道の一派。聖護院を総本山とする。修験道の包括宗教法人である。開祖は「役行者神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」としている。本山修験宗は神社も包括しており宗教法人格を有する神社も4社属している。聖護院https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/170216_Shogoin_Kyoto_Japan01s3.jpg/1280px-170216_Shogoin_Kyoto_Japan01s3.jpg2024/08/07 06:00:25213.◆JBLfMwCXhYDXqK2本山修験宗総本山聖護院門跡SHOGOIN MONZEKI天皇・皇族のお住まいになった、格式高い寺院。聖護院は平安時代に創建された、本山修験宗の総本山です。その濫觴から天皇家と深い関わりを持つ聖護院は門跡寺院と呼ばれ、京都の街並みとともに特色のある歴史を刻んできました。2024/08/07 06:01:02214.◆JBLfMwCXhYDXqK2聖護院門跡とは門跡の雅と、厳しい山岳修行の寺。当院の沿革は寛治四年(1090)、白河上皇の熊野御幸に先達を務めた増誉(ぞうよ)大僧正が寺院を賜り、「聖体を護持した」というその功績から「聖護院」と称したことに始まります。後に戦乱・火災によって京都を転々としましたが、延宝四年(1676)、創建の地でもある現在の場所に再建されました。その当初から皇室と深い結びつきのあった聖護院では、出家された皇族や摂家の方がたびたび住職を務められました。このような寺は門跡(もんぜき)寺院と呼ばれ、日本国内でも数少ない、格式高い寺院とされています。特に聖護院は江戸時代、天明の大火を逃れて来られた光格天皇が三年間ほど御在所とされた事から、「仮皇居」の史跡指定を受ける唯一の寺院です。寺内には花鳥や賢人、また雄大な自然が描かれた貴重な金碧障壁画が数多く残され、京文化の美を感じることができます。こうした雅な側面の一方で、聖護院は野山に分け入っての修行を旨とする「修験道」を実践する、本山修験宗の総本山でもあります。春の葛城修行、秋の大峰奥駈修行をはじめとする入峰修行には僧俗を問わず多くの方が参加され、自然の中に仏の教えを観るという山伏の信仰を現代に伝えています。2024/08/07 06:01:46215.◆JBLfMwCXhYDXqK2すごい歴史があるんだな2024/08/07 06:01:56216.◆JBLfMwCXhYDXqK2聖護院といえば、大根だ京野菜の代表格聖護院大根https://www.shikoku-np.co.jp/img_news.aspx?id=20021229000173&no=1&kyodo=12024/08/07 06:03:23217.◆JBLfMwCXhYDXqK2へえ、桶川にこんなのあったんだ知らんかった山伏の寺 本学院開祖平家一門の武将齋藤別當實盛の末裔、栄祐法印が比企郡島田に仏堂を建立しました。これを本学坊と名づけて不動明王を本尊とします。その後、元和9年(1623年)に関東郡代伊奈半十郎忠治公より御墨付鴻巣内坂田新田開発の定書と広大な土地を賜り、ここに移り住み本学院を開きました。本堂1986年10月に再建されました。ご本尊の不動明王他、いろいろな仏様をお祀りしています。不動明王は大日如来の教令輪身(悪者を懲らしめるための怖い姿)であり人間の心にある甘えや弱音を厳しい叱責でただしてくれます。右手に持つ剣で煩悩を切り、左手に持つ縄で魔を縛り、悩み苦しむ人々を救い上げます。護摩堂不動明王をお祀りしています。毎月28日の月例護摩供や各種護摩祈願などを行います。行者堂修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)をお祀りしています。634年に奈良県御所市茅原に生まれ、葛城山や大峰山などの行場を開き701年に大阪府箕面市の天上ヶ岳にて昇天しました。1799年には光格天皇より”神変大菩薩”の諡を贈られています。本山修験宗 本学院〒363-0008 埼玉県桶川市坂田1590http://hongakuin.net/DSC_9244.JPG?17229785075472024/08/07 06:10:19218.◆JBLfMwCXhYDXqK2山伏について山伏とは山は祖先の霊がいる神域と考えられていましたので、古代から山に入り修行をして霊力を高めようとする人たちがいました。その人たちは仏教や道教などの新しい宗教も積極的に取り入れ自分の力にしようとしました。山で修行して里に下り祈祷などをする行者が修験者と呼ばれるようになりました。山伏とは山野に伏して修行し験力を得た者の意で、修験者と概ね同義です。2024/08/07 06:11:17219.◆JBLfMwCXhYDXqK2修験道修験道は多くの修験者たちが日本古来の宗教や大陸伝来の宗教などを取り入れ独自に宗教体系を形成していったものです。したがって整然とした教義が無く、実践的儀礼を重んじる宗教として始まりました。2024/08/07 06:11:30220.◆JBLfMwCXhYDXqK2神仏習合日本の原始宗教は自然界の様々なことに神を感じ、それを畏れ敬い崇めるものでした。仏教が伝来されても多神教であるという共通点などもあり、徐々に融合していきました。平安時代には本地垂迹説が生まれ、日本の神様は仏教の仏様が仮の姿で現れたものであるとされ、神様と仏様は同化されました。2024/08/07 06:11:42221.◆JBLfMwCXhYDXqK2役小角(役行者・神変大菩薩)修験道の開祖と言われています。続日本紀に”弟子の讒言により伊豆島に流された”と記述があり、実在の人物なのですがその生涯は、伝説として多く語られています。2024/08/07 06:11:55222.◆JBLfMwCXhYDXqK2修験道廃止令明治政府は天皇親政および祭政一致を理想として、神仏習合を打破しようとしました。神道を国教化し、神社から仏像や仏具を取り除くなど、神仏判然に関する法律を相次いで12件も発布して神仏分離を断行しました。明治5年9月15日、太政官は修験道廃止令を出し、修験者は還俗、神職、天台、真言のいずれかになるように命じました。これにより当時17万ともいわれた修験者のほとんどは姿を消しました。昭和になり信仰の自由が認められましたが時間も経過しており、再び修験として独立したものは僅かでした。2024/08/07 06:12:06223.◆JBLfMwCXhYDXqK2今度、行ってみよう山伏の寺 本学院http://hongakuin.net/index.html2024/08/07 06:12:46224.◆JBLfMwCXhYDXqK2本山修験宗ってことは、聖護院のとこか怪しいとこじゃなさそうだな?2024/08/07 06:13:39225.◆JBLfMwCXhYDXqK2門跡(もんぜき、もんせき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。また、御由緒寺院、尼門跡寺院(皇女や王女が務める寺院)ともいう。寺格が高く、皇室から特別の礼遇と特権を与えられ、住職は各宗派の管長と同等の待遇を受ける。浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶および門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。2024/08/07 06:16:09226.◆JBLfMwCXhYDXqK2なるほど門跡ってのは、皇室がらみで格式の高い寺のことなんだな2024/08/07 06:16:34227.◆JBLfMwCXhYDXqK2やはり、ラピスなんかと関わってるよりこっちの方がいいな2024/08/07 06:17:21228.神も仏も名無しさんvRE4u>>212元三井寺、オレ的にマタタビ効果宗派オレ的は三大禅定美女の三人の内の一人😄2024/08/07 07:09:34229.神も仏も名無しさんvRE4u院政の熊野詣でに関与しとるな聖護院は😄2024/08/07 07:10:59230.◆JBLfMwCXhYjLHC5「現代最高の倶舎論学者」といえば、この人なんだそうな櫻部建櫻部 建( 桜部建、さくらべ はじめ、1925年8月16日 -2012年6月9日 享年88歳 )は、日本の仏教学者。経歴京都市生まれ。大谷大学文学部原始仏教学科卒業。インド・ビハール州立ナーランダ研究所講師を経て、大谷大学助教授、教授。1967年「阿毘達磨倶舎論界・根品の研究」で大谷大学より文学博士の学位を取得。駒澤大学教授、同朋大学教授。著書『倶舎論の研究 界・根品』法蔵館1969『佛教語の研究』文栄堂書店 1975『倶舎論』仏典講座大蔵出版1981『阿含の仏教』文栄堂書店 2002『仏教と真宗と 真宗の若い人々と語る』全4巻平楽寺書店2002-2003『真宗の学び方』法蔵館 20112024/08/11 22:27:16231.◆JBLfMwCXhYjLHC5『倶舎論』全体を貫く主張は三世実有論でありますが、諸法は無我であることを説くことに主題があります。九品に分けて述べられています。 界品(二巻) 諸法の体 根品(五巻) 諸法の用 世間品(五巻) 果 業品(六巻) 因 } 有漏 随眠品(三巻) 縁 } 三十巻 賢聖品(四巻) 果 (倶舎論記に依る) 智品(二巻) 因 } 無漏 定品(一巻半) 縁 破我品(一巻半)2024/08/11 22:35:42232.◆JBLfMwCXhYjLHC5初めの八品は諸法の事を明らかにし、後の破我品に於て無我の理を明らかにしています。界品(かいぼん) - 存在の種類根品(こんぼん) - 存在現象の活動世間品(せけんぼん) - 世界の構成業品(ごうぼん) -有情の輪廻の原因となる業随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階智品(ちぼん) - 智慧定品(じょうぼん) - 禅定破我品(はがぼん)界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破するという構成になっています。2024/08/11 22:36:23233.◆JBLfMwCXhYjLHC5初めの八品は諸法の事を明らかにし、後の破我品に於て無我の理を明らかにしています。界品(かいぼん) - 存在の種類根品(こんぼん) - 存在現象の活動世間品(せけんぼん) - 世界の構成業品(ごうぼん) -有情の輪廻の原因となる業随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階智品(ちぼん) - 智慧定品(じょうぼん) - 禅定破我品(はがぼん)界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破するという構成になっています。2024/08/11 22:36:42234.◆JBLfMwCXhYjLHC5『倶舎論』は九品三十巻から成る 界品(二巻) 諸法の体 根品(五巻) 諸法の用 世間品(五巻) 果 業品(六巻) 因 } 有漏 随眠品(三巻) 縁 } 三十巻 賢聖品(四巻) 果 (倶舎論記に依る) 智品(二巻) 因 } 無漏 定品(一巻半) 縁 破我品(一巻半)2024/08/11 22:37:52235.◆JBLfMwCXhYjLHC5昔から「界二根五世間五、業六随三賢聖(げんじょう)四、智二定破各一半(かくいっぱん)と憶えるといわれています。全部で三十巻です。2024/08/11 22:39:19236.◆JBLfMwCXhYjLHC5倶舎論https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/955c0d02a8550f851b0c071bd8a9872a/?cid=26df5cf7e024687b1456fc17ca7b50562024/08/11 22:39:59237.神も仏も名無しさんXXCPW>>233賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階智品(ちぼん) - 智慧定品(じょうぼん) - 禅定あたりは仕事でのヒラメキから模索構築やる作業が多いのでだいたい予測はできるーヒラメキーとかやっているのはこのあたりのテーマをやっているなー😄2024/08/12 04:24:24238.◆JBLfMwCXhYmEPm9説一切有部は五位七十五法の法体系を説きます。あらゆる事象を七十五種の実体に分け、それを五つに分類しているのです、この分類法が『倶舎論』に説かれています。2024/08/12 14:40:04239.◆JBLfMwCXhYmEPm9概略しますと、 (1) 色法(十一)、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官と、その対象である色・声・香・味・触の対境、および表示できない実体である無表色の十一種。(「色とは唯だ五根と五境及び無表となり。」) (2) 心法、心の働きの主体で、心王という。(「識は謂く各了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六識転ずるを意となす。」) (3) 心所有法(略して心所という。四十六)。これが大地法(十)・大善地法(十)・大煩悩地法(六)・大不善地法(二)・小煩悩地法(十)・不定地法(八)に分けられています。大とは、どの心王にも必ず遍く倶生するということ、小は常に倶生するとは限らないという意味です。地とは所依をあらわします。心王です。心王を地と名付づけているのです。大地であるところの心王が所有する法が心所といわれる所以です。 (4) 心不相応法(色法でも、心・心所でもない存在のありかた。)で、十四種数えられる。) (5) 無為法(生滅の変化がなく、はたらきを起こすものがないもので、三種あり。)2024/08/12 14:40:32240.◆JBLfMwCXhYmEPm9感覚器官とその対象がセットで色法というのは考えてみれば面白いな西洋哲学では、感覚器官とその対象は歴然と異なるこんな風にセットで考えない2024/08/12 14:41:51241.◆JBLfMwCXhYmEPm9西洋哲学だと、モノがあってそれを感覚器官が捉えて、脳内現象が起きるっていう感じだな2024/08/12 14:42:43242.◆JBLfMwCXhYmEPm9基本的に、モノはあると考える2024/08/12 14:43:00243.◆JBLfMwCXhYmEPm9倶舎論も、モノはあるという立場だが2024/08/12 14:48:01244.◆JBLfMwCXhYmEPm9世界がそういうもんだってことは昔の人でも、考えれば分かったんだな2024/08/12 14:49:34245.◆JBLfMwCXhYmEPm9現代では、脳科学と素粒子物理学のおかげでもっとハッキリ分かっている2024/08/12 14:50:09246.神も仏も名無しさんNS4G9>>230漢伝倶舎学を研究してる倉松崇忠先生が今の最高峰なんじゃないかと密かに思ってる2024/08/13 21:09:55247.◆JBLfMwCXhYZHEgK倉松崇忠先生か2024/09/10 08:24:13248.◆JBLfMwCXhYZHEgK聞いたことがない😫今度、調べてみよう2024/09/10 08:24:36249.◆JBLfMwCXhYZHEgK「身体は、自分ではない」これは、精神世界の探求者にとって常識だ。ここまでは異論が出ないだろう2024/09/10 08:24:56250.◆JBLfMwCXhYZHEgK大川隆法は「人間は心なのです」というが仏教的には、それは誤り大川隆法が言ってる「心」とは、現代風にいえば「表面意識」にすぎず本当の自分ではない、仮の自分「偽我」だ2024/09/10 08:26:01251.◆JBLfMwCXhYZHEgK実際のところ、人間の思うことや考えることは、ほとんどが肉体頭脳の作用自分が意図するしないにかかわらず、脳が勝手に反応する露出度の高い服装をした細身のお姉サンがいるとつい見てしまうバカ信者が、宗教詐欺師を「ブッダさま~」と崇め奉ってるのを見て、愚かさにイラ立つこれは、脳が勝手に反応しているのであり、自分の意志でどうにかなるものではない2024/09/10 08:26:23252.◆JBLfMwCXhYZHEgK古代インドには、当然のことながら21世紀の脳科学みたいなものは無かった脳の機能は、ほとんど知られていなかっただが、思考や感情は、何かが勝手に反応しているのであり、自分の意志でどうにかなるものではないということこれは、瞑想時の観察を通じて、古代インド人にも分かっていた2024/09/10 08:27:11253.◆JBLfMwCXhYZHEgK「物質的な身体は、この世における仮の姿だ。本当の自分ではない」これは、精神世界の探求者にとって常識だ。ここまでは、精神世界関係者の間で異論が出ないだろう問題は、そこから先だ大川隆法のように、「人間は、心なのです」「心こそ、本当の自分なのです」というのは、精神世界に対する浅い理解だ理解が浅くて、錯覚している状態だ2024/09/10 08:27:50254.◆JBLfMwCXhYZHEgKもう一歩、深く考えたならば思考や感情も、ほとんどが脳の反応にすぎないことが分かる脳だって、身体の一部だ。肉体であることにかけては、心臓や胃袋と変わらない「身体は、本当の自分ではない」と本気で思っている人にとっては思考や感情も、自分ではない2024/09/10 08:28:02255.◆JBLfMwCXhYZHEgK身体が自分でないのと同様、思考や感情も自分ではない仏教では、そう考えるでは、本当の自分とは何なのか?身体は自分ではない思考は自分ではない感情は自分ではない・・・と、「自分ではないもの」を次々に取り除いていくと最後には、何も残らない何も残らない。だが、何かがあるそれこそが、本当の自分2024/09/10 08:28:39256.◆JBLfMwCXhYZHEgK結局のところ、そこがポイントなのではないかと思い始めた2024/09/10 08:30:12257.◆JBLfMwCXhYZHEgK最近、脳科学にハマッている2024/09/10 08:30:31258.◆JBLfMwCXhYZHEgK人間の思うことや考えることは、たいてい脳の反応だ2024/09/10 08:30:51259.◆JBLfMwCXhYZHEgKたいていっていうか脳科学者に言わせれば「すべて」だ2024/09/10 08:31:34260.◆JBLfMwCXhYZHEgK表面意識は、脳の作用でできている胃袋や心臓の動きを自分の意志でコントロールできないのと同様、脳の反応もコントロールできない酒の瓶を見て「飲みたい」と脳が反応する脳の反応を止めることは不可能だだが、酒を飲まずに耐えることなら、自分の意志で可能だ2024/09/10 08:33:57261.◆JBLfMwCXhYZHEgK岡田茂吉は、「食べたいものを食べたいだけ食べるのが良い」と言っていたこれは、脳の反応に身を任せて生きている状態2024/09/10 08:35:06262.◆JBLfMwCXhYZHEgK古代インドの仏教哲学21世紀の脳科学により、インドの聖賢たちの言いたかったことが分かってきた2024/09/10 08:37:24263.◆JBLfMwCXhYZHEgK「自分の意志でコントロールできないのは、本当の自分ではないからだ」「本当の自分ではないものを次々に消去していく。最後に残るのが本当の自分」これが、インド流の考え方2024/09/10 08:38:39264.神も仏も名無しさんsqUXwほーかいくんスレではイミフなやり取りで盛り上がりやなー😓2024/09/10 09:22:37265.◆JBLfMwCXhY0L0BC池田氏の話で盛り上がっているな?2024/09/10 09:35:55266.◆JBLfMwCXhY55oBhいまは「覚りの理論」というスレだ2024/09/12 08:38:56267.神も仏も名無しさんcg6gwデンパパにリダン仲間、サティまでくるという盛況ぶりだー😄2024/09/12 10:36:55268.神も仏も名無しさんcg6gwあれだけマイペースの塊のほーかいくんのスレが盛況なのはせいうんこーよりも遥かに人望があるからだー😄2024/09/12 10:37:48269.◆JBLfMwCXhY55oBh聖ウンコ師じゃ、こうはいかないな~😄2024/09/12 11:29:08270.神も仏も名無しさんX8escほーかいくん師匠はやはり人間ぽいいい味があるスネたり有頂天になったりー人間味がある無間ジャイアンせいうんこーとは異なる😄2024/09/12 20:51:42271.リダン◆gEV3xsS//kDfNOP俺とは逆やね感情やらなんやらは信号でありその反応や作用にすぎないみたいな自己流メソッドから唯識にいったわ2024/09/12 21:17:03272.◆JBLfMwCXhYYUygo大乗仏教では、物事の存在は「分別」や「ことば」のはたらきと切り離しては考えられないものとされる。中でも 唯識思想においては、物事を存在せしめる原因を「ことば」ひとつに帰しているとも思えるほど、ことばのはたら きが重要視される。なぜ唯識思想においてことばはそれほ どまで重要なはたらきをするものと考えられたのか。その 理由を以下のような項目のもとに「摂大乘論」を中心にし て考察してみたい。2024/09/17 13:24:28273.◆JBLfMwCXhYYUygo「人間は、言語によって世界を分節している」これこそ、唯識論における最重要テーマの1つ2024/09/17 13:25:25274.◆JBLfMwCXhYYUygoソシュール言語学と通じるものがある2024/09/17 13:25:40275.◆JBLfMwCXhYYUygoおそらく、ソシュールは前世ではナーランダ学院で仏教理論を研究したのであろう2024/09/17 13:26:08276.◆JBLfMwCXhYYUygoあまりにも仏教哲学の思想に似ている2024/09/17 13:26:43277.◆JBLfMwCXhYYUygoソシュールの言語理論が、仏教哲学そのものに見えてきた2024/09/17 13:27:45278.◆JBLfMwCXhYYUygoこの世は言語と記号でできた世界2024/09/17 14:20:20279.◆JBLfMwCXhYYUygoどこにも実体は無い2024/09/17 14:20:38280.リダン◆gEV3xsS//kU7dwR>>279流石JBLさん慧眼だねえ2024/09/17 14:22:25281.神も仏も名無しさんMXFsm>>277若き頃は唯識の捉え方とソシュールを組み合わせやってたなー😄2024/09/17 19:31:08282.神も仏も名無しさんMXFsm若い頃のほーが唯識些末なシステムに関心かあったと思うどれだけ現象を的確に捉えるか、みたいな脱西欧思想からのーうーむせいうんこーよりも理屈的にはオレのほーがはるかに賢いという自信はあるなー今や、その理屈に飽き大乗仏教の瞑想理論に飽き、山伏と念仏とさらに神社の神の存在プレイに傾いている😄2024/09/17 19:34:18283.神も仏も名無しさんMXFsmラーマクリシュナの福音の12時間の音声600メガバイト落としてごきげん良く聴いている😄2024/09/17 19:36:11284.◆JBLfMwCXhYrocO7動物には、人間みたいな自意識はないもちろん、動物にも生存本能があり、エゴはあるだが、人間みたいな明確な自意識はない2024/09/18 06:47:26285.◆JBLfMwCXhYrocO7人間でも、未開の原始人の自意識はあいまいで弱い2024/09/18 06:47:45286.◆JBLfMwCXhYrocO7人間の自意識は、言語によるもの自我は、言語の産物だ古代インドの仏教哲学者たちは、それを見抜いていた2024/09/18 06:48:28287.◆JBLfMwCXhYrocO7古代インドには、動物が多かった未開の原始人みたいな人たちも多かった彼らの自我意識は未発達であった2024/09/18 06:59:45288.◆JBLfMwCXhYrocO7一部には、現代人なみに高度な言語能力を身につけた知識階級がいて他方には、言語能力の未開発な大勢の原始人たちがいたおそらく、比較検討しやすかったのだろう2024/09/18 07:01:05289.◆JBLfMwCXhYrocO7現代の構造主義哲学も、レヴィストロースたちが未開の原始人の社会を調査したことから生まれた2024/09/18 07:01:51290.◆JBLfMwCXhYU0jvc自己と他者人は言語で区別する2024/09/18 08:10:23291.神も仏も名無しさんR7tbWパパ活女子高生幽霊に騙された幽霊カウンセリング😄https://m.youtube.com/watch?v=amxPjm_8QiY2024/09/18 08:40:06292.◆JBLfMwCXhYU0jvc笑えるな~😄2024/09/18 08:58:41293.◆JBLfMwCXhYU0jvc幽霊モノはハマる😆2024/09/18 09:00:54294.◆JBLfMwCXhYYebvh仏教的科学、仏教的心理学、宗教としての仏教アレクサンダー・ベルゼン博士今晩、ここに皆さんといれることをうれしく思います。今晩は「何故、仏教か?」について話して欲しいということですが、これはもちろん妥当な問いです。特に西洋では、自らの諸宗教がすでにあるのに何故仏教が必要なのでしょうか?2024/09/24 20:35:42295.◆JBLfMwCXhYYebvh仏教について話す時、多くの異なる面があることを理解することが重要だと思います。仏教科学、仏教心理学、宗教としての仏教と呼ばれているものです。2024/09/24 20:35:58296.◆JBLfMwCXhYYebvh仏教科学について話す時は、論理学やいかにして事物を知るのか(認知科学)、そして基本的な現実の見方について – どのようにして宇宙は誕生したのかなどと – 心と事物の関係についてのことです。これら全てが科学的な課題を扱うのですが、仏教はこれらの分野に多くを提供しています。2024/09/24 20:36:12297.◆JBLfMwCXhYYebvhそれから、仏教心理学はさまざまな感情の状態を、特に私たちに多くの不幸を生み出す(怒り、嫉妬、貪欲などの)心を乱す感情を扱います。仏教はこれらの心を乱す感情によって生じる問題にどのようにして対処するかの方法論を豊富に提供しています。2024/09/24 20:36:28298.◆JBLfMwCXhYYebvh他方では、宗教としての仏教はさまざまな儀式の側面や祈願を扱い、輪廻などのトピックを扱います。これもまた、非常に豊かな内容の分野です。2024/09/24 20:36:42299.◆JBLfMwCXhYYebvhでは、私たちが「何故、仏教か?西洋の近代社会において仏教に何を求めるのか?」と問う時は、特に仏教科学と仏教心理学について見てみる必要があると思います。もし、宗教としての仏教の方へ興味を持つ人がいれば、それはとても良いことで問題はありません。しかし、一般的に自分が育ってきた宗教から別の宗教に改宗することは容易なことではありません。ほとんどの人にとって、忠誠心の対立を始めとして、特に死に直面する時には – 実際には自分は何を信じるのかについて非常に混乱してしまい − 問題を生み出すなどと、自分自身の中で対立を生み出してしまいます。2024/09/24 20:37:09300.◆JBLfMwCXhYYebvh3002024/09/24 20:37:20301.◆JBLfMwCXhYYebvhですから、私たちは西洋人として西洋の伝統の中で育ちながら、仏教の宗教面に目を向ける時は非常に注意深くなる必要があります。何故なら、そこには仏教の儀式による奇跡を期待するなどと迷信が入り込んできたりして、さらなる問題がありえるからです。ですので、最初の頃だけでも仏教科学と仏教心理学に焦点を当てることがより良いことで、勧められることなのです。これらの分野は何の対立もなく西洋の伝統に非常にうまく取り入れられます。そこで、仏教科学と心理学のいくつかの側面を見てみましょう。2024/09/24 20:37:38302.◆JBLfMwCXhYYebvhう~ん、やっぱり2024/09/24 20:37:54303.◆JBLfMwCXhYYebvh仏教は心理分析ですな~😄2024/09/24 20:38:11304.神も仏も名無しさんmmRlgセイウンコーンのナルシズムとセイウンコーンを評価する不気味な麦ナルシズム突っ走るデンパパテキトーなリダンそーいう分析ができる😀2024/09/24 21:10:08305.神も仏も名無しさんmmRlg仕事かたづいてやっとお家で落ち着いた😀2024/09/24 21:11:01306.◆JBLfMwCXhYCDNsb脳の高速回転は重要だ2024/09/25 08:47:18307.◆JBLfMwCXhYCDNsb瞑想修行により、それが可能になる2024/09/25 08:47:34308.神も仏も名無しさんwZt3I臨済禅の十八番だアタマワルソーなセイウンコーン、デンパパ、ムイムイには無関係なのがわかる、ひたすら頑固だからなー😫2024/09/25 09:08:55309.無の心で坐禅。濵田宏樹pRihy無の心で坐禅。https://i.imgur.com/ENtLV8G.jpeg2024/09/26 21:09:46310.◆JBLfMwCXhYSAYVF>>304聖ウンコ師を精神分析するのか?2024/09/28 06:16:57311.◆JBLfMwCXhYSAYVF無の心で35年、坐禅してこられた御方だ2024/09/28 06:17:17312.◆JBLfMwCXhYSAYVF貪瞋癡の三毒を完全に克服したようだ2024/09/28 06:17:39313.◆JBLfMwCXhYSAYVF我癡・我愛・我慢・我見の四大煩悩すら消滅しつつある2024/09/28 06:18:43314.神も仏も名無しさんf5fxrレスの先生モードのときはそんな感じだな😫2024/09/28 06:33:31315.無心が一生幸せ。濵田宏樹TIGks無心が一生幸せ。https://i.imgur.com/XaKowOm.jpeg2024/09/28 17:19:36316.無心が一生幸せ。濵田宏樹TIGks無心が一生幸せ。私は酒もタバコもギャンブルもオナニーも辞めました☺2024/09/28 21:50:49317.無心が一生幸せ。濵田宏樹TIGks無心が一生幸せ。私は酒もタバコもギャンブルも自慰行為も辞めました☺2024/09/28 21:51:33318.無心が一生幸せ。濵田宏樹TIGks無心が一生幸せ。2024/09/28 21:53:23319.無心が一生安楽。濵田宏樹QxTLF無心が一生安楽。https://i.imgur.com/1GnXUgq.jpeg2024/09/29 09:02:03320.無心が一生安楽。濵田宏樹h4Soi無心が一生安楽。仏の道はむさぼりといかりとおろかな心を捨てることです。https://i.imgur.com/ooJyUWB.jpeg2024/10/01 20:16:32321.無心が一生安楽。濵田宏樹imJU8大変おこがましくて恐縮ですが、うつ病は心の病気ではなく脳の病気です。ですから適切な薬を飲まないと治りません。心理カウンセリングは意味が有りません。無心が一生安楽。仏の道はむさぼりといかりとおろかな心を捨てることです。https://i.imgur.com/A4Jvryn.jpeg2024/10/02 06:52:15322.◆JBLfMwCXhYeOs46そろそろ、この話を再開しよう五位七十五法にはどんなものがありますか?有部の説く五位の法には七五種類あり、具体的には色法を一一、心法を一、心所法を四六、心不相応行法を一四、無為法を三とする。 心所法を四六とするのが伝統説であるが、さらに多数あるとするインドの注釈家(ヤショーミトラ)の説も明らかとなってきた。2024/10/02 14:38:29323.神も仏も名無しさんReSPjhttps://dec.2chan.net/up2/src/fu4100515.jpeg2024/10/24 22:12:11324.◆JBLfMwCXhYnLW6h五位七十五法ごいしちじゅうごほう/五位七十五法一切法を色・心・心所・心不相応行・無為の五つの範疇に分類した説一切有部の説。2024/10/26 09:12:19325.◆JBLfMwCXhYnLW6h原始仏教では五蘊、十二処、十八界の三科で分類したのに対し、有部では色(物質的なもの)、心(心の主体である識、心王)、心所(心のはたらき)、心不相応行(心でも身でもないもの)、無為(原因と条件とによって変化しないもの)の五部門(五位)に分類した。2024/10/26 09:12:36326.◆JBLfMwCXhYnLW6h原始仏教でいう一切法は有為転変し、無常・苦・無我である有為法だけをいうが、有部では観念的、分析的傾向をいっそう進めることにより、「有為」の対極にある「無為」までも並列して列挙するようになった。2024/10/26 09:12:55327.◆JBLfMwCXhYnLW6hそうだそれが、説一切有部の特徴だ2024/10/26 09:13:30328.◆JBLfMwCXhYnLW6hかようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)2024/10/26 09:14:41329.◆JBLfMwCXhYnLW6hすべてのものは有為転変これが原始仏教だ2024/10/26 09:15:06330.◆JBLfMwCXhYnLW6hしかし、説一切有部はそこから一歩、進めた有為転変な存在を「有為法」として、まとめたそれに対して、転変しない存在、「無為法」というのを立てた2024/10/26 09:16:12331.◆JBLfMwCXhYnLW6h原始仏教と比べた場合、そこが説一切有部の特徴と言える「永遠に変わらないもの」「永遠とまでは言えないが、ほぼ永遠に変わらないもの」が登場した2024/10/26 09:17:31332.◆JBLfMwCXhYnLW6h南無妙法蓮華経2024/10/26 09:18:21333.◆JBLfMwCXhYnLW6h3332024/10/26 09:18:31334.神も仏も名無しさん9BZq5用事をやると疲れやすいので最低限度でも、唯識かテーラワーダクラスの禅定キメないとやらないといけない用事ができぬー仕事疲れのせいでろうそくつけるのに自分の手をライターであぶったり、火のついた線香のほうを2回触ってもーたやはり疲れているなー😱2024/10/26 10:09:10335.◆JBLfMwCXhYYknR5疲れるな~😫2024/10/26 12:17:07336.神も仏も名無しさんr4LRbオモロイ動画が?https://m.youtube.com/watch?v=pNxkvjkxHPY2024/10/26 18:35:08337.◆JBLfMwCXhYOzxRb>>334> 仕事疲れのせいで> ろうそくつけるのに> 自分の手をライターであぶったり、> 火のついた線香のほうを2回触ってもーたそれはヒドイ😫2024/10/26 22:33:20338.神も仏も名無しさんm9ptJおはー昨日の昼寝と昨夜の爆睡で回復だ😀2024/10/27 06:46:57339.神も仏も名無しさんyOibeよし、疲労回復だから宗教研究を朝からやっている😀2024/10/27 08:03:11340.◆JBLfMwCXhY4T2ojやっと、疲れが取れたみたいだな?😄2024/10/27 12:14:36341.神も仏も名無しさんN0mU1天台浄土教寺院で往生要集下巻の最初の念仏の利益を読み修行してきた😀2024/10/27 13:23:59342.神も仏も名無しさんJOvS5後の閻魔堂お参りのほうが余韻残ってるナウ😀2024/10/27 14:35:20343.◆JBLfMwCXhY7Ac0s今日は温泉にきた😄2024/10/27 15:16:17344.神も仏も名無しさんhJKFj昼寝してた、その時間😀2024/10/27 17:50:42345.神も仏も名無しさんhJKFj世俗を離れるよーな天台浄土教ワールドタイムであった😀2024/10/27 17:51:40346.◆JBLfMwCXhYNFOVZおはよ~ございます😄2024/11/03 06:24:11347.◆JBLfMwCXhYNFOVZ今日は晴れたな☀️2024/11/03 06:24:26348.◆JBLfMwCXhYNFOVZ爽やかな朝だ2024/11/03 06:24:40349.神も仏も名無しさんM95WA疲労八割回復だ😀2024/11/03 09:41:24350.神も仏も名無しさんM95WA題目波動バイブレーション霊的理論が脳内で完成した😀2024/11/03 09:42:10351.リダン◆gEV3xsS//kQgPce>>350ほうほうその理論聞いてみたい2024/11/03 11:53:28352.◆JBLfMwCXhYMIfziなんか凄そう2024/11/03 11:56:34353.神も仏も名無しさんM95WA>>352ま、スピリチュアルぽい表現だと言霊というんやろなー言霊の波動みたいなー日蓮、山伏念仏、神道、キリスト教、イスラム教はこれでイメージできる葬式仏教寄り発想を選択した開祖ではない禅宗、真言密教、天台、の勤行祈祷供養関連はほとんど言霊の波動だろなーむろん正統派瞑想仏教の事ではない😀2024/11/03 12:02:27354.リダン◆gEV3xsS//kqTFBl>>353波動、周波、バイブレーション、レゾナンスチューニングは離脱でも重要だ2024/11/03 13:38:46355.神も仏も名無しさんM95WA>>345ま、リダンにはほーかいくんスレへのブッコミ資格はある😀2024/11/03 13:43:49356.神も仏も名無しさんM95WAお題目論の展開の資格に関しては😀2024/11/03 13:44:33357.◆JBLfMwCXhYlNT5Q深い霧の中にいると、いつのまにか着物がしっとり濡れてきます。いつでもお線香を焚いている仏間は、部屋全体に良い香りが染みつき、常にお香の香りがしています。仏教では、「薫習(くんじゅう)」と言って、「お香のかおりがいつのまにか身体に染み込んでいくように、すぐれた人と行動を共にしていると、気がつかないうちに、自分もすぐれた行動をとるようになる」と教えています。知らず知らずのうちに、付き合う相手の行いや考え方が深層心理に影響を与えていくことを意味しているのです。2024/11/04 10:44:03358.◆JBLfMwCXhYlNT5Q薫習これは重要な概念だ2024/11/04 10:44:50359.◆JBLfMwCXhYlNT5Q聖ウンコ師のスレにいれば知らず知らずのうちに、すぐれた人になる😫2024/11/04 10:45:12360.◆JBLfMwCXhYlNT5Qすぐれた人を見習おう😫2024/11/04 10:45:58361.神も仏も名無しさんegE5u😀2024/11/04 11:52:37362.◆JBLfMwCXhYoF2JS加藤拓雅 仏教学(三論宗、真言宗)平安時代の三論宗インド大乗仏教の二大学派の一つである中観派(Mādhyamika)は、東アジアへは鳩摩羅什(Kumārajīva)によって伝えられ、嘉祥大師吉蔵によって三論宗として大成されました。その思想は、聖徳太子の時代から日本に伝来し、南都六宗の一として宗派を越えて学ばれ、大きな影響を与えました。このページは日本における中観派、三論宗を紹介するものです。2024/11/16 11:44:10363.◆JBLfMwCXhYoF2JS三論宗血脈 珍海『三論玄疏文義要』より口傳血脈文殊 馬鳴 龍樹 提婆 青目 青辨 沙車 羅什曇影 僧叡 道生 僧肇 道融 道恒 惠嚴 惠觀 已上八宿竝出道朗 僧詮 法明 嘉祥 已上四師次第元康 玄湜 已上漢道慈律師 善議大徳 勤操僧正 願暁律師 尊師聖宝僧正 延敒僧都 観理済権大僧都 澄心僧都 在慶(済慶?)律師 有慶大僧都 顕真 永観律師 覚樹僧都 珍海『東南院務次第』2024/11/16 11:44:53364.◆JBLfMwCXhYoF2JS当門室は、清和天皇の御代、貞観十七年(875)に、聖宝僧正(832~909)が東南院を創建された。則ち、ここに弘法大師が初めて興された南院<真言院>に対して、東南院と号されたのである。醍醐天皇の御代、延喜五年(905)乙丑の年、当寺別当の道義律師は、大安寺佐伯院をこの東南院に移転して、聖宝僧正に委嘱した。時に、勅令によってこの東南院主を補任された者は、三国相承三論長者とされた。後三条天皇(在位1068~72)の御代、特に東南院務を三論宗の長者とした。東南院務が聖宝に宣下されて以後、現在に至るまで、顕密兼学して宗の貫主となるか。2024/11/16 11:45:42365.◆JBLfMwCXhYoF2JS寛治元年(1087)白河天皇が高野へ行幸された。建久元年(1190)大殿上棟に依り、後白河法皇が御幸された。この東南院を皇居とされた。くわしくは様々な記録に出ているので、略して記録するのみである。2024/11/16 11:46:05366.◆JBLfMwCXhYoF2JS第一僧正聖宝(832-909)僧正聖宝。俗姓は王氏、京都東部の人である。<或いは讃岐と言われる>十六歳で真雅僧正(801-879)の下で剃髪得度した。初めは元興寺の願暁(?-874)、円宗(?−884)の二師から三論宗を学び、次に唯識を東大寺の平仁(?−?)に、華厳も同寺の玄栄に学んだ。また、真雅、真然(804/812−891)から密教の伝授を受けた。元慶八年(884)伝法灌頂を源仁僧都(818−887)から受けた。顕密二教に通じて備わり、驕る事が無かった。2024/11/16 11:46:34367.◆JBLfMwCXhYoF2JS興福寺維摩会の講師を受け、三論宗において初めて賢聖義と二空比量義を立てた。三論家の賢聖義はここから始まっている。また、師は奈良の七大寺検校となった。また、初め東大寺の東坊に幽霊が居て、人を悩ませていた。人々は恐れてそこには住まなかった。師は頼まれてそこに住み、幽霊が出て戦い寄せ付けなかった。師はそれに屈せず、幽霊は他所に移り、それ以来たたりは無くなった。2024/11/16 11:47:03368.◆JBLfMwCXhYoF2JSまた、ある夕に灯明の下で読書をして、かたわらに湯呑みに茶を淹れ眠気に備えた。中夜になり、大蛇が梁の間から下りてきた。その影が湯呑みに映ったのを見、師がこれを叱りつけ、蛇は滅した。また、庭に大岩があった。世間で言うには、師が金峯山から背負ってきたと。師は常に修練を好み、名山霊地を巡った。金峯山の険しい道は、役行者の後、森林が茂り、道が無くなっていた。師は斧を持ってこれを切り開いた。それ以来、苦行者が相続いて往来するようになった。2024/11/16 11:47:50369.◆JBLfMwCXhYoF2JS貞観十七年(875)に東南院を建立し、後三条天皇は特に東南院務を三論宗の長吏とした。東南院務の聖宝に宣下せられたところにより、三論宗の本所となった。師が所持される如意が有った。これは背に五獅子を刻み、そして三鈷杵が彫られ、顕密を並べて学ぶ事を表していた。これは現在まで歴代伝わり、東南院の宝庫にある。三会の講師は必ずこの如意を召し出し、それを持って講演に応ずるのである。2024/11/16 11:48:04370.◆JBLfMwCXhYoF2JS第二 少僧都延敒(861-929)少僧都延敒。姓は長統。左京の人。聖宝僧正より三論と密教を授かる。また、伝法灌頂を宇多上皇より受けた。顕密の学において当時、抜きん出ていた。2024/11/16 11:56:19371.◆JBLfMwCXhYoF2JS延喜十年(910、『三会定一記』では911)勅令によって維摩会講師となる。論ずる内容は広く、素晴らしい論を立て、人々にこれに応えられる者が居なかった。はじめて五獅子如意によって誕生したので、以来三会講師はそれを持って式を行うが、師がその始めである。2024/11/16 11:56:30372.◆JBLfMwCXhYoF2JS?になってるな2024/11/16 11:57:05373.◆JBLfMwCXhYoF2JS伸攵2024/11/16 11:58:45374.◆JBLfMwCXhYoF2JS攵(ぼくにょう)これは出るのか(笑)2024/11/16 11:59:06375.◆JBLfMwCXhYoF2JS延伸攵のびのびとした名前だ2024/11/16 11:59:36376.◆JBLfMwCXhYoF2JS延の次は、伸+攵2024/11/16 12:00:03377.◆JBLfMwCXhYoF2JS第三 大僧都済高(870−943)<勧修寺兼東南院>大僧都済高。姓は源。右大臣源多(みなもとのまさる)公(831−888)の息子。はじめ、承俊(?−906)、慧宿の二師に従って密教を学ぶ。後に聖宝僧正より灌頂壇に入れられ、さらに密教を確かめた。延喜三年(903)秋、醍醐帝が勧修寺を建てられ、済高を詔して落慶供養の導師とした。2024/11/16 12:00:51378.◆JBLfMwCXhYoF2JS三論宗が残っていたら、もっと有名だった人2024/11/16 12:02:03379.◆JBLfMwCXhYoF2JSでも、聖宝大師はわりと有名じゃないか?2024/11/16 12:02:49380.◆JBLfMwCXhYoF2JS真言宗の人だよな?2024/11/16 12:05:47381.◆JBLfMwCXhYoF2JS三論宗の祖とされてるのか2024/11/16 12:06:03382.◆JBLfMwCXhYoF2JSてことは、三論宗は真言宗の傍流?2024/11/16 12:06:29383.◆JBLfMwCXhYoF2JSそういうことなんでしょうなあ2024/11/16 12:06:41384.神も仏も名無しさんuQdwF三論宗の永観律師 はちなみに京都の永観堂の名前が入っている紅葉とかえりみ阿弥陀仏が有名だな😀2024/11/16 12:46:18385.神も仏も名無しさんuQdwF兼学だからね真言密教と三論宗が兼学になったんやろな😀2024/11/16 12:48:53386.神も仏も名無しさんuQdwF勤操僧正は空海が唐に行く前の師匠である😀2024/11/16 12:52:44387.神も仏も名無しさんuQdwF當麻寺の金堂の弥勒如来?やったけ三論宗の禅定を伝授してもーた😀2024/11/16 12:53:55388.神も仏も名無しさんuQdwF聖宝大師は醍醐寺関係、真言密教系統の山伏のアイドル😀2024/11/16 12:54:49389.神も仏も名無しさんuQdwF勧修寺軍団は後に念仏がメインの色が濃いグループになり江戸時代の高野山の念仏軍団を統括する立ち位置にあった😀2024/11/16 12:56:14390.◆JBLfMwCXhYstxePなるほどね~😄2024/11/16 15:03:28391.◆JBLfMwCXhYaLerQ>>385なるほど、兼学か2024/11/16 15:51:49392.◆JBLfMwCXhYaLerQ>>384永観堂には数年前の11月に行った南禅寺の近くだなまた行きたいな~😄2024/11/16 15:52:35393.神も仏も名無しさんuQdwFオレは永観堂は紅葉シーズンではなく念仏マニア故に二度行った、京都で二度以上行くのは浄土関連か、日蓮関連領域展開ゲット狙いの空振りした仁和寺は3度行ってる😀2024/11/16 16:40:17394.神も仏も名無しさんuQdwF六眼持ちのオレちゃまを3度行かせてゲットできないとはーま、マニアな流派の高野山の上杉謙信がらみの宿坊は飛び入り朝勤行出席20回ぐらいでゲットできたー😀2024/11/16 16:42:35395.◆JBLfMwCXhY1aH58数年前の自分にとって、永観堂は「紅葉の名所」でしかなかったな~😅浄土宗の有名な寺だとは、後になって知った~😂2024/11/16 19:20:11396.神も仏も名無しさんuQdwF>>395法然からの分派は大きく分けて西山派と時宗がある西山派の中に禅林寺派深草派西山派光明寺派がある禅林寺が永観堂の本名だ😀2024/11/16 20:25:57397.神も仏も名無しさんuQdwF禅林寺派の勤行はアップされてるなーあと北海道の禅林寺派の僧侶の法話動画を何故か落としている滅多に見ないのだが😀2024/11/16 20:49:41398.◆JBLfMwCXhY1aH58>>396へえ、そうなのか~😄2024/11/16 20:51:51399.◆JBLfMwCXhY1aH58そうだった永観堂は西山浄土宗だったな2024/11/16 20:52:27400.神も仏も名無しさんuQdwF>>399西山浄土宗禅林寺派その本山が永観堂西山浄土宗西山派が本山光明寺、長岡京のあたりやな西山浄土宗は三派あるということ深草派は京都の新京極あたりの誓願寺三派本山巡った光明寺、誓願寺だけは一回だけやなー😀2024/11/16 21:29:49401.神も仏も名無しさんuQdwF京都、大阪、奈良の総本山巡りは相当やれてる総本山で領域展開未完は仁和寺だけだ😀2024/11/16 21:31:40402.◆JBLfMwCXhYlvvc8>>400すごいな?😄2024/11/17 09:20:47403.神も仏も名無しさんgJL2G今日は真宗寺院、浄土宗寺院稲荷神社、弘法大師小堂を、お参りしてきたー😀2024/11/17 11:24:57404.◆JBLfMwCXhY3Sbf8お参りに行きたいよ~😫2024/11/19 18:50:39405.リダン◆gEV3xsS//kCOEEY>>404なんだなんだ四国までいったのに足りないのかい2024/11/19 18:52:15406.◆JBLfMwCXhY2TriA>>405そのあと、山陰と南九州にも行った2024/11/19 20:09:57407.◆JBLfMwCXhY2TriA金刀比羅宮、出雲大社、霧島神宮超豪華・三社参り😂2024/11/19 20:10:40408.◆JBLfMwCXhY2TriAまだ、北九州ツアーをやってない2024/11/19 20:18:38409.◆JBLfMwCXhY2TriA宇佐神宮、高千穂神社、幣立神宮2024/11/19 20:19:00410.神も仏も名無しさんsGCI3あと博多のほーかいくんの自宅😀😀😀2024/11/19 20:27:26411.◆JBLfMwCXhYz0ZKr草薙龍瞬僧侶、興道の里代表。中学中退後、16歳で家出・上京。放浪ののち、大検を経て東大法学部卒業。政策シンクタンクなどで働きながら「生き方」を探求しつづけ、インド仏教指導僧・佐々井秀嶺師のもとで出家。ミャンマー国立仏教大学、タイの僧院に留学。現在、インドで仏教徒とともに社会改善NGOと幼稚園を運営するほか、日本では宗派に属さず、実用的な仏教の「本質」を、仕事や人間関係、生き方全般に渡って伝える活動をしている。2024/11/25 07:31:14412.◆JBLfMwCXhYz0ZKrいつも生活に追われていて心にゆとりがない、家庭や職場で人間関係のストレスがある、失敗が続いて落ち込んでいるなど、私たちが日頃抱える悩みは多種多様だ。また、インターネットを通じてありとあらゆる情報のシャワーを浴び続けてしまう現代人にとって、何事にも動じない平常心を保つことはより困難になっている。 そんな世相を反映するように、インドで出家し日本の宗派に属さない「独立派」の僧侶が昨年7月に出版した書籍「反応しない練習」(角川書店)がロングセラーとなっている。著者の草薙龍瞬氏は、古代インドの賢者ブッダの教えにもとづき、心のムダな反応を止めれば、悩みや苦しみから抜けられると同書で説く。怒りや妄想など「ムダな反応」を阻止する方法について同氏に聞いた。2024/11/25 07:31:28413.◆JBLfMwCXhYz0ZKr現代人は「テキトー反応」で心が疲れやすくなっている——現在売られているビジネス本の多くが「アンテナを張り続ける」「競争社会を生き抜く」といった内容であるなか、「反応しない練習」というタイトルの本が半年で6刷まで増刷されているのは興味深いです。なぜ今、「反応しない練習」が必要なのでしょう。そもそも反応というのは、仏教の世界では「煩悩」や「漏れ」と呼ばれています。人間は外の世界に触れたとき、腹が立ったり、欲を持ったり、過去を振り返ったり、先行きに不安を覚えたりなど、本来必要のない「反応」をしがちです。仏教では、人間の心は「漏れる」もの、つまり反応するものという理解があり、それを「煩悩」と呼んでいます。2024/11/25 07:31:47414.◆JBLfMwCXhYz0ZKr今の世の中は「反応せざるをえない状況」が溢れています。仕事においては、利益をあげるためにスピーディーに判断しなくてはならないという大前提があります。また、昔ならぼーっとしていられた余暇の時間も、現代はスマホやパソコンなどの情報テクノロジーで埋め尽くされ、商品やサービスに関するネット広告や、リツイートやフェイスブックのシェアなど、大量の反応を次から次へと強いられる時代です。 つまるところ、五月雨式に、数珠つなぎでやってくる刺激に「テキトーに反応」し続けることになり、心が疲れやすくなっています。とくに適当にスマートフォンを閲覧しはじめた結果、あっという間に長い時間が過ぎさって、休んでいるようで休んでいないという状況が多発するのは、現代人特有の問題です。 そもそも心は反応することしか知りません。だからこそ、心の性質を理解し、「反応しない練習」を続けることが大切なのです。昔は刺激が少ない分、反応も少なくて済みましたが、今は刺激の絶対量が違います。もしその状況に流されて、反応するがままに生きていれば、よからぬ妄想や怒りに駆られて、心の疲労やストレスは溜まる一方ではないでしょうか。2024/11/25 07:32:27415.◆JBLfMwCXhYz0ZKrなるほど2024/11/25 07:32:40416.◆JBLfMwCXhYz0ZKr確かに、心は外界の刺激に対して、勝手に反応する2024/11/25 07:33:08417.◆JBLfMwCXhYz0ZKr心というより、脳が反応しているのだ2024/11/25 07:33:24418.◆JBLfMwCXhYz0ZKr心臓や胃腸の動きをコントロールできないのと同じく、脳の反応も止められない2024/11/25 07:33:57419.◆JBLfMwCXhYz0ZKrセクシーな美女を見れば、脳が勝手に興奮する心とか、魂とかの問題ではない2024/11/25 07:34:34420.◆JBLfMwCXhYz0ZKr心臓や胃腸と同じく、脳も身体の一部だ2024/11/25 07:34:59421.◆JBLfMwCXhYz0ZKr人は、脳の反応を、心の問題だと錯覚している2024/11/25 07:35:27422.◆JBLfMwCXhYz0ZKrそもそも心が満たされることはない——心には元来どのような特徴があるのでしょうか。 心は「反応する」ことがそもそもの性質なので、反応を止められることを何よりも怖れます。心にとって反応を止めることは死のようなもの。何にでも反応しつづけることが、実は一番楽なんです。そんな「やめられない、止まらない」心の性質を、仏教では「執着」と呼んでいます。 しかし、いくら反応しても、心が絶対的に満たされることはありません。人間の心は生存欲、承認欲、食欲、性欲といった欲から始まり、その欲が満たされれば満足だし、満たされなければ怒りを感じます。ただいずれにせよ、反応を止められない心は、必ず求め、転がり、渇き続ける定めにあるのです。2024/11/25 07:36:30423.◆JBLfMwCXhYz0ZKrなので、一瞬の欲を満たして、一時的に満足を得ても、それは永久には続きません。「この条件を満たせば、あなたの承認欲は完全に満たせる」「これを叶えれば、あなたは永久に成功を味わえる」ということは元来ないのです。こうした心の性質を、仏教では「心の渇き」「渇愛(かつあい)」と表現しています。 人間は、もともと承認欲や所有欲を持っていますし、社会は、それらの欲を満たす形で発展してきました。だから現代においても、人は欲を満足させようとして、社会が作り出す商品やサービスを追いかけ続けています。たしかにそれは、経済を成り立たせている必要な部分ではあるのですが、ただそこにあるのは、ほとんどが「欲の満足」です。実は、欲の満足は、「心の満足」とは違います。世の中の流れに、欲に任せてただ反応するだけでは、決して心は満たされないのです。 そのあたりの大きな勘違いというか、「やみくもに反応し続けている」現代人の生活のおかしさに、そろそろ気づいてみようというのが、この本を書いた目的でした。2024/11/25 07:36:47424.◆JBLfMwCXhYz0ZKrストレスのもと「雑念」の正体——現代人にとって、ムダな刺激とは、どういうものでしょうか? 一言でいうなら、「心にとって不快な刺激」です。ただ不快な刺激にはけっこう幅があって、怒りや不安や、過剰な欲望を刺激してくる映像や情報はもちろんのこと、「同時に複数のこと」をやる生活習慣も、不快な刺激に当たります。たとえば「歩きスマホ」がありますね。驚かれるかもしれませんが、あれも仏教的には、心が不快な刺激を受けている状態です。 というのは、人間の心は元来、「ひとつの反応をしている」状態が、最もラクで自然な状態なのです。歩きスマホのように、歩きながら電子情報に反応するというのは、それだけで「心が半分ずつに分断」している状態といえます。これは「モヤモヤ」とまではいかないかもしれませんが、「テキトーな反応」に心が引き裂かれているという点で、ほんとは快ではないのです。 つまり、「ながら作業」や「同時に複数の反応」というのは、心にとって、ストレス・雑念の素なんです。そうした状態を改善して、心をスッキリ保つには、「一点集中」が大事になります。ひとつのモノゴトだけに心を注ぐことです。2024/11/25 07:37:58425.◆JBLfMwCXhYz0ZKr「テキトー反応」として現代に多いのが、「自分の承認欲を満たそうとして、あれこれと判断してしまう心」があります。例えば、あの人はいい人だろうか、悪い人だろうかと考える。私の人生は成功だろうか、失敗だろうかと思いをはせる。ツイッターのフォロワー数や、フェイスブックの「いいね!」の数に一喜一憂する。こうした「自分や他人の価値をあれこれと判断する心」を、仏教では「慢」と呼びます。もともと人間の心に潜んでいる「承認欲」が作り出す、あまり意味のない反応の一種です。 人間は誰しも、優越感と劣等感の間を彷徨っているものですが、こうした承認欲を満たしたいがための価値判断には、キリがありません。「自分が優れている」「あの人よりマシ」という判断が続くことはありえないし、そうした判断で反応しているかぎり、心の安らぎや喜びはいつまでも得られません。逆に判断することを止め、あるがままに物事を受け止められるように日々練習を続ければ、自分の価値にこだわるがゆえの高ぶりや落ち込みといった不毛な反応は、徐々に消えていくでしょう。2024/11/25 07:39:06426.◆JBLfMwCXhYz0ZKr>ちなみに、「テキトー反応」として現代に多いのが、「自分の承認欲を満たそうとして、あれこれと判断してしまう心」があります。聖ウンコ師に多い反応だ😫2024/11/25 07:39:58427.◆JBLfMwCXhYz0ZKr>こうした「自分や他人の価値をあれこれと判断する心」を、仏教では「慢」と呼びます。もともと人間の心に潜んでいる「承認欲」が作り出す、あまり意味のない反応の一種です。聖ウンコ師の心を、一言で言えば「慢」だな😫2024/11/25 07:40:54428.◆JBLfMwCXhYz0ZKr心を整理する3ステップ1.感覚・感情・思考のいずれかに分ける――ムダな感情・思考に流されないように気をつける。2.欲・怒り・妄想のいずれかに分ける――これらの反応に「気づく」ことが、悩みを増やさないコツ。3.肉体の感覚に意識を向ける――呼吸中の腹部の感覚や、足の裏の感覚を感じとる。2024/11/25 07:48:27429.神も仏も名無しさんQDVAFお、アンガーベル一派研究しとるのか😀向かぬ仕事で瞬間サマタによる一時疲労回復と仕事集中のテクノロジーの塊と先週相成ったこれを解除すると朝は大方ダルい休日の神道研究やイスラム研究だと寝転びながらのネット検索しながらの研究となる昨日は神社一つと西山浄土宗寺院一つ行っただけ、神社神道研究?がとりまできた来週は誰もいないキリスト教教会の空気を吸いにいくかもしれん😀2024/11/25 08:13:32430.◆JBLfMwCXhYz0ZKrなるほど精神集中すると、一瞬ダルさが消えるのか2024/11/25 08:58:11431.◆JBLfMwCXhYz0ZKr脳が反応するのは止められない2024/11/25 09:00:05432.◆JBLfMwCXhYz0ZKrだから、せめてその脳の反応に対しては、反応せずにやりすごすようにする2024/11/25 09:00:35433.◆JBLfMwCXhYz0ZKr仏教が「もう一人の自分」みたいなのにやたらとこだわるのは、それが理由だろう2024/11/25 09:01:19434.神も仏も名無しさんNs2ka>>433必殺テクノロジー使用する時鏡の前で集中エネルギー上げてみると瞬時に目が大きく見開いているザ・ワールド臨済😀😀😀😀2024/11/25 10:27:30435.神も仏も名無しさんNs2ka今年は猛烈なサマタ開発修行トレーニングを仕事中にやってた😀休日の身体の痛みのダメージだけは回復しにくいメンタル疲労は素早いけどなー😀2024/11/25 10:28:38436.神も仏も名無しさんQDVAFイメージ的に極めてまくった静寂とパワーと無駄な情報カットの絞り込みこの三つを組み合わせで朝起きしてから二度一分坐禅と散歩に一分立ったままでエネルギーをぶち込んでいるな😀😀😀2024/11/25 10:31:18437.神も仏も名無しさんzFWpxその感覚間合いで仕事中でフル運用朝の三回のぶち込みは仕事の中で即時使えるよーにのナラシやなー😀2024/11/25 10:50:51438.◆JBLfMwCXhYTnk1l今日はサマタ瞑想の修行だ2024/12/06 12:51:50439.神も仏も名無しさんntDVt軽く風邪ひいて2日反転術式で仕事ガンバった😀のりきった😀2024/12/06 18:36:06440.◆JBLfMwCXhYdPgri乗り切ったか~😆2024/12/06 21:01:46441.神も仏も名無しさんrSIGY昨日はのど飴なめすぎで口の中が唾液で荒れてた😫2024/12/06 21:06:30442.神も仏も名無しさんrSIGYとある呼吸法で疲労感じずにやりきれるーテーラワーダのサマタの快楽の10倍パワーがあるそれがホンモノのセイウンコーンみたいな🤡禅ではなく〜😀2024/12/06 21:08:55443.神も仏も名無しさんhY3H3メタルドラムで一番上手いかもしれんうーむ日本ならではか?https://m.youtube.com/shorts/UajTxr5PpOg2024/12/06 22:04:41444.◆JBLfMwCXhY7kx2Eこりゃハマるわ😆BABYMETAL ラタタタhttps://youtu.be/EDnIEWyVIlE?si=qogdidRZ_wfE_86M2024/12/10 07:13:33445.◆JBLfMwCXhY7kx2E最高かよ2024/12/10 07:13:43446.神も仏も名無しさんdRfTE>>444サウンドがメタルぽさがなくていいなー今回の休日は本気に近い気味の模索だらけで宗教娯楽は少い休日やった分かりやすくいえば、唯識に筋金入りみたいなノリやった😀2024/12/10 07:24:55447.神も仏も名無しさんdRfTE12月8日からのー平均的な瞑想仏教のパターンを理解できた😀2024/12/10 07:41:16448.◆JBLfMwCXhYNK4r6聖ウンコ師の絶叫芸こそ、最高の宗教娯楽~😭2024/12/10 09:04:40449.◆JBLfMwCXhYFjh2v心所とは、仏教における「心の構成要素・機能・中身」のことです。お釈迦様は心所は52あると説かれています。これは、倶舎論などのアビダルマ論書に基づく分類方法です。52心所は以下の通りです。2024/12/12 06:18:59450.◆JBLfMwCXhYFjh2v遍行心所 (5)触 (しょく):感覚作意 (さくい):意図受 (じゅ):受感想 (そう):表象識 (しき):認識2024/12/12 06:19:14451.◆JBLfMwCXhYFjh2v別境心所 (5)眼識 (げんしき):視覚耳識 (にしき):聴覚鼻識 (びしき):嗅覚舌識 (ぜつしき):味覚身識 (しんしき):触覚2024/12/12 06:19:28452.◆JBLfMwCXhYFjh2v善心所 (11)信 (しん):信仰精進 (しょうじん):努力慚 (ざん):慚愧愧 (かい):羞恥無貪 (むとん):無欲無瞋 (むしん):無怒無癡 (むち):無知輕安 (きょうあん):軽快不放逸 (ふほういつ):不放逸行捨 (ぎょうしゃ):捨心不害 (ふがい):不害2024/12/12 06:19:43453.◆JBLfMwCXhYFjh2v煩悩心所 (6)貪 (とん):貪欲瞋 (しん):怒り癡 (ち):愚痴慢 (まん):慢心疑 (ぎ):疑い不信 (ふしん):不信2024/12/12 06:19:59454.◆JBLfMwCXhYFjh2v随煩悩心所 (20)忿 (ふん):憤怒恨 (こん):恨み覆 (ふく):覆い隠す慳 (けん):吝嗇嫉 (しつ):嫉妬恼 (のう):悩乱害 (がい):害意愧 (かい):後悔眠 (みん):睡眠掉挙 (じょうきょ):掉挙惛沈 (こんじん):惛沈不信 (ふしん):不信懈怠 (けたい):懈怠放逸 (ほういつ):放逸昏沈 (こんじん):昏沈不覚 (ふかく):不覚無慚 (むざん):無慚無愧 (むかい):無愧慢 (まん):慢心僑慢 (きょうまん):僑慢2024/12/12 06:20:13455.◆JBLfMwCXhYFjh2v不定心所 (5)得 (とく):得非得 (ひどく):非得失 (しつ):失非失 (ひしつ):非失念 (ねん):念2024/12/12 06:20:23456.◆JBLfMwCXhYFjh2vこれらの心所は、互いに関連し合い、私たちの心の活動を複雑に構成しています。心所の働きを理解することで、自分自身の心の状態をより深く理解することができ、心の平穏や悟りの境地を目指すことができるようになります。なお、唯識論では、心所は51個に分類されます。これは、遍行心所の「作意」を心王に含めるためです。2024/12/12 06:20:34457.◆JBLfMwCXhYFjh2v心所の役割心所は、心王(しんのう)と呼ばれる中心的な心の働きに付随して生じる、様々な心の働きを指します。心王は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と、末那識・阿頼耶識の八識に分けられます。 心所は、これらの心王に様々な性質や働きを与えます。2024/12/12 06:22:58458.◆JBLfMwCXhYFjh2v心所の種類心所の種類は、仏教の宗派や学派によって分類方法が異なりますが、代表的な分類方法として、以下の二つがあります。倶舎論による五蘊分類:大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に分類されます。唯識論による六位分類:遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種類に分類されます。2024/12/12 06:23:08459.◆JBLfMwCXhYFjh2v「仏教、とくに唯識論の世界観は、オンラインゲームに似ている」というのが当方の持論だ(笑)プレーヤーが、コンピュータ・システムの電源をオンにして、ゲームソフトを起動してログインするたちまち、リアルな3D映像と、360度のサラウンド音声に包まれる「ここはアレフガルド王国。アナタは、伝説の勇者ロトの子孫であり、片田舎に住んでいる」とかなんとか、言語によって世界観と自分の存在の意味が付与されるゲーム世界に入ると、まず親や家族と出会い、外に出ると他のプレイヤーたちとの出会いが待っている。一緒に会話したり、冒険や戦闘をしているうち、こんな世界が本当にあるような気がしてくる・・・仏教的な世界観では、この世はこんな感じだ映像、音声、言語でできている仮想世界2024/12/12 07:18:49460.◆JBLfMwCXhYFjh2vここまでは、まあいいだろうでも、ここからが理解の大きな壁だここから先が、世間の一般人にとっては世界観を根本的に引っくり返す跳躍、「コペルニクス的な転回」を必要とするところそれは、上に書いた「この世はオンラインゲーム」というのが、じつは自分だけでなく、他人に当てはまるということだ他のプレイヤーたちも皆、それぞれのコンピュータ・システムの電源をオンにして、ゲームワールドにログオンしているプレイヤーたちは、それぞれの映像と音声を見て、聞いている自分のゲーム世界は、他のプレイヤーたちのゲーム世界とオンラインでつながっており、お互いの世界に登場する自分の世界には他人が現れ、他人の世界には自分が現れるこれが、「1人1宇宙」の世界観各プレイヤーが、それぞれの世界を見ている会話したり、一緒に戦闘したりするうち、なんだか、同じ1つの世界にいるような気になってくるのだが実際には、各プレイヤーそれぞれが見ている仮想世界しかない共通する1つの世界というものは、存在しない2024/12/12 07:27:24461.◆JBLfMwCXhYFjh2vこの「1人1宇宙」が、ピンとくるかどうかここに、唯識理解のカギがあるこれが本当に分かったら、世界観が引っくり返る激しい衝撃を受けるくらいでないと、本物ではない2024/12/12 07:28:43462.◆JBLfMwCXhYFjh2vハッキリ言ってしまえば、この世は存在しないのであるそれぞれのプレイヤーが見ている、それぞれの映像による仮想ワールドがあるだけそれが、オンラインでつながって共有されているだけだ2024/12/12 07:31:00463.◆JBLfMwCXhYFjh2vそれと同じことを主張するのが、ドイツ観念論の哲学者マルクス・ガブリエル「なぜ、世界は存在しないのか」というタイトルのポップ哲学書がベストセラーになり、最先端の哲学者あつかいされている2024/12/12 07:39:02464.◆JBLfMwCXhYFjh2v要するに「アナタが見ている映像、聞いている音声。それに言語で意味を付与したもの。それが世界なんですよ」ザックリ言えば、これが仏教的な世界観2024/12/12 07:40:34465.◆JBLfMwCXhYFjh2v古代インドの瞑想哲人に、深い瞑想状態の中で見えた「世界の真実の姿」瞑想哲人は、それを一生懸命に表現して、「この世は、本当はこういうものだった」と必死で説明したのだが大昔の人にとって、それはあまりに難解だった現代人がそれを見ると、「こりゃ、オンラインゲームの仕組み、そのまんまじゃないかよ」ということになる2024/12/12 07:43:34466.◆JBLfMwCXhYFjh2vまた、話が脱線した2024/12/12 07:45:19467.◆JBLfMwCXhYFjh2vいまはエロ和尚が休養中だからいいが健在だったら、たちまち文句を言われる2024/12/12 07:45:55468.◆JBLfMwCXhYFjh2v心所の話に戻ろう2024/12/12 07:46:13469.◆JBLfMwCXhYFjh2v仏教では、心を1つとは考えないバラバラな要素を寄せ集めた、一時的な仮の存在と考える2024/12/12 07:47:10470.◆JBLfMwCXhYFjh2vもっとも、それは説一切有部とか瑜伽行唯識派の特徴だ経量部は、「心は1つだ。こんな細かい分類に意味はない」と異論を唱えた2024/12/12 07:48:20471.◆JBLfMwCXhYFjh2vこのように、仏教思想界は一枚岩ではない2024/12/12 07:48:40472.◆JBLfMwCXhYFjh2vAI Overview唯識論における心所とは、心の統一的主体である心王に相応し、随伴して起こる種々の精神作用を指します。唯識論は、インド大乗仏教の学派である唯識派の思想で、あらゆる事象は識の働きによって変化したものであると説いています。唯識論では、次のような考え方を基本としています。「自分」や「もの」は存在せず、心の働きだけで存在している物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される唯識論は、5世紀ごろに弥勒菩薩によって始まり、インド僧の阿僧伽菩薩、伐蘇畔度菩薩によって大成されました。伐蘇畔度菩薩は『唯識三十頌』など多くの論書を著し、唯識の基礎を築きました。2024/12/12 07:50:50473.◆JBLfMwCXhYFjh2v質問仏教の言葉の「心王(しんのう)・心所(しんじょ)」について、いくつか種類があったと思うが、それぞれの名称を確認したい。回答「心王」は倶者では眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に、唯識では、末那識・阿頼耶識を加えた八識に分けられる。「心所」は倶者では大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に、唯識では遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の五種類に分けられ、さらに51に分けられる。2024/12/12 07:52:35474.神も仏も名無しさんsoIsJ>>473そ~言うテーマ、こっちのスレ主に気まぐれジャブサービスしてきた、もーやらねーけど😀宗教 スピリチュアルと人生観について適当に話すスレ2024/12/12 07:54:37475.◆JBLfMwCXhYFjh2v参考になりそうな論文があった東京大学大学院瑜伽行派における五遍行の研究 —『瑜伽師地論』を中心として—(楊 潔)https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2020/12601.html2024/12/12 07:54:44476.神も仏も名無しさんsoIsJ原因と結果を理論的といえば唯識てあるセイウンコーンは無縁である😫2024/12/12 07:55:18
【渡辺真衣被告】「何度、農薬やロープを持ち出したことか…」『頂き女子りりちゃん』に3800万円を騙し取られた50代男性「月給20万円」「自宅はゴミ屋敷」の困窮生活ニュース速報+131329.22024/12/25 14:24:53
かなり難しい話だ😫
前スレ
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 6【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1709157803
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
→自分が認識しているもの、
それが世界のすべてである
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」
としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも
分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在
虚空、択滅、非択滅
大乗仏教が登場した
中観派は「空」の思想を唱えた
説一切有部と違って、中観派は
実体を持って存在するものなど一切、
認めなかった
中観派の創始者である龍樹は
『中論』などの著作により、
「空」の理論を大成した
空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、
龍樹は大乗の第一祖とされる
「実体のある存在の構成要素」
と考えられていた
だが、大乗仏教の時代には、
「実体のある存在など無い」という
空の思想が主流になった
(ここでいう『実体がある』とは、
『永遠で不変の存在』というような意味)
唯識派は、倶舎論の五位七十五法を
「空」の思想に基づいて書き換えた
眼耳鼻舌身の五識と意識に、深層意識の
「末那識」と「阿頼耶識」が加わった
心の分析が細かくなり、五位百法に増えた
「物質は意識から生じる」とされたため、
色法(物質的存在)を後回しにして
心法(精神的存在)を先に持ってきた
↓
五位百法
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
著者 横山紘一
要点1
私たちは「自分」や「もの」が存在していると考えているが、あるのはただ心の働きだけで、「自分」や「もの」は存在しないと考えるのが唯識思想。
要点2
「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される。
要点3
物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる。善業によって阿頼耶識は清められ、悪業によって濁る。阿頼耶識が濁ればその人の世界も汚れて暗くなる。善い行いをすることは自身の世界を清め、自分のためにもなる。
心だけしか存在しない
仏教を興した釈尊の根本的教理とは、「自分」は存在しないという教え、すなわち「無我」である。
「手を見てください。それはだれの手ですか」と問いかけてみると、聞かれた人は必ず「自分の手です」と答える。「いまあなたが言った自分という言葉に対応するものがあるでしょうか」と再び問いかけると、相手は困った顔をするだけで、答えが返ってくることはない。なぜなら、「自分」という言葉が指し示すものを発見できないからだ。
あるのは「自分」という言葉だけなのに、あたかも自分というものが存在するかの如くに思い、すべての行動の主体、主人公としてとらえるのは自分本位なことである。静かに心の中を観察すると、存在するのは唯だ(ただ)手、足、身体、あるいは心の働きだけだ。これを自分のものと誤認しているという事実を認識することから、仏教理解が始まるといっても過言ではない。
そして、この「唯だ」あるのはなにかという探究をとおして、すべての存在の構成要素が心の中に認識されて初めて成立するとしたのが、「唯識」という思想である。
唯識とは、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて阿頼耶識(あらやしき)から生じたもの、変化したものである」と主張する思想だ。
すべては心の中にあり、心の外にはものはない。
私たちは1つの共通の宇宙に住んでいると思っている。しかしそれは、人間同士が言葉で語り合うことで、「ある」と認め合った抽象的な存在に過ぎない。
朝、目を覚ますと、その人の宇宙がいわばビッグバンを起こして再び生じる。個人が毎朝経験するこのビッグバンによって生じた宇宙には、決して他人が入ってくることはできない。
この「一人一宇宙」を〈人人(にんにん)唯識〉という。3人いれば3つの世界がある。たとえば「そこに1本の木がある」と3人で言い合うとき、3人の外に実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中にある木の影像(観念)があるだけである。3人が言葉をとおして、あたかも1本の木があるが如くに認め合っているにすぎないのだ。
一人一宇宙だから、その個人の気分がすぐれなければ暗い世界となり、うれしいことがあれば明るい世界に変わる。私たちは、自分の心の中にある一宇宙に閉じ込められていて、そこから抜け出すことはできない。
「感覚」が感じとったものを「思い」で色づけし、「言葉」として語ることで、心が織りなす世界をはっきり認識できる。たとえば、誰かに対して私たちは憎いという「思い」を生じさせ、「あの人は憎い人だ」と「言葉」で決めつける。その人そのものは本来はいわば無色の人なのに、キャンバスの絵が色付けされていくように、私の思いと言葉によって「憎い人」になるのだ。
世界はもともと無色だった。
これがピンとくれば、唯識論が分かったも同然だ
これを、「世界が有る。それを、1人1人が個別バラバラに認識している」ということだと思うなら、まだピンと来ていない
そうではなくて、「世界は無い。1人1人が、それぞれの『世界』を見ているだけ」ということだ
ネットカフェで、個室のブースが並んでいる
それぞれの個室の中では、ゲームオタクがリクライニングシートに座って、ヘッドギアを着けている
皆がそれぞれ、ゲームのデータをサーバー、つまり中央のホストコンピュータからダウンロードする
ダウンロードしてログインする。それぞれの端末のコンピュータは、過去のプレイ履歴のデータに基づき、プレイヤーのアバターを自動生成して、ゲーム世界に投入する
プレイヤーは、リアルな立体映像と、360度のサラウンド音声の世界で、アバターになりきってゲーム世界を探索する
ゲーム内で死んだら、ゲームオーバーだ
世界は、どこにあるのか?
それは、1人1人のプレイヤーの端末コンピュータの中だ
それぞれが、リアルな立体映像とサラウンド音声の世界に没入している
自分1人ならともかく、別の個室ブースにいるゲーム仲間たちがいて、一緒にゲーム世界を探索したり、戦闘したりできる
あまりにリアルな上に、自分だけじゃなくて他人もいる
だから、なんだか、こんな世界が本当にリアルに存在するんじゃないかと思えてくる
だが、実体のある世界など存在しない
これがピンと来るのは、非常にハードルが高い
何のために空を覚るのか
【苦諦】 まず最初に、私たちが生死を繰り返している六道輪廻の本質を、苦だと知る必要があります。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣はもちろんのこと、人間・阿修羅・天の三善趣も苦しみの世界です。天には一見苦しみが無さそうですけれど、長い寿命が尽きて転落が差し迫ったときの苦悩は、地獄以上のものだといいます。
【集諦】 そこで次に、そうした苦の原因を追求しなければいけません。苦の直接の原因は、業(カルマ)だといいます。そして業は、諸煩悩によって惹き起こされます。だから、苦を完全に止滅させるためには、諸煩悩を種子から断つ必要があります。諸煩悩の大もとにあるのは無明(我執)ですから、これを種子から断じることが一番肝要です。
【滅諦】 あるレベルの苦の原因となる煩悩と無明を種子から断じたら、その苦はもはや生じません。それゆえ、諸々の煩悩と無明を完全に種子から断じたら、一切の苦が止滅します。そのような境地を解脱や涅槃といい、これを実現することこそ、仏教一般に共通するの宗教的な理想です。
【道諦】 そうした理想の境地を実現するための手段が、修行の道として設定されます。今までの流れから分かるように、道の主たる内容は、諸煩悩を種子から断じることです。そのためには、諸煩悩の大もとにある無明を種子から断じなければなりません。無明とは何かといえば、私たち輪廻の衆生に生まれつき具わっている実体視の習性です。それを種子から断じるためには、空性の現量了解(空を直観的に体得している智慧)が必要になります。なぜなら、無明の心が虚構している実体性の非存在こそが、空の意味だからです。
つまり、最初は哲学を一生懸命に勉強して、「世界は無い」ということを理解する
次に、瞑想して、空性を現量了解する
そういうプロセス
インド大乗空気感覚ありそーやろ
😄
ま、オレは流し読みだなー
唯識よりも精読しやすそーやけど
発想がニンマ派なので
お勉強苦手といいながらも
今日、空海著作読み下し文音声動画を
たくさん落とした
😄
だが
オレの魂はー
日蓮〜
https://www.xn--gmqx52bpnexk914iu0fkyv.net/texts/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E6%BB%85%E5%BE%8C%E4%BA%94%E4%BA%94%E7%99%BE%E6%AD%B3%E5%A7%8B%E8%A6%B3%E5%BF%83%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E6%8A%84/?q=%E8%A6%B3%E5%BF%83%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E6%8A%84&period=kamakura,sado,minobu&trueAutographOnly=0&orSearch=0&page=undefined
おもろい?
動画を見つけた、
評価はわからんけどー
AIによるカバー曲
スゲーな
時代やのー😄
似ているのか
不明AI
https://m.youtube.com/watch?v=qkYUl0969JU&pp=ygUQ5pys6IO944CAS0lOR0dVTg%3D%3D
クオリティがわかる
😄
https://m.youtube.com/watch?v=iWKl7ljaKN8
意外に
オモロい
ほんと、歌手の著作権問題発生しそーかも
😄
しばらく楽しめそーだ
😄
意外にハマる
😄
https://m.youtube.com/watch?v=aXkcWY14g0E
😄
https://m.youtube.com/watch?v=g3ttldzYDtg
AIボーカルは少し知っている程度だが
オモロー
https://m.youtube.com/watch?v=b-z0RPwbN4A
歌手とかミュージシャンって、
この先どうなっちゃうんだろ
楽しめる
動画落としで
リターンするプラン
😄
凄いなー
当人のボーカルレベル高いからなー
😄
日本語歌うー
スゲーAI
https://m.youtube.com/watch?v=Co9ONcXaoUA
😄
WBCの季節が来るまで
😄
ユーロビートボーカルがー
原曲知らんけど
オモロー
https://m.youtube.com/watch?v=in-8S2ubdJg
日本語歌わんぞー
😄
https://m.youtube.com/watch?v=cV-H2wt4HC0
山下達郎より断然いい
https://youtu.be/T5NUv-XSCyI?si=-f7kXS2rsFI-ukb-
仏典翻訳者 大竹晋氏
・・・ここでは、そのような奇説のうち、日本仏教に大きな影響を与えた一元的世界観を採り上げ、その問題性について再考したい。
インド大乗仏教においては、現象を構成しているあらゆる法(枠組み)は、空(からっぽ)、すなわち、無我(おのれがない)と説かれている。
言い換えれば、インド大乗仏教においては、あらゆる法に、空性(からっぽさ)、すなわち、無我性(おのれのなさ)という共通的属性が内在すると説かれている。
この、空性、すなわち、無我性は、真如(そのとおりのまこと)と呼ばれる。われわれはこの真如について伝聞するにすぎないが、インド大乗仏教の聖者は、修行によってこの真如を実見し、最終的にブッダとなる。
ところが、『大乗起信論』においては、インド大乗仏教と異なる奇説が説かれている。
具体的に言えば、『大乗起信論』においては、あらゆる法は一なる真如であり、われわれの妄念によって、あらゆる法へと分節されていると説かれている。
インド大乗仏教においては、あらゆる法に内在する共通的属性が真如なのであるが、『大乗起信論』においては、あらゆる法が真如なのである。
インド大乗仏教は二元的世界観である。あらゆる法と、真如との二元にもとづいて、あらゆる法を実見する凡夫と、真如を実見する聖者との区別がある。それに対し『大乗起信論』は一元的世界観である。そこには凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性があった。
現実に、『大乗起信論』からは、凡夫はすでに真如のうちにいる以上もともと悟っていると説く、修行軽視の学説が生まれた。
中国においては、唐の偽経『円覚経』(8世紀初頭)に次のようにある。
善男子よ、〔あらゆる者には〕悟っていることが完成されているゆえに、「菩薩は法によって縛られもせず、法から脱がれることを求めもせず、輪廻を厭いもせず、涅槃を愛しもせず、持戒を敬いもせず、破戒を憎みもせず、長期修行者を重んじもせず、初心者を軽んじもしない」と知るべきである。それはなぜかというならば、あらゆる者は悟っているからである。
これらの人々は「仏の涅槃や菩提や法身は、目の前にあるわが肉体の上にある。父から子へと代々生まれてきたことこそが、法身が常住かつ途絶えないことである」と思い込む。(巻九)
これら愚かで惑わされている人々は菩薩となってその心を推し進め、仏の律儀(戒)を破り、貪欲を潜行させ、口で好んで「眼耳鼻舌はいずれも浄土である。男女の性器は菩提や涅槃という真の場所である」と言う。(巻九)
今日よりのちは、わが心こそ真如であると知り、悪業や煩悩も〔極楽往生にとって〕障りとならず、名声や利得も却って仏果たる菩提にとって備えとなる以上、ただただ破戒無慙であり懈怠嬾惰であるにすぎなくても、もしつねに真如を観じて忘れることがないならば、悪業や煩悩を極楽往生にとって障りと思ってはならない。
これらはいずれも『大乗起信論』の一元的世界観にもとづく修行軽視(特に戒の軽視)である。
ただし、『大乗起信論』そのものは修行軽視ではない。たとえあらゆる法は一なる真如であるにせよ、そのことは、戒を始めとする修行によってあらゆる法を一なる真如に還元しないかぎり、本当にはわからない。それゆえに、同論は修行を勧めている。
なお、一元的世界観に立つかぎり、凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性は常にある。近代の曹洞宗においても、坐禅する凡夫はすでに仏(聖者)であると信じ、「坐禅が成仏である」(『禅談』)と説いた沢木興道(1880~1965)が現われた。
一元的世界観は、一歩間違えば、観念的遊戯である「仏ごっこ」に堕するのである。興道の説の問題点については、拙著、新潮選書『「悟り体験」を読む』(2019年11月)において触れた。
近世の京都に日蓮宗の学僧がいた。彼は学問の限界を慨き、求道の末、臨済宗の建仁寺において『大乗起信論』の一文を見て開悟した。臨済宗に移った彼は、1599年9月1日、禅定のさなかに中国禅の第六祖、曹溪慧能(638~713)が、黄檗宗の祖、黄檗希運(?~850)と臨済宗の祖、臨済義玄(?~867)を伴って現われたのに相見し、問答の末、ついに慧能から印可された。没後400年を迎えた臨済宗興聖寺派の祖、虚応円耳(1559~1619)がその人である(『続日本高僧伝』)。たとえインド大乗仏教の論ではないにせよ、『大乗起信論』は今後も真摯な修行者に示唆を与え続けるであろう。
「本当は、みんな悟っているんだよ。
そこに気づけばいいだけなんだ」
のルーツなのか
そんな人がいたのか
ロンはそんな人ではないと信じている😫
>>57
曹洞宗系統が色濃いかもしれんなー
最近、
現在曹洞宗の盲点が
そのよーなところがあると
解ってきた
道元禅師は
空間的な扱いのテーマがあるが
現在曹洞宗は
空間的扱いが薄いか、
只管打坐一辺倒か
もしくは
道徳的二もっともであるけど)
ま、大乗起信論は
空間的扱いテーマは薄いやろなー
個人の内面乃悟りの側面扱い限定ぽさがあるからな
😄
せいうんこほど
酷くはないが
100がマックスで
せいうんこが1000としたら、
ロンは40は
観念遊戯しとるなー
😫
除湿用にエアコンかけてしまうなー
😄
ある種の理性絶対主義だなー
と
そういう霊的認知の構造になっているのだと
昨晩から模索してたー
😄
「信仰」は
解釈的には
絶対的真理、絶対的理性
のイメージで
読解されているやろなー
カトリックでは
それを内面に見
プロテスタントは
神の側に、それがある
ま、俺的なキリスト教では
その志向は
ないけどなー
😄
https://m.youtube.com/watch?v=pDSNB8-GiMA
ジョージ・マイケルのほうが
クリスマスソングで
上だから
AIにやらせたんやろなー
ワム、ラスト・クリスマス
😄
ゴーひろみが
カバーしてたな
原曲はケアレスウィスパーか
😄
脳内霊的要約整理ができてきたー
ま、この方向性で
天理教あたりの霊的?読解ができる
😄
山下達郎、
時間差ではまってきた
😄
セカンドは
割合リアルタイムでは
結構聞いたなー
😄
難しそーだな
そんなの考えた
ことがない
😄
唯識はゴールワープしちゃうからなー
😄
こころは無限の世界を画(えが)く―華厳経は現代に何を語るのか―
講師:東京大学名誉教授 文学博士 木村 清孝 先生
『華厳経』の成り立ち
日本において『華厳経』を読誦することは、現在ほとんど行われておりません。わずかに日本の華厳宗の大本山である奈良の東大寺で、儀式の中で『華厳経』の一部である「唯心偈(ゆいしんげ)」をお唱えしているくらいです。
そういう意味では、あまり知られていないお経ではありますが、大乗仏教の歴史や思想を見ていく上で、とても大事なお経なのです。
法華経に軍配が上がった
『華厳経』がまとめられたのは、私たち自身が菩薩であり、その菩薩として生きる道を明確にしようという意図によるものです。
『華厳経』は『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』というのが正式名称ですが、現在残っている完本の『華厳経』には四種類があります。ここではそのうちの包括的なもの三つをご紹介します。
一つは『六十華厳』とよばれる全六十巻の漢訳本、二つ目に『八十華厳』と呼ばれる全八十巻の漢訳本、そして三つ目にチベット語訳の『蔵訳華厳経』です。
1つはチベット語訳か
その『八十華厳』にいくつかの章が加わって『蔵訳華厳経』ができています。
ですから、もともとの『華厳経』に一番近いものは『六十華厳』ということになります。
じゃあ、読むべきなのは
「六十華厳」だな?
その後は章を進めるに従って、忉利天宮会(とうりてんぐうえ)、夜摩天宮会(やまてんぐうえ)、兜率天宮会(とそつてんぐうえ)、他化天宮会(たけてんぐうえ)と、釈尊の所在が、天の世界へ、上へ上へと動いていきます。
そして最後に釈尊は再びマガダ国の普光法堂会(ふこうほうどうえ)、逝多園林会(せいたおんりんえ)というように、私たちと同じ世界に戻ってこられます。
法華経は
修験道の支持が高かったからねー
あと
観音信仰ー
大河光る君
の時代だ
藤原道長は大峰山詣り
後の院政の熊野詣で
完璧に法華経、
天台密教と天台密教系統修験道
😄
『華厳経』が中国に伝えられたのは五世紀の初め頃です。当時の中国には、西域からやって来る「訳経僧(やくきょうそう)」や、あるいは中国から西域に仏教を求めた「求法僧(ぐほうそう)」によって、多くの経典や論書が伝えられました。彼らは、まさに法のためには命を投げ出す「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の決意をもって仏教を伝えました。そのおかげで現代の私たちも仏の教えに触れられるということを忘れてはいけないでしょう。
華厳でもっとあっとのほうだ
😄
―三界唯心の思想―
ここからは『華厳経』の現代的意義というテーマに沿ってお話をしたいと思います。
『華厳経』には一番有名な教えとして「三界唯心(さんがいゆいしん)」の思想があります。
「三つの世界はただ心のみである」という意味で、「三界」とは、もともとインド的な瞑想の体験に基づいて設定されたたもので、欲界、色界、無色界のことです。これらの三層で「迷いの世界の全体」を捉え、その全体が心に基づいて存在するというわけです。
仕事しながらの止
サマタだ
😄
純正ではない
仕事中の暑さのさなかの
的確な判断力の
自分側の判断のコントロールは簡単だが
イミフな同僚の対応は
意外に難しい
😄
2つの悟りを
所有している
海印三昧
と
華厳三昧である
😄
朝はプロテスタント教会に行った
昼から
カトリック教会行く予定だったが
暑いのでやめた
😄
やはり
都知事選挙絡みの
連投かもなー
ウヨサヨ石丸の〜
😫
両方とも
実は理性先行で
霊的関係の探求が薄い
日本では
首都圏のみの少数だけのよーだ
プロテスタント、カトリックの
霊的関係の意識した教会は
日本の首都圏は
先進的教会のある可能性があるが
地方はダメぽ
😫
5ch はまたスクリプト荒らしだ
まあ、霊的探求したいなら
ペンテコステでしょうな
😫
朝の間の鹿島神宮の空気は
涼しげで
清々しいそうだなー
😄
ま
俺は聖霊カリスマ派マシーンだから
教団無分別で自動
聖霊バプテスマできる?
😄
私たちの世界の見方は、最初に客観的な世界があって、それを意識がありのままに受け止めて作り上げられているというものではありません。例えば、この世界をどう見るかと尋ねたときに、いろいろ人がいろいろな考え方を述べますよね。これはまさに「唯心」だからであり、人それぞれに心で描いている世界が違うからなのです。
日本の華厳の聖地、
俺はここで
華厳経の現在語訳を読みながら経典の観想にふけり
悦楽ゲットだ
😄
https://m.youtube.com/watch?v=sz0CIwgDKlc&pp=ygUY5piO5oG15LiK5Lq644CA5ZKM5q2M5bGx
へえ、どの辺なんだろ?
お寺の
小堂の前に座って華厳経典を読んでいた
この小堂
https://m.youtube.com/watch?v=w_jt4rBWjzA&pp=ygUY5piO5oG15LiK5Lq644CA5ZKM5q2M5bGx
😄
初の日本マンガの源流?
と言われる
絵巻のある
高山寺も
明恵上人の
華厳の聖地だな
行ったことはないが
ディアゴのDVDで
その雰囲気はある😄
いつかインドに渡りたいと夢みたらしい
😄
後鳥羽上皇の配下の武士をかくまい
北条家武士の要求を堂々とはねつけたらしいー
ま、戦国期だったら無理だろうけど
😄
唯一継承者と
自称できる
ま、華厳宗高山寺派は
現存しないからー
😄
明恵上人が
やたら
好きで
本を出している
😄
俺は華厳宗高山寺派の唯一継承者のせいなのか、
この場所では
もはや天台密教の気配がかんじられず
華厳一色になってまう〜
😫
https://ameblo.jp/yukimaru-1978-waka/entry-12015933704.html
出口王仁三郎的ワールド
😄
京都大学大学院准教授 大槻 信
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。残された和歌も自在な境地を伝える。
(明恵上人歌集)
実践的な修行を重んじ、中でも仏光観と光明真言とが重視される。
場所は禅堂院、その持仏堂には五秘密曼荼羅(ごひみつまんだら)、華厳善財善知識図(けごんぜんざいぜんちしきず)、華厳海会諸聖衆図(けごんかいえしょしょうじゅうず)が飾られていた。
臨終のしつらえとして明恵は弥勒菩薩像を置き、五聖(ごしょう)曼荼羅図をかけ、光明真言、文殊五字真言を唱える。華厳善財善知識図、華厳海会諸聖衆図、五聖曼荼羅図は華厳・仏光観に関わり、五秘密曼荼羅、光明真言、五字真言は密教に関わる。
臨終の場はまさに厳密を具現化したものであった。
やりきってるなー
😄
関東圏でも行ける
華厳宗の絶対的聖地やな
😄
😄
先月まで
おあづけ
だったらしい
😄
そうなのか
メンタルパワーが
上がったー
これは
寒くなっても維持できたら
まー
なかなかなもんやー
😄
最新対暑さ集中力モードを
試験運用再開だ〜
😄
道元禅師も
明恵流解釈もバージョンアップだ〜
😄
果たして自分は何をもって本当の自分とするのでしょうか?
仏教では、我という存在を考えるとき、まず無我(むが)を説きます。
無我とは我が無いと書きますが、
その意味は「われは自分のものではない」という考え方のことです。
自分で自分をコントロールすることができるのであれば、
老いをコントロールして若くい続けることもできますし、
病も自分の意志でコントロールできます。
寿命、運動能力、学習能力、容姿、性格、癖、
いずれも外的要素なしに自分で思いのままにコントロールすることはできません。
つまり自分でコントロールできない自分は自分のものではないと説かれます。
どちらも自分ですが、それには異なる認識があるでしょう。
さらに、経験や人間関係、年齢、様々な条件で思考も変わります。
それに伴い、言っていることも変わることでしょう。
ではどこに本当の自分がいるのか?
それは…
結局のところどれも本当の自分ではないでしょうか?
時に嘆き、時にうそをつき、時に傷つき。
人といるときの自分、一人だけの時の自分。
どれも本当の自分と理解することで、
自分探しの旅は終わるかもしれません。
「え?今の自分が本当の自分?そんなはずない!」
これは本当の自分ではないと否定したくなる気持ちもあります。
それは、こうありたいという思い「志」であり、自分を作る基礎になります。
今生でも来世でも、 どういう自分でありたいかが大切ではないでしょうか。
そういう意味では人はいつからでも変われます。
そこに本当の自分を見出すことが愉しく生きる道だと仏教は説きます。
世情様々なことがございますが、
自らの希望と芯を要にこれからも精進いたしましょう。
南無阿弥陀仏
Aコース
オレメインコース
ホントウとか固定できるものは一切無いと
形式無しの果てに
Bコース
ありがたい聖なる無我コース
瞑想トレーニングコース
霊的な存在のパワーを受けて
ホントウの自分に向かう
キリスト教、イスラーム、神道
日蓮宗、浄土宗系統
と
ざっと区別してる
しかし、
神祇の世界は
霊的に知らぬ世界が多い
個別に知ってるのは
上賀茂、室生龍穴、大神神社、伏見稲荷までが
限度
😄
少しリアクションでまだディープではない、
八幡社は
石清水八幡宮はまだ行ったことがない
地方八幡神社は
とある宗派解釈で
コミュニケーション取ってるけど
伏見稲荷みたいな快楽リアクションではない
😄
地元の鹿島神社の霊感も
快楽までは解ってはいない
😄
地元の諏訪神社は
パワーを食らって入るけど
快楽ではない
やはり
謎
やはり
神社系統は謎が多い
地元稲荷社は
伏見稲荷の神を召喚すると
いいリアクションある稲荷社と
ノーリアクションな稲荷社がある
やはり謎だ
😄
霊感パターンは一定である
華厳宗、天台宗も大方同じだ
真言宗各派、臨済宗各派、曹洞宗は
寺院別の感覚の個性がある
キリスト教は教団別の霊感パターンは同じだ
😄
貴様ここは唯識スレやぞ
唯識の話をせんかい
反応がはやすぎやろ
ふーん
まあロジック的には
オートメーションにまとめてあるってところだから
まあそうなんだろ
「ヴァッチャよ、汝もまた信仰を捨て去れ」
の世界なんだけど
強めていく道だ
というんではなくて
臨済宗、曹洞宗、真言宗は
宗派として霊感が
統一されてない、
ということ、
浄土宗寺院は、どの浄土宗の寺院へ行っても
同じ浄土宗の霊感があると
いいかた、
誤解を招いた
😄
なるほど、そういうことか~😄
浄土宗でも西山派、知恩院派は
似ているが、微妙に違う
真宗でも、大谷派と本願寺派では
やはり微妙に違う
真言宗は
特に高野山真言宗は
別宗派か?
というぐらいに
宿坊ごとに霊感が違う、
😄
そういう意味では
神社の
霊感の差は
さらに
謎である
😄
その前に神社別の霊感を全部コンプしたない
😄
唯識思想は仏教でもっとも関心を持たれている思想ではないかと思います。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』や『空の境界』などアニメや漫画にアーラヤ識や唯識という言葉が使われているのを見たことのある人がいると思います。
唯識思想は読んで字のごとく、「唯一識だけがあって、それ以外のものは存在しない」思想と理解されています。識は心みたいなものと理解しておきましょう。
なぜ仏教のなかにそんなことを主張し出す人たちが現れたのでしょうか?
仏教徒たちは瞑想をしていました。その瞑想を特に熱心に行なっていた人たちの体験の語りがもとになっているのが唯識思想です。
彼らは瞑想のなかで心が作り出す映像を見ました。そしてよくよく考えれば、瞑想していないときに見ているものも、それと違わないことに気づいたのです。そして彼らが唯識を主張するグループになりました。
ただ、彼らの気づきを基にした主張が「ただ心だけがあって、それ以外のものは存在しない」であるかどうかは微妙な問題です。
唯識の本場インドでの原語にさかのぼってみると、唯は「~だけ」であり、識は「認識させられた」というような意味で、「認識させられただけ」のように翻訳できます。
唯識を「認識させられただけ(で本当は違う)」と翻訳すると、「心だけがある」という主張とかなり違ってきます。
実際、唯識思想には「あるがままのもの」(真如)や、「認識させられたもの=心によって作り出された映像」を拭い去っても「残ったもの」、悟ったブッダが対象とするもの、のように、誤って認識させられているものの先にある本当の存在を表現する言葉が出てくるのです。
この「誤って認識させられている」というのが苦の原因であり、それをどうにかしようというのが唯識の主張なのです。そう考えると、仏教思想らしさが出て来ます。
ただ、唯識思想にも強弱があり、他の思想と論争するときなどには、ものが存在すると証明する根拠に対して攻撃を加えて、ものは存在しないということを強調して証明しようとすることもありました。
しかし、唯識思想の真意は心以外のものが存在するかどうかを論争することにはなく、どのように誤った認識を正して、苦に対抗するかの実践にあったのだと思います。
ですから、唯識は世界を唯識的見方で見て、苦に対抗しようとする、修行法の一つとも言えます。
唯識は瞑想中に心が作り出した映像に気づくことから始まったと説明しました。心の働きに注目した思想として、心理学からも興味を持たれている思想と紹介されがちです。
さらに心の働きを脳の働きに還元して考えれば、唯識思想は脳の働きに注目した思想とも言え、現在、瞑想中の脳波を測るような研究と唯識研究がタッグを組んでいたりもします。
心とは何なのでしょうか。なぜ我々に映像を見せてくるのでしょうか? それは心の働き、そして言葉の働きによるのです。
とりあえず本記事で心と理解している識は、人間の識別判断の機能のことを指しています。そして識別判断は言葉の働きによって可能になります。
言葉は存在するものの代理をする働きを持っています。識はその言葉を道具に使って、感覚された存在を言葉に代理させていくのです。これが識別判断です。
私たちは識が機能したあとの世界にいます。実際の存在がすでに代理されたあとの世界です。
これが識、つまり心が映像を見せてくるということです。映像とは実際の存在を言葉が代理したもののことです。
瞑想といえば、無心になるために行うというイメージがあるようです。実際に瞑想をするといろんな考えが頭に浮かんできます。感覚が静まることで、心の働きが表面化してくるのです。
私たちは常に代理されたあとの世界にいると言いましたが、それが苦の原因なのです。
気分が落ちこんでいるときにはすべてが悪く感じられます。それは心が世界を作っているからです。苦しく感じられるのは心がそういうように作っているからなのです。
唯識の修行者は修行のなかで心を作り替えます。それを転依といいます。そうして苦しみを無くしていくのです。
↑
これよな
唯識の場合は魔境とは何か
どっからそれは映るのか
誰が映してるのかと探求と目的が違う
👻
幽体離脱のそれもある意味
現実かあるいはそれに近い仮想か
唯識のいう瞑想時に映る映像は
想像やイメージとは違い
リアルに現実と遜色のない風景を見せる
体外離脱の場合はその風景を
自在に動き、変えることが出来ると言えば
なんとなく分かるだろうか
↑
これは想像やイメージとは一線を画す
いうなれば投影方式が違う
識の現れであるといいきってしまうくらいの没入感とリアルさだ
だ
いまや
神道に移っている
😄
仕事帰り、不意に
神社参拝してきたしー
😄
霊的生命力だ〜
唯識は
結構快楽度合いが高い
😄
その観念に当てはめることによって、世界を認識している
外部の事物についての情報は、後から入ってくる
あるがままの認識
それを現量了解という
近代西洋哲学者たちが発見してきた真実
じつは、古代インドの論書に全部、書いてあった
知れば知るほど、あまりにも似ている
近代ヨーロッパで、もういっぺんやり直した
山伏的な
天台本覚思想やろなー
😄
教祖がいない
ホントに
エンタメオンリー
😄
幽霊ヒロシを連れて
浅草神社で
お祓い〜
😄
https://m.youtube.com/watch?v=BatExMnpRAg
ウケた
幽霊ヒロシのリアクションに
😄
😄
浅草らしい
😄
😄
https://m.youtube.com/watch?v=XmEWKstVhGI
やはり
出口王仁三郎関連の動画も上がってくる
?
😄
日本のスピリチュアル関係者は
大なり小なり、全員が影響を受けている~😂
特殊やな
修行意識がない
😄
昔から気になっていた曲、
NHKの番組の曲
落として
リターン聴きだ
😄
https://m.youtube.com/watch?v=ChwLT4ByNU8&pp=ygUP5bed44G544KK44Gu5a62
大阪南部の寂れた?
地域の
内容はおもろかった
台湾系チベット密教の新興宗教の
寺院の内容が
おもろかった
😄
ハマる
😄
チベット密教の新興宗教
https://www.sankei.com/article/20141120-LNIN4DS2W5I7JB3ACOUHGDZJIU/
あたりは
アッセンブリーの聖霊派の教会があり
場所的には修験道の葛城修験の近辺なので
霊的な雰囲気が凄い
😄
そりゃスゴいな
さすが聖霊派
近所の諏訪神社へ行ってきた
蚊に食われた
夏場は不向きだな
😄
最新、
なんかスゲェーエンタメ
https://m.youtube.com/watch?v=ea-alf10ncY
奥深い〜
😄
キリスト教や人格仏寄りの仏教の
世界観みたいな
イマジネーションがわいてくるなー
😄
キリスト教と仏教の優秀さが見えてくるなー
この動画は
当人たちは
その意識はないだろうけとー
キリスト教は孤立しない、人間の世界の価値に呪縛されない
仏教は人間の価値に呪縛されない、
ヒンズーヨガも人間の価値に呪縛されない
というポイントがある
😄
本山修験宗
天台宗の流れをくむ修験道の一派
本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)は、天台宗の流れをくむ修験道の一派。聖護院を総本山とする。
修験道の包括宗教法人である。開祖は「役行者神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」としている。
本山修験宗は神社も包括しており宗教法人格を有する神社も4社属している。
聖護院
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/170216_Shogoin_Kyoto_Japan01s3.jpg/1280px-170216_Shogoin_Kyoto_Japan01s3.jpg
天皇・皇族のお住まいになった、格式高い寺院。
聖護院は平安時代に創建された、本山修験宗の総本山です。
その濫觴から天皇家と深い関わりを持つ聖護院は門跡寺院と呼ばれ、京都の街並みとともに特色のある歴史を刻んできました。
門跡の雅と、厳しい山岳修行の寺。
当院の沿革は寛治四年(1090)、白河上皇の熊野御幸に先達を務めた増誉(ぞうよ)大僧正が寺院を賜り、「聖体を護持した」というその功績から「聖護院」と称したことに始まります。
後に戦乱・火災によって京都を転々としましたが、延宝四年(1676)、創建の地でもある現在の場所に再建されました。
その当初から皇室と深い結びつきのあった聖護院では、出家された皇族や摂家の方がたびたび住職を務められました。このような寺は門跡(もんぜき)寺院と呼ばれ、日本国内でも数少ない、格式高い寺院とされています。
特に聖護院は江戸時代、天明の大火を逃れて来られた光格天皇が三年間ほど御在所とされた事から、「仮皇居」の史跡指定を受ける唯一の寺院です。寺内には花鳥や賢人、また雄大な自然が描かれた貴重な金碧障壁画が数多く残され、京文化の美を感じることができます。
こうした雅な側面の一方で、聖護院は野山に分け入っての修行を旨とする「修験道」を実践する、本山修験宗の総本山でもあります。春の葛城修行、秋の大峰奥駈修行をはじめとする入峰修行には僧俗を問わず多くの方が参加され、自然の中に仏の教えを観るという山伏の信仰を現代に伝えています。
京野菜の代表格
聖護院大根
https://www.shikoku-np.co.jp/img_news.aspx?id=20021229000173&no=1&kyodo=1
知らんかった
山伏の寺 本学院
開祖平家一門の武将齋藤別當實盛の末裔、栄祐法印が比企郡島田に仏堂を建立しました。
これを本学坊と名づけて不動明王を本尊とします。
その後、元和9年(1623年)に関東郡代伊奈半十郎忠治公より
御墨付鴻巣内坂田新田開発の定書と広大な土地を賜り、ここに移り住み本学院を開きました。
本堂
1986年10月に再建されました。
ご本尊の不動明王他、いろいろな仏様をお祀りしています。
不動明王は大日如来の教令輪身(悪者を懲らしめるための怖い姿)であり
人間の心にある甘えや弱音を厳しい叱責でただしてくれます。
右手に持つ剣で煩悩を切り、左手に持つ縄で魔を縛り、
悩み苦しむ人々を救い上げます。
護摩堂
不動明王をお祀りしています。
毎月28日の月例護摩供や各種護摩祈願などを行います。
行者堂
修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)をお祀りしています。
634年に奈良県御所市茅原に生まれ、葛城山や大峰山などの行場を開き
701年に大阪府箕面市の天上ヶ岳にて昇天しました。
1799年には光格天皇より”神変大菩薩”の諡を贈られています。
本山修験宗 本学院
〒363-0008 埼玉県桶川市坂田1590
http://hongakuin.net/DSC_9244.JPG?1722978507547
山伏とは
山は祖先の霊がいる神域と考えられていましたので、古代から山に入り修行をして
霊力を高めようとする人たちがいました。
その人たちは仏教や道教などの新しい宗教も積極的に取り入れ自分の力にしようとしました。
山で修行して里に下り祈祷などをする行者が修験者と呼ばれるようになりました。
山伏とは山野に伏して修行し験力を得た者の意で、修験者と概ね同義です。
修験道は多くの修験者たちが日本古来の宗教や大陸伝来の宗教などを取り入れ
独自に宗教体系を形成していったものです。
したがって整然とした教義が無く、実践的儀礼を重んじる宗教として始まりました。
日本の原始宗教は自然界の様々なことに神を感じ、それを畏れ敬い崇めるものでした。
仏教が伝来されても多神教であるという共通点などもあり、徐々に融合していきました。
平安時代には本地垂迹説が生まれ、日本の神様は仏教の仏様が仮の姿で現れたものであるとされ、
神様と仏様は同化されました。
修験道の開祖と言われています。
続日本紀に”弟子の讒言により伊豆島に流された”と記述があり、実在の人物なのですが
その生涯は、伝説として多く語られています。
明治政府は天皇親政および祭政一致を理想として、神仏習合を打破しようとしました。
神道を国教化し、神社から仏像や仏具を取り除くなど、
神仏判然に関する法律を相次いで12件も発布して神仏分離を断行しました。
明治5年9月15日、太政官は修験道廃止令を出し、
修験者は還俗、神職、天台、真言のいずれかになるように命じました。
これにより当時17万ともいわれた修験者のほとんどは姿を消しました。
昭和になり信仰の自由が認められましたが時間も経過しており、再び修験として独立したものは僅かでした。
山伏の寺 本学院
http://hongakuin.net/index.html
怪しいとこじゃなさそうだな?
浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。
浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶および門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。
門跡ってのは、皇室がらみで格式の高い寺のことなんだな
こっちの方がいいな
元三井寺、
オレ的にマタタビ効果宗派
オレ的は
三大禅定美女の三人の内の一人
😄
聖護院は
😄
櫻部建
櫻部 建( 桜部建、さくらべ はじめ、1925年8月16日 -2012年6月9日 享年88歳 )は、日本の仏教学者。
経歴
京都市生まれ。大谷大学文学部原始仏教学科卒業。インド・ビハール州立ナーランダ研究所講師を経て、大谷大学助教授、教授。1967年「阿毘達磨倶舎論界・根品の研究」で大谷大学より文学博士の学位を取得。駒澤大学教授、同朋大学教授。
著書
『倶舎論の研究 界・根品』法蔵館1969
『佛教語の研究』文栄堂書店 1975
『倶舎論』仏典講座大蔵出版1981
『阿含の仏教』文栄堂書店 2002
『仏教と真宗と 真宗の若い人々と語る』全4巻平楽寺書店2002-2003
『真宗の学び方』法蔵館 2011
界品(二巻) 諸法の体
根品(五巻) 諸法の用
世間品(五巻) 果
業品(六巻) 因 } 有漏
随眠品(三巻) 縁 } 三十巻
賢聖品(四巻) 果 (倶舎論記に依る)
智品(二巻) 因 } 無漏
定品(一巻半) 縁
破我品(一巻半)
界品(かいぼん) - 存在の種類
根品(こんぼん) - 存在現象の活動
世間品(せけんぼん) - 世界の構成
業品(ごうぼん) -有情の輪廻の原因となる業
随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩
賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階
智品(ちぼん) - 智慧
定品(じょうぼん) - 禅定
破我品(はがぼん)
界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破するという構成になっています。
界品(かいぼん) - 存在の種類
根品(こんぼん) - 存在現象の活動
世間品(せけんぼん) - 世界の構成
業品(ごうぼん) -有情の輪廻の原因となる業
随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩
賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階
智品(ちぼん) - 智慧
定品(じょうぼん) - 禅定
破我品(はがぼん)
界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破するという構成になっています。
界品(二巻) 諸法の体
根品(五巻) 諸法の用
世間品(五巻) 果
業品(六巻) 因 } 有漏
随眠品(三巻) 縁 } 三十巻
賢聖品(四巻) 果 (倶舎論記に依る)
智品(二巻) 因 } 無漏
定品(一巻半) 縁
破我品(一巻半)
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/955c0d02a8550f851b0c071bd8a9872a/?cid=26df5cf7e024687b1456fc17ca7b5056
賢聖品(けんしょうぼん) -悟りの段階
智品(ちぼん) - 智慧
定品(じょうぼん) - 禅定
あたりは
仕事でのヒラメキから
模索構築やる作業が多いので
だいたい
予測はできるー
ヒラメキー
とかやっているのは
このあたりのテーマを
やっているなー
😄
(1) 色法(十一)、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官と、その対象である色・声・香・味・触の対境、および表示できない実体である無表色の十一種。(「色とは唯だ五根と五境及び無表となり。」)
(2) 心法、心の働きの主体で、心王という。(「識は謂く各了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六識転ずるを意となす。」)
(3) 心所有法(略して心所という。四十六)。これが大地法(十)・大善地法(十)・大煩悩地法(六)・大不善地法(二)・小煩悩地法(十)・不定地法(八)に分けられています。大とは、どの心王にも必ず遍く倶生するということ、小は常に倶生するとは限らないという意味です。地とは所依をあらわします。心王です。心王を地と名付づけているのです。大地であるところの心王が所有する法が心所といわれる所以です。
(4) 心不相応法(色法でも、心・心所でもない存在のありかた。)で、十四種数えられる。)
(5) 無為法(生滅の変化がなく、はたらきを起こすものがないもので、三種あり。)
考えてみれば面白いな
西洋哲学では、感覚器官とその対象は歴然と異なる
こんな風にセットで考えない
それを感覚器官が捉えて、脳内現象が起きる
っていう感じだな
昔の人でも、考えれば分かったんだな
もっとハッキリ分かっている
漢伝倶舎学を研究してる倉松崇忠先生が今の最高峰なんじゃないかと密かに思ってる
今度、調べてみよう
これは、精神世界の探求者にとって常識だ。
ここまでは異論が出ないだろう
仏教的には、それは誤り
大川隆法が言ってる「心」とは、
現代風にいえば「表面意識」にすぎず
本当の自分ではない、仮の自分
「偽我」だ
ほとんどが肉体頭脳の作用
自分が意図するしないにかかわらず、
脳が勝手に反応する
露出度の高い服装をした細身のお姉サンがいると
つい見てしまう
バカ信者が、宗教詐欺師を「ブッダさま~」と
崇め奉ってるのを見て、愚かさにイラ立つ
これは、脳が勝手に反応しているのであり、
自分の意志でどうにかなるものではない
脳の機能は、ほとんど知られていなかった
だが、思考や感情は、何かが勝手に反応しているのであり、
自分の意志でどうにかなるものではないということ
これは、瞑想時の観察を通じて、古代インド人にも分かっていた
これは、精神世界の探求者にとって常識だ。
ここまでは、精神世界関係者の間で異論が出ないだろう
問題は、そこから先だ
大川隆法のように、
「人間は、心なのです」
「心こそ、本当の自分なのです」
というのは、精神世界に対する浅い理解だ
理解が浅くて、錯覚している状態だ
思考や感情も、ほとんどが脳の反応にすぎないことが分かる
脳だって、身体の一部だ。肉体であることにかけては、
心臓や胃袋と変わらない
「身体は、本当の自分ではない」と
本気で思っている人にとっては
思考や感情も、自分ではない
仏教では、そう考える
では、本当の自分とは何なのか?
身体は自分ではない
思考は自分ではない
感情は自分ではない
・・・と、「自分ではないもの」を次々に取り除いていくと
最後には、何も残らない
何も残らない。だが、何かがある
それこそが、本当の自分
脳科学者に言わせれば「すべて」だ
胃袋や心臓の動きを自分の意志でコントロールできないのと同様、脳の反応もコントロールできない
酒の瓶を見て「飲みたい」と脳が反応する
脳の反応を止めることは不可能だ
だが、酒を飲まずに耐えることなら、自分の意志で可能だ
これは、脳の反応に身を任せて生きている状態
21世紀の脳科学により、インドの聖賢たちの言いたかったことが分かってきた
「本当の自分ではないものを次々に消去していく。最後に残るのが本当の自分」
これが、インド流の考え方
イミフなやり取りで盛り上がりやなー
😓
リダン仲間、
サティまでくるという
盛況ぶりだー
😄
マイペースの塊の
ほーかいくんのスレが盛況なのは
せいうんこーよりも
遥かに人望があるからだー
😄
やはり
人間ぽいいい味がある
スネたり有頂天になったりー
人間味がある
無間ジャイアンせいうんこーとは
異なる
😄
感情やらなんやらは信号であり
その反応や作用にすぎない
みたいな自己流メソッドから
唯識にいったわ
中でも 唯識思想においては、物事を存在せしめる原因を「ことば」ひとつに帰しているとも思えるほど、ことばのはたら きが重要視される。
なぜ唯識思想においてことばはそれほ どまで重要なはたらきをするものと考えられたのか。
その 理由を以下のような項目のもとに「摂大乘論」を中心にし て考察してみたい。
これこそ、唯識論における最重要テーマの1つ
ナーランダ学院で仏教理論を研究したのであろう
流石JBLさん
慧眼だねえ
若き頃は
唯識の捉え方と
ソシュールを組み合わせやってたなー
😄
唯識些末なシステムに関心かあったと思う
どれだけ現象を的確に捉えるか、
みたいな
脱西欧思想からのー
うーむ
せいうんこーよりも
理屈的には
オレのほーがはるかに賢いという自信はあるなー
今や、その理屈に飽き
大乗仏教の瞑想理論に飽き、
山伏と念仏と
さらに神社の神の存在プレイに傾いている
😄
12時間の音声600メガバイト落として
ごきげん良く聴いている
😄
もちろん、動物にも生存本能があり、エゴはある
だが、人間みたいな明確な自意識はない
自我は、言語の産物だ
古代インドの仏教哲学者たちは、それを見抜いていた
未開の原始人みたいな人たちも多かった
彼らの自我意識は未発達であった
他方には、言語能力の未開発な大勢の原始人たちがいた
おそらく、比較検討しやすかったのだろう
人は言語で区別する
幽霊カウンセリング
😄
https://m.youtube.com/watch?v=amxPjm_8QiY
アレクサンダー・ベルゼン博士
今晩、ここに皆さんといれることをうれしく思います。今晩は「何故、仏教か?」について話して欲しいということですが、これはもちろん妥当な問いです。特に西洋では、自らの諸宗教がすでにあるのに何故仏教が必要なのでしょうか?
セイウンコーンを評価する不気味な麦
ナルシズム突っ走るデンパパ
テキトーなリダン
そーいう分析ができる
😀
やっとお家で落ち着いた
😀
アタマワルソーな
セイウンコーン、
デンパパ、
ムイムイには
無関係なのがわかる、
ひたすら頑固だからなー
😫
https://i.imgur.com/ENtLV8G.jpeg
聖ウンコ師を精神分析するのか?
そんな感じだな
😫
https://i.imgur.com/XaKowOm.jpeg
私は酒もタバコもギャンブルもオナニーも辞めました☺
私は酒もタバコもギャンブルも自慰行為も辞めました☺
https://i.imgur.com/1GnXUgq.jpeg
仏の道はむさぼりといかりとおろかな心を捨てることです。
https://i.imgur.com/ooJyUWB.jpeg
ですから適切な薬を飲まないと治りません。
心理カウンセリングは意味が有りません。
無心が一生安楽。
仏の道はむさぼりといかりとおろかな心を捨てることです。
https://i.imgur.com/A4Jvryn.jpeg
五位七十五法にはどんなものがありますか?
有部の説く五位の法には七五種類あり、具体的には色法を一一、心法を一、心所法を四六、心不相応行法を一四、無為法を三とする。 心所法を四六とするのが伝統説であるが、さらに多数あるとするインドの注釈家(ヤショーミトラ)の説も明らかとなってきた。
ごいしちじゅうごほう/五位七十五法
一切法を色・心・心所・心不相応行・無為の五つの範疇に分類した説一切有部の説。
それが、説一切有部の特徴だ
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)
これが原始仏教だ
有為転変な存在を「有為法」として、まとめた
それに対して、転変しない存在、「無為法」というのを立てた
「永遠に変わらないもの」
「永遠とまでは言えないが、ほぼ永遠に変わらないもの」
が登場した
最低限度でも、唯識か
テーラワーダクラスの
禅定キメないと
やらないといけない
用事ができぬー
仕事疲れのせいで
ろうそくつけるのに
自分の手をライターであぶったり、
火のついた線香のほうを2回触ってもーた
やはり
疲れているなー
😱
https://m.youtube.com/watch?v=pNxkvjkxHPY
> 仕事疲れのせいで
> ろうそくつけるのに
> 自分の手をライターであぶったり、
> 火のついた線香のほうを2回触ってもーた
それはヒドイ😫
昨日の昼寝と昨夜の爆睡で回復だ
😀
宗教研究を朝からやっている
😀
往生要集下巻の最初の念仏の利益を読み修行してきた
😀
😀
その時間
😀
天台浄土教ワールドタイムであった
😀
😀
脳内で完成した
😀
ほうほうその理論聞いてみたい
ま、スピリチュアルぽい
表現だと
言霊というんやろなー
言霊の波動みたいなー
日蓮、山伏念仏、神道、キリスト教、イスラム教は
これでイメージできる
葬式仏教寄り発想を選択した開祖ではない禅宗、真言密教、天台、の
勤行祈祷供養関連は
ほとんど
言霊の波動だろなー
むろん正統派瞑想仏教の事ではない
😀
波動、周波、バイブレーション、レゾナンスチューニングは
離脱でも重要だ
ま、リダンには
ほーかいくんスレへのブッコミ資格はある
😀
に関しては
😀
いつでもお線香を焚いている仏間は、部屋全体に良い香りが染みつき、常にお香の香りがしています。
仏教では、「薫習(くんじゅう)」と言って、「お香のかおりがいつのまにか身体に染み込んでいくように、すぐれた人と行動を共にしていると、気がつかないうちに、自分もすぐれた行動をとるようになる」と教えています。
知らず知らずのうちに、付き合う相手の行いや考え方が深層心理に影響を与えていくことを意味しているのです。
これは重要な概念だ
知らず知らずのうちに、すぐれた人になる😫
平安時代の三論宗
インド大乗仏教の二大学派の一つである中観派(Mādhyamika)は、東アジアへは鳩摩羅什(Kumārajīva)によって伝えられ、嘉祥大師吉蔵によって三論宗として大成されました。
その思想は、聖徳太子の時代から日本に伝来し、南都六宗の一として宗派を越えて学ばれ、大きな影響を与えました。
このページは日本における中観派、三論宗を紹介するものです。
口傳血脈
文殊 馬鳴 龍樹 提婆 青目 青辨 沙車 羅什
曇影 僧叡 道生 僧肇 道融 道恒 惠嚴 惠觀 已上八宿竝出
道朗 僧詮 法明 嘉祥 已上四師次第
元康 玄湜 已上漢
道慈律師 善議大徳 勤操僧正 願暁律師 尊師聖宝僧正 延敒僧都 観理済権大僧都 澄心僧都 在慶(済慶?)律師 有慶大僧都 顕真 永観律師 覚樹僧都 珍海
『東南院務次第』
醍醐天皇の御代、延喜五年(905)乙丑の年、当寺別当の道義律師は、大安寺佐伯院をこの東南院に移転して、聖宝僧正に委嘱した。時に、勅令によってこの東南院主を補任された者は、三国相承三論長者とされた。
後三条天皇(在位1068~72)の御代、特に東南院務を三論宗の長者とした。東南院務が聖宝に宣下されて以後、現在に至るまで、顕密兼学して宗の貫主となるか。
建久元年(1190)大殿上棟に依り、後白河法皇が御幸された。この東南院を皇居とされた。くわしくは様々な記録に出ているので、略して記録するのみである。
僧正聖宝。俗姓は王氏、京都東部の人である。<或いは讃岐と言われる>
十六歳で真雅僧正(801-879)の下で剃髪得度した。初めは元興寺の願暁(?-874)、円宗(?−884)の二師から三論宗を学び、次に唯識を東大寺の平仁(?−?)に、華厳も同寺の玄栄に学んだ。また、真雅、真然(804/812−891)から密教の伝授を受けた。
元慶八年(884)伝法灌頂を源仁僧都(818−887)から受けた。
顕密二教に通じて備わり、驕る事が無かった。
また、師は奈良の七大寺検校となった。
また、初め東大寺の東坊に幽霊が居て、人を悩ませていた。人々は恐れてそこには住まなかった。師は頼まれてそこに住み、幽霊が出て戦い寄せ付けなかった。師はそれに屈せず、幽霊は他所に移り、それ以来たたりは無くなった。
また、庭に大岩があった。世間で言うには、師が金峯山から背負ってきたと。
師は常に修練を好み、名山霊地を巡った。
金峯山の険しい道は、役行者の後、森林が茂り、道が無くなっていた。師は斧を持ってこれを切り開いた。それ以来、苦行者が相続いて往来するようになった。
師が所持される如意が有った。これは背に五獅子を刻み、そして三鈷杵が彫られ、顕密を並べて学ぶ事を表していた。これは現在まで歴代伝わり、東南院の宝庫にある。三会の講師は必ずこの如意を召し出し、それを持って講演に応ずるのである。
少僧都延敒。姓は長統。左京の人。
聖宝僧正より三論と密教を授かる。また、伝法灌頂を宇多上皇より受けた。顕密の学において当時、抜きん出ていた。
はじめて五獅子如意によって誕生したので、以来三会講師はそれを持って式を行うが、師がその始めである。
これは出るのか(笑)
のびのびとした名前だ
大僧都済高。姓は源。右大臣源多(みなもとのまさる)公(831−888)の息子。はじめ、承俊(?−906)、慧宿の二師に従って密教を学ぶ。後に聖宝僧正より灌頂壇に入れられ、さらに密教を確かめた。
延喜三年(903)秋、醍醐帝が勧修寺を建てられ、済高を詔して落慶供養の導師とした。
ちなみに
京都の永観堂の名前が入っている
紅葉と
かえりみ阿弥陀仏が有名だな
😀
真言密教と三論宗が兼学になったんやろな
😀
空海が唐に行く前の師匠である
😀
やったけ
三論宗の禅定を伝授してもーた
😀
醍醐寺関係、
真言密教系統の山伏のアイドル
😀
後に念仏がメインの色が濃いグループになり
江戸時代の高野山の念仏軍団を統括する立ち位置にあった
😀
なるほど、兼学か
永観堂には数年前の11月に行った
南禅寺の近くだな
また行きたいな~😄
念仏マニア故に二度行った、
京都で二度以上行くのは
浄土関連か、日蓮関連
領域展開ゲット狙いの空振りした仁和寺は3度行ってる
😀
ゲットできないとはー
ま、マニアな流派の高野山の上杉謙信がらみの
宿坊は
飛び入り朝勤行出席20回ぐらいでゲットできたー
😀
浄土宗の有名な寺だとは、後になって知った~😂
法然からの分派は
大きく分けて
西山派と時宗がある
西山派の中に
禅林寺派
深草派
西山派光明寺派
がある
禅林寺が永観堂の本名だ
😀
アップされてるなー
あと
北海道の禅林寺派の僧侶の法話動画を何故か
落としている
滅多に見ないのだが
😀
へえ、そうなのか~😄
永観堂は西山浄土宗だったな
西山浄土宗禅林寺派
その本山が永観堂
西山浄土宗西山派が
本山光明寺、長岡京のあたりやな
西山浄土宗は
三派あるということ
深草派は
京都の新京極あたりの
誓願寺
三派本山巡った
光明寺、誓願寺だけは一回だけやなー
😀
総本山で領域展開未完は仁和寺だけだ
😀
すごいな?😄
真宗寺院、浄土宗寺院
稲荷神社、弘法大師小堂
を、
お参りしてきたー
😀
なんだなんだ四国までいったのに
足りないのかい
そのあと、山陰と南九州にも行った
超豪華・三社参り😂
博多のほーかいくんの自宅
😀😀😀
僧侶、興道の里代表。中学中退後、16歳で家出・上京。放浪ののち、大検を経て東大法学部卒業。政策シンクタンクなどで働きながら「生き方」を探求しつづけ、インド仏教指導僧・佐々井秀嶺師のもとで出家。ミャンマー国立仏教大学、タイの僧院に留学。現在、インドで仏教徒とともに社会改善NGOと幼稚園を運営するほか、日本では宗派に属さず、実用的な仏教の「本質」を、仕事や人間関係、生き方全般に渡って伝える活動をしている。
そんな世相を反映するように、インドで出家し日本の宗派に属さない「独立派」の僧侶が昨年7月に出版した書籍「反応しない練習」(角川書店)がロングセラーとなっている。著者の草薙龍瞬氏は、古代インドの賢者ブッダの教えにもとづき、心のムダな反応を止めれば、悩みや苦しみから抜けられると同書で説く。怒りや妄想など「ムダな反応」を阻止する方法について同氏に聞いた。
——現在売られているビジネス本の多くが「アンテナを張り続ける」「競争社会を生き抜く」といった内容であるなか、「反応しない練習」というタイトルの本が半年で6刷まで増刷されているのは興味深いです。なぜ今、「反応しない練習」が必要なのでしょう。
そもそも反応というのは、仏教の世界では「煩悩」や「漏れ」と呼ばれています。人間は外の世界に触れたとき、腹が立ったり、欲を持ったり、過去を振り返ったり、先行きに不安を覚えたりなど、本来必要のない「反応」をしがちです。仏教では、人間の心は「漏れる」もの、つまり反応するものという理解があり、それを「煩悩」と呼んでいます。
つまるところ、五月雨式に、数珠つなぎでやってくる刺激に「テキトーに反応」し続けることになり、心が疲れやすくなっています。とくに適当にスマートフォンを閲覧しはじめた結果、あっという間に長い時間が過ぎさって、休んでいるようで休んでいないという状況が多発するのは、現代人特有の問題です。
そもそも心は反応することしか知りません。だからこそ、心の性質を理解し、「反応しない練習」を続けることが大切なのです。昔は刺激が少ない分、反応も少なくて済みましたが、今は刺激の絶対量が違います。もしその状況に流されて、反応するがままに生きていれば、よからぬ妄想や怒りに駆られて、心の疲労やストレスは溜まる一方ではないでしょうか。
心とか、魂とかの問題ではない
——心には元来どのような特徴があるのでしょうか。
心は「反応する」ことがそもそもの性質なので、反応を止められることを何よりも怖れます。心にとって反応を止めることは死のようなもの。何にでも反応しつづけることが、実は一番楽なんです。そんな「やめられない、止まらない」心の性質を、仏教では「執着」と呼んでいます。
しかし、いくら反応しても、心が絶対的に満たされることはありません。人間の心は生存欲、承認欲、食欲、性欲といった欲から始まり、その欲が満たされれば満足だし、満たされなければ怒りを感じます。ただいずれにせよ、反応を止められない心は、必ず求め、転がり、渇き続ける定めにあるのです。
人間は、もともと承認欲や所有欲を持っていますし、社会は、それらの欲を満たす形で発展してきました。だから現代においても、人は欲を満足させようとして、社会が作り出す商品やサービスを追いかけ続けています。たしかにそれは、経済を成り立たせている必要な部分ではあるのですが、ただそこにあるのは、ほとんどが「欲の満足」です。実は、欲の満足は、「心の満足」とは違います。世の中の流れに、欲に任せてただ反応するだけでは、決して心は満たされないのです。
そのあたりの大きな勘違いというか、「やみくもに反応し続けている」現代人の生活のおかしさに、そろそろ気づいてみようというのが、この本を書いた目的でした。
——現代人にとって、ムダな刺激とは、どういうものでしょうか?
一言でいうなら、「心にとって不快な刺激」です。ただ不快な刺激にはけっこう幅があって、怒りや不安や、過剰な欲望を刺激してくる映像や情報はもちろんのこと、「同時に複数のこと」をやる生活習慣も、不快な刺激に当たります。たとえば「歩きスマホ」がありますね。驚かれるかもしれませんが、あれも仏教的には、心が不快な刺激を受けている状態です。
というのは、人間の心は元来、「ひとつの反応をしている」状態が、最もラクで自然な状態なのです。歩きスマホのように、歩きながら電子情報に反応するというのは、それだけで「心が半分ずつに分断」している状態といえます。これは「モヤモヤ」とまではいかないかもしれませんが、「テキトーな反応」に心が引き裂かれているという点で、ほんとは快ではないのです。
つまり、「ながら作業」や「同時に複数の反応」というのは、心にとって、ストレス・雑念の素なんです。そうした状態を改善して、心をスッキリ保つには、「一点集中」が大事になります。ひとつのモノゴトだけに心を注ぐことです。
人間は誰しも、優越感と劣等感の間を彷徨っているものですが、こうした承認欲を満たしたいがための価値判断には、キリがありません。「自分が優れている」「あの人よりマシ」という判断が続くことはありえないし、そうした判断で反応しているかぎり、心の安らぎや喜びはいつまでも得られません。逆に判断することを止め、あるがままに物事を受け止められるように日々練習を続ければ、自分の価値にこだわるがゆえの高ぶりや落ち込みといった不毛な反応は、徐々に消えていくでしょう。
聖ウンコ師に多い反応だ😫
聖ウンコ師の心を、一言で言えば「慢」だな😫
1.感覚・感情・思考のいずれかに分ける――ムダな感情・思考に流されないように気をつける。
2.欲・怒り・妄想のいずれかに分ける――これらの反応に「気づく」ことが、悩みを増やさないコツ。
3.肉体の感覚に意識を向ける――呼吸中の腹部の感覚や、足の裏の感覚を感じとる。
😀
向かぬ仕事で
瞬間サマタによる一時疲労回復と仕事集中のテクノロジーの塊と
先週相成った
これを解除すると
朝は大方ダルい
休日の
神道研究やイスラム研究だと
寝転びながらのネット検索しながらの
研究となる
昨日は
神社一つと
西山浄土宗寺院一つ行っただけ、
神社神道研究?がとりまできた
来週は
誰もいないキリスト教教会の空気を吸いにいくかもしれん
😀
精神集中すると、一瞬ダルさが消えるのか
その脳の反応に対しては、反応せずに
やりすごすようにする
やたらとこだわるのは、それが理由だろう
必殺テクノロジー使用する時
鏡の前で集中エネルギー上げてみると
瞬時に目が大きく見開いている
ザ・ワールド臨済
😀😀😀😀
😀
休日の
身体の痛みの
ダメージだけは回復しにくい
メンタル疲労は素早いけどなー
😀
極めてまくった静寂と
パワーと
無駄な情報カットの絞り込み
この三つを組み合わせで
朝起きしてから
二度一分坐禅と
散歩に一分立ったままで
エネルギーをぶち込んでいるな
😀😀😀
仕事中でフル運用
朝の三回のぶち込みは
仕事の中で即時使えるよーにの
ナラシやなー
😀
2日
反転術式で
仕事ガンバった
😀
のりきった
😀
のど飴なめすぎで
口の中が唾液で
荒れてた
😫
疲労感じずに
やりきれるー
テーラワーダのサマタの快楽の
10倍パワーがある
それが
ホンモノの
セイウンコーンみたいな🤡禅ではなく〜
😀
一番上手いかもしれん
うーむ日本ならではか?
https://m.youtube.com/shorts/UajTxr5PpOg
BABYMETAL ラタタタ
https://youtu.be/EDnIEWyVIlE?si=qogdidRZ_wfE_86M
サウンドが
メタルぽさがなくていいなー
今回の休日は本気に近い気味の模索だらけで
宗教娯楽は少い休日やった
分かりやすくいえば、
唯識に筋金入りみたいなノリやった
😀
平均的な瞑想仏教の
パターンを理解できた
😀
これは、倶舎論などのアビダルマ論書に基づく分類方法です。
52心所は以下の通りです。
触 (しょく):感覚
作意 (さくい):意図
受 (じゅ):受感
想 (そう):表象
識 (しき):認識
眼識 (げんしき):視覚
耳識 (にしき):聴覚
鼻識 (びしき):嗅覚
舌識 (ぜつしき):味覚
身識 (しんしき):触覚
信 (しん):信仰
精進 (しょうじん):努力
慚 (ざん):慚愧
愧 (かい):羞恥
無貪 (むとん):無欲
無瞋 (むしん):無怒
無癡 (むち):無知
輕安 (きょうあん):軽快
不放逸 (ふほういつ):不放逸
行捨 (ぎょうしゃ):捨心
不害 (ふがい):不害
貪 (とん):貪欲
瞋 (しん):怒り
癡 (ち):愚痴
慢 (まん):慢心
疑 (ぎ):疑い
不信 (ふしん):不信
忿 (ふん):憤怒
恨 (こん):恨み
覆 (ふく):覆い隠す
慳 (けん):吝嗇
嫉 (しつ):嫉妬
恼 (のう):悩乱
害 (がい):害意
愧 (かい):後悔
眠 (みん):睡眠
掉挙 (じょうきょ):掉挙
惛沈 (こんじん):惛沈
不信 (ふしん):不信
懈怠 (けたい):懈怠
放逸 (ほういつ):放逸
昏沈 (こんじん):昏沈
不覚 (ふかく):不覚
無慚 (むざん):無慚
無愧 (むかい):無愧
慢 (まん):慢心
僑慢 (きょうまん):僑慢
得 (とく):得
非得 (ひどく):非得
失 (しつ):失
非失 (ひしつ):非失
念 (ねん):念
なお、唯識論では、心所は51個に分類されます。これは、遍行心所の「作意」を心王に含めるためです。
心所は、心王(しんのう)と呼ばれる中心的な心の働きに付随して生じる、様々な心の働きを指します。心王は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と、末那識・阿頼耶識の八識に分けられます。 心所は、これらの心王に様々な性質や働きを与えます。
心所の種類は、仏教の宗派や学派によって分類方法が異なりますが、代表的な分類方法として、以下の二つがあります。
倶舎論による五蘊分類:大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に分類されます。
唯識論による六位分類:遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種類に分類されます。
プレーヤーが、コンピュータ・システムの電源をオンにして、ゲームソフトを起動してログインする
たちまち、リアルな3D映像と、360度のサラウンド音声に包まれる
「ここはアレフガルド王国。アナタは、伝説の勇者ロトの子孫であり、片田舎に住んでいる」とかなんとか、言語によって世界観と自分の存在の意味が付与される
ゲーム世界に入ると、まず親や家族と出会い、外に出ると他のプレイヤーたちとの出会いが待っている。一緒に会話したり、冒険や戦闘をしているうち、こんな世界が本当にあるような気がしてくる
・・・仏教的な世界観では、この世はこんな感じだ
映像、音声、言語でできている仮想世界
でも、ここからが理解の大きな壁だ
ここから先が、世間の一般人にとっては世界観を根本的に引っくり返す跳躍、「コペルニクス的な転回」を必要とするところ
それは、上に書いた「この世はオンラインゲーム」というのが、じつは自分だけでなく、他人に当てはまるということだ
他のプレイヤーたちも皆、それぞれのコンピュータ・システムの電源をオンにして、ゲームワールドにログオンしている
プレイヤーたちは、それぞれの映像と音声を見て、聞いている
自分のゲーム世界は、他のプレイヤーたちのゲーム世界とオンラインでつながっており、お互いの世界に登場する
自分の世界には他人が現れ、他人の世界には自分が現れる
これが、「1人1宇宙」の世界観
各プレイヤーが、それぞれの世界を見ている
会話したり、一緒に戦闘したりするうち、なんだか、同じ1つの世界にいるような気になってくるのだが
実際には、各プレイヤーそれぞれが見ている仮想世界しかない
共通する1つの世界というものは、存在しない
ここに、唯識理解のカギがある
これが本当に分かったら、世界観が引っくり返る
激しい衝撃を受けるくらいでないと、本物ではない
それぞれのプレイヤーが見ている、それぞれの映像による仮想ワールドがあるだけ
それが、オンラインでつながって共有されているだけだ
「なぜ、世界は存在しないのか」というタイトルのポップ哲学書がベストセラーになり、最先端の哲学者あつかいされている
「アナタが見ている映像、聞いている音声。それに言語で意味を付与したもの。それが世界なんですよ」
ザックリ言えば、これが仏教的な世界観
瞑想哲人は、それを一生懸命に表現して、「この世は、本当はこういうものだった」と必死で説明したのだが
大昔の人にとって、それはあまりに難解だった
現代人がそれを見ると、「こりゃ、オンラインゲームの仕組み、そのまんまじゃないかよ」ということになる
健在だったら、たちまち文句を言われる
バラバラな要素を寄せ集めた、一時的な仮の存在と考える
経量部は、「心は1つだ。こんな細かい分類に意味はない」と異論を唱えた
唯識論における心所とは、心の統一的主体である心王に相応し、随伴して起こる種々の精神作用を指します。
唯識論は、インド大乗仏教の学派である唯識派の思想で、あらゆる事象は識の働きによって変化したものであると説いています。唯識論では、次のような考え方を基本としています。
「自分」や「もの」は存在せず、心の働きだけで存在している
物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる
「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される
唯識論は、5世紀ごろに弥勒菩薩によって始まり、インド僧の阿僧伽菩薩、伐蘇畔度菩薩によって大成されました。伐蘇畔度菩薩は『唯識三十頌』など多くの論書を著し、唯識の基礎を築きました。
仏教の言葉の「心王(しんのう)・心所(しんじょ)」について、いくつか種類があったと思うが、それぞれの名称を確認したい。
回答
「心王」は倶者では眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に、唯識では、末那識・阿頼耶識を加えた八識に分けられる。
「心所」は倶者では大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に、唯識では遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の五種類に分けられ、さらに51に分けられる。
そ~言うテーマ、こっちのスレ主に
気まぐれジャブサービスしてきた、
もーやらねーけど
😀
宗教 スピリチュアルと人生観について適当に話すスレ
東京大学大学院
瑜伽行派における五遍行の研究 —『瑜伽師地論』を中心として—(楊 潔)
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2020/12601.html
理論的といえば唯識てある
セイウンコーンは
無縁である
😫